順縁広布と本化四菩薩再誕賢王の位置付け
―鷹尾氏の質問に対する返答―
山 上 弘 道
平成21年2月1日発行の『芝川』22号に、 鷹尾貞彦氏の「『不軽菩薩の利益を今に』を読んで――山上氏への質問」と題する論文が掲載されました。また同誌には、それに関連する「『立正安国論』から浮かぶ大聖人像」と題する一文も掲載され、私が記した継命紙コラム「法華ごころ」の「立正安国論の精神」についても批判されています。そのご質問・ご批判に対し、是非とも『芝川』誌上において、私の見解を示して欲しいとのことでありましたので ここに「順縁広布と本化四菩薩再誕賢王の位置付け」と題しで少々私見を述べたいと思います。
その前に、まず私が書いた『不軽菩薩の利益を今に』や『興風』に掲載した「日蓮大聖人の思想」等々を読んで下さいましたこと、そしてこのように率直な感想やご指摘を頂戴したことに対し、自身の法義研鑽向上のためにも、またひいては富士の立義復興のためにも有り難いことと、御礼を申しあげます。鷹尾氏は「一信者の分際で、誠に失礼な事を書き並べ」たと申されますが、そのようなことはけっしてありません。遠く日蓮大聖人の時代には、富木常忍・大田乗明・曽谷入道など、僧侶とともに法義研鎖に励んでおられましたし、近く江戸時代には永瀬清十郎という全国に名をはせる論客がおりました。私は法義研鑽に僧俗の垣根などないと確信しています。まさに鷹尾氏がいわれるように「これからは僧侶であれ信徒であれ、御書をよく拝し、よく考えて」ともに切磋琢磨してまいりましょう。
では以下に、私の率直な意見を述べることに致します。
なお ここで使用する御書は、基本的に真撰御書(真蹟存・古写本存・それらと密接に関連づけられるもの等)に限っていることをあらかじめお断りしておきます。それはこれまでの私の主張がそのような学的態度において立論されている故です。
1 これまての私の主張
まずはじめに 日蓮大聖人の折伏観・広宣流布観についての私の主張を、簡略におさらいしておきます。
日蓮大聖人が末法の弘教の方軌を、摂受てはなく折伏と規定されたことは異論のないところだと思います。そしてその折伏には 国主が勢力をもって行なう折伏と、不軽菩薩の逆縁毒鼓の折伏があり、前者は『守護国家論』等に、後者は『唱法華題目抄』『開目抄』等に示されていることも、認められることだと思います。
そうした基本的な大聖人の折伏認識を踏まえ、私はまず、大聖人の初期段階として、『守護国家論』から佐渡ご流罪直前頃まての折伏観は、日本国主の勢力的折伏による一国順縁広布を期待しつつ具体的に国諌を行われ、その一方で、大聖人及び弟子檀越は、未だ国主が法を持たぬ現実逆縁世界において、国主に対しても、諸宗の僧達に対しても、また一般大衆に対しても、不軽菩薩の逆縁毒鼓の折伏行を実践された、との見解を示しました。
次に佐渡期、日本国主の決定的拒否という現実を踏まえ、また『観心本尊抄』において示された末法本化四菩薩出現説を踏まえ、一国順縁広布への期待については、それまでの日本国主に限定されず、むしろ法華信仰を拒否する愚王たる日本国主を責めんとする、蒙古国主等を視野に入れて、その担い手として「本化四菩薩の再誕たる賢王」が提示されることとなり、その一方で、現実逆縁世界においては、上行自覚に立たれた大聖人が、本門観心本尊を建立され、不軽菩薩の跡を紹継されて逆縁毒鼓の折伏をされる、という構図になったと論じました。
そしてこの構図は、一国順縁広布への期待度の強弱によって、そのどちらが主体的に論じられるかの変化は見られるものの、基本的には生涯変わることがなかったと論じ、結論としては、こうした構図の中で大聖人は一貫して不軽菩薩の利益を実践され、 また『諌暁八幡抄』の末文に見られるように、我々弟子檀越にもそれを奨励されている、と結論しました。
2 鷹尾氏の私の主張に対する疑義こうした私の見解に対し鷹尾氏は、大聖人が不軽菩薩の利益を実践され、弟子檀越に奨励されたことは当然のこととして、その一方で大聖人が国主の勢力による一国順縁広布を期待したというのは間違いてあると指摘されたのでした。
その主張の要点を私なりに整理すると
@『立正安国論』において大聖人は、勢力による実力行使てはなく、布施を止めるという極めて非暴力的措置を進言しており、その点『涅槃経』や『止観』に示されている勢力的折伏とは大いに異なっている。
A『観心本尊抄』の「当に知るべし、此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成りて愚王を誠責し、摂受を行ずる時は僧と成りて正法を弘持す。」(原漢文)の御文について。この文についての鷹尾氏の主張は私にとっては少々解りづらいところがあるのですが、およそ次のごとくなりましょうか。
大聖人は初期段階においては、末法の始めの五百年は、四菩薩再誕の賢王が出現して化儀の折伏をする時なのか、はたまた四菩薩再誕の憎が出現して破権門理の折伏をする時なのか、「揺れ動くお気持ちで」おられたが、国主の拒絶と数々の法難を体験される中で、ご自身上行自覚に立たれた上て後者を選択されている。
しかるにこの『観心本尊抄』のご文は、末法の始めの五百年には、四菩薩が賢王として出現する場合と、僧として出現する場合との、二つのパターンがあることを提示されたに過ぎず、すでにご自身が上行自覚にたたれ後者を選択された以上、賢王としての再誕を期待してのご文として拝すべきてはない。
B大聖人は徹頭徹尾、国主の勢力的折伏や順縁広布を目指してはおらず、山上がその根拠として示す『撰時抄』の「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひてんぬ。」とのご文は、 第二の国諌の際に平左衛門に対し、罪無き法華経の行者を処刑するのであれば、むしろ謹言した者達を斬首すべきと主張されたまでのことてあり、また『上野殿御返事』の「梵天・帝釈等の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし。」とのご文も 必ずしも順縁広布のことをいわれているのてはなく、 「ご自身が逆縁の広宣流布を成就されていたからこそ、のお言葉」と拝すべきてある。
C観念文の「本因妙広宣流布」との御祈念は、順縁の広宣流布を祈念しているのではなく、あくまで本因妙=逆縁の広宣流布をご祈念しているのである。
D山上は、いつの日か賢王が出現するとしているが、大聖人は本化四菩薩は「五五百歳中」に出現すると明言されており、それに相違している。またそのような考えは、池田大作氏のような、大聖人に比肩しさらにそれを超えるような言動をなす者が出現する温床となり、大変危険である。
以上五点に絞られるものと思います。そこで以下に、その疑義について考察することに致します。
3 鷹尾氏への返答――大聖大は順縁広布を目指していないか
@の疑義について鷹尾氏が指摘されるように、確かに『立正安国論』『災難対治抄』において大聖人は、謗法者(具体的には法然浄土教者)を対治する方法として、断罪するのではなく、国主の権限によって、上一人から下万民に至るまで、浄土教者への施を止めることを進言しています。しかしそれは国主の勢力的折伏の範疇外というべきでしようか。国主の勢力による折伏とは、武力行使からこのような兵糧攻めも含め、一定の範囲は考慮されてしかるべきでしょう。 謗法者が素直に正法を受け入れるならば、ことは平和裏に済むのであり、強権の発動は必要がありません。
『涅槃経』や『止観』の暴力的表現は、当然謗法者の反撃による武力闘争を想定した、いわば究極的な場合のことというべきでしょう。
私は理論書としての『守護国家論』に対し、実際国主に上申することを目的とした『立正安国論』や『災難対治抄』は、同じ勢力的折伏でも、国主が受け入れやすい穏便な「施を止める」という手法を示されたと理解しています。そしてもし、 謗法者が武力をもって抗した場合は、武力の行使も念頭にあったことは、後年『立正安国論』上申を振り返って『法蓮抄』に「当に知るべし、是れよりも大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなりと勘へて、立正安国論を造りて最明寺人道殿に奉る。彼の状に云く(取詮)此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり。 禅宗・念仏宗等が法華経を失ふ故なり。 彼の法師原が頸をきりて鎌倉ゆゐの浜にすてずば国当に亡ぶべし。」(御書全集1053頁)と述べられていることからも知ることができます。
次に鷹尾氏は 国主たる最明寺入道に進言したのは、国主へ正法受持を促したのであって、国主の勢力による謗法対治、一国順縁広布を期待してのことではない、といわれますが、はたしてそうでしょうか。
大聖人は『立正安国論』を完成させる同じ年の2月頃、同じ目的をもって『念仏者追放宣状事』『災難対治抄』を作成されていますが、『念仏者追放宣状事』には、専修念仏が国権によって禁じられた先例を示し、その先例に任せて専修念仏を禁ずべきことを進言しており、そのような意志があったことは明白です。また『災難対治抄』には冒頭「国土に起こる大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病・大兵乱等の種々の災難の根源を知りて対治を加ふべき勘文」(原漢文・御書全集78頁)とあって、本書が種々の災難の根源たる法然浄土教を「対治」することを進言する「勘文」であるとしていることによっても知ることができます。
確かに鷹尾氏がいわれるように、国主の正法受持・即身成仏を願って進言されたという側面もあることは間違いありませんが、その一方で国主がこの法を持ち、その勢力によって国土の災難の根源たる謗法を対治し、正法を一国に流布させ、一切衆生を成仏させたいと願い期待されたことも、紛れもない事実であって、それを否定することはできません。
また何故国主に進言したか、ということですが それは国主には「亦人身を受けて国主と成るは必ず五戒十善に依る。外典は浅近の故に過去の修因・未来の得果を論ぜずと雖も五戒十善を持ちて国主と成る」(『災難興起由来』御書全集不掲載 『新定』316頁 真蹟存)と仰せられるように、国主となる必然性があり、それ故にこの法を自身が持つことのみならず、一国にもたらす責任があると、大聖人は認識されていたからであると思われます。また『守護国家論』の大文第四の「一には仏法を以て国王大臣並びに四衆に付属することを明かす」段(御書全集58頁)を読んでいただければ、国主に仏法が付嘱されるのは、国主には謗法を対治する勢力がある故とされていることが了解されると思います。
だからといって成仏不成仏という点においては 国主も一般民衆も貴賎道俗老若男女全く平等であり、 国主が特別成仏しやすいということはありません。大聖人の仏法においては鷹尾氏がいわれるように上一人より下万民に至るまで未断惑・愚悪の凡夫であり、それ故にこそ等しく妙法の直機であることは論を侯ちません。
Aの疑義について鷹尾氏は『立正安国論』の上申時に、大聖人は五五百歳に本化四菩薩が再誕するのは、賢王としてであろうか僧としてであろうか、「揺れるお気持ちで」おられたとしますが、大聖人が末法に本化四菩薩が再誕すると明示されたのは、佐渡期『観心本尊抄』が初見で(文永8年11月23日状『富木入道殿御返事』(御書全集655頁)に「経に云く「四導師有り一を上行と名づく」云云。」とありますが、本状は真蹟・古写本が無く今は参考に止めておきます)、それ以前にそうしたお考えを示されてはおらず、まして『立正安国論』上申時に、そのようなお考えを示された形跡はありません。
次に鷹尾氏の『観心本尊抄』のご文の解釈についてですが、私はどうしてもそのようには解釈できません。
まず後段の「摂受を行ずる時は僧と成りて正法を弘持す。」にについては、このご文の直後に地涌千界が出現して本門の本尊を建立すると宣言され、実際その二ヶ月後には佐渡始顕本尊が図頭建立されているのですから、この時大聖人が上行自覚に立たれていたことは疑いなく、ご自身を指していることは異論のないところだと思います。
そうであるならば、鷹尾氏の見解によれば、すでに自身が上行自覚をされた以上、もう一つのパターンとしての賢王の出現はない訳で、ここにそのことを記す必要はないのではないでしようか。
もし書く必然性があるとすれば、それはそのことを否定するためであるはずで、二つのパターンが示されたことを受けて、この二つのパターンの内賢王の再誕する時ではないとの結論に達した旨が、明示されなければ文章としてなり立たないと思いますし混乱を招くことは必定です。
私は「当に知るべし、此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成りて愚王を誠責し、」というご文は 素直に、賢王の出現を期待するご文と解するのが妥当だと思います。すなわちご自身上行自覚から上行所伝の本門の本尊と題目を弘持され、そしてまた、本化四菩薩再誕の賢王出現によって愚王が誠責され、一国順縁広布となって、その象徴として、叡山に迹門の戒壇が建立されたように、本門の戒壇が建立されることを期待されているのだと思います。
それはその後の本門の三大秘法(本尊・題目・戒壇)の成就を熱望し、一国順縁広布への熱き期待が示された『法華取要抄』『曽谷入道殿許御書』『撰時抄』『報恩抄』を拝せば容易に了解されるものと思います。全文を拝するにしくはありませんが、今はいくつかのご文を引用しておきたいと思います。
まず広宣流布(順縁)と戒壇の関係については
『撰時抄』に「(天台大師の場合は)法華経の広宣流布にはにたれども、いまだ円頓の戒壇を立てられず。」 (御書全集270頁)
と述べられ、真の広宣流布は戒壇が建立されてこそであるとし、それ故に
「其の上天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒をせめをとし、六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給ふのみならず、法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば、延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず、仏の滅後一千八百余年が間身毒・戸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒 日本国に始まる。されば伝教大師は、其の功を論ずれば竜樹・天親にもこえ、天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり。」(『撰時抄』御書全集264頁)とて、迹門の円頓戒壇を建立した伝教大師は、龍樹・天親・天台・妙楽より勝れるのだと仰せられています。
しかしそれは所詮迹門の戒壇であり、今末法においては法華本門の戒壇が建立されなければならない。 大聖人は再三日本国主にこの法の受持を進言しましたが、国主はそれを拒絶。そこで大聖人はかつて『立正安国論』にて預言した他国侵逼難が、蒙古襲来という形で現実化しつつあることに鑑み、
「此等の経文のごときんば、 正法を行ずるものを国主あだみ、邪法を行ずる者のかたうどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ。」(『報恩抄』御書全集313頁)と仰せられ、その戦闘こそ『大集経』に示された「闘謬言訟」であり、それによって愚王は賢王によつて滅ぼされ、日本国乃至一閻浮提は広宣流布することになるであろうとして、次のように仰せられています。
「今末法に入りて二百余歳、大集経の「於我法中闘評言訟 自法隠没」の時にあたれり。仏語まことならば定めて一閻浮提に闘際起こるべき時節なり。 伝へ聞く、漢土は三百六十箇国二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ。花洛すでにやぶられて 徽宗・欽宗の両帝北蕃にいけどりにせられて、韃靼にして終にかくれさせ給ひぬ。徽宗の孫高宗皇帝は長安をせめをとされて、田舎の臨安行在府に落ちさせ給ひて、今に数年が間京を見ず。高麗六百余国も新羅・百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし。 闘諍堅固の仏語地に堕ちず。あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし。是れをもつて案ずるに、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大自法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか。」(『撰時抄』御書全集264頁)
ここでは漢土等の国々が蒙古国によつて滅ぼされたとのみ記されておりますが、滅んだ理由が邪法の跋扈によることは、『法門可被申様之事』に「例せば震日・高麗等は天竺についでは仏国なるべし。彼の国々禅宗・念仏宗になりて蒙古にぼろぼされぬ。」(御書全集1272頁)と仰せられていることによつて知ることができます。
ともあれこれらのご文を拝せば大聖人が、賢王出現によって愚王および邪法が滅ぼされ、一国が順縁広布することを期待されていたことは、もはや疑う余地はありません。
Bの疑義について次に『撰時抄』の「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば 日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。」のご文の解釈ですが、確かにこのご文は鷹尾氏が指摘されるように第二の国諌である、文永八年九月十二日の平左衛門との会見においての言葉です。
しかし第一の国諌たる『立正安国論』上申の際にも、同じことを指摘されたことは、先に示した『法蓮抄』のご文のとおりです。
勿論これらの厳しい文言が 大聖人に対する国主の絶対的拒絶と弾圧、諸宗の激しい攻撃という現実が突きつけられた以降に、当時を回顧して述べられていることは考慮しなければならないでしよう。しかしこのような斬首という究極的な措置はともあれ 当時大聖人が国主の勢力に期待して国諌を行われたことは、認めざるを得ないのではないでしょうか。
また『上野殿御返事』の「梵天・帝釈等の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし」の鷹尾氏の解釈も 私は無理があるように思います。 この文に続けて「爾の時、我も本より信じたり我も本より信じたりと申す人こそ、ををくをはせずらんめとおぼえ候。」(御書全集1539頁)とて、一国がこぞって信ずる世が来た時に、「私は元々信じていたんだ」というようなこそくな者が多く出ることだろう、と仰せられていることからも、これは順縁広布を前提としてのご文と拝するのが妥当ではないでしようか。
Cの疑義について勤行要典に見られる御観念文は、近代において作成されたものであつて、今の「祈念し奉る一天四海本因妙、広宣流布、大願成就御祈祷の御為に」となる以前の戦前のお経本には 「祈念し奉る天皇陛下護持妙法、爾前迹門の謗法退治、一天四海本因妙 広宣流布、大願成就御祈祷の御為に」となっておりまして、これはやはり順縁の広宣流布を指向したものであることは疑いありません。ここで「本因妙」といっているのは、釈尊の本果の仏教に対する大聖入の本因妙の仏法という意で、「逆縁」という意昧で使われてはいません。
ちなみに私はこの近代作成された御観念文を、全面的に肯定はいたしません。将来大方のコンセンサスを得ながら、不軽菩薩の利益をも盛り込んだ御観念文にする必要があると思つています。
Dの疑義については 次項にて少々詳しく述べたいと思います。以上真撰御書により大聖人のお言葉を拝せば 大聖人は現実の逆縁世界において、ご自身生涯不軽菩薩の利益を実践されると共に、弟子檀越に対してもそれを奨励される一方で、国主(その内実には変化がありますが)が正法に帰依し、その勢力的折伏により順縁広布が達成されることを期待されていたと結論せざるを得ません。そしてその構図は生涯変わらなかったことは、弘安三年十二月の『諌暁八幡抄』に「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり、各々我が弟子等はげませ給へ。」(御書全集589頁)と不軽菩薩の利益を弟子檀越に奨励される一方で、弘安四年十月二十二日状『富城人道殿御返事』に 富本殿が弘安の役が蒙古軍の敗退に終つたことの意味を問うたのに対し、「又蒙古の大王の頸の参りて候かと問ひ給ふべし、其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。」(御書全集994頁)と仰せられ、未だ蒙古国主は健在なのであり、蒙古襲来の可能性が消えたわけではないとし、賢王出現の期待を堅持されていることからもうかがい知ることがてきましよう(ただし文永十年頃から弘安元年頃までは 順縁広布の期待が前面に溢れ、弘安元年以降の身延後期においては、現実的な厳しい状況からその期待がやや薄れ、逆縁世界による法義が力強く展開されていることは、拙稿「日蓮大聖人の思想(六)身延後期の思想」(『興風』16号)に記した通りてす。)
4 今後の課題――五々百歳の年限について
最後に鷹尾氏が、大聖人は諸経典の説示により 五五百歳中(末法の始めの五百年)に広宣流布するとしている、と指摘されていることについて触れておきたいと思います。これは大変重要な指摘でありまして、確かに大聖人は『撰時抄』等において、この法が建立され流布するのは「末法の始めの五百年」であるとされています。 つまり本門の本尊・題目は大聖人によって建立されましたのて、それは現実となりましたが、大聖人が四菩薩再誕の賢王に期待した順縁広布も、無期限ではなく五五百歳の内に実現すると確信されていたのです。
『撰時抄』に「彼の大集経の自法隠没の時は、第五の五百歳、当世なる事は疑ひなし。 但し彼の自法隠没の次には、 法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内に八万の国あり、其の国々に八万の王あり、 王々ごとに臣下並びに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり。」 (御書全集258頁)
と仰せられるごとくです。
さてここで問題なのは、大聖人が『薬王品』『大集経』から導き出された、五五百歳=末法の始めの五百年の内に順縁の広言流布は達成されるとの予見は、結局現実のものとはならなかったという点です。末法元年の設定には諸説がありますが、大聖人は周の穆王五十三年を仏滅年とし、故に後冷泉天皇の永承七年(1052)を末法元年とする説を採用されているようです。それに従えば五五百歳は天文二十年八(1551)で終わり、 翌年からは六五百歳となります。この「五五百歳中に順縁の広宣流布は実現しなかった」という現実を私たちはどう捉えるべきなのでしようか。それは大聖人が口をきいて下さらぬ以上、私たちが英智を巡らせて、もし大聖人がその現実を目の当たりにされた場合、私たちにどう御教示されるかを考えていく以外にありません。
その答えは、次の二つに限定してよいと思います。まず第一には、五五百歳の年限を反故にして、六五百歳以降も五五百歳中と同じように、現実逆縁世界において不軽菩薩の利益とそれによる逆縁の広宣流布を目指しつつ、四菩薩再誕の賢玉の出現と順縁の広宣流布を期待して行くという想定。 そして第二には 五五百歳中という期限を重く見て、それが達成されなかった以上、順縁の広宣流布という考えや期待はきっぱり捨てて、不軽菩薩の利益一本で行くという想定です。
前者は大聖人以来五五百歳中のやり方をそのまま踏襲するのてすから、一番解りやすく間題が少ないように思えますが、末法濁悪の時代が進み、人心が一層荒廃していく現実を考慮し、また実際近年の順縁広布の担い手と自負しつつ、我欲にまかせて覇権主義を展開する創価学会や顕正会を産んでいる現実を考えますと、鷹尾氏が心配されるように 四菩薩再誕の賢王と称して暴力や覇権主義をいたずらに肯定する者を輩出する、温床となる可能性を孕んでいるという重大な問題が内在しています。 一方後者の場合は、私などはその方がすっきりすると思うのですが、その一方で、大聖人や上代先師方の歴史をご破算にして、将来の順縁広宣流布を捨てるという新たな一歩を示すわけですから、当然そうしてなお 大聖人の仏法として法義的整合性を有し得るかどうか、きちっとした理論構築が必要となるでしよう。
このいずれを選択するかは、大いなる論義を経て大方のコンセンサスを得ながら決定していくべきだろうと思います。
私は『興風』14号に記した「日蓮大聖人の折伏観」の「おわりに」において、「では四菩薩再誕の賢王の出現は将来あるのだろうか。これは本文で述べたように、仏意に任すしかあるまい。また、広宣流布が「末法の始めの五百年」という期限の中で考えられていたことも、今後考慮検討されるべきであろう。」と述べ、そのことへの議論の必要性を示しました。しかしこの時点ても、またその後の講演や『不軽菩薩の利益を今に』においても、一応賢王再誕の出現を否定せず、いわば五五百歳の期限を反故にした形で論じたのは、未だコンセンサスの得られない状態においては、その構図の中で 我われ大聖人の弟子檀越は、 逆縁毒鼓の不軽菩薩の利益を実践すべきであると主張することの方が、より宗祖の示されたことと近いという意味で、理解を得られるであろうと考えてのことでした。しかしこれが五五百歳の期限を越えた時代に生きる私たちにとつて、確乎不動の論理ではなく、もう一つの道、賢王出現による順縁広布をきっぱりと切り捨て、不軽菩薩の利益とそれによる逆縁広布のみを選択する道も、立派に存在することは先に指摘したとおりであり、今後大いに議論していくべきと思います。
おわりに
以上鷹尾氏の質問に対し 私なりのお答えを申し述べました。質問に対する返答故に、結果として鷹尾氏との意見の違いのみが羅列されることとなりましたが、忘れてならないのは、鷹尾氏と私は、主張の最も重要な結論において「私たちは覇権主義的折伏観・広宣流布親を放棄し、不軽菩薩の利益を実践し、逆縁の広宣流布を目指して精進するべき」という点で全く共通しているということです。これはお互いしつかりと押さえておきたいし、改めて強調しておきたいと思います。ただしその結論に至る過程の部分において、私は大聖人には国主の勢力的折伏による順縁広布への期待があつたという前提に立ち、鷹尾氏は大聖人にはそのようなお考えは微塵もなかったという前提に立つという相違があり、今回のご質間はその如何を間うものでありました。
私は大学生の時に、創価学会の折伏大行進と覇権主義的な広宣流布観に疑問を抱くようになり、とりわけ正信覚醒運動に参画して以降は、その非なることを立証することが、法義研鑽の主要な目的の一つであり続けてきました。そのためにはまず大聖人が御書の中で、折伏および広宣流布についてどのように語つておられるかを、できるだけ客観的な公平な目で、御書の真偽の問題や系年の特定を念頭に置きながら、しつかりと拝していくことがすべての基本となると考え、自分なりに努力をしてきたつもりです。
そしてその答えのカギが不軽菩薩の利益にあることを確信するに至りましたが、しかしその一方で虚心に御書を拝す時、大聖人が一国の順縁広布を願つて、 国主を諌暁しているという事実を否定することはてきませんでした。もしそれを無視して不軽菩薩の利益のみを主張するならば、それは論理的には不軽菩薩の利益を無視して覇権主義的折伏および広宣流布を主張する人たちと、片手落ちという点においては何等変わらず、そうした手前勝手の論理は 所詮間違いを是正する力を持たないし、時代を超えることもてきない。大切なことは事実をしつかり見つめた上で、順縁広布への期待はどのように位置づけられるべきか、そして大聖人にとつて、またその弟子檀越である私たちにとつて、不軽菩薩の利益はどのように位置づけられるかをしつかりと見据えていくことだと、自分に言い聞かせながらこの問題に取り組んできました。
そうした観点から得た私の一応の結論らしき主張が、まだまだ未成熟なものであることは自分なりに理解しているつもりです。しかし鷹尾氏の主張される 「宗祖には国主の勢力による順縁広布を期待するお考えはなかった」ということについては 到底首肯できぬことですので 率直に反論させていただきました。
その一方で 「五五百歳中広宣流布」という広宣流布の期限についてのご指摘は大変重要なことで、私はそこに注目しながらもあえて大きく踏み込まず 議論を先送りする形でこれまで論じてきました。 今回そのことについて、暫定的ではあれ、そして誠に疎略ながら自分の考えを述べることができましたのは、鷹尾氏との議論のお陰と改めて感謝の意を表したいと思います。
今後ともお互い、大聖人の仏法・富士の立義の再興のため精進して参りましよう。