結びにかえて

 

 

 神仏習合とその分離の歴史

 ここまで全国の廃仏毀釈の実態を紹介し、また、廃仏の背景などについて述べてきた。

ここで、ざっとおさらいをしてみたい。

 日本の宗教は7世紀以降、主に神道と仏教とが混じり合う混淆宗教の形態をとってきた。

そもそもは外来宗教であった仏教だが、聖徳太子が仏法への帰依を表明。仏教は国家仏教の中に組み込まれ、以降、安定的に繁栄していくことになる。

 平安時代に入ると、本地垂迹説という神仏習合思想が生まれる。本地垂迹説は、日本の神々は仏菩薩が化身としてこの世に現れた姿(権現)だとする説である。この結果、たとえば天照大神は大日如来が本地となり、瓊瓊杵尊は釈迦如来、八幡神は阿弥陀如来――などとして、神社の神殿で偶像が祀られていく。同時に、神宮寺、別当寺などという形態で、神社に付随する寺院が増えた。そこに住持する社僧も現れた。

 鎌倉時代から江戸時代まで、仏教は武家社会に庇護される形で興隆する。特に江戸時代、キリシタン禁制を目的にした檀家制度によって、寺院はムラ社会における確固たる地位を築いた。すると既得権益に守られた仏教は、常に神道より立場が上、という状態となった。神社を支配下におき、僧侶が神官を虐げるということも、しばしば起きた。

 全国では、神社と寺院が混じり合った宗教施設があちこちに出現する。京都の八坂神社、愛宕神社、石清水八幡宮、奈良の春日大社、伊勢の神宮などに至るまで、すべてに仏教(寺院)的要素が入り込み、社僧が運営や儀式に至るまで権限を振るった。

 しかし、17世紀に入ると、仏教の支配的構造に異論を唱える学説が登場する。国学は、『古事記』『日本書紀』などの古典研究を基にして、古来の神道に理想を求めた。国学思想では仏教は所詮、外来宗教という位置付けであった。本地垂迹説は否定された。国学思想は幕末の、諸外国による開国要求ともあいまって、攘夷を掲げる武士層の、あるいはそれまで虐げられてきた神官にとっての、精神的支柱となっていく。

 国学と儒学、史学などを結合させた独自の学問水戸学を立ち上げた水戸藩では、先行的に廃仏毀釈が断行されている。第二代藩主徳川光圀は、無秩序に増えていく祈祷寺院や、出所の分がらぬ僧侶が跋扈しだす状況にたいし、寺院を大幅に削減する施策を講じた。また、幕末の第9代藩主徳川斉昭の時代には金属供出を目的として、無差別に寺院を廃寺に追い込んでいる。

 本格的な廃仏毀釈の狼煙を上げたのが1868(慶応4)年3月17日からの一連の神仏分離令であった。神仏分離令は王政復古、祭政一致に基づいて、あくまでも、神と仏を区別するのが目的の法令だった。その内容は神祇官の再興、神社における僧侶の還俗、権現号の廃止、神葬祭への切り替えなどである。

 しかし、為政者や神官の中には、この神仏分離令を拡大解釈する者が現れた。

 同年4月1日、比叡山延暦寺が支配していた大津・坂本の日吉大社で神官らによる暴動が勃発。社殿に安置されていた仏像、仏具、経典などが焼き捨てられた。

 これを機に、全国で寺院破壊が加速化する。鹿児島では一時、寺院と僧侶がゼロになった。また松本、苗本、伊勢、土佐、宮崎などでも市民をも巻き込んだ激烈な廃仏運動が展開された。

 廃仏運動にたいし、新政府は度々、戒める布令を出すが、コントロール不能な状態に陥った。

 廃仏毀釈が与えた仏教界への影響は甚大である。多くの仏教建造物、仏像、仏具、経典が灰燼に帰した。廃仏毀釈によって9万あったと推定される寺院は半分の45000ほ どになった。廃仏毀釈がなければ日本の国宝はゆうに3倍はあったともいわれる。

 また、神仏混淆が否定されたことで、修験道や呪術などの民間宗教は著しぐ衰退。京都 では一時期、五山送り火や地蔵盆、盆踊りなどの仏教行事も禁止となった。

 同時期、仏教寺院は上知令によって大部分の寺領が召し上げられ、また、「肉食妻帯蓄 髪等可為勝手事(肉を食べてもよし、妻を娶ってもよし、髪をはやしてもよし)」との太政官布告によって、僧侶の俗化が強いられた。廃仏毀釈は日本が古来醸成してきた文化、精神性をことごとく毀した。

  こうして振り返れば、廃仏毀釈は、まことに取り返しのつかない宗教史上最悪の暴挙であったと言わざるを得ない。明治維新というエポックは、宗教史的にみれば「国家仏教」から、「国家神道」への突然の転換であり、その陰に、日本の仏教の多大なる犠牲が存在したのである。

 

 四つの要因

 廃仏毀釈の要因は主に四つが挙げられるだろう。

@ 権力者の忖度

A 富国策のための寺院利用

B 熱しやすく冷めやすい日本人の民族性

C 僧侶の堕落 

である。

 「@権力者の忖度」による廃仏毀釈の例は、最後の松本藩主戸田光則の取った行動がわかりやすい。新政府の幕府追討軍に合流する決断が遅れた負い目が過剰なまでの忠誠心を生み、それが激しい廃仏毀釈となって表れた。また、宮崎は小藩が分立しており、廃仏を推進する薩摩藩の強大な影響力につき従ってしまった。

 「A富国策のための寺院利用」は、そもそも水戸藩が考案した合理化政策である。最初は 外国船打ち払いのための大砲鋳造を目的にし、寺院から金属を供出させた。薩摩藩では没 収された鐘や仏具が、贋金の鋳造に使われた。また、京都では四条大橋が仏具を溶かして、造られた。寺院が社会インフラに利用された例でいえば、寺院の伽藍の多くが学制の発布とともに学校に転用された。

 「B熱しやすく冷めやすい日本人の民族性」を挙げたのは、為政者だけではなく、大衆も仏教破壊に加わっていったからである。これまで手を合わせ続けた仏菩薩や、寺院に向けられた憎悪は、徳川幕府という旧体制から新時代に切り替わった途端に、燃え上がった。

 しかしながら、廃仏毀釈が収まるのも意外に早かった。各地における廃仏毀釈の時斯は  ズレてはいるか、多くは1〜2年ほどの間で破壊が止んでいる。キリスト教の解禁を含めて信教の自由が布達されると、廃仏毀釈は1876(明治9)年までにほぼ完全に終息していった。

 廃仏毀釈の終息に関しては、浄土真宗の力も多分に影響した。信仰に基づく激しい抵抗に加え、新政府へのロビイ活動(多額の献金なども含めて)が政治を動かした面も大きい。

 寺院が一掃された後は、寺院再興の機運が高まり、人々は急激に、「ムラの檀家」の枠組みに戻っていく。この揺り戻しの変わり身の早さを見ると、あの激しい廃仏毀釈は一体、何だったのか、と不思議に思えるほどだ。

 @ Aは、それが時代の流れといえばそうだったのかもしれない。Bは今の日本人にも共通する民族性であろう。

 一方で、仏教者が直視すべきは「C僧侶の堕落」である。仏教界の体たらくが廃仏毀釈をより過激にさせた面は無視できない。

 第4章でふれた松本の若澤寺のケースがわかりやすいだろう。若澤寺は江戸時代、松本でも屈指の規模を誇る大寺院であった。しかし、住職が妾の元に入り浸り、地元の人々から「新若澤寺」と揶揄される存在になっていた。

 松本では76%の寺院が破却されているが、その後、復興できた寺院とそうでない寺院とに分かれた。若澤寺は復興できなかった。松本の人々は、「仏教者の本分を忘れ、庶民を苦しめる存在ならば、そんな寺はもういらない」との判断を下したのである。復興が叶わなかった寺院は、むしろ経済的にも恵まれた大寺が多かったのではないか。

 地域にとって必要な寺は残り、不必要な寺はなくなる。これは世の常である。

  江戸時代、寺院の数は人口3000万人に対し、9万ヵ寺もあった。それが廃仏毀釈によって、わずか数年間で45000ヵ寺にまで半減した。それが現在、77000ヵ寺(人口13000万人)にまで戻してきている。厳しい言い方をすれば、復興が叶わなかった寺院は、そもそも社会にとって「不必要な」寺院であったのかもしれない。

 そういう意味では、廃仏毀釈によって寺院は人口比で適正数に落ち着いた、とも言えるのではないだろうか。

 一連の調査を終え、私はこうも考える。明治以降も仏教が消滅することなく、今日まで続いてきているのはある意味、廃仏毀釈があったからではないか。これほどまでに多大な犠牲を払ったことは極めて残念なことであるが。

 これまで幕府によって特権を与えられ、一部では堕落もしていた仏教界が、はからずも綱紀粛正を迫られ、規模が適正化するとともに、社会における仏教の役割が明確化されたという「プラスの側面」も、廃仏毀釈にはあったのではないか、と考えるのだ。

 近年、京都の石清水八幡宮は寺院と合同法要を実施するなど、神仏習合回帰の動きを見せている。例えば2010(平成22)年には、142年ぶりに清水寺との合同献水慶讃法要が実施された。石清水八幡宮の宮司と清水寺の貫首が同一空間で、祝詞と経を読み上げた。以来、毎年両社寺において神仏合同の法要が行なわれている。このことを私は本来の日本の宗教のおおらかな姿そのものであり、とてもいいことだと思っている。そもそも、仏教伝来以降、1350年は神仏習合しており、神仏が分離しているのは明治以降150年間だけなのだから。

 私自身、仏教者の端くれである。本書を手がけようと思ったきっかけは、2015(平成27)年に上梓した『寺院消滅−失われる「地方」と「宗教」』(日経BP社)に遡る。いま、日本の各地では都市への人口の流出や核家族化に伴って、寺院が維持できなくなっている。また、死生観の変化によって葬送の希薄化か進んでいる。そこには僧侶の堕落も要素として絡んでいる。

 実は、「寺が消える」という点においては、かつての廃仏毀釈と、現在の寺院を取り巻 く状況とはさほど変わらない。私はとくに都会人によく見られる”僧侶に対する反発”は、「第2の廃仏毀釈」の前兆現象とみている。

 社会にとって必要とされる寺であるためには、僧侶がどうあるべきか。150年前の惨劇が教えてくれることは決して少なくない。

 

 

 

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