大石寺法門(六)


 目 次
 
師弟子の法門、師弟因果の事
 
久遠元初の本因修行について平和とは
 
信心と信頼と開山堂
 
国(一)
 
国(二)
 
寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門
 
体外の平和と体内の平和
 
太子信仰
 
日蓮本仏論のこと
 
韓国への返書について
 
六巻抄(一)
 
六巻抄(二)
 
六巻抄第六当家三衣抄の目指すもの
 
天台の一隅運動と丑寅勤行の関連
 
御書選択の重要性
 
高山樗牛のこと
 
伊豆の畑毛についての提言
 
平成元年お虫拂い説法の事
 
現人神
 
非理法権天の事
 
御伝土代のこと
 
仏昇トウ利天為母説法経のこと
 
惑観心ということ
 
立正での科外講義について
 
平成三年五月号大日蓮に大聖人の仏法は尺迦の本法、天台の亜流糟糠にあらずという演題の尾林広徳師の説法について
 
宇宙の大霊のこと
 
覇権主義の攻防とその破綻
 
文部省三秘抄を真蹟と決定。法花からウラボン経へ
 

 

 師弟子の法門、師弟因果の事
 師日蓮の法門を興師は一言にこの師弟子の法門はと唱えられた。この法門をもって佐渡の法花講衆を指導されていたようである。それが佐渡の法花講衆に与ふる書にも示されている通りである。本尊抄文段でもここの所は大きく扱われているのではないかと思う。
 師弟因果とは蓮花因果の意かもしれない。蓮花因果とは師弟因果なのかもしれない。その蓮花とは富士山の火口に名を得たものであろうか。そこにある不思議の一法、蓮花因果の一法である大法であり本法である。そこに久遠名字の妙法があり、そこに本因妙を見る処、寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門を見る。五百塵点の当初はそこに在るものである。そこの処に衆生成道がある。その法を信ずることによって久遠以来修行が始まるのである。そこに本因修行がある。師弟子の法門と不即不離のものである。そこに久遠以来の修行があるのである。そこに寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門がある。師弟子の法門とは師承のものであることを忘れないようにとの親心なのかもしれない。ここにも事を事に行ずる事行の法門と受けとめられるものがあるのではなかろうか。
 己心の法門から師弟子、事行の法門の意義は失なわれているのではなかろうか。己心の法門が常にその身に即して常住である所にその大きな意義があるのである。深く秘しすぎて返って忘れられたのであろうか。今改めて師弟子の法門の再現の必要な時である。事行の法門は、なれ過ぎるために、忘れる恐れが多分にあるようである。今では本山と末寺の間に秘められた師弟子の法門は大分失なわれているのではなかろうか。師弟子の法門も他に向って説明出来ないまま、他からの責めによって失なわれているものもあるように思う。本因妙抄などその一例である。
 師弟子の法門という語も殆んど失なわれる直前ではないかと思う。己心の法門は俗身をきびしく警戒しているけれども、魂魄の上に立てられていることさえも殆んど忘れられようとしているのではないかと思う。師弟子も事行の法門も、改めて確認の必要な時を迎えているようである。事を事に行ずるとは、いかにも時代の古さを感ぜしめるものがある。実行力の問題である。
久遠名字の妙法も、実には本末関係の中に秘められている法門ではなかろうか。五百塵点の当初の法門もその法門の中に秘められているかもしれない。
 師弟子の法門、あまり文字になっていない法門である。本尊は客殿の奥深く収め奉るべしというのも事行の法門である。古えの御宝蔵はその意をもっている。古は、客殿から遥拝も行なわれていた。それは丑寅の本尊を遥拝していたものである。魂魄の上の本尊の遥拝である。それらのものも今は殆んど忘れられているように思う。一旦失なわれると再現は中々困難である。極力失わないことである。一度失ったものの再現は困難であることを知ってもらいたい。

 八品流や日辰流などの他門の影響下で法門は失なわれているのである。形のみ残って実の失なわれているものも多いようである。六巻抄はそれを取り上げ説明を試みられたようである。六巻抄ではその秘められた部分を説明されているようである。当家三衣抄もそれを明らかにされているが、案外理解されなかったようである。法教院の英知をはたらかしてもらいたい。六巻抄も筋を通して研究すれば、むやみに他門から小突かれる恐れはない。大いに研究を始めてもらいたいと思う。
 秘めることはた易いけれども、これを絶やさないことは更に困難である。本尊も客殿の奥深く収め奉るべしという。己心の法門の姿を表わしている。そこには遥拝の意もある丑寅の本尊は秘められている。そこに戒旦の本尊がある。文底秘沈抄はこの本尊を明している。これは秘められた部分が多く、他に対して説明は出来にくいように思う。板本尊の真蹟ということは、どのような意味であろうか。
 今の六壺については余程明確な説明を残しておく必要がある。この姿では今も説明を口にすることは出来ないであろう。因師(三十一世)の考証されたものがあるが一度念のために読んでおいた方がよい。未解読のものである。少し読みにくいものである。今度の六壺はどのような意味をもっているのか誠にハイカラである。その姿からは真実は捉えがたいものがある。本寺と末寺との間に秘められている師弟子の法門が、事行の法門として秘められているのではないかと思う。一つが消えると次が消える恐れがある。久遠元初とか文の底に秘して沈めた法門も、深く秘められているのではなかろうか。
 一つが消えると次が消える連鎖反応の起きる可能性があると思う。その消えた処に他の解釈が入り組んで大混乱を起すのである。宗門には関係のない解釈も北山風な解釈に変化しつつあるようである。一方では本因を唱え乍ら一方では本門寺を名乗っているが、ここは本果の趣きを控えているように思われる。これは因果倶時ではない、むしろ因果の混乱と見るべきである。このような処に不思議の一法を求めることは出来ないであろう。その一法から本法も本仏も又出生するものである。この思議を越えたる一法それこそ魂魄の処に限って存在し得るものである。その法の故に師弟子の法門も存在し得るのである。
 法教院はまずその一法を捉えてもらいたいと思う。この一法極力子細に分析して明らめてもらいたい。これを明らめることは仏の慈悲に類するものではなかろうか。この際、法教院において新しく解明の終ったものを発表してもらいたいと思う。随分長い間水島先生の消息もうかがわないが如何しているのであろうか。法門には一時も休む時はない筈である。それは怠慢に通じるものではなかろうか。すべてを明らめなければ滅後末法の衆生の救済には通じがたいであろう。今世上は愚痴の者共があふれているのである。法教院はまずこれを救済する方向に大きく前進してもらいたい処である。
 

 

 久遠元初の本因修行について平和とは
 五百塵点以来の本因修行はどのように解されるのであろうか。本因修行のない処に本仏を続けて施行することには無理があるのではなかろうか。今年のお虫払い説法から師弟子の法門、本因妙等についてはついぞ伺うことは出来なかった。平和の根源になるものについては何等知ることは出来なかった。事行の法門として必要に応じて取り出せるように秘められているものである。平和とは五百塵点の彼方にあるものではなかろうか。その彼方にある久遠元初の法門をとり出して守られたい。
 今日八月六日は広島に原爆が投下された日、四十四回目の平和記念日ということである。この日を平和と決めることは人のすることである。当時広島にあって被爆した韓国人が、何故自分等がこのような目にあうのか不信をのべていたのがたまたま耳にはいった。初めは日韓併合の上、日本国民として広島にあって原爆の被害をうけ、その後日韓併合は終って元の韓国人となり、そこで原爆の被害をかみしめたのである。今となっては、日本国からの救済の道は殆んど絶たれたままである。元日本国民として何故救済出来ないのであろうか。ここは徳を施すべきであろうと思う。今は日韓関係については表立っては無関係である。敗戦と同時に消滅した両国関係である。その被害の後日譚は弱い人等の上に今も残っている。
 宮中において天皇は記者会見で、質問の昭和天皇の戦争責任に答えられていたが、この輔弼の人等の処に責任があるのではないかと思う。それは日蓮が法門の解尺から事が始まっているのである。それは天皇には無関係のようである。もともと魂魄の上に解した日蓮が法門である。しかし根本の処は、頓悟に法門を立てたその読み誤りが根源になっているかもしれない。それは佐渡流罪の処で解決しているのではなかろうか。これを誰れの責任と決めることも出来ない、むしろ天皇もその被害者の一人なのかもしれない。むしろその解釈を統一しておくべきである。それは門下の共同責任なのかもしれない。
 既に竺の道生は江南に流され日蓮も佐渡に流されている。時の為政者は既に頓悟について危険を感じていたのであろう。これは毒をもって毒を制することは出来なかったようである。むしろ毒害をうけたということであろうか。本因本果の辺がはっきりとせず、そこに尚かつ因果の混乱をもっているのではないかと思う。記者会見で天皇は解答は避けられていたようであるが、これが真実ではないかと思う。日蓮が法門についての勉強不足が根本にあるのではないかと思う。漸悟に立てられた法門が行きづまった時それを救うのが頓悟なのかもしれない。
 大石寺は大体において刹那成道をとっているようであるが、他門はむしろ半偈成道をとるのではなかろうか。半偈成道を繰り返した後に刹那成道が結論を出すのではないかと思う。これが涅槃経について南北両本の考え方の相違なのではなかろうか。ここに江北江南の考え方の相違が見えるように思う。後の北宋の考え方とは、おおいに異なる処である。今は南北両存の考え方である。日蓮が涅槃経について南北両本を使っている南本には、浄土の匂いがあるのではなかろうか。中には恵遠はいないのであろうか。御教示願いたい。浄土宗には本来頓悟を持ちその為に流罪をもっている。それは為政者の大いに斥う処であろう。
 鎌倉時代の新興宗教として発したのが日蓮・法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗等、何れも江南の頓悟方式を受入れたのではなかろうか。頓悟ということで三者何れも共通したものをもっている。時代が要求したためであろうか。今の世上でも漸悟方式は既に行きつまっている。それを乗り越える方法として頓悟方式は必ず必要なものであるのであろう。頓悟方式によったものには流罪がつきまとっている。それによって中世の苦難を乗り越えてこられたのかもしれない。魂魄佐渡に至るという開目抄はそのようなものを深く意識しているようである。そこには先覚者の共通した苦悩がほの見えるようである。
 今の世の漸悟方式による教育方針にも既に行きづまりが来ているのではなかろうか。高麗は可成り強く江南の頓悟方式を受けているのではなかろうか。その他韓国ではそれぞれ頓悟方式の影響を受け入れているであろう。それらが国が亡んだあと日本に渡って来ている。この頓悟方式、建国当初には好都合な法門のようである。結局は頓漸交々という処がほしいのである。長くなり国を治めるためには漸悟方式の方が好都合ではないかと思う。
 室町期には日蓮門下では漸悟方式をとっていたのではないかと思う。京の日蓮門下は大体に漸悟方式によっていたのではないかと思う。一揆を立てるためには頓悟方式の方が好都合のようである。浄土両宗は鎌倉以来の頓悟方式を受けついでいるように思う。室町期は京中の門下一般に漸悟方式に傾いていったのではなかろうか。最後には頓悟に変ろうとしていた処もあるかもしれない。 室町の最後には日本天台も漸悟から頓悟に変っていたようである。
 寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門という語は、古来大石寺以外ではあまり深入りしていないように思う。一致派ではこの法門には深いかかわりはない。この法門を避けるためには結局一致派と何等変る所はない。今は本因妙をさけたために一致派と何等変る処はない。今となっては只明治教学を乗り越えなければならない。一宗建立についていえば本法も本尊もそれ程はっきりとは示されていない。これらについてはモット明確を期すべきではなかろうか。案外観心本尊抄に示された諸文についてはあまり立ち入って考えられていないのは何とも心外の至りである。諸門下共通して本尊抄の文にはあまり立ち入っていないようである。今回計らずも仏教大学の紀要を拝見することが出来た、非常に光栄であったことを申し上げたいと思う。
 浄土宗には頓悟を意識している所があるのではなかろうか。日蓮門下には見かけない処、そこに欠けるものがあるように思う。あらゆる角度から本尊抄の文を詮じつめる時が来ているのではなかろうか。師弟子の法門に気が付いていない故か未だに法教院からも宗門からも何の御沙汰もないのが実状である。本因修行はどのように扱われているのであろう。黙殺されたままなのであろうか。
 先の「紀要」」でも頓悟について教えられたが未だ掘り起しはないようである。それを掘り起した処に浄土宗の教義が生かされているのではなかろうか。そこに謝霊運の担当する処があるように思う。これも時の然らしめる処であろうか。日蓮宗も一歩退いた感じである。頓悟は民衆も最も好むもの、後世の百姓一揆もこの頓悟の中にその本源にあたるものを秘めているのではなかろうか。今は日蓮門下では頓悟を伺うことは出来ない。そこに師弟子の法門が秘められているのではないかと思う。浄土宗の師弟子の法門には宗門以上に強烈なものを秘めているようである。そこには教えられるものがあるのではなかろうか。

 

 信心と信頼と開山堂
 今は信の一字に心を付けて信心として俗身の処で大いに利用しているようで、本来は信頼として師弟子の法門の処で使われるもののようである。信心となると俗身に近いために欲心が付きまとうようである。信頼には欲心の入りこむ余地がないようである。今は本因妙のない処で大いに信心が利用されている。本因妙の処には本来欲心のあり得ない処である。そこはどうも魂魄世界なのかもしれない。どこかで何かが混乱しているのである。
 魂魄をとれば欲望の入り込む余地はあり得ないであろう。師弟子の法門はそのような処に建立されているのである。信心とは外相一辺の処、本果の処で、信心と利用されているが、本来は本因にあるべきもの。本因が消えたために今は専ら本果と密着している。師弟子の法門が薄らぐと同時に弟子との間に信頼感が薄らいでくる。それにかわるのが信心である。それが外相一辺の処、本果の処で信心と利用されている。本来は本因であるべきものではないかと思う。そのために文の表に出やすくなり、本来の文の底に秘して沈めた魂魄の上の文が育ちにくいようである。そして俗身の上に本果の法門となり、本来の本因妙が他のために消されるようであり、そこに育つのが因果の混乱ではないかと思う。
 信頼の上に因果の法門が成り立つなら、今言われているような一方的な信心はあり得ないのではないか。今のようでは本因の上の因果が魂魄の上に育ちにくいようである。そして本果の上に信心が成り立っている。それが本果に対して信心をもって強く結ばれている。若し魂魄の上に結ばれるなら、もっと柔らかくあるべでものではないかと思う。その信心が本果と結ばれ易い状態におかれ、文の底に秘して沈めた己心の法門が消されやすい状態におかれているのではないかと思う。そこでは本因は他門と殊なるために育ちにくい状態にあるのではないかと思う。
 鎌倉のあと、事行の法門の中から師弟子の法門を求めることは容易なことではない。この法門、浄土宗及び浄土真宗には、本来この法門によっていたのではなかろうか。元禄の頃に在った開山堂も呼び名が変っていて、それさえこれが開山堂とは、はっきりと直ぐには分りにくい程である。そこには御先師の魂魄を祀るすべのみは残されているのである。その魂魄が一山を静かに見守っているのである。今は「開山堂」という名儀は全く失なわれているのである。そこには開山の魂魄を受けついでいる記しがあったのであろうと思われる。そして今は八角堂となって法隆寺の夢殿と殆んど変りないようである。それは時の変革による処である。そこまで開山の夢が結ばれるであろうか。
 今のようでは本因の上の因果が魂魄の上に育ちにくい。そして本果の上の信心が盛んである。それが本果に対して信心を要求する。魂魄の上の信心はもっと柔かく自由にあるべきものではないかと思う。そこに因果の混乱が起り、信心をもって本果と強力に結ばれている。そして文の底に秘して沈めた己心の一念三千が失なわれ易い状態のように思われる。今の八角堂には次第に位牌堂の意味が濃厚になってゆくのではなかろうか。そして生まの魂魄との関連が次第に薄らぐのではなかろうか。
 今の十二角堂には本果との関連が深いように思われる。そこで因果生滅が別れるのではなかろうか。今の十二角堂には位牌堂の意味が強いようである。この信仰が太子信仰として一般寺院に受けとめられるのではなかろうか。これは師弟子の法門とは各別ではないかと思う。太子信仰といわれるものは今に残っているようであるが、今にその内容は明らかでない。太子の魂魄は今に夢殿を根本道場として本因の立場から見た魂魄が伝えられているのではないかと思う。これは生きた生々しい魂魄でなければならない。今の八角堂は本果の上に立った位牌堂の感じである。同じく魂魄であってもそこには自然と因果の混乱を控えているように思われる。そのような中で師弟子の法門の力が次第に失せたのではなかろうか。いかにも惜しむべき事である。
 夢殿には太子信仰として己心の法門とし江南に流された竺の道生の法門を伝えてきた。それは反って浄土宗に伝えられているのではなかろうか。恵遠にはそのようなものを伝えている形蹟はないのであろうか。註経にはその引用文があったのではないかと思う。(恵遠
随の浄影寺の恵遠。諸経の疏を著す。四字を以って句とし大乗義章を摂す。世に晋の恵遠に簡んで小遠という)太子信仰はその甚深の真実を知ることもなく今に至っているのである。太子の魂魄は今も夢殿を根本道場として伝えられている感じである。太子信仰は己心の法門として今まで魂魄の上に伝えられているようである。江南に流された竺の道生の法門もまた、今に伝えられているのではなかろうか。
 謝霊運や道生の法門も宗門や天台では中古天台と称して消す方向に進んでいることが時に眼につくようであるが、浄土宗では常に温存研究を尽くされていたようである。その法門に開目されたのが日蓮の開目抄である。それは文の底に秘して沈めた己心の法門による開学である。そこに師弟子の法門を見出だしたのが本尊抄である。今となってはこの法門も殆んど忘れ去られようとしているのである。そこに時の流れを感じるものである。法然・親鸞の法門には反って師弟子の法門が秘められているのではなかろうか。他からこれを伺うことは困難なように思う。宗門人も宗開三祖による師弟子の法門に立ち帰ることは出来ないであろうか。宗門側では安国論の国の定義付けは今どのように定められているのであろうか。

 

 国(一)
 大石寺では古くから本因名字の報身仏をとる場合が多い。これは魂魄の上に報身如来を取っている故である。国土もそれを根本として考えられているのではないかと思う。それは己心の一念三千法門の上に考えられた国土である。その国土が或る時、世俗の国土と混同せられるのである。応身の住する処と報身の住する処との混同である。そのような処で国土の国の字が考えられるとき、述べられる国土が互いに混乱するのである。国家鎮護の法花経・金光明経等に説かれる国土もまた、国が世俗の国土と区別が付きにくくなる場合が多いのではないか。法花経の説く国土とは、己心の上に説かれる国土について考えなければならない。古来これについての答えが混雑しているのではなかろうか。
 広宣流布と説かれる時の国土は、広宣流布の時は世俗の国土に結ばれて解されていた。その広宣流布から世界広布の理念は生れているのである。そこからは遂に広宣流布に至ることはなかった。広布はあくまで魂魄の上に考えるべきものである。後々五百歳広宣流布があまりにも簡単に世俗の中で結ばれた処に広宣流布の誤算があったのである。
 本仏日蓮といわれるのは報身如来について本仏を唱えるのである。衆生を本因名字と考える場合、報身如来を考えている場合が多い。その報身と俗身とは紙一重の処にあるものである。昔、軍部の広宣流布方式にもこの真俗の混乱が世界戦争を引き起したと見るべきである。法花経・金光明経等には真俗の混乱を起し易いものがあるようである。この混乱は長い間繰り返してきているのである。今は本因の影が薄らいできたために報身如来との混乱が起り易くなっているようである。今は本果の釈尊と混乱し易いものをもっているように思う。
 因果は世間の根本をなすものである。蓮に師弟子の法門を見る時、そこに蓮花因果を見る。その因果は世俗の因果に等しいものである。それによって蓮華と世俗とが結ばれるのかもしれない。そこに本因本果を見る時、倶時に自然に不思議の一法が生じる、それが不思議の一法である。その深部に本因本果因果倶時不思議の一法がある。その一法の処に本法・本仏を感得するのである。
 妙楽は法花一部方寸に知んぬべしという。方寸とは人の心臓は方一寸という。日蓮はこの方一寸を魂魄と考えたのではなかろうか。そしてこれが俗身に受けとめられるようなことがあれば、そこには因果の混乱が起るかもしれない。そしてそこには、本仏と迹仏との混乱を生ずることになるであろう。
 八月六日は広島原爆投下四十四年目の平和記念日であった。平和とは原爆・核兵器のない世界を指して平和と称しているようである。アメリカやドイツが平和を求めて行った処に核兵器が出現して、それが人類を亡す恐れが出てきたので、結果としては真反対に出たのであった。平和を願って始めたものが真反対に出たのである。そして今盛んに平和が唱えられているのである。アメリカが長い年月をかけて得たものが核兵器であった。そこで今平和が求められているのである。それは方法論に誤りがあったのではなかろうか。
 明治初年以来国柱会のとりあげた方式、即ち軍部が世界広布を目指した方式と同様な方法である。結局得られるものは平和とは反対に闘争のみである。今は世界中の人々もその被害を受け、自らもその中にあって亡んでいったのである。アメリカやドイツが求めているのも全く同じ方法である。それは根本になる考え方に誤りがあったのである。それが因果の混乱によって起っているのである。本来魂魄の上にあるべきものがそのまま世俗の処で考えられ、己心の法門についての因果の混乱によって起ったものである。この場合最後には自身の処に被害が廻って来るようになっているのではないかと思う。
 魂魄の上にあるべき己心が俗身の処で考えられ、己心がそのまま我心と考えられ慾望のみの処で考えられる、そこに世俗を毒するものが生じるのである。世界平和を求めた結果として核兵器が出来したのである。民衆は核兵器のない世界を求めているのである。環境の汚染も益々深刻になりつゝあるようである。己心を求め出しても、それが我心と現われたのでは困りものである。それは魂魄の上に考えられる己心の世界に限るようである。己心が我心と出ては救いようがない。そこにあるのは破滅のみである。核兵器を考え付いた国々は何れもキリスト教を信奉する国々によって考え付かれたものである。
 昨年は比叡山で平和サミットが行なわれたが、どのような結果が出たのか分らない。それは日蓮の唱える魂魄の上に説く己心の法門に限るようであり、出発点で世俗をはなれているので己心を我心と誤ることがなければ平和は出るであろう。今の大石寺の法門は明治以来、国柱会の法門をとり入れているので、平和にはつながっていかないようである。それは本尊抄に直結する鎌倉当時の法門に限るようである。筆者が今求めているのは、鎌倉当時に説かれている己心の法門であり、そこには本来の己心の法門を手にすることが出来るようである。今の大石寺法門も余程整理しない限り、そのまま平和にはつながらないように思う。
 世界の平和専門誌に、創価学会の池田大作氏の論文が掲載されたようであるが、それの根本になるものが何れから出ているのか、宗門にそれがないとすれば、その信徒団体に平和を唱えるものがあるとは思えない。それを求めるためには、現在の考え方の処にはあり得ないと思う。改めて魂魄の上の己心の一念三千法門を、型通りに取りきめて発表すべきであると思う。長い間創価学会が持ち続けてきた法門からは平和は出にくいであろう。その原型は国柱会教学に近い故である。明治教学を持ち続けている間は平和はあり得ないのではないかと思う。
 叡山では今、一隅運動が盛んに説かれているが、これは新解釈によっているのではないかと思う。大石寺の伝える法門では、丑寅とは東北の一隅をさしているようである。それは、今世俗にいう一隅とは異なっている。丑寅の一隅とは諸仏の成道する所、衆生もまたそれを受持することによって成道があり得るのである。一隅運動とは、本来衆生の成道につながるもののようである。受持即持戒といわれるのも、成道につながっているように思う。衆生が成道することが出来れば天下泰平である。即ち一隅運動も完了ということである。
 国柱会教学による大石寺教学からは闘争は出ても平和は現れにくいのではないか。直接平和が出るような理論的な裏付けを示してもらいたい、そして常にその法門を唱えていることが必須条件であることを申しそえておく。宗門では魂魄の上に己心の一念三千法門をとかれたことはない、筆者は、これを取り出して既に十余年を経過しているのである。平和を唱えるためには常々これを説き続けている必要がある。学会では平和誌へ掲載される已前に法門の上に平和を説いた例はきかない。筆者のとり出したものを利用したまでではないか。学会創設以来平和をとり出すための法門が説かれたことを聞かない。明治教学の説く処では、結局因果の混乱から平和につながることもなく、平和に大混乱を与えるのみであろう。
 一端核兵器が作られると時には環境破壊につながるものであり、平和にはつながらないものばかりのようである。 核兵器があれば時に水爆が海中に沈むこともあり、また火災を起して空中に拡散することもある。 今から世界中から核をなくすることは容易なことではない。今世界は酸性雨によって、樹木も枯れ大理石もとけているということである。これらも亦核による被害である。これらを世上から消滅せしめることは、今となっては殆んど不可能なのではなかろうか。人体に入りこんだ核の被害は容易に消滅することはないであろう。天は人の智に対して警告を発しているのであるが、人は中々これを受けて反省するようにも思えない。今年の冷温は異様である。天の警告は一日も早く素直に受け入れなければならない。
 原爆投下によって一時戦争は中止したけれども、核による被害はそれ程簡単に消失するものでもないようである。広島長崎に投下された原爆は、永遠に地球からその魔力の消える日はないかもしれない。何としても人の智恵の行きすぎであったようである。その人の智恵によって地上の樹木は枯れている。そして地上は砂漠化しつつあるのである。人の智恵は天の摂理に背いて、自ら今その責めを受けているのである。ソ聯でも原子爐の爆発により、色々と核は空中に拡散してその被害を与えつつある。これを尽し世上から消滅し尽すことは出来ないであろう。一難去って又一難、又その核の被害から遁れる日が再び地上に巡って来る日があるであろうか。
 文明とは、自らの頸を締るものである。今となって天に向って核廃絶を叫んで見ても、天がそれを受け入れて呉れるかどうか、それは分からないのではないか。ここまでくれば古人の言うように、一人を慎む必要があったようである。古の平和には核は含まれていなかった。戦後の平和にはそれを含んでいるのである。核を控えた平和論議は悲惨である。今の人の智恵をもってしては、拡散された核を地上から消滅せしめる事は出来ないのではないか。これにはキリストも釈尊も驚いていることであろう。自ら作ったものを消滅することが出来ないということは悲惨の限りである。それを完全に抹消出来た時、始めて平和の訪れもあろうというものである。それが完了した時、地上の人が残り住んでいるや否やそれは凡俗には分らないことである。
 日蓮が己心の法門の暴走を恐れ、俗智恵を除いて専ら魂魄の上に英智を求めている。或はそこには平和があり得るのであろう。初めから人智を除いた処に平和を求めているのである。原爆の跡始末をだまって依頼し、押し付けるのは余りといえば人が好過ぎるのではないか。日蓮には危険な部分は流罪を取り上げることによって既に除かれているのである。平和を唱えるためにはそれだけの用意が必要なのではなかろうか。
 今となって平和を唱える位なら、明治の頃国柱会説の出た頃、世界の注目するような平和論議を持ち出すべきではなかったであろうか。吾々はそこに大きな疑問をもつものである。日蓮説も捉え方によっては暴走に走ることを知るべきである。文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門は、あくまで文の底に捉えることにその意義があるのである。それは得々として明らさまにすべきものではない。日蓮の場合、平和はあくまで秘められたものであった。日蓮の時代には原爆の必要はなかったのである。明治初年に今の平和を唱えて居れば、今のような被害はなかったのかも知れない。そのような説が鎌倉の頃説かれているとは驚きである。
 今平和論議を活字にしても世上から核が消えるようなことはないであろう。「日本人の自画像」の日本人は既に核のない平和を求める人間像であったのである。それを七百年以前に説いたのが日蓮説であったが、明治に説かれた日蓮像には闘争好みの像が強く浮き掘りにされている。それは一見威勢はよいけれども全くの見かけ倒しであった。世を指導する人の姿ではなかった。魂魄を唱えた日蓮像を今こそ再度見直してもらいたいと思う。現状では日蓮を誤るものといわなければならない。甚深にして届きがたいということであろうか。
 遠くなり近く鳴海の浜千鳥、その遠近をきめるのは人の智恵である。この鳴海の下の句は、鳴く音に潮の満干をぞ知るという有名な古歌である。日蓮という人は、今の知恵者より今一歩深い処でものを考えていたようである。そこに江南直伝の秘説があるのではなかろうか。大いに世上に流布したいものである。平和を唱えるためには表立って魂魄を取り上げて法花経寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門を取り上げ、宣伝してもらいたいものである。然して後に堂々と平和論議を尽くしてもらいたい。現状ではその出処が明確でないように思う。ついでに魂魄佐渡の到るの解説もしてをいてもらいたい。
 己心を取り上げた人等で再三の注意を振り切って遂に我心に走り、自らその被害を受けようとしている。これを自業自得果という。これは自ら振り濯ぐべきものである。これは日蓮説から自らの力をもって探り出してもらいたいものである。平和は日蓮説につなげて説きだしてもらいたいものである。一犬虚を吠える方式では興味が湧かない。まず門弟として己心と我心の差別をはっきりと立て別けることから始めなければならない。
 国柱会方式を取り入れている宗門には、軍部の取り上げた広宣流布方式はあるが、それは自らを最高最尊の処に据えるのであるが、日蓮は常に自らを最低下に居いているのである。この点混乱のないように。今の法主は何故か自らを最高最尊の処にすえているようである。それはその俗身が高いのではなく、法の深いことを表わしているのである。それは報身如来を根本に立てる故である。その報身如来は本因を必要とするものである。本因を失った処に最高の報身が考えられるや否や、大いに再考を要する処である。
 軍部の広宣流布方式は夢とは逆に遂に世界戦争に突入した。何故そのような結果が出たのか、門下相寄ってその根本を明らめておくべきものである。この己心の一念三千法門はどこまでも我心と読まないことが肝要である。誤読すれば必らず初期において己れを利する面もあるが、やがて自身に被害を及ぼすものがある。
 若し己心と我心とが混同すれば、或る時突如として本仏を越えることがある危険がある。若し本仏を乗り越える時は因果の混乱を起すようなことにもなる。そこから遂に世界戦争に突入していったのである。これは予じめ欲望を避けておかなければならない所である。法主の処でもし因果の混乱が起れば、そこには天皇に近づくようなことにも成り兼ねない。法主を形容する語に、恐れ多くも勿体なくもという語がよく使われている異状さである。聞きなれるまでは実に奇異な感にうたれるものである。それは明治教学の一つの特徴である。
 法花一部は高い処にあって、人の手の届かない処にあるものである。これを文はまつ毛のごとしという、あまり近すぎて見えにくい故である。もし己心の法門が欲望の処に建立されるようなことがあれば、どのような混乱を起こすかも分らない。法花一部飽くまで魂魄世界で読みとってもらいたいと思う。
 法花経は羅什訳に限るといわれているが、これは羅什訳を更に謝霊運が豊かな知識を駆使して出来上ったのが今の羅什訳法花経なのである。この経の中には訳者の豊かな知識が十二分にもり込まれているのである。羅什訳によれば中国と印度の知識をも十分に備えることが出来るので、この法花経一部で十分であるという意をもっているのであろう。
 法花の訳経の中では、今の謝霊運漢訳法花経は遥かに他訳に勝れているようである。この法花経には豊かな謝霊運の知識が十分につぎこまれているのである。この経には自然に師弟子の法門が具わっているのではないかと思う。この法花の持つ因果はそのまま世間の因果と同じであり、それがまた蓮花因果と師弟子の因果と等しいものがあるようである。
 この師弟子の法門は法花を知る上において最も重要なもののように思う。蓮花因果はよく融合して衆生の己心に一箇しているものである。その高さを表わすために富士山の火口の蓮花を考え合せているようである。仏教の蓮花と世間の蓮花との即一をねらっているのであろう。そこに師弟因果があるのであろう。これは理屈抜きの即一である。ここにも江南の法門の深みが残されているようである。冨士派ではその蓮花を宗門に即して考えているようであるが、今は師弟子の法門とは無関係の処におかれているようである。師弟因果の因果には因果に即して深い修行を秘めているが、今はそれも忘れられて五百塵点も中々捉えがたいようである。
 妙法の名は蓮花に其の名を得ているということであるが、それは本因と共に打ちすてられたようである。それを信心から信頼にとりかえてもらいたい。互いの信頼の上に事が運べば、魂魄の上の平和を求めることも可能になるかもしれない。そこがキリスト教の愛からくる平和との相違点が見えるようである。キリスト教の場合は俗身の主張する処がこまやかである。俗心の上に語られるもの、魂魄の上に語られる平和であることに注意を向けたいと思う。そこには凡俗の欲望の入りこむ余地があるのではなかろうか。日蓮が法門では初めからそれを最も警戒しているようである。そこから大乗修行は始められている。それは師弟子の法門を信じることによって始まっているのである。そこから信頼も涌いてこようというものである。
 エホバの証人も己心の法門をとり上げているが、それは我心に近いようである。そこには俗心が強い感じである。己心を己の心と訳せば、それは我が心と受け止められるかもしれない。己心はあくまで魂魄の上にあるべきものである。己心と我心との区別は益々つけにくくなるであろう。最初が大切なのである。翻訳作業の時、己心に我心と欲心が混同したようである。モルモン経の人等にもその区別は重ね重ね注意したが、なかなかに本来のものに返すことは出来なかった。ここの処はアメリカの人等には最も理解しにくいことであったかもしれない。それは今もそれを受けつがれているようである。これは日本人でも区別は困難なものである。
 己心の法門は何れの国の人にもその意はとらえ難いようである。そこの処に東洋的な読み方は何と説明しても理解しにくいようであった。ドイツ学によった国柱会教学は軍部の広布方式によるもの。大石寺の明治教学等の己心の解釈は、今のアメリカの解釈に近いものをもっているように思う。この読みは遂に成功しなかったようである。修正は少しでも早い方がよいように思う。軍部の広布方式を取り入れたものは例外なく失敗に終っている。何れも平和を目指したものであるが、結果的には闘争に走ったようである。キリスト教の平和にも闘争につながるものをもっているようである。正宗も今では本因をすてているようである。そのために因果の混乱が自然に生じているのである。今となって身延派でも国柱会教学をとるべきか捨てるべきか色々に迷っているようである。
 佐渡において日蓮を力付けたのは白頭の烏である。この烏の活躍の場は魂魄のように思われる。この烏の故里は趙宋のようである。白頭の烏とは燕である。白頭の烏は、秋が来れば今年生れた子供を引きつれて燕の国に帰り、また明年故地に帰ってくるのである。趙宋の地を、燕の国を故里として常に往復しているのである。そして明年は必らず帰り、その時赦免状を持って帰ることになっているようである。昔、高麗の地が燕の国に占領されていた時代の名残りのようである。日蓮も佐渡に流されて故事を思い起して赦免状を期待していたことであろう。そして魂魄の上にその赦免状は受けとったことであろう。魂魄の上の受領は必らず行われたことであろう。その佐渡では興師の師弟子の法門によって、佐渡の本末は師弟子の法門によって、興師に直々に済われたようである。佐渡は師弟子の法門の故里である。
 今の世上では信頼関係は次第に薄れるようである。今、平和の語が盛んに説かれるが、それは相互の信頼関係の中にあって始めて成り立つものである。ドイツ哲学では強い者が先んづることになっているのであろうか。一歩退いて待てばそこには平和があるものである。互いの力が出合えば火花が散る筈である。その時、信頼関係が欲しいのである。師弟子の法門では互いに一歩ひかえ乍ら足を進めるのである。そして師弟相寄って仏道を成じるのである。そこには謙譲の徳も在り得るかもしれない。そこに久遠の修行をも考えようというのである。
 鎌倉以来、次ぎ次ぎに事行に繰り入れられた法門が山積しているのではないかと思う。今こそこれを取り出して、文字の上に整理を繰り反す時が来ているのではなかろうか。今は事行の法門の大半は消滅しているのではなかろうか。昔から事に行じられたままになっているものも多いと思う。今にして集録しておかないと、年を経る毎に集めにくくなるのではなかろうか。そこには意外な甚深なものがあるのではないかと思う。今それを集録出来る最後の時ではなかろうか。そこには本末究竟してよいものがあるのではなかろうか。それを詮じつめればそこには本尊が出るかもしれない。そこには長い深い経験の集積があるのかもしれないと思う。
 今のような本果一本の処には独自なものがあるかどうかも分らないと思う。本果による限りどうしても他宗の物真似的なものになり易いと思う。独自のものが欲しいと思う。現状では他宗から見た場合、日蓮の主張している処がはっきり出ないのである。声を大にして日蓮が主張する所を明確にしてもらいたいと思う。従来の処を見ても開目抄や本尊抄に説かれている所はあまり明了には主張していないと思う。これは門下一般に通用するもののようである。事を事に行ずる事行の法門にまかせ切りで、それについて格別に検討を持たなかったのではないであろうか。今では事行にまかせ切りで、殆んどそのまま追求されることもなかったのである。
 今こそ改めて事行の法門を子細に掘り起こす時ではなかろうか。事を事に行ずるという事でまかせ切りになって、それの持つ意義も失なわれているのではないであろうか。今が最後の時期ではないであろうか。このままでは近い将来、その骨格になるものが失なわれるのではないかと思う。宗門人の立ち上りを期待したいと思う。師弟子の法門では成道に必要な修行は繰り込まれているのである。大乗の成道に必要な修行はすべて繰りこまれているのである。それを子細に知らなければならない。
 今、久遠以来の修行がどのように行なわれているのであろうか。それをも詳細に知って居なければならない。それが失なわれると折角成道をとげ乍らそれを理解する事が出来ない。そして五百塵点の当初さえ、その意義の真実が理解出来にくくなっているのが現状ではなかろうか。回峯行もあまり峰を回り過ぎると、小乗行となり下れるしかないのである。叡山では今も回峯行は続けられているのである。反って祖師の教えをゆがめることになるものもある。折角の大乗行を、小乗行として行じたのでは功徳にもなり得ない。反って祖師の教えに背いていることを知らなければならない。
 真実を真実に伝える処にむずかしさがある。そこに師弟子の道もあろうというものである。今の時代に合わせて新解釈をつけても、古いものにしっくりとあわせることは困難である。気持のみ超過することも危険である。師弟子の法門ではそれに必要な大乗修行は、人の目につかない処で修行は成り立っている。五百塵点以来の修行である。これだけを単独に探りあてることは困難である。叡山にあって小乗修行にあけるれることは全く無意味なことである。
 本末の師弟相寄って修行することを確認する処に究竟もあろうというものである。そこに出現するのが不思議の一法である。そこに本因境界も出現しようというものである。小乗修行を事にくり反してみても祖師は決して喜ばないであろうと思う。改めて本末究竟の重大な意義をしるべきである。本末究竟は見廻してみても探りあてらえるものではない。まず師弟子の法門を知らなければならない。そしてそこには必らず本因妙を考える必要があるのである。これのみはお忘れのないように。これを忘れては五百塵点以来の修行はとらえ難いのである。
 師弟子の法門を外れているが故に当初が捉えがたいのである。師弟子の法門では他のために示すものは不必要なようである。今の時代は解釈が時代からどんどん取り残されている御時勢である。気持だけが超過することも亦危険である。師弟子の法門は本末寺の中間にあって常に修行をくり返しているのである。そこにあるのが己心の法門である。久遠というも五百塵点というも、そこにあるものである。今はその理を建造物として示す必要はないものと思う。それに威を示すよりは、その内容を整えるべきではないか。
 魂魄についてはどのように考えているのであろうか。古伝の独自の成道方式はあまりにも秘められすぎて、自他に分らない方向に向いたままになっているようである。これでは折角の法門もその威力を発揮することは出来ない。改めて考え直すべきであると思う。衆生は成道以後その姿を他に示す必要はない。その秘められた処にその意義があろうというものである。今宗門でなさなければならないことは、明治以降他門から移入した教義の精算である。今それを反省する時が来ているのではないかと思う。法教院も宗務院も明治教学を守ることに汲々としているのではないか。他門ではそれぞれ検討を終っているようである。未だにその気配を感じられないのは何故であろう。
 

 

 国(二)
 安国の国、国界の国である。日蓮教学の中では要領を得ない語であり、未だにその定義付けは不明である。その不明の処から色々と問題を提供しているのではないかと思う。その国とは己心の処にあるべきもの、そこには国家の意はもっていない。それが時に国家を思わせるようなものを見せるのである。立正安国も又国家意識を思わせるものがある。時に鎮護国家と合流して使われることがある。国には本来因果国の国、即ち国土世間の国が最も近いのではないかと思う。法然の法門は日蓮と同じ処に立っているのではないかと思う。その中で国の持つ意義は重要なものではなかったであろうか。国土世間の国土を根本としてをれば、或は師弟子の法門もあり得るかもしれない。そのような中で、鎌倉以来常に争いをくり返して来ているのである。徳川の終るまでそれをくり返しているのである。
 師弟子の法門をとることによって、また本末寺の建立によって衆生の成道に必要な久遠以来の修行は絶えることなく繰り返しているのである。要はそれを確認するかしないかだけの事である。それを確認することによって一揆の存在も可能なのではなかろうか。これもまた天正頃の天台法門からいえば不都合のそしりはまぬがれないであろう。所謂中古天台といわれるものをもっているのである。それは四明流をとることになった北宋の教学を根本に仰いだ日本天台の教学による批判である。むしろ南宋の教学を受けていたものの処に正常なものがあるのではなかろうか。それを受けついているのが従義の一派である。
 室町の頃から、日本天台は江北の教学の影響を強くうけている。そこからは従義の南宋教学は認められないであろう。一揆の根本になるのは己心の法門であったのではなかろうか。北宋との交流の盛んな時代には長くその影響をうけた。それは元亀天正の頃までは続いていたようである。そのような中で茶道が興隆したのであった。當時、煎茶は取り残されていたようである。その国土は浄土宗でも重要な役割りをもっていたのではなかろうか。その上に一揆の存在もはっきりするかもしれない。そこに師弟子の法門の存在も考えなければならない。その研究は或は取り残されているのではなかろうか。改めて研究してもらいたいと思う。
 幕末まで盛んであった文房四宝の道は、今、気息奄々としている状態である。筆者は自らその中にあって生きてきたものである。それがたまたま大石寺上代の法門の中に共通点を見出だして興味をもったものである。そこにはまだまだ不明のものが存在しているようである。その中に書も絵も含まれている。江北に流行った絵を北宗画(ホクシュウガ)といい、江南の絵を南宗画とも南画ともいうが、宗は宋の誤りのように思われる。煎茶は盧仝の流れを汲むものである。これもいよいよ終末に近付いたようである。
 今、古えの煎茶がどこに伝わっているであろうか、これもまた消滅の方向をたどっているのではなかろうか。思えば淋しい限りである。ここまでくれば独走のみが只残された道である。そのような処に一揆もあり得るのではなかろうか。法然にも西国への流罪があったが、どのように受けとめられているのであろう。日蓮は自らの佐渡の流罪を、竺の道生の流罪と等しく受けとめているようである。それがどのように結ばれたかは本因本果の解釈による処である。
 軍部のとりあげた法門には因果の混乱をもっていたようである。これが後になって災いを起したのではないかと思う。これは動き初める前に整理すべきであると思う。今の正宗では、この法門をそのまま移入しているのではないかと思う。そのために色々と苦労を重ねているのではないかと思う。先になる程整理しにくいのではないかと思う。法然にも日蓮の佐渡流罪と同じような受けとめ方があったのではなかろうか。そして竺の道生から頓悟を受けとっていたとは考えられないであろうか。是非御教示を受けたいと思う。
 軍部のとり上げた国柱会教学は、本果のみが強かったのではないかと思う。そこに失敗の原因があったのではなかろうか。そこには本因を忘れていたのではないかと思う。法教院もそこの処を子細に研究してもらいたいと思う。法教院の教学の根本もそこにおかれているのではないかと思う。特に因果についてよく研究してもらいたいと思う。阿部教学も亦同様である。これはどうも師弟子の法門も忘れられているのではないかと思う。本因が薄れたために五百塵点の当初が求めがたいのではなかろうか。
 本因が消えたのは他門の法門の都合によって薄らいでいるのである。後には本果のみがつよくなっていくようである。それらについて抜本的な法門の研究が必要である。阿部教学の注ぎ処はそのあたりに重要な処があるのではなかろうか。今は理屈抜きで本因が消されているように思う。これがなければ久遠元初を求めることは出来ない筈である。そして同時に衆生成道も思い切らなければならない。これは痛いのではなかろうか。ここにおいてあくまで独自のものを造り出さなければならない。
 二十一世紀を乗りこえるために更めて師弟子の法門の研究を始めてもらいたい。この法門は識らず知らざる間に久遠以来の修行を行なっているのである。それが即ち大乗修行である。いくら苦しんでも今大乗修行をすることは不可能である。そこは無意識のうちに修行をとり入れるのが最も賢明な方法である。
 うわさによれば阿部さんも五百塵点の当初を求め出すことについては大分困惑しているのではないかという評であるが、それは不知不識の中に求めるようになっているのが、冨士教学の師弟子の法門なのである。そこの処は御相伝から抜けたのではなかろうか。これは文字をもって受けるものではなく、必らず事行で受けとめるべきものである。これまた双方が確認することがまず必要なのである。確認すればそこに自動的に師弟子の法門が働くのではないであろうか。
 最終的には師弟因果の法門による処ではないかと思う。何ををいてもこの師弟因果を明らめる処に秘密があるように思えてならない。これらの秘密は本末寺関係の中に、古くから秘められてきているのではないかと思う。今、これが気が付かないとは少し迂闊なのではなかろうか。本末関係の中に、師弟子の法門が中に秘められていると見るべきではなかろうか。今はこれが只外相一辺にとらえられたために、本末の力関係のみが大きく捉えられているのみのようで、肝心の処は失なわれているように思われる。
 この法門は従義の処にあって委しく伝えられているのではなかろうか。今は四明によっているために、そのあたりのことが明確でない。頸にかけさせ給うた処の、文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門に連絡がつけられているのではなかろうか。その頸にかけさせ給うた三大秘法、それの受持の仕方を明らめられているのが当家三衣抄である。しかし昔からこれは僧侶に必要なもの、信者には全く必要のないものという解釈が、当家三衣抄については常にそのような解釈が行われてきているのである。これは頸にかけさしめたもうた三衣の意味を、とり違えているためである。
 その身は既に三衣であり三秘であるということは、日蓮よりの印可を得ているのである。それさえもはっきり理解出来なかったのが実情である。戦後しばらくは、この説が通用していたのである。今は当家三衣抄をそのように理解する人等は全くなくなったようである。それが滅後末法のありのままの姿である。それを一言にまとめるとき、これが戒旦の本尊と称えられているのではなかろうか。これは事行の法門の上の呼称なのかもしれない。時をいえば滅後末法の時である。熱原の愚痴の者共出現の時である。近代は他の圧力によってきたが、法力は既にその影は薄くなっているのである。
 今、吾々の生きるこの世界こそ滅後末法であるものである。この愚悪の凡夫こそ救いの対照であったのである。そこに日蓮の心に画かれた凡夫とは、一体どのような姿なのであろうか。それらは本果による従来の方法では度しがたい者のみであった。この日蓮独自の法門は専ら独逸学によって理解されてきているのである。思わぬ方角に発展していったのは、独逸学によったための独走による処である。今からでも本来の東洋哲学によって理解すべきものである。
 現状では感覚のずれが強すぎるようである。本来のものからいえば、筋違いなのである。即ち疝気すぢであるところ、要注意である。細かい配慮が必要である。時節をいえば滅後末法であり、授与される本尊の脇書きはそれを表明しているのである。授与した師と、授与された弟子との間に自然に師弟子の法門が完成するのである。それはまず捉えなければならない。それを捉えることが時を知るということなのである。
 例えば嵐の中に手の施しようのない大きな力を感じた時、それを乗り越えるための智恵、そこに天の命を感じ、或はそのような時そこに師弟子の法門を立て、そこに林を造ってこれを東海林と称して、その風を和らげる智恵をはたらかすのである。この林は家の周囲、海辺の田圃をとりまいて、自然の嵐の力を剥ぐ智恵をはたらかしている。例は各地に残されている。東風の強い処では東に林を作って、それをもって風の力を和らげている。それは滅後末法に生きる衆生の智恵である。天はその間を縫い乍ら荒れるのである。そのような中を生きのびてゆく力こそ、庶民の滅後末法に生きる神力なのである。
 昔は崩れるものは崩れ、流れ去った処を選んで生活していたので、今のように削り立ての土地に家を立てて、がけ崩れの被害を受けるようなことは珍しかったが、被害は毎年少しづつ繰り返してきていたのである。今はそれに対する予防策はとられていないようである。天命を軽んじる処にその被害を大きくしている根元があるようである。今は天命を軽んじている処が強いのではなかろうか。天命を軽んじるために天のお叱りを被っているのである。もっと謙虚に受けとめるべきであると思う。先人は、常に天の試練を越えて来ているのである。己心の一念三千法門をもって乗り越えている。そこにこの法門の偉大さがあるのである。自力といわれているのが己心の一念三千法門なのである。
 日蓮の滅後末法の構想は、末法の門弟にはそれ程深刻には受けとめられていないようである。今は専ら四明流によって解しているが、古くは従義流によって解されていた、そこに少しづつ解釈の相違があったのではなかろうか。今は天台でも四明によっているのではないかと思う。そこに従義流との間に僅かの相違点があるのではないかと思う。四明流は理の赴く処、ドイツ学に近いのではなかろうか。
 頸にかけて授与された本尊等の三秘も、僅かの解釈によって結果的には違ってくる筈である。その三秘も滅後を表明しているものであろう、即ち時の表示である。この滅後末法の表示、浄土宗ではどのように時を表示しているのであろうか、是非承知したい処である。在世をとるか滅後をとるか是非承知したいものである。滅後末法を唱える門下諸宗、何れも行きづまっているようである。身延でも国柱会教学をどのように受けとめるか、これについて結論を求められているようである。
 長い間受けとめてきた教学も、今となっては昔ながらに受けとめることはできないようである。現代は因果倶時の処で受けとめるべき世上のように思う。本果を越えた処では、いろいろこじれているようである。環境問題のこじれも因果の不均衡から事が始まっているようである。因果が倶時であれば、そこには不思議の一法をみることも出来る。若しそれをみとめることがあれば、そこにはその法から本仏や本尊を求めることも出来る、そこに平和があるのではなかろうか。その動きつづける処に本法があり平和があるようである。今の世上では平和を求めるのに世界中の諸国が最も苦慮している処である。今の平和は、本果の処に静止した平和を平和と称しているのではないかと思う。
 日蓮は本因の処に平和を求めている。これがどうも理解されにくいように思われる。今は日蓮説の法門が本果の上に本因に限っているものを説くようになっている。そこで独逸学をもって説かれる時、因果の混乱をもじり、そのために平和であるべきものが、争闘と現じているようである。そのために平和が争闘と現われていることに気が付かないのである。科学優先の中で、遂に平和を求め乍ら核を見出だし、核兵器に到達した時、平和とはかけはなれた処に到達したのである。今はそのような中で核兵器を温存しながら、その上に平和を求めている。そして石油を色々に利用しているなかで、今、環境問題でも行きづまったようである。次々に予想もしない色々な問題に出くわしているであろう。
 今の在り方の中には、平和があるかどうか大きな疑問がある。軍部の広宣流布も因果の混乱をもっていたのである。そのために因果の混乱を起し、平和とは逆に闘争に近い方向に走ったのである。今、アメリカも同じ問題で平和に行きつまっているのである。日蓮はそれを承知して居たために、俗身を外して魂魄の上に法門の結論を求めていたのであろう。考え方に相当の隔りがあったようである。
 日蓮入寂以後、魂魄については今に門下からこれを提唱したことを聞かない。弟子側では全く黙殺の貌である。そこは常識の相違である。六百年後ドイツ学によって解釈した途端に行きづまって、それ以後百年を経ても日蓮説は一向に取り上げられないままである。筆者がこれを取り出したのは今から十年以前、まずこれに注目したのはアメリカであった。それはアメリカが行きづまっていたためであった。日本では一向に行きづまることもなかったようである。どうも分らないことである。今は色々と注目する人も増えたように思う。鎌倉以後七百年、今には日本人は興味を起さないようである。
 本果を唱える門下では、何れも教義的には行きづまっているのではないかと思うが、思いきって日蓮説に随従して、魂魄説に従ってはどのようなものであろう。今のままでは因果倶時を求めることは困難なようである。同じ日本人が七百年前にといたものが、今となって何故理解出来ないのであろうか。開目抄や本尊抄には子細にとかれているのである。従来あまり読まれていないようである。一揆を称えるためには、本因本果因果倶時の法門が、必らず必要なのではなかろうか。この己心の法門、何故日本人には理解出来ないのであろうか。

 

 寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門
 これは天台を代表する名法門である。これを一言もって邪義と下したのは、日蓮正宗の宗門誌大日蓮誌であった。古今東西その例を見ない暴言である。いま、日蓮を宗祖と仰ぎ乍ら、そこから依って来る種々の法門、重々のその恩恵に浴し乍ら、何等報いることもせず、その中に含まれている師弟子の法門、三秘等、何等その内容にふれることもなく、一刀の下に鮮やかに両断した無謀さである。
 他門に冠たる事を事に行ずる法門、これはそれを事に行じて示して、理解せしめる以外に名案がないので案じ出された法門であった。それは文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門から、三秘を取り出す唯一の方法であったものである。それは自説が邪義である裏付であった。結局、本尊抄を邪義ときめてみても、宗門からも学会からもついぞ賛同者は一人もなく、結局は、学会も急ぎ六巻抄及び己心の法門を再び取り上げ、その甚深な処と取り組まざるを得なかったのであるが、宗門は一向にその非を認めようとしない。
 学会は草創期の、明治初年の国柱会教学直訳の教学から脱皮した、その度胸に対する報いによって、再び六巻抄及本尊抄・開目抄の、魂魄による己心の一念三千法門の恩恵に浴するようなことに、立ち帰ることが出来たのである。まずは目出たし目出たしという処である。それに対して、久遠元初の本仏の己心では何とも分かりにくい。それは本因妙を切り捨てたためつよく不可解なのであろうか。これではその文意を六巻抄及本尊抄・開目抄等の御書から探り求めることは出来ない。
 速かに古伝の法門等は、重要御書及び相伝等から、速かに裏付けをしてもらいたい。それは宗門当局及び法教院諸公の責務なのではなかろうか。三大秘法抄や初心成仏抄を除いた処で子細に裏付けすべきである。しかし乍らそのためにはこの法門、あらかじめ本果の法門を表立てることから始めなければならない。又これは意外に難問なのである。必らずこれはドイツ学に関わらないで、事を始めなければならない。このドイツ学には一切関わりを持たないことが肝要である。この法門、現在までに色々と被害を受けている筈である。
 第一巻を発行された石田氏の研究叢書、続く筈の四巻にはついぞお目通りすることは出来なかった。それは第一巻を見た目に予測した通りであった。今最も求められているのはこの教学からの脱皮である。そこに平和のないことは既に證明済みである。軍部もこの法門からの脱皮は遂に出来なかった。その犠牲にあったのである。六巻抄も本尊抄も開目抄もこのドイツ学の前には全く顔色なしということである。今こそそれを精算すべき時である。
 今後は六巻抄及び開目抄・本尊抄の研究に安心して精進してもらいたい。六巻抄がどのような構成の中にあるのか、改めて静かにその成果を示してもらいたい。明治教学の痛い処はドイツ学を根本にしている処で、この学は日蓮学を進めるためには最も障礙の多いものである。初心成仏抄によって、ドイツ学を利用して日蓮学の解明を進めては全く不可解になるのみで、最後は華厳の滝に聞かなければ分らないことになるかもしれない。そこでは、肝心の東洋学については一切解かれていないのである。
 日蓮学とドイツ学とは、ついぞ出合いの日はなかったようである。今後は他門から小突かれる恐れはないから安心して宗学に励んでもらいたいと思う。そして衆生と共々に成道の歓びを楽しんでもらいたいと思う。ドイツ学に平和を秘めていなかったことは既に経験ずみである。再び愚をくり返さないようにしてもらいたい。ドイツ学には本来として五百塵点の当初には無関係なのである。安心して江南の学によって研鑽を積んで、その余る処があれば世間に流してもらいたい。
 平和を求め乍らそこに登場したのが原子爆弾であった。これが所謂文明である。今の環境汚染も文明の成果である。若し不用になった時、今の文明はこれを元の原子に返せないのである。そこに片手落ちの処がある。それはやがて森林を枯らし、地球を砂漠化するようなことになるかもしれない。今、世上には平和を求める声が充満しているのである。そのような中で地球の温暖化はいよいよ進んでいるのである。
 害毒になるものは絶え間なく地球に向って拡散しているのである。人の智恵は地上をますます住みにくいものにしているようである。「無為にして化す」智恵が欲しい処である。それ程の学を期待するのは無理ということであろうか。「人、法を作る。何んぞ法あらんや」と古の人は大らかである。これは悪しく受けとめるなら無法地帯である。それは相手に学があってこそ通用するのである。これは修行の満ち足りた人について通用する語である。
 今必要なことは魂魄の上の修行、即ち師弟子の法門の上の修行が必要なのである。これが世間を静める力をもっているのである。その時の陰の修行が大乗修行ではないであろうか。小乗修行はその修行している状況が人の目に付き易いのである。大乗修行には人の目に触れることを斥うのではなかろうか。そこに各々の修行の特徴があるように思う。衆生の修行とは、そのようなかくれた修行の処に真実を秘めているのではなかろうか。
 開目抄の魂魄佐渡にいたるの文は、今に七百年、一向に門下から取り上げているのを見たことがない。そこに方向を誤る根本になるものが秘められているのである。門下ではもっとこの抄の魂魄の語を、たち入って考えるべきである。魂魄を根本とした行動であれば、そこには世間に無用の浪風を送ることもないであろう。
 今、最近のアメリカの言動の中には、理解しかねるものが多分にある。己心の法門を誤って俗念の上に、無軌道に使い過ぎている感じである。天は既に警告を発している如くである。この法門は、常に自らを最高最尊の位につけようとするくせがあるようである。魂魄佐渡に至るの文は、鎌倉以来殆んど黙殺されたままのようである。その彼方に、今世間が求めている平和が存在しているのである。今平和と称しているものには、争闘に通じる危険を持っているのではないかと思う。今は俗身の上に、全くの無修行の処に平和を求めようとしている。これを防ぐために師弟子の法門が必要なのである。
 

 

 体外の平和と体内の平和
 今の外相一片の平和とは体外の平和である。これをドイツ学によって解した時、そこに争闘が出現するのである。この法門、魂魄の上に解すべきであることは、開目抄のお示しのごとくである。体内の平和は、魂魄の上に常に平和を持続しているのである。今は誤って俗身の上に、体内の平和を求めようとしているのである。この平和、もとは趙宋の地に発生したものである。世界の指導者は、この魂魄の上の平和をもって、指導理念の根本においてもらいたいと思う。そこには再び、世界に平和の夜見帰る日が来ることであろう。カンボヂヤ問題でも、この体内の平和が必要なのではなかろうか。今のアメリカによる平和方式がいつまで続くであろうか。
 今の世上は、滅後末法のうちの最悪の事である。この日を撰んで最高の日と称するのが、滅後末法の法門の根本におかれているのである。その中心になるのが、一人の愚悪の凡夫の魂魄の上の平和、それを根本として、そこに本尊を表明しようとするのが、滅後末法の根本になっているのである。そこにあるのが体内の平和である。それは、体外の平和を誤って体内の平和と受けとめている。そこに思わぬ混乱が待ち伏せしていたのである。何とも不覚千万という外はない。この魂魄の上の己心の法門、真実甚深の己心の法門である。著作されて三百年、漸く研究の眼を向けられた六巻抄も、学会も何れ真剣に取り組むことであろう。六巻抄も宗門から見向きもせられないでは悲劇である。その成果を要約して前進にも役立ててもらいたいものである。筆者も今一度、子細に読み直してみたいと考えて居る。
 現在の宗学から平和を求めることは出来ない。それだけの條件は揃っていないように思う。若し学会が独自にこれを論ずるなら、その教学にその條件を自ら揃えなければならない。双方共に、平和を称えているとはいえない状態ではないかと思う。條件が揃えば、世界平和は速刻到来するであろう。それは必らず魂魄の上に到来するものに限るようである。後の五百歳広令流布は、そのまま流転の現実世界にあり得るものではなく、それは必らず魂魄の上に招来すべきもののようである。それは日蓮が門弟には、それこそ師の厳命であることを知らなければならない。それを俗身に広布を受授出来るや否や、甚だ疑問が多いといわなければならない。
 今度、名誉会長の平和論文が平和の専門誌に載せられるようであるが、それを説き出すためには、その土壌が常に必要である。その土壌は、常々筆者が宗門から憎まれ乍ら、声を大にして宣伝している魂魄の上の己心の一念三千法門である。それは大日蓮が唱えて、邪義と称したものである。「久遠元初の本仏の己心」からは、そのようなものは出にくい。それはむしろ争闘につながるものが出易いのではなかろうか。法教院教学及び、学会教学が説いている処では、その平和にはつながりにくいのではないか。そのために筆者は、既に初めて十余年の年月を費しているのである。それは、決して一夜漬けで出来上るものでもないように思う。今まで宗門が信奉してきた明治教学からは、決して出生するようなものではない。そこははっきり、教学の根底をそこに求めていることを明らかにしてもらいたい。それを教導するために編揖されたのが六巻抄である。今までの処、筆者の解釈について自他門から破責を受けたことはない。いよいよ六巻抄の必要な世が到来したのではなかろうか。
 今年のお虫払説法に示された宗門を代表する教学に、平和が型通りに現われたとは思われない。今の世上は、己心と我心との混乱時代である。これは必らず分類して整束して承知しておくべきものである。若し、阿部さんに示された広布方式が世間に示現せられるなら、それは明治・大正・昭和の広布方式を繰り反す恐れがあるのではなかろうか。吾々は、そのようにこれを感得しているものである。その平和は最後には行き詰まって、混乱を起す下地をもっているものと考えなければならない。始めは平和であっても、後には争闘を繰り返すものではないかと思う。魂魄の上に説かれたものが、ドイツ哲学によって推進せられるためである。吾々は、そこに危険を感じているものである。今一度、改めて魂魄の上の平和を考え合せてもらわなければならない。
 上代の法門に依って来たる魂魄の上の法門の上に、平和を求めてもらいたいと思う。今は己心を我心の処で考えているために、深く俗心が付きまとっているので、そのために折角現じた平和に狂いが生じるのである。それは今、最も気を付けなければならない処である。それを正常に導くために、事行の法門が無意識に行ぜられるような仕組みになっているのである。この事行の法門は、実には過去の戦争に対する反省にも向けられるべきものではないかと思う。
 己心の法門をドイツ哲学をもって世俗の処で押しまくった結果が、戦争行為に導いたのである。己心の法門の運営方法について誤りがあったようである。この法門、外相に対しては、飽くまで内秘が肝要ではないかと思う。今の宗門には、未だに明治教学の名残が、どこかに残存しているという恐れはないであろうか。
 室町に入った以後、この法門は外相の上に急成長したのではなかろうか。それが互いに関わり合って成長し、明治に至ってそれを急きたてているように思う。そのようなものに成長したのは、室町の頃のことである。各門下、互いに鎬をけづり、特異な教学に生長していったようである。そのような中で、像門教学の影響は大きかったようである。その間にあって色々と御書も作られ、新説も成長していったようである。この頃は北宋とも次第に交流が深まり、四明教学も渡来してをり、天台教学もそれによって大きく変化を催し、また浄土真宗や浄土宗が大きくのびる頃でもある。海を渡ってきた禅宗も、どんどん渡って新風を吹きこむ時期でもある。
 京にあって二十一ケ本山を誇った日蓮宗も、遂に燒き打ちにあって堺の港に難を避けたのは天文の頃であった。そしてさんざんに天台に絞られた揚句帰京し、旧知に帰ることを許された程の始末であった。そして新らしく再出発したのであった。このあと大巾に教義が四明化するのである。三大秘法抄・初心成仏抄・盂蘭盆御書のような御書が次ぎ次ぎに作られて、法門が複雑になっていくのである。自説の裏付けのために、御書が制作される時期である。そして観心の本尊抄や開目抄・報恩抄もあまり立ち入って読まれることもなく、明治になっても今に至るまであまり深く穿鑿されていないようである。読み方が今から思っても、いがいと浅すぎるように思う。殆んど己心の法門も見過ごしたままのごとき状態である。そして各門下と天台との間の法門が、このあといよいよ混乱を迎えて明治を迎えるのである。その頃浄土宗では、特に教学に力を注いだようである。
 明治の文明開化の中で大きく門下に影響を与えたのがドイツ哲学であった。これをまづ取り入れたのが国柱会教学であった。これは一時は門下を風靡する程の力を示したものであった。しかし今は往年の勢いは失せたようである。その教学は門下何れも影響を受けていたようで、大石寺もその教学の上に花が咲いたようであった。それは今もその名残りを止めている。それは伝統の教学からそのよさを取り除く力をもっていたようで、明治教学と称しているものがそれである。今は時代の異りのなかで次ぎ次ぎに失なわれているようである。古への軍部のような或る種の危険な教学をもっているためである。
 末長く庶民と共に在るためには文の底に秘して沈めた己心の法門に及ぶものはないようである。最近では時が変ったためか、聖教新聞によれば徐々に六巻抄に近付こうとしているようである。これからの時代は、今までの考えでは人がよりにくいのではなかろうか。世間から見捨てられては生きるすべもないということである。そこで学会も己心の法門に近付こうとしているのである。出来れば本因に近い処から出直してもらいたいと思う。十代の若者も又、本因と考えるべきではなかろうか。己心の法門にはその世代を捉える秘密をもっているようである。
 六巻抄には他にない平和を説いているのである。若し学会説が魂魄を根本とするようなことがあれば万々歳である。学会教学も時代と共に前進しなければならない。それは三大秘法抄や初心成仏抄に対する訣別である。そこに己心の法門がまっているのである。右の両抄は、今も阿部さんの説の根底をなすもののようである。この両抄は、読めば読む人の心を必らず騒がせるものをもっているようである。それだけに、人の心に食い入るものを備えているのではなかろうか。これは修行のない庶民が、いきなり最高最尊の処に経上る危険をもっているのではないかと思う。
 宗祖は、常に自らを底下におくことに努められている、その故に所持の法が高いのである。それは法を説く者の身だしなみのようである。身を高処におけば、法は必らず底下に居るようになるものである。庶民が頸にかけて戴いている三秘は、何のかざり気があるわけでもない、その荘厳のない処が尊貴なのである。その三秘を常に備えて居れば、最高最尊でいる筈である。それが本尊抄の副状の主意である。その自から備わっている処を当家三衣と称するようである。寛師に事こまかく示されても理解出来ないのが当家三衣抄である。寛師はそのような甚深な処を示されている。
 戒旦の本尊の戒旦とは、愚悪の凡夫の持って生まれている己心の三秘所在の処が、即ちそこに在る本国土について、戒旦と称するのではなかろうか。それは全く、法門に所属している法門そのものなのである。三秘とは、そのような甚深なものであるということを事に示すために、三大秘法を甚深な処で説かれたものである。その時をいえば滅後末法の時である。その時を生れ乍らにして備えているのが、吾等愚悪の凡夫であることを教えられているのである。これらもまた事を事に行じる処の法門の一分なのである。それらの事は、必らず自解仏乗すべきであるということを教えられている。そこに法門は展開しているのである。その甚深の法門を、生れながらにして所持しているのは愚悪の凡夫の特権である。これが底下の凡夫の謂である。
 この当家三衣抄はいうまでもなく、愚人の魂魄の高貴な故を説かれているのである。静かにそれを示されたのが左伝の註のようであるが、これについては明治以来一向に考え直されていないようである。改めて、左伝の註の意を味わうべき時である。そこに法門書の読み方があるということではなかろうか。三大秘法を取り上げて説かれるのと違って、三秘に三衣をかけて、これが当家の三衣だぞと説かれる方が、余程分り易いのではないかと思う。それ程、程度を下げて示されているのである。それでも理解出来なかったとは、何とも申し分けのないことである。三衣について、どこまで理解されていたものであろうか。この三衣抄、本果の面について解されていたようである。頸に折角つけて頂いても、それに気付かなければ無意味な事である。くびに掛けさしめ給うた三衣は、我が己心の奥深く秘して沈めておくべきものである。この三衣は、一人一人が胸に秘しておくべきものである。
 今の宗門には、本因が失なわれたままであるが、これでは因果倶時不思議の一法を求めることは出来ない。これでは師弟子の法門も無意味である。何ををいても、宗門としては必らず本因を取り返さなければならない。これはいうまでもなく、目下の急務に属するものである。これは、宗門の上代から存在していたものである。宗祖には、本果をふまえた流罪としての伊豆伊東の流罪と佐渡の流罪である。伊豆の流罪によって得たものは、本果を表する無常の一体仏である。これは、その流罪が本果を表明しているのではないかと思う。これに対して佐渡の流罪は、本因に関わるものである。ここに宗祖の面目も開花するものである。流罪一つ取り上げてみても、そこにはこのように本因本果を具しているのである。
 事こまかく色々な面に本因本果は秘められているようである。世間も蓮花も、この因果を根本として法門が展開されているのである。昔から世間では、親の因果が子に報いといわれて、世俗の中でも生活の中でも生きているのである。宗門では冨士の火口の蓮華をとって、法門の根本として蓮華因果をとりあげ、これをもって師弟子の法門の証明をしようということのようである。北山本門寺は溶岩の上に立っているのではないかと思う。その溶岩流の火口は蓮花のごとくである、その蓮花の意をもって師弟子の法門が考えられる底に因果があり、また世間の根本になっているのも因果であり、同じ蓮花ということで、蓮花因果と世間の因果とが即し合うのである。そこに生ずるのが不思議の一法である。これはあくまで凡智を絶した処である。そこに本法があり、本仏もまたそこを住処としているのではなかろうか。それはよく凡智の伺い知る処ではない。そこを主催するのが己心の一念三千法門である。
 法花経寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門、そこに一切の法門は秘沈されているのである。天台の己心の一念三千法門も、ここで始めて事行の法門に切りかえられているようである。冨士の開山日興上人が、佐渡の信徒に遣わした書状の中に「この師弟子の法門」という語がある。それは本尊抄の法門を指しているのではないかと思う。興師はこの法門をもって、佐渡の信徒の争いを処理されたようである。後にはこの法門は事行の法門として、事行の中に沈められて、師弟子の法門として解説記録されたものは皆無である。本仏も本尊も、その内から伺うことが出来るようである。これ又、不思議の一法といわなければならないと思う。この法門、表面的には全く消滅しているのである。そこからは、真実の平和も取り出されるようである。
 今、宗門がといている法門から平和を取り出すことは困難である。それは度々いうように、逆に争闘と出る恐れもある。これは過去の経験から、このように出るのではないかと懸念される故である。今の宗学から永遠の平和を求めることは出来ない相談ではないかと思う。欲望の上に立った己心の法門、即ち己心にあらざる我心の上に立った平和からは、いつ争闘とでてくるやもしれない。その点最も警戒を要する処である。
 伊豆で得た一体仏を打ち捨てた処で魂魄佐渡に至り、そこで文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門を得たのである。それを知らなければならない。一体仏を捨てたかわりに、本因の本法及び本仏を得たのである。魂魄の上の法仏を得たのである。一体仏は本果の仏を表わしているもの、その違い目を承知の上で、この物語りは出来上っているのである。そこには果から因への交替を表わしているようである。
 本尊抄を読んでまず開山興師の口をついて出たのは、「この師弟子の法門は」という語であった。これは本尊抄を一言に表示する妙言ではないかと思う。この師弟子の法門は、今に事行の法門として、大石寺ではこれを伝えているのである。一言の妙旨これを知るべきである。この法門から本尊抄文段では、まず師弟因果をとり出しているのである。そこに本因本果因果倶時不思議の一法をとり出し、そこに本法を見出だすのである。その法から教を生じるとき、本因から本果の法門を生じ、そこに因果倶時の法を生じている。法から教を生じている。つまり法教不二という処かもしれない。そしてそこに三秘の確認も行なわれるのである。己心の法門に限らず、今後はこれらの未知の法門の検出に力を注いでもらいたい。己心の法門について次の前進を求めたいのである。
 開目抄の「魂魄佐渡にいたる」という真実甚深の文意の大半は、既に失なわれたのではなかろうか。頸にかけさせ賜うた三秘は、魂魄の上に再現されたもの、これは、肉眼をもってのみ知ることを得るもので確知することは、困難なもののようである。今、学会教学でこれらの法門がどのように配置されているか、是非これを知りたい処である。それによって真実の平和の出現を確認してもらいたいと思う。永遠の平和はその時初めて具現するものである。今の平和からはいつ原爆に変ずるようなことがあるかもしれない。
 西洋流の哲学者には、往々にして行きづまって自ら命を絶つものがあるけれども、東洋哲学の者には、その苦難の時は、昔から必らず山林にこもってこれを乗り越えているのが通例である。そこに東西の本来の考え方の相違点があるのである。山林にこもった先哲の考えの中に、真実を求めたいと思う。そこには枯れきった平和も存在しようというものである。山林を斗藪するのは昔からの通例である。我心の処に立てられた平和には必らず早々に破綻がまず訪れるかもしれない。本尊抄でその文段を静かに読み合わせてもらいたい。この際、平和が安心して提唱出来るような己心の法門の解説を完了してもらいたい処である。我心の上には師弟子の法門は成り立たないのではないかと思う。
 六壺の写真を見る限りでは、六壺も本来の意味は失なわれて、お前机を見る感じで、既に小道具になり切ったようである。これは大巾の手直しで、本来の意味とは甚だ異ったようである。因師の考えられたものがある(未解読)から一度読んでおいて参考にすることである。今夏の六壺及び、客殿周辺の修正で、事行の法門も次第にその影が薄れ、事に表わされていたものの意味が、捉えがたくなったようである。
 不開門は、客殿の須弥壇から辰巳にあたって設置されるべきものである。それは閻浮に通じる故である。その門の真北に遥拝所があり、須弥壇の丑寅にあたって本尊が鎮座ましましていたのである。客殿の奥深くとは、この本尊堂を指しているのである。不開門及び、裏門の修正が不充分であれば、霊山は益々遠ざかる恐れがあることを知らなければならない。霊山往詣のためには、常に方向修正が必要である。
 今度の六壺の写真を見る限りでは、御仲居にはつながりそうにもない。涌泉の明星池に写る本尊の姿は、遠い昔語りの中に消えていった。明星池における日天・月天と、その涌現と涌水との関連はどのようなものであろうか。その水は冨士の根元から涌き出づる水である。それは霊山の水に等しいものである。それは大杉山に直結されているものである。明星池は涌水の処に意義をもっているのである。それが消えたのは、六壺の建立された頃である。その水は霊山直結の涌水として、お花水に使われてきた清浄水であったと思われる。今はどこにどのようになっているのか、その姿を見るすべもない全くの幻の水である。明星池は本仏も時に姿を浮べる池、天の三光との交遊の場である。天の三光に対する信仰もある。そこには本尊出現の意義を秘めているかもしれない。
 本尊抄文段に、不可思議とは妙境妙智という語がある。その境智冥合の処が己心の境界である。本尊とは、そのような妙境妙智の境界の処に出生するものであろうか。涌き水の出る明星池に写る、本尊の写る明星池も、今となってはその意義も失なわれたようである。日天・月天等の星天、天の三光の浮ぶ明星池に浮ぶのは天の三光であり、その池は本仏出現を向える場であり、また師弟子相見の場でもある。またその池は本仏日蓮出現の場でもある。又そこは師弟相い見ゆる場でもある。今となっては明星池も何んとも忘れられたようである。
 明星池には三光天子が姿を浮べる処に意義があるのである。池水の枯れた明星池は今どのようになっているのであろう。明星池はもともと閻浮に向ってその余水を流していたのである。そして本仏と衆生との対面もそこにはあったことであろう。明星池に写る本尊は、客殿の奥深くましますものである。客殿の奥深く納め奉るべし、という本尊は今どのように事に示されているであろうか。今の御宝蔵は当時の新客殿にかゝわる語である。遥拝という語も、客殿にいて本尊を遥拝する処である。本尊は客殿にいて遥拝するのが本来の姿なのかもしれない。
 遥拝の語の中にどのような意味をもっているのであろうか。明星池がかかわって完了ということになる。今の状況からいえば未完成である。今となっては時代にあった、新らしく本尊堂の設定をする必要が生じているのであろう。出来れば法門と建築物の造営、同時に対応して初めてもらいたいものである。何となく北山法門に牛耳られている斥いはないであろうか。宗門独自の法門の上にあったものは、今どのようになっているのであろうか。いかにも俗臭が強いように思われるが、宗門人の御意向はいかがでせうか。多少なりとも本尊抄や相伝ものからの取り入れが少ないように思われる。
 今回の六壺の建て替えについて、その意義はどのように定められたのであろうか。お仲居のはみ出すようなことになりはしないであろうか。宮廷の女房に准じて、そこを担当する役僧はこれをお仲居と称されている。何故六壺というのか、その意義を明してもらいたい。新意義によって、新らしく姿をかえて造られているのではなかろうか。六壺は、興師の師弟子の法門に対する理想が含まれているのではなかろうか。
 佐渡国の師弟子の法門に登場してくるのは、阿仏房日満であったように思う。阿仏房と妙宣寺の間の争いではないかと思う。結局これは北山と西山との間の争いのようである。次第に複雑に展開しているようである。その後、北山と身延の間に連絡がついたようで、それは今に続いているようである。そのような仲で、三位日順も登場してくるのである。中々複雑である。その間の解釈には細かい注意が必要である。現状は何となく北山に押され気味である。この後、その教学には大石寺側も影響をうけるようになる。近代では二ヶ相承及び、御義口伝などそれであると思う。明治以後大きな影響を受けているようである。
 北山日要が元禄始め幕府に訴えたことがある。その頃練られた構想は、丁度その頃幕府は三鳥派取り潰しを考えていたのであった、それに便乗しようとして訴え出たのは元禄七年ではなかったかと思う。寛師も冨士に入って二・三年後である、そして近衛公の猶子としての宥師を迎えて、やっと事なきを得た程であった。三鳥派も頓悟的なものをもっていたであろうか。これは三島に新寺建立のための素材を、箱根の山越えをして捕えられたのである。それは今、三島の北冨士の裾のの出合ったあたりである。以来大石寺も幕府からにらまれていたのである。そこを北山日要にねらわれたのである。それは幕末まで続いたのである。そして明治に立ち上った時その教学を根本としていたが、寛師教学は今に至るまで殆んど見向きもされなかった。そしてそこへ国柱会や身延教学が入って種々に混乱したのである。今それらの教学を整理すべき時が来ているのではないかと思う。
 出来れば六巻抄の解釈によって、己心の一念三千法門を根本とすべき時ではないかと思う。日蓮正宗の正の字には、どのようなものを含んでいるのであろうか、また宗門には受け入れられなかったようで、明治以降、今に至るまであまり充分に受け入れられたとはいえないようである。今まではむしろ敬遠されていたようである。一つには、その意図された処が掴みにくかったためではないかと思う。寛師の深さは反って誤解をもって迎えられていたのではないかと思う。深過ぎて捉え難いのが真実ではなかったのではないかと思う。今、漸く己心の法門を取り上げようとする気運を生じた程度である。明治教学では寛師教学は充分には受け入れられることはなかったようである。
 

 

 太子信仰
 太子信仰という表題の本があったように思うし、またそのような項目も色々と書かれているように思う。中々愚人にはとらえ難いものである。飛鳥及び奈良では太子信仰は大きな比重をもっているように思う。何が太子信仰なのか考え直してみる時、何一つ後に残って思い浮ばないのである。聖徳太子とは、魂魄の上に考えられた己心の法門の一つの夢想の姿なのではなかろうか。或は韓国からの渡来人ではないか、というような事も聞いたこともあるように思う。そのような国の太子であったかもしれないし、目下の処それ程くわしい研究は出来ていないようである。
 夢殿も何となく魂魄につつまれている感じである。夢殿は本来法隆寺の境内にあって、聖徳太子の魂魄を祀ってある御堂という感じである。余計に理解出来ないのかもしれない。一言でいえば法隆寺歴代の位牌堂であるのかもしれない。飛鳥奈良には聖徳太子の魂魄の祭祀が盛んなのかもしれない。太子の御魂祀りも盛んなのではなかろうか。夢殿も後世流にいえば開山堂というべき処ではなかろうか。
 百済に伝わっているのは南宋の仏法かもしれない、それが韓国をへて日本に直々に伝わってきているとすれば、殆んど同じ系統なのかもしれない。殆んど中国直伝に等しいものである。先の開山堂には開山以来の歴代上人の位牌が祀られて居り、即ち歴代の魂魄の静まっている処である。この救世観音の御正体がとらえ難いのは魂魄であるが故なのではなかろうか。つまりは開山堂というべき御堂なのかもしれない。詳しいことは、何れ奈良でまとめられるであろう。この御堂も如意輪観音がふさわしいのではなかろうか。夢殿の本尊は救世観音といわれているように思う。飛鳥には如意輪観音が多く渡来しているが、この救世観音も如意輪観音に近い信仰をもっているのではなかろうか。救世は弥勒菩薩の担当する処ではなかろうか。聖徳太子の夢は、現世に弥勒の世を具現する夢があったのではなかろうか。ここでも魂魄と己心の一念三千法門によっているのではないかと思う。
 己心が我が心と訳される時、そこに危険なものが含まれるのではないかと思う。我心と翻訳された場合、流転門に強く出るので俗念がつきまとうので、欲望と同座するために危険と全く同座である。そこで魂魄の処に考えられるのである。奈良飛鳥の頃の民衆に対処して、これをどのように救済するかは、当事者によっては深刻な問題であったと思う。そこで弥勒の登場は最も考え易いことである。弥勒とは、衆生の本来持っているものを、仏格を与えて弥勒としてまとめられたものではなかろうか。世直しに出てくるミロクの働きは衆生の願望である。それに菩薩の資格名号を与えているものではなかろうか。
 

 

 日蓮本仏論のこと
 日蓮正宗として発足して以来、約百年を迎えようとしているが、その中心になる日蓮本仏については実に糢糊としているのである。これは魂魄の上の己心の一念三千法門で論ぜられるものである。それを世俗の凡身の上に論じられるので、色々批難を浴びせられるのである。そこで本仏については、本因をとってをりまた報身如来をとってをり、常に底下を根本としているのである。最高をとるのは、教に対する法の立場についてとなえるものであるが、これを、俗身を最高におくと解訳されて、色々に批難が集中して、さばききれないのである。
 本仏は因果倶時不思議の一法をとる故に、教に対して法は最高をとって表わすのである。一法の処に本仏を見るものであり、そこに久遠元初の自受用身を立てるのである。実はこれは法花経寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門なのである。底下である処は名字即の凡夫なのである。凡俗が最高位に登って釈尊の上位に居すが故に批難を受けているのである。これは応身如来は名乗っていない。即ち法によるが故に報身如来を名乗っているのである。それを応身と誤って批難するのは少々無理があるのではなかろうか。そのために、時も五百塵点の当初を使っているのである。現在の時の場合はこれを称して滅後末法の時と称するのである。必らず時の混乱のないようにお願いしたいと思う。
 日蓮本仏は不思議の一法の上に論じるものであり、報身如来をとり上げ、これを応身をもって批難するのは些か筋違いである。また時を云えば五百塵点の当初をとっている。それを、現在の時と考えて、応身として批難するのは見当違いというものである。聖徳太子の夢は、法隆寺に魂魄として止まり、永く奈良人の心の支えとなって共に生きのびているのである。日蓮は鎌倉の時代にあって、それを感得してそこに受持して、そこから三秘を受持して、世俗の救済を感じたのではなかろうか。本尊抄や開目抄は著作されたまま、世俗の処で解されたまま、反ってそこから争闘に通じるようなものを引き出されているのである、それは解者の罪ではなかろうか。己心の法門の乱れを済うものは、魂魄に限ってこれを済うことが可能なのではなかろうか。
 日蓮の説は、日蓮の本尊抄に説くがごとく、魂魄をもって、衆生の己心の上に大乗修行として展開して、現世に大乗修行を展開して、世俗を大きく大乗修行の上に展開して、底下の凡夫をそこに救済しようという夢が根本にあって、それを目指していたのであろうか。その意味で、太子の目指したものは小乗方式ではなかったようである。それが僅かな解釈の相違から、奈良仏教が小乗と批難されたのは解者の罪ではなかろうか。太子の処には小乗的な要素は見当らないように思う。つまり大小同時の広布を目指したのではなかろうか。そこに因果倶時の己心の世界が展開するようである。
 平安末には梁塵秘抄に示されるように「仏も元は凡夫なり」という考えは到来していたのである。その考えは大石寺法門には伝えられているのである。そこには因果倶時不思議の一法、即ち大乗的なものが存在しているのではなかろうか。本仏は不思議の一法の処から感得されているのではないかと思う。そこには大小乗同時の成仏の具現もあり得るのではないかと思う。本仏は必らず魂魄の処で説明されるべきものである。伝教大師はそこから大乗を取り出して、その修行具現のために叡山を開いたのではなかろうか。それを小乗と解した処から色々と混乱があったようである。
 サミットをやったけれども、ついぞ平和の真実は発見出来なかった。その平和とは、必らず魂魄の上にあるものに限るようである。太子・伝教の目指した平和とは遥かな距りがあるようである。現在においてもその平和は中々捉えがたいようである。平和のための軍備の撤回の中から混乱は吹き出してくるのである。日蓮の目指した平和とは凡そ距りのあるものである。平和とは事に行じて示すもののようである。即ち事行の法門である。山林に交わって始めて感得し、事行に感得が出来るものではなかろうか。
 宗教家の処でどのように平和を発見することが出来たのであろうか。アメリカでもその平和の発見は殆んど不可能に近いようである。そこには自ら先んじて、一切の軍備を抛棄する度胸が必要である。一日でも早く、他のみに軍備を抛棄しせめたいでは事は進まないであろう。そのために結論が逃げているのである。それでは救世観音も手持ち無沙汰であろう。
 今平和を求め出す方法は、法花経寿量品の文の底に秘して沈めたままになっているのである。そこにある己心の法門の処に秘沈せしめられているのである。それは明治御一新の時のドイツ学によっても、分析して取り出すことの出来なかったものである。これを今の智者の智をもって取り出せるや否や。今の昭和の智恵を総結してもこの平和を取り出すことは不可能である。今回はその所住の処とその姿のみは朧気乍ら何とかその姿はとらえたつもりである。余は賢者の取捨に委ねたいと思う。それを根本として成り立っているのが師弟子の法門である。これまたなかなか正体の捉えがたいものである。
 「声はすれども姿は見えず、ホンニお前は屁のヨウダ」ということであろうか。声の聞えた時は姿の消えた時である。その直前の姿を捕えるむずかしさである。音(こえ)が聞えた時はサランパンの泣き分れである。「可愛そうなはズボンのおなら、右と左に泣き分れ」ということもある。音が聞えてからでは手遅れである。若し音の聞える前を捉えることが出来れば、それは名人芸である。その音の処に音のように軍備はかくれているのである。これをどのように捉えるか、それは己心の法をもって捉えなければならない。アメリカの智恵をもってしても、ここから平和を捉えることは困難なようである。
 掴んでよくよく見ればそれは「屁のかっぱ」であってでは、笑うに笑えないということであろう。そこに今の平和談義のむずかしさがあるのである。それは屁を捉えた時に手のひらの感触の中にその平和の姿をとらえるのである。そこに重々の秘伝ありということである。お分りでしょうか。呵々。百年掴んでみても、その正体は捉えがたいものである。百年河清を待ってみても、果して河清の日があるかどうかは別問題である。それは己心の上に必らず河清もあり得るということである。その河清の状況に眼を据えているのが本仏であるということがお分かりでせうか。このような事は魂魄の上にのみあり得ることかもしれない。
 本仏日蓮については常に俗身の上に論ぜられている感じが強い。それが何かのついでに報身が応身となり、魂魄の上にあるべきものが俗身の上に考えられるのである。そこは俗身を用いる方が利用価値が多いのである。それを宗門も承知の上で利用しているのではなかろうか。この時節の混乱は大きいようである。いい加減に結論を出した本仏論について、他から責められることで中々応対がむづかしいのではないかと思う。常に形勢は不利なようである。それは常に宗門が弱みをもっているように思われる。そのために六巻抄も敬遠され易いのではなかろうか。そこには以上のような時節の混乱を含まれている。それが明治以後小突かれたために、今まで六巻抄にもあまり立ち入ることなく敬遠されて肝心のものが不足しているようである。
 六巻抄が敬遠された処には、初めに本仏論をせめたてられた処に原因があるのではないかと思う。筋を立てれば、本仏論によって責められる理由は、甚だ薄弱なのではないかと思う。近代他門から本因を責められて、本因を打ちすてているように思う。そのために反って思う壺にはまった感じである。今は本因を取り除いたために、本果のみでは本仏の証明が出来にくくなっているのである。
 日蓮本仏は師弟子の法門を根本としているようである。今のように本因を打ちすてては証明出来にくいのである。本仏は因果倶時不思議の一法の処に立てられているので、その正体は法花経寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門であり、法身である俗身の人と人法一箇の身を成じている。その本仏とは魂魄の上にあるものである。今は人法一箇の人に、少し俗臭が加わり過ぎている感じである。今の本仏には俗臭が強すぎるような難がある。
 止観六には老子の和光同塵の句を引用されている。本来備えている光を和らげて、愚俗の中に下りて和らぐ意味である。あまり光が強すぎては愚俗は近付きがたいので、その光を和らげるのである。本仏は本果をもってその光を和らげるのである。開目抄文段上には(三〇八ノ八行)に、師弟は即ちこれ本因本果なり。近くは脱が家の本因本果也。遠くは種が家の本因本果を歎ずるなり。種が家の本因本果とは久遠名字の妙法、事の一念三千也云云。以下略。
 この老子の和光同塵の文は岩波書店の老子には省かれている。大事典にも省かれている。大漢和辞典も除いているようである。これは敦煌で大老子が発掘されて、戦後以来未解読のために現在は敬遠しているのではないかと思う。止観はこの老子を見ていないのである。この和光同塵の語は南宋にはよく使われている語である。今頃になって、このような語が除外されては諸人の考えが混乱を起すのではなかろうか。その点、宗門の先生方も少し和光の必要があるのではなかろうか。以上の外に同じく老子に、天網恢々粗にして洩らさずという語がよく使われているが、この語も前の和光同塵と同じく岩波の老子からは除かれている。これらについては戦前の老子に限るようである。
 真宗及び浄土の両宗では阿弥陀浄土をどのように定めているのであろうか。真宗では現世成道を目指しているようである。何故そのように変ったのであろうか。この世は西方浄土と決めたことは、どのような類によるのであろうか。親鸞は現世成道を目指したようではない。現在の説法では現世浄土を目指しているように思う。真宗や浄土宗では西方浄土をとっているように聞いていたが、最近聞く説法からは現世を西方浄土ときめている感じである。その浄土の名号は何と称するのであろうか。
 浄土宗でもやはり現世を西方浄土と見るのであろうか。弥陀の浄土は西方浄土と古えから云われているようである。阿弥陀仏が現世を目指すようになったのはいつの頃からであろうか。弥陀が現世を目指して浄土とするのであれば、弥陀浄土と釈尊の浄土と同じになるのではないかと思う、その劫国名号は何というのであろうか。今、浄土真宗や浄土宗は己心の法門をとったために、現世を主張するようになったのではなかろうか。現世成道は釈尊に限るのではなかろうか。
 己心の法門をとれば自然に現世成道をとるようになるのであるが、テレビでの説法では親鸞は現世を地獄と見ているということである。これに対して西方浄土が阿弥陀の浄土として生かされることになる、そのための苦しい対処なのではなかろうか。説明としては紛らわしい処である。己心の法門によればどうしても現世成道をとるようになる。どのようにして西方浄土を唱えるのであろうか。現世を地獄と見る理由は何故であろうか。現世を西方浄土と決めることに変えることは出来ないであろう。現世を地獄と決めることは西方浄土を生かすための苦しい処理ではなかろうか。いかにも苦しい処理方法のように思われる。
 釈尊は現世の衆生を済度しようとしている。その娑婆世界が釈尊からいえば現世の浄土ではなかろうか。それを地獄と称することは、釈尊に対する挑戦とはいえないであろうか。日蓮は怒るは地獄と処理されているのである。現世にも西方にも関係のない処での処理である。「西方浄土とは安養浄土である。西方十万億土とは弥陀の極楽浄土等である」(織田仏教大辞典)。現世を地獄と見るのは日蓮説の方が分り易い、十界互具によっていることが明らかであるが故である。現世に地獄を見ることは明暗来去同時ということであろうか。
 今の正宗には戒旦の本尊という語はあるが、その中の三秘等は現在の説明で充分に尽くされているとはいえない。今も人法一箇という語が使われているが、そこには俗臭の強い発散がある。将来これのみは徹底的に切り捨てなければ、この一角から或は崩れるような事が起るかもしれない。五字七字の妙法と云われているが七字は五字に帰依した姿である。五字七字の一言摂尽の妙法とは元の五字は師を表わし、七字はそれに南無した弟子の妙法を表わしている。合せて表する処は師弟一箇の妙法である。これを一言に摂じ尽くしているのが根本になる題目である。これは師弟子の法門を一言に表わしているものと思われる。
 三大秘法による題目には肝心の師弟子と思われる部分が欠けているようである。これはどう見ても三大秘法抄の弱い処ではないかと思う。その面から見て正宗としては六巻抄第五の一言摂尽には遥かに遠いのではないかと思う。三大秘法について個々の意義を整理しておく必要があるのではなかろうか、これらは基礎作業の一つである。
 今の本仏日蓮では、俗臭は、未整理である法の上にあれば外部からは小突けないものである。若し師弟子の法門の上にあれば、そのまま開山宗祖にも通じるものがある筈である。その一角を崩しているのが三大秘法ではなかろうか。恫喝がききにくいのは、三秘の整束不充分による処ではなかろうか、人の日々に反省のいる処である。三大秘法抄は宗門にはあまりプラスにはなっていないようである。
 法教院も事のついでに根本になる三大秘法を個々に明了にする必要がある。そのために三秘抄を極力避けてもらいたい。それの最も深く解れているのが、滅後末法に始めて説かれる観心本尊抄である。その滅後末法に相応しい本尊をよく信仰するものである、そこに十分な一箇があるものである。そこで師弟一箇の法門もまた成じようというものである。今の三秘の説明では肝心の人法一箇の部分が不明了である。そこに宗義の行く手を明了にする師弟子の法門が含まれているのではなかろうか。
 三秘の中では題目の比重が最も弱いようである。それは三大秘法抄による本尊による故である。本尊戒旦の説明が先行して後に廻された題目は殆んど説明不足のまま残されているようである。三秘抄をもって六巻抄をどこまで解明し得るかということを考えてもらいたい。只、六巻抄の意図した処を崩すのみである。本尊抄等の諸御書及び、六巻抄等は何を根本として何が出したいのか、まずそれを取りきめて究明に取りかからなければならない。
 少し文章の読み方が軽すぎるのではなかろうか。一語一語はいうに及ばず、その処に秘して沈められたものは尽く取り出さなければならない、それが末弟のなすべき仕事である。果してなめらかに読み上げるのみが能ではない、そこに今求められているのは滅後末法の世の凡夫にふさわしい読みの深さである。そこに研究の方向付けをしてもらいたい。当人にも滅後末法の凡夫にふさわしい生き方、在り方をそれらの文から求め出さなければならない。それが今課せられた最大の課題である。それでなくては本尊座に上る資格があるものとは云えないと思う。
 そこには絶えざる不断の修行が要求される。それを満足せしめるのが師弟子の法門である。それは信の一字をもって五百塵点以来の修行を、即刻受持出来るようなことに仕組まれているのである。滅後末法にふさわしい成道の在り方とはそこにあるのではなかろうか。そのための修行は整束しているのである。この最後の時、大乗修行による成道を与えようというのがこの師弟子の法門である。今宗門で唱えるような俗身の上に限った日蓮本仏では他宗は承知しないであろう。それは、いかにして法に本仏を求めるかということである。それを事行にくり入れられたもの、それらも次第に証明不可能になりつつあるのではなかろうか。
 今の時は滅後末法の時、一度整束して次の世代に手渡す用意を整える時ではなかろうか。全体的に明治教学も整理すべき時が来ているのではなかろうか。明治はそれによって済われて来たが、平成以後その教学が永遠に続くかどうか今から思惟しておくべきではないかと思う。今はまずそれに対処することを考えなければならない。既に時は動いているのである。時は常に先取りしなければならない。
 滅後末法について、逆にいえば真宗浄土宗は在世の時と法門をとるのであろうか。己心の法門をとるため滅後末法と定めた方がよいように思われる。己心の法門のためには滅後末法に限るようである。現状では浄土宗は在滅何れの時によっているのであろうか。浄土宗真宗では結局最終的には頓悟をとっているのであろう。為政者に斥われる要素を含んでいるようである。そこに一揆を称するものが整っているのではなかろうか。
 浄土宗では師弟子の法門をとっていないのではなかろうか。そこでは本因本果不思議の一法はとなえないのであろうか、因果倶時はないのであろうか。蓮花因果の利用法は大石寺に采配を上げたいと思う。浄土宗ではこの法門をとらないので、因果倶時を衆生成道の処で唱えないための不便が出るのではなかろうか。
 江南に流された竺の道生・及び謝霊運から流れている法門と、呉音の法花経とは切っても切れないものがあるのではなかろうか。守護国界章・立正安国論等は本来呉音をもって読みとらなければならないものではなかろうか。日蓮の註法花経の守護章は全部白文である、日興写本の立正安国論も又白文である、これらは呉音でよむべきものではなかろうか。立正安国論についての双方の論争は、本因については除外されて専ら本果の上に論じられ、そこに時節についての論争が主となっていたのではないかと思うが、このような考えは通用しないであろうか。これも是非伺いたい処である。
 古えの浄土宗との論争では、専ら時節について論争がくり返されたのではなかろうか。今は時節をさけているので、論争をくり返す必要はなくなったのであろう。江南に流された竺の道生の記述が何故開目抄に記されたのであろうか。そこに何程かの風雲をはらんでいるのではなかろうか。長い間中古天台の誤りの中に含められて、あまりにも簡単に切りすてられていたのではなかろうか。近代は次第にそのような必要はなくなっているのが実状である。
 今の行きづまった世情を開発するために、天正以後きらわれてきた趙宋的な発想の必要な時が来ているのである。北宋的でない南宋的な発想である。そこは昔の呉越の地であり、三国志の舞台になった処である。天台・妙楽両大師が修行した天台山のある処である。特異な発想をもっている地である。御書にいう「京なめり」は北宋流な四明流によったものについての称である。
 室町の始には四明流が叡山に入ってきて、後には古い趙宋のものが下されるようになる。それは天文の終り頃である。それは戦後まで続いたようで、今は趙宋流は教学の表面から後退しているようである。つい最近までは教学の中心を四明におき、それを正当教学として趙宋天台を中古天台と下していたのであったが、近代はこのような事はなくなったようである。今また趙宋天台によって発想の展換の必要な時が来ているのではなかろうか。しかし今は既に呉音は忘れ果てられているので、呉音的な発想は求めがたいのではないかと思う。観心本尊抄などは呉音読みで理解するようになっているのではなかろうか。
 「京なめり」とは京の天台が四明流を取り入れた頃、鎌倉からこれを下して「京なめり」と称したものではなかろうか。京からいえば、古い関東に伝へられている趙宋天台は田舎臭かったのであろう。常に教学は交替していたようである。大石寺では滅後末法の語は残っているけれども、その意義は殆んど消え果てているのではないかと思う。日蓮の発想は惣じていえば、今中古天台と下されているものに近いように思う。北宋天台についてはあまり見向きはしなかったようである。滅後末法の時は本尊脇書きにくり入れられ戒旦の本尊、熱原の三烈士などと連絡付けられているようであるが、実にはその正体は次第にぼやけてきているようである。寛師は滅後末法の時については随分関心が深かったようである。
 

 

 韓国への返書について
 八月頃の韓国への返書の草稿が見つかったので、書き改めることにしたのがこの一篇である。その道中で六巻抄の穿鑿をして見ることにした、本篇が第一回の草稿である。六巻抄については古来深入りして穿鑿されていないのではないかと思う。今試みに日蓮正宗教学小辞典の二八四ページを引用してみることにする。即ち釈迦仏像を本尊としない項目の処である。日寛上人の末法相応抄の下、冨要三巻一五〇ページにことごとく明かされている。いまはその概要を記す。委しくは末法相応抄を熟読するのが至当である。
一、 道理、第一に釈尊は熟脱の教主である。末法下種の時である。すなわち、色相荘厳の仏は在世熟脱の教主で末法下種の本仏ではない。第二に三徳の縁が浅い故に用いない。正像の衆生は本巳有善なるが故に、色相の仏には縁が厚く、末法の衆生は本未有善なるが故に色相の仏には縁が薄い。第三に色相の仏は人法勝劣である故に用いない、すなわち本尊とは勝れたるを用うべきであり、色相の仏は劣り、法が勝れる故に、法を本尊となすべきである。
二、 文証、法華経法師品第十には、経巻所住の処に塔を立つべし、舎利を安くべからずとある。文句の八には、この経は法身の舎利であるから、生身の舎利を安くべからずとある。また法華三昧には「法華経一部を安置し、形像舎利を安くべからず」とある。日蓮大聖人は本尊問答抄に「法花経の題目をもって本尊となすべし、釈尊を本尊とすべからず」と仰せられ、日興上人は門徒存知の事に「五人は一同に釈迦を本尊とすべしという。日興云く、妙法蓮華経の五字を本尊とすべしと」以上は何れも取意であり、そのほか類文は無類なればこれを略す。
三、 遮難、御書に釈迦像の造立を賛嘆せられ、あるいは、日蓮大聖人の御正意は、まったく釈尊の仏像ではないが、しかも、これを許された理由は次のごとくである。第一に佐渡以前の御書は一宗弘通の初めであり、御正意ではなくても用捨よろしきにしたがわれた。第二に当時は日本国じゅう一同に阿弥陀を本尊としていた。ゆえに門下が阿弥陀を捨てて釈尊を立てたのを賛嘆された。第三に日蓮大聖人の観見の前には釈尊の一体仏も、まったく一念三千即自受用身の本仏と映ぜられた。また、報恩抄、三大秘法抄等に、「教主釈尊を本尊となすべし」等の御文がある。これらの教主釈尊とは、「南無妙法蓮華経をご所持になる仏」の意であり、五重三段では、第五の文底下種三段において立つ仏である。なおその理由は別項に論ずる通りである。
引用は以上のごとくである。
 今、六巻抄を見るに、そこで中心として取り上げなければならないのは第六の当家三衣抄であり、その中には衆生が仏から頸に懸け与えられた三大秘法のまとめたものが収められている。第一はそれを説き出すための用意のものであり、第二は三秘の名目をあげられたもの、依義判文をもって説明する。第四は末法の本尊を明され、第五はこれらが妙法五字の中に収まっていることを示されている。第六は三秘が当家三衣の中におさまっている。六巻抄は仏から頸に懸け与えられて本尊であり、その三秘は生れながらにして仏から授与されていて、これを所持していることを現わす。その頸にかけ与えられた妙法五字、即ち三秘には一切の法門が含まれていることを顕わしている。そのように一切の法門を収めた当家三衣は、頸にかけ与えられた三秘に一切の法門を含んでいるということである。
 一切の法門をどのように含んでいるかということを説き明されているのが当家三衣抄である。三衣抄は袈裟・衣・数珠の三を説かれているのである。それは一切の法門である妙法であり、それを法門として解示されているのである。一年前従来の六巻抄の解釈に対して異論を申し上げて、漸く一年許りで修正を加えなければならない破目になった、よろしく御諒恕願いたいと思う。個々にどのような法門がどのようにそこに含まれているかということは、皆様の手を煩らはしたいと考えている。よろしく御願いします。
 当家三衣抄とは宗門の三衣について解明されているものではない、それが実は三秘である。三衣として僧侶のみに必要なものではない。三衣抄の引用の左伝の註は、室町末期から徳川初期にかけての人々には充分に、その秘められたものも充分に理解されていたものではなかろうか。筆者は、もしかしたらそれは魂魄の意を秘めているのかもしれない、今はその意味は全く分らないことになっているのである、もしかしたらそれは魂魄の意をもっているのではないかと思う。
 底辺の庶民といえども、魂魄の上には王侯と同じものを具備して出生している意を表わしているように思う。これらのものはすべて魂魄の上に論じられるものである。決してそれらのものは俗身の上に論じられるものではない、それらは信の一字をもって即時に魂魄の上に切りかえられるものである。そこに信の上の受持が必要なのである。今はそれが信心ということで、直々に俗身に切りかえられているように思われる。
 本来の師弟子の法門は、そのような魂魄の上に、信の上に組み立てられているのではないかと思う。その究極にあるのが当家三衣抄のように思われる。ここには題目があり、妙法があり、それが時によって題目とも妙法とも呼ばれ、そこに一切の法門が含められているように云われている。そして時には三秘とも六大秘法とも戒旦の本尊とも称せられているのである。それが時あって俗身の上に呼ばれる時、大きな混乱を生じているようである。それを魂魄のうえに治めて守っているのが師弟子の法門である。それを懇々と説き明かされたのが六巻抄であり、これを明らめるためには、まずわが身を素に返さなければならない。その時、魂魄の上にこれらの法門を取り返すことが出来るのである、それが師弟子の法門の特権なのである。
 今こそ師弟子の法門の蘇るべき時なのである、そこに新しい世紀の誕生もあり得るのではなかろうか。それらは全て天の命による処、そこには一切の人為の差別は必要がないように思われる。その無差別の処に究極の平和があるのではなかろうか。それは必らず師弟子の法門に限るようで、日蓮が法門の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門の究極の目的は、そこに内在しているようである。その時、我が身一身の処にあるのが真実の平和のようである。そこに若し余人が介在すれば平和はあり得ないのではないかと思う。その時、我が身の己心の奥底にあるのが平和のようである。
 今唱えられている平和とは、自他混在の処で考えられているようである。そこは必らず差別の発端になるものではないかと思う。我が身一身のみを主張する処に己心の法門の意義があるのである。今一般に唱えられている平和とは、案外平和には非ずして混乱の本源にあたる処かもしれない。即ち平和の在所でなくして混乱の内在する処なのかもしれない。日蓮聖人の取り出した秘処とは必らず魂魄の秘沈された処に限るようである。この解釈の相違の中に中世の差別が生じたのかもしれない。そこに差別の発生源があるのかもしれない。
 差別は意識の上に作り出されたものではない、それは魂魄世界において自他の差別の中で偶然に出来上ったもののようで、そこにその本源の探り出したいものがあるように思う。一般には漠然と室町又は、南北朝の頃といわれているが、それははっきりと正確に捉えられているものではないようで、それらを含めているのが日蓮及び、浄土宗等のように思う。それは天台に、浄土の解釈の道中で起きたことである。それを乗りこえるためには、必らずそこには魂魄が必要なようである。それらは韓国経由で南宋の思想が持ち込まれたものであろう。それが定着するまでには長年月を経過しているものであろう。直接南宋から移入したものではないように思う。そして奈良仏教を小乗と下すのはそれ以後のことのようである。それは鑑真のような人達の力が大きかったのではなかろうか。その頃は未だ直接入唐した人はなかったように思う。
 このようにして六巻抄を見れば、どのような法門がその中にどのように含まれているかということが明らかになると思う。それは一々に具体的に引き出すことも可能である。これを子細に教示するのが六巻抄の目標であったように思う。始めて四十五年、今漸くその一端に取り付くことが出来た、余は宗学者に依頼したい処である。そこから間違いなく平和を取り出してもらいたいと思う。
 このようなことは法然の浄土宗にも魂魄の上に考えられている法門があり、それが俗身を交えた処で考えられているものがあるのではなかろうか。それは天台法門が次ぎに伝えられる時に起っているのであろう。そこに「魂魄佐渡にいたる」の意義があるのである。ここの処を次ぎの人が自見をもって自由に受けとめるようになるのである。そのために日蓮門下の法門が捉えにくいのである。浄土宗ではいかがでせうか。門下でもその辺について、速やかに魂魄の処に立ち返って考え直すべき時が来ているのではなかろうか。
 開目抄でもこの魂魄の処、最高の圧巻である。ここは他宗にない独自の処なのかもしれない。見方によれば最も不可解な処でもある。その処において日興には独自の受持をもっていたのではなかろうか。その正体が失なわれて、只漠然と直授相承という語の中で他門の反感を買っているように思う。天帝(本仏)から直々に受けていることが正常に伝わっていかないための批難ではなかろうか。そこには魂魄の上の話が、俗身の上に解されたものをもっているようである。
 直授相承の中には魂魄の上の話が大いに残されているように思われる。それは師弟子の法門ということでまとめて残っているのではなかろうか。それだけに富士門にはまだまだ古伝をもっているようである。それがまとめられるなら、師弟子の法門なのではなかろうか。それは魂魄の上に取り決められた、文の底の己心の一念三千法門のようである。それが師弟子の法門なのである。いつの日が来たらこれらの法門が明らめられるのであろうか。
 近代の法門は、あまりにも世俗の影響を受け過ぎているのではないかと思う。それは別世界にあるべきもののようである。元の誤りの上に誤りが積み重ねられるために、もとの正体が中々捉えがたいのである。大石寺法門の根元は魂魄の上にあるべき己心の一念三千法門ではないかと思う。そこに宗教の本源があるのかもしれない。宗教とは魂魄を静めるもののようである。そこに平和もまた在り得るようである。今の世俗では平和は専ら世俗にあって考えられているようである。平和もまたそこに移行しているのである。
 もと魂魄の上に定めおかれた己心の一念三千法門は、本来大小上下とは無関係の処にあるもののようで、それに大小上下を考えるのは、人間共のする無用の業である。法門は魂魄との上に考えおかれたものなのである。それにいらぬせっかいを加えることは止めた方がよいようである。そこに初めて平和もあろうというものである。今は平和一つでさえ捉えがたいようである。心に大小上下を考えるのは、それに角を立てるものである。真の平和とは、そのような差別のない処にあるのではなかろうか。六巻抄はそのようなものを吾々に教えているように思われる。これに角を立てるのは、見るものの誤りのようである。大聖人のお示しもまたそのような処で受け止めるなら、それは平和そのもののようである。それに角を立てるのは聞く者の誤りのようである。
 先年来叡山で平和サミット会議が行われたが、どのような平和を取り出すことが出来たのであろうか、伝教大師の説かれた平和は今も山中に健在ではないかと思う。それは己心の上の平和のようである。これらはすべて「己心中所行法門」の処にあるもののようである。平和とは己心中所行法門の処にあるものである。それは己心の上の法門の処に平和があるのである。今は専らそれを世俗の処に求めようとしているのである。
 叡山の平和も実には己心中にあるべき法門のようである。それが西洋文化の移入の中で、己心中にあるべきものが世俗の上に出たために、解決出来にくいものが出ているのではなかろうか。各宗共それぞれ大きな影響を受けたのであろう。今こそ独自のものに立ち帰るべきである。それは今、各宗共通の課題ではないかと思われる。
 第六の当家三衣抄の発端の左伝の文は、釈門章服儀応報記私記から引用されたもの、それは明蔵から深草元政がとり出して別刷りしたもので、その手沢本は今に大石寺図書館に残されているものである。この左伝の引用文は、当時以後よく引用されている。不受不施日奥にも引用されているものがあったように思う。当家三衣抄は、師弟子の法門についてまとめられたものの結論にあたる部分ではないかと思う。近代この抄は吾々に必要なものではないと、これほど重要なものが殆んど見向きもされていなかったようである。師弟子の法門もこの巻にまとめられているのである、その意味が理解出来ないために殆んど見向きもされなかったのが実状である。それらはすべて事行の中に秘められていたのである。
 左伝の文は、衆生が何れも生れながらに備えている三秘ではないかと思う。それは文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門なのである。この左伝の文の中には、己心の文のあり方を解明する何物かが秘められているのではないかと思う。冨要集三の二七〇の初めにも引用されている。当時ではこれでその意は通じていたのであろうが、今は全くその意は通じないようである。衆生の己心には、王者に劣らぬ十二章を己心に備えていることのようである。この文も己心の上の話のようである。極意の処は己心ということで師弟子の法門と全同なのである。六巻抄も結局は己心の法門に落ち付くようである。
 三衣抄を文の底の己心の一念三千と読みとった処で、逆次に三衣抄を読みそこから一挙に三重秘伝抄まで読み返してもらいたいと思う。そのようにすればいかに六巻抄の中に、多くの法門が含められていることが理解出来るのではないかと思う。第一三重秘伝抄から六巻抄の核心にふれるためには、いかにも時間がかかりそうである。そのために今まで六巻抄の重要さが捉えられずに終っているようである。そのために寛師の大きさも、結論を求めるに至らなかったのである。
 己心の法門として宗開三直伝のものは、今に昔ながらにそのまま伝持されている、それが己心の一念三千法門である。それは魂魄の上に伝持されているものである。魂魄は開目抄において取り出され、それから文の底に秘められた己心の一念三千法門を取り出して、本尊抄はその開明をされているのではないかと思う。それが寛師の場合は師弟子の法門をもって、当家三衣とまとめられたものである。それは更に観念文として要約されて重要な役割をしているのである。それを知るためにも六巻抄の解明は必要なのである。不可解な故にありがたいでは困りものである。
 開目抄を受けた本尊抄、そして三師伝、六巻抄また化儀抄も、一言にまとめて師弟子の法門の解明といえるのではないかと思う。その点、何れの抄とも共通点があるようである。それを通しているのが師弟子の法門であり、いうまでもなく文底秘沈の法門である。この法門によって七百年来宗門は支えられているのである。そこを支えるのが師弟子の法門である。そしてそこには受持があり、それによって久遠以来の修行も受持されて、そこに衆生の成道も可能になっている、そこにあるのが大乗修行である。
 叡山の回峰行は、もともと大乗修行を目指しているようであるが、今の在り方からすれば殆んど小乗修行に思われるのは、思うものの誤りであろうか。そこを支えるのは文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門なのではなかろうか。即ち己心中所行法門についての修行ではないかと思われる。そのための叡山の開山ではなかったであろうか。
 学生式の一隅とは今に定らないようであるが、これは大石寺にもある語であるが、そこでは丑寅の一隅であり、諸仏の成道の場を指しているのである。それは受持によって衆生の成道にも大きな意義をもっているようである。この語は文底秘沈の法門に幾分の関連を持っているのかもしれない。今の叡山の一隅の解釈は、世俗の縁に強くひかれているのではないかと思う。この一隅も古いものが失なわれて、新しく意義付けられているようである。
 今年は平成二年を迎えて明治に帰るべきかどうか、明治教学に対する態度を取りきめるべき時ではないかと思う。今年位から明治教学と訣別すべき時を迎えているのではないかと思う。今こそ文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門に立ち帰るべき時ではないかと思う。魂魄から生れた師弟子の法門の上に無差別世界を捉えてもらいたいと思う。今も宗門では久遠元初を現実世界で考えようとしているのではなかろうか。そこは潔く魂魄世界に切りかえてもらいたいものである。魂魄世界と俗世間との混乱の処には衆生の救われるものがない、宗教に関わるもの、それは魂魄の上に考えるべきもののようである、そこには真実の平和がある。
 今世間では盛んに平和を称えているが、肝心の魂魄の上の平和が除外されている処が異様である。世間の平和とは自から格別のものである。頓悟は魂魄世界においてその威力を発揮するものである。そこにおいて平和も存在し得るものである。俗世間の平和をそのまま宗教世界に持ちこもうとしているのが今の平和のようである。平和については真俗の混乱があるようである。
 同じ天台であっても古い処は仏朧寺により、後には江北の五台山によるようになり、後には五台山流が叡山の主流となり、大きく教義が変ってくるようである。安国論の前には法門可被申様之事には京なめりといわれている、それが四明流を指している語である。天文頃には勢いがよくなり、古い処を中古天台と下している、それは元禄頃まで続き、戦前戦後にも中古天台の語が盛んに唱えられたことがあった。今は全くその声を聞くことはない。その天台もまた西洋学の影響を受けているのではなかろうか。
 広宣流布とは魂魄の上の平和ではないかと思われるが、考え方からすれば魂魄と世俗との混乱の中に平和を考えているように見える処がある。寛師が本尊抄文段で本因本果を説かれるのは、法門の上での平和なのかもしれない。その不思議の一法とは魂魄の上の平和ではないかと思われる。広宣流布には真俗の混乱をもっているように思われる。後になると、ここに真俗の混乱と仏朧寺と五台山、相互の混乱が強くなり、明治には大きく西洋学の影響を強く受けて混乱を重ねているようである。大石寺でも明治の混乱は今も尾をひいているようである。
 仏朧寺の天台学は呉音によるもの、五台山は漢音によっているのではないかと思う、そこに両者の間に大きな相違があるのではなかろうか。考え方も江南江北では自から相違があるのであろう。慈覚大師や智証大師は西安に游学したのである。日蓮宗でも明治にはドイツ学の大きな影響を受けたようであり、それらも今、精算期を迎えているようである。大石寺も、いやでも明治教学の整理をしなければならないであろう。今、世上も大きな混乱の時を向えて、本来の教学に帰るべきではないかと思う。広宣流布も魂魄の上に考える必要に迫られているのではないかと思う。
 明治以来の外相の流布の整理の時期が来ているのである。今こそ内証真実の広布を求めなければならない。魂魄の上の内証真実の広布には授戒のための戒旦の必要はないであろう。己心中所行の法門として、師弟子の法門を行ずるためには法花堂は公認されている。その行のために何故戒旦が必要なのであろうか。師弟相寄って己心中所行の法門を行じる処戒場は、その俗身をもって代用出来る。若し別して建造物をもってすれば、小乗に近付く恐れがあるのではなかろうか。そのために法花堂までと許しが出ているのである。
 戒旦堂での戒の修行・授戒は、多分に小乗戒に近付く恐れをもっているのではなかろうか。その授戒方式は正本堂では困難になったために、建て直しの話が出ているのではなかろうか。それはその理について反省を求められているのではなかろうか。それが最終的に小乗戒に摂入されるのは如何にも異様である。宗門としては古来大乗戒を求め続けて来たのではなかろうか。七百年を過ぎていよいよ滅後末法を迎えた時、小乗方式による戒旦に大聖人の印可を得ることが出来るであろうか。どこかで何かが狂っているということではなかろうか。
 六巻抄の中から、事の戒旦として小乗戒旦の裏付けを求めることは出来ない。若しそれを求めることが出来るとすれば、北山法門によらなければならない。三位日順教学には或はあるかもしれない。そこには身延教学に近いものを持っているかもしれない。これも警戒を要する処である。今となっては北山身延方式と古伝の方式との差別がつきにくいようである。
 大石寺では今に師弟子の法門をもっているが、北山では既に上代に失なわれているようである、そして或る時期、身延法門と入れ替っている。それが三位日順の名を假りて重須談所の教学ということで大石寺が受けいれている。身延教学は重須の中では今も生きているのである。その重須教学が受け入れられているのである。そこには要法寺教学また八品教学も入っているのではないかと思われる。それ程複雑なのである。
 天母山も重須教学の中で必要なものではなかろうか。御義口伝も重須を経て大石寺に入り込んでいるように思われる。三位日順の開いたのは重須談所であった。或る一時期、談所の盛んな時代があったようである。八品や要法寺及び、身延など種々に教学を取り入れている。大石寺が重須に近付いたとすれば元禄以後、寛師の入寂後のようである。或は明治以降になるかもしれない。
 己心の法門とは「己心中所行法門」から発想され発展したものかもしれない。そこから本尊抄ともなり、師弟子の法門ともなって種々に衆生を利益されているが、今七百年たって見れば殆んどそれらも影が薄くなってくるようである。そこに法門書の文章の読み方があるのではないかと思う。体内体外も己心中の文に関係があるのかも知れない。長い年月の間に異状発展もあり忘却されるものも出るようである。師弟子の法門は色々な形で残されている、これはそれほど簡単には消えないかもしれない。受けたものの姿を替えないで、そのまま次々に伝えることのいかにむづかしいことか。そこに師弟子の修行があるのである。それを消したものはドイツ学の移入にあったように思う。
 己心中所行法門の処に大聖人の法門の原点があるのかもしれない。寛師法門もまたそこより直結して今に至っているかもしれない。今度はこの法門、再び失わないようにしていただきたいと思う。何というても開目抄の魂魄佐渡に至ると頓悟とは、庶民にとって最高の贈り物である。世上に色々と混乱しているようであるが、それは七百年の間、誰一人受けとめる人もなかったようである。そして今年平成二年まで、手付かずで残されていたのである。今度は「師弟子の法門」も「己心中所行の法門」も是非共どこかに残したいと思う許りである。
 今、念のために宗要三の二ページの末行を引用すれば「本師八十余巻の述作中無益の冗書はないが、これを統轄する要書はこの六巻抄である、自身三十年の言説をした計りで無く、釈迦仏の又蓮祖大聖の総てを此の中に納めたりとの会心の制作であったのは、候補たる学頭日詳師への御譲りの御談に顕われてをる、末従たるもの徒らに此を高閣に束ねて木像扱いにせず、日夜不断の研鑽の料として本師の妙義を光顕する事に努められたいのである」。今、初めて四十五年を経て漸くその子細を知ることが出来た。あらゆる法門がはいっているということであったが、それがどのように組み入れられているのか、それは追々承知してもらいたいと思っている。秘伝抄は三秘を解されたもののようであるが、それが当家三衣抄にいたって、それを再びくり返され、これが大聖人の法門を一言にまとめたものではないかと思う、即ち左伝の註は或は己心を表わしたものかもしれない、これが開目抄の魂魄に通じるものではないかと今考えているのである。
 「編者が当初の理想はこの六巻抄の全面に少しづつでも簡明な註解を加へたいのであったが、紙面が許さぬ許りでなく浅智膚学の及ばぬ処であるに恐懼を生じた、幸いに秘伝抄と三衣抄とには三四十年前の畧註を修訂して加えやうとしたが、頁数の都合で秘伝抄だけにした。余りの五巻は延べ書ばかりでせん方なき事を許されよ、何れ老衰の身だから仏天達に冥加ありて幾分の余力を有するあらば、近き将来にこの責務を果たそうと思う」。筆者も始めて四十五年漸くその意に一分を窺うことが出来た。
 六巻抄とはこれ程難解なものである。何を解かれているものかその片鱗さえも伺うことが出来なかったものである。古来近来もこれについて些かの意見を加えられたものもなかったのではないかと思う。一つには三大秘法抄と初心成仏抄に幻惑せられた処があったのではないかと思う。このために三秘が大きく掩われて文底秘沈抄の邪魔をしていたのではないかと思う。今後は両抄に関わることなくその内容に立ち入ってもらいたいと思う。そこに説かれる本尊は三四五六と六に至って始めて核心にふれるようである。
 三秘は、最後、仏の手元でまとめられ、生れた時より頸にかけ与えられている本尊の処に収まるようである。三衣抄では一におさまって三衣となっているのである。その三衣とは文の底に秘して沈めた文底秘沈の三大秘法そのもののようである。ここに一切の法門、御書のすべてが集約されているようである。あまりにも大きすぎて三衣は僧侶に必要なもの、吾々信者には必要がないといわれてきていたのである。あまりにも深く秘められているのである。当家三衣抄とは師弟共々に深いかかわりを持っているものなのである。
 宗要三の二七〇ページに釈門章服儀応報記から左伝の註が引用されているが、三衣抄に引用の左伝の註と同じものである。この文は深草元政が別刷出版したもので、大石寺図書館には寛師の手沢本らしきものがある。これは外に四五ケ処に引用されているものを見たことがあるが、古人はその意を承知していたものと思う。一つは不受不施日奥の引用のものもあったように思う。その最後訣別の時も衆生成道に関わりをもってこの註の意をとり上げているのであろうか。今はそのような意を伺うすべはない。古はここから魂魄の上の甚深の意を持っていたのではなかろうか。そこには己心の法門が秘められているのかもしれない。
 この抄は法衣を供養されたことについて、その功徳の大なることを明きらめられたものである。臨終用心抄は身延日乾師の著作にも同題の書籍があったように思う。それを参照し乍らものされたものである。 この抄と次の法衣供養抄とが一つになって当家三衣抄が出来ているのではなかろうか。そこには日蓮の二字のこと、其の他の寛記雑々が一抄にまとめられている感じである。三衣抄以下のもの全てを参照せられたいと思う。これらは六巻抄全体にも大いに関わりを持っているものと思われる。
 六巻抄を尊重する前にその甚深なものを極力明きらめなければならない。無意味のままありがたがる事は無駄の見本のようなものである。出来ればその内容をはっきり捉えた上で、その有りがた味を充分にかみしめてもらいたいものである。その内にどのような法門が、どのように秘められているのか是非それを探ってもらいたいと思っている。六巻抄の甚深な処も、他門の攻めとドイツ学の中でその深意を明らかにすることが出来なかったのではないかと思う。 大石寺古伝の法門の大部分は、この六巻抄の中に全て秘められているのではないかと思う。亨師のいわれるように、ただ高閣におし上げて有りがたがることのないように、身近なものとして大いに研鑚の対照にしてもらいたいと思う。
 大石寺法門の甚深な処は、今に六巻抄の中に秘められたままのようである。中には師弟子の法門を究明する方法があるのかもしれない。亨師は高閣に束ねて木像扱いにすることなく、不断の研鑽を求められているようである。若しそれが真実に研鑽されるなら、門下一般にも喜ばれるものがあるのかもしれない。
文底秘沈抄は昔から珍重されていたが、全体を通じての意味には今少しという処があったのではないかと思う。師弟子の法門には釈尊の甚深な処を魂魄の上に受けとめたものではなかろうか。文の底に秘められたものは文のままである。
 修行のための相手として、即ち客人として迎えられているのが弟子のようであり、それが客人として客殿において修行をとげるために設けられたのが客殿である。信者を助っ人として、客人として接待するのとは大いに異る。それは修行の相手方として迎えるのである。あくまで修行のためのものである。古伝による客殿からはそのように受けとめられる。信者は大聖人の客人という扱いである。そこには師弟子の法門の意は残されているようである。自らも助けられ、また師の修行の手助けをする、そこに師弟子の法門としての師弟共に仏道を成ぜんという意味を含んでいるのではなかろうか。法門故、共に仏道を成じるための修行である。そこに平等がある。それがあまり他を下し、自らを上げすぎると次にはそれが不平等となり差別を生じるのである。

 法花は決して不平等は説いていない。それを不平等と読むのは人の子のすることである。一切平等の処に平和はあるものである。極端な差別をもっている処には恐らく平和はあり得ないであろう。その平和とは魂魄世界に限ってあり得るもののようである。大聖人の法門は開目抄の昔から一貫して魂魄の上に立てられているようである。それが近代は天皇に近いような極端な差別の中に置かれているようである。法主と天皇とは殆んど同等にして、恐れ多くも勿体なくもと表現される程の差別をもっているのである。今、会長も三者一体のように見える。
 大聖人自身は常に自らを底下におかれているのである。寛師の雑々には別にこれをとり挙げられている。法門の上からは無差別をとるべきである。修行をとれば無差別と出るのではなかろうか。天皇は昔は神として差別を持ち合わせていたが、今は出来るだけ無差別をとり返すことに力を竭していられるようである。吾々にはそれは勿体ないと映るのである。下にあるべきものが上座につけばそれは下剋上になり下、上を剋するといわれるものである。世俗一辺となればその様な世界を現じ易い。室町期の頃は下剋上の盛んな時代であった、それは差別を取った罪障なのかもしれない。今の世上は何の故に起っているのであろうか。何かの罪滅しのように思えてならない。
 法花経体内とは魂魄の上に考えられているもののようである。そこには必らず平和がある。それが体外に出れば平和は即刻混乱争闘と変ずるものである。それらは「己心中所行の法門」より生じたものではなかろうか。今の法門には平和と闘争とを二つ乍ら兼ね備えているようである。明治教学には両面を兼ね備えている両刃の剣、法門を考える場合必らず俗身をよけて考え、必らず魂魄の処に持ち込んで考えるべきもののようである。それが大聖人の法門の根元になっている。これは必らず無差別世界のようである。
 己心中であるからには当然無差別である。それは考える人の都合で差別を付するのである。それらの解釈によって千差万別の解釈が付けられるのである。よくよく「己心中所行の法門」であることを心に止めて事を運んでもらいたいものである。「己心中所行の法門」であるが故にこれを法花体内というのであろうか。己心中云云とは法花経寿量品をわが己心中に顕現した故の名義であろう、この故にこの法門は魂魄の上に考えられるのである。誤ってこれを外相に出せば、一時は成功しても後には必らず行きづまるものである。常に己心中に収めるべく心掛けなければならない。その人目に触れない所で積み上げられたものが陰徳といわれるものかもしれない。貴族らしさを誇る必要は更らにないようである。
 法教院の研究成果も是非共発表してもらいたいものである。法華には自らを最高最尊の坐に押し上げるようなものを常に持っているようである。これは常に人の弱味をくすぐるものであろう。今は世界中がその坐の取り合いに専念しているようである。最高最尊の座とは離れがたい気持のよい座のようである。万人皆それを目指しているようである。そこには充分の法門を蓄積してをくことが必要であったのである。宗門も法門の解明について些か手ぬかりがあったようである。早急にこの補充が必要なのではないかと思われる。六巻抄についてまだまだ整備が必要である。受けつがれているものの再検の必要がある。これが今度の課題である。
 己心中所行法門を具体的に表明しているのが本尊抄である。秘められたものを取り出すのが今後の課題ではないかと思う。己心中所行の法門であることは案外忘れられているのではないかと思う。それは大聖人自身が己心中に行ずる所の法門なのである。弟子もまた宜しく己心中に行ずべき所のものである。そこに又、師弟共に仏道を成ずる期もあるのではなかろうか。宗門では「己心中所行法門」は宗門においてはあまり聞きなれない語である。思い出して取り上げてもらいたいものである。
 明治以来、己心中所行法門についてはどのように扱われていたのであろうか。この法門、案外黙殺されていたのではないかと思う。邪義の扱いをうけていたのではなかろうか。この法門を三大秘法抄や初心成仏抄等と同時に扱えるものかどうか、この二抄、己心中所行の法門の中に組み入れるものかどうか、これは寛師が引用されているものだけに切りすてるには度胸が必要なようである。 釈尊の己心の一切経を、己心中所行の法門として魂魄の上に受けとめてきたのが上代からの法門のようである。明治以来は「己心中所行法門」は案外冷遇されているのではなかろうか。師弟子の法門の復活には己心中所行法門を持っているかもしれない。
 六巻抄の第一、三重秘伝抄は己心中所行の法門によって当家三衣抄を取り出すためのもののようで、そして第二の文底秘沈抄であり、ここでは己心中所行法門から、すなわち寿量品の文の底が三衣抄に組み入れられ、三重秘伝抄では己心中所行の法門を穿鑿されているものがまとめて取り上げられてをり、そこから三大秘法が取り上げられ、それが更に最後当家三衣抄となって妙法五字の袋のうちに入れられるようである。それは本仏より衆生は妙法五字の袋を頸に懸け与えられているのである。それらは己心中所行の法門の一分のように思われる。
 三大秘法をとり出すのが目的のようで、第三はそれを依義判文して裏付けするもののようである。それが更らに裏付けられ三秘が各成長した所で第六の当家三衣抄につながるのである。三秘は己心中所行法門では妙法五字の袋のうちに包んで衆生各の頸に懸け与えられているものである。三秘抄の三秘は大きすぎて成長過程で大きすぎて邪魔になる面も持っているのである。そのために己心中所行の法門の邪魔をしているのではないかと思う。
 題目は四・五と過ぎて一言摂尽の題目に成長する中で一切の法門を内蔵していくようで、三大秘法抄の題目には一言摂尽の処に欠けるものがあるように思う。それでは只の口唱の題目となって一切の法門を摂入しているということに抵抗があるようである。巻を重ねて修行を重ねることによって本尊としての完成がある。而る後に当家三衣抄に成長していくようである。その三衣抄あまり深く沈められているためにその真実が捉えがたく、ほとんど切り捨てられていたのではないかと思う。
 師弟子の法門の極限の処はこの当家三衣抄にあるようである。これは袈裟・衣・数珠の三衣とは仏から妙法五字の袋に入れて頸に懸け与えられたものなのである。本仏の御慈悲と受けとめるべきものである。三衣は衆生が等しく本仏から授与されている所のものである。当家三衣抄と三大秘法抄と混雑して考えられてはいないであろうか。三衣抄とは師弟子の法門の極意の処にあるもののようである。この第六に至って師弟子の法門は完了するのである。観念文はこの三衣の処に成り立っているもののようである。
 六巻抄に見える観念文と宗務院のものとの間には些かの相違をもっているという話を聞いたことがある。それは何故であろうか。三衣抄に引かれる左伝の文には己心の意味を持っているところがあるのではなかろうか。宗務院ではどのように解しているのであろうか、是非拝聴したい処である。筆者は魂魄に近いものと考えているのである、法門の故里の意味をもっているのではなかろうか、或は常寂の故里の意をもっているかもしれない。
 清浄な魂魄世界であるこの抄は発端から魂魄があげられている。そのために今日まで殆んど解することがなかったのかもしれない。最後が理解出来ず、そのために、第一第二の解明が困難であったのでなかろうか。第二は三大秘法と読んで解釈について可成り深入りしていたのではなかろうか。ここから戒旦の本尊につながる解釈があったのではなかろうか。この抄もまた真実の捉えがたいものを持っているようである。第四第五ではそこから己心に内在する己心の一念三千法門に連絡付けられているように思う。これも亦混乱するものを持っているようである。
 六巻抄が亨師の希望される程、日夜不断の研鑽をされたことは更に聞かない、只徒らに「高閣に押し上げられて」いたのみであった。結局は手付かずのままということではなかろうか。今は三秘は戒旦の本尊ということで解されている。色々と他門から小突かれる要素を持っているようである。三秘もこの三衣抄に至って初めてその威力を表わすのである。三衣とは師弟子の法門の究極の表示である。この中には宗祖開山及び道師の三師伝及び六巻抄を含めて甚深の古伝の法門がそこに内蔵されているように思われる。王者は十二章の上に不断の修行をつんでいるのであろうか、己心中所行の法門をあらわしているのであろうか。今四十年を経て三衣抄に引用の左伝の意も何となく分ったように思われる。ここには甚深の意をもっていたように思われる。
 師弟子の法門には本来として一切の法門を含んでいるようである。これらは事行の法門として組み入れられているので理解されることもなく既に消されていたものもあるようである。受持によって信の一字の上に久遠以来の修行もあり、そこに成道もあり得るであろう。そこでは頓悟も威力を発揮しているようである。刹那半偈の成道も亦そこに威力を発揮するものである。これらが名字妙覚に通じるものを持っているようである。余は全て事行の法門に繰り入れられているようである。
 事行の法門には長い年月の間に今は消えたものも多いことと思われる。又変貌したものもあるのではないかと思う。特に明治以後は独自に発展したものも多いようである。これを素に帰すことが今後の課題である。安定した事行の法門を文字としてまとめて置くのが今後のなすべき事なのかもしれない。二十一世紀に入るまでに整理をしておくべきものと思う。亨師の引用文は厳しく研鑽を要求されているのである。
 当家三衣抄は六巻抄の結論にあたる部分であり、大石寺法門の精粋ではないかと思う。その三衣とは生れ乍らにして本仏から授与されているものなのである。常に自覚して研鑽を加えられるべきものである。三衣抄のここの処から逆次に読めば根元を失うことなく確実に甚深の法門に到達することが出来るのではなかろうか。まず何をおいても根本を捉えなければならない。まずその核心にふれた以後拡大すべきではないかと思う。これは法門を探り出すための常識ではなかろうか。それは亨師の残された大きな課題である。そこから逆次に読めば中に何が含まれているか自ら明らかなものである。
 戒旦の本尊も当家三衣抄の中に妙法五字と共に明かされているようである。一切の法門もそこに含まれている。妙法五字の中に一切の法が含まれている、それが頸に懸け与えられている。そこから観念文も生じているのである。それは分らないまま残されて無理に観ぜられてきているのである。これ程の当家三衣抄も従来殆んど見向きもされなかったのである。宗門もそこの処を大いに反省してもらいたいものである。宗学要集の註のみをもって六巻抄を理解することは困難である。
 宗門当局は六巻抄に対する研究成果を発表してもらいたい、優秀な頭脳を動員して研究成果を発表してもらいたいものである。これ以上秘し過ぎるとそれこそ元ぐる見失うかもしれない。黙して語らずでは人は驚かない、大橋師もこの師弟子の法門及び、六巻抄三衣抄については直々受持したものが多くあるのではないかと思うが、随分長い間沈黙を守っているようである。今こそ新しい意見をもって反撃を加えてもらいたいものである。独り黙々と象牙の塔にのみ立て篭っているのも無駄なことではなかろうか。亨師の御説のように大いに研鑽を遂げてもらいたい。
 今こそ寛師の御説を研鑽すべき時ではなかろうか。只ありがたい勿体ないばかりでは二十一世紀には役立たないのではなかろうか。亨師の直説を発表してもらいたいと願うものである。黙々と蓄えている中に二十一世紀の民衆を救うものを秘しているのではなかろうか。一人でも多くの人々を救ってもらいたいものである。近頃は水島・大橋両師共全く音信不通のようである、荀々薫陶を受けた威力を発揮してもらいたいものである。民衆が長い間渇仰した己心の法門、師弟子の法門を公開して世の困苦を救ってもらいたいと思う。
 寛師の御苦心もその内容を公開されることもなく二十一世紀を迎えようとしているのである。今こそ六巻抄からその真実を取り出しそれを世に示すべきではないかと思う。この中で上代から一筋通されているのが師弟子の法門である。これは俗身の上に説き出されたものではなく魂魄の上に説き出されたものである。現在のドイツ学の影響をうけているものを整理して師弟子の法門をもって魂魄の上に救済を計られたいものである。
 文底秘沈抄の三秘は民衆は直々生れた時、本仏から妙法五字の袋の中に入れて直々に頸に懸け与えられているものである。即ち詳細にその内容を示されてよい程のものである、新しく授与する必要はないのである。三秘の授与の必要はないのである、そこに当家三衣抄も成り立つというものである。民衆は与えられた三秘の内容について待ち望んでいるのである。
 本尊抄では地獄の様相について「怒るは地獄」とあるが、後世にはこれを無視してわざわざ盂蘭盆御書も作られている。大石寺でさえも毎年盆には盂蘭盆説法が通例になっているようである。凡そ己心中所行の一念三千法門とは、詢とに似つかわしからぬものである。本尊抄の御教示に対して申し訳けがないのではなかろうか。要は頸に懸け与えられた三秘の意義のみで事足りるのではなかろうか。
 鎌倉室町に入った頃には、中国の北宋の地から四明流が渡って、叡山にも入って力を付けて、叡山の教義が江南から江北へと交替するようである。鎌倉の始め頃にはそのようになっていたのではないかと思われる。それらは主として韓国から渡来人が持ち込んだものではないかと思う。それらは日本に新しく一つの思想を持ち込んだものでもあるようである。それが出るのは南北朝時代であるかもしれない。思想の上の変動をもっているようである。
 それは次の室町になると、中国の江北の地や韓国と交流が盛んになり、文化も高麗より流入するようになる。天文の頃には西洋文化も少しづつ流入するようになる。そして古い天台思想もまた消えていくようである。そのような中で大石寺法門、そして事を事に行じる己心中所行の法門など詢とに貴重な存在ではなかろうか。殆んど師弟子の法門などは今にあまり大きな移動もなく古えのまま残されているようである。そしてこれらのものが次の思想を作るのに大きな力になっているのである。
 室町という時代はその思想の上に現じた時代であったようである。今は子細にその動きのあとを追う時代なのかもしれない。それらの到来した思想についてまとめて研究されたもののあることを知らない。室町という時代は「京なめり」的な思想が成りたった時代ではないかと思う。同じく天台思想であっても江南をうけた韓国の思想、その頃は直接には殆んど呉越の地には無関係であり専ら交流は江北に限ってをり、それと韓国との影響のみということのようである。
 上代において筆を取っていたのは必らずしも中国人のみではなく韓国人も多かったのではなかろうか。それらの人はもともと大和朝廷にも連絡をもっていたのであり、上代の頃は今の韓国の字が出来る以前のことであり、必らずしも文字の書けた人々を中国人と限定することは出来ないのではなかろうかと思う。文字を書いた人々を一言で中国人ときめつける理由は少し薄弱なのではなかろうか。そのような人々が日本の上代の文化を担当していたのではなかろうか。その頃のものには呉音で書かれたものもあるのではなろうか。
 飛鳥時代にしても奈良初頭にしても文字の書ける人は韓国から渡来していたのではなかろうか。それらの人々が筆を取っていたのではなかろうか。在来の日本人が筆をとって文字を書くまでにはもっと時が必要なのかもしれない。聖徳太子を取りまいた人々の中には多くの文字の書ける人々が居たことで、奈良時代になって小乗を下しているのも、必らずしも時に江南江北に直接交流があったとも思われない。飛鳥の頃には自らの力で渡海することは殆んど不可能であったのではなかろうか。その頃には韓国には船をもって往復することもあり得るかもしれない。南宋との交流にも韓国を介在しているかもしれない。もっともっと知らなければならないことが、あまりにも多くあるようである。
 今水島・大橋御両師に是非共伺いたいことは、大聖人が開目抄一巻を執筆されたことは何を目標とせられ、或は何について開目されたのであろう、只無意味に使われるようにも思われない。そもそも何について開目といわれるのであろうか、古来あまりはっきりすっきりとはしてないようである。昔からみればあまりはっきりとは考えられている話は耳にした事はない。是非洩れ承りたいものである。宗門ではどのように取りきめられているのであろうか。
 七百年の間、何について開目されたものか余り考えられたことはないのであろうか。法教院や阿部さんの処では、どのように決められているのであろうか。今敢えていえば、もしかしたら己心中所行の法門を、自らの己心中に発見した悦びを記されたものではなかろうかと、秘かに考えているのである。そのようなものを含んで、はずかしながらこの一巻を記したものである。わが魂魄の中に寿量品の文の底の一念三千法門を発見した悦びを、衆生に知らしめんがために佐渡の雪中にあって、わざわざ開目抄一巻を記されたものではなかろうか。魂魄の上に受けとめたものを雪中において書きとめられたもの、分りにくいのも当然といわなければならない筈であると思う。相呼応して開目と返答を返す人はないのであろうか。それにしても師弟の間あまりにも距りがあるようである。己心中所行の法門を、魂魄の上に己心の一念三千法門を見出だされたことは、開目といえるものを充分に用意しているものを、持っているのではないかと思う。
 寛師の意は一切衆生の盲目を開かしむる故に開目ということのようである。それと衆生の己心から三大秘法を求め出したということのようである。開目抄文段上の要宗三の三〇六ページの三行目に、「四には文上脱益の三徳の就を除き、文底下種の三徳を見る故に開目抄と名付くるなり、今題号の意正しく第四に在りと」。挙げられた始めの三は畧したので宗学要集を直接見られたい。一は三〇六ページの初行である。「然りといえどもこの義幽微にして彰わしがたし、浅きより深きに至り次第にこれを判ずるなり」と。このように解説されている。色々と委しく説かれている。それを是非読まれたい。開目抄に挙げられたものが、更に委しくのべられている。寛師の解説は甚深にしてわかりがたいものがある、今一歩下がった処で拝聴したいものである。水島先生の御解釈をもって、愚人にも即座に解り易いものをお示し願いたいものである。
 三二九ページの七行目に「シタシキ父母ナリ文、異本ニ云ク、シフシ父母ナリ云云」、保田の我師の写本には主師父母也とある。主師はシタシとフをタと読んでキの字を補足したのではないかと思う。真蹟はシフシ父母ナリとあったのではないかと思う。タは恐らくはフの誤読ではなかったかと思われる。即主師親の三徳を彰わされているのではないかと思う。これは関東の弘法寺の古写本を写されたものである。天正の前半になるもの、疎開中大火にやけて天文後半に新しく補足されたものである。シフシ父母は漢字で書かれている、今の保田妙本寺に現存しているものである。門下現存のものとしては最古に近いものである。若し己心中所行の法門その他について御異見があれば早々に削除してもらいたい。その他重複した個所も多いと思うので、頭が混乱して整理しにくいのでよろしく御整理賜りたい、以上御願いします。主はシウと発音される、主師は室町の頃にはシウシと読まれていたものと思われる。御主も徳川の頃でもゴシウとよまれているようである。
 著者は若い頃から職人の世界に興味を持ち、その間にあって文房具や煎茶道具を作り乍ら未完成の完成に興味をもって来た。今も南画がもてはやされる理由も根本はそこにあるようである。或る部分については達磨禅に共通したものを真実はもっているのではなかろうか。それは古い教学が南宋から渡って来ている故である。南宋(なんそう)が後には南宋(なんしゅう)といわれるようになる、それが所謂南画である。極力不要なものを除外するのである。竹をもって此君と称して最高位におくのである。それは今も日本では珍重されているようである。大聖人や六巻抄の立て方にも同様のものがあるように思う。そこでは不要なものは黙って省くので、省畧されたものがその理由が分らない。それは必らず再現しなければならない。それが出来なければ必らず他から批難を受ける羽目になる。それは過去に経験した如くである。それを避けるためにその省かれた部分の再現が必要なのである。
 大聖人の場合、大きなのが寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門である、ここから六巻抄は起っているのである。その己心の法門は国境を越えていづこも同じく異論はないようである。この魂魄世界は宗開三以来のものであり、また南宋直伝のものである。簡にして要を得たものである。それは復元しなければその意が通じないのである。今は大聖人のものも北宋天台によってふくれているので、その意が取りにくいのである。六巻抄も亦同様である。今漸く四十年を過ぎてそれの復元について、一つのきっかけを見出だしたのがこの大石寺法門の(六)である。ここでは俗身俗世の中でものを論じ、考えるのは最も斥うところである。
御書も六巻抄も亦省けるだけ省かれているので、その理解が困難なのである。
 昔から当家三衣抄は袈裟・衣・数珠のみを説かれているという処から、吾々信者には必要のないものという解釈の中で理解され、殆んど無用の長物扱いを受けていたのが当家三衣抄であった。それが六巻抄の解釈にも大きく影響していたようで、そこから三大秘法の戒旦の本尊として解されていたようで、生れた時から仏から頸にかけ与えられていた己心の一念三千の三秘であったことには気付くこともなく、甚深のものを打ち捨てていたのであった。どのようにしてそれを再現するのか、今後の大きな課題である。その秘された処に甚深の法門があったのである。そこは魂魄世界であったのである。
 今は魂魄は最も斥う処のようである。実はそこに己心の一念三千法門は秘して沈められているのである。それらも殆んど事行の法門として、事行の中に大半秘められているようであり、その間によい処から消えていったのではないかと思う。三大秘法を含めてすべてこの当家三衣抄の奥深く打ち沈められたまま、いまに復元されることもなく、今二十一世紀を迎えようとしているのである。その秘曲はこの三衣抄に秘められているのではなかろうか。
 この抄のむずかしい処は引用の左伝の註にあるようで、使われた当時はその意も一般に通用していたようであるが、それが明治御一新となってその真実が消えて理解出来なくなって、三衣抄の説かれた処が捉えにくくなって、果ては抛棄につながったのではないかと思う。この引用文の示す処は、一言でいえば魂魄に相通じるものを持っているのではなかろうか。これはもと明蔵に入蔵している釈門章服儀応報記に引用されているもの、不受不施日奥にも引用していたように思う。そこから常寂の故里も出れば亦、霊山浄土にも通じるもののようである。そこに魂魄世界に通じるものもあるのではないかと思う。明治にはその意は全く消えていたようである。今も亦、通じにくいのではないであろうか。これは深草元政が別刷りしたもので、寛師の手沢本は大石寺図書館に襲蔵されているように思う。明蔵もあるので調べられたい。宗要三の法衣供養談義にも引用されている。
 臨終用心抄は身延乾師のものを抜き書き引用されたようであるが、その他の寛記雑々も六巻抄著作の用意のために抜き書きされたもののようである。この用意をもって六巻抄編集に取りかかられたのではなかろうか。その中には開目抄の文段も、その他の文段も読んだ上で解明にとりかかられたいと思う。このようにして見ると六巻抄も、文の底に秘して沈めた部分がいかに多いかということも理解出来るのではないかと思う。
 魂魄世界云云については、北七の影響をうけた天台山教学の渡来と共に、中古天台という中で消えていったのではなかろうか。その北宋天台(四明教学)は鎌倉文応の頃には渡ってきていたようで、それは渤海方面との交流が深まった頃かもしれない。その頃に北七流の考えが渡来するのかもしれない。それらの説が韓国に入りその後日本に渡来するのかもしれない。
 文底秘沈抄に説かれた処は、やがて当家三衣抄に全部摂入される。その中には戒旦の本尊も組み入れられているのではないかと思う。第五では妙法五字の中に一切の法門が摂入される作業が行われているように思われる。文底秘沈抄では題目に一切の法門が摂入される作業は行われないので、その題目による場合は一言摂尽の題目でなく、口唱の題目の辺が濃いように思う。それが一言摂尽の題目となるためには、当家三衣抄に繰り入れられた以後でなければその威力を発揮することは出来ない。現在は文底秘沈抄の三秘が使われているために、題目について充分とはいえない。
 戒旦篇には三秘抄がひかれているが、極くせまい処で解するべきである。三秘全体に拡大して考えればそこに混乱が待っている。第二からの三秘抄による三秘を使われているのではないかと思う。三大秘法抄に乗り切られた感じが強いでは遺憾なことである。六巻抄は第六の終りに至ってその意義もあり、威力を発揮しようというものであることを御理解願いたいと思う。三秘抄の解釈の立て方によって、これ程重要な三衣抄が全く無用の長物化したとは恐ろしいことである。
 明治以後は左伝の註の引用の威力がなくなった、それは明治の文明開化の威力ということであると思う。明治以降の宗学はドイツ学の上で散々に揉まれて来ているようで、それも百年を経過して落付くべき時を迎えたようである。今の世上では魂魄の上にものを考えることも許されないのかもしれない。宗義のこの難問を解決する方法は魂魄以外にはないのではなかろうか。それを魂魄の上に収めて二十一世紀を迎えるのが最もよい方法ではなかろうか。真蹟は今も残されているものである。
 天台法華宗年分学生式一首「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有らん人を名づけて国宝となす。故に古人の言えることあり、径寸十枚、これ国宝に非ず。照于一隅これ則ち国宝なりと。(以下畧す)」以上照于一隅の処である。これは座敷の一隅でもなければ世俗の上の一隅でもない処、魂魄の処を指しているのではないかと思う。この学生式は日蓮の開目抄とも大いに関連をもっているのではなかろうか。そこに若し師弟子の法門を考えるなら当然衆生の成道もあり得るであろう。そのような中に学生式問答は考えられているようである。その中に重要部分は日蓮によって開花したものもあるのではなかろか。それの受けとめ方の中から開目抄や本尊抄も出生したのではないかと思う。
 近代の一隅は専ら世俗の中でのみ考えられているものである。それでは師弟子の法門の出る余地はなさそうである。一隅とは丑寅であり、そこは諸仏の成道する処でもあり、衆生の成道も亦そこを目指しているのである。丑寅から霊山に至る道中に、亦東南に閻浮提がある。更に南を通りすぎて西南にあるのが霊山浄土である。その出発点がある処の一隅なのである。
 不受不施日奥の終る頃、南宋天台の名残りがあったようで、その最後訣別の詩が呉音の最後の名残りなのではなかろうか。その頃は叡山の南宋の教学が、中古天台と盛んにたたかれて北宋全盛の頃であった。呉音から漢音に交替する時期であり、その頃に人は呉音で書かれたものを読む力があったのではなかろうか。以後は専ら漢文によるようになり、今はその続きの中にあるのである。大石寺ではそれは院師・主師の時代に相当している。塔中・東側にあった天経の土壇はその頃を最後に消えていくようである。朝の勤行が行なわれていたのはこの土壇の上であり、それを終って客殿に帰っていたようである。古の勤行は土足で行なっていたようである。それは室町以前に限られていたようである。
 六巻抄の理解出来にくいものの中には、室町以前のものの復活されたものが理解出来にくいもののようである。開目抄から引かれた処は魂魄であり、左伝の引用もまた魂魄を目指したものであろうと思われる。今こそこの法門を復活して、滅後末法の大事に処すべきではなかろうか。今日のためにこの己心の法門を残された処は、大聖人の御慈悲と受けとめるべきではなかろうか。滅後末法とは熱原法難の時もそのように思われるし、今の世紀末も亦、大きな滅後末法の時の如く、世界中の国々も一斉に混乱を起しているようである。これを乗り越えるために魂魄の上に考え直す必要があるように思う。魂魄を取り入れた上で考え直すべきではなかろうか。
 今こそ古伝の法門の復活すべき時であると思う。一隅を照らす運動も、魂魄の処に立ち返って考え直すべきではなかろうか。通り一辺の世俗の上にのみ考えるべきではないのではないかと思われる。それは当時、大師の天皇に対しての誓言であったように思う。それは魂魄の上の誓言であり、世俗の上の話ではないように思う。再び魂魄の上に話を返してはどうであろう、これは到底下俗の処で解決する話ではないのかもしれない。
 朝のテレビ説法で一隅を照らす運動が出ていたが、この一隅を照らす語は、山家学生式のものににたる語で、学生のお許しを乞うについてその決意を申し上げられたものであり、丑寅とは諸仏の成道のところ、衆生もこれを受持して成道を願うということで大石寺でもこれによっているのである。それは諸仏の功徳を受持して衆生の成道の意をもっているものである。その丑寅に住するものこそ国宝であるという意味のようである。そこは明らかに一切衆生の成仏道を示されているように思う。大乗を唱える処では重要な部分ではなかろうか。小乗修行を取り出しては無意味である。丑寅に立つもの全てが国宝という意味ではないようである。それは大師と天皇との間の誓言である。これは大師の大乗修行の決意を示されたものとも受けとめられる程のものである。今は次第に俗化してきて専ら世俗の処で解釈されているようであるが、大師の教えはもっともっと高い処にあるようである。それは久遠元初を目指しているもののようにも思われる。改めて開目抄や本尊抄の甚深の処を読み返す必要があるのではなかろうか。折角深く読まれているもの、浅く読み返へす必要は更にないものと思う。
 

 

 六巻抄(一)
 六巻抄が起稿されたのは、学頭として蓮藏坊に入り求めに応じて開目抄を講ぜられた頃であった、それから三百年を経過した今、その明快な解釈は未だに作られていないのは詢に遺憾な事である。その序文によれば講義にあたり文底秘沈の句に至り、その解明のために六巻抄の起稿を思い付かれたようである。従来のその第二文底秘沈抄に結論を求め、そこに三秘を考えらえていたようである。編集の当初、六巻を編集されたものであるから、第六に結論があると考えることが普通な方法ではないかと思う。そのために中々結論に達しなかったのではなかろうか。
 その序文によれば文に三段を分かち、義に十門を開くとなっている、そして第一が三重秘伝抄であり、次いで、そこから第二文底秘沈抄が引き出されているのである。これらは開目抄がそのようになっているものを引き出されたものである。開目抄を種々事細かく分析されているのである。その結果として、次の第二文底秘沈抄が取り出され三秘が出揃うのである。そして第三は経の文等を引いて、それをもって三秘の出処を委しくされている。そして第四は末法相応抄であり、末法相応の三秘として改めてとり上げられ、第五は当流行事抄であり、滅後末法の当流の立場から三秘を見直されているのである。そこで妙法五字の中にどのようなものが組み入れられているかということも、それによれば明らかにすることが出来るように思う。それは事行の法門として三秘や当家の法門を明されているのである。その巻で始めて妙法五字の中に三秘が入れ込まれるのである。それが一言摂尽の妙法である。御書を追えば、その中に何がどのように組み入れられているかは直ぐに分る筈である。それを受けるのが第六当家三衣抄である。
 その三衣抄の処に三秘もいれこまれて当家真実の法門が出来上るのである。この重要な三衣抄がその意が捉えられず、吾々信者には必要のないもの、僧侶にのみ必要なものとして信者の立場から全く今まで切り捨てられて、省られなかったものである。ここに結論が持ちこまれているとは知らず、三秘が出ている故に文底秘沈抄に結論を持ちこんでいたのみで、六巻抄の結論は解釈の上で今まで出されていなかったようである。聖典九二二ページ十二行に勤めよや勤めよやとあるが、これは勤(いそし)めよや勤メヨヤと読めば、よく意味が通じるのではなかろうか。
 六巻の途中の第二に結論を持ちこむとは、いかにも非常識である。それが根本は第六に引用された左伝の註の解釈がつかなかったためではなかろうか。よく見れば天子の十二章は本来として生れ乍らにして王者として備えているもの、己心の法門の上では、庶民も魂魄の上には備えているものではないかと思う。みんな生れ乍らにして備えているものである。今となって新らしく授与されるものではない。それは本仏から生れ乍らにして授与されているのである。それを身に付けている立場から、三衣と名付けられたのではなかろうか。
 元は三秘であっても、六巻抄では三衣として身に付けているものである。改めて授与されるようなものでもない。それは信の一字をもって確認すべきものである。その信が変じて信心となり、俗身の上に考えられたために、そこから欲望につながって複雑になったのかも知れない。あくまで正体は魂魄の上に考えられた三秘であり、三衣ということのようである。今は専らそれが一つの欲望の上に考えられているために解決出来ないでいるようである。その魂魄の上にあるのが己心の一念三千法門なのである。ここは俗念を離れた処で考えなければ、いよいよ分りにくいものではないかと思う。
 今まで三秘が出されている故に、第二に六巻抄の結論を見る無理をしていたようである。もしかしたらそこから戒旦の本尊の解釈も考えられていたかもしれない。新らしく編集されたものが、結論として第二を撰ぶ筈はない。常識的には第六が至当ではなかろうか。第二を撰んだこと地体いかにも異様である。そのために結論としての働きが不足していたのではなかろうか。大いに反省を求めたい処である。
 本尊抄に示された三秘は次き次ぎにその意を深められて三衣に至っているようである。それは通途の三衣ではない筈である。結局三百年の間その結論には至っていないようである。その六巻抄も開目・本尊・撰時・報恩・法華取要等の諸抄(ざっと見て六巻抄が)を経て六巻抄に至っているようである。大体において似たような形をとられているのではなかろうか。六巻抄として編集し乍ら寛師程の人が第二に結論を出し、あと四巻をおまけに付けられることもあるまいと思う。寛師の御深意が今まで伝わらなかったのは、第六引用の左伝の註の意義が捉え難かったためのようである。
 つまりこの註の意は、魂魄と同じ意をもっているのではないかと思う。天正・天文の頃には、この意は見れば分っていたものではないかと思うが、今は全くその意は通じにくくなっているようである。全体的にそれだけ学の程度が低下したためであろうか、古人はそれについて註尺はいらなかったようである。この引用の文を使っているものも数を見たように記憶する。それらはつまり魂魄の意をもって使われていたのではないかと思う。
 文の底に秘して沈められた己心の一念三千法門は、一言摂尽の妙法の袋に入れられて、生れた時に掛け与えられてをり、その時点では信心の必要は更になかったのである。それが解釈している中で、信心の中に繰り入れられるのは明治以降ではないかと思う。それ以前は信頼の中に受持したものと考える方が素直ではないかと思う。近代は専ら信心の上にのみ考えられているようである。何となくその信心も行き過ぎの感じである。そのような中でその解釈に混乱を生じている如くである。三衣とは妙法の奥深く包みこまれた事行の意を含んでいるのではなかろうか。そこから事を事に行ずるという考えが出るのではなかろうか。この三衣も事行の奥深く秘められたことさえ忘れられようとしているのではなかろうか。
 時代の変り目に消えるものもあるのであろう。例えば丑寅の一隅の如きである。丑寅の一隅とは諸仏の成道を表わすもの。衆生もそれを受持して成道するようになっているのであろう。これは唯の一隅では何の意味ももたないもの、大石寺の御宝蔵はその一隅を表わしているものである。そこに衆生は大聖人の客人の意味をもっているのである。老孤は老いては元の古巣に帰る、これは弟子に対して隣人
(となりびと)に対する報恩なのかもしれない。弟子もまた師に報恩をする、互いに報恩を以ってする処に師弟子の法門は成り立っている。それが本因本果の法門のように思われる。
 その師弟子の法門からにじみ出ているのが本因本果の法門である。そこに蓮華因果の法門は成り立っている。その因果とは世間から受持したもののようである。そこに大日蓮華山という山号は成り立っている。そこに過去遠々からの久遠元初の上に文の底の己心の一念三千法門は成り立っているのである。それを信の一字を持って受持する。それは決して信心ではない。信頼感なのである。それは鎌倉以来師弟子の法門として伝持されている。それの受持された処に観心がある。これを受持即観心という。それは師弟子の法門の一角なのである。これらは全て文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門といわれるものなのである。その師弟子の法門は今に受持されているのである。それを説き明かそうとせられたのが六巻抄である。これは決して本果の法門を説かれたものではない。しかもそこから出るのは応迹の法門という感じである。そこから日蓮が法門は拡大されている。それは専ら他門から、各時代の変り目毎に移入されたもののようである。
 今二十一世紀を迎えるためにも速かに文の底の己心の一念三千法門に立ち返ってもらいたいと思う。開目抄や本尊抄、法花取要抄に説かれた己心の一念三千法門は昔乍らに今も健在である。世間は今、双手を挙げてこの法門を歓迎しているのである。広宣流布はこの法門と魂魄との中間に出現するものなのである。今滅後末法の世を迎えてその流布の時が来ているのである。これをもって世俗の浄化に尽くすべき時ではなかろうか。その広布が時を誤って論じられてきたが、一向に流布の痕跡は遺されていないようである。その広布とは魂魄の上に取り極められているようである。近代広布も盛んに説かれたけれども、一向に広布の実現する日はなかったようである。次ぎの二十一世紀は終始広布の中にあるのではなかろうか。それは考えるものの誤りであろうか。今こそ広布は最も求められているものの一つではないかとも思われる。せめて二十一世紀はこの己心の一念三千法門をもって、宗門の人々も打ちそろって迎えてもらいたいと思う。
 つくろわず元のままの無作三身も滅後末法の時を迎え、ほしいままに受け用いる身となって誕生する自受用身は今も健在なのである。今こそ自受用身出現の時である。衆生の処にあるべき己心の一念三千法門も打ちすてられて、それらが文底秘沈抄に持ち込まれていたために、文底秘沈抄が三大秘法抄の威力によって異様にふくれて反って悪い方に働いていたのではなかろうか、返ってそこから被害めいたものが出ていたのではないかと思う。それが当家三衣抄から出れば衆生にゆるやかに返るべきものであったのではないかと思う。いかにも文底秘沈抄では三秘が強すぎたようである。
 広宣流布も経の説く処とは一箇しなかったようである。若し当家三衣抄であれば静かに一致し、一箇していたのではなかろうか。三秘抄のために反って他門の教学に近付き、自門の教学に背く結果を生じたのではなかろうか。戒旦の本尊の解釈もそこから付けられているようである。そのために己心の法門が今まで表に出ることもなかったのである。今この法門を取り出した時、諸門下一斉に飛びついてきたのである。日蓮が法門とはこの法門を根本として展開しているものであることに何故今まで気付かなかったのであろうか。いかにもわからないことではある。どのように開目抄や本尊抄等を読まれていたものであろうか。
 六巻抄もこの文底秘沈抄の語及び、己心の一念三千法門を解明するために編集されたものであることは、その自序に示されている通りである。それを読み乍ら何故己心の法門に気付かなかったのであろうことは吾々の最も理解に苦しむ処である。それは筆者が始めて説き出したものではない、遠慮なく大いにその御慈悲のある処を受けとめてもらいたい。そこには決して代償を要求するようなことはあり得ないのである。これは末法に生きる民衆の共有物なのである。我が身に授与された文底秘沈の己心の法門の醍醐味を、寂かに味わってもらいたいばかりである。この法門は今も健在である。この法門を通して、大聖人に近付くべきではないかと思う。
 今宗門では観念文を唱えているが、文底秘沈抄にはそれにつながるものがない。それは当家三衣抄の末文から観念文につながっているところは読んでわかるごとくである。これがなければ観念文の意義がはっきりしないのではなかろうか。これによって観念している中味が何であるかを承知してもらいたい。六巻抄の結論とする処はそこに秘められているのではなかろうか。何を観念しているのか、それをよく承知の上で唱えた方が功徳は遥かに勝るのではなかろうか。文底秘沈抄には観念に通じるものは直には見当らないのではなかろうか。
 近来一つの流行のように、各宗教が劣らず平和を唱えているがそれは理想世界であり、宗教本来の姿、その故里である魂魄の処にのみ存在するものであり、今のように世俗の臭気の強い処では平和は存在しないのではないかと思われる。各宗教共、魂魄世界に立ち返って後に唱えるべきであると思う。今となっては宗教そのものがあまりにも俗臭が強すぎるのではないかと思う。現状では平和の安住出来る宗教は存在していないのではなかろうか。何ををいても常寂の浄土を取り返してもらいたいものである。
 三衣抄の発端に引かれる左伝の註引用の意味は、浄化にあるのではなかろうか。それは長い間見向きもされなかったものである。それだけに甚深なものを持ち合せているようである。それは十二章生れ乍らにしてこれを備えているのである。庶民は只一を持つことによって事たりるのである。三衣抄を通して寛師が何故ここに左伝の註を引かれたものか、その甚深の処を味わってもらいたい。それは、そうそう簡単に切りすてられるものとも思われない。そこにこのような法門書の受けとめ方の秘伝が示されているように思う。いきなり切りすててしまっては、その慈悲に触れることもできない。このような文章が今少しでも深いものを読みとるよすがにしてもらいたいと思う。
 六巻抄に秘められたものは何一つとり出されていないのではなかろうか。秘めたままではその有り難味も論じられないのではなかろうか。これを宗門人に励んでもらいたい処である。法教院もそのような事について研究を始めてはどうでせうか。時にその甚深な発見を公表してもらいたいと思う。開院以来何年も経っているようであるが、一向にその成果に触れることが出来ないのは遺憾の極みである。威勢のよい処で公表を待ち侘びるものである。六巻抄をどのように読むかということは御書の読み方への入門書ではなかろうか。あまり秘められるぎて失なわれてしまっては困りものである。
 今は失なわれたものの再現の時なのではなかろうか。それが完了した時始めて甚深の相伝を誇ることが出来るのであることを御承知願いたい。法門書はその表面のみを見て罷り過ぎては全く無意味なものである。より深く読みとるために研鑽が必要なのではなかろうか。浅く一見のみでは凡そ無意味である。法門書を浅く読むのみでは自慢にはならない。時には専門家の甚深な処をもって尻をたたいてもらいたい。時にはたたき返してもよいのではなかろうか。
 本尊抄の解釈いよいよ複雑で、寛師は古来蘭菊といわれている。何れを蘭、何れを菊とも定めかねているようである。この諸説に幻惑されてこの抄を結論と見たのではなかろうか。そのために当家三衣の甚深の処まで眼をつけることが出来なかった。そこで第二の三秘の処に結論を見出だしたのではないかと思われる。結局は文の表の三秘に眼を奪われたように思われる。
 第三依義判文抄では法花経から依文を引き出してその義を判じて文底秘沈の語を判じようとされている、そして第四では末法に相応した語義をとり出して末法に相応しい意義をもっていることを判じている。そして滅後末法に相応しい三秘であることを強調するものである。それらの意を含んだ上で当家三衣抄に至るのであり、そこには末法相応の意を十分に備えているのである。衆生に備わった末法相応の三秘は、やがて当家三衣と収まるのである。滅後末法相応ということが大きくひゞいているようである。そこに至って文底秘沈の三秘は開花するのである。以上のように六巻抄の結論はこの当家三衣抄に極まるのである。
 六巻抄に何を秘められているのか、今となっては伝持されたものは何物もない。文字に示されたわけでもなく、口に表わすわけでもなく無言で目と目で只、顎をしゃくることによって了解されているのである。それが男と男の約束の美徳とされているのである。結局今となっては寛師と詳師の間で顎をしゃくって交わされた約定が何であったのか、全く何も伝わっていない。
 この六巻があれば諸宗が雲霞の如く押し寄せても恐れることはないという自信とは何であったのか、僅か三百年の間に全く失なわれた処から生ずる悲劇である。それについてはあまり穿鑿せられた痕跡は見当らない。何をもってこれに対処するのか、それについても全く五里霧中の状態である。そこに一応結論として現れたのが第二を結論として取り出した三秘と、それを更に第六に摂入して求めるべき当家三衣との相違、その間に大きな誤算があったのではなかろうか。それは今取り残されている大きな課題である。それが何であったのか、一日も早く取り決めるべきであると思う。今他門からその虚を突かれているのではなかろうか。
目と目を見合わした約束事は、今となっては何一つ伝わっていなかったのである。反って諸宗を雲霞の如くに招き寄せたのであった。そこに何程かの誤算があったのではなかろうか。これは今早々に檢討を加えなければならない問題である。それは今に残されたままになっているのである。
 寛師が文底秘沈抄の戒旦の処に三秘抄を引用されていても、その眞意がどこにあるかということを豫め子細に承知していなければならない。問題はそれを拡大解釈した処に出た被害であったのかもしれない。そこに今一つ解釈するものの神妙さが必要であったのである。結果的には三秘抄に丸められたように思う。全く迂闊であったという外はない。改めて六巻抄を再檢すべき時が来ているのではなかろうか。
 三秘抄による戒旦では法花体内から体外に出て、今のように専ら己心を離れて俗身の上に考えるようになるのではなかろうか。今俗身に出た戒旦に悩まされているように見受けられる。そのために何となく小乗戒壇に近いものを感じさせるのである。大きさのみを取るのもそのような中から発っているのであろう。
 寸尺高下注記する能わざる処とは魂魄世界を指しているのである。防非止悪のための戒壇とは小乗戒壇のいう処に近いようである。大の字を使えば大乗の意を表わすとは限らないものである。寛師は三秘抄説をそのまま現実世界に現わそうとせられたとは思われない。そこにはまだまだ反省すべき余地が残されているのではなかろうか。
 三秘が魂魄に収められた時、そこに当家三衣抄が誕生するのではなかろうか。第六は本来として六巻の結論になる宿命を持って生れているのである。そこに説かれた戒壇は今にまだ落ち付いていないように見える。三衣抄は長い間意味不明のまま切り捨てられていたようである。若しそれが法門書として登場するなら、そこには大きな変化を期待してよいのではなかろうか。
 己心の戒壇であれば、五十六億七千万歳の人々に同時授戒も出来得るのではなかろうか。そこに色々な見方考え方があるというものである。六巻抄の文底秘沈抄に三秘抄を引いて戒壇について解釈を助けられているが、六巻抄には第六当家三衣抄があり、ここに結論が出されているように思われる。現在は文底秘沈抄の戒旦篇引用の三秘抄に結論を求めている感じである。
 六巻抄として寛師と後世の解尺の上の結論に異りがある。そこに予想もしない意外な混乱を生じたのではなかろうか。これは宗門教学部又は法教院に改めて考え直してもらいたいと思う。その結論の異りが、今種々な問題を提供しているのではないかと思う。そこにこのような法門書の解釈のむづかしさがあるように思う。もっともっと視野を広げてもらいたい処である。しかも今の六巻抄の解尺は、三秘抄の考えが根本におかれているのではないかと思う。もっと三秘抄の掘り下げが必要であるのではないかと思う。
 三秘抄を開目抄や本尊抄と同列におくには些か無理があるのではなかろうか。それを強行した処に問題が生じているのではないかと思う。今使われている初心成仏抄なども念のため、その内容について研究する必要があるのではないであろうか。その点今は無防備のようである。改めて御書の出生について檢討しておく必要があるのではなかろうか。或る意図をもって作られたものを利用すれば、災いを受ける恐れのあることを必らず警戒しなければならない。
 今は北山の匂いのするものを利用しているので、結果的には大本門寺という寺号が表に出ているようである。それは巧まざる自然の理ということではなかろうか。それらは前もって警戒しておくことがより賢明であるのではなかろうか。今はそれだけ北山の匂いの濃まやかなものが利用されているのである。その出生に気を配ってもらいたいと思う。
 三秘抄に幻惑されて第二を結論と読みとったのではなかろうか。その一一二ページには文句を引いて因果をとかれている。因果のある処、種々に法門が複雑に働いているように思う。因果のある処、師弟因果もあり、また本因本果の働らく処また蓮花因果を生じている。そこには大乗の上の修行も考えられているようである。本尊抄ではそれらのものが説かれているのである。それらが三秘の上に固定して考えられているが六巻抄としては第六当家三衣抄にもちこまれて、そこで結論付けられている。
 六巻抄としては三秘は結論ではなく三衣が結論であったようである。そこに計算違いがあったのではないかと思われる。それは解釈の道中における手違いであったように思う。結論の場の手違いから五百塵点の当初もここに生じているようである。それが確認出来なければ修行が成り立たないかもしれない。御用心、御用心。観念文にも通じなければ結論とは云えないであろう。これらは今の宗門の悩みの一つではなかろうか。
 観念文は六巻抄を一言にまとめられたものであるのではないかと思う。事を事に行ずるという意味も観念文の中に含まれているのかもしれない。事行の中に具備しているのである。仏が凡俗の頸に懸け与えられたのは三秘であったのか、三衣であったのであろうか。三衣と解したのは寛師であったのであろうか。そこには因果甚深の作らきが秘められているように思われる。これ程の三衣抄も長い間殆んど省られなかったのである。そこに法門書の読みのむづかしさがある。従来の読みが成功していたとは思われない。解釈によれば愚俗の己心の中には全べてこのような甚深のものが含まれているのである。今は本因が消えているように思われるがこれまた必須条件のようである。もしこれが失なわれるならば、法門は一向に本果の法門となり応迹一本に絞られる恐れがあるのではなかろうか。
 開目抄の文底秘沈の語は三衣において解明が終っているように思える。三秘抄によって三秘を解した時その題目を一言といわれるようなことは三秘抄の題目ではなされていない。即ち第五でいう一言摂尽の題目は表わされていない。即ち只の口唱の題目に同じものである。第五の一言摂尽の題目は題目のどこにも連絡付けられていない。寛師が何故無用の一言摂尽の題目を説かれたのであろうか。一言摂尽の題目とはその題目の中に一切の法門が摂入されている意を表わしているのである。それは全く明らめられていない。利用價値のないものを三・四・五と何故寛師が説かれたのであろうか。
 妙法五字の中に一切の法門が含まれていないということでは困りものである。それでは寛師の法門のさまたげになるのではなかろうか。寛師の御意志は三秘も三衣も衆生の己心に収めるのが甚深の御意向であるのではなかろうか。それを間違いなく捉えるのは末弟のあるべき姿なのではなかろうか。これらが云われるように衆生の己心の奥深く収まるならそれこそ真実の広宣流布ということなのではなかろうか。己心の法門とはそのように大らかなもののようである。
 六巻抄に云わく、開目抄上に曰わく、一念三千法門は但法花経本門寿量品の文の底に秘して沈めたまえり。竜樹・天親は知って未だ弘めたまわず但我が天台智者のみこれを懐けり等云云と。文に三段を分つとは標・釈・結なり。義に十門を開くとは、第一に一念三千法門の聞きがたきことを示し、第二に文相の大旨を示し、第三に一念三千数量を示し、第四に一念に三千の相貌を具する相貌を示し、第五に權実相対して一念三千を明かすことを示し、第六に本迹相対して一念三千を明かすを示し、第七に種脱相対して一念三千を明かすを示し、第八に事理の一念三千を示し、第九に正像に未だ弘めざる所以を示し、第十に末法流布の大白法なることを示すなり。以上宗要六より引用す。これらをもって法花経寿量品の文の底より三大秘法を引き出されたものである。そして法花経の題目等に種々の法門が繰り入れられるようである。そして三秘に深味が出来た処で三衣と変わるのである。三秘の場合は深く収められたものについて、一つ一つを明かされるのである。
 現状は久遠名字の妙法も一言摂尽の妙法も、妙法としては全く受けとめられていないのである。深味の部分については全く無関心のように思われる。そして六巻抄は極力浅い処に抑えられているようである。所詮は一言摂尽以前の題目に止められているように見える。六巻抄を極力浅い処で抑えようと努力していることが眼につくのである。六巻抄の第十義は滅後末法に流布すべき文底秘沈の大白法なのである。その大白法すら十分には明かされていないのではなかろうか。それは必らず魂魄の上にあるべきものではなかろうか。それらが当家三衣抄に収められたとき、そこに始めて大白法が具現するのではなかろうか。これは知りがたい法門である。今は遺憾乍らこれが本果の処においてのみ論じられているように見える。因果倶時にはまだまだ道が遠いように見える。今目指す処はそこら辺りにもあるのではなかろうか。
 六巻抄という発想がどこから起こされているのであろうか。例えば開目、本尊、撰時報恩、法華取要で、撰時報恩を二巻宛に調巻すれば、これらの調巻しだいで六巻抄の発想があるのではなかろうか。或は別の処にあるのか。実際には七巻に調巻されているようである。開目を六巻とすれば六巻抄も同巻数に仕立てられているようである。何か六にこだわりがあるのであろうか。他宗門にも六巻抄という名儀はあったように思う。六巻抄もその受け止め方に今一工夫いる処ではなかろうか。現状はそれ程深く読みとる工風はされていないように思う。
 精進川の芹摘は例年正月七日に限られたものではなく、年中の汁の実に利用されたのではないかと思う。上代はその芹を食み乍ら学にはげんだのである。決して一年に一回限りというものではない。米一駄の寄進は莫大なものであり、三斗五升俵の振り分け荷、計七斗であったのではなかろうか。当時は一俵三斗五升であったようである。芋一駄も振り分け荷として運ばれたものであろう。一俵づつを馬の背の左右に付けて一駄としたのではなかろうか。人が擔ぐ場合も荷を半分宛に分けて前後にしてこれを一荷というが、今はこのような擔ぎ方は完全に消えたようである。荷は人の背による運送方法は最も身近かな運送方法であった。
 一荷・一駄という語も次第に時代と共に消えていくのであろう。既に死語となりつつあるようである。水鳥が水中にもぐる時これを「かずく」という。擔ぐは「かずく」というのが正しいのかもしれない。誤りであれば抹消しておいて下さい。今は「かづぐ」という語は全く死語と化している。只、語のみ生きのびている感じである。法門もまた時と共に、考え方に色々と消長があるのではなかろうか。これは寛師の考えを出来る限り再現すべきではなかろうか。明治の頃に新しく解釈付けられたものがあるのではなかろうか。解釈の中での方言である。その解釈は時代の中に生れたものであるが、今の時代感覚とずれているものもあるように思われる。中には法門として裏付けの困難なものもあるのではなかろうか。
 当家三衣抄には報恩抄にあたるような衆生への報恩というようなものを持っているのではなかろうか。若しそれがあるとすれば、それは大聖人や寛師の謙譲の徳と受けとめるべきではなかろうか。衆生の己心の一念三千は、法花取要抄にも一応明かされている。衆生の一応伝持している三秘の徳は、取要抄によって法花経の中に収められているようである。そして当家三衣抄のうちにも寂かに秘められているようである。三衣抄とは衆生の備えてをる徳を静かに寂められているように思うのは誤りであろうか。そこから衆生の人徳を捉えることは出来ないであろうか。この三衣抄によって愚悪の凡夫にも等しく成道の道が開かれているのである。これは綜合して上代の諸師の慈悲ということではなかろうか。それに対する報恩謝徳の処に自然に成道もあり得るのではなかろうか。これが師弟子の法門のよさではなかろうか。
 文底秘沈の己心の法門は決して衆生を見捨てることはしていない。これが本仏の慈悲ということであろうと思う。報恩謝徳の処に静かな世間がある、そこに常寂の浄土が開けるのではなかろうか。それは人の心得次第であり、左伝の註の引用文はそこにある常住の浄土を指していると考えられないであろうか。常寂の浄土とは、常に人の己心の一角にあり得るものかもしれない。門下の持つべき常寂の浄土とはそのような処を指しているのではなかろうか。そこに己心の法門の浄土が存在していることは、日蓮大聖人は教示されて来ているのではなかろうか。それは本果の浄土に比するようなものではなく、飽くまで本因に属する常寂の浄土である。そこには滅後己心の戒壇も、己心の赴くままに建立出来るのではなかろうか。それは本果の上の浄土とは自づから異なるものがあるのではないかと思う。その霊山浄土とは師弟相寄って建立すべき常寂の浄土のようである。その師弟子の境界を本尊抄の副状は、師弟共に往詣すべき霊山浄土と説き置かれているのではなかろうか。
 日蓮の浄土思想とは、本因の浄土をとかれている。それが師弟子の法門ということではなかろうか。浄土をその語に引かれて、浄土宗の浄土に比するのは因果の混乱のなせるわざである。今の大石寺法門に本因の浄土がありや否や、是非聞きたい処である。霊山往詣とは生きながらそこに常住して生活することも含んでいるのではなかろうか。僅かな本因の捉え方による発展の中でこのように違ってくるのである。本因で説かれた浄土を本果で解したために、浄土思想の解釈に混乱を生じた一例である。大石寺ではあくまで本因浄土について論ずべきである。
 寛師には本果の浄土を説かれた処は一向に見あたらない。御書では本尊抄を説かれた後に法花取要抄がある。そこで一応三秘がとかれる。その三秘は衆生の己心の奥深く秘められたものであり、これを本因と捉えているのが大石寺法門である。大聖人もこれを明らめるために身を最低下に処しているのである。それは衆生の己心の一念三千に同列におくためなのかもしれない。これは、衆生を極底の処に見るは慈悲であり、少し上位に見るなら、隣人愛でもある。大聖人を本果の処に見ればそのようなものはあり得ない。
 今の宗門には本果的な見方が宗内に多分に入っているように思われる。本因の立場から解されるべきものが多分に本果で解されている。そこに不可解なものが種々に残されて複雑になっているようである。本果によるか本因によるべきか。何れ是非も決めなければならない時を迎えているのである。今こそその出処進退を明かさなければならない時である。大聖の徳は必らず報恩抄から滲み出るものと思われる。そこに底下の徳が控えているのである。法主も大聖と同じく底下に身を処してもらいたいものである。
 大聖自らが底下を指していられる時、法主のみが高位を指すのはどのようなものであろうか。また、大聖人を指しおいて「恐れ多くも勿体なくも」とは最も頂きがたいものの一つである。その語には最高最尊の意を多分に秘めているのである。そこには応仏的な雰囲気を多分にもっているのである。それは差別の上に成り立っているものである。それは大聖を初め上代の諸師に真向から背向くものであることを知ってもらいたいものである。大聖自らは底下の処を指しているのである。それを直々に相伝した人が何故最高最尊の座を目指すのであろうか。本果の混乱がそのような結果を齎したのであろう。法門的にこれを裏付けることは困難なのではなかろうか。
 今世上一般に報恩というような事は次第に薄れているようである。このような時こそ報恩抄もまたその威力を発揮するということではなかろうか。世間に対し、隣人に対する報恩の必要な時代が到来しているのである。大聖人は既に滅後末法の世を迎えた時、報恩の必要なことは御指示の通りである。報恩とは滅後末法の世を平和に保つための根本に存在しなければならないもののようである。「オレが」と思う処には報恩はありえない。
 隣人に対する報恩、そして天帝に対する報恩、そのようなものが人に世の険しさを救うのである。筆者も報恩を目指して書き続けようとしているのである。今吾等も底下に凡身をおいて報恩の気持を取り返したいと思う。そこから世上のぬくもりも又復活するのではないかと思う。そこにまず不可欠のものが、因果倶時不思議の一法が必要なようである。本因が消えては因果倶時は成り立たないのではなかろうか。
 冨要三、二七四の十四行に節用集頭書に云わく、「古えは偏衫(へんざん)・裙子(くんず)二つなるを後に上下つらねて直綴とすと云云」とあるが、この節用集頭書は珍らしい和本であり、その手沢本は今も大石寺図書館に残されている。和辞書である糅抄については記憶に残っていない。或は釈氏要覧に引用されているものであろうか。これはコピーをもって公開されたいものである。
 法衣供養談義は、もと或信者が法衣を寄進したことについて、その功徳のいかに大なるかを説かれたもので、続いてこれをもって当家三衣抄に続けられて六巻抄の結論にされたものではないかと思う。結局それは、それ程重要な意味をもっているものとは今まで解されていなかった。それ程理解出来にくい処で説かれていたものであった。そして六巻抄は手っ取り早く文底秘沈抄の三秘で結論付けられていたのである。そこに寛師説への誤解があったのではなかろうか。まことに残念な事というべきである。他に乗ぜられるような解釈が付けられていたのである。第二で結論が出されたために第三以下は全く無用の長物化していたのである。師弟子の法門にはこれらのものも当然含まれていたものと考えられる。
 明治以後ドイツ学的な発想の中で解されていたために、折角の六巻抄も寛師の期待に反してその効果を示すこともなかったのである。そこには頸にかけ与えられた妙法五字の袋のうちに包まれた三秘も更に子細にせられていたのである。今までの処、専らこれを逆手にとられてきたようである。そこでは文底秘沈の己心の一念三千の法門とも離れ離れになっていたのである。今速かにこの法門を取り返すことが先決ではないかと思う。今の世上はそれを求めているのである。そこには中国初まって以来の思想も天台思想としてその中にも含まれているのである。それが大石寺法門として取り入れられたまま表面に出ることもなく、今まで温存されてきているのである。それが本尊抄にいう法花経寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門なのである。
 今はマルクスのような大きな思想家が世間的に拂底しているということである。アメリカもドイツも世界中そのような時を迎えているのである。何れも五里霧中で手さぐりしている状態である。それが今の世の実状のようである。ここまできても次の世界を指導する偉大な思想は今直ぐにも生まれそうもない。事は急を要するのである。マルクス思想も、長い間世界を指導してきたキリスト教の思想も今は全くその威力を失ったようであり、次の指導力となるべき根本思想が今求め続けられているのである。中々そのような偉大な思想はそれ程簡単に生れてくるものでもないようで、それはこれから民衆が相寄って育て上げていくべきものなのであろうか。その根本に置かれていてもおかしくない。しかもその中心にあって充分にその重圧に堪え得る力を備えているのが文底秘沈の己心の一念三千法門なのではなかろうか。その彼方には長い間蓄積された中国思想が控えている強みを持っているのである。
 六巻抄は開目抄をうけて魂魄の上に論じられているが、中間説かれたものがすべて当家三衣抄にいたり、左伝の引文により一挙に魂魄の上にまとめられて当家三衣抄がとかれ、再び魂魄の上に所作されるようになっているが、明治以降は専ら外相一辺において所作されているようである。そこでは一挙に魂魄が捨てられるのではないかと思う。そこで法門の様相が急激に変るのではないかと思う。その頃以後大いにドイツ学を受け入れて魂魄の上の法門の形相が変ってくるようである。その法門は今も当時のまま受けつがれているように思われる。
 どこまで羅什訳の極意の処が守られているのであろうか。法門的には江北の四明流化したものに近づいているのではなかろうか。江南のものがどこまで残されているのであろうか。叡山でさえ四明流を多分に受けついでいるようで。日蓮大聖人はこれを「京なめり」と斥っていたようであるが、今は専ら四明流化しているようである。伝教大師が渡唐して学んだ先は仏朧寺であった。そこでは一隅とは丑寅の一隅を指し、衆生の成道をそこに見ようとしているのではないかと思われるが、今はそこからの衆生の成道へのつながりは絶えたのではなかろうか。
 江南では魂魄の上に考えられていたのではなかろうか。今どれだけの面影を残しているのであろうか。長い時間をかけて中古天台と斥いつくしてきているのである。そのよさを伝えているのが大石寺法門である。このうち鎌倉以来六巻抄に至るまで、そこには長く伝持されているのである。ドイツ学を入れたものは一時的には威勢はよかったけれども、今は一度に凋落の一途をたどっているようである。今は門下一般に反省して文の底の己心の一念三千法門に立ち帰ろうとするきざしが見えている。
 楠正成の旗印、非理法權天も今はその意味も捉えがたくなっているようであるが、理法は天を權とするにあらず、非理の法は天を權とす、と読めば意味は通じるのではなかろうか。開目抄には非理の法の語は使われている。最近京大の滝川先生の「非理法權天」を入手して拝見したが、大分困惑されているようである。權は權実の權でありケンではない。天台ではこれを三諦読み(空假中)するのである。そして三種の意を取り出すのである。それは江南の読みではなかろうか。それは半島からの持ち込みによる江南の読み方ではなかろうか。南北朝の頃のことである。激動の中に渡来したものであり、後に渡った北宋流によって消されたものかもしれない。それは鎌倉の文応の頃には四明流は伝わっていたようで、日蓮はこれを「京なめり」と斥っているのであるが、後には門下からも京なめりを志願して中古天台を称したものも最近まであったようである。
 北宋との交流が深まった中で日蓮が法門も大いに変貌を始めたようである。「京なめり」とは北宋直伝のものを指しているように思われる。平安末にも渡来し、文応頃には可成り力をもっていたように思われる。そして室町末期から元禄頃まで及び明治の頃、及び昭和戦後の激動期には時に勢いを持っていたようである。これらについては従来注意は拂われなかったのであろうか。北宋との交流がいつどのような方法で往復していたのか、渡海術も大変ではなかったのではないかと思う。船を調達し、これを操作することも大変ではなかったかと思う。慈覚・智証両大師は江北への渡海であった。伝教大師は江南の渡海であったのである。
 六巻抄としての結論は当家三衣抄に求めるべきではないかと思う。この抄は最後観念文に結ばれているのではないかと思う。或は六巻抄の結論もそこにあるのかもしれない。魂魄の上の三衣ということのようである。そこに六巻抄の捉えがたい処があるようである。今は本因が失なはれているので自然に本果に結論が持ちこまれているようで、そこでは自然に師弟子の法門も消滅しているのである。或は江南の考えもついつい江北の流れに変るのではなかろうか。それらの中で明治の変革は大きかったようである。鎌倉以後漸く師承に帰ろうとしているのではなかろうか。それ程世上も行きつまっているのである。平和を求めるためにも必らず魂魄の処に立帰るべきであると思う。俗身をとった処には平和はあり得ないかもしれない。
 日本に江南の仏法を伝えたのは信羅・高句麗・百斎等かも知れない。これらの国からは人と共に仏法も伝来したようであるが、現在では古い呉音は絶えているのではないかと思う。上代は白文でも充分に事足りたものではないかと思う。日蓮の註法花経でも、反り点等の入れられているものは極く限られたものである。伝教大師のものの引用は殆んど白文である。その読みは天正頃までは続いていたのではなかろうか。不受不施日奥のものには何となく残っていた感じである。送り假名の入れ方も随分違うようである。反り点等も漢音読みとは随分違うのではなかろうか。その読みのために異った意味の出ている場合が多いのではなかろうか。その点浄土宗などには案外古い読みを伝えているのではなかろうか。註経にはそのように思われるものが多いように思う。
 内容的にも明治の考えをすてて鎌倉の頃に速かに立ち帰るべき時を迎えているのではなかろうか。大石寺法門には多分にそのようなものが残されているのではないかと思う。その根本にあるのが文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門のようである。これには昔ながらのものが残されているようである。
 第五では一言摂尽の妙法がとかれる。そして妙法五字の袋の中に一切の法門が摂入されていることが説かれる。その袋のうちにあるのが三秘である。その三秘が三衣に収められた上でさらに三衣抄に収められ、そこから三秘が出るのかもしれない。三衣抄のほうが第二文底秘沈抄より一段深いのかもしれない。そこに三衣抄乃至六巻抄の捉えがたい処がある。文底秘沈の意より衆生の当体が妙法そのものになり、その妙法に三衣がおさまって当家三衣となるのではなかろうか。
 第二には観念文に相当するものが見当らない。それだけに第六が深いのかも知れない。あまり三秘抄に幻惑されないようにせられたい。六巻のうち、早や早やとそこから結論を求めるより、第六から求めることの方がより合理的である。三秘抄にたよったために相手の術中に陥って本因を捨てる羽目になったのである。
 本因本果不思議の一法は因果の中間にあるもので、その中間に本法もあり、本仏もあるようである。因果の法門のある処に師弟子の法門もあり、因果の法門のある処、師弟子の法門の処に五百塵点もあれば久遠以来の修行もあり、それを受持することによって衆生にも久遠以来の修行が備わり、成道することが出来る。その修行がなければ成道につながらない弱味がある。
 今のように本因を認めなければ因果を成ずることも出来ない。それらのものが衆生の魂魄の上に考えられているのが開目抄であり本尊抄なのである。それを衆生成道の立場から分り易くまとめられたのが六巻抄である。これがまた分りにくかったのである。法門の捉え方が浅かったために、本因を捨てさせられたのであろうか。本因があって初めて因果の法門は成り立つものである。本因がなければ迹と何等変りはない。他宗を下す理由は何物も存在しないであろう。本因がなければ久遠元初を唱えることも出来ない。また衆生の成道も唱えがたいであろう。
 宗門が五百塵点の捉えがたいのは本因を捨てているためであろうか。他門はそれを突いてきたのである。五百塵点以来の修行がなければ衆生はどのようにして成道を遂げることが出来るのであろうか。蓮華の法門もまた因果の上に成り立っている。蓮華往生の法門は因果の上に成り立っているものである。それが本因本果不思議の一法と称えられるものである。それらは本来、生れた時仏から授与された相承の法門である。仏が自ら修行し得たものを衆生は信受することによって得る相承の法門である。修行も自然に備わっているのである。相承の意味は実にはこのあたりにあるのではなかろうか。今は文上にのみに考えられているようである。
 相承も目でたしかめられるものに限られているようである。相承の語も何となく変形したものを持っているようである。相承という語が別の処で受けつがれているようである。これも今は他の批難のまとになっているようである。自門のみが大聖人より外相において直受しているという処に無理があるように思われる。これらは信受による直受を唱えているのである。相承も本来の意とは違う処で使われているようである。それは魂魄から外相に出ているために批難を受けているのである。今は相承とは自門のみの直授相承を唱えているようである。そのような独善味が強いようである。
 相承もその原点を捉えるなら大いに法門の解明に役立つものである。仏より、天より直授相承されたものであれば、決して他に批難されるには当らないようである。それが一旦外相に出れば早々に他門の攻撃を受けるのである。解釈のつけ方から意味不明となって、反って他から責められているものも多いのではなかろうか。相承の法門とは師弟子の法門に関わりがあるように思われる。色々と秘められたものが多いようである。自他共に不明になっているものが多いことである。不明になった時、他のものを移入して新解釈を生じるのは各時代の変り目に行なわれ易いようである。今また変革の行なわれる時を迎えつつあるようである。
 明治も大きな変革の時であった。今は明治に移入したドイツ学の影響を整理すべき時のようである。解釈の途切れになった処を無関係の法門が移入されて新解釈を付けるのである。鎌倉以来、文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門は忘れられていたが、今漸く復活の兆しが見え始めたようである。時代の境目にけじめを考えても大きく法門も変わるようである。欲をいえばそこに世間を指導するような法門の欲しい処である。寂かに法門を見つめてもらいたい処である。寂は「心しづかに」の意をもっている。
 文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門については世間も既にこれを認めようとしているのではなかろうか。それは専ら自力をもって立ち上がることを教えているように思われる。今まで反対していた向きも急に言葉を反したようである。そこには日蓮の先見の明があったようである。即ち世上を見廻して見ても何となく行きつまった姿は滅後末法という感じが強いようである。時代がそれを要求しているということであろうか。
 本尊抄の文段二二三ページには信力がとかれているが、これは信心と混同するようである。同ページ八行目には「唱法花題目抄は一往天台附順の釈なり。佐渡以前文応元年の御抄也」とある。聖典も法花経題目抄を取上げるべきであったようである。それは富久成寺に目師の弟子朝師の冩本が残されているのである。この機会に取り換えなければならない。また二二四ページから二二五ページには因果を明かされている。
 御書では開目抄の次ぎに本尊抄を拝すべきであると思う。そして己心の一念三千が魂魄から出されいる。第一は、六巻抄の読み方から出されている文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門の引き出し方が示されているようである。その文が当家三衣抄のようにも思われる。そこでは妙法五字の中に一切の甚深の法門も秘められている。このように本尊抄は魂魄佐土にいたるの文の処から始められて本尊を引き出され、次いで戒旦題目を明されているようである。今は第二に六巻抄の結論を求めたために、解釈の上に混乱が出たのではなかろうか。
 従来観念文は六巻抄とは別個に扱われていたのではないかと思う。現在の宗学で衆生の成道はどのように筋立てられているのであろうか。因果が各別の扱いを受けては、衆生の成道も師弟子の法門も蓮花因果も成り立ちにくくなる恐れはないか。これは意外の難問なのではなかろうか。
 日吉(ひえ)神社は元来、比叡山の山の神である。日吉と比叡とは同音である。伝教大師が比叡山を開いた時、山の神の怒りに触れないようにまず山の神を奉斎したものである。弘法大師が入山した時その道案内をしたのは山の神、丹生津姫明神
(にふつひめみょうじん)であったという伝説である。それぞれ仏の入山の時には地主神(ぢしゅじん)として山の神が祀られている。それは山の神の御心を静めるためであった。叡山と日吉の大神とは今に強いつながりがあるようである。大石寺には浅間神社との間にも、格別山の神としての信仰的なつながりはもっていないのは何故であろうか。古い明星池には底に涌き水があったようであるが、これも山の神の涌出の場として、天の明星出現の場としての信仰をもっていたようであったが、その池は今かすかにその痕迹を伝えるのみである。大石寺には日吉山のような、山の神信仰につながるものを持っていないのは何故であろうか。
 明星池及び御花水に山の神々の直々の出現を祝福するものが、明星池・御花水等に出現の天の明星に其の意を持っていたのであろうか。その池の水は冨士の山の奥深くより涌き出づる水である。浅間神社にもこの涌水に対する信仰は強いようである。これは冨士信仰の一つの信仰の在り方ではなかろうか。或は霊山信仰につながるものをもっているのではなかろうか。或は御花水は信仰的には大杉山の洞崛につながっているかもしれない。御花水は寺内を流れて東南辰巳の閻浮に向って流れ去っているのである。これらは冨士独自のもののようである。北山本門寺は冨士の溶岩流の上に建立されているようである。精進川(しょうじがわ)の芹摘みも昔のような冨士信仰につながっているものではなかろうか。明星池に涌出する明星の出現は本尊にもつながるものをもっているように思われる。出来れば天の明星池を元のように復活してもらいたいものである。明星口伝の口伝の二字に深い信仰の名残りを示しているのではなかろうか。
 開目抄とは法花経寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門を見出だしたことを指しているのではなかろうか。魂魄の上に己心の法門を見出だした処に開目抄を考えたいと思う。そしてそれは衆生の成道についての開目のようである。師弟子の法門によって仏より授与せられた法門によって成道を遂げる処、即ち開目というべきであろう。日吉の山の神も姫神ではないかと思うが、丹生津比賣(にふつひめ)の神も姫神である。怒れば恐ろしいのが山の神である。冨士の山の神のお名前はどのように申し上げるのであろうか。この山の神のみは今までお名前を伺ったためしがない。
 冨士は大日蓮花山というが、その蓮花山とは師弟子の法門を含んで伝えているのであり、また因果の法門を持っているように思う。蓮花を唱えるためには本因本果が共に必要なのである。本果のみを表に出し乍ら因果倶時を称えることには大きな矛盾があるようである。仏から妙法五字の袋の内につつんで授与されることについては、信不信には関わりはないようである。信心であるが故に授与するというような偏破は、仏は持ち合わせてはいないようである。師弟子の法門によって自動的に久遠以来の成道をとげるようになっている。そこに仏の慈悲があるのである。
 浅間の神は山の神として冨士の御山に静まりませる山の神ではなかろうか。この神は時に怒りを爆発させる恐ろしい神のようである。これはこの神を中心として冨士信仰が展開しているのではないかと思われる。浅間神社の神域には浄水が絶えることなく涌き出て、涌き水が流れ出ているようである。何かがその浄水の処に秘められているのではないかと思われる。精進川及び寺内を流れる川の水は、何れも源流は白糸滝に噴き出る浄水である。その水は諸方に涌水しているようである。潤をわしているのである。
 冨士方面は天然の涌水にうるをわされることが多いようである。それはその地の生活と密着しているようである。その水は寺内を潤うして、余りは東南の閻浮に向って衆生を潤うしているようである。その水路と明星池は是非共復活を計ってもらいたいものである。音をたてて浄域内を流れる水の音には、理屈抜きで人の心を和ませるものを具えているようであるが、そのようなものは次第に森の木と共に姿を消したようである。その水は古くは御花水として大きな役割を持っていたのではないかと思う。水の配置だけは旧に復してもらいたいものである。その水は霊山の大地の底から滲み出た涌水なのである。その水が流れる処こそ浄土の意をもっているのではなかろうか。明星池の水は寺域を流れてから鬼門から出て、表参道の両側を流れてその余った処は閻浮を潤うしていたのであった。
 鬼門をくぐって寺域に入る処に橋があるが、その橋は寛文十年銘のものであったが、今はその行衛は全く分らない。客殿周辺の整地をした時に作られたものであったのかもしれない。その頃に鬼門が作られ石畳も当時のものであるのかもしれない。鬼面も一応その頃のものと考えてよいのではなかろうか。寛文十年銘のものは惜しんでも余りあるものである。その頃、峰須賀侯夫人の寄進によって庫裡も整地されて新らしく建立されて、寺域内にも縦横に水路が引かれた時代であった。客殿の西側の水路は東南に流れる水路が作られたようであったようである。これらのものも全て本のように大地の元に帰ったようである。コンクリートの底に色々なものが沈められていることと思う。
 今、不開門の前にある一対の石燈篭も当時整地していた頃、一度は地中に埋められていたものであった。これも念のため申し上げておくことにする。整地のついでに地中に埋めないことが肝要である。客殿を裏に出てその北を横切って御宝蔵の階段に至る道は、それぞれ何かの意味をもっていたものと思われるが、客殿を下りて横切る道は今はない。客殿の外に出た処から御宝蔵を遥拝する処があったが今の客殿にはそれはない。今の遥拝は少し意味が違っているようである。古くは御宝蔵を遥拝したものであったが、今は結局は移動した後の本尊を遥拝することになっているようである。
 

 

 六巻抄(二)
 六巻抄が起稿されたのは、学頭として蓮藏坊に入った後、御影堂において求めに応じて開目抄を講ぜられた頃であった。その時、文底秘沈の句に出会い、それの解尺のために編集されたのが六巻抄であった。それから三百年を経過したようであるが今にその明快な解釈については知るよしもないのが実情である。その解釈が付けられていないということは、何とも残念な事ではある。その序によればその講義にあたり「文底秘沈」の語に行き当ったのでそれを突破するために六巻を編集されたようである。第一は文底秘沈の正体を求めるために、文に三段を分ち義に十義を立てられた。それらは開目抄からそのように立てられたもののようであり、次いで次ぎに文底秘沈抄を立てて三秘を探ろうとされたようである。その三秘に牽かれて、ついそこに解者が結論を求めたようで、第二にはどこにも結論になるようなものはない。
 六巻のうち第二に結論を求めた、開目抄のために六巻を編集されたのであれば当然結論は第六に求めるべきであるが、どう勘違いしてか第二に結論を求めるようなことになったのであろう。そこで三秘が異様に大きく出たのである。その根幹になるのは三秘ではなく三衣であったようである。三秘抄は三秘にひかれて三秘を異様に大きく扱い、いきなり第二に六巻抄の結論を求めたが、第六を結論とすればそこには三衣の次ぎに観念文も用意されて巻の結論も立てられているが、第二にはこのようなものが見当らない。題目も一言摂尽の題目ではない。この題目では不適当である。そのために六巻を編成されたもののうち第二に結論を求めることは如何にも異様である。文章の編成の上から観念文の遣り場に困るのではなかろうか。そのために六巻抄の結論が出されていないのである。何処かで何かが勘違いされたためではなかろうか。
 観念文の中味はいうまでもなく事の法門であり觀念することも亦事行の法門であり、事を事に行ずる法門としてもそこに結論が示されている。そこに何となく第二が三秘抄を経て戒壇の本尊と連絡付けられている印象さえ与えられるものがある。観念文を唱えることは事行の中でも大きな役割を持っているように思われるが、この解釈も薄らいでくる感じである。当家三衣抄とは法花経寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門であり、そこには法花経の重要な部分が秘沈されているようである。その秘沈されていたのは実は三秘ではなく、それを更らに秘沈された三衣であったようである。
 その三衣も吾々には必要のないものとして長い間その重要さに気付かず、殆んど切って捨てられたままであったようである。その三衣抄に至って一言摂尽の題目も働らきを示すようである。どうもその巻が、観念文の原動力になっているように思われる。觀念の上に詮じつめた処は、この文には本来法門の結論めいたものが初めから用意されているようである。あまりに深すぎてその秘沈に気付かなかったのではなかろうか。これはまた申し分けのない粗相であった。
 衆生成道のために秘し沈めた己心の一念三千も、つい今まで秘められたままその威力を発揮する日もなかったようである。第二には観念文のような結論と思われるものが一向に見当らない。それはこの巻は初めから結論の出るような扱いはなかったように思われる。従来第二に結論を持ち込もうとしたために収まりにくかったのではなかろうか。それは解者の考え違いではなかったであろうか。
 観念文はどう見ても事を事に行ずる文底が家の結論にあたる部分のようである。衆生も事を事に行じながらその結論に到達することが出来なかった。それは不運な事である。その三衣は妙法五字の袋の裏(うち)につつみ、生れ乍らにして仏より頸にかけ与えられているものなのである。真実の直授相承とはこの妙法五字の珠に名付けられたものではなかろうか。直授相承もこのような意味をもった独特の語である、それを他門では異様に感じるのである。説明不足なのではなかろうか。
 三秘も授与されているようであるが、それを更らに今一度詮じた上で衆生にかけ与えられている。それが妙法五字の袋のうちに包まれているのである。魂魄に初まった妙法五字が左伝の引用文によって今一度魂魄の処に立ち返る慎重さである。今一度慎重に読み返す必要があるのではなかろうか。現状では妙法五字の袋のうちに一切の法門が摂入されていると称しても、何がどのように入っているかということは一切不明である。その未整理の処を他から責め立てられているようである。今後はそのようなことのないように、そのあたりの警戒を十分にしてもらいたいと思う。
 三衣抄の前には法衣供養談義一巻があり、冨要三ノ二七〇に載せられている。必要なものは一応引き出されている。釈門章服儀応報記も、これは明蔵に入蔵しているもの、ここの引用は深草元政の別刷した極く薄いもの、その手沢本は大石寺図書館に残されている。今は假りに魂魄と同じ意味に使いたいと思う。生れながらにして天から附与されたものという意味をもって解することにした。ここに引く左伝の引用文は当時の人はその意を知って使われていたもので、引用しているものを三四回見た記憶があるが、今この意味は不明のようである。そのために当家三衣抄の御深意が捉えにくかったのではなかろうか。その前にある臨終用心抄は身延日重の著はす処の同名のものから引き出されたものと思われる。冨要三の末にある寛記雑々は六巻抄制作の用意のためのもののようであり、これは今も現存しているものである。これらの末文子細に読んで見られたい。この法衣供養一巻が後に当家三衣抄と変化するのである。
 寿量品の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門を少しは脱皮を考えて見てはどうであろう。天にあるを魂といい、地にあれば魄という。その魂魄の処にあって考えられてのがこの魂魄佐土に至った処にある己心の一念三千法門である。天地を自由に馳せ巡るだけに捉えがたいようである。第三では経の文を引いてその出処を明らかにされている。
 観念文とは滅後末法における当流の行事を明かされているものである。その時三秘は既に三衣に組み入れられているのである。これらの本源は天経に本付くものではないかと思う。その結論は無意識の中に三衣の上に行じてをり、観念文さえも、となえているのである。それらの中には天に対して十分に報恩の意も含まれているものと思われる。従来三秘のみは大きく扱われていたようであるが、それは実は三衣であったようである。糢糊として捉えがたいのが六巻抄ということであろうか。
 二十一世紀はいよいよ滅後末法の世の到来ということかもしれない。仏はこの時のために己心の一念三千法門を用意して、それを則ち衆生の頸にかけおかれているのかもしれない。それがどのようなものであるかを、まず確認しなければならない。今そのような時を迎えているのである。最重要な当家三衣抄の御真意が捉えられず長い間「吾々信者」には必要のないものといわれて切り捨てられていたのである。このような法門書、それをどのように読みとるかということがむづかしいのである。そこには観念文も示されている、それによって六巻抄の結論を導き出してもらいたい。観念文とは事を事に行ずる結論にあたる部分ではないかと思う。あまり甚深すぎて利用価値がなかったということである。
 六巻抄は己心の法門の実践について御指示を与えられているものと思われるが、それは出来るだけ詳細な註釈が求められるのではなかろうか。極力その方向を誤まらないように。この三衣抄、事行の法門の立場から三秘も改めて見直されるべきであると思う。これらの六巻を見直せば、どのような法門がどこにどのように入っているかということは明了である。
 第二で妙法をとり出した場合、その妙法の中に一切の法門が入れられている証明がないただの妙法というのみである。即ち口唱の題目程のものである。第二の三秘にたよったのみでは法門が未だ不足である。第二では未だ妙法五字の内容までは未だ取り出されていない。法門的にはまだ不足といわなければならない。これをもって一言摂尽の題目ということも出来ない。一切が摂尽されていない題目は一言摂尽の題目ということは出来ない。相伝として常に唱えられている妙法五字には遥かに及ばないようである。それぞれ順を踏んで妙法となり、題目となっているのである。
 内面を注視すればすぐにも三衣抄に気付くものであるが、ただ外相一辺の三秘によったために文底法門に立ち入ることは出来なかったのである。三秘抄にたよりすぎた結果ではなかったであろうか。三秘は戒壇の本尊についてあまりにも強力に結び付けられているようである。これについて寛師のお考えは三衣と結ぶことによって、そこに何程かの御意図があったのではなかろうか。とらえがたい処ではある。これらは殆んど理会されることはなかったようである。
 天から与えられたのは三秘であっても、六巻抄では三衣として身に付けて生れているのである。改めて授与されるのとは些さか異っているのである。それは信の一字をもって確実に自ら受持することが必要なのである。自ら進んで受持するものが必要なようである。この寛師がとられているのは本来の直授相承ということではなかろうか。授与したのは本仏のようである。そこから全く本尊受持について古伝の直授相承をとられたのではなかろうか。師弟子の法門の上での直授相承である。直授相承ということも今は殆んど消え失せているようであるが、ここに復活する必要がある感じである。
 今は信受すべきものが信心をもって受けとめられるように要求されているのではないかと思う。そこから初まって信心から俗身に連絡付けられているのではなかろうか。そこから欲望につながれば複雑である。その正体はあくまで魂魄の上に考えられた三秘であり、三衣であるようである。今はそれらが専ら一つの欲望の上に考えられているのではないかと思う。そこに複雑になる要因があるのではないかと思われる。それが魂魄の上の己心の一念三千法門なのである。ここは俗念を離れた処で考えなければ、いよいよ分りにくくなるようである。今まで三秘のみが表向きに取り出されてをり、すぐに三衣に切りかえても頭の方がついていかないのではなかろうか。さきの魂魄の処にあるのが己心の一念三千法門であり、そこは全く俗念を離れた処である。そして改めて三秘か三衣かを心静かに取り定めるべきではないかと思う。
 六巻抄の結論をどこに求めるか、或は第二か第六かまずそれさえきめられていない。戒壇の本尊についても現状では他宗他門の人等に充分な理会を得ているとはいえない。六巻抄と無関係とは思えない。どのようになっているのであろうか。常識的には第二を撰びだすこと地体、異様なのではなかろうか。本尊抄に示されたものは次第に深みを加えられているようである。結局は三衣とあるから、そのまま三衣と解されたようである。そして結局は三秘に力負けしたようである。
 開目、本尊、撰時、報恩、法花取要抄で六巻ということではなかろうか。六巻抄も実は七巻なのである。御書もまとめれば六巻ともいえるようである。従来、第二では三秘が出されているため六巻抄の結論として三秘が考えられていたので、六巻抄の結論としての扱いを受けているようである。文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門の結論として三秘がその扱いを受けている。たしかに文底秘沈の故に本尊抄はとり出されてをり、そこから題目も出ているので、一応三秘をその結論と見ても差支えないようであるが、寛師の扱いは、三秘を更らに一応当家三衣抄を考えられている処を見れば、この三衣を結論としての扱いをされているのではないかと思う。それは或は三秘を無条件に結論に持ち出した事に対する反抗ではないであろうか。
 三秘と三衣ではいささか異りがあるように思われる。「文底秘沈」の語の解明のために六巻抄を編集されたものの結論を、第二文底秘沈抄に求めたとすればいかにも異様である。順序としては第六に求めるべきではなかろうか。事実は第二は第三がこれを受けて、その三秘を「経」から出処を求められてをり、以下は前に記した如くである。そして第六当家三衣抄には三衣をもってこれを結ばれているようであり、第六には第二にない観念文をもって第六及び六巻抄全体を締めくくられているようである。従来この観念文はそれ程重要なものとしては扱われていなかったようである。別扱いになっていたようである。色々と行ぜられている行と、法門との綜合的結論として考えられて、六巻抄を編成されたのではないかと思う。このようにして拾って見れば、まだまだ詮義しなければならない問題があまりにも多いのではなかろうか。
 六巻抄及び、古伝の法門については従来の処で十分とは云えないのではないかと思う。他門から種々責め立てられているようであるが、それらに対しても十分に答える用意が未だ十分とは云えない。どのような場合にも十分に即答の出来る用意が必要なのではなかろうか。六巻抄のみをみても、その研究は未だ十分とはいえないようである。聞く処によると、他宗門の人の質問に対して十分に満足して頂ける答えは、十分に返されていないようである。大いにはげまなければならない処ではある。その中で六巻抄を通し十分な説明をし、得心してもらうことも最も手近な方法の一つではなかろうか。まづ手始めに宗内に得心出来るように説明することが第一になさなければならないことである。
 宗内の理会なくして他を理会せしめることは出来ないと思う。初めそれが不十分であったためにその責めにあい、やむなく本因をすてるようになり、そこから色々な手痛い矛盾が出たのである。所詮は研究不足が原因であったのではなかろうか。独り孤高を恃んでみても、それ程他人はついてきてくれなかったということで、只矛盾のみが先行したのではないかと思う。あまりにも古くから伝えられたものに頼り過ぎたのではないかと思う。六巻抄のよさが出そろわなかったのである。只、口先のみがすごかったということである。今その返しのあらしの中におかれているのである。風の収まるまで待たなければならない。
 今とっている黙殺方式は最も賢明な方法である。その間に寛師教学について他を得心せしめられるようなものを十分に研究整理してもらいたい。そのためには何よりも、自らをまづ底下におかなければならない。最高最尊の処においては成功おぼつかないのではないか。法門は身を底下におく程高く現われるようである。あまり自分で高く尊い処に座らないことである。底下にいるものこそ高い処に上れるようである。今の水島先生など何か感違いしているので最高位に処して出て来たけれども、その高位は処り難かったようである。まずは下から経上るに限るようである。
 法教院教学の成果を示してもらいたいものである。書いたものは必らず同志のみが見るものでないことも知っておいてもらいたい。時には逆手に読む者のいることも承知しておいてもらいたい。もっともっと視野を広げて書き且つ論じてもらいたいものである。学林の分も共に成果を示してもらいたいものである。一層のこと大学でも名のってはどうであろう。せめて御影堂の御書講義位まで程度を引き上げてみてはどうであろう。六巻抄は享保頃の御影堂講義の全貌なのである。それ程のものを後世に遺す程大いに励んでもらいたいものである。
 大勢の頭脳をそろえて因師の書き写されたものでも整理すれば新しい発見があるかもしれない。最早数年を経ていると思うが未だに発表する程の成果はまとまらないのであろうか。富士教学研究所短期大学ではどうであろう、法教院講師よりは威力があるのではなかろうか。大いに成果を発表してもらいたい。目下は何れの門下も思索時代に入っているようである。一年か半年毎に紀要をもって指導的な教義を発表して、滅後末法を生きぬくための活力源を発表して、愚俗の啓蒙に資してもらいたいものである。未だに専任講師のお名前も拝聴していないのである。彼れこれしている間に皆様もどんどん年を拾うのではなかろうか。
 筆者も遂に今年は八十に手がとどいたのである。ここまでは何とか年よりボケもなく来たが、明日のことは分らない、皆さんに支えられてボケのくる暇もないようである。大いに隣人のために論じたいものである。これもまた報恩の一分である。どうも報恩が結論のようである。あと十年位は書きたい希望をもっていることを申し上げておくことにする。これも又報恩の一分である。六巻抄は寛師の現世に対する大きな報恩の一分ではないかと思う。八十の誕生日も迎え終ったあと一年ペンが動くであろうか。
 大聖人は早々と報恩抄をまとめ上げられているが、吾々はこれから報恩のネタを探らなければならないのである。それだけ遅れているのである。何れにしても報恩が根本のようである。浄土宗や真宗でも報恩講を行なわれているように思うが、これは天に対する報恩か、衆生に対する報恩なのか、或は世間様に対する報恩なのであろうか。同じく日蓮宗でも報恩抄はまず宗祖の示されているものである。何れに報恩を見てもよいようであり、衆生に報恩ということもあってよいのではなかろうか。報恩ということは大きな役割りを持っているようである。吾々としては何とか世間様に対して報恩したいものと考えているのである。ここまでくれば、残されているものは報恩のみである。余生を報恩に向けたいと考えている。一巻一巻を報恩のしるしに世間様に捧げたいと思う。
 六巻抄の三衣とは一切の俗念と慾心を離れた処にあるもののようである。魂魄の上に考えられた己心の一念三千法門ではないかと思う。三衣では明からさまに欲望を表には出しにくいであろう。緋の衣、紫衣に意慾を燃やすのは別である。それらは別世界のものである。それらを別世界に追いやった処で考えられた三衣である。その中に三秘も既に繰り入れられているのである。既に生れながらにして身に備えているものであるということが前提とされているのである。寺から授与されるのは三秘であり、それを含めた三衣は生れながらにして、それらを含んでいるのである。それは妙法五字の袋の内につつんで一切の法門、己心の一念三千法門と共に生来のものとして本仏から授与されて居り、必要に応じて確認すれば事足りることになっているのである。それらが本仏の御慈悲として身に具わっているということなのである。
 従来の解釈では、文底秘沈の語の解明のために編集された六巻抄の結論を第二巻に求めたことであり、これはまず異様といわなければならない、一寸常識外れのようである。これは当然第六に結論を求めるべきではないかと思う。何故第二に結論が出されたかといえば、それは三大秘法抄という御書にあるのではなかろうか。本尊・戒壇・題目の三を、各一大秘法を名付けた魔力に引かれた処が大であるといわなければならないと思う。大聖人の扱いとは一見一大秘法といえる扱いである。いつの頃、どこの門下で一大秘法といい、三大秘法といわれるようになったのか。これは中々魅力のある語のようである。その御書の威力によって三秘が人々の眼前に大きく浮び出たのである。
 三秘が大きく浮び上った影には、この三秘抄の力を見すてることは出来ないであろう。この御書は実際に真蹟なのであろうか。或は真蹟として扱ってよいものであろうか。改めて考え直す必要があるのではなかろうか。これは緊急を要する重大問題なのである。その三秘抄の威力によって三秘が今大きく浮び上がったのである。何れの門下で出来たものか、静かに見直す必要があるのではなかろうか。
 ウラボン御書もよく真蹟を見れば、真実の御真蹟とは大分異なっている。内容的にも本尊抄では怒れば地獄といい、死んで地獄におちることは認められていない。若し死んで地獄におちるなら十界互具は否定されていることになる。それでは本尊抄の文に無理が出来る。ここは本尊抄を根本として考えなければならない処である。本尊抄は魂魄の上に論じられているもの、これは、魂魄を外れた処で論じたものと同日に論ずることは出来ない。三秘抄が間違いなく魂魄の上に己心の一念三千の処で論じられているものかどうか、改めてよくよく考え直さなければならない問題ではないかと思う。
 三衣も三秘も生れた以後に授けられたものでない、その時に三衣の必要があるのではなかろうか。宗門で授与されるものは三衣も含められているのであろうか。三衣は妙法五字の袋の内につつんで、生来として授与されているのではなかろうか。本寺で授与されるものは外相の上に授与されるもののようである。文の底に秘して沈めた己心の一念三千ではなく、明からさまに授与されているのではないかと思う。その時三衣はどのように授与されているのであろうか。三衣はあくまで秘密甚深の処での授与の型式をとっているのではなかろうか。
 第二に六巻抄の結論が第二に持こまれたことについては、三秘抄の力が大きかったのではないかと思う。更らに第六の左伝の引用文の解釈が充分に理会出来なかったのではないかと思う。これは己心の上の魂魄と同じ意味を持っているのではなかろうか。これは冨要三ノ三七〇の寛記雑々の法衣供養談義に引用されている釈門章服儀応報記に引用の文である。元は明蔵に入蔵しているものではないかと思う。徳川期に入った頃、深草元政によって別刷りされたもの、寛師の手沢本は今も大石寺図書館に遺されている。当時の和本、録内啓蒙などは最早使いものにはならないのではないか。節用集頭書なども図書館本を除いては目に触れることは出来ないのではなかろうか。まづは珍本といえるものではないかと思う。
 三衣はあくまで魂魄の処に考えなければならないもの、俗念のみが先行しては三衣についての理会は出来ないのではなかろうか。今は三秘が生々しく使われているために三衣についても三秘についても理会することは困難なことではなかろうか。三衣については初めから理会する方向には向っていなかったのではなかろうか。今六巻抄の第二に結論を求めていることには三秘抄が大いに関係があると思う。若し三秘抄が謀作されたものであれば必らずそれを作った処の宗門の意志にふり廻される恐れも十分にあると思う。これは最も警戒を要する処である。
 六巻抄のおい立ちからいえば、第六を終った処で結論を求めるのは順序ではないかと思う。何故第六に結論を求めることなく、第二に結論を求めたのか、これは吾々の最も理解に苦しむ処である。最近まで三衣をただ袈裟・衣・数珠の三衣とのみに限って考えられていたようであった。もっと視野を広げて考えるべきではなかろうか。いかにも近視眼的な見方ではないかと思う。御書もざっと見て六巻の末に報恩抄が配されてをり、この抄が文の底に秘して沈めた己心の一念三千を考える上において最後に報恩抄をおくのは、考え方の基本におかれているのではなかろうか。六巻抄でも報恩と思われるものをもって結論付けられているようである。
この法門を考える場合、必らず報恩をもって結論付けるようになっているのではなかろうか。開目・本尊両抄等より取要抄に至る御書と六巻抄とは、各内容的には似ているような処をもっているのではなかろうか。三師伝にも目師伝の処には報恩にあたるようなものを含んでいるのではなかろうか。宗祖は開目、本尊、撰時の意を持っているようにも思われる。そして宗祖開山の処には開目本尊にあたるものをもっているようでもあり、三祖の処には報恩にあたるものを持っているのではないかと思う。それは筆者がそのように思うのみである。決して人様に押し付けようとするものではないことを御理会願いたいと思う。
 己心の一念三千の法門は、必らず妙法五字の袋の内につつまれて衆生の頸に懸け与えられているもののようである。その妙法五字の袋は、魂魄の上に作られているものなのである。しかもその袋のうちには種々の法門が莫大につめこまれているものである。天正天文の頃は、この左伝の註の意味は一般に分っていたものと思われるが、寛師は知って使われていたものと思うが、明治以降は完全にその意は分らなくなっていたのではないかと思う。それだけ世が下ったのである。若し左伝の註の正しい意味を御存じの向きは御教示願いたいと思う。自分では魂魄と同じ意味に使われていたのではないかと思う。左伝の註は古くは註釈はいらなかったものと思われる。事行の中に深く秘められたために、後には秘していることさえも忘れるようになったのである。
 今は妙法の中に一切の法門が秘められていることは伝わっているが、あまりくわしいことは伝わっていない。ただ秘められているということのみが伝わっている状態である。只妙法五字の袋の内に三秘がはいっているということのみである。直授相承という語も、実にはその意は随分変っているのではなかろうか。そこに伝えることのむづかしさがあろうというものである。そして明治のような変動があれば、予想が出来ない程の大きな問題に遭遇するのである。戦後にも大きな変動に出会っているのである。その度に全く異なった程のものをもって新解釈が付けられるのである。中でも明治のドイツ学の移入は大きかったようである。今もその影響は大きく疵痕を残しているのである。今それに大きくなやまされているのである。
 高山樗牛にも己心の一念三千法門にふれた著書があったのではなかろうか。「吾人は須らく現代を超越すべし」という語は俗世を超越すべきことを、となえているのではなかろうか。そのとなえている処は己心の一角にある常寂の浄土を指しているのかもしれない。若し生き乍らにしてその常寂の浄土を捉えることの出来るものは、生き乍らにして常住の浄土に住することが出来る。
 いかれば地獄の苦を味わうものであり、死して地獄の苦を味わうこともなく、生き乍ら十界互具を体験出来るのである。うら盆説法をすることは死して地獄の体験をすることを認めている印しである。本尊七ケ口伝はそれを取り入れた上、本尊を認めているのである。若しうら盆説法をすることは本尊抄の教えに背くことになる。また十界互具を認めないことにもなりはしないか。何か不都合なことが出来するようである。生きて地獄苦を終らなければ、死んで堕獄に苦しむことになる。それならば往生要集や他宗門の考えと全く同じである。
 怒れば地獄とは怒った時に既に地獄苦は体験ずみであり、死後に地獄の苦を体験する必要がないということなのである。わざわざ師の教えにそむいて地獄に落ちてみる必要はないのではなかろうか。わざわざ本尊七ケ口伝を唱えられているものを捨ててまで地獄の体験をする必要はさらにないのではなかろうか。それでは他宗を下す理由はなり立たない。せめて本尊抄位は師の教え通りに守ってはどうであろう。師の教えにそむいてまで、わざわざ地獄行きを体験することは更らに不要なのではなかろうか。今も宗門では例年盆にはウラ盆説法は盛んに行なわれているようである、未だにおしかりはないのであろうか。本尊抄に厳重に示されている通りである。本尊抄などは特に子細に一字一字をよく読まなければならない。
 御書も当家三衣抄も寂かな己心の世界を指しているのである。それは滅後末法を生きぬくもののための心得うべき第一条なのである。御書も三衣抄もまた、それこそ底下の処を指し示されているようである。そこに尊貴なものが控えているのである。木中の花、石中の火も、愚悪の凡夫と共に存在しているものなのである。大論はまた石中の火、木中の花を示されている。これも文の底に深く秘しているものの一つである。それはお互いに示し合うようになっていて、気付かないものに示しあう、それでないと文底秘沈の大法を保つことは困難なのである。そこに互いに師となり弟子となり、他にそれを示し合うのが互為主伴の考え方の根本のようである。そこでは底下の凡夫も、決して高位に身を処する必要は毛頭ないのである。
 身を底下に処することを、大聖も寛師もこれを指示されているのである。それが滅後末法に生きるものの心得第一条である。それは常に俗身を外して魂魄の上に身を処することを教えられているのである。そこは常に本因が根本になっている世界である。授与の本尊は、常に処すべきの処を指しているのである。その本尊は常に滅後末法の時を指示されているのである。いつの間にか法主が最高最尊の座についているのであるが、本来は最低下の座のようである。それが、かれこれする間に最高最尊の座になりかわったので、その変っている道中がわからない不都合がある。芝居の廻り舞台の如く廻っている道中を見なければ理会出来ないものである。座わって見ればすわり心地もよいからそのままおち付くのである。そのような仕組みの中にいるのである。実は凡夫の居る座を示しているのである。滅後末法の衆生はそのような高貴な座に居るのである。
 法主の処を尊貴に示すことは只衆生の尊貴なことを示すのが目的のようである。法主自身が最高最尊というのとは大分意味が違っているようである。この法花の法門、文のままに現わせることもなく、受持することは又至難の業である。法主の座もまた本因の座に処している筈である。そして上へ上へと、経上がっていきたいのが人情である。底下に居るもの程尊貴なのである。
 滅後末法の世では、俗世の中に最高最尊の位に処するものは、愚悪の凡夫一人に限るということではなかろうか。その一人が、最高最尊の天子の位が法主の位に比せられるのである。その御一人が生のまま最高最尊の座につくのは、時に天子であり法主である。共に真実は衆生一人を指しているのである。それは世間そのものが滅後末法と定めている故である。世間は常にまぎらわしいように出来ているのである。混乱を起さないために常に時を見極める修行が必要なのである。それは文の底に深く秘められているが故に理会しにくいのである。根本は時を見極める処に深い修行が入るようである。
 滅後末法の世には天下太平の代はあり得ないのかもしれない。それは己心の上にはいつでも必要な時に手にすることの出来るように用意されているのである。それは実には夢中の乾坤なのである。今はそれを、実には現実を思い誤っているのみである。そこに最高最尊の座もまたあり得るということなのである。そして今の今まで最高最尊の座と思っていたのは、実には夢中の権果ということであったのである。現世は夢と現の間をひや汗を流し乍らとび廻っているのみである、これが果敢ない現実なのである。そこに夢が残されているのみということのようである。大聖人も寛師も、そのはかなさを教えようとされたのかもしれない。
 寺内も今は大分変化して来ているようである。天然自然の有為転変を止めることは出来ないのかもしれない。その底の辺りに古えの明星池の水は流れ流れて閻浮に向っていることであろう。思い起せば僅か二三十年の有為転変の眼前の変りようは心にしみるものがあった。それは人各受けとめようも違うのである。やはり古えの客殿には今思えば大きな包容力を持っていたように思うが、今となっては閻浮を指した不開門も、今にその位置もなかなか落ち付かないように聞き及んでいる。今に山中の水の流れは昔乍らに流れ去っていることであろう。人、法を造る何ぞ法あらんや、人は常に法を作ってはその法にしばられ、またその法のわずらわしさに振り廻されて落ち付くひまもないのである。
 文底秘沈の世間とは関係なく、本尊抄や開目抄には一向に開目された痕迹も見あたらない。水は常に川面をのみ流れているのみである。見廻した処、世法を超過することもなく、我心と同じように世俗にふり廻された中で、宗門人も宗門も廻り廻ってお互いにここまでたどりついたのである。あと二三十年生きのびて見ても、それ程変りばえもしないであろう。それ程に世間とは気長なものである。それを刹那に縮めているのが己心の法門である。その刹那の中に過去遠々からの久遠元初も刹那に収めようというのである。そこには一言摂尽の妙法もあり得るということのようである。それを捉えることが出来るのは己心の法門の特権である。
 今の学問では教学もドイツ学に落ち付いているのであろうか。明治には多少とも動いていったようであるが、今は元のドイツ学に帰ろうとしているのではなかろうか。日蓮学のみはそのような中に丸められないでほしいと思う。何をもって日蓮学の根本にすればよいのであろうか。日蓮学について、学問として根本的な基本方針は己心の法門の処に立てるべきであろう、それは本因であるが今となってはきびしく文の底に秘して沈めた己心の法門である。また宗教として成り立つものであろうか。文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門は沈めたままでは宗教として成り立つことは出来ないかもしれない。表に出せば世俗に取りつぶされるかもしれない。六巻抄がその限界の処を示されているのであろうか。
 文の底に秘して沈められた処に衆生のもって生れた、人の懐(ふところ)を認められたのかもしれない。その三衣とは愚悪の凡夫の人徳なのではなかろうか。ここに等しく衆生の成道の道が開かれるのではないかと思う。それに対する自然への報恩謝徳の処に自然に成道も開けるものではなかろうか。これが師弟子の法門のよさではなかろうか。文底秘沈の己心の一念三千法門は決して衆生を見捨てることはしないようである。ここに本仏の慈悲を見るべきであろう。そこに滅後末法に生きる衆生に救いがあるのである。その報恩謝徳の処に静かな世間がある。そこに凡俗のための常寂の浄土もありうるのではなかろうか。それは人の心の持ち方次第である。そこに愚悪の凡夫の故里があるのではなかろうか。
 第六の左伝の註からの引用はその浄土を示しているようにも思われる。そこに常寂の浄土を求めるべきではなかろうか。そこに己心の一角が示されているようでもある。大聖人はそこの浄土を指し示されているようにも思われる。それが即ち本因の浄土なのである。今はそこを本果の浄土と読み取ろうとしているのではなかろうか。大聖人はその本因の浄土を指示されようとしているのである。そこは本果の浄土に対するようなものではなく、あくまで本因の常寂の浄土なのである。この浄土をもって浄土宗の浄土思想に比して日蓮の浄土往詣思想があったと論じられた時代があった。それは本果と読みとった成果ではなかったであろうか。
 日蓮説はあくまで本因浄土にあったようである。即ち魂魄の上に考えなければならないもののようである。そのような中にあって大石寺でも今は本因を切りすてて本果の成道を取ろうとしているような処はないであろうか。それは考え方の独走である。整備のためにとりあえず本因を取り返さなければならない。本果をもってしては師弟子の法門はなり立たないかもしれない。子細に思い返してもらいたい処である。
 近来は霊山往詣思想などということは耳にふれなくなったようである。他門下でもあまり口にしなくなった故であろうか。それは浄土宗に対して卑下した響きを持っている語ではある。霊山往詣思想とはいかにも聞き苦しい語ではある。霊山浄土とは魂魄の処に求められているものではなかろうか。そこは俗世の影響を受けない処であるべき浄土なのである。その故に常寂の浄土といわれるのである。そこは雨にもめげず、風にもいためつけられない常寂の浄土なのである。それが己心の浄土なのである。そこは人が法を作って制する必要のない世界なのである。常にその浄土を目指しているのである。文の底に秘して沈めた己心の法門の常住する魂魄世界なのである。そこには師弟子の法門が常住しているのである。それこそ滅後末法の浄土といわれるべきものではないかと思う。そこは雨にもめげることなく、風にも敗れることのない常住の浄土である。
 雨にもめげず風にも災いされることのない常住の浄土とは今どのように捉えられているのであろうか。これこそ己心の浄土なのである。これこそ滅後末法の衆生のために特に用意された魂魄の上の常住の浄土である。本来本果の浄土とは異なっているのである。それは俗世には在り得ざる処の常住の浄土である。この浄土は民衆の居る処、必らず常住している浄土である。それは日蓮大聖人が衆生のために残された不滅の常住の浄土である。それは常に師と倶に在るもののようである。
 必らず文底秘沈の己心の一念三千法門の存在を忘れることのないように。そこには必らず常住の燈火は滅しない処なのである。その雨にもめげず燈火の滅しない処こそ滅後末法の世の常住の浄土ということである。曾つて宮沢賢治という人は、そのような己心の浄土を見つめていたようであるが、それ以後はこのような浄土は案外、わすれ果てられていたのであろうか。案外そのような浄土は彼方に押し上げられて、忘れ果てられ易いものである。この己心の浄土を捉えることこそ師に対する報恩なのではなかろうか。そこに現世の浄土も親(まのあた)り具現するのではなかろうか。そこに報恩がまっているのである。
 天台浄土は本来己心の浄土を説かれているのではなかろうか。本来は本因にあるべきもの、それが長い間にミダの縁に牽かれて、本果の方に落ち付いたということではなかろうか。背景を知りたいものである。左伝の註が引用されて三百年、今ではその意味も全く捉えがたくなっている。それが明治の時、適当に解尺されて十分な解釈が出来ず、結局その譬喩も意味を捉えることが出来ず、抛棄につながったのではないかと思う。元政によって出版されて以来からいえば、四百五十年を経過しているのである。結局は本来の意味とは別の処で解されたものと思われる。こうしてどんどん意味が変っているのである。
 ドイツ学の影響は殊に大きかったようである。国の解釈も法花経、金光明経・仁王経の解釈も、明治になって国家を根本としたものに固定したのであろう。そのために日蓮の解尺も国粋主義と連絡付けられるのである。以後、己心の法門としての威力は失なわれたのである。今、戦後四十年を過ぎて本来の魂魄の上の己心に帰ろうとするきざしが見えたのではなかろうか。明治以来百年目ということである。
 立正安国論以来、国家主義者と見られてきた日蓮は、幕末には一人の国粋主義者という解釈によって、水戸学の中で国粋主義の元祖のような解釈が成功したのであろう。これは陽明学が根本になっているのであろうか。水戸ではそのような中で日蓮学は大いに利用されて志気を鼓舞するのに利用されていたようである。水戸よりは、出た先でまとまったようである。日蓮学は戦争精神をかき立てるのには大いに役に立ったようであった。戦争をあふり立てるのには大いに利用価値があったようである。利用されたのは敢闘精神である。軍人精神と一連のものであり、敢闘精神であった。そのような処に大いに利用されていたのである。
 藤田東湖という人はどのような系譜に入る人であろうか。橘塾が起きたのは関東東部であったように思う。この時期には国柱会教学が芽をふき出した頃である。今戦後となって四十年、国粋主義者日蓮は、民衆主義者に変貌を遂げてもらいたいと思う。その依る処は魂魄の上に秘して沈めた己心の一念三千法門なのである。今は民衆主義者日蓮に再誕してもらいたいと思うものである。日蓮という人は常に民衆の先鋒に立って歩いて来た人であったが、従来は国粋主義者として利用されたのみであった。今度こそは民衆の先鋒に立った日蓮上人を見上げたいと思う。この法門、これだけの紆余曲折を所持しているのである。しかし実には誤解利用されたものが多かったのではなかろうか。
 門下で軍国主義者としての日蓮は既に終末を告げつゝあるのではないかと思う。この日蓮の不撓不屈の精神は、むしろ浄土宗や浄土真宗にも受けつがれているようである。返って門下よりは濃やかなのではなかろうか。その根本になるのは天台浄土の古い処にあったのではなかろうか。浄土には古い師弟子の法門及び、国土などに伝えているものがあるのではなかろうか。冨士にはそのようなものについて、古いと思われるものは伝えられていないのではないかと思われる。立正安国論について、長い間云い争っている間に古いものから消えていったのではなかろうか。一向一揆などに案外そのようなもの、大切なものが伝えられているのではなかろうか。
 一揆といわれる語の中には揆を一(もっぱら)にすること、その中には師弟子の堅さを秘めているようにも思われる。そして揆を一にした処に堅固な新らしいものが出生する。それが一つの国土の上に揆を一にしたものが出現すれば、それは新国土であり、新国家であるかもしれない。その国土は反抗を旗印としていたものであろう。それは国家としての形態をもっていなかったかもしれない、そしてどこかに只の衆団としてのみと見ては、割り切れないものを持っていたのかもしれない。そこには案外強い統御力を持っていたのかもしれない。それは師弟子の法門の上に現われた統率力なのかもしれない。国土とはそのような中で統御されていくものではなかろうか。
 法花一揆には境を主張するものが欠けていたように思う。若しこれが不幸にして国土を主張するようなことがあれば、もっと不幸な宗教戦争につながって、もっともっと不幸をもたらしたかもしれない。一揆が領土を主張することがなかったのは不幸中の幸いといわなければならない。師弟一ケ、因果倶時の法門の中にそれを拒むようなものが本来としてあったのではなかろうか。それは最終的には民衆を済うようなものを内蔵していた故ではなかろうか。
 太平洋戦争も、最後は世間を救う方向に拾収に向ったようである。それは案外法花による拾収力におう処が多かったのではなかろうか。始終及び、中間何れも法花のごとき動きを持っているようである。最初、戦を誘発したのも法花の中のようである。最後もまた法花らしきものをもっているのではなかろうか。そのような終末に導いたのは国民性であり、その国民性もまた法花によって長い間に培われたものではなかろうか。立ち上りもあっさりとしているように思われる。それらを総じて法花的と一言でまとめることは出来ないであろうか。
 浄土も法花も日蓮も、殆んど天台法花を祖(おや)としているものが多いのではなかろうか。如何なる大木も元を尋ねていけば同じ一根に赴くという、これが同趣一根である。妙法の一根に赴くという事をこのように六巻抄第五で説かれるのである。その時の妙法を一言摂尽の妙法という。全てが妙法五字に収まっているというのが六巻抄の説き方である。その途方もなく大きな妙法の珠を授与されているのが衆生であり、民衆である。最後にその妙法の働く処まことに奇妙と云わざるを得ない。
 その妙法の本にあると、室町に一揆も起っていたのである。その揆を一にする処は実は一であった。その故にこれを世に一揆と称するのである。それらが個々に働くのを止めた時、室町の戦乱は終ったのである。故にこれが永世に平和を願うなら、いつまでも文の底の己心の処に永世に内在していてもらいたいものである。そしてその寂かな法花常寂の滅後末法の時を迎えようとしているのである。そこには法花の夢も亦、受持を含まれていたようである。願わくは人々と共に常寂の世を迎えたいものである。室町の戦乱も昭和の戦も、一瞬の混乱の最後であったのである。今、戦も終って漸く平成を迎えたことは、全く偶然の一致ということのようである。そこで最も大切なことは、ここに速かにその出発点を求めなければならない。
 謝霊運によって漢訳された羅什訳には、長い中国の伝統を十分にその中に貯えているのである。それを含んでいるのが羅什訳である。それ以上の中国思想は別にいらないという意味をもっているのではなかろうか。後に北七を含んだ北宋思想の渡来は、大きな混乱を残したのであった。伝教・日蓮・法然という人等のものは、殆んど南宋系のものであった。後々は南北が大いに混乱するのである。開目抄や本尊抄、撰時抄、報恩抄、法花取要抄等の諸抄は内容的には南方系に属するものではなかろうか。それらによって組み立てられた思想は、今も不動のものを持っている。それを出せばアメリカも韓国も即刻飛びついた、それが実は文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門である。
 或る宗門では文底秘沈の己心の一念三千法門について長い間反対している処もあった。今は徐々にそのようなものも消えつつあるようである。文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門、それは今日まで辛うじて伝えられてきたものである。今はそれを少しでも多くの人に知ってもらいたいと願う処にかかっているようである。平和はその己心の法門の所在する処、魂魄所在の処には必らずあるものと確信する。少しでも俗念が割こむようなことがあれば、そこに起る欲心のために平和を堅持することは困難になるのではなかろうか。それらは宗祖が事行に示された如くである。
 世の移り変りとはいい乍ら、それを取りまく雰囲気はあまりにも世俗の匂いが紛々としているようである。そのために事の始まりに「魂魄佐土にいたる」と大綱を示されるのである、それ以後は俗臭を外した処で説かれるのである。今は俗臭も極限まで割込んでいるようである。これは利用の仕方によれば、すぐれたものは案外に集めることが出来るのである。
 
己心に建立する戒旦等については、生れた時から己心に建立ずみである。それは本仏によって無料で建立されているのである。それは適当に還算して今の価格でもって召し上げるのは如何なものであろう。六巻抄の当家三衣抄ではそれが無料であることを再確認されているのである。落ち付いて当家三衣抄がどのような事をとかれているのか、ゆっくりと読み直してもらいたいと思う。然る後にそこには必らず平和がもたらされることであろう。
 各宗教とも平和をとなえているが、それは本来の宗旨の処にあるもの、欲望に満ち満ちた宗教のどこに平和を求めることが出来るであろうか。若しそれを求めることが出来るとすれば、それは必らず魂魄の処に限るのではなかろうか。今も宗教は一斉に平和をとなえているようであるが、それは魂魄に鞍替した後にした方がよいように思う。魂魄の処には案外良心が寄り集るのかもしれない。
 無欲恬淡な処に平和は存在しているもののようである。三秘の惣在する処もまたそのような処ではなかろうか。無欲恬淡な処に三秘は惣在するもののようであるが、若しそこに欲望が充満すれば、その平和は即時に消滅するであろう。平和サミットをやって平和の集結する條件を求めることは、いかにも困難なものである。口に平和を唱えても平和を集結せしめることは、いかにも困難な問題ではある。そこには必らず犠牲的精神が必要なようである。
 キリスト教等も説いている根本になるものは、殆んど魂魄の上に説かれているものではなかろうか。そこへ色々な俗念が割こんでいったものではなかろうか。そこで色々と複雑になるものではないかと思う。宗教の発端は魂魄の処を本源として発展し、そこに国情によって種々なものが割こんでいくようである。その魂魄世界が色々と複雑に発展して、或は死後の世界もそこに発展するようなことはないであろうか。キリスト教の場合もその教義の根本になるものは、西洋流な考え方が根本になっているようである。それが世界中を布教していく間に種々の国々の思想も次第に入り組んで、弥々複雑になるようである。我々が引くにしても、むづかしい漢字が並べられてをり、字書を引くことも容易な事ではない。これはこの段階で布教師の意見はどんどん入りこむことであろう。これは漢籍で最もむづかしいもの以上のむづかしさである。モルモン経(けい)にしても、これを読んだのみで分る人は殆んど希なのではないかと思われる程、難解な漢字がびっしりつめこまれているのである。
 死後の世界とは魂魄世界から呼び起されるものではなかろうか、それはすべて想像の世界である。そこで国々によって各々個性をもっているのである。それは長い年月の間に各民族が作り上げたもののようである。モルモン経の場合でも欧州各国の思想を取り入れたものが、アメリカでまた独自のものをとり入れて独自の発展をして、現在を迎えて今まで布教してきたものについて、今一つの限界を見出だした処で、愚説を取り入れて新しく立ち上がろうとしているのではないかと思う。己心の一念三千法門については今まで経験したことはないのではないかと思う。この法門は魂魄の上の己心の一念三千法門によっているものであるが、モルモン経にもそのようなものと解される部分も含まれているようである。
 宗教とは、いった先でその地の思想を取り入れて発展していくもののようである。その宗教の要枢は必らず俗念を除き、俗念を断ち切ることが肝要である。今のモルモン経に最も必要なことは、その俗念を断除することであることを申し伝えたい。俗念が強ければそれだけで既に危険である、その危険を除くために、その欲望を捨去しなければならないことを提言したいと思う。その俗念とは、己心の解釈によって入りくんだもののようである。その排除も目下の大きな課題のようである。
 今、各宗教が一斉に唱えている平和は、もともと魂魄の領域に属するもののようである。各宗教の根本になる処は魂魄のようであり、そこから平和は出生しているようである。戦いを継続し乍ら平和を求めるのは、些か虫が好すぎるようである。欲望の深いさ中にあるのは闘争であって、平和があるのは必らず魂魄世界ではないかと思う。平和があるのは本因世界であり、闘争のあるのは俗世に限るようである。
 魂魄世界とは夢の世界である。本果の世界と世俗とが合体した時に色々な争い事が起り、そこに欲望も亦生じるのである。本因世界と魂魄世界と合体することがあれば、そこには必らず平和が存在するであろう。文の底に秘して沈めた己心の一念三千とはそのような処にのみ存在するもののようである。只一方的に口先にのみ平和を唱えてみても、そこには平和を持つことは恐らくは無理なのではなかろうか。
 滅後末法の世を迎えて釈尊応釈の教えも今は通用しにくくなったようである。同時に諸宗教の理も通用しにくくなっているようである。本迹一致といわれて来たが宮崎氏の日蓮宗辞典にも、正宗教学辞典にも本迹相対については双方共に開目抄にあるものと説明せられているが、本迹一致については説明抜きで大いに教義の中に取り入れられて利用されているようである。相対が、理屈抜きで何故、一致と使われるのであるから分らないのである。これは寛師も説明されているが、それは本迹相対のみである。
 相対したものが何故一致なのか、そのような中で本因が消されるのではないかと思う。そして次には本因が本果と解されるのである。それは理の上の飛躍である。そのような理の法門も、天台理の法門も、二十一世紀直前にあたって一斉に理の法門は、各宗教共理の法門について、行きつまったのではないかと思う。亦ドイツ哲学の理もどうやら行きつまる時が来たようである。そして今通用しているのは三世超過の文底秘沈の法門のようである。庶民の己心の一念三千法門、即ち文底秘沈の大法である。
 アレ程優秀をほこったドイツ哲学の理も、一斉に行きつまる時が来たのである。そして次の哲理を迎えなければならない時が来たのである。最早現実はマルクス主義も通用しなくなったのである。そして次の二十一世紀を指導する理について民衆は求めかねているようである。それは天台理の法門でもなく、キリスト教の理でもないようである。
 今のような世が来た時、古えの人は私年号をもって弥勒を迎えて満足していたようである。滅後末法を迎えたのは、まず平安初期である。そして全国には福の付いた地名が非常に多い。これは弥勒を招来しようとした民衆の夢のあとのようである。それは渡来人がそれぞれ持ちこんできているようである。そしてそれぞれの時代の境い目を乗り越えてきているようである。幕末から明治へかけての時代も弥勒を迎えることによってそれぞれ滅後末法の世を乗りこえているようである。お伊勢様のお蔭参りも好例である。戦後はミロクの世の代りに、こ金のだぶづいた代が今きているのである。室町という時代もそのような時代であったのではなかろうか。そのようにして民衆はそれぞれ末法の世を乗りこえてきているのである。即ちこれが生活の知恵である。
 この智恵がなければ民衆はつぶされるかもしれない。そして色々な新興宗教が登場したのもまた庶民の智恵なのである。そして今何とか戦後も終ろうとしているのである。ドイツ人の優秀な頭脳をもってしても、この滅後末法の世を理をもって乗り越えることは出来なかったようである。明治以後、勢いを一時的にのばした諸宗も今は一斉に行きつまって、一斉にこれを乗り越える方法を模索しているようである。しかし一向に名案は浮ばないようである。
 そしてアメリカが模索の末見出だしたのが「己心の一念三千法門」であったのである。ここに至っては最早、洋の東西を論ずる余裕はなかったのである。これは必らず欲望を離れて魂魄の上に受けとめられたいことは宣教師の方々に繰り返し御話し申し上げてをる通りである。欲心を離れた処で利用してもらいたい処である。必らず欲心の上に利用しないことである。欲心をもって己心の法門を利用した人は、必らず失敗しているようである。それは天台・妙楽・日蓮の示された如くである。一歩誤れば天下の邪教となる恐れがある。今の世間にはそのような要素が充満してきたのである。
 魂魄の上に根を下すことが今の世を乗り越えるための必須条件のようである。頭に乗って威勢よくやってきた日蓮宗も、今は一斉に気迫が失なわれているようで、今は前に立ちはだかった障礙を如何にして乗り越えるかという処で困惑しているのではないかと思う。己心の法門を受けとめるためには必らず欲望をすててかかることが条件であることは、日蓮の昔から一向に変りはないようである。そこにおいて法花経寿量品の文の底に秘して沈めた己心の法門を始めて捉えることが出来るのである。
 明治には欲望のために捉え損ったようで、その尻拭いが今来ているのである。自のため他のためにその後始末の必要な時のようである。行きつまりは西洋もアメリカもその差別は全くないようである。そこに日蓮の思想の大きさというか、偉大さというものが秘められているのである。しかも門下からは一向に捉えられることもなく、まづアメリカや韓国がとびこんで来たことは縁があったというか全く奇妙という外はない。己心の法門には一向に国境は無用であったようである。

 六巻抄第六当家三衣抄の目指すもの
 文底秘沈抄は身延の攻めのきびしさの中で殆んど使われていないようで、只三秘抄をもって解されているのみであり、そのためにわざわざ文底秘沈抄による解尺の必要は全くないようである。大正・昭和の頃は文底秘沈の語を消すように盛んに身延から攻め立てられて、落ち付く日もなかったのが実状ではないかと思う。
 文底秘沈抄については三秘抄をもって解したために、他の六巻抄に頼る必要はなかったようで、そのために寛師の目指した方向とは全く違った方向に進んだようである。そして第三の依義判文抄も解尺のために利用されることもなかったようで、昭和末の時局法義研鑽委員会の時は随分きびしかったようで、それ以後はあまり聞かないが、今回も時局の二字を除いて法義研鑽委員会が組織されているが、今度はどのように結論が出るのか、是非その結論を発表してもらいたいものである。六巻抄については一二三四五六と一貫して読んでもらいたいと思う。文底秘沈の語がなかったというのは御先方の都合よる処で、今となってはそれを裏付けるものは見当らない。
 六巻抄も第四は要法寺日辰についての批難には使われてはいるが、第五の題目については全く読まれていないようで、そのために三秘抄の題目に終始しているようで、一言摂尽の題目には背いているようである。それと第六の左伝の註の意味が捉えられないために、六巻抄の結論としての第六に用意された観念文も全く理解されず、強引に三秘抄の三秘の処に新らしく結論を取り付けて観念文の代用にせられているようである。これは始めから六巻抄を崩す方向で攻め立てられていたようである。その中に弁惑観心の語も考えつかれていたものであろうか。この抄によって一応危機を脱したということであろうか。何と考えても不思議である。そこには文底秘沈の語を消すためのものが含められているようで、それを取っては三秘も戒壇の本尊も、云う処の三秘総在の本尊も全く顔色なしという処のようである。そのような中で大手を振って上代より終始一貫しているのが「師弟子の法門」なのである。ここには上行も存在しているのではないかと思う。そこにあるのが本法である。
 明治以後本法も追いつめられているのではないかとも思われる。明治以来五百塵点の当初についても、上行所伝の法がどのようなものか一向に明らかにされていないようである。現在の法門は全く支離滅裂の処に追いこまれているようで、一向に五百塵点劫以来の本法について説明されたものを見た事もない。報仏如来についても、もっともっと委しい説明が聞きたいものである。
 広宣流布についても全く本法を外れてしまったようで、如何に困惑しているかということを明らかにしたのが平成元年のお虫拂い説法である。ここまで来て、法花の文底をもきびしくサッパリ切りすてたものか、アザヤカにウラボン経に切りかえて、現在の実力では法花による広布の説明は出来ないので、或は法花の広布には銭にならない故か、新しくウラボン経による広布を打ち出したようである。これこそ全く誰にはばかることのいらない新説である。恐らくこの御抄は、明治以前や明治初期の御先師は全く使われていないものであろうかと思われる。その、ふきつける金がこたえられないということであろうか。そこで使う御書の選択が当然厳しくされる必要が生じてくるのである。
 今は御書といえば全く無差別に使われているようである。聖典に載せられてある唱法花題目抄は本尊抄文段では寛師は「天台ずり」とされている。この御書の目師の写本が奥の妙教寺にある。法華経題目抄であるべきものが、聖典編集の時、アベさんがまちがって聖典にとり入れたのではなかろうかということを耳にした事がある。今度新しく編集のときは取りかえてもらいたいと思う。又、当体義抄は昔から盛んに使われているがこれもどうであろうか。使ってよいかどうか、お歴々がよってよく研鑽してもらいたいと思う。そのような作業が今は山積しているようである。そして文底秘沈の語を取り返してもらいたい。
 開目抄では、主師父母もシタシキ父母として、三徳も三秘と共に打ち消されているようである。これはフをタと読んだ誤りによる処である。シフシのフをタと読んでキを補ったように思われる。これも誤読によったものではなかろうか。シタシキ父母とは御真蹟には今までお目にかかったことのない語である。これは、もとの誤読がもとになっているのではなかろうか、異様な語である。昔から親しき父母と使われた例はない。親しいのは友達に限っているようである。少し無理をもっているようである。そこは古い録内によるべきではなかろうか。日我本は主師父母となっていたように記憶している。
 折角設けられた標尺結の三段も十義も今は全く利用価値はないようである。これは解する者のなせるわざではなかろうか。あまり本文は変えない方がよいのではなかろうか。亦第二の文底秘沈を説くためには、わざわざ第一から説き起す程の必要はないようである。結果的にはそのように出たようである。殆んど三秘抄から出されているようである。アベさんが編集した寛師伝も、詳師に渡される寛師の御考え通りにはいかなかったようである。きりきり舞いしている狐兎は実は宗門であったようである。
 湾岸戦争でも外交について文底が読めなかったために外交にならなかったようである。外交の途中で相手からは文底は打ち消され、相手の文底の意の読めなかった処に今度の外交のきびしさがあったようで、適当に翻弄せられたようである。常にもっと以前から、その感情を子細にとらえて研究しておくべきである。感情の趣くままでは外交にはなりにくいのではなかろうか。
 六巻抄は文底秘沈を根本にしているようであるが、今はこれを捨てることを根本に考えて進めているようである。そして広宣流布も法花をすててウラボン経に走ったようである。そこには十界互具はあり得ないかも。しかし乍らそこには弥陀の浄土を求めるようなものがあるのではなかろうか。最早吾々の考え及ぶ処ではないようである。三衣抄による題目でないので、どのように内容の充実した題目であろうと知るよしもない。もし三衣抄の題目でないとすれば、それは口唱の題目程のものではなかろうか。それでは不都合なので第五では、わざわざ一言摂尽の題目を説き出されたのである。一言に一切の法を摂じ入れ尽くしている意味をもっているようで、本仏が直々に頸にかけ与えられた妙法五字の袋とはその袋なのである。
 従来の処、一言摂尽の題目については、あまり説かれていなかったようである。第五が生かされて始めて第六の結論が生かされるもので、現状では左伝の註の意が捉えられないためか全く取り上げられていない。そして最後の観念文も捉えきれず、第二の結論は新しいものを取り付けて唱えられているようである。わざわざ新編集された六巻の結論の第六は切りすてて、第二に結論を持ち込み文底秘沈の語と共に切りすてようとしているのではなかろうか。それでは只相手の術策にはまっているのみということである。どうも相手の方が役者は一枚も二枚も上であったようである。宗門の学匠方も大いに研究すべきではなかろうか。
 惑観心といえば文底秘沈の語を指しているようであるが、これは宗祖と寛師に対する挑戦ではないかと思われる。文底に惑っているというのは、むしろ今のほうが濃やかなのではなかろうか。文底秘沈の己心の一念三千法門に迷っているとすれば、そこから出ているのは戒壇の本尊ではないかと思われる。つまりは一言でいえば戒壇の本尊に迷っているという意味を含んでいるのではなかろうか。文底秘沈の己心の一念三千法門について、惑観心と見えるなら、それ以上押して信仰する必要はないのではなかろうか。惑うていると思い乍ら信仰するのは如何なるものであろうか。
 左伝の註は深草元政が明蔵を読み乍ら感激して別刷して世に広められたものと思われるが、天文頃にはこの註を中心として論文の作らされたものを十篇位は見たように思う。不受不施日奥もこの註を見て、最後訣別の詩を作って対馬に流されたようであり、これは不受不施資料第一と第五にのせている。第一のものは明治に漢詩として読まれたものであり、第五は作者が自らよんで甥の日箋に与えたもので、これは呉音の読みではないかと思われる。これはたまたま妙観文庫の中にあったものを見付けたものである。それは売りに出されて一度は其中堂にあったものである。縁があって再び中味だけでも不受不施に返り咲いたものである。初めは呉音をもって作られたものの如く、後には漢詩として読まれていたようで、そこで大きく意味が異ってきたようである。
 そして第六当家三衣抄については甚深にして中々その意を捉えることが出来ず、殆んど無用の長物として切り捨てられたようで、そこに文章の読みのむづかしさがあるようで、今少し寛師も浅い処で結論を見せてほしかった。結論が文底に入り込んでいたために結局は見付けられなかったようである。天文頃の人は左伝の註を見て、すぐにその意が通じたようであるが、今のアベさんは今日までこの文の深意は示されなかったようである。寛師の手沢本は今に大石寺図書館に遺されているようである。
 元政も寛師も日奥も何れも一見してその極意の処を読みとっているのであるが。今は学者が多すぎて反ってその意が通じないのであろうか。その語については大学では教えないのであろうか。この左伝の註の意、明治以降には一向に意味が通じないようである。創価学会でもこの左伝の註については今までふれなかったようである。つまり吾々信者には必要のないものとして僧に押し付けようとしていたようで、これを切りすてていたのではなかろうか。結果は六巻抄の重要な部分が惜しげもなく切りすてられていたのである。そこにあるのは師弟一ケの処にある娑婆即寂光の浄土である。その常寂の浄土をさがして毎夜丑寅勤行が長い間くり返されて来ているのである。その極意の処にあるのが刹那半偈の成道のようである。
 今はウラボン経による広布をとっているが、そこには常寂の浄土はあり得ないのではなかろうか。御虫拂説法では法花に代えてウラボン経によって既に説き出されたようである。ウラボン経の処にどのようにして常寂の浄土を求めるのであろうか。少なくとも宗祖の説が必要である。たとえアベさんの直説であってもウラボン浄土を信受することは出来ないかもしれない。霊山浄土を消すためにはいかにも弱すぎるようである。もっと強力な論理を張ってもらいたい。法門を清浄に保つためには早々に引っ込める方がよいのではなかろうか。
 六巻抄全体の意味も捉えられず、第二に三秘抄をもって何の苦もなく結論にもちこんだようで、観念文にかわるものは宗務院が新しく持ち込んだようで、全くそこには似てもつかぬ結論がもち出されたようである。それでいよいよ複雑になったのである。第一の難は左伝の註の意味が捉えられず結論に迷ったのが根本のようである。惑観心ではなく惑結論について宗門に弁解してもらいたいものである。六巻抄の結論にまどって右往左往した処に迷いの根本があるのではなかろうか。宜しく早々に本源を断ってもらいたいものである。本来の六巻抄をすっきりした処へ返してもらいたい。
 御書の名があれば何でもよいというものではない。よろしく選択すべきである。昔、明治大正の頃、日蓮思想を浄土思想と対比して考えられていた時代もあったようで、本来これは全く各別のものである。今度のウラボン経説には、あるいは多少なりともミダ浄土的な匂いをもっているかもしれない。今宗門ではウラボン経浄土をねらっているのではなかろうか。霊山浄土からウラボン浄土への切り替えには中々の難作業がひかえているかもしれない。
 最初、六巻抄の意図されたものも遂に出ずじまいになってようで、それは最も不幸なことではある。六巻抄も三秘抄をもって解き出したために、その意図されたものは何も出なかったようである。六巻抄の解釈も、三秘抄、法花初心成仏抄、ウラボン経御書によって大きくその方向が転換を初めているようである。第四・第五・第六は殆んど読まれることもなかったようである。一言摂尽の題目も筆者が取上げるまでは、全く関心はもたれていなかったようである。そして左伝の註の意味が捉えられないために、第六の結論は全く棚上げされていたように思われる。そして観念文も唱えられるものは、宗務院が別に持ち出したもので、第六の観念文ではないようである。そして思う存分に崩されたようである。
 妙法五字の袋のうちに一切の法門をつめこんで、その袋を衆生の生れた時に本仏が頸に懸け与えられている。それが一言摂尽の袋であり、そこに直授相承があるものと思う。この語も今は実には別な処で使われている。
 二十億の豪邸もいっそのこと難民の救済資金に全額寄附してはどうであろう。一手に引き受けて難民の収容施設でも設けてはどうであろう。十八金の風呂に入って十八金の杓を浮べて、その湯で酒のカンをしながらの酒の味は又、格別ということであろうか。豪邸半分でも難民に提供して、そこに収容して職を与えて一生を過ごさせることは出来ないものであろうか。
 自分一人が豪邸に住んでみても、それで一人の衆生が救われるものでもない。衆生救済のためにもっと視野を広げるべきではなかろうか。自分一人の遊楽のみが全部でもないのが世間様のように思う。獨楽はあまり敬服したことでもない、花は衆と共に楽しんで始めて楽しいものである。そこに衆楽園という語もあるのである。二十億の豪邸とは全く獨善獨楽の最高にあるものである。大いに恥ぢてもらいたいと思う。大石寺の歴代には未だそのような豪邸を楽しんだ例は全くないようである。まことに哀しいことである。
 先年集録して出版した「日蓮大聖人用字集」の文字は奈良末期の天台宗の浄土系に属する人等、かの写字生が書写した筆写体であって、或は平安初期にわたっているかもしれない。それらはすべて白文であり、恐らくは呉音で読まれていたものかもしれない。たまたま日蓮が丁寧に書写されているもので、筆写のための特殊な書体が作られて使用されているようである。その中には浄土宗や真宗の要文も多く含まれているようである。筆写の元本になったものは、恐らくは既に消失しているのではないかと思う。今でも日蓮宗・天台宗・浄土宗・真宗の古いものには、これらのような書体にお目にかゝることが多いようである。日蓮宗では徳川の終り頃まで続いているようである。ヌ見=觀、寸=樹、などはその一例である。波若も般若と読むべきであったようである。
 能率を上げるために盛んに略字が作られたようである。求められるままに書き与えていたのが天台の写字生である。その原本は立正安国会の出版によって出版されてをり、それは簡単に入手出来るようになっている。その日蓮真蹟を利用させてもらったもので、千葉県の日蓮宗中山法華経寺に収蔵されているものが中心になっているものであり、千葉県千葉市長洲の立正安国会の出版に属するもので、書写されたものは平安末からのものであろうか。その原本については奈良末期のものが多いのではなかろうか。それがその末弟等によって日蓮流の書体が真似られているので、誠とに読みにくいものである。奈良以来の仏教を通じて使われているようである。門下の文書には最もよく利用されているものである。
 字集の文字は、註法華経の文字をそのままコピーしたものである。同時に出版した「仏教古文書辞典」も今回再版することにした。これは東大寺文書のうち宗性上人の文書からも拾っていたように思う。日蓮文書は、大正大蔵経に頼って解読したものであるが、多い中には誤りをそのまま受け継いだものがあるかもしれない。誤記のある場合にはそのまま写し渡されたもののようで、また書写の間に誤まれるものもあるようである。
 註経はすべて白文で書かれて居り、呉音で読まれていたものではないかと思う。それは長い間写し伝えられた文字であった。日蓮宗のものには中世及び、近世共に日蓮流になった草書体のために読みにくいようである。それらには宗教関係のものの中には今でも通用しているのである。出来れば大石寺藏の興師筆の立正安国論も出版されたいと思う。此れは今の安国論とは全く読みが違っているように思う。それは或る時期、安国論の読みが漢音に固定したためではなかろうか。或は本尊抄なども、もと作られた時は呉音で読むようになっていたものではなかろうか。それがしばらく両流を受け伝えている間に、次第に漢音に固定していったのではなかろうか。そのような中で「京なめり」という語が起ってくるのではなかろうか。
 鎌倉の人等は立正安国論は呉音で読まれていたようである。後年、肥後の人吉に流された御先師のものを頼まれて読んだあと、自分達は優秀だから、この程度のものは宗内のもので読めるから、以後は宗内の者で解読し、他宗者の手を借りないというようなことを書かれているものを見たように思われる。大いに勉強して自分達で遠慮なく御自由に読んでもらいたい。宗祖や派祖の筆跡を読むことは、当然のことで格別自慢にはならないものである。一日も早くそれが出来る実力を養ってもらいたい。そして、最後訣別の詩が呉音で読めるようにして、その深い読みと意味を教えてもらいたい。そして解読の技倆を養って、不受不施資料の第二巻、第三巻を続刊してもらいたいものである。いつの時が来たら、第三巻の出版がされることであろうか。教学部では取り止める方針にしたのであろうか。
 先日の、肥後の人吉に流された日浣上人の消息が、自分等で読めるなら、振り廻す前に読むことである。若し読み損じがあるなら、一字でも誤りをさがし出してもらいたい。困じ果てた後に、読んだ後に、宗門で読めるとはどのような意を持っているのであろうか。先年護法会報を送り付けられた最後訣別の詩は、呉音をもって読まれた詩のようであり、それは明治に漢詩として読まれたものを基準とした御本人の読みを真実としたことについて、その批難を当方にもちこんだものであって、漢詩よみは第一巻にあり、呉音よみは第五巻にのせている。
 今は専ら漢音をもって漢詩として読んでいるようで、それは元禄の頃の京都の庵がある間は健在であったが、その後は廃庵になり、呉音の読みは消えたようである。それはその後、転々として其中堂の手をへて大石寺の妙観文庫にはいっていたものを、たまたま筆者が見付けてその内容をいただいたものであった。それをもって反ってたたかれる羽目になったのである。呉音読みは元禄の頃を境に消えたようで、今は専ら漢詩として親しまれているようで、そこには最早、常寂の浄土を求めることも出来ないのではないかと思う。第五巻に入れたものは日奥自身の点じたものである。人をこき下す前に呉音の詩でも作って見せてもらいたいものである。
 三秘は妙法五字の袋の中に一切の法門と共につめこんで、生れた時本仏は衆生の頸にそれぞれかけ与えられたようである、これが即ち直授相承といわれるものではなかろうか。今はこの無料授与は認めないのであろうか。近来は高額の有料授与に切りかえられたようである。昔は信不信の定まる以前に無料でかけ与えられていたようである。近来は信心という中で高額授与に切りかえられているようである。そして六巻抄は殆んど読まれないままとなっているようで、ここでも不受不施と同じく左伝の註の意がわからないためのようである。京都の庵が消えたあと売られたものかもしれない。
 仄聞するところでによればアベさんは二十億の豪邸を企んで、続々金を集めているようで、そのような金があれば難民収容施設でも作ってみてはどうであろう。何れそこに大きな
18金の風呂でも作って、金の机を浮べて酒をのみ交すのが精一杯ではないかと思う。それがいやなら日本の福祉のために寄附してもよいのではなかろうか。今は正本堂も客殿も、自分の豪邸の一部と考えてよいのではなかろうか。どこまで欲張れば足りるのであろうか。その内、慾またがさけるかもしれない、御用心あれ。
 難民救済の施設に十億でもかけて、残る費用をもって経常費にあてるなら、アベさんも男をあげることになるかもしれない。あまり懐に入れることばかり考えない方がよいのではなかろうか。もし二十億を湾岸地方に寄附するなら、アメリカさんから平和賞を授与されることに相成るかもしれない。そのために、丑寅勤行から世界平和をとり出して見せるのも一興ではなかろうか。ウラ盆の処には権力者の平和はあっても、庶民のための平和は用意されていないようではある。十八金の風呂に十八金の机を浮べての酒池肉林とは天下の豪遊である。正宗の昔からそのような事が考えられる立場にあったのはアベさん一人であろうか。法花講の人々も宜しく考え直した方が宗内のためということではなかろうか。
 師弟相寄って豪遊をしてみても、そのような処は師弟一ケの常寂の浄土ではない。そのような巧らみは、必らず正宗のためにマイナスになることは請け合いである。そのような豪遊豪邸は必らず宗門のためになることではない。それはやがて宗門の逼迫につながるものかもしれない。驕る平家は久しからずという、早々に消すことを考えることである。民衆の平和のために今一度考え直してもらいたい。
 永遠を求めて庶民と共に丑寅勤行をやっていることを改めて考え直してもらいたいと思う。六巻抄はそのような豪遊豪邸については何一つ教示せられていない。若し余人がそのような事を考えれば、それをいましめるのが法主なのではなかろうか。それを自ら率先して見本を見せるとは、以っての外の量見である。必らず天はこれを罰するであろうと思う。天は必らずそのような悪巧みに与するものでないことを、まずしっておくべきである。師弟子の法門の道から外れた処から、そのような方向にも進もうとしているのではなかろうか。本来の正道に立ち帰ることこそ今の肝要である。
 六巻抄に用意されたものが充分に理会出来ず、そのために異様な方向に進もうとしているように思われる。目下の処、文底秘沈の語に振り廻されたために六巻抄の真実が捉えられず、そこに結論を見抜くことが出来ず、異様な方向に進み始めたようである。さてさてどこまで進むぬかるみであろうか。三秘による第二に結論を持ちこみ、そこに新らしく結論としての観念文を新造して附与したようである。そこに新らしい混乱が始まったようである。
 第六の左伝の註からは師弟子の法門が出るようで、そこには左伝の註のいう常寂の浄土も用意されているようである。結局はアベさんにもその浄土が読みきれなかったようである。天文頃に深草元政は既にそれを知っていたのである。寛師も亦同様である。何故明治以後にそれが消えたのであろうか。観念とは今まで説き来ったことを一点に集めて観念することである。若しそこにあって落付いて観念すれば、必らず常寂の浄土は我が手中に収まるものであると思う。急げば事を仕損じるという。男の子はまず落ち付きが肝心である。わかれば必らず、ばばづかみをしないように常寂の浄土を捉えてもらいたい、そこにあるのが霊山浄土なのである。
 日蓮の開目抄も立正安国論・本尊抄等と同じく呉音で読まれていたもののようである。楠正成の旗印といわれている「非理法権天」も、不受不施日奥の最後訣別の詩も、何れも呉音で読むべきものであった。正成のものについては漢音で読み下そうとしたために、遂にこれを読み下すことは出来なかったようで、今に読みかねているようである。日奥のものは明治になって漢詩として読まれて、それが今常識となっているようである。正成のものも「非理の法は天を権とす」で充分に意味は通じるようである。何故今まで呉音で読むことに気付かなかったのであろう。室町の終り頃までは呉音の詩も作られていたのではないであろうか。
 大石寺にある派祖日興筆の立正安国論の振り假名は、一向に意味の通じないものである。本尊抄や開目抄にも、そのような呉音の読みのようである。天台は理の法門、四明流をば非理の法という。天台の本流は理の法門であり、天を実として理の法を尊び、四明流をば非理の法として少しさげすむ気持ちを持っていたのではなかろうか。そのあたりの理は宗門の学匠にまかせたい。今は非理の法が盛んなようである。ウラボン経による広宣流布も非理の法の最大なるものではなかろうか。天台の本流というものは止観第五を根本としているもののようで、身延山行学朝師はこれを根本としていられるようで、その点では大石寺法門に共通するものを持っているようである。

 天台の一隅運動と丑寅勤行の関連
 先年天台の比叡山で平和サミットが行われた後、その結論については発表されなかったようであったが、そのあと一隅運動ということが盛んにいわれるようになったが、その一隅についても一向に明かされない。その一隅とは伝教の「天台法花宗年分学生式」の中にある語で、その一隅とは丑寅の一隅をさしているようで、時をいえば午前一時二時という俗にいう丑蜜時である。共に諸仏の成道の時を指している。
 衆生の成道する時もその丑寅とウシ蜜の時を指しているようで、衆生は諸仏を師として師弟子の道を成じて成道を遂げようということである。そしてこのこの娑婆世界の衆生は諸仏を師として成道すれば、この娑婆世界には一人の悪人のない、それこそ平和な世界を成ずることが出来る。そのような世界を指し求めているようである。そこに真実の平和が成じるのではなかろうか。平和サミットの平和とは実はその平和を求めていたのではなかろうか。
 その一隅とは丑寅の一隅を指しているようである。その根本にあるのが師弟子の法門なので、文の底の師弟一ケの処にあるのが常住の浄土である。その浄土こそ平和そのものである。その常寂の浄土を指しているのが左伝の註のようである。深草元政は明蔵をよみ乍らそれを感得して釈門章服儀応報記を別刷して配っている。この人は白文で読みその意を察したものと思われる。大石寺の寛師はこの抜刷によって六巻抄に抜き出しているようであり、その書は今に大石寺に蔵されている。結局これは明治になった時には左伝の註から常寂の浄土を取り出すことは出来なかったようで、むしろ昨年の大嘗祭の時の天皇の御言葉にはその意が含められていたようであった。
 天皇家には師弟子の法門は今も伝えられているのではなかろうか。天皇は師であり国民は弟子としてそこに師弟一ケを成ずるようになっているのではなかろうか。そして本因本果本国土の三妙を成じるようになっているのであろう。そこにいうような浄土を目指して勤行を続けているのが丑寅勤行なのである。その娑婆世界には全て仏のみで一人の悪人のいない世界を現ずることが出来る、それが常寂の浄土である。師弟一ケの成道とはそれを表しているのである。それを六巻抄では、第六当家三衣抄の冒頭に左伝の註を引用して、最後に観念文を配して第六が結論であることを示されている。
 丑寅勤行は、師弟一ケの成道が常寂の浄土を事に表示しているものと思われる。事を事に行じるために、理をもってその意を説明していないために、次第にその意が薄らいだために、次第に丑寅勤行の深意が消えつつあるのではなかろうか。天台の一隅運動と内容的には殆んど変りはないのではなかろうか。伝教が一隅と指す時、そこには丑寅の方向と丑寅の時を指してをり、諸仏の成道を指してをり、そこに常寂の浄土と限りない平和を求めているようである。
 師弟相寄った処、そこに平和を求めようということである。天台のいう所の平和は、その師弟の間に秘められているのである。それは天台から伝教の受けとめたものであり、更にそれは日蓮が受けとめ、そこに一宗を建立されたのではないかと思う。それを最も明らかに示しているのが本尊抄ということのようである。天台の一隅運動とは、いうまでもなく丑寅の一隅の意味である。一隅運動とはいいかえれば平和運動と同じ意味である。その埋もれたものを発掘して民衆にそれぞれに附与するのが宗教家の差し当っての仕事である。
 今阿部さんは二十億の豪邸を計画して盛んに金を集めているということである。二十億の豪邸は決して国宝ではない、やがて祇園精舎のごとくに消えていくべきものであると思う。そのために大勢の正信会の人等は馘切りの被害にあっているのである。人、法を作る何んぞ法あらんや。正信会の人等の馘切りの法はアベさんが自ら作ったものである。首切りの法は天の定めた法ではないようである。それは自分の権威を示すためのもののようである。二十億をもって権威を示すことが宗教家としてどれだけ必要があるのであろうか。豪邸建立のためにウラボン経は大いに役立っているのであろうか。
 塔婆について色々とにくまれ口をたたいているが、聞く処によれば塔婆は大分減ったようである。少しでも上代の定められた法門に立ち帰ることは大いに結構な事である。衆生にのみ強制して御先師に対しては決して塔婆供養をせず、専ら題目供養のみのようである。御先師にまず塔婆供養をして差し上げて衆生にもすすめるべきではなかろうか。
 出家して、即ち家を捨てて僧の修行に入った人に、何故二十億という豪壮な私邸の必要がいるのであろうか。まずは宗祖の許可證を示すべきではなかろうか。いかにアベさんが口達者でも、詭弁を弄して許可を得ることは不可能なのではなかろうか。その豪邸の陰にはいかに大勢の人等のないていることであろうか。
 聞く処によれば冨士年表はアベさん用に新編成されているようであるが、二回三回と改編しては冨士年表も制作の意義は大半は失なわれているのであろうか。何もかもドンドン改められているようである。広宣流布についても、法花経からウラボン経に移動せしめられたようである。ウラボン経のどのような文によるものか、速かに公表すべきではなかろうか。亦、十界互具を捨てる理由を公表すべきである。怒れば地獄という語など一連の語句は、本尊七ケ口伝として本尊に深い関連をもっているようであり、それだけに面倒なものを持っているのではなかろうか。そこには個人感情のみでは解決出来ないものをもっているようである。
 塔婆については一時の思い付きのみでは、他説の移入は成功しなかったようである。衆生に押し付ける前に、御先師に塔婆供養を成功しせめてお叱りがなければ、衆生に押し付けることである。御先師の如く衆生には妙法五字の題目のみでよいのではなかろうか。その内に日蓮の教義と塔婆どう見ても不似合のようである。
 註経等にある資料からいえば天台浄土のものが使われているのであるから、浄土宗的であってもおかしくないと思う。註経の元本になったものは、本は天台浄土の写字生の書写したものが利用されているようである。写本をするにしては、余程写字生の字は正格に写されているようである。これは平安期初期の原本による文書からの書写と思われる。能率を上げるために随分の畧字が多いようである。法然・親鸞という方々の使われるような引用文も出ているようである。昔、解読を初めた頃、一々文々全部大蔵教でたしかめたように思う。巻数のないものは、その経全部を調べたものもある。
 日蓮にはそのために浄土思想があるとはいえないようである。日蓮の浄土とは師弟一ケの処に常寂の浄土を見ていたようである。それが左伝の註の意に近かったものであろうか。それが本尊抄の霊山浄土思想にと収まったのではなかろうか。これは六巻抄には受けとめられているが、今宗門では遺憾乍ら打ち切られて、ウラボン経に変えられつつあるようである。それは平成元年の御虫拂い説法の御教示の如くである。聖教新聞をもって公表されているので、今更打消しは厄介なのではなかろうか。
 ウラボン経浄土とは弥陀の浄土をさしているのであろうか、法花から浄土への転向を目指しているのであろうか。日蓮にも浄土思想があるという研究を感違いしたのではなかろうか。日蓮にも浄土思想があると発表していた人は、丁度アベさんの学生時分にあったように思う。今それを取り出されると大石寺が浄土思想に変ったような感じになる。法主の立場としては余程十分に検討した上で発表してもらいたいと思う。そこには弥陀の極楽浄土思想がそっくり持ちこまれているのではなかろうか。
 地獄苦から引き上げる塔婆供養も、地獄の釜の蓋の開く一日に限っているようで、翌日には又帰るようになっているのであろうか。せめて一ケ年位の保證は欲しいものである。開目抄や本尊抄、撰時抄にはそのような複雑なものは、初めから除外されているようである。アベさんの御書には堕獄としているのであろうか。どこから何のために堕獄をとり出したものであろうか。日蓮の説く処どこにも地獄説はないのではなかろうか。ウラボン経でおちるのは餓鬼道のようである。そのような考えは平成元年のお虫佛い説法以前には全く無かった考えである。新らしく作られた思想のようである。
 この御書は近代大阪方面で出来た御書ということも耳にしたこともある。大阪方面の人が京の妙覚寺に明治以降に寄進したもののようであり、今は国宝として京都博物館に常陳されているものである。また京都の二玄社から習字手本として出版されて書店に売り出されて居り、自由にお目にかゝることも出来るものである。内容的に五大部・十大部といわれる御書とよく比較檢討した上で発表してもらいたいものである。法主としては御書の選択は余程慎重にやってもらいたいものである。
 今アベさんは二十億の豪邸をたくらんでいるようであるが、それで決して衆生が救われるものではない。後世国宝といわれるようなことでも考えてはどうであろう。二十億位の豪邸では到底国宝といわれるような心配はない。今造ればせいぜいコンクリート製位のものではなかろうか。そのためにどれ位の人がその影で泣くことであろうか。二十億の豪邸あまりよい発想とはいえない。紙に書いて流せばよいのではないか。二十億の豪邸を造って、相寄り打ち寄って酒打ちのみ交しても、それは師弟子の法門ではない。それは只の破戒にすぎないものである。どうあやまっても、そこから国宝を生じるような筋合いのもにではない。
 宗祖は師弟相寄った処から師弟子の法門を取り上げられているようである。宗開三、四祖以来常に絶えることなく受けつがれているのが師弟子の法門である。今それはどのように受けつがれているのであろうか、一向にお目にかかることも出来ない。若しそれがあったら、お目にかゝることが出来れば、それは国宝といえるものかもしれない。そこから出た弟子は己心の一念三千法門を邪義と称してもけっして身延からおほめに預る心配はない。あまり振舞はないことである。
 ウラボン経を表面に出したことについて時局研究会の面々も大いに力をかしていることと思われる。文底秘沈の語を消す代りに、己心の一念三千法門を邪義ということに取りきめたのであろうか。文底秘沈抄も三秘抄によって解されたが、三秘総在の戒壇の本尊は、宗門の解尺の上では三大秘法抄の三秘に決められたようで、これをもって本尊抄に示された三秘とはいえない。それは丑寅勤行に事行をもって示している三秘とは大いに異なっている。それでは事行の意味がないのではないか。三秘抄の三秘には常寂の浄土というようなものはあり得ない。そこには己心の一念三千法門といえるものはあり得ないのではないか。そこにはウラボン経による三秘が出現するのではないか。それをどのように定めるかは今後の大きな課題である。
 明治以来法門の上では身延側からヂリヂリせめたてられて、徐々に効果を出しているようである。今は広宣流布も法花からウラボン経に変ったようである。どのような文によるのか、その理由と共に公表すべきである。陰の方でこそこそやるのは卑怯である。白昼堂々とやってもらいたいものである。
 宗開三以来連綿として伝わっているのが、師弟子の法門によって伝わっている己心の一念三千法門であるが、今は師は至極簡単に弟子を馘にする時勢である、そのような処に常寂の浄土もあり得ないためか、これを破毀せられたようである。それを事行に行じているのが丑寅勤行である。即ち事行の法門である。これはウラボン経をもってしては解しにくいものではないかと思う。
 天台のいう一隅運動もまた丑寅の時刻、丑寅の方向をさしているもののようで、そこにあるのは諸仏の成道のようである。その諸仏を師として衆生が成道を遂げれば、この娑婆世界には一人の悪人もなくなる。それでこそ仏のみの世界が具現することになる。それは平和そのものである。伝教はそのようなものを目指していたのではなかろうか。それは現世の平和運動である。どうも平和の語が表に出にくいように思われるのは何故であろうか。そこに天台・妙楽の教があるというものである。そこに宗祖以来の伝統があるのではなかろうか。
 今は事行の上の師弟子の法門を斥っているようである。宗開三の頃には大量の馘切りの話は伝えられていないようである。その点、今は異様にクビ切りが多いようである。それだけに宗内が不安定ということなのであろうか。大量に僧侶や衆生が首を切られては、何とも世上は不安定である。そのような処に平和がある筈もない。そしてその処を二十億の豪邸をもって威圧しようという算段なのかもしれない。いくら威厳をもってしても威圧のみをもって弟子を引き付けることは出来ない。人を引きつけるためには、まづ信頼感を養なはなければならない。酒をのめばつい言葉も荒くなる、態度もあらくなる。昔から酒をのむことは破戒として、ついいましめられてきているものである。威をもって人を引きよせることは出来ないであろう。僧が癇癪筋を立てている処はあまり見られた図ではないと思う。宗祖自身では、自らは予は一宗の元祖でないといわれ、常に身を底下におかれていたようである。
 当家三衣抄は明治以来その意を解明することは遂に出来なかったようである。当家三衣抄を、一つの行にまとめて示されたのが丑寅勤行なのではなかろうか。そこにあるのは常寂の浄土であり、一言でいえばそれこそ平和そのものなのである。それを事行に示されているのが丑寅勤行のようである。そこに宗開三以来の長い夢が秘められているのである。それが文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門なのである。今はウラボン経の広布をとって、大日蓮では文底秘沈の己心の一念三千法門を邪義として切りすてたようである。ウラボン経の平和のある処には、硝煙の匂いが立ちこめた平和のようである。今は専ら径寸十枚を国宝と夢みているのであろうか。二十億の豪邸も亦、国宝ではない。径寸十枚とは、崑崙玉のことである。
 

 御書選択の重要性
 現在は色々の御書があるので、そのとり方によっては宗祖の考えをどのようにでも解尺することが出来る。文底秘沈を解するために三秘抄をもってすれば、三秘抄と同じ考えをもって文底秘沈抄を三秘抄の如くに解することが出来る。そこに魔術力が控えているのである。例えば法花初心成仏抄をもってすれば大石寺法門も初心成仏抄のごとくに意のままに解することが出来る。塔婆供養をさせようと思えばウラボン経を利用すれば意のままである。二十億の豪邸も可能なのかもしれない。この両抄には宗祖の御存知ない考えが充溢しているかもしれない。
 当体義抄、総勘文抄等も古くからよく使われているが、これらの御書は警戒を要するものである。唱法花題目抄も同様である。御義口伝等も警戒した方がよいのではなかろうか。その意味では開目抄、本尊抄、撰時抄、報恩抄、法花取要抄等は信頼出来る御書の随一である。法花初心成仏抄、ウラボン経御書等は最も信頼出来ない御書の随一のようである。平成元年説法はこれに三秘抄も加えて説法されているのである。これらの三秘には宗祖の御存知ないお考えが充満しているかもしれない。それが何のためにそれらの御書を取り出されたのかはまず考えなければならない。
 法花の広宣流布も、あっさりと法座を打ち消されてウラボン経の広布に取りきめられたようである。そして大量の塔婆の御用がふえるのである。今度のお彼岸では塔婆は随分減ったという話である。それは復帰の第一歩であると申し上げたい。ウラボン経の広布とは餓鬼道の広布を、がき共へも広布するということであろうか。一体何であろうか、これは吾々には分らないことである。御先師には古来塔婆供養は行われていないのである。今でも二天門の横は、塔婆をかついで通ることは禁じられているのである。御先師の盆供養は題目に限られているのである。今の盆供養の姿には専ら「京なめり」風が濃厚である。今年のお彼岸は塔婆を建てることもなく、詢によい方向に向っていたようである。一歩でも伝統に近付くように心掛けてもらいたいものである。
 三秘抄を使えば完成した一つの姿をもった三秘があるので、六巻抄を一から研究することもなく文底秘沈抄にあらざる三秘の上に出来上っているのである。そして邪魔となる己心の一念三千法門を邪義と切りすてれば、そのまま身延側では認めてくれるであろう。そのようなものが案外ねらわれているのかもしれない。大いに警戒してもらいたいものである。
 あまりウラボン経に力を入れすぎると、法花経との訣別の日が近付くかもしれない。随分お気を付け遊ばせ。ウラボン経御書が次第に進出して、本尊抄も次第に退職組に追いこまれるようになるかもしれない。これ以上ウラボン経御書の進出は阻止してもらいたいものである。またこれは御書ではないけれども、古来最も親しまれている御義口伝なども敬遠した方が無難なのではなかろうか。御説法が行なわれたのでは既に決定版が出たのであるから、あとから訂正することは困難なのではなかろうか。
 第六には観念文も用意されているが、左伝の註の意味が捉えきれなかったために全体の結論を崩したようである。第六は左伝の註の意が捉えられず、寛師の御意図を捉えられなかったようで、そして最後には第六は切り捨てられる羽目になったようである。その巻において師弟一ケの成道を求めることもできず、霊山会に参会することも出来なかったようである。そこに常寂の浄土を見出だすことは出来なかったのである。目下の処では霊山浄土を求めることは出来なかったようである。現状ではウラボン浄土に至ることになるようである。それは四明流が濃まやかな浄土である。即ち宗祖の予想もされなかった浄土のようである。今その浄土に向って邁進しているのが実状である。
 御義口伝の古写本は天文十六年の頃ではなかったであろうか。今は何程かの事を意識しながら色々と御書を使われているようである。時局法義研鑽委員会の面々も、今使われている御書について真剣な研鑽をする必要があるのではなかろうか。唱法花題目抄は本尊抄文段では天台ずりといわれている。聖典には載せられているけれども、檢討を要するものではなかろうか。一口に御書といわれているものにも、真偽とりまぜて色々なものがるようである。
 文底秘沈抄は三秘抄によったために三秘について檢討する必要もなかったようである。即ち京なめりな三秘が出たのであろう。文底秘沈抄も、身延よりなものが出ているのではなかろうか。題目も只、口唱の題目が出ているのみで、第五にいう一言摂尽の題目にまでには至っていないようである。第六は左伝の註の意が分らないために第六の結論に気付かず、観念文も使われていないようで反って第二に結論をもちこんでいるようで、新らしく観念文に代るものを宗務院が作って第二を結論付けようとしている。委員会は左伝の註の檢討をしてみられたい。左伝の註については天文頃の人は何れも常寂の浄土を見出だしているようである。左伝の註と丑寅勤行と殆んど同義にうけとめればよいのではなかろうか。そこに文章のよみのむづかしさがあるのではなかろうか。
 ウラボン経を利用すれば衆生成道も次第に怪しげになるのではなかろうか。霊山浄土が消えてウラボン浄土が大きく登場するのではなかろうか。死後の堕獄をとるために、十界互具は自然に消滅して十如是も消えるようになる。ウラボン経をとり入れるためには本尊抄をすてるようになる恐れもある、少し犠牲が大きすぎるのではなかろうか。平成元年四月四日の聖教新聞をよく読み返されたいと思う。そこから霊山浄土を求めることは困難なのではなかろうか。今は法花の広布はウラボン経の広布と変っているようである。それは霊山浄土から弥陀の浄土への転向を策しているのであろうか。御書研鑽委員会でも作って逐一御書の研鑽でもやってみてはどうであろう。アベさんも苦労しているのではなかろうか。
 文底秘沈・己心の一念三千法門を邪義と公表している間についここまできてしまったようである。今になって何故死後の堕獄をとらなければならないのであろうか。二十億の豪邸もその大半はウラボン経の御利益かもしれない。本尊抄の場合は死後に堕獄する要素は除かれているのではなかろうか。本尊抄では死後の堕獄は認められていないようである。十界互具や十如是は今は認められないのであろうか。このような変華(へんげ)は認められるのであろうか。衆生が地獄に堕ちる前に救うのが僧侶のつとめではなかろうか。地獄に堕ちるのを救うために塔婆料をよこせでは話が出しにくいために死後の堕獄をまっているのであろうか、それをすくうのが済(すくふ)なのではなかろうか。

 高山樗牛のこと
 明治の頃、高山樗牛という有名な哲学者があった。始め国柱会にはいった時、まづ開目抄を読むようにすゝめられたようである。中国では子供が生れた時、樗という木を墓地に植えるそうである。生長が早いので、死ぬ時には棺桶に間に合うようである。日本の川辺に自生する千駄のようなものであろうか。この千駄の木、種が流れついて自然に大きくなるもので、燃せば一寸香木の香りをもっている。切って割ってもすぐ燃える不思議な木で、最近は河川工事のために少なくなったようである。樗牛とは樗の木につながれた牛ということで、いかにも世間の役に立たないものという意を持っているのであろうか。随分人を食った話である。この開目抄を一見するなり、吾人は宜しく現代を超越せざるべからずと言うたということである。
 現代を超越するということは過去も未来をも、即ち三世を超過せよとあると読んだのかもしれない。そこまで達観して読みとった人は門下には殆んど希なのではなかろうか。今の宗門人には現代を超越することは不可能事のようである。開目抄は金・金・金の世の中を超越することを教えられているようである。今の宗門人には吾人は現代に執着せざるべからずと読めるのではなかろうか。開目抄に魂魄を持ち出されていることは、あきらかに三世超過の意味をもっているのであろう。ウラボン経のことは一日も早く忘れた方がよいのではなかろうか。

 伊豆の畑毛についての提言
 この問題についてはもともと宗門史の上に混乱があったようである。今も解決されているとも思われない。因師にも南条・新田両家の事というものがあって、宗学要集にも取り入れられているようである。南条氏とは冨士の南条氏ではなく関東の大大名といわれる南条のことのようである。そして新田氏は奥州の新田氏ではなく、後に富士の巻狩の時功名をあげた仁田四郎のことのようである。
 この仁田氏は後に日向の南方に国換えになっている。後世にその南条氏の話が富士の南条氏の事と混同して妙蓮寺の過去帳にその南条氏のことが取り入れられ、幼兒が次ぎ次ぎに若死にしたことがあり、またそれが大石寺過去帳にも書き入れられて冨士の南条氏のことに考えられるようになって、冨士年表の終る頃まで過去帳に記載されていたものである。また有師なども冨士南条氏の出身であると考えられていた時代もあったようである。奥州福島の柳の目の新田氏の領地の譲状は、久須坊の地の事だったようである。
 足利氏と新田氏の出自は上野国群馬縣館林で、福島の(柳の目)に落ち付いたのは元徳の初め頃ではなかったであろうか。 仁田義貞と足利氏、及び南条等が混同しているようで、柳の目の新田氏は、縣境を西に行き、奥州街道に出る前と久須坊のあたりに開拓した地をもっていたようで、それは新田信綱のようであり、柳の目で農耕具を作っていたようである。開拓地主であったようで、戦後福島県によって大きなタタラの痕が掘り出されている。 その南条氏は、新田氏と親戚であった冨士の南条氏である。新田義貞は冨士の新田氏とは異っているようである。冨士の新田とは別物のようである。
 北山の大旦那、石川氏が北畠顕家について東北方面に行ってをり、新田・南条氏はむしろ北朝の関係のように思われる。南朝方との混乱もある。顕家の文書も残されているが、北山は南朝方を思わせる資料があるのは後世に作られたものではなかろうか。北山にも南朝方との混乱があるようで、そのような謀作の中で新田義貞が出るのではなかろうか。北山が南朝方についているのは異様である。新田信綱はもっと早い時機に福島に落ち付いているように思われる。 大石寺三世・四世の、日目・日道師は新田氏の出自である。伊豆仁田の譲状は両様に対するものである。
 久須坊は奥州路の上陸地点であったようで、保田の郷師は、年末そこに上って縣境を太平洋岸に向い、山手に沿って北に行った処に三迫の湯があり、そこで三月末まで湯治して四月に久須坊に帰り、四月から盆前まで若僧の教育のための目師の手伝いをしていたようで、それを畢って保田に船路で帰ったようで、そこには伝えられるような道師とのいざこざはなかったようで、下の坊は久須坊の目師の住坊に対して、道師がその住坊を下の坊と称していたもので、目師はむしろ始めから久須坊に居たのではなかろうか。後世目師を冨士住坊と定めて久須坊を下の坊と称するようになったのではなかろうか。
 下の坊が現在地に移るのは天正頃かもしれない。又、徳川の終り頃、量師の大石記によって複雑になっているようである。ここにも大分作られた部分が多いようである。北山の史料の中にも南朝の史実が割りこんでいるようである。興師入寂の時、奥州から急ぎ富士に登山した目師は、久須坊からの登山であったのではなかろうか。富士の史実はあまり検討せられることもなく、伊豆の雪山坊は建立されたようである。新田義貞が足利の出自ということは理解できるが、或はそれは想像された武人ではなかろうか。
 エビネの粉をもって冨士に登山されていたのは久須坊からであった。その周辺にはエビ根が多く自生していたものと思われる。船で下り、八王子に近い辺で下船すれば大分楽な旅になるようである。消息類による限り、伝えられるような道郷問題は、なかったようであったのではないではないかと思う。郷師との問題は、むしろ日向との間に後世におきたのではなかろうか。そこで小泉を中継地として、小泉を学頭坊のような形として、保田の貫主に上るようになったのではなかろうか。
 宗祖が入湯を目指して池上に下り、遂にそこで入寂せられたのは、三迫の湯であった。県境を少し北に入った山沿いの太平洋岸にあったようである。波木井氏は身延山麓の広大な地で駒を飼っていたようで、時に宮廷からも買上げがあったようで、かたわら南部では鉄瓶を作っていたようで、後には奥州の南部で、南部鉄瓶は今日迄伝わっている。昔から高深川の砂鉄は刀には不向きであり、旭川・吉井川の砂鉄は刀に限るといわれている。波木井氏は南部で農耕具を作っていたのではなかろうか。
 鎌倉の頃には吉井川の東岸の福岡の地には市が盛んであったようで、後には黒田官兵衛は地名を持って今の九州の福岡に移動したようである。備前福岡で鍛えたのは備前長船の刀である。当時の渡来人には精錬技術をもった人が多かったようである。河内に住みついた人等も製鍬専門であったようで、備中足守の(阿曽)に住みついた人は今迄、備中鍬・備中鎌の名を伝えている。足守川には今も当時の鉱石が流れていることがある。京都の要法寺の信者が多かったという石見銀山は、白銀が専門であったのであろうか、或は水銀をとっていたのではなかろうか。最近読んだ或る本では、楠正成は水銀をとっていたということがあった。

 開目抄から察する処、日蓮は頓悟をもっていたのではなかろうか。そのために権力者からきらわれたのであろう。頓悟と文底秘沈とは無関係であろうか。今の宗門は漸悟をとっているのであろうか。四明流をとる宗門は頓悟によっているということであろうか。日蓮は佐渡の流罪を予想して頓悟をとり、魂魄の上の悟りをとっていたのであろうか。アベさんも、出来れば川澄を佐渡の流罪に処したい処ではなかろうか。日蓮は佐渡に流されたのではなく、魂魄が佐渡に到ったのだということである。
 滅後末法の衆生の救済のためには頓悟に限るのではなかろうか。衆生は生れた時から本仏に妙法五字の袋の内にビッシリつめられた一言摂尽の妙法を直授されている。吾々にはその無料授与の妙法五字で十分なのである。それは天賦といわれる程のもので、信不信とは関係のない処で授与されているものである。頓悟はあくまで魂魄の上に限るようである。宗門としては、あくまで頓悟方式を続けるものの如くである。
 雪山坊は冨士と伊豆の混乱のまま建立をされているので分らないのである。宗門のように思いついては衆生を馘にしては益々複雑になるようである。あまりにクビにしては宗教としては失格ではなかろうか。代々木の談林方式を止めて一挙に大学方式をとり入れてはどうであろう。日進月歩の世の中で思いついての講習会ではついていけないのではなかろうか。大橋先生は古文書読みは職人芸と威張っているが、最早一年以上も何の消息も耳にはいらないのは何故であろうか。
 始めから院生の教育から初めてみてはどうであろう。学校が出来にくいのなら大学院程度の研究会を常住に設置しておいては如何。古文書よみを下している間、宗開三等、上代からの歴代の方々のものも今に読めなくなってくるのではなかろうか。一日も早く歴代全集を完了することである。大橋先生も今、急に消息の絶えるお年でもないと思うが、もっと元気をだしてもらいたいと思う。講習方式のみでは最早他に対抗出来ないのではなかろうか。昨日も天台の一隅運動が放映されていたが、宗門でも丑寅勤行をもって平和宣伝でも放映してはどうであろう。あまり懐に入れることばかりしない方がよいのではなかろうか。
 宗門はつい先達ってまでは正信会を盛んに馘にしていたが、今は学会の人達や部下を盛んにくびにしているようである。一方的に弟子を馘にすることは師弟子の法門にはあり得ないことである。大学講座が設けられないのであれば大学程度、大学院程度の常設講習会、又は研究会を設けてはどうでせう。よそ様で教育を受けていては宗義は成り立たないのではなかろうか。教育はわが宗で教育するに限るのではなかろうか。委員会も大いに人数をふやして内容を充実させればよいのではなかろうか。今度の時局研究会は大学程度の研究会としてはどうであろうか。

 大石寺には興師の立正安国論の呉音の原本があるが、現在の読みとは随分違うようであるが、是非、影写本を出版してもらいたいと思う。不受不施日奥の最後訣別の詩は呉音の詩のようであった。これは明治に漢詩として読まれている。もと立正安国論を作られた時は呉音であったのではなかろうか。註法花経引用の註釈はすべて呉音であったのではなかろうか。天正の頃までは呉音は辛うじて読まれていたのではなかろうか。文底秘沈の語も天正頃まではそのままで通用していたのではなかろうか。経の訓読も次第に漢音(慈覚流)に変りつつあるようである。山家点は呉音のようである。


 平成元年お虫佛い説法の事
 平成元年四月四日の聖教新聞にアベさんの御虫佛い説法について詳細を記事が報ぜられている。己心とは久遠元初の本仏の己心ときめて、法花初心成仏抄の文を引いて三大秘法抄説の御本尊信受によって凡夫の仏性も開くことを、古来色々と異論のある両抄によって己心を説き出されている。六巻抄では開目抄・本尊抄の文を根本とされているのでアベさんの説とは、いささか違うかもしれない。現在は法花初心成仏抄及び、三大秘法抄説の文によってをり、六巻抄の説とは大きく異っている。三秘抄によって三秘をとり決めているようで、わざわざ巻を追う必要はないようである。結局身延説に近いものに結論付けられているようである。
 文底秘沈の説を説き出すために、特に第一及第二を説き出されたものであるが、それらは全く見向きもされていないようである。文底秘沈を明かすために、第一三重秘伝抄を説き出すのが目的で第一を説き出されたようであるが、第一三重秘伝抄は初めから全く見向きもされていないようである。それは初めから文底秘沈に反対しているためであろうか。第二は三秘抄そのままに出ているかもしれない。
 第六は結論として左伝の註と観念文が用意されているが、明治以来左伝の註の意が捉えられることなく、師弟子の法門としての結論も見出だせず、丑寅勤行への連絡もつかなかったようで、寛師の意図せられたものは何一つ捉えられなかったようである。身延説に全く翻弄され放題ではないかと思われる。時局研究会の面々は、左伝の註がどのような意図をもって用意されたものか、深く研究すべきではないか。今少し深く読みとることに研究を尽くしてもらいたいと思う。
 この左伝の註は明蔵の釈門章服儀応報記から引用されたものであるが、明蔵の白文を読み乍ら深草元政という人は、その意を知ってわざわざ抜き刷りをして世間に送り出したものである。不受不施日奥もその意をしっていたようで、寛師もその意を知って引用されたもので、明治以後は全く通用しなかったようである。何れの人も皆呉音をもってその意を察していられたようである。天正の頃この左伝の註を利用して論文を作っていられたものも十篇計りはお目にかゝったようである。寛師は元政の抜刷を利用されたものである。それは今も図書館に蔵されている。一度その抜き刷りでも読んでみてはどうであろう。委員会の面々も、もっと深く読むことに研究を進めてもらいたいものである。第六の観念文は見向きもされず、第二を三秘抄をもって解したようで、そこで宗務院としては新らしく結論を第二に附与しているようで、それを今に利用されているようである。
 明治以降は左伝の註は分らなくなったようである。日奥は最後訣別の詩を呉音をもってこれをよみ、甥の日箋に与えて対馬に流されていったようで、これは明治になって漢詩として読まれて今に至っているようである。天正頃には一般に呉音のよみが消えていったようである。開目抄の文底秘沈の語も読みにくくなって消される方向に向いていったのではなかろうか。この左伝の註の意味は天皇家には、先達っての天皇の大嘗会のお話からして十分に伝持されているのではないかと思う。大嘗会の時の天皇のお言葉から察して、天皇家には師弟子の法門を伝えられているものと思われる。六巻抄の第六は丑寅勤行の結論にあたる部分のようで、そこに明かされるものは事行の法門の結論にあたる重要部分ではないかと思う。
 

 現人神
 今年の大嘗祭には天皇の御言葉を拝聴することが出来た。現人神という語はその根本になるのは法花の法であり、それは聖徳太子の昔からそのように決まっているのではなかろうか。その法とは中国の南方呉越に伝えられる中国伝来の天の法なのかもしれない。その法を根本として謝霊運が呉音をもって読んだもののようである。漢字に訳したのは羅什のようであり、それを呉音から読みを付したのが謝霊運のようである。
 叡山では羅什訳をとっているようである。その読みについては山家点、慈覚点、智証点などがあり、外に弘法点などもあるようで、各特徴をもっているようである。最初謝霊運が羅什のものを訳した時に、充分に中国思想は取り入れられている。それが伝教が招来した法花経である。それが所謂山家本である。慈覚点は慈覚が唐土に留学して、そこから伝えたもので、後の四明流に近い台密に近いものをもっている。園城寺に伝えるものである。少しづつ真言めいた処が加わっている。更にそれを註尺がかえられる間にその思想もかえられている。最初の註尺を加えたのが天台・妙楽ということである。それを受けとめたのが伝教であり、日蓮もまたこれを受けついでいるのである。
 後に唐土に留学を始めて以後、次第に真言味が加えられる。それが非理の法であり、最初の天台の法はこれを理法という。そこに伝えられている法を根本として法花の法として、つまり南宋の思想の上に建立されたものである、その法を根本として表わすために立てられたのが法花の法である。それは最初から伝わっているものである。その法を示すために表われたのが人であり、また神である。
 中味をいえば人も神も中国上代の思想である。それが仮に人の姿をとり、神の姿を現じたのが現人神であり天皇家でもあるということのようである。後には水戸学がとり入れられる場合があるかもしれない。その時は「王陽明」学もはいっているかもしれない。水戸の場合は日蓮学がとり入れられているかもしれない。後の国柱会教学では欧米の学がとり入れられて明治の世において次第に完成して、それを取り入れたのが軍部のようである。その根本になっているのは水戸学のようである。昔、大川周明、橘塾という語を聞いたことを覚えている。
 欧米学で解尺された日蓮学は明治の時代には大いに利用されていたようである。一口に日蓮学といい乍ら、色々な内容をもっているようである。今の大石寺教学の根本になるものは、欧米流な教学を根本にした教学をもって割り切った国柱会教学が根本におかれているようである。それだけに四明教学を進んで取り入れているようで、殆んど京なめり教学になり切っているようである。そしてウラボン経御書を取り入れることによって、中々金の廻りはよさそうである。
 そのような中で塔婆料が莫大にはいるようで、その金にまかせて二十億の豪邸の建設のたくらみもあるようである。弥勒の世が目前に展開したのである。そこに己心の一念三千法門である己心の法門が開けているのである。そこに開けているのは弥勒浄土ではなく、弥陀の浄土なのではなかろうか。それは庶民には関係なく、大石寺の法主の処に花開く浄土のようである。師弟相寄って大いに弥陀の浄土を祝福してもらいたい。
 大門くぐれば中庭の、今は蓮花の花盛りということで、ミロクの世であれば法主が下座について衆生が上座につかなければならない。貴族から民衆への交替である。そこは衆生には全く関係のない浄土のようである。詢とにお目出度い限りである。一本三千円の塔婆が一回三万五千本出れば一億である。それを二十回くり返せば二十億ということになる。これは笑いがとまらない。今年の彼岸は少し減ったように聞いている。

 文底秘沈抄も三秘抄をもって解したために、題目も第五から取り出すこともなく、只の口唱の題目のみが取り出されて、一言摂尽の題目という語も筆者が使うまでは使われなかったようである。現在は三秘抄のみによって解されているようである。六巻抄も第五の題目をうけて第六で結するのが順序のようである。題目は一切の法門を摂じることもなく到達するもののようである。結局明治以来、左伝の註については全く解されていないようで、丑寅勤行を解するためにも、左伝の註は重要な意味をもっているのではないかと思う。結局そこから師弟子の法門を取り出すことも出来ず、それを己心の法門と関係づけることは出来なかったようである。そこにあるべき霊山浄土を解することも出来なかったようで、丑寅勤行の甚深の秘処をも解されなかったようである。まだまだ甚深なものが残されているようである。
 今、法主は最高最尊の処にいるようであるが、それは俗身についていわれるものではなく、魂魄の上にいわれるものとの混同が大きいようである。もっともっと心を静めて研究してもらいたいものである。今度の湾岸戦争のアメリカに近いような押しの一手をもっているようで、昔はその最高最尊の処をとって天皇を至尊と申上げていたようである。今の法主はそれに近いものをもって自ら名乗っている。アメリカの大統領もそのような処にいるようで、そこから日本を見下したとき、日本が孤立者と見えるのかもしれない。
 今の法主には畏れ多くも勿体なくもと敬語を使われているようである。法主に従わないものは孤立主義者とよめるかもしれない。そこに東西共通したものを持っているようである。元来学会にもそのような性格をもっているのである。宗門も学会も共通してそのようなものをもっている。それが国柱会教学から受け入れているものである。宗門としても、少し六巻抄の読みが浅かったようで、そのような時にわが身を底下において読みとるのが日蓮流のよい処である。
 大学にゆき、大学院に行って学ぶようになっている筈であるが、結局は混乱を得たのみであったようで、出来れば六巻抄が示されたように読みとるべきではなかろうか。そのために常住の研究会でも設けてをいてはどうであろう。とも角も今の学では、国柱会教学を整理することが肝要である。押しの一手で信者の馘を切ったのでは、あまり体裁のよい事ではない。六巻抄と本尊抄と師弟子の法門とは首尾一貫しているようである。
 大橋説によれば国柱会説も八品説も間違いなく明治の御先師の説であると。笑うべし、笑うべし。広宣流布もウラボン経説と考えたのは間違いもなくアベさんの説である。平成元年の四月四日の聖教新聞を読まれたい。この広宣流布は初めから謝霊運の時から法花の五百品によっているものである。広宣流布は天台も宗祖も同じく法花によっているのである。ウラボン経浄土とは弥陀の浄土の讃仰を意味しているのであろうか。法花からの切り換であり、そこには恐らくは十界互具はあり得ないのではなかろうか。
 ウラボン経への転向は、金は入るかもしれないけれども、そこには最早日蓮が法門はあり得ないのではないか。天台浄土への転向であろうか。そこが京なめりの極限である。平成とは大へんな年である、今まで続いた法花信仰は平成になって法主の先導によって尽くウラボン経に切り換えたのである。明からさまに天台浄土への転向である。昔、日蓮にも浄土思想があると研究発表していた学者があったが、日蓮の浄土思想は弥陀浄土ではない。ウラボン浄土とは弥陀浄土をさしているものではなかろうか。
 日蓮の浄土とは霊山浄土であり、それは師弟一箇の処にあるべき浄土である。同じく平和の浄土であっても各別のものである。師弟共に仏道を成ぜんという処の浄土とは、師弟一箇の成道を指しているのである。アベさんも立正の先生のそのような研究を見て、自分でもウラボン浄土を考えて真宗の向こうを張ろうとしているとは勇ましい限りである。日蓮のいう浄土について、もっともっと深部をみてもらいたい。ウラボン浄土をとることによって、御先師の長い苦労はすべて水泡に帰するものである。ウラボン浄土も全くの新義建立ということではなかろうか。あまり「京なめり」教学をとりいれると、早速にそのつけが廻ってくるかもしれない。彼岸には早々にそのつけが廻って出たようであるが、一日も早く題目供養の処に立ち帰ってもらいたい。
 現人神の正体とは先にも記したように法花の法であるが、それは天台・妙楽の取りいれた南宋の天台山でとりきめられた法であり、そこには古い中国思想がつぎこまれているのである。そこにあるのが本法である。汲めどもつきない文の底に秘められた法脉は無限である。それが法花と名付けられたものであり、それが飛鳥の頃には日本に渡って聖徳太子の法門と現われ、憲法十七ケ条と現われているのではなかろうか。十七ケ条とは千七百年頃を表しているのではなかろうか。それは韓国経由で到来したものであっても今に直結しているもののようである。それは三国思想の上に成り立っているもののようである。
 天皇は法において最高最尊の処をとって、時に至尊と申し上げることもある。今門下の各宗では法主をつい最高最尊の処におき、時に自らそれを称することもあるようである。天皇の場合は俗身は除外されているが、法主の場合は俗身のまま法主の座に付くこともあるかもしれない。法主であるから、必らず俗身は除くべきである。法において至尊の座にあるのである。その最高の処は、魂魄の上のことに限るべきである。俗身があれば必らず欲望がつきまとうために失敗することがあるかもしれない。
 天皇の場合は俗身の部分はあまり表面に出ないようになっているようである。つまり法について最高最尊であり、その故に至尊と申上げるので、これは上代から一貫しているようである。今では時の法主についても、恐れ多くも勿体なくもという語も使われているようである。神とは魂魄と同義語ではないかとも思われる。ウラボン経をとれば昔から至尊の法と習慣づけられているものも弥陀の法となるかもしれない。弥陀の法を天皇と仰ぐためには少し抵抗があるかもしれない。あまり新義を建立しないことである。
 今度経文の慈覚点に立ち返ったのであろうか。宗祖も昔から慈覚大師の教義についてはどのように受けとめられていたのであろうか。経の読みも、天台・日蓮では山家点に限られていたのではなかろうか。そのような中で「京なめり」という語が出たのではなかろうか。今の慈覚点は頂妙寺で摺経せられたもののようである。
 天皇としては俗身についてはあまりとられていない、むしろ魂魄をとることによって神の方に重点があるので、それがいつか天皇を神と考えるようになったのではなかろうか。次第に神とのつながりが深まってきているようである。その意味で天皇は、或は国民の心の休み場とも考えられているかもしれない。
 天皇は師弟一ケの立場から見て遥かに高く尊い処に坐す神のようである。心の安息処として神とか仏とかいう人が人間には必要なのかもしれない。俗人がいきなり俺は本仏だと称しても吾々にはすぐにはついていけない。そこでは魂魄を通しての本仏が必要なのである。そこには別世界が必要なのである。聖徳太子には人であり乍ら人でない一面があり、実は神であり仏である一面が含まれているのではなかろうか。現人神の原型は聖徳太子に始まるのではなかろうか。
 

 非理法権天の事
 これは今河内の千早城に残されている楠正成の旗印と称するもので、読み下しかねているものである。もと呉音で読まれていたもので、恐らく天正・天文の頃までは白文で用達しをしていたものと思う。ヒリホウケンテンと読まれているが、権はゴン実の権のようであるからゴンテンと読むべきではないかと思われる。
 天台は自らの法を理法と称し天の法を指してをり、江北の四明流のもてる法を下して、理法でないので非理の法と称している。五台山で唱える天台の法である。日蓮はこれを開目抄で非理の法と称している。密教を取り入れた所謂台密の法である。即ち、天台理の法門は天を実とし、四明流は非理の法である故に天を権(かり)とするという意味で、後にはこの法が日本天台と一世を風靡した時代もあったようである。日蓮は法門可被申様之事で「京なめり」と斥っている、それは文応の頃のようである。それを伝えたのは主として園城寺であったようである。後には叡山にも大いに盛んになったようで、楠正成は天の理を正義と立てていたものと思われる。これはどのように考えてみても、漢音では意味の通じないもののようである。正成は天の正義を悦んだ人のようである。ここはどうしても江南の読みでないと意味が通じないようである。もともと呉音で書かれているもののようである。
 南朝を支えた人等は、呉地の人等が多かったのではなかろうか。隠岐の島からの情報は、船上山に着くのは夜明け前であり、日が上れば大山から船上山から書写山とは一日行程には軽いと思う。河内までは夜の道であり、吉野への道も近いのではなかろうか。明治の頃、筆者の知っていた老人が若い頃、朝三時に出発して津山に行き、徒歩で用事をすませて三時頃には帰っていたようで、今、車でゆくよりは早いようである。行者道はもっと最短巨離を通っていたようである。船上山から後山、そして書写山の間は行者道が通っているのである。獣道よりは最短巨離を通っているのである。昔のひよどりごえのさか落しの道はけもの道であった。三石から県境を真北に行者道が通っていたようである。それは由加山から大山に至る道であった。児島高徳は由加山の行者であったと思う。後山には明治まで栄西の書かれたものがあったようであるが、明治になって解読以前に焼失したようである。
 不受不施日奥が最後訣別の詩を作ったものは、呉音の詩であったのではないかと思う。これを明治になって漢詩として読み下されたものが今用いられているので、不受不施資料第一巻に載せておいたが、後に妙観文庫から日奥が読み下して甥の日箋に与えたものが見つかったので、これを第五巻にのせた処、宗門の人々から凄い批難をうけた。それは呉音と漢音の違い目であった。それを後ろから支えたのは高校の漢文の先生を退職した人であった。漢呉音の相違による批難であり、日奥はその後、対馬に流罪になった。その頃までは呉音の詩を作る人も居たようである。
 宗祖の頃には立正安国論も幕府に献ずれば呉音で読まれたものではないかと思う。開目抄も本尊抄等もすべて呉音で理会されていたのではなかろうか。それが開目抄が天正頃には次第に呉音で理会しにくくなって文底秘沈の語も読みづらくなったために、身延においても読み直しを謀られたのではなかろうか。徐々に漢音に変っていくために少しづつその意がわかりにくくなった一例ではなかろうか。本尊抄の最後の部分も呉音で読めば意味が通じるのではなかろうか。
 大石寺には興師が自ら写された立正安国論にくわしくかなを振られているものがある。先年正宗聖典の再版のとき、とり上げてみたけれどもこの読みによることは出来なかった。それはあまりにも違いが多すぎたためである。若し呉音で読めれば随分意味は違ってくるのではなかろうか。漢音よみの処から四明流が浸透していっているのではなかろうか。立正安国論の興師の読みについて、これを糾す方法はないであろうか。或る本を見ていた処、高祖遺文録は今は身延側によって廃棄と取りきめられている。学会御書もこの遺文録を底本としているようである。新らしく編集し直す時が来ているのではなかろうか。色々と真蹟との相違があるようである。意味を変えるためにわざわざ漢音を利用されている処があるかもしれない。
 

 御伝土代のこと
 今は御伝の草稿の意味にとられて、史伝部に入れられているが、若しこれを御伝の根本にあるものととれば、宗祖以来一貫しているものは、御伝の根本にかかわっているのは、師弟子の法門ではないかと思う。これは本尊抄以来、今に至るまで一貫して伝えられているようである。それを事に行じているのが丑寅勤行ではないかと思う。そこに受けとめ方があるのではないかと思う。そしてそこにあるのは己心の一念三千法門のようである。これが御伝土代の根本におかれているのではなかろうか。この御伝土代を通して道師の伝えられたものは師弟子の法門のようである。そこには文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門は健在のようである。それは他門の意志によって改められるようなものではない。
 

 仏昇トウ利天為母説法経のこと
 この文は、みゆきの時は梵天左にあり、帝釈右にありの文を釈されている中に引用されている文であり、宗要集四の二四〇ページにある。その十二行に引かれている。要法寺日性の御書註の文を引いて、「畧抄書註十八廿一に云く、仏、トウ利天に昇り母のために経を説く、経に云く」と読み下されているが、経によれば仏昇トウ利天為母説法経と読むようになっているようである。仏昇以下説法経までは摩訶摩耶経の本名である。また同抄の二三六ページには観心の意如何となっている。宗門の御歴々も是非御覧願いたいものである。
 

 惑観心ということ
 惑観心とは弁惑観心抄の中心になっている語で、誰かが観心に惑っているから、身延に対して弁解しようという意をもっているようで、そのいう処の惑観心とは具体的には、開目抄の文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門を指しているのではないかと思う。そして亦、文底秘沈抄を責めようとしているのではないかと思う。それについては誰にもそれについて反対する資格はないのではなかろうか。その意味で六巻抄については時局法義研鑽委員会では前に追及されていたようである。そして己心の一念三千法門も大日蓮では邪義ときめつけられているようである。末弟としてそのようなことがゆるされるであろうか。文底秘沈で、大分消す方向に進んでいるのであろうか。
 誰にしても宗祖に文底秘沈が観心の誤りであるという資格があるであろうか。身延では殆んど抹消ときまっているようで、大石寺でも殆んどそれに同調するのではないかと思う。一度そのあたりの文を改めて呉音でよみ直してもらうとよいのではなかろうか。若しその文をとっては天台や宗祖の法門は成り立たないのではなかろうか。これを邪義と定めた人は、本尊も戒壇も題目もすべて邪義と決めこむつもりであろうか。そこで登場するのがウラボン経なのであろうか。天台・妙楽も亦、邪義を説いていることになるようである。何故身延に対して宗をあげて反論しないのであろうか。
 今日は津山の作楽神社の建碑の除幕について、「天勾銭を空しうする勿れ」と発表されていたが、これについては、「天勾銭を空しうするなし」と読むように教えられたことがあるが、これはもと呉音の詩として作られているのではなかろうか。児島高徳なども南宋の方向から来た人ではなかろうか。その呉音の詩が後になって漢詩として読まれるようになったのではなかろうか。南朝の人等は何れから渡来したのであろうか。
 昔、小川泰堂というお医者さんがあり。録内御書を整理して高祖遺文録として整理された。それが明治になって活字とされた後、大正頃にかけて稲田海素師によって全面的に真蹟を対照されて出来たのが縮刷遺文録であった。そこで高祖遺文録は廃棄ということになり、専ら縮刷遺文が使われることになった。国柱会の御書は高祖遺文録によったもののようである。大石寺慈豊師の御書は、現に正式には宗門としては認めてはいないが、若しかしたら高祖遺文録の系譜によったものではなかろうか。
 学会御書は高祖遺文録の漢文の部分を堀上人が仮名交りに書き下されたもので、真蹟対照はなされていない。慈豊師のものも同様である。その後立正安国会に片岡随喜居士が私財を抛って稲田海素師が全面的に全国的に写真揖集し、それが写真集として出版された。そして居ながらにして真蹟を拝することが出来るようになった。戦後立正の鈴木師が御書の編揖をされて昭和定本が出版されたが、その後山中喜八氏の協力を得て完璧なものにすることが出来た。
 大石寺版の御書は日達上人の命によって筆者が編揖したもので、色々と誤読もあると思うので古文書を職人芸という人には大いに訂正してもらいたいと思う。呉音でよむべきものが漢音で読まれたための誤りがあるのではないかと思う。まだまだ少しづつ気掛りな処もあるので是非修正してもらいたいと思う。佐藤慈豊師の御書については無条件の出版に付いては再考した方がよいのではなかろうか。学会御書も大きく脱皮する必要があるのではないかと思う。御書をここまで完璧なものにしたことについては立正安国会の山中喜八氏及び稲田海素師の力が大きかったのではなかろうか。そしてそれが完成したのは、あづかって片岡随喜居士の力による処である。聞く処によると戦時中印刷されたものを疎開されて無事であったので、それを山中喜八氏にわたして出版されたようである。
 今後に残された問題は一口に御書と称しても色々なものが混在しているので、これの取捨選択をする必要がある。具眼者があって必らずこれをしなければならない。例えば当体義抄、総勘文抄、唱法花題目抄、三大秘法抄、御義口伝等は代表的なものである。色々と複雑に入り組んでいるものの整理は、必らず行なわなければならないもののようである。アベさんのお好きなウラボン経御書なども警戒しなければならないものの随一である。ウラボン経御書は明治頃に大阪方面から京都の妙覚寺に寄進されたもののようである。御書の中には色々のものが入り交っているので、それらを安心して使えるように整理する篤志家はいないのであろうか。大石寺ではいかがわしい御書が比較的多く使われていたようである。今まで慈豊師の御書が何故使われなかったのか、今となってその意が何となしに理会出来るように思う。慈豊師の御書にはあまり立ち入らないことである。
 惑観心の語は弁惑観心抄の語で、開目抄と六巻抄の文底秘沈の語を指されているようである。その語は止観第五の文の底から取り出されたものではなかろうか。天台はそこから十界互具や十如是をとり出し、宗祖は再び本尊抄にそれを取り出されて居り、また師弟子の法門をとり出されているようであるが、今またアベさんはウラボン御書を取り出して新らしく観心として取り上げているようである。その眼をもって文底秘沈の己心の一念三千法門を邪義と称するのか。即ち本尊抄や開目抄等はすべて邪義の固まりのようである。自説のみが珠玉ということであろうか。
 ウラボン経御書等は京なめりの最たるものではなかろうか。二十億の豪邸のためには珠玉篇にいれるべき御書かもしれない。取り上げてみれば調子のよい御書ではあろうが、法門の筋を通すためにもまず整理しなければならない御書である。このような御書は無数にあるのではなかろうか。以前、堀上人が立正の科外講義に行く前に、二本線をもって整理されたような大英断が必要なのではなかろうか。そのようなものをもってすれば、開目抄も本尊抄もどのようにでも解尺出来るものである。ウラボン御書が登場するのは、極く最近のことではなかろうか。門下一般が協力してやらなければならない問題である。十六日は地獄の釜の蓋の開く日である。その日一日は釜の蓋は一日休日である。閻魔さんの金集めであろうか、三大秘法も文底秘沈から取り出されたものではなかろうか。今さら三秘を否定することは出来ないのではないか。上代からこの読みが消えてきたのではなかろうか。
 非理法権天の読みの消えるのも南北朝の終り頃である。信心が大きく取り出されるのは室町末期なのではなかろうか。その頃は四明流に対する反動として中古天台の語が登場する時である。それが収まるのは元禄頃である。文底秘沈の語がないというのは身延日重の説である。なかったと称してもこれを証明するものはない。こうなれば古い録内にたよる以外に方法はないのではなかろうか。行学日朝師程の人がこの語を見落していることもあるまいと思われるが、強いて云い張るなら、何故真蹟を残しておかなかったのであろうか。最早古い録内に頼る以外に方法はないのであろうか。明治初年には写真術も渡っていた頃である。
 文底秘沈の己心の一念三千法門の処には師弟子の法門が秘められているようである。文底秘沈の語については身延からは切り捨てるようにきびしく求められているようである。河合日辰師も六巻抄の写本を所持してをり、自分でも文底秘沈抄を可成り早い時期に出版されていたようで、身延ではこの文底秘沈抄を大いに斥っていたようである。先年の時局法義研鑽委員会の時には、きびしく切り捨てを要求されていたようである。そして己心の一念三千法門を大日蓮では邪義と公表していたようである。結局身延の要求を受け入れたのではないかと思われる。そして初心成仏抄・ウラボン経御書などをとり入れて、御先方の要求を受け入れようとしているようである。堀上人の立正での科外講義の前に、宗学要集に二本線を引かれたものを発表されているようである。明治以来責め立てられていろいろと困惑していたのではなかろうか。今でも答えかねているように思われる。

 立正での科外講義について
 明治になって身延として新らしく欧米の学問を移入して整理出来た頃であろうか、それは門下の頂上に立とうとした頃であろうか。大正十一年頃まづ八品の桃井師を招じて八品の科外講義を求めた、そして教室で三人の教授が質問責めを行い大混乱を起した。そして翌年には大石寺の堀上人を招じて科外講義の計画をした、そこで正宗としても昨年のような事をするならお断りすると返事をした。身延としては決してあのような事はしないということで承諾した。そして教員室で三人の教授が責め立てたようであった。即ち身延教学の威力を示そうとしたのであった。そして宗門に対してはその頃から文底秘沈を取り除くように要求したようで、それは今も続いているように思う。
 先年の
30回目の時局法義研鑽委員会でも文底秘沈を消すためのようで、現状はその様に収まっているようである。それは大日蓮の己心の一念三千法門を邪義と取り決めたものも、その意を受けているもののようである。そのために六巻抄は寛師の意のようには解されていないようである。弁惑観心抄が出されたのもそれと同じ意をもっているのではなかろうか。その間に河合日辰大僧正は文底秘沈抄の木版刷りを出版されている。以来身延としても文底秘沈については追及の手を緩めていないようである。しかし八品も大石寺も遂にその傘下に走ることはなかったようである。
 その科外講義に出るためにそれを警戒してか相伝物及び、本因・百六ケ抄については二本線を引いて要集にそれを発表されたようで、自ら真蹟でないと決めてをり、滅後に出来たものとの解尺を立てられたようで、それらについてたまたま六能化が出合う事があるので、その時評価することに取り決めていた処、丁度その日にまづ有元広学師が急に下山を申し出られたようで、次いで開師も下山を申し出られ、結局残ったのは堀上人一人となり、一人では評議も出来ないので、西山の遠藤寛瑞師にお願いすることになり、相手は他山の貫主であるので、大石寺に呼びつけることも出来ず、止むを得ず下之坊に御足労願い、堀上人もそこに至って評議をして取りきめることになった。その鉛筆書きノートは今も残されているのである。出講については随分警戒されていたようである。
 本因本果についても随分責めたてられていたようである。何となく逃げの一手で相手に対したようで、日寛上人伝にいう詳師に手渡された時のように、他山の狐兎が早々と逃げることは全くなかったようで浮き足がたったのは正宗側のようであった。そして今に押しの一手で追求しているようである。どう見ても十分の答えが出来ているとは全く考えられない答えである。それをもって講義に臨まれたようである。学林を代表して福重照平師も同席せられたようである。能化は一人も出席されなかったようである。それを携えて講義の席に臨まれたようである。その教室には常に由井一乗師が常に肩を張って臨席していたようである。
 止観第五の文から出るのは十界互具であって、十如是であり、また本因本果の法門であり、蓮花因果の法門のようである。そのうち本因は今は既に打ち消されているのである。大日蓮花山とは法門の根本におかれている蓮花因果を表しているのではなかろうか、文段抄ではそれらのものは確認されているようである。宗学要集に二本線を引かしめたことは身延側としては大成功であったようで、近来はアメリカ方式をとって押しの一手で来ているようである。アベさんも学会に対しても押しの一手で、学会も押しの一手で押し返しているようである。
 今となっては宗門も学会も、共に国柱会から離れ切ることが救いの根本になるのではないかと思う。長い間、大乗を説き乍ら、今となって小乗へ走ったために大乗を捉えることが出来なかった。師弟相寄ってあるべき師弟子の法門をとれば、必らずそこには大乗の平和は自ら仕組まれている筈であるが、遂にそれを取らず、弟子を馘にして平和を取ることを拒んだようである。結局は大乗をすてて小乗を取ったのである。そこにあったのは平和ではなく戦争であったようである。昔、軍部は平和のつもりで戦争に走った教訓をしらなければならない。それは今も続いているのである。その平和とは必らず師弟の上にあるものであろう。

 平成三年五月号大日蓮に大聖人の仏法は、尺迦の本法、天台の亜流糟糠にあらずという演題の尾林広徳師の説法について
 仏教・仏法を名乗っている処は何れ尺尊の流れということで、天台の亜流とは天台、妙楽、伝教、日蓮とつながるものでない。即ち四明流によっているものを、主として亜流と称している。大石寺が喜んで使っている当体義抄・御義口伝の考えが代表するもので、三秘抄、法花初心成仏抄等もその内に入れられるものではなかろうか。又、真言見聞もその内にはいるものである。「京なめり」風のものがそれである。
 平成元年に発表されたウラボン経なども、その広布は天台の亜流を名乗ってもよいもののようである。現在の宗門の考え方は、まづ天台の亜流と考えてようのではなかろうか。天台の本流とは本尊抄のごとく止観第五によるものが根本になっているようで、観心面の強くなるものは亜流に属するもののようである。しかしアベさんや尾林さんの利用されている御書には亜流に属するものが多いようである。今も真実は京なめりに属するものが主流のようである。ウラボン経から、いつどのようにして、お前の親兄弟は地獄におちているというようになったのか、その経過は不明である。これは餓鬼道におちるのが本流ではなかろうか。
 身延の行学日朝師は止観第五を根本にしていたようで、ある本源があるように思われる。その後、四明流を受け入れることによって徐々に四明流が入りくんでいるようで、やがて室町終り頃には可成り京都方面では教義に四明流も入りこんできているようである。それが途中で寛師が修正を計られたが、今振り返って見て修正は成功しなかったようで、今となっては四明流一本になったようである。そして宗祖の最も斥われる処へ治ったようである。そして金のみが僧侶の処にダブ付いたようである。それは京なめりの被害のようであり、結果的には現状では師弟子の法門も守りにくい程である。そして師は弟子のくびを切り、弟子は師の足元もねらっているようである。どうあってもそこに平和があるとは思えない。
 平和とはこの娑婆世界において、師は仏、衆生もその仏を師に一箇して、師弟一ケの成道をとげて、これも亦仏となり、師弟共に仏のみちみちた世界を求めつづけてきたのが日蓮法門である。その仏をすべて一身に集めているのが法主ということであるが、その仏はあけてもくれても金・金・金にあけくれて、只あるのは争闘のみという処に落ちつき今は二十億の豪邸をもたくらんで、目下金アツメに集中ということである。何れ竣工の上は十八金の径五メートルという風呂も竣工するであろう。その湯につかって下界の者共を眺めくらすつもりであろう。
 世直しの原型は自らがその座を民衆に明け渡して自らは最低のセンダラの地位におりることである。その時始めて世直しは完了するものである。自分のみが最後まで最高最尊の座に執着しては平和はあり得ないであろう。最低の処にいるから所持の法が高いのである。最高最尊の処には平和はあり得ない。そのために既に平和が消える前提として争いが起きているのである。止観第五の処は貴族から民衆へというものを持っているようで、それが、民衆の処に移ってしまえば世直しである。現状では世直しは遥かな夢ではなかろうか。天下の岡っ引きおれ一人ではこの俗世は遂に平和はこないであろう。二十億の豪邸もほんの夢中の槿果ということではなかろうか、呵々。
 尾林さんの説法はアベさんの讃歎に終始しているようである。その間に只、天台の亜流を表する結果になっているかもしれない。御先方がお前の処は天台の亜流ではないかと称するのは主として当体義抄、総勘文抄、御義口伝、三秘抄、法花初心成仏抄等、又はウラボン経御書をさしているように思われる。宗門の盛んに喜んで使っている御書を指しているようである。天台の本流とは本尊抄の根元になっている止観第五を根本としている処をとれば本流であり、「京なめり」といわれているものをとれば亜流ということになるかもしれない。四明流に近いものをとれば当然天台の本流ということには定めることは出来ないであろう。
 アベさんによれば今は法花の広布ではなくウラボン経の広布のようで、金についてのみの広布のようである。この経によれば本尊抄のような十界互具、十如是によることが出来ない。九界互具となる。本尊抄を相手にその様なことを主張することは許されない。いかにアベさんといえども本尊抄説を否定することは出来ない。ウラボン経からどのようにして本尊をとり出すつもりであろうか。そこから師弟子の法門をとり出すことは出来ない。また隠居法門を取り出すことも出来ない。金は法花から出ているものと無断で利用するつもりであろうか。恐らく本尊も出ないであろう。そして文底秘沈の己心の一念三千も利用することは困難である。それぞれの法門の出処の裏付けを求めることは出来ない。止観第五を根本としなければ伝統の法門は皆無となる。
 衆生に君臨している間にウラボン経にとりつかれたのかもしれない。地獄に衆生がおちてゆくのをぢっと見ていて、あとからお前の親兄弟は地獄におちている、塔婆を書いて供養しなさい等とは無慈悲の極地である。おちる前に済うのが僧侶の仕事である。況んや本尊抄では死後の堕獄はゆるされていない。死後の堕獄はどこから引き出してきたのか。本尊抄ではいかれば地獄ということである。昔、明治以前は正月十六日は客殿を紫宸殿になぞらえて紫宸殿の本尊をかけ、富士宮から三河万才をよんで、客殿の前と二天門西北で二回、御宝蔵と御先師の墓所に向って広宣流布お目出とうを計三回くり返し、本山からふるまいを受けて下山していたようである。金壱封を出したのは宗門である。
 昔から十六日は地獄の釜の蓋の開く日で、昔の伝馬町が火事に包まれた時のようで、火事の終るまでは一時無罪放免で火事がおさまってから帰るようになっていたのであろう。その十六日を利用していたようで、十六日門の開くことは盆でも同じく、要は蓋がしまる前に帰ればよかったのではなかろうか。どうも塔婆料をとり上げる根拠は薄弱なようである。
 四明流は真言を多分にとりいれているので天台の亜流といはれるかもしれない。つまり京なめり流である。台密はそこに根底をおいているのである。天台は理の法門であり、四明流は即ち非理の法である。四明流は天の命を権と受けとめているので、天台は理の法門をたて、天の法すべて真実とうけとめているということを非理法権天と称するのである。その法は飛鳥の頃から日本に、高麗国を経て日本にも弥勒信仰は受けつがれていたようである。聖徳太子もこれらを受けつがれていたのではなかろうか。
 世界平和の世界とは、仏と師弟一ケして、衆生の仏と本来の仏と弟子のいる娑婆世界であり、そこには仏のみのいる世界である。それを今の世間へそっくり移す時には余程の用心が必要である。悪人はすべて排除した上での平和である。悪人同座世界の平和ではないようである。それは必らず誤りのないようにしてもらいたい。今はウラボン経の広布が説かれているが、その経のどこに広宣流布の文があるのか、その文の出処を示されたい。只思い付きでは頂けない。死後に地獄を取り上げれば九界互具となる。それも共に明示せられたい。それでないと天台の本流ともいえない。結局は天台の亜流という外はない。
 今、客殿の中に事行の法門として受けとめられているものは、師弟子の法門も隠居法門も殆んど止観第五によって発っている法門である。それらを伝えていたのが日興跡条々の事である。この中に何が含まれているのか隠居法門とは具体的にどのようなものか。その中にどのようなものが含まれているのか具体的に子細に示されたい。
 今は師弟子の法門も隠居法門も殆んど切られているようで、そこに一切の法門の本源が秘められているのではなかろうか。そこには因果倶時不思議の一法も亦、久遠元初の法も秘められているようである。その客殿とは皆さん忘れないための配慮として御開山がたんまりとつめこまれているようである。そこは止観第五にある法門の宝庫である。それが事の法門として襲蔵されているようである。それらは御自由に取り出してもらいたい。
 日興跡条々事で伊芸師はどのように取り出しているのであろうか。これは大正の立正の科外講義の時、二本線を引かれていないであろうか。宗門人としては二本線のあるまま論じることは出来ないであろう。そこには真実の伝統の法門が充満しているのである。客の一字にも師弟子の法門の意を含めているようである。そこにあるものは止観第五から出されている金玉篇である。そこには宗祖直伝のものが秘められている筈である。
 アベさんも二十億の豪邸を目指して莫大な金を集めているようであるが、やがて咲いた山桜のように散り失せるものではなかろうか。ウラボン経により乍ら元初を説くなら、そこにあるべき本法を明かし、久遠元初をも説くべきではなかろうか。そのようなものを一切法花から持ちこむことは許されないと思う。明治以降、久遠元初について説かれているものに未だ不運にしてお目にかゝらない。ついでにこれも大日蓮紙上に明らかにしてもらいたいものである。ウラボン経と法花の双用は頂けない。何れかにきめるべきである。
 ウラボン経から止観第五は出ないであろう。それでは本尊にはつながらない。つまり衆生の救済には通じないから賛成するわけにはいかない。今のような状態では久遠元初の本仏の説明は不可能事である。説明出来ないから有難いといわれてみても賛成することは出来ない。その頃の身延教学は京都の教学を受けている時期である。門下の教学が止観第五から四明教学に転向している時である。そのあたりから大石寺と他門との間にも色々と摩擦の出る時期なのではなかろうか。
 天正の頃にはお互いに根本とする天台教学も異ってくる時である。大石寺でも要法寺教学のはいる時期である。そして次には寛師が教学の復古をはかられて、六巻抄を編集されたが、結局は他を刺戟したのみで内部ではその全体像が捉えられず、あまり忠実には受け入れられなかったようである。そして反って身延の攻めの対象となったのみである。そのために大きく解尺が変えられたようである。これを解するためには、止観第五を根本とする教学によるべきではないかと思う。今はそれさえも大きく変えられようとしているように思われる。
 寛師の目指す処は、止観第五への教学の復帰にあったようである。今は四明教学が根本におかれているように思われる。時の流れには勝てなかったのである。そして明治にはいって以後また大きく変ったようである。今戦後から平成にかけては四明の上に更に大きな変化を来たしているようである。今は法花からウラ盆経に移りつつあるようで、最早法花の時代は終ったということであろうか。宗門はウラボン経の中で動いているようである。すでに師弟子の法門も隠居法門も、口の端にも文の端にも全くあらわれない御時世を迎えているのである。
今こそ世をあげて復古の時ではなかろうか、それは止観第五を根本とせられた本尊抄への復帰である。現金ではなく、ミロクの金をつかむ時である。大きく世直しをすべき時ではなかろうか。戦前戦後は世直しのきざしはなかったようである。そして黄金を自分の懐に入れる事にのみ専念しているようである。その結果が弟子等のくびを切る羽目になったのではなかろうか。今は止観第五によって立ち上がるべき時ではなかろうか。六巻抄にはそれを指示されているのではないかと思われるが、現実にはアベコベに出たようである。
 今いう所の世界平和は昔の軍部の考えに近い世界平和のようである。宗祖のいう所の世界平和がどのようなものかよくよく検討すべきではなかろうか。今の世界平和には、いつ自らその被害を受けるようになるかもしれない。それを避けるために心を静めて本尊抄に説かれる所の止観第五から出る世界平和がどのようなものかということをよくよく見抜いてもらいたいと思う。右の世界平和には国柱会の解尺したものを更に軍部の独自の解尺によるものとが二重に重なっているようである。改めて宗祖独自の平和を取り出して改めて研鑽を加えてもらいたい。大石寺が客殿法門として受けついでいる法門そのものの研究が更らに必要である。
 今の平和にはいつ戦争に引きいれられるかもしれないものをもっているように思う。欧米的なものが加わっているために宗祖の平和が解尺の上で、平和主義者日蓮が喧嘩好みの日蓮像をえがき出しているのである。相手が喧嘩を持ちこんでもそれを平和と受け入れることが出来るのは止観第五にある甚深な法門の故なのではなかろうか。出来れば宗門一統して日蓮という平和主義者の解説をしてもらいたいものである。湾岸戦争の跡始末のようで中々平和には立返らないようである。そこに必要なのが師弟一ケの法門のようである。それが天台大師直伝の法門といえるものである。
 天台の一隅運動にも、実は宗祖と同じ師弟一ケの上の平和を持っているのである。それらを含めて止観第五の法門で、それこそ南宋直伝の甚深の平和法門である。アインシュタインが遺言したものもそのような平和の上にあるものではなかろうか。そこには双方の信頼感が根本にあるようである。今の宗門のあり方にはどう見ても本尊には不信頼感のみということのようである。客殿の内はすべて信頼をもって固められているもので、その信頼が信心と替えられて、それが不信頼に拍車をかけているようである。信心とは本来、止観第五の中に秘そかに含められているもののようである。信心と或る種のおどしが、ひとつになって大いに利用されているようである。そこには信頼感の失なわれているように思われる。
 深草元政の処には止観第五を根本とする教学が受けつがれていたのではなかろうか。そして新らしい四明教学も京都には勃興してをり、本国寺等を中心として四明教学が盛んになり、それらが次第に勢いを持ち、身延の貫主を続けて受けつぐようになっている。つまりそれだけ金回りがよかったためのようである。要法寺等もその影響を受けたようである。要法寺の信徒の中には石見銀山の信者も含まれて居り、その銀山は白銀ではなく水銀をとる技術を持っていたようで、教学も金になる教学をやっていたのではないかと思われる。
 水銀があれば金がとれる。そのために本の出版も出来る程、金廻りがよかったのではなかろうか、そのために教学も金廻りのよいものを目指すようになる。或る本に書いてあったものを見た処では楠正成も水銀をとっていたようである。そのような集団で渡来していた時代で、南北朝時代とはそのような時代ではなかったであろうか。今の時代は色々と金集めの智恵を働かせる時代なのであろうか。それは只の金集めであるだけに無理があるようである。何れ後からつけが廻ってくることと思われる。
 寛師が目指したのは止観第五の教学の勃興であったようであった。その意は一向に通じなかったようで、深草元政は明蔵を読み乍ら、釈門章服儀応報記を読んで左伝の註の意味を知って、そのためにこの一冊を自費で出版したようで、それは今も大石寺図書館に伝えられている。恐らくは、それは寛師の手沢本であったと思う。親の心子知らずで寛師の意図は遂に理解されなかったようで、今のようにウラボン経広布ということにまでなったのである。
 左伝の註は今は漢文として読まれているようで、その意は随分違っているのではなかろうか。文底秘沈を知らせるために新らしく編集された六巻抄の結論として第六の冒頭に附せられたもので、終りには観念文も附せられてそこに結論を示されているようである。しかし事実は三秘抄をもって文底秘沈抄に三秘抄をもって解したために、六巻抄の指示に従うこともいえず、文底秘沈抄には新らしく宗門独自の結論を付与して文底秘沈抄を結論としてしまったようである。
 不受不施日奥はその意を知ってそこに常寂の浄土を見、最後訣別の詩を呉音をもって作り、甥の日箋に与えて対馬に流されていったようで、これについて簡単な書き物もあったようで、その詩は転々として元禄の頃、不受不施の手を放れ、戦後其中堂の手を経て妙観文庫に今は移っている。たまたま日奥自筆の片仮名を附した読みにお目にかかったことがある。これは不受不施資料の五巻に載せておいた。亦、明治には漢詩として読まれて、今はそれが一般に通用しているようでこれは第一巻に収録しておいた。一つの詩が呉・漢両音で読まれあまりにも違いすぎているためにその批難はすべて筆者の誤りとせられたようである。漢呉音の間にはそれ程の相違があるようである。
 安国論でも日興上人の読みを附されたものは、今の立正安国論に比較しては全く読めないものである。今も大石寺御宝蔵の唐櫃の中に収められている。たまたま雪山文庫に出て居ったので身近かに拝見したことがある。これを印刷して公開して学のある人に解説してもらうことは出来ないであろうか。そうすれば呉音がどのようなものであるかを知ることも出来るのではなかろうか。呉音で出来たものを漢音で読んだために荒っぽくなって浄土宗との間に喧嘩が起きたのではなかろうか。堀上人も持ち出して研究するつもりの処、成功しなかったようである。
 寛師は呉音でよんで第六の冒頭に引用されたものと思う。この文については当時十篇位の簡単な小論文にお目にかゝったように思う。天正頃の人は或る程度理解をもっていたのではなかろうか。今は全くその音は消え失せたようである。漢文として読まれているのである。結局は第六は結論としての扱いはなかったようである。そこには師弟一ケの成道である霊山参会も説かれているようである。その結論は師弟一ケの成道である。師のもとに馳せ参じて師弟一ケの成道を目指していたのである。そこにあるのが常寂の浄土である。
 その第六は結論として作くことはなかったようである。それは最も宗門としては不幸なことである。そして今は師弟相寄よって絶える事なく相争っているようである。これを平和と称することが出来るであろうか。そこには信頼と思われるものも何一つないようである。争いのみくり返していては他宗に自慢もなるまいと思う。それは世界戦争である。平和とは師弟の間の信頼感の上にのみ成り立つものである。まづ世界平和の定義付けをしてもらいたい。世界平和とは事行にあらわすべきもののようである。
 六巻抄は遂に理会されることはなかったようである。今は身延に追いまくられて殆んど文底秘沈は切りすてられたようで、それに乗じて大日蓮では己心の一念三千法門を邪義とする説も堂々と出ていたようである。これは宗務院の裏付けをもっている説ではなかろうか。これは時局便乗型と称するものである。時局法義研鑽委員会では司会者(大村)は文底秘沈の説は極力取り除くように指示したようである。但しそこにあるのが本法である。それから因果倶時不思議の一法が出るようである。又、本尊もそこにあるようである。久遠元初の法門の所詮の処もそこにあるようである。それでは法門所住の処はすべて消滅することになる。久遠元初の本仏も亦あり得ないのではなかろうか。そして三秘総在の戒壇の本尊も消えるようなことになるのではなかろうか。ないがましかな気が楽なではこまりものである。せめて文底秘沈の己心の一念三千法門だけは残しておいてもらいたいものである。
 アベさんはウラボン経の広布をとっているが、それは堕獄することが予め分っているものを堕ちるまでじっと見ていて、堕ちたことを確認した上でお前の親兄弟は堕獄している、塔婆料を出して供養しなさいという仕組である。これでは無慈悲の極談である。本尊抄にも諸御書にも真蹟のものには一切見当たらない。宗祖の場合は怒れば地獄ということである。死後堕獄すれば十界は九界となる。本尊抄説に背いては成功覚束ないのではなかろうか。本尊抄説を否定するとは大した度胸である。
 日興跡条々の事では目師は閻浮提の座主として本尊書写を受け継がれているようであり、代師・尊師・郷師には写されたものがない。署名と花押はいかにも写しものという感じである。郷師のものもすべてゆったりとふとくなっているものである。三人共真蹟の残されていないことは共通しているようである。それは日興跡は日目にすべてを委すということと思われる、そこから出るのが師弟子の法門であり、隠居法門のようである。そのようなものが深く蔵されているようである。
 そして室町の終り頃には世直しと出たもののようである。そのために主役の交替もあるようで民衆主役となって上行の登場ということになるようである。現実に出てくるのはしばらく後である。それらはすべて止観第五の中に含まれているもののようである。
 目師は初め大石寺蓮藏坊に住せられた形跡はない。むしろ久須坊において弟子の養成をされていたようで、その下手に道師が移り住んで下の坊を名乗っていたようにも思われ、郷師は毎年末には三迫の湯に行き、三月一ぱい湯治をして三月末には久須坊に帰り、目師の要請に応えて盆前まで若い人等を教えるのが例年のことのようであった。四月から盆前までは下の坊にいて盆前には舟路で保田に帰ったようで、そのためには少し時間がかゝるようである。興師の滅後、奥州より急ぎ雪中を冨士に上られたというのは、久須坊から舟で下り、更に川越から利根川を遡ったのではなかろうか。八王子の近くで下船して冨士に至られたものではなかろうか。又、郷師との間に道郷問題が伝えられるが、そのような問題は全くなかったのが実状のようである。
 或る説によれば行学朝師の説には大石寺法門に近いものがあるということであるが、それは根本のものが止観第五によっている処に相似の根本があるのではなかろうか。只、身延の方が一足先に四明流に変っていくようである。それらは京都からの影響のようである。身延の上代の教学には止観第五を根本としている処に共通の教学をもっていたものと理解すべきではないかと思う。
 宗祖の本当の教えは朝師の頃までは門下一般にそれによっていたのではなかろうか。大石寺でもそれは有師の頃のようでもあり、それは文明の頃のようである。互いに混乱がおきるのはそれ以後である、そして室町の終りから天正に至るのである。その頃、混乱の時代があり、弥勒年号が使われるのはその頃のようである。備前焼のミロク年号の第一号は今、国の重文になっている山陽町の天台宗の千光寺の花生である。作品は少し時代が下って天正に入るかもしれない。岡山の重文の時は鎌倉末期の福の文字のある年号であったようで、つまりそれが同時代のもののようである。今の処、備前焼ではこの花生一点のみである。その頃は天台に観心門が盛んになる頃である、一揆が盛んに起る時期である。一方では信心という語も盛んに導入される時期である。
 化儀抄の一條一条も、もっと立ち入って分析すべきではなかろうか。新しく興った観心教学と止観第五の交替する時期のようでもある。古い教学を盛んに中古天台と下していたのは天正頃から元禄頃に至って漸く終ったようである。それは戦後も随分長い間続いたようで、田村教授は盛んに唱え処していたようである。しかしそれは本流になることは出来なかったようである。一時的に盛んであったのみで今は全く消失したようである。
 止観第五はあくまで日蓮説の根本になるものであったようで、宗門としては、あくまでこれは本流のようである。これは伝教以来の本流というべきものではなかろうか。これは師弟子の法門と隠居法門として、日蓮門下の本流として本尊の根元になっているものである。これをとれば天台の本流である。亜流と称するのは四明流のようで、これは一時の教学の流れで浮き沈みの多い教学のようである。今の宗門でも浮沈を続けているようで、中々に安定しがたいものをもっているようである。
 今はウラボン経を根本にしているようで、不安定な金のダブツキを続けているようである。そこにはミクロの世を迎えるものの持ち合せもないようで、そのうちに抹消していくもののようである。今そのきざしが見え初めているようである。只これを利用して二十億の豪邸に意慾をもやしているという浅ましさである。只衆生いじめの道具に使われているのみである。それはやがて我が身に振りかゝってくるものではなかろうか。随分お気をつけ遊ばせ。
 久須坊は父祖の開拓の地であり、目師は閻浮の座主として、実には久須坊の地に住せられていたのではなかろうか。その下手に道師は住坊を造ってそこに居て、目師の教宣を援けられていたようで、新田氏の寄進状はその久須坊に関わるもののようである。郷師は毎年湯治のために三迫の湯に行き、三月末にここに帰り、盆頃までは目師の弟子養成を助けられていたようである。北山の談林は別にあったようで、そこには定期的に通われていたようである。お備えとしてエビ根の澱粉を宗祖及び、開山の御前にお備えしていたようで、それを精進川のセリを摘んで興師と共に賞味していたのではなかろうか。こゝは宗門としての公的な談林であったようで、久須坊はむしろ私的な談林であったようである。
 関東北部と冨士に二大拠点をかまえて、弟子の養成に専念せられていたようである。その下の坊が現地に移動するのは天正の頃のようである。それはあまりはっきりとはしていないようである。その頃、目師の木像が蓮藏坊に収められるようである。それはもしかしたら久須坊にあったものではなかろうか。興師の滅後、目師が奥州から急ぎ冨士に登られたということであるようである。あまりにも早かったようで、それは下の坊から舟で八王子に至り、そこから冨士に向われたのではなかろうか。又、世に道郷問題として伝えられるものがあるが、裏付けになるものは何一つない。郷師は盆近くなって急いで船路で保田に下られたのではなかろうか。
 身延でも教学としては止観第五による教学を受けついでいたのではなかろうか。そして経営上の都合で「京なめり」を多く取り入れていったのではないかと思う。次第に京風が強く吹きこんで、朝師の教学とは次第に離れていったようで、それは室町の終り頃には、大きく京なめりに近付いたのではなかろうか。その頃は経営の実権は本国寺に移っていたのではなかろうか。その頃、止観第五と四明流のものとの交替があったのではないかと思う。その後大石寺に教学攻勢をかけてくるのであろう。大石寺も要法寺教学の入りこんでくる時機であり、精師が大石寺を受けた頃から教学は再び身延に近付いていくようである。そこに時の流れがあるようである。
 その復古を唱えたのが六巻抄ではなかったであろうか。しかしこれは今に至るまでその真随は捉えがたいようである。そして止観第五による教学による処に立ち帰ることは今に成功しないようで、反動としてウラボン経が登場して混乱を起しているようである。それは平成元年お虫佛い説法以後のことである。今となっては宗門も学会も旧来の教学を打捨てて、早々に止観第五の教学に立ち帰るべきではなかろうか。教学としてはそれは客殿において事に受けつがれているもので、全く捨ててしまっているというものではない。早々にそこにある教学に立ち返るべきであると思う。
 四明流は今の世と共にますます盛行するであろう。少々本尊抄に背いてもウラボン経の方向に引かれるようである。これも亦、時の流れということであろうか。今は四明流プラス、ウラボン経の御時世である。治部坊ウバ御前御書も大体似た時代のもののようであるが、これは餓鬼道におちることになっているようで、双方共、人の弱味をくすぐっているようである。宗祖の教えは天台以来の十界互具の上に建立されていることをお忘れないようにしてもらいたい。本尊抄には地獄におちることも、餓鬼道におちることも一向に説かれていないようである。今はそれが半ば公然と行われているのである。まづは将来悲しむべしということではなかろうか。
 教学の根本をどこにおくかというかということをまず時局委員会はとりきめるべきである。それを取りきめる処に時局委員会の取るべき道があるのではなかろうか。今は時局と唱えざるを得ない時を迎えているようである。時局の意気をもって対処してもらいたい。対学会問題のみが時局問題とも思えない。今一歩前進して問題の核心をつかんでもらいたい。その根本にあるものは教学の捉え方にあるのではなかろうか。
 時局と称し乍ら昔の軍部は大東亜戦争にまきこまれていったのである。宗門も亦、似た道を歩んでいるということではなかろうか。時局という語は威勢がよいだけに危険な語である。何はともあれ独善を避けてもらいたいものである。つまりは大勢の被害者が出ることは必至のようである。
34回目の時局法義研鑽委員会であったが、それが遂に火花をあげたようで、あまりよい結果ではなく遂に火花をあげてしまったのである。この花火どのようにしてながめることが出来るであろうか。
 時局という語には或る種の危険なものを持っているようである。今回は法義の二字を抜いた時局研究会である。しかし事の起りは教義・法義が根本にある筈である。今の教義の捕え方が問題を起しているようである。古来の師弟子の法門に立ち帰ることが出来れば、それは平和に即刻立ち帰ることが出来るのではなかろうか。本来の平和がどのようなものか、それを注目して定義付けをしてもらいたいと思う。あくまで静かに弟子を養成して育ぐくむ処に師弟子の法門の目指す処があるのではないかと思う。それはやがて師弟一ケの極地に通じるものである。今のような状態の処に成道があるとも思えない。改めて師弟子の法門を見直してもらいたい。
 貴族から民衆へ、そこにも師から弟子への交替があるようである。そこにも天の法が見えるようである。そこには師が弟子のくびを切ることも示されていない。それはいうまでもなく平和そのものの姿であるからである。弟子をくびにしては平和到来ということも出来ないのである。その平和の根元を説き出すのが止観第五に始まる本尊抄の説き出される師弟子の法門である。師弟成道から弟子の成道へ、そこに師弟子の法門の上の交替があるようである。そこに開けるのが弥勒浄土のようである。
 時局委員会は平和の定義付けを急いでもらいたい。くびを切って意に従はせるのは下司どものすることである。止観第五のように静かな師弟の交替を示してもらいたいものである。弟子をくびにしたから師がえらいというものでもない。法門とは静寂を宗とするものである。それを示しているのが第六当家三衣抄である。それを師弟共に霊山浄土に参会といわれているのである。その師弟一ケの平和世界を示されているのが左伝の註の示している世界なのである。師弟共にという共にの語をお忘れないように。
 あくまで止観第五を根底においている法門の処に天台直伝の法門が受けつがれているようで、慈覚流を宗義の根本と立てていないことを肝に銘じてもらいたい。止観明静前代未聞の処に法は立てられていないようである。根本法花と云われるものは止観第五の処に根元が置かれているようである。やがて狂い去ることは文応の頃にすでにお見通しをつけて「京なめり」と称せられていたようで、今漸くそこに到達したようである。最早度し難い処まで到達したのであろうか。
 思い切ってセンダラの座を求めることは出来ないであろうか。若しそれを求めることが出来れば、そこには必らず師弟共々に救われるものがあり、世上も共に救はれるということではなかろうか。ウラボン経で説くのは餓鬼道におちることのようであるが、金に目が眩んでつい地獄におちていると出たのであろうか。しかし一界とれば九界になることに変りはない。治部坊うば御前御書も餓鬼道におちていることを説いているようである。一度念のためにたしかめてをいてもらいたい。筆蹟は大体似ているのではなかろうか。
 平和とは必らず師弟の処にあるべき文底秘沈の法門なのである。文上をとればそれは必らず争いに引きこまれるであろう。文底秘沈の法門をとれば、そこには必らず自然に平和を求め得られるものではないかと思う。ウラボン経は小乗方向に進んでいる証左なのではなかろうか。師弟子の法門の処には自ら平和をもっている。そこにあるのが信頼なのではなかろうか。今、世上でも次第に信頼感は薄らいでいるように思われる。この己心の法門は信心によって成り立っているものではなく、専ら互いの信頼の上に成り立っているものである。今宗門が信頼している欧米教学には信心をもって結びつけなければならないようなものによって構成されているようで、小乗には多分に信心をもって強制しなければならないようなものをもっているのであろうか。
 信心が盛んになるのは室町の終る頃である。その頃から四明流が殊に盛んになったようである。師が弟子を馘にし弟子が師に反抗しているのは、師弟子の法門が家の師弟とはいえない。信頼は必らず事に行じなければならない。そこに文底秘沈の法門の意義があるというものである。近代殊に師弟子の道の衰退が目にあまるようである。そこにも滅後末法の世の到来を思わせるものがある。その時が至って文底秘沈の己心の一念三千法門という師弟子の法門の必要が生じるのではなかろうか。師弟一箇の時が来れば天下太平であることはいうまでもないことである。そこに平和の到来があろうというものである。
 

 宇宙の大霊のこと
 この語は福重本仏論の中に出ていた語ではなかったかと思う。従来あまり見かけない語で何となくキリスト教的な雰囲気をもっているように思われる。明治になってドイツやアメリカの学問から取り入れられて日蓮学が解釈されていく中で国柱会教学が盛んになり、それを取り入れたのは軍部であり、更らに独自に研究してこの欧米学を取り入れたようであり、それが遂に平和を唱え乍らそこに大東亜戦争に突入した根元になっているのではなかろうか。その威勢のよさを取り入れたのが明治の大石寺教学であった。身延に攻め立てられた処をこの教学に発散させたようで、それが俗身のまま最高最尊の座についた処に登場したのが覇権主義であったようで、キリスト教の宇宙の大霊が魂魄と等しく考えられて、そこに日蓮本仏論が考えられているようで、それが今のような俗身のままの法主本仏論と発展してきたのではなかろうか。
 日蓮が説く処は俗身を切り捨てた処に魂魄の上の本仏論が成り立っているようで、今はますます俗念のみが強盛なようである。それが金集めと現われているようである。開目抄も六巻抄も最も警戒している方向に進んでいるようで、それが今回の二十億の豪邸と現じたもののようである。池田会長の豪邸も時価二十億ということは週刊誌の評価である。その中に十八金の風呂がすえられているようで、アベさんもそれを目指しているものと思う。つまり双方共に俗身のままそのような構想を練ったために、今、鉢合わせとなって攻防戦が開始されたようである。そして思いつくまま僧や信徒のくびをどんどん切っている。それは無慈悲の見本のようなものである。
 平成元年のお虫佛い説法では遂に法花の広布を捨ててウラボン経の広布に変ったようである。そして題目のみは法花の題目をとなえているようである。そして時には法花の広布をも唱えているようである。「京なめり」と誡められたのは慈覚流の密教をとり入れた処を指しているものと思われるが、今はそれを通りこして欧米式の思想を取り入れた中で、そこにウラボン経の花が咲いたようで、つまりアダ花ということのようである。
 以前は盆説法には他門の説法本を写していたが、その時代は餓鬼道におちていたということであったが、それもいつのまにか地獄に変えたようで、今は専ら地獄をとっているようで、それは本尊抄への挑戦ではないかと思う。そのような中で自然に本尊抄に説く十界互具、十如是などとも遠くなって、止観第五の法門とも遠ざかっているようである。
 そして今は師弟共に欧米流のハイカラ風をとりいれているようである。そして金をのみ重んずることに専念しているようである。そのために真言法門がますます取り入れられているようで、ますます京なめりに深入りしたようで、それが師弟子の法門の抛棄につながって師は弟子のくびをきり、弟子は師の足元を伺うということになっているようである。そこには師弟一ケの美徳は全く見出だせないようである。それは法門のみだれの成果であると思う。そして師弟共に金集めに専念しているようで、その結果が登山禁止と現われたので結局は双方共困っているようである。天母山デズニーランドでも考えてはどうであろう。
 登山をも一人占めにしようとした処に誤算があったようで、大日蓮では寛師のものを引用して僧に供養するようにあふっているようであるが、どこまで効果があるのか。師は弟子を労り、弟子は師を敬う処に師弟の道は成り立っているものであり、上に立つ者のみが威張ってよいとは御書には一向に説かれていないようである。今はあの手この手で信者をいじめるようになってきているようで、なかなか返りはないようである。地獄極楽はオドシとスカシの秘術のようであり、それは今の宗門もとっているようで、それはどうやら成功していないようである。「京なめり」は一時は調子はよいが最後には危険なもので、宗祖は予め警告を発せられていたようで、今宗門は最も悪い方向に進みつゝあるようである。
 時局協議会文書作成班一斑は外護について論じている。高橋粛道師は寛師引用のものを取り出して僧侶に供養することを大いに要求しているようである。これらのことは文字に現わして請求するものではない。その人格が自然にそのような結果を招くものである。あまり金に眼を眩まされぬことが肝要である。過ぎるとそこに破綻が待っているかもしれない。登山料等の丸取りをたくらんでも当は向うからはづれているようである。
 速かに二十億の豪邸は忘れる事である。今僅かに売店の関係で残っている根檀家の人等も以前に大半は北山へ移り、今又売店の人等もまた他へ移る気配があるのではなかろうか。有為転変の世の中、古い根檀家なしではやってゆけないのではなかろうか。空威張りを止めて、少し慈悲を考える時が近付いているのではなかろうか、もっともっと徳化の必要があるように思われる。ふところに金を押しこむのみでは信徒の教化は出来ない。慈悲忍辱の衣を着た僧侶がカンシャク筋を浮べているのはあまり敬服出来ない理の一つである。
 寛師全集も中断したままのようであるが、序で乍ら完了してはどうであろう。裏書きされたものに裏打されているものも二点位あったように思う、これは中々読みにくいものであった。六巻抄にあるもので以前拾ったことがあるが、「勤めよや、勤めよや」と読まれているが「いそしめよや」と読むようになっているようで、「つとめよや」では少し意味が違ってくるのではなかろうか。
 時局という語は大東亜戦争に入る前に盛んに使われていた語である。宗門もそのような処にいるのではなかろうか。口に平和を唱え乍ら戦を目指しているということであろうか。今はほうぼうで戦が始まっている。宗門もその戦場のうちの一つであろうか。昔は戦争成金という語があったが、今は金もうけは随分下の方まで廻ってきたようである。トップにいる人は必らず金儲けはたくらまぬことが肝要なように思われる。
 宗門では自力をもって歴代上人全集を完了することは困難なのではなかろうか。因師のものも大量のものが本山に帰ってきたようであるが、これを期に解読して出版にふみ切ってはどうであろう。世間も大いに益せられる処があるのではなかろうか。寛師の読みの深さを学びとってもらいたいものである。寛師が心痛された部分については今においても何一つ読みとられていないようである。寛師は集まった金はすべて宗門に寄進せられたようである。二十億の豪邸を造る計画は更らになかったようである。
 昔は薬売りが村に来ても昼食はお寺へ行ってすませたようである。外来者も自由に食事をしていたようで、農民も秋の忙しい頃にはお寺で昼食は間に合わせていたということで、自由に漬物・梅干などを取り出していたということである。そのように根檀家との関係は深かったようである。今は専ら信者から取上げることに専念しているようで、そこに今の攻防戦が始まっているのである。どう見ても宗門側が弱いのではないかと思う。
 止観第五から出るものは本法から出る本仏の慈悲の固まりのようである。アベさんもよく久遠元初の己心の一念三千法門について、久遠元初の本仏の己心という語は使っているが、それが本法であるとは決していわれていない。それがいうまでもなく本法なのではなかろうか。若しその説が本法から出ているのであれば、あくまでアベ説から慈悲心が滲み出る必要がある。あまり欲張りすぎると話が逆転するのではなかろうか。
 今の戦況は宗門が不利なのではなかろうか。いたわるという暖か味が必要なのである。今の宗門の在り方から冷たさのみが横溢するのは何故であろうか。高橋粛道師が寛師のものを引いて僧侶への供養を求めているのは不要なことではなかろうか。供養とは報賽の意味を持っているもので僧侶の側から要求すべきものではないようである。僧侶は俗慾を最も恥づべきものではなかろうか。それを説くのは法花のようであり、今はウラボン経による故に富裕をほこるようになったのであろうか。餓鬼道でも満足出来ないので遂に地獄を持ち出しているようである。そこに解尺の恐ろしさがある。怒れば地獄等の一連の文は本尊七ケ口伝として、そこから戒壇の本尊を取り出されている文である。今は遠い昔語りになったのであろうか。
 本仏とは本法の文の底に秘して沈められている己心の一念三千法門であるが、これについては一向に委しく説明されることはなかったようである。そのために読み損じでもあるのではなかろうか。宇宙の大霊ということになればキリストに近いかもしれない。本仏とは本来、久遠元初の本法であるようである。その本仏から出た処が本尊ということである。その本尊をとれば必らず富裕をほこる必要は更らにないのである。
 天皇も神もすべてその本法の処に立てられているようである。また本尊も仏も本仏も何れもその本法を根本として建立されているものである。そこに立てられているのが、本因本果因果倶時不思議の一法が即ち、本法として崇められるもののようである。それらを法花経に取り定められているのが本来の法のようであり、今は本法をすててウラボン経にくらがえしたようである。ウラボン経からどのようにして本法や本尊を取り出すことが出来るのか、まづそれを明らかに示すべきである。
 ウラボン経からどのようにして本尊や題目を取り出すつもりであろうか、委細に示すべきであるが今はウラボン経にかわった以後も相かわらず法花の題目をとなえているようである。まだ法花のお叱りはないのであろうか。これは今差し当たっての急務のようである。少し召し上げ方が厳しいようである。もっと宗祖の如く身を底下に下せば信徒をいたわる心が出てくるのではなかろうか。信心とは、をどしすかしを兼ね備えているようである。
 宗門としては法花によることは既に宗祖によって取り定められ、昭和の終りまで守り続けられてきているものであるが、それを何を思い法花をすててウラボン経にとりかえたのであろうか。それは、お前の兄弟は地獄におちているぞと、をどすための智恵のためのようである。しかも今は遂にお前の親兄弟は地獄におちているぞと、をどすようになり真向から本尊抄の取り定められる処に反対しているようである。その結果が今、師弟の対立と出たのであろう。そこにはどう見ても十界互具はあり得ない。出合い頭には喧嘩をするような仕組になったのである。早く十界互具や十如是を取り返して平和の世を迎えてもらいたい。
 恵心のをどしもそれ程効果はなくなって逆効果のみであったようで、室町末期の教学のはいることを六巻抄は警告されているのではないかと思えるが、その背景には要法寺教学の流入については大きな懸念があったようで、結句はその影響下におかれたようである。そこで末法相応抄を設けられてその結論が今ウラボン経の広宣流布と出たようである。
 第四では滅後末法のために「京なめり」を警戒することを教えられているようであるが、今となっては結果的には全く逆に出てしまったようである。そして第五の一言摂尽の題目について全く無関心のようで遂に読まれることもなく切りすてられたようである。そして取り入れられたのがウラボン経である。遂に地獄・極楽法門の中に組み入れられたようである。衆生はその中にあって息継ぐひまのないほど責め立てられているのである。今大日蓮では必至になって塔婆供養の宣伝をしているようである。
 大石寺では元来貧道の方向をとっているようである。貧道を守る処に修行があるようである。今は儲けるために上げる題目は決して修行といえるものではない。如何にして貧に処するかという処に根本の修行があるのではなかろうか。その結果が第六に結集されて師弟一ケの成道と現ずるのではなかろうか。そこでは貧道もまた成道の必須条件のようである。
 今のような貴族趣味の中に成道を求めることは困難なのではなかろうか。そこで先づ最初に貧道の身と提示せられるのである。そこでは当然弟子も貧道を名乗る必要があるようである。師のみが貧で弟子が豊か過ぎては不似合いである。師弟共に貧道を立てる処に修行も成り立つというものではなかろうか。そこに師弟の機微というものも秘められているようである。今は師に遅れまいと弟子も懸命に金集めに専念しているようである。信者は二重枠にはめられているようである。
 宗門は明治以来国柱会教学をとり入れているようで、日蓮本仏論もそれを根底とした考えの上に仕上げられているのではなかろうか。若し寛師に本仏的な発想があるとすれば、それは止観第五の文から取り出されたものであり、その根本におかれているものは本法であり因果倶時不思議の一法のようである。福重本仏論には多少なりとも欧米的な発想をもっているのではなかろうか。色々と新らしいものを取り入れるものをもっているようである。
 そろそろ新らしい構想に切り変える時が来ているのではなかろうか。明治・大正の構想もウラボン経に至ってハッタと行き詰ったようである。速やかな転身が必要になっているのではなかろうか。ウラボン経への転向は法花の行者として将来に禍根を残すものではなかろうか。法花の持つ本法はどこまでも追求すべきものではなかろうか。あまりにも切り捨てが早すぎるようである。時局と唱える程危機感を持ち合わせているのであろうか。あまりにも転向が早いようである。
 アベさんは久遠元初の己心の本仏について時折り久遠元初の本仏の己心という語を使われているが、その語について今一歩説明をしておいてもらいたい。はっきりその意義の説明がされていないようで、久遠元初の己心の本仏の本法について、今一歩詳しく説明を加えられたい。そのはっきりしない処にウラボン経の本法をおさめようとしているのではなかろうか。何となくその彼方に宇宙の大霊を秘めようとしているのではなかろうか。その不明朗な処に久遠元初の本仏の本法を見ているのではなかろうか。常にそのあたりの説明を避けているのは何故であろうか。途中で説明を打ち切る必要はないから、その不明な中に説明を秘めているのではなかろうか。そこにウラボン経の本法を秘めているのではなかろうか。中途半端で打ち切られては他人にはわからないものである。遂に詳細な説明を避けているのは何故であろうか。
 六巻抄第六の結論にあたる部分も、結論としての左伝の註を今一歩詳しくしてもらいたいと思う。そこのあたりに何となくウラボン経に趣くものがあるのではなかろうか。その彼方に台密的なものを秘めている処があるのではなかろうか。六巻抄第六の結論がそこから取り出されていないために、師弟子の法門の影のうすれるものがあるようである。時局研究会の面々は左伝の註について詳細にしてもらいたい。そうすれば第二の結論について新加の必要のないことがわかるのではなかろうか。その処に久遠元初の本法を秘めているのではなかろうか。
 本仏・本法とは、その意が不明朗なものではないようである。そこにあるのが天の備えた大法のようである。それを日蓮本仏ととなえているのではなかろうか。その大法を説かれているのが止観第五ではなかろうか。そこからとり出されるのが師弟子の法門ではなかろうか。現状では師弟子の法門及び、本仏の持つ本法は説明されていないようで、そのために止観第五との関連がうすらいでいるようで、それを時局委員会ははっきりしてもらいたい。そこに時局的な要素をもっているのではなかろうか。強引に押されている間に文底秘沈の語は消す約束が出来たのか、結局は文底秘沈の語はなかったというのが時局法義委員会の大村委員長の解尺であったようである。その語は身延日重の言いなりになったという処に強引に押し切られたようである。それでは三秘惣在の戒壇の本尊は全く出現しにくいのではなかろうか。
 それに便乗して己心の一念三千法門を邪義と取りきめたのが水島先生の大日蓮の説明である。これも不得要領な中で逃げ切ろうということであろうか。これでは御先方の云いなりの結論に追いこまれたようで、全く無条件降伏そのもののようである。そのような中で止観第五も慈覚流なものに方向転換を計っているようである。それをのりこえるために威勢よく覇権主義を振り廻しているようである。そこから恥づかしげもなく他人に対して不信のやからという語がでているのではなかろうか。若し常に本法が所持されておればそのような語は出ない筈である。上のいう事、下これをならう。その覇権主義が今宗内に横溢しているようである。昔から天狗は芸の行きとまりという。随分お気をつけ遊ばせ。
 

 覇権主義の攻防とその破綻
 博多の浜の日蓮像が出来たのは東洋広布的な内容を持っているようであるが、今は日蓮像については身延でも遠い古えに一人身延山中に篭りこんだ日蓮像の処に真実を求めようとしている。そこに仏者としての慈悲が秘められているのである。右手を振り上げた日蓮像を求めているのは大石寺の師弟のみのようである。そこに時代遅れという感じをもっているのではないかと思う。慈悲心とは必らず静かな処に存在しているもののようである。
 魏志倭人伝にいう野馬台国もヤマトと読めば、やがて神武東征から大和の国につながるものであるが、野馬台国では大和には連絡はつかないようである。佐賀県の吉野里も大和の国の吉野の里の古里のようである。そこにたどりついたのが安曇族のようであり、後に信濃川を上って長野県の安曇郡に落付いたようであり、そこには川澄を名乗るものも多いようである。
 野馬台国では中々論争も片付かないであろう。思い切ってやまとと読んでみてはどうであろう。土の高くなった処が台であり「ト」である。今でも土のより集った小高い処を高台という。そこは山が台地のようになった処で、人の住むに適した処を指しているのではなかろうか。そこから稲作技術を持った人等が東に向ったのではなかろうか。今の大和の国に理想の台地を見付けたのではなかろうか。野馬台国ではいつまで待っても新らしい展開はないように思われる。
 大石寺では今も博多の浜の日蓮像を夢に画いているようである。そこに破綻が待っているのではなかろうか。今の師弟の争いには平和があるようにも思えない。身延でも今は欧米方式を切りかえたようである。最早軍部一辺倒方式の時代は終ったのである。覇権主義の時代も既に終ったようである。今は世界的にも覇権主義が崩壊の時が来ているようである。民主主義が覇権主義と現われる処に無理があったようで、大石寺法門でも本来慈悲と現われるべき処が欲望の中で覇権主義と出た。そこに破綻がまっていたのである。湾岸戦争もそのような中で中々覇権は制し切れないようである。宗門も一日も早く覇権主義を切りすてて本来の慈悲の上に平和を建立することである。そこに本来の平和が控えているのである。あまり金の取り立ての算段をしないことである。
 六巻抄があらわされた頃は門下教学の混乱する時代ではなかったのではないかと思う。そこで取り上げられたのが第五であり、こゝで滅後末法の本尊について論じられ要法寺日辰教学について大いに論じられているが、それから三百年たってその方向に遠慮なく進んでしまったようで、遂に平成元年にはお虫佛い説法の時、遂に法花を捨ててウラボン経の広布によることを公言せられた。只今は既に法花の広布の時は終って、ウラボン経広布の時代を迎えたようである。
 法花の題目をもっていくらウラボン経のために唱えても、それでは修行にもなるまいと思う。功徳も亦、逆効果ということではなかろうか。ウラボン経から題目を取り出すことは出来ないのであろう。滅後末法の時は法花を捨ててウラボン経によるようにとの宗祖の御指示はどこに出ているのであろうか。文底秘沈の己心の一念三千法門から取り出された三秘総在の戒壇の本尊も大日蓮によれば邪義ときめられているようで、何をもって滅後末法の時の本尊と取り定めればよいのであろうか。折角御本仏が妙法五字の袋の裏に包んで、頸に掛け与えられた法花経を捨てられては全くゴミクソ同然である。何をもって本尊と取り定めればよいのであろうか。
 今平成三年、文の底に秘して沈めたという文底秘沈の語、大村教学部長の発言によれば、もともとなかったということであるが、大村さんはどこでいつ見たのであろうか。大村さんの生れる遥か以前に真蹟は焼亡しているのである。文底秘沈と同時に己心の一念三千法門も今まで全く抹消されてきていたのである。そのために法花の広布が必要なのである。今更らウラボン経から文底秘沈の己心の一念三千法門を取り出すことは出来ないであろう。そこにある処の本法こそ久遠元初の大法であり、そこにおわすのが久遠元初の本仏なのではなかろうか。そこに本来としてある文底秘沈の己心の一念三千法門こそ久遠元初の本法である。
 その己心の法門は、生れた時信不信以前に本仏から無料で授与されているものである。それを確認するために題目修行もあり得るものであるが、今のように法花を根本から捨ててしまっては何を頼りに修行をするのか、つまり本法も本仏もすべて抛棄したことになることは皆さん御存じなのであろうか。ウラボン経に法花の題目を捧げても、そこには功徳も修行もあり得ないと思う。大日蓮では僧侶への供養を盛んに要求している人もあるが、それでは供養も無意味である。先づその対照となる法花をはっきり再現すべきではなかろうか。
 久遠元初の己心とは一体何をさしているのであろうか、信ずるに足る説明を加えてもらいたい。そのつながりを通して師弟が結ばれているように思われるが、今は専ら金によってのみ師弟のつながりがあるようである。テレビで見たアベさんの実像は如何にも意気消沈せられていたようであるが、大いに天下を睥睨して法主の威厳を示してもらいたいものである。憎まれっ子世にはびこるというが、川澄はまだ口先のみは健在である。大橋先生も水島先生も今は口を封じられたか、若い世代に譲ったのか一向に消息不明である。大いに健闘を祈りたいと思う。六巻抄は寛師がわざわざ後輩のために遺されたもの、現状は集中の仕方に問題があるのではなかろうか。今は法花からウラボン経に転向して落ち付いたようである。再び法花への復帰を求められているのではなかろうか、只日蓮とあらば真蹟というわけでもない。
 

 文部省三秘抄を真蹟と決定、法花からウラボン経へ
 最近三秘抄が文部省によって真蹟と決まったようであるが、真蹟とは宗門人の判別すべきものではなかろうか。六巻抄も第二を三秘抄で読みとったために今の混乱を迎えたのではないかと思う。そこにあるのは京なめり方式ではないか。三秘抄の判別位、門下で出来ないのであろうか。ついでに当体義抄・総勘文抄などまとめてやってもらってはどうであろう。その中から止観第五を根本としているものかどうか、また止観明静前代未聞との関連はどのようになっているのであろうか。むしろ止観明静に近いものが多いのではなかろうか。これは行政府の一存で取り決められるものとも思えない。
 ウラボン経なども今、国宝となっているが果して間違いないであろうか。これならコンピューターで間に合うかもしれない。治部坊ウバ御前御書などはどうであろう。古来真蹟として通用しているものの中にも如何わしものも含まれているようであるが、三秘抄のように真蹟のないものも殊にむづかしいのではなかろうか。いつの世が来ても真偽問題のみは厄介な問題である。
 正宗では一向に物音がしないが満足して喜んでいるのであろうか。あまり頼りすぎたために文底秘沈抄の真実が取り出せなかったようである。三秘抄からは止観第五に関わるものは取り出しにくいのかもしれない。むしろ止観明静の側の資料の方が多いのではなかろうか。時局法義委員会も、一こと意見を申し上げては如何であろうか。これはうっかりしてをれば、かたきを取られる恐れがある、御要心あれ。慈覚流の立場にいる人の研究成果ではなかろうか。広く御書を引くよりも止観第五をもって子細にならってみてはどうであろう。このまゝ安心するのは危険である。
 外部から投じられた一石、門下ではどのように受けとめているのであろうか。正宗としてはこのまゝ迂呑みは禁物である。委員会の面々も三秘抄のおすきな人許りであるから特に検討を加えてもらいたいと思う。宗門としては今さら冷静に受けとめることは危険であるが偽書と決める度胸も出ないであろう。只コソコソと便乗しないことである。これらの中には宗祖のきらった「京なめり」流なものが多分に含まれていることをまず警戒しなければならない。どのような扱いをされたものか詳細な全貌を、発表を待ちたいと思う。
 コンピューター資料の根本に使われるべきものは本尊抄に使われている止観第五の文によるべきものではないかと思う。ここには天台以来、伝教・日蓮と受けつがれた天台法門の根本にあるべきものが秘められているようである。今回の資料の中にこれらのものがどこまで受け入れられているか是非承知したいものである。若しそれが四明流を主体としたものであれば、現在の各門下が取り入れている「京なめり」方式に近付くのではなかろうか。恐らく今回の文部省の基本資料にも止観第五はあまり使われなかったのではないかと思われる。そのコンピューター資料の全貌を公開してもらいたいものである。
 今回のような御書の真偽については、あくまで行政は手出しをするものではないものと思われる。若しこのままでは、三秘抄が真蹟として罷り通るようなことに相成るかもしれない懸念が多分にあるようなことになるかもしれない。若し三秘抄が真蹟として罷り通るようなことになれば内容的に混乱を生じるのではなかろうか。御書の真偽については各門下ともそれぞれ思わくのあるものだけに、行政が一方的に取り定めることには大きな危険をもっているのではないかと思う。このような事は古来全く類例のないことである。何故三秘抄のみに限ったのであろうか。三秘抄は行政によって真蹟ときめられウラボン経は依然として偽書のままである。それが一宗の中で同時に使われるだけに複雑なものを持っている。
 三秘抄が真蹟となれば六巻抄の文底秘沈抄はそのまま近代の宗門の説が通用することになる。それは反って宗義を複雑にするのではなかろうか。しかしそのために六巻抄の真実意図する処は抹消されて結論は各読む者の自由意志に委ねられることになる。その真実は中々捉えがたいものがある。そしてそこに新らしく結論を付与した宗門の勝利に収まるようである。そして三秘もこのようないかがわしい中から取り出されるようで、最終的には戒壇の本尊の説明に事欠くようなことになりはしないであろうか。そしてそのために第六の結論としての意義は打ち消されることにもなる。亦第六を結論とされた意味も不明となる。すべて六巻抄編者の誤りということに結論が治まりそうに思われる。そしてそこでは師弟子の法門も打ち消されるようである。折角の三衣抄も何の作きもないものにされるようである。結局三衣抄も観念文も打ち消されたようである。そして六巻抄も都合のよい部分のみが抜き々々利用されることになるようである。何れが是か非か結論は複雑である。文部省はどのような意図をもって三大秘法抄を新らしく真蹟と取り極めたのであろうか。実に複雑怪奇である。
 今まで盛んに登山を奨励していた本山が急に登山を拒むようになって早や四ヶ月が来たようであるが、困っているのは本山と登山客を相手にしていた人等のようで、鉄道其の他も大分あてが外れたようである。一人の覇権主義を満足されるために大勢の人々が迷惑しているようで、そのようなことは一向に考えないようである。覇権主義者的な発想も次第に行き詰る方向に向っているようで、客殿の周辺も大化城は消されてすっきりとしたようで、富士年表も二回の大改編の中で殆んど元のおも影はなくなったようで、ここでもアベさん一人が天下をとっているようである。古文書の解読もすべて自分でやったことを大活字で記入しておくとよい。序で乍ら正本堂も建て替えたいのではなかろうか。
 最早お忘れであろうと思うが、第一日のとき最初に小手調べに資料をもらって答えている時の資料は、月日のあるものと月日のないものと、首尾が誤って繋ぎ合わされていたようで、これには関係なく話は進められていたようであった。それらのものも整理した上で身延離山史も根本的に改編したのであった。長いほほえましい経験をさせてもらったものである。色々とあの手この手でいじめられたことも思い出のつきぬものである。あれから已に半世紀も経過したようである。富士年表もすべてアベさん一人の発想の処で出来たものということのようである。
 明治大正に入った欧米の発想が平成を迎えて今のような覇権主義と発達したようである。アベさんは学会に対して格別な意見もないようであるが、日達上人の跡を追うことは耐え難いもののようで、すべての日達色を払拭したい念願を所持しているようである。それがたまたま今回のように荒々しく表面に出たものと思われる。本心とは逆に出ているようである。今は大化城や不開門もなくなっているようであるが、思う存分に改革を進めて、目障りなものはどんどん整理されているようである。その内に高層ビルが立ち並ぶことであろうと思う。
 現在の日蓮本仏論にはその発生から見て覇権主義的な発想を持っているのではないかと思われる。それは開目抄の如く俗念を捨てることを拒んでいる故である。今の法主本仏論には俗念のみが先行しているようである。今のような覇権主義的な発想の元で果して寿量文底に基盤をおいた己心の一念三千法門の本仏・本尊等を、求め出すことが出来るであろうか。同じく因果倶時不思議の一法と称してもそれは明らかに異質なものではなかろうか。それは庶民の味方になるようなものではないかもしれない。若し本仏日蓮が登場しても、それは右腕をまくし立てた威勢のよい日蓮である。
 庶民の味方である日蓮とは、魂魄の処にあるべき俗身をすてた本法そのものの称である筈である。右腕をまくし立てた日蓮とは本法の処にあるべき日蓮像とは異っているものと思えてならない。これはあくまで法花経寿量品の文の底に秘して沈められた己心の一念三千法門そのものの、魂魄の上にあらわれ出でたる魂魄そのものの姿である。これが久遠元初の本仏であり本法そのもののようである。この本仏は常に衆生の味方として現じられるもののようである。この本仏が本法そのもののようである。それがいうまでもなく六巻抄第六当家三衣抄に説き出される三秘総在の本尊である。亦、報仏如来でもあるのではないかと思う。
 この本仏が止観第五から出現する所の本仏ではないかと思う。その本尊とは必らず法花経より出生するもので決してウラボン経から出現するようなことは決してあり得ないものである。日蓮が法門にはどのようにしても文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門が慈悲として文面に現われてくるが、六巻抄においてもそれを受け継がれているけはい、それが随処に出ているのであるが、ウラボン経を根本とするアベさんの法門にはその慈悲心を抑えるものをもっているようで、そこに何となく冷たさを感じるものをもっている。それは説者の罪ではなく経そのものの相違による処によるもので、何れの経によって宗を建てるか、その取り上げた経によってそれは定まるものである。
 ウラボン経には法花のような暖か味を本来もっていないのではなかろうか。それが冷たさを見せているのであろう。師弟相寄よって衆生から金を躍起になってとり上げる理由は、その経が本来としてもっている筈である。ウラボン経の広布を声を大にして宣伝しているようであるが、これでは庶民の懐から金が消え去ることであろう。庶民が干上って、おのれ一人潤って見ても何の益かあらんやである。そして庶民も干上り、而る後に自分達もまたひ上ろうというのである。
 仏の慈悲を庶民に伝えるのが仏に仕えるものの聖職なのではなかろうか。その意味で古来宗門では宗祖以来、法花経寿量品の文の底の己心の一念三千法門に根本の法を建立していたものと思われる。それが何を思いついたか平成元年の春、御虫佛いの説法の日から急にウラボン経の広布を宣言されたようであり、しかも題目のみは法花の題目を流用されているのである。それではウラボン経の悪い半面のみが入りこんでくる恐れはないであろうか。覇権主義者の立場からいえば、それの方が金が集まり易いと判じたのであろうか、それは吾々には分らない秘処である。その餓鬼道に堕ちることが大いに利用されているようで、それは以前と違って遂に堕獄まで発展してしまったのが現実のようである。元の法花を取り返すことは出来ないであろうか。
 六巻抄の第五に説かれる一言摂尽の題目とは宗祖から与えられるべき珠玉なのである。それさえも筆者が言い始めるまで書き出された以後、その語を取り出すまでの事例は皆無であったようである。それを受けて第六の当家三衣抄は始めて成り立つもののようである。そのもとにあるものは久遠元初の己心であり、それこそ本法そのもののようである。その上に成り立っているのが文底秘沈の己心の一念三千法門であることは、いうまでもなく天の庶民に下された慈悲そのものである。その取りたて役をされているのが本仏ということのようである。そこに始めて慈悲が存在し得るもののようである。その取り次ぎ役をするのが僧侶ということではなかろうか。その意味ではその者共は勤労奉仕でよいのではなかろうか。あまりむさぼりすぎないことである。
 只思いつきで法花からウラボン経に、いともあざやかに切り換えられたが、その理由については一向に今に明かされていない。七百年以上もそれによって宗を建立してきているのであるから、切りすてるためにはそれなりの理由があってよいと思われるが、理由もなく只法花からウラボン経に切りかえたというのみでは、いかにも理由が薄弱なようである。御先師に対して何と申しわけをするつもりであろうか。唯家風に合わないでは離別の理由にはならないであろう。何はともあれ新らしくウラボン経のために新らしく題目に勝るものをつくることは、今の時局委員による作成委員会の技倆では全く不可能ではなかろうか。へまをやれば他門も血相かえてまっているであろう。その難関をどのように切り抜けるつもりであろうか。今では身延でも国柱会教学とは離れようとしているようである。そこにウラボン経を取り入れることは、またたたかれる素材を一つ仕入れたことになる。
 ウラボン経には「京なめり」の語の結集した姿も伺える程のものをもっているようである。今の新興宗教でさえも現在の宗門程は金・金・金と血相は変えていないようである。二十億の豪邸を造って雲仙や世界の難民を次々に招待し、慰安するためであるなら宗祖も行政も、それは快く即座に許してくれるであろうと思う。只、私一人の快楽のためには許される筈のないことを知らなければならない。寛師が六巻抄を書かれた御深意は、室町末期の宗義の堕落について、止観第五の世界に早々に立ち帰ることを求めるためのようである。今となっては宗門でも逆にそれが飽和状態に相成ったように思われる。第一巻の発端のあたりに立ち帰って静かに考え直す時が到来しているのではなかろうか。呵々。一応これで擱筆することにする。取捨はお歴々にまかせたいと思う。
 平成三年七月号の大日蓮に「堅樹院日好の異流義を正当化する創価学会学生部副部長高岡輝信氏の妄言を破す」宗内非教師有志の名調子が載っていた。「妄言を正当化する」、「妄言を破す」という語は、明治以来他門を破す時に常に使いなれた語である。大勢の人達が寄っている割合に、折角ある生資料を見ていないようである。只見ているのは宗学要集によってまとめられているものに限られているのである。もっと大勢の人の広い視野をもって見るべきではなかったであろうか。破折に重点が寄りすぎて精査に今一つという点がある。御存じないようであるけれども、この資料は身延のものを拝借しているもののようである。これは明治になって政府が尾張北在名古屋の北郊にあった異流義を調べた時その資料を取り上げたもので、それを借りたままになっているのではなかろうか。今は用済みであるから清書済みのものを付けて返却すべきではなかろうか。
 久遠院日謄師もここの出身であった。その異流義の集団が居たのが品川の蛇の窪であり、亦、今の埼玉の大宮辺りであった。後に明治になって品川の妙光寺の寺名を、台風で倒れた静岡県下の寺名を、品川に再興したのが今の妙光寺であった。その時の建造物は大宮から運んだようである。信者は蛇の窪の人等であった。三ヶ所が一つになって一宇が建立されているのである。その余りの信徒を集めたのが深川の教会所でこれが後の法道院である。この北在には江戸の常在寺での弟子が守っていたようで、穏師・量師・亦因師の頃に金沢への連絡基地であったようであり、明治の発展の基礎になった処である。
 後に埼玉の北部春日部で検挙せられた後藤増十郎が、江戸に連れ帰られて取調べを受けた時、久遠院さんも呼び出されたようで、それが原因になって猊座には着けなかったということである。そこには三宅島に流された時、日好からの指令は常に到来していたようでその書状類は大揃いであるが、これは今のお歴々では読むことは無理なのではなかろうか。その他堅樹書記等もあったように思う。これはそれらの書状を整理されたものかそのような記憶はない。その整理は今後の大きな仕事ではなかろうか。
 その増十郎の妻女が姫路の人で、後に大阪方面では身延側からはいった僧もあったようで、大勢になった処で同勢が岡山市の北部の不受不施の地に入りこんでかきまぜたようで、危険になったので防府の方面に逃げた。そしてそのあと岡山では空前の大法難となった。これを不受不施派では寛政の大法難と称している。そして手漕ぎの船で対岸の別府(大分)に渡りそこでの教化第一号が後の霑妙寺の妙寿尼であった。そして長崎に至ったが落ちつく処もなく福岡に帰ってそこに一宇建立したのが霑妙寺であった。そして霑師がその弟子となり堀上人は霑師の弟子となり、福岡開創前にその近くから入信した人の中に後に東京に出て蓮門教を開いた人があった。これが天下の邪教として名を売ったものである。その霑妙寺を中心として明治の再建は行われたようで、その後霑師は富士にうつられたようである。そこに富士の再建が始まったのである。その妙寿尼の消息類も大量に集められているが、これも写真にとるなり、コピーしたりして原本は霑妙寺に返却すべきではなかろうか。
 雪山文庫にはその他、保田要師のもの、日向の朝師のもの等々古いものが大量に残されている、これは恐らくは保田から解読の約束のもとにとり出されて、そのままになっているものではなかろうか。始め七巻の巻物は稲田先生に読んでもらい、ついでに我師のものも読んでもらって清書して渡したのではなかろうか。しかし要師等のものは清書も数部用意されているので、一部を付けて原本を返却すべきではないかと思う。六七部清書されたものもあったように思う。あまり長居は無用なのではなかろうか。
 その後明治の後半以後に国柱会教学も入ってきたようで、更らに要法寺教学も改めて入って純粋な宗学が捕えにくくなっているのである。今その極限の処に腰を居えようとしているのである。そのとき出たのが平成元年のお虫佛い説法である。そして遂に法花の広布をすててウラボン経の広布に取り極めたようで、法花をすてた処で今、平成の世を迎えたのである。このまま太平の世を迎えることが出来るつもりであろうか。異流義は不受不施派のように諌暁して流罪に処せられることに異様な興味をもっていたようで、そこに出発点を定めていたようで、そして自ら望んで幕府に諌暁をして流罪になり、そして島から指令を発していたようである。大石寺とは相容れないものをもっていたようである。
 霑妙寺・保田等の雪山文庫の資料は殆んど本山御宝蔵以外のものは他山のものである。久遠院さんのもの以外はすべて他山のものであるから返すべきものではなかろうか。金沢が北在の傘下にはいっていたのであろうかどうかそれは分らない。金沢の資料もあったように思う。その異流義が或は精師の流れを汲んでいるのかどうか吾々には分らない。それは小川只道師、優秀な非教師諸師の判定に待ちたいと思う。雪山文庫の資料は早々に原所有者に返却すべきではなかろうか。
 異流義の国家諌暁は不受不施とは大分変っているようである。非教師の面々は折角ある生資料であるから大いに研究に利用して役にたたせてもらいたいものである。非教師の面々の望んでいるのは異流義の如き国家諌暁流な不受不施方式の国家諌暁を目指しているのであろうか。国家諌暁の処にも或る種の威勢のよさを備えているようである。あまり威勢のよさのみを追うことは反って逆目に出るのではなかろうか。
 やりかけた歴代上人全集も第一回は終っているものである。紙の裏にかゝれたものはそれに裏打ちされているものもある。それを読みとるのが古文書読みの仕事である。保田文書も保田に成り変って出版して、出来たものを全部先方へ渡してはどうであろう。そうすれば亦再び資料を見せてもらえる日があるかもしれない。古文書読みを職人芸などと威張るのも覇権主義の悪い一面の表示であって、再びそのようなことのないようにしてもらいたい。解らなければ身を底下におとすことである。大橋さんが先頭に立って古文書をやる日があれば、歴代全集も速刻成功するのではないかと思う。一人臍を上に向けておいても完了する日は来ないであろう。大いに励んでもらいたい。
 自宗のものは自力をもって解決することである。六巻抄も自力をもって探りを入れるなら、必らず甚深の処は手中にすることは出来るであろう。肝心な処を避けて通っては必要な処をのみ避けて通るようになるであろう。その部分を埋めるために「京なめり」教学をもってしては自ら首をしめるようなことに成るかもしれない。開拓は自力による事を心掛けてもらいたい。六巻抄によって開目抄や本尊抄から取り出したものについては宗門のお歴々が力を尽くしても消去することは出来ないようである。
 開目抄や本尊抄に秘められている甚深の慈悲は吾々のような愚人の引き出したものでもアメリカさんの眼にふれるものである。そのようなものが山積しているのである。誰れに遠慮することはいらない、大いに取り出して活用すべきではなかろうか。ウラボン経などはそこには秘められていないのではなかろうか。今はそれを取り出したために種々予想も付かない混乱が続いているのである。
 今度文部省が真蹟と取り極めた三秘抄の広布を取れば、どのような混乱を招くようなことに相成るようなことになるかもしれない。随分気を付けてもらいたい。三秘抄によったために宗祖の取り極められた三秘が一向に出現しないのである。若しそれによって本尊を取り極めるなら、ますます混乱を招くであろう。そこに出現するものは台密の密教本尊と出るかもしれない。そのようなものを内在しているので現在も三秘の極め手が出ないのである。
 寛師の場合は都合のよい部分は利用されるかもしれない。それは力のある人にのみ許されることである。自らの力をよく知ることが肝要である。自らの力相応に努力をして開目抄、本尊抄から肝要なものを取り出す努力が必要である。粛道先生のように寛師引用のものを種々引き出して僧侶に供養を強引に要求しても、それは衆生を苦しめるのみである。只二十億の豪邸の後押しをしているのみで、まづ衆生への慈悲を先立てることを忘れているようである。寛師引用の御深意を「金・金・金」のために利用しているに過ぎないように思われる。出家とは家を捨てて衆生救済のために修業を目指しているものである。只自らの安楽のために利用することは無駄である。
 博多の浜の日蓮像は弟子の定めた現在の日蓮像を世に示したものである。つまり弟子の解した覇権主義者日蓮の代表的な像である。師弟子の法門から取り出した日蓮の慈悲像を建立する努力が必要なのではなかろうか。そこに日蓮の真面目があるのではないかということを六巻抄は教えていられるのではないかと思う。その慈悲を事行に表したのが師弟子の法門である。どうも今はその何れも底を突いてきたようにも思われるが如何なものであろう。それはあくまで汲む努力が必要である。供養のみをあふり立てても一向に慈悲の風は生じないものである。六巻抄は僧侶に慈悲の施し方を教示されているのではなかろうか。寛師には二十億の豪邸の計画はなかったようである。この計画をもったのはアベさんが嚆矢ではなかろうか。宗祖は身延山中のお住まいであったのである。
 大日蓮の平成三年七月号には外護について色々と都合のよいことを論じ立てられている。色々と御書も引用されているが平成元年春からウラボン経の広布に切り替えられたのであろうか、その理由については一向に明らかにされていないようである。黙ってついて来いとは覇権主義の最極の処ということになる。それでも大衆や衆生はゾロゾロとついていくであろうか、それでは蟻の行列と同じではなかろうか。
 大石寺には以前から大所高所に立って、他人に対して妄見を破すという語が使われている、そこに覇権主義な発想をもっているようである。自分は自分、人は人、人を不信のやからと下して御満悦のようであるが、それ程おえらいと思える処は一向に現われていない。それはすべて他門からの移入のようである。もっと人をして心服させる用意が欲しいものである。それがなければ只の空威張りである。寛師引用の諸文を引いて僧侶に供養するようにとの宣伝であるが、寛師には僧侶がゼイタクをするために供養をせよとはカケラも出されていないようで、引用文はどのようにでも解尺出来るものである。
   平成四年二月十六日発行  川 澄  勲

 

   

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