刊 行 の 意 趣



これから日蓮正宗教学叢書を刊行することになりました。内容は、宗旨と宗義と行体と釈義と訓話とで、いずれも数編を出だす考えです。筆は、多分は私が執りますが、幾分かは他師に高著を仰いで本書を荘厳〈かざ〉ることにします。この企ては、畢竟、私共の宗門に刊行書の少きを補うて、日蓮大聖人の御正義をなるべく汎〈ひろ〉く弘めんとの念願であります。自も買って読み、人にも読ませることと、よく読んで信行の糧としてくださることと、善悪に拘はらず遠慮なき批判をしてくださることを望みます。これをば、私の力として励みとしてこの大願を成就したいと思います。



大正11年7月 日

雪山書房主人

 



熱原法難史のはしがき



 日蓮正宗教学叢書の第2編として『熱原法難史』を発行します。これは、史談と年譜と史料解説と古伝集録の集成ですが、その史料解説は、かつて『白蓮華』誌上に一年余に亘りて掲げたものを、さらに丁寧に修補を加えたもので、かなり骨が折れておりますが、本史の眼目も、やはりこの史料解説にありて、史談も年譜も古伝の批判も皆これから出づるのである。

 しかし、各部門にもそれぞれの特効をもっておる。すなわち、

 一気に全班〈すべて〉を見ようとするには史談を、

 一目して事蹟〈ことがら〉を年序に知ろうとするには年譜を、

 謬伝〈あやまり〉を排して正伝〈ただしき〉を委しく確実〈たしか〉に知ろうとするには史料解説を、

 古伝の真偽〈しんぎ〉の程度〈ほど〉を知ろうとするには集録の上欄〈じょうらん〉の批判を、

御覧ください。そうして、史談と年譜と解説とが、古今自他の伝説と大いに撰〈せん〉を異〈こと〉にしてるとこには、特に剋目〈かつもく〉して熟読してください。

 また、引用の文書は、漢文体のを訳して延べ書にしたり、総〈すべ〉て見易くしました。

 最後に御願いするのは、この書〈ほん〉を御覧くださる人は、国のため神のため仏のため君のため人のためとして、日蓮聖人の教えを奉じて、百難を凌〈しの〉ぎし日興上人日秀上人日弁上人の奮闘、凝〈こ〉って金剛のごとくなる信仰の血肉を鎌倉政府に擲〈たた〉き打〈つ〉けて俗吏〈ぞくり〉の肝〈きも〉を奪える神四郎等の壮烈さを、深く味わってください。

 



   大正11年10月 日



堀 慈  琳 識るす

 




 

 

目   次




第1 熱原法難史談



1、熱原弘教の発端  実相寺及び四十九院の事

2、秀・弁・禅三師の擯出

3、神四郎等の入信

4、行智・弥藤次の結托と大進・三位房の反忠より数度の迫害

5、稲刈の大喧嘩に信徒の激怒より20人鎌倉に召し上げらる

6、日秀・日弁の訴状及び鎌倉の断罪

7、法難の余響

8、熱原法難史関係年譜




第2 熱原法難史料解説



1、熱原弘教の大体についての御書及び解説

2、佐渡房・三位房についての御書解説

3、大進房についての御書解説

4、法難顛末についての文書解説

5、日秀・日弁下総についての御書解説

6、法難後の事どもについての文書解説

 



第3 熱原法難古史伝集録 第一類

 


第3 熱原法難古史伝集録 第二類




 




熱原法難史談について



この法難のことを書ける新しいものも沢山あるが、中には随分牽強付会架空劇談〈こじつけうそしばい〉に流れてるのがある。これらは正史を伝うるに大なる邪魔になる。良き材料のない古往〈むかし〉ならばやむをえぬが、次の史料解説の下に並べたように、充分な史料が容易〈たやす〉くえらるる今日ですから、なるべく史実を伝えたいものである。史談〈しのななし〉にせよ、年譜にせよ、多少の推定はやむをえぬが、空想付会には陥らせたくない。この考えで書いたこの史談ですから、見て来たような嘘言〈うそ〉がないので、あるいは行届かぬ物足らぬへんもあるであろうが、正史としてはこの上には書けぬ。足らぬ所は造作もない御想像に任せることといたそう。ただし、芸術的とかで、誇大妄想を逞しくした劇や小説にできたのが、かえつて正史よりも讃仏乗〈さんぶつじょう〉の因縁信仰鼓吹〈こすい〉の一助となることが多いということなら、それも捨てられぬ一理であろうから、自分も暇をえて一幕〈まく〉の院本〈いんほん〉一巻の稗史〈しょうし〉を試みてみようと思わぬでもない。





第1 熱原法難史談



1、熱原弘教の発端

 

 正元〈しゅうげん〉元年、宗祖日蓮大聖人様が国家諌暁の心証をうべく駿河の国富士郡賀島〈ごおりかしま〉の庄、岩本実相寺の一切経蔵に入られた。時に14歳の伯耆公〈ほうき〉としての日興上人が、第一番に御弟子になられた。それから10余年の後に、蓮華阿闍梨日持上人が、甲斐〈かい〉公としての少時〈わかきとき〉に、日興上人の御弟子に岩本でなられた。後に間もなく日位〈にちい〉上人を治部〈ちぶ〉公として弟子に持たれた興師からは孫弟子に当る。

 その頃、下野〈しもつけ〉公の賢秀日源〈けんしゅうにちげん〉も得度せられたが、これはよっぽど後に、興師によりて改宗せられた。その已前、日持・日位の御弟子は、むろん日蓮宗であって実相寺と四十九院とにおられた。この外に実相寺では、豊前〈ぶぜん〉房・筑前〈ちくぜん〉房等がいずれも賀島の高橋家の縁故で興師によって改衣せられたが、その外にも数々の帰依者ができたのはむろんのことで、大いに実相寺の院主達の眼を驚かして、ついに外道党として法華衆を徐々〈そろそろ〉迫害しかけた。

 これは文永11年に宗祖様が佐渡から御赦免になって、延山に籠もるられてからのことである。すなわち、身延と岩本とは一日の行程〈みちのり〉の所であり、また富士の上野の南条家は先代からの御信者で、賀島の高橋家には興師の叔母御が縁づいておられる。河合〈かわい〉の由比家は外戚〈ははがた〉のことであるから、この間を巡化しておられた。

 富士の下方庄〈しもがたしょう〉の熱原の滝泉寺は、実相寺とは目と鼻との近所で、また同じ天台宗のことであるから、その大衆等になにかのおりに会合せらるることもあったが、その大衆の筆頭〈かしら〉である下野房日秀を始めとして、越後〈えちご〉房日弁・少輔〈しょうほ〉房日禅・三河〈みかわ〉房頼円〈らいえん〉は、袖を連ねて興師の御弟子であって、五十展転の随喜の念を励まし、よりより在家への誘導をもしたのである。打てば響〈ひ〉びくこれらのこと、なんて院主等が知らずにいよう、頑迷〈がんめい〉の僧俗が黙正止していようか。幾たびかの法論もしたが、とても及ばぬので、この上は多勢を頼りに政所〈まんどころ〉の役人どもの力を借りても種々の法華の僧俗を壓迫〈あっぱく〉した。

 これらのことが、身延に聞えて、宗祖様からは在〈あ〉りあわせた覚静〈かくじょう〉房(佐渡の人。一の沢の日静か。)と佐渡〈さど〉房〈六老の日向〉とを遣わして、興師の弘教を援〈たす〉けられた。すなわち、法戦の主将には日興上人、部将には日秀・日弁・日禅・頼円・援軍としては日向・日静の2将で、また弁師の弟子の和泉〈いずみ〉公日法も大いに働かれたことであろう。応援の信士には、南条(上野)、大内(西山)、由比(河合)、高橋(加島)、石河(重須)等の人々てある。

 これは、文永11年の秋より建治元年に至る1年有半の間のできごとで、いわば迅雷〈じんらい〉耳をおおうに暇なきほどの最大緊急事件で、滝泉寺側の驚愕〈おどろき〉はもっとものことである。



  付記(つけたり) 実相寺のこと

 日興上人の御本拠である岩本実相寺は、富士河の東岸で今の岩松村字岩本の内にあるが、現在の境内は、その当時より四至が極々縮少しておる。それは永禄12年の12月に、武田信玄のために焼打ちせられて全山焦土〈こげつち〉と変じた。これが八世日授〈にちじゅ〉の時で、それから暫く廃寺となったのを、慶長年間に身延の樋沢〈ひのさわ〉坊の日恒〈にちごう〉が中興したのであるから、富士系から身延の末派に転じたのである。

 また、寺の縁起には天台宗寺門派の真言部といってあるのも、智証大師が一切経を寄付すといってあるのも、四十九院だの五百坊だのといってあるのも、大いに可笑な話であるが、実際は日興上人の御正筆になる文永5年の『申状〈もうしじょう〉』(今では同寺について雄一の史料である。)によるべきであるから、今それを見ると、創立は久安〈きゅうあん〉年中、鳥羽法皇の御願で智印上人の開山であって、叡山横河〈よかわ〉の流れを汲んでおる。2世は禅印法橋〈ほうきょう〉で、毘沙門堂の明禅の弟子である。この二代の間に宏大なる寺塔の構えができた。右大将頼朝もかつて平家調伏の祈願をした。北条時頼も不動堂を造って子孫繁昌を祈った。3世は、権少僧都道暁〈どうぎょう〉で、この人の晩年〈すえ〉にやや乱行になった。4世の寺務職〈じむしき〉は名字を記してないが、この『申状』の対主〈あいて〉(多くの伝記に厳誉といってあるが、『四十九院申状』の中四十九院の寺務の二位律師厳誉であることは、文書の上の事実であるけれども、この厳誉の岩本から四十九院を兼務したか否かは判然ぬ。)この代に一山乱脈の極度に達したので、五十一箇条の非点〈あら〉を挙げて、寺家僧〈じけそう〉一列から鎌倉政府に現寺務職改易〈かいえき〉の訴願〈ねがい〉をした。これが、この『申状』で、日興上人の御正筆が全部残っておる。

 その文永5年は、興師23歳の壮時〈さかり〉で、あるいは師が硬派の革正派の主将〈たいしょう〉であったかも知れぬ。それから後に院主と寺家との経緯〈いきさつ〉は、これを知る史料が現在せぬが、五十一条の非点というのは、寺堂〈たてもの〉の維持を放下して荒廃に任せていることより、鎌倉や蒲原の遊君〈じょろう〉を寺中に迎えてそれを馬に乗せての送り迎えに寺家の僧侶を使役することの、院主の坊に遊君を置きまたは養蠶〈ようさん〉せしむることの、清浄の堂宇で酒宴〈さかもり〉をすることの魚鳥を捕ることの、寺僧の房地を引き上げて在家に賃貸〈ちんがし〉するのが七八箇坊もある、下人〈げなん〉を責め殺しだのが4人、その外さまざまの奇怪のことども、とても寺家〈じちゅう〉の正義な清浄な僧分では一日も黙視しておられぬことばかりである。

 今、この文に出づる、建物は、本堂、不動堂、八所権現、濯頂堂、一切経蔵.鐘楼、二王堂、食堂〈じきどう〉、浴室、納所〈なっしょ〉であるが、これは荒れたままに修理の手を掛けぬ条目の中であるから、この外に満足な建物も多かったろう。ことに院主の房、寺家の房舎はむろんあるべきである。

 次に、寺家僧の名および住房は、侍従〈じじゅう〉房、讃岐〈さぬき〉房、和泉〈いずみ〉房、大弐〈だいに〉房、大進房(裏切りした大進房と見る人あり。如何や。) 佐渡房、筑前房(高橋筑前房か。)良珍〈りょうちん〉房、行善房、定満〈じょうまん〉房、円成〈えんじょう〉房、等がある。これは、いずれも院主より虐待せられた房のみであるから、この外に院主づけの、また酷遇せられぬ房が必ずあるべきである。

 次に、勤仕〈ごんし〉の下人〈げなん〉としては、又太郎太夫、平二、八郎二、清四郎、二郎二郎、別当五郎、弥五郎等がある。小童〈ちご〉としては鬼鶴〈おにづる〉がある。これらは責め殺されたり、酷使のために廃人〈かたわ〉になった者のみであるから、この外に無数の小児〈ちご〉があり、下人があったろう。

 しかれども、四十九の院とか五百の坊とかいう大数は、あまりに無責任な大法螺〈おおぼら〉であったあったあるとみねばならぬ。

 興師・持師等の住房の名称は判然〈はっきり〉せぬが、あるいは伯耆房・甲斐房・下野房などいったのではなかろうか。天文年中に興師の旧跡として常在院を興したというも、大永年中に持師の旧跡として真乗院を興したというのも、文永・弘安の古名を伝えたのではなかろう。

 また、宗祖の御書及び興師の筆物〈ふでもの〉を調べてみると、重立って敵対した僧は、実相寺の尾張阿闍梨かと四十九院の小田一房〈変な名である。伝写の誤りであろう。〉と四十九院の別当厳誉である。帰伏人信したのは、実相寺の豊前房・肥後房・円乗房・筑前房は興師の弟子分であることは明るが、日号も伝記も判然〈はっきり〉せぬ。四十九院の治部房は位師で、その外は興師・持師・源師は申すまでもなく実相寺衆であった。その中の筑前房は賀島の高橋家の人で、老後の出家で、その女〈むすめ〉が豊前房に嫁いておる。これで、御書の豊前公は日源のことではないことになる。



四十九院のこと

 四十九院というのは、蒲原〈かんばら〉庄の内で、今は富士川町字中郷〈なかのごう〉で、すなわち岩淵〈いわぶち〉停車場の北の高台である。文書には見えぬが、実相寺と同宗または河を距〈へだ〉てた寺中かもしれぬ。岩本では、四十九院は河東の境内にあったものとして、現境内の西続きにその跡があるともいっておる。また、四十九院は、実相寺が日蓮宗になったので厳誉等の反対徒が立退いた所ともいってるのがあるは全く誂伝〈あやまり〉であろう。

 ただし、四十九院といったからとて、必ず弥勒の四十九院でそれだけの別坊があったわけではなかろう。一院の名称であって、あるいは数箇の小房が付属していたのであろう。興師等が実相寺を出てここに寄られた。これは治部房がこの寺中にいたので、さらに法華衆が殖えて目の上の瘤が高くなったで、別当の厳誉が怨嫉〈おんしつ〉して追出したので、それて興師を筆頭として、これに抗議すべく弘安元年2月の『四十九院申状』ができたのであろう。さりながらさらに一考するに、興師等は中頃より四十九院の供僧〈くそう〉に転ぜられたものとも思えるが、確然たる証左〈しょうもん〉は得られぬ。

 この四十九院の址は今の等覚寺ともいってるが、その高台中に今に坊ヶ谷戸〈ぼうがよと〉、四十九などの小字〈こあざ〉が残ってるからほぼ推知し得らるる。位師が池田に移って後は、母尼のみは四十九院に残っておられたといってるが、池田の本覚寺でいってることとは違うようだが、他日の詮索に残しておく。

 ただし、実相寺とともに武田氏に焼打ちせられて後はるかに等覚寺ができた。その規模の小なるは、池田が位師の本寺蹟〈ほんじせき〉と定まっているから無用視しての上であろう。



2、秀・弁・禅三師の擯出

 当時の滝泉寺には院主はあったが、親しく寺務を取ることできぬ事情であった。そこで北条家の庶流〈いちもん〉で、この辺土に漂泊していた平左近入道行智という生道心の痴漢〈しれもの〉が鎌倉に運動して、一時の預り手となり院主代として専ら寺務を取扱っていたが、学問があるわけでなく修行が積んてるのでも人徳が高いわけでもない。執権家を笠に被〈き〉て威張り散らしていた。近所の悪者どもを手馴づけて仏物〈ぶつもの〉を乱りに飲み食いしていたので、寺中の大衆方の反抗を引き起した。そのおりに寺家の重立った四人が日興上人の弟子となって日蓮聖人の法華を信じ始めたから、残りの寺家一同もすでに一統にならんとしてる。

 この時代の天台宗等は、大分信行に動揺を生じていてその空虚を念仏で埋め合せてるか、あるいは、ほとんど無信無行の者ばかりであった寺中が、無信仰であった時すらなお寺家を従え得ぬ院主代が、法華信仰の大敵を向うに廻わしてはなんとも仕様のないことになり、いたずらに院主代という名目ばかりの下に押し込み隠居同然の境遇に陥いらねばならぬので、後詰〈ごづめ〉を代官達に頼んでまず四人の寺家に迫害的の難題を提出した。

 それは当寺では法華経を読んだり妙法の題目を唱えたりしてはならぬ、前例により阿弥陀経を読誦し一向にその称名念仏をなすべきであるから、早速この誓状を参らせよ、さすればこれまでの法華読誦の罪は許し遣わし従前通り寺中に差置くであろう、もしこの起請誓紙を差し出さぬにおいては疾く疾くこの寺を退散せよと、院主の坊に与党〈なかま〉の僧俗を背後〈しりえ〉に従えて、四人に強談に及んだので、日秀・日弁は口を揃えて、それは院主代の仰せとも心得ぬ、当寺は天台宗で叡山の末寺である、その根本大師の御精神〈みこころ〉に従って法華読誦をするのがなんて悪い、日蓮聖人の御主義に移ると思うから僻〈ひが〉みが出るであろう。伝教大師の源に還ると思うて御身等とても吾等とともに法華読誦を始められよ、弥陀念仏は当山では幾代前から始まったことか極近代ではござらぬか、早々邪見を翻えして吾等の正義に従いめされ、これがかえって釈迦仏の御本意でござると、畳を叩いての抗弁に無学の院主代一言の答えもできず、いやここは論場でなければ法論無益である吾等院主職の下知に従わぬとなら早々この寺を立退きおれ、もしあくまで陳〈ちん〉じ立てをするなら辛き目を見するであろうと、暴威をも振わんずる様子であるから、信心未決の三河房頼円即座に誤り、証文を人れて安堵を願った。

 少輔〈しょうふ〉房日禅は、かような仏法未熟の悪徒に交渉無用であると、早速坊舎〈ぼうしゃ〉を明け渡して河合へ引き上げた。日秀・日弁は、やむなく坊舎を離れたが、行くべき所がない。ことに、現在の坊は師匠よりの相伝で修理なにくれ本院の厄介になっておらぬ、かつまた私田〈しでん〉も下人も代々のがあるので、それらが秘密〈ないしょ〉に陰慝〈かくまう〉ことになったのを院主代が薄々知りながらもこの上の暴威は振るえぬので、一時目こぼしの体であったは、両師にとりては不幸か幸か暇〈いとま〉あるに任せて自由に近里〈きんじょ〉に往来して密に布教の手を拡げられた。これは建治二年中のできごとである。

 


3、神四郎等の入信

 建治3年から4年にかけては、滝泉寺側は無論のことで、岩本実相寺の院主および寺家の面々、蒲原四十九院の寺務職と大衆等が法華の僧俗を悪〈にくむ〉むことは父母の仇敵〈かたき〉もただならぬ日一日に烈しくなりゆき、日蓮聖人の法華を信ずる者をば外道呼ばわりをして、あらゆる妨害を加えた。

 滝泉寺では4人の法華党を追い出した。吾等でも日蓮党をそのままに置くべきでないと、ついに日興・日持・日源を岩本から追い出して蒲原に行かれたを、また日位とともに追い出してしまった。

 これで熱原でも岩本でも蒲原でも法華党は一時絶滅の姿でかの謗徒どもは安心の枕を高うしたが、それは表面だけのことで、岩本にはいまだ肥後房や豊前房が残っておる。これらは無権力の純な学衆でない下人も持てば親族も持つ俗僧であるから、暴力には訴えられぬ。ただし、無学の俗僧よと油断している中に、かえって秘密の運動もできた。それに熱原では、秀師・弁師が蔭に廻わりても精根限りの熱誠の布教に相応の効果が顕われた。


 一つは弥陀念仏の愚かに慊〈あきた〉らず目覚めた者、または行智等一味の乱行放埓〈ほうらつ〉に呆きれ果ててる正義の者どもは、自然に両師に心底から同情する渇仰する。この一辺で強盛の信徒が熱原市庭寺〈いちばじ〉辺いっぱいにできた。その中の重立つ者が、この大法難の立て者である熱原郷の百姓たる神〈じん〉四郎と弥〈や〉五郎と弥六郎とてある。この三人兄弟は在家の身ながら、多少の文武の嗜〈たしな〉みもあり、したがって律義に強胆で、士分〈さむらい

〉も恥かしき程の大丈夫〈ますらお〉であったので、これが後に大難にあたりて寸毫〈すこし〉も権威に屈せぬ法華魂を作ったのである。これらは建治4年の2月末に弘安と改元せられた後のできごとである。

 〈本山の古伝には、熱原神四郎 田中四郎 広野弥太郎となっておる。これには立派な根拠もあったろうが、明瞭に示すことを得ぬのは残念である。〉

 


4、行智・弥藤次の結托と大進・三位房の反忠より数度の迫害

 神四郎・弥五郎の兄に弥藤次入道というのがあった。強慾奸智の曲者で、村での口利である。弟等が日蓮宗になったのを、やれ先祖の仏法を破るの、郷内の信仰を乱すの、阿弥陀仏の敵だのと、真先かけて家兄の権威で旧信に引き戻そうとしたけれども、神四郎はいつでも法華の正理を説き三時弘教の次第を宣べ、当時は権教念仏の利益あるべき時でない、時代錯誤の信仰は己を害し他を損ずるものであることを、懇々と説き聞かせるので、道理にははむかえずそのままになるけれども、なにかの機会を捕えては退転せしめようとした。

 滝泉寺の院主代行智も、すでに日秀・日弁等の寺役を免職したのでやや安心の体であったが真実の信仰は階級や体面からくるものでない。たとえ頼るべなき浪人坊主でも、内心の熱誠は随時随所に閃めき、内々の弘教にも信伏の徒は涌き出づる。

 神四郎を始めとして強信者が、熱原は申すに及ばず近郷近在までも拡がる。これらが、仏法の上から念仏無間・真言亡国を叫び、かつは院主代の放逸無慚無信無行を攻撃するので、念仏一味の在家まで心中密かに行智を疎んずるようになったので、もはや迂潤には過ごされぬ。種々に肝胆を接いて、地体反省心のない痴漢〈しれもの〉揃いであるから、寄ると障ると酒だ肴だと興ずるばかり、その料に窮する時は寺内の下人を狩り集めて鶉狩りをやる、狸を捕り鹿を捕りて、院主の坊で飲み食いをする。

 はては仏前の放生池に毒薬を入れて、たくさんに群れいる鯉鮒を漁って、村里に売りに出して酒の料金〈しろ〉するはまだしものこと、もったいなくも御宝前に備えつけある法華経を散々に解〈ほこ〉して渋紙に張らする。これは無信仰の和泉房蓮海の仕業である。

 また、鎌倉執権家より不動堂を葺くべく日弁が管理せし葺樽〈ふきくれ〉を、行智が取り上げて自坊の葺料にする。また、自分等の味方にするためには、前科者の兵部房静印より内々莫大の過料金を取って、かえって表面には学徳高き由を申し立てて供僧に用ゆる。弥藤次入道の悪漢をも酒で殺して味方に入れて、法華信者の虐待〈いじめ〉役を申しつくる。

 この頃の下方荘〈しもかたのしょう〉は、多くは北条一家の私領地であったから、行政刑罰の役所として政所を伝法村に置いてあった。その政所の下司〈したやくにん〉は疾くのことで、ついには長官の別当代まても抱き込んだ。そこで村の政事と法律とを総轄する政所代と、村内きっての口利で人の恐がる弥藤次と大寺の院主代とが深くも結托して、あらゆる権能を乱用して、あらゆる手段に訴えて、信仰の防をを加えたので、たまったものではない。たいがいな者は必ず退転すること請合である。

 しかし、日秀・日弁も神四郎・弥五郎等も、日々月々に増しくる艱苦に労〈つか〉れながらも、身命を堵しての信仰であるから、命の通わん際はと踏ばってビクともしなかったので、つには己等が大罪をも恐れず鎌倉政府の御教書を偽作して、法華を信ずる者は重科に処する由を触れ廻わらしたが、この威嚇も無効であった。

 熱原近郷の信徒の団結は無論のこと、賀島・石本・河合・西山・上野の連絡は緊密なもので、その上甲駿相武房総の全信徒・全僧侶も切実の時は応援しようということであるから、熱原の信仰はますます優勢になるばかりである。

 この上は、この堅き結束の内部から切り崩しにかからにゃならぬと行智が意〈こころ〉づいた。その術中に陥ったのが信者では、賀島の太田親昌〈ちかまさ〉・長崎次郎兵衛等の士分である。僧分では、時々賀島・松野辺に出張する大進房と三位房との学匠である。大進・三位はいずれもの学僧であり、自分では師匠の日蓮聖人よりも博学だくらいに己惚〈うぬぼ〉れて、日興・日秀等を眼下に見ていたけれども、さて実地に行ってみると岩本に行っても熱原に来ても賀島に往っても、思うた半分も持てぬ、興師ほどに尊敬を払われぬので、弱輩の日興等に頭を下ぐることはいかにも残念だという魔心につけこんで信仰が弱くなる。その間隙を硯〈ねら〉って、行智と弥藤次とが甘言をもって取り入った。

 余儀なく師敵対すべき反間も行われ、知らず知らず深入りをして、ついには法華の僧俗たる暫く前かたの信友同志を残害するの手伝いをもするようになった。親昌や時綱も高橋六郎になにか遺恨があって不和であった。その間隙につけ込んで味方に引き入れた。

 これらが連合して法華の信徒の集りを覗って、多勢で引き包んで散々に打擲〈ちょうちゃく〉にかかったので一場の修羅場を演じ、若于の怪我人もできたが、大進房等は反忠の法罰覿面〈てきめん〉に来て、この騒動の中に落馬した。中にも大進房は、この痛みが原因で間もなく悶死をした。三位房も明くる年に死んだ。

 これらの現罰に眼が覚めず、このたびは手をかえて政所代を迫説落〈くどきおと〉して4月〈弘安2年〉の浅間神社の祭礼の混雑中に信者の四郎を半殺しにさせた。8月にはまた弥四郎の頸を切らした。いずれも行智と弥藤次の別当代の細工であるから、犯人が表面〈おもてむき〉に挙がりようがない。これらの暴逆は、法華の信者を暴圧防座すべき威嚇〈おどし〉の手段にすぎぬが、さらに悪くむべきは、これらの犯人が不明なりしに乗じて九月の大喧嘩の告訴状の中には、かえって日秀等がこの2人を刃傷し殺害したかのようにぬりつけた。


 ただし、如上の再々の迫害にも法華の僧俗が法のために強いて勘忍してきたので、ついに九月の大騒動となった。已上は、弘安元年の3月より同2年の8月までのできごとである。

 


5、稲刈の大喧嘩に信徒の激怒より20人鎌倉に召し上げらる

 大法弘通のためには、堅き忍辱鎧〈にんにくよろい〉を被って三類の強敵に当っていた熱原信徒の勘忍袋も、弘安2年9月21日の稲刈の場で暴裂した。それは、秀師には自作の少しの田畑があったらしい。それを信者の百姓を頼んで刈り入れをした。1人2人でも間に合うべきを、徳の至れるので何人も何人も出て手伝いをした。

 かつてかくのごとき信徒の集まりあれかしと待ち設けたる行智は、伝令一下して寺中の百姓より弥藤次の一味より政所代の下司等までも俄かに駈り催うして、目に余る多勢をもって用意の刀剣弓箭で哄〈どっ〉と叫〈おめ〉いて信者の百姓を引き包んだ。信徒側では、これまでは興師の訓戒と秀・弁両師の懇諭を堅く守って、擲〈なぐ〉られ放題、切られ放題、たいがいは逃げるが定手になっていたが、再三の乱暴に勘忍袋の緒が切れて、一人として逃げればこそ聞かばこそ秀師等がなんと止めてもかえって秀師を退散せしめて、神四郎が指揮をして持ち合せの棒や鎌で応戦をした。いずれ殺伐時代の百姓であれば、腕力もあれば武伎もできる。いわんや神四郎は、身は農夫であれど武道の心得疎〈うと〉からぬ者なれば、小勢の駈引自由である。中には暴徒の武器を奪い取って、命限りに師子奮迅の勇を振るうた。いつもの弁論の折伏を、今日こそは武力に替えて働いた。おのれ憎くき行智奴・弥藤次の死に損い、年頃の無念を晴すは今日である。四郎の敵き、弥四郎の怨敵覚悟せよ、法華折伏の利剣の味を受けてみよと、いずれも劣らず奮闘して思うままに多勢の悪徒を悩ましたが、残念ながら多勢に無勢、ついに20人の信徒は力つきて残らず政所へ縛られた。

 滝泉寺では謀り設けしことであるから、早速弥藤次が訴人となって、この喧嘩の悪しき所を全然〈すっかり〉法華の方になすりつけて鎌倉へと訴えた。要は、日秀が馬上で多勢の百姓を指揮し、いずれも弓箭を帯して滝泉寺の院主の御坊へ乱入した。また、紀次郎に高札を立てしめて、滝泉寺分の稲を刈りて日秀の住所に運ぶようにした。これらの乱暴を防ぐために大喧嘩となり、これこれの手負い死人ができました。早くこの乱暴人を召し上げて、御式目通りに御裁断くださるようと書き上げた。

 もっともこれには政所代の指金てあるから、わけもなく早速にこの20人は大事の罪人として、手庇に悩むも用捨なく鎌倉に引っ立てられた。これが大法難の端緒〈いとぐち〉で、返えす返えす残念の次第である。

 


6、日秀.日弁の訴状及び鎌倉の断罪


 この騒動を前にした日秀・日弁の心痛は一方ならず、息も止まり腹〈はらわた〉も断〈たぎ〉れんばかりであった。直に使いを馳せて興師の許にこの由を知らせた。興師も大いに驚かれて、かねてかくあらんとあらかじめ訓誠を加えていたが、残念なことになったけれども、これまで辛抱したのは感すべきことであると感嘆の声を挙げられ、早速高橋家に寄合って善後の評議を凝らされた。これより身延へも急使が立つ。上野・西山・河合・松野の屋敷にも使いが馳せた。

 政所代に手続さして弥藤次の訴状の写しを取った。これに抗訴するの申状の案文を興師が製して、秀師が筆を染めた。これが現在の申状案である。要は、信仰問題より稲刈り大喧嘩に至る一々に訴状を牒〈ちょう〉して明晰なる反駁である。さらに行智が世法仏法の乱行を数え挙げて、その免職より滝泉寺の革正を願われたのである。

 この案を身延に持たせて宗祖の御指図を仰いだ。宗祖は直ちに筆を加えられて、さらに10月12日の御状を添えて2師の許へ返されたので、直に清書して、興師は両師を従がえて馬を駈りて、早速鎌倉に上られた。この数日は、ほとんど昼夜兼行であったが、鎌倉に着かれた時は、すでに一往の糺問〈しらべ〉がすんで入牢に及んだ日であったので、ともかく申状をば問註所に上げられたが、その後は再々嘆願せられても、なんの召出しも取調べもない。

 その10月15日の糺問〈しらべ〉の有様は、いかにも乱暴の限りであった。問註の頭人〈かしら〉は無論、平左衛門尉頼綱で、20人を広庭に引き出して肝心の喧嘩の調べは早急に片づけ、はては、汝等は早く法華の信仰を止めて念仏を申せ、しからば科罪〈つみとが〉を赦して帰国安堵せしむるであろう。もし信仰を改めずば、吃度〈きっと〉重罪に行なうべきぞ、一期の大事胸を定めて申し上げろと、最も厳かに申しつけた。その顔色、その声、なんとも恐ろしさの極みで、いかなる剛の者も脚下に慴〈おそ〉れ伏して、答えの辞〈ことば〉が舌に上るべくもないのに、神四郎は自若として色をも変えず声もさわやかに、法華の信仰を募のり種々の法門にも及ばんとしたので、頼綱大いに激怒して、汝等土百姓の分際として天下の管領に言葉を返えす不敵さ、いずれ本心ではあるまい、天魔波旬が憑〈つ〉いて言わする囈語〈ねごと〉であろう。判官あるか、それ蟇目をもって調伏せよとて、12歳の小倅に急々申しつけたのて、弓取りあえず飯沼判官は、蟇目の鏑矢をはげて、おのれ神四郎等に憑ける悪くき悪魔どもこの神矢の音に退散しおれと、ウナリを生じて射出す矢の数に、迷信の者なら驚きもせんが、神四郎等は木の鏑の当る痛さを堪えて少しも屈せず、ついに一同声を張り上げて南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱え出したので、長官の左衛門尉はじめ一同顔見合わせて、かえって鬼胎〈おそれ〉を懐き、これはなんたる怪有のことぞ、この天下の法庭を恐れず蟇目の調伏に驚かず、少しも志を曲げぬ大丈夫の精神剛胆の武門も及ばぬこと、この上は糺問純無益、早や牢舎に引いて窮命させよといって法庭は閉じられた。

 このことを早馬を飛ばして宗祖の御許に告げられた。その御返事が、10月17日の御状で神四郎等の剛信を感嘆したまい、また興師・秀師・弁師を聖人等と御賞美の名宛〈なあて〉をしてくだされたのである。

 興師は鎌倉に滞在して、法兄の日昭や富木・大田・四条等の信士の力を集めて問註所への抗訴に努められたが、一向にその効がみえぬので、その11月には秀・弁両師を富士に帰して、さらに滝泉寺の悪徒等の毒手にかからせては相ならぬと、宗祖よりの御指命で下総に遣わして真間の日頂の弘教の補助役となされた。

 興師もまた、問註所一件、熱原信徒の陰ながらの保護をば鎌倉の僧俗に御頼みして、富士に引上げ、20人の家族を強いて慰めて、南条・高橋に万事を委ねて、一時遠江の新池家に行かれたのも止むを得ぬ次第である。

 駿河・相模にかけて宗門に多事忽皇〈そうこう〉なりし弘安2年も空しく暮れて、同3年の4月8日に平左衛門尉頼綱は、俄に牢舎の20人を法庭に引き出し、有無をも言わせず、厳に命して神四郎・弥五郎・弥六郎は張本とあって、直に打首にした。3人は兼て覚悟のこととてこの臭き頭〈こうべ〉を法華経のために刎ねらるならば、当来の果報は尊大である。これこそ石に黄金を易〈か〉うるもの、あら悦ばしやと心色自若として潔ぎよく頸さしのべた。その余の17人は追放と申し渡しを受けたが、罪の軽きを悦ぶ色は微塵もなくて、かえって3人に先立たれたのがいかにも残念気であった。

 去年の糺問〈しらべ〉の場といい、今の仕置きの場といい、たとえ信仰とはいいながら下賤の身に武士も恥かしき気骨よと、感歎と恐怖とを永劫に見聞の心中深く植えつけたのである。

 これらの処刑は、表面は大喧嘩に若干〈そこばく〉の刃傷殺害を出かした発頭人であるとのことであったろうけれども、真実は正当防禦にすぎぬ。いわんや、従前再三の刃傷殺害乱暴はなんとする。これらの公明な糾断もしないで、一概に法華の信仰を迫害する悪精神は、かえって頼綱はじめ滝泉寺一味の悪徒に天魔の憑ける悪鬼入其身の経文の実現であろう。

 この俄の断罪〈さばき〉で鎌倉の僧俗はなんとも仕様がなく、いたずらに無念の拳に涙を払うたのてある。ともかく熱原の大法難はこれで終りを告げたが、仏天の照鑑はこのままにはすまぬ。仏罰法罰おもむろに下りて滝泉寺は間もなく堂宇と悪僧は消散した。平頼綱は、叛逆を謀りて己れもまた蟇目で20人を苦しめた飯沼判官も誅戮〈ちゅうりく〉せられた。数10年の間、身は管領の下位にありながら、執権高時貞時をも凌ぐほどの権力を弄して日本国中に畏れられた一代の権威者が、叛逆の悪名を負うて一日の内に身も家も消えはつるというのは、法敵とはいいながら無残の至りである。



7、法難の余響

 行智等が睨んだ信徒は20人の外にもある。さいわいに9月21日の難を免れて各所に潜伏してる者を、どうしてか嗅ぎ出して鎌倉に突き出そうとしておる。彼等の鵜の目鷹の目は、随分嶮わしいものてあった。南条家に隠れている熱原の新福地の神主〈こうぬし〉は、永らく窮屈千万の苦労をした。高橋・大内・由比等の諸士よりも別してこの法難に身も財も惜まざりし南条七郎時光の一身には、行智等の恨みが深くもかかっておるが、かりにも一郷の地頭であれば手のつけようがない。まして上野の上方庄であるから、下方政所からもどうしようもないので、ついに鎌倉にあることないこと注進する。この恨みが、平左衛門の手で公事に迫害を下された。不当の徴収賦課(ちゅうしゅうぶか〉は物数ではなかった。

 この難儀は、興師からもその他からも手に取るごとく宗祖の御耳に入るので、若冠の七郎次郎はまたなき法華の行者にみられた。『竜門御書』をはじめとして、再々の御慰めの御書が下がった。信士の名誉である。千歳の鑑である。

 ただし、法難の余響は際限なきものではなかった。行智等の悪僧俗は、年年月月に郷闘〈むらさこ〉の反感を招くばかりであるから、人を迫害するよりまず己れを守らにゃならぬようになったので、弘安5年頃には迫害は全く消散して一場の夢と化し去ったのである。

 けれども日興上人においては、この大法難のことが常に念頭に往来している。幕府の権威を恐れず身命〈いのち〉を鴻毛〈うのけ〉に軽んじて大法を九鼎大呂〈くていたいりょ〉に重んぜし20人の堅固な信仰、とりわけ神四郎3人の壮烈なる最後、我が教え子の中によくもこれ程の信心の健気な者ができた。

 熱原の愚痴の百姓が、一躍して日本一の剛の者となったは、理即但妄〈りそくたんもう〉の凡夫が一足飛びに究竟即妙覚〈くきょうそくみょうがく〉の仏陀となったのである。御本仏の賞讃を被むる程の弟子を持ち、その余慶で自分までも聖人と大慈無上の師匠の御房から尊敬せられたのは、吾一代の面目であると、常に憶念せられてあった。

 身延御離山の後に大石寺開創の翌々年、すなわち正応5年4月8日は、神四郎等斬罪の12年忌に当るので、大坊の北辺に墳〈つか〉を立てて三人を追弔〈ついちょう〉記念せられた。その明くる年の永仁元年には、平頼綱父子が法華の罰を被って誅戮せられた。

 永仁6年に『弟子分帳』を記して、別して神四郎3人の下には法難の次第を記入なされた。それから徳治2年4月8日には、わざと3人のために大曼荼羅を書して法華の賞罰を明らかに後世に示された。いや、神四郎等の熱原件に限ったものでない。末法万年の明々確々たる妙法の賞罰であらねばならぬ。

 



 

8、熱原法難史関係年譜

 

 


 

 


 


 

 

 


熱原法難史料解説について


 熱原法難のことは、宗祖御在世中、弟子檀那の最大法難であったばかりでない。史料もまた頗る豊富というべきじゃが、古来の伝説にとんと明細と確実とを伝えてない。

 吾門ですら、古くは道師の『三師伝』に一言、日教の『穆作〈むかさ〉抄』に一言、精師の『年譜』と『家中抄』とには委しけれど、伝説を重んじて史料を顧みざるかの憾みがある。
 他門では古くは殆んどなく、あるものは『家中抄』の移記〈うつし〉である。近古に至りて、各種の史伝の中に漸く一行二行に止まり、『年譜孜異〈ねんぶこうい〉』のごときすら委しきを記してない。泰堂居士の『真実伝』に滝泉寺のことを書けるに、法難のことは一言もいっておらぬ。

 要するに、御書には散見するが、これを明らむるの眼がなかった。その眼はなんである『滝泉寺申状』である。この「申状」も、具文を公開したのは漸く近頃のことであった。さりながら、『申状』には神四郎等の名も禁獄のことも斬罪のことも載っておらぬ。それは、この法難終結までの道程中の文書であったからで、真実の終局の史眼となるべきものは御開山の『弟子分帳』中の記文である。これがすなわち熱原法難史庫の鍵ともいうべきものじゃが、これもいまだ公開せられておらぬ。

 この解説の塙は大正9年の2月に起したもので、10年の3月に「日宗宗学全書」の[興門集]が刊行せられて、その中に始めて公開した。

 かくのごとく材料を取ることが困難であったから、明確の記事がないのも無理ならぬ次第である。まだその上、これらの材料が一寺一山に纒まってあるなら、その一寺一山だけには明瞭であったわけじゃが、重須だの中山だのと国を隔だて宗を別にして秘蔵し、漫〈みだり〉に他人に示さぬ時代であったので致し方ないわけである。

 しかし、その難関も熱心があれば突破せられぬこともなかったろうが、なにしろこの法難関係の僧俗がおもに富士興師系の人で、富士系は残念にも宣伝機関が乏少であったために、法難史が拡がらなかったのでもあり、他もまた随喜共鳴しなかったのであろう。さりながら『照見記』のごとき大特例もあり、少しづつでも書いたものがあるのは全く精師の御骨折りの賜のであろう。

 またこの法難の大切というところには、御門下の武門武士は一人もあづからず、斬罪禁獄追放20人は、みな悉く土民百姓で、ことに近古にまで尊敬を払われぬ社会の下級に甘んじた者であるから、自然に記述の光栄を得ざりしものとも思わるる。

 また折伏法度、御上の御無理御尤もの時代に、信仰の上とはいいながら、政府の役人の無理に伏しなかった事柄は書きにくかったであろう。もし、はたしてそういう遠慮であったならば、土民すら義に当りてはなお鼎鏝〈ていかく〉を辞せず法華の信念凝って鉄石のごとく、渠々〈こうこう〉として音あり三千大千の国土を響かす、農民百姓の魂もなお武門武士の気魂を圧倒するのありさま、あえて大いに伝えざるべからずである。

 近頃、各山秘庫の公開により史料が揃ったところから、ぼつぼつこのことが記伝先生せらるるようになり、ことに田中居士の一派大いに宣伝に力〈つと〉めらるるははなはだ佳きことであり、また他の御伝記の中にも、熊田氏のごとき直に富士の古伝を取られたは悦ばしいことであり、その他の著述も漸次に明確を加うるようになったけれとも、取材にも扱いにも誤れるものもあり、また足らぬのもある。過ぎては稗史〈はいし〉劇談に流るるもあって、これら現存の正史料を毀〈やぶ〉ること少くない。本宗初信の人にして宗史の造詣に浅いところから、漫〈みだり〉に他の文書に謬〈あや〉まられんことの気の毒さより、ここに正しき史料を列べてそのままの解説を試みんも、あながち無用の老婆親切ではなかろうと思う。

 ただし、この史料としては、

 第1に、法難当時の文書を取らねばならぬ。それは

1、宗祖大聖人がその時に書かれたる御状

2に、事件中心の裁判用の申状

 第2に、法難関係者の追記の文書がまた必要である。それは、

1に、開山上人の『弟子分帳』の中の記文

2に、同上人の追弔漫荼羅の端書

等より取らねばならぬ。また専らこれらに拠らねばならぬ。

 これらの史料となるべき分は、宗祖・開山の文書の各所に散在するがゆえに、左に類聚して見出しに便ならしめよう。またそれを一層明らかにするために、その文書の下に記載の人名地名事項等を掲ぐることにするが、その解説の目次は左の通りである。


 

 


 

 


 

これにて主要の材料は挙げ尽くしたつもりであるけれど、なお漏れたるものあらば追加しよう。大抵ははこの目録によりて直にその御書等を熟読なされば間違いはないはずであるけれと、初信無学の仁〈ひと〉のためにさらに委しく解説を加うるのである。

 なおこの六箇の項目の中に、日向・三位・大進の三人は別項になっていて、日興・日秀・日弁の肝心の当事者の別項を設けないのは、この三師の御事跡は始終にわたっている。この二師がなければ熱原の法陣は張れぬのである。ことに、興師はその跡始末までなされた仁であるから、別してこの事件全部が御開山上人の外伝とも見るべきものであるので、ことさらに別項を設けぬのである。

 向師や二位公や大進房は、一時の飛入り御手伝いにすぎぬのを、かえって滝泉寺の住職または創立者のととく主張せる向きがあるから、わざとその関係史料を明らかにして、その誤りを悟らしめようとの微衷〈びちゅう〉に外ならぬのである。

 

 

 

第2 熱原法難史料解説




1、熱原弘教の大体についての御書及び解説



『異体同心事』(全集 1463頁) 
   

白小袖一厚綿の小袖。伯耆房の便宜に鵞目〈ぜに〉一貫並に受給わる。伯耆房佐渡房の事、熱原の者共の御志し、異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は、外典三千余巻に定まって候。

 

『 同 』(全集 1463頁)  

其の上、貴辺は多年歳積りて奉公法華経に厚く御座〈おわ〉する上、今度は如何にも勝れて御心ざし見えさ廿給う由、人々も申し候。又彼等も申し候。一々に承りて日天にも大神にも申上げて候ぞ。御文は急ぎ御返事申すべく候ひつれとも、慥〈たしか〉なる便宜候はで今まて申し候はず、弁阿闍梨が便宜余り早々にて書きあへず候。


 伯耆房は白蓮興師で、佐渡房は民部向師であること申すまでもないが、この御書には宛名がない。御正筆にはあったのが、写伝の時落としたものと見ゆる。

 『境妙目録』などには大田殿への賜りとしてあるが、あるいは四条金吾殿であろう。御文の「貴辺は多年歳積りて奉公法華経に厚く」とあるにも、「弁阿闍梨〈日昭〉が便宜」とあるにも相応する。

 また8月6日とのみあって年号がない。諸目録多くは文永11年に編入してあるが、これは少し校〈かんが〉え違いであろう。久遠院の『攷異目録〈こういもくろく〉』には、ある説として弘安2年を挙げてある。熱原神四郎等の入信の年は、弘安元年なることを興師が記しおかれたので、この弘安2年説は御文の「熱原の者共の御志し」とあるに適合するようだが、弘安に入りて民部向師が熱原に布教したことは何にも見えておらぬ。

 『報恩抄送文』〈全集330頁〉に、「此の御房は駿河の国へ遣わして当時こそ来て候へ」とあるによれば、宗論のあるべき準備〈したく〉として各弟子方が各地方に経論を集めに行かれたその一人の民部向師を、その傍〈かたわ〉ら従前より従事せられし白蓮興師
の熱原布教の手伝いをも命ぜられたもので、それが建治2月の7月、すなわち、『報恩抄』を持たせて清澄に遣わさるる前には、身延に帰っていたのであることがこの御文の意であろうと思う。そうすれば、この御書は建治元年に置くべきではなかろうか。

 神四郎一家は弘安元年の改宗として、滝泉寺の日秀・日弁等は身は天台真言の寺にありながら、興師に帰伏して法華を信ぜしためにいずれも住坊を追い出されたのが建治2年であるから、帰伏の年はその已前であること明瞭で、またその付近の熱原の土民が、これに随逐して信仰していたことも察せられぬことはない。

 この御書に「熱原の者共」と遊ばすのは、すなわちこの無名の信徒であろうと思う。この御書に異体同心の警告を遊ばすのは、この熱原一円の僧俗に限ったことでない。もっともその主体は、興師を大将として向師が遊撃に秀師弁師が副将で、その他の無名の所化僧または信徒が兵卒となっての一団ではあるが、ひいては富士一円にも及ぼし、また次に引く二書のごとく、駿河一国の異体同心を奨励し、果てはこの書の下のごとく鎌倉辺までの信徒の同心協力異体同心を望まるるので、また各地の僧俗も、富士の弘教に多大の期待をもなし、心痛を重ねたものとみゆる。

 


 『浄蓮房御領』(全集1435頁) 

返返、駿河の人々皆同心と申させ給ひ候へ。


 『三沢抄』 (全集1478頁)  

返返、駿河の人々皆同じ御心と申させ給ひ候へ。

 この両御書の返す書は、一は末文にあり、一は首文にあるが、文句は同一であり、また『浄蓮房』のは興師の御写しがあり、『三沢抄』は御正筆が現在する。

 文句は至って簡短じゃが、熱原法難についてその横暴の迫害に抵抗すべく、駿河の信徒の一致団結を勧告せられたのである。

 浄蓮房というのは、曽谷入道の弟で大進房の兄に当り、金原法橋とて在家の僧で、下総の飯高と仲村との間にある大宮の別当を勤めた人だと『境妙目録』等に書いてある。

 また、遠江の浜名郡の妙恩寺という寺が、浄蓮すなわち金原法橋左近の開基であり、金原家も連綿としてその寺の檀方であると、同寺ではいっておるが、精査しなけりゃわからん。

 金原法橋と浄蓮房とは別人であって、あるいはこの人は興師の俗縁なり信者なる高橋家あたりの人で、富士郡に、ことに熱原と格別離れてない所に住んだ在家の僧であろうと計り思わるるはいかにや。

 三沢殿というのは、富士上方の三沢で、今の大鹿窪〈おおしかくぼ〉の三沢寺〈さんたくじ〉は、その址を寺とじた後の移転地だということである。同じく駿河といっても、富士郡内の信者方は、いずれも地理上接近してるので、この迫害に対しては、なにかと力を合せていたのである。

 また『浄蓮房書』の紀年は、建治元年に置いてあるから、『異体同心書』を建治元年と定むる肋けともなる。『三沢抄』は弘安元年に置いてあるから、『異体同心書』を弘安元年に定むるの助ともなる。けれども、両書共に年号もなく御文中にも何年に置くべきものと定むるの記事もないから、確実のことは後日の研究を待つとする。



 『窪尼御前御返事』(全集1478頁) 

さては熱原の事、今度を以て思しめせ。前〈さき〉も虚事〈そらごと〉なり。

 滝泉寺の院主代行智及び弥藤次入道〈弥四郎の兄〉等が、富士下方政所の役人等と結托して、再々鎌倉政府の御教書を偽造して熱原の信徒を威嚇〈おど〉せしことを仰せあるのである。彼等は建治2年に日秀・日弁等を滝泉寺から追出したけれど、法華信仰の気勢〈いきおい〉を推く手段とはならないで、反対〈あべこべ〉に信徒が蔓延するので、止むを得ず政府の命令書を偽造して、法華を信ずるな、日秀・日弁を庇〈かば〉うな、日蓮の門下となるなと、圧制したのが、この時分〈とき〉に偽作であることが露顕した。これは弘安元年5月であるので、この已前の建治何年かに彼等が用いたのも偽造と知られ、「前も虚事なり」と遊ばされ、さらに佐渡御流罪中にも、権門の邪徒等が3度まで虚御教書を作りて宗祖を迫害したことを例に挙げられたのである。

 この窪尼というのは、ある説には持師〈六老〉の母で、持妙尼というとあるが、頗〈すこぶ〉るいかがわしい。持師の母なら松野に墓があるべきで、現に松野の法蓮寺に持師御両親の五輪塔一基ありて、「父法蓮尊儀・弘安三庚辰年六月八日、母妙蓮尊尼・弘安十丁亥年三月朔日」とある由じゃから、まずこの方を正とすべきであろう。

 さすれば、西山の窪〈今の大久保〉にある持妙尼〈正安二庚子七月七日〉の墓は、その当時の地頭すなわち西山殿といわれた大内家の夫人であって、すなわちこの御書の窪尼御前に当るべきと思う。


 
聖人御難事』 (1189頁) 

去る建長五年〈太歳庚丑〉四月二十八日に、安房国長狭郡の内東条の郷、今は郡なり。天照大神の御厨右大将家の立て始め給いし日本第二の御厨、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申し始めて今に二十七年、弘安二年〈太歳心卯〉なり、仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其の中の大難申す計なし、先先に申すが如し。余は二十七年なり。其の間の大難は各各かつ知しめせり。

 この御書は正筆も現存して、まさしく弘安2年10月1日ので、すなわち熱原法難の真最中の御書である。それは9月21日の稲刈から喧嘩が始まって表沙汰となり、大法難を引起したのであるに、これには後人が『聖人御難事』と題じたるごとく、宗祖御自身の伊豆や小松原や佐渡の大難を挙げ、また釈尊の九横の大難をも天台・伝教のことをもいわれてあるけれと、よくよく拝見すれば熱原法難が中心となっておる。

 また宛名は「人々御中」として、末に「三郎左衛門殿の許に留めらるべし」とあるごとく、別して関東の各信者に廻されたものを、御指定のように四条殿が預からないで、富木殿が預かったままに中山に現存するのであろう。

 これは要するに熱原一郷の法難でない。富士一帯の法難である。いな駿河一円のである。いないな宗祖御一生の御法難である。宗門僧俗一同の大法厄であることが、この御書の各所にあらわれてる。

 これに引ける御文の中に「今に二十七年」 「余は二十七年なり」とありて、これには引かぬが次下に「而るに日蓮二十七年が間」 「今二十七年が間」と27年が四簡所にある。27年の数字は有意か無意かいずれにしても、建長宗建の始めより今弘安2年に至る27年間の大小の法難辛苦艱難の年数を指されたものであるが、第2番目の「余は二十七年なり」というところは並の御苦労の年数を指したものでない。それは、次上の「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う」というに続いての御文であるから、自分は、宗旨仕立より27年目に法難も終結して始めて出世の本懐を満足したのであるという御意と拝見せねばならぬ。法難即本懐ではなくて、法難終結によせて何か本懐満足の事実を祝じ給うのではあるまいか。

 されば、当時何事か宗祖の本懐満足という史実があったろうかと考えてみると、先師がかつて直にこの文をもって戒壇本尊顕彰の依文とされたようだが、直接の文便はないようである。法難終結から本懐満足と運びて、そこに戒壇本尊がなったということにならねばなるまいかと思う。

 すなわち、弥四郎国重が願い出じておいた将来広宣流布の時に戒壇堂に安置し奉るべき御本尊を、その月の12日に成ぜられて、別して白蓮興師に密付せられたのが、宗祖御出世の本懐満足、すなわちこの時の御内意であったろうと、敢て一拝察し奉るのである。

 そうして弥四郎国重とはいかなる経歴の人なりやというに、先師はこれを波木井一門の弥四郎に擬せられたが、『弟子分帳』には波木井弥次郎入道〈旧写には次を四と誤る〉はあれと、弥四郎は見えぬ。また日円入道の直親には、南部と冠らせてある。南部六郎次郎、同六郎三郎、同弥六郎がそれで、もし波木井一門の有力者近親者ならこれらの南部氏を取るべきじゃが、もっとも波木井に弥四郎なしとは断言せぬが、自分は、この弥四郎国重を名族門閥の中より、むしろ無名無位の土民百姓の中に求めたい。

 宗祖大聖人の「安房国東条片海の石中の賤民が子なり」とも「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ施陀羅が家より出でたり」ともいわれた御卓見に対することにしてみたい。そこで、この大法難の大立者・神四郎に目を著けた。弥四郎国重というのは神四郎の旧名ではなかろうか。厚原本照寺の縁起に弥大郎といったを宗祖が神四郎と改めてくださったと書いてあるのは、全然〈まんざら〉の誂伝〈かでん〉でもなかろう。

 弥四郎の名が沢山ある。弘安2年8月に殺されたも弥四郎で、市庭寺にも弥四郎人道〈人道の年は不明である〉いうがある。それで法難前の願い出に、他の弥四郎と区別するために国重の名乗りを加えられたのではなかろうか。弘安2年10月15日の御勘気已後にか、または3年の斬罪後に興師が追善供養を営まれた折に、神四郎と賞美の改名をなされたのではなかろうかと思わるる。

 ただし、この辺は他に熱心な研究者があるから、いずれその発表を待つこととする。

 


『 同 』 (全集1190頁)


一定として平等も城等も怒りて此の一門を散々となす事も出来せば、眼を塞いで観念せよ。当時の人々筑紫へか差されんずらん。また往く人また彼処に向へる人々を我が身に引き当てよ。当時まで此の一門に此の歎きなし。彼等は現に斯の如し。殺されば又地獄へ往くべし。我等現には此の大難に値うとも後生は仏に成りなん。設えば灸治の如し、当時は痛けれとも後の薬なれば痛からず。
 彼の熱原の愚痴の者ども言い励まして嚇す事なかれ。彼等には唯一円と思ひ切れよ。善からんは不思議、悪からんは一定と思へ。餓るしと思はば餓鬼道を教えよ。寒しといわば八寒地獄を教えよ。恐ろしといわば鷹に遇える琲、猫に遇える鼠を他人と思う事なかれ。


 一つの波動は大海に弥〈ひろ〉がる。熱原の一郷の事件が全宗門に響かぬことはない。かねて何かの動機あれかしと待っておる平左衛門や秋田城介なとの役人原が、日蓮が一門に向っていかなる迫害の大鉈〈おおなた〉を振うやもしれぬ。他宗の者は、蒙古防ぎのために九州に遣らるる。現在は防戦に苦しみ、打負けたらば地獄の苦しみである。しかるに、我が一門には、いまだ壹岐対島なとに遣られた者もない。たとえこのたびの大法難に遇うとも、ただ現在一短時の苦しみ、未来は永々成仏の快楽〈たのしみ〉に遇うぞよと励まされてある。すなわち、御門下一同への激励状である。

 後項〈のち〉の御文には、まさしく「熱原の愚痴の者共」と指して、これを他の一門より激励するように援護するように誠められてる。鎌倉に捕われた20人の中に、神四郎3人は張本といわるる通り、みごとな法華魂、武士も及ばぬ剛胆であったろうが、余の17人また村に残りし老若婦女はそうはゆくまい。現在の信仰難のために進退に迷ってる、すなわち愚痴の者も定めし多かったであろうが、ここに特に愚痴の者共と指されたのは悉〈ことごとく〉く土民.白姓でありて、剛毅の武士魂を持たぬところを指されたものである。

 しばらく興師『弟子分帳』によるに、士分武家にあらざる者を集めて在家人弟子分と標してある。在家とは、おもに農家のことである。その人名は、日秀・日弁両師の弟子分にて本件の主人公なるを初めに置いて、別して法難の次第を書き添えてある。すなわち富士下方熱原郷住人神四郎、同弥五郎、同弥六郎の三人。次に興師の弟子分にて、上野郷住人小四郎、同弥三郎重光、中里具大郎、上野郷新五郎、同大郎大夫後家最妙尼の五人。次に秀師の弟子分にて、熱原六郎吉守〈吉守への宗祖の漫荼羅は、興師の添え書き付きにて京都・妙覚寺に、現存している。弘安三年二月日の日付である。〉、同新福地神主、同三郎大郎の三人。次に弁師の弟子分にて、江美弥次郎、市庭寺太郎太夫入道、同弥大郎、同又次郎、同弥四郎入道、同田中弥二郎の六人を挙げてある。

 いずれも興師よりして大聖人の御本尊を授与せられたのである。この外に宗祖の本尊拝受の栄を得ぬ在家の者も多数あったろうが、この文書によれば熱原郷にも、市庭寺にも武家御家人の士分は一人もなかったのである。

 ゆえに宗祖は、時の慣例に準じて「熱原の者共」とも「熱原の愚痴の者共」とも、あえて敬語を用いられぬ。この世間的敬語を受けぬ農夫土民が、法難に処して千古未曽有の鉄石心〈てつせきしん〉を現わしたのは、ひとえに常事〈ただごと〉でない。仏菩薩の彼等が身心に入り変わらせたもうたのであろう。それを悪魔が憑〈つ〉けると思うて蟇目〈ひきめ〉の矢を散々に放って調伏せしめた平左衛門頼綱親子の体たらくは笑止千万の至りである。

 


2、佐渡房.三位房についての御書解説



『異体同心事』(全集1463頁)  

伯普房・佐渡房の事、数原の者共、(前に詳しく出だす)

 

『松野殿御返事』(全集1383頁) 

此の三位房は下劣の者なれとも少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬いて、法門を御尋ねあるべし。依法不依人、此れを思うべし。

『六郎次郎殿御返事』(全集1464頁) 

明日、三位房を遣すべく候。


『四条金吾殿御返事』(全集1182頁)
 

三位房が事、さう四郎が事、此の事は宛も符契符契と申しあひて候。


『聖人御難事』(全集1191頁)  

此は細々と書き候事は斯く年年月月日日に申して候へとも、名越の尼・少輔房・能登房・三位房なんとのように候、臆病・物覚えず・
欲深く疑い多き者共は、塗れる漆に水をかけ、空を切りたるように候ぞ。三位房が事は大不思議の事とも候しかとも、殿原の思いに智恵ある者を嫉ませ給うかと愚痴の人思いなんと思いて物を申さで候しが、腹黒となりて大難にも当りて候ぞ、中々散々とだに申せしかば助かる辺もや候なん。余りに不思議さに申さざりしなり。又斯く申せば痴人〈おこじん〉どもは死亡の事を仰せ候と申すべし。鏡のために申す。又此の事は彼等の人々も内内は怖じ恐れ候らむと覚え候ぞ。

 佐渡房すなわち民部向師が、熱原布教の手伝いをされたことは、第一条の下にも書いた通りで、それは建治元年ごろで、それから後にはさらにその様子が見えぬのであるを、かえって向師が滝泉寺を起し、または住職であると妄説を逞しゅうする者ができた。その破折は第四条の初の滝泉寺の下でいうから、ここには書かぬ。

 『年譜〈ねんぶ〉』及び「家中抄〈けちゅうしょう〉」には、和泉公日法が宗祖の御命でお手伝いをしたと書いてあるが、御書等の史料とすべきものには片辞〈かたこと〉も見えぬ。また『弟子分帳』によれば、和泉公は興師の孫弟子であるから、その使用は師匠の随意であるべきを、宗祖からわざと派遣せられたということは例の伝説の誤りで、今の岡宮・光長寺がその布教地の跡というのは、さらに大なる誤りで、なんらの史料も見えぬばかりでなく、反証がかえって挙がるのである。

 三位房というのは、下総出身の日行のことで、御弟子としては老輩であり、叡山長時の学問の功も積まれてあるが、残念にも信行不足であったために、ついに師敵対謗法の悪道におちて死に方も悪かった。この人は、法難前の御書には史料たくさんじゃが、無用であるからここには引かぬ。

 今の松野殿へのは建治2年12月9日の御状である。六郎次郎へのは建治2年3月19日の御状である。庵原〈いはら〉郡の松野といい、富士郡の加島といい、身延よりは一日程の所じゃから再々往復せられて、その間実相寺事件にも熱原布教にも顔出しをなすのは、当然ありうべきことであるが、どちらも興師が総大将で、また松野にも加島にも縁が深いから、さすがの三位房も手持ち不沙汰で間もなく引き上げて、さらに鎌倉に出て、その年の6月9日に桑谷〈くわがやつ〉の竜象房を論破して四条金吾の大事件を出来〈でか〉されたものとみえ、その後はどこと腰が落着かずに熱原のこともかえって興師の邪魔になるくらいで、後には反対の邪道に踏み迷われたらしい。『聖人御難事』等の御文が暗にこのことを示してある。

 いかなる行動を取ったか、いかな無惨な死に方をされたかは、御文に委しくない。伝説も残ってないけれとも、多少御慈悲の警誠(いましめ〉はあったらしい。また「鏡のために申す」とか「彼等の人々も内内は怖じ恐れ候らむと覚え候」といわれたるよりみれば、反法華の現罰と自他共に見るべき明らかな変死であったろうと思う。また「符契符契と申しあひて候」との御文を見れば、御警告の当ったことであろう。まことに惜しい人であった。信行学の次第が満足であって45年も存命せられば、6老の第2位に必ずあるべき仁だのに、不信無行が大なる禍であることは、この三位房や大進房を通して、宗祖も随所に誠め置かれたのである。

 

 

 

3、大進房についての御書解説



『減劫御書』(全集1467頁)

此の大進阿闍梨を故六郎人道の御墓へ遣し候。昔、此の法門を聞いて候人々には、関東の内ならば往きて、其の墓に自我偈読み候わんと存じて候。然れども当時の有様は日蓮彼処〈かしこ〉へ往くならば、其の日に一国に聞へ、又鎌倉までも騒ぎ候はんか、心ざしある人なりとも往きたらん処の人々目を恐れぬべし。今まで訪い候はねば聖霊いかに恋しく御座らんと思へば有り様もありなん。其の程先ず弟子を遣して御墓に自我偈を読ませ進せしなり。其の由御心得候へ。

 熱原布教軍の大元帥は無論宗祖であるが、法戦地の大将は日興上人で、日秀・日弁の両師は左右の副将である。その他の日向已下の人々は、一時の遊撃であったり、部卒であったりである。

 その中で、初めはそうでもなかったが、後には全く反忠して謗法軍に降り、その爪牙〈そうが〉となって散々に法王軍を苦しめた師子身中の賊僧がある。それが、この大進阿闍梨である。この大進阿闍梨また大進房と、前条で出した三位阿闍梨また三位房と弘安2年5月17日の富木殿への状に、「日行房死去の事、不便にて候」とある日行との三は、同人であるか別人であるか。ただし御書の上で行実が判然〈はっきり〉せぬから、明らかに同一人なるべく熱原法難を煽動した大逆僧といっておる人がある。また、ある方面の史説では、大進阿闍梨は曽谷入道法蓮の弟で、三位阿闍梨日行は富木入道常忍の弟であるとしてあるが、確実な史料によりまたは信すべき伝説からきたのではなかろうけれど、まずこれによる人が多いようである。これは後日の研究に譲る。

 この『減劫御書』についても、前条に掲げた『六郎次郎御返事』によりても、大進房も三位房も前後して富士の高橋家に派遣せられたようである。御書には、これらの人が興師の部下としつ働くべしとも別働隊としてとも書いてない。無論、この時代のこととて格別の辞令はなかったろう。

 この2僧はなにかの所縁で加島に行くことになった。表面、加島の高橋六郎入道の墓参に御師匠の御名代ということであった。時の都合で興師・秀師・弁師等の弘教を助けてよいくらいの仰せはあったろうと思う。それも年輩といい、学識といい、興師よりずっと先輩であるから、富士一帯の僧俗は自己の麾下に集まるものと思いきや、若年の興師なれども実相寺内の一味の僧侶の総大将であり、滝泉寺内の一味の僧侶の師匠となっておられ、また信者側には上野殿・西山殿・由比殿を始めとして法縁俗縁重畳たる者ばかりで、ことさら己が遣わされた加島の高橋家では主人六郎兵衛は興師の弟子であり、その奥方は興師の叔母であってみれば、とても他より手のつけようがない。ある人は、この辺に嫉妬を生じてかえって逆敵となり日興いじめのために熱原法難を惹き起さしたのであるようにいっておるが、それ程悪辣でなかったろうが、全体、この人々が学識もあり年輩も高かったわりに信行に欠陥があったので、ついに法敵堕獄の結果に立ち到ったのであろう。さてまた『減劫御書』の当面には加島とも高橋とも見えないけれども、『高橋入道御返事』〈全集1461頁〉参考 を見て、しか考えたのである。

 また、前条に引ける六郎次郎の方は、連名の次郎兵衛は加島の太田次郎兵衛なるべく、六郎次郎は高橋六郎兵衛の弟であろう。ある目録に、波木井六郎次郎としてあるが、自分は取らぬ。『御返事』の高橋入道は六郎兵衛の父で、この『減劫御書』の六郎入道すなわち墓主であろう。寂年はいまだ校〈かんが〉えざるも、建治元年かこ年かの内で、この御書も建治2,3年のものであろう。であろうばかりで、甚だ不尚足じゃが、高橋六郎兵衛は法号・妙常、永仁3乙未年3月15日、その奥方たる興師の叔母妙諦は延慶2己酉年5月13日を命日と重須に伝えておる。また、叔母たること、及び六郎兵衛は日興第一の弟子たることは、『弟子分帳』に詳らかに書いてある。

 


『稟権書』 (全集981頁)    

又此の沙汰の事を定めて故ありて出来せり。加島の大田次郎兵衛・大進房、又本院主もいかにとや申すぞ、よくよく聞せ給候へ。此等は経文に仔細あることなり。法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障るべきにて候

『 同 』 )(全集982頁)     

大進房が事、先々書き遣わして候様に、強々と書き上げ申させ給候へ。大進房には十羅刹の憑かせ給ひて引返しさせ給ふと覚え候ぞ。又魔王の使者なんとが憑きて候けるが、離れて候と覚え候ぞ。悪鬼人其心はよも虚事にては候はし。

 この御書は富木殿へのである。大進房のことが二箇所に出ておるが、場所とことがらが明瞭でない。始の方はこの御書の起るところの了性のと富木殿との対論に関係あるらしい。ここに「本院主」とあるは誰人であるか。『滝泉寺の申状』の末にも「然らば則ち不善悪行の院主代行智を改易せられ、将又本主此の重科を脱れがたからん」とある。滝泉寺の本院主が何人であったか、真間と熱原とは、いずれも天台法華宗のことであれば、土地はかけ離れていてもなにかの連絡があったかもしれぬ。加島の大田次郎兵衛の大田は、下総の太田で、大進房の親族てあったかもしれぬが、次の『聖人御難事』の列名と同人同所とするが便あるものである。

 後の方の御文もなんだか明瞭せぬ。また「魔王の使者なんとが憑きて候けるが離れて候」とあるのは、大進房は一度堕落をしたが、当時は改心をしたという意味にみゆる。「大進房には十羅刹の憑かせ給ひて引返しさせ給」とあるのも、法華守護の十羅刹の神力て改心をしたという意にみゆる。これらは下総の事か、多くは熱原でのことであろうけれども、明断の史料を得ぬのは残念の至りである。

 

 

『聖人御難事』 (全集1190頁)  

太田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰の顕わるるか。罰は総罰・別罰・現罰・冥罰四候。日本国の大疫病と大飢渇と同士討と他国より攻めらるるは総罰なり。疫病は冥罰なり。太田等は現罰なり。各々師子王の心を取り出していかに人威すとも怖づることなかれ。

『聖人等御返事』 (全集1455頁)  

此の事宣ふるならば此の方には科なしと皆人申すべし。又、大進房が落馬顕るべし、顕れば人々ことに怖づべし。

 この二の御書に大進房の落馬のことがいわれてある。この落馬は9月、法難の喧嘩の時に馬上にありて滝泉寺の謗法者を指揮して、日秀・日弁の信徒を散々に欧打せる時のようにいってあるのもあるが、実はそれよりも余程前のことであろう。弘安2年では寂年が合わぬから、弘安元年の九月以前のことであろう。

『申状』には、弘安2年の4月と8月と9月との3の殺闘しか載せてないけれども、その外の時に大進房・親昌・次郎兵衛等が馬上で法華衆を追いかける時、ともに落馬して病みついたことがあった。これが病因で、大進房は間もなく悶死した。これは法華衆を迫害せし謗法の別罰なりとの理由を『滝泉寺申状』を捧げて申し立てをするならば、鎌倉問註所の役人達にも一般の人にも胸に釘を打つであろうと、宗祖より本件について鎌倉へ出府せる興師や秀師・弁師がたを激励せられたものである。

 

『四条金吾殿御返事』(全集1182頁)

又、大進阿閣梨の死去の事、末代の耆婆〈ぎば〉いかでか此れに過ぐべきと皆人舌を振り候なり。さにてや候いけるやらん。三位房が事さう四郎が事、此の事は符契符契と申しあひて候。

『曽谷殿御返事』(全集1065頁)   

故大進阿闇梨の事、歎かしく候へども、此れ又法華経の流布出来すべき因縁にてや候らんと思召すべし。

 この両書に大進房の死去のことが書いてあるが、四条殿のは弘安元年9月15日の賜りである。大進房の死去に近き日であろう。曽谷殿のは、その明くる年の弘安2年8月17日である。
 それに四条殿へは、大進に対しても三位に対しても、宗祖のかくあるべき先見の違わざることを示されてあるが、曽谷殿へは、さすがその親族なればにや御悔の意向を顕わされ、法華経の弘まるべき因縁じゃと諦めよと慰さめられてあるのは、不信不義なる兄弟を持った信者への御同情てあると拝すべきであろう。

 四条殿へのによれば、大進と三位とは別人のごとく思わるる。ここには引用せぬが、『聖人御難事』にも しか見え、また『弁殿御消息』〈全集1224頁〉 の「弁殿・大進阿闍梨御房・三位殿」と列名あるのは、無論別人の文証であろう。これは因に記して置くが、前来掲げ来りし御書を順次に再々熟読せば、自然に総てのことが了解せらるることじゃと思う。

 

 

4、法難顛末についての文書解説


『滝泉寺申状』 (全集1849頁)


駿河の国富士郡下方滝泉寺の大衆、越後房日弁・下野房日秀等謹んで弁言す。当寺院主代、平の左近入道行智、条条の自科を塞〈はさ〉ぎ遮〈さえぎ〉らんがために不実の濫訴〈らんそ〉を致すは謂れなきこと。
訴状に日わく、日秀・日弁は日蓮房の弟子と号す。法華経より外の余経、あるいは真言の行人は、皆もって今世後世叶うべからざるの由、これを申す云云取意。

 『滝泉寺申状』というのは、行智・弥藤次入道等の謗徒の邪計〈わるだくみ〉がなりたって、ついに弘安2年9月21日に、秀師等が熱原の信者の農民を頼みて、稲を刈り取るのに文句をつけて乱暴打擲〈ちょうじゃく〉したばかりでない。さらに事実を変詐〈へんさ〉して、日秀・日弁等が多勢を催うして稲作は刈取ってしまい、弓箭を帯びて院主分の坊内にまで乱入したと、鎌倉の問註所に訴えた。

 彼等は中央政府の問註所の役人方にも、地方の、すなわち富士下方の政所代にも連絡があるから、この訴状は容易に御取り上げになって、早速乱暴の張本召捕の下役が熱原に出張して、かつて政所に拘留せられてる神四郎等20人の信徒を高手小手に縛り上げて鎌倉に引っ立てた。

 あとに残った妻子巻属の愁歎〈しゅうたん〉目も当てられぬが、いかにせん、微力の僧俗とても官権にははむかえぬ。これより先、日興上人の許へも上野の南条時光の方へも急使が馳せた。興師を頭として秀師・弁師に南条・高橋等の人々が額を合わせて善後策を立てらるる。

 頭分〈かしらぶん〉の重立った者で、前の20人に続いて召捕られそうな者の隠匿〈かくまい〉は、幸い多少の距離もあり大家でもあれば南条殿が引受くる。講中で生活に困る者の手当てをしたり引取ったり、それから鎌倉政府には不当の御下知の歎願をして20人の召人〈めいうと〉を下戻〈さげもど〉してもらい、院主代等の不行跡やこれまでの日秀・日弁・日禅に対する不法の処分を取消した上に、院主代の免職を願わにゃならぬ。遅々〈ぐずぐず〉してると20人の者が、いかなる過重の処分を受けぬとも限らぬ。

 そこで早速できあがったのが、この『申状』で、これを身延山に持って行って宗祖の御目にかける。もっとも大聖人の御許には、初めから巨細〈こさい〉の注進が参ってるので、非常に御意を痛めておらるる。この処置至極もっともとあって、「申状」の案文には、かれこれと修正の筆を入れられた。日興が問註所に出るならば、かくかくかように取り計らえよと御状にも伝言にも細々と御意遊ばれたのである。

 しかし残念ながら、この目安も興師の弁疏も出でぬ前に20人は入牢に及んだので、せっかくの『申状』の抗弁も当座の効にならなかったが、多少の反省はさせたろうけれど、大体、平頼綱等の頭が違っていた。事件そのものを裁判する考えでない。一途に法華の信徒を迫害して、その広布を防遏〈ぼうあつ〉すればよいのである。

 けれとも、政府のこれらの邪計は寸効もなく、ほとんど流れを根塞〈ようそく〉する底のむだごとであった。しかのみならず、平左衛門その者も法罰踵を回さす謀叛の悪名に一家全滅をした。

 この『滝泉寺申状』の案文は、弁師が下総に持って行って峰の妙興寺に伝わっていたが、後に中山の法華経寺の什物となった。文雅〈ふんが〉師の記によれば、後半は秀師の筆なるべく宗祖の御添削があるが、前半は他筆であるとのこと。その後半に読み得難きところ十数箇所あるが、文雅師等の『縮刷御遺文』の後にできた本にも、なお訂正を加えずにこの難読をそのまま襲踏してある。世の宏才博学の仁には容易に読めるものとみゆるのは有難いことじゃが、自分には千万度考え直しても読むことができぬ。

 しかるに、この古い写本が静岡の感応寺と山梨の滝泉寺とにある。これによれば、難読の箇所もさらりと読める。学者達には相すまぬが、今思い切って仮にこの写本によって用字の訂正もし、また訓点も改むることにした。ただし、確実の所はさらに正本を熟拝した上のことじゃ。

 已上、『滝泉寺の申状』について大体を述べたから、ここからすぐに本文の史料となるべき点について解説しよう。

 富士下方というのは、富士郡の大宮町及びその北部を上方荘〈かみかたのしょう〉とし、それより南部をおよそ下方荘〈しもかたのしょう〉としてある。鎌倉時代には無論、足利時代までもその名称が行なわれた。ただし、目下の何々村が上方荘で何々村が下方荘だという明確な文証はなかなか整足せぬ。

 この『申状』には、熱原郷という小名〈こな〉が書き落されてあるは、案文の一時の疎忽かもしれぬが、当時この寺が岩本の実相寺と肩を並べての大寺であったからでもあろう。

 あるいはこの寺をもって実相寺の末寺かのごとくいう者もあるが、大なる誤解である。また熱原郷は加島庄の内のように思うたり、実相寺内の外道非外道論争の余波が熱原法難を引き起したりとの誤謬〈あやまり〉の伝説よりしてか、明確に熱原法難という名称を、あるいは両所の法難を総合したつもりかもしれぬが、わざと加島法難と呼び替ゆる等の愚挙をなせしむきもあるが、それらは過を改めたらよかろうと思う。

 天文頃の古文書に、下方と加島とを分対したものがある。あるいは加島は下方の外であったかもしれぬ。興師御正筆の『実相寺申状』には明らかに「加島荘実相寺」とあり、文保二年の御本尊端書には「駿河国加島庄」とありて、ともに下方庄とは書いてないのも参考すべしじゃ。

 また、この『申状』の末に、「何ぞ実相寺に例如せんや」という文句がある。解説はその下でするが、これが本末関係のなきものとも見るべきである。

 源泉寺というのは、この『申状』によれば大台宗である。すなわち実相寺と同宗であるけれども、実相寺の横川末なることが明らかなるに対して、この寺は東塔とも西塔〈さいとう〉ともわからぬ。無論、開山等のわかりようがない。『三代実録〈さんだいじつろく〉』の清和天皇の貞観五年に富士郡法照寺をもって定額寺〈じょうがくじ〉となすということがある。定額寺というのは、国分寺に次ぐ程の官寺で、住僧20口〈にん〉とか30口とかの扶持米を、政府より下渡すので、まず郡中の大寺である。この法照寺の末がどうなったかわからぬので、滝泉寺が多分それであろうといってあるものが多い。自分も熱原法難後の滝泉寺の沿革を知りたくて散々苦労したが、今に正確の寺誌を作ることができぬ。

 滝泉寺の後だといっている静岡市の感応寺にある文書に「日応記」というがある。慶長年間のもので、まず今日では滝泉寺のことを書いた最古のものであろうが、全く牽強付会〈こじつけ〉の憶説で寸分の信用にも足りぬ。感応寺でも、全然これによってるようにも見えぬ。もっとも、妄撰〈でたらめ〉の寺の縁起というものは、時と場合で動変してるが、これはまた最も甚だしい。先年、日蓮宗でできた『日宗大観』の中の感応寺の縁起ときたら、「開基、熱原法難に名高き熱原甚四郎国重。開山、安立院日向上人。創立弘安二年」とある。寺で作ったか編者が作ったか、何たる妄撰〈でたらめ〉であろう。あるいは甚四郎等の名が挙がったよりの商売気から古伝を一抹したのかもしれぬ。

 ただし、感応寺にある伝説を縮めていえば左の通りである。「富士郡定額寺の法照寺は、再々火災に遇うた。寺僧が文字の判断をして、法の字は水去る、照の字は火昭らすであるから、どうしても焼けねばならぬわけがあるから、これからは極端に水浸りになって火の縁は少しもないようとて滝泉寺と改称した。上からは滝で、下からは泉じゃ、これじゃ火の憂いはないが、滝戸〈たきど〉川の側であるから再々水難に遇った。この寺の日秀・日弁等の五人の学頭が、日蓮上人に法論を挑んで負けたから弟子となって、民部阿闍梨日向を住職に招待した。

 その弟子日寿・日慧と相伝して、元弘元年に震災のために破壊して中絶に帰し、およそ百余年を経て、地頭の岩越刑部が入山瀬〈いりやませ〉の旧地に感応山滝泉寺という小寺を復興したのを、文明十八年に静岡府中に移して感応寺と改めた。

 徳川家康公が府中に入るに及んで、その愛妾阿万の方の信仰によって感応寺も盛大になったが、間もなく阿万の方が和歌山に移るについて同市にも感応寺ができた。また甲州因州等にもできた」というように書いてあるが、寺伝の初めは後世の偽妄〈ぎもう〉で、取るに足らぬ。五人の学頭などとんでもないことだ。民部日向の滝泉寺別当とは真赤な偽り。現存文書に相違する。また七坊五坊の開山についても杜撰〈ずさん〉のものである。それを日向に藻原に連絡をつけんとすることが、また醜くきものである。

 それらを事実にせんためにや感応寺に日向が熱原の五人すなわち日秀・日弁・日禅・頼円・蓮海に授与した本尊を、近古、入山瀬辺から発見したといい伝えておる。これは先方ですら真偽未決のもので、到底批評に価せぬ。

 要するに、今の静岡の感応寺以前の史実は雲をつかむ程な漠然たるものである。残念でならぬ。委細を教示してくださる御方があらば、千里を遠しとせずして拝趨する。

 滝泉寺の址はどの辺であったかというと、鷹岡村滝戸にて、今の入山瀬駅〈富士身延鉄道〉の一丁ばかり西方、旧馬鉄線路の西手に小高き岡がある。ここに昆比羅〈こんぴら〉の小社〈やしろ〉があって、その傾斜せる左側面に、滝泉寺の故址と証する小碑がある。三蔵法蔵〈くらほうぞう〉寺22世日勤〈にちごん〉の再建であるから古き物でもないが、文句が気に入らぬ。古き碑文があったら参考にもなろうが残念である。この碑が確証になるわけではないが、大見当をつくれば、この小岡を中心として西は滝戸川まで、東は久沢厚原〈くざわあつはら〉の部落まで、この間のいずれの辺にか本院及び六七の坊舎があったものであろう。

 実相寺の坊名が拾箇已上明瞭なるに比ぶれば、やや少ないようだが、各古寺縁起の百坊とか五百坊とか四十九院とか乱称するのは、まるで誇大妄想であてにならぬ。田舎では、実際に寺中に拾軒もあれば大したものだといってよい。

 滝泉寺を「ロウセンジ」と呼んでるむきがある。滝戸辺では「レウセノジ」というておる。感応寺主は「リュウセンジ」と唱えておる。自分等も「リュウセンジ」の方である。

 滝泉寺のその後の沿革について強いて自分の憶測をいえば、左の通りである。

 勿論、信すべき古文書古記録等の出でて、これを否定せにゃならぬ時は、瞬間にこの憶測を放擲〈ほうてき〉することを辞せぬ。まず、建治・弘安頃の滝泉寺は大寺であったろうが、余程衰運の方で立派な院主も置けぬくらいで、寺中の僧分も坊主としての生活は楽でない。生家の仕送りや農業や何かで微〈かす〉かに暮らしたものと思われる。定めて堂宇も破損をしていたろう。一口に言えば荒れ寺だ。それに坊主のおもな者は法華宗になる。表面〈おもてむき〉官の力を借りて追い出しても、頭分〈かしら〉の2人はまだ寺中に残っておる。それに院主代が強制し得ぬ事情がある。院主代の行智という俗人もじゃが、これに諂〈へつら〉っている俗僧ともときたら、まるでなってない。僧侶の権威もなければ、天台宗の信仰なんか疾〈とく〉に地に落ちてるので、荒れ放題荒らし放題になったのであろう。

 法難後には、日秀・日弁も外の法華僧も事実に寄せつけぬので、寺運が復興すると思いきや、田夫野人〈でんぷやじん〉にも良心がある。一時の宗教熱で院主代や弥藤次に煽〈おだ〉て上げられて法華宗いじめの手伝いはしたものの、信仰を異にする外には何の意趣遺恨もない。中には親族朋友の関係もあろう。それらが相手の者が首を斬られた国払いに及んだ。残る妻子は泣きの涙て苦労をしておる。自分等の無情を怨んでいる。それを田舎の淳朴な人達が気に障〈さ〉えずにおこうか。法華宗を迫害した後悔の思いは募るに従って、院主代や弥藤次への頭の下げ方が倹約になる。寺の坊舎の屋根替の手伝いにも気が乗らぬ。院主代方の俗僧どもは、目の上の瘤が取れたので、羽を広げて我がまま三昧に日を送っている。寺院の経営もなにもあったものでない。そこで堂宇は荒れに荒れて自然消滅だ。その内には風もある、火もある、水もある。頼まんでも破壊の手伝いをしてくれる。法照寺でも滝泉寺でも追いつかないわけだ。

 日弁上人は、もうこの辺に来なかったかもしれぬが、日秀上人は、滝泉寺のすぐ傍に寺を建てて弘教の根拠とせらるる。正安元年創立の今の久沢の市庭山一乗寺がそれである。

 日興上人は、岩本実相寺を擯出せられても、神原の四十九院〈今の岩渕停車場の後ろの岡の上で、等覚寺ふきん〉を出されても、上野の南条、西山の大内、河合の由比、加島の高橋等を根拠として不断に法筵を張らるる。法難の反動がかえって法華の火の手を盛んにする。実相寺も四十九院も、ついに興師の寺となる。行智や弥藤次が、いかに歯ぎしりしても追っつかぬ。官権の頼みの縄も切れる。屏息〈へいそく〉していなければ、かえって村方の多数に反喘〈はんぜい〉せられそうで、さすがの謗徒の張本も戦々競々として、ついに地獄道にすべり落ちた。滝泉寺も三災に遇って、ともに跡形なくなったんである。

 これを彼の恵眼〈けいがん〉なる周到なる行学日朝〈ぎょうがくにっちょう〉たちが、はるか後に再興して、ちょっとした思いつきの縁起を作っておいたのが、次第に自門に利益なる方面にのみ飾られ偽られたのが、中古の縁起ではなかろうかと思うはいかに。

 大衆というのは、滝泉寺寺内の立派な僧分である。『申状』によると、下野房日秀・越後房日弁・少輔房日禅・三河房頼円の四人が寺家である。すなわち塔中の住職で、この外に法華三昧堂の供僧に和泉房蓮海というがあり、また別に供僧の兵部房静印というのがある。それに院主代の行智と合計〈しめ〉て七人で、もし院主がいたとすれば八人である。所化も小児もあったろうが、人名も員数も明らかでない。

 しかるを感応寺の縁起等には、百人の大衆があり五人の学頭がいた。その五人が身延に往って大聖人と問答して帰伏したと、とんでもない万八を書いたを、漫然引用してる人が多いから驚く。

 宗門ですら先輩の人に、何の考えもなく五人の学頭なんどと書かれた人がある。いかような組織〈くみたて〉にしたところで、10人や20人足らずの寺に五人の学頭があってたまるものでない。比叡山全盛の時、数千の学生〈がくしょう〉大衆ある中に、学頭らしい者は一塔に一人ぐらい、合計て二人か四人であったことを考えるがよい。

 越後房日弁・下野房日秀等というのは、滝泉寺塔中住職として興師の弟子となり、寺中を追出されても少しも屈せず、当地方を風化し、最後まで大法のために奮闘した当難の立者である。日秀・日弁の名によりてこの『申状』は作成せられた。外に思立つ僧分がないから、すなわちこの等の字は、内等の意もあり、密かに在家人の惣代になる意もある。なお、その伝記などは、この条の下の『弟子分帳』の解説に委しくする。

 当寺院主代平左近入道行智というのは、滝泉寺には相当の院主があったろうに、病気とか何とかの事情で、この寺にはいなかったか、またはいても表面に出て寺務を執らなかったで、無論その名も明らぬ。そこで、平の左近といういずれ北条家の庶流〈しょりゅう〉の者で、この土地にいたものが人道して行智と名乗り、この寺の院主代を勤めていた。勿論、行学の功労あるべきでない。謹直〈きんちょく〉に勤めていても俗別当だ。行学の功積った寺家の住職方には心から権威のあるべきでない。それに放逸無慚の痴者〈しれもの〉ときているから、この辺からも一騒動起るべきである。それを端挑〈じっと〉してこらえてきた日秀・日弁等は、まことに消極的な聖僧の手段を取られたのであったろうと思う。

 条々の自科というのは、この『申状』の中にある日秀・日弁・日禅等に対する不当処分、仏物〈ぶつもつ〉の乱用、百姓両人を刃傷殺害、鳥獣魚類の狩猟沽却瞰食〈こきゃくがんぎき〉等の乱暴の科〈とが〉である。行智が、この己が罪科を塗り隠すために、一々に無実の誣告〈ぶこく〉乱訴をしたので、20人が召し捕られて大法難が起ったのである。その無実の訴えは、この『申状』中に牒出〈ちょうしゅつ〉して弁駁〈べんぱく〉を加えてある。

 訴状に日わく等というは、相手方、すなわち行智等の訴状である。これより下は、一々に訴状の要文を牒〈ちょう〉して弁斥〈べんせき〉を加うるのである。

 初めに「日秀・日弁は日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経あるいは真言の行人は皆もって今世後世叶うべからざるの由これを申す云云」という。相手の訴状の文句は定めて長かったのを、要点に縮めたのであろう。これについての弁疏の文が頗る長い、八百余字。

 次に「阿弥陀経を以て例時の勤めとなすべき由の事」の訴状の文句について五百余字の弁斥〈べんせき〉がある。法義上のことは俗吏にはわかりにくいから、自然に長くなるわけである。法華対真言、法華対念仏の法門について肝要の文字も少くないが、この解説には、なるべく史実を重んじたいから法義上のことは、ここには止むを得ず割愛する。

 しかし、法難の原因は全くここにあるから、一般の熟読をお勧め申しておく。無用じゃから解説を省いたわけではさらさらないのである。ことにこの節の末は「今日秀等、彼の小経〈阿弥陀経なり〉の読誦を抛つ専ら法華経を読誦し、法界に勧進して、南無妙法蓮華経と唱え奉る、あに殊忠にあらずや。此等の子細御不審を相胎さず高僧等を召され是非を決せらるべきか」等とある。公場対決の催促、当時宗徒の面目が躍如として見ゆるを看過してはならぬ。



『同』(全集852頁)

訴状に云わく、今月二十一日数多〈あまた〉の人数を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り、下野房は馬に乗り、熱原の百姓紀次郎男〈きじろうおとこ〉を相具し、点札〈てんさつ〉を立て作毛を刈取りて日秀が住房辻に取入れ畢ぬ。云云収意。

 この行智が訴状の意味は、弘安2年9月21日に下野房日秀は、弓箭を持った大勢の百姓共を馬上に指揮して院主の坊に乱入した。紀次郎という百姓は、日秀の書いた高札を立てて熱原の百姓等を集め、滝泉寺分の稲まで刈り取って、日秀が寄宿せる坊内に運んでしまったと訴えたのである。すなわち乱暴狼籍〈ろうぜき〉盗賊の訴えじゃ。

 これでは誣告〈ぶこく〉と知らぬ鎌倉の役所では、罪人どもを召捕らざるをえぬわけであるが、まず下方政所の別当または相当の所司を遣わして下調べをしたらよかろうに、地体、政府の役人共の憎しみのかかってる法華宗であるから、容易に召捕ったのてあろう。紀次郎の下に男という字をつけてあるのは、当時の百姓下人の名につくる法例の慣用語である。下の四郎男・弥四郎男とあるのも同然である。

 またこの末の「単云云」は、御遺文には「率之」となっておる。率之では意味が通ぜぬので、感応寺の日逢の写本で訂正をした。この先になお10数箇所訂正した所があり、一箇所訂正せねば読めぬ所もある。




『同』(全集852頁)

此の条跡形もなき虚誕なり、日秀等は己を損ぜし行者たり、不安堵の上は誰人か日秀等の点札を叙用せしむべけん、将た又尫弱〈おうじゃく〉なる土民の族日秀等に雇い越されんや。もししからば弓箭を帯し悪行を企つるというものは云仰ん。行智云わく、近隣の人々争って弓箭を奪い取り、その身を召し取ると、子細は申さざるや、矯飾〈きょうしょく〉の至り宜しく賢察に足るべし

 これは前の乱暴盗賊の訴えについての弁駁〈べんぱく〉である。その意は、行智等の言い条は全ったく跡形もなき作りごとであると、首〈はじめ〉に要領を述べておいて、それから下はその理由である。

 日秀等はなんらの権威もなき流浪の出家である。住家すら確かに持たぬ哀れの身の上である。その乞食坊主の書いた立札の文句を誰人が信用して手伝いに来ようぞ。柔弱き百姓共が、なんで邑主〈むらおさ〉や役人共に睨まれてる日秀等に雇われようや。その上、弓箭を帯びて乱暴狼籍を働いたの、または弓箭を奪い取って百姓等が身につけたという。一体、その弓箭はどこにあったのか、どういう者どもが、どういうふうに乱暴をしたか、一々に委しき子細を申し上げんのか。こしらえごと、飾りごとも甚しい言い分であるから、御役人の明らかな御目鏡で御察しを願うと抗議せらるるのである。

 大体、この稲刈り乱暴のことは針小棒大の申し立でであるから、巨細には訴えることか、相手方でもできなかったのであろう。

 またこの文の中に「彼雇越〈かれやといこし〉」と御遺文にあるが、読めぬので、例によって彼を被と訂正して「越されん」と訓〈よ〉んでおいた。また「行智云」の前後に脱字があるようである。例の写本にも見えぬで、憚〈はばかり〉り多きことながら「者云」の下に「何」の字を加えて読んでおいた。「其身」と「不申」との間にも一字人れたいものであるが、余り恐れ入るで、そのままに辛抱しておく。

 


『同』 (全集 852頁)

日秀日弁は当寺代々の僧侶として行法の薫修を積み天長地久の御祈祷を致す処に、行智はたちまちに当寺霊地の院主代に補し、寺家三河房頼円並びに少輔〈しょうほ〉房日禅日秀日弁等に、行智より仰せて、法華経に於ては不信用の法なり速やかに法華の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み念仏を申すべきの由を起請文に書かば、これを安堵すべきの旨を下知せしむるの間、頼円は下知に随って起請を書いて安堵せしむといえども、日禅は起請を書かざるによっで所職住房を奪い取るの時、日禅は即ち離散せしめ畢りぬ。日秀日弁は無頼の身たるにより所縁を相憑〈たの〉み寺中に寄宿せしむるの間、此の四箇年の程、日秀等の所職住房を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り、悪行なおもっで飽き足らざるために、法華経の行者の跡を削り謀案を構えて種々の不実を申しつけるの条、あに在世の調達にあらずや。

 これから下は、先方の訴状の抗弁ではない。前文にすでに訴状の文旨を弁破してしまったので、さらに進んで行智等の不法暴虐放埓〈ぼうぎゃくほうらつ〉を指摘して、滝泉寺の乱脈を革正せんとするのであるが、今掲ぐる所の『申状』の文意は、左の通りである。

 日秀・日弁等は滝泉寺に薄縁の者ではない。師匠もそのまた師匠も何代となくこの寺中に住職して、長時に行学の薫修を積んでおる。また国家のためには天長地久を、将軍家のためには武運長久の御祈祷を長いこと一日も休まず勤めて一点の怠慢もない。

 しかるに行智は、身になんらの行学も積まぬ俗人でありながら、たちまちに頭を丸めて法体となり、恐れ多くもこの大霊場の院主の代理を勤めながら、なんの遠慮会釈もなく多年行学の寺家の老僧たる吾々達に、すなわち頼円・日禅・日秀日弁に憚〈はばか〉りもなく命令を下して言うには、法華経は信用するに足らぬ、御手前方の読んでる法華経は今日限り相止めよ、向後は阿弥陀経を読み念仏を申せ、このことにおいてきっと相守らば、この命令に違背致さぬ誓約書を書け、そうしたらこれまての罪は赦して、このまま寺中に差し置くであろう。もし、この旨に従わず、日蓮房の教えによりあくまで法華経を読むというなら、そのままにはすまさぬぞと厳重に達した。

 そこで、頼円は臆病にも謝罪申して起請文を書いて寺中に置いてもらった。日禅・日秀・日弁は決して起請文を書かぬ。天台の宗徒として叡山の末流として、日蓮上人のととく法華読誦をなすことが、なんて根本大師の御意に背こうぞ。その許達の弥陀念仏こそかえって師敵対謗法であると逆撃をした。

 そこで行智は最後の手段として三人の寺家を追い出した。日禅は仕方がなくここを退散したが、日秀・日弁は他に頼る辺のない身であるから、寺中の一部に宿をかりているが、もはや四箇年になる。この四箇年の間、吾等の住職地を奪い取って寺家の大役たる天下の御祈祷を勝手に差止めてるのは、院主代としての乱暴も甚だしいのであるが、まだそれにあき足らず吾等法華の行者の跡を永久に削り捨てようとして、悪者共が談合をして巧くみ謀りて無実の訴えをなし、御上〈おかみ〉を欺〈あざむ〉きて天下公平の御裁判にまで庇〈きず〉をつけようとしたのである。

 法華誹謗の重罪、正法破却の大逆は、釈尊御在世の提婆達多〈だいばだった〉の所行と変わる所はない。無間地獄が口を開けて待っている。なんと恐ろしいことではないか。と、ざっと右様の意味じゃ。

 この下には大分文字や訓点の誤りを訂正した。すなわち左の通り。

 「行法の薫を積むの条天長地久の御祈祷を致す所の行者に補し乍ら、当寺霊地の院主代」と御遺文にある。なんど読み直しても、なんのことだかわかりかねる。これに文字の違いは「条」と「者」で、これは「修」と「智」との誤りである。草書では似てるからであろう。また訓点を替えて左の通りにした。

 「行法の薫修を積み天長地久の御祈祷を致す処に行智は乍に当寺霊地の院主代に補し」。これでやっと読める。

 「独り寺中」とある「独」を「猶」と訂正した。独ではなんのことかわからぬ。

 「所職の住房を奪い取り打ち止め厳重に御祈祷の余り」。これもどう判じても読めぬで、左の通り訓点を替えた。

「所職住房を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り」と読む。



『同』 (全集 853頁)

凡そ行智の所行は、法華三昧の供僧和泉房蓮海をもって法華経を柿紙に作り、彫紺形、堂舎の修治をなす。日弁に御書を給い仰下して構え置く所の上葺傅〈ふきくれ〉一万二千寸の内八千寸を私用せしむ。

下方の政所代に勧めて去る四月御神事の最中に、法華信心の行人たる四郎男を刃傷せしめ、去る八月弥四郎男の頚を切らしめ、日秀等に顛〈くび〉を刎〈はね〉ることを擬して此の中に書き入る。

無智無才の盗人兵部房静印より過料を取り、器量の仁と称して当寺の供僧に補せしむ。
或は寺内の百姓等を催うし鶉〈うづら〉狩・狸殺・狼落の鹿を取りて、別当の坊に於てこれを食い、或は毒物を仏前の池に入れ若千の魚類を殺し、村里に出してこれを売る。見聞の人耳目を驚かさざるはなし。

仏法破滅の期、悲しみても余りあり。此の如きの不善悪行、日々相積むの間、日秀等愁歎の余り、よって上聞〈じょうぶん〉を驚かさんと欲す。

 この下の訂正は左の通りである。

 「給御書」と「下所」の連接がむつかしい。日逢の写本には欠字の印に○が置いである。自分はかりに「仰」の一字を埋めで読んでみた。

また次下の「之上」の「上」の字の意味が明らかでない。ここにもなにかの誤りがあろう。「造博」ではなんのことだかわからぬから、逢本〈ほうほん〉によっで「葺搏」と訂正した。また「搏一万二千寸を造り」と読ませであるのは、多分、博を金薄の意に見誤ったのであろ
うで、「葺搏〈ふきくれ〉一万二干寸の」と訓み替えた。

 「四郎房男」の「房」の一字を削った。在家の者であるから、房の字は不都合である。ことに下に男の字がついでおるから、なおさらである。

 「咀」を「擬」に改めた。「日秀等哄しで頸を刎ぬる事を此の中に書き入れ」では、なんのことだかわからぬ。「哄して頸を刎ぬる」なんてい芸当が居合抜きにでもできるものでない。

 「驚かさざるは算〈な〉し」の「算」をなしと訓〈よ〉む例を知らぬが、どうやら原本に明らかに「ナシ」の仮名までつけであるようで、そのままに疑っでおく。

 凡そ行智の所行はというのは、この下にまた院主代の乱行を集めたもので、その冒頭の語である。

 法華三昧の供僧等というのは、天台宗のことであれば、寺内に法華三昧堂があって、蓮海というが専らこの三昧堂に奉仕しでいた。

 法華経を柿紙に造りというのは、法華経の巻子なり折本なりを散々〈ばらばら〉にして、糊をつけて幾枚も広く厚く粘〈つ〉ぎ合わせで渋紙を作ったのである。経文の不用〈いらむ〉のを襖〈からかみ〉に張るさえ禁ずべきに、これはなんたる無道念乱暴の極りであろうぞ。

 彫紺形というは不明である。紺字かなにか違っではいぬか。

 葺搏等とは、家屋を葺く木端〈こっぱ〉板のことである。長さ一尺巾三寸を常寸としてある。それが一万二千寸ありで、堂舎御用のために、日弁が上の仰せを蒙りで保管していたのを、院主代が勝手に取り出して、自坊の葺き料にした。これも慥かに背任の大罪となるものである。

 下方の政所代等というのは、当時は京都・鎌倉の権勢家の荘園私領が各地方に散在せる所に、政所を置いで刑政二切のことを掌〈つかさど〉らせた。大なる寺院にもまた政所があった。下方庄は北条家一門の私領地である。政所は、伝法〈でんぽう〉村の本村〈もとむら〉にあったろうと思う。ここには専務の別当がいないで、代官がいたとみゆる。いずれ下司のことで、姓名もわからぬが、無論、行智・弥藤次等の一味の者であったらしい。

 四月の御神事等とは、大宮浅間神社の恒例の大祭である。今でも古例に準じて神輿〈みこし〉の渡御〈とぎょ〉がある。流鏑馬〈やぶさめ〉がある。伝法村の三日市場の浅間は、なかなかの古社で、大宮浅間が焼けた時に仮殿になったこともあると聞くが、あるいはこの御神事というのが、この三日市場で行なわれたかもしれぬ。

 弘安2年5月4日の「窪の尼御前御返事」に、     (全集1481頁)

 「其の上、宮の造営にて候なり」

とあり、同5月11日の「西山殿御返事」に、       (全集1478頁)

「当時は勧農と申し、大宮造〈おおみやつくり〉と申し、旁民〈かたがた〉の暇なし」

とあるのでも、その1月前の4月であるから、伝法で行なわれたかもしれぬ。


 熱原から大宮へは2里程あるが、三日市場までは半里に過ぎぬで、熱原の人達の郡集にも便利かある。その御神事の雑沓の中に喧嘩に事よせてか、四郎が傷つけられた。誰が切ったともわからぬ。

 去る8月弥四郎男の頭を切らしむというのは、場所や動機もわかってない。誰が切ったもしれぬ。いずれこの二人は、熱原か市庭寺かの百姓であって、日秀・日弁の弟子であったところから、行智や弥藤次入道のために槍玉にあげられたのである。「弟子分帳」には載っていぬ。この弥四郎は、戒壇本尊の弥四郎ではあるまい。貴重な人命を損じても政所が承知して内々にやらせたので、表面には何人が討つたかわかったようでわからぬ。神四郎等のように殉難の壮烈を喧伝唱導せられぬのは、大いに気の毒の至りである。これも殉難者として、神四郎等とともに廟食追弔〈びょうしょくついちょう〉せらるべきであることを真俗に進言せにゃならぬ。

 日秀等に頚を刎ぬる事を擬して等というのは、行智等は一途に熱原の法華衆を憎みて、いかなる手段を取っても威嚇しようとした。けれども、なるべく自分等が悪人になりたくない。一味の悪徒に暗殺を申しつけておきながら、証拠不十分なのを頼みにして、かえってその罪を秀師等に塗り着けようとして、訴状の文句に巧〈たく〉んだ。なんたる悪漢〈わるもの〉であろうぞ。

 無智無才の盗人兵部房というのは、無智無才の羊僧の上に、なにか旧悪があるから若干の罰金を取って、これを赦した。配下僧侶から過料を取ってその罪を赦るすのすら乱暴じゃが、かえってこれを有徳の材として供僧に抜擢したなどは言語道断の至りである。

 或は寺内の百姓を催うし等というのは、さすが殺伐な鎌倉時代である田舎寺である。僧侶が釆配を取りて、寺内の百姓男をかり集めて山野の猟をやった。その獲物たる鳥獣の肉を肴に、行智の坊で、村嬢野酒放歌牛飲で歓楽を極めたであろう。

 或は毒物を入れ等というのは、仏前の池は放生池である。生物愛護のために万民わざとこの池に生魚を放ちに来る。殺生禁断であるから魚類の楽天地である。三尺の鯉も二尺の鯰もいるわけである。それに石灰なんどの毒物を入れて、全部を捕漁して村里に売り出して、酒肴の料ともする。驚ろきあきれたことである。

 これらのことが『実相寺の申状』にも見ゆる。文永5年頃の岩本実相寺の乱脈は熱原と同一で、時の院主が先に立って乱行の限りをつくした。開山上人が岩本を捨てられなかったのは、一つはこれが革正の御責任を感じておられだからである。これらは、今も昔も山寺の悪僧に共通のこととみゆる。

 見聞の人等というのは、悪僧のある所必ず悪人多しというわけではない。いかにに信仰は行智方と同じく弥陀念仏でも、彼等の放埓無慚〈ほうらつむざん〉を喜ぶ者はその一味となりて、物質上の利益を受けたる者の外にはない。この少しの悪憎悪侶の外の多数の百姓どもは、悉くその乱暴に魂消〈たまげ〉てしもうたのである。秀師等は、滝泉寺の仏法もこの行智のために破滅の時が来たと、悲嘆の余りにこの『申状』を捧げて、御上の御聞きに達せんとて巨細〈こさい〉に陳弁に及んだものである。寺中の住職権を剥奪せられたからとて、それを苦にするものでない。彼等の処分は不当である。間違ってる。どこまでも自分等は滝泉寺の住僧である。滝泉寺の仏法の興廃〈こうはい〉は自分等の雙肩〈そうけん〉にかかるものであるとの熱誠より出でたる、この陳弁である。



『同』 (全集853頁)

行智条々の自科を塞〈ふさ〉かんがために種々の秘計を廻らし、近隣の輩〈ともがら〉を相語らい遮〈さえぎ〉って跡形もなき不実を申し付け、日秀等を損亡せしめんと擬〈ぎ〉するの条、言語道断の次第なり。冥につけ顕につけ、争〈いかで〉か戒めの御沙汰なからんや。所詮、仏法の権実、沙汰の真偽淵底〈えんでい〉を窮〈きわ〉めて御尋ねあり。且〈かつ〉は誠諦〈じょうたい〉の金言に任せ、且は式条の明文に准じ、禁追〈きんあつ〉を加えられば、守護の善神変を消し擁護〈ようご〉の諸天咲〈えみ〉を含まん。

 この下にても、また左の通り訂正する。

「逓〈てい〉」は「遮」の誤りである。「遞に」では意味がわからぬ。「遮〈さえぎ〉りて」でなくてはならぬ。無理にも強いても押しのけても押えても、という意である。

 「頭につけ頸につけ」では、なんのことかわがらぬ。頭と頸に何物をつくるであろう。これは「冥につけ顕につけ」の誤りである。次に解説するが、日逢の写本で訂正したのである。

 「淵底を空めて」ではわからぬ。「空」は「究」の字の誤りであろう。すなわち「窮めて」でなくてはならぬ。これは自分の訂正である。要するに已上の四字は草書では非常に似た字で、見誤り写し損りするものである。

 条々の自科、種々の秘計、近隣の輩を相語らい等というのは、前にすでに委しく解いたから省くことにする。

 冥につけ顕につけ等というのは、冥というは、人目のない冥〈く〉らき所ですることで、この御沙汰は神仏の御役目である。顕というは、人の見聞する表面向のことで、この沙汰は政府の御役目である。形に顕れぬ信仰や道徳について、悪いことをしたのは仏神が戒めて冥罰を下さる。弥陀念仏に執着して法華経の如来の金言を謗る者には、大なる無間地獄の罪が設けてある。または少々の現在の罪禍不幸も知らぬ間に襲うて来る。刃傷〈にんじょう〉殺害不法処分放埓〈ほうらつ〉乱暴は、顕われた世間の罪悪であるから、それぞれの政府の御役人の裁断〈さばき〉で顕罰が下る。

 顕罰にせよ、冥罰にせよ、行智等は免れぬところである。奉行頭人を言い哺〈く〉るめて当座の罪科〈つみとが〉を脱れても、未来の悪道は大きな口を開けて待つているのである。

 所詮仏法の権実ないし「淵底を窮めて御尋ねあり」というのは、初めの法義の弁疏の末文にある「此れ等の子細御不審を相胎〈のこ〉さば高僧等を召され、是非を決せられるべきか。仏法の優劣の糾明を致すことは、月氏、漢土・日本の先例なり。

今、明時に当ってなんぞ三国の旧規に背かん」とあるのに相応するのである。

 通り一遍ではいかぬ、淵底すなわち青み切った水の底のような奥底までも窮めつくして御尋ねなさるがよい。それでなお御合点が参らずば、物識りの高僧達を呼び寄せて、それらに聴かせて御覧なさるがよいと突き込んである。

 且は誠諦の金言に任せというのは、『法華経如来寿量品』にある「如来誠諦之語」という文句を取って、別して仏の法華経の御文は誠諦の金言であるから、諸経諸宗を裁断する権能を持っているというのである。

 且は式条明文に准じ等とは、『貞永式目』等の当時の法律の明文の上で、非法悪行の禁断をなされたいと願うのである。

 守護の善神変を消し等とは、世法仏法の両面の明鏡で悪行謗法を禁断せられたことならば、天変地夭までも消滅して、諸天善神は法悦の咲を含んで、国土を幸福に御護りくださるであろうといわれた。



『同』 (全集852頁)

然れば則ち不善悪行の院主代・行智を改易せられば、将だ又、本主此の重料を脱れ難からん。何ぞ実相寺に例如廿ん。誤らざるの道理に任せて、目秀・日弁等安堵の御成敗を蒙りて堂舎を修せしめ、天長地久御祈?の忠勤を抽でんと欲す。仍て状を勒して披陳言上件の如し。
弘安二年十月   沙門日秀日弁等上つる

 然れば即ち等というは、上件のこととと皆院主代の罪である行智を免職すれば大凶の本は断滅して、事件の解決はつくことであるけれども、本主某もその責を免るることはできまい。この無名の本院主は、たとえ他の遠隔の地にありとも、また本院に病臥したりとしても、これらのことは全く自分の知ったことでない、皆院上代の勝手だとすましてはいられまいというのである。この文によってみると、院主別当は慥〈たしか〉にあったものとみゆる。

 何ぞ実相寺に例如せん等というのは、かつて岩本実相寺が外道非外道論より山内二派に分れたるを、実相寺院主は外道論の主人としで、興師・持師・源師等の日蓮聖人の御弟子となれる人々を、山内より追い出したことをいうのであろう。

 これには単に仏法論の上から新義を唱えし者を追い出しただけで、世法の裁断(さばき〉にかかる者でない。世法の上では実相寺主に罪はない。滝泉寺院主代の世法重々の罪悪ある者とは、例にならぬといわるるのであろう。

 この文によりても、実相寺の法難と滝泉寺の法難とは、よほど形態を異にするばかりでない。謗徒等の連絡も強く深きものではなかろうかとみるを穏当とすることに注意すべきである。

 ただし、興師の上からは両地に主将であるから関係も大ありであろうが、熱原の秀師・弁師が岩本事件に関係したり、また対手の行智や弥藤次が岩本に関係したとは何にもみえぬ。まして、実相寺院主党が熱原事件に関係したことも見えぬのである。

 しかし、その土地が一里と距〈さ〉らぬ目睫〈もくしょう〉の間にあり、いずれも興師の支配であることが事件を共同視する原因をなしたものであろう。

 安堵の御成敗を蒙り等というのは、対手〈あいて〉の行智を免職して、日秀・日弁は寺中に復職安堵する御成敗を仰ぎ奉るのである。しかる上は、有徳の院主を迎えて、破損の堂塔に修理を加え、御霊域を清浄に荘厳に結界し、天長地久武将安寧の御祈祷を励みたいものであると、熱忠丹誠〈ねっちゅうたんせい〉をこめての『申状』である。

 ただし、この『申状』は、20人赦免、日秀・日弁の復職、滝泉寺の改革等の当面の役をなさずにまことに残念千万であったけれども、この中に横溢する大精神は万古不滅にして、未来の宗徒によって随処に発揮せられたことである。



『甲州成島・滝泉寺文書』断篇    

駿河の国滝泉寺と申は、上古は浄行の住処なり。

今、此別当ならせ。

 この2行27字の断篇は、滝泉寺の什宝〈じゅうほう〉で、その前後の文および宛名・年月等は写木すら残ってない。筆法は宗祖のようであるが、用紙が何とも申しかぬるも、彼方〈あちら〉では御正筆とし、ことに民部日向への賜りとしておる。この不明の文書や偽筆〈ぎひつ〉の日向本尊〈前に出つ感応寺〉をもってその滝泉寺の住持たりしことの証拠にするのはあまりに薄弱の至りである。

 本条の初めにも言った通り、法難已後の滝泉寺は今のところでは明瞭でないというが隠当である。日向が日寿に伝え、日寿が日恵に伝えて元弘元年7月に大地震で破壊して150年中絶したというのは、はるか後世の偽伝である。二世の日寿は『日応〈にちおう〉記』の日典〈にってん〉の改名で、日恵〈にちえ〉は日向の弟子だというは、偽りを重ねたのではなかろうか。

 また、餓鬼道山〈がきどうやま〉にある日勤〈にちごん〉の碑も大見当で場所がよいから立ったまでで、その地が滝泉寺の何坊の所かは明らかにせらるべきでない。

 この文書も、御正筆でないと断言するにも当たらぬが、御正筆であって日向への賜りであるというは大早計である。

 またもし実相寺のように、法難後にこれらが本宗に転じたならば、日秀上人が別当とならるべきである。秀師・弁師が謙下〈けんげ〉せらるれば、興師を院主に仰ぐべきである。また、秀師が師範たる興師の御監督の下に主職せらるることは、当時の富士の事情の上でしかるべきことだと思わるる。これらは仮説の議論のみであるが、日向別当の付会より余程気が利いておる

 また、この御文に、「滝泉寺と申すは上古は浄行の住処なり」とあるを、『涌出品』の「三名浄行」と解釈した誤りが、ついに三名浄行菩薩を祭る所なんだと彼等の諸文に考えもなく書き散らすは、彼等が別勧請〈べつかんじょう〉好みで、どこえでも何か衣体のわからぬ古神仏を勧請〈かんじょう〉して御賃銭〈おさいせん〉を集める手段の悪習であるが、妙見のごとき、稲荷のごとき、七面山のごときなにも依処〈よりどころ〉のなきものを勧請するなら勝手じゃが、かりにも宗祖の御書を引きて真実らしく宣伝するなら、御文の解釈だけでも一往は正当にすべきである。

 しかれば、「上古」という文字を何とみる。「住処」という文字を何とみる。久遠五百塵点劫の無始の時を上古というものが、どこにあるか。祭った勧請したことを誰が住処といったものがあるか。法華経の四大菩薩の勧請なり、末法出現なりを宗祖已前に唱えた人がどこにあるか。上首の上行菩薩を外にして、第3の浄行を別に祭るということがあるものか。大概にするがよい。

 また、住処ということを真面目に考え、浄行ということを三名浄行としたらどうなる。日本の富士郡は、五百塵点劫無始時代の仏都であることになる。所謂、富士文庫の富士神都論〈ふじしんとろん〉と似通いて、某宗学者の好む議論が発生することになる。四大菩薩の中の第3浄行が熱原の住人だとすれば、第1の上行菩薩は上野の住人か。大石寺はその趾てある。説法石は金輪際〈こんりんざい〉に貫ぬく不動の磐石といったら法悦の涙止めあえぬ人もてきるてあろう。岩本は、第4無辺行菩薩の住処であるか。ああ、途方もない憶説はよそう。

 ただし、強いてこの御文を御正筆として解釈するならば、滝泉寺の始めの奈良朝か平安朝時代に、浄行と称する有名な高憎が住んていたとみるを妥当となすべきてはあるまいか。

 とかく、古人のためにせし誤りをそのまま丸呑みにして、新しき多少の智識あるものまてが考察もせず、批判も加えざるのは驚き入るの外はない。


『伯耆殿御返事』(全集1456頁)  

大体此の趣〈おもむき〉を以て書き上ぐべきか。但し熱原の百姓等を安堵せしめば、日秀等は別に問注有るべからざるか。大進房・弥藤次入道等の狼籍の事に至りては源〈みなもと〉と行智の勧〈すす〉めに依り殺害刃傷する所なり。若し又起請文に及ぶべき事之を申さば、くく書くべからず。その故は人に殺害刃傷せらるる上に重ねて起請文を書きて失を守る者は、古今未曽有の沙汰なり。其の上行智の所行書かしむる如くんば身を容るる処なく、之を罪に行うに方〈から〉ぶるもの無かるべきか。穴賢穴賢。此の旨を存じて問注の時、強々〈つよづよ〉と之を申さば、定めて上聞に及ぶべきか。又、行智証人を立て申さば、彼等の人々行智と同意して百姓等の田畠数十刈り取るの由之を申せ。若し又、証文を出さば謀書〈ぼうしょ〉の由之を申せ。事々証人の起請文を用ゆべからず。但し、現証の殺害刃傷のみ。若し其の義に背かば日蓮が門家にあらず、日蓮が門家にあらず。恐々謹言。

弘安二年十月十二日               日 蓮 御判

伯耆殿  日秀日弁等、下さる

 この御書については、文々句記の解説を略して、大意だけにしておく。初めに「大体此の趣きを以て」等というのは、現存の文書より推せば『滝泉寺申状』であるが、この『申状』のなる前に大略〈ざっと〉した目安の案文を与えられたかもしれぬ。

 熱原の百姓等の滝泉寺方の者と法華宗方の者との喧嘩の裁判が公平にできたならば、そこにすぐに落着き安堵があるので、日秀等の僧分にはなんらの沙汰があるべきでない。大進房や弥藤次入道等が、熱原の農民等を駈り集めて法華の信者を殺害刃傷したのは、院主代行智の煽動〈おだて〉である。理不尽に殺害せられた上に謝罪的の起請文まで書けというなら、一切書いてはならぬ。そのような間違った馬鹿げたこと、古往今来あるべきものじゃない。それどころか、行智がした乱暴な様様な所行を書き上げたなら、行智は面目なしで、穴に入らねばなるまい。法律に当てはめ所もないほどの大罪である。必ずきっとこの意向〈こころもち〉で問注所でも強義〈ごうぎ〉に突張るがよい。そうすれば自然に御上の御耳に入るであろう。彼等が証人を出したらかくかくに、証文を出したらかくかくに、決して証人に相手になるな。起請文を用ゆるな。ただし、現在の喧嘩について相互〈おたがい〉の損害だけはつつみ隠さず相当の御裁判に従えよ。已上の注意を等閑〈なおざり〉にするようならば、予が弟子でないぞ。と、この事件で鎌倉に出られた興師・秀師・弁師等を励まされたのである。

 


 
『聖人等待返事』(全集1455頁)


今月十五日酉刻の御文同く十七日酉刻に到来す。彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱え奉る。偏に只事に非ず。
定めて平の金吾の身に十羅刹の入り易わり法華経の行者を試みが。例せば雪山童子戸毘〈しび〉王等の如し。将〈は〉た又、悪鬼其の身に入る者か。釈迦多宝十方の諸仏梵帝等の五五百歳の法華経の行者を守護すべきの御誓は是なり。『大論』に云わく、能く毒を変じて薬となすと。天台云わく、毒を変じて薬となすと云云。妙の字虚〈むなし〉からずんば須臾〈しゅゆ〉に賞罰有らんか。伯耆房等深く此の旨を存じて問注を遂ぐべし。平の金吾に申すべきようは、文永の御勘気の時聖人の仰せを忘れ給うか。其の快〈わざわい〉未だ畢らず。重ねで十羅刹の罰を招き取るかと、最後に申しつけよ。恐々謹言。


 弘安二年十月十七日戌時         日 蓮 御判


 聖人等御返事

此の事宣〈の〉ぶるならば、此の方には咎〈とが〉なしと皆人申すべし。又、大進房が落馬顕るべし。顕れば人々殊〈こと〉に怖づべし、天の御計いなり。各々も怖づることなかれ。強〈つよ〉りもて行かば定めて子細できぬと覚ゆるなり。今度の使には淡路房をすべし。


 この御書と前のとは、興師の御親写が重須本門寺に現存してある。またこの御文の前後に興師の付記がある。それは御封書に「下伯耆房日蓮」とある。「下」の字について異数の感激をなされたことであるが、今の要でないから省略する。

 今月十五日等というのは、十五日の夕刻より早馬を飛ばして御門下が鎌倉を立って、十七日の夕刻に大聖人の御許に到着したのである。


 彼等御勘気を等というのは、十月十五日に平左衛門尉頼綱の役屋敷に散々の訊問があった。要〈つまり〉は法華をやめて念仏申せとのことであるに、神四郎等はかえって声張り上げて御題目を唱えたので、ついには斬罪にも処すべく牢に入れた。御勘気とは、この時の御処分のことであるのに、この御勘気を熱原召取りの時に繰り上げ、または斬罪射殺の時のように暴判するものがある。これは畢竟この文及び
 『弟子分帳』〈次下に引用す〉を精読せざるよりの誤りである。

 偏に只事に非ず等というのは、一は平左衛門を善権者〈ぜんごんしゃ〉に見立て給えるので、すなわち法華守護の十羅刹女が頼綱の身に入り易わりて、神四郎等にはたして強義の鉄石心の信仰ありや否やを試〈た〉めさんがために、念仏を申せば無罪放免にして家に帰してやるぞ、申さずば命はないぞと威嚇した。それは雪山童子の求道心の強弱を試めす悪鬼のごとく、戸毘王〈しば〉の施心の大小を試めす鷹のごときものであるとの例をあげられた。

 また一つは、頼綱を実悪者に見立て給いて、一通りの訊問で足らずに、蟇目〈ひきめ〉などを散々に射させて無法な問注ぶりは、悪鬼の憑いて狂える狂悪の判官ではあるまいかといわれた。

 釈迦多宝十方等というのは、末法の法華経の行者をば仏・菩薩・梵天帝釈等が守護すべきである。法華の妙の力は毒を変じて薬とするの不思議を持ってる。この二つの力用〈はたらき〉はわけもなく法華の教権か暴虐の政権に圧伏せらるるようなことはあるまいとの御意である。はたして裁判には負けたが、勝たせた平左衛門は間もなく族誅せられ、その主人公の北条家も跡形もなく亡び、将軍家も疾くに権威を失した。まして行智等は寺とともに消えてしもうた。負けた神四郎の方は永久にその壮烈を護法の魂と仰がるるので、賞罰明らかなるものである。

 これは事後の成り行きであるが、かくなるべき道理を心中に深く考えて、法庭に立って弁論すべく、興師等に言い含めらるるのである。

 平の金吾に申すべきようは等というのは、金吾〈きんご〉は、左衛門尉〈さえもんのじょう〉という官称の支那名であって延尉〈ていい〉等の類である。

 「文永の御勘気の時の聖人の仰」とは、『種々振舞抄』〈全集911頁〉の 

「百日一年三年七年が内に此の御一門同士討ち始まるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より殊には西方より攻められさせ給うべし。其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申しつけしかども」

とあることが、それである。文永の大聖人の仰せを、早や忘れたか。自界叛逆・他国侵逼の災難もまだ畢らぬではないが。その上に頼綱が身には法華守護の十羅刹が法罰を当つるであろうぞと、事件の最後の法延できっと申し渡せよ、と仰せ遣わされたのである。

『聖人等御返事』というのは、興師等を聖人といわれたので、開山上人の感激せられた一文である。

 此の事宣ぶるならば等というのは、この追書は、前に引ける『伯耆殿御返事』につくべきものであるように思う。「此の事宣ぶる」等は、『申状』について陳弁する院主代等の罪科の条々であらねばならぬ。これによって当方の無罪が顕われて院主代側の有罪、ことに反忠の大進房が何によりて落馬したかも顕わるるであろう。これが顕らかに一般に知られたら法罰を恐ろしく思うであろう。これらのことが前の御書の追書とするがよいようである。原本を見ねば確実なことは言えぬが、写本で見ても少しは錯綜〈さくそう〉した形であるから、なおさらこの思いを深くする。

 各々には怖づる事なかれというのは、この反対の意で、十羅刹の加護が十分にあるからである。
 強りもて行かば等というのは、奉行頭人等を恐れず、なにごとについても自信を強うして、この方がら強圧的に仕掛〈しか〉くるが、役人達に反省顧慮〈こりょ〉を与えで事件を公平に裁判〈さば〉く原因となるのである。

 御遺文には「内よりもてゆかば」とある。写本には「つよりもてゆがば」とある。「内より」では到底意味をなさぬから、写本によりて「強り」と直してみた。

また、初めの「咎なしと」は、御遺文にも写本も「とがなりと」となっておるが、これでは意味がとれぬ。勿体ないことでも、しばらく直しておく。

 今度の使には淡路房を為べしというは、この次に鎌倉より急使を立つるなら、淡路房がよいぞというのである。これは興師の弟子分ではないが、岩本出の人で、日賢というて、『墓番帳』の二月の下に興師の弟子の波木井越前公とともにある淡路公であろう。


『弟子分帳』(僧弟子の下)


富士下方市庭寺〈いちばでら〉下野公日秀は、日興の弟子なり。よって与へ申す所、件の如し。

駿河の国富士上方河合少輔〈かわいしょうほ〉公日禅は、日興第一の弟子なり。よって与へ申す所、件の如し。


『 同 』


富士下方市庭寺越後〈えちご〉房は、日興の弟子なり。よって与え申す所、件の如し。但し、弘安年中、白蓮に背き了んぬ。

 ここに『弟子分帳〈でしぶんちょう〉』というのは、重須本門寺に現存する日興上人の御正筆で、委しくは内題に、

 「白蓮弟子分に与へ申す御筆御本尊目録の事。永仁六年戊戌〈つちのえいぬ〉」

とある通り、宗祖大聖御筆の御本尊を、興師が、御自分の御弟子方に御授与になったその記録である。

 もっとも、御在世より永仁六年までのことを記せられて、第一直授の弟子分より第二転授の弟子分までも明記してある。また、信仰の変遷や変死・殉死のことまでも記してある。じつに宗門として珍重の史料である。

 開山上人の御漫荼羅授与について謹厳丁重〈きんげんていちょう〉をつくされたことは、『門徒存知事』の記事でもわかるが、この記録を拝見して一層ありがたく、他の老僧方には匹類〈たぐい〉なかりしことと思う。

 これには初めに出家の僧弟子・俗の入道弟子を挙げて、次に俗弟子分を、次に女人弟子分を、次に在家弟子分を挙げてあるが、惣計は66名を列ねてある。

 これは、開山上人の僧俗の御弟子の総数ではない、十が一にも過ぎなかろう。

ただ、宗祖へ御本尊をお願いくだされた深信の人達ばかりである。それも開山上人の御半生に足らぬ僅かの時代のことである。

 下方というのは、すでに前に言った富士郡の東南部である。

 市庭寺というのは、熱原辺の地名であろう。あるいは滝泉寺の地が熱原の市庭という。すなわち、現今の厚原の北方なる久沢入山瀬〈くさわいりやませ〉辺にありしより、滝泉寺を市庭の寺ともいいしのが、法難後に滝泉寺がつぶれて、その辺の所に市庭寺と地名が残ったのではなかろうか。

 『弟子分帳』にも、市庭寺と熱原とを別々の地にしてある。道師の『三師伝』にも「日秀・日弁は市庭滝泉寺を擯出〈ひんずい〉せられ」とある。久沢の一乗寺の『明細志』にも「正安元年二月、宗祖日蓮大士法孫〈ほうそん〉僧日秀創立し、久沢山市庭〈くさわさんいひば〉寺と号す」とありて、市庭寺の名を用いておる。

 市庭〈いちば〉という地名の起りは、上古物々交換時代の市場の跡にて、富士郡にも各所に「いちば」の名が残っておる。厚原付近の三日市場・加島の本市場等であるが、久沢入山瀬辺にこの名は残ってないようである。

 下野公日秀というのは、滝泉寺僧中の首座であろうが、他門の伝には、多く弁師を首座のようにしてある。五人の学頭だなんて万八を飛ばす人達のことじゃがら、信用はできぬ。弁師が、事件後すぐに下総に行って、後は日然に師の興師とは疎遠になられて、がえって他門との交通が深がったので、他門には秀師より弁師の名が知られてる辺もあり、下総方面に立派な寺蹟が残ってる辺からでもある

 下野〈しもつけ〉公といって日秀の名が明らかにない事跡には、弁師の肉弟と称する下野公日忍と間違えらるることもある。日秀といっても下野公となき寺跡には茂原〈もはら〉の丹波公日秀と間違うこともある。原始時代に、日号の同一・交名の同一で混雑する史伝がたくさんあるようである。

 秀師の下野公の交名〈きょうみょう〉は、すぐに房号にも用いてあるは通途のことである。天台宗時代の本名はわからぬ。事件後は一時下総に下られしが、間もなく興師の許にかえりて、身延離山の御供をして、今の本山の理境坊を建てられた。晩年には小泉に閑居せられたという本山の古伝であるが、今の本門宗の本山久遠寺の地がそれであるという説もある。正安元年に市庭寺を起したというは、一乗寺の伝である。天正年間、仙陽院日要〈せんよういんにちよう〉が実〈もこと〉の開基で、秀師は勧請開山のようにもいってあるが、全く秀師が市庭寺を立てて元徳元年8月10日の遷化後に廃絶したものを、他門で復興したものであろう。

 また、秀師の生国・俗姓は少しも記いたものがない。建治2年、滝泉寺擯出〈ひんずい〉の時に、すでに俗縁は滅亡していたのではなかろうか。

 上方河合日禅等というのは、上方〈かみかた〉とは大宮以北の地で、河合は現今の本門宗の本山西山本門寺の南方で妙興寺のある所、興師の外戚・由比家の住所である。芝川が富士川に合せんとする付近である。

 精師は、俗姓川村で、甲州西郡在所の地名と言われてあるけれども、いかがのものにや。河合の人で、由比家の一族であるということが穏当であろう。

 建治2年に滝泉寺擯出の時もすぐに寺を出でて、河合の俗家にこられたのではなかろうか。本山の南之坊を建てられたが、その後住は大輔〈たいふ〉阿闍梨日善すなわち興師の甥で、由比家の日代の兄である。大石寺の付近に東光寺を建てられたのは、河合の蓮光〈興師の外祖父〉の墓を遷〈うつ〉したためであるといってある。元徳2年3月12日の御遷化である。

 越後房というのは、弁師のことである。日弁と明記してなくとも、御在世に外に越後房という人もなし。また市庭寺には無論のことである。「弘安年中、白蓮に背き了ぬ」とあるがら弁師の外にはない。滝泉寺に踏み留まって最後まで奮闘して秀師と共に法難に遇われた勇将である。

 下総に下られてから峯の妙興寺を起て、上総に弘教して鷲巣〈わしのす〉の鷲山寺〈じゅせんじ〉を建てられた。「弘安中、白蓮に背く」といわれたのは、この間に関東方の法義に与同されたのではなかろうか。

 また、日法・天目と通用せられたは事実であり、「武蔵の国の住、泉出〈いずみ〉房は越後房の弟子なり。よって日興之を与え申す。越後房逆罪の時、同時に背き了ぬ」と、『弟子分帳』にある。この泉出というは、和泉〈いずみ〉の通用であって、和泉公日法上人ではなかろうか。そうすれば、法師が熱原布教に関係のある古伝説は、幾分かよりどころあることとなる。

 弘安6年正月の『墓番帳』には、越後公の名も和泉公の名もあるから、大聖人御病気の折に一時お詫ができたものとみるべきで、この墓輪番18老僧の中に、「越前公波木井 越後公日弁 下野公日秀 蓮華阿闍梨日持 和泉公日法 治部公日位 白蓮阿闍梨日興 卿公目日 寂日房日華 の9人の弟子・孫弟子があり、淡路公日賢の法縁がある。すなわち過半数の味方を持ち給える興師の勢力がうかがわれる。

 弁師の俗姓は自門では不明であるが、他門では熱原甚四郎国重の長男で、富木殿の妙常日妙はその姉で、下野公日忍はその弟、日頂・日澄・乙御前はその甥・姪、天目もまた甥であるようにいうてある。果してしからば、甚四郎国重はよほどの老年とみゆる。その兄の弥藤次は推して知るべしじゃ。ことに姓は源氏で熱原が氏であるにおいては、『弟子分帳』の熱原郷の住人在家百姓といわれたのにも、宗祖の「熱原の者共」、または「熱原の愚癈の者共」といわれたのに大変に相違するのである。

 弁師は宗義について、師の興師には違われたが、折伏弘化の精神〈こころ〉は老後までも変わらぬとみえ、応長元年の6月26日に奥州の伊具〈いぐ〉郡の桜村に73の老体で折伏の陣を張られた時に、謗法者のために殺害せられたということで、実に惜しい人であった。


『 同 』在家人 弟子分

富士下方熱原郷の住人、神四郎兄

富士下方同郷の住人、弥五郎弟

富士下方熱原郷の住人、弥六郎


この三人は越後房・下野房の弟子二十人の内なり。弘安元年信じ始め奉る処に、舎兄〈しゃけい〉弥藤次入道の訴へに依って鎌倉に召し上げられ、終に頚を切られ畢んぬ。平の左衛門人道の沙汰なり。子息飯沼判官十歳蟇目〈ひきめ〉を以て散々に射て、念仏申すべきの旨再三之を責むるといえども、二十人更に以て之を申さざるの間、張本三人を召し禁〈いまし〉めて斬罪せしむる所なり。枝葉十七人に禁獄せしむといえども、終に放ち畢んぬ。その後、十四年を経て平の入道・判官父子、謀叛を発〈おこ〉し誅〈ちゅう〉せられ畢んぬ。父子是れ
ただ事にあらず。法華の現罰を蒙れり。

 この在家人弟子分の下に、神四郎を始めとして百姓、もしくば下人共を列〈なら〉べてある。神四郎を士分とするの伝者は、必ず参照してその誤解を翻えすべきである。

 神四郎兄弥五郎弟の御文は、少しも異議すべきところがないが、第3人目は、正本には熱原と郎との中五字ほどが欠損しておる。重須日優の寛文の写本には、これを「郷住人弥次」の五字で埋めてある。しかるに、この弥次郎は神四郎の兄弟なりや他人なりやというに、後の御文によれば、この三人は兄弟のようである。

 さすれば、次郎なれば四郎の兄なるべきに、正本にも写本にも神四郎の下に兄と小書きし、弥五郎の下に弟と入れてある例に準ずると、弥次郎の下には兄とも弟とも小書きがない。もっとも兄に弥藤次があれば、弥次郎があるべきではなかろう。他人ならば知らず、兄弟としたならば、弥五郎の次に列ねてあるから、弥六郎か弥七郎であるべきを、優師が誤写したのではなかろうか。この推定をもって、わざと弥六郎と標しておいた。これは、ひとえに博雅〈はくが〉の叱正〈しっせい〉を待たんがためである。

 神四郎が法難の頭であることは何の異説もないが、甚四郎と書いてあるのがある。『仏祖統紀〈ぶっそとうき〉』には、「日住禅門は、日弁・日忍両師の父。熱原氏。甚四郎国重なり」とあり。また、弘安4年に賀島の常諦寺を建つることを記して法難に遇える仁なることは記してない。

 『年譜攷異〈ねんぶこうい〉』には、「熱原甚四郎国重は駿州富士郡賀島の人なり。高橋某に仕う。弁公・忍公の父なり。夫妻嘗〈かつ〉て戒を大士〈だいし〉に受く。郡の宗化に浴する者これを魁〈さきがけ〉とする。夫は法名妙諦、妻は妙常と大士これを命づく。弘安中に夫は法のために獄に下る。大士書を与えてこれを慰む。後に斬に処せらる」とある。これでは法難の神四郎とみゆるも、賀島の人ということも、高橋家の家人ということも、富士信者の始めということも全く誤伝である。また、妙常・妙諦の法号は、高橋家のと取り違えたものである。

 しかし、2書ともに甚四郎国重ということは一致するが、これらの出どころはいずれにありや。あるいは熱原本照寺の伝なるやも計られぬ。本照寺の明暦元年の『旧記』には、「熱原神四郎国重、法名・法喜日住禅門、当村の郷士なり。時の名は熱原弥大郎。宗祖の教化を受けて帰伏の後、神四郎と名く」とあるのを取れるのかとも思わる。しかし、200年後の記録なれば、信を置かず。法喜日住禅門の法号も疑わしいのである。まして過去帳には建治2年丙子4月8日とあり、当村の郷士とあるも、ますます疑わしきことである。今一つ疑いを強うすれば、明暦の記は『統紀』や『攷異』等によりて後世にこしらえたものがもしれぬ。とにかく、本書を一見せねば決定ができぬ。それに弥太郎が神四郎と改名したとはなんのことぞ。弥太郎なら弥藤次の兄であろうに、どうしたものであろう。

 要するに、これらの諸伝説みなたしかなる文献によらずして、はるかの後世の誂伝〈かでん〉とすべきもので、全く開山上人の御記によりて、急々誤りを改行べきものである。

 また、この三人の斬罪者を、『年譜』また且『家中抄』には、熱原神四郎・田中四郎・広野弥大郎としてあるのは、この『弟子分帳』に相違するが、いずれによりどころを置かれしや、精師の各書には明らかに示してないけれども、相当の根拠があったものであろう。

 しかるに本照寺の記には、「不惜身命の行者三人あり。所謂、熱巨_四郎・田中次郎・広野弥大郎、右三人法のために鎌倉において死罪に行なわれける」とある。これは、同寺の日誠〈にちじょう〉の明暦元年の記で、精師の『年譜』とは前後不明なれども『家中抄』よりらしい。『家中抄〈けちゅうしょう〉』の下〈げ〉は不明で、中〈ちゅう〉は明暦三年、上〈じょう〉は寛文〈かんぶん〉二年であれば、いずれが互いによりどころとなったがわがらぬ。

 あるいは、両記互いに関係なくして、よるところの伝説が一致していたのがもしれぬ。田中次郎とも書き、田中四郎とも、次と四とが違ってるところはそうらしくもみえるが、要は古伝説の中には漫〈にだり〉に信ぜられぬものもある。いわんや御開山の御弟子で、徳治の追善には列席せられたりと思わるる日道上人の『三師伝』には、全員は24人、斬首は2人とある。富士門のことをよく知るべき日教の『穆作〈むかさ〉抄』には全員23人、うち女人1人、斬首は2人とある。わずがに5、60年の後の伝にすら、20を24、3を2と誤りてある。20年後の日教の記にかえって誤りの数が少ないを異とするくらいである。

 ともかく、時の大当事者開山上人の御自筆の記には全然誤りなきものと信じてこれを第一の史料とし、これに相違するの伝説は日ら第二に置くはやむをえぬ当然のことであると信ずる。

 此三人は乃至廿人の内なりというのは、神四郎等三人の外何人なるやは文書も伝説もない。『弟子分帳』には、下野房の弟子として熱原の六郎吉守、同じく新福地〈しんふじ〉の神主〈こうぬし〉、三郎大郎。また越後房の弟子として江美〈えみ〉の弥次郎、市庭寺の大郎太夫入道、同じくその子弥太郎、同じく弟又次郎、同じく弥四郎入道、同じく田中弥二郎の9人を挙げてある。

 その中で新福地の神主は御書〈法難後の事どもとしてあとに出す〉にもある通り、たしかに法難に遇うべき人である。市庭寺の弥大郎と田中の弥二郎とは、『本照寺記』等の広野弥大郎・田中次郎と同異いかん。少しも推考の便がない。しがしながら、これらの中には全くでなくとも幾名かの値難者があるであろう。

 京都の妙覚寺に蔵する弘安3年2月の優婆塞日安の御本尊には、興師が熱原六郎吉守に与え申すの添書がある。これは法難後間もなく授与せられた物としてみれば、この人も17人の内ではあるまいか。そうすれば、17人がまるでわからぬともいえぬ。

 弘安元年信じ始め奉つる処にというのは、日秀・日弁等が興師の化を受けたのは建治の初年であったに、その折はいまだ在家の信者に神四郎等のごとき剛の者はなかったとみゆる。

 舎兄弥藤次入道の訴えに依って鎌倉に召し上げられ、終に頚を切られ畢んぬというのは、弥藤次の名はすでに前に引ける弘安2年10月の御書に見ゆるので、行智院主代と結托した在家の敵党の主領〈かしら〉である。彼れが熱原の与党の百姓等を使嗾して信徒の百姓に喧嘩を吹きかけ、散々に刃傷殴打〈にんじょうおうだ〉の暴逆をなしたる上に、下方政所の役人どもに賄賂〈わいろ〉して反対〈あべこべ〉に事実を欺変〈ぎへん〉して鎌倉政府に訴え出たのである。

 そこで20人の信徒が早速に鎌倉に送られ、平左衛門頼綱の役所で拷問にかけたる末に牢に入れて、明くる年に3人を斬罪に処したのである。文の「終」にという字を軽々に看過してはならぬ。

 平の左衛門入道の沙汰なりというのは、この事件の裁判をなすべき主任は、左衛門尉頼綱入道果円〈かえん〉である。

 子息飯沼判官十三歳蟇目を以て散々に射て念仏を申すべきの旨再三之を責むといえどもというのは、判官は頼綱の次男、後に安房守となり、父と共に叛逆〈はんぎゃく〉の誅〈ちゅう〉に伏せし人である。

 蟇目の矢は、鏃〈やじり〉を木にて造り、中を空に刳〈く〉りて、射出す時風にふれて音のするようにしてある。悪魔を調伏〈ちょうぶく〉し災禍〈わざわい〉を穣〈は〉らう術に古来用ゆるので、これは神四郎等が強盛に法華を信じて頼綱の猛威に屈せぬのを、果して天魔などが憑きて力を添ゆるであろう、決して民百姓の業作〈しわざ〉でない。それ判官、蟇目をもって調伏して悪魔を払って念仏を唱えしめよと、父左衛門が命じたのである。決して射殺さんためではない。また蟇目の鏃は中窪〈なかくぼ〉の丸木であるから、人を撃っても必ず殺し得べきものでない。それを神四郎が胸元グサと射透〈いとお〉したの鮮血がほとばしったの、7本目の箭で無残や神四郎の息は絶えたのと言ってる者多きは、何から割出した狂言綺語〈きょうげんきご〉であろうか。たとえ、法難の壮烈悲惨を飾るたのの善意の宣伝でも、法外の虚妄〈こもう〉は慎しむべきことではなかろうか。

 廿人更に以て之を申さざるの間、張本三人を召し禁めて斬罪せしむる所なり。枝葉十七人は禁獄せしむといえども、終に放ち畢んぬというのは、蟇目の調伏に恐れをなさず、一人も念仏を唱うる臆病者がなかったので、二十人は禁獄と定まり、久しく牢舎の苦しみを嘗めた。決して某説〈あるせつ〉のごとく頼綱の第一の糺問〈きゅうもん〉の庭〈ば〉に射殺されたのでも斬られたものでもない。

 前に引ける『聖人等御返事』に、「彼等御勘気を蒙むるの時、南無妙法蓮華経と唱え奉る」とあるのは、この蟇目の庭であって死罪の時ではない。「張本三人を召し禁めて斬罪せしむる所なり」の召禁の文字と、「枝葉十七人は禁獄せしむといえども終に放ち畢んぬ」の禁獄と終と放との文字に注意すべきであって、三人の召禁〈いましめ〉と十七人の禁獄〈きんごく〉とは同時であらねばならぬ。また、前の「終に頚を切られ畢んぬ」と、この「終に放ち畢んぬ」とも同時であらねばならぬ。すなわち頼綱は蟇目の法廷を閉じて20人を同時同所に入牢せしめた。また明くる年20人を同時に処分した。張本3人は斬罪、枝葉17人は追放であるは文の通りである。願くは、読者はこの御文を読んで、予の解説のととく卒直に信ぜられたい。どうぞ浮誇〈ふこ〉の説に惑わさるることなきようにと祈るのである。

 その後十四年を経て平の入道・判官父子、謀叛を発し誅せられ畢んぬ。父子これ唯事にあらず。法華の現罰を蒙れりというのは、入道は頼綱のことで、入道して果円と称し、判官には成長して安房守となった。『北条九代記』によるに、永仁元年4月執権貞時の時に、頼綱久しく要職にありし権威を誇って、将軍及び執権を亡ぼし、その子安房守〈飯沼判官〉を将軍とせん企てをした。すると、頼綱の長子・宗綱〈むねつな〉が弟に父の愛を奪われしを怨んで、このことを執権に密告したので、早速生捕〈いけどり〉りて誅戮〈ちゅうりく〉せられ、屋敷は闕所〈けっしょ〉妻子は追放となって、これが法華の現罰であると、開山上人が仰せられた。

 道師の『三師伝』には、「一々に搦めとりて平左衛門が庭に曳きすえたり、乃至その庭には平の左衛門入道父子討れり」とある。因果の廻ぐること覿面〈てきめん〉である。

 恐るべきことだ。

 この末の文が、ある写本には「法華の現罰なり」とある。日優の写本には「法華の現罰を蒙れり」とある。ただし、御正本には、この下明らがに見えずして、なおこれより已下拾字ばがりありしようである。どういう文句であったか推読もできぬが、優本〈ゆうほん〉已前に磨滅〈まめつ〉したものとみゆる。残念の次第じゃが、優本によるの外はない。ただし文句の上からは、ある本の「現罰なり」の方が大いに力がある。この永仁元年よりさかのぼって14年目は、弘安3年に当る。これは斬罪を弘安3年にする一因である。


『興師御筆漫荼羅脇書』徳治三戊申卯月八日書写

駿河の国富士下方熱原郷の住人神四郎法華衆と号し、平の左衛門尉のために頚を切らるる三人の内なり。平の左衛門入道法華衆の顛を切るの後、十四年を経て謀叛を企だつるの間、誅せられ畢んぬ。その子孫跡形なく滅亡し畢んぬ。

 徳治3年は弘安2年より29年目であるから、世間の年忌等のために書写されたのではなく、ただそのことの余りに悲愴で、また壮烈であったのを、ここに追憶して一幅の御本尊を書して、重須にて一会〈いちえ〉の法筵〈ほうえん〉を張りて菩提〈ごだい〉を薦〈すす〉められたものである。これは無論、御自身がこの法難の総大将であったからの御慈念より出たものである。

 そうして、この端書〈はしがき〉の文句は、ほとんど前の『弟子分帳』と同一であるから、煩わしく解説を加えぬことにするが、この御本尊の日付の卯月八日に愚見を加えてみると、この4月8日は神四郎等が頚を切られた祥月命日ではなかろうか。たとえ年忌を当られぬにしても、正当〈しょうとう〉の月日を撰びて追善供養をされたとするのが穏当の推考だと思わねばならぬ。

 また、本照寺の過去帖には、建治2丙子〈へいね〉年4月8日とある。過去帖のことであれば日付の誤謬はあるべきでない。次に月も大しな間違いはなかろう。年代は古うかすると転写の際に間違いなきを保せぬで、まずその4月8日だけは取るべきであるうと思う。それから頼綱父子誄戮〈ちゅうりく〉の日は不明であるが、月はたしかに4月であるで、あるいは8日であったではなかろうか。

 末文の「その子孫跡形なく滅亡し畢んぬ」とあるのが、『弟子分帳』より委しい。この永仁元年の処分の時は頼綱と安房守がその屋敷で討たれて、訴人した兄の宗綱〈むけつな〉には御褒美もなく、父等を訴うる不孝の者として佐渡に流されたが、間もなく召し還して内管頷〈ないかんりょう〉となされたも、罪あつて上総〈かずさ〉国に流された。それもこの徳冶頃には死滅したもので、ここに「跡形なく」と書かれたのであろう。




5、日秀・日弁下総についての御書解説


『富木殿女房尼御前御書』(全集990頁)

さては越後房・下野房と申す僧を伊予殿につけて候ぞ。暫く不便に当らせ給へと富木殿には申させ給へ

 この御状は弘安2年11月25日である。法難の後、2箇月を経ておる。この間、両僧は熱原にはいがたく、始めはこの付近にありて興師の命を受けて善後策に奔走したものとみゆるが、なにしろ事件の当事者であるから、敵党の目の届く所には住み難く、興師について鎌倉に抗訴〈こうそ〉に出られたが、本件も一段落ついて20人が入牢となつたので、秀・弁二師にはそう累〈わずら〉いも罹〈かか〉るまい。さりながら、従来の縁故で富士の興師の手につけておいたならば、滝泉寺の悪徒等に硯〈ね〉らわるるであろうとの御慈念から、大いに方面をかえて遠方の下総に遣わされたのである。

 伊予房日頂〈にっちょう〉は、富木殿に後見せられて真間〈まま〉にあるのじゃが、まだ20前の若年であるがら、いくぶん年長の2人の学匠をつけられたのであろう。日頂の生母・妙常日妙尼も、あるいはこの折は富木殿へ帰られてあったものとみえた。同人に2人のことを常忍〈じょうにん〉入道によろしく頼んでくれとの御状である。

 女房尼御前が、妙常日妙であるならば、他門の伝記では越後房日弁とは姉弟であるに、この状には少しもその意が見えぬ。「越後房・下野房と申す僧を」とて尼御前には面識もなきものとしてある。




6、法難後の事どもについての文書解説


『上野殿御返事』(全集1560頁)

唐土〈もろこし〉に竜門と申す滝あり。

『同』(全集1561頁)

願くば我が弟子等大願をおこせ。去年去々年〈こぞおととし〉の疫病に死にし人々の数にも入らず、又当時蒙古の攻に免がるべしともみえず、とにかく死は一定なり。その時の歎きは当時のごとし。同じくば仮にも法華経の故に命を捨てよ。露を大海にあつらえ塵を大地に埋むと思え。

『同』(全集1561頁)  十一月六日 日蓮花押  上野賢人殿御返事

これは熱原の事の有難さに申す御返事なり。

 これから法難後の御書を掲げる。これ『竜門御書』は、弘安2年で、事件後間もなくである。唐土の竜門の滝に登るうとする魚は多いが、登りうるものは鯉の一部である。成仏を願って仏道修行をなす者は多いが、全く仏になりうるものは日蓮が弟子檀那の一部である。貴殿は、熱原の大事件に身命を惜まず所頷をも妻子をも顧みずして、なにがと尽力せられた。その法華経への御奉公ゆえに登竜門の誉れにあづかることができようぞ。まことに有難いことであるぞと、励まされた御状である。これは、事件がまだ全くは解決せられてない、この後も南条殿の尽力せらるべきことがたくさんあるがらである。


『上野殿御返事』(全集1564頁)


去る六月十五日の見参悦び入って候。さては神主〈こうぬし〉等が事、いまだ抱えおかせ給いて候事、有難く覚え候。ただし内々は法華経を怨ませ給にては候へども、上には他の事に寄せて事托〈ことかづ〉け憎まるるかの故に、熱原の者に事寄せてかしこここをも塞〈せ〉がれ候にこそ候ぬれ。さればとて上に事を塞せて塞がれ候わんに御用い候わずば物覚えぬ人にならせ給うべし。おかせ給て悪かりぬべきようにて候わば、しばらく神主等をばこれへと仰せ候うべし。妻子〈めこ〉なんどはそれに候うとも、よも御尋ねは候わじ。事の静まるまでそれにおかせ給て候わばよろしく候なんと覚え候。
 〈全集1564頁〉 しばらくの苦こそ候とも遂には楽しがるべし、国王一人の太子の如し。いかでか位に即〈つ〉かざらんと思召し候へ。恐々謹言。

弘安三年七月二日  日蓮花押  上野殿御返事

人に知らせずして、ひそがに仰廿候うべし。

 去る六月十五日の見参等というのは、南条七郎次郎が登山して宗祖にお目通りなされたを悦ばるるのである。

 神主が事まだ等というのは、神主は、御書に「コウヌシ」今では「カノヌシ」と言うておる。神に仕える者である。単に神主とのみ呼ぶときは、至って身分の卑くき者である。これは下に引く『弟子分帳』の熱原の新福地神社の神主であるその外、幾人かを南条家に隠匿してある。いずれ信者のおもなる者で、幸いに捕縛を免れたけれども、一年たった今日までも政所代の詮議はきびしいので、南条家でも深く隠まうてある。それらの時光の苦労を賞歎せられたのである。

 ただし内内は等というのは、北条時宗は内々には宗祖の法華経を怨嫉〈おんしつ〉するけれど、表面は他のことにかこつけて宗祖および弟子檀那を憎むから、今は南条殿が熱原の残党を隠まいおかるるの嫌疑から、このことに托して種々に南条殿をいじめなさるのと文句である。

 さればとて上に事を寄せて等というのは、将軍家や北条家がら熱原のことに托して無理な命令が下がるのを、それはあまり御無体じゃと言って御反抗なさるようではいかぬ。上の御意の内兜〈うちかぶと〉を見透〈みすき〉ていても、なにととも柔順〈すなお〉に御服従なさるがよい。ものおぼえぬ不覚の没分暁漢〈わからずや〉にならぬようにせよとの御注意である。

 いかせ給て悪かりぬ等というのは、役人の詮議がきびしくて到底隠まいきれぬようになったならば、身延へ逃がしなさい。ここまで探索の手も届くまい。これは内々に申しつけられたい。他に漏れてはなんにもならぬと追書にも注意せられである。

 妻子なんど等とは、御言の「メコ」はすなわち妻子である。主人には上の御咎めもあろうが、女子供には罪過はなかろうから、事件の全く解決するまで御面倒でもお養いなさるようにと仰せらるる。弘安2年の10月に20人が入牢し、弘安3年の4月に3人の斬首、17人の追放でひとまず落着のようにみゆるが、実際はその後までも御穿議〈ごせんぎ〉がきびしかったとみゆる。これは、将軍家や執権家の命令じゃない。平左衛門の計らいであろう、否、頼綱の行為じゃない。院主代行智や下方政所の下司どもや弥藤次入道等の仕事であろう。事件の表沙汰にならぬ時でも御教書を偽造して威嚇するくらいのことは、なんとも思わぬ悪漢である。まして裁判は大勝利のあとである。なにをしても差支えなしと思うておる。実に悪〈にく〉むべき非行である。

 彼等も人間の血は通うておろうに、肉弟を三人まで殺さしておいて、まだ悪行があき足らぬというのは全く悪鬼入其身〈あっきにゅごしん〉のためであろう。

 しばらくの苦等というのは、熱原事件のたのの御艱苦〈ごかんく〉は永いことじゃない、今しばらくである。おっつけ安泰に御信心がきるようになろう。一人の太子は、いかに苦労をなされても、いずれ国王の位に即〈つ〉がるべきである。南条殿は、須叟〈しゅゆ〉で成仏の素懐〈そかい〉を遂げられて身も心も安泰なるべきであると思われたしとの結文である。

 人にしらせずして等というのは、神主等を身延に送ることの話はなるべく秘密に申しつけらるべしと、すなわち前にも述べた通りである。

 この御言と上の『竜門御書』とは、宗祖の御正筆が本山に現存する。『竜門書』は完壁であるが、この書は中欠の断篇である。

 また、次下の二書は、興師の御写しが本山に現存する。


『上野殿御返事』(全集1575頁)

貴辺はすでに法華経の行者に似させ給へる事、猿の人に似、餅の月に似たるが如し。熱原の者共のかく惜ませ給へる事は、承平〈じょうへい〉の将門〈まさかど〉、天喜〈てんき〉の貞当〈さだとう〉のようにこの国の者共は思ひて候ぞ。これひとえに法華経に命を捨つる故なり。全く主君に背く人とは天御覧あらじ。その上わずかの小郷に多くの公事せめにあてられて、我が身は乗るべき馬なし。妻子は引きかかるべき衣なし。

 これは弘安3年12月27日の御状である。全文難解の箇所少なければ註解を略する。熱原の信者達のためにあとあとまでも、神主等を隠まう上にも身命財をなげうって法華経への御奉公せらるる南条殿のありさま、実に尊とさの限りである。政府の無理難題は多くして公事責の、すなわち田租〈でんそ〉諸税夫役〈ぶやく〉等の賦課〈ぶか〉が過分であるので、地頭の身分として生活に貧窮せらるるのに、宗祖につくす物資の御志は少しも怠りなきことを御賞歎なされてある。


『上野殿御返事』(全集1575頁)

芋一俵給わり畢んぬ。又、神主の許に候御乳塩〈おちしお〉一疋〈ひき〉並びに口付き一人候。乃至、なおもなおも法華経を怨む事は絶えつとも見え候はねば、これより後もいかなる事か候はんずらめども、今まで堪へさせ給へる事。まことしからず候。

 これは弘安4年3月18日の賜りである。この時までも南条殿に対する迫害の手はやまなかったものとみゆる。それを泰然〈じっ〉と堪えぬいておられることは、なかなかに容易ならぬことで、真実のこととは思えぬくらいであると讃歎し給うてある。

 又、神主の許に候等というのは、この時は神主は身延に行っていたか、南条家に相かわらず止まっていたか、または熱原に安堵していたか明瞭でないが、多分神主の留守宅に御乳塩〈おちしお〉という馬一疋と口付きの別当が一人あったのを、馬を愛せらるる宗祖は、それを身延に遣わせと仰せらるるのであろう。


『弟子分張』 (在家でしの下)

富士下方熱原新福地の神主は、下野房の弟子なり。よって日興之を与え申す。

 開山上人が、御弟子分に宗祖の御本尊を授与せられたその一人である。強盛の信者に相違ない。あるいは神四郎兄弟に次ぐ程の者で、南条家に隠まわれた神主と同人であろう。滝泉寺党がいつまでも硯〈ねらっ〉たのが、不思議と災難を免れて、この『帳』出来〈しゅったい〉の永仁6年までは存命であった。

 新福地というのは、福地とも福智とも不二とも福司とも書いて、いずれも富士の擬字〈あてじ〉である。それに新の字がついておるから、大宮の富士浅間神社の新しき分社である。場所はいずれも不明じゃが、今の熱原村の中にはそれらしき址〈あと〉もない。鎌倉時代の熱原郷の区域が明瞭せぬが、今の熱原より広かったことは確実である。前の4月の御神事の下に言った三日市場の浅間神社が、あるいはこの新福地神社で、当時その辺までが熱原郷ではなかったろうか。

 大宮の神事を仮りにも行うべき富士神社には、士人〈さむらい〉の相当の宮司がいたであろうから、この神主はその下役の地下〈じげ〉の者であったろうが、姓名はなににも載ってない。某書〈あるしょ〉に、御書の「コウヌシ」のことを神主と正直に読んだはよかったが、蛇足をつけで、大宮浅間の神官・佐野某と妄称したのは怪しからんことである。

 それよりも、なお哀れむべきは、「コウヌジ」を「神四郎士」の中の四郎を省いたものだと曲解愚釈をしなければならぬ人の存在することを不思議に思う。

 しかし、これらの誤りは、すでに御本人たちが自然に気がついて訂正せられたかもしれぬ。またそれを希望するのである。

 

 

 

第3 熱原法難古史伝集録 第一類

 

 

熱原法難古史伝集録について

 熱原の滝泉寺とその大法難とを記した古記録や史伝などは、至って少ないけれど、今その少なき古きものを拾録〈じゅうろく〉して、その誤謬〈あやまり〉は誤りながらに、古人の意向をうかがうことにする。

 その古いものの中に、誤りながらも欠けながらも、なるべく総てについて記したものがある。これを第一類としておく。それは宗祖・開山等の直接史料を見ないでも、この寺とこの法難との関係の深い宗徒の伝説よりなるもので、日精上人(本山18世)の『宗祖年譜』や『家中抄』が中心をなしておる。これは、富士諸山の古伝説が玉石同架〈ぎょくせきどうか〉して精師に纒められたものである。今のごとく史料を蒐集〈しゅうしゅう〉しつくした上の眼で見れば、欠損もあり誤謬もあるようにみえて、大いにもの足らぬ感じはするが、大体は決して動かぬものである。

 その後の史説は、多くこの精師の影響を受けている。中にも『照見記』のごときは、記者は富士系でなくて一致系のものらしいが、この法難等については全く精師の説を鵜呑みにして、文句までもそのまま用いておる。これは、先方にはなんらの材料もなく全く白紙同然であるからでもあろうが、六老の中に、とりわけ興師正脈のことや戒壇本尊のことまでもそのまま書いでおるのは、他門の古書としても珍らしいもので、特にその筆者の信仰の淳璞〈じゅんぼく〉さが尊く思いやらるるのである。

 終りに、最も珍貴とすべきは、吾師日霑〈にちでん〉上人(本山52世)の『決疑扁〈けつぎへん〉』の一文である。これは富士戒壇についてのことで、熱原法難が主でないから事実を明博には書かれてないが、最も正しき史料を引いての確説であって、たとえ少分でもすこぶる貴重すべきの文字である。ことに、精師等のありふれた伝説によられない所が、今からは非常にありがたく感ぜらるる。それも学兄〈がくけい〉なる久遠院日騰〈くおんいんにっとう〉師の苦心して集輯〈しゅうしゅう〉せられた『弟子分帳』等の秘文がお役に立ったのである。

 ただし、この法難の始終については、霑師はいかようなる御意見であったかを悉知〈しっち〉するの材料もないが、『興師略伝』には、たとえ助筆の仁〈ひと〉があったとしても、全然〈まったく〉妙精師の伝説〈せつ)を襲踏してあるのは、『決疑扁』の文から見ると大いに異しむべきであるが、それは漫〈みだり〉に先師の言説を批議〈ひぎ〉せぬ慎重の態度からきたもので、真実〈まこと〉の密意〈こころ〉は正しさ史料を尊重せられたものたるを疑えぬのである。

 それから、滝泉寺と日向・日弁等のことばかり記して、法難のことには少しも触れぬものがある。これを第二類としておく。それは、宗祖・開山の直接の史料を見ようともせぬのは他門のことで止む得ぬことであるが、中にはわざと富士の伝説を斥〈しり〉ぞけ、または知らぬ顔して己が門に利せんとせし跡が明白に見ゆるのもある。したがって誤謬〈あやまり〉もまたまた一層甚しきもので、『本化仏祖統紀〈ほんげぶっそとうき)』のごときがすなわちそれであり、またこの書が大いに巾を利〈き〉かしておる。いわば中心をなしておるのである。感応寺の『縁起』と『統紀』とはいずれが原料であるかは不明であるけれども、共に博く誤謬〈あやまり)の種を蒔〈ま〉いていて、誣告〈ぶこく〉の罪甚だ軽からずである。

 その外には、博覧の誉れ高き啓蒙日講〈けいもうにっこう〉のごとさすら熱原の大事を知らずして、祖文のアツハラを奴原〈やつはら〉に解せし珍妙の抱腹絶倒事〈ほうふくぜっとうじ)もある。日応の真如房雨乞〈しんにょぼうあまごい)等の妄説〈もうせつ〉も、泰(たいどう〉の書き漏らせしのも、なにか下腹があってのことではなかろうかとも思わるる。

 已上二類の史伝の要文を掲げて、その上欄〈うえ〉に間々評註〈ままひょうちゅう)を加えることりする。

 その外の近代の著書、ことに田中さん一派の書かれたもの、またはこれに影響せし各種の法難史どもは、已上の古伝と比べれば天地雲泥の比較にならぬ程の結構のものであるが、欲を言えば材料の挙がらぬ嫌いもあり、また材料の扱い方が違うているのもありて、まだ充分の信用は致されぬで、その中の批評は解説の中に少々しておいたが、ここに集録しないのはなにぶんいずれも長篇ではあるし、かつまたその書が容易に得らるるからである。

 



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第3 熱原法難古史伝集録 第ニ類

 

 


 

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