日蓮大聖人の思想

 

山上 弘道

 

目次

 

第1章 修学期から清澄寺退出まで

 

第2章 清澄寺退出から佐渡流罪までの思想

 

第3章 佐渡期の思想

 

第4章 身延前期の思想  

 

第5章 身延後期の思想

 

 

 

 

 


 

 

 

私は日蓮大聖人の仏法を信仰する者である。同時にその思想を研究しようとする者でもある。前者の立場に立つ時、両者の立て分けはそう重要ではない。研究の成果が信仰的確信や感激を深めることは、ままあることである。だが、後者の場合、この二つの立場の相違は明確に認識される必要があろう。

例えば、大聖人のお言葉に対する時、救いを求める信仰者の私にとって、それがいつの御書か、誰に語られたものかなどはさして重要でない。今の自分に何を語ってくれるか、問題にどのような解答を与えてくれるか、わが心に響くことが重要なのである。また真偽などにもそうこだわらない。それがたとえ大聖人に仮託して作られたものであったとしても、真実を伝え、わが心のささえとなるならば、なんの躊躇もなく受け入れるだろう。大聖人は時空を越え、理屈を越えて私の信の中にある。

だが、後者の立場に立てばそういう訳にはいかない。大聖人を鎌倉時代に生きた、偉大ではあるが一個の人間としてとらえ、苦難や挫折をくり返しながら成長していかれる姿をできるだけまっすぐに見なければならない。いつどのようなことが起き、どのような思想的変化があったか。できるだけ客観的に、そして冷静に見つめていかなければならない。その場合、当然のごとく御書の真偽問題は決定的な意味を持つ。一人の思想家の思想形成を研究しようという時、たとえそれが立派な内容を持つものであれ、当人が書いたものではない物が混入すれば、その作業は無意味なものとなるだろう。

本論は後者の立場において書かれる。

大聖人の思想には、いくつかの大きな転換期があるが、一応

一、修学期から清澄寺退出まで

二、佐渡流罪以前

三、佐渡期

四、身延前期(弘安元年五月まで)

五、身延後期(入滅まで)

の五期に区切って、いかなる変遷をたどり、いかなるものへ成熟していくのか、私なりに探っていきたいと思う。

尚、御書はご真筆のある御書、身延曽存の御書、原則として日蓮宗各派三代目まで(或はそれに相当する年代)の古写本のある御書にしぼって論を進める。ただし真筆として伝わるものでも、あきらかに他筆とわかるものはこれを除く。

こうした態度によって、実作でありながら振り落とされる御書も当然あるだろう。しかし内容によっての判定は、どうしても問題を残す。これだけ多くの確実な御書があれば、思想研究には充分であるし、あえて危険をおかす必要はないと考える。

また系年に関しては、必ずしも従来の説にこだわらず、疑問のあるものはそれを明らかにして、相当な位置において論じようと思う。

引文中、漢文体のものは、本作成の都合上読み下し文にした。

 

第1章 修学期から清澄寺退出まで

 

T.出家と当時の清澄寺について

僧侶の修学において、出家した寺院の性格は決定的な意味をもつ。修学が進むにつれて自意識が出、自発的な取捨選択もなされようが、初期においては一方的な受け身である筈だからである。大聖人が出家した清澄寺とは、いかなる寺院であったろうか。以下、大聖人の出家の時期、及び清澄寺の寺格について述べる。  

@ 出家

「然るに日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当る安房の国長狭の郡東条の郷片海の海人が也。生年十二同じき郷の内清澄寺と申す山にまかりのぼりて・・・」(本尊問答抄)

右文によれば大聖人は十二才の時に清澄寺に登られている。しかしこれがただちに出家のためであったかは疑問である。『四条金吾殿御返事』には

「而るに日蓮は法華経の行者にもあらず、僧の数にもいらず、然而世の人に随て阿弥陀仏の名号を持ちしほどに」

と僧侶になる以前に、阿弥陀信仰をしていたことが述べられている。勿論これを清澄寺登山後のことと断定する訳にはいかないけれども、右文に続く浄土教への疑問が、かなり専門的であることからすれば、登山後のことと考えるのが妥当ではないかと思う。

高木豊氏がいわれるように、初等教育を受けるために登山し、何年かの稚児・童部の時代を過ごして、後に出家したと考えるべきであろう。十七才の時に「是聖房」として『円多羅義集唐決』を写しているので、出家はそれ以前ということになろう。

 

A 当時の清澄寺の宗派と学風  

1.清澄寺縁起と宗派

 清澄寺草創を示す確実な史料はない。参考として、『千葉県安房郡誌』(大正十五年発行)の記述をあげる。

「寺伝に曰く、神武天皇の御宇天富命を祀る。光仁天皇の御宇宝亀二年辛亥九月、不思議法師此処を経歴の日、一株の老柏樹を伐りて虚空蔵菩薩の像を手彫し仮に小堂を営みて之を安置す。爾来霊場となれり。承和三年丙辰仁明天皇の御代慈覚大師来って不動明王の像を刻し、二十五の祠殿及び十二の僧房を修し当山を中興す」

次に清澄寺に関する確実な史料を年代順にあげる。

A 阿闍梨寂澄自筆納経札――弘安三年(1280)五月晦日 寂澄

「房州清澄山・・・右当山者、慈覚開山之勝地聞持感応之霊場也・・・」

B 渓嵐拾葉集巻二十二――正和五年(1316)四月二日 光定

「求聞持事 一、先蹤事・・・次ニ覚大師ハ安房国清澄寺ニ於テ悉地ヲ得給ヘリ。彼ノ寺ハ大師ノ御建立也」

C 清澄寺古鐘銘――明徳三年(1392)八月 弘賢

「房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創・・・」

D 慈覚大師建立求聞持七所成就霊地事――文明十五年(1483)四月四日 鏡心書写

「慈覚大師建立求聞持七所成就霊地事 旧記云、我朝求聞持成就霊地建立七所謂、・・・第二安房国清澄寺見明星影得宝池水」

これらはいずれも慈覚大師を「開山」「御建立」「草創」としており、当時清澄寺が慈覚大師の建立の寺院として、広く内外に知られていたことを示している。開山草創時が天台宗であることは疑いなかろう。だがこれらの記述は、必ずしも当時の清澄寺の宗派を決定づけるものではない。例えばCの古鐘銘は、清澄寺が真言宗になってからのものである。

大聖人当時の宗派に関する研究には、清水龍山「清澄寺宗旨考――日蓮聖人出家得度の宗旨」、山川智応「清澄寺宗旨の変遷とその寺格位置を考ふ」、高木豊「安房国清澄寺宗派考」などがあり、いずれも天台宗で一致している。その理由とされるものの内、妥当と思われるものをあげると、

@『清澄寺大衆中』に東寺真言の疏には「真言の疏」としているのに対し、天台の疏にはただ書名のみを記していること。(清水説)

A『種々御振舞御書』に、清澄寺の僧円智房が一字三礼法華経書写、昼夜法華経読誦をしていたことが記されていること。(山川説)

B大聖人が「天台沙門」(伝日興写本『立正安国論』玉沢妙法華寺蔵)、「根本大師門人」(日目写本『法華題目抄』妙教寺蔵)と自ら名乗られていること。(高木説)

などである。

私はこれに次の三項目を加えたい。一に、『色心二法抄』(寛元二年、大聖人二十三歳述作―岡宮日春写)が台密の教義であること。二に、『三部経肝心要文』に自筆としては唯一「天台沙門日蓮」とあること。三には、『祈祷抄』に「御房は山僧の御弟子とうけ給はる。父の罪は子にかかり、師の罪は弟子にかかるとうけ給はる」と述べて、問者に叡山・園城寺が堂塔・仏像・経巻等を多数焼失したことの責任を問わしめていることである。

 

2.清澄寺の学風と信仰

大聖人の出家・修学時の清澄寺が天台宗寺院であることを述べた。しからば具体的にどのような学風を持ち、どのような修法、信仰がなされていたのであろうか。限られた史料の中で充分とは言えないけれども、いささかその辺を探ってみたい。尚、その史料には大聖人関係のしめる割合が当然のことながら多い。それ故次項の「修学」と重複する点もあろうと思うが、できるだけさけるように努めたい。

 

【台密】

清澄寺の台密教学を示す史料は意外に少なく、わずかに大聖人の写本・著述にみられる。また、求聞持法も一応これに属するものであろうが、いづれも修学の項で述べることにする。

 

【東密】

東密関係の史料としては、大聖人写の『五輪九字明秘密釈』の他、肥前公法鑁日吽の写本類がある。

@胎蔵界沙汰(付小野延命院次第)

(識語)「建長五年癸五九月十四日未時書了。於長佐郷打墨口  筆師肥前公法鑁」

本書は未確認であるけれども、興教大師覚鑁の著作のそれであろう。

A金剛界鑁口伝

(識語)「建長五年癸五九月廿日午時書了。於打墨口筆帥肥前公雖無極悪筆為仏法興隆法界衆生也 法鑁廿六才也 今寂澄」

本書は必ずしも東密とはいえない。文中に「両界内証外用――東寺秘胎・天台秘金」とあって双方の立場の相違を述べる。また「安然記」「菩提心義云安然・・・」と安然の『菩提心義抄』を引文しながら、且つ「?抄云」「覚?抄」と覚鑁を引用し、「秘蔵記云」「大師秘蔵記」と空海の著作の引用もみられるのである。

<注記 原本では?は梵語  以下同様>

B五輪九字明秘密釈

(識語)「建長六年甲寅九月三日未時了。清澄山住人肥前公日吽生年廿七才 為仏法興隆法界衆生成仏道也」覚鑁の作である本書は、大聖人の写本もあり、後に両者の比較をする。

已上三点が確認される他、C舎利略行法(付大師十八道次第)、D愛染王が建長四年八月二十五・二十八日に法勝寺西門法雲寺で書写されているが、これが東密・台密いづれに属するかは未確認である。尚、有識語により肥前公法鑁日吽は清澄寺の住侶であり、大聖人より六才年下であることがわかる。

 

付――寂澄写本・手沢本について

金沢文庫には寂澄の書写本・手沢本が数多く所蔵されている。清澄寺での写本が数点あり、清澄寺有縁の僧であることは間違いなかろうが、必ずしもその行状はあきらかでない。わずかにその手沢本『普通念誦次第』の表紙、題名の右下に「天台」とあり、その左側に「寂澄」とあること(但し、「天台」は「寂澄」にでなく題名にかかっているかにみえる)。書写本『求聞持(私)』の識語に「已上表裏所載者、抄集儀軌並大師御説、又衍師・蓮師・予見等明哲所伝、納筈底莫他散而巳。高祖十五代資寂澄」とあることが手がかりとなる。この血脈は、恐らくここに所載の「抄・集・儀軌」や「大師御説」が具体的に誰かがはっきりすることによって明らかになろう。残念ながら『求聞持(私)』は金沢文庫において、未だマイクロ複製されておらず、確認していない。ただし、同本書写の正安三年正月三日から、同年二月にいたるまでに五点の写本があり、二月筆写の「???」には「於清澄寺写了」とあって、同本も清澄寺にての書写であるうことが解る。と同時に高木氏が指摘されるように、この直後の正月九日書写の『両部曼茶羅秘要決』から「金剛資」の名乗りがはじまることから、この時清澄寺で何らかの受法があったことも考えられるのである。今は清澄寺有縁の僧と仮定して参考としてその写本・手沢本を紹介し、確認しうるものについて台密・東密の分類を試みる。

〈写本〉

01.    不動法 (識語) 「文永七年庚午二月廿二日亥時書写了。寂澄 春秋口二十九」

未確認。

02.    不動法 (識語) 文永七年八月十九日 寂澄 春秋口二十九」

未確認。

03.    胎蔵界自受法楽説 (識語) 「文永七年庚午十一月十二日 寂澄」

文中「伝云、自受用身ノ自愛法楽ニ有顕密ノ二意・・・」とあり、台密系のものと判断す。

04.    自性法身能加持説 (識語) 「文永七年庚午十一月十三日寂澄」

内容にての判断はできないが、BCDEは同じ文永七年十一月に写され、しかも内容に関連があるので台密系と判断す。

05.    金剛界自受法楽説 (識語) 「文永七年庚午十一月廿日 寂澄」

右同。

06.    二界他受用法身説法 (識語) 「文永七年庚午十一月廿一日 寂澄」

文中「於此他受用法身有顕密ノ二意・・・」「若約天台宗所立四土者於実報土為地住已上諸菩薩説円融一実相教是也」とあるによって、台密系と判断す。

07.    三部細行口伝並知行次第表白 (識語) 「弘安五・六・九日 寂澄花押」

文中「十八私抄小野付如意輸不動次第依師資相伝口決十八道ト教伝歟」「高祖弘法大師三国伝燈諸大同閣梨・・・」とあるにより、東密系と判断す。

08.    最極秘密羅誡(誐)記 (識語)「弘安五・六・九日 寂澄花押」

判断できないが、右と同一か。

09.    聞持秘事 (識語) 「正安元年巳亥八月十二日 右翰寂澄 春秋口五十八 清澄山」

未確認。

10.    蝕時露地法 (識語) 「正安元年巳亥八月十三日 右翰寂澄 五十八」

未確認。

11.    虚空蔵念誦法 (識語) 「正安巳亥八月十七日 右翰寂澄 五十八清澄山」

未確認。

12.    魔界得脱啓白 (識語) 「正安二年庚子十二月十三日 釈寂澄」

未確認。

13.    神供並破境等 (識語) 「正安二庚子十二・廿一 寂澄」

未確認。

14.    八千枚等文集 (識語) 「正安 年庚子十二月廿六日校点了 寂澄」

未確認。

15.    求聞持(私) (識語) 「已上表裏所載者、抄集儀軌並大師御説、又衍師・蓮師・予見等明哲所伝、納谷底莫他散而巳 高祖十五代資 寂澄 正安三年辛丑正月三日」

未確認。

16.    両部曼茶羅秘要決 (識語) 「正安三年辛丑正月九日 以右本書写了 金剛資寂澄」

未確認。

17.    続曼茶義 (識語) 「正安三年辛丑正月十五日書写了 金剛末資寂澄」

未確認。

18.    法身偈 (識語)「正安三年辛丑正月廿七日 以右本書写了 金剛資寂澄」

未確認。

19.    ??? (識語) 「正安三年辛丑二月於清澄寺書写了 金剛資寂(澄)」

未確認。NOPQRの五点は清澄寺での書写本なるべし。

20.    ???? (識語)「正安三年辛丑五月廿七日 金剛資寂澄 正安三年辛丑六月十六日 於清澄寺書写了金剛資寂澄」

未確認。

21.    ????? (識語) 「(本尾)正安三年辛丑六月廿三日書写畢 金剛資寂澄 (末尾)正安三年辛丑十月書写了 金剛資寂澄」

未確認。Sと共に清澄寺にて書写か。

22.    ??? (識語) 「正安四年壬寅三月廿一日 金剛資寂澄」

未確認。

23.    虚空蔵一印口決 (識語) 「正安四年六・廿日書写了 右翰金剛資寂澄」

文中「一、入唐覚法沙門道慈律師々々々々大安寺大徳義議々々転勤藻(操)々々伝大師」とあるによって東密系と判断す。虚空蔵求聞持法は道慈・善議・勤操・空海と相伝されたとされる。空海を単に「大師」というのは東密系を思わせる。

 

次に〈手沢本〉(但し、これは総てでなく目についたものである)

 @四種曼茶羅義 (識語) 「建長元年乙亥七月十七日 右翰寂澄」

空海作故東密系。なお「右翰寂澄」の記述は寂澄筆写を思わせるが、原本を見るに本文は他筆と判断されるので手沢本に入れる。

 A覚源深理論 (識語) 永仁六年式戎五月十一日 右翰寂澄」

「龍猛菩薩造」とあり、「記云」として多数引文するが「記」とは何か不明。但し末文の「記云三千在理同名無明・・・」は『釈籤』(大正蔵三三・九一九・A)の文である。台密系か。本書を手沢本に入れる理由は右に同じ。

 B金剛界鑁口伝

前掲、台東両密。

 C金剛界口伝 (識語) 「文永九年六月十七日 憲海三十五才 今主寂澄」

 D胎蔵界口伝 (識語) 「文永十一年七月六日 憲海三十七才 今主寂澄」

CDは三宝院流に属す我之房憲海の写本であるから、東密系であろう。

 E聖無動儀軌

不空作、表紙に「円意」「寂澄」と並ぶ。円意は文応二年二月六日清澄寺にて金沢文庫古文書「不完巻子八十二」を写している。

 F咤枳尼法 (識語) 「建保四年二月廿一日 明玄 寂澄伝之」

明玄は建保四年二月十七日伊豆山浄蓮房の安室にて『念誦次第』を写している。

 G普通念誦次第

表紙題名右下に「天台」とあり、左下に「寂澄」とある。台密系か。

 H菩提心論題 (識語) 「康元二年太歳丁巳三月九日酉時計書下了 執筆隆禅花押 寂澄相伝之」

菩提心論題釈――覚鑁作か。

已上、寂澄に関してその関係文書をあげたが、もし寂澄を清澄寺住僧と仮定するならば、清澄寺は台密は勿論、東密についてもかなり盛んに修学されていたことになろう。

 

【浄土教】

清澄寺の浄土教については、大聖人の御書によってうかがうことができる。

前掲『四条金吾殿御返事』によれば、僧侶になる以前から皆にならって信じていた由である。さらに『南条兵衛七郎殿御書』には

「法然善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候き。」

と述べて、出家後かなり早い時期に修学していたことを示している。注目すべきは両方ともに法然浄土教である点である。しかしこれをもって清澄寺は法然浄土教が行なわれていたと即断する訳にはいかない。天台浄土教は源信が大系づけ隆盛を誇って以来、様々な変遷をとげた。大原良忍による融通念仏義、聖・沙彌など民間宗教の影響、中古天台に影響をうけた一念往生、口伝主義的念仏等々。そうした中で法然は選択本願念仏義を立て、いわゆる専修念仏を唱えるのだが、天台僧の中には大原顕真のように法然に帰伏する者も多く出た。そして叡山及び旧仏教の法然浄土教停止運動となるわけである。かくして天台浄土教は、それ自体が大変多様複雑化するに加えて法然浄土教への対応を余儀なくされていたのである。清澄寺においても、基本的には事情は同じであったのではなかろうか。天台浄土教を基盤としながらも、法然浄土教の流行と批判、それらが入り乱れていたのではないかと推測するのである。そう考えれば大聖人の法然浄土教修学も、必ずしも肯定的修学に限定されるべきではない。対応上の修学の可能性も甚だ大きいのである。

次に気をつけておくべき点を一つ。先に示したように、清澄寺関係文書はなかり現存するのだが、浄土教関係文書がないということである。強いていえば『五輪九字明秘密釈』が密教と浄土教の融合を述べたものである。これは清澄寺における浄土教の位置がそう高いものでなかったことを示唆しているように思う。

尚、参考史料として『日進聖人仰之趣』をあげよう。嘉暦三年正月一日、身延山三世日進が物語ったことを弟子が筆録したものであるという。

「(第二)正月六日仰也

一、日本国中ノ諸宗念仏真言禅宗等皆無間亡国元脆ト云々。其ノ時導善ノ御房ヲ初メ奉リ数十人人々赤面シテヲハシマス、良ヤアテ導善御房、聖人ヲツクツクト御覧アテ仰セラレケルハ道義御房ノ念仏シ無間ノ業歟、道義御房ハ清澄寺ノ近所也、清澄寺ハ里ヨリ七里ヘタテヌル処也、寺へ登テ四十年ガ間一日ニ念仏一万辺阿弥陀経百巻ツツ読玉フ也、比ノ人ヲ生身ノ弥陀ノ如クニ貴ミシ也。聖人仰云、道義御房八一百三十六ノ地獄ノ中ニハ一底ナル無間地獄ノ底ニヲチ給フヘキ也、其ノ故ハ一人勝テ無間ノ業タル念仏申サルル故也。其ノ時導善ノ御房ハ戸ヲタテテ内へ入リ玉フ也、数十人ノ人々モハラハラト座ヲ立ツ也・・・」

『善無畏三蔵抄』と似たところがあるが、史料的価値はむしろ同書の方が高いと考える。また、ここに見える道義房の念仏は「阿弥陀経百巻ツツ読」とあって専修ではない。

 

【求聞持法の霊場】

前項、清澄寺の宗派を考えるにあたって、『阿闍梨寂澄自筆納経札』『渓嵐拾葉集』『慈覚大師建立求聞持七所成就霊地事』をあげたが、これらの書は清澄寺を慈覚大師建立とするとともに、当寺が求聞持法の霊場であることも述べている。殊に『慈覚大師建立求聞持七所成就霊地事』には文末に「御本云、文明十一年起七月四日於高野山書写畢 乗蓮」とあって、時代がやや下がり、また清澄寺が真言宗になってからということをさし引いても、広く知られていたことを示していよう。

求聞持法の修法、及び大聖人との関係については、修学の項において述べる。

 

【修験・山岳信仰】

清澄寺の山岳信仰を直接示す資料はない。しかし近在の鋸山、鹿野山に山岳信仰が盛んであった痕跡がみられるので、清澄寺も同じ性格を有していたと推することができるのではないか。

今、岡倉捷郎氏が著された『鹿野山と山岳信仰』を紹介しながら、その辺の様子をうかがってみたい。

古来、清澄山、鋸山、鹿野山は房総の名山と称されていたようである。

鹿野山信仰の中心である神野寺の縁起信仰を述べた『神野寺往事記』には、天安元年二月慈覚大師が鹿野山に来て、鋸山との間を三年修行の末再興し、天台宗の道場としたことを伝えている由であるが、たとえこれが単なる伝説であったにせよ、三山の交流の深かったことを窺うことはできよう。

更に岡倉氏は、中世鹿野山の熊野信仰伝播について、『吾妻鏡』文治二年六月の条の熊野別当が上総畔蒜庄(君津郡)の地頭となったことを示す記述や、『沙石集』巻一ノ九(和光ノ方便ニヨリテ妄念ヲ止事)の上総国の高瀧の地頭親子が熊野に参詣した話、そして今日鹿野山に伝わる烏にまつわる数多くの伝説、信仰行事、民俗などを紹介して次のように結論されている。

「ともあれ、このように鹿野山には熊野信仰伝播の痕跡が数多くみとめられるのであるが、これらを実際当山にもたらしたのは、古代末期から中世にかけて当山に根を下ろした天台宗の熊野修験(本山派)や聖の徒ではなかったかと推察される。こうしてみると、平安中期以降、慈覚大師の来山によって当山神野寺が天台の道場として再興されたという伝承も、おそらく彼ら天台系の熊野修験(本山派)の唱導が大きくあづかっていたとみてさしつかえなかろう。」

園城寺本山派の熊野修験信仰伝播と、慈覚大師再興伝説とには多少の距離を感ずるが、かえって清澄山の慈覚大師と鹿野山の熊野修験が一体化していて面白いように思う。それは三山の緊密さを示すものであり、修験の痕跡を止めない清澄寺にも、往古においては盛んな行き来があったことを推測させるのである。

又、清澄寺が求聞持法の霊場であったことは先に述べたとおりであるが、求聞持法のルーツといわれる吉野比蘇寺の自然智宗も、その後の空海・道昌などの真言密教の求聞持法も、きわめて山岳信仰と密接な関係にあったという。このことは清澄寺の山岳信仰を語る上で注意されるべきであろう。

 

【遊学のいぶき】

前掲のように、現在神奈川県立金沢文庫には数多くの清澄寺関係文書が所蔵されている。これは清澄寺と金沢称名寺とに深い通用のあったことを示す。小笠原長和氏は「武州金沢称名寺と房総の諸寺」において「日ごろ宿願あって房州清澄寺に参籠し、下向したことを報ずる称名寺住侶の消息や、称名寺開山妙性房審海が文永四年安房清澄寺で求聞持口決を写したこと、房州行の商人に書簡を託したという千葉逗留中の称名寺関係某僧の消息等を併せ考えると、清澄・称名両寺は因縁浅からざるものがあったとみるべきである。」と述べられている。

勿論、これらのことは大聖人修学時より、やや時代がさがるものだが、海をへだてた房総と六浦、鎌倉が想像以上に近い存在であったことを示している。

東京湾の海上交通については、小笠原長和「中世の東京湾――房総と武相との関係――」、浜名敏夫「中世江戸湾の海上交通」、網野善彦「金沢称名寺と海上交通」などの研究がある。

ことに網野氏は、最近の石井進氏やその他の鎌倉研究をふまえて、鎌倉を要害の都市としてでなく海上交通の要所としてとらえ、鎌倉、六浦、房総のルートと、その交通の盛んなることを述べている。

右のような交通ルートは、清澄寺の学僧を比較的容易に鎌倉へ運んだであろう。鎌倉ばかりでない。肥前公日吽や大聖人は京都まで足をのばしている。思うに当寺の清澄寺には、こうした遊学のいぶきがあったのであろう。大聖人の諸国遊学は、清澄寺のこうした雰囲気と無縁ではなかったろうと思う。尚、大聖人の遊学については次項にいささか私論を述べる。

   

U.修学

これまで清澄寺の学風と信仰について述べたけれども、そうした中で大聖人はどのように修学を積まれたであろうか。

 

@  台密関係の修学

台密関係の修学については、清澄寺が台密寺院であるので当然行なわれ、且つメーンとならなければならない。

第一にあげられるのは『授決円多羅義集唐法上』の写本である。同奥書に

「嘉禎四年太歳戊戌十一月十四 阿房国東北御庄清澄山道善房東面執筆是聖房生年十七才」

とある。

同書は円珍の授決集を、密教阿字義に力をいれて補ったものであり、円珍に仮託されてはいるが後代の作である。硲慈弘氏は「かくして『円多羅義集』の一書は、即ち作者がその私情に順じ、徹頭徹尾自己胸臆の説を述べるもので、若しいわゆる観心主義者に非ずんば、敢てこれを成し能わざる所といはねばならない。」と述べて、極めて中古天台観心主義の色の濃いことをも指摘されている。また宝地房証真の文句私記に同書の評があることから、寿永元年(1182)顕真の跋語を有する『牛頭法門要纂』と共に、現存中最古に属する中古天台文献とされている。さらに大聖人の同書写本を取りあげ、「之れに依っても平安末期の比叡山に勃興した観心主義の著作や教学が早くから此地方に伝はって居った事を示すのである」と述べている。

十七才の大聖人が、この種の著述を修学している事実は、その後の思想形成を知る上で極めて重要である。

第二に二十三才の作とされる『色心二法抄』の述作があげられよう。

同書は岡宮光長寺三世日春の写本がある由である。冒頭、

「先つ止観・真言に付いて此旨を能々意得可き也」

とあって、叡山伝統の止観業遮那業の修学の大切なることが示される。さらに

「されば釈迦如来も大日如来も強に歎き思念しける事は、中々一切衆生の迷の凡夫、妙法蓮華経の色心をも離れ、五戒・五智・五仏の正体をも隔てずば、あながちに仏も歎き思念すまじきを、妙法蓮華経の色心を持ちながら、五戒・五智・五仏の正体に無始より迷ひける事を歎き思念ける也。されば如何しても迷の時も悟の仏にてありけるぞと、比旨を能々意得可き也。」

と述べて、我等凡夫はそのまま妙法蓮華経の当体であり、且つ五仏・五戒・五智、さらに五輪・五根・五臓・五色・五行・五方は我等一身に具す。この依正心二法の不二而二を知らば、凡夫の身ながら即身成仏であり、又娑婆世界はそのまま常寂光土であると説く。これら顕密一致の思想、さらに凡夫即極、娑婆即寂光の本覚思想は、先の『円多羅義集』に通ずるものがある。

ちなみに同書とほぼ同じ思想を示す『戒躰即身成仏義』があり、祐師目録に名目が見えるが、今は参考として名目をあげるに止めたい。

第三に、時代がやや下がって、建長六年六月二十五日に題した『不動愛染感見記』がある。都合二紙からなり、

第一紙には

「生身愛染明王拝見 正月一日日蝕之時

(愛染明王の図像と真言陀羅尼)

自大日如来至日蓮廿三代嫡々相承

建長六年六月廿五日 日蓮授新仏」

第二紙には

「生身不動明王拝見 自十五日至十七日

(不動明王の図像と真言陀羅尼)

自大日如来至于日蓮廿三代嫡々相承

建長六年六月廿五日 日蓮授新仏」

とある。従来、金沢文庫所蔵の『理性院血脈』に日蓮の名が見えることから、同書は東密系の相承かとされてきた。しかし高木豊氏の研究により、理性院血脈の日蓮は大和の「日蓮房重如」であり、大聖人とは別人であることが判明している。とすればむしろ、院政期末頃に成立したといわれる台密十三流か、それに類する血脈と考えた方が自然であろう。

愛染明王が日に宿り、不動明王が月に宿ることは、慈円の口伝を慈賢が筆録した『四帖秘法』にも見られる。

「・・・日ノ愛染月ノ不動ト申テ日輪ノ中ニハ愛染王ノ現ニ御座スル也。能ク日ノ晴タルニ閑ニ久ク日輪ヲ見レハ、即日ノ中ニ彼形像顕給云々。月ノ極テ明ナル夜、十五日ノ円満無礙ナルニ、数刻天ニ臨テ月輪ヲ見レハ其中ニ必不動明王ノ形像ノ現給也。日ノ愛染月ノ不動ト云事ハ大集経ニ見タリトソ承ル云々」

ここでは不動明王は満月で同じであるが、愛染明王は晴天と日蝕の時の違いがある。

ちなみに後年図顕される曼茶羅本尊には、必ず不動・愛染二明王の種子が配される。ことに現存中では最も初期の通称楊子御本尊(京都立本寺蔵)は、中央の首題と二明王の種子だけであって興味深い。また『国府尼御前御書』には「日蓮をこいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ、いつとなく日月にかげをうかぶる身なり」と述べられているが、これなどもくだんの事がらと何らかの関連があるように思われる。

「正月一日日蝕之時」とあるが、延長六年正月一日には日触はない。否、大聖人が清澄寺に登られて以来、正月一日の日蝕はないのである。これはどう考えればよいのだろうか。恐らく、大聖人が相承を受けた時に、既に図像や讃文はこのような形式になっていて、それを写して新仏に授けたのではないかと思われる。それは後代日蓮門下が曼茶羅本尊を書写し、「仏滅後二千二百三十余年・・・」と書いて弟子に授けているのと軌を一にしているのではあるまいか。

「新仏」とは灌頂を受けた者をさす「金剛資」「金剛仏子」的な意と思われる。いづれにしても大聖人はこの時、灌頂を授ける阿闍梨の資格を有していた訳であり、それは後「日蓮阿闍梨御房」と呼ばれていた事実と無縁でなかろう。

また「日蓮」の名乗りについて、私はこれをもって文献灼な初見としたい。

 

A 虚空蔵求聞持法

先に清澄寺が虚空蔵求聞持法の霊場として広く名を馳せていたことを示した。大聖人が求聞持法を修されたであろうことは、次の『清澄寺大衆中』の文によって推せられる。

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば、八宗並に一切経の勝劣粗是を知りぬ」

そもそも虚空蔵求聞持法とは如何なる修法なのだろうか。薗田香融氏が興然の『五十巻抄』から、わかり易く解説されているので、引用させて頂く。

一、画像法――白い絹布に満月(円)を描き、金泥で、宝蓮に半跏した虚空蔵菩薩の像を描く。

二、分別処法――空閑静処・浄宝・塔廟・山頂・樹下の場処を選び、西面に像を安置する。

三、作曼茶羅法――曼茶羅は壇のこと。香木で作って像前に置く。

四、供具法――五種の供具、すなわち塗香・諸花・焼香・飲食・灯明を用意する。

五、欲員弁供物法――朝早く浄水を以て洗い清めた手で、右の供具を壇上に並べる。

六、印相法――手を洗う時、右手の五本の指を仰向けに伸ばし、親指と人さし指を一緒に捻じ合せた印を結ばねばならぬ。これを「虚空蔵菩薩如意宝珠成弁一切事印」という。

七、往詣像所法――こうして行者は像前に赴き至心に礼拝し、正面して半跏に座する。

八、護身法――ついで「護身印」を結ぶ。親指と人さし指はさきほどのままで、他の三本の指を握った形。

これを頂上において一遍、右肩において一遍、左肩および心喉において各一遍、「能満諸願虚空蔵菩薩最勝心陀羅尼」すなわち「南無阿迦捨唎婆耶唵阿唎迦座唎慕唎莎縛詞」という陀羅尼を誦する。

九、浄供物法――この印のままで浄水を承け、陀羅尼を讃しながら壇上にふりかける。

十、結界法――右手を護身印のままくるくる三回まわし、上下を指し、身体を動揺させ、例の陀羅尼を七遍

くりかえす。

十一、思惟法――つぎに目を閉じて、この像と菩薩の真身がつゆ異なりないことを思惟する。

十二、奉請虚空蔵菩薩法――陀羅尼を二十五遍くりかえし、菩薩を招く。護身印の親指で招くしぐさをするのである。

十三、作花座法――菩薩を招いたから、陀羅尼を三通論して、蓮花を座とする。

十四、作想法――真身の菩薩は目に見えぬが、こころの中で、この花座の上に坐ますのだと思うのである。陀羅尼三遍、手印は前に同じ。

十五、塗香法――陀羅尼一遍、塗香を壇に塗る。

十六、献花法――同じく一遍、水を壇上に撒布する。

十七、献焼香飲食灯明法――この三種の供物をそれぞれ陀羅尼一遍を誦しながら、壇辺に捧げる。

十八、運心供養法――これで供養の用意ができたから、菩薩さま、どうぞお受け下さいと念言する。陀羅尼一遍、手印また同じ。

十九、稻珠法――陀羅尼の遍数を数えておくために、念珠をつまぐる。

二十、念調法――目を閉じ、菩薩の心の上に一満月がある。そして誦するところの真言の字がその月の中に現われ、すべて金色に輝きはじめ、やがて羽が生えたように月から飛び出し、行者の頭頂にふりそそぎ、再び口から出て菩薩の足もとへ帰ってゆく、と想念する。否そのように想念される。息もしないで陀羅尼を誦し、この循環が限りなく続く。修法はまさにクライマックスに達する。

二十一、休息法――息がこらえきれなくなった時、この念誦が終る。すなわち礼拝して、満月菩薩及び周辺の法界を観想したのち、座を立つ。

二十二、発遣法――作法は終った。菩薩のお帰りを願わなくてはならない。陀羅尼三遍、親ゆびで送り出すしぐさをする。

二十三、成就法――日蝕もしくは月蝕の際、常に倍した供物を用意すれば、功徳は倍加する。

二十四、悉他念調法――その際、蘇(チーズ)を用意して、木の枝で撹絆しながら、日蝕もしくは月蝕の間ずっと手を停めない。この間ひっきりなしに陀羅尼を誦唱する。そうすると、このチーズは神薬となり、この薬を食べたものは一旦読んだ経の文句は絶対に忘れないという智慧を授かるのである。」

少し補足すれば、この修法においては、百万遍の陀羅尼を唱えることを目的とし、一日一万遍百日修するのを理想とするらしい。日数や、一日の修法の回数には、その人の機根によって違いがある。「二十二」「二十三」はあらかじめ結願の日が日蝕月蝕となるよう逆算し、その結願にあたっての修法である。

右の引用は東密の修法だが、台密の修法も承澄の『阿裟縛抄』を見る限り、そう変わらない。但し、その意義については例えば『渓嵐拾葉集』に、

「示云。求ト者能求ノ智体、妙法ヲ以テ体ト為ス。聞卜者所聞ノ法体、蓮華ヲ以テ体卜為ス。持ト者憶持不妄、経ヲ以テ体ト為ス。故ニ妙法蓮華ノ五字ヲ以テ求聞持ノ法ノ所詮ト為ス也。」

とあるように少なからず違いはあるのであろう。

清澄寺では勿論台密系の求聞時法を修したであろうが、収集された数多くの求聞持法関係の書籍(金沢文庫に多数現存)には東密系のものも含まれている。

さて、では改めて『清澄寺大衆中』の文を見てみよう。

「生身の虚空蔵菩薩」とは常に安置の虚空蔵菩薩ではなかろう。先の修法の内、「十一、思惟法」で、念想される真身の菩薩であろうか。はたまた、『渓嵐拾葉集』に

「本尊安置事・・・凡ソ明星天子供ノ時ハ別シテ本尊ヲ安置セズ、窓アケテ直ニ生身明星ニ対シテ之ヲ供シ奉ル。」

とあるように明星のことか。

「明星の如クなる大宝珠を給で右の袖にうけとり候し・・・」については、同様の記録がある。中村雅俊氏の十三参りの成立」に紹介されている『法輪寺縁起』(応永二十一年―1414成立)に、

「(弘法大師)夏向五月之比、晧月西山二隠之後、明星東天ニ出之暁、明星ヲ奉拝閼伽水ヲ汲之処、光炎頓耀、宛電光如ク恠而之見、明星天子来顕、虚空蔵菩薩袖ニ現ス。」

とある。恐らく結願成就し悉地を得たことの印として、こうしたことは語り継がれたのであろう。

ともあれ大聖人は求聞持法によって、虚空蔵菩薩から智慧を授かり、仏法の勝劣浅深を極めることができたという。それがいつのことであったかは判らない。

尚、虚空蔵信仰は求聞持法ばかりでなく、虚空蔵菩薩法(福徳・智慧・音声を祈る)、五大虚空蔵法(増益・息災・所望を祈る)などがあり、こうした修法も行なわれていたであろう。

 

B   東密関係の修学

東密の修学の形跡は『五輪九字明秘密釈』の写本によって知ることができる。表題・奥書ともに記名が無いが、前掲の『円多羅義集』の写本の手とよく似ており、大聖人の写本とみてまず間違いないだろう。

奥書に

「建長三年十一月二十四日戌時了。五帖(条)之坊門冨小路 坊門ヨリハ南富小路ヨリハ西」

とあって、日時・場所がはっきりしている。但し場所は確定できるが、それがどういう性格の場所であったかはわからない。

中扉に「九字秘釈」と題名が記され、左下隅に「常忍・主??(原本では左右並記)」とある。常忍とは勿論富木常忍であるが、その左に書かれた??とは誰であろうか。「主」とは所持者のことで、普通このように並んでいる場合、例えば

「文永九年六月十七日 憲海三十五才

今主家澄」

のように「主」「今生」としている方が、新しい所持者であることが多い。

ではこの場合もそう考えるべきだろうか。だが、ここには少々問題がある。冨木常忍の署名があり、且つこの写本が現在中山法華経寺に格護されているということは、常忍が手にして以来法華経寺(その前身も含めて)の外に出ていないと考えるのが普通であろう。とすれば同寺関係者にこのような密教的な名を使う人はまずいなかろうから、これは常忍の手に渡る以前の署名と考えるべきと思うのである。

とすればこの「??」とは誰であろうか。考えられることは次の二点である。

一、大聖人が書写し、常忍の手に渡るその中間に「??」なる人が所持していた。

二、この名が大聖人自身である。

どちらかを決定することは今のところできない。しかし大聖人にこうした密教名があった可能性も無い訳ではないのである。

次に、同写本と金沢文庫蔵日吽筆写の『五輪九字明秘密釈』と対照した結果について述べる。

大聖人真筆の第十三紙裏から第十四紙表にかけての「押紙」にかかれているという部分九行。第二十一紙裏の「裏付」の部分四行。第二十二紙裏から第二十三紙表にかけての「押紙」の部分五行。已上は日吽本も全く同じように挿入されている。これは大正新修大蔵経所収の『五輪九字明秘密釈』には無いもので、文字通り後から「押紙」「裏付」として加えられたものであろう。更に第二十二紙の頌の二行目から七行目までがカッコでくくられ、「コレハ異本」している部分は両本共に全く同じで、大正蔵経本とはかなりの出入りがある。

以上のことは両本が全く同種たることを示すのであって、高木豊氏が推測されたように大聖人の写本から日吽が筆写した可能性はかなり高いといえよう。

ただし気になる点をあげれば、第二十七紙表五行目の「因」の字を大聖人が「日」と直すべく注意をうながし、同じく第二十九紙表三行目「執」を「報カ」と、第二十九紙裏八行目「法身」の法と身の間に○印をいれ、天注に「界カ」と界の字を入れるべきを、そして第四十紙表「廣」を「魔カ」とされているのに、それを全く無視していることである。大正蔵経本によれば直されている方が正しいようで、このような注記があれば、それを写すに際しては直すか、注記をそのまま書き入れるか、どちらかをするのが自然のように思われる。

但し注記を必ず大聖人のものと断定をし得ない。もし後人のものであるとすれば、この心配は杞憂である。

次に、同書筆写の目的を考えたい。先に述べたように同書は真言密教と浄土教との融合を説いたものであるが、顕教に対してはすこぶる批判的である。それ故、肯定的参考文献と考えられたとはとても思えない。

これまた先述の如く、当時の浄土教は天台浄土・真言浄土・南都浄土・法然浄土・民間浄土・修験浄土と多種多様であり、且つそれぞれが複雑に入り組んでいた。大聖人は法然浄土教を前面に置きながらも、総じて浄土教を批判の対象とされた。あるいはその為の取材であったろうか。

ただもし参考のための可能性があるとすれば、それは同書の浄土教に対する態度である。井上光貞氏も指摘されるように、一往は密教と浄土教の融合をはかるものであるけれども、あくまで真言密教の復古確立を主体とし、その中に浄土教を組み込もうというのが覚鑁の態度であり、それは伝統の聖道門を従にし、浄土門を主体とした源信などの態度とは誠に対遮的である。

大聖人は法然浄土教を批判する一方で、それを発生させ、そしてその発展に寄与し、あまつさえ叡山一門自身を衰弱させている天台浄土教――言い替えれば浄土教に対する叡山天台宗の態度をこそ、元凶であるとみられていた。覚鑁の態度はそういう意味では、参考とならなくもないでのある。

 

C    浄土教の修学

浄土教の修学は、先述の如く『南条兵衛七郎殿御書』『四条金吾殿御返事』によって知ることができる。重説はさけることとして、ここでは『四条金吾殿御返事』にみられる、幼なき大聖人の法然浄土教への疑問について述べよう。

「唯日蓮の諸人にかはる所は、阿弥陀仏の本願には唯五逆と誹謗正法とを除くとちかひ、法華経には若人不信毀謗此経則断一切世間仏種乃至其人命終入阿鼻獄と説れたり。此善導・法然謗法の者なれば、たのむところの阿弥陀仏にすてられをはんぬ。余仏余経においては我と拠ぬる上は救ひ給ふべきに及ばず。法華経の文の如きは無間地獄疑なしと云々。」

ここに示される疑問は、素朴ではあるが大変明快である。且つあくまで法華信仰からの疑問である。この時懐いていた法然浄土教への疑問――同時にそこには批判の芽が見てとれる――は、修学が進むにつれてより確固たるものとなっていったであろう。教義的のみならず、大聖人を取りまく諸状況は、法然浄土教への不審を一層深刻なものとさせ、そして遂に対決状態へと発展していくのである。詳しくは後述。

 

D     遊学

大聖人当時の清澄寺に遊学のいぶきがあったのではないかということを先に述べたが、ここでは大聖人の遊学について述べたいと思う。

『本尊問答抄』には次の如き文がある。

「生年十二回しき郷の内清澄寺と申す山にまかりのぼりて、遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし。然而随分諸国を修行して学問し候ひしほどに・・・」

この文によれば随分諸国を廻った由であるが、諸国とは具体的にはどこを指すであろうか。建長三年に京都に遊学されていることは既に述べた。わざわざ京都まで行かれたのであるから、叡山はもとより園城寺などは確実に廻られたであろう。だが、このような遠出がそう度々行なわれたとは思えない。『妙法比丘尼御返事』の

「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々等々あらあら習ひ回り候し程に」

との文にひかれてか、出家以来の修学がほぼ遊学によってなされたかに語られる場合が多いが、私はこの御書に疑義があるので、この説はとらない。

むしろ本拠地は当然のことながら清澄寺において、必要に応じて関東を中心に遊学し、場合によっては京都などの遠出をされたと考えるのである。

その根拠の一つは、当時の関東天台はかなり充実していたと考えられることである。

従来関東天台は、心尊による中古天台口伝法門伝播により、復興開花したものとされてきた。しかし硲慈弘氏や高橋秀栄氏帥などの研究によって、それはもう少しさかのぼることが判明したのである。

ことに硲氏は金沢文庫所蔵、文保二年(1318)の古写本『宗要教相帖私見聞』の前文によって、それを立証されている。

貴重な史料であるのに、公刊されていないので、その前文をここに紹介する。

「師云、椙生流トチ為中ニ流布セルハ、皇覚ノ弟子ニツクシノ心禅房云聖之有。此人ノ弟子門徒所々ニ遍満セリ、所謂心禅房ノ弟子ニカチヨノ実相房トテ所懐、本懐、徹心、切取ト云フ抄ヲ作人也。ヲソロシキ明密ノ人也。此人ノ弟子ニトキノ照寂、々々カ弟子ニトキノ周防ノ阿闍梨、々々々ノ弟子ニサカマキノ阿闍梨ト是忍房ト二人也。是忍房ハ後ニ山門ニ登テ浄明ニ値テ物習フ。但シ我カ本相伝セル法門共ヲ浄明ニ問フニ我レハ比ノ如キ法門ヲハ存知セスト云テ之ヲ答ヘズ。仍テ浄明ハ物ヲハ知ヌ人也トチ下国スト云々。爾ト雖モ止観ヲハ浄明ニ値テ之ヲ習ト云ケリト云々。是忍房ハ不退二談義シケリト云々。極メテ意タウトカリケリ、但妻帯也ケリト云々。爾ト雖モ一所住セスシテ其ノ用之時許寄合ケリト云々。此等ハ聖門徒ナリケル故ニ碩学口(帳)ニ入ラザル也云々。ヲソロシキ法門ヲ椙生流ニ云事ハ此等ノ流也。又小野ノ流ハ戒壇房ノ仁真ノ下ヨリ出タリ。此流ニハ左様ノ悪法門ラバ云ザル也云々。私云、帥資相伝ハ別ノ処二之ヲ書ク、之ヲ見ルベシ。今師ノ師匠浄弁ハ比ノ流也。師云、浄明ノ云ハレケルハ心禅房等ハ聖法師ナリケル故ニ相伝ノ大事ヲハ伝ベカラザル也云々。仍テ皇覚ノ錬磨ノ義ナントヲ仰ラレケルヲ聞テ悪法門等ヲ云歟ト云々。師云、戒壇房ラバ当流ニモ其義ヲバ依用スル也。惣シテ吉人ニテ御ケリト云々。又云、椙生ニハ迹門入空本門出仮ト云事之レ有リ。又椙生ニハ三帖ノ宗用モ五六本之レ有リ。或ハ一向ニ真言ニ合セタル之レ有リ。三本之レ有リ云々。或ハ一向ニ返問シタル宗要モ之レ有リ云々。」

心禅はその行状は明らかでない。椙生流祖皇覚の弟子であるというから、法然より少し年上である。優秀な弟子が沢山いたようで、ここにその系譜らしきものが窺える。弟子実相房は顕密に勝れた人のようで、「所懐・本懐」なる著作があるという。従来、『本懐抄』『新懐抄』は皇覚の作といわれているが、考うべきことである。

さらに注目すべきは心神が「聖」「聖法師」と呼ばれ、その流れを「聖門徒」といわれていることである。井上光貞氏によれば、院政期の山門は相継ぐ三井との抗争により、教義・風紀が著しく荒廃し、権威主義・口伝をこととする中古天台本覚思想が芽生えたという。同時に心ある者は、例えば大原良忍や法然の師といわれる黒谷慈眼房叡空などのように山門を離れた者も多い。そうした人の中には別所を設けて隠遁的生活に入る者もいたが(隠遁聖)、一方で積極的に民衆に近づき、持経者・聖・沙彌と交わり、かつ自らがそれとなって既成教団の束縛を受けぬ自由な宗教活動を行い、新たな思想的展開をみせるものも数多くいた。こうした流れがやがて鎌倉新仏教を生んでいくということである。

心禅の関東下向も、こうした風潮の中でのものであったろう。聖法師といわれたのは、その辺の事情を物語るものである。その法孫たる是忍房も、談義をよくし、極めて優秀であったが、妻帯し一処不住であったという。これも聖の特徴を示している。

さらに興味をひくのは、この是忍房が山門に浄明(静明であろう)を尋ねる話である。是忍房は静明に止観を習う一方、日頃学んだ法門について静明にコメントを求めたところ、静明はそのような法門は知らぬといって答えることができなかった。そこで静明という人は物知らぬ人だと、下国したというのである。

ここに叡山を離れた人々、具体的には関東の天台の教義的充実ぶりを窺うことができるのである。それと対照的なのが静明の対応ぶりである。そもそも関東天台の大御所心禅その人が聖法師であって、皇覚の弟子といっても相伝の大事を知らぬ者である。それ故そのような悪法門を言い出すのだろう、というのである。硲慈弘氏によれば、この当時の叡山各門流は秘伝口伝をこととし、実子相承なども盛んに行なわれたという。ことに椙生流は範源――俊範――静明と実子相承であったことが明らかになっている。その内実によらず、秘伝口伝をかさに対応する静明の姿は、当時の叡山の権威主義を象徴している。

以上のように、関東天台が大聖人当時既にかなり充実したものであるとすれば、大聖人の遊学も必然的に関東が中心となったであろうという推察も充分に成り立つであろう。

一如日重は『見聞愚案記』巻三に、

「二十三、台家ノ学匠物語云、蓮師ハ武蔵千波開山尊海ト御同学也、両人同心シテ心賀法印ニ三重ノ相伝アリシト也、今ニ千波ノ重代ノ聖教ニ是生坊蓮頂ト奥書ノ有ル書籍モ多卜也、千波ハ山門ノ末寺関東ニテノ頂上也。」

と述べている。尊海と大聖人とは時代的にかなりの差があるので、今日では二人の師弟、及び同学伝説は完全に否定されている。しかし逆に、大聖人の関東天台遊学の足跡が、後世、仙波復興の祖とされた尊海との伝説を生んだと考えられなくもないのである。

後年大聖人は叡山遊学中の弟子三位房に次のような書状を送っている。

「惣じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるう。せう房がごとし。わ御房もそれていになりて天のにくまれかほるな。のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物くるわし。定でことばつき音なんども京なめりになりたるらん。ねずみがかわほりになりたるやうに、鳥にもあらずねずみにもあらず、田舎法師にもあらず京法師にもにず、せう房がやうになりぬとをぼゆ。言をば但いなかことばにてあるべし」

ここに示される田舎法師としての誇り、その裏がえしである京なめり、京法師への反骨精神は、心禅や是忍房の気概と共通するように思われる。

大聖人が京都に遊学されたことは明らかである。否、その時の実体験が、この書状を書かせているのである。大聖人が京都で得たものはそう大きくはなかったと想像される。かえって軽薄で、それ故徹底した権威主義という厚い壁を身にしみて知ったことだろう。ひるがえって関東天台は、想像以上に充実している。

私は以上のようなことから、大聖人の遊学は、関東一円が中心であって、京都のような遠出は、その必要に応じてのものであったと推測する。しかも遊学の旅がずっと続けられたのではなく、あくまで清澄寺に住し、そこからの遊学であつだろうと思う。次項で示すように、大聖人は延長五年以前、かなり長い間清澄寺に住していた形跡があるのである。

   

V.建長五年「この法門申しはじむ」について

右にのべたような修学を経て、大聖人は建長五年一つの宣言をされた。後に「この法門申しはじむ」といわれ、大聖人の思想形成の一大起点となるものである。しからばその内容はいかなるものであったのだろうか。二、三の私見を述べたい。

 

@    三月・四月説について

「この法門申しばし」めたのが建長五年であることに異説はない。だがその月に三月・四月の両説がある。

〈三月説〉

(ア)清澄寺大衆中

「比を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年三月二十八日、安房の国東条の郷清澄寺道善之房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並に少々の大衆にこれを申しはじめて、其後二十余年が間退転なく申す。」

同書は身延曽存御書で現存しない。昭和定本・昭和新定共に「四月」と直しているが、録内御書には「三月」となっており、本来は三月であったと考えてまず間違いないだろう。

※参考

参考として日興の『安国論問答』、日道の『御伝土代』、身延三世日進の『日蓮聖人御弘通次第』説がいずれも三月説であり、上代の日蓮門下は三月説が有力である。殊に「四月」と明記された『諌暁八幡抄』の存した富士大石寺の日興、さらに同抄に「読誦し了ぬ」と奥書すらしている日道が三月説であることが注目されよう。

〈四月説〉

(ア)聖人御難事

「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房の国長狭郡之内、東条の郷今は郡也。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。」

(イ)諌暁八幡抄

「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月廿八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし」

(ウ)松野殿御消息

「日蓮始て建長五年夏の始より二十余年が間、唯一人当時の人の念仏を申すやうに唱ふれば・・・」

従来この件に関する研究は、花野充道氏の「宗旨建立三月・四月説について」があるが明確な結論は出されていない。今日では各門下を問わず、また研究者の間でも、ほぼ四月説に統一されているようである。

しかし、既に『清澄寺大衆中』に「三月」とあり、上代においては三月説が殆んど疑う余地もなく用いられていることは、重視されなければならないだろう。結論からいえば、大聖人自らが三月、四月双方いわれている以上、すなおに二度行なわれたと考えるべきであろう。

三月と四月の状況を整理すると次のようになる。

<清澄寺大衆中>

Ⓐ 建長五年三月二十八日

Ⓑ 清澄寺道善之房の持仏堂の南面にして

Ⓒ 浄円房と申す者並に少々の大衆に「この法門を申しはじめた」

これに対し、<聖人御難事>

Ⓐ 建長五年四月二十八日、午の時

Ⓑ 清澄寺諸仏坊の持仏堂の南面にして「この法門を申しはじめた」

右によれば時と場所が違うことは明らかである。対合衆については『聖人御難事』には示されていないが、『清澄寺大衆中』の「浄円房と申す者並に少々の大衆」という文に注目したい。この時は、ごく少数の者に語られているのである。これは推測にすぎないが、三月二十八日には、仲間内のごく限られた者に対しての宣言ではなかったろうか。それに対して四月二十八日はどうか。聖人御難事はこれを何も語らないが、こちらの方は、文字通り対外的な宣言であつだろうと考えるのである。

三月四月と二回行なわれたとすれば、いずれも二十八日であるのは何故だろうか。明確な答えは出し得ないが、大日如来の縁日であることは念頭においてよいと思う。『古今著聞集』によれば、当時縁日は広く庶民にまで浸透していたようである。毎月の法会(例えば大師講のようなもの)が行なわれていた可能性もある。

尚、道善房持仏堂、諸仏房持仏堂ともにその「南面にして」説法されている。太田博太郎氏の『日本の建築』『日本建築の特質』によれば、例えば「十間四面」とは十間四方ではなく、桁行の柱間が十(十間)、梁行が二間(乃至三間)の母屋、そしてその四面に奥行一間の「庇」(細長い部屋)があることを示している。寺院建築の場合、母屋は仏の空間であり、人の空間が庇である。「南面にして」とはまさに「堂の南側の部屋で」ということであって、人の空間たる庇は基本的に使用目的がわかれていたのかもしれない。南面といえば丁度本尊を正面に拝する位置にあり、説法の場としては尤もふさわしいであろう。因みに大聖人は十七才の時、道善房の東面で円多羅義集を写している。

 

A     宣言の内容について

従来、この日は「立教開宗」「宗旨建立」と位置づけられ、諸国遊学のすえ清澄寺に戻った大聖人が、修学の結果到達した法華至上主義を宣言し、且つ諸宗の悪法たるを宣言したものとされてきた。

確かに『清澄寺大衆中』や『本尊問答抄』によれば遊学の成果は認められるし、またそれがこの日の宣言の裏付けとなったことは事実であろう。しかし、この宣言の後の大聖人の行跡をたどれば、当時の大聖人が後に到達されるような法華至上主義者であるとはとても思えないし、諸宗破折もそう徹底したものではないことは容易に理解されるだろう。加えて、この宣言の裏に見え隠れする清澄寺をとりまく諸事情は、それが単なる宗教的、学問的なことがらでなく、現実的、社会的要素が含まれたものであろうことを窺わせる。

そこで当時の清澄寺の状況を御書から少しく整理し、その宣言の内容について私見を述べたいと思う。

 

【地頭東条景信との抗争(第一の抗争)】

まず『清澄寺大衆中』に次の如き記述がある。

「なかんずく、清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にもをもひをとさせ給はば、今生には貧窮ノ乞食とならせ給ひ、後生には無間地獄に堕ちさせ給ふべし。故いかんとなれば、東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかたうどとなり、清澄・二間の二箇の寺、東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじょうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候しなり。此事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給ぶべき。」

右文によれば、一に地頭東条景信は清澄寺の飼鹿を狩りとり、且つ房々の法師達を念仏者の所従にしようとしたこと。二に大聖人はこの状況下で領家の味方となって、本尊に祈るとともに訴訟にもち込んで、一年の内に清澄・二間の両寺を東条景信の手から取り返すことに成功したことがわかる。

右の状況をもう少し分析してみよう。「領家の方人となって」という以上、この争いの根はそもそも地頭と領家との争いであるらしいことがわかる。つまり清澄寺に対する飼鹿を狩りとるなどの挑発的行為や、念仏者の所従にさせようとするなどの行為は、地頭の支配権拡張工作の一環と考えられるのである。

領家と地頭との抗争は当時そうめづらしいことではなく、それは多くの場合新任の地頭が、旧来の領家の支配権を犯し、自らの支配権を拡大しようとして起こるものであった。支配権の拡張方法・手段は色々あったであろうが、ここに見られるように有力寺院を掌握することが重要なポイントとなったのであろう。

この際、清澄寺側がこれらの挑発にのってまともに対抗すれば、またたく間に地頭に屈することになったであろう。大聖人はこれを局部的問題ととらえることなく、地頭と領家との支配権争いという大局的な見地に立って、領家側に立って訴訟を起こしたのである。その結果一年の内に領家側は勝訴し、清澄寺は二間の寺と共に地頭の支配から通れることができたのである。

ところで、建長元年北条時頼は「引付」を設置するなど裁判所の充実・整備をはかり、民衆が熱望した正確かつ迅速な裁判を実施せんとしている。さらに撫民政策の一環として、地頭の非法・乱暴を厳しくとりしまり、それらに対する百姓・領主などの訴えは殆んどが地頭側に厳しいものであったという。尤もそうした形跡が残っているのは、おもに西国であるらしいが、東国とても基本的には同じであったろう。一年の内に、しかも領家側の勝訴に終ったことは、この時頼の政策と無縁ではあるまい。

さてここで、もう一度景信の清澄寺に対する行為に話を戻そう。

注意すべき点が二つある。一つは飼鹿の一件である。私はこの景信の行為が、かの熱原法難における滝泉寺院主代行智の行動と、どこか共通しているように思う。それは行智が「狼落之鹿ヲ殺シテ別当ノ坊ニ於テ之ヲ食」したという皮相的なことでなく、非常に乱暴であり、強引な点においてである。権力者であることや、性格なども考慮しなければならないだろう。しかし私は双方が念仏者であったことに注目したい。法然浄土教には、法然存生の頃においてすら「造悪無礙」的な考え方が流行している。もとよりこうした思想は法然の教えにはないものであろうが、それが広く民衆の間に流布していたことも事実である。彼らの横暴はこうした「造悪無礙」的浄土思想に裏打ちされたものではなかったろうか。それは次にのべることとも関連する。

第二に、東条景信が清澄寺の房々の法師等を念仏者の所従にしようとしたことである。「房々の法師等を」「念仏者の所従」にしようとしたということは、少なくとも「念仏者」を清澄寺の外に想定しなければならない。もしこの念仏者を例えば清澄寺の円管房や道義房に想定するなら、房々の法師、即ち大衆等はある意味ではすでに所従であって、こういう表現にはならぬ筈である。それは『種々御振舞御書』の次の文からもうかがうことができる。

「円智房は清澄の大堂にして三箇年が間、一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて十巻をそらにをぼへ、五十年が間一日一夜づつよまれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと云々。日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底にをつべしと申たりしが此人々の御臨終はよく候ひけるかいかに。」

円智房は立派な持経者であるから皆が仏になるといっていたが、自分ばかりは彼らは念仏者よりも深き無間地獄の底におつるぞといったというのである。大聖人は明らかに円智房・道義房ら清澄寺関係者以外に、「念仏者」を想定している。

東条景信は背後に念仏者(先に推測したように、これは法然浄土宗の念仏者であろう)をしたがえ、清澄寺を支配しようとしたのである。だがこのもくろみは、領家側の勝訴によって、一時的にせよ失敗に終った。

尚、この事件の時期についてであるが、船口万寿氏は「日蓮が本尊」に起請されたことをもって建長五年四月二十八日開宗以降、具体的には弘長三年ごろとされている。高木氏は弘長三年説は否定されながらも、やはり建長五年四月二十八日以降、清澄寺退出を建長六年九月三日以後と推定して、それ以前のことであろうと述べている。しかし大聖人が虚空蔵菩薩でない「日蓮が本尊」に起請したからといって、何故に建長五年四月二十八日以降でなければならないのだろう。たとえばそれが釈尊像であったとしても(それさえも確定はできない)、建長五年四月二十八日以降とする根拠とはならない。清澄寺は法華真言(台密)の寺院であって虚空蔵菩薩のほかに釈尊像などの本尊が当然のごとく存したであろう。まして個人的本尊であればなおさらのこと台密の範囲内で種々の本尊があったであろう。「日蓮が本尊」は「日蓮所持の本尊」と解すのが自然であり、それならば修学時から所持されていて不思議でない。「日蓮が本尊」を「日蓮建立の本尊」あるいは「日蓮独自の本尊」と解する故、建長五年四月二十八日に執するのだろうが、この時期にその種の本尊を想定するのは無理である。本門の教主釈尊にしても曼茶羅本尊にしてもずっと後のことである。いわんや、本事件を清澄寺退出後とするなどは、事件の内容、それにかかわる大聖人の行動からして全く不自然である。

私はむしろ建長五年以前、一年の裁判期問を考えれば建長四年以前の、しかも突発的なものでなく、地頭の支配権拡張にともなう、必然的で、ある程度時間のかかった事件ととらえたい。

 

【第二の抗争(建長五年の宣言)】

裁判の勝訴によって清澄寺は一応地頭の支配から遁れた。だが東条景信がそのままひきさがったとは考えにくい。恐らく以前にもまして清澄寺支配の執念をもやし、その圧迫も強まったであろう。殊に領家勝訴に大きく貢献した大聖人に対しては、憎悪の念すら持ったであろう。

一方大聖人もこの抗争によって、地頭の横暴もさることながら、それを思想的にささえる浄土教、さらに地頭のうしろにひかえる念仏者への不審・危機意識を強めたであろう。

かつて少年の時に懐いた法然浄土教への疑問。修学を積むにしたがって、それはより明確なものとなり、さらに否定されるべき教えとして自覚されたことだろう。そして今浄土教は教義としてのみならず、現実問題として目の前に立ちはだかり、自分達の存在をおびやかしている。

そしてそれは一人清澄寺のみの問題ではない。大原顕真以来、叡山の必死の対応にもかかわらず、法然浄土教に転向する天台僧はあとをたたない。遊学の先々で、そうした現実を見聞したであろう。今や大聖人にとって法然浄土教は無得道教であるばかりでなく、清澄寺を、そして叡山一門を蹂躙し、ひいては法華真言の伝統を打破する、危険きわまりない存在である。

かくして大聖人は重大な決意をされた。それが建長五年三月・四月二十八日の宣言であろうと推測するのである。

そう考えればこの宣言の内容はかなり限定されてこよう。その第一は、法然浄土教への危機意識とその徹底批判排除(それは当然教義問題も含めてである)。第二には法然浄土教を生み、それを助長させている天台浄土教の一掃。第三に、叡山の伝統たる法華真言の復興確立。諸状況から私はこう推測したい。

この宣言にあたって大聖人は「比を申さば必ず日蓮が命と成ると存知せしかども」という覚悟をもたねばならなかった。また大聖人の父母は「手をすりてせい」したという。こうしたことがらはこの宣言が単なる宗教的確信を述べるものでなく、多分にナマナマしい社会的状況を含んだものであったことを示唆していよう。

尤もこれは『諌暁八幡抄』の

「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。但妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計也。」

やそれに類ずる比記述、また『清澄寺大衆中」の

「(虚空蔵菩薩より大宝珠を給わって)一切経を見候しかば、八宗並に一切経の勝劣粗是を知りぬ。其上真言宗は法華経を失う宗也。是は大事なり。先づ序分を禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ。」

との記述とかなり異なっている。

しかし建長六年に『不動愛染感見記』を新仏に授け、また位前、特に『立正安国論』以前は「法華真言」の立場から法然浄土教批判を専らにしていたことを考慮すれば、これは往事を振り返られて、総ての出発点がここにあったことを、多少潤色されて述べられたものと解すべきと思う。

ともあれこの宣言によって、地頭東条景信と大聖人との対立は、決定的なものとなった。そしてついに大聖人は清澄寺退出を余儀なくされるのである。その辺の経過は『報恩抄』にみられる。

「故道書房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。地頭景信がをそろしといゐ、提婆・理伽利にことならぬ円智・実城が上と下とにてをどせしを、あながちにをそれて、いとをしとをもうとしごろの弟子等をだにもすてられし人なれば後生はいかんがと疑う。」

師匠道善房は清澄寺に執したという。これは逆にいえば、弟子大聖人に加担すれば清澄寺退出を覚悟しなければならぬということで、先の宣言にあたっての大聖人の覚悟に対応している。事実、大聖人や大聖人に加担した義城房・浄顕房は清澄寺を退出している。

東条景信は道善房に強く大聖人とそれに同調する者の勘当を求めた様である。同時に道善房は、清澄寺の同僚である円智房・実城房にも大聖人の退出をせまられている。一見景信と円智房らは大聖人退出を共謀しているように思える。だがそうだろうか。今までの事の成り行きからすれば、円智房らはむしろ景信の恫喝を受けた被害者と考えるのが自然である。本質的には道善房と同じく、彼らは清澄寺に執し、景信に屈することを代償に、清澄寺に止まらんとしたのである。そういう者にとって、浄土教――景信と徹底抗戦を宣言してやまぬ大聖人は危険で邪魔な存在であろう。彼らは景信と共謀したのではなく、景信に屈し、保身のために道善房に大聖人の勘当を強くせまったと考える。

但し大聖人の彼らに対する態度はすこぶる厳しい。彼らを「念仏者よりも深い地獄に行く」と述べたことは前掲の如くである。

師匠道善房や清澄寺の有力な僧らのこうした態度は大聖人を大いに失望させたであろう。清澄寺ばかりでない。種々御振舞御書によれば近在の僧らも次々と屈していったようである。しかし、それはむしろ予測された結果であった。もはや清澄寺に居座るべきではない。しかもこれはひとり清澄寺や安房だけの問題ではないのだ。大聖人は意を決して清澄寺を退して鎌倉へむかわれた。それはまさにその後の法華経の行者日蓮――その思想形成の第一歩であった。

尚、清澄寺退出の時期であるが、『御伝土代』には

「しかるあいたその日きよすみ寺をひんしゅつせられ給おわん」

とあって、宣言後まもなく退出したとある。一方高木氏は、肥前公日吽写の五幹九字明秘密釈は大聖人の所持本を写したのではないかとの推測から、日吽同書筆写の延長六年九月三日以降であろうと推定されている。先に考察したように両本は同種本であるので有力な説と言えるだろう。ただし未だ不確定要素を含んでおり、且つ宣言後の影信の圧力を想像すると、そう長く清澄寺に留まれたとも思えない。今は敢えてその時期を断定せず今後の課題としてとどめておきたい。

   

 

第2章 清澄寺退出から佐渡流罪までの思想

 

はじめに

本項では清澄寺を退出された大聖人が、鎌倉に入られて活動をはじめられてから、文永八年九月十二日の竜ノ口法難から佐渡流罪に至る一連の法難の前夜までを範囲とし、その思想について述べる。

この時期は、いわゆる佐前として一くくりにすることができるが、三十二歳から五十歳に至る十八年の長きに亙り、細かくみれば思想の変遷も認められるので、左の如く三期に区分して論じたいと思う。

第一期は清澄寺退出から正嘉末年まで。この期は大聖人が鎌倉に入られて、清澄寺退出にあたり決意された、天台法華宗の復興と浄土教の破折のために、更に修学に勉められた時期である。

第二期は正元元年から文永四年まで。この期は正嘉元年以来打ち続く天変地異が、浄土教の興隆に起因するものであるとの確信に立ち、もはや浄土教の破折はひとり天台法華宗の復興という問題ではなく、一国の存亡がかかった大問題であるとして、それを具体的に実行される時期である。即ち『守護国家論』の執筆、『立正安国論』の幕府呈上がそれであり、その結果は伊豆伊東への流罪、また松原法難など厳しいものであった。

第三期は文永五年から文永八年の法難前夜『行敏訴状御会通』まで。この期は文永五年蒙古使者来朝により、『立正安国論』の他国侵逼難の予言が的中したとして、新たな動きが展開される時期である。

以下、この区分に従って佐前の大聖人の思想とその変遷について述べたいと思う。  

 

第1節 清澄寺退出から正嘉末年までの思想 『一代聖教大意』を中心として

建長五年三月及び四月二十八日、法然浄土教の排斥と叡山法華真言の伝燈復興を宣言した大聖人は、清澄寺退出を余儀なくされ、その実現に向けて行動すべく鎌倉に入られた。この期の著述は目録の通り僅かである。その内『不動愛染感見記』については、第一章において述べたので省略する。すると思想を窺う資料としては、正嘉二年二月十四日に系けられる『一代聖教大意」、更に同年に系けられる『四教略名目』、「妙法蓮華経等十三行断簡」、その他二つの断簡である。

今、これによってこの期の大聖人の思想をみてみたい。

 

  1. 『一代聖教大意』と『四教略名目』・「妙法蓮華経等十三行断簡」との関係

『一代聖教大意』は、日目の「永仁三年三月十五日」付けの写本が保田妙本寺に現存するが、それには著作年月日が記されておらず、今は『昭和新定日蓮大聖人御書』(以下『新定』と略記).『昭和定本日蓮聖人遺文』(以下『定本』と略記)によって、一応正嘉二年とする。本抄は題名の如く、釈尊一代五十年の説法を天台の四教五時教判により解説し、又、一念三千論によって法華経の最勝なることを述べたものである。

ところで、『日蓮大聖人御真蹟対照録』(以下『対照録』と略記)が同じ正嘉二年に系けた『四教略名目』、『法蓮華経等十三行断簡』があるが、三者は浅からぬ関係にあるものと思われる。『四教略名目』について、渋谷亮泰編『昭和現存天台書籍綜合目録』に同種本がみられるので、その主なものをあげれば、

A『天台四教五時名目下』           嘉元四年(1306)四月二十三日、身延山日向本

B『四教名目私見聞』               元応二年(1320)龍角寺定佑本

C『四教五時略名目』               元徳四年(1332)正月二十二日、恵鎮本

D『天台円宗四教五時津金寺名目』      尊舜本

などがある。大聖人のものより古いものはなく、同種本の中では大聖人のが最古となる。恐らく大聖人時代を前後して、この種の名目が盛んに作られ、また写されたのであろう。これらの写本が皆関東にての写本、または著述であることは単なる偶然であろうか。現存本がたまたま関東のものであるだけのことかもしれないが、関東方面に流行したものと考えることもできる。因みに恵鎮は叡山僧であるが、この時は鎌倉に住している。これらの内、今手元にあるBとDの内容をみると、大聖人の『四教略名目』とは全く体裁を異にしている。身延山蔵の日向本はどのような内容であろうか、興味深い。

さて、大聖人本『四教略名目』であるが、原本には題名が記されていない。『常修院本尊聖教録』の「御自筆皮籠」に「四教略名目一帖」とあるによっているのであろう。ところでこれは、大聖人が筆写されたものか、それとも作られたものであろうか。にわかに断定はできないが、書き出しや末尾が唐突な感じがする点一つの著述というより忘備のための書き置き的なものであるとみられること、更に内容的に『一代聖教大意』と全く一致し、且つそれに比べて要文集的であって恐らくその下敷きにあたるものと推せられることなどを考えると、大聖人の作とすべきではないかと思う。

次に『妙法蓮華経等十三行断簡』について気がついた点をのべる。文中、妙法五字を『玄義』の序王、私序王の文によって解釈するのは、『一代聖教大意』に全く同じ箇所がある。また冒頭に「妙法蓮華経、又名目に玄義の序を載せたり、見るべし」とある。この名目とは何であろうか。右『四教略名目』には、

玄義十巻、妙法蓮華経の五字を釈するに名体宗用教の五重玄義を立てたり

とあるものの、残念ながら玄義の序によって妙法五字を解釈する箇所は見あたらない。『一代聖教大意』が殆ど同内容であるから、これをさして「名目」といったのか、また現存『四教略名目』の他に同種本があったか。

いずれにせよ、右によって『一代聖教大意』、『四教略名目』「妙法蓮華経等十三行断簡」の関係が浅からぬことは判明したと思う。このことを念頭に置きながら、次に『一代聖教大意』の内容を検討してみたい。

 

  1. 『一代聖教大意』について

(1) 四教五時教判について(教相)

天台大師が五時八教を立てられて以来、天台宗において常にこれが教相判釈の基本となったことは論をまたない。しかしまた、天台大師滅後に、新華厳・真言三部経など新たに伝来された経典が出現し、それ以後の天台宗諸師によって、新たな解釈が加えられたことも周知の事実である。殊に日本天台においては、慈覚・智証以来積極的に密教をとり入れ、独自の教判が生まれている。即ち智証の『大日経指帰』にみられる五時教判、安然の『菩提心義抄』にみられる五教教判である。五時教判は、第五時に法華・涅槃両経と共に『大日経』を配したものであり、五教教判は、蔵通別円の四教に蜜を加えて五教とし、『法華経』『涅槃経』を理密、真言密教を事理倶密としたものである。大聖人当時の日本天台は流派が複雑に分かれて、一定の教判を見出すことは不可能であるが、基本的にはこの台密的教判によっていたであろう。

では、大聖人の教判はいかなるものであったろうか。今、『一代聖教大意』『四教略名目』をみるに、密教はどこにも配されていない。では、従来の教判から密教を除いたのかど云えば、必ずしもそうではない。『一代聖教大意』の末文に、

法然上人も一向念仏の行者ながら、選択と申す文には雑行・難行道には、法華経・大日経等をば除かれたる処も有り

と述べて、『大日経」と『法華経』とが同位置に置かれている。これは後述する『守護国家論』『唱法華題目抄』なども同じである。ただし、五時教判五教教判が、ともに『法華経』より『大日経』を上においているのに対し、大聖人の場合は(法華経)を上においていることはいうまでも無い。

尚、『法華経』の円と爾前経の円の勝劣について、

此等は皆法華已前の諸経に依て立てたる宗也。爾前の円を極として主たる宗ども也。宗々の人々の諍は有れども経々に依て勝劣を判ぜん時は、いかにも法華経は勝れたるべき也

と述べて、その不同を強調している。これは『四教略名目』にも

花厳の円、方等の円、般若の円、法華の円、涅槃の円のカハリメ如何

と設問をし、天台三大部の文により法華涅槃の円の勝れたることを述べている。当時の叡山は開会の思想から爾前得道を認める風潮が強く、そこから浄土教の発生、発展がなされたことを思えば、大聖人としてはこの違いをはっきり示すことが重要な課題であった。この件に関しては、『守護国家論』、『唱法華題目抄』さらに文永六年の『双紙要文』、『十章抄』等にも問題にされており、特に佐前全般に亙って強調された問題である。

 

(2) 一念三千論(観門)

イ、一念三千論から法華経の最勝なるを明かす

右の如く、四教五時教判により『法華経』が最勝の位置にあることが述べられた後、今度は教理的に『法華経』が他経に勝れるゆえんが、十界互具、一念三千論によって明かされる。

此の経は何なる人の為ぞや。答ふ、此の経は相伝にあらざれば知り難し。悪人善人、有智無智、有戒無戒、男子女人、四趣八部惣じて十界の衆生の為也

(爾前経には二乗作仏が説かれぬ故)此等は皆麁法也。今の妙法と者比等十界を互いに具すと説く時妙法と申す・・・・・法華経とは別の事無し。十界之因果は爾前の経に明す。今は十界之因果互具をおきてたる計也

即ち、『法華経」は爾前経で成仏が許されなかった女人や悪人、二乗などを含む一切衆生のための経であること。しかもその十界因果は互具していることが『法華経』の勝れるゆえんであるとされているのである。十界が互具しているか否かの違い目は次の問答に示される。

(爾前諸経の悪人、女人、二乗の成仏を許す経文を挙げ)此等は法華経之二乗・龍女・提婆・菩薩の授記に何なるかわりめがある。又設ひかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし如何。答ふ、予之習ひ伝うる処の法門此答に顕るべし。此答に法華経の諸経に超過し、又諸経の成仏を許し許さぬは聞ふべし。秘蔵之故に顕露に書さず。

問いは文の如しだが、答が隠されている。だが、その直後に一念三千即妙法の論議がなされていることを思えば、一念三千こそがその答えとなろう。即ち、後年『開目抄』に

法華経已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏往生を許すようなれども、或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なるべし

と述べる如く、爾前の成仏は女人・悪人・二乗という本位を改めての成仏であり、『法華経』の一念三千の成仏は、十界がそれぞれ十界を具する故に、本位を改めず女人は女人のまま二乗は二乗のままに成仏するというのが、その答えなのである。『法華経』と爾前経との勝劣は、教相においては四教五時によって判ぜられ、観心においては一念三千の成道論がその重要なポイントとなっているのである。

尚、本章で右の一念三千について述べる中、殆ど唐突ともいえる形で、外道の四性計についてのコメントがあり、『法華経』の一念三千との比較がなされている。即ち四性計の自力・他力・共力・無因力と違って、一念三千は自己の中に仏果等一切衆生を具しているので、自力でも他力でも共力でも無因力でもない、というのである。それにしても何故外道との比較が必要とされるのだろうか。『四教略名目』にも十界互具・一念三千が述べられた後、四性計について次の如く述べられている。

サレハ能縁ノ心二三千ヲ倶ス。所縁ノ境ニモ三千ヲ倶ス。能所合シテモ三千ヲ倶ス。能所離シテモ三千ヲ倶ス。サレトモ定自(傍注「能」)・定他(傍注「所」)・定共・定無因ニアラス。而モ白・他・共・無因二倶ス。妙法ト者是ヲ申ス也。妙ノ文字此ノ経二無クハ四性計ヲ離セス。四性の計ヲ離レスハ成仏ノ道無シ。能々十境十乗ヲ学スヘシ

そもそも一念三千論は、森羅三千が我が一念に倶するというのであるから、一見、カピラ外道の自性計に似ている。逆に森羅万法によって自己が成り立っているというウルソウギャ外道とも、ある意味では似ている。しかし、森羅万法を認めながら、その中に自己の仏果、又他の中の仏果を見て、それを含めた十界互具を論ずる一念三千とは決定的に異なる、ということなのだろう。

正元二年に系けられる『秘書要文』にも、四性計と、更に外道の常楽我浄、爾前の無常苦無我不浄、法華涅槃の常楽我浄とが対比的に図示されている。『法華経』と爾前経の違いは、かなりはっきりしたものであるのに対し、世間を認めていく分、一見外道とは似た部分がある。一念三千論は常にそこに注意を向ける必要があるということなのであろう。

 

ロ、中古天台口伝法門の取材

 本抄には、右の如く一念三千論を述べる中、一念三千即妙法の根拠として、いわゆる「八舌の鑰口伝」が引文されている。大聖人が中古天台文献を筆写及び引文される確実な文献は次の如くである。

『授決円多羅義集唐決上」(嘉禎四年十一月十四日、十七歳、清澄寺にて筆写)。『一代聖教大意』(正嘉二年二月十四日、三十七歳、八苦の鏑口伝引文)。『本理大綱集等要文』(『対照録』は建治二年に系ける。大黒喜道氏は『本尊抄』に同集より取材したとみられる文章があることから、『本尊抄』執筆の文永十年以前としている)。『注法華経』(文永末年から弘安初年)には、前述の『本理大綱集』、更に大黒氏は『蓮実房和尚金華抄』『経蔵房要文』『百光房慶暹律師懺法式』を中古天台文献ではないかと推定している。

右の他、参考として『立正観抄』(文永十一年)があげられる。同抄には四重興廃判、そこから生じたといわれる止観勝法華への批判、そして「八舌の鑰口伝」と「灌頂玄旨の血脈」などの中古天台思想ならびに文献が豊富に盛り込まれている。但し、日目の弟子日朝、身延三世日進の写本があるようであるが、真偽の判定は微妙であり、本論文使用御書の範囲に入らないものでもあるので、参考に止めたい。また『八宗違目抄』(文永九年二月)に「蓮華三昧経に云く」として引かれる『本覚讃』も注目されるが、同文が中古天台文献に珍重されていることは事実としても、それ自体すでに智証大師の『講演法華儀』にみられ、安然の『教時問答』等には経名がみられるのであるから、必ずしも中古天台文献引用とはなしえないと思われる。

ところで、大聖人当時の中古天台口伝法門とは如何なるものであったろうか。田村芳朗氏は島地大等氏、硲慈弘氏等の業績を踏まえ、批判をも加えながら一往左の如く区分される。

第一次的形態(平安後期1100〜平安末期1150)

本理大綱集(最澄)、円多羅義集(円珍)

第二次的形態(平安末期1150〜鎌倉初期1200)

牛頭法門要纂(最澄)、五部血脈(最澄)、本覚讃(良源)、本覚講釈(源信)

第三次的形態(鎌倉初期1200〜鎌倉中期1250)

真如観(源信)、枕双紙(源信)

第四次的形態(鎌倉中期1250〜鎌倉末期1300)

修禅寺決(最澄)、断証決定集(最澄)、三大章疏七面相承義見聞(忠尋)

尤もその後、菅野憲治氏等によって、特に第三次、第四次、即ち大聖人の存生期にあたる文献について、田村氏のそれよりおよそ五十年から百年翻るであろうとの見解が示されている。

大聖人の思想背景を知る上で、これらの研究は一層進められることを望むが、文献的時代確定は、確実な資料が出てこない限り、推測の域を出ず決定的な見解とはなり得ないであろう。文献の成立と、それに先行する思想の萌芽、成熟の時間差を考えれば五十年から百年の見解の違いが生ずるのも仕方ないことであろう。

いずれにしても中古天台本覚法門の主要なもの、理顕本・事常住・久遠即今日などの思想が出そろったといわれる『三十四箇事書』が、遅くとも大聖人修学期の1240〜50年あたりには成立していたことは所説一致するところであって、今はそれを認識して事足れりとしておきたい。そういう事情であるなら、当時の確実な資料である大聖人の文献などから、その実体を推知することが重要な作業となるであろう。初期文献たる『授決円多羅義集唐決』『本理大綱集』の筆写があることは先に述べた。これは両書が大聖人時代に尚、重用されていたことを示すものである。「八舌の鑰の口伝」については後述する。

次に『立正観抄』の真偽をめぐって問題となる四重興廃について、参考として『小乗大乗分別抄』(文永八年)の文を引いておきたい。

二乗作仏・久遠実成は法華経の肝要にして諸経に対すれば奇たりと云へども、法華経の中にてはいまだ奇妙ならず、一念三千と申す法門こそ、奇が中の奇、妙が中の妙にて・・・

一念三千については、その思想変遷や、論点視点によって、本迹・事理等の様々な分別があって、細かく分析する必要がある。だが今はそれはさておいて、ここには迹門(二乗作仏)、本門(久遠実成)、観心(一念三千)の勝劣が念頭に置かれていることに注目したい。勿論、これをもって四重興廃判と断定する訳にはいかないだろうが、少なくともそうした思想が内包されているということは間違いあるまい。

以上を大まかに総括すれば、密教色の濃い中古天台初期文献たる『授決円多羅義集唐決上』の筆写はそのまま、大聖人初期の『色心二法抄』など密教色の濃い思想と対応するものであるし、「一念三千即妙法」という観心思想を、「八舌の鑰口伝」などよりの取材によって述べられている事実、『本理大綱集』の本門思想、さらに四重興廃を思わせる観心勝の思想など、当時の中古天台観心思想の影響は比較的強いといってよいであろう。

勿論、これは特に佐前の傾向であって、佐渡期、脱天台から独自の本門、観心思想が展開されるにあたっては、それらが淘汰され、或は取捨選択されていくのであり、そうした変化をこと細かく見ていく必要があろう。それらについての私見は、その時々に述べるつもりである。

さてそこで、当面の課題である『一代聖教大意』の「八舌の鑰口伝」について述べたい。同書には、「問て曰く、妙法を一念三千と云事如何」との設問の答えとして、天台・妙楽の止観・弘法の一念三千の引文をした後、次の如く「八苦の鑰口伝」が述べられている。

日本之伝教大師比叡山建立の時、根本中道之地を引給し時、地中より舌八有る鑰を引き出したりき。此鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代妙楽大師の弟子道邃和尚に値ひ奉て、天台の法門を伝へし時、天機秀発の人たりし間、道邃和尚悦て天台之造り給へる十五之経蔵を開き見せしめ給しに、十四を開で一の蔵を開かず。其時伝教大師云く、師此一蔵を開き給へと請ひ給ひしに邃和尚の云く、此一蔵は開くべき鑰無し。天台大師自ら出世して開給ふべしと云々。其時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給ひしに、此経蔵開きたりしかば経蔵之内より光室に満たりき。其光の本を尋れば一念三千之文より光を放ちたりし也。ありがたかりし事也。其時道邃和尚は返て伝教大師を礼拝し給ひき。天台大師の後身と云々。依て天台之経蔵の所沢は遣り無く日本に亘りし也。天台大師之御自筆の観音経、章安大師之自筆之止観、今比叡山の根本中堂に収めたり

このことに関しては、既に菅野憲治氏の「日蓮教学の思想的背景について」、花野充昭氏の「日蓮の唱題思想と檀那流の灌頂玄旨口伝」などの論文がある。今それらを参考にして、二、三注意すべき点をあげてみたい。

一には「八苦の鑰口伝」が「灌頂玄旨の口伝」と一体となるべきものであって、『一代聖教大意』には後者は記されていないが、それが内包されているということである。『立正観抄』には一念三千即妙法一言を伝教が天台より血脈相承した旨を、右の両口伝によって述べられており、『立正観抄』の真偽論はさておき一応この両口伝の一体化した姿を伝えている。

そして、その形が少なくとも大聖人当時存在したであろうことが、『一代聖教大意』によって記せられるのである。即ち、「八舌の鑰口伝」は、天台から一念三千法門が伝教に相承されていることを示す伝説であって、これだけではそもそもの設問である「妙法を一念三千と云う事如何」の直接の答えになっていない。「一念三千即妙法」を示すのは「灌頂玄旨口伝血脈」であって、それ故にそれが内包されていると考えられるのである。

次に「八舌の鑰口伝」の成立についてであるが、花野氏の指摘するように、その淵源は『道邃和尚伝道文(行法文)』に求めることができよう。今日叡山にその真筆が伝わっている由であるが、当然そのままはうけとれまい。但し「八舌の鑰口伝」のような詳かな描写がない分、いかにもその原型であることを思わせる。

また、成田教道氏の指摘によれば、「八舌の鑰口伝」には、鑰が根本中堂の地引きの時に出てきた地引き説」と、伝教が初めて叡山に登山した折り、化人に授けられた「化人説」、更に両者が合体し、中堂地引きの時に化人より授かったという「合体説」がある。「地引き説」は『一代聖教大意』

『立正観抄』『神皇正統記』(北畠親房・延元四年=1339)『山門秘伝見聞』『摩詞止観見聞添註』(尊舜談・1612=慶長十七年)などであり、「化人説」は『頓超秘密綱要裏書』の奥書(光宗・正和元年=1312)『円戒十六帖』(興円・正和五年=1316)『菩薩円頓授戒灌頂記』(惟賢・延文四年1=1359)、「合体説」には『二帖抄見聞』(尊舜・明応十年=1509)『山門建立秘法』がある。

右の内、『頓超秘密綱要裏書』の奥書が光宗の記であると思われるので(正和元年=1312)、一応、『道邃和尚伝道文(行法文)』→「地引き説」→「化人説」→「合体説」という構図が成り立つようである。また成田氏は、宗光あたりから勃興すると思われる「山王神道」が「化人説」を生じていくのではないかとの感想を示されている。

 

(3)「予之習ひ伝る処」について

大聖人は本抄の処々に「秘蔵の大事之義には・・・」、「答ふ、此の経は相伝にあらざれば知り難し」、「予之習ひ伝る処の法門此答に顕るべし」と重要な部分を自分の習い伝えた秘蔵の義によって述べられている。これはこの時期の大聖人の特徴であって、『唱法華題目抄』に至っても「予が流の義には不審晴れておぼえ候」と述べられている。しからばこの「予の習ひ伝る」「予が流」とはいかなる流儀なのだろうか。勿論それを特定することは出来ないが、およそ次のような傾向は指摘できるのではないか。

即ち、方等般若の説時について山門は方等説時不定般若経三十年、寺門は方等十六年般若十四年という山門寺門の異義を挙げた後、「秘蔵之大事之義」として、方等般若合わせて三十年、方等が前で般若が後という説を出している。(後、一代五時図には必ずこれが用いられている)。今それぞれの説を比べると、「秘蔵之大事之義」は寺門の説に近いといえるだろう。それは『唱法華題目抄』の場合も同じで、山門が爾前の円を嫌わず、寺門が爾前の円を嫌うところ、「予が流の義」は明らかに寺門の義と同じなのである。二例だけですべてを判断するのは危険であることを承知しながらも、二例しかない内の二例ともそうであることは、軽くみられるべきではないと思う。

さて、大聖人当時、関東(特に鎌倉)においては叡山よりも園城寺が強い影響力をもっていたことは、例えば鶴ケ岡八幡宮の別当が初代寿永元年(1182)から建保七年(1219)に至る五代に亘り園城寺出身であったことをみても解る。それ以後六・七・八代と東寺出身者になるが、九代陰弁は園城寺出身で、ほぼ大聖人が活躍された同時代を三十四年の長きにわたり別当職にあり、供僧も園城寺系が大きな勢力をしめたようである。

鎌倉幕府と園城寺とが密接な関係にあったのは、源頼朝と千葉介常胤の子園域寺僧日胤との関係や、叡山が貴族社会を背景に反武家的であるのに対し、園城寺は武家方であったこと、などの理由によるようであり、それは鶴ケ岡八幡宮別当の円暁が、頼朝の従兄弟であったことに象徴されるのである。

さらに、第一章において清澄山・鋸山・鹿野山の山岳信仰について、その盛んなることを述べたが、この修験・山伏には後に本山派と呼ばれるように、園城寺に属する「顕教・密教・修験」を修するものが多かったという事実である。勿論、『宗要教相帖私見聞』や『日本先徳名匠記』などにみられる、関東に流れる恵心流の諸師達の存在、そして金沢文庫に伝わるという檀那流の多くの論議関係資料などの存在は否定すべくもないが、実質的には勢力・影響力が大であったであろう園城寺関係勢力に、もっと目を向ける必要があるのではなかろうか。

ずっと後のことになるが東寺出身で二十代鶴ケ岡八幡宮別当弘賢は、別当退職後か兼務であったかは解らないが清澄寺の院主であった。このことは両者の関係の深さを示すものであり、とあは大聖人当時にも程度に違いはあろうがあてはまるのではなかろうか。とすれば園城寺・鶴ケ岡八幡宮・清澄寺という浅からぬ関係も想定し得るのではないだろうか。大聖人が十七歳の時、導善坊の持仏堂の東面で、智証に仮託された『授決円多羅義集唐決・上』を写しているのは、単なる偶然ではないかもしれないのである。

大聖人が叡山に遊学されたことは疑いないことであるから、「予が流」がその時に習い伝えた流義であるという可能性は否定できない。また関東における慧檀両流の各派が大聖人当時に既に相当伝播されていたのであるかち、そのいずれからか「習い伝え」た可能性も否定できない。しかしまた、その有力な一つとして園城寺関係を考慮に入れる必要があるのではないかと思うのである。

 

(4)   浄土教の批判

『一代聖教大意」にはその最末に開会の法門を述べる中で、浄土教批判がなされている。これは確実な御書としては初見である。その批判の内容は、後の積極的なものではなく、むしろ浄土教側の批判に答えるという性格のものである。即ち『法華経』の「此経を読(聞)ん(若し)人天に生ずれば」(「提婆達多品」))、「是の人命終して当に忉利天に生ず」(「普賢菩薩勧発品」)、「安楽世界・・・生ぜん」(「薬王品」)などの文が爾前の諸経に説く処と同じであるといったり、『法華経』を難行道・自力・時機不相応の経と下すことは、爾前所開・法華経能開という開会の法門を弁えぬ愚論であるとする。そして最後に、

法然上人も一向念仏之行者ながら、選択と申す文には雑行、難行道には法華経大日経をば除かれたる処もあり、委しく見よ。又恵心の往生要集にも法華経を除きたり。たとい法然上人・恵心、法華経を雑行難行道として末代の機に叶わずと書し絵とも、日蓮は全くもちゆべからず

と述べるのである。ここにおいては一年後の『守護国家論』のような法然浄土教に対し一歩も引かぬという決意がみられず、与えた形のだいぶトーンが低いのが特徴的である。一年での激変を、ことさら不信視する必要はないかもしれないが、系年に確固たる根拠がない以上二、三年さかのぼる可能性もあるのではないか。

   

第2節 正元元年から文永四年までの思想 『守護国家論』を中心として

『吾妻鏡』によれば、鎌倉では正嘉元年八月から十一月にかけて大小の地震が打ち続いた。殊に八月二十三日の大地震は「神社仏閣一宇として全きことなし」というありさまで、住民を震憾させた。そして翌正嘉二年には大風雨、翌々年には大飢饉、大疫病とたたみかけるように災難が続く。

鎌倉で法然浄土教の破折と叡山天台法華宗の再興を胸に秘め、修学に励む大聖人は、その悲惨な情景を目のあたりにして、その原因こそ法然浄土教の流布にあるとの確信に立たれた。今やことは一宗の問題ではない。一国の存亡がかかっているという認識に立った大聖人は、国への働きかけを目指し、その為の理論大系の完成にむけいよいよ励まれたことであろう。その集大成が、正元元年に著された『守護国家論』である。

そして翌文応元年には具体的な行動として『立正安国論』を幕府に呈し、法然浄土教の退治と天台法華宗を崇敬することを訴えるのである。だがそれは受け入れられないばかりか、かえって足掛け三年の伊豆伊東への流罪に処せられることになる。赦免の後も、文永元年十一月十一日、安房東条松原において法難にあうなど、厳しい状況が続く。

本説の範囲を概観すれば、およそ右の如くであるが、一言をもってくくるとすれば、『守護国家論』に示された思想を、忠実に実践した時期であるといえるであろう。それ故にこの期の思想を述べるにあたっては、『守護国家論』を中心に据え、その解説を他の御書、並びに写本・抄本・断簡などによって補足しながら行うという形をとりたいと思う。

 

  1. 『守護国家論』の概容  

『守護国家論』は身延十二世日意の『大聖人御筆目録』に「守護国家論御草案」とあり、同寺二十一世日乾の『身延山久遠寺御霊宝記録』には「一、守護国家論 十八紙 此外表紙一紙外題有之、磨滅表紙の裏に一行半文字有之」とあって、完全なものではなかった様であるが、長く身延山に所蔵されていたが、明治九年の大火によって烏有に帰した身延曽存御書である。年号は記されていないが、文中「去正嘉元年には大地大に動じ、同二年に大雨大風苗実を先へり」とあるによって、正嘉二年の翌年、正元元年に系けられている。

本書は前文と大文七章より成っており、当時の大聖人の思想を窺い知るに充分な質量を持っている。各大文の内容を概観すると、まず前文にてはご自分の立場と本書の目的が総括的に述べられている。

次に大文第一では五時八教判により法華真言の最上なることが述べられる(教)。大文第二は法華経こそ末法適時の経であることが示される(時)。大文第三は法華経は末代最悪の凡夫ための経であることが示される(機)。大文第四は法華経の弘教の方軌が述べられる。大文第五では成仏論が示され、大文第六は成仏のための行法、そして日本国が法華経有縁の国たることが示される(国)。そして大文第七は諸宗破折がなされている。

以下、その一々について若干考察を加えたいと思う。

 

  1. 『守護国家論』の内容

(1)前文(立場と本書の目的)  

中昔邪智の上人有って末代の愚人の為に一切の宗義を脱して選択集一巻を造る。名を鸞綽導の三師に仮て一代を二門に分ち、実経を録して権教に入れ、法華真言の直道を閉じて浄土三部の隘路を開く・・・予此事を歎く間一巻の書を造で選択集の謗法の縁起を顕し、名て守護国家論と号す

右文によれば、この時の大聖人の立場は「法華真言」即ち天台宗の僧であって、これ迄と変わらない。

そして本書の目的は、法然の『選択本願念仏集』の破折という一本にしぼられている。『選択集』は専修念仏を説き、諸経、中にも法華真言の直道を否定するものであって、それ故に叡山が衰退するばかりか、諸天がこの国を捨て去り、種々の災難が起きるのであるから、徹底的に法然浄土教を破折退治し、もって国家を守護するというのである。『守護国家論』と名づけられるゆえんである。

 

(2)大文第一〔教〕

大文第一は「如来の経教において権実二教を定むることを明かす」として四項を設け、五時八教によって法華経が一代の最勝の経たることを述べている。但し、前節でも触れた如く「大乗に就いて又四十余年の所説は不了義経、法華、涅槃、大日経等は了義経也」とあり、また大文第三にも「総じて四十余年の諸大乗経の意は、法華涅槃・大日経等の如く二乗無性の成仏を許さず」とあって、第五時に大日経を入れるということは、いわゆる智証の「五時教判」的である。尤も翌文応元年に系けられる『唱法華題目抄』に、

又四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経、法華経は了義経。涅槃経を法華経に対すれば法華経は了義経、涅槃経は不了義経。大日経を法華経に対すれば、大日経は不了義経、法華経は了義経也

と述べられるように、あくまでも『法華経』が最勝であり中心である。これは智証の五時教判や法華超八思想が、『法華経』を爾前経に勝れることを示すのを目的としたのではなく、『大日経』と理においては対等であること、妄言すれば、事理倶密の『大日経」に、せめて理なりとも同等の位置に置くための、真言三部経中心の教判であるのとは大いに相違している。

このような、『法華経』を中心とした五時教判は、はたして大聖人のオリジナルであろうか。それとも、大聖人が誰かから習い伝えたものであろうか。にわかに判定はし難いが、『一代聖教大意』に方等部説示について、「秘蔵之大事之義には:::」と述べているところをみると、後者のような気もするのである。

 

(3)大文第二〔時・大集経について・恵心僧都のこと〕

時について

この段においては、釈尊一代の諸経の内、どの経が真実久住の経であるか。塑言すれば、正像末と次第して、末法濁悪という「時」の衆生を救う経典は何であるかが検討されている。

勿論これは『選択集』において、浄土三部経が経そのものの高低ではなく、末代衆生に適合する経であると主張するに対するもので、大聖人は爾前経の中では浄土三部経は久住の経に属し、一応末代の衆生を救う経ではあるけれども、真実末代の衆生を救う久住の経は『法華経』であるとして、『法師品』の「巳今当」の文、『宝塔品』の「三箇の勅宣」の文、『勧持品』の「我不愛身命但惜無上道」等末代に法華経を弘宣すと誓う文、そして『薬王品』の「我滅度後々五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶」の文を示されるのである。

さて、右文に続くこの段の後半部分に注意すべきことが二つある。一には『大集経』についてであり、もう一つは恵心僧都についてである。

 

『大集経』について

「大集経月蔵分』「分布閻浮揚品」には有名な、

我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年。次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には、多造塔寺堅固巳上二千年。次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等云々

という文がある。

『選択集』にはこの経文は引かれていないが、それが根底にあることは間違いあるまい。即ち「白法隠没」とは浄土三部経以外の諸経であり、それらが滅尽した後に浄土三部経が残って、末代の衆生は往生することが出来るという訳である。

これに対し大聖人は、「大集権門の五々百歳之文」といって、『大集経」を爾前権門の経典であると一刀両断に否定され、諸経が滅尽するというならそれは『薬王品』の「我滅度後々五百歳」であって、その時には『法華経』こそが流布し、衆生を救うのだと主張されるのである。

これは後、建治二年の『撰時抄』に、

彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるる道には、法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道四生三世の事を記し給ひけるは寸分もたがわざりけるにや

と述べて、『大集経』の五々百歳の記述に対してはみとめることを明示されるのと相違している。この変化の道程を追ってみると、文永元年『南条兵衛七郎殿御書』に、

仏入滅の次の日より千年をば正法と申す。持戒の人多く得道の人これあり。正法千年の後は像法千年也。破戒者は多く得道すくなし。像法千年の後は末法万年。持戒もなく破戒もなし。無戒者のみ国に充満せん

とあり、文永二年の『薬王品得意抄』に「我滅度後々五百歳」の文を訳して「此経文に二千年の後南閻浮提に広宣流布すべしととかれて候は・・・」と述べており、『薬王品』の「後五百歳」を『大集経』の「五々百歳」と同一視していることが指摘できる。

その変化の思索を裏づけると思われるのが、文永元年に系けられる「断簡」(『興風』九号七七頁)である。

日蓮云く、記一云、小乗毘尼母論の五ヶ之万百歳に依て梢や権なれば之を嫌う。□次に大集経の五ヶの五百歳に依るは、亦此も権大乗を以て実大乗を訳せり。・・・故に但法華経の後五之文並に涅槃経之文に依るべし

ここでは一往、『毘尼母論』や『大集経』によらず、『法華経』『涅槃経』に依るべきが述べられているが、引文する『法華文句記』の一に、「有人云」としながらも「後五百歳」とは仏滅直後五百年ではなく最後の五百歳、即ち「五々百歳」のことであるとしているので、こうした熟慮の後、間もなく『薬王品得意抄』のような形に移行したものと思われる。

その後『如来滅後五々百歳始観心本尊抄』という、前記『薬王品得意抄」と同じく『薬王品』と『大集経』の合体した形の題号を経て、文永十二年の『曽谷入道殿許御書』の如く『大集経』の名を前面に出して、その「五々百歳」を肯定引文され、そして『撰時抄』のごとき見解を表明されるに至るのである。

 

恵心僧都のこと

恵心僧都の『往生要集』は『選択集』に引文されることは勿論、法然には『往生要集釈』があって多大な影響のあったことは論をまたない。叡山天台法華宗復興を目指す大聖人にとって、このことは極めて重大な問題であった。それについての大聖人の見解は次の如くである。

まさに知るべし、往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して、人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書也

又、大文第三にも

恵心の意は往生要集を造て末代の愚機を調えて法華経に入れんが為也。倒せば仏の四十余年の経を以て権機を調へ法華経に入れたもうが如し。故に最後に一乗要決を造る。・・・源信僧都は永観二年甲申の冬十一月往生要集を造り、寛弘二年丙午の冬十月之比一乗要決を作る。其中間二十余年、権を先にして実を後にす

と述べて『往生要集』は『一乗要決』に至る初門であるとされている。だが問題がそう単純でないことは「一乗要決」の末文に「我今信解一乗教願生無量壽佛前開示悟入佛知見一切衆生亦復然」とあるによっても知られよう。

事実、大聖人も右のような会通を加えた後

若恵心の先徳法華経を以て念仏より雑行と定め、愚者、頑魯之者を摂せずといはば、恐らくは逆路伽耶陀之罪を招かざらんや。亦恐人謬解之内に入らざらんや

と述べているのは、そうした事情を物語っているように思える。ともあれこの時期、この件に関心が深かったであろうことは、『一乗要決』の筆写の多さからも窺うことができる。『対照録』の筆跡鑑定によって系年順に示せば、正嘉元年に『同要文』二本、正元元年『同要文」一本、正元年間『同断簡貼合」、弘長三年「同要文」一本、文永元年『同上巻写本』があげられる。

ことに文永元年の「同上巻写本」の奥書には『往生要集』執筆から「一乗要決」執筆までの二十三年間の年表があり、その間隔を立体的に把握しようという気持ちが表れているように思われる。そして、この写本以降ピタリと抄写を含めて筆写の形跡がなくなるのは、この頃にこの件に関して、一つの結論が出されたことを示すのであろう。

因みに恵心僧都に対する大聖人の態度を簡単に展望すると、文永元年『南条兵衛七郎殿御書』に恵心僧都の一乗要決に云く、日本一州円機純一等云々」舳と肯定引文され、文永九年『開目抄』にも「恵心の云く、日本一州円機純一等云々。道綽と伝教と法然と恵心といづれ比を信ずべしや」と肯定的態度を表明されている。この時期までは天台僧として叡山復興を目指しているのであるから、これは当然のことであろう。

然るに文永十二年三月の『曽谷入道殿許御書』では、先の「一乗要決」の文が無記名で肯定引文され、同年(建治元年)六月の『撰時抄』では、「又天台宗の慈覚・安然・恵心等は法華経伝教大師の弟子の身子の中の三蟲なり」と痛烈に破すに至るのである。

 

(4)大文第三〔機〕

この段は「選択集謗法の縁起を出」すとの表題のもと、おもに機根の問題に焦点をあてて論じられている。即ち『選択集』の謗法たるゆえんは、法華真言を聖道門、難行道、雑行とし、悪機の末代の衆生には不相応であるとして退け、浄土三部経こそが時機相応の経であるとするにあるのであり、末代悪機の凡夫を救うのは法華経であると主張されるのである。

さて、ここで注意されなければならぬことは、大聖人の「末代衆生の機根」についての見解である。

法華涅槃等には唯五逆七逆謗法の者を摂するのみにあらず、亦定性無性をも摂す。なかんずく末法においては常没の闡提之れ多し

右の文によれば、末法の衆生は概ね「常没の闡提」である。しかしこの表現は「総てが」常没の闡提ではないことをも示している。それは『唱法華題目抄』の

妙楽大師釈して云く、佛世当機故簡、末代結縁故聞と釈し給へり、・・・佛滅後には当機の衆は少なく結縁の衆多きが故に、多分について左右なく法華経を説くべしと云文也

との文と軌を一にしている。これは後、佐渡流罪を経て三度目の諌暁が受け入れられなかった直後、文永十一年五月、『法華取要抄』に「末法においては大小権実顕密共に教のみあって得道なし。一閻浮提皆謗法となり了と述べ、末代一閻浮提の一切衆生を、謗法一閻浮提の逆縁の衆生と規定されるのと相違しており、未だ独自の法門を展開される以前の見解として認識しておきたい。

これは、そのまま本尊・修行にも連動するのであって『唱法華題目抄』に、

本尊は法華経八巻、一巻一品、或は題目を書て本尊と定むべし。・・・又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。行儀は本尊の御前にして必坐立行なるべし。道場を出ては行住坐臥をゑらぶべからず。常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱べし。たへたらん人は一偈一句をも読み奉るべし。・・・愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず。其志あらん人は必ず習学して之を観ずべし

と述べて、機根の幅を前提とした所論となっている。しかし、それにしても末代が愚者、闡提が多数であって、当然法義もその前提で展開されていることは論をまたない。右の行儀を述べる中で、「一念三千観法」が愚者相応の行でないとされていることは注意されるべきである。これは『守護国家論』においても、

心に一念三千を観ぜざれども遍く十方法界を照す者也。・・・是の故に法華経を信ずる者は設ひ臨終の時心に仏を念ぜずとも、口に経を誦せずとも、道場に入らずとも、心無くして法界を照し音無くして一切経を誦し、巻軸を取らずして法華経八巻を挙る徳之れ有り。是豈に権教の念仏者の臨終正念を期して十念の念仏を唱えんと欲する者に百千万億勝るる易行に非ずや

と述べて、一念三千の観法を退け、法華経への信を強調し、念仏に勝る易行たることが主張されている。一念三千については後述する。

 

(5)大文第四(弘教の方軌―涅槃経の折伏)

この段には弘教の方軌が述べられている。その要旨は次の二点である。

第一に、仏法はまず威力勢力のある国主に付属し、その圧倒的影響力によって四衆に及ぼすべきことが、『仁王経』『大集経』『涅槃経』の文によって説かれる。

第二に、国主は国に謗法があれば、威力をもってそれを退治すべきことが、『涅槃経』の仙豫国王の故事を引いて説かれる。

右の弘教のあり方は、いうまでもなく天台が『止観』に「夫佛に両説あり、一には摂二には折、安楽行に長短を称せずというが如きは是れ摂の義なり、大経に刀杖を執持し乃至頸を斬というは是れ折の義なり」と説く、折伏の義が念頭にあることは明らかである。

一方もともと折伏の義は『勝曼経」『大集経』『大日経』『ミリンダ王の問』などによれば、「非難し、強くとがめる」義であり、けして『涅槃経』のような威力によるものとは限っていない。それ故妙楽大師にはすでに不軽の逆比を折伏に配する兆候が見られる。

そして『守護国家論』に、

而るに近年より予我不愛身命但惜無上道之文を瞻る間、雪山常啼の心を起し、命を大乗の流布に替へ強言を吐いて云く

と、また『唱法華題目抄』に、

答て云く、方便品等には機をかんがみて此経を説くべしと見え、不軽品には謗ずとも唯強いて之を説くべしと見え侍り。一経の前後水火の如し。然るを天台大師会して云く、本目有善・釈迦は小を以て之を将護し、本末有善、不軽は大を以て之を強毒すと文。文の心は・・・本と大の善根もなく、今も法華経を信ずべからず、なにとなくとも悪道に堕ちぬべき故に、但押して法華経を説いて之を謗せしめて、逆縁ともなせと会する文也

とあるように、法然浄土教に対するご自分の厳しい姿勢を、不軽菩薩や喜根菩薩の強説、毒鼓の縁になぞらえている。ここには折伏の言葉は使われていないが、そういった認識の上での文であることは間違いあるまい。

右の状況を整理するなら、当時の大聖人は、自分の強説も末法相応の折伏行と考えられていたと同時に、より効果的な手段として、最も期待し中心に据えられていたのは、在家国主の力による折伏-涅槃経の折伏であったということができよう。翌文応元年七月『立正安国論』を北条時頼に呈したのは、まさに国主の折伏を期待してのことであった。

これは後、竜ノロの頸の座から佐渡流罪に至るいわゆる文永八年の一連の法難という、国主の決定的な拒絶を経て、折伏を涅槃経の折伏から、不軽菩薩の折伏を中心に据えられていくのと対照的である。

 

(6)大文第五(依法不依人・爾前得道の有無.一念三千)

この段には、末代の凡夫は善知識に値い難く悪知識に値って三悪道に堕ち易きことが説かれる。善知識に値い難いのは、末代悪世には善知識がいない故であり、悪知識によって堕獄の因を作らぬためにも人ではなく法を善知識とすべきであるという。即ち、「人を以て知識と為すのは常の習い也。然りと雖も末代に於いては真の知識無れば、法を以て知識と為すに多の讃有り」といって、『涅槃経』の「依法不依人」をあげ、法華・涅槃という教法を善知識とすべしと説かれている。「依法不依人」の基本態度が表明されるのはこれが初見であり、以来生涯を貫く指針となっている。

さて、右のような見解が述べられた後、

我等常没の一闡提の凡夫、法華経を信ぜんと欲するは、仏性を顕さんが為の先表也。・・・法華経より外の四十余年の諸経には十界互具無し。十界互具を説かざれば内心の仏果を知らず。内心の仏果を知らざれば外の諸仏も顕われず・・・今法華経に至で九界の仏界を開くが故に、四十余年の菩薩・二乗・六凡始めて自身の仏果を見る。・・・此故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是也。常途の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、自義においては猶当分の得道を許さず

と十界互具(一念三千)と爾前得道の有無について述べている。

十界互具一念三千論が爾前の諸経には説かれず、それを説く法華経こそが末代衆生を救済する経であると説くのは、先の『一代聖教大意』と同じである。そして、爾前経には十界互具一念三千が無い故に爾前得道は許されるべきではないと主張される。この時、「常途の天台宗の学者」が概ねそれを許し、その結果浄土教を許容することに対し、「自義においては」許さずといわれるのは、天台僧の自覚にありながらも、その改革を意識された言葉であろう。

この徹底した非妥協的態度はこの後、諸宗や幕府との決定的な対立を生ずることになる。佐渡流罪赦免によって鎌倉に入られた大聖人に、蒙古襲来に対する打開策を求めるべく対談を申し入れた平左衛門が、蒙古襲来の時期と共に、「爾前得道の有無を問う」たのは、諸宗を否定せずにしかも大聖人の力を得たいという切なる気持ちからであったろう。しかし大聖人の姿勢は終生変わることはなかった。

尚、この件に関して正元元年(或、康元頃)にかけられる、身延曽存御書『爾前二乗菩薩不作仏事』がある。また爾前得道の有無に関連して、「爾前の円と法華の円との同異」についての論議がある。

即ち『唱法華題目抄』に、

日本に二義あり。園城寺には智証大師の釈より起て爾前の円を嫌ふと云ひ、山門には嫌はずと云ふ。・・・但し予が流の義には不審晴れておぼえ候。・・・法華経の本門にしては爾前の円と迹門の円とを嫌う事不審なき者也

と述べて、『法華経』の円と爾前の円は本質的に違うものであることが強調されている。これは当然諸宗、なかにも浄土教に得道無しということを決定づけるものであり、後述する如く、『安国論』上呈に次ぐ第二次弘教期ともいうべき文永五、六年頃、『十章抄』を中心に盛んにこのことが強調されている。尚、右の『唱法華題目抄』の文には、爾前の円ばかりでなく、法華経迹門の円が、本門に対して嫌われている。これ又、『十章抄』に詳しく述べられるところであるが、既にこの時期に本門思想の萌芽があることは注目されるべきであろう。

 

(7)大文第六〔修行論・国〕

この段では「法華涅槃に依る行者の用心を明す」として、末代常没の愚人、特に在家のための修行について述べられいる。

一に、正法護持。即ち「在家の諸人正法を護持するを以て生死を離るべく、悪法を持つによって三悪道に堕することを明す」として『涅槃経』の有徳王が武力を持って悪比丘と闘い正法を護った故事をあげ、「この文の如くならば在家の諸人別の智行無しといえども、謗法の者を退治する功徳によって生死を離るべき也」と述べて、力による正法護持、悪法退治をうながされている。『立正安国論』はまさに国主にそのことをうながされた書である。故に、充実した引文により、右の事柄が熱っぽく語られている。

ただし、右のような主張には、当然不殺生など、仏の禁戒にふれるのではないかとの反論がつきまとう。事実、大文第四の弘教の方軌を述べる中、『涅槃経』の「正法を護持するには、五戒を受けず、弓箭刀剣器杖を侍すべし」との文と梵網戒等の「刀杖弓箭を蓄すべからず」との両説をあげ、末代においては、『涅槃経」の意が正しいとの結論に立たれている。文永八年に系けられる『行敏訴状御会通』によれば、行敏は大聖人を信仰する者達が刀杖を家に蓄えてことを訴えている。それに対し大聖人は否定していないばかりか、『涅槃経』等の文により、『法華経』守護の為には許されるのだと主張されている。どの程度の武器があったのかはわからないが、右のような思想にもとづいて、門下一般にそのような形跡があったもののようである。

二に唱題。即ち「法華経の題目計りを唱て三悪道を離るべきことを明す」として、唱題が奨励される。それは「設ひ先に解心無くとも、此法華経を聞いて謗ぜざるは大善の所生なり」と、無解有信の上の唱題であると説くところ『唱法華題目抄』『法華題目抄』と同じである。更に何故「解心」が問われないかとの疑問に対しては、法華経流布の国に生まれて題目を聞き信ずることができる過去の宿善によるとして日本国を法華経有縁の国と位置づけている。即ち法華経が「閻浮提」「南方」に流布するとの『勧発品』『薬王品』『涅槃経』等の文を挙げ、その南方においても殊に日本国が法華経流布の国であるとして、次の如く述べられる。

答て曰く、肇公の法華の翻経の後記に云く、羅什三蔵須利耶蘇摩三蔵に値い奉りて法華経を授かる時の語に云く、仏日西山に隠れ遺耀東北を照す。慈典東北の諸国に有縁なり。汝慎て傳弘せよ巳上。東北とは日本也。西南の天竺より東北の日本を指すなり。故に恵心の一乗要決に云く、日本一州円機純一にして、朝野遠近同く一乗に帰し緇素貴賎悉く成仏を期す

右の如き日本国が法華有縁の国たる引文は後々まで続くのであるが、確実な資料においてはこれが初見である。

 

(8)大文第七(諸宗破折)

この段には諸宗よりの法華宗に対する疑難を想定し、初信の行者が如何にそれに対応すべきかが説かれる。ここでその対象となっているのは、華厳宗・法相宗・浄土宗・禅宗である。それぞれの宗の主張と『法華経』への非難が列挙された後、法華宗の対応が述べられる。

即ち、それぞれの経説に立ち入って論ずることは一切せずに、その経が法華経の「巳今当」のいずれにあるかの一点にしぼって応答せよ、もし先といえば「未顕真実」の文によって責め、後といはば「当説」の文をもって責め、同時といはば「今説」の文をもって責めよという、誠にシンプルなものである。これはこの時期、所破の対象の中心は、あくまで法然浄土教にあるのであって、今は諸宗からの非難を想定しての、防衛的なものだからであろう。禅宗への破折が、後の文永五年頃よりはじまる国難の元凶としての本格的破折とは、おのずと性格は異なるであろうけれども、一応なされており、真言宗・律宗はいまだ非難の対象となっていない。

それにしても右のような姿勢は『立正安国論』、正元元年にかけられる『念仏者追放宣旨事」(『金綱集』)が、浄土教を除く諸宗と比較的友好的であるのと若干のへだたりがある。しかしそれは隔たりというよりは、理論書と、献上書(勘文)という両書の性格の違いということであろう。

 

  1.  本節拾遺

右に本節範囲の大聖人の思想を、その前半に属する『守護国家論』『唱法華題目抄』『立正安国論』を中心に述べた。その思想的特徴は後半に至っても基本的に変わりはない。ただし、文永元年の「南条兵衛七郎殿御書」、文永二年の『薬王品得意抄』、文永三年の『法華題目抄』などに、二、三拾っておくことがあるので、それらについて述べる。

 

『南条兵衛七郎殿御書』

本書は真筆断簡が散在し、日興の写本が北山本門寺に所蔵される。書状でありながら、教・機・時・国・教法流布の前後と、宗教の五綱によって大聖人の思想が理論整然と綴られている。その一つ一つの内容は、彼の『守護国家論』と大同である。

注目されることは、先づ教について述べる中、『法華経』が至上の経であると共に、教主釈尊が閻浮提の衆生の主師親であることが次の如く示されている。

我等衆生のためには、阿弥陀仏、薬師仏等は主にてはましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて思ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる

「経は法華経、仏は久遠実成の釈尊」とは既に『守護国家論』大文第七に説かれる所であるが、釈尊を「主師親三徳」と呼称されるのは本書が初見である。

次に時について『大集経』の正像末論が取り入れられていることは既にのべたが、「しかるに当世は正像二千年すぎて末法に入て二百余年・・・」と、現在が仏滅後二千二百余年であるとの実数が初めて示され「末法のはじめ」という『本尊抄』に強調される言葉がみえる。またそれに関連して末法は持戒も破戒もなく「無戒者のみ国に充満」すと述べるのは『守護国家論』『唱法華題目抄』よりやや進んだ形といえるかもしれない。次に文末に、

日本国に法華経を読み学する人これ多し。人のめをねらい、ぬすみ等にて、打ちはらるる人は多けれども、法華経の故にあやまたるる人は一人もなし。されば日本国の持経者はいまだ此経文にはあわせ給ばず。但日蓮一人こそよみはべれ。我不愛身命但惜無上道是也。されば日蓮は日本第一の法華経の行者也

と述べられていることが注目される。この「日本第一の法華経の行者」との自覚は、伊豆伊東の流罪、そしてこの年の十一月の東条松原の法難によるものであろう。そしてこの名乗りは、本書が初見である。

 

『薬王品得意抄』

本書は『薬王品』の十喩について解説されたものである。その第三月の警えを述べる中、

法華経は正像よりも末法には殊に利生有るべし。問て云く、証文如何。答て云く、道理顕然也。其上次下の文に云く、我滅度後々五百歳中広宣流布令於閻浮提無令断絶等云々。此経文に二千年の後南閻浮提に広宣流布すべしととかれて候は第三月の警えの意也。此意を根本伝教大師釈して云く、正像稍過已て末法太近きに有り。法華一乗の機今正是其時等云々。正法千年も像法千年も法華経の利益諸経に之れ勝るべし。然りと雖も月光の春夏の正像二千年より末法の秋冬に至で光勝るが如し

と述べて、法華経が正像二千年よりも、末法の衆生のための経であり、末法に光輝く経であることが示されるが、これは『本尊抄』に連なるものであろう。尚、右の如き文が初見であると同時に、その証明として伝教大師の『守護国界章』のこの文が引かれるのもこれが初見である。

また「爾前は星の如く法華経の迹門は月の如し、寿量品は日の如し、寿量品の時は迹門の月末だ及ばず。・・・爾前迹門にして猶生死を離れ難し。本門寿重品に至って必ず生死を離るべし」とあって本門思想が述べられている。

 

『法華題目抄』

表題の如く、無解有信の唱題の功徳を明すこと『唱法華題目抄』と同様である。その題目ばかりを唱えることを語る段に

一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広也。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略化。但し一四句偶乃至題目計りを唱へ、となうる者を護持するは要也。広略要の中には題目は要の内なり

と述べられている。

『唱法華題目抄』の行儀を述べるところで既に右のような立て分けはあったが、それを「広略要」という言葉で立て分けたのは、これが初見である。後の『法華取要抄』に連なっていくものである。また後半は「女人成道」についてかなり詳しい記述となっている。その語り口調から本抄は初信の女性にあてられたものと推せられる。『薬王品得意抄』にも「女人往生成仏」という段が設けられており、この頃、集中的に「女人成仏」について述べられているようである。  

 

第3節 文永五年から竜ノロ法難前夜までの思想

本節は文永五年正月、蒙古使者来朝によって新たな展開が始まってから、文永八年九月の竜ノロ法難前夜までを範囲とする。この期を概観すると、蒙古使者来朝によって新展開を見せる文永五・六.七年と、その間の大聖人の意欲的な弘教破折活動により、徐々に厳しい状況になり、やがて竜ノロ法難に至る文永八年と、前後二期に区分することができる。よって右の区分によって、状況の変化・思想の変遷を追ってみたいと思う。  

 

  1. 前期(文永五年から同七年頃)の状況と思想について

(1) 前期の状況

この期の思想を見ていく前に、まずその状況を概説したい。

蒙古使者来朝に関して

文永五年正月の蒙古使者来朝について網野善彦氏は次のように述べている。

文永五年の年が明けるとまもなく、モンゴル皇帝の国書と、高麗国王の国書とをたずさえた高麗の使播阜は太宰府に到着した。これをうけとった太宰府現地の最高責任者、筑前国守護小弐覚恵(武藤資能)の送進によって、幕府に国書がとどいたのは翌閏正月のはじめ。朝廷は二月はじめ、幕府から正式にこれをうけとっている。

国書の内容は、通好を求めるものであったが、実質的には蒙古国の支配下に置くというもので、それを拒めば断固たる態度でのぞむというものであった。大聖人は文永五年四月五日の『安国論御勘由来』にこのことについて次のように述べている。

而るに勘文を捧げて巳後九ヶ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見る

それにしても情報収集の何と速く正確なことであろう。

さて、大聖人はかつて『立正安国論』において、法然浄土教を退治し、実乗の一善に帰さなければ「自戒叛逆難、他国侵逼難」が起こるであろうと進言したのであるが、今やそれが現実化しつつある。大聖人は、早速その因縁由来を再び記され各方面に働きかけている。文永五年四月五日、『安国論御勘由来』が「法鑒御房」に宛てられている。そこには『立正安国論』を幕府に呈した理由とその状況、そしてそこに記された予言が的中した今、自分の意見を用うべきことが熱く語られている。

先に述べたように、『安国論御勘由来』の草案または異本と思われる断簡が六点確認されており、大聖人のなみなみならぬ熱意がうかがわれる。『宿屋入道再御状』、身延曽存の『安国論副状』(双方・文永五年に系けられる)によれば、かって『立正安国論』を呈した時と同じく、宿屋左衛門入道を介して、再び幕府にそれを呈されると共に、会見を申し入れているようである。

このような働きかけに対する反応について文永六年十一月に系けられる『法華捨身念願抄』〈『金吾殿御返事』)には次のように述べられている。

去年方々に申て候しかども、いなせの返事候はず候。今年十一月之比、方々へ申て候へば少々返事あるかたも候。をほかた人の心もやわらぎて、さもやとをぼしたりげに候。又上のけさんにも入で候やらむ。これほどの僻事申て候へば、流死の二罪の内は一定と存せしが、いままでなにと申す事候はぬは不思議とをぼへ候

はじめの頃返事がなかったことは、『宿屋入道再御状』にも「去る八月之頃愚札を呈しむる之後、今月に至るも是非につけ返報を給らず・・・」とあるのに符合している。しかし文永六年九月、重ねて蒙古牒状がもたらされたことによってか、同年十一月に再び方々に書状を出した処、少しばかりではあるが反応があったようである。だがそうした反応よりも「強言、僻事」を方々に書き送り、それが「上のけさん」に入っているだろうに、先の『立正安国論』呈上の後の厳しい処置とうって変わって、何のお答めもないことに、「さもやとをぼしたりげに候」――少しつつ理解を示しつつある故との自信が見られる。

さて、右のような大聖人の行動の中には、必然的に『立正安国論』そのものの筆写が予想される。事実その形跡が次のごとく存する。まず文永六年の『安国論書写依頼状』(『安国論送状』)には、檀越から『安国論』を送ってほしいとの申し出があったらしく、その為の書写を富木殿に依頼している様子が窺える。

同じく文永六年に系けられる中山法華経寺に現存する『立正安国論』は同寺に伝わる嘉元四年(1306)の『沙弥道正授与状』によれば、「矢木式部大夫胤家」に授けられたものであるという。

またかって『安国論副状」と共に身延山に蔵されていた二十紙の『立正安国論』があり、『副状』の「未だ見参に入らずと離も事に触れ書奉るは常の習に候歎」の文によれば、幕府へ見参の時のために準備されたものの可能性もある。

更に、十四片の『立正安国論』断片が散在し、『日蓮聖人真蹟集成』は文永前期の筆跡とし、浅井円道氏は文永五年頃と推定、『日蓮大聖人御真蹟目録』(立正安国会編)では文永七年に系けている。同一本の断片が、将又複数のものであるか断定はできないが、字体は同年代のものと見てよいであろう。文永前期がいつを指すかは問題であるが、文永五年・七年についてはどちらにもその可能性があるであろう。

 

訴訟に関して

文永六年五月九日、土木入道に宛てられた書状『問注得意抄』は、その名が示すように問注についての心がまえを述べたものである。訴訟の内容は記されていないが、「一期の幸何事か之に加かん」とか、相手に対し「各々は一処の同輩也。私に於ては全遺恨無きの由之を申さるべきか」など、一時的私的なものではないことが窺える。大聖人の意気込みからして、おそらく信仰的なものであろう「御成敗の甲乙は且く之を置く。前き立て鬱念を開発せんか」「仏経と行者と檀那と三時相応して一事を成んが為に愚言を出す処也」と述べられるところ、一応勝ち負けはさておくとしながら、悪からぬ感触を持たれているようである。これは文永五年を境として、大聖人とその門下に対する幕府や世間の態度がやわらいだ結果であろう。

又、同年に系ける『十章抄』にもその末文に問注のことが記されている。先に少々述べたように、これもまた感触の良いものである。『問注得意抄』と同一の裁判であるか否かはにわかに判断できない。ただ『問注得意抄』が土木殿などに問注の主体があるに対して、『十章抄』の方は、必ずしも大聖人が当事者ではないとしても、大聖人に関係の深い問注のように思われ、或は別々のものではないかと思う。

 

(2) 思想について  

この期の大聖人の思想は、基本的には『守護国家論』以来の思想と同じであるが、右に述べたような状況の変化によって、思想においても多少の変化は認められる。以下数項にわたって述べようと思う。

 

立場――叡山への働きかけ

大聖人が天台法華宗の僧たる自覚を持たれていることは、以前と変わりがない。それは『安国論御勘由来』に、  

日蓮復之を対治するの方之を知る。叡山を除いて日本国には但一人也

『御輿振御書』(文永六年三月)に、  

滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為也。山門繁昌の為是の如き留難を起す歎

「法門可被申様事」に、

又日蓮房の申候仏菩薩、並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし。禅宗・念仏宗の等々を一もなく失ひ、其僧らをいましめ、叡山の講堂を造り、霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請しいれたてまつらざらん外は諸神もかへり給ふべからず、諸仏も此国を扶け給はん事はかたしと申せ

などの文によって明らかである。又、それは同時に叡山の「法華真言」の立場を肯定するものである。  

即ち『法門可被申様事』に、

俗の難に云く、慈覚大師の常行堂等の難これをば答ふべし。・・・伝教・慈覚は八宗を極め給へり。一切経をよみ給ふ。これみな法華経を詮と心へ給はん梯磴なるべし

また、

伝燈法師円仁の表にいはく、・・・叡山にをいては天台宗にたいしては真言宗の名をけづり、天台宗を骨として真言をば肉となせるか。而るに末代に及で天台真言両宗中あしうなりて骨と肉と分け、座主は一向真言となる。骨なき者のごとし。大衆は多分天台宗なり、肉なきもののごとし。仏法に諍ひあるゆへに世間の相論も出来して叡山静かならず。朝下にわづらい多し

と述べる如くである。ここには「法華真言」は、法華経を主体とし、真言をそれに付随させるという『守護国家論』以来のスタンスが主張されている。「座主は一向真言となる」とは『慈覚大師事』(弘安三年一月)に「明雲より一向真言の座主となりて後、今に三十余代一百余年が間、一向に真言座主にて法華経の所領を奪へるなり」とある。「大衆は多分天台宗なり」とは、当時の脱密教を指向した中古天台本覚思想を指すのだろうか。

後述するように、この時期より東密の真言が破折の対象となるが、「法華真言」の立場は尚続いている。それは佐前全般にわたることは勿論、『開目抄』(文永九年二月)に智証の『授決集』が肯定引文され、更に

今真言の愚者等、印真言のあるをたのみて、真言宗は法華経にすぐれたりとをもひ、慈覚大師等の真言勝れたりとをほせられぬればなんどをもえるはいうにかいなき事なり

と「真言の愚者」が、「慈覚大師等も真言勝れたりといっているのではないか」と思うことに対し、「いうにかいなき事」と反駁されている。

大聖人の台密批判は、天台(薬王)迹門・日蓮(上行)本門という台当違目がはっきりする『本尊抄』前後からである。因みに慈覚批判の初見は、『祈祷抄』(文永九年、身延曽存)である。

さて、大聖人が天台法華宗の僧たる自覚にある以上、叡山正常化の働きかけは、むしろ当然のことであるが、それが具体的行動として表面に出てくるのは、この時機に集中しているように思われる。『法華捨身念願抄』(『金吾殿御返事』)に「山門なんどもいにしえにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給り候」とあって、今まではとりつく島もなかった叡山が、蒙古使者来朝により「他国侵逼難」が現実化しつつあることで動揺していることが、大聖人にとってはチャンス到来ということになる訳であろう。働きかけの事実は『法門可被申様事』『十章抄」に見られる。『法門可被申様事』は宛名・日付等が無いが内容から推して、京都に滞在する弟子に、法門についての応対の手引きとして与えられたものと考えられる。二十紙表裏に書かれており、第一紙目に「一」の丁付けがあり、三紙が欠落し、第二十紙で一応筆は止められている様である。しかるに二十紙裏に「二十一」の丁付けをもって再び書き継がれ、五紙裏に「三十五」の丁付けをもって終っている。四紙裏に余白を残して終っているので、内容的には未完という印象はあるが、末尾紛失というものではない。宛名・日付がないのは、下書き的なものであったためであろう。

その内容は冒頭浄土破があるものの、その大半は当世天台宗への批判である。京都の弟子へ書き送ったということから想像をたくましくすれば、叡山正常化の働きかけを弟子に託し、その応対の手引き書とみることもできるのではないかと思う。その骨子は二つである。

一には、「而して当世の天台宗の人々は諸宗に得道をゆるすのみならず、諸宗の行をうばい取て我行とする」ことに対しての批判である。叡山の天台浄土教に対しては、従来から問題にしてきたことだが、ここでは禅宗・真言宗を許すことをも含めている。

二つには、叡山が真言宗を許すばかりか、一向真言宗になっていることへの批判である。先に引文した如く、座主が一向真言になることを嘆かれている。そのような叡山に対し、「叡山の三千人は此旨を弁へずして王法にもすてられ叡山をもほろぼさんとするゆへに、自然に三宝に申す事叶ず等と申し給ふべし」「仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我朝をほろぼさんとす」と『法華経』を中心とし、諸宗に毅然とした態度をもって正常化を計るよう促されるのである。

『十章抄』は、「爾前の円と法華の円の同異」に焦点をあて、もし天台宗自ら同じというならば華厳宗などと何ら区別をつける必要がなく、天台宗としての意味はないではないかと述べられる。このような大聖人の働きかけに対し、叡山がどのような対応をしめしたかは解らない。しかし『十章抄』の最末に「当時はことに天台真言等の人々の多く来て候なり」と述べられているところをみると、大聖人の意見に耳を傾けようとする動きがみえはじめたようである。尤も好意的なものばかりではなかったろう。後述するように『寺泊御書』(文永八年十月)にみられる「或人難して云く」が概ね天台宗からの難と思われ、かなりの反発もあったようである。こうした論議の中で、佐渡期の新たな法義的展開の下地が培われたものと思われる。

 

禅宗の破折

文永五年以前の大聖人の破折の対象は、法然浄土教にしばられていた観がある。『守護国家論』に華厳宗・法相宗・禅宗への非難があるが、前述の如く防衛的なものであった。むしろ、『念仏者追放宣状事』や『立正安国論』などは、法然浄土教を退治するという一点では、諸宗と協調的であるといえるだろう。

然るに文永五年を境に、その姿勢に変化がみられる。まず浄土教と共に禅宗が破折の対象となる。『安国論副状』(文永五年)には、

抑も正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引で之を勘るに、念仏宗と禅宗等と御帰依有る之故に、日本国中の守護の諸大善瞋恚に依て起す所の災なり

と述べて、従来災難の原因を法然浄土教にありとしていたのに加え、禅宗の名をあげている。更に法華捨身念願抄』(『金吾殿御返事』)には、

震旦高麗すでに禅門念仏になりて、守護の善神の去るかの間、彼の蒙古に従候ぬ

と述べて、禅念仏によって国の亡ぶ先例として震旦・高麗をあげている。

それに関連して『御輿振御書』(文永六年三月)には、

天竺には祇園精舎・難頭摩寺、漢土には天台山、正像二千年之内に以て滅尽せり。今末法に当て日本国計りに叡山有り。三千界之中に但此處のみ有る歟

と述べて、インド・中国には既に法華経は禅・念仏等に駆逐され消滅して、日本の叡山が最後の砦であるとの認識に立っていることが知れる。であれば、叡山天台法華宗の復興は日本国だけの問題ではなく一閻浮提の問題である。

『法門可被申様事』に、

仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我朝をほろぼさんとす

と述べているのはまさにその意である。晩年、弘安三年十二月に系けられる『諌暁八幡抄』の末文に「日本の仏法が月氏に帰るのだ」と述べられているのは、右のことが前提となっているのである。

『立正安国論』当時、「(法然浄土教という元凶を退治し)然て後法水の浅深を斜酌して、仏家之棟梁を崇重せん」と比較的悠長であったのが、文永五年を境に一転して禅宗等に厳しい破折が加えられるようになったのは、蒙古使者来朝という事件を媒介として、それが日本国の危機であるばかりか日本乃至一閻浮提の仏法の危機という認識に立ったからに他ならない。

 

真言宗の破折

真言宗の破折は禅宗破よりやや遅れて、『法門可被申様事』が初見である。

当世の人々ことに真言宗を不審せんか。・・・真言宗大に分て二流あり。所謂東寺天台なるべし。法相・三論・華厳・東寺の真言等は大乗宗、設ひ定恵は大乗なれども東大寺の小乗戒を持つゆえに戒は小乗なるべし。・・・叡山の真言宗は天台円頓の戒をうく。全く真言の戒なし。されば天台の円頓戒にをちたる真言宗なり等申すべし。而に座主等の高僧名を天台宗にかりて一向真言宗によて法華宗をさぐるゆへに、叡山皆謗法になりて御いのりにしるしなきか

右文は、法華経天台円宗の下に付随する真言と、それを離れた真言とを区別し、後者は謗法であるとの見解を示したものである。それに該当するのは、東寺東密は勿論、一向真言にかたよせする当時の叡山であって、その諸法の祈りは叶うものではないというのである。但しここには真言師の名や、教理的な批判はまだ出ていない。

次に文永七年に系けられるべき『善無畏抄』には、善無畏の『大日経義釈』が理同事勝にて法華経を下すのは、

法門第一の誤り、謗法の根本也…

と述べ、また、

其上、善無畏三蔵の弟子不空三蔵の法華儀軌には大日経・金剛頂経の両部の大日をば左右に立て、法華経多宝仏をば、不二の大日と定めて、両部の大日をば左右の臣下の如くせり

と、不空は法華経中心の考えであったことを述べている。いずれにしても、後の「一念三千の義を盗む」というような教理に踏み込んだ所論ではない。

 

律宗の破折

律宗の破折は『行敏訴状」をめぐって次項に述べるが、積極的な破折ではないものの、『御輿振御書』に、

随て禅僧・律僧・念仏者王臣に之を訴えられ、三千人の大衆我山破滅の根源とも知らず、師檀共に破国破仏之因縁に迷へり

『法門可被申様事』に、

禅宗・律僧等又一同に行ぜしかどもかなはず

と述べて、既に禅・念仏・真言と共に破折の対象としてその名が見える。

 

大師講について

大師講については『法華捨身念願抄』(『金吾殿御返事』)に

大師講鷲目五連給はり候了ぬ。此大師講三四年に始て候が、今年は第一にて候つるにて候

と述べられて、文永六年の本状より逆算して文永三、四年頃からはじめられたようである。「大師講鷲目五連・・・」とあるのは天台大師の御影に供えられたものであろう。またこの書状に先立つ同年六月七日付けの『冨木殿御消息』には、

大師講の事、今月明性房にて候が、此月はさしあい候。余人之中せん(為)と候人候はば申させ給へと候。貴辺如何。仰せを蒙り候はん。又御指合にて候わば他處へ申べく候

とあって、毎月行われていたことがうかがわれる。「明性房」が「さしあい候」というのは、講師のことであろう。富木殿に「貴辺如何」というのだから、法要の導師的なことではあるまい。僧俗の分け隔てなく、法門が講ぜられていることは興味深い。

大師講が始められた理由は、天台法華宗の伝燈復興、興学などいくつかの事柄が考えられるであろう。なかでも『安国論』に「或は天台大師の講を止めて善導の講となす」とあるように、叡山僧が法然浄土教に改宗し、右のような事態が横行することを歎かれる大聖人にとっては、大師講を復活させることは、叡山復興の象徴となるものであったのではなかろうか。

また『法華捨身念願抄」(『金吾殿御返事』)に「今年は第一にて候つるにて候」とあって、特に文永六年頃から大師講を重要視されている。その理由は何であろうか。その端書きに、「止観の五、正月一日よりよみ候て、現世安穏後生善処と祈請仕候」、とあり、止観第五を読み、或は講ずることと関係がありそうである。

止観第五といえば「一念三千」の出処であり、右のことがらは、『十章抄』『双紙要文』(文永六年)『開目抄」『本尊抄』と大聖人独自の一念三千論が展開されていく、その出発点として位置づけられてよいものではないかと思う。それは「寺泊御書」に「唯教門計り也。理具は我之を存す」と恐らく叡山僧よりの批判が述べられているが、その批判に答えていこうという、いわば教理的な側面も確かにあったろう。それと共に「今年」という年次に注目すれば、それが蒙古使者来朝と密接に関連しているのではないかと推測されるのである。後年、大聖人は『兄弟抄』(文永十二年)に、

其上摩訶止観の第五の巻の一念三千は、今一重立入る去門ぞかし。この法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はすば正法と知るべからず

と、正法たる一念三千法門を弘通するところ必ず難が起る旨が述べられている。これは『止観』冒頭の「三障四魔紛然と競い起こる」との文によっていることはいうまでもない。このような思想と蒙古使者来朝とを関連づけるとすれば、次の二つのことがらが想定されるであろう。

まず第一に、予想される蒙古襲来は、まさに天台法華宗の興隆、一念三千法門の流布の前兆としての「魔」であると考えられたのではないか。『止観」第五を読み、講じて「現世安穏後生善処」を祈請したのは、こういったことを門下に周知せしめると共に、相応の覚悟をもって、国難を乗り切ること、更に正法流布を祈念されたということではないかと思われるのである。

第二には、蒙古使者来朝を機に、方々に強言を書くなど激しい弘教活動によって、大聖人や門下に競い起こるであろう諸難を「魔」と捉えられていたのではないかということである。つまり諸難を受けることこそが、弘通する法門の正しさを証明することであり、且つその後に流布していく前兆となるのであるということを、『止観』第五を読み、講ずることによって確認したのではないだろうか。「今死罪に行われぬことこそ本意ならず候へ。あわされる事の出来し候へかしとこそはげみ候て、方々に強言をかきて挙げをき候なり」とあるのは、その辺の心境が語られているとみられるのである。

右の二つは必ずしも二律背反するものではないから、双方同時に大聖人の胸中にあったと考えても良いであろう。

 

一念三千について

大聖人が「一念三千」をどのようにとらえ、位置づけされていたかは、大系的に、その時々の変化を丹念に追いながら述べる必要がある。右に少しく触れたように、一念三千論が法義の中心に据えられ、盛んに述べられるのは佐渡期である。但しその下地は佐前の後半、文永六年頃からみられるのである。大聖人独自の一念三千論が成熟していく過程については、後編「佐渡期」にゆずり、今はこれまで述べてきたことを振り返りながら、佐前の一念三千について整理しておこうと思う。

まず一念三千の初見は『一代聖教大意』である。ここでは爾前経と法華経の決定的相違の根拠として、十界互具・一念三千論が用いられている。つまり爾前経と法華経の勝劣を教相において述べる時は五時八教(当時は五時教判)によられ、観心面において述べるにあたっては、一念三千論が用いられるのである。

次に『守護国家論』『唱法華題目抄』『南条兵衛七郎殿御書』(文永元年)においては、行法の面から、一念三千観法は愚者の行儀ではないので、末代の凡夫は法華経への信、唱題、護法によって成仏を期すべきであることが説かれる。

次に『十章抄』(文永六年)においては、『止観』の極意たる一念三千論は法華経本門によるべきことが示され、且つ、行儀としては一念三千観法は智者の行であり、在家は唱題に限ることが示されている。尚、「威王ツリモノ断簡」(文永五年)には、『十章抄』に出てくる「依義判文・依文判義」の語とともに「横の一念三千 ― 迹門・縦の一念三千 ― 本門」という文がみられる(迹門・本門の字は他筆)。

次に『小乗大乗分別抄』(文永八年)には迹門(二乗作仏)・本門(久遠実成)に対して、更に奇特の法門として一念三千が位置づけられている。

以上を整理すると、教理的に一念三千を見る時は@爾前経と法華経の勝劣、A爾前経と迹門と本門との勝劣、B迹門と本門と観心との勝劣、を示す三つのパターンが認められる。また行儀として見る時は、はやくから智者の行として位置づけられ、愚者の唱題行に相待している。

 

花押について

花押の初見は『安国論御勘由来』である。勿論これはあくまで現存する聖筆においてであって、必ずしも初めて花押を使用されだということを意味しない。ただ、文永元年二月十三日の『南条兵衛七郎殿御書』の日興写本に「十二月十三日日蓮」とあって「判形」のあったことが記されていないことは重視すべきと思う。他の写本において花押のある場合は必ず「判」・「御判」・「在御判」と記入されているのであって、『南条兵衛七郎殿御書』にそれがないのは、花押が無かったことを意味していよう。勿論、花押のない書状は花押が確認される文永五年以降に存在するけれども(『忘持経事」など)、署名があって花押がない例は皆無である(文永五年以前の建長五年十二月九日『冨木殿御返事』は署名があって花押がない)。

文永五年、蒙古使者来朝による新境地によって、花押が使われ始めた可能性は高いように思う。尚、この期の花押は先に述べたように(『興風』第九号五七頁)、バン字形で空点はカギ手になる前の点ないし棒状であり、右の他『御輿振御書』(文永六年三月一日)『問注得意抄』(文永六年五月九日)『安国論書写依頼状』(『安国論送状』・文永六年五月二十六日)『土木殿御返事』(文永六年六月七日)『止観第五之事』」(文永六年十二月二十二日)『御衣布単衣御書』(文永七年九月二十八日)『御衣有給候御返事』(文永八年)がある。この花押は文永十年四月二十六日『妙一尼御返事』まで

続く。

 

  1. 後期(文永八年)の状況と思想について

1)後期の状況

右に述べた如く、文永五〜七年にかての大聖人は、浄土教に加え、禅宗・真言宗・律宗、そして真言宗になりはてた叡山を厳しく批判された。こうした大聖人の言動を黙殺していた諸宗も、次第に危機感を深め、動きはじめた。『行敏訴状』はその顕われである。

以下、同訴状と、それに対し大聖人が反駁された『行敏訴状御会通』などを手がかりに、その辺の状況を見てみようと思う。

 

『行敏訴状』

『行敏訴状』は西山本門寺に所蔵される、日興筆の「諸宗要文」ともいうべき「要文集」の中に収められている(原本には『園城寺申状』という名が付けられている)。

さて、本訴状は冒頭「僧行敏謹言上」とあって訴人は行敏である。ただし大聖人が実質的訴人が良観房・念阿良忠・道阿弥陀仏道教とみられていたことは、『行敏訴状御会通』に、

当世日本第一の持戒の僧良観聖人並びに法然上人之孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の聖人等の日蓮を訴訟する状に云く

とあるによって知れる。先の日興筆の「要文集」にも

行敏とは乗達也。乗達者念阿ミタカ弟子也。忍性者極楽寺良観房也。文永八年太歳辛未、良観房訴状、雑掌行敏也…

とあって訴状の本主は良観房、行敏はその雑掌、つまり手続き人とみていたことがわかる。訴状には、行敏が大聖人宛てに問答対決を申し込んだ文永八年七月八日付けの『行敏訴状』と、それに対する大聖人の七月十三日付け返書が添えられた。訴えの内容は大旨次の四点である。

一、日蓮は法華経のみが正法で、他の爾前の諸大乗経は謗法であるといい、念仏宗・禅宗・律宗等に悪口の限りを尽くしている。

二、その日蓮に同調する信徒が、今まで崇敬してきた弥陀・観音等を焼いたり水に流したりし、また念仏持戒を毀謗している。

三、更に法華守護と称して家に武器を持ち込み、凶徒をかこっている(これは大聖人のことか、或は信徒のことか。前文が信徒のことを述べそれに続いているようなので、信徒のことのようにも思える)。

四、近日、早魅に際し、諸寺において祈雨を行っていたところ、日蓮は良観上人の所へ再三弟子を遣わし、諸寺の祈りは邪法にして叶わぬものである、よって謗法の諸寺を焼き払い、諸僧等の頸を切って由比の浜に懸ければ、祈雨も叶い、四海も静謐となるであろうとの悪口を吐いた。

 

『行敏訴状御会通』について  

右のような行敏の訴状に対し、大聖人はさっそく反駁を加えられた。身延曽存御書『行敏訴状御会通』である。これは内容的には訴状に対する陳状にあたるものであろうが、たとえば『頼基陳状』のような陳状の体裁にはなっていない。同種の断簡が富士妙蓮寺に所蔵されており、門下や関係者に書き送られたものではないかと思われる。大聖人の反駁は、訴状の後半部分にあたる良観房の祈雨の件を除き、主要部たる前半の訴えについて、一々に文を挙げながら、こと細かになされている。今、右の四点の要約に従って反論の内容を見てみよう。

一、諸宗への悪口については、法華経が諸宗に勝れるというのは日蓮の自義ではなく、経文に照らし明らかなことである。又念仏は無間の業、禅は天魔の説、律宗は世間証惑の法であるというのも、日蓮の私の言葉ではなく、道理経文に照らして明白なことであって、悪口ではないと反駁されている。

二、大聖人の信徒が弥陀観音等を火に焼き水に流したという件に関しては、門弟の誰がそういうことをしたのか、確かな証人を示せ。さもなくばそれは、良観房等がわれわれを陥れるためにしたことであろうと述べ、この件の徹底解明を求めている。

三、凶徒を室中に集め、兵杖を家に蓄えていることについては、そもそも凶徒とは何をもっていうのか、『勧持品』によれば、真の凶徒とは邪教をもって民衆を陥れる良観房等、第三類の強敵こそをいうのであり、彼ら謗法の僧の住む諸寺を悪所というのであるとしている。更に兵杖をたくわえていることについては、法華経守護の為に武器を持つことは、『涅槃経』等に許されていることであると反駁され、しかし、実際に凶徒によって被害を受けているのは我々の方であって、それは良観房の策謀によるものであるとしている。但し本書が、過去三国において仏敵を武力によって退治した例を引いて終っているところをみれば、『守護国家論』以来の武力による正法護持、護法退治の主張は、継続しているようである。

四の、祈雨の件については大聖人は言及されていない。しかし、後年『頼基陳状』(建治三年六月二十五日)に、

去文永八年太歳辛未六月十八日大旱魃の時、彼御房祈雨の法を行ひて万民をたすけんと申し付け候由、日蓮聖人聞き給て、此体は小事なれども、此次でに日蓮が法験を万人に知らせばやと仰せありて、良観房の所へ仰せつかはすに云く、七日の内にふらし給はば、日蓮が念仏無間と申す法門すてて、良観上人の弟子と成りて二百五十戒を持つべし。雨ふらぬほどならば、彼御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし・・・仍て良観方の所周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす…

とあって、そうした事実はあったようである。訴状には大聖人の弟子が良観のもとへ行ったとあるが、ここでは「念仏者を遣わす」とある。「両三度」使者が行っている様であるから、このどちらもが遣わされているのだろうか。また諸寺を焼き、諸僧の頸を切れといったことについては『高橋入道殿御返事』(建治元年七月十一日)に、

 たすからんとをもわしたまうならば、日本国の念仏者と禅寺の頸を切てゆいのはまにかくべし

と述べているくらいであるから、事実であたった可能性は高い。

良観房等は、このような大聖人の強硬な言動、そしてそれへの同調者が増えていくことに強い危機感を懐いたであろう。日興筆写の同訴状の後には、良観房が治部入道、信濃判官入道にあてた、文永八年七月二十二日付け書状が写されている。そこには訴状同様、大聖人が諸宗を非難していることが訴えられており、各方面に大聖人逮捕を画策したようである。幕府はこのような訴えを無視する訳にはいかなかったであろう。大聖人の逮捕はもはや時間の問題であった。

 

(2)思想について「寺泊御書」から

この頃の大聖人の思想については、特に前期と異なるものはない。本節を終えるにあたって佐渡流罪の途上、寺泊で述べられた大聖人に対する非難、換言すれば逮捕直前に大聖人が語っていたと思われる思想にふれて、しめくくりとしたい。『寺泊御書』(文永八年十月二十二日)には次の如く述べられている。

或人日蓮を難じて云く、機を知らずして麁義を立て難に値うと。或人云く、勧持品の如きは深位の菩薩の義也。安楽行品に違すと。或人云く我も此義を存すれども言ばず云々。或人公く、唯教門計り也。理具は我之を存すと

「麁義をたてる」とは既に見てきたように相応の覚悟をもって成されてきたことである。「勧持品・・・」は、この時は『開目抄』同様、『勧持品』の色読即ち「二万の菩薩・八十万億那由陀の菩薩」の自覚が強調されていたことを示している。これは後『本尊抄』で本化上行の自覚を示される前の段階ということができよう。「唯教門計り」とは必ずしも当を得た難ではない。『止観』を講じ、一念三千を盛んに論じられたことは先に述べた如くである。「理具は我之を存す」とは「教門計り」との批判と対応し、自分は観心門たる理具の法門を重視しているという天台僧の言葉であろう。こうした疑難は後、例えば理具に対する大聖人独自の事行の観心思想を示す引き金になったといえるであろう。  

 

第3章 佐渡期の思想

 

第1項 法難前夜の思想――『寺泊御書』を中心として

文永八年九月十二日申時から酉時にかけて、平左衛門率いる多勢の兵士が大聖人の草庵に乱入、乱暴狼籍の末大聖人を逮捕した。いわゆる「文永八年の法難」の幕開けである。その日の夜中龍ノ口の虎口を逃れられた大聖人は、依智の佐渡守護代本間六郎左衛門尉重連の館に一ヶ月ほど逗留され、配流地佐渡に向われた。その途次佐渡をのぞむ寺泊において、舟待ちの寸暇を惜しんで認められた『寺泊御書』には、短い書状ながら当時の大聖人に向けられた法義的批判や、大聖人自らが抱えられていた課題が示されている。佐渡期に示された法義はいわばこうした批判や課題に答えたものといえよう。では『寺泊御書』に示された批判・課題とはいかなるものであろうか。

「或人難日蓮云、不知機立 麁義値難。或人云、如勧持品者深位菩薩義也、違安楽行品。或人云、我存此義不言云云。或人云唯教門計也、理具我存之。」

ここには「或人」の難として四点が挙げられている。しかし、最後の「教門ばかり云云」を除き、前の三点は弘通に関する事柄という点で一括りにすることができるであろう。つまりここに掲げられた大聖人に対する批判は弘通に関することと教義に関することの二点に集約することが出来るのである。

まずはじめに弘通に関する批判を見てみよう。第一の「不知機立麁義値難」は、第二の「違安楽行品」と第三の「我存此義不言」と同義である。すなわちたとえ正義たりとも、相手の機根を考えずに説いて、その結果大難に遭うのは自業自得であるばかりか、相手に正法誹謗の大罪を犯させるのであって、それは『安楽行品』に「若しは口に宣説し若しは経を読まん時、楽って人及び経典の過を説かざれ。亦、諸余の法師を軽慢せざれ。他人の好悪長短を説かざれ。云云」と説かれることに違背するものであるというのである。ちなみに「我存此義不言」はどのように読むべきであろうか。もし『昭和新定日蓮大聖人御書』(以下『新定』と略称)『昭和定本日蓮聖人遺文』(以下『定本』と略称)『日蓮大聖人御真蹟対照録』(以下『対照録』と略称)のように「我も此義を存すれども言わず」と読めば、此義とは大聖人が主張されたような法義ということになり、そういうことは存知しているが、敢えてそれを口には出さないという意になるであろう。それでもよいのだが、「我れ此義を存して言わず」とは読めないであろうか。そう読めば「此義」は上に挙げられている『安楽行品』等の意を指し、その意を滞する故に敢えて「言わず」つまり強烈な弘通はしないという意になるであろう。

また、第二の批判の前半部「如勧持品者深位菩薩義也」とは、同御書に「日蓮八十万億那由陀諸菩薩為代官申之」とあって、この時期大聖人は不軽菩薩のご自覚と共に、『勧持品』において此土仏教を誓願した八十万億那由陀の菩薩の代官、或は勧持品色読というご自覚からすれば、菩薩そのもののご自覚に立たれていたことがわかる。右の批判はそれに対し、『勧持品』に登場する菩薩方は深位の菩薩であって、到底末代悪世の凡夫などこれに比すべくもない。『勧持品』に説かれる深位の菩薩の誓願が、あまりに難行であるからこそ、『安楽行品』に易行の行者のための弘教の方軌が説かれるのであって、『安楽行品』を捨てて『勧持品』の深位の菩薩を気取るなど身の程知らずであるというのである。

次に法義的問題として、「唯教門計也、理具我存之」との難は、大聖人が専ら天台のたてられた五時八教という教相判釈によって法華経の最勝なることを主張するばかりで、観心門が明確に示されていないとの批判である。この批判は『一大聖教大意』以来常に教門の五時八教と観門の一念三千とをもって法華経の最勝なることを主張され、殊に文永五年頃からは一念三千論を集中的に論ぜられ、また門下にも止観第五を講ぜしめるなど、けして観心面を疎かになどされておらず妥当なものとは言い難い。しかし、批判者はそのような観点からのみ「教門計」と批判したとは限定されない。次下にいう「理具は我之れを存す」という言葉は特に注意を要し、そうした観点からも批判者の意図を探る必要があろう。尚、従来右文は「理は具に我之を存す」と読まれてきたが、「理具」と読むべきが妥当であろうことを提言しておきたい。

さて本題に戻れば、まず「教門計也」との批判は、同じく文永八年に系けられるべき『小乗大乗分別抄』に「又世間の天台宗の学者並に諸宗の人々の云、法華経は但二乗作仏・久遠実成計也。」とある批判と同種のものとも考えられるのである。つまり法華経の二箇の大事を教相と定義した上で、日蓮はそれ計りを主張し、観門たる実践的成仏論が欠けているとの批判である。そうとすれば「教門計也」の次下に批判者が示した「理具我存之」の「理具」とは、必然的に批判者が主張する観門・成仏論ということになろう。しからばその「理具」の内実はいかなるものか。今参考として「理具」の語が見られる御書を挙げれば次の通りである。(但し、真偽に問題のある御書は除く)

@『観心本尊抄』「像法中末観音薬玉示現南岳天台等出現、以迹門為面、以本門為裏、百界千如一念三千盡真義。但論理具事行南無妙法蓮華経五字並本門本尊未廣行之。」

(文永十年四月二十五日)

A『王舎城事』「ある人のゆきあひて、理具の法門自讃しけるをさむざむにせめて傾けると承り候。」

(文永十二年四月十二日)  

B『五眼六識事』「理具、加持、顕徳」

右の内『観心本尊抄』に記される「理具」は、本門事行の題目・本尊に対する、天台所立の迹面本裏の一念三千を指している。

次ぎに『王舎城事』に記される、退転した名越の尼(文脈からしてそう推す)が自讃していたという「理具の法門」については、文面からはその内実を特定することはできない。

『五眼六識事』については若干の説明を要する。ここに記される「理具」は『異本即身成仏義』第三本(空海作といわれるが疑義も呈されており、ことに第三本はそれが濃厚である由である。)に見られる、

理具・加持・顕徳のいわゆる三種即身成仏の一つである。ではこの三種即身成仏はいかなる意図で記されたのであろうか。この『五眼六識事』と後世題された二紙からなる図表は、題名が示す如く六識にそれぞれ「肉・天・慧・法・佛」が配されている。そしてその図の意図するところは、図の左右更に字間に書き加えられた引文によって推することができる。すなわち『涅槃経』の「学大乗者雖有肉眼名為仏眼、耳鼻五根例亦如是。」、『菩薩處胎経』の「法性如大海不説有是非。凡夫賢聖人唯在心垢減。平等無高下取證如反掌。」、『法華文句記』の「但知彰灼授記二乗顕露分明説長遠壽。於茲一座無不聞知。敬名為顕。」がそれぞれ引文されており、そして引文ではないが「理具・加持・顕徳」の文字が、恐らくこの紙に記された最後の文字として左上隅に記されているのである。『涅槃経』の文は、大乗を学すことによって凡夫の六根は仏の六根と等しいという凡仏不二を示しており、『観心本尊抄』では人界所具仏界の証文として挙げられている。この経文は字の配置などから推して図を書いた直後に記されているようであり、両者が直接的に繋がっていることが推せられる。そしてその後に記された『法華文句記』は文頭に「正説・領解・述成・授記・歓喜」と記され二乗成仏を念頭に置いての引文であることが判るが、直接的には法華経は二箇の大事を顕露に示している故に、密教ではなく顕経であるとの意。『菩薩處胎経』は文頭に「魔梵釈女」とあるように、それら諸天の即身成仏を示した『諸併行齋無差別品第十三』の引文である。以上を要するに、これらは人(肉眼)天(天眼)二乗(慧眼)の即身成仏(仏眼を備う)を示すものであり、三種即身成仏の記載も当然それに関連してのことであろう。

ところで、三種即身成仏に関しては窪田哲正氏の『日蓮の師俊範の未紹介資料について』という興味深い論稿がある。それによれば、俊範撰述の所謂『俊範抄』に、真言宗から天台宗に三箇条の難題、すなわち「一、秘教は三種(理具、加持、顕徳)の即身成仏をたてるが、顕経には理具、加持の即身成仏説はないのではないか。二、秘教の即身成仏の証位は『菩提心論』にいう「大覚位」であって、法華竜女の初住成仏に勝る。三、秘教は不断障成仏だが、天台は断障成仏ではないのか。」が示され、俊範がそれらに反論している。三項目ともその問答自体大聖人の即身成仏義の形成を知る上で大変興味深いのだが、今は当面の三種即身成仏に目を向ければ、俊範は天台宗にもそれがあるとして妙楽・安然等の著述によって反論している。窪田氏はこれを叡山の三種即身成仏受容の嗜矢と見、更に俊範を経由して大聖人にも影響を与えていることを、『五眼六識事』や門弟日法の『聖人御法門聴聞分集』「慈覚智証等ハ法華ノ即身成仏ハ理具ノ即身成仏ト云ヒシ文有トモ、其人無クハ加持警彼(顕徳の誤写か)成仏ハ不可有。大日経ニハ文義共二無之。法華経ニハ文義共二レ之。」との文により見て取られている。

右のことを勘案すれば、『五眼六識事』の引文も、単に真言の教義としてではなく、当時の天台教学に組み込まれたものとしての引用ということも念頭に置く必要があろう。しかし、そうであるからといって、この語がすなわち肯定的に記されていると断定するわけには行かない。現に「理具」については、その内実に幅がありながらそのいずれに対しても大聖人は否定的立場に立たれているのである。故に今は肯定否定の判定をせず、参考の為の引文としておきたい。

さて、右の諸文からはおよそ二種の「理具」を想定することができよう。すなわち一つは『観心本尊抄』に見られる教理としての迹門理具の一念三千、そしてもう一つは『五眼六識事』に見られる成仏論としての理具の法門である。(名越の尼のいう理具の法門は、それを自讃していたことや、大聖人門下がさんざんに破折したことなどを考えると、まじめな天台迹面本理の理具法門ではなく、真言に影響を受けた理即本覚的理具成仏の法門ではなかったか。)そして『寺泊御書』に見られる批判者の「理具」とは、先に少々述べたように観門・成仏論に属するものと考えられるので、後者に類するものと思われるのである。それは後述するように、天台の一念三千を理具と規定されるのは、台当本迹違目が示される『観心本尊抄』以降であることからも首肯されよう。となれば「唯教門計り」という批判は、教観二門のバランスの問題というより、当時中古天台のいわゆる観心主義者から呈された即身成仏に関するものと考えるのが妥当と思われる。

以上が『寺泊御書』に見られる批判の概要であるが、これら批判者である「或人」は、最後の批判者のみならずすべてが天台宗の人ではないかと思われる。大聖人の強説に対し法華経の『安楽行品』をもって批判していることや、自分はそれ故に「不言」といっているのは、外部者というより同門的な感じがするのである。恐らく『十章抄』に「当時はことに天台真言等の人々の多く来たりて侯なり」とあるように、天台真言の人々が大聖人のもとに集まって、このような議論がなされたのであろう。また『開目抄』に「日蓮が御勘気をかほれば天台真言の法師等悦くやをもうらん。」とあるのもこの辺の状況を物語っている。「天台真言」が台密すなわち叡山天台宗を指すことはいうまでもない。勿論先の『小乗大乗分別抄』には「世間の天台宗の学者並ヒに諸宗の人々」、とあり、またこの時期一念三千即身成仏義に関連して盛んに華厳宗真言宗を破折されているのであるから、必ずしも天台宗に限定すべきではないかもしれない。しかし、上述の如くこの時期大聖人が特に弘教の在り方そして即身成仏義に関して、同門からの批判が厳しく寄せられたことも確かであり、その批判に理論的に答えられる中、必然的に台当達目が整理され、そして独自の本門思想観心法門が展開されていくのではないかとの推測も、あながちに荒唐なものではないと思うのである。

最後に『寺泊御書』から推せられる、この時期大聖人が抱えられていた問題を整理しておこう。第一に弘教の問題。正しい法を弘教して何故大難を蒙るのか。強いて説くという弘教方法ははたして正しいやり方なのか。こうした疑問にしっかりとした裏付けをもって答えることが、ご自身はもとより大聖人に従って刑に服す弟子達に対しても急務であった。第二に観心門についての問題。この問題は大別すれば、教相を無視する理即本覚的観心(華厳真言の即身成仏義も含めて)に関する問題と、伝統的天台の迹門理具の観心に対する問題という二つが考えられる。そしてこの時期においては前者が問題の中心になっていたことが『寺泊御書』の文から推せられる。それへの回答乃至反論は、後述するように佐渡前期『開目抄』を中心として「二箇の大事」とりわけ「本門思想」という、いわば教相面からなされているといえよう。そしてそうした作業の中で一念三千論は整理され、やがて脱天台を表明される『観心本尊抄』に至り、問題は後者へと移って行くのである。

   

第2項 佐渡前期の思想――『開目抄』を中心として

第1 大難の意義

正しい教えを弘める者に何故に次々と大難が競い起こるのか。法華経には、末代の法華経の行者は必ず善神がこれを守護すると説かれているのに、それが果たされないのは日蓮は真の法華経の行者では無いのではないか――そうした疑念への回答は世間に対してのみならず、大聖人に従ったが故に寒き土籠に投獄され、また、その他様々な非難中傷を受ける弟子檀越のためにも、可及的速やかに為さねばならぬ課題であった。そのことは、龍ノロの虎口を逃れ幕府の正式な処置決定を待つために逗留した依智の本間邸において『転重軽受法門』が、さらに寺泊にて舟待ちの寸暇を惜しんで『寺泊御書』が認められていることで容易に推することができよう。しかし、それらは当然のことながら体系的なものではない。佐渡に着いた大聖人は身辺の整理ももどかしく、早速体系的法門書執筆の準備に取りかかられたことであろう。翌文永九年二月、たった三月たらず、極寒の雪中に大著『開目抄』は書き上げられ門下に届けられた。その論旨の中心は勿論大難の意義付けであって、その理由は、一に『勧持品』の色読、二に不軽菩薩の折伏、三に『不軽品』に説かれる不経菩薩の過去法華経誹謗の罪業感(其罪畢已=転重軽受)、四に神天上法門、以上の四項目に集約することが出来よう。以下それらについて順次見て行くことにする。

 

一、『勧持品』の色読――付、この時期の大聖人の立場

先に『寺泊御書』について述べる中『勧持品』についても触れたが、批判者が大聖人の『勧持品』色読を非難していることは、とりもなおさず大聖人がそのように主張されていたことを意味する。事実『寺泊御書』には

「時當當世三類敵人有之但八十万億那由他諸菩薩不見一人如乾潮不満月虧不満。清水浮月、植木棲鳥。日蓮八十万億那由陀諸菩薩為代官申之。彼諸菩薩請加被者也。」

と述べられている。ここでは「代官」といわれているが、それは謙譲の意味や、批判者に対する配慮の為とも思われる。そしてその意識はこの度の法難が起きる以前、具体的には『法華捨身念願抄』(旧名『金吾殿御返事』に

「人身すでにうけぬ。邪師又まぬがれぬ。法華経のゆへに流罪に及ヒぬ。今死罪に行れぬこそ本意ならず候へ。」

とあり、少なくとも蒙古使者来朝を契機とし、その後そう時を経ずしてに既にあったことを推しうる。

では『開目抄』では『勧持品』の色読が、どのように体系的に示されているのだろうか。

いうまでもなく『法華経』迹門の流通分は、『法師品』に於いて滅後弘教の方軌が五種法師により説かれた後、『宝塔品』『提婆品』における仏の滅後弘教の要請(五箇の鳳詔)に対し、『勧持品』において二万の菩薩・八十万億那由陀の菩薩が滅後悪世の此土仏教を誓願するという構成になっている。そこで大聖人は、何故法華経の行者が大難に値うのかとの疑問を総括した上で、この構成に従って五箇の鳳詔から説き起こされていく。

「日蓮案云、法華経の二処三会の座にましましし日月等の諸天は、法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸がごとく、須臾に来て行者に代、仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候に、いままで日蓮をとぶらひ給わぬは日蓮法華経の行者にあらざるか。されば重て経文を勘て我身にあてて身の失をしるべし。……法華経の第四宝塔品云、爾時多宝仏於宝塔中分半座・・・仏欲以此妙法華経付嘱有在等云云。第一の勅宣なり。又云、爾時世尊欲重宣此義而説偈言、聖主世尊・・・今於仏前自説誓言○。第二の鳳詔也。多宝如来及與我身所集化仏当知此意・・・今於仏前自説誓言等云云。第三諫勅也。第四・第五の二箇の諌暁提婆品にあり。」「宝塔品の三箇の勅宣の上提婆品に二箇の諌暁あり。・・・今法華経の時こそ、女人成仏の時悲母の成仏も顕れ、達多悪人成仏の時慈父成仏顕るれ。此の経は内典の孝経也。二箇のいさめ了。以上五箇の鳳詔にをどろきて勧持品の弘経あり。」

右の五箇の鳳詔、すなわち仏が発せられた滅後此土弘経の要請に対し、『勧持品』の二万の菩薩・八十万億那由陀の菩薩の誓言があるのだが、ことに八十万億那由陀の菩薩の誓言の中に所謂「三類の強敵」が示される。滅後に法華経を弘める者には、俗衆増上慢・道門増上慢・僭聖増上慢が顕われて、「悪口而顰蹙 数数見擯出」等をもって迫害するが、「我不愛身命 但借無上道」の精神でこれを忍び弘経すると誓うのである。大聖人はこれら『勧持品』の文を挙げられ、更に智度法師が示された三類の強敵の解説等を載せ、そしてその法華経の予言は末法の今、まさに現前にありとして具体的に指摘されるのである。

「第一の有諸無智人云者、経文第二の悪世中比丘、第三の納衣の比丘の大檀那等と見へたり。・・・第二の悪世中比丘と指るるは法然等の無戒邪見の者なり。・・・第三法華経云、・・・。東春に即是出家処摂一切悪人等者当世日本国には何処ぞや。・・・華洛には聖一等、鎌倉には良観等ににたり。・・・今末法の始には良観・念阿等、偽書を注して将軍家にささぐ。あに三類の怨敵にあらずや。」

このように第一俗衆増上慢は第二類第三類の大檀越、第二道門増上慢は法然、そして第三僭聖増上慢は世間から生き仏と敬われ、権力に取り入って法華経の行者を弾圧する良観・聖一・念同等を挙げている。まさに『勧持品』に示された三類の強敵は予言通り現前にあり。然からば彼らから迫害を受ける法華経の行者も現前しなければならない。

「仏と提婆とは身と影とのごとし。生々にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば必ス三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらむ。」

ここにおいて大聖人は一往「日蓮は法華経の行者にあらず。天これをすて給ゆへに。」といわれているが、次下を見ればその自覚に立たれていたことは明らかである。すなわち「有人云ク、当世の三類はほぼ有ルににたり。但法華経の行者なし。汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり。・・・答テ云ク、汝が疑ヒ大に吉シ。ついでに不審を晴サン。」と述べた後、仏の九横の大難、不軽菩薩の杖木瓦石、その他目連・提婆菩薩・師子尊者・道生・北野天神・白居易等、正法を弘通する故に大難にあった法華経の行者の先例を列挙されて、自分の姿に擬せられているのである。

以上を要すれば、大難に値いしかも諸天の加護がないのは、法華経の『勧持品』に仏が預言していることであって、日蓮が一門はそれを実践しているのであるから、仏語を実語としているとともに、それ故にこそ真の法華経の行者である、ということになるであろう。

さて、本項を終えるにあたり、関連事項として『開目抄』執筆時の大聖人の立場と、御一期の中での『勧持品』の引用傾向について述べておこうと思う。

先ず立場については二つの視点がある。一つは天台宗の立場、もう一つは『勧持品』の八十万億那由陀の菩薩の自覚である。

佐前の大聖人の立場は一貫して「法華真言」即ち天台宗の僧であったことは既に『興風』十号に述べた。

然るに佐渡前期、その中心をなす『開目抄』ではどうであろうか。今それに関する文を拾ってみると、

「而ルを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。」

「華厳・法相・真言等の人師天台宗の正義を嫉むゆへに、……」

などを挙げることができ、これらは一応天台宗の立場に立っての言辞ということができる。更にそれを決定付けるのは智証が肯定引文され、慈覚を庇われていることである。すなわち「(上に依法不依人について龍樹・天台・伝教と引文された後)円珍智証大師云ク、依文可伝等云云。」と述べ智証の『授決集』が肯定引文され、更に慈覚については「今真言の愚者等、印真言のあるをたのみて、真言宗は法華経にすぐれたりとをもひ、慈覚大師等の真言勝レたりとをほせられぬればなんどをもえるはいうにかいなき事なり。」と述べている。すなわち真言宗の愚者が、一つには真言の教えには印真言という奇特の事法があり、それがない法華経より勝れていると思うこと、二つには天台宗にも慈覚大師のように真言が勝れているという人がいるではないかなどと思うのは、その内実を知らぬ戯言であるというのである。こうした表明は佐渡後期以降、脱天台の立場にあっては見られぬ事であり、この時期は佐前同様天台宗の立場であったことが解るのである。

もとより「天台真言の高僧等、名は其家にえたれども我宗にくらし。」等と現在の天台宗は批判されているが、それはあくまで禅念仏に心を寄せ、そのことによって天台宗が危うくなっていることへの批判であり、それも佐前に間々見られるところである。

また、このことと関連して『開目抄』においては未だ上行自覚が見られないということも念頭に置く必要があろう。上行菩薩等の地涌下界は、釈尊の久遠実成の証明として紹介されているが、『観心本尊抄』の如く、末法の導師としての登場ではなく、況やその自覚に立ってのものではない。むしろこの時は先に示したように、『勧持品』の八十万億那由陀の菩薩の自覚に立たれていたといえるであろう。

因みに上行自覚に関連して、真蹟不現存、日朝本が初見とされる文永八年十一月二十三日に系けられる『冨木殿御返事』について述べておきたい。本稿は基本的に真蹟現存・曽存・上代古写本のある御書を範囲として立論しているので、本状は範囲外であるが、記述内容に『寺泊御書』との関連を示す言葉があり、若干の考察を要すと思われるのである。すなわち『寺泊御書』の最末に「此入道佐渡国へ可為ス御共之由申之。可然用途云ヒかたがた有煩之故還之。」とあり、土木殿が供として付けられた入道を、『寺泊御書』を託して還ししたという記述が見られるが、一方『冨木殿御返事』に「去十月十日に付られし入道、寺泊より還し候し時書遣法門候き。」とあり、両者の関連が見られるのである。ではこの『冨木殿御返事』を真筆に準ずるものとすべきであろうか。しかし本状は内容からして疑義を持たざるを得ない。本状は「文永八年十一月二十三日」の日付を持ち、冒頭の記述からしてもこの日付は動かしがたい。然るに文中「天台伝教は粗釈し給へども弘残之 一大事の秘法を此国に始て弘之。・・・日蓮粗勘之是時の然らしむる故也。経云有四導師一名上行云云。」と述べられている。先に述べたように、この前後文永八年九月十五日『土木殿御返事』十月三日『五人土籠御書』十月五日『転重軽受法門』十月二十二日『寺泊御書』翌文永九年一月十七日『法華浄土問答抄』そして二月の『開目抄』と、天台宗の立場にて台当本迹違目や上行自覚は全く見られず、この時期に右に引文した『冨木殿御返事』の文面はいかにも浮いている観が否めない。『観心本尊抄』以降であれば達和感はないが、文面から系年が動かせない以上本状そのものに疑義を持たざるを得ないのである。ついでながらいずれも決定的なものではないが、本状についての疑問点を挙げておく。第一に宛名が「冨木殿」と記されるが、真筆による限り文永十年四月の『本尊抄送状』が初見で、それまでは「土木殿」であること。但し此れは筆写の段階でなされたミスの可能性もあり決定的なものではない。第二に「小僧達少々還侯。」とあるが、冬場は海が荒れ基本的には舟止めであったようで、もし還すならば、『寺泊御書』に見られる入道の如く、佐渡に渡る前になされたであろうこと、などを一往挙げることができる。

次ぎに大聖人の『勧持品』引用の傾向について述べておこう。

先ず初期段階として、『守護国家論』『立正安国論』が挙げられる。『守護国家論』においては仏滅後諸経が滅尽し、その後にひとり法華経が留まる証拠として、二万の菩薩八十万億那由陀の菩薩の誓言「我不愛身命 但借無上道」の文が挙げられている。また、『立正安国論』では、主人が国土の乱れは衆生が正教を捨てて邪説を信仰する故に、善神が国を捨てた為に起きるのだと説いたのに対し、客が仏教は衰えるどころか堂塔伽藍から多くの経典、更に夥しい僧侶達がいるではないかと反論する。それに対して主人が、『仁王経』『涅槃経』と共に『勧持品』の三類の強敵の文を挙げ、それらは名は仏教でも、正教を捨てて邪説を弘める悪侶であると主張している。即ちこの時期の引文は、頻度が少ないばかりでなく、主張の中心にあるというより補足的に用いられており、また、未だ身に宛てての引用ではない。

次ぎに先に述べた如く、文永八年の法難から佐渡前期にかけては、『勧持品』は主張の根底をなしており、

しかも自身の身に宛てて捉える、換言すれば色読という極めて実践的な受容であり、生涯の中で最も重要視

された時期といえるであろう。

次ぎに佐渡後期から身延初期においては、『観心本尊抄』『法華取要抄』に特徴的な見解が示される。すなわち『法華取要抄』に「自方便品至千人記品八品有二意。自上向下次第二読之第一菩薩第二二乗第三凡夫也。自安楽行勧持・提婆・法師逆次読之以滅後衆生為本。在世衆生傍也。以滅後論之正法一千年・像法一千年傍也。以末法為正。末法中以日蓮正也。・・・問曰、本門心如何。答曰、・・・已上一品二半名広開権顕遠。一向為滅後也。」と述べられる。

『観心本尊抄』もほぼ同意であるので引文は避けるが、要するに法華経が実は在世の衆生のためではなく滅後末法の衆生の為めに説かれていることを主張されるに際し、本門は一向滅後のためであるに対し、迹門は一往正宗分から順次に見れば在世の二乗を中心に説かれているが、流通分たる『安楽行品』から『勧持品』『提婆品』と逆次に見れば滅後を指しているというのである。ここにおいては、『勧持品』は法華経迹門の流通分としての役割に限定されて使われている。勿論この時期においても『顕仏未来記』や『南部六郎三郎殿御返事』のように、『開目抄』以来の『勧持品』色読の強調はなされている。但し、台当本迹違目から本門立ちの法義が展開され、上行自覚に立つことによって『開目抄』当時よりは勧持品色読に置く比重は当然低くなっている。

次ぎに『撰時抄』は雰囲気的にはかなり佐渡前期に近い。すなわち機にあらざれば説くべからずという摂受的意見と、機にあらずとも強いて説くべしという折伏的意見とを出された後、「せんずるところ機にはよらず、時いたらざればいかにもとかせ給はぬにや。」とかつて『唱法華題目抄』から『法華取要抄』に至るまで機根によって論じていたのを改め、摂受折伏は機根によって使い分けるのではなく時によるべきであり、今末法は折伏に限ると結論されるのである。そしてこの、折伏強説の証文として、『不軽品』と共に『勧持品』が引用されるのである。

次ぎに『種々御振舞御書』『頼基陳状』『下山抄』『曽谷二郎入道殿御報』等に『勧持品』の引文が見られるが、いずれも法華経の行者が大難を受けるという証文として用いられている。しかし、文永八年の法難から時間的に経過している故に、やや懐古的であることは否めない。

以上を大観すれば、『勧持品』は佐前佐中佐後を通じて引文されるが、文永八年から九年にかけて、法難の前夜から初期の段階に最も重要視され、法義の根幹に位置していたことが確認されるであろう。

 

二、不軽菩薩の折伏

次なる理申としては『不軽品』が挙げられる。これは先の「勧持品の色読」という語になぞらえるなら、まさに不軽品の色読というべきで、その内実としては不軽菩薩の折伏行と、その行によって過去の罪を消すという転重軽受法門が挙げられよう。両者は本来一体不離の関係にあるが、ここでは論を進める都合上あえて分けて、転重軽受の法門については次項に諭ずることとする。依智において太田左衛門尉他の門下に宛てられた『転重軽受法門』には、大難を受ける理由として転重軽受法門と折伏の実践とが挙げられている。その内折伏に関する記述はおよそ次の如くである。すなわち過去に正法を弘通した人々の内、大難を受けた者と王の帰依を受け庇護された者とがあるのは、悪国善国があり、その状況により摂受折伏の使い分けがあるからである。悪国においては折伏を行じなければならず、その結果大難を受けるのは当然である。過去正法像法の時代、しかも仏教に縁の深い国においてすら大難を受けた者は多い。況や濁悪末法の始め、辺土悪国の日本国において折伏を行ずるにおいておや。

ここにおいては過去折伏によって大難を受けた例として提婆菩薩・師子尊者・仏陀密多・龍樹菩薩が挙げられ、不軽菩薩は挙げられていない。しかし、次下に忍難仏教の実践者として過去に不軽菩薩・覚徳比丘、そして現在の日蓮とされていることを見れば、そのことが念頭にあることは明らかである。

さて、右の事柄がより体系的に語られているのはやはり『開目抄』である。「夫摂受折伏と申ス法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。折伏の者は摂受をかなしむ。無智悪人の国土に充満の時は摂受を前キとす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前キとす。常不軽品のごとし。・・・末法に摂受折伏あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし。」

ここにおいても折伏を『不軽品』としているが、注意すべきは本文の前提として引文される摩訶止観の文との相違である。『摩訶止観』においては「夫仏法二両説アリ。一ニハ摂二ニハ折。如安楽行二不称長短是レ摂ノ義ナリ。大経二執持刀杖乃至斬首是レ折ノ義ナリ。雖与奪殊途倶令利益。」と説かれ、摂受を『安楽行品』に、そして折伏は『涅槃経』に配しているのである。『涅槃経』の折伏とは国主が勢力をもって強行に正法を流布することであって、『守護国家論』『立正安国論』にその意は顕著に示されている。

そしてそれは『摩訶止観』の意に添ったものといえよう。しかるにここでは、直前に『止観』が引文されているにもかかわらず、敢えて折伏を『不軽品』に宛てられているのである。これは何を意味しているのだろうか。

先に『守護国家論』について論ずる中、当時においては『涅槃経』の意に基づき、国主の折伏を期待しその前提となる国主への諌言がなされ、その諌言も不軽菩薩や喜根菩薩の如く強いて説くという方法を用いられていたと論じた。つまり、現在ご自身が行なおうとしている不軽菩薩等を手本とする国主へのアプローチも、その結果期待される、国主がそれを聞き入れて勢力を以って四衆に流布せしむる行為も、双方共に末法における弘教の方軌=折伏という認識に立たれた上で、しかしながら折伏の本義はあくまで国主の折伏、即ち『涅槃経』の折伏にあったのである。しかしながら度重なる諌暁に対して国主はこれを拒否し、数々の重罪に処した、殊に文永八年の首の座から佐渡流罪という大難は決定的で、実質的に『涅槃経』の折伏は放棄せざるを得ない状態となったのである。かくして折伏は現実に自身が行ずるところの『不軽品』の折伏が中心になるものと思われるのである。同じ折伏でも、両者の違いは決定的である。『涅槃経』の折伏が、国主の勢力を以って衆生を強引に順縁に導くに対し、『不軽品』の折伏は、逆に暴力を受けながら衆生と逆縁を結ぶ。大聖人はこれ以降、理想として国主の折伏を期待しつつも(それは『観心本尊抄』に見られる「賢王が愚王を誠責する」ことを含めて)、実質的には自身と門弟による不軽菩薩を手本とした逆縁的折伏を行ずるという形態をとられるのである。それは一見『守護国家論』や『唱法華題目抄』の場合と同じように見えるが、国主のはっきりとした拒絶により、折伏の本義が『涅槃経』から『不軽品』に移ったという根底的な違いがあるのである。

国主が法華経を持たぬ逆縁の世界において、自ら不軽菩薩の折伏行を手本として、法華経弘通を決意された大聖人は、門下に対してもそれを末法愚悪の凡夫相応の修行として奨励されている。

「設ヒ山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、空閑にして三密の油をこぼさずとも、時期をしらず、摂折の二門を弁へずばいかでか生死を離ルベき。」

一念三千の観法が末法の衆生のためには不相応な難行であることは、すでに『唱法華題目抄』等に示されているが、それに対する易行は受持唱題であった。しかるにここにおいてはそれをふまえた上で、もう一歩踏み込まれて、不軽菩薩の折伏行が末代凡夫の成仏のための要諦であることが示されているのである。では不軽菩薩の但行礼拝を折伏とした先例はあるのだろうか。そもそも摂受折伏の原義は、所謂『彌蘭陀三問経』として知られる『ミリンダ王の問い』に、「(尊き師は)しかるにまた、折伏すべき者は折伏に使いし、摂受すべき者は摂受に値いす、と言われました。」と述べられており、その注に「折伏」の語について「折伏するとは非難し、とがめるまたは制御するの語義であるが、ミリンダ王は刑罰の意味にとった。折伏の反対概念たる摂受は、手をさしのべる、恵みを与えることである。」とあるのが参考となろう。すなわち折伏とは間違った行動をとる者に対し、強く批判し且つ咎めて改心させる行為であり、摂受とは手をさしのべて善導する行為であるというものである。確かに、『勝髪経』に「若見捕養衆悪律義及諸犯戒終不棄捨我得力時。於彼彼處見此衆生。応折伏者而折伏之。応摂受者摂受之。何以故。以折伏摂受故令法久住。」とあり、『大日経』には「復タ次秘密主。菩薩受持不麁悪罵戒。応當以柔軟心語。随類 言辞。摂受諸衆生等。何以故。秘密主。菩提薩唾初行。利楽衆生。或餘菩薩見住悪趣因者。為折代之。而現麁語。」とあるが、同じような意味合いで摂受折伏の語が使われている。

そしてそれは天台の場合も基本的には踏襲されている。『開目抄』に引用される前掲の『止観』十の文や 『法華文句』八の「問、大経明二附国王持弓帯箭催伏悪人。此経遠離豪勢謙下慈善。剛柔碩乖、云何不異。答、大経偏論折伏住一子地。何曽無摂受。此経偏明摂受頭破七分、非無折伏。各挙一端適時而己。理必具四。何者、適時称宜即世界意。摂受即為人意。折伏即對治意。悟道即第一義意也。」の文、更に『開目抄』には引文されていないが、『法華玄義』九の「法華ハ折伏破権門ノ理。如金沙大河無復廻曲。涅槃ハ授受更許権門。各為因縁存廃有異。然金沙百川帰海不別。」の文は、経の内実についていう場合と弘教の態度をいう場合との違いはあるものの、何れも折伏が非妥協的且つ摧伏的な意であり、摂受は寛容的許容的な意である。そういう意味では天台の折伏の語意と不軽菩薩とには若干の隔たりがあるといってよいであろう。「法華折伏破権門理」も『不軽品』というよりも『陀羅尼品』の「頭破作七分」や法華経そのものが爾前権経を決定的に否定していることを指しているものと思われる。但し、『文句』十に「本已有善釈迦以小而将護之。本末有善不軽以大而強毒之。」とあり不軽の行を強毒と述べるが、折伏とはいわれていない。また妙楽については、右文の註釈に関する限り天台の意を踏襲している。

然るに妙楽の次の文についてはいささかの注意を要するであろう。すなわち『文句記』十に不軽行と安楽行との十別を述べており、その第十番目に「彼則以順化故存於軌儀。比乃以逆化故亡於恒迹。」と述べ不軽の行を逆化と規定し、更に『止観義例』に「十者教観折摂。教折摂者。若権若實適時而用。或摂権折實。(乃至)為熟為種逆化順化。不出一折一摂意也。」と述べ、順化逆化を摂折に配しているのである。勿論逆化が折伏であることは疑いなかろう。とすれば三段論法ながら不軽菩薩の逆化が折伏であるとの見解を抽出することができるのである。大聖人にこれらの直接的引文は見られないが、それを参考とされたことは充分考え得ることであろう。

さて、この項を終えるにあたって触れておかなければならぬことがある。それは『開目抄』の異本についてである。身延に嘗て存したという『開目抄』は、明治八年の大火によって烏有に帰した。しかし、身延二十一世日乾の詳細な対校本が京都本満寺に現存し、その全貌を窺い知ることができるのである。それによれば先の摂受折伏の文章中流布本に見られる「邪智謗法の者多時は折伏を前とす。常不軽品のごとし。」の「常不軽品のごとし」の部分に、日乾の「御本ニ無」という注記が見られ、身延本『開目抄』には「常不経品のごとし」の語が無かったようなのである。それは日興筆『開目抄要文』にこの部分が抄録されており、それにも「不軽品のごとし」が無いことをもっても裏付けられる。恐らく日興は身延本がその写本をもって当要文を作られたのだろう。ここにおいて、では本来『開目抄』には「不軽品のごとし」は無かったのか、そして必ずしも大聖人は「折伏」=『不軽品』とは考えられていなかったのか、という問題が生ずるのである。

そこで先ず、身延本『開目抄』がどのような体裁を持っていたかを、身延十二世日意の『大聖人側筆目録』(以下『日意目録』と略称)や日乾の『身延山久遠寺御霊宝記録』(以下『日乾目録』と略称)によって推し、そしてその内容の特徴を日乾の対校本によって見てみたい。

『日意目録』には「一、御筆双紙之分 開目抄御草案 内」とある。「双紙分」とあるのは、その前に記録されている「巻物分」に対するもので、冊子仕立てということであろう。次ぎに「御草案」とあるのは日意の感想で、同じ「双紙分」に「守護国家論御草案」がある。冊子仕立てという体裁上そのような感想を持たれたのであろうが、恐らくそればかりでなく、例えば文章を消したり継ぎ足されたりなどの、草案と判断する何らかの理由があったものと思われる。

次ぎに『日乾目録』を見ると、第七箱の中に「一、開目抄 六十五紙 此他表紙(ニ御筆歟)開目二字有之」とある。箱の順番は、必ずしも正確とはいいきれないものの概ね重要なもの順になっているように思われ、やはり第七箱の中に『守護国家論』が入っているところを見ると、日意の「御草案」と見たことが踏襲されているかに思える。「六十五紙」とあるが、例えば『新宅』で六〇頁分の『報恩抄』が『日乾目録』によれば五十三紙表裏(実質的に一〇六紙)、同じく六〇頁分の『撰時抄』が一〇九紙であることを思えば、『開目抄』は七六頁分であるからあるいは表裏に書かれていたかも知れない。その場合は、袋綴じではなく粘葉本か、あるいは『観心本尊抄』のような横帳であったということになろうか。もし袋双紙であるとすれば表裏に記される筈がないから、通例より小さな字で書かれていたことになろう。又表紙には「御筆歟」との注付きながら「開目」とのみ書かれていたようである。以上の事柄を総合すると、身延本『開目抄』は、完成したものというよりむしろ日意が記す如く草案と考えた方がよいのではないかと思われる。

次ぎに内容について見てみよう。日乾の対校は実に綿密で、流布本との出入り注記は細かなものを入れれば凡そ二千ヶ所に及ぶという。しかし今は転写の際に誤りうる細かなものはさておき、流布本と身延本との文章的に相違する箇所を幾つか挙げてみたい。

@流布本「龍樹天親ハ知テ耐モイマタ弘給ハス」

身延本「龍樹天親知テシカモイマタヒロイイタサス」(日乾影印本15頁)

※この場合はどちらがどうという評価はできない。

A流布本「(『宝塔品』の多宝の証明の文を挙げ)又云、令十方来諸分身佛各還本土乃至多賓佛塔還可知故等云云。カクノ如クアリジカハ人天大会疑ヲハラシキ。」

身延本「(『宝塔品』の多宝の証明の文を挙げ)又云、令十方来諸分身佛各還本土乃至多賓佛塔還可知故等云云。」(日乾影印本42頁)

※右文は爾前経において二乗は永不成仏と嫌われていたのが、法華経に来て二乗作仏が説かれたことを人天大会が不審したのを、『宝塔品』の多宝の証明の文を挙げて答えているのである。そうみれば流布本の「カクノ如クアリジカハ人天大会疑ヲハラシキ」の語はあった方が解りやすい。

B流布本「賢王ノ世ニハ道理カツヘシ、愚生ノ世ニハ非道ヲ先トスヘシ。聖人ノ世ニハ法華経ノ実義顕ルヘシ、愚人ノ世ニハ正法ノ道理隠等心ウヘシ。」

身延本「賢王ノ世ニハ道理カツヘシ、愚生ノ世二非道先ヲスヘシ。聖人ノ世二法華経ノ実義顕ルヘシ等ト心ウヘシ。」(日乾影印本49頁)

※本文は賢王と愚生、聖人と愚人とが対語になっていおり、流布本がより整束されている。

C流布本「弥勒菩薩念言スラク・・・又十方ノ浄穢土ニ或ハ我ト遊戯シテ其国々ノ大菩薩ヲ見聞セリ。然トモイマタカクノコトキノ大菩薩ヲハミス。此大菩薩ノ御師ナントハイカナル佛ニテヤ有ラン。」

身延本「弥勒菩薩心念書スラク・・・又十方ノ浄穢土ニ或ハ御使、或ハ我ト遊戯シテ其国々ニ大菩薩見聞セリ。此大菩薩ノ御師ナントハイカナル佛ニテヤ有ラン。」(日乾影印本125頁)

※文章のつながりから云えば流布本の如く「然レドモイマタカクノゴトキ大菩薩ヲハミス。」があった方が自然である。

D流布本「第五ノ惣持門ノ醍醐スラ猶涅槃経ノ醍醐ニオヨハス、何況第四巳下ヲヤ。イカニシ給ケルヤラン。」

身延本「第五ノ惣持門ノ醍醐味スラ涅槃経ニ及ス。イカニシ給ケルヤラン。」(日乾影印本176頁)

※流布本の方が解りやすく、文章も整束している。

E流布本「万里ヲワタテ宋ニ入ラストモ、三箇年ヲ経テ霊山ニイタラストモ、龍樹ノゴトク龍宮ニ入ラストモ、無着菩薩ノゴトク弥勒菩薩ニアハストモ、在世ノコトク二処三会ニアハストモ、一代ノ勝劣ハコレヲシレルナルヘシ。」

身延本「万里ヲワタテ宋二入ストモ、三箇年ヲ経テ霊山ニイタラストモ、龍樹ノゴトク龍宮に人ストモ、無着菩薩ノゴトク弥勒菩薩ニアハストモ、二所三会二値ストモ、一代ノ勝劣ハコレヲシレルナルヘシ。」(日乾影印本177頁)

※これは「在世ノゴトク」が無いだけで、さしたる相達ではないが、敢えていえば「…ノゴトク」が

連続しており、やはり流布本が整束しているといえるだろう。

F流布本「外道ノ善ハ小乗経二対スレハ皆悪道ナリ。小乗ノ善道ハ大乗ニ対スレハ皆悪ナリ。乃至四味三教ハ法華経ニ対スレハ皆邪悪ニシテ法華ノミ正善也。」

身延本「外道ノ善悪ハ小乗経ニ対スレハ皆悪道。小乗善道乃至四味三教ハ法華経ニ対スレハ皆邪悪。法華ノミ正善也。」(日乾影印本198頁)

※対語としては流布本の方が完成度が高い。

G流布本「今末法ノ始ニハ良観念同等……アニ三類ノ怨敵ニアラスヤ。当世ノ念仏者等・・・高推聖境非己智分ノ者ニアラスヤ。禅宗ノ云・・・乃至付法蔵ノニ十八、六祖マテモ伝等云云。起増上慢謂己均佛ノ者ニアラスヤ。」

身延本「今末法ノ始ニハ良観念同等……アニ三類ノ怨敵ニアラスヤ。当世ノ念仏者等・・・高推聖境非己智分ノ者ニアラスヤ。禅宗ノ云・・・乃至付法蔵ノニ十八、六祖マテニ伝等云云。」(日乾影印本208頁)

※「良観念同等……アラスヤ」「当世ノ念仏者……アラスヤ」と対語になっており、「禅宗……アラスヤ」となっている流布本の方が整束されている。

H流布本「佛ハ小指ヲ……法華経ノ行者ニアラスヤ。・・・付法蔵ノ第十四ノ提婆菩薩・・・法華経ノ行者ニアラサルカ。竺ノ道士ハ蘇山二流サレヌ。法道ハ火印ヲ面ニアテテ江南ニウツサル。此等ハ一乗ノ持者ニアラサルカ。白居易北野ノ天神ハ遠流セラル、賢人ナラサル歟。ツテツテ事ノ心ヲ案スルニ」

身延本「佛ハ小指ヲ・・・法華経ノ行者ニアラスヤ。・・・付法蔵ノ第十四提婆菩薩・・・法華経ノ行者ニアラサルカ。竺道士ハ蘇山二流ヌ。法道ハ火印ヲ面ニャイテ江南ニウツサル。北野天神白居易此等ハ

法華経ノ行者ナラサルカ。事ノ心ヲ案スルニ」一日乾影印本214頁)

※佛から、それぞれ難を挙げ、それに対応して「・・・アラサルカ(アラスヤ)」を繰り返しており、流布本がより整束されている。

I流布本「此等ノ多ノ譬アリ。詮スルトコロハ上品ノ一闡提ノ人ニナリヌレハ・・・」

身延本「此等ノ多ノ譬アリヌレハ……」(日乾影印本217頁)

※流布本の方がより正確である。

J流布本「無悪人ノ国土ニ充満ノ時ハ授受ヲ前トス安楽行品ノゴトシ。邪智ノ者ノ多キ時ハ折伏ヲ前トス常不軽品ノコトシ。」

身延本「無畏悪人ノ国土ニ充満ノ時ハ授受ヲ前トス安楽行品ノゴトシ。邪智謗法ノ者多時ハ折伏ヲ前トス。」(日乾影印本234頁)

※流布本の方が対句になっていて整束されている。

以上十一の文について流布本と身延本との相違を挙げたが、第一にいえることは此等の相違は転写の際に生じたものではなかろうということである。仮に身延本が原本で流布本が転写本であったとすれば、転写本の方に原本にない文章があるということは不可思議である。転写の際文章を落とすことはあっても、決定的な過ちでもない宗祖の文章を勝手に変えたり付け加えることは考えにくい。また逆の場合も、これだけの文章の写し落としは不自然の感を拭いがたい。ということは流布本と身延本の相違は大聖人ご本人によってなされたものと考えるべきであろう。

第二に気がつくことは身延本より流布本が文章的に整束しているということである。加えて身延本が、先に考察したように草案の可能性を有しており、身延本(草案・未再治)→流布本(再治)という推測が可能である。

更に「応永二十三年七月十七日書之畢 日存之」との奥書を持つ好学院日存本『開目抄』があり、右の流布本身延本の比較十一項目中ACDJは身延本と同じで残る七項目は流布本と同じである。文章の整束度合いからすれば、丁度身延本と流布本の中間に位置するといえよう。

また、新潟県三島郡和島村治暦寺所蔵の二行断片「於是維摩詰間文殊師利何等 為如来種文殊師利言○貧恚癡」、神奈川県横浜市若松重知氏蔵三行断片「下一偈是上慢出家人第三 或有阿練若三偈即是出 家處摂一切悪人○常在」がそれぞれ『開目抄』の断片と伝えられている。両者は筆跡や文中の「○」などの特徴から同一の文章と思われ、また伝えられるようにそれぞれ『開目抄』の「維摩経ニ云ク、維摩詰又聞文殊師利、何等ヲカ為如来ノ種。答テ日ク、一切塵労之疇為如来ノ種・・・。文の心は貧瞋痴等の三毒は佛の種となるべし、・・・二乗は佛になるべからず。」、「東春ニ智度法師云ク、・・・次ニ悪世ノ下ノ一偈ハ是上慢出家人。第三有或阿練若ヨリ下ノ三偈ハ即是出家ノ處ニ摂一切悪人等云云。又云ク、常在大衆ヨリ下ノ両行・・・。」に対応している。文章がかなり省略されているようであるから『開目抄』の要文の類とも思われるが、二行断片の「貧恚痴」は対応する『開目抄』の文を見れば、経文でなく大聖人の言葉であるから、引用文集的なものではなく、略本的なものであったと思われる。

以上を総括すれば、『開目抄』は複数の存在が認められ、それは草案と清書本、更に後年のより整束された『開目抄』や略本的なものまで、かなりの種類と数が存したものと思われるのである。

さて、これらの事を念頭に置いて、「常不軽品のごとし」の文の有無について考えてみたい。

まず、身延本の如く「常不軽品のごとし」が無い場合であるが、この場合は折伏=不軽品は成り立たないのであろうか。大聖人はこの摂受折伏を論ずる段で、『摩訶止観』『弘決』『文句』『涅槃経疏』を引かれている。中でも冒頭引用されている『摩訶止観』には、摂受=安楽行品、折伏=涅槃経という構図が示されており、その流れからすれば、後段の大聖人のコメントも同じであるのが自然である。しかるに摂受については「安楽行品のごとし」とされ、しかも対語的文章からして折伏についてにも「……のごとし」の語が入るべきところを、敢えて何も入れていないのは不自然の感が否めない。しかしその不自然さに大聖人の意志を拝することができるのではなかろうか。その意志とは一つには本来『摩訶止観』等に従えば「涅槃経のごとし」と来るべきところであるが、それはこの時の大聖人の心境、法義に反していたということである。つまり、空白が逆説的に「涅槃経の折伏ではないぞ」という意志を物語っているのである。第二にはその一方で「涅槃経のごとし」とはいけないものの、しかしまた「不軽品のごとし」と明記することにも若干の躊躇があったのではないかということである。その躊躇の理由は何だったのであろうか。その理由の一つとして、現時点においては日本国の国主は法華経を用いず、従って実質的には自身の不軽菩薩の行を折伏とするという覚悟に立たれる一方で、将来なんらかの形で、所謂『涅槃経』の国主の折伏がなされるという期待を尚捨てずに抱かれていたのではないか。それ故に結果としてそれを放棄するがごとき印象を与えるであろう表現については、躊躇があったのではないかと思うのである。

ともあれ、草案と思われる身延本には「常不軽品のごとし」の語が落ちている。一方、流布本にはそれがはっきりと記されている。それがいつなされたのか、四条金吾に送られた浄書された最初の『開目抄』はどちらであったのか、それらを明らかにする手だては今のところはない。しかし、結果として「不軽品のごとし」が挿入されたことは、軽く考えられるべきではなかろう。

 

三、過去の罪(転重軽受法門)

次ぎに大難に値う理由として挙げられるのが、転重軽受という考え方である。『転重軽受法門』には「涅槃経に転重軽受と申法門あり。先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受べきが、今生にかかる重苦に値ヒ侯へば、地獄の苦はつときへて、死ニ候へば人・天・三乗・一乗の益をうる事ノ侯。不軽菩薩の悪口罵詈せられ、杖木瓦礫をかほるも、ゆへなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆへかとみへて、其罪畢已と説レて候は、不軽菩薩の難に値ゆへに、過去の罪の滅スルかとみへはんべり。」と不軽菩薩を例とし、過去の法華経誹謗の罪を、現在正法を受持弘教し、その為に難を受けることによって消していくという、所謂転重軽受の法門が示されている。ここにおいては門下に対して受難の理由を法義的に述べられているが、『開目抄』ではより具体的にご自身の身に宛ててこのように述べられている。「疑テ云ク、いかにとして汝が流罪死罪等、過去の宿習としらむ。答テ云ク、・・・我無始よりこのかた悪王と生レて、法華経の行者の衣食田畠等を奪ヒとりせしことかずをしらず。当世日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし。又法華経の行者の頸を刎ルこと其数をしらず。此等の重罪はたせるもあり、いまだはたさざるもあるらん。果スも餘残いまだつきず。生死を離ルル時は必比重罪をけしはてて出離すべし。功徳は浅軽なり。此等の罪深重なり。権教を行ぜしには此の重罪いまだをこらず。鐵を熱にいたうきたわざればきず隠レてみえず。度々せむればきずあらわる。麻子をしぼるにつよくせめざれば油少キがごとし。今日蓮強盛に国土の謗法を責れば此大難の来ルは、過去の重罪の今生の護法に招キ出せるなるべし。」

このことに関しては贅言は要しまい。但し、これらの文により大聖人の法華経の行者たる自負は、過去の罪の意識という前提に立ったものであり、すべての末法の衆生と同じく、根底的にはご自身も逆縁の機と規定されていることを認識する必要があろう。

そして『開目抄』以降、その思想にはさまざまな変遷が見られるものの、ご自身を含めて末法の一切衆生が逆縁の機であるという規定は一貫している。

 

四、神天上法門

さて冒頭掲げた受難の理由の最後第四番目として神天上法門が挙げられる。かつて『立正安国論』には、眼前に展開される天変地夭飢饉疫癘が、国主が正法に帰さず悪法を用いる故に、法味を失った諸天善神は国土を去り、代わって悪鬼外道が乱入して起こすものであると説かれている。それに対し『開目抄』ではその論理に基づいて、善神が国を去り天上に行ってしまった故に、法華経の行者を守護するという誓言を果たせず、それ故法華経の行者は大難を受けるというのである。両者は神天上法門、即ち善神が天上に去ってしまったという点においては同じである。しかしその結果もたらされる現証については、前者が天変地夭飢饉疫癘という解りやすい因果関係にあるに対し、後者は諸天が法華経の会座において法華経の行者を守護することを誓っているだけに複雑である。つまり、善神捨国の故に法華経の行者は守護されぬというならば、それは諸天善神の法華経会座における誓いが反故にされたということに他ならない。そのことについては『開目抄』から二ヶ月ほど後に土木殿に宛てた書状『土木殿御返事』に、「但レ干今不蒙天加護者、一ニハ者諸天善神去此悪国故歟。二ニハ者善神不味法味故無威光勢力歟。三ニハ者大悪鬼入三類之心中梵天帝釈不及力歟。」といくつかの理由が掲げられている。ともあれこのようなことがらを念頭に置きつつ、以下『開目抄』の神法門について見てみたい。

先ず『土木殿御返事』に挙げられた第一の善神捨国については、「結句は天台宗の碩徳と仰がる人々みなをちゆきて彼の邪宗をたすく。さるほどに六宗八宗の田畠所領みなたをされ、正法失はてぬ。天照太神・正八幡・山王等諸ノ守護の諸大善神も法味をなめざるか、国中を去リ給フかの故に、悪鬼便を得て国すでに破れなんとす。」と善神捨国の理由を述べるところは『立正安国論』と同じである。そして「されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及フ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事ハをそれをもいだきぬべし。定で天の御計ヒにもあづかるべしと存すれども、一分のしるしもなし。いよいよ重科に沈ム。還て此事ヲ計リみれば我身の法華経の行者にあらざるか。又諸天善神等の此国をすてて去リ給へるか。かたがた疑はし。」と我が身に宛てて、法華経の行者を加護しないのは善神が此国を去ってしまったからだろうかと、疑問形ながらコメントされている。次ぎに第二第三については「仏前の誓はありしかども、濁世の大難のはげしさをみて諸天下リ給ハざるか。」と述べられている。表現はやや異なるが、善神の威光の衰えや諸天の力の及ばざる大悪鬼による大難という、『土木殿御返事』の意が含まれていることは明らかである。

しかし、総じて神天上法門は、日本国の現状が悪法によって謗法の国になっていることの認識に比重が置かれており、大難の理由としてはやや軽く扱われているように思われる。恐らくそれは、諸天の加護と勧持不軽両品の色読は両立しない事柄であることと、同年五月の『真言諸宗違目』に「如是ノ大悪ハ、梵釈モ猶難防キ歟。何ニ況ヤ日本守護ノ少神ヲヤ也。但非地涌千界大菩薩・釈迦・多宝・諸仏之御加護者難叶歟。」と述べられる如く、やがて本門の本尊の出現を見越され、それによってこそ護られるとの予測があるからであろう。但し、ここでいわれる地涌千界等の出現並びにその御加護は、未だ『観心本尊抄』に見られる台当違目や上行自覚の上に立ったものではない。

かくして大聖人は神天上法門の結論としてこのように門下に教訓されている。

「我並ビニ我弟子諸難ありとも疑フ心なくわ自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。・・・我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返てみちびけかし。」

ここに、善神捨国の世、すなわち濁悪逆縁世界における忍難仏教・折伏逆化の覚悟と、それによる成仏への道が示されたのである。

   

第2 一念三千論

『開目抄』執筆のもう一つの重要な課題として「一念三千論」を挙げることができよう。

大聖人が法華経が一代の諸経の中で最勝なることを示す時、教相面からは天台の五時八教判をもって、観心面からは一念三千の成仏諭をもってなされていることは、佐前の思想を述べる中『一代聖教大意』を例に挙げて述べたところである。加えて佐前において既に「一念三千観法」は、末法の最悪の衆生には不相応な修行であるとの主張が見られること、そして文永六年頃には盛んに止観第五を講じられ、来るべき大難への覚悟を一念三千法門によって門下に促されていることも述べた。しかし、一念三千論が法義の中心に据えられ、充実した議論が展開されるのは文永六年の『十章抄』『双紙要文』あたりからであり、殊に佐渡期、『開目抄』『観心本尊抄』という大著において集中的に独自の見解が展開されている。勿論その展開は平面的ではなく、大まかにいえば佐渡流罪前夜に問題提起がなされ、『開目抄』を経て『観心本尊抄』において結論が出されるといった経過を見ることができよう。今そうした経過を念頭に置きながら『開目抄』における一念三千論について述べようと思うのだが、その前に便宜のためにその構造を簡略に図で示し、若干の説明をしておきたい。

【開目抄の一念三千論】

 

〇観心―――迹門の二乗作仏十界互具を経て本門寿重品から開出された一念三千(台当本迹違目なし)

 

『小乗大乗分別抄』には「又二乗作仏・久遠実成は法華経の肝心にして諸経に対すれば奇たりと云へども、法華経の中にてはいまだ奇妙ならず。一念三千と申す法門こそ、奇が中の奇、妙が中の妙にて・・・」と述べられ、法華経の二箇の大事より奇特の法門として一念三千が挙げられている。二箇の大事と一念三千の関係は『観心本尊抄』に「天台ノ難信難解ニ有二、一ニハ教門ノ難信難解・二ニハ観門ノ難信難解ナリ。其教門ノ難信難解トハ者(二乗作仏・久遠実成)、観門ノ難信難解トハ百界千如一念三千ニシテ非情之上ノ色心ノ二法ノ十如是是也。」とあるように、教相と観心の相違である。しかるに『小乗大乗分別抄』を見る限り大聖人は教観二門に勝劣を見ているということが一応いえるであろう。あるいは当時叡山の観心主義的教学の影響がとも思われる。しかし、『開目抄』にいたると教観二門の勝劣を強調する文は見られず、むしろ一念三千諭は「寿重品の文の底に秘してしづめたまへり」といわれるのは、『観心本尊抄』の両者(教相たる本門と観心)の関係を「竹膜を隔つ」といわれるのに一脈通ずるものであり、それは叡山教学を一歩進めた大聖人独自の本門思想が展開された結果であろう。  

一方『開目抄』では、独自の本門思想が展開されたとはいえ未だ台当本迹違目は示されていないので、『観心本尊抄』の如く観心に天台迹門の理具の一念三千、本門事の一念三千という立て分けは見られない。従ってそこに示される本門思想に基づく観心一念三千論は、そのまま天台の法門であるという認識である。但し、実践的行法においては、天台止観の観念観法は末代凡夫不相応の行であるとして退けられ、受持折伏を奨励されている。

   

一、本門思想と一念三千論  

@本門思想

大聖人は修学期十七才の時清澄寺において『授決円多羅義集』を書写しているが、この初期中古天台文献は密教主導の本門思想であるから、その影響は充分考えられるであろう。但し、その影響を示す直接的文献は見あたらない。文献的に始めて本門思想が顕われるのは『唱法華題目抄』に爾前の円を嫌うか否かを論ずる中で、「又法華経の本門にしては爾前の円と迹門の円とを嫌フ事不審なき者也。」と述べられるのが初見である。また『薬玉品得意抄』に「爾前迹門ニシテ猶ヲ生死ヲ難レ離レ。至本門寿重品ニ必ス可離生死ヲ」とあって寿重品正意が見られる。勿論この時期は「法華真言」すなわち台密の立場ではあるが、法華経主体の顕密思想であるから、初期修学期に学んだ密教主体の本門思想とは根本的に相違するものである。しかるに実質的に本門思想が強調されるのは文永六年『十章抄』あたりからで、まずは『十章抄』から『開目抄』に至る一念三千に約した本門思想が展開され、そしてその上に立って『観心本尊抄』では化導に約して本化上行自覚から、末法為本の本門思想が展開されるのである。

 

A本門の一念三千

法華経が他経に勝れる理由として、観心門すなわち成仏論から一念三千成道論を示されることは、『一代聖教大意』以来一貫した大聖人の姿勢である。それは『開目抄』においても貫かれており「竜女が成仏此一人にはあらず。一切の女人の成仏をあらわす。法華経以前の諸小乗経には女人成仏をゆるさず。諸大乗教には成仏往生をゆるすやうなれども、或ハ改転の成仏ニシテ一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。」と、爾前経の成仏論はあくまで歴劫修行を前提とした未来成道であり、それに対して法華経の成仏論は不改本位一念三千の即身成仏論であるとして、両者の成仏論の基本的な相違が示されている。しかしこの時期大聖人は先に少々述べたように、このような単純な論法ではとても対応できぬ複雑な問題を抱えられていたのである。第一に『寺泊御書』に登場する、恐らく当時の中古天台本覚思想の立場に立った天台僧から発せられたであろう「教門計也。理具我存之。」との批判である。更に「本覚法門は大乗起信論から出発し、華厳宗内で成長し、空海が釈摩訶衍論を提げて日本で展開した法門であり、」との見解があるように、本覚思想にはその奥底に真言密教・華厳思想が横たわっているのであり、一層この問題を複雑にしている。

さてそれではこれらに対し、大聖人はいかなる観心論1=一念三千論を展開されるのであろうか。まず『十抄』には「一念三千と申ス事は迹門にすらなを許されず、何ニ況ヤ爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如實相なれども、義分は本門に限る」とあり、真の一念三千論は本門から開出される法門であることが示される。『開目抄』にはもう少し具体的に「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説て爾前二種の失一ツを脱レたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず。二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波ノ上に浮べるににたり。・・・本門十界の因果をとき顕ハす。比レ即本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具シ、仏界も無始の九界に備リて、真ノ十界互具・百界千如・一念三千なるべし。」と述べられている。すなわち法華経迹門において二乗作仏が説かれることによって、始めて十界互具が成り立ち一念三千も成り立つ。それ故二乗作仏を許さぬ爾前経では、一念三千成仏は成り立ちようがないというのである。しかし真の一念三千論は迹門では未だ示されたとは言い難い。それは本門寿重品において久遠実成の本仏、本門の教主釈尊が登場して始めて成り立つものであるというのである。なぜかならば迹門に示される十界互具は単なる理論としての十界互具であって、それは実修実証の本仏が示されることによってはじめて具体論として成り立つというのである。更にここには文章にこそ現れていないが、爾前得道の有無という問題も内在されていよう。この問題については『小乗大乗分別抄』にその非なることが示されているが、要するに本仏が定まらなければ下種が定まらず、それ故爾前迹門に示される成仏論は有名無実である。つまり『法華取要抄』に「法華経本門来至略開権顕遠華厳大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日・月・四天・龍王等位隣妙覚又入妙覚位也。」と述べられる如くなのである。そしてこれこそが理即本覚的観心思想や真言華厳の即身成仏論に対する抜本的回答となるのである。

委しくは次項。

かように『開目抄』における一念三千論は二箇の大事、中にも本門寿重品の久遠実成から導き出されたものであるが、注意すべきはこの時点においては未だ台当本迹に立っておらず、従って天台の一念三千は迹門であるとの見解は出されていないということである。それは『十章抄』に『止観』の十章を解説するについて、先の六章が迹門妙解(託事観・付法観)であり、約行観たる第七草十境十乗の観法(一念三千)は「本門の心なり。」と、止観所説の一念三千論は法華本門から開出されていると述べられていることからも明らかである。すなわちこの時点における本門思想は、『観心本尊抄』における末法という時と、その時の化導に約した台当違目の上に立った本門思想とは異なるのである。

因みに『十章抄』には止観について「迹門より出たり、本門より出たり、本迹に恒と申三の義いにしえよりこれあり。」と諸説が挙げられていることは注意しておく必要があろう。これについて『日蓮上人御遺文講義』は『止観見聞註上』に示される竹林房静厳の「止観は走法華の迹門分也。」という説、慧光房永弁の「又待約二妙に準じて相待絶待の二種の止観を立て、本迹二門に準じて妙解妙行の二段を分つ。一部十章皆法華に依ること分明也。」との説を紹介する。また『日蓮聖人遺文全集講義』には宝地房証真の『法華玄義私記』の「止観は迹門を観ず」との説が紹介されている一。『十章抄』の一念三千本門思想はそうした議論を認識された上での所論であろうことがわかる。そして『十章抄』の大聖人の説は、それら諸論の内では、永弁の説がもっとも近いといえるであろう。

 

二、真言宗・華厳宗破折と「理具の法門」の批判

前項において『開目抄』の一念三千について述べるに際し、それに密接に関わると思われる真言華厳両宗の破折と、言葉としては顕われないが『寺泊御書』から推測される中古天台理即本覚的即身成仏論の破折について若干触れた。ここではそれらの破折について、もう少し具体的に大聖人の見解を見てみようと思う。

 

@真言宗の破折

東密真言の破折は既に文永六年『法門可被申様事』に始まっている。しかし、その破折は未だ法義に踏み込んだものとはいい難い。法義に踏み込んでの破折は文永八年の法難を契機としているといっていいであろう。

『開目抄』は冒頭「一切衆生の尊敬すべきもの」として「主師親」を挙げられる。結論的にいえば主師親とは久遠実成本門の教主釈尊であり、その本尊に迷うものは父を知らざる禽獣に等しく、それ故天台宗の他のすべての宗は本尊に迷う禽獣と位置づけられる。『開目抄』のそうした意が端的に示されているのが『八宗違目抄』である。ここには先ず仏側の所談として三身が掲げられ、次ぎに衆生の三因仏性が掲げられている。これは根本的三身相即の仏は本門の教主釈尊であり、その教主が定まらなければ衆生の三因仏生即ち本有の下種は定まらぬことを示すものである。そしてその三身相即三徳兼備の本門の教主釈尊を本尊としない倶舎・成実・律・華厳・三論・法相・真言・浄土の各宗は、妙楽の『五百問論』慧遠の『古今仏道論衡』にいわれる父を知らぬ禽獣であることが示されるのである。この時期の大聖人の諸宗破折はまさにこの一点に集約されているといえるであろう。換言すれば本門思想の強調は、大綱として根底的に諸宗を押さえる意味があったのである。そして諸宗の中にも特に真言宗・華厳宗の破折には、本門思想の強調は不可欠であった。何故か。

一つには教主論において『開目抄』に「華厳宗・真言宗は釈尊を下シて盧舎那大日等を本尊と定ム。」と述べられるように、華厳宗・真言宗は法身仏たる毘盧遮那仏・大日如来が釈尊を越える仏であると主張することが挙げられる。また当時の叡山天台宗には、此等の影響を受けて大日釈迦一体説なども展開されていたようである。『寺泊御書』には「或義ニ云ク、大日経ハ釈迦如来之外ノ説ナリト。或義二云ク、教主釈尊第一ノ説ナリト。

或義二、現釈尊説顕経現大日如来説密教。」と、『大日経』は大日如来の説か釈尊の説かという問題に関する諸説が挙げられ、また『八宗違目抄』にも、「一義ニ云ク、大日如来ハ釈迦ノ法身。一義ニ云ク、大日如来ハ非ス釈迦法身。但シ大日経ニハ大日如来ハ釈迦牟尼仏と見へたり。」と述べられている。

そしてもう一つの問題として、彼の二宗はいずれも即身成仏義をたてることが挙げられる。『開目抄』にはそれを「華厳宗と真言宗とは本は権経権宗なり。善無畏三蔵・金剛智三蔵、天台の一念三千の義を盗ミとて自宗の肝心とし、其上に印と真言とを加えて超過の心ををこす。・・・華厳宗は澄観が時、華厳経の心如工畫師の文に天台の一念三千の法門を楡ミ入レたり。」と端的に示されている。

このような華厳宗.真言宗の教主論・即身成仏論の教義に対し、本門思想、即ち三身相即久遠実成の釈尊とそれを踏まえた一念三千論を示すことによって、その非なることを決定づける意味があったのである。以下、教主論・即身成仏論についての破折を具体的に見てみよう。

教主論については『開目抄』に「雙林最後ノ大涅槃経四十巻・其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず。」と間接的ながら顕本という立場からの久遠実成釈尊の優位性が示されている。そして更に『真言見聞』には「真言ハ自リ法華経外ニ大日如来ノ所説ナリ云云。若爾ラ者大日ノ出世成道説法利生ハ自リ釈尊前歟後歟如何。対機説法ノ仏ハ八相作仏ス。父母ハ誰レソ。名字ハ如何。」、とべて、現実的且つ揶揄的に、法身如来が釈尊所説の五時八教とは別に真言教を説いだというなら、その大日如来は何時何処に実在したのかと難詰されている。

成仏論については『開目抄』に「真言・華厳等の経々には種熟脱の三義名字スラ猶なし。何ニ況ヤ真義をや。華厳真言経等の一生初地ノ即身成仏等は経ハ権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり、道鏡が王位に居せんとせしがごとし。・・・真言大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし。」と述べられている。すなわち彼の経には、成仏論はあっても肝心の下種が示されていない。況や爾前の衆生の成道は、久遠実成の本仏が示され久遠下種が確認されて始めて成り立つものであれば、それが示されない真言の即身成仏論は有名無実であるというのである。その上『真言見聞』には「大日経には衆生の中に機を簡ひ、前四味の諸経に同じて二乗を簡へり。まして草木成仏は思よらず。」と述べられて、『大日経』は二乗を嫌う故に、一念三千即身成仏論の論理的根拠である十界互具は成り立たぬと指摘されている。

ちなみに理同事勝について『真言見聞』には「法華経には事理共に有ル也。所謂久遠実成は事也。二乗作仏は理也」とあることが注目される。久遠実成を事とし二乗作仏を理とすることは、真言の理同事勝を破すのみならず、やがて示される台当本迹違目の事理勝劣にそのまま当てはまるのである。

以上が真言の即身成仏論の破折のあらましであるが、要するに『大日経義釈』『毘盧遮那経疏』等に見られる即身成仏論は、一見天台の一念三千論を導入しているかに見えるが、「一念三千ノ大綱骨髄たる二乗作仏久遠実成」を踏まえぬ似て非なるものである、ということになるであろう。

 

A華厳宗の破折

華厳宗と真言宗は前項真言破折に明らかなように一緒に破される場合が多く殆とが重複している。ことに教主論について、毘盧遮那法身は三身相即の久遠実成釈尊に劣るということ、更に久遠実成の下種が説かれぬ故にその成仏論は有名無実であるという点については、両者は同時に破されているのでここでは再説しない。結局華厳宗の即身成仏論の破折も、真言宗同様二乗作仏・久遠実成の裏付けがないことが決定的な根拠となっている。その証拠として『開目抄』には「心仏及衆生の文は華厳宗の肝心なるのみならず、法相・三論・真言・天台の肝要とこそ申シ侯へ。此等程いみじき御経に何事をか隠スベき。なれども二乗闡提不成仏ととかれしは珠のきずとみゆる上、三処まで始成正覚となのらせ給で久遠実成寿量品を説キかくさせ給き。」と述べられている。また華厳宗が天台の一念三千を盗んでいる証拠としては、『八宗違目抄』に「問テ云ク、華厳宗ハ用ル一念三千ノ義ヲ乎(華厳宗唐則天皇后御宇立レ之)。答テ云ク、澄観ノ疏三十三ニ云ク(清涼国師)、止観ノ第五二明ス十法成乗ヲ中、第二ニ真正発菩提心○。釈シテ日ク、然モ此経ノ上下発心ノ義文理淵博ナレトモ見其撮略。故ニ取テ而用之ヲ引テ而証ス之ヲ。二十九ニ云ク、法華経ニ云ク、唯仏与仏等。天台云ク、○便チ成三千世間。彼宗以比為実。○一家之意理無不通文。」と、華厳宗の祖澄観の『華厳経疏』の文が挙げられる。ちなみに本文について『開目抄』には「華厳澄観は華厳の疏を造て、華厳法華相対して法華ノ方便とかけるに似タレども、彼宗以比為実。此宗ノ立義理無不通等とかけるは悔還にあらずや。」と述べて、澄観の改俊の言ともみなしている。

 

B中古天台理即本覚の破折

右に真言宗・華厳宗の破折について述べたが、再三述べたように彼らへの破折は教主論・成仏論に絞られて、法華経の肝要たる二乗作仏・久遠実成という二箇の大事を踏まえていないことの一点に集約されている。そしてそれは文の上には顕われないものの、天台宗自身の法義的問題として、当時の本覚思想に見られる凡夫本仏理即本覚的成仏論が念頭に置かれていたのではないかと推測されるのである。さきに『寺泊御書』に見られる大聖人への批判及び批判者について少々述べ、「唯教門計也。理具我存之」との批判者は理即本覚思想的観心主義者であったろうと推測した。「教門計」と教相を軽んずる態度からもそれは窺えるのである。理即本覚・凡夫即極は凡夫成道を指向した法門ではあろうが、仏界を無視し十界互具を否定する以上、もはや一念三千論を完全に逸脱している。そして経緯や状況は異なっているが、教相たる二箇の大事を無視する点において先の華厳真言の即身成仏と本質的に軌を一にするものといえるであろう。一念三千成道論の絶対的前提条件として、二箇の大事という法華経教相、就中本門思想の強調が、真言・華厳両宗への批判および回答であると同時に、「理具我存之一」の批判に対する回答という側面を持っているとの推測は、充分なし得ると思うのである。

 

三、まとめ

『開目抄』における本門思想は、真言・華厳の教主論と即身成仏論、そして中古天台理即本覚思想の破折が念頭に置かれた教相面を主体とする主張であった。そしてそれは一念三千論と似て非なる即身成仏論を決定的に退ける役割を持つと同時に、法華経を奉ずる大聖人の現実に即した成仏論、即ち観門を導き出す土台としての役割をも持っているのである。大聖人の末法という時に約した独自の観心の法門は、『観心本尊抄』まで待たなければならない。そういう意味において『開目抄』の本門思想は『観心本尊抄』の観心思想への橋渡し的役割を担っているということができよう。未だ天台宗の立場に立っていること、上行自覚が顕われていないこと等が端的にそれを物語っている。しかし、理論的に提示されてはいないものの、後『観心本尊抄』に見られる実践的一念三千論が、既に窺うことが出来ることも認識する必要はあるであろう。すなわち不軽菩薩の折伏は天台の一念三千観念観法に対する末法適時の行法であるとされ、「我並ビニ我弟子諸難ありとも疑フ心なくわ自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ。」と述べられるのは、まさに末代凡夫の一念三千成道のありようが示されているといってよいであろう。また『開目抄』執筆後間もない五月、日妙聖人の佐渡来訪に感激をもって示された『日妙聖人御書』にも、日妙聖人の忍難来訪の姿を不軽菩薩の忍難の姿にだぶらせ、そしてその行為そのものが一念三千の肝心であると述べている。これらは『観心本尊抄』という理論的裏付けを持てばそのまま実践的観心となるものであり、見方によっては『観心本尊抄』の自然譲与よりは実践的で理解しやすいともいえるであろう。

更に、『開目抄』の最末部に「日蓮は日本国の諸人にしうし父母也。」と日本国の主師親たる自覚が示されている。勿論これは先に述べたように『開目抄』が勧持品色読という立場、不軽菩薩の但行礼拝の実践という立場から記されているのであるから、その範躊で述べられたものであろうが、「日本国の主師親」という言葉には、末法という時、日本国という国土、そしてそこに存在する最悪の衆生という現実が強く認識されており、『観心本尊抄』に通ずるものを感ずるのである。

また、逆縁世界における実践という点からすれば、『開目抄』はもっとも高揚し充実しているのであって、幕府の対応が若干緩くなる『観心本尊抄』よりそれは徹底している。そういう意味では後年、弘安二年熱原の法難を媒介として展開される、逆縁世界を基盤とした法門に繋がるものと見ることができよう。

   

第3 曼茶羅図顕

本項は『開目抄』とは直接的には関係しないが、文永八年の法難を契機としてなされた佐渡前期の特筆すべき事柄として取り上げておきたい。現存曼茶羅中、年記がはっきりしていて最も古いものは、文永八年十月九日相川依智本間六郎左衛門の館で図顕された曼茶羅である(一番・『日蓮聖人真蹟集成』《以下『真蹟集成』と略称》十巻本尊集の番号、以下曼茶羅に付されている番号同じ。)。十月九日といえば佐渡流罪が決定し、佐渡に向けて出発する前日である。相貌は首題と愛染不動両明王の種子、それに年記、図顕場所、署名花押があるのみである。但しこれを後年「曼茶羅」或は「本尊」として図顕されたものと、即同質のものと考えてよいであろうか。勿論本尊図顕の原初をたどる時、ここにそれを見いだすことはその形態からして間違いとはいえないであろう。しかし、大聖人が自ら本尊を図顕するという意識に立たれたのは、文献的にいえば『観心本尊抄』以降であることは後述の如く認められなければならないであろう。翻ってこの依智で認められたその相貌を拝す時、文字と図絵という形態的な異なり、また密教主体と法華経主体という相違はあるものの、建長六年に図した『不動愛染感見記』に通ずるものを感ずるのである。思えば、かの時も安房清澄寺を追われた直後であり、新たな境地に立たれたことを表明する意味と、守りとしての意味があったと思われるのであるが、この場合も同じような意味合いがあったのではなかろうか。

佐渡においての初見は文永九年六月十六日、一谷において図顕されたものである(二番)。年記・場所・署名花押の形態位置は前記曼茶羅と同じであるが、首題の左右に釈迦多宝が配されている。次ぎに年記のない八番曼茶羅。首題の左右に釈迦多宝の他、普賢・文殊・智積菩薩、そして鬼子母神・十羅刹女が配され、讃文として弘決の「当知身土一念三千 故成道時称此本理 一身一念遍於法界」が記される。また大日如来の種子とおぼしきものが二つ見られる(向って右側の種子は胎蔵界大日如来アーンクのようである)。これは本尊集解説に山中喜八氏が推しているように、文永九年か、少なくとも文永十年四月以前に系けられるべきものであろう。その根拠は第一に上行等の四菩薩が配されていないことが挙げられる。もっとも所謂佐渡百幅本尊」といわれる曼茶羅には、花押の形態から『観心本尊抄』以降と考えられるにもかかわらず四菩薩がない。しかしこれは何らかの目的をもって特別に、しかも大量に図顕されていると思われ例外と考えるべきであろう。第二の根拠として花押の形態を挙げることができる。先に、同じバン字花押でも、空点が点或は棒状のものとカギ型になっているものとの違いがあり、前者は文永十年四月二十六日の『妙一尼御返事』まで、後者はそれ以降に見られることを述べた。しかるに本曼茶羅はまさに空点が点になっており前者に属している。更に署名花押の形態も、空点が点になっている時期のものは署名花押がくっついているのに対し、カギ型花押以降では佐渡百幅本尊も含め左右に分かれるようになるという傾向があり、本曼茶羅はこの点に関しても前者に属す。これらを総合的に勘案すれば、本曼茶羅は『観心本尊抄』以前のものと考えられるのである。以上『観心本尊抄』以前の曼茶羅は一番・二番・八番の三幅を数えることができる。

ついでながら『観心本尊抄』以降の佐渡期の曼茶羅についても述べておこう。三番・三の二番・三の三番・四番・五番・六番・二十五番はいずれも「佐渡百幅本尊」に属すもので、首題と釈迦多宝、愛染不動の種子という素朴な形態ながら、先に述べたように花押の形態から『観心本尊抄』以降と推定する。また『真蹟集成』本尊集に未掲載の同系統の曼茶羅が、佐渡世尊寺・妙照寺はじめかなりの数の存在が確認されており、今後真偽問題等、慎重を期しながら追加していく必要があろう。次ぎに七番巻曼茶羅は首題釈迦多宝という相貌においては佐渡百幅本尊と同じであるが、字質が異なっている。後期に属す理由は花押。二紙が縦に継がれているのは珍しい。十二番は始めて上行等の四菩薩が配される。形態の素朴さから見て佐渡期のものと推される。九番は舎利弗等の諸尊が配されるが、身延期のような整然としたものでなく、やはり佐渡後期のものと思われる。

以上を要するに、前期『観心本尊抄』以前のものは本尊というよりは『不動愛染感見記』の系譜を引くものと見られ、後期『観心本尊抄』以降においては、前期の形態を踏襲しつつも、台当本迹違目から上行自覚に立った、本尊建立を意識されてのものに移行していくと見ることができよう。十二番曼茶羅は現存中ではその最も早いものといえるであろう。

 

 

第3項       佐渡後期の思想――『観心本尊抄』を中心として  

 

佐渡後期の大聖人の思想は『観心本尊抄』がその中心に位置していることはいうまでもない。『観心本尊抄』は内容的に前段と後段に分けることが出来るように思う。前段においては、冒頭一念三千の依文とされる『止観』第五の文が掲げられているように、一念三千論が展開されている。勿論それは『開目抄』に示された本門思想、即ち久遠実成の釈尊を基点に置いた一念三千論であって、いわば『開目抄』に示された本門一念三千論が、より具体的におさらいされているといってよいであろう。然るに後段においては、滅後末法という現実に焦点が当てられ、それに基づいて在滅の相違・台当の違目が示されて、滅後末法に上行菩薩によって建立される「観心本尊」が示されるのである。このようなおよその全体像を念頭に置きながら、第一項として前段部分について、そして第二項として後段部分について論じようと思う。

更に『観心本尊抄』を基点として新たな見地から、戒壇問題など重要な問題がその他の御書にも示されている。そこで第三項にその他の問題として幾つか項目を挙げて論じたいと思う。  

   

第1 『観心本尊抄』前――本門一念三千論  

一、題号と名乗り――付、台密の破折

先ず大聖人自ら記された題号「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」について述べる。先に佐前の思想を述べる中、『大集経』の五々百歳説について、『守護国家論』においては浄土教がこの文をもって『法華経』等の白法が末法には隠没することを主張する故に、「以テ大集権門ノ五々百歳之文ヲ同シ此経ニ」と批判的であること、そして諸経滅尽の後に留まるのはまさに『法華経』であることが『薬王菩薩本事品』の「我滅度後後五百歳中広宣流布」の文によって示されていることを述べた。そしてその「後五百歳」とは正像二千年の後の五百年、すなわち末法の始めの五百年であることは、『薬王品得意抄』に後五百歳の経文を「此経文ニ二千年ノ後南閻浮提ニ広宣流布すべしととかれて候は・・・」と解説していることで知れる。

然るに『観心本尊抄』の題号を見ると、「如来滅後」に続く文が『薬王品』の「後五百歳」でなく「五五百歳」であり、『大集経』の五箇の五百歳が用いられている。これは後『曽谷入道殿許御書』に「法華経ノ第七薬王品ニ教主釈尊與多宝佛共ニ語テ宿王華菩薩ニ云ク、我滅度ノ後後ノ五百歳ノ中ニ広宣流布シテ・・・。以大集経ノ文ヲ案スルニ之ヲ前四箇度ノ五百年ハ如ク佛ノ記文ノ既ニ令ス符合セ了ヌ。第五ノ五百歳之一事豈ニ唐捐ナランヤ。」と述べられるように、『薬王品』の「我滅度後後五百歳」と『大集経』の五箇の五百歳が合体したものである。

これは『大集経』の第五の五百歳が闘諍言訟の時代であるとの記述と、他国侵逼・自界叛逆という現状目前の危機とが符合することをもって、前言を撤回されて導入されたものであろう。『撰時抄』には「彼の大集経は佛説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるる道には、法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世の事を記シ給ヒけるは寸分もたがわざりけるにや。」と述べられて、成仏に関することとは別の、時間的な記述に関する使用であることが念記されている。

ともあれ『観心本尊抄』には、「末法の始め」という言葉が殊に後段に頻出する。その言葉自体は既に『南条兵衛七郎殿御書』に見られるが、『観心本尊抄』の場合とは根底的に異なるものである。すなわちここでは末法万年の内始めの五百年には、結要付属を受けた上行菩薩等の地涌千界が出現し、本門観心の本尊をこの日本国に建立する時であるという特別な意識をもって語られているのである。そしてそのことがより明確に決定づけられるために、『薬王品』と『大集経』の合体があり、さらに天台の「後五百歳遠霑妙道」や妙楽の「末法之初冥利下無」や伝教の「正像稍過已末法太有近」「語代像終末初尋地唐東羯西、原人則五濁之生闘諍之時」などの言葉が用いられると思われるのである。

尚、「観心本尊抄」の読みについては、本尊の内実についての考察が不可欠であり、『観心本尊抄』後段に譲る。

次ぎに「本朝沙門日蓮撰」という名乗りについて。大聖人の名乗りは佐前においては『立正安国論』『三部経肝心要文』に「天台沙門」、『法華経題目抄』に「根本大師門人」との名乗りが見られる。然るに「本朝沙門」の名乗りは真筆現存御書では『観心本尊抄』が初見である。文永九年に系けられる身延曽存御書『祈祷抄』にも、刊本録内御書には「本朝沙門」の名乗りが見られるが、曽存真筆にその記載があったか否かは不明である。因みに身延山に日朝写本がある由であるが未見である。日朝筆『御書目録日記之事』の「祈祷抄」「祈祷抄奥」、日乾筆『身延山久遠寺御霊宝記録』には、書き出し及び末尾の文章が記載されており、且つ両者が同じなので、双方身延曽存の真筆を拝しての記載であると考えられるが、そこには名乗りについては触れられていない。今彼に確かな御書の記載から「本朝沙門」の名乗りを『観心本尊抄』か、少なくともその付近からと想定すれば、そこには台当違目を踏まえ、末法の始めの五百歳に日本国及び末代の一切衆生を救済する本化上行の自覚を読みとることが出来るのではないか。すなわち叡山法華宗の復興を目指した天台僧の立場から、日本国の主師親、しかも本化の自覚に立った上での主師親たらんとの気概が、そこに題されているのではないかと思うのである。

次ぎに、右の事柄と間接的ながら関係があると思われる台密の破折について若干触れておきたい。先に佐渡前期の法門を述べるに際し、『開目抄』においては台密破はなされていないことを示した。では台密破がなされるのはいつ頃からであるかといえば、本格的な破折は身延期文永十一年十一月の『曽谷入道殿御書』あたりからといえるであろう。しかし、その嚆矢としては文永九年に系けられる『祈祷抄』の末文に「慈覚大師御入唐以後、本師伝教大師に背かせ絵ヒて、叡山に真言を弘めんが為に御祈請ありしに、日を射るに日輪動転すと云フ夢想を御覧じて、四百餘年の間諸人是を吉夢と思へり。日本国は殊に忌ムベき夢なり。」と慈覚大師の破折が見られる。天台迹門の法門を像法過時とし、末法適時の本門観心の法門を展開される立場に立たれた大聖人は、それを期に叡山の真言導入をも破折することに踏み切られたのではなかろうか。もっとも『祈祷抄』の全貌が必ずしも明らかでなく、殊に当該部分が日朝写本にあるのか不安定要素を含んでいる。先に示した日朝の『御書目録日記之事』「祈祷抄奥」には「問云上ニカカセ玉ハリ畢ヨリタラムカゴトシマテ」とあり、『日乾目録』にも「祈祷抄 初云、問云華厳宗 奥云、たらんがごとし」とあって両者ともに末文は「たらんがごとし」である。然るに録内及び現行本の末文は「所詮如件」であって、

身延曽存の『祈祷抄』に更に文章が追加されているのである。そして当該部分はその追加分にある。故に今はそうした不確定要素を考慮し、参考として掲げておくこととしたい。もし『祈祷抄』が初見ということになれば、『観心本尊抄』に先立ちその意をもって慈覚批判がなされたのであろうし、『祈祷抄』を取らないとすれば佐後身延初期から、やはり台当違目の立場にたって台密破がなされたということになろう。

 

二、一念三千論  

@出処のこと

『観心本尊抄』は冒頭に一念三千の出処である『摩訶止観』の第五の文が掲げられ、次ぎに一念三千の名目が他所に見られるか否かが論議されている。すなわち天台の玄義・文句・そして止観の方便章までには界千如は説かれるが、一念三千の名目は止観第五の正観章に限ることが、主に妙楽の『弘決』の第五の文によって示されている。このことについては文永六年に系けられる『双紙要文』に「一念三千名目出処勘文」「一念三千法門」の項目が設けられて考察されている。その引文考察は『観心本尊抄』より質量共に豊富で、『観心本尊抄』の当該部分は『双紙要文』の要約とも見られる。『双紙要文』は文永六年、一念三千論を法門の中軸に据えて論じらねるにあたって、基本的作業としてその名目出処、天台の三種の観心、数量などについてその論拠と見解を示したものと思われる。今日ではその題名が示すように要文扱いされ、かろうじて『定本』が第四巻に「断簡新加」として掲載している程度である。しかし内容形態共にしっかりしているばかりでなく、『十章抄』『開目抄』『観心本尊抄』の一念三千論の下敷きとなるべき重要な書物、いわゆる御書と見るべきである。相当な題名を付して御書と拝していくべきことを提言したい。

 

A天台の観門の難信難解(百界千如と一念三千の相違)

右の如く、一念三千を論ずる基本として、一念三千の出処が止観第五正観章であることが示された後、ではそれ以前に説かれた百界千如と止観第五に示された一念三千との違いは何であるかに議論は移る。その答えは誠に明瞭で「百界千如ハ限有情界ニ、一念三千ハ亘ル情非情ニ。」と端的に述べられている。然るに非情の草木に有情の如く心があるのか、もし心がなければ十如是は成り立たぬのではないかとの疑問が呈される。それに対しその草木成仏こそ一念三千の肝心、天台の観門の難信難解の法門であるとされた上で、非情に色心因果があるという理論的根拠として、『摩訶止観』第五の「国土世間亦具ス十種法ヲ。所以ニ悪国土相性躰力等云云。」、『金錍論』の「乃チ謂ク一草一木一礫一塵各一佛性各一因果アリ。具ス足下縁ヲ。」などが示される。そして現証としては木絵二像を本尊と仰ぐのはまさに草木に色心因果、ひいては十如是のある証拠であるとされるのである。そういう意味では木絵二像を本尊とすることは、天台の草木成仏・一念三千論があって始めて成り立つのであって、「出タリ自リ天台一家」ということになるのである。

この木絵二像と草木成仏については文永十年に系けられる身延曽存御書『木絵二像開眼之事』にも詳しく述べられている。すなわち木絵二像は仏の三十二相の肉色法たる三十一相は表すことができるが、梵音声の一相は不可見無対色・心法なる故に書き表すことができない。そこで仏の御心たる法華経を心法と定め、本絵二像の前に安置するとき三十二相は備わる。そしてその全体を「草木成仏といへるは是也。」とて、天台の一念三千の肝心たる草木成仏の法門であるとしているのである。すなわち一念三千論1=草木成仏は単なる自然主義的なものでなく、そこには法華経の介在が不可欠であるというわけである。

 

B十界互具論(自然譲与)

さて一念三千の条件として、草木国土の色心因果十如是義が、草木成仏という天台独自の法門によってされた後、議論は一念三千論のもう一つの骨子である十界互具論に移っていく。すなわち末代最悪の凡夫の己心に仏界が具すこと、就中久遠実成の教主釈尊を具すことが道理として認められるか否かという問題である。「自之(此)堅固ニ秘之」と念記された上でそれについての疑問が呈され、その疑問の根拠として『華厳経』『仁王経』『金剛般若経』『起信論』『唯識論』『方便品』などの「仏は清浄にして垢穢を帯さず」(取意)との文が挙げられている。この内『華厳経』『唯識論』を除く諸経論が、『本理大綱集』の「十界互具之文」中、麁食者が呈した疑義に引かれていることから、そこからの取材が指摘されている。建治二年に系けられるものの『本理大綱集等要文』に当該部分を抄写されており、更に身延前期に系けられる『注法華経』結経裏に同文が抄写されているので、妥当な見解であろう。但し『本理大綱集』に引文されていない『唯識論』が、『本尊抄』『本理大綱集等要文』『注法華経』それぞれに含まれており、『本理大綱集』からの取材に限定されるわけではない。

ともあれ此等の、仏界には衆生の垢穢を具せずとの疑義に対しては、十界互具を説く経論を示せば事足りるわけであるから、『法華経』方便品の「欲令衆生開仏知見」等の文によりこれを退けられている。しかし、それにしても難信難解なることは本門の教主釈尊がいかにして我等凡夫の己心に住するかという問題である。その具体的な答えが所謂「自然譲与」である。すなわち「釈尊ノ因行果徳ノ二法ハ妙法蓮華経五字ニ具足ス。我等受持スレハ此五字ヲ自然ニ譲與ヘタマフ彼ノ因果ノ功徳。」とて、釈尊の本因本果が余すところなく具足されている妙法蓮華経の五字を、凡夫が受持するところに自然に彼の因果は譲与されるというのである。先ず自然譲与の前提たる、妙法五字に本門久遠実成の釈尊の因果が具足されていることについては、『法華経』方便品の「欲聞具足道」の文を依拠とし、それを『涅槃経』の「薩音名具足」、『大智度論』の「薩者六也」、『無体無得大乗四論玄義』の「沙音訳云六」、吉蔵『法華義疏』の「沙者翻為具足」、『法華玄義』の「薩者梵語、此翻妙」等の経論によって補っている。これは既に『開目抄』においてもほぼ同文が見られる。また、自然譲与については『無量義経』の「諸佛ノ国王ト是経ノ夫人ト和合シデ共ニ生是菩薩子。」の文を中心として説明されている。これらのことがらは文永九年に系けられる『日妙聖人御書』に明快に示されているので、ここに掲げておこう。

「法華経の文字は一字は一ノ賓無量ノ字は無量ノ賓珠なり。妙の一字には二ツの舌まします、釈迦多賓の御舌なり。此二佛の御舌は八葉の蓮華なり。比重ナる蓮華の上に賓珠あり、妙の一字なり。此妙の珠は昔釈迦如来の檀波羅蜜と申て、身をうえたる虎にかひし功徳、鳩にかひし功徳、尸羅波羅蜜と申て須陀魔王としてそらごとせざりし功徳等、忍辱仙人として歌梨王に身をまかせし功徳、能施太子・尚闍梨仙人等の六度の功徳を妙の一字にをさめ給て、末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度萬行を満足する功徳をあたへ絵フ。今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子これなり。我等具縛の凡夫忽チに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全躰うけとる故なり。経ニ云ク、如我等無異等云云。法華経を得ル心者は釈尊と斉等なりと申ス文なり。譬ば父母和合して子をうむ。子の身は全躰父母の身なり。誰か是を諍べき。」

先に草木成仏は単なる自然主義にあらずと述べたが、自然譲与も同様凡夫がそのまま教主釈尊を具すというのではなく、妙法受持を前提としていることは論をまたない。

 

C身上依正不二

さて、自然譲与により凡夫が久遠実成の釈尊を具する姿が示され、『法華経』の文により凡夫所具の十界が示された後、いよいよ国土世間に目が向けられる。その基点となるのは妙楽『止観弘決』の「當レ知ル土ハ一念ノ三千ナリ。故ニ成道ノ時稱フテ此本理ニ一身一念遍シ於法界ニ。」の文である。すなわち凡夫が妙法受持により己心に十界互具を観ずるとき、その一念は依報たる法界に遍じ、身上依正不二なるによって一念三千は成就されるのである。そして妙法受持の行者の一念におさまる国土は、その因果が久遠実成の本因本果であるように、本国土たる本時の娑婆世界であり、それは常住の浄土である。「今本時ノ娑婆世界ハ離レ三災ヲ出タル四劫ヲ常住ノ浄土ナリ。佛既ニ過去ニモ不滅セ未来ニモ不生セ、所化以テ同躰ナリ。比レ即己心ノ三千具足ノ三種世間也。」と述べられる如くである。

かくして一念三千の要件たる十如実相・十界互具・三種世間が本門思想の裏付けをもって、しかも末法の愚悪の凡夫=妙法受持の行者の一念という具体性が付与されて示されたのである。

 

D本門の本尊(一念三千と竹膜を隔つ)

一念三千理論の裏付けとなった本門思想は、いうまでもなく久遠実成の釈尊と、その長寿を証明した等の地涌千界の登場がその中心となっている。そして『開目抄』において各宗が本門の教主釈尊を本尊と仰がぬことを「本尊にまどえり。」と喝破されているように、本門の本尊とは久遠実成の釈尊に他ならない。然るに『観心本尊抄』においては、それを虚空会の儀式、とりわけ上行菩薩等地涌千界登場の八品に展開される開近顕遠・結要付属という、より具体的なところに視点が置かれ表現されている。

「其本尊ノ為躰、本師ノ(時)娑婆ノ上ニ賓塔居シ空ニ、塔中ノ妙法蓮華経ノ左右ニ釈迦牟尼仏・多賓佛、釈尊ノ脇士上行等ノ四菩薩、文殊・彌勒等ハ四菩薩ノ春属トシテ居シ末座ニ、迹化・他方ノ大小ノ諸菩薩ハ萬民ノ處シ大地ニ如ク見ルカ雲閣月卿ヲ、十方ノ諸佛ハ處シタマフ大地ノ上ニ。表ルカ迹仏迹土故也。如キ是ノ本尊在世五十餘年ニ無之。八年之間ハ但タ限ル八品ニ。」、

さて、かくのごとく本門の本尊は事顕本に基づくものであり、また虚空会の儀式も勿論単なる観念論でない。しかしまた、それはあくまで法華経という教相に示されている事実である。それ故に厳密にいえば教相たる本門の世界と、その本門の世界を現実に体現する観心の世界とは区別されなければならない。もっとも『観心本尊抄』における本門と観心とには、先に『小乗大乗分別抄』に見たような勝劣的な差違は見られない。右の本尊の姿を示された後、前段の一念三千法門から後段の在滅・台当の相対に移るにあたって示された五重三段の内、本門三段について次のごとく述べられている。「本門十四品ノ一経ニ有リ序正流通。涌出品ノ半品ヲ為シ序分ト、寿量品ト前後二半此ヲ為ス正宗ト。其餘ハ流通分也。論スレハ其教主ヲ非ス始成正覚ノ釈尊。所説ノ法門モ亦如シ天地ノ。十界久遠之上ニ国土世間既ニ顕ル。一念三千卜殆ト隔ツ竹膜ヲ。」ここに本門は観心たる一念三千と竹膜の如き差違であるとの認識に立っていることがわかる。そしてそれは、次下に示される在滅の違いに他ならない。

 

三、『観心本尊抄』前段のまとめ

以上、一応五重三段を示されるところまでを前段とし、その内容を見てきた。今その概要をまとめるならば、観心たる一念三千論を本門思想、とりわけ本門の本尊の裏付けをもって示されているといえるであろう。その点『開目抄』に示された一念三千論のおさらい的意味合いを持っているともいえるであろう。それ故前段には在滅・台当の違目については述べられていない。但し前段から後段に移行する部分、すなわち前段の結論ともいうべき本門の本尊の「為躰」を示す段、そして後段の序分としての意味を持つ五重三段が示される段においては若干それが見られる。そういう意味ではこの部分は、前段後段の証前起後的役割を持っているというべきであろう。

   

第2 『観心本尊抄』後段――在滅相対・台当違目・観心本尊

  前段において示された一念三千論は、本抄題名の「如来滅後五五百歳始」の語が示すように、末法の始めという時を得て一層の光彩を放つ。後段では前段を受けて末法の始めに焦点が当てられ、在滅相対・台当違目が示され、本化上行が出現し観心の本尊がこの国に建立することが説かれる。以下順を追ってそれらについて見ていきたいと思う。

 

一、在滅種脱相対

右に五重三段は後段の在滅相対を説き起こす役割を果たしていると述べた。では具体的にどのように示されているか見てみよう。

五重三段とは一代三段・法華部十巻三段・迹門十四品三段・本門十四品三段・本門三段であるが、先の四重の三段がはっきりしているのに対し、最後の本門三段が若干悩ましい。すなわちその序分正宗分については「自リ過去大通佛ノ法華経乃至現在ノ華厳経、乃至迹門十四品・涅槃経等ノ一代五十餘年ノ諸経、十方三世諸佛ノ微塵経々ハ皆寿量ノ序分也。自リ一品二半之外ハ名ク小乗経・邪教・未得道教・覆相教ト。」とあって、一品二半を正宗分としそれ以外の十方三世のすべての経々を序分とすること明白であるが、流通分については直接的なコメントが見られないのである。ではここに示されるべき流通分とはなにか。結論的にいえば滅後末法の始めの観門、すなわち上行所伝の題目の五字七字が流通分にあたるものと思われる。そして先の四重の三段が、経説の内容から示されている故当然正宗分が中心であるに対し、ここでは法華経とりわけその中心となる一品二半が、何に照準を当てて説かれているかを問題にしている故に、流通分たる滅後末法が中心になっているものと思われるのである。それは次下に「迹門十四品ノ正宗ノ八品ハ、一往見ルミ之ヲ以二乗ヲ正ト以テ菩薩・凡夫ヲ為ス傍ト。再往勘レハ之ヲ以テ凡夫・正・像・末ヲ為ス正ト。正・像・夫ノ三時之中ニモ以テ末法ノ始ヲ正中力正ト。・・・以テ本門ヲ論レハ之ヲ一向以テ末法之初ヲ為ス正機ト。所謂ル一往見ル之ヲ時ハ以テ久種為下種、大通・前四味・迹門ヲ為シ熟ト、至テ本門ニ令ム登ヲ等妙ニ。再往見レハ之ヲ不似迹門ニハ。本門ハ序正流通倶ニ以テ末法之始ヲ為詮卜。」と述べられていることによって首肯されよう。右文については『法華取要抄』に類文があり、要を得ているので補完のために煩を厭わず掲げてみよう。

「問テ曰ク、法華経ハ為ニ誰人ノ説ク之ヲ乎。答テ曰ク、自リ方便品至マテノ于人記品ニ八品ニ有リ二意。自リ上テ下ニ次第ニ読メハ之ヲ第一ハ菩薩第二ハ二乗第三八凡夫也。自リ安楽行勧持・提婆・賓塔・法師ト逆次ニ読メハ之ヲ以テ滅後ノ衆生ヲ為ス本卜。在世ノ衆生ハ傍也。・・・問テ曰ク、本門ノ心如何。答テ曰ク、於テ本門ニ有リ二ノ心。一ニハ涌出品ノ略開近顕遠ハ前四味並ビニ迹門ノ諸衆ヲソシテ為メ令ンカ説セ也。二ニハ涌出品ノ動執生疑ヨリ一半並ビニ寿量品分別功徳品ノ半品。已上一品二半ヲ名ク廣開近顕遠。一向二為メ滅後ノ也。」

先ず迹門についていえば、方便品より順次に見れば在世の二乗等のために説かれているが、流通分たる安楽行品より逆次に見れば滅後末法のために説かれているというのである。確かに流通分を見れば滅後弘教が説かれており、流通を中心に考えれば滅後のためということになるであろう。本門、殊に一品二半は寿量品の「良医の譬」をもって知れるように一向滅後末法を正とし、上行菩薩の結要付属をもって考えれば、「末法今時日蓮等為也。」ということになるのである。以上のことがらを勘案すれば、第五重の三段は逆次に流通分を中心に見るという見解は了解されるのではないかと思う。そしてそれは前述した通り、次下の在滅相対すなわち一品二半と題目の五字との相違に論点を移行する役割を持っているのである。では在滅の相達とは何か。

 「在世ノ本門卜末法之初ハ一同ニ純圓也。但シ彼レハ脱此レハ種也。彼ハ一品二半此ハ題目ノ五字也。」

在世の本門と滅後末法の始めたる観心とは同じく純円である。但し在世本門が「久遠下種・大通結縁・乃至四味・迹門等ノ一切ノ菩薩二乗人天等ノ於テ本門ニ得道スル是也。」といわれるように脱益であるに対し、今末法の始めは脱益の者は漸々に衰微し、まさに下種結縁の時である。それ故同じく純円ではあるが、在世の本門が一品二半であるに対し、末法の始めは寿量品の肝要たる題目の五字であるというのである。つまり在滅の相対とは教観相対であると共に、種脱の相対であることがここに示されたのである。そして在滅の相違は、教観二門すなわち本門一品二半とその文底たる一念三千の観門=妙法五字という対比で見る限り、純円たることにおいて、また本因本果本国土が備わることにおいて「竹膜」の相違といえるであろう。しかしこれを種脱の相違という観点、すなわち末法の初めという時の中で、何をどのように行ずるかという現実面から見るならば、そこには決定的な相違が存するともいえるであろう。

 

二、台当本迹違目

右の如く在滅種脱の相違により、滅後末法の始めの観心の世界が示されたが、それをより確固たらしめのが台当本迹違目である。すなわち観心に、像法天台の迹門から開出された一念三千と、末法の始めに出現する本門から開出された一念三千があり、その違目がはっきりすることによって、末法の始めの観心の世界が一層明確になるというわけである。

「像法ノ中末ニ観音薬王示二現シ南岳天台等ト出現シテ、以テ迹門ヲ為シ面卜、以テ本門ヲ為テ裏卜、百界千如一念三千盡セリ其義。但シ論シテ理具ヲ事行ノ南無妙法蓮華経ノ五字並ニ本門ノ本尊未タ廣ク行セ之ヲ。所詮有テ圓機無キ圓時故也。今末法ノ初、以テ小ヲ打ヲ大ヲ、以テ権ヲ破ス實ヲ、東西共ニ失シ之ヲ天地顛倒セリ。述化ノ四依ハ隠レテ不現前。諸大棄テ其國ヲ不守護セ之。此時地涌ノ菩薩始テ出現シ世ニ、但タ以テ妙法蓮華経ノ五字ヲ令ム服セ幼稚。」

かつて『十章抄』においては、前述の如く天台所説の止観第五の一念三千論は本門から開出されたものであるというのが大聖人の見解であった。それは『開目抄』おいても基本的に変わっていない。然るに右文によれば天台の一念三千論は迹門の二乗作仏十界互具を基調としたもので、未だ本門久遠実成という事に約したものでなく、それ故に理具の一念三千と位置づけられている。「理具」とは凡夫が理性として仏界を具すということであり、それはいうまでもなく永不成仏の二乗に記別が与えられたことによって成就するのであるから、まさに迹門の所談ということになろう。但し、一念三千論は本門を除いては成り立たぬものであることは『十章抄』以来の見解であるから、「以迹門為面以本門為裏」という表現になったものと思われる。ともあれ天台の一念三千は本門寿量文底の一念三千ではないという新たな見解が示されたわけであるが、その理具迹門たる所以はそういった理論上の問題よりも、時と付属という観点から見た時、より明白になるのである。すなわち像法という「時」は、「有圓機無圓時」とあるように円機円時共にない正法時代と違って、円機は多少あるものの「無圓時」すなわち純円の弘通される時ではないというのである。そしてそれに付随して、迹化の四依たる天台は本門の付属を受けていないということが挙げられるのである。かくして天台所説の一念三千は迹門立ちであることが明らかとなった。しからばそれに対する本門寿量文底の一念三千はいかんというに、今末法の始めという時を得て、結要付属を受けた上行等の本化の菩薩が出現し、本門寿量文底の一念三千=事行の南無妙法蓮華経を弘宣し、本末有善の末法の衆生に下種結縁する、というのである。

以上のことがらは右文に先立って四類の四依を語る段で

「小乗ノ四依ハ多分ハ正法ノ前ノ五百年二出現ス。大乗ノ四依ハ多分ハ、正法ノ後ノ五百年ニ出現ス。三ニ迹門ノ四依ハ多分ハ像法千年、少分ハ末法ノ初也。四ニ地涌千界ハ末法ノ始ニ必ス可シ出現ス。今ノ遣使還告ハ地涌也。是好良薬トハ寿量品ノ肝要タル名躰宗用教ノ南無妙法蓮華経是也。比良薬ヲハ佛猶不レ授與シタマハ迹化。何ニ況ヤ他方ヲヤ乎。」と明快に示されている。尚、神力品結要付属を妙法五字と規定したのは、本抄の「如ク是ノ現シテ十神力ヲ地涌ノ菩薩ニ嘱累シテ妙法五字ヲ云ク、経云、・・・」

の文が初見である由である。

ともあれこの台当本迹違目の宣言により、末法適時の観心の世界が明らかとなった。そしてそれは大聖人の新境地の出発点であると同時に、これまでの天台僧としての立場との決別を意味するものであった。

本項を終えるにあたり、先に『開目抄』時における一念三千の位置を示す図を便宜のために示したように、ここでは台当違目に立った『観心本尊抄』時の一念三千観を図示しておく。

   


 

三 観心本尊建立

@上行自覚

本抄においては、「地涌の菩薩」或は「地涌千界」が末法の始めに出現し、「妙法蓮華経の五字」「一閻浮提第一の本尊」を弘通建立されることが示されるが、ご自身が地涌菩薩、或は上行菩薩の再誕であるとの記述は見られない。文永十二年に系けられる身延曽存御書『新尼御前御書』には「而ルに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼てこれをしれるは、彼の菩薩の御計ラヒかと存て・・・」とあり、大聖人に上行自覚があったか否かが、一応問題となるであろう。しかしながら保田妙本寺蔵文永十一年十二月の通称『万年救護本尊』の讃文に「大覚世尊御入滅シテ後経歴ス二千二百二十余年ヲ、雖モ爾リト月漢日三ケ国之間未有サ此大本尊、或ハ知テ不弘メ之ヲ、或ハ不知ラ之ヲ、我慈父以テ佛智ヲ隠シ留メ之ヲ為ニ末代ノ残ス之ヲ、後五百歳之時上行菩薩出現シテ於世ニ始テ弘宣ス之ヲ。」とあり、この文言によれば明らかに上行自覚に立たれていたといえるであろう。

また、日興写本の存する『頼基陳状』に「日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂述、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御坐候・・・」とあることも参考となろう。故に先の『新尼御前御書』の表現は謙譲の意と見るべきであろう。但し『観心本尊抄』の時点においては、謙譲の意というよりはその出現を確信するという立場にあったようにも思われる。しかし、そうであったとしても程なく上行自覚が示されることを思えば、『観心本尊抄』の場合もその範囲で考えて差し支えないであろう。

また上行出現に関連して本抄の「當シ知ル、比ノ四菩薩現スル折伏ヲ時ハ成テ賢王ト誡責シ愚王ヲ、行スル摂受時ハ成テ僧卜弘持ス正法ヲ。」の文について考察しておく必要があろう。この文によれば上行等の四菩薩は末法において出現する際二つの形態があり、賢王として出現する場合に折伏を現じて愚王を誡責し、僧形をもって出現する場合は摂受を用いて正法を弘持するというのである。とするなら本抄でいう上行出現は後者を指すことは疑いの余地がない。その場合若干の考察を加えるべき問題があるが、それについては次々項に譲る。

 

A本門本尊と観心本尊

本門の本尊とはいうまでもなく釈尊在世において、法華経『涌出品』から『嘱累品』に至る八品に地界が登場し久遠実成が示された虚空会の儀式そのものを指す。その内実は先に紹介した本抄の「其本尊為躰」で始まる文に、情景瞼に浮かぶ如く臨場感あふれるタッチで描かれている。ではその在世に現出された本門の本尊と、本抄末文に示される末法の始めに地涌千界が出現して此国に立てるという「一閻浮提第一ノ本尊」とは同じと考えるべきだろうか。

結論からいえばそこにはまさに「竹膜を隔つ」相違があると考えるべきであろう。先ず第一に在世本門の本尊は釈尊始めご当人達が現出しているわけであるから、そのまま紛うことなき本門の本尊である。然るに末法の始めに建立される本尊は、その儀式を紙墨或は木絵によって再現されるわけであるから、その開眼、すなわち観門たる草木成仏・一念三千法門を抜きには存在し得ない。また、それを再現する権能は結要付嘱を受けた上行等地涌千界であって、それ以外のものがたとえ形を同じく再現したとしても本尊とは言い難いであろう。つまり末法の始めに建立される本尊には、上行自覚に立った日蓮大聖人の証得、すなわち観心を伴うことが必須とされるのである。そう考えれば両者の相違は畢寛教観二門の相違である。つまり本門の本尊とは、釈尊在世に現出されたとはいえ現在から見れば既に法華経という経文の上にのみ存する教相上の本尊であり、それに対し末法の始めに建立される上行自覚に立った大聖人証得の本尊は、観心の本尊と称されてしかるべきであろう。そしてそのことは身延期文永十一年七月二十五日図顕ながら、十三番本尊の讃文に「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間、雖モ有ト経文ニハ一閻浮提之内未曽有ノ大曼茶羅也、得意之人ハ察セヨ之ヲ」とあることによって裏付けられるものと思う。

かくして本抄の題号は古来種々の読み方が施されてきたが、上述の意をもってそのまま「如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄」と読まれるのが妥当であろう。但し、本題号以外に「観心本尊」の語が見られないこと、そして『法華取要抄』『報恩抄』等に天台伝教が時期至らぬ故に弘められなかった三の秘法として「本門の本尊」が明記されていることについては、注意しておかなければならない。この件に関しては追って「身延前期の思想」を述べる段で詳述しようと思うが、今は用語の問題として若干の説明を加えておきたい。たとえば一念三千について『治病大小権実違目』には「彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千也。」と表現されている。しかしこれは先に述べたように正確に言えば「迹門から開出された一念三千」「本門から開出された一念三千」であって、それを能開所開・教観一体の立場からつづめて「迹門の一念三千・本門の一念三千」といわれていると考えられるのである。これと同じように「本門の本尊」の語も、それが末法に建立される本尊を指す場合は(殆どの場合がそうであるが)、正確に言えば「本門の本尊を上行が末法に移し建立する観心の本尊」ということであって、教相上の本門の本尊とは区別されるべきと考えるのである。

さて、それでは地涌千界によって末法の始めに建立される観心の本尊とはいかなる形態を有するものであろうか。まずその内容についていえば『観心本尊抄』に「其本尊為躰」と示された本門の儀式であることは論をまたない。然らばそれをどのように表現するかといえば、一つには木絵の像による表現である。事実本抄にも右の如く本尊の相貌が示された後「来入シテ末法ニ、始テ此佛像可キ令ム出現セ歟。」と述べられている。その場合は『木絵二像開眼事』に示されたように『法華経』をその前に安置して開眼されるのであろう。そしてもう一つの方法として文字曼荼羅という形態がある。大聖人は二・三の例外を除けば生涯にわたって圧倒的に文字曼茶羅を用いられた。その理由は何であったろうか。故高木豊氏は文字曼茶羅の特長として、第一に「南無」という信仰対象への帰命の表明。第二に本尊制作の階層的限界の超克。第三に法華経の要法として、法華経に代わる役割。第四に仏師を介さず日蓮自身が図顕することによる師檀関係の強化等をあげている。このような信仰面における特長の指摘は、大変重要であって恐らくその何れもが文字曼茶羅を専らとされた理由であったと思われる。しかしそれに加えて、図顕によらなければ表現しがたい形式上、あるいは法義上の問題があったのではないかと思うのである。

先ず形式の問題として、妙法蓮華経をはじめとする文字によってしか表現し得ないものが、相貌の中にはあるということである。次ぎに法義的問題として、末法の始めにはじめて建立されるという本尊建立の意義は文字によってのみ示し得るということ。そして最も重要なこととして、地涌千界たる日蓮が証得したものであることを署名花押によって示すということがあげられよう。そもそも末法の始めに地涌千界が出現し一閻浮提第一の本尊を建立するのは本門の結要付嘱によるものである。換言すればそれを建立する権能は一人地涌千界であって、迹化等のなし得るものではない。であればたとえ形式において本門の本尊であったとしても、それは直ちに本尊とは言い難く、上行等が建立してこそはじめて本尊たりうるということに他ならない。つまり上行自覚に立った大聖人の証得したところの観心の本尊ということが明らかにされることが、不可欠の要素ということになろう。そしてそれは、図顕請文と「日蓮花押」によって示されているのである。

 

四、摂受折伏――付、国主について

前項において上行等の四普薩が末法の始めに出現するに際し、賢王として出現する場合は折伏を現じて愚王を誡責し、僧形をもって出現する場合は摂受を行じて正法を弘持するという大聖人の見解を示した。そして大聖人はその後者において上行自覚に立たれていることを確認した。然るにその場合次の二つの問題を整理する必要があろう。一つは僧たる大聖人が上行菩薩として正法を弘持する行為が何故に摂受といわれるのかという問題。二つには賢王の折伏はどのように位置づけられるのかという問題である。

第一の問題については先に述べた『開目抄』の不軽菩薩の但行礼拝を折伏と規定していることが参考となるであろう。『開目抄』においては上行自覚はなされていないものの、不軽菩薩の折伏行をご自身の忍難仏教にあてられていることは明らかであるから、ご自身折伏を行ぜられているとの自覚に立たれていたと見ることができる。本抄においてもその自覚にいささかも変わりはない。但し本抄では「述化ノ四依、隠レテ不現前セ。諸大棄テ其国ヲ不守護セ之ヲ。此時地涌ノ菩薩始テ出現シ世ニ、但タ以テ妙法蓮華経ノ五字ヲ令ム服セ幼稚ニ。因謗堕悪心因得益是也。」とるように、それに更に上行自覚が付与され、上行が出現し妙法を弘持する行為は、彼の不軽菩薩が四衆を但行礼拝をもって逆比したことと同じであるというのである。とすれば上行・不軽・日蓮は一体であり、その行は折伏であるとの自覚に立たれていたことは疑あるまい。ではなぜここではそれを摂受といわれたのであろうか。

先に若干考察したように大聖人の摂折論はもともと天台の「折伏=国主(涅槃経)・摂受=安楽行」を踏襲されたものであった。しかしそれを踏まえつつ『開目抄』では「折伏=不軽・摂受=安楽行」という新見解が示され、ご自身及び門下の忍難仏弘教を不軽菩薩の但行礼拝になぞらえ、且つそれを折伏行と定義されたのである。この新見解は国主の折伏を現実的に不可能と見た結果に他ならないが、これにより理論的には折伏に、涅槃経に示された国主の折伏と不軽菩薩の折伏逆化という二つの義が存することとなったのである。そして『開目抄』の時点では明らかに不軽の折伏が主体であったが、本抄ではこの二つの折伏を並列させ、国主の方を折伏とし僧の弘教を摂受としている。つまり折伏の主体は再び国主になっているのである。その理由は何か。つとに指摘されるところではあるが、『立正安国論』以来主張されてきた自界叛逆難・他国侵通難が現実のものとなったことがあげられよう。文永九年二月十一日及び十五日、「緊迫した蒙古問題の処理と不可分な形で幕府内の不統一を解決し得宗権力に一元化するために行われた」此条一門の名越時章・教時兄弟、得宗時宗の庶兄六波羅探題此方の時輔が謀殺された所謂「二月騒動」が惹起した。また文永十年三月、元の使者趙良弼は平和的交渉を断念して帰国し、それを受けて九州の異国警護も本格化し、蒙古軍の来襲はいよいよ現実的なものとなってきたのである。こうした状況は大聖人にとって曽っての『立正安国論』の主張の正当性を示すものであり、かつそれを「天の御計として、隣国の聖人にをほせつけられて此をいましめ、大鬼神を国に入レて人の心をたぼらかし自界反逆せしむ。」とて、謗法の此国を戒めるための天の計らいと認識されたのである。そう考えれば二難の現実化は、大聖人にとって上行所伝の正法が具体的に広宣流布する道筋を示す事柄でもあったのではなかろうか。すなわち正法を拒絶する愚王たる現在の日本国の国主が、それが他国によってであれ自国内からであれ脅かされているという現実は、「賢王が愚王を誡責する」ということが単なる絵空事ではないとの確信に繋がるものであったと思われるのである。但し地涌千界の再誕たる賢王は必ず正法を持していなければならぬはずであるから、ただちに現実的に例えば元の国主を賢王と考えられたというわけではない。それは二難を「天の計」と捉えていることによっても首肯されよう。

さて本題に戻れば、このような状況のもとに、現実的にはご自身僧形をもって上行所伝の正法を弘持しながら、将来必ず賢王が出現し愚王を誡責して広宣流布するという強い確信に立って「賢王=折伏・僧=摂受」という構図が示されたのであるが、その摂受は本質的に安楽行品の摂受と異なることは誰の目にも明らかであろう。これもっとに指摘されるように、国王の勢力による順化の折伏に比べて、不軽の逆比の折伏は強権の発動がないことをもって、両者を対比させるために便宜上摂受といわれたものであろう。

要するに、第一の問題については僧の正法弘持――それはとりもなおさずご自身の弘教ということなのだが――は安楽行品の摂受とはことなる折伏行であるとの認識に立たれており、それを摂受と表現したのは国主の勢力による折伏と対比してのことであったといえるであろう。また第二の問題については『開目抄』の時とは異なり、自界叛逆・他国侵逼の現実化と、上行自覚に立った末法適時の法門建立という新たな立場に立って、近い将来に賢王たる国主の折伏が現実化するとの強い確信に立たれていると結論付けることができよう。

但し、そういった強い期待を持つ一方で、現実的には本尊の建立も弘教も、『開目抄』以来の不軽菩薩の逆縁世界という前提に立って示されていることは論をまたない。ことに『顕仏未来記』に「此人ハ得テ守護之力ヲ以テ本門ノ本尊妙法義経ノ五字ヲ令メン広宣流布セ於閻浮提ニ歟。例セハ如シ威音上仏ノ像法之時不軽菩薩以テ我深敬等二十四字ヲ広宣流布シ於彼土ニ招キシカ一国ノ杖木等ノ大難ヲ也。」と述べられ、不軽菩薩になぞらえて、ご自身の折伏逆化が「広宣流布」であるとの認識に立たれていることは重要である。国主の折伏による順縁の広宣流布を確信しつつも、現実の逆縁世界において逆縁の広宣流布を現じているとの自負をそこに見ることができるのである。

ついでながら本項に関連する事項として、日本国主に対する大聖人の見解について述べておこう。本件に関してはまず大聖人にとって国主と不可分である日本国が、仏教的世界観あるいは当時の社会的世界観にあってどのような位置にあるかという問題、更に日本国主とは具体的に誰を指すかという問題、そして国主への期待度の問題などがあげられよう。

あらかじめ大まかに展望すれば、大聖人の国主に対する考え方は幕府の決定的拒絶、すなわち佐渡流罪を基点として、それ以前とそれ以降とで大きな変化が見られる。それは一言でいえば王法たる社会を中心にした考え方から、仏法を中心とした考え方への転換といえるであろう。そうした大きな変化を踏まえた上で、また佐前においても『立正安国論』当時と、文永六年蒙古使者来朝以降では多少の変化が認められ、佐渡流罪以降においても建治四年『三沢抄』あたりを境に若干の変化――あるいは温度差というべきか――が見られる。以下こうしたおおまかな展望のもとにその変化を具体的に見てみることにする。

まず基本的に、日本国は仏教的あるいは社会的世界観にあっていかなる位置にあるものと考えられていたかということであるが、『守護国家論』に「何ニ況ヤ日本邊土ノ末学誤リハ多ク實ハ少キ者歟。」とあり当時の世界観たる印度を中心とする三国の内、日本国は最も辺国であるとの認識に立たれていたことがわかる。従ってその国主も『法門可被申様事』に「まして梵天帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門まほり、又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其上、日本秋津嶋は四洲の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし。」と述べられるように、辺土島国の主という認識である。この基本的な世界観は『開目抄』『諌暁八幡抄』等生涯一貫している。

そうした前提の上で、佐前『立正安国論』を幕府に上申した時期における日本国主については、『念仏者令追放宣旨御教書集列五篇勘文状』に「故ニ重テ停廃シ専修ヲ可キ流罪ス於源空之門徒ヲ之由綸言頻リニ下ル。又関東ノ御下知相副フ於勅宣ニ。」とあって、当時の政治形態である権威としての国主はあくまでも天皇であり、しかしながら実質的な為政者は幕府であるという形態をそのまま認知されているようである。それ故に時頼への『立正安国論』上申は、実質的為政者との認識に基づいてなされたものであって、あくまでも国主は天皇であるという認識に立っていたというべきであろう。それは『安国論御勘由来』に「殊ニ清和天テ依テ叡山ノ恵亮和尚ノ法威ニ即キ位ニ皇帝ノ外祖父九條右丞相誓状ヲ俸叡山ニ。源ノ右将軍ハ清和ノ末葉也。鎌倉ノ御成敗不論セ是非違背セハ叡山ニ天命有ル恐レ者歟。」とあることによって明らかである。つまり、名目上の権威のみであったとしても、あくまでも国主は朝廷・天皇であり、その権威たる国主をも左右する実質的為政者として幕府執権を見ていたということである。そしてこの時期の大聖人は実質的為政者たる幕府が法華経を持ち、ひいては国主たる天皇の命により一国の広宣流布を期待していたということができよう。そして幕府への諌暁=国家諌暁の目的は、日本国の抱える、悪法によってもたらされた三災七難からの救済というきわめて社会的問題の解決であったといえよう。

次ぎに文永六年蒙古使者来朝に伴い、日本国救済に加え仏法の存亡という問題に視野が広がって行く。

『法華捨身念願抄』(『金吾殿御返事』)には「震旦高麗すでに禅門念仏になりて、守護ノ善神の去ルかの間、彼ノ蒙古に従ヒ侯ぬ。我朝又此邪法弘マリて、天台法華宗を忽諸のゆへに、山門安穏ならず。」とあり、三国の内日本を除いては既に仏法は消滅しているとの認識の上に、日本国就中叡山法華宗の存亡は即仏法そのものの存亡に関わる問題と捉えられるようになるのである。すなわち『法門司被申様事』には、「仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我朝をほろぼさんとす。」と述べられる如くである。国主についての考え方は基本的に変わりはないが、仏法の存亡という視点に立つところ、佐渡期にやや近い雰囲気も感ぜられる。

次ぎに佐渡期においては、『転重軽受法門』に「但をほけなく国土までとこそをもひて候へども、我と用ヒられぬ世なれば力及ばず。」といわれるように、幕府の決定的な拒絶により国主帰依による国土全体の順縁的救済は放棄せざるを得ず、逆縁世界での在り方が問われることとなったのである。そのことについては本論において詳説したので贅言は避けるが、『開目抄』においては徹頭徹尾逆縁世界が展開され、それ故国主への期待乃至比重は極めて低いことが指摘できる。また『観心本尊抄』では現実的には逆縁世界において法義は展開されながら、上行自覚という新たな立場から上行再誕としての賢王の出現を確信されることにな

のであるが、その賢王は必ずしも既成の天皇や幕府をさしてはいない。そういう意味では現実の国主は一層比重が低くなっているともいえよう。そしてこの佐渡以前と以後の相違は、社会救済中心から仏法弘持建立中心への転換ともいうことができるであろう。

さて、現実的国主への期待乃至比重の低下は、朝廷・天皇の相対化という形で顕われているように思われる。『祈祷抄』には「山門と王家とは松と栢とのごとし、蘭と芝とににたり。松かるれば必ス栢かれ、らんしぼめば又しばしぼむ。王法の榮へは山の悦び、王位の衰へは山の歎きと見えしに、既に世関東に移りし事なにとか思食しけん。」と述べられ、鳥羽・土御門・順徳三上皇の関東調伏――承久の変の失敗は、弘法・慈覚・智証の三大師の真言十五檀の秘法により祈祷を行った故であるとし、王たりといえども仏法に違背すれば王位を失うという道理から、「世は関東に移る」とて朝廷の権威を否定的に見られているのである。それは『神国王御書』にいたるとより顕著で、八幡大菩薩の百王の誓いはあくまでも正法護持という前提があってのもので、百王に至らぬのに王位を失うのは仏法違背の現証であると述べられている。そしてそれに代わって『下山御消息』に「而ルに相州は謗法の人ならぬ上、文武きはめ盡クせし人なれば、天許シて国主となす。」と述べられるように鎌倉幕府を国主とされるのであるが、既に社会救済中心から仏法弘持中心に基点を変えられた大聖人にとって、仏法を信愛せぬ以上社会的に誰が国主であるかということはさしたる問題ではなく、これはあくまで天皇の相対化を示すことが主眼であったと思われるのである。

それがはっきりするのは建治四年に系けられる『三沢抄』である。「関東は此ノ悪法悪人を封治せしゆヘに、十八代をつぎて百王にて候べく候つるを、又かの悪法の者どもを御帰依存有ルゆへに、一国には主なければ、梵釈・日月・四天の御計ヒとして他国にをほせつけてをどして御らむあり。」とあって、幕府も悪法にたぼらかされて国主の資格を失っているとの認識を表明されるのである。もはや大聖人から見れば社会的に誰が為政者であり国主であるかという問題は意味のないことであって、朝廷であれ幕府であれ法華経を持たぬ限り仏法的には真の国主の資格はないという認識に立たれているのである。「一国に主なし」との表明は、現実の日本国を逆縁世界と規定することの徹底と見ることもできよう。そしてその認識に基づいて晩年『諌暁八幡抄』では、日本国の守護神であり、百王の誓いを立てた八幡大菩薩を、厳しく叱責されるに至るのである。

 

第3 その他の問題

上来『観心本尊抄』を中心として佐渡後期の思想を見てきたが、それ以降に示された二三の問題を拾っておこうと思う。

 

一、戒壇の問題

先に見たように『観心本尊抄』において、末法の始めに上行等地涌千界が再誕するとの確信が示された。その場合僧形として再誕する時と賢王として再誕する時との二つのパターンが示され、前者は他ならぬ大聖人が現実に不軽の行をもって忍難仏教し、本門肝心の妙法蓮華経並びに観心本尊を建立した。しからば将来のこととはいえ、もう一つの上行再誕のパターンとして、賢王が愚王を誡責し順縁世界が現出した時のこととして、彼の像法の時代に迹門の戒壇が建立されことにならって、本門の戒壇について論が及ぶことはむしろ必然であろう。

戒壇問題の初見は『観心本尊抄』執筆のおよそ二ヶ月後に認められた『土木殿御返事』である。

「設ヒ日蓮カ死生難雖為リ卜不定妙法蓮華経ノ五字ノ流布ハ無キ疑ヒ者歟。伝教大師御本意ノ圓宗ヲ為弘メント日本ニ。但シ定慧ハ存生ニ弘之ヲ圓戒ハ死後ニ顕ス之ヲ。為ル事相故ニ一重ノ大難有ル之歟。佛滅後二千二百二十餘年、干今寿量品ノ佛ト與ハ肝要ノ五字不流布セ。當テ時二論スレハ果報ヲ者、恐ラク者超エ天台・伝教ニモ勝レタル龍樹・天親ニモ歟」

ここには伝教大師が生前に円宗を立て定慧を弘めたが、熱望した円戒即ち大乗戒壇院の建立は滅後(七日目に勅許、翌年義真によって戒壇院において受戒が行われる。)であったことが述べられ、その困難な理由は、定慧は法義であるが戒壇は事相であるからであるとしている。しかるにそれに対する本門の戒壇については言及されていない。しかし、次下の文を見れば、仏滅後今日に至るまで天台伝教等が弘めなかった「寿重品佛與肝要五字」すなわち本門の定慧が、自身によって建立される――乃至されているという自負が示され、先例に任せば必然的に戒壇建立も成就するとの確信を読みとることができよう。

次ぎにその一ヶ月後の『南部六郎三郎殿御返事』にもほぼ同趣旨の記載が見られる。但しここでは像法の円定円慧円戒を述べる際、右に見られなかった天台と伝教との比較が述べられている。「入テ像法ニ五百年、天台大師出現シテ漢土ニ破失シテ南北ノ邪義ヲ立テタマフ正義ヲ。所謂教門ノ五時観門ノ一念三千是也。挙テ國ヲ號小釈迦ト。雖然ト於テハ圓定圓慧ニ者弘宣シテ之、圓戒ハ未タ弘メ之ヲ。佛滅後入一千八百年ニ日本ノ伝教大師出現シテ世ニ、自リ欽明已来タ二百餘年之間ノ六宗ノ邪義破失シテ之ヲ。其上天台ノ未タ弘メタマハ圓頓戒弘宣シタマフ之ヲ。所謂叡山圓頓ノ大戒是也。」すなわち天台は円定円慧は弘めたが円頓戒は弘められず、伝教にいたって初めて建立されだというのである。ここにはそうした事実だけが記され、両者の勝劣には言及されていない。しかし後、『撰時抄』に「延暦圓頓の別受戒は日本第一たるのみならず、佛滅後一千八百餘年が間身毒・尸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始マる。されば伝教大師は、其功をろんずれば龍樹・天親にもこえ、天台・妙楽にも勝レてをはします聖人なり。」と述べられるように、天台に比して円頓戒壇の建立をなした伝教の功績を讃えられる意があることが看取される。また、「所ノ残ル本門ノ教主・妙法ノ五字、流布センコト一閻浮提ニ無キ疑ヒ者歟。」と本門の定慧の流布、更に文章には現れないが、必然として戒壇の建立への確信が示されるのも、『土木殿御返事』と同轍である。

さて、右の二つの書状が、直接的には本門戒壇を述べていないのに対し、翌文永十一年一月に認められた『法華行者値難事』には、はじめてその語が見られる。

「龍樹.天親ハ共ニ千部.論師也。但申テ権大乗ヲ法華経ヲハ存レテ心ニ不吐キタマハ口ニ(此有口伝。)天台・伝教ハ宣テ之ヲ、本門ノ本尊卜與四菩薩戒壇・南無妙法蓮華経五字残シタマフ之ヲ。所詮、一ニハ佛不ルカ授興セ故ニ、二ニハ時期未熟ノ故也。今既ニ時来レリ。四菩薩出現シタマハン歟。」

右文の内「本門本尊與四菩薩戒壇南無妙法蓮華経五字」については、その読みに多少の違いがある。『新定』は「本門ノ本尊ト與二四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経五字」と読み、『定本』は「本門ノ本尊ト與四菩薩ト戒壇ト南無妙法蓮華経五字」と読み、『対照録』は「本門ノ本尊卜與四菩薩戒壇、南無妙法蓮華経五字」と読む。変わったことろでは広蔵日辰の「本門ノ本尊卜與四菩薩ノ戒壇南無妙法蓮華経五字」というがある。ようするにこれは「四菩薩」をどのように扱うかの問題で、『新定』『定本』は本尊・四菩薩・戒壇・題目と並列させており、『対照録』は本尊の一部として本尊に組み込み、日辰は「四菩薩戒壇」として戒壇に組み込んでいるのである。どのように読むか決定的な判断はなしえないが、『観心本尊抄』の意をもってすれば、四菩薩は本尊に組み込まれるのが妥当ではあるまいか。但し理論的に言えば戒壇は四菩薩が賢王となって建立するものともいえる訳であるから、「四菩薩戒壇」もあり得るであろう。尚、『新定』『定本』のように並列に置くのは不自然に思われる。

以上この時期にわかに論じはじめられた本門の戒壇について、三つの書状からその見解を見てきた。その何れもが必ずしも具体的な論述でないので、その内実については不明な部分が多いが、一応の整理を付けておきたい。

まず本門の戒壇について言及される起因は、本項冒頭に述べたように賢王が愚王を誡責して実現される順縁世界にあったと思われる。すなわち既に上行自覚に立った大聖人によって本門本尊並びに題目の五字が建立され、その忍難弘教によって現実社会に逆縁の広宣流布を現しられたのであるが、一方で地涌千界が賢王となって順縁世界を実現するとの確信をも抱かれていたのである。そしてそれが実現した時、像法時代に伝教大師が国主の勅許を得て叡山に円頓戒壇を建立したように、本門の戒壇が建立されるべきとの見解に至ることは当然の成り行きといえるであろう。

さて、そのような訳であるからここで述べられる三秘の内、本門の本尊・題目と、事相としての戒壇とには質的相違が見られるのである。端的にいえば前者は僧たる聖人が逆縁世界において建立され、後者は順縁世界においてはじめて建立されるという相違である。『土木殿御返事』『南部六郎三郎殿御返事』で、天台伝教が弘められなかった秘法として本尊と題目の名目をあげられ、戒壇は名目をあげず内示されているのは、その辺の事情を物語るものであろう。

しかしその場合、順縁世界に建立される戒壇院とは別に、迹門の円頓戒に対する本門の戒法とは一体どういうものか、という問題が残るであろう。つまり、伝教大師の場合も、円定円慧円戒を相即させた上で、受戒の場として事相たる戒壇院の建立を発願したのであって、事相の戒壇院は戒法の規定なしには存在し得ないものなのである。末法における戒の問題は、『四信五品抄』等に拝すことができるが、それについては後編「身延前期の思想」に譲ることとしたい。

ところで、本尊・題目に比べて戒壇の具体相は必ずしも明確でないということが指摘できるのではないか。それはその端緒であるこの時期に限らず、一貫しているように思われる。また、この時期は諸状況によって特に賢王の出現を期待されており、したがって伝教当時にならった事相的戒壇論に主眼が置かれているが、それは必ずしもその後において確固不動の見解という訳ではないように思われる。すなわち逆縁に視点を置いた場合など、戒壇そのものの重さということも含めて見解の変遷があるように思われるのである。それらについての議論もその時々に項を改めて論じたいと思う。

 

二、三国四師

『観心本尊抄』には月氏・震旦・日本の三国の中で、正法たる法華経を覚知する者として釈尊・天台・伝教の名があげられ、そして、自身上行自覚に立たれるわけであるから、意としては既に「三国四師」の意識はあったであろうが、その語は『顕仏未来記』に初めて登場する。

「伝教大師云ク、淺ハ易ク深ハ難シトハ釈迦ノ所判ナリ。去テ淺ヲ就ハ深二丈夫之心也。天台大師ハ信順シ釈迦ニ助ケテ法華宗ヲ敷揚シ震旦ニ、叡山ノ一家ハ相承シ天台ニ助シテ法華宗ヲ弘通ス日本ニ等云云。安川ノ日蓮ハ恐クハ相承シ三師ニ助ケテ法華宗ヲ流通セン末法ニ。三ニ加テ一ヲ號ス三國四師ト。」

すなわち『法華秀句』に示される仏以来法華宗流布の担い手の系譜、釈尊―天台―伝教という伝教の自負にならい、それに自身を加えて釈尊―天台―伝教―日蓮という系譜が示されるのである。これは一見自身が天台・伝教等法華経の行者の流れを正当に汲むものであるとの自負を示すもののようではあるが、一歩進めて考えれば天台・伝教に超える法華経の行者であることの表明と取ることができる。単なる法華経の行者としての自覚ならば、既に『南条兵衛七郎殿御書』に「されば日蓮は日本第一の法華経ノ行者也。」とあり、近くは『開目抄』に懇切にその証拠が綴られている。また、「天台沙門」「根本大師門人」の名乗りはまさにその継承者を意識してのものであったろう。しかるに『観心本尊抄』において台当違目が打ち出され、本化上行の自覚に立たれた大聖人が、敢えてその直後に示された「三国四師」の系譜に、そのことが意識されていないはずはないのである。それは三国四師を述べるもう一つの書状『法華行者値難事』の次の文が示唆していよう。

「夫在世ト與ノ滅後正像二千年之間法華経ノ行者唯有リ三人。所謂佛卜與天台・伝教也。・・・而ルニ如クンハ佛記ノ者入テ末法ニ可シ有ル法華経ノ行者。其時ノ大難超過セン在世ニ云云。・・・如クノバ記文ノ者天台伝教モ不及佛記ニ。以テ之ヲ案ルニ之ヲ末法ノ始二如キノ佛説ノ行者出現セン於世ニ歟。」

「恐クハ天台伝教モ未タ値タマハ此難ニ。當ニ知ル、三人ニ入レテ日蓮ヲ四人ト。法華経ノ行者有ルカ末法ニ歟。」

これらの文はその受難の大いなることが、天台伝教、更には仏にも超えるとの自信の表明であると共に、それ故天台伝教に超える法華経の行者であることの表明でもある。そしてそれが、上行再誕の自覚によって裏付けられていることは、先に戒壇を論ずるに際して引文した本状追伸「今野時来。四菩薩出現歟。」の文に明らかなのである。

 

三、当位即妙不改本位の成道

本論冒頭に『寺泊御書』に見られる大聖人に対するいくつかの疑難の内、「教門計」という疑難は、大聖人が観門たる成仏論をしっかり示していないという批判であり、その答えとして、一念三千論が『開目抄』『本尊抄』によって理論的に示されていることを述べた。その一方で『日妙聖人御書』では、日妙聖人の身命を賭して法華経の行者を信愛する行為が、まさに具体的な一念三千成道の姿であるとして激賞され、「末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度万行を満足する功徳をあたへ給フ。今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子これなり。我等具縛の凡夫忽チに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全躰うけとる故なり。・・・民の現身に王となると凡夫の忽に佛となると同シ事なるべし。一念三千の肝心と申スはこれなり。」と述べられていることも見てきたのである。

さて、右の如く一念三千といっても、理論的にも具体的にも様々な観点論点があり、大聖人は時には理論立てて、また時に日常に当てはめながら解りやすく説明されている。ここにとりあげる『南部六郎三郎殿御返事』に示された「当位即妙不改本位の成道」もその一つである。「(阿闇世王・提婆達多が法華経により記別を受けたことが示され)以テ彼ヲ推スルニ之ヲ末代ノ悪人等ノ成佛不成佛ハ罪ノ不依ラ軽重ニ、但此経ノ可ス任ス信不信ニ。而ルニ貴邊ハ武士ノ家ノ仁、昼夜殺生ノ悪人也。不シテ捨テ家ヲ至テ此所ニ以テカ何ル術ヲ可脱三悪道ヲ乎。能々可キ有ル私案歟。法華経ノ心ハ当位即妙不改本位ト申シテ不シテ捨テ罪業ヲ成スル佛道也。」

武士であった南部六郎三郎は、恐らく佐渡の大聖人に、殺生を生業とする自分に成仏はあるのかと問うたのであろう。武士にとって最も恐るべきは宿命としてなさざるを得ぬ殺生によって地獄へ堕ちることであり、信仰に求めるところはそういう自分の成仏であったであろう。『光日房御書』にも、武士の子息が死してどこに生じているのかという母親の切なる質問が見られる。

大聖人はこうした疑問に対し、法華経の心たる「当位即妙不改本位」の成仏をもって答えられている。すなわち末法に生を受ける衆生は、例外なく過去に罪障を背負い(大聖人ご自身過去に法華経誹誘の罪ありと云われる。前述。)また今生においても数々の罪業を作りながら生きている。そうした罪障罪業は爾前経においては成仏不成仏に決定的な障害となったが、法華経はそうではない。問題は偏えに法華経を信ずるか否かであって、もし信ずるならば罪を背負ったままその身を改めることなく成仏するのだというのである。この「当位即妙不改本位の成道」が、『開目抄』に「(諸大乗教の成仏は)或は改轉の成佛一念三千の成佛にあらざれば有名無責實の成佛往生なり。」とあるように、爾前経の本位を改めての「改轉の成佛」に対する「一念三千の成佛」であることは論をまたない。

一念三千論はこうしたいわば「煩悩即菩提」的な成仏論を生ずるばかりでなく、妙楽の「身土一念三千」の理論からすれば、必然的に「地獄即寂光」との考え方をも生ぜしむるであろう。事実弘安三年に系けられる『上野尼御前御返事』に「無間地獄は当位即妙不改本位と申シて寂光の都と成リりぬ。」と述べられている。

ところで「当位即妙不改本位」の語は何を出典とするのであろうか。「当位即妙不改本位と申て」と二度まで云われているところ、自身の言葉というより引文乃至伝承を思わせる。妙楽の『法華玄義釈籔』に「当位即妙妙躰稱本無隔異」とあり、また「不改本位即麁成妙」とあり、全くの同文ではないが近似した言葉を見ることができる。或はこれを意識されているのであろうか。但しその意は教の麁妙相対に関することで、必ずしも成仏論ではない。また中古天台文献『田口決(異名『静明口決』『中納言法印静明面授口決抄』)』に、大聖人とほぼ同世代である静明の口伝として「絶待開会卜者。権ノ體ヲ不シテ動即實也ト開会スル也。是即チ當位即妙不改本位ノ意也。」とある。ここでも成仏論というより妙楽と同じく麁妙権実の開会についての所談で、絶待開会の立場を「当位即妙不改本位」といっている。更に大久保良順氏の論稿『天台の神本仏迹説資料』に『恵檀両流諸箇秘法』の次のような文が紹介されている。「口決ニ云ク。常寂光土義トハ浄土ハ乍浄土穢土ハ乍穢土不動其ノ体ヲ当体即チ寂光也。当位即妙不改本位思へ之ヲ。」

ここに示される穢土即寂光と、その根拠たる「当位即妙不改本位」は、殆ど先の『上野尼御前御返事』と同意である。但し、大聖人の場合は「煩悩即菩提・地獄即寂光」の条件として、妙法信受が不可欠であるが、この中占天台文献には信の強調は見られない。また、次下には神本仏迹論が展開され、その根拠として「理即凡夫は本覚にして本、究竟即仏は始本不二ながら迹」という凡本仏迹の上に立った三道即三徳が示される。そしてこれも「当位即妙不改本位」がその裏付けになっていると思われるのである。

本秘決は徳治三年、秀範によって類聚されたものであるが、大久保良順氏の「類聚された口決の一々はかなり古くからのものであろうと思われる。」との見解があり、大聖人のこの二消息はそれを裏付けるものとなるであろう。

 

 

 

第4章 身延前期の思想



第1項 身延前期の範囲とその思想的基盤


第1  身延前期の範囲

 佐渡期、ことにその後半『観心本尊抄』以降は、それまでの「天台沙門」の立場を脱皮し、本化上行菩薩の自覚に立って大聖人独自の法義思想が提示されるという、まさに思想的一大転換期であった。すなわち『観心本尊抄』において台当違目を鮮明にし、本門観心の本尊を図顕建立し、それを土台として、以降本門三大秘法が打ち出されていくのである。

 ではその三大秘法を中心に据えた新境地は、赦免を経て身延期においていかなる展開を見せるのであろうか。本章はそこに焦点を当てて、身延期の大聖人の思想を述べようとするものであるが、身延期においては、その前期と後期において著しい思想的変化を見ることができる。そこで本章ではまず身延前期の思想について述べたいと思う。

 では前期後期をどこで区分するか。これは大変難しい問題であるが、一応弘安元年九月に執筆されたといわれる『本尊問答抄』を基点とし、その執筆以前までを身延前期としたいと思う。その理由については追々述べていくことにして、ここではまず本章で見ていく身延前期の範囲を以上のように確認しておきたい。



第2  身延前期の思想的基盤

1 第三国諌と身延入山

(三度目の国諌)

 文永11年4月8日、流罪地佐渡から鎌倉に帰った大聖人は 平左衛門と会談している。自身三度目の国諌と位置づけたこの会談で、平左衛門が蒙古襲来の時期を問うたのに対し、大聖人は「天の御気色、いかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじ」と告げている。

 かつて大聖人は『立正安国論』において、もし国家が『法華経』を持たぬ場合は、眼前に起こる天変地異に加え、自界叛逆難・他国侵難が競い起こるであろうと予言した。その内自界叛逆難は文永9年2月の北条時輔の乱(二月騒働)として現実のものとなった。大聖人にとってそれは法葦経の行者を死罪流罪に処し、『法華経』の信仰を絶対拒絶した日本国が、諸天の計らいによって必然的に受けるべき試練であった。そして今平左衛門の問いに「よも今年はすごし候はじ」と答えたその言葉は、予言というのではなく『法華経』及び諸経から導き出された確固不動の確信であった。

 しかしながら会談は不調に終わった。その時平左衛門は北条時宗の意を受け、鎌倉に寺領を寄進し帰依する意志を示したという伝説がある。そのことは諸御書に述べられていないが、『撰時抄』や『種々御振舞御書』からうかがわれる、平左衛門のおだやかにして神妙な態度、そして異国調伏への危機意識からして、異国調伏の祈祷を含めてそのような進言がなされて不思議はない。しかしそれは『法華経』及び大聖人のみへの帰依ではなく、諸宗と共存してのものであった。諸難の根元が諸宗の悪法にあると訴え続けてきた大聖人にとって、このような妥協案が受け入れられるはずがない。大聖人はこの会談において、重ねてことに真言宗の調伏祈祷を止めるよう強く警告している。平左衛門もまた大聖人の調伏祈祷を期絶しつつも、そのことを受け入れることはできなかったであろう。かくして会談は物別れに終わったのである。


(いざ身延へ)

 三度目の国諌が不調に終わり、幕府が自身の主張を受け入れないことを確かめた大聖人は、これ以上の国諌をしないとの決意を表明している。断簡書状『未驚天聴御書』には

雖モ申スト之ヲ、未タ驚カサ天聴ヲ歟。事及フ三ケ度ニ。今可シ止ム諌暁ヲ。勿レ至ス後悔ヲ。

と述べられている。ここに「未驚天聴」といっているのは、必ずしも朝廷に対する諌暁という意味ではない。次下に「事及三箇度」といっている以上、実質的には幕府への諌暁を指していることは疑いない。先に大聖人の国主についての認識とその変遷について簡略に述べたが、『立正安国論』上呈当時大聖人は、日本国の国主につき、権威としては朝廷天皇であり、実質的為政者としては幕府という認識に立っていた。それはまさに当時の実際の政治形態、すなわちさまざまな進言は実質幕府が裁定し(御教書)、朝廷天皇がそれを追認する(綸旨)という形態を踏まえてのことであった。ここで実質幕府への諌暁が不調に終わったことを「未驚天聴」と表現されたのは、そうした国主認識に基づくものであろう。

 ともあれ平左衛門との会談の約一ケ月後の5月12日、大聖人は檀越波木井実長の要請を受け入れて、その所領の地である甲斐国飯野御牧、波木井郷の身延山に居を移した。無事到着した十七日、草庵が結ばれるまで仮寓されたと思われる波木井邸から、富木殿へその旨を報知した書状『富木殿御返事』が現存している。

いまださだまらずといえども、だいしはこの山中、心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になて日本国に流浪すべきみにて候。又たちとどまるみならばけさんに入候べし。

と認められたこの書状から、挫折感を懐き漂白の思いをもって一時的に身延に入山したとする意見がある。その一方でこの入山は満を持してのもので、次なるステップ、すなわち三大秘法を中心とする法義の整備構築、諸宗対論破折の準備、門下の育成を期して入山したという意見もある。

 その心情を察するに、まこと複雑であったことは想像にかたくない。三度目の諌言が用いられなかったということは、日本国が蒙古軍によって亡ぼされることを意味する。日本国が蹂躙され多くの犠牲者が出るという点において、またそうした事態を遂にくい止めることができなかったという点において、挫折感があったのは当然であろう。しかし、視点を日本国のみならず一閻浮提に置き、『法華経』の流布という点に置くならば、日本国が『法華経』を受け入れない以上蒙古襲来は必然的なことであり、のみならずそのことによって、結果的に『法華経』が将来日本国ならびに一閻浮提に流布するという認識に立っていたことも事実であろう。そうした観点に立てば、身延入山は、来るべき法華経流布に備えて、着々と準備を整えるべく、大いなる希望と意欲に満ちたものでもあったともいえるのである。つまり人情的挫折感は当然強かったであろうが、法華経流布という観点に立てば、蒙古襲来により将来、日本国家が前非を悔いて諸宗を排し『法華経』に帰依することを決断するにせよ、それをせずして蒙古国に滅ぼされるにせよ、必ず『法華経』は広宣流布するとの確信に立っていたのであり、いずれの場合においてもその時の準備は急務なのであって、そういう意味では身延入山は満を持してのものといってしかるべきなのである。


2 文永の役と三大秘法建立の確信

 身延前期の大聖人の思想を見ていく上で、最も重要なポイントはなんといっても文永11年10月の蒙古襲来、すなわち文永の役であろう。

 大聖人が平左衛門との会談で予言した如く、その年の10月5日蒙古・高麗の連合軍は対馬に上陸、続いて壱岐に上陸制圧し、さらには九州本土に上陸して博多の太宰府を目指し、激しい戦国が繰り広げられた。世にいう文永の役である。この情報は約1ケ月後の11月11日『上野殿御返事』に

大蒙古国よりよせて候と申せば、申せし事を御用ヒあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆきつしまのやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず。

とあって、驚くほど迅速に大聖人の許にもたらされていることがわかる。蒙古軍は突然退却し、大事には至らなかったが、その数と充実した戦闘能力に対し幕府は大いに驚愕し、以後異国警固に全力を挙げることになる。そうした情報が一般に知れわたるようになると、まさに日本国の上下万民は予想される再度の本格的襲来に畏怖したのである。

 しかしながら大聖人にとってこの文永の役は、日本国が謗法たる真言宗をはじめとする諸宗への帰依を止めず、正法たる『法華経』とそれを弘通する法華経の行者を誹謗する以上必然的なできごとであり、かつその予言適中は、佐渡後期から主張し続けてきた本門の三大秘法が広宣流布するという確信を、一層深めるこうになったのである。以降『撰時抄』『報恩抄』等、その確信が熱く語られるのであり、それはまさに身延前期の大聖人の思想的根幹をなすものといってよいであろう。

 このように、この時期の法義の根幹は本門三大秘法にあるのであり、そしてその三大秘法は、蒙古襲来という未曾有の危機を媒介として建立されるという確信に立っていたのであって、そういう意味では蒙古襲来は、まさにこの時期の思想的基盤ともいいうるのである。では、この時期の三大秘法を中心に据えた法義は、具体的にいかなる展開を示しているのであろうか。以下順を追って論じていきたいと思う。

 

 

第2項 本門三大秘法について



 本門三大秘法は佐渡後期、まず『観心本尊抄』において本門観心本尊と、上行等地涌の菩薩が末法の衆生を救う妙薬として釈尊より結要付属された本門の題目が示され、以降『土木殿御返事』『南部六郎三郎殿御返事』『法華行者値難事』等に本門の戒壇を含めた本門三大秘法が、簡略な名目のみの記述ではあるが示される。それは『観心本尊抄』で示された本門の本尊と題目が、四菩薩再誕の賢王の折伏によって日本国に広宣流布するという確信から、その象徴として建立されるべき本門戒壇が加えられた、ひとつの理想的形態といえるであろう。つまり三大秘法の内本門の本尊と題目は、その付属を受けた上行菩薩再誕の大聖人が建立し、その秘法を受持し広宣流布させる上行再誕の賢王が、広宣流布の象徴として本門の戒壇を建立する。より現実に即していえば、本門の本尊と題目は、国主がこれを受け入れると否とにかかわらず、上行再誕の大聖人によって現に建立されたのであり、残る本門の戒壇は、上行再誕の資王の出現によりその本門の本尊・題目が国家的に受け入れられ、像法時代叡山の戒壇が国家の認可のもとに建立されたように、国家的に本門の戒壇が建立される。これが三大秘法の内実であり、同時に三大秘法成就のシナリオということになるのである。

 そして先にも述べたように、そうした構想とその実現への確信は、文永の役によって一層確固たるものとなるのである。まさにこの時期は三大秘法建立確信時代と称すべきで、それ故この時期の大聖人の思想を論ずる場合、三大秘法を軸に論ずることがもっとも整理しやすく、また分かりやすいと思われる。そこで以下この時期の思想を「第一、本門本尊について」「第二、本門題目について」「第三、本門戒壇について」の三っの柱を立て、付随するさまざまなことがらはそこに織り込んで行きながら論を進めていきたい。



第1 本門本尊について

 大聖人の本尊観を概観すると、第一に『唱法華題目抄』当時の題目中心の本尊観、第二に文永6年頃から佐渡前期『関目抄』に至る本門の釈尊を主体とする本尊観、第三に佐渡後期『観心本尊抄』から身延前期『報恩抄』等に見られる、上行自覚に立って建立される本門観心の曼荼羅本尊即本門の教主釈尊という本尊観、第四に『本尊問答抄』に見られる釈尊を相対化した上での妙法曼荼羅本尊、およそ以上の四段階が認められるであろう。第四『本尊問答抄』の本尊観は「身延後期の思想」に譲ることとして、ここではまず佐前の本尊観及び文永6年から『開目抄』あたりまでの本尊観をおさらいし、その上で『観心本尊抄』そして『報恩抄』を中心として身延前期に展開される本尊観について述べたいと思う。

 なお、本尊について論じた後、教主論について別項をもうけて論じたいと思う。特に身延前期においては本門の教主釈尊を本尊とするのであるから、おのずと本尊論と教主論は密接不離の関係にある。しかし、全体的に見れば、両者は密接な関係にありながら必ずしも同体ではない。後述するように『唱法華題目抄』時代や、身延後期の『本尊問答抄』においては、明らかに能生の妙法五字を本尊とし、所生の教主本仏は相対的に位置づけられているのである。さらに、教主とは必ずしも根元的教主に限らず、大聖人自身「日本国」という限定ながら教主との自覚に立っているなど、本尊とは異なる要素も含まれており、別個に論ずる必要があると思うのである。


1 本尊論

@ 文応頃の本尊観

 佐渡以前文応年間の大聖人の本尊観は、文応元年5月26日に著わされた『唱法華題目抄』 の次の文によってうかがい知ることができる。

問うて云く、法華経を信ぜん人は本尊並びに行儀並びに常の所行は何にてか候べき。答へて云く、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品・或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之れを立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。

 すなわちここにおいては、法華経一部八巻乃至要法題目を主体とした本尊観が、法師品や神力品の「経巻安置」の経文を根拠として示されている。そして機根に応じて、もし耐えうる上根の者に対しては、『法華経』及び題目の両脇に、釈迦・多宝の二仏及び普賢等の諸菩薩の造像・画像の安置を許容している。ここには機根に約しつつも、下根結縁衆はあくまで題目及び『法華経』という教法を主体とし、造像は副次的な位置にあることが認められる。


A 文永6年頃から佐渡前期の本尊観

 次に文永8年法難当時の本尊形式には、前記本尊形式と若干変化がうかがえる。『神国王御書』には、文永8年の法難の皮切りとなった、松葉ケ谷草庵での逮捕の状況を次のように述べている。

其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて、仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候ひしをとりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ。

 この文によれば、松葉ケ谷草庵の御宝前の本尊形式は、釈尊像を本尊としその前に『法華経』及び一切経が安置されていたようである。これは『木絵二像開眼之事』(文永10年)に

三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。……法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたちとあらはしぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声、かへて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。

とあるように、釈尊像が『法華経』によって開眼供養されている形といえるであろう。

 釈尊像は一体仏のようであり、後に見られるような本化の四菩薩を脇士としているわけではなく、形態的にそれと識別することはできないものの、この時期は『十章抄』や『開目抄』に見られるように、久遠実成の本因本果より開出される本門の一念三千論が強調されているのであるから、意識としては当然久遠実成本門の釈尊であることは疑いない。ただしここにおいては、いまだ上行自覚に立っていないから、その本門の釈尊は、『観心本尊抄』に見られるような、結要付属を受けた上行菩薩が建立するという意識のもとに造立安置されているものではない。

 さて、先の 『唱法華題目抄』当時の本尊観との相違であるが、一言でいえば『法華経』乃至題目という教法が主体となる本尊観から、本門の教主釈尊が主体となる本尊観へと移行している、ということがいえるであろう。もちろん釈尊像を本尊たらしめるための不可欠要素として『法華経』乃至題目は、依然として重要な位置にあるけれども、主体はあくまで本門の教主釈尊にあるように思われる。ではこの変化はいったいいかなる理由によるものなのであろうか。

 第一に、この時期に強調される教主論による諸宗の破折である。おそらくそれはこの頃に始まった真言宗・華厳宗の破折に深く関わる問題であろう。そのことについては前章佐渡期の思想を述べる中に少々論じたが、大聖人は真言宗・華厳宗を破折するにあたり、この両者が成仏論において天台の一念三千成道論を導入したことを破折するとともに、教主論において、彼らの主張する法身仏は所詮有名無実なることを指摘し、総じて諸宗の本尊は久遠実成の本仏を見失い、あるいは無視する禽獣と断ずるのである。『開目抄』には

今久遠実成あらはれぬれば、東方の薬師如来の日光・月光、西方阿弥陀如来の観音・勢至、乃至十方世界の諸仏の御弟子、大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩、猶教主釈尊の御弟子なり。而るを天台宗より外の諸宗は、本尊にまどえり。倶舎・成実・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり。天尊の太子、迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし。華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす。大王の太子、我が父は侍とをもうがごとし。華厳宗・真言宗は釈尊を下げて慮舎那の大日等を本尊と定む。天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるにつけり。浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもて、教主をすてたり。禅宗は下賤の者一分の徳あて父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下す。此れ皆本尊に迷へり。例せば三皇己前に父をしらず、人皆禽獣に同ぜしがごとし。寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり。

と述べ、この時期諸宗の違目を本尊=教主の相違によって論じ、本門久遠実成・三身相即の釈尊を全ての根本と位置づけ、それ以外の諸宗の応身仏・報身仏・法身仏を「小仏」と断じて破折されている。

 第二に同じくこの時期から強調される、本門寿量品の久遠実成の本仏、すなわち本門の教主釈尊の本因本果をもって、本門の一念三千論を展開されていることがあげられよう。『開目抄』に

本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門の十界の因果をとき顕はす。此れ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。

とあるごとくである。本門の一念三千は、法華経本迹の勝劣を示し、本門思想を強調するものであると同時に、華厳宗・真言宗の立てる一念三千論が、二箇の大事を踏まえぬ有名無実の即身成仏論であることを示す役割があることは論をまたない。この時期、本尊論において本法妙法蓮華経より本仏本門の教主釈尊が強調されるゆえんが、ここに存するものと思われるのである。


B 佐渡後期から身延前期の本尊観

 佐渡後期、文永10年4月25日に著わされた『観心本尊抄』には、本化上行菩薩の自覚に立ち、本門の教主釈尊から結要付属された本門観心本尊が具体的相貌をもって示されている。

其本尊ノ為体本師ノ婆婆ノ上ニ宝塔居シ空ニ、塔中ノ妙法蓮華経ノ左右ニ釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊ノ脇士上行等ノ四菩薩、文殊・弥勘等ハ四菩薩ノ春属トシテ末座ニ、迹化・他方ノ大小ノ諸菩薩ハ万民ノ処シテ大地ニ如ク見ルカ雲閣月卿ヲ。十方ノ諸仏ハ処シタマフ大地ノ上ニ。

 ここに示される本尊の相貌は本門虚空会の儀式であり、まさにこの時期から図顕される曼荼羅本尊の相貌そのものである。ところで曼荼羅本尊といえば、その形態からしても、その中心が中央の題目にあると見るのが自然であろう。『神力品』の結要付属で上行等の四大菩薩が付属されたのは、要法たる妙法五字であるという認識に立っていた大聖人が、付属を前提として建立する曼茶羅本尊の中心に、題目があることはむしろ当然というべきなのである。

 しかしこの時期においては、身延後期に述べる『本尊問答抄』の場合のように、はっきりとそうした認識に立っていたとは必ずしもいえない。すなわち『観心本尊抄』には

此時地涌千界出現シテ、本門ノ教主釈尊ノ為リテ脇士ト一閻浮提第一ノ本尊ヲ可シ立ツ此国ニ (本文の読みについて注記参照のこと)

と述べ、さらに建治2年7月21日に著わされた『報恩抄』に

日本国乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏、並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。

と述べて、曼荼羅本尊の内実は本門の教主釈尊であることが示されているのである。もちろんそれは『観心 本尊抄』に

釈尊ノ因行果徳ノ二法ハ妙法蓮華経ノ五字ニ具足ス。

とあるように、妙法五字と本門の教主釈尊が一体不二であるという認識のもとで述べられていることは当然である。しかしそれを前提としながらも、やはり造像本尊はもちろん曼荼羅本尊さえも、この時期の本尊の主体が本門の教主釈尊にあったことは明らかである。

 そのことは、建治2年3月30日富木常忍宛の書状『忘持経事』に見られる、この時期の身延の御宝前についての記述により、一層明白となるであろう。

触レテ案内ヲ入リ室ニ、教主釈尊ノ御宝前ニ安置シ母ノ骨ヲ…

 右文によれば、身延の庵室の御宝前には釈尊像が安置されていたものと思われる。もちろんそこには『法華経』および題目も安置され、場合によっては曼茶羅本尊が奉安されていたことも考えられるが、その御宝前を「教主釈尊の御宝前」といわれていることは、本尊全体の内実が本門の教主釈尊であるとの認識に立たれていたことを伝えているのである。

 以上この時期の本尊観を総括するならば、『観心本尊抄』に上行菩薩の再誕たる自覚から示された本門観心の本尊であり、その内実は『報恩抄』に見られるように「本門の教主釈尊」である。それ故次項に述べるように、形式的には曼茶羅本尊のみならず、多くの場合佐前以来の釈尊像がそのまま安置されている形跡がうかがえるのである。

 そして本門の教主釈尊が本尊の主体とされる理由としては、第一にこの時期には真言宗に加えて台密の破折を重要課題としており、その点教主論において本尊の勝劣を見る佐渡流罪直前から佐渡前期の環境と、全く同じであること。第二に、結要付属を受けた上行自覚を宣揚するにあたっては、その授与者である本門の教主釈尊を強調する必要があること。第三に、この時期に示されたいわゆる 「本門三大秘法」において、本門の本尊とは別に本門の題目が掲げられていること、などがあげられよう。ちなみに第三の理由について補足すれば、本門の本尊と題目が別立された結果、本尊が本門の教主釈尊主体となったというのではなく、逆にこの時期の本尊観が本門の教主釈尊主体であったゆえに、便宜上本門の題目が別立されたと考えるべきであろう。


C 思想と形態

 先に『神国王御書』から文永8年の法難逮捕時点における松葉ケ谷草庵の御宝前と、『忘持経事』に見られる身延草庵の御宝前が、ともに釈尊像を中心とするものであったことを示したが、もとより詳細は不明にしても、文面からは双方に形式的にさほどの変化はないように思われる。この間『観心本尊抄』を基点として、上行再起の自覚という、本尊観に決定的な影響を持つ大きな思想的進展があったにもかかわらずである。もちろんこの一大思想的進展により、曼茶羅本尊の図顕という、全く新たな本尊形式が生まれたことは事実であるが、そのことによって僧俗全体の本尊形式が、劇的に改変されたというわけではないのである。建治2年3月の 『光日房御書』

うめる母釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば……

同じく建治2年7月15日の 『四条金吾釈迦仏供養事』

御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。・・・されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。

等の文によりそれは容易に首肯されるであろう。

 すなわち大聖人の法義的進展と指導にともない、意識としては単なる一体仏から本門の教主釈尊へ、そして同じく本門の教主釈尊でも、本化上行の自覚から大聖人の証得した本門の教主釈尊へと変化していったことは当然として、その形式においては、佐前佐後を通じて急激に変わることなく踏襲されていったものと思われるのである。

 そうした流れの中で、やがて本尊形式自体も、法義の進展に基づいて、時間的経過の中で工夫改変されていったことも事実であろう。たとえば意識の中で本門の教主釈尊と拝していくばかりでなく、形の上でも本化の四菩薩を脇士とするなどして、一見して本門の教主釈尊と知れるようにするという工夫である。そうした痕跡は真偽の定かでない弘安2年5月17日に系けられる録外御書『四菩薩造立抄』に

1、御状に云く、本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼ねて聴聞仕り候ひき。然れば聴聞の如くんば何れの時かと云云。

とあるのみで、必ずしも明らかとはいえないが、法義的内容からして当然あって不思議ではない。

ともあれ以上の状況から、本尊形態は思想的進展に対応していない場合があることが知れるのであり、本尊観を見ていく場合、その誤差を念頭に置く必要があるであろう。

そうしたことを念頭に置いて、この時期の本尊形式を推するならば、法義的に本門の教主釈尊を本尊とするという前提において、一体仏、一尊四士、曼荼羅本尊のいずれもが、許容範囲であったと結論づけられるであろう。


2 教主論

 大聖人の思想の中で教主といえば、一閻浮提の主師親たる本門の教主釈尊であることは疑いを挟む余地がない。しかしその一方で、佐渡期『開目抄』において日本国の主師親であると宣言されて以降、大聖人自身もまた末法という時の、そして救いがたき日本という国の教主たる自覚に立たれるのであり、それは『観心本尊抄』の上行自覚を経、さらに身延期にいたって一層強烈にアピールされるようになるのである。末法の教主としての自覚が最高潮に達するのは、弘安3年の『諌暁八幡抄』末文であるが、それについては次章「身延後期の思想」に譲ることとして、ここではそれ以前の身延前期を中心として、両者の教主としての関係と、微妙ではあるが確かに見られる関係の変化、具体的にいえば絶対であった教主釈尊の存在がやや相対化されていくその萌芽を確認していこうと思う。


@  一閻浮提の主師親と日本国の主師親

 そもそも大聖人が教主論において諸宗を批判し、法華経信仰の優位性を示されるのは、文永6年に系けられる『法門可被申様事』あたりからで、それまでは教門たる五時八教判、観門たる一念三千論、あるいはまた宗教の五綱等によってなされており、教主論は驚くほど語られないという傾向は首肯されるであろう。ではなにゆえにこの時期から教主論が法義の主要な位置に据えられるようになるのかといえば、この時期から始まる真言破折が介在しているであろうことは先に述べたとおりである。そして特に身延前期は、もっぱら一閻浮提の主師親である本門の教主釈尊は法義の中心をなす存在であり、最もそれが宣揚された時期といえるであろう。その一方で大聖人自身もそれと符節を合わせるように、日本国の主師親たる自覚が表明される。しからば両者の基本的関係とはいかなるものであるのか、両者が併記されている御書からその辺を見てみようと思う。

 まず最初にあげられるのは『開目抄』である。冒頭

夫れ一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂主・師・親これなり。

と述べ、以降二乗作仏・久遠実成の二箇の大事から本門の一念三千を示しつつ、その尊敬すべき存在として本門の教主釈尊が示されている。そしてその末文には

日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。

と述べて、自身日本国の主師親たる自覚が表明されているのである。ただし『開目抄』においてはいまだ上行自覚が表明されておらず、それは『勧持品』の色読と不軽菩薩の自覚から、みずからの使命として「日本国の主師親」たることが宣せられているのである。すなわちここでは、三世にわたって一閻浮提の一切衆生の主師親は本門の教主釈尊であることを前提とし、真言宗をはじめとする諸宗が本尊に迷ってその釈尊をないがしろにするのは、父母を知らぬ禽獣の如くであると批判する一方、その邪法のゆえに諸難を招き寄せる今の日本国を、『勧持品』に予言された三類の強敵と戦いながら、『法華経』乃至本門の教主釈尊を世に立てることによって救っていくという覚悟が表明され、その意味で自身日本国の一切衆生の主師親であることが宣言されているのである。

 次に上行自覚を表明されて以降では、まず建治2年5月8日の『一谷入道百姓女房御書』があげられる。

裟婆世界は五百塵点勃より巳来教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子なり。誓へば成劫の始め一人の梵王下りて六道の衆生をば生みて候ぞかし。梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。父母を知るも師の恩なり。

 娑婆世界が釈尊の御所領であるとするのは、早くは文永3年に系けられる断簡御書『釈迦御所領御書』に見られ、文永6年の『法門可被申様事』にも見られるが、ここで見られるような「裟婆世界」「五百塵点劫より巳来」というような具体的な規定はされていない。

 さてこのように、本門の教主釈尊が五百塵点勃以来婆婆世界の主師親であることが示された後、

日蓮は愚かなれども、釈迦仏の御使ひ・法華経の行者なりとなのり候を、用ひざらんだにも不思議なるべし。其の失に依りて国破れなんとす。況や或は国々を追ひ、或は引きはり、或は打擲し、或は流罪し、或は弟子を殺し、或は所領を取る。現の父母の使ひをかくせん人々よかるべしや。日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是れを背かん事よ。

と述べられている。すなわちここでは、先に上行菩薩の自覚に立ったことを受けて、日蓮が日本国の主師親であるのは、教主釈尊より結要付属を受けた釈尊の御使いであるゆえとしているのである。

 そしてそれは建治3年6月25日に系けられる『頼基陳状』、同年6月に系けられる『下山御消息』に、より顕著に示されている。ことに『頼基陳状』の

日蓮聖人ノ御房ハ、三界ノ主・一切衆生の父母釈迦如来の御使い、上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候。

の文は、この両者の基本的関係を最も端的に表しているといえるであろう。以上を要すれば、本門の教主釈尊は久遠五百塵点勃以来三世にわたって一閻浮提の一切衆生の主師親であり、今末法の日本国においては、釈尊より結要付属を受けた上行菩薩再誕の日蓮が、釈尊のお使いとして衆生を救う、すなわち主師親三徳の教主であるということになろう。

 ところで、上来述べてきたように、大聖人が上行自覚に立たれたことは疑いを挟む余地がないが、その自覚を直接的に表現する言葉が驚くほど少ない点は、よく指摘されるところである。それどころかたとえば

 

 『新尼御前御返事』

而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて、此の二十余年が間此れを申す。

 『曾谷入道殿許御書』

而ルニ予非レモ地涌ノー分ニハ兼テ知ル此事ヲ。故ニ前立チテ地涌之大士ニ粗示スコ五字ヲ。

 『高橋入道殿御返事』

此の時上行菩薩の御かびをかほりて法華経の題目南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづけば、彼の四衆等並びに大僧等此の人をあたむ事、父母のかたき宿世のかたき朝敵・怨敵のごとくあたむべし。

 『三沢抄』

日蓮は其の御使ひにはあらざれども其の時剋にあたる上、存外に此の法門をさとりぬれば、聖人の出でさせ給ふまでまづ序分にあらあら申すなり。

 『本尊問答抄』

経には上行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給ふべしと見えて候へども、いまだ見えさせ給はず。日蓮は其の人には候はねどもほぼ心へて候へば、地涌の菩薩の出でさせ給ふまでの口ずさみに、あらあら申して況滅度後のほこさきに当り候なり。

等のように、自分は上行等地涌千界ではないかのような表現が随所に見られるのである。しかしこれらはいわゆる謙譲の意をもって述べられたもので、けして上行自覚を否定するものではないことも、すでに指摘されるところである。そうした中で次の二つの資料は、上行自覚を直接的に示しており、その点で大変貴重である。

一つには安房妙本寺に所蔵される文永11年12月に図顕された通称『万年救護本尊』の讃文である。

大覚世尊御入滅後経歴ス二千二百二十余年ヲ。雖モ爾リト月漢日三ケ国之間未タ有ラス此大本尊。或ハ知テ不弘メ之ヲ、或ハ不知ラ之ヲ。我慈父以テ仏智ヲ隠シ留メ之ヲ、為ニ末代ノ→残シタマフ之ヲ。後五百歳之時上行菩薩出現シテ於世ニ、始テ弘宣ス之ヲ。

 ここには、この曼茶羅本尊が 「月漢日三ケ国之間未有此大本尊」 であり、しかもそれは 「上行菩薩出現於世始弘宣之」したものであると述べられているのであり、まさに図顕した大聖人自身が上行菩薩であると直接的に表明されているのである。

 次に先に丁部引用した『頼基陳状』があげられる。ここには先に引文した「釈迦如来の御使い上行菩薩にて御坐しける」 の文の他に、

日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使ひ、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座候。

という文が見られ、二度まで大聖人が上行菩薩、あるいはその垂迹であると述べられているのである。

 但し『頼基陳状』は大聖人の真蹟は伝存せず、北山本門寺に日興の再治本と未再治本として伝わる二種の写本があり、右の二文は未再治本には見られず、「正和五年閏十月二十日駿河国富士上方重須談所ニシテ以再治本書写了。白蓮七十一才」という奥書を有する再治本にのみ見られる。しかもこの再治・未再治両本は、字体が必ずしも同一とは見られないことなどから、従来十全な資料としての評価が得られておらず、したがってこの二文についてもその評価が不安定であった。

 しかし近時の詳細な研究・検討により、未再治本といわれるものは日興筆写ではなく、寂仙房日澄の筆写であることが確定し、かつその奥には「弘安元年四月五日」の日付があり、これは日澄が筆写した日付であろうと思われるから、これは未再治本というより大聖人が建治3年7月に四条金吾に書き送った当初の『頼基陳状』であろうと推測されるのである。一方再治本の方は日興の筆に間違いないことが立証されている。では日興が正和5年に筆写した再治本とはいかなるものであったろうか。日興が「再治本」といっている以上、これは大聖人自身が再治されたものと見るのが妥当な見解であろう。もし大聖人が述されたものに、日興が加筆あるいは訂正したものとすれば、それは「再治本」とはいわれないはずである。目澄は『富士一跡門徒存知事』によれば、すでに正安年中に一体仏の建立をめぐって師日向を離れ、日興に帰伏して弟子となっているようであるから、当初の『頼基陳状』写本を有する日澄が膝下にありながら、日興がそのような改ざんをすることは考えにくい。しかも師大聖人の事蹟を忠実に守ろうとした日興が、このような言辞を添加することなど、およそ考えられないことである。

 以上を勘案すれば、日澄本は建治3年当時大聖人が四条金吾に遣わした『頼基陳状』であり、日興本はその後大聖人自身が門下のテキストとして再治整理された『顛基陳状』と見るのが妥当な見解であると思う。そういう意味では日興の再治本の筆写は、日澄により日興の元へ再治以前の『頼基陳状』がもたらされたことを踏まえ、後世に大聖人の真意たる再治本があることを伝えるためとも考えられるのではなかろうか。わざわざ「以再治本書写了」と奥書しているのはそのためであったと推測するのである。

 以上、『頼基陳状』再治本の記述が大聖人自身の言葉であることが確定すれば、万年救護本尊の讃文と共にこの二つの資料は、文永11年と建治3年という上行自覚がもっとも宣揚された身延前期に丁度またがるものであり、それを決定づけるゆるぎなき資料となるであろう。

 

A 現実に即した末法の教主の強調

 右に示した釈尊と上行再起の大聖人との関係は、基本的には特に身延前期においては変わることはない。しかし、釈尊のお使いとしてではあれ、現実的には難難辛苦を乗り越えて末法の一切衆生を救っていくのは、他ならぬ大聖人自身であるとの責任と自負が、諸難を乗り越えるごとに強くなっていったことも確かなのである。もちろん先にも触れたように、『諌暁八幡抄』末文のような、釈尊と対比した形で末法の一切衆生を救済する教主たる自負・自覚が、この時期に見られるわけではない。しかし、わずかながらではあるが、そうした釈尊の相対化の萌芽が見いだされることも事実である。ここでは大聖人の末法の教主としての自覚強調の様相と、教主論における釈尊相対化の萌芽を見ていきたいと思う。


(日本国から一閻浮提へ)

 大聖人が教主釈尊より結要付属を受けた上行菩薩であるとの自覚から、日本国の衆生を救う主師親たる自覚に立たれたことを右に確認したが、その一方で、ことに文永の役を機に、自身が一閻浮提第一の聖人であり法華経の行者であるとの表明がなされる。それを列挙すれば

(イ) 『別当御房御返事』文永11年6月頃

日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。天のあたへ給ふべきことわりなるべし。

(ロ) 『聖人知三世事』建治元年

所謂正嘉ノ大地震文永ノ長星ハ誰力故ソ。日蓮ハ一閻浮提第一ノ聖人也。

(ハ) 『撰時抄』建治元年

日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあたむ人を結構せん人は、閻浮第一の大難にあうべし。

日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもってすいせよ。漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。

(ニ)『妙心尼御前御返事』建治元年8月16日

日蓮は日本第一のふたうの法師、ただし法華経を信じ候事は、一閻浮提第一の聖人なり。其の名は十方の浄土にきこえぬ。定めて天地もしりぬらん。

(ホ) 『四条金吾殿御返事』弘安2年9月15日

聖人の出づるしるしには、一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候に、すでに合戦も起こりて候に、すでに聖人や一閻浮提の内に出でさせ給ひて候らん。

等があげられよう。


 右の引文中、『別当御房御返事』が文永の役直前であるが、およそ文永の役を機にこのような自覚に立たれたことが確認されるであろう。すでに蒙古使者来朝により、文永6年頃には震旦・高麗の仏法は亡んでいるとの認識に立たれていたが、今他国侵逼難の予言的中によりその認識は確信となり、視野は日本国から一閻浮提に広がって、日本国のみならず一閻浮提の衆生を純円一実の妙法によって救っていくという自覚に立つに至ったものであろう。それは殆んど時を同じくして見られる、月氏で生まれた仏教が東漸して日本に渡り、やがて仏法を失った震旦・月氏へと還っていくという思想とも軌を一にするものであろう。

すなわち『顕仏未来記』 (文永11年閏5月11日)に

答テ云ク、月ハ自リ西出テテ照シ東ヲ 日ハ自リ東出テテ照ス西ヲ。仏法モ又以テ如是ノ。正像ニハ自リ西向ヒ東ニ、末法二ハ自リ東往け西ニ。妙楽大師云ク、豈ニ非スヤ中国ニ失テ法ヲ求ムルニ之ヲ四推ニ乎等云云。天竺ニ無キ仏法証文也。於テ漢土ニ高宗皇帝之時、北狄領シテ於東京ヲ干今一百五十余年、仏法王法共ニ尽キ了ヌ。漢土ノ大蔵ノ中ニ小乗経ハ一向無ク之、大乗経ハ多分ニ失ス之ヲ。自リ日本寂照等少々渡ス之ヲ。雖然リト無レハ伝持ノ人猶如シ木石ノ帯持セルカ衣鉢ヲ。故ニ遵式ノ云ク、始自リ西伝フ、猶ヲ月之生スルカ。今復自リ東返ル、猶日之昇ルカ等云云。如クンハ此等ノ釈ノ者於テ天竺漢土ニ失セルコト仏法ヲ勿論也。‥‥‥答テ曰ク、順シテ仏記ニ勘フルニ之ヲ既二相当レリ後五百歳ノ始ニ。仏法必ス可キ出ツ自リ東土ノ日本也。其前相必ス超過セル正像ニ天変地夭有ル之欺。所謂仏生之時、転法輪之時、入涅槃之時、吉瑞凶瑞共ニ絶タル前後ニ大瑞也。仏ハ此レ聖人之本也。見ルニ経々ノ文ヲ仏御誕生ノ時ハ五色ノ光気遍クシテ四方ニ夜如ル昼ノ。仏御入滅ノ時ハ十二ノ白虹亘リ南北ニ、 大日輪無クシシソテ光如クナリシ闇夜ノ。其後正俊二千年之間、内外ノ聖人有レトモ生滅不如カ此大瑞ニハ。而ルニ去ル自リ正嘉年中至ルマ今年に、或ハ大地震或八大天変宛モ如シ仏陀ノ生滅之時ノ。当ニ知ル如キ仏ノ聖人生レタマハン歟。滅シタマハン歟。亘テ大虚ニ出ツ大彗星。以テ誰カノ王臣ヲ対セン之ニ。傾ニ動シテ大地ヲ三ヒ振裂ス。以テ何レノ聖賢ヲ課セン之ヲ。当ニ知ル、通途ノ世間ノ可シ非ル吉凶ノ大瑞ニ。惟レ偏ニ此大法興廃ノ大瑞也。

とあり、また『曾谷入道殿許御書』(文永12年3月10日)に

以テ大集経ノ文ヲ案スルニ之ヲ、前四箇度ノ五百年仏ノ記文ノ既ニ令メ符合セ了ヌ。第五ノ五百歳之一事豈ニ唐捐ナランヤ。随テ当世ノ為ク体、大日本国卜与大蒙古国闘諍合戦ス。相当レル第五ノ々百ニ歟。以テ彼ノ大集経ノ文ヲ推スルニ此法華経ノ文ヲ、後五百歳中広宣流布於閻浮提ノ鳳詔豈ニ非ス扶桑国ニ乎。彌勒菩薩ノ喩伽論ニ云ク、東方ニ有リ小国。其中唯有大乗ノ姓ノミ云云。……肇公之翻経ノ記ニ云ク、大師須梨耶蘇摩左ノ手ニ持チ法華経ヲ、右ノ手ニ摩テ鳩摩羅什ノ頂ヲ授与シテ云ク、仏日西ニ入テ遺耀将ニ及ント東ニ。此経典有リ縁於東北ニ。汝慎ンテ伝弘セヨ云云。予拝見シテ此記文ヲ、両眼如クニ滝ノー身遍フス悦ヲ。此経典リ縁於東北ニ云云。西天ノ月支国ハ未申ノ方、東方ノ日本国ハ丑寅ノ方也。於テ天竺ニ有リトハ縁於東北ニ豈ニ非ス日本国哉。遵式之筆ニ云ク、始メ自リ西伝フ。猶月之生スルカ。今復東ヨリ返ル。猶ホ日之昇ルカ云云。正像二千年ニハ自リ西流ル東ニ。暮月之如シ殆カ西空ヨリ。末法五百年ニハ自リ東入ル西ニ。朝日之似タリ巧東天ニ。根本大師ノ記ニ云ク、語レハ代ヲ則像ノ終末ノ初、尋レハ地ヲ唐ノ東掲ノ西、原レハ人ヲ則五濁之生闘諍之時ナリ。経ニ云ク、猶多怨族況滅度後ト。此言良トニ有ル以ヘ也云云。又云ク、正像稍過キ巳テ末法太タ有り近キニ。法華一乗ノ機今正シク是其時ナリ。何ヲ以テ得ン知ルコトヲ。安楽行品ニ云ク、末世法滅ノ時也云云。

とあるごとくである。

 当時の世界観、ことに仏教的世界観からすれば日本は辺国であり、衆生の横根も漸々に劣等になるというのが常識的であった。しかし法華一乗の法が、救い難き愚悪の凡夫に焦点を当てているという観点に立てば、まさに今末法の日本国こそ『法華経』が目指した場所であり衆生であるといえるであろう。それは単なる憶測ではない。『薬王菩薩本事品』や『大集経』、そして弥勘菩薩の『喩伽論』や僧肇の『法華経翻経後記』や伝教の『法華秀句』『守護国界章』などの文によれば、『法華経』が末法の日本国を目指した経典であることが明示されているのである。しかも今や月氏・震旦・高麗の仏法は亡んでしまった。となれば、日本国に仏法を立て、愚悪の衆生を救済することは、ひとり日本国のためのみならず、一閻浮提に仏法が存続するか否かという大事を含むものである。遵式の『天竺別集』には、月が西より東に向かうごとく東漸した仏法が、今度は逆に日が東より酉に向かうごとく西に還ると述べられている。かくして日本第一の法華経の行者・聖人は、同時に今末法の一閻浮提を救済する、一閻浮提第一の法華経の行者・聖人であるとの確信となるのである。そしてそのような確信は、文永の役を媒介として(『別当御房御返事』『顕仏未来記』は蒙古襲来の直前であるが、意識としては同等なものがあったであろう)、醸成されていったものと見ることができよう。

 但しこの時期においては、弘安3年の『諌暁八幡抄』のような、仏と聖人の対比において述べられたものではなく、あくまでも遣使還告の上行自覚から述べられたものというべきであろう。しかしまた、こうした思想的新見解の延長線上に、『諌暁八幡抄』末文があることも疑いないことである。


(法華経の行者供養の功徳の強調)

 さて、次に身延期に入って見られる一つの法義的特徴として、法華経の行者供養の功徳が甚大なることの強調があげられる。これは必ずしも直接教主論に繋がる議論ではないが、仏的存在がやがて相対化されていくという観点からすれば、大変重要なことがらといえるであろう。

 すなわち文永の役に始めて触れられた『上野殿御返事』(文永11年11月11日)に

法華経の第四ニ云ク、有テ人求テ仏道ヲ而於テ一劫ノ中ニ合掌シテ在テ我前ニ以テ無数ノ偈ヲ讃メン。由ルカ是讃仏ニ故ニ得シ無量ノ功徳ヲづ。歎美セン持経者ヲづ其福復過キン彼ニ等云云。文の心は、仏を一朝が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給フ。

と述べて、『法師品』の文を根拠として、仏を供養する功徳よりも末代悪世の法華経の行者を供養する功徳が勝れていることが示されている。そしてこれを皮切りに、同類の文が以下の書状に見ることができる。

(イ)『法蓮抄』建治元年4月(文永12年4月25日改元)

戯論に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を青め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。これを妙楽大師は福過十号とは書れて候なり。十号と申は仏の十の御名なり。

(ロ) 『国府尼御前御書』建清元年6月16日

法華経第四法師品ニ云ク、有テ人求テ仏道ヲ而於テ一却ノ中ニ合掌シ在テ我前ニ以テ無数ノ偈ヲ讃メン。由ルカ是讃仏ニ故ニ得ン無量ノ功徳ヲ。歎美セン持経者ヲ其福復過キン彼ニ等云云。文の心は、釈尊ほどの仏を三業相応して一中却が間ねんごろに供養し奉ルよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候。まことしからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑べきにあらず。其ノ上、妙楽大師と申人、此の経文を重てやわらげて云ク、若毀謗セン者ハ頭破レ七分ニ、若供養セン者ハ福過キン十号ニ等云云。釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其ノ功徳すぎたり。

(ハ)『高橋殿御返事』建治元年7月26日

法華経の法師品には「而於一朝中」と申して、一劫が間釈迦仏を種々に供養せる人の功徳と、末代の法華経の行者を須臾も供養せる功徳とたくらべ候に、「其の福復彼れ七過ぐ」と申して、法華経の行者を供養する功徳はすぐれたり。

(二)『南条殿御返事』建治2年正月19日

又釈迦如来の末法に世のみだれたらん時、王臣万民心を一にして一人の法華経の行者をあたまん時、此行者かんはちの少水に魚のすみ、万人にかこまれたる魔のことくならん時、一人ありてとぶらはん人は生身の教主釈尊を、一劫が間、三業相応して供養しまいらせたらんよりなを功徳すくるへきよし、如来の金言分明也。

(ホ) 『松野殿御消息』建治2年2月17日

法華経の第四法師品ニ云ク、有テ人求テ仏道ヲ而於テ一劫ノ中ニ合掌シテ在テ我前ニ以無数ノ偈ヲ讃メン。由ルカ是讃仏ニ故ニ得ン無量ノ功徳ヲ。歎美セン持経者ヲ其福復過キン彼ニ等云云。文の意は一劫が間教主釈尊を供養し奉るよりも、末代の浅智なる法華経の行者の、上下万人にあたまれて餓死すべき比丘等を供養せん功徳は勝るべしとの経文なり。

(へ) 『松野殿御返事』建治4年2月13日

法華経には行者を怨む者は阿鼻地獄の人と定む。四巻には、仏を一中劫罵るよりも末代の法華経の行者を悪む罪深しと説れたり。七巻には、行者を軽めし人々、千劫阿鼻地獄に入ると説キ給へり。

以上煩をいとわず列挙したが、これらの文から次のような傾向を知ることができる。第一にその根拠として『法師品』の「有人求仏道」等の文、および『文句記』の 「苦悩乱者頭破七分 有供養者福過十号」の文があげられていること。第二に、これらの文が身延期に入ってからのものであるということ。しかも信頼できる書状に限れば、文永11年から建治4四年という、まさに本稿の範囲たる身延前期に集中している。しかし身延後期にこうした考えが薄れたというわけではない。むしろ門下に定着したゆえにあえて頻繁にはいわれなくなったということではなかろうか。その根拠としては、曼茶羅本尊の讃文が弘安元年8月の『真蹟集成』53番本尊から、弘安2年10月日の67番本尊まで、右に掲げた『文句記』の文が讃文として頻出することがあげられる。ちなみにそれ以降は、常の形能心とは異なる90番本尊に例外的に「今此三界皆是我有」の経文が見られる他は、讃文(仏滅後二千二百……の図顕讃文でなく)自体が無くなっている。そして第三の傾向としては、『上野殿御返事』『法蓮抄』では仏と法華経の行者の対比であったが、『国府尼御前御書』以降は、教主釈尊と法華経の行者の対比になっていること。およそ以上のような点を上げることが出来よう。

 これらのことをもって、釈尊の相対化の萌芽といえるかどうかは判断の難しいところであろうが、次に示す文をも勘合すれば、その萌芽といえなくもないのではなかろうか。

 『兄弟抄』 (文永12年4月16日)

さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。一字一点もすつる人あれば千万の父母を殺セる罪にもすき、十方の仏の身より血出す罪にもこへて候けるゆへに、三五の塵点をば経候けるなり。此法華経はさてをきたてまつりぬ。又此経を経のごとくにとく人に値フことが難キにて候。設ヒ一眼の亀は浮木には値フとも、はちすのいとをもつて須弥山をば虚空にかくとも、法華経を経のごとく説人にあひがたし。」

 『日女御前御返事』 (弘安元年6月25日)

仏は無量勃に一度出世し給ふ。彼には値フといへども法華経には値ヒがたし。設ひ法華経に値ヒ奉るとも、末代の凡夫法華経の行者には値ヒがたし。

 すなわち仏に値うことよりも『法華経』に値うことは難く、さらに『法華経』に値うことよりも末代の法華経の行者に値うことは難いといわれるのである。

 これらの文は供養の功徳や値遇の難易を述べたものではあるが、少なくとも末法における法華経の行者が、釈尊を含む仏的存在や『法華経』よりも優位に置かれていることは、記憶しておくべきことがらであろう。


(釈尊より大事の行者)

 右に大聖人が文永の役を基点として、日本乃至一閻浮提の教主たる自覚に立たれたことを見てきた。しかしそれらは部分的に釈尊を相対化するような表現が見られるものの、総体的に見ればやはり本門の本尊たる教主釈尊から、末代の衆生救済を委託された上行菩薩としての自覚の上に立ったものというべきであろう。しかるに次に掲げる『下山御消息』の文は、そうした範囲の中にありながらも、身延後期の『諌暁八幡抄』末文に、かなり近いものといってよいであろう。

教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五巻を以て日蓮が頭を打ち、十巻共に引き散らして散々に踏みたりし大禍は

右の文を針小棒大化して教主論としての釈尊の相対化と断言することは早計であろう。おそらく右に見てきたことがらを勘案すれば、現実に即して『法華経』乃至妙法五字が、一閻浮提から消滅するか否かは、一閻浮提第一の法華経の行者であり聖人である自身の双肩にかかっているという自負が、この文の真意であろう。しかしそれにしても「教主釈尊より大事なる行者」という言葉は、本門の本尊として絶対的であった教主釈尊を、自身と直接的に対比した上で、自身を「大事」といわれているという点で、注目すべきであろう。そしてそれは「釈尊の相対化」とはいえないまでも、その萌芽とはいえるのではないかと思うのである。

 

 


  
第2 本門題目について


 本門の題目といえば、たとえば三大秘法を天台伝教の残した秘法として、簡略ながらその内実を示した『法華取要抄』を見れば、修行論としての題目が中心に据えられている。これは別して本門の本尊が本尊論として掲げられているのであるから、当然のことと思われる。しかし、本来題目は本尊としても論ぜられてきたことは先に見たとおりであり、本門の教主釈尊が本尊の中心に据えられて以降も、『観心本尊抄』『曾谷入道殿許御書』等において論じられている。そこでここでは一応両者を立て分けて論じていきたいと思う。

 


1 修行論としての題目

@ 機根から時へ

 修行論として唱題、すなわち題目たる要法の五字七字を唱えることが常にその中心であったことは論をまたない。しかし第二章で触れたように、その内実においては佐前佐後、具体的にいえば文応元年の『唱法華題目抄』と文永11年の『法華取要抄』とでは、決定的な違いがある。すなわち『唱法華題目抄』 においては

常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱ふべし。たへたらん人は一偏一句をも読み奉るべし。助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随ふべし。愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず、其の志あらん人は必ず習学して之れを観ずべし。

と述べて、常の所行には唱題を奨励しつつも、機根の良い耐えたる者に対しては広路の修行から諸仏菩薩等の称名、そして一念三千観法をも許容しているのである。これは末法においても下根結縁衆ばかりでなく、上根当機衆が存在するという前提に立つゆえである。しかるに『法華取要抄』においては

一閻浮提皆為リ謗法ト了ヌ。為ニハ逆縁ノ但限ル妙法蓮華経ノ五字ニ。

と述べ、日本乃至一閻浮提の衆生がすべて逆縁謗法の徒であると規定した上で、その衆生に対しては、かの不軽菩薩のごとく、広略を止めて要法五字を下種結線すべきことが示されている。もちろんこれは直接的に修行論を述べているわけではないが、逆縁の機の成仏の要諦として、要法五字が掲げられたことは疑いない。

 つまり右の決定的相違は、末法の衆生の横根が、前者は当機衆もありうるという前提で述べられ、後者は逆縁結線衆のみと規定されている点にある。

 しかるに『法華取要抄』から『曾谷入道殿許御書』を経て、『撰時抄』に至るとまた決定的変化が見られるのである。すなわち『曾谷入道殿許御書』では『大集経』の五々百歳の文を肯定引文し、第五の五百年闘諍堅固とは、まさに今末法の始めの五百年であり、この時に結要付属を受けた上行菩薩が再誕して妙法五字を弘通するのであると、時と付属によって要法五字弘通の正当性を主張している。そして『撰時抄』ではおおむね右と同意を述べた上で

せんずるところ機にはよらず、時いたらざればいかにもとかせ給はぬにやされば機に随ひて法を説くと申すは大なる僻見なり。

と、要法五字の流布及び修行は、機根の善悪適否によって論ずるのではなく、五々百歳という時によって論ずるべきことが主張されているのである。

 機根において論ずれば、上根上機と主張する者が出ないとも限らない。しかし議論を機根から時に移行させることによって、五々百歳末法においてはともかくも要法五字に限ることが、全くぶれることなく決定するという訳である。


(身延曾存『撰時抄』草案の一文をめぐって)

 さて右に、『撰時抄』には「五々百歳」という時に約して、要法五字が絶対であることが説かれていることを見たが、その「五々百歳」に関連して、身延曾存の『撰時抄上』には、現存の玉沢妙法華寺本には見られない興味深い一文があり、それについて少々触れておきたい。すなわちそこには

滅後には正法一千年、正(像)法一千年ハ大小・権実の機なり。末法に入ても五百年すきなハ、又権機なるべきか。唯像法の後末代の始五百年計こそ純円の機にてハ候へけに候へ。

と述べられており、五々百歳が純円一実であることは常の所談であるとして、五々百歳以降においては「権機」もあるとの見解が示されているのである。

 身延曾存本については、『延山録外』にその冒頭より十紙あまりが筆写されており、『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』にその全文が紹介され、かつその伝来や妙法華寺本との出入りについて詳細に考察されている。それによれば、両者は共に大聖人自身が記した「撰時抄」の題名を持ち、論旨・文脈はほぼ共通するものの、部分的にではなく全体的に本文が相違しており、かつ身延曾存本は妙法華寺本よりも引文・例証がより委しくなされており、身延本は「独自性が高い異本」と結論づけている。そして両者の成立関係、すなわち草案と成稿、未定稿と定稿等の位置づけについては、後日の課題としている。

 そこで寺尾氏が後日の課題とされた両者の成立関係について、少々考察を試みたい。

 まず妙法華寺本はかなりの推考の跡が見られ、ことに平左衛門との会見については、一端「去年四月八日」と書かれた後、その右横に「文永十一年」と記されており、 これは最初本書成立が平左衛門との会見の翌年文永十二年(建治元年)であり、その後建治二年にかけて推考がなされたために、「去年」の記述が不都合になったための処置であろうと考えられるから、かなり長期にわたって推考がなされたことが推せられる。それゆえに草案ではないかという意見も根強くあるが、この妙法華寺本が今日までいわゆる流布本として伝えられ、かつそれに変わる成稿らしきものの存在が確認されない以上、一応成稿と見なすべきではないかと思う。

 一方身延本であるが、日蓮が「御抄唯有上巻之十紙許、御草本卜見へタリ」と述べている由であるが、真蹟が現存しない今となっては、それを実見してのこの感想は尊重されるべきであろう。おそらくその形態や、書き入れ等推考の跡などによって 「御草本」と判断したのであろう。それは身延本『撰時抄』が、同じく身延に所蔵されていた『開目抄』のように、通常料紙に書かれるものよりは、はるかに少ない紙数で字を詰めて書かれているということによっても裏付けられるのではなかろうか。『開目抄』は冊子本であり、六十五紙の中にかなり詰めて記されており、また内容の検討によっても草案であった可能性を前章において指摘した。身延本『撰時抄』もまた『日乾目録』や『日遠目録』によって冊子本であったことが確認され、さらに内容的に妙法華寺本の第十五紙あたりまでに相当する同本が、しかも対校して明らかなように妙法華寺本よりかなり字数が多いのに、「十紙ばかり」であったというのであるから、かなり詰めて書かれていることがわかる。これは身延曾存の 『法華取要抄』にもいえることで、『延山録外』所収の同本を見ると、中山法華経本と殆んど同じ程度の字数があるにもかかわらず、『日乾目録』によれば 「十三紙」であって、中山法華経本が二十四紙であることを考えれば、かなり詰めた書き方になっていることがうかがえるのである。おそらくこれらは成稿まえの下書きというべきものであったと考えるのが妥当ではないかと思う。

 『日乾目録』等によればこの他にも、特に比較的長文の御書、たとえば『守護国家論』『法蓮抄』などいずれも十八紙程であり、同じような形態を持った下書き(草案)と見られるものが相当数存したことがうかがわれる。それは書き手である大聖人が身延に住されていたことを思えば、ごく自然なことであろう。このことについてはいずれ稿を改めて、もう少し掘り下げて考えてみたいと思う。

 以上身延本を草案と見ることが許されるならば、先に示した草案の「末法に入ても五百年すきなハ、又権機なるべきか」等の文章が、成稿されるに及んで除去されたということになる。それはいかなる理由であったのか。

 『撰時抄』は前述したように、その題名が示すごとく、それまで機根を中心に要法五字の流布が論じられてきたのを、『薬王品』の 「後五百歳中広宣流布」の文や『大集経』の五々百歳の文などによって、末法の始めの五百年という「時」を論点の中心に据え、結要付属を受けた上行菩薩が再誕して、要法五字すなわち本門の題目が広宣流布される必然性が強調されているのである。ことに 「五箇の五百歳」の根拠であり出典である『大集経』について

彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるる道には、法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世の事を記し給ひけるは寸分もたがわざりけるにや。  

と、棒大乗経ながら時に関する記述は正鵠を射ていると念入りに表明するなど、実に用意周到になされている。

 そしてこのような「五々百歳」の強調は、そのただ中にある今こそ、結要付属を受けた上行菩薩の再起たる大聖人自身が、仏命を受けて要法題目(三大秘法)を建立し広宣流布する時であることを強調するためであることは論をまたない。もちろん「五々百歳」すなわち「末法の始めの五百年」が強調されるのは、すでに『観心本尊抄』においてなされ、以降一貫していることではある。しかし「時」を中心課題に据え、「末法の始めの五百年」を強調し、その時に身を置く我が身の果報を熱く語る点において、『撰時抄』の右に出るものはないであろう。

 そして右に示した身延本『撰時抄』草案の文は、まさにそうした大聖人の心模様を表したものであると思われるのである。本文はその前段に、釈尊出世以来今日まで純円たる『法華経』が流布した時として、在世の八年と今末法の始めの五百年とを挙げる中で語られている。そのこと自体はすでに『観心本尊抄』に

在世ノ本門卜末法之初ハ一同ニ純円也。但シ彼ハ脱此ハ種也。彼ハ一品二半此ハ但夕題目ノ五字也。

と述べられており、それが引き継がれているに過ぎない。しかし同じく 「末法の始めの五百年」を強調する場合でも、ただそれを強調するのと、身延本『撰時抄』草案のごとく 「五々百歳を過ぎれば純円ではない」とした上での強調とでは、大きな開きがあるのではあるまいか。同本にはこの文の二丁ほど後に次のような文も見える。

「而れとも悦事一有。進ハ正像を脱て末代(法)に生たる、退てハ万年より猶前五々百歳に生たる」

 こうした喜びに満ちた確信は、文永の役という現実を踏まえてこそ生じたものといえるであろう。ではそのような言辞が、なにゆえ成稿の際に削除されたのであろうか。

 たしかに右のような言辞があった方が、「末法の始めの五百年」という「時」の強調には効果があるであろう。そしてそれは通常の種熟脱の論理、すなわち下種結縁の後調熟し解脱するという階梯を前提とすれば、充分成り立つ論理でもある。すなわち末法の始めの五百年において純円一実の妙法を下種結縁し、それ以降は即時得脱の者もいれば、鈍根の者は在世調熟の機のように、後に漸々に調熟するのであるから、そういう意味では五々百歳以降には権機も存在することになるのである。

 しかしその論理は、爾前権教の歴劫修行の論理であり、『法華経』の成仏論として今まで強調してきた「当位即妙不改本位」の一念三千即身成仏論に全く相反する論理である。そこでそうした誤解を生む危険のあるこれらの文は、削除されたのではないかと思うのである。

 そしてそうした自重の意が、『撰時抄』と姉妹編ともいうべき『報恩抄』において見られるように思う。すなわち『報恩抄』には『撰時抄』と殆んど時を隔てていないにもかかわらず、おどろくほど「五々百歳」の強調がなされていない。さらにその末文には

日蓮が慈悲廣大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。

と述べて、純円一実の妙法が他ならぬ大聖人の慈悲によって、末法万年に流布することが明言されているのである。



    A 余経も『法華経』も詮無し

 右のように、要法五字が末法適時の秘法である根拠が、横根から時へ移行することによって、より安定的になりまた明確になった訳であるが、そうした作業を経て、弟子檀越にも明確な形でそれが示されるようになった。

(イ) 『高橋入道殿御返事』建治元年7月12日

末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勘菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。

(ロ) 『減却御書』建治2年

今の代は外経も、小乗経も、大乗経も、一乗法華経等も、かなわぬよとなれり。

(ハ) 『上野殿御返事』弘安元年4月1日

今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。

 これらの文は、末法の愚悪の凡夫が成仏するための良薬は、妙法蓮葦経の五字七字であって、諸経は勿論のこと『法華経』 の広略すら良薬とはならぬと断言している点で重要である。このようなはっきりした表現はこれまでにはみられないもので、大聖人の明確な意志をそこに見てとることができる。

 しかしながら、かといって『法華経』を得益無しとして全く捨て去るかといえば、けしてそうではない。

 たとえば

(イ)『忘持経事』建治2年3月

然ル後、尋ネ入リテ深洞ニ見ルニ一庵室ヲ法華読誦ノ音響キ青天、一乗談義ノ言聞ユ山空ニ

(ロ) 『減却御書』建治2年

此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候。むかしこの法門を聞いて候人々には、関東の内ならば、我とゆきて其のはかに自我偈よみ候はんと存じて候。

(ハ)『下山御消息』建治3年6月

去年の春の末夏の始めより、阿弥陀経を止めて一向に法華経の内、自我偈を読誦し候。又同じくは一部読み奉らんとはげみ候

(二)『上野殿母尼御前御返事』弘安3年10月24日

御菩提の御ために法華経一部自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候ひ畢んぬ

 この他『法蓮抄』『千日尼御前御返事』等々、殆んど枚挙にいとまがないので割愛するが、大聖人自身も、そして門下においても『法華経』広略は助行として読諦され、さらに法義研鋳の上でも当然のことながら用いられているのである。しかしこのように、日常の行儀・勉学に習慣的に『法華経』広略が用いられながらも、その一方でこの時期に、「末法」という時に約し、末法の衆生の成仏のための修行の要諦は、上行所伝の要法妙法の五字七字であり、『法華経』の広略は良薬ではないと宣言されたことは事実としてはっきりと認識しなければならない。つまり、同じく助行としながらも、『唱法肇題目抄』においては『法華経』広路が、「たへたらん人」にとっては成仏のための修行として許容されていたのに対し、この時期にあっては助行としての行儀及び法義研鑽としては重要な要素ではあっても、成仏のための行としてはあくまでも要法五字の受持唱題であり、けして重要不可欠要素ではないということである。

 


2 一大秘法としての題目


@結要付属

(結要付属の内容=一大秘法の題目五字)

 結要付属についてはすでに『観心本尊抄』において、上行自覚のもとに説示されているが、その内実をもっとも詳細に述べているのは『曾谷入道殿許御書』であろう。

大覚世尊以テ仏眼ヲ鑑知シ於末法ヲ、為ニ令ンカ対治セ此逆謗ノ二罪ヲ留置キクマフ於一大秘法ヲづ。……我ニモ々ニモ被レヨト付属セ此経ヲ遠望セシカトモ、世尊ハ都テ不許シ夕マハ之ヲ。爾ノ時ニ従リ下方ノ大地召シ出ス未見今見ノ四大菩薩ヲ所謂上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩也。‥‥‥爾ノ時ニ大覚世尊演説シ寿量品ヲ、然シテ後ニ示現シテ於十神力ヲ付属シタマフ於四大菩薩菩ニ。其所属之法ハ何物ソ乎。法華経之中ニモ捨テ広ヲ取リ略ヲ捨テテ略ヲ取ル要ヲ。所謂妙法蓮華経之五字・名体宗用教ノ五重玄也。‥…此四大菩薩ハ釈尊成道之始不来ラ寂滅道場之砌ニモ。如来入滅之終不至ラ提河之辺ニモ加之ラス、霊山八年之間ニ、進テハ迹門序正之儀式ニ不列ラ文殊・弥勒等ノ発起影向之諸ノ聖衆ニモ。退テハ本門流通之座席ニ不交ヲ観音・妙音等ノ発誓弘経之諸大士ニモ。但持テ此一大秘法ヲ隠居スル於本処ニ之後、仏ノ滅後於テ正像二千年之間ニ未ダ一度モ出現セ。所詮仏専ラ限テ末世之時ニ付属セシ於此等ノ大士ニ故也。

 すなわち釈尊は末法の謗法一閻浮提逆縁の衆生を救済するために、『従地涌出品』において上行等地涌千界を召し出し、『寿量品』を説いて肝要妙法蓮華経を示し、『如来神力品』において一大秘法たる肝要妙法五字を上行等の四菩薩に付属した。そして上行等四大菩薩は、その一大秘法を持って本所に隠居し、今時至って末法に出現し、不軽菩薩のごとく、一大秘法たる妙法五字を一切衆生に逆縁毒鼓下種結縁する、というのである。

 ここに「一大秘法」といわれる要法五字は、本門の本尊と別個のものではないことはいうまでもない。曼荼羅本尊は右文に見られる題目を中心に据えた虚空会の儀式を表現されているのであり、その主体はまた本門の教主釈尊であることは『報恩抄』の三大秘法の文に明らかである。本来一体のものをあえて三大秘法とした時に、一応分別されているに過ぎない。つまり結要付属の内実は、一大秘法たる要法五字であり、また三大秘法でもあるわけである。

 ちなみに『属累品』の迹化他方への総付属の内容については

釈尊然ル後、為ニ正像二千年之衆生ノ出テテ自リ宝塔住立シ於虚空ニ、以テ右ノ手ヲ摩テテ文殊・観音・梵・帝・日月・四天等之頂ヲ、如ク是ノ三反シテ法華経之自リ要之外ノ広略二門、並ヒニ前後一代ノ一切経ヲ付属ス此等ノ大士ニ。

と述べて、妙法以外の『法華経』広略以下前後の経々であるとしている。但し『下山御消息』には

世尊、眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に、法華経の半分迹門十四品を譲り給ふ。これは又地涌の大菩薩、末法の初めに出現せさせ給ひて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき先序の為なり。

と述べて、迹化他方には『法華経』迹門を付属したとしている。しかしこれはその時々の論点があり、ここでは天台迹門を強調しているのであって、総合的にいえば『曾谷入道殿許御書』の文に尽きるのであろう。



(上行等への付属の理由=三義)

 さてそれでは、末法の衆生を救うべく、上行等の地涌千界の菩薩に結要付属されたのは、いかなる理由によるのであろうか。大聖人はその理由を三点あげている。

而ルニ地涌千界ノ大菩薩、一ニハ住スルコト於婆婆世界ニ多塵劫ナリ。ニニハ随テ於釈尊ニ自リ久遠己来初発心ノ弟子ナリ。三ニハ裟婆世界ノ衆生ノ最初下種ノ菩薩也。如キ是ノ等宿縁之方便超過セリ於諸大菩薩ニ。

 これは諸解説が一様に指摘するように、『文句』に示される下方地涌の菩薩を召す三義を土台として述べられていることは明らかである。すなわち『文句』に

召シテ下方ヲ来ラシムルニ亦有リ三義。是レ我弟子ナリ応シ弘ム我法ヲ。以テ縁深広ナルヲ能ク遍シテ此土ニ、遍シテ分身ノ土ニ益シ、遍シテ他方ノ土ニ益ス。又得開近顕遠スルコトヲ。是ノ故ニ止メテ彼ヲ而召シタマフ下ヲ也。

と示される文である。但しこの内、『曾谷入道殿許御書』の第一「住於娑婆世界多塵勃」が『文句』の第二「以縁深広能遍此土益……」に、同じく第二 「随於釈尊自久遠巳来初発心弟子」が『文句』の第一「是我弟子応弘我法」と対応していることは明らかだが、第三の 「婆婆世界衆生最初下種菩薩也。」は『文句』の「又得開近顕遠」に必ずしも対応していない。これは大聖人独自の見解というべきであろう。以下大聖人の三義について、もう少し委しく見ていくことにしよう。

 第一の 「住於裟婆世界多塵劫」については、『涌出品』に地涌の菩薩が地下虚空とはいえ、裟婆世界にずっと住しているとされているのであるから、当然のことというべきであろう。

 第二の 「随於釈尊自久遠巳来初発心弟子」については若干の説明を要する。すなわち釈尊と地涌千界との師弟関係については、『涌出品』にての動執生疑から『寿量品』にて釈尊の久遠実成及び「我本行菩薩道」が示され、久遠よりの師弟関係を示唆されながらも具体的な言辞は見られない。次に『文句』においてはいわゆる四節三益を述べる中、「久遠下種」といって久遠に下種結縁したことが述べられる。さらに『文句記』においては、「本因果種」といって、下種は本因時・本果時にわたることを述べるところ、本因時の下種を示唆している。そして『輔正記』においては、その「本因果種」の内の本因下種を「如来行スル菩薩道ヲ時為テ化ヲ下種シ‥‥‥」と解釈して、本因下種を釈尊五百塵点劫以前の、「我本行菩薩道」の時の下種であることを示している。

 しかるに大聖人はこれを「初発心の弟子」、すなわち釈尊名字即位の時の弟子であると明言されているのである。思うにこれは大聖人独自の見解といってよいのではなかろうか。では何故に大聖人は釈尊と地滴千界の師弟関係を、名字即位に限定されたのであろうか。その理由はけして一つに求められるものではなかろうが、末法の今、上行再起の大聖人が名字即位において、弟子及び末法の一切衆生に下種結縁する姿を擬す意味があったのではないかと思うのである。

 第三の「裟婆世界衆生最初下種ノ菩薩也」の文はいささか難解である。古来様々な見解が提示されているが、いまだに定見はないかに思われる。しかし文脈からいって次の二つの解釈に集約されるであろう。第一には「地涌の菩薩は裟婆世界の中で釈尊より最初に下種を受けた菩薩である。」という解釈、第二には、「地涌の菩薩は今末法の婆婆世界の衆生に、最初下種する菩薩である。」という解釈である。しかるに第一の解釈は、ほぼ先の第二義たる「初発心の弟子」と同意となるので、わざわざ別立するほどのことではないと思われる。とすれば第二の「末法の衆生に最初下種する菩薩」と解釈するのが穏当ではなかろうか。それは本書の冒頭にて、末法の衆生は本末有善にて、まさに最初下種を受けるべき機根であると述べられ、さらに三義をあげた直後に

此等之大菩薩利益シタマフコト末法之衆生ヲ、猶如シ魚ノ練レ水ニ鳥ノ自在ナルカ於天ニ。濁悪之衆生テ此大士ニ殖ルコ卜於仏種ヲ、例セハ如シ水精之向テ月ニ生シ水ヲ、孔雀ノ聞テ雷ノ声ヲ懐妊スルカ。

と述べていることによっても首肯されよう。



A 人軽法重――人と法に約しての釈尊の相対化の萌芽

 さて最後にこの時期に「人軽法重」について述べられた文を取りあげ、仏と法との関係をどのように解していたかを見てみたい。まず建治3年5月11日の『宝軽法重事』。

人軽と申スは仏を人と申ス。法重と申スは法華経なり。夫レ、法華巳前ノ諸経並に諸論は仏の功徳をほめて候、仏のごとし。此法華経は経の功徳をほめたり、仏の父母のごとし。華厳経・大日経等の法華経に劣ル事は、一毛と大山と三銖と大地とのごとし。乃至法華経の最下の行者と華厳真言の最上の僧とくらぶれば、帝釈と?猴と師子と兎との勝劣なり。

 ここにおいては『薬王品』の「若復有テ人以テ七宝ヲ、満テテ三千大千世界ヲ、供義セン於仏及大菩薩・辟支仏・阿羅漢ニ。是ノ人所得ノ功徳モ不如カ受持スル此法華経ノ乃至一四句偈ヲ其福ノ最モ多キニハ。」の文、『文句』第十の「七宝ヲ奉ルハ四聖ニ不トルイフハ如カ持ツニ一偈ヲ、法ハ是聖ノ師ナリ、能生能養能成能栄莫シ過タルハ於法ニ。故ニ人ハ軽ク法ハ重シ也。」の文、『文句記』の「如シ父母ノ必ス以テ四ノ護ヲ々ルカ子ヲ。今発心ハ由ルニ法ニ為シ生ト、始終随逐スルヲ為シ養ト、令ルヲ満セ極果ヲ為シ成ト、能応スルヲ法界ニ為ス栄ト。雖四ッ不ト同カラ以テ法ヲ為ス本ト。」の文を根拠として、
『法華経』は能生にして重く、仏は所生にして軽いと述べられている。但し、末文には

一閻浮提の内法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔、いまだ候はず。いかでかあらわれさせ給ざるべき。

と述べられているから、基本的に「人軽法重」を示しながらも、ここにおいては妙法五字と本門寿量の釈尊とは一体不二であるとの見解であったことは明らかである。しかし、佐前『唱法華題目抄』に

諸仏諸経の題目は法華経の所開なり、妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱ふべし。

とあるのを例外とすれば、この時期から

(イ) 『窪尼御前御返事』建治3年5月4日

まして、法華経は仏にまさらせ給フ事、星と月とともしびと日とのごとし。

(ロ)『窪尼御前御返事』(旧・上野殿御返事)建治4年2月25日

仏はいみじしといへども、法華経にたいしまいらせ候へば、蛍火と日月との勝劣、天と地との高下なり。

(ハ) 『中務左衛門尉殿御返事』弘安元年6月26日

此疫病ハ阿闍世王ノ如シ瘡ノ。彼ハ非ンハ仏ニ難治シ。此ハ非ンハ法華経ニ難除キ。

(二) 『九郎太郎殿御返事』弘安元年11月1日

法華経は仏にまさらせ給ふ法なれば、供養せさせ給ひて、いかでか今生にも利生にあづかり、後生にも仏にならせ給はざるべき。

等と頻繁にこの件に触れられていることは、注意すべきことであろう。こうした作業の先に『本尊問答抄』における釈尊の相対化があると思うのである。

 


  
第3 本門戒壇について

 

 戒壇とはいうまでもなく受戒(授戒)をする場所であるから、戒と戒壇とが密接な関係にあることは当然である。しかし特に初期大乗戒は自誓受戒が主体であり、その場合は必ずしも戒壇を必要としないのであるから、不離の関係ではない。すなわち戒の内実によって戒壇の要不要の別があるのであり、加えて戒壇は社会的な要請や制約の中で建立される場合が多く、その点、戒そのものの整備発展の歴史と、戒壇のそれとは同轍ではないのである。

 さてここでは大聖人が佐渡後期に提示された三大秘法の内、本門の戒壇に焦点を当てて論ずる訳であるが、その場合も基本的に事情は同じであると思われる。無戒といわれる末法の衆生にとって、戒は必要なのか否か。必要とすればそれはいかなる戒か。大聖人の戒観は、他の法義と同じように修学期・佐前・佐後と次第に整備整束され、台当本迹違目の宣言を経て本門戒へと昇華していく。そして本門戒、すなわち上行所伝の妙法五字の受持唱題は、修行の要諦として弟子檀越によって実践されたのである。それに対して本門戒壇は、台当本迹違目から上行自覚、そして文永の役により広宣流布への確信を深める中、かつて叡山に勅許を得て迹門の戒壇が建立されたように、今上行再誕の賢王によって建立されるべきものとして提示されたのであって、両者は共通する点があるのは当然としても、基本的に次元を異にしている。ゆえにここではあえて本門の戒と本門の戒壇とを立て分け、以下順次論じていくこととしたい。



1本門の戒

@ 修学期の戒観

 修学期の戒観については左に掲げる諸御書に見ることができる。『戒法門』には真蹟・古写本はないが、他の二御書と内容が準じているので参考として提示する。今その内容を概観すれば、

(イ)『戒体即身成仏義』仁治3年(『日祐日録』写本の部所収)

 本書には四つの戒体を挙げている。「小乗の戒体」は、五戒は俗男俗女、八斎戒は四衆通用、二百五十戒は比丘戒、五百或は比丘尼戒であるとする。「権大乗の戒体」は『梵網経』の十重禁戒・四十八軽戒、『瓔珞経』の三聚界浄戒を本とする。「法華開会の戒体」は法華開会の立場から煩悩即菩提・十界互具の即身成仏の当体、すなわち凡夫の我らこそ戒体そのものであるとする。「真言の戒体」については、師伝によらずば正しく理解できぬとし、その最後に名目のみを挙げるのは密教が顕教に優れることを示す故であるとしている。

(ロ)『戒法門』寛元元年(『日朝本録外目録』)

 本書は五戒は五行・五根・五臓・五常・五色・五方・五雲・五山・五味・五季・五星等のすべてを具足する「具足根本業清浄戒」であるとし、五戒は『提謂経』にその名目が示されているが、その心は法華真言の立場からすべてを具足する根本戒と心得るべきを説いている。そして浄土宗の学者が伝教の『末法灯明記』を誤解して「末法には持戒の者なし」とすることを「迷惑の法門なり」と破している。

(ハ)『色心二法抄』寛元2年(光長寺日春本)

 本書は色心の二法は生死の二法であり、我ら凡夫は迷悟不二・十界互具の妙法蓮華経の色心二法そのものであるとし、その理由として我らの五根・五臓は天然に五仏・五方・五戒・五行・五常等を備えるものであると説いている。そしてそのように心得ることが止観・真言の観法、出離生死の頓証であると述べている。

 以上この期の戒観の特徴を総括すれば、第一に密教色が濃厚であること、第二に法華真言開会の立場から、十界互具・凡仏一如の即身成仏論を展開し、その凡夫及び国土には自ずと五戒・五臓・五根等が具備しているとすること、更に、こうした凡夫戒体の即身成仏論の立場から、浄土教の「末法無戒」の説を破している等があげられよう。



A 佐前の戒観

 この時期の大聖人の戒観には、十界互具・一念三千を基調とした『法華経』の妙戒と、末法無戒を前提として、その世界での正法護持を持戒とする考え方の二つが見られる。



A群 『法華経』の妙戒

(イ)『一代聖教大意』正嘉2年(日目本)

 本書は五時八教判に沿って『法華経』乃至妙法一念三千法門の最勝なることを明かしているが、その妙法十界互具を明かす段で、十界それぞれの引業を述べ、人界以上の引業について五戒乃至三界浄戒を配当し、これを麁法としている。これに対し十界が互具することを妙法といい、九界即仏界の立場からすれば無戒破戒即持戒であるとし、『薬草喩品』の「我等が所行は是れ菩薩の道なり」『無量義経』の「未だ六波羅蜜を修行することを得ざると雖も六波羅蜜自然に在前す」『宝塔品』の「是れ則ち勇猛なり是れ則ち精進なり、これを戒を持ち頭陀を行ずと名づく」 の文をその根拠としている。

(ロ)『十法界明因果抄』文応元年(日進本)

 本書は十界のそれぞれの因果について述べたものであり、爾前経の戒について、人界以上の引業を諸戒(五戒乃至三聚浄戒) に配当して論ずるところ、『一代聖教大意』と同じである。また、『法華経』の戒については、相待妙・絶待妙の戒があり、相待妙の戒とは爾前経と『法華経』を相待して爾前経の立場(未顕真実・ニ乗不成仏・歴勃修行)を否定するものとする。絶待妙の戒とは十界互具・開会の立場から爾前戒即法華戒であるとしている。本書には安然の『普通授菩薩戒広釈』が再三引用されてそれを参考としていることがわかる。ことに爾前の戒を述べる段であるとはいえ、持戒は四恩報恩のためであるとしているところは、その影響大であるといえよう。

 以上、右A群の戒観の特徴をまとめれば次のようになろう。すなわち二書ともに、まず十界、ことに人界以上所生の引業として諸戒を配当しているが、それらは十界互具・一念三千成道観からすれば爾前経の所談であり、『法華経』の妙戒は十界互具であるとしている。その十界互具の立場から、「無戒破戒即持戒」という妙戒の論理が導き出され、また爾前戒即法華戒という絶待妙の戒が示されている。ようするに『法華経』の妙戒とは、十界互具、さらに一念三千凡夫成道を根拠として、無戒の凡夫に妙戒が備わることをいわんとしているのである。この時期の戒観は修学期に見られた密教色は払拭されており、あくまで法華経開会の立場から提示されているが、十界互具の即身成仏論から凡夫具備の戒体を示す点においては、共通しているといえよう。なお、『梵網経』の梵網戒は権大乗の戒であり、『法華経』の戒と区別されていることにも注意。



B群 諸宗批判と戒観

(イ)『守護国家論』正元元年(身延曾存)

 本書は法然『選択集』の流布が正嘉以来の天変地天の原因であるとし、国難を回避するには『選択集』を止め、国主はじめ日本国一同が『法華経』を持つべきことを説いた書である。その中、大文第一の第四、権経を聞き実教に就くことを明かす段で、『宝塔品』の「此経ハ難シ持チ。若暫クモ持ツ者ハ我即歓喜ス。諸仏モ亦然ナリ。如キ皆疋之人ハ諸仏ノ所ナリ歎スル。是則勇猛ナリ、是則精進ナリ。是ヲ名クト持チ戒ヲ行スル預頭陀ヲ者ト」との文を挙げ、「於末代ニ無四十余年ノ持戒、唯持ツヲ法華経ヲ為ス持戒ト」との注記を付し、次下に、『涅槃経』の「於テハ乗緩ノ者ニ乃チ名テ為ス緩ト。於テハ戒緩ノ者ニ不名テ為サ緩ト。菩薩摩討薩於テ此大乗ニ心不ンハ懈慢セ是ヲ名ク奉戒ト。為ニ護ンカ正法ヲ以テ大乗ノ水ヲ而自藻浴ス。是故ニ菩薩雖現スト破戒ヲ不ト名テ為緩ト。」の文を掲げ、「是文流通スル法華経ノ戒ヲ文也。」と注記している。すなわち末代においては爾前の諸戒は不要であり、ひとえに『法華経』を持つことが持戒であるというのである。そしてこうした前提に立って、大文第四の「謗法の者を対治する証文」を述べる段では、『仁王経』『涅槃経』に説かれる武力による国主の謗法退治の文(国主の折伏)をあげた後、こうした行為は『梵網経』の「比丘等の四衆を誹諾するは波羅夷罪である」 との説示に達するようではあるが、正法たる『法華経』を誹諾するものを誡めることこそが真の持戒であるとしている。

(ロ)『災難興起由来』『災難対治抄』『立正安国論』正元2年(文応元年)

 此等三書においては、自身の法然浄土教の破折行為につき、出家の身として同じ僧侶を誹譲するのは破戒行為ではないのかとの問いを設け、およそ『守護国家論』と同じ引文と論理によって、謗法呵責は破戒行為ではないことが主張されている。ここではとりわけ謗法呵噴・正法護持を持戒とする文言は見られないが、意としてそれが内示されていることは明らかであろう。

(ハ) 『南条兵衛七郎殿御書』文永元年(真蹟断・日興本)

 本書には「仏入滅の次の日より千年をば正法と申す。持戒の人多く得道の人これあり。正法千年の後は像法千年也。破戒者は多く得道すくなし。像法千年の後は末法万年。持戒もなし、無戒者のみ国に充満せん」と述べ、今末法は無戒の世であることが示されている。但し、ここににおいては『守護国家論』のように謗法呵責・忍難弘教が持戒であるという文言はない。しかし直前に「一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道有難し」と述べ、末文には自身の忍難弘教の姿を示し、「日蓮は日本第一の法華経の行者也」と述べるところ、その意が内示されていることは論をまたない。

 なお、ここにおいて「末法は無戒である」と述べられているのは、修学期の『戒法門』に念仏宗が「末法無戒」と主張したことを批判していることと相違し、かつ立場としては同位置に立ったといいうるであろう。

 以上右に示したB群の戒観を総括すれば、末法は爾前経の戒観からいえば持戒も破戒も存在しない無戒の世界であり、その末法無戒の世界では爾前経に説かれた諸戒に拘泥せず、正法たる『法華経』を受持することこそが持戒であり、より積極的にいえば正法を誹謗するものを退治することが真の持戒であるとする。そしてその論理に基づいて、この時期においては法然浄土教が徹底的に破折されるのである。

 なお、右『南条兵衛七郎殿御書』には、末法は爾前の諸戒は存在しないという意味で、自身や門下を「無戒の僧」等といわれるが、それはこれ以降佐前佐後を通し生涯にわたっている。

 

B 佐渡期以降の戒観

 この時期の戒観を述べるにあたり、まず確認しておかなければならないことは、佐渡後期『観心本尊抄』において上行自覚のもと、台当本迹違目から上行所伝の本門の本尊と題目が示されており、それ以降においては、同じく「法華経受持」「妙法受持」「正法護持」といわれても、その内実は佐前とは異なり、あくまでも上行所伝の本門の本尊・題目であるということである。すなわち以下具体的に述べるように、上行自覚以降の戒観すなわち本門戒は、受持唱題・正法護持という形式においては佐前と変わらないが、その受持すべきあるいは護持すべき内実が、大きく変わっているという点に留意しなければならないのである。以下、諸御書を掲げてこの時期の戒観について述べる。
 まず、最も体系的に示されている『四信五品抄』から見てみよう。

(イ)『四信五品抄』建治三年

 本書は冒頭に、世間の『法華経』を修する者が、戒定慧の三学は一つも欠けてはならぬといっていることを掲げ、末法において『法華経』を修行する者は、三学、就中戒についていかに心得べきかについて、全編を通して詳細に説示されている。その骨子を示せば、まず末法の初心の行者は、法華経本門の流通分たる『分別功徳品』に説かれる、在世の四信の初信たる一念信解、滅後の五品の初品たる初随喜の者であり、これは名字即の位であると規定する。その上で、末法の凡夫は戒・定を必要とせず、慧をもっぱらとし、その慧も耐えざる者は信を以って慧に代えるのであるとし、さらに『文句』の「廃事存理」(戒等の事を捨てて題目の理を専らにする)の文、伝教の『末法灯明記』の「末法ノ中ニ有ラハ持戒ノ者是レ怪異ナリ。如シ市ニ有レ虎。」の文等を根拠として、末法においては爾前の戒は不必要であるばかりか、名字即初信の者にとって、それに拘泥することは大切な信をも妨げる原因となる。それ故に末法の『法華経』の修行者は檀戒等の五度を制止して、一向妙法五字を信受し唱題するべきであると述べている。

 そして次の『大学三郎殿御書』の文は、右の破戒即持戒の意義を補完するものといえよう。

(ロ) 『大学三郎殿御書』建治元年

設ヒ世間ノ諸戒破ル之ヲ者ナリトモ、堅ク弁へハ大小・権実等ノ経ヲ者世間ノ破戒ハ仏法ノ持戒也。涅槃経ニ云ク、於テハ戒緩ノ者ニ名テ為サ緩ト。於テハ乗緩ノ者ニ乃チ名テ為ス緩ト。法華経ニ云ク是ヲ名ク持戒ト等云云。

 すなわち末代の持戒とは、経の大小権実を弁えて『法華経』の題目を信受することに尽きるのであり、そ
ういう意味では爾前の諸戒を破ることが持戒となるというのである。さらに『涅槃経』 の文により、末法に
おいては戒律をやかましくいうのではなく、妙法受持により成仏を期することが肝要なのであり、あえてい
えばそれが唯一の戒となるのであると説くのである。

 次に、そうした立場から佐前にも見られた、正法弘持をもって持戒とする意をもうかがうことができる。

(ハ) 『一谷入道百姓女房御書』建治2年

今の世には法華経はさる事にてをはすれども、時によて事ことなるならひなれば、山林にまじわりて読誦すとも、将又里に住して演説すとも、持戒にて行とも、臂をやひてくやうすとも仏にはなるべからず。

(二) 『富木入道殿御返事』弘安2年

又彼れが云く、止観の行者は持戒等云云。文句の九には初・二・三この行者の持戒をば此れをせいす。経文又分明なり。止観に相違の事は、妙楽の問答之れ有り。記の九を見るべし。初随喜に二有り。利根の行者は持戒を兼ねたり。鈍根は持戒之れを制止す。又正像末の不同もあり。摂受・折伏の異あり。伝教大師の市の虎の事思ひ合はすべし。

 『一谷入道百姓女房御書』の文は、『関目抄』の「設ヒ山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、空閑にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず、摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離べき。」の文と同意である。すなわち末法今時においては、爾前の諸戒を持ったり、山林に交わって修行するのではなく、妙法を受持し諸法を折伏逆化していくことが、真の持戒となるということである。『富木入道殿御返事』の文も、鈍根・末法・折伏というキーワードをもって、爾前の持戒を制止することを述べているのであり、その点で同轍といえるであろう。

 さて、右の諸御書における戒観は、爾前の諸戒と妙法受持信行という対比であるが、この時期は台当本迹達目の立場に立つのであるから、当然戒観においても本迹違目が示されている。

(ホ) 『下山御消息』建治3年6月

されども又世末になるままに、人の悪は日日に増長し、政道は月月に衰減するかの故に、又三災七難先よりいよいよ増長して、小乗戒等の力験なかりしかば、其の時治をかへて小乗の戒等を止めて大乗を用ゆ。大乗又叶はねば、法華経の円頓の大戒壇を叡山に建立して代を治めたり。叡山の円頓戒は又慈覚の謗法に曲げられぬ。彼の円頓戒も迹門の大戒なれば今の時の機にあらず。旁(かたがた)叶ふべき事にはあらず。

(へ) 『治病大小権実違目』弘安元年6月

但漢土の天台、 日本の伝教、此の二人計りこそ粗分け給ひて候へども、本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず。詮ずる処は天台と伝教とは内には鑑み給ふといへども、一には時来たらず、二には機なし、三には譲られ給はざる故なり。

 すなわち叡山の円頓戒は迹門の戒であり、像法時代においては鎮護国家の法となりえたが、末法悪世の諸難を克服していく力はなく、上行所伝の本門の戒によって世を治めていくべきことが説かれるのである。

 以上を要すれば、末法の法華経の行者は名字即位であり、戒・定を不要とし檀戒等を制止して、上行所伝の妙法を受持唱題し、かつ積極的に折伏弘教することが、修行の要諦すなわちあえていえば本門の戒である、ということになろう。ちなみにここで「折伏」といわれているのは、門下に対しての言葉であるから、『守護国家論』等に見られる『涅槃経』の国主等による暴力も辞さぬ折伏ではなく、不軽菩薩の折伏逆化であることは認識しておく必要があろう。そして上行所伝の本門戒は、修行の要諦であるばかりでなく、国家安穏、諸難克服の秘法でもあり、国家的に本門戒が受持されたとき真の安国の世はもたらされるといわれる。そして次項に述べる本門の戒壇は、後者の意に従って説示されるのである。

 最後に、本門の戒を論じ終えるにあたり、大聖人の時代に授戒の儀式があったか否かについて少々触れておきたい。そもそも右に見たように、末法における持戒とは受持信行であって、その受持信行は大聖人に帰依し弟子檀越となることよって始まる。とすれば帰依すること自体が、あえていえば持戒ということになるであろう。もしそうであったとすれば、帰依するか否かはまさに当人の気持ちいかんにかかわる問題であって、そういう意味では自誓受戒的である。

 ともあれ信心決定の者には曼荼羅本尊の授与という、極めてはっきりとした形態が見られるに対し、その入り口の受戒については明瞭でないことは、事実として認められるべきであろう。しかし、戒の大乗化という観点から見れば、儀式が不明瞭であることはむしろ自然の成り行きというべきではなかろうか。伝教が提唱した小乗戒から大乗戒への移行の内実を見るとき、それはまず戒そのものの軽減であり、戒師を減らし儀式を簡素化することであって、そのことによって大乗化、大衆化が計られたのである。しかるに大聖人の提唱した受持唱題は、そうした大乗化がもっとも極まったものということができるであろう。とするならば、そこに重々しい儀式があることはむしろ不自然なのであって、自誓受戒的であるほうが自然でありふさわしいといえるのではなかろうか。

 但し、弘安二年に系けられる『本門戒体抄』については触れておかなければならないであろう。本抄は日向が編集したといわれる『金網集』の「小乗三宗見聞」の中にその全文が収録されており、また三位日順の『日順雑集』にも「戒体抄」としてその名が見え、その内容が簡略に紹介されている。『金網集』「小乗三宗見聞」は編者の

身延山所蔵本ニ依ル、原本奥書ナク筆者詳カナラズ、他本ノ筆蹟ヨリ推スルニ恐ラクハ進師ノ写本ナランカ。

 との注記がある。但し『身延文庫典籍目録・上』には当該書が見あたらない。日進の『三国仏教盛衰之事』の中に「金網集戒見聞」との項が見えるが、詳細は不明である(『日宗全』第1巻323頁所収の『三国仏教盛衰之事』には「金網集戒見聞」は含まれていない)。今後「小乗三宗見聞」(頭注によれば内題は「金網集要私」であるという)が身延文庫に所蔵されるか否か、また日進の筆であるかどうかを調査検討する必要があるが、それは後日を期すこととして、『本門戒体抄』がかなり古くからその存在を認められることは確かである。

 そこで一応参考としてその内容を見れば、本抄はまず小乗と大乗梵網の戒につき、その内容と受戒の際の戒師をあげ、次で大王戒たる「法華経・普賢経の戒」とて『見宝塔品』の「是名持戒」の文をもって法華迹門の戒を示し、戒師として伝教の『顕戒論』によって「三師一証一件」を示している。すなわち三師とは「迹門四教開会釈迦如来」(和尚)「金色世界文殊師利菩薩」(阿闍梨)「彌勒菩薩」(教授)であり、一証とは「十方の諸仏」であり、一件とは同伴受戒者であって、仏菩薩を勧請する他は、実質的には同じ受戒者一人の立ち会いのもとに行われ、「一向自誓受戒也」といわれている。しかしそれも所詮法華迹門の所談であり、本門戒に対すれば遠く及ばざるものであるとする。

 では本門戒とはいかなるものかというに、本門の十重禁戒とて不殺生戒から不謗三宝戒までの十箇をあげている。その意図するところは爾前諸経では世間の十重禁戒は持っているが、未だ法華真実の一乗法乃至久遠実成が示されず、結果として二乗・闡提等を不成仏とすることは殺生にあたるのであり、乃至同じ理由で爾前の諸経諸戒は倫盗・邪淫・妄語・酷酒・説四衆過罪・自讃毀他・慳貪・瞋恚・謗三宝にあたるのであって、本門戒においてはことごとくこれら爾前の十重禁戒を捨て、法華本門の十重禁戒を持つべきであるというのである。そしてその意に基づいて、その一々に「従リ今身至マテ仏身、捨テ爾前ノ殺生罪ヲ、持ツヤ法華寿量品ノ久遠之不殺生戒ヲ不ヤ。持ツト(三返)」乃至「従リ今身至マテ仏身、捨テ爾前ノ謗三宝罪ヲ、持ツヤ法華寿量ノ久遠之不謗三宝戒ヲ不ヤ。持ツト(三返)」とそれぞれ三返唱えることが示されるのである。

 以上具体的には本門十重禁戒を持つことを、三回ずつ誓うことが示されているが、戒師等その他のことについては全く触れられていない。迹門に準ずれば、本門本尊の前で師が「持つや否や」と問うて、受戒者が「持つ」と誓う、極めて自誓受戒的姿が想像されるが、詳細は本抄自体の成立、さらに諸門下の上代における状況も視野に入れての研究を含め、今後の課題としなければならない。



2 本門の戒壇

 本門戒壇については前章「佐渡期の思想」を述べる中、『観心本尊抄』の直後『土木殿御返事』にそのことが示唆されたのがその嗜矢であることを述べた。

 ところで先にも少々述べたが、上行所伝の本門の本尊と題目は、上行自覚に立つ大聖人によって建立され、その本尊と題目を受持信行することを本門戒というとすれば、受持唱題し正法護持する者のところに、本門の三大秘法はすでに相即して存するということになろう。しかし、ここでいう本門の戒壇とは、上行所伝の本門の本尊・本門の題目・本門の戒法が、一国に広宣流布した証として建立されるものであって、そもそも次元を異にしていることを念頭に置かなければならない。すなわち前者が成仏という個人に照準を置いた所談であるに対し、本門の戒壇は国土に照準が置かれているのであって、国主によって本門の戒壇が建立されることによって、国家的諸難を乗り越え国家の安泰を期すというのである。ちなみにこれを『観心本尊抄』の 「此四菩薩現スル折伏ヲ時ハ成テ賢王ト誡責シ愚王ヲ、行スル摂受ヲ時ハ成テ僧卜弘持ス正法ヲ。」 の文にあてはめるとすれば、前者は逆縁の世に不軽菩薩の行を手本として、正法を弘持し成仏を期しつつ逆縁毒鼓の縁により下種結縁する大聖人とその門下の姿であり、後者本門の戒壇建立とは、まさに四菩薩再誕の賢王が愚王を誠責
してもたらされる順縁世界の姿を示すものということができよう。

 本門戒壇の建立、それはとりもなおさず本門の三大秘法が国家的に受持される、すなわち一国広宣流布を意味するわけであるが、文永の役によって大聖人の確信はいよいよ高まっていく。では本門の戒壇は具体的にどのように建立されるのであろうか。そのことについては大聖人はなぜか殆んど語られていない。しかし伝教の叡山戒壇建立を目標としていることが一つのてがかりとなるであろう。

 そこで以下、まず手本となった伝教の大乗戒壇運動と戒壇建立の意義を概観し、次で大聖人の本門戒壇についての所見を見ていこうと思う。

@ 迹門の戒壇の意義

(伝教の円頓戒の確立)

 伝教の一乗戒・円頓戒思想は、天台に淵源を求めることは当然として、小乗戒を排する純大乗戒としての円頓戒を確立したという点においては、妙楽・明嗟の影響が大であるといえよう。小乗戒を排した純大乗戒の確立は、南都六宗の小乗戒(大小兼学)を破すという側面があったことはいうまでもない。

 伝教の円頓戒は『顕戒論』によれば、依経を『法華経』『梵網経』とし、法華梵網一体の純大乗戒とされる。その内実は十重禁戒四十八軽戒で、僧俗の隔てなく受けるべきものとされた。受戒の形式も三師七証の人師ではなく、『普賢観経』等に基づき、不現前の五師とて釈尊を戒和尚とし、文殊菩薩を掲磨師とし、弥靭菩薩を教授師とし、十方の諸仏を証明師とし、十方の菩薩を同学等侶としており、人師としては一人を介するとしている。勅許後の叡山の戒壇院には釈尊・文殊・弥勒が安置されていたのは、それを反映したものである。


(純大乗戒独立運動と戒壇の勅許)

 伝教は右のように円頓戒を確立する一方で、国家に対して円頓戒壇の独立運動を展開している。それは法華一乗思想に立ち円頓戒を確立したかぎりは、真の鎮護国家は小乗ではなく大乗でなされなければならぬとの確信にいたった結果であり、その為に小乗の三戒壇の他に叡山に国家の認可による純大乗戒壇を設け、大乗戒を受け大乗精神を学び、その精神により国家の安泰に寄与する僧侶の輩出を期すべく、国家に働きかけたのである。

 もちろんこうした円頓戒壇独立運動の背景には当時の律令国家体制と、それに強く影響を受けていた仏教界の現状があったことはいうまでもない。周知のように当時は僧尼令に基づき、国家の認可により得度が認められ、社会的な活動も認められていたのである。具体的には東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の小乗戒壇において受戒することが国家の認可を得ることであり、さらにその中から国家の認可を得た僧綱(僧正・僧都・律師) が中心となって仏教界は存在したのであって、まったく国家の支配下にあったのである。そういう機構の中にあって、当然伝教自身も東大寺において受戒している。

 伝教が円頓戒壇を独立建立する運動を国家に対して展開した理由は、まさにこうした社会機構が前提となっていたのである。すなわち純大乗の立場から、実質的に優れた人材をいくら養成しても、国家の認可のないものは社会的に僧として認められない。故に伝教自身もそうであったように、内実は純大乗をもって成仏を期し鎮護国家を願っても、社会的にはあくまで小乗戒を受け認可された僧という立場であった。そうしたねじれ現象もさることながら、実際問題として、叡山に年分度者の制度を設けて純大乗・法華円頓の行者を養成すべく努力しても、結果的に社会的には何らの地位も特権も与えられないゆえに、多くの者がそれが得られる南都仏教に帰属してしまうという現象があとをたたなかったのである。

 かくして伝教は嵯峨天皇に対し必死の円頓戒壇独立運動を展開し、生前に終に勅許を得ることはできなかったが、滅後七日目に勅許が下り、叡山に純大乗の円頓戒壇は建立されることになったのである。

(伝教の評価)

 これまで佐前は勿論のこと、佐渡期においても本門戒壇が取りあげられる以前においては、大聖人にとって天台は、天台法華宗の祖としてゆるぎない位置にあったといってよいであろう。しかるに本門戒壇が説示されて以降は、明らかに天台よりも伝教の評価が高くなっている。

(イ) 『曾谷入道殿許御書』文永12年

其中間一百年之間ニ南岳・天台等出現シテ於漢土ニ、粗弘宣シタマフ法華之実義ヲ。然ルニ而於テハ円恵・円定ニ者、雖為リ卜国師円頓之戒場末ダ建立セ之故ニ挙ケテ国ヲ不仰戒師ト。……相当テ像法之末八百年ニ、伝教大師二生シテ於和国ニ、非スは糾明スルノミニ華厳宗等ノ六宗之邪義ヲ。加之ラス南岳・天台モ未弘メタマハ円頓ノ戒壇ヲ建立ス於叡山ニ。日本一州之学者一人モ不残ラ大師ノ為ル門弟ト。

(ロ) 『撰時抄』建治元年6月

例せは漢土ノ南北の諸師、陳殿にして天台大師にせめをとされて御弟子となりしがことし。此は是円定・円恵計りなり。其上、天台大師のいまだせめ給はぎりし小乗の別受戒ヲせめをとし、六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給フのみならず、法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば、延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず、仏滅後一千八百余年が間、身毒・戸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始マる。されば伝教大師は、其ノ功を論ずれば竜樹・天親にもこえ、天台・妙楽にも勝レてをはします聖人なり。

(ハ) 『報恩抄』建治2年7月

されども経文分明にありしかば、叡山の大乗戒壇すでに立テさせ給ヒぬ。されば内証は同シけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超エさせ給ヒたり。

 右に掲げた諸文によれば、天台と伝教は同じく法華迹門を弘宣したが、天台は円定円慧は弘宣したが円頓戒壇を建立しなかったため、国を挙げて戒師と仰がれることはなく、それ故に法の流布も確実なものではなかった。それに対し伝教は公場対決の上で、小乗戒は成仏の因とはならず、また真の鎮護国家の法でもないことを立証し、国主の勅許を得て叡山に法華経迹門の円頓別受戒壇を建立したのであるから、その功績は竜樹・天親はもとより天台・妙楽にも勝れるというのである。

 このように伝教を高く評価したのは、まさに大聖人が目指すべき道筋を示していたからに他ならない。もちろん先に引用した『下山御消息』に見られるように、それはあくまでも像法過時の迹門の戒壇であるという認識に立っていたことは事実である。しかし今、天台・伝教が残し置いたところの上行所伝の本門戒壇を建立するにあたって、伝教の叡山迹門戒壇建立の軌跡を指標として、その実現を果たそうとしたことは明らかで、それゆえに伝教が高く評価されたことは間違いあるまい。



A 本門の戒壇

(本門戒壇建立の意義)

 右のような伝教への評価は、とりもなおさず末法の今大聖人がなすべきこと、すなわち本門の戒壇建立を暗示していることは論をまたない。いくら正法を示しても、国家がそれを認めないならば所期の目的は達成されない。そういう意味でこの時の大聖人にとって目指すべきは、あくまで伝教であって天台ではない。否、天台で終っては成らなかったのである。では大聖人は本門戒壇を建立してなにを成し遂げようとしたのであろうか。

 第1に、伝教の鎮護国家に習っての 「立正安国」があげられるであろう。文応元年最明寺入道北条時頼にに『立正安国論』を上呈して以来、大聖人は常に「立正安国」への情熱を持ち続けている。それは後述のように弘安元年に至ってなお、『立正安国論』広本が再治されていることによってもうかがい知ることができよう。しかしその「立正安国」の内実においては、当初考えていたものと異なっていることも事実であろう。その相違とは、この時期の「立正安国」は、三度目の国諌を国家が拒絶したこと、さらに蒙古襲来という日本国の危機が現実のこととなっていることが、前提となっている点である。すなわち本門の三大秘法を拒絶し法華経の行者を流罪死罪に処した過によって、一端日本国は蒙古軍に亡ぼされ、日本国の愚王が賢王によって誡責されて、しかる後に本門の戒壇は国家の認可によって建立され、その結果「立正安国」となるというのである。つまり日本一国に拘泥せず、広く世界の情勢を視野に入れての「立正安国」であって、その点で伝教の場合とは著しく異なるのである。

 第2に、右のような社会問題と次元を異にし、仏法の滅不滅という観点から、仏法の蘇生を目指すということがあげられる。すなわちインド・中国・朝鮮半島にはもはや仏法は絶えてしまったが、仏の予言の如くならば今末法に入って日本国に、必ず上行菩薩が再誕して本門の三大秘法は建立され、やがてそれが中国・インドに帰っていき、日本国乃至一閻浮提に広宣流布するというのである。そういう観点からすれば、本門戒壇建立はまさに仏法蘇生の基点となるべきものということになろう。



(本門戒壇建立のシナリオ)

―― 蒙古襲来の意義

 右に見たように本門戒壇建立のシナリオの中で、蒙古襲来は重要な意味を持っている。そこでまず蒙古襲来に焦点を当て、その意義について述べようと思う。

 まず文永の役と、今後予想される一層激しい蒙古軍の攻撃を、大聖人はどのように認識していたのであろうか。それについての記述を列挙すれば


(イ) 『聖人知三世事』建治元年

日蓮ハ一閻浮提第一ノ聖人也。上ミ自リ一人下モ至当ルマテ千万民ニ、軽毀シテ之ヲ加へ刀杖ヲ処スル流罪ニ故ニ、梵卜与釈日月四天卜仰セ付ケテ隣国ニ逼メ責ムル之ヲ也。大集経ニ云ク。仁王経ニ云ク。涅槃経ニ云ク。法華経ニ云ク。設ヒ作ストモ万祈ヲ不ハ用ユ日蓮ヲ、必ス此国今ノ如クナラン壱岐・対馬ノ。

(ロ) 『撰時抄』建治元年

而る間、梵釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やうやうにいかり、度々いさめらるれども、いよいよあたをなすゆへに、天の御計らひとして、隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ、大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし、自界反逆せしむ。

(ハ) 『三三蔵祈雨事』建治元年5月

彼の王臣等、他人がことばにつひて一人の正法のものを、或はのり、或はせめ、或はながし、或はころさば、梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等、りんごくの賢王の身に入りかわりて、その国をほろぼすべしと記し給へり。今の世は似て候者かな。

(二) 『一谷入道百姓女房御書』建治2年5月

是れは梵宇帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給ひて責め給ふなり。

(ホ) 『報恩抄』建治2年7月

此等の経文のごときんば、正法を行ずるものを国主あたみ、邪法を行ずる者のかたうどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ。

(へ) 『下山御消息』建治3年6月

守護の諸大善神も還りて大怨敵となり、法華経守護の梵帝等、隣国の聖人に仰せ付けて日本国を治罰し、仏前の誓状を遂げんとをぼしめす事あり。法華経守護の釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌千界・迹化他方・二聖・二天・十羅剃女・鬼子母神は他国の賢王の身に入り易はりて、国主を罰し国を亡ぜんとするをしらず。

(ト) 『頼基陳状』建治3年7月

故に梵釈二天・日月・四天いかりを成し、先代未有の天変地天を以ていさむれども、用ひ給はざれば、隣国に仰せ付けて法華経誹謗の人を治罰し給ふ間、天照太神・正八幡も力及び給はず。日蓮聖人一人此の事を知ろし食せり

ということになる。

 右の文に共通していることは、蒙古襲来は日本国の国主が法華経の行者の進言を用いないばかりか、再三にわたって流罪死罪などの諸値わせたことによって起こった、天罰・仏罰であるとの認識に立っていることである。そしてその天罰・仏罰たる蒙古襲来は、梵天・帝釈等が蒙古国へはたらきかけた結果起きたものとしている。具体的に見れば、(イ) (ロ) (ト) は単に 「隣国」とか 「隣国の聖人」と述べて、そのはたらきかけはやや抽象的である。それに対して、その他においては「りんごくの賢王」「蒙古国の大王」 「他国の賢王」と述べて、蒙古鼻来は梵天・帝釈等が蒙古国主に入れ替わってなしたことであると、極めて具体的に指摘しているのである。そして注目すべきはその蒙古国主を賢王としている点である。これはいうまでもなく『観心本尊抄』の「愚王を誡責する上行等四菩薩再誕の賢王」を意識してのことであろう。但しおおむねはその賢王には梵天・帝釈等諸天が入り替わると述べているのであり、必ずしも上行再誕の賢王とは確定し得ない。しかし(へ)の『下山御消息』では釈迦多宝十方分身の諸仏、並びに地涌干界が入り替わると述べており、広義に解釈すればそうした意が含まれていると見ることもできるであろう。

 大聖人は少なくとも文永の役直前、鎌倉にて平左衛門と会見した際には、日本国国主が賢王に豹変することを期待していたはずである。しかしそれが拒絶された以上は、日本国主によって本門の三大秘法が建立される道は閉ざされたのであって、必然的にその道は、愚王たる日本国主を攻め滅ぼす蒙古国の国主によって開かれるとの認識に立ったものと思われるのである。蒙古襲来の予言は文永の役によって一応的中した。しかし三大秘法が建立されるためには、愚王たる日本国主が亡ぼされなければならない。そうした希望と確信によって、蒙古国主は賢王といわれるようになるものと思われるのである。



―― 公場対決

 さて、賢王が出現して愚王を誡責したとして、その賢王はいかにして正法を受持するのであろうか。伝教 の場合を参考にするならば、その前提として公場での諸宗との対決が必須の条件となる。伝教の場合は南都六宗を桓武天皇の前で屈服させている。ましてや大聖人にとって『法華経』への帰依、すなわち正法護持は、邪法を否定し放棄する破邪を伴ってこそ真の帰依なのであって、そういう意味では公場対決は、本門戒壇を建立するにあたって避けては通れぬ重要なことがらなのである。

 身延に入山した大聖人は、さっそく公場対決の準備に取りかかったものと思われる。それを証する痕跡としてまずあげられるのは、『注法華経』の存在である。『注法華経』は山中喜八氏が、師片岡随喜氏の研究をもとに綿密なる筆跡鑑定を行い、「注法華経の御筆蹟は、最も早いものでも文永九年以前には遡り難く、最も遅いものでは弘安初年に属し、大半は文永十二午から建治三年に亘る期間のものと推定せざるを得なかったのである。」と述べられるように、その編集の中心大半ががまさに身延前期に相当している。また内容的にも『法華経』の注釈的意味合いのみならず、諸宗との対決に備えたものであるとの見解が呈されている。その理由として、

(1)ごく限られた数少ない大聖人自身の設問や標目に注目し、たとえば第一巻十四紙裏(方便品の裏)に見られる「疑云、明別教一念三千乎。」「疑云、光宅等諸師明十界互具乎。」など二項目をあげられ、これらごくわずかな大聖人自身の文言のいずれもが、諸宗との対比勝劣を想定されていること。

(2)文永十二年三月の『曾谷入道殿許御書』に「然レハ則予所持之聖教多々有りキ之。雖然リト両度ノ御勘気・衆度ノ大難之時、或ハ一巻二巻散失シ、或ハ一字二字脱落シ、或ハ魚魯ノ謬誤、或ハ一部二部損朽ス。若黙止シテ過クル一期之後ニハ、弟子等定ンテ謬乱出来之基也。爰ヲ以テ愚身老耄巳前ニ欲糾調セント之ヲ。而ルニ如クノハ風聞ノ者貴辺並ヒニ大田金吾殿越中ノ御所領之内並ヒニ近辺ノ寺々ニ数多ノ聖教アリ等云云。両人共二為リ大檀那、令メタマへ成セ所願ヲ。」とあり、翌建治二年1月の『清澄寺大衆中』に「伊勢公ノ御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教諭等の真言の疏を借用候へ。如ハ是ノ真言師蜂起之故二申ス之ヲ。又止観ノ第一第二御随身候へ。東春・輔正記なんどや候らん。円智房の御弟子に観智房の持チて候なる宗要集かしたび候へ。それのみならず、ふみの候由も人々申候し也。早々に返すべきのよし申させ給へ。今年は殊に仏法の邪正たださるべき年歟。」とあるように、この時期門下に盛んに聖教の蒐集を働きかけており、ことに建治二年七月の『報恩抄送状』には「此御房は又内内人の申候しは宗論やあらんずらんと申せしゆへに、十方にわかて経論等を尋しゆへに、国国寺寺へ人をあまたつかはして候に‥‥‥」と述べていることから、これらが『注法華経』編集のための聖教蒐集 であり、かつそれは宗論を想定してのものであると思われること。

(3)日興の『御遷化記録』に墓所香華当番の時に、『注法華経』を披見し研鑽すべきことを遺誡されていること。(4)諸宗破折のために編纂された日向の『金網集』の結構が、『注法華経』の注記を基本としていると思われること、をあげている。

 右のいずれもが妥当な見解であると思われるが、今は特に『金網集』との関連に注目したい。山中氏は『金網集』の、ことに華厳・真言・法相・三論・法華の各見聞の引文と『注法華経』のそれとの合致率が高いこと、さらに『注法華経』が節絡または取意して引文したり、あるいは孫引きして引文したりしているのを、『金網集』が全く同じく節略乃至孫引きしている箇所が相当数見られること(具体的に九つの事例をあげられている)、等を根拠として、両書の密接な関係を立証されている。

 加えて最近坂井法曄氏が『金沢文庫研究』に発表した、『日蓮の対外認識を伝える新出資料−安房妙本寺本「日本図」とその周辺』と題する論文に、極めて興味深い所見が示されている。すなわち本論稿では、日本及び日本を取り巻くアジア諸国の地図や、三位日順の『日順雑集』の抄録等を含む妙本寺日堯の書写にかかる『雑集』が紹介されているのであるが、その中の「日本図」「蒙古国並新羅国高麗百済賊来事」高麗新羅百済以上三国云之三韓」の記述が、『金網集』「雑録」の「異賊襲我国事」と殆んど合致することが提示されている。さらに妙本寺本『雑集』の記述は、日興から日順へと相伝され、以下順次妙本寺に伝えられたものであることを証した上で、「日蓮没後、抄本寺本(『雑集』)の談義者である日興と、身延文庫本(『金網集』雑録)を類衆した日向とは、教義的に相いれず、日興は身延を離山して富士へ移り、以降、両者がまみえることはなかった。その二人が、同内容をもつ対外関係史料を所持していることは、両者に同一史料を入手する共通の場があったはずであり、その共通の場は、日蓮在世中の身延山以外には考えられない。おそらく両者は、日蓮が身延山中において図示した際にこれを書きとめ、それぞれの門下に示したのであろう。」との見解を示している。そして両本の成立については、『金網集』「雑録」に建治元年九月、蒙古使者が斬首されたことが記されているのでそれ以降、妙本寺本『雑集』に収録される日興の『安国論問答』が、台密破折を含むことから『立正安国論』広本に取材していると見て、その成立年代である弘安元年(建治四年)あたりではないかと推定している」。その推定はおよそ妥当なものと思われるが、現存『立正安国論』広本は弘安元年の成立であったとしても、台密破折は後述するようにすでに文永十一年十一月二十日『曾谷入道殿御書』に見られるのであるから、その頃から台密破折に立った『立正安国論』の講義があったことは充分考えられ、その成立年代は、文字通り『注法華経』編纂の範囲、すなわち文永十一年から弘安元年の間という、緩やかな範囲で考えてもよいのではないかと思われる。いずれにしてもこれら両本の成立は、この時期の公場対決を視野にいれた、大聖人の諸宗破折の講義に基づいてのものと推してまず間違いないであろう。

 右のような状況を総合的に勘案すれば、山中氏が提唱した『注法華経』が公場対決に備えたものであるという所見は、ほぼ了解されるのではないかと思う。そしてそのような中で、諸宗破折や蒙古襲来の意義等の講義が門下に対してなされ、それを筆記したものが『金網集』や日興の同類の諸文書として伝えられていくものと思われるのである。



―― 台密破折の意味

 台密の破折は文永九年に系けられる『祈祷抄』の末文に慈覚大師を批判するのが一応初見であるが、『祈
祷抄』の当該記述は、古来の『祈祷抄』『祈祷抄奥』の後に付加された、『本満寺録外御書』の『御書秘法』
(真言宗行調伏秘法而還着於本人之事)の部分にあり、『御書秘法』は内容的に『本尊問答抄』と同文箇所
がかなりあるなど問題なしとしない。こうした不確定要素のある『祈祷抄』の末文を除けば、文永十一年十
一月二十日状『曾谷入道殿御書』が台密破折の噂矢となる。とすれば時期的にいって、台密破折と蒙古
襲来、さらにそれを機に建立されるはずの本門戒壇との間には、浅からぬ関係が予想されるのである。以下
具体的にその辺を見ていこう。

 第一に、蒙古調伏の祈祷に関することである。『撰時抄』には


第三、去年(文永十一年) 四月八日左衛門尉ニ語テ云ク、王地に生たれば身をば随られたてまつるやうなりとも、心をば随られたてまつるべからす。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑なし。殊に真言宗が此国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事、真言師には仰付らるべからす。若大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此国ほろぶべしと申せしかば…‥

とて、第三の国諌たる平左衛門との会見の際、真言による調伏を行えば、日本国は亡ぶであろうと警告したと述べられている。すなわち当時の状況からして、蒙古調伏の祈祷が真言によってなされることが、当無のごとく予想されたのであろう。こうした事態に鑑み、徹底的な真言破折が急務であると考えられ、それまで破折の対象としていなかった台密を破折することによって、その徹底がはかられたものであろう。

 しかしそれだけでは、真言全般の破折ではなく、台密の破折を中心に据えたことの理由としてはいささか薄弱である。では台密破折の真の目的は何だったのであろうか。

 それが第二の理由であるが、それはまさに本門戒壇建立に関することがらであると思われる。すなわち過去叡山に迹門の戒壇が建立されたにもかかわらず、なにゆえにそれが形骸化し鎮護国家の法となり得なかったのか。それは偏えに叡山が密教化し、『法華経』の精神が失われたからに他ならない。では密教化した原因はどこにあるのか。

『報恩抄』

されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土二にわたりては又天台・真言の明師に値ひて有りしかども、二宗の勝劣は思ひ定めざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等云云。それはいかにもあれ、慈覚・智証の二人は、言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給へども、心は御弟子にあらず。……されば叡山の仏法は、但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其の主は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は、巳今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。巳今当の経文をやぶらせ給へば、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。弘法大師こそ第一の語法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事なり。
例せば法師と尼と、黒きと青きとはまがひぬべければ、眼くらき人はあやまつぞかし。僧と男と、白と赤とは目くらき人も迷はず、いわうや眼あきらかなる者をや。慈覚・智証の義は、法師と尼と、黒きと青きとがごとくなるゆへに、智人も迷ひ、愚人もあやまり候ひて、此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州、皆謗法の者となりぬ。

 右文を要約すれば、叡山の密教化は慈覚・智証が師伝教・義真の意にもとる理同事勝などの邪義を立て、『法華経』が真言経に劣ると述べたことによって始まった。そしてそれは『法華経』を弘法のように正面から下すものではなく、黒と青が区別が付けにくいように実に巧妙であり、邪義と認識しにくいゆえにその後の叡山を風靡した。ゆえにその罪は東寺真言弘法の義より深いというのである。

 しかし、このように慈覚・智証が師伝教・義真に背いたことが、叡山の密教化の元凶であると指摘すると同時に、伝教にもいささかの責任無しとしないとの見解も示している。

『聖密房御書』

比叡山には天台宗・真言宗の二宗、伝教大師習ひつたへ給ひたりしかども、天台円頓の円定・円恵・円戒の戒壇立つべきよし申させ給ひしゆへに、天台宗に対しては真言宗の名あるべからずとをぼして、天台法華宗の止観・真言とあそばして、公家へまいらせ給ひき。

『撰時抄』

日本国の伝教大師漢土にわたりて、天台宗をわたし給ひしついでに、真言宗をならべわたす。天台宗を日本の皇帝にさづけ、真言宗を六宗の大徳にならわせ給ふ。但し六宗と天台宗の勝劣は入唐巳前に定めさせ給ふ。入唐巳後には円頓の戒場を立てう立てじの論か計りなかりけるかのあひだ、敵多くしては戒場の一事成じがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん、皇帝の御前にしても論ぜさせ給はず。弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず。但し依憑集と申す一巻の秘書あり。七宗の人々の天台に落ちたるやうをかかれて候文なり。かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候。

 すなわち伝教は、法華真言の両宗を伝えたが、法華一乗の円頓の戒壇を建立する目的があったから、あえて真言からは宗を削り、天台法華宗の中の真言と位置づけており、また『依憑集』に法華勝真言劣を示していることから、一応法華真言の勝劣は提示しているといえる。しかし、戒壇建立という難事を達成するため、新たな敵を作り問題を複雑にしたくなかったためか、その勝劣をしっかりと弟子及び一般に公表しなかった嫌いがある、というのである。要するに極めて消極的ながら、叡山の台密化と迹門戒壇の有名無実化の原因が、そもそも伝教がはっきりと真言密教を破折しなかったことにあると述べているのである。

 大聖人がこの時期徹底して台密破折をした最も大きな理由は、本門戒壇を建立するに際して、これらの先例を教訓とし、同じ轍を踏んではならぬという強い信念を懐いたことにあるのではないかと思うのである。


(公場対決の機運――蒙古襲来と疫病流行)

 さて、蒙古襲来により賢王が登場するというシナリオからすれば、諸宗との対決は賢王のもとで行われるのが理想であるのは当然である。しかしかといってことさらそれにこだわって、それ以外のケースを排除する必要はない。賢王が出現していなくとも、何かの拍子で公場対決が実現したとすれば、それを突破口として国家が受け入れることになるかもしれない。それはそれで結構なことであって、その過程や方法はさまざまなケースがあってしかるべきなのである。但し大聖人にとって諸宗との対決は、国家の認可に基づく本門戒壇建立を目指す以上、あくまで公的な場であることが必須の条件であった。

 建治元年12月26日、真言僧と思われる強仁より、大聖人のもとに一通の勘状が届けられた。真言を邪法と下す大聖人を批判する内容であったが、大聖人は早速その日に返状をしたためている。

強仁上人十月二十五日ノ御勘状、同十二月二十六日到来ス。此事余モ年来所欝訴スル也。忽ニチ。書テ返状ヲづ欲ス釈カント自他ノ疑氷ヲ。但シ歎スルトコロハ、於テ田舎ニ決セハ於邪正ヲ者、暗中ニ服テ錦ヲ遊行シ、澗底ノ長松不ルモノ知ラレ匠ニ歟。兼テ又定テ喧嘩出来ノ基也。貴坊欲セハ遂ント本意ヲ者、公家卜与ニ関東経テ子奏聞ヲ申シ下タシ露点ヲづ糾明セハ是非ヲ、上一人含ミ咲ヲ下万民散セン疑ヲ歟。其上、大覚世尊ハ以テ仏法ヲ付属セリ王臣ニ。決断センコト出世ノ邪正ヲ必ス公場ナル也。

 すなわち是非を決することは望むところであるが、私的な法論では私憤の基となるし、釈尊の昔から仏法の邪正は公場にて決せられるのが伝統であるから、朝廷と幕府に奏状を提出し、公場にて是非を決しようではないかと主張したのである。この書状から半月ほど後の翌建治2年正月11日に、先に引文したように『清澄寺大衆中』には「如キハ是ノ真言師蜂起之故二申ス之ヲ。」と述べられている。この「真言師の蜂起」と強仁の動きとは関連があるのかもしれない。

 しかしこの時は、結局公場対決は実現しなかった。そしてその後も大聖人の期待とは裏腹に、蒙古軍の襲来も無く、公場対決の機運はなかなか起こらなかった。しかるに弘安元年(建治四年)、にわかにその機運が盛り上がった形跡がうかがわれる。弘安元年3月21日状『諸人御返事』。

三月十九日ノ和風並ニ飛鳥、同シキ二十一日戊ノ時到来ス。日蓮一生之間ノ祈請並ニ所願、忽ニ令ムル成就セ歟。将又五々百歳ノ仏記宛モ如シ符契ノ。所詮召シ号セテ真言・禅宗等ノ謗法ノ諸人等ト令メハ決セ是非ヲ、日本国一同ニ為リ日蓮力弟子檀那ト、我弟子等、出家ハ為リ主上・上皇ノ師ト、在家ハ烈リ左右ノ臣下ニ、将夕又一閻浮提皆仰カン此法門ヲ。幸甚幸甚。

 これがその全文である。本状は日数からしておそらく鎌倉から早便で届けられたものであろう。その内容は明らかではないが、大聖人が「一生の所願が成就するかもしれない」との感想を持ち、さらに「五々百歳広宣流布の文が空しからざるもの」といい、「真言・禅等の諸法の諸人と召し合わせて是非を決せしめば」というのであるから、公場対決実現の極めて高い可能性を示唆した書状であったことが想像されるのである。

 ではそのような機運がなにゆえに起きたのであろうか。否、結果的には公場対決は実現しなかったのであるから、客観的には必ずしもそうした機運が高まっていたとはいい切れないのであるが、少なくとも報告者がそのように感じ、そして大聖人自身もそれを合点された要因があったと思われるのである。

 その要因の一つとして、建治3年頃から大流行した疫病をあげることができるのではなかろうか。すなわち『治病大小権実違目』 (弘安元年6月26日)に

彼の訴人等の語ををさめて実教の行者をあためば、実数の守護神の梵・釈・日・月・四天等其の国を罰する故に、先代未聞の三災七難起こるべし。所謂去今年、去ぬる正嘉等の疫病等なり。

と述べられ、同日書状『中務左衛門尉殿御返事』(弘安元年6月26日)にも

今の日本国、去今年の疫病は四百四病にあらざれば華陀・偏鵠が治も及ばず。小乗・権大乗の八万四千の病にもあらざれば諸宗の人々のいのりも叶はず。かへりて増長するか。設ひ今年はとどまるとも年々に止みがたからむか。いかにも最後に大事出来して後にぞ定まる事も候はんずらむ。

と述べられている。

 この疫病流行の様相は、『史料綜覧』によれば、建治3年12月6日宣旨が下され法勝寺において『仁王経』転読により秋以来流行の疫病鎮静を祈祷し、弘安元年5月18日には興福寺にて、同26日には十二社を召して、6月18日には再び興福寺にて、22日には二十二社によってそれぞれ祈祷せしめており、その猛威ぶりがうかがえる。こうした状況下で建治4年2月29日、建治から弘安へ改元されるが、大聖人は『弘安改元事』に

弘安元年太歳戊寅、建治4年2月29日改元。疫病ノ故歟。

と、改元は疫病流行を沈めるためであったのではないかとの見解が示されている。確かに高辻(菅原)長成の『元秘抄』には「二十九日改元、弘安、依疾瘡。」とあって、大聖人の見解が正鵠を射たものであることを裏付けている。

 さて、この建治3年から弘安元年にかけて(注記にあげた『上野殿御返事』弘安2年正月状によれば、それは弘安2年にまで及んでいる)大流行した疫病を、大聖人は法華経の行者を否定し怨するゆえに、諸天がこの国を罰するために起こしたものであるとの認識を示している。これは蒙古襲来の場合と全く同じ理由である。また『中務左衛門尉殿御返事』には、この疫病流行は「最後に大事出来して後に定まる」と述べている。「大事出来」とは次の『千日尼御前御返事』の文を考えれば、蒙古重来を指すものと思われる。

法華経の行者をあたまんものをば頭破七分等と誓はせ給ひて候へばいかんが候べきと、日蓮強盛にせめまいらせ候ゆへに、天此の国を罰す。ゆへに此の疫病出現せり。他国より此の国を天をほせつけて責めらるべきに、両方の人あまた死ぬべきに、天の御計らいとしてまづ民を滅ぼして人の手足を切るがごとくして、大事の合戦なくして、此の国の王臣等をせめかたぶけて、法華経の御敵を滅ぼして正法を弘通せんとなり。

 すなわちこの疫病流行は蒙古襲来の序章であり、疫病で国力を失った日本国はたちまち蒙古軍に制圧される。その大事が出来した後に疫病は治まり一国が広宣流布するというのである。

 しかしこのような認識は、あくまで以下に述べる公場対決の機運が消え去った後に述べられているのであって、それ以前の時点では、一時的にせよ疫病流行を回避するために、幕府の何らかのアクションがあったか、または門下がそれらしきことを風聞したのではないか、と思われるのである。『諸人御返事』の期待感に満ちた文言が、それを物語っている。

 しかし大聖人の期待に反して公場対決は実現しなかった。『諸人御返事』から20日ばかりたった頃、檀越某(内容からして四条金吾であると思われる)よりよせられた書状には、先便とはうってかわり、大聖人に三度目の流罪の噂のあることが報告されている。弘安元年4月11日状『檀越某御返事』。

御文うけ給ハリ候了ンヌ。日蓮流罪して先々にわざわいども重りて候に、又なにと申ス事か候べきとはをもへども、人のそんぜんとし候には不可思議の事の候へば、さが候はんずらむ。もしその義候わば、用ヒて候はんには百千万億倍のさいわいなり。今度ぞ三度になり候。法華経もよも日蓮をばゆるき行者とわをぼせじ。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生、今度みはて候はん。

 先に日蓮を流罪に処したゆえにさまざまな災難を招き寄せた経験から、幕府が同じ過ちを犯すとも思われないが、追いつめられた者は何をしでかすかわからないもので、もし噂の如く3度目の流罪があったとすれば、自身の利生ということから考えれば、それは用いられるよりも数千倍喜ばしいことである、と大聖人は述べる。「用て候はんには百千万億倍のさいわいなり。」といわれるのは、大聖人の負けじ魂がいわせたことで、用いられて公場対決の末「立正安国」がもたらされるに越したことはないはずである。しかし国があくまで用いないというならばそれも仕方のないこと。やはり日本国の愚王は痛い目に遭わないと目が覚めないらしい。蒙古襲来の危機が未だ回避されたわけではない。それどころかは疫病の大流行は蒙古との合戦の序章である。本門戒壇建立は、ひたすらその時を待つしかない。この書状からそのような大聖人の心境が読み取れるのではないか。

 いずれにせよ、弘安元年頃から大聖人が疫病流行に強い関心を持ったことは間違いない。そして丁度時を同じくして『立正安国論』広本が整理執筆されているのも、こうした状況とけして無縁ではないであろう。『立正安国論』広本は、 文応元年上呈時のものに較べると、諸宗治罰の意が強くなり、上呈時にはなかった真言破折が加えられている。恐らく公場対決の準備の一環として整理作成されたものであろう。

(理想と現実)

 右に見てきたように、この時期大聖人は本門三大秘法の建立、就中国家による本門戒壇建立を確信し、その理想に向けて公場対決の準備等来るべき事態に備え、門下一丸となってことに当たっていた。しかし理想はあくまでも理想であって、それが現実とならぬ以上は当然のことながらこの世は逆縁世界である。大聖人及び門下は理想の実現を確信しつつ、その一方で、逆縁世界という現実の中で、けして手をこまぬいていたわけではない。門下は大聖人の赦免、そして蒙古襲来の予言的中という追い風を受けて、各地で活発な弘教活動を展開している。そしてそこには逆縁世界故のさまざまな軋轢が生じ、それに対して師大聖人と心を一つにして対処する姿が見られるのである。順縁世界という理想に燃えながらも、逆縁世界という現実の中で、不軽菩薩の精神は脈々と生き続け実践されていたのである。

 四条金吾は、建治3年6月主君より勘気を蒙り、蟄居及び領地の没収という窮地に立たされる。その原因は同僚の讒言といわれるが、直接的には宗祖の弟子三位房とともに、当時鎌倉で評判であった竜象房を破折したことに起因している。しかし、真蹟の存せぬ録内御書ゆえ参考ながら、文永11年9月26日状『主君耳入此法門免与同罪事』には

されば各々も彼れが方ぞかし。心は日蓮に同意なれども身は別なれば、与同罪のがれがたきの御事に候に、主君に此の法門を耳にふれさせ進らせけるこそありがたく候へ。

とあって、大聖人赦免直後から主君へこの法門へ帰依するよう、強く働きかけるようになったことがうかがえ、そうした四条金吾の行動が引き金になっていることは充分考えられよう。

 ともあれ勘気の報告を受けた大聖人は、主君への陳状たる『頼基陳状』の草案を送り、さらに『崇峻天皇御書』をはじめ度重ねて事細かな教示を与えて、万全を期してことにあたっている。四条金吾はこの宗祖の教示をよく守り、おりしも主君が病に倒れ、医術にたける四条金吾を必要としたこともあって、再び主君の信任を得ることとなり、翌弘安元年、以前より多くの所領を賜り、弘安二年にはさらに所領を賜っている。

 また池上右衛門大夫、兵衛志の兄弟も建治元年から2年頃、父親に強く入信を進言したようで、その結果怒りをかって勘当されている。父左衛門大夫は兄弟の分裂を謀るためか、兄右衛門大夫のみを勘当したが、大聖人の『兄弟抄』等の懇切な教導により、兄弟及びそれぞれの妻は一致団結しそれに対処している。しかし、建治3年11月20日状『兵衛志殿御返事』によれば、建治3年11月頃右衛門大夫は再び勘当されたようである。この時も同状はじめ重ねての宗祖の教導により、兄弟は一致協力してことにあたり、翌弘安元年には遂に勘当を許されるばかりか、父母・親族ともに宗祖に帰依したことが弘安元年九月九日状『兵衛志殿御書』によって知れる。

 次に甲斐国下山郷の地頭下山兵庫五郎の氏寺である平泉寺の住僧因幡房日永が、兵庫五郎に追出させられた事件。日永は日興を介して大聖人の弟子になったようで、『下山御消息』によれば追出の原因は兵庫五郎の命令に逆らい、例時の勤めにそれまでの『阿弥陀経』を読まずして、『法華経』を読誦するようになったためのようである。


例時に於ては尤も阿弥陀経を読まるべきか等云云。此の事は仰せ候はぬ巳前より、親父の代官といひ、私と申し、此の四五年が間は退転無く例時には阿弥陀経を読み奉り候しが、去年の春の末夏の始めより、阿弥陀経を止めて一向に法華経の内、自我偈を読誦し候。又同じくは一部を読み奉らんとはげみ候。これ又偏に現当の御祈祷のためなり。

 大聖人は日永から追出の報告を受け、早速筆を執って兵庫五郎への陳弁の書『下山御消息』を代筆し、届けさせたのである。兵庫五郎はこれによって宗祖に帰依するところとなり、以後一族を挙げて宗祖の外護に努めている。

 右の三3例は建治2・3年という殆んど同時期に、法華信仰をめぐって主君あるいは親によって勘気・勘当されているが、大聖人の『頼基陳状』『下山御消息』といった陳弁・諌暁の書、さらに『兄弟抄』を始めとする当事者への教導の書によって、ことごとく良好な解決を見ている。

 しかし逆縁の世界である以上、右のような良好な場合ばかりではない。

 日興の駿河国における弘教活動の場合、その地が得宗領ということもあって当初から波乱含みであった。日興は蒲原庄に所在した天台寺院四十九院の供僧であり、かつ母方の実家が富士上方西山の河合であることから親族も多く、そうした地縁・血縁・法縁を活かして活発な弘教活動を展開した。教線は瞬く間に拡張し、同じ天台宗寺院である加島庄岩本の実相寺や富士下方庄熱原の滝泉寺の供僧が、次々に日蓮門下に連なっていった。そして教化された供僧らもまた積極的な弘教活動を展開し、同僚や有縁の親族、さらに所属の在家農民等に多くの法華経信仰者を輩出したのである。『滝泉寺申状』によればそれは建治2年頃のことのようである。こうした展開は必然的に院主と改衣した供僧達との軋轢を生むこととなった。しかしそれは巨視的に見れば、院主と供僧達の軋轢にとどまるものではなかった。その領主が宗祖を敵視する「後家尼御前」の身内が多かったことを考えれば、宗祖を中心とする日蓮門家と平左衛門を始めとする幕府要人との対立という、文永八年の法難以来の構造が浮かび上がってくるのである。

 そうした状況下にあって、建治3年5月状『上野殿御返事』によれば、富士上方上野郷の地頭南条時光は、おそらく鎌倉南条家かもしくは同じく平左衛門等得宗にごく近い被官と思われる者達から、法華信仰を止めるよう迫られている。

 同『上野殿御返事』によれば、これに類する軋轢が新田殿(新田四郎信綱)や興津方面にもあったようで、この時期には未だ大事には至っていないようであるが、それが基本的に大聖人と幕府という構造的対立の中で惹起している以上、大いなる危険をはらむものであったことは想像に難くない。現に弘安元年四月には大聖人の三度目の流罪の噂まで立っている。それは実質的権力者平左衛門の、大聖人とその一門に対する断固たる態度を表出レたものともとれる。そしてこのような不穏な状況は、やがて弘安二年、平左衛門自身が手を下して熱原の法華信仰者3人を斬首するという、幕府ぐるみの残虐な弾圧に発展していくのである。

 

 

第3項 身延前期の思想のまとめ


 以上身延前期の思想について述べてきたが、一言でくくればこの時期の思想は、まさに本門三大秘法全盛の時代といってよいであろう。中にも蒙古襲来の予言的中を軸に、日本国は法華経の行者を蹂躙した罪によって一端は亡び、その後に賢王によって正法は広宣流布し、本門戒壇が建立されるという信念が、この時期の大聖人の思想のまさに中心に据えられていたのである。今回この時代の思想を論ずるにあたって、本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇という三つの項目を立てて論じたが、たいがいの事項はこの3つの項目に当てはまることをもってしても、いかにこの時代の思想が三大秘法中心であったかがわかるであろう。

 さて、その広宣流布・本門戒壇建立という理想世界は、民衆の力で徐々に実現されるものではないという。『上野殿御返事』には

梵天・帝釈等の御計として、日本国一時に信ずる事あるべし。

とあるように、仏天の計らいにより(『観心本尊抄』 の意によれば上行再起の賢王が出現し)、その勢力によって一気になされるというのである。

 しかし、まことに当然のことながらそれが実現しない間は、日蓮門下を取り巻く現実はあくまで逆縁の世界である。それゆえに理想世界を目指しつつも、門下が現実に示した動向は、『開目抄』以来逆縁世界を前提として示された不軽菩薩の折伏行であったのである。

 またこの時期、本門の本尊たる本門の教主釈尊が法義の前面に据えられていることも、一つの特徴としてあげられるであろう。これは本文でも述べたとおり、文永8年の法難前夜あたりから、真言・華厳両宗の本尊を教主論によって破折し、またその2宗の一念三千論が、久遠実成の釈尊の本因本果を無視する有名無実なものであると破折される頃からの傾向であるが、身延前期においてはそれが最も強調される、まさに爛熟期といえるのである。

 しかしその一方で、教主論においても本尊論においても、法華経の行者との対比において、あるいは『法華経』の題目との対比において釈尊が相対化されていく、その兆候も垣間見られるのである。

 思うに釈尊の相対化の兆候は、その殆んどが現実に展開する逆縁世界の中で論じられる傾向があるのではないか。逆にいえば理想として目指された順縁世界を基軸に置いた場合は、あくまで本門の教主釈尊が中心であり、そして賢王の勢力による折伏が中心であるということであろう。しかし現実世界で弘教を展開する場合は、必然的に不軽菩薩の折伏になるのであり、教主論においても実際逆縁世界で正法を弘通する、上行再起日蓮にその比重が移るということなのではなかろうか。そういう意味では大聖人の法義は理想順縁世界と現実逆縁世界の二重構造になっているといえるのではないかと思う。そしてその時々の状況によって、すなわち理想世界に希望がもてる状況下では順縁世界を中心とした法義が主体となり、逆に絶望的な状況下においては逆縁世界の法義が主体となる、ということなのではないかと思うのである。

 かつて『立正安国論』を上呈した頃は、国主の折伏を期待しており明らかに前者に属する。また文永5年蒙古の使者が来朝した頃も前者に属するであろう。その後幕府が決定的に拒否した、『開目抄』を中心とした文永8年の法難前夜から佐渡前期においては、不磨菩薩の折伏を中心とした後者の法義が展開されている。そして自界叛逆難の予言が的中し、他国侵遭難たる蒙古襲来がいよいよ現実味を帯びてくる佐渡後期から、文永11年蒙古襲来が現実となって以降の身延前期は、順縁理想世界が最も強調された時期といってよいであろう。では身延後期はどうであろうか。期待した蒙古襲来はいかなる展開を見せるのか。幕府は日蓮門下にいかなる姿勢を見せるのか。そしてその状況下で大聖人の法義はいかなる展開を見せるのか。それについては後稿を期したいと思う。

 

 

 

 

第5章 身延後期の思想



はじめに


 身延後期の思想は、弘安元年9月に系けられる『本尊問答抄』を起点とし、弘安5年10月13日、武州池上にて入滅されるまでを範囲とする。

 『本尊問答抄』を起点とする理由は、この頃から思想面のみならず、たとえば花押が劇的に変化するなど、多方面にわたって変化が認められるからである。勿論花押のように激変するものばかりではなく、徐々に変化するものもあれば、当然のことながら変わらぬものもある。しかしこの時期の大聖人の思想を大観するとき、大聖人を取り巻くさまざまなできごと、すなわち熱原法難や弘安の役を媒介とし、身延前期の思想に比して、大きな変化があったことは認めざるを得ないのである。ではその変化とは具体的にどのようなものであったのか、以下数項を設けて論じていきたい。

 

 

第1項 法華経の題目を本尊とす――『本尊問答抄』を中心として


 本項では、本尊に焦点を当てて論じてみたい。まず『本尊問答抄』を中心に据えて本尊観の変化を見、さらにおそらくそのことに深く関わつて変化したであろう、花押や曼荼羅本尊の相貌などについて論じたいと思う。



第1『本尊問答抄』における、本尊としての釈尊の相対化

 『本尊問答抄』は真蹟が現存しない。しかし後半3分の1程を欠する日興の写本が北山本門寺に所蔵され、また『日源本』が静岡県実相寺に所蔵され、これには「正応三年庚寅七月十五日書写之日源」との識語がある。その他富木日常の『常修院本尊聖教録』の写本の部にその名が見える。本抄は、その末文によれば、大聖人の幼少の師であつた浄顕房へ、曼荼羅本尊を授与するに際して宛てられた書状のようである。しかし『日興本』には「法華本尊問答抄」、『日源本』には「法華本門本尊問答抄」、『日常目録』には「本尊問答抄」とあつて、早くから門下全般にその名が周知されていることから、大聖人自身が命名された可能性が高く、本抄は本来書状でありながら、後大聖人自身によって法義を伝えるテキストとして、門下全般に伝えられたものと思われる。このような大聖人自身によって書状などがテキスト化される例は、割に多かったのではないかと思われる。「身延前期の思想」で述べた『頼基陳状』の再治本などは、まさにその好例である。執筆年次は『日興本』『目源本』ともに記載されていない。文中「故道善御房は……」とあり、道善房が既に物故しているから建治2年7月の『報恩抄』以降であることは確実であるが、それ以外系年を特定する記述は見られない。しかし古来、弘安元年9月(『高祖遺文録』は9月20日とする)に異説はなく、この系年に問題はないであろう。

 では『本尊問答抄』には、本尊についてどのような見解が述べられているのであろうか。



1、法華経の題目を本尊とする

(1)本門の教主釈尊から題目中心へ

 佐渡後期、文永10年4月『観心本尊抄』において示された本門の観心本尊とは、その後『報恩抄』に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と端的に述べられているように、本門の教主釈尊を主体とする霊山虚空会の儀式を、大聖人が上行菩薩の自覚に立って感得し再現した本尊である。それを受けて身延前期においては、その本門の教主釈尊を主体とする本尊を基軸として、一切衆生の成仏の良薬たる本門の題目、さらに国家がこの本門の本尊と題目とを受持する象徴として建立されるべき本門の戒壇、すなわち本門三大秘法が力強く主張され展開されていることは、「身延前期の思想」 で述べたとおりである。

 しかるに、弘安元年9月に系けられる『本尊問答抄』において、一転その様相に変化が見られるのである。本抄には冒頭次のように述べられている。

問云、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答云、法華経の題目を以て本尊とすべし。

 ここに法華経の題目を本尊とすると述べられるのは、遠くは『唱法華題目抄』に「答へて云く、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品・或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。」と述べられ、近くは『観心本尊抄』に本門の本尊の相貌を示す段で、「塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏・多宝仏……」と述べられ、そして現に曼荼羅本尊の中央に題目が配されていることをもってしても、ごく当然の説示であり、それは大聖人の生涯に亘って一貫した主張といえるであろう。

 但し、先述したように『観心本尊抄』以来身延前期においては、法たる題目と人たる本門の教主釈尊は、本尊として一体でありながら、その本尊全体を「本門の教主釈尊」と述べることに象徴されるように、本門の教主釈尊を主体とした本尊観であった。だがそのときであっても、法華経の題目が本尊でなかった訳ではなく、そうした観点に立てば「法華経の題目を本尊とする」という文言自体はことさらに注目すべきものではない。

 しかし、この文は、大聖人のこれまでのそのような主張を繰り返すためではなく、まさに新たな観点に立っての文言であることが、次下の問答によって知ることができるのである


問うて云く、然らば、汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ。私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。其の故は、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり。

 ここに問者が「汝云何釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや」と問うていることによって、冒頭に「法華経の題目を以本尊とすべし」と述べるのは、「釈尊を本尊とせずして」という前提に立ってのことであることが判明するのである。これは身延前期の本門の教主釈尊主体の本尊観とは、明らかに異なっている。

 では何故に釈尊を本尊とせず、法華経の題目を本尊とするのであろうか。その理由は2つあげられている。

第1に釈尊自身『法師品』に「薬王、在々所々ニ若ハ説キ若ハ読ミ若ハ誦シ若ハ書キ若ハ経巻所住之処ニハ皆応ニ起テ、七宝ノ塔ヲ極メテ令ム高広厳飾ナラ。不須ヒ復安スルコト舎利ヲ。所以ハ者何ン。此中ニハ巳ニ有ス如来ノ全身」と説かれ、また『涅槃経如来性品』に「復次ニ迦葉、諸仏ノ所ハ師トスル所謂法也。是故ニ如来恭敬供養ス。以ヲ法常ナルヲ故ニ諸仏モ亦常ナリ」と説かれ、さらに天台大師は『法華三昧懺儀』に「於道場ノ中ニ敷キ好キ高座ヲ安置シ法華経一部ヲ亦未必シモ須カラ安ス形像舎利並ニ余ノ経典ヲ唯置法華経一部ヲ」と述べていることをあげる。

そして第2に、法華経乃至題目は、釈尊・大日如来等すべての仏を生む能生の父母であり眼目である故である、と述べられる。大聖人はこの二つの理由を掲げ、釈尊を本尊とせず法華経の題目を本尊とするのは、けっして自分勝手な義を述べているのではないと宣しているのである。


(2)「釈迦をもって本尊とせず」の真意

 ところで右のごとき「釈尊を本尊とせずして、法華経の題目を本尊とする」との所見に対し、おもに本門の教主釈尊を本尊とする立場から、『本尊問答抄』の真偽を含め、さまざまな解釈が試みられている。そのあらましを左に紹介する。

(イ)望月歓厚氏「日蓮聖人の本尊について」
 「法本尊の尤も明了な依文である。……本抄は古来紛々の論義を重ねて対告は清澄の浄顕房義城房等なるによって所論は権実相対の重に止まり、未熟の機である真言教徒に対して且く権仏に対して法本尊を示したるのみと会通するは本尊略弁(終3378)である。然るに本抄に先だち.建治2年7月同じく清澄の大衆に示して、道善御房の墓前に一遍読み、其後は度々読合はせよと教示された報恩抄の明了な仏本尊との相違を如何に解釈すべきか。同一授与者に2年後には全く反対な指示を与へたとは考えられないではないか。」と述べる。

(ロ)鈴木一成氏「祖書に示されたる本尊の種々相」
 法華経の題目を以って本尊とする根拠としてあげられる『法師品』『涅槃経如来性品』『法華三昧懺儀』の依文が迹門的・天台的であること、さらに法は能生であり仏は所生であるとするのは迹門の立場であり、本門の立場は逆で仏が能生法が所生である、との2点の理由から、「本尊抄開顕巳後のものとは受取れない」としている。

(ハ)宮崎英修氏「遺文における「法華経」の語義について」
 「本書(本尊問答抄)は清澄の浄顕房に与えられたもので、善無畏三蔵抄における釈尊を本尊とせよとの教示や、いまのべた開目抄、本尊抄、報恩抄等の人本尊説と大いに異なる。古来より法本尊説の有力な依書とされているものであるが、その所対の人を考えれば、清澄山で台密に薫習されている浄顕房等へ曼荼羅本尊の特異性を強調し真言はじめ諸宗本尊に超絶するものであることを教示された法本尊義で、対外的な随他の法門であることに注意すべきであろう。」と述べる。

(ニ)茂田井教亨氏『観心本尊抄研究序説』
 「この書(『本尊問答抄』)にいうところの「仏」の概念は、すべて爾前迹門にいう釈迦大日等であつて、寿量品の教主釈尊をいうのではないからである。」と述べる。

(ホ)北川前肇氏『日蓮教学研究』
 「しかし、注意しなければならないことは、所生の「仏」とはいかなる仏格であるのか、ということである。右の文にみられる仏は、十方の諸仏、釈迦牟尼仏、大日如来等であって、本門寿量品の仏、本門の教主釈尊ではないことに留意しなければならない。さらに、能生の法華経とは、諸仏を生み出す一念三千の仏種がこの経にのみ具していることをいうのであって、それは「寿量品の仏」の内証、妙法蓮華経の五字を指すものと思われる。それ故に『本尊問答抄』の法華経の題目をもって本尊となすという主張は、本門寿量品の仏を離れて存在するものではない。『観心本尊抄』『報恩抄』にみられる本尊の概念と、この『本尊問答抄』の説示とは何等異なりはないものと信受できる。」と述べる。

 今これらの所見についていささか検討を加えれば、まず、(イ)望月歓厚説の 「本抄は同じ対告者に2年前に宛てられた『報恩抄』と全く相反する」というのと(ロ)鈴木一成説「本抄引文の『法師品』『涅槃経如来性品』『法華三昧懺儀』や「題目能生・釈尊所生いう主張が迹門的・天台宗的である」 というのは、その理由はそれぞれと異なるものの、『本尊問答抄』を偽撰視している点で共通している。しかし、本抄は先述のごとく『日興写本』『目源写本』(正応3年)という古写本が存し、また『日常目録』(写本の部)にもその存在が確認できるのであるから、偽撰視することは不可としなければならない。

 次に望月歓厚氏が紹介している優陀那日輝『本尊略弁』と(ハ)宮崎英修説は、本抄の意は清澄寺の真言教に影響された義浄房に対する一往随他の法門であって、大聖人の真意ではないというものである。しかしこれも、「題目を以って本尊とする」ことが 「対外的な随他の法門」であると断ずること自体、たとえば『曾谷入道殿許御書』の「大覚世尊仏眼を以て末法を鑑知し、此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に、一大秘法(妙法五字)を留め置きたまふ。」との文意に相違するものであるし、義浄房を台密に薫習された権機とするのも、それこそその二年前に『報恩抄』の対告者のひとりとなつているのであって、妥当とはいえない。

 最後に(ニ)茂田井教亨説(ホ)北川前肇説は、ここに「釈尊を本尊とせずして」と否定されている釈尊は、始成の釈尊であって久成の本門の教主釈尊ではないというものである。しかしこの会通も、本文の文脈を順を追って理解するならば妥当といえず、「久遠実成の釈尊を本尊としないなどということはありえない」という前提から導き出された、無理読みの誹りは免れないであろう。以下この件に関し、もう少し詳し見てみよう。

 まず法たる題目と、久成の釈尊、そして久成の釈尊以外の始成の釈尊及びその他の諸仏、以上三者の関係は、およそ次の三種が想定されるであろう。

(A) 題目(法華経)と久成の釈尊の関係
 久成の釈尊は法華経の題目を覚った本果第一番の仏であって能証であり、題目は所証の法である。したがって両者は一体であるというもの。『観心本尊抄』に「釈尊ノ因行果徳ノ二法ハ妙法蓮花経ノ五字ニ具足ス。」と述べられるごとくである。

(B) 久成の釈尊と始成の釈尊及び諸仏の関係
 久成の釈尊は本地であり、始成の釈尊及びその他の諸仏は垂迹であるとういもの。『聖密房御書』に「久遠実成は一切の仏の本地、肇へば大海は久遠実成、魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば千二百余尊はうきくさの根なきがごとし、夜の露の日輪の出でざる程なるべし。」と述べられるごとくである。

(C)題目(法華経)と仏的存在の関係

 法たる題目は諸仏を出生する能生の父母であり、久成の釈尊を含むすべての仏は所生の子供であるというもの「本尊問答抄』に「其の故は、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。」と述べられるごとくである。

 さて、右(A)に示したように、題目(法華経)と久成の釈尊は「能証所証」の関係にあり、一体であると述べられていることは事実である。しかしまた、(C)のごとくそれとは別の観点から、法たる題目(法華経)と久成の釈尊を含むすべての仏的存在とが、「能生所生」の関係にあり、能生の題目は所生の仏的存在より勝れると述べられていることも事実なのである。

 さてこのような(C)の法と仏を対比し、法の優位性・根源性を論ずる際に、その前提として(A)の人即法があったとすれば、否、もっと直接的にいって、本門の教主釈尊は法との比較対照に入らないという条件が付与されているとすれば、法と仏の比較そのものの意味が失われるであろう。

 さらにこの比較構造の中で、もし久成の釈尊が「仏」の範疇に入らないというならば、久成の釈尊はいったいいかなる存在となるのであろうか。まさか大聖人が否定する大日法身のような法的存在ではあるまい。久成の釈尊はれっきとした実修実得の仏のはずである。

 また、本文はあくまで法と仏が能生所生の関係にあることが示されているのであつて、(B)のような本地と垂迹迩の関係を示していないことも明白である。

 このように整理してみれば、ここでいわれる「釈迦」以下の諸仏が、久成の釈尊を含む仏的存在のすべてを示していることは明らであろう。そしてこのように整理した上で、改めて本抄の文脈を冷静にたどるとき、そのことは一層明白になるであろう。

 すなわち本抄では冒頭「法華経の題目を本尊とする」と述べたことを受けて、その文意をより確実にするために、その次下に問者にわざわざ「問うて云く、然らば、汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。」と問わしめているのである。もし「法華経の題目を本尊とする」ことが、久成の釈尊を否定するものではないという前提に立ってのことであるのなら、この問いの答えの論点は「しかるに釈尊を本尊としないというのは始成の釈尊をいうのであって、久成の本門の教主釈尊をいうものではない」との方向に趣くのが自然であろう。しかしその答えに示されたのは「法=題目=能生」「仏=所生」という法と仏的存在の対比構造であつて、その対比の中で明らかに所生の仏的存在を退けて、能生の題目を末代凡夫の本尊とするという意志が、より決定的に再確認されているのである。

 先に掲げた茂田井・北川両氏の会通は、本文を右のように読んでしまえば、久成の釈尊は大聖人によって本尊にあらずと否定されたことになり、それは『観心本尊抄』『報恩抄』の本門久成の釈尊を中心とした本尊観とあまりに懸隔する故になされたものであろう。

 しかしまず大切なことは、大聖人が事実として述べていることを直視することであり、その上でその事実の意味を真摯に問うことこそが肝要なのではあるまいか。本論考では大聖人の思想が、その時々にどのように変化しているかを見てきたのであるが、佐前佐後の変化はもとより、上行自覚に立つてからもさまざまな変化が認められるのである。そうした前提に立てば、このような変化は何等不思議なことではないと思われる。

 結論的にいえば、本抄においては、身延前期『観心本尊抄』『報恩抄』を中心として示された本門の教主釈尊を中心に据えた本尊観から、諸仏の師であり父母である妙法五字を中心とした本尊観に移行せんとする、大聖人の新境地が示されていると見るのが、最も自然であり妥当であろう。

 なお、釈尊および仏的存在が、法華経乃至法的存在によって相対化されるその兆候は、身延前期に既に見られる。すなわち『高橋殿後家尼御前御返事』に、

法華経は釈迦仏の御いろ、世尊の御ちから、如来の御いのちなり

と、法華経が釈尊及び諸仏の力であり命であると述べられているのであり、『本尊問答抄』はその延長線上に示された一つの結論というべきであろう。

 かといって、当然のことながら久成の釈尊が否定されたと考えるべきではない。身延前期においては本門の教主釈尊が中心に据えられたとはいえ、その本門の教主釈尊と一体不二の一大秘法たる妙法五字が、本尊の不可欠要素として提示されていたことは、先に示した『曾谷入道殿許御書』の文に明らかである。同じように、ここにおいて本尊の主体が妙法五字に据えられたとはいえ、本門の教主釈尊もまた本尊の不可欠要素として存在していることは、弘安2年7月13日状『孟蘭盆御書』に「あをぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり。」とあるなど、類文は枚挙にいとまなく疑う余地はない。

 しかしまた、身延前期において絶対的存在であった久成の釈尊が、本抄において妙法五字との対比によって相対化されているという事実は、これ以降の身延後期の思想を見て行くにあたって充分に認識される必要があろう。

 


(3)題目を本尊とする ―― 曼陀羅本尊正意

 本抄はその末尾に「其の旨をしらせまいらせむがために御本尊を書きおくりまいらせ候に、他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給ひ候へ。」とあるように、浄顕房に曼荼羅本尊を授与するにあたって、その意義を述べた送り状的役割を持つものである。したがって冒頭「法華経の題目を以て本尊とすべし」といわれる本尊とは、具体的には曼陀羅本尊を指すことはいうまでもない。

 曼陀羅本尊は、大聖人が『観心本尊抄』において上行自覚に立って本門観心本尊建立を宣言して以来、大聖人の手によって図顕されてきた。しかし前章で述べたように、身延前期においてはあくまで本門の教主釈尊が本尊の中心に位置していたのであり、その意味では曼陀羅本尊は『報恩抄』の「一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。」の文をまつまでもなく、本門の教主釈尊そのものであつたのである。したがって曼陀羅本尊と釈尊像本尊とは、けっして矛盾するものではなかった。

 しかし今本抄において、「釈尊を本尊とせず、法華経の題目をもって本尊とする」と述べられたことをもって、改めて曼陀羅本尊の相貌を拝せば、その中心に題目が配されている曼陀羅本尊こそ、本抄の意にふさわしい本尊といえるであろう。つまり曼陀羅本尊は、釈尊を中心とする本尊観よりも、題目を中心とする本尊観によりふさわしい相貌ということができるのである。

 さらに「法華経の題目を以て本尊とする」根拠として示された、『法師品』の

復舎利を安んずることを須ゐじ。所以は何ん。此の中には巳に如来の全身有す

『法華三昧懺儀』の

於テ道場ノ中ニ敷キ好キ高座ヲ安置シ法華経一部ヲ亦未必シモ須カラ安ス形像舎利並ニ余ノ経典ヲ唯置ク法華経一部ヲ

 の文に注目すれば、「釈迦を以て本尊とせず」とは、単に内実としての釈尊というばかりでなく、形態としての釈尊仏像の安置をも否定していく方向性を持っている、ということもできるのではないか。もともと法華経は法身の舎利すなわち精神たる法華経を安置することを説くのであって、砕心の舎利に執着することを否定する。天台大師はこの精神を受けて、さらに具体的に法華経以外の経典及び仏像やお骨の安置を否定したのである。ここにこれらの引文がなされているのは、曼陀羅本尊を末代凡夫の本尊と規定する根拠たるばかりでなく、そのことがやがて仏像の造立を規制していくものであることを示唆しているのではないかと思われるのである。

 しかしここには、大聖人のそうした明確な言葉があるわけではないし、その後においてもそのことに関する明言が見られるわけでもない。それどころか弘安2年2月時点で日眼女が「一体三寸」の釈尊像を造立していることを賞賛されている。そうした現実を踏まえれば、大聖人において不造像の思想が体系化され明示されているとはいい難いし、況や門下に周知徹底されているともいい難い。

 しかし、そうであったとしても、本抄に示された曼陀羅本尊正意と、釈尊本尊の否定、さらに形像安置否定の引文は、少なくともそうした方向性にあったことは、論理的にいって認められてよいのではないかと思うのである。そして体系的ではないものの、その方向性を示唆する言辞や現象は少なからず認められるのであって、それについては後述したい。

 ちなみに右『法華三昧懺儀』の文は、弘安2年9月20日状『伯耆殿御書』にも引文されている。本状はその殆んどが失われている故に全貌は知ることができないが、このとき熱原法難に関連すると思われる対論か訴状等を提出する状況にあつた日興に対し、本文を引いて対処するよう指示されており、おそらく『本尊問答抄』と同意の論が展開されていたものと想像される。そしてこのことは、この主張が一時的なものでなかったことを示していよう。



2、真言破折の変化

 『本尊問答抄』の対告者である浄顕房が清澄寺に任していたか否かは定かではないが、『報恩抄』の対告者のひとりでもあることから、清澄寺に近い位置にあったことは間違いあるまい。清澄寺は天台宗寺院であったときから、虚空蔵求聞持法の霊場として知られる密教色の濃厚な寺院であり、第1章で考察したように真言宗寺院への移行も大聖人滅後そうときを経ぬ時期であったと思われ。弘安元年当時はまさにその移行過程の時期に当っていた可能性が高い。それ故に本抄における真言破折は、全体の8割を費やされて、周到になされている。

 さて真言破折はこれまで、第1に成仏論から、真言の即身成仏論は天台の一念三千論を盗んだもので、所詮仏種を持たぬ有名無実の成仏論であると断じ、第2に本尊論において、「今、華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は、皆釈尊の眷属なり。」とて、大日如来は久遠実成の釈尊の垂迹身であって、真言はそのことをわきまえぬ本尊に迷えるものであると断じ、第3に所依の経について、『大日経』は方等経に属し、二乗作仏・久遠実成が説かれぬ故に法華経に劣ると断ずるという、以上3つの柱によってなされてきた。その姿勢は最後まで基本的に変わることはなかったが、『本尊問答抄』においては、第2、本尊比較に微妙な変化が認められるのである。すなわち真言破折の冒頭に

問うて云く、法華経を本尊とすると、大日如来を本尊とすると、いづれか勝るや。

 と述べて、本尊論において問者に、法華経と大日如来はいずれが勝れるかと問わしめているのである。その答えは、『法師品』の三説過の文をもって、法華経は勝れ真言三部経は七重劣るというもので、従来の破折と基本的には同じである。しかし注意すべきは、ここで本尊論において法華経と大日如来が対比されているという点である。従来は真言破折の初期段階である『八宗遠目抄』『開目抄』に、『寿量品』諸説の久成の釈尊と大日如来の対比によって「親を知らぬ禽獣に同ず」「本尊に迷えり」等と破折されて以来、本尊論においては常にこの両者が対比されてきたのである。勿論それとは別に所依の教典の対比として、法華経と真言三部経の勝劣が論じられることは、先に述べたごとくである。

 しかるにここにおいては、本尊論として法華経(その内実は題目である)と大日如来が対比されているのである。これはいうまでもなく、本抄の前段において「法華経の題目をもって本尊とする」と宣言されたことに対応するものであって、この変化こそ、本抄における 「題目を本尊とする」という、大聖人の強い意志を読み取ることができるのではないかと思うのである。そしてここに、従来の本門の教主釈尊と大日如来との対比を用いられなかったことは、これまた前段において「釈迦を以て本尊とせず」「法華経は釈尊の父母」といわれたことに対応しているのであって、この点においても、先に紹介した「釈迦を以て本尊とせずという釈尊は、本門の教主釈尊にあらず」 という所見は否定されてしかるべきなのである。

 

 

第2 この時期の変化について

 右に考察したように、『本尊問答抄』において大聖人は、本門の教主釈尊を中心に据えた本尊論から、法華経の題目を主体とする曼荼羅本尊への転換を示されたのであるが、先述したようにそれは必ずしも法義として体系化されてはいない。その理由は必ずしも明確ではないが、一つには先に述べたように、法華経の題目を本尊とするという主張自体は、これまでもずっと述べてきたことであり、体系的な著述を示さずとも、ただ仏的要素を中心とせず法華経の題目を中心とするという、基本方針を明らかにすればことが足りる故ではなかろうかと思う。またそれとは全く異なる観点から、建治3年12月末から起きた「痩せ病」の影響を考慮する必要もあるのかもしれない。すなわち弘安元年6月26日状『中務三郎左衛門尉御返事』には

将又日蓮が下痢去年十二月三十日事起こり、今年六月三日・四日、日々に度をまし月々に倍増す。

とあり、弘安元年11月29日状『兵衛志殿御返事』には

去年の十二月の三十日よりはらのけの侯ひしが、春夏やむことなし。あきすぎて十月のころ大事になりて侯ひしが、すこしく平愈つかまつりて候へども、ややもすればをこり候に、

 とあるように、大聖人はこの年、ずっと極度の下痢に悩まされていた様子がうかがえる。こうした劣悪な健康状態により、体系的な著述をなしえなかったことも考えられるのではないか。

 いずれにせよこの大いなる法義的転換は、著述としては『本尊問答抄』において述べられているだけで、他にそれに匹敵するような著述、記述を見ることはできない。

 しかし体系的著述はないものの、この『本尊問答抄』を前後して起こる決定的とも思えるさまざまな変化、すなわち第1に花押の変化、第2に書状に見られる御宝前の表現の変化、第三に曼陀羅本尊に関する種々の変化は、このときの大聖人の法義的転換を裏付けるものと考えられるのである。以下このことについて考察を加えたい。なお、これらについては、大黒喜道氏の論考「事行の法門について(五)――弘安元年宗祖花押の変化をめぐって」において詳説されており、まことに妥当な見解であるので、それを紹介しつつ、私見を交えて論じていきたいと思う。

 



1、花押の変化について


  (1)花押の変化についての諸見解

 大黒論文は、まず『本尊論資料』に収録される日朗門流の『当家相伝大曼陀羅事』や、行学院日朝の『諸宗本尊事』『御判形事』などの花押についての所見を紹介しながら、旧来諸門流に相伝される花押についての解釈を一瞥し、次で山川智応氏が発表した「日蓮聖人の花押に就いての研究」を最も整合性のある研究成果として紹介し、特に文永・建治年間(弘安元年4月11日状『檀越某御返事』まで)はバン( )字型花押であり、弘安以降(弘安元年6月26日状『治病大小権実遠目』から)はボロン( )字型花押であると主張することについては、これを全面支持している。しかし山川氏がバン字を用いた根拠を「火生三昧の折伏を表する不動明王の種子であり、または『法花秘決』の本尊の種子である」とし、同じくボロン字については「妙法輪が四天下を統一する意味の一字金輪の種子を用ひられたということは、前掲の如くこれ本門戒壇の本尊を含めたまへるものではないか。」とすることについては、新たな見解を提示している。すなわちバン字は宗祖修学期の密号と思われる、『五輪九字明秘密釈』の表紙に見られる「季冬(ウン・バン)」からその一字を取ったものではないか、さらにボロン字については山川氏の一字金輪仏頂尊の種子との説を支持した上で、「諸仏如来を内包し、それに優先する一乗法」を意味していると結論づけている。大黒論文のこの見解はまことに妥当と思われるので、次項「花押変化の意義」を述べる段でもう少し詳しく紹介したい。

 山川氏の弘安期を境にバン字型からボロン字型に変化するという説は、真蹟写真が一般にも提供され、総合的な分析が可能な現代にあつては、もはや異論を挟む余地は殆んどなく、恐らく今後も定説として支持されるであろう。しかし、当時に比して今日では、新たな書状の発見や、各書状の系年特定が若干進んでおり、山川氏がその境目とした『檀越某御返事』と『治病大小権実遠目』の間に『南條殿御返事』と『日女御前御返事』が入ることを提示しておきたい。

 『南條殿御返事』は本文及び日付宛所は日興の代筆、署名花押のみが大聖人の筆という、いわゆる代筆書状である。「卯月十四日」 の日付を有し、花押はバン字型でありながら、空点はボロン字型の特徴とされるワラビ手という、まさに移行期を示す珍しい形である。なお、曼陀羅本尊では、このバン字型ワラビ手の花押は、殆んど同時期である弘安元年4月21日No48本尊に見ることができる。

 また『日女御前御返事』は、文中「去年今年の大疫病」と建治3年から弘安元年にかけての疫病に触れていることから、弘安元年6月25日に系年が確定し、断簡書状ながら末尾署名花押が現存しており、ボロン字型花押の初見となる。

 ちなみに図を見て了解されるように、書状においては特に建治年間頃より花押の終筆と空点が繋がる傾向が見られる。しかしそれは徹底されているわけではなく、数は少ないが分かれているものも見られるのである。それに対し曼荼羅本尊においては、それが例外なく離れている。花押の終筆と空点が繋がっている書状の場合、カギ手とワラビ手との違いは一見ないように見えるが、よく見れば、カギ手の場合は終筆から空点へのかかりが、そのまま直線的に移行するに対し、ワヲビ手の場合はその移行の際に筆が一回転しているという違いがある。これはワラビ手の特徴である渦巻きを表現したもので、その違いはよく見ると『安州出雲尼御前御返事』などの例外を除けば、殆んど歴然としている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2)花押変化の意義

 さて、ではこの花押の変化は一体何を意味しているのであろうか。大聖人がそれを示す言辞を何一つ残されていない以上、手がかりとなるボロン字の持つ意味や、この時期の大聖人の心境を諸御書から探っていくほかはない。

 この件については、大黒氏の勝れた考察があるので、それを要約し紹介したい。先に示したように、大黒氏は山川氏が提示した、ボロン字が一字金輪仏頂尊の種子であることを前提としながらも、そこから一歩踏み込んで、大聖人が『注法華経』に『金剛頂経一字頂輪王喩伽一切時処念誦成仏儀軌』(通称『時処軌』)の「十方諸仏刹中。唯有一乗法。如来之頂法。等持諸仏体。是故恣智拳」の一文を注記していることに注目し、独自の見解を示している。すなわちこの一文は、一字金輪仏頂尊の真言たる「ボロン字」と、印たる「智拳印」を明かした直後の一文で、一字金輪仏頂尊の「智拳義」を明かしているのであり、とすれば本文は「一字金輪仏頂尊とは十方諸仏刹土の体である一乗法そのものであり、まさに諸仏如来の頂法として諸仏の体を等持するものである」という意になる。故に大聖人がボロン字を花押に盛り込んだ大きな要因の一つとして、「諸仏如来を内包し、それに優先する一乗法」とのイメージを示すことにあったのではないかと推測している。

 そして、この「ボロン字=一字金輪仏頂尊の種子=諸仏を内包しそれに優先する一乗法」という構図を念頭に置けば、大聖人が弘安元年5・6月頃にボロン字を盛り込んだ花押に変化させているのと、殆んどときを同じくして、弘安元年9月に『本尊問答抄』にて、諸仏の出生の父母たる妙法曼荼羅を本尊とすると宣言したのは、同一根であると推測しているのである。

 私はこの意見に全面的に賛意を示したいと思う。大黒氏もいうように、花押の変化の意味はなにも「法華経の題目をもって本尊とする」ことのみに限定する必要はない。その他の意味も内包されていてしかるべきであろう。しかし、右のような意味内容や示された時期等において、これだけの共通項がある以上、両者に密接な関係を見出すことは当然のことであろうと思われる。

 なお、山川氏はボロン字への変化を、同時期の弘安元年4月11日状『檀越某御返事』に、公場対決の沙汰止みと3度目の流罪の噂の記述があることから、「最早聖人御在世中には、その本願の遂行せられないことを観ぜられたのではないかと推測せられる。・・・即ち事実に建てられるべき本門戒壇を、後世の為め、褚上に染められたのが、弘安以降の大曼荼羅ではないかと私はおもふ。」「前掲の如くこれ本門戒壇の本誓を含めたまへるものではないか。」と述べて、本来在世中に期待した広宣流布と本門戒壇の建立が、在世中には望めない故に、花押の変化を含む曼荼羅本尊の相貌変化によって、その希望を託したとしている。

 山川氏の説は、一字金輪は「妙法輪が四天下を統一する意味」であるとの前提に立ってのものであるが、曼荼羅本尊の相貌の変化といい、ボロン字型花押の意味といい、広宣流布・戒壇建立と関連させることについては、今一つ整合性があるとは思えない。しかし後述するように、山川氏が『檀越某御返事』の記述の中に、大聖人が自身の在世中に広宣流布位望めないという観測を持ったことを読み取っている点については、賛意を表したい。



2、法華経の御宝前へ


(1)書状に見る御宝前の表現

 御宝前の表現の変化に関しては左の研究がある。

 まず望月歓厚氏が論考「日蓮聖人の本尊について」において、佐前から本尊及び御宝前の記述のある御書を網羅的に摘出し、かなり綿密な考察を加えている。しかし真撰・偽撰の考察がなされておらず、また『本尊問答抄』を偽撰視するなど、真偽の判定にも問題があり、かつ系年特定にも若于の齟齬が見られるので、一往の参考に止めざるを得ない。

 また、鈴木一成氏は論考「祖書に示されたる本尊の種々相」において、御書の中から本尊についての記述のあるものを、(1)本尊はかくあるべしとの教示 (2)本尊を個人的に授与された際の説明 (3)本尊の供養を依頼された際に与えた説明 (4)門下の造像を認可された記録 (5)宗祖自ら奉安された本尊を暗示する記録、以上五項に分類し列挙している。その中で(5)の「宗祖自ら奉安された本尊を暗示する記録」において、(A)本尊を直接示されているもの (B)供養物を捧げた記述より本尊を暗示するものの二項をもうけ、さらに(B)について (イ)単に釈迦仏・御仏・仏前等と仏を示すもの (口)釈迦仏法華経等と仏と法とを並べ挙ぐるもの (ハ)単に法華経の御宝前等と法のみを示すもの、との三項に分けて列挙している。これは望月氏よりも、真蹟及び真撰と認められる御書が中心となっている点進化している。しかし、真偽未決の書状が含まれるとともに、対告者や系年についても若于の齟齬が見られる。

 大黒論文はこれら先行論文を参考にし、その中から主に弘安年間の、真蹟現存、曾存、高弟写本のある御書を抽出して列挙している。

 さて、ここではこれらを参考としつつ、次の要領で大聖人の御宝前を表現した書状を、系年順に列挙する。

 【掲載基準要領】
イ、ここにあげる文言は、あくまでも大聖人の本尊に関する見解というのではなく、御宝前をいかに表現しているか、ということに関するものである。但し「法華経にまいらす」「仏にまいらす」「法華経に供養す」「法華経に申す」等の表現は、単に供養の表現のみならず、備えたとの意味をも含むものであるから、広義に御宝前を表現していると見て、その中に入れた。

口、真蹟存、曾存、古写本のあるものに限った。これに属さぬものは、参考として注に書名・系年・表現表記のみを一括してあげたが、その傾向に大きな変化は見られない。これはそれらの書状の信憑性が高いことを示すものといえるだろう。

ハ、その範囲は、弘安元年を境とする表現変化を見ることに主眼があるので、一応身延期に限った。もっともそれ以前にはそのような表現自体あまり見られない。


 【御宝前表現書状一覧】


@ 文永12年1月27日『四条金吾殿女房御返事』(釈迦・法華経・日天)「今三十三の御やくとて、御ふせをくりたびて候へば、釈迦仏・法華経・日天の御まえに申しあげ候ひぬ。」


A 建治元年『白米和布御書』(法華経供養)「白米五升・和布一連給はり了んぬ。阿育大王は昔得勝童子なり。沙の餅を以て仏に供養し一閻浮提の王と為る。今の施主は白米五升を以て法華経に供養す。」


B 建治2年3月30日『忘持経事』(釈尊御宝前)「触レテ案内ヲ入リ室二、教主釈尊ノ御宝前ニ安置シ、母ノ骨ヲ」


C 建治3年4月12日『乗明聖人御返事』(法華経)「今の乗明法師妙日並びに妻女は銅銭二千枚を法華経に供養す」


D 建治3年5月3日(『定本』『新定』は建治元年)『上野殿御返事』(釈尊・法華経)「さつきの二日にいものかしらいしのやうにはされて候を一駄、ふじのうへのよりみのぶの山へをくり給ひで候。・・・所詮はわがをやのわかれのをしさに、父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給ふにや。孝養の御心か。」


E 建治3年(『定本』弘安元年)『衆生心身御書』(『随自意御書』)(法華経)「山中の法華経へまうそうがたかんなををくらせ給ふ。」


F 弘安元年7月7日『種々物御消息』(『窪尼御前御返事』)(法華経)「しなじなのものをくり給びて法華経にまいらせて候。」


G 弘安元年7月14日『芋一駄御書』(法華経)「法華経に申しあげ候ひぬれば、御心ざしはさだめて釈迦仏しろしめしぬらん。恐々謹言。」


H 弘安元年10月21日『初穂御書』(法華経御宝前)「御はつをたるよし、法華経の御宝前に申し上げて候。」


I 弘安2年五5月23日『阿耆多王御書』『断簡三三五』(仏)「大一一斗、胡瓜二十五給了。仏にまいらせて候。」


J 弘安2年7月13日(『定本』は弘安3年)『孟蘭盆御書』(仏前)「麿牙(こめ)一俵・やいごめ(焼米)・うり
 ・なすび等、仏前にささげて申し上げ候ひ了んぬ。」


K 弘安2年8月8日『上野殿御返事』(法華経)「鵞目一貫・しは一たわら・噂鴟一俵・はじかみ少々、使者をもて送り給び了んぬ。……此れを法華経にまいらせさせ給ふ。」


L 弘安2年9月15日『四条金吾殿御返事』(法華経御宝前)「銭一貫文給はりて、頼基がまいらせ候とて、法華経の御宝前に申し上げて候。」


M 弘安2年11月25日『兵衛志殿女房御返事』(法華経御宝前)「兵衛志殿女房、絹片裏給はり候ひ了んぬ。此の御心は法華経の御宝前に申し上げて侯。」


N 弘安2年12月27日『窪尼御前御返事』(法華経)「此れは日蓮を御くやうは候はず、法華経の御くやうなれば、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に此の功徳はまかせまいらせ候。」


O 弘安3年1月11日『上野殿御返事』(法華経御宝前)「十字六十枚・清酒一筒・薯蕷(やまのいも)五十本・柑子二十・串柿一連送り給ひ候ひ畢んぬ。法華経の御宝前にかざり進らせ候。」


P 弘安3年4月10日『富城入道殿御返事』(法華経)「鵞目一結給はり候ひ了んぬ。御志は挙げて法華経に申し候ひ了んぬ。定めて十羅刹御身を守護すること疑ひ無く候はんか。」


Q 弘安3年6月27日『窪尼御前御返事』(法華経)「いまの比丘尼は、あわのわさごめ山中にをくりて法華経にくやうしまいらせ給ふ。いかでか仏にならせ給はざるべき。」


R 弘安3年7月2日『千日尼御返事』(法華経御宝前)「鵞目一貫五百文・のり・わかめ・ほしい・しなじなの物給はり候ひ了んぬ。法華経の御宝前に申し上げて候。」


S 弘安3年12月28日(『定本』は弘安元年・『定本』『新定』『対照録』は21日)『十字御書』(法華経御宝前)「十字三十。法華経の御宝前につみまいらせ候ひぬ。又すみ二へい給はり候ひ了んぬ。恐々謹言。


21 弘安3年10月23日『大豆御書』(法華経御宝前)「大豆一石かしこまって拝領し了んぬ。法華経の御宝前に申し上げ候。」


22 弘安3年12月18日『智妙房御返事』(法華経御宝前)「鵞目一貫送り給びて法華経の御宝前に申し上げ了んぬ。」


23 弘安4年4月10日『富城入道殿御返事』(法華経)「鵞目一結給ヒ候ヌ了。御志ハ者挙ゲ申シ法花経ニ候了。定テ十羅刹守護スルコト御身ヲ無ク疑ヒ候ハン歟。」


24 弘安5年1月11日(『定本』『新定』は弘安2年)『上野郷主等御返事』(法華経御前)「昔の徳勝童了は土のもちゐを仏にまいらせて一閻浮提の主となる。今の檀那等は二十枚の金のもちゐを法華経の御前にささげたり。」

 なお、真蹟存及びそれに準ずる御書以外の御書に見られるものについては、注に示しておく

                                             

  (2)御宝前の表現の変遷

 右に列挙した書状を整理すると、御宝前あるいは御宝前の表現が無くともそれに準ずるであるうと思われる表現には、第1に「釈尊」あるいは単に「仏」などといって、単に仏的存在のみをいう場合と、第2に「釈迦仏・法華経」あるいは「法華経・十羅刹」などといって、人的存在と法的存在とを合わせていう場合さらに「法華経」あるいは「法華経の御宝前」等と法的存在のみをいう場合の、3種に分類することができる。その内訳は、第1はBIE、第2は@D、第3はACDFDHK〜24である。但しG『芋一駄御書』「法華経に申しあげ候ひぬれば、御心ざしはさだめて釈迦仏しろしめしぬらん。」N『窪尼御前御返事』の「此れは日蓮を御くやうは候はず、法華経の御くやうなれば、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に此の功徳はまかせまいらせ候。」の文は、一見第2に属すようではあるが、双方直接的には法華経へ供養したとしているので、第3に入れた。また第1に属するJ弘安2年7月13日『孟蘭盆御書』の「仏前にささげて申し上げ候ひ了んぬ。」の「仏前」について、大黒論文では精霊を指している可能性があることをもって一応除外している。 もちろん微妙な表現ではあるが、今は御宝前を表現したものとして第一に入れた。

 この内訳を全体的に見ると、まず気づくことは第3の法的存在たる法華経(それは当然ながら題目を含む)が圧倒的に多く、身延全期に及んでいることが分かる。そして特筆すべきはJ弘安2年7月13日『孟蘭盆御書』以前は第1・第2・第3が混交しているが、K弘安2年8月8日『上野殿御返事』以降は第3に統一されているということである。



(3)御宝前の表現が変化する意味――「法華経の御宝前」の意味

 右のように、これまでの研究成果を踏まえ、さらに今日の各書状の系年等に関する学的成果を踏まえて、身延期の大聖人の御宝前に関する記述を列挙し、その傾向を右のように結論づけたが、ではその傾向が何を意味するのかという点について考えてみたい。

 まず、右に見た大まかな傾向については、望月・鈴木・大黒3氏ともに共通して認識していると思われる。特にここで問題にしようと思う「法華経の御宝前」という表現が、弘安元年以降に頻出する傾向についても、その分類表を見る限り望月・鈴木両氏は認識していたと思われるし、大黒氏に至っては、弘安元年10月21日状『初穂御書』以降は、信頼できる書状においては、「法華経の御宝前」との表現が圧倒するばかりか、「釈迦仏等とのつながりは全く述べられていないのである」と述べている。

 しかしこの「法華経の御宝前」が意味する内実については、望月・鈴木両氏と、大黒氏との認識は決定的に相違している。すなわち望月氏は、「法華経の御宝前」というのは、「妙法五字の御宝前」という意味ではなく、身延の御宝前を「一尊釈尊と法華十巻が奉安されたと推定される」とした上で、その釈迦一体像と法華経十巻を指すものと断じている。

 また、鈴木氏も概ね望月氏と同じく、身延の御宝前を「即宗祖在世の身延の中心は、立像釈尊と注法華経一部であり、殊に一体仏は本尊として尊崇され、大曼荼羅、一尊四士、二尊四士は奉安されなかったと考へられる」とし、「表現では法華経の御宝前等とのみであるが、……その奥に安置される立像仏を予想されると考える。」としている。

 この望月・鈴木両氏の説を要約すれば、「法華経の御宝前」とは妙法五字や曼荼羅本尊を意味するものではなく、身延の御宝前たる釈尊一体仏と法華経十巻を意味するものであって、それを法華経十巻を主体とし、釈尊像を裏に内示して表現したもの、ということになろう。

 それに対して大黒氏は、右に見た御宝前の表現が釈尊中心から法華経中心に変化するのが、弘安元年九月の『本尊問答抄』や、花押の変化と殆んど時期を同じくしていることに注目し、「身延草庵の御宝前の形態は、終始一貫して釈尊一体仏と法華経一部であったと考えられるけれども、宗祖ご自身の意識の中ではその日々拝される本尊に対する焦点というものが、文永・建治年間にはどちらかと言えば釈尊中心であったものが、弘安年間に入って法華経中心へと明確に変化したのではないか、と私は考える。」と述べている。そして「法華経の御宝前」の法華経について、『上野殿御返事』の「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」の文をあげ、「法華経とは一部ニ十八品よりも題目の南無妙法蓮華経をその実質的内容としての呼称であることは贅言を要しない。」と述べて、「法華経の御宝前」の法華経の実質的内容は、題目であると結論づけている。

 私は、次項で述べるように身延の御宝前が終始一体仏と法華経一部のみであったという意見にはいささかの疑問を持ち、さらに「法華経の御宝前」という表現への変化についても、大黒氏のいわれるような決定的な変化ではなく、やや緩やかにそのように統一されていくと考えるが、それ以外の点については大黒氏の意見に賛成である。

 望月氏や鈴木氏の意見は、大黒氏も指摘するように、釈尊中心の本尊観から会通するものであり、そのような会通は教義解釈としては可能かもしれないが、それは、弘安元年頃から「法華経の御宝前」という御宝前の表現が多くなり、弘安3年からはそれに統一されていくという事実を、全く無視した所論といわざるをえない。ここにおける問題の所在は、このような表現変化という事実を踏まえた上で、それをどのように理解し解釈するかという点にあるのであって、その変化を直視せずになされるある意味強引な会通は、問題に対する答えとはならない。それともこの変化はたいした意味がないというのであろうか。それも一つの意見ではあろうが、あまりにも事実を軽視するものであって、事実の積み重ねとそれに対するより整合性のある解釈を指向する学問とはとてもいいがたいであろう。

 やはり上述した花押の変化や御宝前の表現の変化、そして後述する曼荼羅本尊の相貌の変化の意味は、丁度時期的にもときを同じくする、『本尊問答抄』の「法華経の題目を本尊とする=曼荼羅本尊を中心に据える」という本抄を貫くテーマと、深く関わっていると考えるのが自然であり、またそのような相関関係を想定してこそ、それぞれの変化の意味が、無理なく整合性をもって理解されるものと思うのである。

 また、「法華経の御宝前」とは「題目五字の御宝前」を意味しないとするのも、根拠に乏しいといわざるをえない。大聖人が、末法の衆生の良薬たる上行所伝の一大秘法として示されたのは、『観心本尊抄』『法華取要抄』『曾谷入道殿許御書』等に明らかなように、妙法五字であることは異論を挟む余地がない。そしてときにその要法五字を単に法華経と表現することがあることも、そう珍しいことではないことは周知の事実である。現に『本尊問答抄』において、冒頭「法華経の題目を以て本尊とすべし」といいながら、一方では「末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とする也。」と述べているのであって、ここに「法華経を以て本尊とする」といわれるのを、題目ではないという者はまずいないであろう。ここでは法華経を本尊とする系譜として、釈尊や天台を例にあげる故に、広義に「法華経」といわれているのであり、意としては冒頭部分の「法華経の題目を本尊とする」と同じであることは疑う余地がないのである。

 そうであるならば、「法華経の御宝前」といわれるのを、「法華経の題目の御宝前」と解するのはむしろ自然なことであって、それを法華経一部に限定し、かつ題目を意味しないとするのは、その明確な理由と根拠が無い限り、とても首肯することはできないのである。


  (4)形態としての御宝前に変化はあったか

 さて、御宝前の表現においては、弘安年間を境に「法華経の御宝前」へ徐々に移行し、やがて統一されていく傾向を見てきたが、しからば実際の身延め御宝前に形態的な変化はあったのだろうか。この件に関し前掲の望月・鈴本両氏は、そもそも御宝前の表現の変化はあっても内実には変化がないという見解であるから、形態としてはなおさら、釈尊一体仏と法華経十巻という御宝前は全く変化がないとの見解に立っている。

 しかるに大黒氏は先に紹介したように、意識としては曼荼羅本尊中心に移行したと考えられるが、御宝前の形態としては「宗祖が自筆の曼荼羅本尊を拝まれていた可能性も全くないとは言えない。」としながらも、その痕跡を遺文の中に見いだせないことから、「身延草庵の御宝前には釈尊一体仏の前に法華経が置かれていたと考えるのが一番自然のように思われる」と望月・鈴木両氏の説を支持し、さらに「よって細かい問題はいくつかあるにしても、釈尊一体仏とその前に安置された法華経という御宝前の形は最後まで変わることはなかったと考えられるのである。」としている。

 大黒氏が指摘されるように、大聖人の御書に明確な御宝前の形態を示す文言がない以上、それを示唆するようなたとえば『忘持経事』の「教主釈尊御宝前安置母骨」というような文言や、残された大聖人の所持品等をたよりに、想像するほかはない。その点で三氏が共通して認識する「釈尊一体仏とその前に法華経が奉安される御宝前」というのは、『宗祖御遷化記録』に遺品として釈尊一体仏が残されていたことや、『本絵二像開眼事』等に見られる、仏像には法華経安置による開眼が不可欠であるとする記述を勘合すれば、それが『注法華経』と限定してよいかは別として、整合性のあるものというべきであろう。しかし私はそこに、曼荼羅本尊をも奉掲されていたと考えるのである。
 なぜかならば、第一に『観心本尊抄』に。

此時地涌千界出現シテ本門ノ釈尊ノ為テ脇士ト一閻浮提第一ノ本尊ヲ可シ立此国ニ

と述べられて以来、大聖人は上行自覚という新境地に立つて、上行所伝の本門観心本尊を建立するという強い意志が見られることがあげられる。つまりそれまでの本尊とは、上行菩薩が末法に再誕して建立する本尊であるという点で、決定的に相違しているのであつて、そのことは本尊を安置する御宝前において、何らかの形で表現する必然性があつたと思うのである。その際たとえば一尊四士の造立であつても、そのことに関していえば充分に上行所伝を表現されたことになるであろう。しかしそのような形跡は諸資料から確認することはできない。それに対し曼荼羅本尊は、上行自覚乃至上行所伝の本門の本尊を明確に表現し図顕されているのであつて、それを御宝前に奉掲安置することが、その新境地を表現するには最も合理的であり適切であると思われるのである。

 とすれば、それまでの本尊形態と推される「一体仏と法華経安置」の御宝前に対し、その形態を持続しながらも、殊に身延入山後一段落した段階で、その御宝前に曼荼羅本尊が追加奉掲されることは、むしろ必然と考えるべきではないだろうか。

 第2に、特に身延前期においては本門の教主釈尊が本尊の中心であつたことは事実であるが、上行所伝の本尊義において妙法五字は不可欠であつたはずで、とりあえずその双方を表現するためには曼荼羅本尊を追加安置することが最も適当であるということである。上行所伝の本尊義において妙法五字が不可欠であることについては、『新尼御前御返事』に端的に拝することができる。少し長文になるが煩をいとわず掲げておこう。

但大尼御前の御本尊の御事、おほせつかはされておもひわづらひて候。其の故は此の御本尊は天竺より漢上へ渡り候ひしあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候ひし人々の中にもしるしをかせ給わず。・・・今 此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、神力品属累に事まりて候ひしが、・・・我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟了あり。此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、・・・諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火炎を脱るべしと仏記しをかせ給ひぬ。而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて、此の二十余年が間此れを申す。・・・・さどの国と申し、此の国と申し、度々の御志ありて、たゆむけしきはみえさせ給はねば、御本尊はわたしまいらせて候なり。

 ここには新尼御前に曼荼羅本尊を授与するにあたり、その妙法五字の曼荼羅本尊が、釈尊五百塵点劫証得の本尊であり、二千二百二十余年前の法華経本門虚空会の神力品において釈尊より上行菩薩等が結要付嘱され、それ以来正法・像法二千年の間月氏・漢土・日本に建立弘通されず、今末法の始め濁悪のときに上行菩薩が再誕して図顕建立されるものであることが端的に示されているのである。すなわち上行所伝の本尊に、妙法五字が不可欠であることは疑う余地が無い。そして『法華取要抄』に

日蓮ハ捨テ広略ヲ好ム肝要ヲ。所謂上行菩薩所伝ノ妙法蓮花経ノ五字也。

と述べられ、また『曾谷入道殿許御書』に

爾ノ時二大覚世尊演説シ寿量品ヲ、然シテ後ニ示現シテ於十神力ヲ付属シタマフ於四大菩薩ニ。其ノ所属之法ハ何物ゾ。乎。法華経之中ニモ捨テ広ヲ取リ略ヲ捨テ、略ヲ取ル要ヲ。所謂妙法蓮華経之五字・名体宗用教ノ五重玄也。・・・但持シテ此一大秘法ヲ隠居スル於本処ニ之後、仏ノ滅後於テ正像二千年之間ニ未一度モ出現セ。所詮仏専ヲ限リテ末世之時ニ付属セシ於此等大士ニ故也。

と述べられることから、要法五字は法華経の広略を簡んでのことであることに思いをいたせば、御宝前に但法華経十巻のみならず、必ずや上行所伝の妙法を表現する何物かが安置される必要があるはずなのである。理論的にいえばそれは一遍首題でもよいのかもしれない。しかし、現にその妙法が中央に配される曼荼羅本尊が図顕されているのであるから、それを奉掲することが最も自然なおり方であるうと思うのである。

 ちなみに身延入山から半年ほどたった文永11年12月に図顕された、No16通称万年救護本尊といわれる曼荼羅本尊は、右の『新尼御前御返事』と殆んど同内容の「大覚世尊御入滅後経歴ス二千二百二十余年ヲ、雖モ余ト月漢日三ケ国之間未有マサ此大本尊或ハ知テ不弘之ヲ或ハ不知ラ之。以テ仏智ヲ隠シ留メ之ヲ為ニ末代ノ残ス之ヲ後五百歳之時上行菩薩出現シテ於テ世ニ始テ広弘宣ス之ヲ」という図顕讃文を持つ。「甲斐国波本井郷於山中図之」という脇書からしても、これは弟了檀越に授与することを目的としたものではなく、上行所伝の本尊が図顕建立される意義を宣することを目的としているように思われ、身延の御宝前に安置されていた曼荼羅本尊は、この曼荼羅本尊と確定することはできないにしても、少なくともこれに類するものであったろうと推定する。

 さてでは本題に戻り、弘安元年のこの時期に御宝前に変化があったか否かという問題であるが、身延入山後の御宝前が右の如くであったとすれば、基本的に変化させる必要はなかったと思われる。むしろ曼荼羅本尊が安置されている御宝前は、本来「法華経の題目を本尊とする」「法華経の御宝前」といわれるにふさわしいものであったというべきであろう。

 但し、次項で考察するように、曼荼羅本尊は当初より順次相貌が変化し、弘安元年中頃に決定的ともいえるいくつかの変化を見せて、弘安2年頃に安定期を迎えるという傾向が見られる。すなわち弘安年間に曼荼羅本尊は整束した形になるのであって、その点を考慮すれば、場合によってはその整束した曼荼羅本尊に代えられた可能性がないわけではない。しかし今はその可能性を示唆するに止めておきたい。

 この項を終えるにあたって是非触れておかなければならぬことがある。それは執行海秀氏が論考「日蓮聖人の曼荼羅について――特に本尊との関係に於て」において、

しかるに曼荼羅は、かかる久遠の仏を表面に現わすものでなく、その久遠の仏の本質と、その属性ともいうべき、一念三千の妙法蓮華経、すなわち本門の題目の内容を示されたものである。したがって曼荼羅は直ちに、本尊として現わさんとせられたものでなく、それは久遠本仏の精神界を図顕せられたものである。・・・そこでこれを更に要約すれば、曼荼羅は本尊の原理を示されたものである。

と述べ、曼荼羅はあくまで本尊の原理であって本尊ではないとしていることである。もし曼荼羅が本尊ではないとすれば、今までの立論はまさに空論に帰すわけであるが、はたしてそうであろうか。結論からいえばこれは断固否定されなければならない。理由は誠に単純明快である。先に示した『新尼御前御返事』やNo16本尊の図顕讃文において、大聖人自ら明確に「曼荼羅=本尊」とされているのであって、疑を挟む余地は全くないのである。

 

 

3、曼荼羅本尊に関して

 曼荼羅本尊は山中喜八氏が「日蓮聖人曼荼羅図集」等に詳説しているように、その相貌が年代を追ってさまざまな点で変化している。そのことについては後「第6項 本章の結論」において、少しく論ずるが今全体的にその様相を大観するならば、初期の頃から弘安初期にかけてかなりの変化が見られ、相貌が整備されていく様相を見ることができ、弘安2年頃からは変化は少なく、一応の安定期に入るという傾向が見られる。これは曼荼羅本尊が大聖人己証の本尊として、成熟し完成していく過程を示すものであろうし、それはまた宗祖の法義が成熟し完成していく過程ということでもあろう。そういう意味では弘安2年頃から相貌の変化の度合いが少なく安定するのは、法義的成熟度が高くなっていることを示すということができよう。

 さてここでは、右のような全体的な傾向を念頭に置きつつ、とりわけ弘安2年の安定期に入る直前、弘安元年の『本尊問答抄』を前後して、曼荼羅本尊の相貌に著しい変化があることに注目したい。恐らくそれはこの時期の思想変化を反映したものと予想されるが、以下具体的にどのような変化があったのか、さらにその変化にはどのような意味があると考えられるのか、その辺を探っていきたいと思う。

 

 

(1)花押の変化 

 先に花押の変化とその意味について述べたので、ここではその変化は当然曼荼羅にも見られることを述べるに止める。現存するものではNo49本尊がボロン字型花押の初見で「弘安元年7月日」との日付がある。書状での初見が6月25日状『日女御前御返事』であるから、資料的には書状の方が先ということになる。しかし花押が法義上の意識変化を象徴しているとすれば、その新境地を示した花押はまず曼荼羅本尊に使われるのがふさわしいように思われる。現存していないものの、むしろ曼荼羅本尊の方が先であった可能性が高いであろう。


(2)善徳仏・十方分身諸仏の排除

 善徳仏・十方分身諸仏が列衆に配されるのは、年記のあるものではNo11文永11年六6月日本尊を初見とし、ごく初期から配されていることがわかる。しかるにこれら諸仏の列座はNo46建治3年11月日本尊を以て最後とし、No47弘安元年3月16日本尊以降には見られなくなる。

 では何故にこれら諸仏は曼荼羅本尊から除かれていくのであろうか。その理由を大聖人は明示されていないが、『本尊問答抄』において、釈尊以下仏的存在が相対化されていることと関連しているのではないかと思われる。すなわち『本尊問答抄』においては、法華経の題目を主体とした本尊観が示され、諸仏はその妙法から生じたものであって本尊の主体ではないと宣せられているのであり、虚空会の儀式の主体に属する釈迦・多宝は当然不可欠であるが、その垂迹的存在であるこれら諸仏は、相対化の一環として排除されたのではないかと思うのである。

 また、これらの諸仏が列衆に配されるのは、ことに当初から身延前期にかけては、曼荼羅本尊の重心がなお『寿量品』を中心とする在世法華経世界にあったことによるものと思われる。すなわち本門の教主釈尊を主体とする虚空会の儀式に加え、『普賢経』に

既に懺悔し已って当に是の語を作すべし、南無釈迦牟尼仏、南無多宝仏塔、南無十方釈迦牟尼仏分身諸仏と。是の語を作し已って、遍く十方の仏を礼したてまつれ、南無東方善徳仏及び分身諸仏と。眼に見る所の如くしてこに心をもって礼し、香華をもって供養し、供養すること畢って胡跪し、合掌して、種種の偈を以て諸仏を讃歎したてまつり既に讃歎し已って、十悪業を説いて諸罪を懺悔せよ。

とあることを意識されて、善徳仏等の諸仏が配されたものと思うのである。しかるに、『本尊問答抄』を前後して、曼荼羅本尊の重心が文字通り滅後末法に移るものと思われ、それ故に善徳仏等は排除されるのではないかと思われるのである。


(3)「有供養者福過十号若悩乱者頭破七分」の讃文

 次にNo53・No54の弘安元年8月日本尊より見られる「有供養者福過十号若悩乱者頭破七分」の讃文について考えてみたい。

 先に身延前期の思想において、釈尊の相対化の兆候について述べる中、「法華経の行者供養の功徳の強調」という項をもうけて、『日女御前御返事』の「仏は無量劫に一度出世し給ふ。彼れには値ふといへども法華経には値ひがたし。設ひ法華経に値ひ奉るとも、末代の凡夫法華経の行者には値ひがたし。」等の文に象徴されるように、仏よりも法華経、法華経よりも妙法五字並びに法華経の行者という構図が見られることを述べた。そしてこの構図の根拠としては、『法師品』の「人有って仏道を求めて、一劫の中に於て合掌して、我が前に在って無数の偈を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん。」との文や。『文句記』の「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」の文などがあげられることを示した。
 そして今、その根拠の一つである『文句記』の「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」の文が、曼荼羅本尊の讃文として掲げられるゆえんは、当然そのことと無縁ではないであろう。すなわち仏的存在と対比した上で末代の法華経の行者の優位なることが法義上示されるばかりでなく、曼荼羅本尊に讃文として示されることによって、一層確たるものとすべき大聖人の意志を読み取ることができると思うのである。そしてこのような意識が、ひいては『諌暁八幡抄』における釈尊と聖人との直接的対比の上での、末法の教主自覚となっていくものと思われる。


(4)授与書きと図顕の数

 次に、授与書きにおいても変化を見ることができる。もっともそれは授与書きそのものの変化ではなく、授与書きの有無の変化である。

 身延入山以降、No11文永11年六6月日本尊からバン字型花押の終りNo48弘安元年4月21日本尊まで、現存する曼荼羅本尊は合計38幅である。しかしNo25は文永九9年頃の佐渡百幅本尊なのでこれを除けば37幅(これを(A)とする)となる。その内授与書きがあるのは10幅である。しかしこの内、No11「沙門天目受与之」は異筆と見られるからこれを除けば9幅。またNo28は、首題・署名花押・経文(讃文)という特殊な形態であり、またNo38・39・40の3幅は千葉氏頼胤の了供三3人に宛てた守りで、これまた列衆が仏と本化四菩薩のみであるから、場合によってはこの4幅は他の本尊と区別すべきかもしれないのである。なお、No12は日興が如寂日満に相伝した旨の添え書きがあるが、後年のものであるからここに入れていない。

 そのような状況もあるが一応それらすべてを本尊授与書きと考えても、この時期の曼荼羅本尊37幅の内、授与書きのあるものは9幅で約24パーセントである。もし、右に述べた特殊な4幅を除いた場合は約14パーセントということになる。パーセンテージはともあれ、もっと具体的にいえば、守りとしてでなく本尊として授与されたことを示すものは、No26「平時光授与之」(本授与書きは本尊内になく、別紙としで伝わる)、No31「釈日与授之」、No32日興の添え書きによる持妙尼への授与、No37「大日本国沙門日照之」、No48「優婆塞日専」の5名5幅にすぎないのである。

 一方ボロン字型花押の最初No49弘安元年7月日本尊から最後No123弘安5年6月日本尊まで74幅中(これを(B)とする)、授与書きがあるのは64幅で、ボロン字型花押になって以降の授与書きのある本尊の比率は、実に約86パーセントである。但し、授与書きが削損して見えない場合でも、授与書きがあったことがわかるものはここに入れている。またNo90は題目・署名花押・経文(讃文)の特殊なものであるが、これも一応数の内に入れている。

 勿論(A)の授与書きがないものでも、特定の人に授与された可能性がないとはいいきれないであろうが、それを考慮したとしても、(B)において圧倒的に授与者が記された曼荼羅本尊の割合が多いという傾向は、はっきりと読み取ることが。できるのである。

 また、曼荼羅本尊図顕数の対比についても、右にも示したように(A)は文永11年6月から弘安元年4月まで約4年間で37幅、(B)は弘安元年7月から弘安5年6月まで約4年間に78幅であり、同じ年数でありながら、倍以上の差があるのである。

 右のように、授与書きといい、曼荼羅本尊図顕の数といい、(A)に対し(B)が圧倒している事実は、(A)(B)の丁度境目に位置する『本尊問答抄』の「法華経の題目を以て本尊とする」という宣言と、けつして無関係ではあるまい。すなわち大聖人はこの宣言を境に、曼荼羅本尊こそ日蓮門下の本尊であることを周知すべく、精力的に曼荼羅本尊を図顕され、そして授与者を明記して門下に授与されたものと思われるのである。


 但し、先にも述べたが、これは造仏本尊との二者択一的周知というのではなく、それを許容しつつも、本義としての曼荼羅本尊を精力的に授与することによって、緩やかに周知せしめようとされたものと思われる。

 これも先に示したことだが、弘安2年2月『日眼女釈迦仏供養事』において、一体三寸の釈迦仏造立を賞賛されている。しかしまた、同状冒頭に御守書てまいらせ候とあって、同時に守り本尊を授与されていることがうかがえ、かつ翌年弘安2年2月1日に「俗日頼」すなわち四条金吾にNo71本尊が授与され、また同じく2月に妻日眼女がNo72本尊を授与されているのであり、これこそ、緩やかな周知の姿を示すものと思うのである。

 


第3 曼荼羅本尊の世界

 

1、曼荼羅本尊正意の契機は何か

 右に『本尊問答抄』を基点とし、それを取り巻くさまざまな周遍の状況を勘案して、この時期から「法華経の題目を本尊とする」曼荼羅本尊正意が、徐々に醸成されていく状況を見てきた。

 しからばこのような法義的展開は、一体何を契機としてなされたのであろうか。もちろん、それが必ずしもなにものかを契機としてなされたという前提に立つ必要はなく、ただ大聖人の心境の中で、法義的新展がなされたことも充分に考えられるのであるが、それにしてもこの時期の大聖人を取り巻く環境の中に、その契機らしきものを見いだせるのか否か、その辺を見てみたい。

 第1に、先ず注目すべきことは、弘安元年3月から4月にかけて、いったん公場対決の気運が高まり、それが立ち消えとなったことである。この件に関しては「身延前期の思想」においていささか述べたので、ここでは詳説は避けるが、弘安元年3月21日状『諸人御返事』に見られる公場対決の期待が立ち消えになるばかりか、3度目の流罪の噂までが流れたことを述べた4月11日状『檀越某御返事』には、もはや日本国が自ら大聖人の仏法を受け入れる道は、完全に閉ざされたという強い意識をうかがうことができるのである。

 もちろんそれ故にこそ、蒙古襲来への期待はある意味では一層強くなるのであるが、現実問題として文永の役以降その兆しはなかなか見えてこない。そしてそれが現実化しない限り、日本国はまさに逆縁世界なのであって、そうした現実をこの出来事は大聖人に突きつけることになったのではなかろうか。

 第2にこの時期、大聖人は極度の体調不良にあったことも考慮すべきでなかろうか。先に述べたように、建治元年12月30日に極度の下痢が始まり、それは翌弘安元年の間中、多少の小康はあったもののその宿病に悩まされ続けたことが、弘安元年6月26日状『中務左衛門尉御返事』及び弘安元年11月29日状『兵衛志殿御返事』等によりうかがい知ることができる。このような身体的な条件も加味して、自身の存生の内に順縁世界が実現することは厳しいと判断された可能性は大であるといえよう。

 そして第3に、ときあたかも駿河地方では、文字通り厳しい逆縁世界において、日興とその門弟による旺盛な弘教活動が展開され、富士下方の市庭に所在する滝泉寺や、日興が供僧をつとめた蒲原四十九院において、院主代や寺務と日蓮門下との軋轢が活発化し、さらに『弟了分本尊目録』によれば、後弘安2年10月に処刑される熱原の農民たちが、この頃から次々と入信し始めるのである。

 このような諸状況が重なり合った結果、そうした現実に対応すべく、身延前期において展開した、蒙古襲来による順縁広布及び本門の教主釈尊を中心とする本門三大秘法の建立を前提とした順縁世界の法義から、現実逆縁世界を前提とした法義への転換を指向されたのではないかと思うのである。


2、逆縁世界の序章―なぜ曼荼羅本尊か

 では何故に、曼荼羅本尊正意が逆縁世界を前提とした法義への転換を示すことになるのであろうか。しかしこれは転換というより、本来のあり方に回帰したと考えるべきではなかろうか。すなわち佐渡期『開目抄』で主張された不軽菩薩の折伏行は、逆縁世界を前提としていることは論を待たない。さらに『観心本尊抄』において上行再誕の自覚に立たれたのも、あるいはまた『法華取要抄』において、法華経広略を捨てて上行所伝の肝要妙法五字を末法の衆生に授与すると宣言されたのも、五々百歳の日本国が逆縁世界であることが前提となっていたはずなのである。曼荼羅本尊には当然いろいろな要素が込められているにせよ、そうした逆縁世界を前提とした法義が土台となっていることは疑いあるまい。

 大聖人が弘安元年『本尊問答抄』を前後して、自分の滅後をも視野に入れて逆縁世界における法義の確立を決意したであろうことは、先に考察した通りであるが、そのときに当たってもともと逆縁世界を前提として建立された曼荼羅本尊を中心に据え、「法華経の題目を以て本尊とする」と宣言されたのは、むしろ必然であったというべきではなかろうか。そういう意味では、その基点というべき『本尊問答抄』の存在は極めて大きいのである。

 だがしかし、これはまだ逆縁世界の法義確立の序章であった。この後まさに現実逆縁の世界において、熱原法難という門下あげての試練を経て、それはいよいよ成熟していくのである。

 

 

 

第2項 熱原法難について



 第1、熱原法難関係年表


 まず熱原法難関係の事項を年代を追って示しておこう。


【熱原法難の遠因――日興の駿河弘教】

文永5年8月日

日興『実相寺衆徒愁状』を呈す。

文永6年12月8日 

日興『実相寺住僧等申状』を呈す。

文永11年8月6日

『異体同心事』を駿河地方の重鎮に送り、熱原の人々はじめ一同の志しを賞賛するとともに、異体同心にてことにあたるよう指導す。

建治元年6月27日

『浄蓮房御書』を興津の浄蓮房に送り、駿河の人々の同心を促す。

建治元年7月2日

『南條殿御返事』を南條時光に送り、所領替えなどの弾圧があっても、思い切つて信仰を貫くことを指導す。

建治2年頃 

この頃、滝泉寺院主代行智の法華経読誦停止の起請文を拒否した住僧日禅、所職の住坊を剥奪され離散す。また日秀・日弁も所職の住坊を剥奪され無頼の身となり、所縁を憑んで寺中に寄宿す。

建治3年5月3日

『上野殿御返事』に、「おほきなる難」「ひとのせいしあらば心にうれしくおすべし」等の記述が見られる。

建治3年5月15日

『上野殿御返事』に、南條時光に対し上の威光を嵩に信仰をやめさせようとの動きがあったこと、また新田家や興津方面にもこの種の事件があったであろうことがうかがえる。

建治4年1月16日

実相寺衆僧豊前公が、同じく実相寺住僧の尾張阿闍梨の邪義につき大聖人に尋ねる。『実相寺御書』

建治4年2月23日

『三沢抄』にて駿河の人々の同心を促す。

弘安元年3月

日興等『四十九院申状』を呈し、寺務厳誉が法華信仰をやめないことを理由に住坊田畑を奪い寺内を追出した

弘安元年 

この頃熱原法難にて処刑された農民達が入信する。『弟了分本尊目録』

 

 


【熱原法難の経過】

弘安2年4月

熱原農民の信仰者と思われる「四郎男」が、御神事の最中に、下方政所代によって刃傷される。行智の策謀と。『滝泉寺申状』

弘安2年8月

熱原農民「弥四郎男」斬首される。’これも下方政所代によるものと思われる。『滝泉寺申状』

弘安2年9月20日

『伯参殿御書』にて日興に、申状か陳状かと思われる文章の作成を指示される。また起請を書かぬように指示される。大進房の落馬の記述あり。21日の事件以前のことなので、4月の四郎男刃傷事件か8月の弥四郎男斬首に関することと思われる。

弘安2年9月21日

行智、日秀等の煽動により苅田狼籍をはたらいたとして、熱原法華衆20人を逮捕せしめ、弥藤次入道に訴状を提出せしむ。

弘安2年9月26日

『伯参殿並諸人御中御書』にて、日興等に訴状に対する陳状の作成を指示する。

弘安2年10月1日

『富木入道殿御返事』にて富木入道に、鎌倉の法廷にて刃傷殺害事件に関わった賀島の大田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房、また滝泉寺の本院主がどのような証言をするかよく聞くように指示す。また、大進房について「つよづよと書き上げ」ることを指示す。

弘安2年10月1日

『聖人御難事』にて四条金吾に、大田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房の落馬は法華経の現罰であることを示し、熱原の農民を励ますことを指示す。

弘安2年10月12日

『伯者殿御返事』にて日興等に陳状の草案を提示し、熱原の百姓が安堵されれば問注しなくてもよいとしながらも、問注を遂げる場合の諸注意を示す。

弘安2年10月12日

『滝泉寺申状』(陳状草案)を『伯者殿御返事』とともに日興へ託す。

弘安2年10月17日

『聖人等御返事』にて、日興から10月15日熱原法華衆に有罪判決が下された旨が伝えられたことを受けて、速やかに問注を遂げよと指示す。なお、判決は張本3人は斬首、17人は禁獄。『弟了分帳』

 

 

【熱原法難のその後】

弘安2年11月6日

『上野殿御返事』にて、熱原法難のありがたさを時光に伝える。同日同内容の門下代筆『治部房御返事』が治部房に送られる。但し熱原法難のありがたさを伝える奥書は見られない。

弘安2年11月25日

『冨城殿女房尼御前御返事』にて富本殿とその女房に、越後房下野房をかくまうよう要請す。

弘安2年11月日

熱原信徒優婆塞日安に本尊を授与す。

弘安3年2月日

熱原信徒優婆塞目安、すなわち「富士下方熱原六郎吉守」に本尊を重ねて授与す。『弟了分帳』

弘安3年3月日

熱原信徒優婆塞日安の女に本尊を授与す。

この頃

富士下方熱原新福地神主(下野房弟了)に本尊を授与す。以下『弟了分帳』富士下方三郎大郎(下野房弟了)に本尊を授与す。

富士下方江美弥次郎(越後房弟了)に本尊を授与す。
富士下方市庭寺大郎大夫入道(越後房弟了)に本尊を授与す。
富士下方市庭寺大郎大夫入道了息弥大郎(越後房弟了)に本尊を授与す。
富士下方市庭寺大郎大夫入道舎弟又次郎(越後房弟了)に本尊を授与す。
富士下方市庭寺弥四郎入道(越後房弟了)に本尊を授与す。
富士下方市庭寺田中弥三郎(越後房弟了)に本尊を授与す。

弘安3年4月19日

『かわいどの御返事』にて河合殿に、「この御をん」(恐らく婉曲な弾圧であるう)を忍従し、3年ほど堪え忍べば御内も静まるであろう、と述べられる。

弘安3年5月3日

『窪尼御前御返事』に、熱原の件に付き、有罪判決の御教書は自分のときもそうだったように(虚御教書であるうと推していたことが示される。この時熱原法難の嫌疑が晴れて、熱原農民が釈放されたか。

弘安3年7月2日

『上野殿御返事』に、これまで熱原の神主をかくまった事への社を述べられる。また、妻了については詮索はなかろうが、神主について支障があれば身延によこすよう指示されている。

弘安3年8月22日

『治部房御返事』に、第六天の魔王が国主・僧などに入って、法華経信仰を阻止する姿は、駿河国賀島荘において、現前に身に宛てて見たとおりである、と述べられる。

弘安3年10月24日

『上野殿母尼御前御返事』に、当時日本国の祈りが叶わぬのは、法華経の行者たる日蓮一門をあなずる故であると述べられる。

弘安3年12月27日

『上野殿御返事』に、時光が熱原法難の際、世間から主君に背いた将門のように思われながらも、熱原の人々をかくまい養ったことを賞賛される。また「公事のせめ」についてコメントされる。

弘安4年3月18日

『上野殿御返事』に神主が身延にいることを示唆する。

 

 

 

第2 熱原法難の経緯

 

 1、熱原法難の遠因――日興の教線拡張と弟子檀越の動向

 日興の駿河における動向を示す資料の初見は、文永5年8月日の『実相寺衆徒愁状』と、それに関連すると思われる文永6年12月8日『実相寺住僧等申状』の2通の申状である。『実相寺衆徒愁状』は実相寺住僧達が、他所から補任された現院主を、院主の職務を全うせず、実相寺を私物化し、乱行の限りを尽くす故に解任し、実相寺住僧の中から院主を撰補せしむるよう訴えたものである。日興は富士川を挟んだ蒲原庄の同じ天台宗寺院である四十九院の供僧であったが、本申状を写して生涯持参していたようであるし(正本が北山本門寺に現蔵される)、実相寺と四十九院は隣接する同じ天台宗寺院であるから、日興はこの件に深く関与していたものと思われる。さて、本申状を見る限り、後の『四十九院申状』や『滝泉寺申状』のように、日蓮門下に連なることによっての住持との軋棒に関しては全く述べられておらず、訴え自体は実相寺の正常化であって、日興は当時既に日蓮門下ではあったものの、日興の弘教の一環とは切り離して考えるべきかもしれない。

 しかし、当時大聖人の主張は、佐渡から身延期のように台当本迹異目に立ったものではなく、国家の安泰は天台法華宗の復興にありというものであったから、日興等の「乱行の院主を追放し、顕密の正義を信行しうる環境を整える」という訴えは、その延長線上にあるものと考えることもできよう。

 日興の、佐渡流罪以前の駿河地方の弘教に関しては必ずしも明らかではないが、『弟子分帳』に弟子としてあげている檀越の内、血縁・地縁にある南條家・高橋家・河合家などは、佐渡流罪以前に日蓮門下となっていたことがうかがえる。しかし、日興の本格的な駿河弘教は、大聖人身延入山以降というべきであろう。日興は大聖人が身延に落ち着かれるや、地縁・血縁・法縁を軸として、佐渡以来上行再誕の自覚に立って展開された大聖人の仏法を、猛烈な勢いで弘教していくのである。

 その様子は、早くも身延入山2ヶ月半後の文永11年8月6日状『異体同心事』に見ることができる。

はわき房・さど房等の事、あつわらの者どもの御志ざし、異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶事なしと申事は、……

 この対告者は、本状冒頭に「はわき房のびんぎに鷲目一貫、並にうけ給」とあり、また文中「貴辺は、多年としつもりて奉公法華経にあつくをはする上」とあることから、日興の関係者でこのとき既に信仰厚き重鎮であったようであるから、日興の母方の実家である河合家(祖父河合入道かその惣領)か、叔父にあたる高橋六郎入道あたりが妥当かと思われる。特に高橋六郎入道は熱原にほど近い賀島の住であるから、本状の内容からして適当と思われるが、翌建治元年7月12日状『高橋入道殿御返事』に「又先度の御返事も申候はぬ事はべちの子細も候はず。」とあって、高橋殿等に対し、幕府の弾圧があることを懸念して、先の便宜に対する返事を出さなかったことが述べられていることが気にかかる。但し「先度の御返事」を出さなかったというのは、必ずしも今までずっと御返事を出さなかったとの意と限定はされないのではないか。当初は御返事を出したが、その後幕府の動きを感じられて控えたとも考えられよう。しかし今は、こうした不確定要素を含む故に、日興の関係者で駿河の重鎮としておきたい。

 さて、この対告者に対し、細かなことは不明ながら、異体同心してこの信仰を貫くことを指導しており、しかも「はわき房・さど房等の事、あつわらの者どもの御志ざし」とあるから、こうした人々に関することであろうと想像することができる。恐らく日興や日向の弘教によって、熱原方面に信仰者が増えていき、対告者は自身の供養とともに、そうした人々からの供養も届け、彼等の信仰活動の様子を報告したのであろう。ちなみにその入信者たちは「あつわらの者ども」といわれており、『聖人御難事』に「彼のあつわらの愚痴の者ども」、また『上野殿御返事』に「あつはらのものどものかかえをしませ給へる事は」と述べられていることを勘案すれば、僧や地位のある人々はでなく、在家百姓等ではなかったかと思われる。

 次に建治元年6月27日状『浄蓮房御書』に

返す返すするがの人々みな同じ御心と申させ給ひ候へ。

とあることを取り上げたい。対告者である浄蓮房については、堀日亨師は東叡山文庫蔵の興津文書(東大史料編纂所本)に「文永十年癸酉二月二十二日、藤原忠綱判、沙弥浄蓮判」とある沙弥浄蓮に比定し、興津住の藤原家の者としている。また大石寺蔵日興筆写の『法華経』の奥書に、「駿河国息津左衛門三郎藤原時業、二十ニテ請之、弘安二年五月日」とある藤原時業も同族と見ている。その推測は妥当なものであろう。『浄蓮房御書』によれば、その父は念仏者であつたようであるが、その子息浄蓮と、年からすれば浄蓮よりかなり年少の藤原時業が大聖人に帰依していることから、2人以外にも同族の中に帰依者がいたであるうと想像される。また時業が日興に法華経の授与を請うていることから、興津藤原家の教化は目興が当たったことが知れよう。興津は日興の叔母の嫁ぎ先である由比に隣接しており、そうした地縁を生かしたものであろう。

 さて、その蒲原庄興津に住する浄蓮房に、駿河の信徒の団結を促されているということは、浄蓮房が駿河地方の信徒の中で相応の位置にあったこと、また興津の地に何らかの信仰的軋轢があったことを示唆していいよう。実際後述する『上野殿御返事』にも「にいた殿の事、まことにてや候らん。をきつの事、きこへて候。」とあって、興津藤原家の奮闘ぶりをかいま見ることができる。おそらくその軋轢とは、次に述べる南條家の場合のように、得宗家御内人か荘園領主(駿河国は得宗領であるから、領主もまた得宗家縁故者が多かった)クラスが、執権の威光を嵩に弾圧を加えたのではないかと思われる。

『浄蓮房御書』の5日後、7月2日状『南條殿御返事』には

ふつとおもひきりて、そりやうなんどもたがふ事あらば、いよいよ悦とこそおもひて、うちうそぶきてこれへわたらせ給へ。

と述べられ、南條時光に対し、もし所領替えなどの弾圧があったとしても信仰を貫くべきこと、その結果行き場が無くなるようなことがあれば身延の地に来るよう、その覚悟の程を促されている。所領替えという以上、幕府の中枢が直接関与してのことと思われ、それは後述する『上野殿御返事』に見られる、上の威光により時光の法華信仰を妨害する者が、どのような位置にある者であるかを暗示するものである。

 翌建治2年、『滝泉寺申状』によれば、日興の教化により滝泉寺住僧にも信仰者が続出し、院主代より弾圧を受けている。すなわち

日秀・日弁等為テ当寺代々之住侶ト。積ムノ行法之薫ヲ条、致す天長地久丿御祈祷ヲ之処、行智ハ乍ラ補シ当寺霊地之院主代ニ、仰セテ于寺家三河房頼円並ニ少輔房日禅・日秀・日弁等ニ、行智於テハ法花経ニ者不信用之法也。速ニ停止シ法花経丿読誦ヲ、 一向ニ読ミ弥陀経ヲ、可キ申ス念仏ヲ之由、書カハ起請文ヲ、可キ安堵之旨、令ムルノ下知ヲ之間、頼円ハ者、随テ下知ニ書テ起請ヲ、雖令ト安堵セ、日禅等ハ者、依テ不ルニ書カ起請ヲ、奪ヒ取ルノ所職丿住坊ヲ之時、日禅ハ者、即令メ離散セ畢ヌ。日秀・日弁ハ者、依テ為ルニ無頼之身、相ヒ憑ミ所縁ヲ、猶令ムル寄宿セ寺中之間、此四箇年ヵ之程、奪ヒ取り日秀等之所職ノ住坊ヲ、打チ止ムル厳重御祈祷ヲ

 と述べられるように、建治2年頃に、日興の教化により大聖人に帰依した滝泉寺住僧三河房頼円・少輔房日禅・日秀・日弁が、滝泉寺院主代行智により、法華経読誦停止の起請文を強要され、頼円はそれに従い安堵されたが、拒否した日禅は所職の住坊を剥奪され離散、日秀・日弁も所職の住坊を剥奪され無頼の身となったが、所縁を憑んで寺中に寄宿することとなったという。

 この事件はやがて弘安2年の熱原法難に発展する、直接的遠因というべきもので、この後も日秀・日弁は精力的に弘教活動を展開したようで、『弟子分帳』には熱原に住する在家百姓、滝泉寺に属する在家百姓等、多くの二人の弟子を確認することができる。

 また建治2年12月9日状『松野殿御返事』には

実相寺の学徒日源は日蓮に帰伏して所領を捨て、弟了檀那に放され御坐して、我が身だにも置き処なき由承り候に、日蓮を訪ひ衆僧を哀れみさせ給ふ事、誠の道心なり、聖人なり。已に彼の人は無双の学生ぞかし。然るに名聞名利を捨てて某が弟子と成りて、我が身には我不愛身命の修行を致し、仏の御恩を報ぜんと面々までも教化申し、此の如く供養等まで捧げしめ給ふ事不思議なり。

 とあって、実相寺住僧である日源が、所職・所領を放棄して大聖人の弟子になり、おそらく縁故があったであろう松野家を教化したことがわかる。但しこの日源の改衣も、直接的には日興の教化によるものと思われる。

 次に建治3年に入ると、先に少々述べた南條時光への弾圧を示す、建治3年5月3日状および15日状『上野殿御返事』がある。

 まず5月3日状には

もし此事まことになり候はば、わが大事とおもはん人々のせいし候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此事かなうべきにやとおぼしめして、いよいよ強盛なるべし。さるほどならば聖霊仏になり給べし。成給ならば来てまほり給べし。其時一切は心にまかせんずるなり。かへすがへす人のせいしあらば、心にうれしくおぼすべし。

 とあって、時光の信仰を「せいし」する動きがあったことが知れる。大聖人はこれこそ信心決定の試練と受け止めて、かえって喜ぶべしと教導されているが、時光としてはなお具体的な教示を得べく、再度書状を呈したものと思われる。その返書が15日状である。

大魔のつきたる者どもは、一人をけうくんし、をとしつれば、それをひっかけにして多くの人をせめをとすなり。・・・殿もせめをとされさせ給ふならば、するがにせうせう信ずるやうなる者も、又、信ぜんとおもふらん人々も、皆法華経をすつべし。

 まず、時光が信仰を守るか否かは、時光自身のことのみならず、駿河の他の信仰者の問題でもあり、もし時光が信仰を捨てれば、皆が信仰を捨てることになるのであるから、心してことに当たるよう指示される。

そして

我が命は事出できたらば上にまいらせ候べしと、ひとへにおもひきりて、何事につけても言をやわらげて、法華経の信をうすくなさんずるやうをたばかる人出来せば、我が信心をこころむるかとおぼして、各々これを御けうくんあるはうれしき事なり。ただし、御身のけうくんせさせ給へ。上の御信用なき事はこれにもしりて候を、上をもておどさせ給ふこそをかしく候へ。参りてけうくん申さんとおもひ候ひつるに、うわてうたれまいらせて候。閻魔王に、我が身といとをしとおぼす御めと子とをひっぱられん時は、時光に手をやすらせ給ひ候はんずらんと、にくげにうちいひておはすべし。

 と述べて、上の威光を嵩に脅し教訓してくる者があれば、「上の信用なき者が、上の威をかりて脅し教訓するとは笑止千万、反対に当方から丁度教訓しに行こうと思っていたところである」と反論せよと指示されている。『妙心尼御前御返事』に「わずかの日本国なれども、さがみ殿のうちのものと申すをば、さうなくおそるる事候」とあって、当時若き執権北条時宗の御内人が、時宗を無視しつつその威をかりて横暴な振る舞いをしていたことが指摘されているが、おそらくこのとき、時光を教訓しに来た者も、このような御内人、それも大聖人と敵対関係にある平左衛門に近い存在であったろう。しかも時光が日蓮信仰をしていることが、直接自身に不都合であったと思われる者を想定すれば、一族であり御内人でもあったと考えられる、鎌倉南條家の者の可能性が高いのではなかろうか。

 こうした動きは時光のみならず、駿河の日蓮信仰の中心的な者に対しても、同時進行的になされたものと思われる。すなわち次下に

にいた殿の事、まことにてや候らん。をきつの事、きこへて候。殿もびんぎ候はば、其の義にて候べし。かまへておほきならん人申しいだしたるらんは、あはれ法華経のよきかたきよ、優曇華か、盲亀の浮木かとおぼしめして、したたかに御返事あるべし。千丁万丁しる人も、わづかの事にたちまちに命をすて、所領をめさるる人もあり。今度法華経のために命をすつる事ならば、なにはをしかるべき。

 とあって、伊豆の新田氏、興津の藤原氏にも同様な軋轢があり、それに屈しないで信仰を貫く姿を見習うように指示されている。

 そもそも駿河・伊豆の二国は、「文治以降元弘まで、北条氏家督(得宗)の分国として終始した……」といわれるように北条家得宗領であり、ことにこの時代は得宗政治が形成され、得宗家御内人の実力者である平左衛門が隠然と力を発揮した時代であるから、ごうした一連の日蓮門下に対する弾圧は、平左衛門や彼を取り巻く得宗被官の存在を、充分に考慮しなければならないのである。そのことについては、熱原法難について述べる段で、もう少し掘り下げて述べることにする。

 翌建治4年(2月29日弘安に改元)は、3月には先述の如く一時諸宗との公場対決の機運が高まったようであるが、駿河地方においても、実相寺や四十九院において活発な動きが見られる。

 建治4年1月16日状『実相寺御書』には、実相寺住僧で日興の教化を受け大聖人に帰依した豊前公が、同じく実相寺住僧の尾張阿闍梨と法義論争をしたことがうかがわれ、豊前公が尾張阿闍梨の主張を報告したのに対し、その邪義なることを詳細に教示している。

 また翌2月23日状『三沢抄』には

かへすがへす、するがの人々みな同じ御心と申させ給ひ候飛へ

 と、先述の『浄蓮房御書』の奥書と全く同文の端書きが見られる。三沢は西山河合のほど近くに所在し、その三沢氏に団結を促されるところ、特にこの年の各所での軋轢を念頭に置いてのことと思われる。

 翌3月、弘安元年3月日の日付を持つ『四十九院申状』によれば、四十九院の住僧である日興・日持・賢秀・承賢が、四十九院寺務厳誉を、日興等が法華信仰をやめないことを理由に住坊田畑を奪い、寺内を追出したことを不服として訴えている。日蓮信仰を理由に追放されるのは、滝泉寺の場合と同じであり、先に見た実相寺も含めて、天台宗寺院における日興等大聖人の弟子檀越の活動の活発なる様、そしてそれに対する各院主代や寺務の危機意識を読み取ることが出来る。さらにいえば、院主代や寺務の危機感は、この地が得宗領であり、後家尼御前など幕府中枢の者が支配する土地柄であること、またそれ故に生じたであろう先述の南條時光周遍の軋轢、さらに後述する平左衛門の主導にて弾圧されたと思われる熱原法難等を勘合すれば、実際の領主である幕府中枢の危機感でもあったであろう。

 また、『四十九院申状』には

外道歟非ル外道ニ歟、早ク被召合厳誉律師ト欲ス被レンコトヲ糾サ真偽ヲ

と述べられて、寺務厳誉の不当行為を糾弾するのみならず、厳誉が主張するように、日蓮の説く教えが外道であるか否かを、公場において対決し是非を決するよう求めており、これは同じ3月21日の『諸人等御返事』に見られる、公場対決の機運と無関係ではないかもしれない。

 ともあれこうした状況を勘案すれば、4月11日状『檀越某御返事』に見られる大聖人の3度目の流罪の噂は、決して故なきことではなかったのである。

 このように、弘安元年、駿河地方はまさに一触即発の様相を呈していたのであり、そうした中で熱原法難の直接的被害者となった熱原の農民たちは、次々に入信していくのである。『弟了分帳』には

此三人者越後房下野房弟子二十人之内也・弘安元年奉信始処・・・

 とあり、逮捕され斬首された三人は、弘安元年に帰依していることがわかる。おそらく他の17人の農民の 入信もほぼ同じ頃であったろう。

 以上、文永11年身延入山から弘安元年に至る、駿河地方における日興の弘教の様相と、その成果にかか る弟子檀越達の動向を大聖人の書状を中心に見てきたが、このように順を追って諸状況を大観すれば、熱原 法難が決して局部的突発的な事件ではなく、幕府中枢、具体的にいえば平左衛門及びその裏に見え隠れする 北条時頼後家尼御前と大聖人門下の対立・対決構造の中で、日蓮門下弾圧という必然性を以て、起こるべく して起こった事件であることがわかるのである。では、熱原法難の実態はいかなるものであったろうか。堀 日亨師・高本豊氏等の先学の見解を参考とし、今日の諸消息の系年・対告、その他いくつかの学的成果を踏 まえて、以下考証を加えて見たい。



2、熱原法難について


  (1)第一次弾圧――四郎男・弥四郎男の刃傷殺害事件

 富士下方庄熱原郷に所在する滝泉寺では、先述のごとく早くも建治2年頃には、信仰をめぐって院主代行智と住僧下野房日秀・越後房日弁等とに軋棒が生じ、日秀・日弁は所職と住坊を奪われたものの、「所縁を相憑み」滝泉寺に寄宿していたようである。そして両師の旺盛な教化により、滝泉寺の在家農民を始め、近在の農民のみならず、新福地(新富士=三日市場所在の浅間神社であろう)の神主等々、次々と帰依者を生むに至った。熱原法難時に逮捕された者だけでも20人に及ぶのであるから、その数は相当なものであったと推定される。こうした状況に強い危機意識を懐いた院主代行智は、いよいよ弘安2年に入り下方の政所代をも巻き込んで、実力行使に出るのである。

 『滝泉寺申状』によれば、まず弘安2年4月に、「法華経信心之行人四郎男」が、御神事の最中に、下方政所代によって刃傷されるという事件が起きている。ここには「法華経信心之行人」としか述べられていないが、「四郎男」といわていること、また本事件が行智の策謀であったことを思えば、滝泉寺に属する在家百姓であったと思われる。

 そしてその4ヶ月後の8月、同じく滝泉寺在家百姓と思われる「弥四郎男」が、今度は斬首されている。斬首というのであるから、先の刃傷事件とは違い、逮捕しての斬首であるうと思われ、これも下方政所代が深く関わっていたことは間違いあるまい。しかも『滝泉寺申状』の「日秀等擬刎頭」との文よりして、被害者側にはこの処刑が、日秀等の首謀者を牽制するためとの認識があったようであるから、斬首の罪状は不明ながら、後の20人の逮捕の場合と同じように、法華衆を威嚇するために、何らかの嫌疑をかけての別件逮捕であった可能性が高い。

 さて、このような事件を踏まえ、日興は大聖人に事の状況を詳しく報告すると共に、その対処について指導を仰いだと思われる。それに対する返状が、9月20日状『伯耆殿御書』である。前欠ながら日興の写本が現存する。但し、北山本門寺に所蔵される、本状を含む本事件に関する一連の日興筆写にかかる書状は、現在の掛け軸に表装する際に多くの錯簡が生じたようで、近時大谷吾道氏によってその錯簡が修正されている。この考察により、現行『聖人等御返事』の奥書「この事のぶるならば……あわぢ房をすべし。」の全文が、実は「『伯者殿御書』の奥書であることが判明したのである。

 今、その研究成果をもとに『伯耆殿御書』を復元すれば次のようになる。

(前欠)形像舎利並余経典 唯置法華経一部と申釈と、直専持此経則上供養の釈をかまうべし。余経とは小乗経と申ば、況彼華厳○以法化之。故云乃至不受余経一偶の釈を引け。はわきどのへ。
弘安二年(日興到来筆)九月二十日  日蓮御判
返々いままであげざりける事しんへうしんへう。この事のぶるならば、此の方にはとがなりと、みな人申すべし。又大進房が落馬あらわるべし。あらはれば、人々ことにおづべし。天の御計らいなり。各々もおづる事なかれ。つよりもてゆかば、定めて了細いできぬとおぼふるなり。今度の使ひにはあわぢ房をすべし。

 さて、『伯耆殿御書』は9月20日状であり、翌日の滝泉寺における百姓等の逮捕劇以前であることを考えれば、今日までの通説にいくつかの修正すべきことが生ずることになる。すなわちその一つは、本状に既に「大進房が落馬」について述べられているのであり、10月1日状『聖人御難事』に「大田親昌・長崎次郎兵衛尉時縄・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか。」と述べられているのは、9月21日の逮捕劇に生じた事故ではないということである。おそらく大進房等の落馬は、4月の四郎男の刃傷事件か、弥四郎男の逮捕斬首のときのことであろう。ちなみに堀師は大進房と大進阿闍梨を同人と見て、大進房がこの事故により間もなく死亡しているとしているが、明らかに大進房と大進阿闍梨は別人である。
 また『伯耆殿御書』本文には、『法華三昧懺儀』『法華文句記』『五百問論』等を引くように指示されているが、『五百問論』の同文が『滝泉寺申状』にも引用されていることから、法華信仰の正当なることを主張する陳状なり申状なりの作成の指示であったと思われるのである。しかも「返々いままであげざりける事しんへうしんへう。この事のぶるならば、此の方にはとがなりと、みな人申すべし。」と述べるのは、後10月12日状『伯耆殿御返事』に、起請文を書いてはならぬといわれるのと同じ意であろうと思われる。つまり、9月21日の逮捕劇に先んじて、この地においては大がかりな刃傷殺害に及ぶ弾圧があり、それに対する訴訟の準備も着々と進められていたということになろう。

 この2つの事件については、2人の刃傷殺害の他には詳しい記述は見られないが、大進房等の落馬事故や訴訟の準備などから推せば、両事件とも実際は2人のみならず他の法華信者をも巻き込んだ、かなり大がかりなものではなかったかと想像されるのである。

 さて、このような状況下、『伯耆殿御書』と同日書状である『大尼御前御返事』に興味深い記述が見られる。

いのりなんどの仰せかうほるべしとをぼへ候はざりつるに、をほせたびて候事のかたじけなさ。かつはしなり、かつは弟子なり、かつはだんななり。御ためにはくびもきられ、遠流にもなり候へ。かわる事ならばいかでかかわらざるべき。されども此の事は叶ふまじきにて候ぞ。大がくと申す人は、ふっうの人にはにず、日蓮が御かんきの時、身をすててかたうどして候ひし人なり。此の代は城殿の御計らひなり。城殿と大がく殿は知音にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御てをこのまるる人なり。

 冒頭「いのりなんどの仰せかうほるべしとをぼへ候はざりつるに、をほせたびて候事のかたじけなさ。」とあって、何者かが大聖人に祈りを依頼したものと思われる。文脈をたどればその「いのりの仰せ」はまず大学三郎に伝えられ、大学三郎からおそらく本状の対告者である大尼御前に伝えられ、大尼御前より大聖人に伝えられたのであろう。大聖人はその申し出について、まさかそのような仰せを蒙るとは思いもしなかったので、大変かたじけなくは思うけれども、また、伝言するあなたは、自分にとって師ともなり弟子ともなり檀越ともなる大切な存在であるけれども、このことだけは受け入れることはできない、といわれている。では「いのりの仰せ」を依頼した人物は誰か。次下に大学三郎と城殿、すなわち安達泰盛との書を介しての親密なることが述べられていることからして、安達泰盛の依頼であったと見るのが至当であろう。とすれば安達泰盛は何の祈りを依頼したのであろうか。そのことについての記述は見られず、これはあくまでも推測にすぎないが、このとき直接大聖人と交渉のない安達泰盛が、大聖人に祈祷の依頼をするとすれば、それは私的なものではないであろう。おそらく異国調伏の祈祷を依頼したものと思われる。しかし大聖人は、先に平左衛門の申し出を拒否した如く、ありがたくは思うが諸宗と同座しての祈祷を断固として拒絶されたのであろう。

 ときあたかも、幕府の一方の実力者である平左衛門が、着々と日蓮門下弾圧を謀る中、安達泰盛が大聖人に異国調伏の祈祷を依頼する動きがあったとすれば、当時の幕府の両雄の位置関係、すなわち後弘安8年の霜月騒動に発展する両者の敵対関係を彷彿とするものといえるのではあるまいか。



 (2)第二次弾圧――熱原農民の逮捕と処刑

 訴訟の準備を整えようという矢先の9月21日、危機感を強める院主代行智は機先を制し、下方政所代を使って熱原農民20人の逮捕に踏み切った。罪状は苅田狼籍である。同時に行智は自己の行為を正当化すべぐ、弥藤次入道に訴状を提出させている。その訴状には次のように事件の様子が記されている。

訴状云今月二十一日催フシ数多丿人勢ヲ、帯シ弓箭ヲ打入院主分之御坊丿内ニ、下野坊ハ乗馬相具シ、熱原丿百姓紀次郎男立テ点札ヲ、刈リ取テ作毛ヲ取リ入レ日秀丿住房ニ畢ヌ云云〈取意〉。

 すなわち、9月21日に日秀率いる武装した農民達が院主の坊内に討ち入り、しかも紀次郎は勝手な点札を立てて稲を刈り取って日秀の住坊に持ち込んだ、というものである。これに対し『滝泉寺申状』は次のように反論している。

此条無きキ跡形モ虚誕也。日秀等被レ損亡セ干行智ニ、不安堵之上ハ者、誰丿人カ可キ令ム叙用セ日秀等之点札ヲ。将タ又、厄弱ナル土民之族被ンヤ雇ヒ越サ于日秀等ニ。如然ハ、帯シ弓箭ヲ於テハ企ルニ悪行ヲ者、云ヒ行智ト近隣丿人々ト、争カ奪ヒ取り弓箭ヲ、召シ取リテ其身ヲ、不ルヤ申サ子細ヲ哉。矯飾之至、宜ク足ル賢察ニ矣。

 すなわち、日秀は既に行智によって所職住坊及びそれに属する田畑を奪われた身であり、そのような者の点札など誰が用いるであろうか。そのような無意味な点札など立てるわけがない。また、日秀に雇われた農民達が武装をしていたというが、そんなものは多勢の行智等にとって、本気になれば赤子の手をひねるようなもので、なぜそうしなかったのか。此等はすべて行智のでっち上げであるから、よろしく真相を究明せられよ、というのである。

 誠にもっともな話で、下方の政所代まで抱き込み、武力にせよ人数にせよ圧倒的に優位に立つ行智が、もし本当に日秀率いる農民達が多少の武装をして乗り込んだとしても、本気になればまさに一網打尽であったろう。そのような無謀で意味のない狼籍を誰が企てるであろうか。また苅田狼籍が重罪であることは誰でも知っている。それを白昼に、わざわざ何等効力を持たぬ点札を立てて行うなどという愚かなことを、誰がするであろう。行智の一方的な作り話であることは明白である。

 しかし、いずれにせよこのような嫌疑によって、熱原の農民20人は下方政所代によって検挙され、鎌倉に連行されるのである。

 このような状況は、日興により早速身延の大聖人に報告されたようで、9月26日には『伯耆殿並諸人御中御書』が日興のもとに届けられた。この書状は従来末尾一紙(第19紙)のみが現存するものとされてきたが、東京都国土安穏寺に所蔵される『断簡追加』(第3紙冒頭3行)、及び和歌山県了法寺蔵の『断簡158』(第7紙)が、字体及び内容から本状の一部と判断される。ことに第7紙には日興筆にて「廿一枚花押」と継目裏加判があり(今は表面から見えるように表に返して表装されている)、末尾第19紙「伯耆殿並御中御書」の紙背にも日興筆と思われる継目裏加判が確認されているので、両者は同一書状の可能性が極めて高い。なお、末紙が19紙であるのに「21枚花押」とされているのは、上書きその他も含めた枚数であろうと思われ、こうしたケースは『法華証明抄』の場合にも見られる。つまり現段階では『伯耆殿並諸人御中御書』の全貌は次のようになる。

〈3〉刃傷し百姓ををいいだしたる現証か。重科のがれがたければ百姓口口口口口て

〈7〉とかくべし。阿弥陀経等の例時をよまずと申すは、此れ又心へられず。阿弥陀経等は星のごとし。法華経は月のごとし、日のごとし。勝れたる経をよみ候を、劣れる経の者がせいしこそ心えられ候はねとかけ。恒例のつとめと申すはなにの恒例ぞ。仏の恒例は法華経なり。仏は但楽受持等とて、真の法華経の行者、阿弥陀経等の小経をばよむべからずとこそとかせ給ひて候ヘとつめ、かきにかけ

〈19〉此の事はすでに梵天・帝釈・日月等に申し入れて候ぞ。あへてたがえさせ給ふべからず。各々天の御はからいとをぼすべし。恐々謹言。 弘安二年(日興到来筆)九月二十六日  日蓮(花押) 伯耆殿並諸人御中

 第三紙冒頭の「刃傷し百姓ををいいだしたる現証か。重科のがれがたければ百姓」とは、前後を欠して十全に意味が取りにくいが、およそ「(行智等が)百姓を刃傷し追い出したという事実は、本来重科は脱れがたい重罪であるから、」という意であろうし、右に示したこれまでのいきさつを考えれば、「百姓」以下には、「行智は自身の咎を脱れるために、かえって百姓達に嫌疑をかけて逮捕させたのである」というようなことが記されていたものと思われる。ここに「現証」といわれているのは、後述の10月12日状『伯耆殿御返事』に「但現証の殺害刃傷而己」とあって、この場合「事実」というような意味であろう。つまり本断簡の内容は『伯耆殿御返事』の「其上行智之所行如クナラハ令ル書カ者容ルル身ヲ処なく可キ行フ之罪無キ方歟・・・」等の内容と同等なものであったと思われるのである。

 第7紙の冒頭の「とかくべし」とあるのは、先に9月20日状『伯耆殿御書』にても、刃傷殺害に付き申状か陳状かを書くことを指示されているが、ここにおいてはさらに9月21日の暴挙と、行智等が提出した訴状を踏まえて書き上げることを指示されたものと思われる。

 それは次下に「阿弥陀経等の例時をよまずと申すは、此れ又心へられず。」以下が、まさに『滝泉寺申状』に見られる、「次キニ以テ阿弥陀経ヲ可キ為ス例時丿勤ト之由丿事」という行智の主張と同轍であることによっても知ることができる。そしてそれへの反論が、法華経と阿弥陀経との勝劣と、『譬喩品』の「但楽って 大乗経典を受持して 乃至 余経の一偈をも受けざる有らん 是の如きの人に 乃ち為に説くべし」との文により、法華経以外の阿弥陀経を用いるべきではないと主張するのも、また『滝泉寺申状』と同じである。

 こうした行智の訴状を踏まえ、その反論を含めて「かきにかけ」すなわち強く主張するよう指示されているのである。

 次に10月1日富木殿に宛てた『富木入道殿御返事』と、同日四条金吾始め鎌倉の檀越達に宛てた『聖人御難事』について見ていきたい。この時期下総と鎌倉の重鎮に書状を送り、熱原法難の善後策を指示しているということは、この法難を駿河地方の一法難と捉えるのではなく、門下全体が一丸となって対処すべき法難であることを、周知するためであったろう。

 弘安2年10月1日状『富木入道殿御返事』は、従来建治3年説、弘安元年説、弘安2年説があるが、先に注記したように、熱原法難に関連する記述が見られるので、弘安2年に系けられるのが妥当である。ここに

又此の沙汰の事も定めてゆへありて出来せり。かしまの大田・次郎兵衛・大進房、又本院主もいかにとや申すぞ。よくよくきかせ給ひ候へ。

とあるのは、おそらく証人として出頭していたと思われる大田親昌・長崎次郎兵衛尉時縄(綱)・大進房や、滝泉寺の本院主がどのように証言しているか、よく聞いておくよう指示されたものと思われる。

「この裁判は法義的理由があって起こったものである」といわれるのは、次下に此等は経文に子細ある事なり。法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障ふべきにて候。十境の中の魔境此れなり。・・・又菩薩の行をなす物をば遮りて二乗の行をすすむ。最後に純円の行を一向になす者をば兼別等に堕すなり。止観の八等を御らむあるべし。

と、本裁判が単なる社会的弾圧と認識するのではなく、第六天の魔王が法華経の行者を退転させるために起こしているものであるから、あくまで信心の決定をもってこの法難を乗り切ることを指示していることに対応するものである。

 また本状最後に

大進房が事、さきざきかきつかねして候やうに、つよづよとかき上げ申させ給ひ候へ。大進房には十羅刹のつかせ給ひて引きかへしせさせ給符ふとをぼへ候ぞ。又魔王の使者なんどがつきて候ひけるが、はなれて候とをぼへ候ぞ。悪鬼入其身はよもそら事にては候はじ。

とあり、大進房の落馬は現罰であることを強く書き上げよと指示されているのは、後準備される行智の訴状に対する陳状のことであろうが、なぜか『滝泉寺申状』にはこのことが含まれていない。

 さて富木常忍は、この大聖人の指示や、先に日興に示された『伯耆殿御書』『伯耆殿並諸人御中御書』の内容を参考として、現行『滝泉寺申状』の草案を作成し、身延に送られたであろうことが、最近の研究によって明らかになっている。すなわち菅原関道氏は『滝泉寺申状』の後半異筆を、綿密な文字対照により、従来堀日亨師によって提示されていた日興筆を否定し、富木常忍の筆であることを立証した。

そして現行『滝泉寺申状』は、富木常忍により草案されたものを、その前半部分法義に関する部分は大聖人が全文書き改め、後半事件の事実関係を述べる段は、富木常忍の草案をそのまま生かしてつなぎ合わせたものであり、それ故に、そのつなぎ目部分が「此等之子細相貽御」(大聖人筆の終り、)「不審者」(富木常忍筆の始め)と不自なつながりになったものであるうと指摘している。誠に妥当な意見であって、富木常忍は『富木入道殿御返事』を受け取るや、在下総であっなら早速鎌倉に駆けつけ、在鎌倉であれば即座に同じく鎌倉でことに当たっていたと思われる日興や、日秀・日弁等の当事者から事情聴取をし、日興への大聖人の指示等を参考として『滝泉寺申状』の草稿を書き上げ、身延の大聖人に送られたのである。大聖人がその草稿の前半に手を入れて、また日興のもとに送り返されたのが10月12日であるから(『滝泉寺申状』の送り状『伯耆殿御返事』の日付)、富木常忍の迅速な対応ぶりをうかがうことができる。

 「大進房には十羅刹のつかせ給ひて」以下は難解な文章であるが、この裁判において法華経誹謗の現罰の怖さを強く主張することによって、彼に善神たる十羅刹が憑き、それによって彼に取り憑いていた魔王の使者・悪鬼が離れ、正気に戻るかも知れないというという、希望的観測が述べられているのかも知れない。

 次に同日書状の『聖人御難事』である。宛所に「人々御中 さぶらうざへもん殿のもとにとどめらるべし。」とあるから、四条金吾他鎌倉の檀越達へ宛てた書状であることがわかる。熱原法難に関する記述を順を追って見れば、まず

大田親昌・長崎次郎兵衛尉時縄・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰、四つ候。日本国の大疫病と、大けかちと、どしうちと、他国よりせめらるるは総ばちなり。やくびやうは冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばちなり。

と述べて、大進房等が4月・8月の刃傷殺害事件のいずれかのときに落馬したことは、現罰であり、かつ別罰であると断じている。また次下には

故最明寺殿の日蓮をゆるししと、此の殿の許ししは、禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり。今はいかに人申すとも、聞きほどかずしては、人のざんげんは用ゐ給ふべからず。設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給ふゆへに、ばつしがたかるべしと存じ給ふべし。

と述べて、日蓮や四条金吾が勘気を受けながらも、後に許されたのはそれが讒言によるものとわかった故であり、(それより以後は日蓮とその一門に対しての讒言には慎重になっているはずであるから)どのような讒言であれ、その内容が了解されない限りは用いられることはないであろう。まして当方には諸天善神がついているのであるから、いかに大鬼神が憑いている者であっても、罰することはできないであろうとの、観測が示されている。これは後述する『伯耆殿御返事』にも、もし百姓等が安堵されたなら陳状(『滝泉寺申状』)をもって問注しなくてもよいであろうと、安堵の可能性が大きいとの観測をもっていることと軌を一にしている。しかし、その一方で、

一定として平等も城等もいかりて、此の一門をさんざんとなす事も出来せば、眼をひさいで観念せよ。

と述べて、平左衛門や安達泰盛等の幕府の中心者が、時宗を無視して弾圧を加えてきたとしても、我が一門はうろたえることなく、不退の信念を持って観念せよと、その覚悟を促してもいる。そして

彼のあつわらの愚痴の者ども、いゐはげましてをとす事なかれ。彼等にはただ一えんにをもい切れ。よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ。ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん地獄ををしへよ。をそろししといわばたかにあへるきじ、ねこにあへるねずみを他人とをもう事なかれ。

と述べ、四条金吾始め鎌倉の諸人に対し、拘置されている熱原の農民を激励して、けっして退転させぬよう指示されている。このとき、熱原の農民達と接見することが可能な状態だったのだろうか。それとももしそうした機会があれば、ということなのかもしれない。本状は最後に

人のさわげばとてひやうじなんど此の一門にせられば、此れへかきつけてたび候へ。

と述べられるが、これも少々難解である。おそらく、(もし当方の執拗な現罰の指摘によって)人々が騒ぐことを恐れて、この一門に兵士を用いて断固たる弾圧をするようなことがあれば、即刻連絡するように、というほどの意となろうか。

 ところで、この『聖人御難事』を論ずるに当たっては、冒頭、・釈尊が30成道以来40余年に法華経を説いて本懐を遂げ、天台大師が弘法30余年で『摩訶止観』を説いて本懐を遂げ、伝教大師はその本懐が何を指すかは未だ明瞭ではないが20余年で本懐を遂げた如く、日蓮は建長5年4月28日、この法門を申し始めて以来27年の今、本懐を遂げたと宣言していることを論じなければならないが、そのことについては、後法難の意義を論ずる段で詳しく述べたいと思う。

 さて右に考察したように、富木常忍は『滝泉寺申状』のもととなる草案を作成し、おそらく門下が夜昼をついで大聖人の許に届けたものと思われる。ちなみ、に後出の『聖人等御返事』が丸2日で届いている。大聖人は早速その前半部分を大幅に手直しした上で、『伯耆殿御返事』を添えて日興の許に届けられた。10月12日のことである。『伯耆殿御返事』には、冒頭


大体以此趣可書上歟

と述べ、概ねこのような体裁で陳状を書き上げることを指示している。但し次下に、もし審議の段階で百姓達が許されたならば、ことさら行智等を責め立てる必要はないので、問注に及ぶ必要はないとしている。しかしもし訴えるような状況になった場合には、この度の刃傷殺害事件は、表面上は弥藤次入道や大進房等の仕業のように見えるが、その実は行智の指図に依ることをしっかりと主張すれば、必ず上聞に及んで彼の比類無き悪業は白日のもとにさらされるであろうとしている。さらにけっして起請文を書いてはならぬこと、行智が証人を立てたり証文を提出しても、その証人は行智の回し者であり、証文も事実無根の謀書であると主張すべきこと、当方はそのような証人や起請文などを用いずに、現証たる殺害刃傷の件のみを強く主張すべきこと等、こまごまと教示されている。

 ちなみにここに起請文に及ぶことを厳禁し「若シ背ク其義者は非ス日蓮カ之門家ニ」とまでいわれているのは、鎌倉幕府法『御成敗式目』の追加法に、「起請文失条々」があることに関連するものと思われる。すなわち「起請文失条々」とは、裁判にて双方の主張が措抗し膠着状態になった場合、双方が起請文を提出し、7日の間に定められた事象、たとえば鼻血を出したり、病気になったり、トビやカラスの尿がかかったり、父子に罪科が出来したり、乗用馬が死んだりなどの9箇条の内、一つでも適合すればその者が負けとなって有罪が確定するというものである。7日の内に決着がつかなければさらに社頭に参寵して7日間延引し、それで決着がつかなければ双方無罪となったようである。

 この追加法は、神仏への起請という一見公平な法律のように見えるが、たとえばカラスの尿がかかるなど偶発的なことや、乗用馬の死など極めて陰謀の生じやすい条目が多く、問題少なしとしない。

 大聖人が起請文に及ぶことを厳禁したのは、せっかく理のある裁判が、陰謀などによってある意味合法的に不当判決を出される結果になることを恐れた故ではないかと思われる。

 大聖人はこのときのみならず、四条金吾が主君に御勘気を蒙った際にも、事実関係を陳弁することは当然として、けっして起請文を書いてはならぬと指示しているが、これも事情は同じことではなかったかと思う。

 さて、次に『伯耆殿御返事』とともに日興のもとに届けられた『滝泉寺申状』の内容について、少しく見ていくことにしよう。『滝泉寺申状』は冒頭

駿河丿国富士下方滝泉寺大衆、越後房日弁・下野房日秀等謹テ弁言ス。当寺院主代平丿左近入道行智、為ニ塞キ条条丿自科ヲ遮キランカ致スハ不実ノ濫訴ヲ無キ謂レ事。

とあるように、滝泉寺院主代行智により訴えられた日秀・日弁が、その訴えは行智が自身の数々の罪科を隠蔽するために起こしたものであり、全く事実無根であることを陳弁するものであって、申状というより陳状というべきものである。

 前半は法義上の問題で、まず行智が「日秀・日弁号ス日蓮房之弟子ト、自リ法花経外丿余経、或ハ真言丿行人ハ者皆以テ今世後世、不ル可カラ叶フ之由申スト之ヲ云云〈取意〉」と訴えたことに対し、日蓮聖人は、『立正安国論』にて予言された自界叛逆難・他国侵逼難が、あたかも符契の如く的中したことをもっても知られるように、三世を知る聖人であり、日本国を救う国宝なのであり、また、その説くところの法は、釈尊が末法濁悪の世のために託された妙法蓮華経なのである。しかるに今日本国はその法主聖人の言葉を用いないばかりか、大難に値わせ迫害する故に、蒙古襲来による亡国の危機に瀕しているのであり、しかもその調伏を真言により行っているようでは、国が亡ぶことは先例に照らし明らかであると反論している。

 次に「以テ阿弥陀経ヲ可キ為ス例時ノ勤ト之由ノ事」については、『阿弥陀経』は所詮「未顕真実」の爾前経であり、『法華経』こそ釈尊の本懐であり且つ末法相応の経である、また『讐喩品』には「不受余経一偈」と説かれており、法華経以外の余経を交えてはならぬというのが仏の金言であるとし、不審有らば公場にて是非を決すべしと陳弁している。以上が大聖人の筆である。

 後半は事件の事実関係に関する反論で、これは富木常忍の草案をそのまま貼り付けて用いている。まず、行智が「訴状云今月二十一日催フシ数多丿人勢ヲ、帯シ弓箭ヲ打チ入院主分之御坊丿内ニ、下野坊ハ乗馬相具シ、熱原丿百姓紀次郎男立テ点札ヲ、刈リ取テ作毛ヲ取リ入レ日秀丿住房ニ畢ヌ云云〈取意〉」と訴えたことについて、それは行智が仕組んだ謀略であるとし、もし日秀等が暴力をもって狼籍をはたらいたというのなら、武力を持ち多勢である行智は、なぜそれを鎮圧しなかったのかと反論している。さらに、日秀日弁等への弾圧は既に4年ほど以前に彼らの所職を剥奪するなどくり返されてきたのであり、今年に入ってからも行智は、下方政所をも抱き込んで熱原法華衆を刃傷殺害するなど弾圧を繰り返していると指摘している。また行智が境内の池の魚を殺して売ったり、堂舎修理のための上葺きの資材を横領するなど、悪業の数々を恣に重ね、院主代としての資質を著しく欠くことを指摘し、それを放置するならば本主の責任となるであろうことを警告している。

 このように、大聖人や日興をはじめとする弟子檀越達の対応は、実に迅速かつ綿密であったが、裁判を取り仕切った平左衛門は、予想を遥かに上回る迅速さで法華衆に有罪判決を下してきた。

 弘安2年10月17日酉時(午後六時)、日興等が同月15日酉時に差し出した書状が大聖人の許に届けられた。そこには熱原法華衆に有罪判決が下されたこと、彼等はそのときしっかりと題目を唱え続けたこと、そして判決は平左衛門が下したこと等が記されていた。大聖人は即刻筆を執り、2時間後の戌時には返書『聖人等御返事』を、鎌倉の聖人等(日興・日秀・日弁等)に遣わされている。

今月十五日丿〈酉時〉御文同シキ十七日〈酉時〉到来ス。彼等蒙ムル御勘気ヲ之時奉ルト唱へ南無妙法蓮華経ト云云。偏ニ非ス只事ニ。定メテ平丿金吾之身ニ入リ易リテ十羅刹丿試シタマフ法華経丿行者ヲ歟。例セハ如シ雪山童子・戸毘王等丿。将ク又悪鬼入ル其身ニ者歟。釈迦・多宝・十方丿諸仏・梵帝等可キ為守護五々百歳之法華経丿行者ヲ之御誓ハ是也。大論ニ云ク能ク変シテ毒ヲ為ス薬ト。天台ノ云ク変シテ毒ヲ為ス薬ント云云。妙丿字不ンハ虚カラ定テ須臾ニ有ラン賞罰歟。伯耆房等深ク存シテ此旨ヲ可シ遂ク問注ヲ。平丿金吾ニ可キ申ス様ハ、去ル文永之御勘気之時乃聖人丿仰セ忘レ給フ歟。其殃ヒ未タ畢ヲ重テ招キ取ル十羅刹ノ罰ヲ歟ト最後ニ申シ付ケヨ恐々。 十月十七日戌時  日蓮花押
   聖人等御返事

 ここには熱原の農民達が御勘気を蒙った日にちは述べられていない。しかし鎌倉からの書状が、午後六時に書かれ、直に鎌倉を出発しているであろうことを考えれば、その日15日に判決が下されたと見るのが至当であろう。その文面については「彼等蒙御勘気之時 奉唱南無妙法蓮華経云云」と極めて短く引用されているに過ぎないが、幸いそのときの模様を当事者であった日興が、後年『弟子分帳』に記している。

1、富士下方熱原郷住人神四郎〈兄〉。1、富士下方同郷弥五郎〈弟〉。1、富士下方熱原郷住人弥次郎。此三人者越後房下野房弟子二十人之内也。弘安元年奉信始処、依舎兄弥藤次入道訴被召上鎌倉終に被切頚畢。平左衛門入道沙汰也。子息飯沼判官〈十三歳〉ヒキメヲ以散々に射て可申念仏之旨再三雖責之二十人更以不申之間、張本三人お召禁て所令罪也。技葉十七人者雖令禁獄・終に放畢。其後経十四年平入道判官父子発謀反被誅畢〈父了〉。コレタダ事ニアラズ。法華経現罰ヲ蒙レリ。

 これにより、この裁判が平左衛門によって進められたこと、子息ニ蟇目の矢を射らせ、刃傷殺害や苅田狼籍の有無是非を問うのではなく、念仏を申せ法華経を捨てよと威嚇したこと、農民達はそれに従わず題目を唱え続けたこと、そしてそれ故に張本三人は斬首、その他の農民達は禁獄という厳しい判決が下されたこと等を知ることができるのである。苅田狼籍の処罰は、多く追放や所領没収であったというから、この判決はかなりの重刑である。おそらく苅田狼籍のみならず、それに伴う暴力沙汰等をでっち上げての判決であったろう。

 ともあれここに平左衛門が裁判の段階で法華衆を威嚇していること、さらに事件の真相を問うのではなく、念仏を唱え法華経を放棄することを強要しているという事実は、熱原の事件そのものの本質を知る上で重要である。すなわち、行智の下方政所代を動かして行った弾圧も、平左衛門の審議の内容も、日蓮信仰への弾圧という一点で結ばれているのであって、この事実は、本事件ははじめから平左衛門が関与していることを予想させるのである。しかもこの裁判自体、息了に蟇目の矢で威嚇させるなど、平左衛門の私的裁量でなされている可能性が高いのである。

 それは当時の政治機構と、駿河国が得宗領であり、しかも富士下方は大聖人が「後家尼ごぜん(時宗の母)の内の人々多し。」と述べられているように、ことに得宗家の強い支配下にあったことを考慮すれば、一層明らかとなるであろう。

 すなわち当時得宗領における裁判は、得宗家公文所によってなされていたのであり、得宗領たる富士下方で起きた本事件の裁判は、まさに得宗家公文所において審理されたという事実である。そしてこのときその得宗家公文所の最高責任者である執事は平左衛門であった。そこでなされる裁判は、一応形は当時の法制度に準じていたであろうが、問注所での公的な裁判とは違って、あくまで得宗家の私的な裁判であるから、平左衛門の意のままに判決が下されても、なんらそれをチェックする機能はなかったのである。

 永仁元年4月22日、平左衛門父子が北条貞時によって誅殺された際、それまで幕府の実権を握り圧政を敷いていた、平左衛門による不当裁判に対する再審要求者が雲霞の如くの押し寄せたという。これは多く侍所々司としての沙汰(裁判)であったと思われるが、幕府機関としての裁判においてすら、権力におごる平左衛門の横暴ぶりはかくのごとくであったのである。いわんや本事件は得宗領のできごとであって、平左衛門が得宗家公文所執事として、意のままに審理を行い判決を下したことは、想像にかたくない。

 さらに本事件には、平左衛門の部下であったと思われる長崎時綱が、直接的に絡んでいるという事実である。長崎時綱といえば、「得宗家公文所奉書」に文永9年から弘安5年まで、実に7回も奉者(発給者)として登場する、まさに得宗家公文所の重鎮であり、かつ長崎氏の庶流ではあるが平左衛門の叔父であって、それが直接弾圧に関わっているということは、本事件が当初から平左衛門の意志によって起こされた宗教弾圧であって、さればこそ下方政所代をも意のままに動かすことができたのである。そういう意味では本事件は、その発端こそ寺領に法華衆徒が蔓延することを恐れた院主代行智が、本院主に相談したことにあったであろうが、おそらく本院主は平左衛門に報告し、これを得宗領の危機と捉えた平左衛門がその対策に乗り出して以降は、行智は単なる傀儡に過ぎず、ことは平左衛門の指示によって運ばれたものと思われる。とすれば逮捕された時点から、法華衆徒の改宗がない限り、結末は定められていたというべきであろう。

 また先に引文した『高橋入道殿御返事』により、富士郡下方庄が北条時頼の妻であり時宗の母である「後家尼御前」が、実質的に支配する土地柄であったことが知れるが、このことも本事件の本質を知る上で重要である。

 大聖人は先の文永8年の法難が起きた直接的原因について、次のように回顧している。

かういよいよ身もをしまずせめしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人につき、或はきり女房につき、或は後家尼御前等につきて無尽のざんげんをなせし程に、最後には天下第一の大事、日本国を失はんと呪そする法師なり。故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾に頚をめせ。弟子等をば又或は頚を切り、或は遠国につかはし、或は寵に入れよと尼ごぜんたちいからせ給ひしかば、そのままに行はれけり。

 すなわち文永8年の法難の大きな起因の一つとして、諸宗の僧等が後家尼御前に、日蓮は後家尼御前の亭主である北条時頼、また父である北条重時が無間地獄に堕ちたと吹聴していると讒言したことをあげているのである。もっともそのことについて大聖人は、『種々御振舞御書』に

さりし程に念仏者・持斎・真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶はざれば、上郎尼ごぜんたちにとりつきて、種々にかまへ申す。故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す。御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし。但し上件の事一定申すかと、召し出だしてたづねらるべし、とて召し出だされぬ。奉行人の云く、上のをほせかくのごとしと申せしかば、上件の事一言もたがはず申す。但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄といふ事はそらごとなり。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時より申せし事なり。

と述べ、評定所において、時頼・重時が地獄に堕ちたなどとはいっていないと主張したことが示されている。

 いずれにせよ、自分の亭主と父親を堕地獄と断ぜられたと認識し、大聖人を憎んで止まぬ後家尼御前が、富士下方庄・賀島庄等の支配者であったことは、本事件に大きな影響を及ぼしていることを予想させるのである。先に大聖人が高橋入道に

そのゆへはするがの国は守殿の御領、ことにふじなんどは後家尼ごぜんの内の人々多し。故最明寺殿・極楽寺殿の御かたきといきどをらせ給ふなれば、ききつけられば各々の御なげきなるべしとをもひし心計りなり。

と書き送ったことを示したが、身延入山の途次立ち寄らなかった理由を、後家尼御前に憎まれる自分が立ち寄れば、高橋家に被害が及ぶことを恐れたが故であるとしているのは、その辺の事情をよく物語っているといえよう。

 加えて、弘安4年かとされる忍性書状には、西明寺後家尼御前が忍性の住する摂津国河辺郡の多田院本堂供養に際し、御供養をしている様了が記されていることからも伺われるように、後家尼御前は叡尊・忍性の帰依者であり有力檀越でもあったことが知れるのである。

 後家尼御前が大聖人を憎む忍性の帰依者であり、さらに大聖人を自分の亭主と父親の敵であると認識していた事実、そして自分の支配地にその日蓮一門がはびこっていくという状況を勘案すれば、本事件に後家尼御前が深く関与していたと思わざるを得ないのである。おそらく平左衛門は隠然とした力を持っていたと考えられる後家尼御前の意向を受けて、断固たる弾圧を行ったものと思われるのである。

 なお、本事件及び裁判の実態は、宗教的弾圧という側面のみならず、得宗領における得宗家公文所執事平左衛門の、横暴な裁判実態を示す事例として貴重な資料となるものと思う。

 ともあれ、有罪の報告を受けた大聖人は、「伯耆房等深存此旨可遂問注」と日興に即刻問注を遂げることを指示するとともに、その際平左衛門に、文永御勘気のときの聖人の言葉を忘れたか、蒙古の危機を未だ回避できずにいるのにまた重ねて十羅刹女の罰を招き寄せるつもりか、と強く申し渡せと述べられている。

 日興等は早速清書した陳状を持って問注を遂げたことであろう。しかしその陳状を受け取ったのが他ならぬ平左衛門であれば、それが却下されるのは火を見るより明らかであった。三人の法華衆は無惨にも斬首されたのである。

 ではその時期はいつであったろうか。堀日亨師は、『弟子分帳』に「其後経十四年平入道判官父子発謀反被畢。〈父子〉 コレタダ事ニアラズ。法華経現罰ヲ蒙レリ。」とあり、また徳治3年卯月8日日興本尊の脇書に「駿河国富士下方熱原郷住人神四郎、号法華衆為平左衛門尉被切頚三人之内也。左衛門入道切法華衆頚之後十四年企謀反間被誄畢・其子孫無跡形滅亡畢」とあることをもって「神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安3年4月8日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。」と述べている。

 徳治3年4月8日の御本尊をもって、処刑日を4月8日とすることについては、4月8日が仏生日であることや、日興は10月13日と4月8日に纏めて本尊書写をする傾向があり、この両日を本尊書写日としていたようであるから、4月8日は単に当本尊の書写日である可能性が高い。したがって「4月8日」を処刑日とするのは不可といわなければならないが、日興が2度にわたって平左衛門親子の誅殺された永仁元年を、事件のそのときかし「経十四年」といっていることは重く受け止めるべきであろう。永仁元年の14年前は確かに弘安3年なのである。
 しかしそれにしては、次項に述べるように、弘安3年には大聖人の書状に熱原に関する記述が散見されるにもかかわらず、そのような重大なことに一度として触れられていないのは不審である。かつ、弘安3年5月3日状『窪尼御前御返事』には、熱原の事件につき、その判決が「そらみけうそ」すなわち偽りの御教書であったことが判明したと思われる記述があり、それによる釈放は考えられても、処刑は考えにくいのではないかと思われるのである。

 では「経十四年」はどのように考えるべきであろうか。それを考察するには『弟子分帳』に記された法華衆逮捕から処刑に至る様子を、細かく分析する必要があろう。まず法華衆20人は「依舎兄弥藤次入道訴被召上鎌倉」と述べられるように、弥藤次入道の訴えによって鎌倉に「召上」すなわち逮捕連行されている。そこで「平左衛門入道沙汰」によって審理され、念仏を申さなかった故に、張本3人は死刑、その他の17人は禁獄刑の判決が下された。そして「張本三人お召禁て所令断罪也。枝葉十七人者雖令禁獄終に放畢。」とあって、帳本三人は判決後召し禁じられた上で斬首され、枝葉十七人は禁獄刑に処された後「放」れている。

 ところでこの「放畢」は、「追放」という刑を意味するのか、逆に「釈放」を意味するのかという問題がある。堀師はこの「放畢」を「追放」と解釈し、20人は禁獄された後、弘安3年4月8日に3人は斬首、17人は追放の刑に処されたと解釈している。しかし文脈からいって「雖令禁獄」すなわち「禁獄されたけれども」という文言の後に、さらに「終には追放された」という刑罰がくるのは少しく無理があるように思われる。やはり「禁獄されたけれども」に続くのは「終には釈放された」とくるのが自然であると思うのである。

 そうであるならば、3人の処刑と17人の釈放が同時に行われるというのは考えにくく、両者は別々に考えるべきであろうと思う。

 さてでは3人の斬首がいつであったかという問題であるが、平左衛門の裁判のありようが、先述したように極めて非合法なものであり、見せしめ的意味合いも含まれていたと考えられることから(八月の弥四郎男の斬首もそうであった)、そう間を置かずになされたのではないかと想像するのである。そして日興が「経十四年」と記したのは、斬首のときというよりも、逮捕禁獄から処刑を経て弘安3年に釈放された、一連の法難全体を指して述べたものではなかろうか。それは「……枝葉十七人者雖令禁獄終に放畢。其後経十四年……」と、直接的には釈放されて以降14年を経て、と述べられていることからも首肯されるのではないかと思う。もっとも徳治3年の御本尊には「左衛門入道切法華衆頚之後十四年企謀反間被誅畢。」とあって、斬首から14年と述べているが、意とするところは『弟子分帳』と同轍と考えてもよいのではないかと思う。但し、これはあくまでも周遍状況を勘案しての想像に過ぎず、斬首の日時はなお不明という他はない。しかし後述するように、11月6日状『上野殿御返事』に、ややそのことを示唆すると思われる文言が見られ、あるいはその直前であったのではないかと考える。そのことと、釈放に関しては次項においてもう少し詳しく述べたいと思う。

 

 


3、熱原法難のその後

 これから熱原法難のその後について述べるわけであるが、そもそも熱原法難の終結はいつかという問題は、右に考察したようになかなか微妙である。しかしここでは、一応有罪が確定した『聖人等御返事』以降を、その後として論ずることにする。

 10月17日の『聖人等御返事』以降、少なくとも現存資料の中から、熱原法難に関する記述を見出せるのは、11月6日『上野殿御返事』通称『龍門御書』と称される書状が初見である。本状は、龍門の滝の鮒が、幾多の艱難辛苦を乗り越えて龍となる故事を引かれて、法華経の行者が仏になる道はかくの如く険しいものであると説き、我が日蓮門下はこの思いを肝に銘じて成仏のために死身弘法すべきことを促したものであるが、その奥書に、

此はあつわらの事のありがたさに申御返事なり。

と述べられるように、熱原の農民達の死身弘法の精神を賞賛する意を含むものであった。同時に対告者である若き南條時光を「上野賢人殿」と称えているのは、時光が熱原法難に際して直接間接に、身を賭して援護したことに対して敬意を表したものであろう。

 ここには「あつわらの事のありがたさ」というのみで、何等具体的なことは記されていないが、本状末文の「をなじくはかりにも法華経のゆへに命を捨てよ」との厳しい文言からすれば、この直前に3人の処刑があったことを受けての、感慨を込めての奥書ではないかと想像するのである。

 なお、近時立正安国会架蔵の写真集から、当『上野殿御返事』と日付及び内容が全く同じで、本文・日付けは他筆、署名花押のみが大聖人筆という、治部房宛の書状『治部房御返事』が京都本圀寺に所蔵されていることがわかった。もっとも日諦の『祖書目録』、及び日明の『祖書目次』には「与治部房書 龍門書」とあり、『龍門御書』自体を治部房宛と見ているのは、本状の存在によるものであろうし、稲田海素氏の『日蓮聖人遺文対照記』に「又遺文二十七の巻の治部房御消息を拝照し」とのべるのも、本状のことであったと思われるが、これが代筆書状であり、それに大聖人が署名花押を付されたものと認識してはいなかったものと思われる。

 いずれにせよ、同日に治部房に同内容の書状が遣わされたということは、治部房も少なからず熱原法難に寄与したことを証するものというべきであろう。しかし治部房宛て書状には「此はあつわらの……」という奥書は見られない。

 なお、真蹟及び古写本がないので参考ながら、弘安3年8月22日状『治部房御返事』には

それに叶はずんば、二百五十戒三千の威儀を備へたる大僧と成て、国主をすかし、国母をたぼらかして、或はながし、或はころしなんどすべしと説れて候。又七の巻の不軽品、又四の巻の法師品、或は又二の巻の譬喩品、或は涅槃経四十巻、或は守護経等に委細に見へて候か、当時の世間に少しもたがひ候はぬ上、駿河国賀島荘は、殊に目前に身にあたらせ給て覚へさせ給候らん。他事には似候はず。

と治部房が賀島庄において、権力者の横暴を目の当たりにしたことに触れられている。賀島庄は熱原に隣接し、また実相寺も所在するので、この権力者の横暴とは本事件に関することと思われる。

 次に11月25日状『冨城殿女房尼御前御返事』には

さてはえち後房・しもつけ房と申僧をいよどのにつけて候ぞ。しばらくふびんにあたらせ綸へと、とき殿には申させ給へ。」

とあって、富木殿及び女房に対し、法難の当事者である日秀・日弁をしばらく匿ってほしいと依頼している。勿論これは本事件の当事者である両者へ、平左衛門のさらなる弾圧が及ぶことを心配しての処置であろう。

 また、弘安2年11月から翌弘安3年3月にかけて、熱原に住する在家百姓六郎吉守夫妻に大聖人より曼荼羅本尊が授与されている。


@弘安二年十一月日、No68本尊・授与書「優婆塞日安授与之」。

A弘安三年二月日、No76本尊。授与書「優婆塞日安」。日興添書「富士下方熱原六郎吉守者依為日興弟子所申立如件」。『弟子分帳』「富士下方熱原六郎吉守者下野房弟子也。仍日興申与之」。

 「優婆塞日安」が六郎吉守であることは、日興の添書及び『弟子分帳』の記載によって知ることができる。

B弘安三年三月日、No80本尊―授与書「日安女」
 これは優婆塞日安の妻へ授与されたものあろう。六郎吉守夫妻は日秀の教化を受けた熱原の在家百姓であるが、日興が「熱原」とのみ記しており、後出の滝泉寺在家百姓を「市庭寺……」と述べられていることから、滝泉寺の在家百姓ではないようである。しかしこの時期に、夫婦で御本尊を授与され、吉守は日号まで授与されていることからして、熱原法難に際して功績があった人物であろう。


 『弟子分帳』にはこの他に、授与された年次は不明であるが、以下の熱原法難関係者と思われる者への本尊授与が記録されている。


@「富士下方熱原新福地神主者下野房弟子也。仍日興申与之」

A「富士下方三郎大郎者下野房弟子也。日興仍申与之」

B「富士下方江美弥次郎者越後房弟子也。日興仍申与之」

C「富士下方市庭寺大郎大夫入道者越後房弟子也。仍日興申与之」

D「富士下方市庭寺大郎大夫入道子息弥大郎者越後房弟子也。仍日興申与之」

E「富士下方市庭寺大郎大夫入道舎弟又次郎者越後房弟子也。仍日興申与之」

F「富士下方市庭寺弥四郎入道者越後房弟子也。仍日興申与之」

G「富士下方市庭寺田中弥三郎者越後房弟子也。仍日興申与之」

 @の「熱原新福地神主」は後述する南條時光が匿った「かうぬし」のことであろう。これも日秀の教化による。ABは熱原の住人ではないが、同じく日秀・日弁の弟子であることや、熱原の「神主」と滝泉寺在家百姓に挟まれて記録されているところ、それに準ずる在家百姓であったものと思われる。C以下は富士下方熱原郷市庭に所在する寺、すなわち滝泉寺に所属する在家人百姓である。CDEは大郎大夫入道の関係者で、その子息弥大郎及び舎弟又次郎と三人が本尊を授与されている。F弥四郎入道➇田中弥三郎を含め、大聖人から本尊を授与された滝泉寺在家百姓5名は、いずれも日弁の弟子である。これは日秀の教化が滝泉寺外であるのと対照的で、巨視的に見れば両者が一致協力してこの地の教化に当たり、また法難にも対処したことは疑いないが、局所的に見るとき、日弁がより滝泉寺在家百姓に対して関係が厚かったといいうるのではなかろうか。

 さて彼等、とりわけ滝泉寺在家百姓の5人は、逮捕禁獄され後に釈放された17人の内なのであろうか。もしそうであるなら釈放後は、滝泉寺に帰ることができたのであろうか。またもしその内でないとしても、御本尊を授与されるほどの強信者である者が、そのまま滝泉寺に属することができたのであろうか。その辺のことは全く不明という他はない。

 さて、次に弘安3年4月19日状『かわいどの御返事』の次の文に注目したい。

人にたまたまあわせ給ならば、むかいくさき事なりとも向せ給べし。えまれぬ事なりともえませ給へ。かまへてかまへて、この御をんかほらせ給て、近は百日、とをくは三ねん、つゝがなくばみうちはしづまり候べし。それより内になに事もあるならば、きたらぬ。果報なりけりと人のわらわんはづかしさよ。

 末尾一紙の断簡書状で、その全貌を知ることはできないが、「人にたまたま出値って、それが値いたくない人であったとしても避けずに、つとめて笑顔を作り対処せよ。また心して(望まぬ御恩=仕打ちであったとしても)その御恩をあまんじて受けて、近くは百日長くても三年ほど何事も起こらなければ、御内(得宗御内か)も鎮まるであろう。変に逆らって近年に何事かあったならば、いらぬ果報を受けたものよと人は笑うであろう」と述べられるところ、熱原法難の余波が日興の実家である河合家にも及んでいたのではないかと思われる。勿論全貌が分からぬ以上、これに限定されるべきではないが、河合氏は日興の実家であるばかりでなく、建治2年頃に滝泉寺を追出された少輔房日禅もその一族であることを考えれば、充分考えられることと思われるのである。御恩の実態が何であるかは皆目不明ながら、それにことよせての嫌がらせであることは文面から明らかに読み取れ、そうであるとすればそれは単なる内輪もめなどでないことは明らかであろう。

 次に先に少々述べた、弘安3年5月3日状『窪尼御前御返事』である。次に引文する中に、熱原の事件がえん罪であったことを証する、何らかの動きがあったことを察することはできないであろうか。

さてはあつわらの事。こんどをもつてをぼしめせ。さきもそら事なり。かうのとのは、人のいゐしにつけて、くはしくもたづねずして此御房をながしける事、あさましとをぼして、ゆるさせ給てののちは、させるとがもなくては、いかんが又あたせらるべき。すへの人々の法花経を心にはあためども、うへにそしらばいかんがとをもひて、事にかつけて人をあたむほどに、かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ。これはそらみけうそと申事は、みぬさきよりすいして候。さどの国にても、そらみけうそを三度までつくりて候しぞ。これにつけても上と国との御ためあはれなり。木のしたなるむしの木をくらひたうし、師子の中のむしの師子を食うしなふやうに、守殿の御をんにてすぐる人々が、守殿の御威をかりて一切の人々ををどし、なやまし、わづらはし候うへ、上の仰とて法華経を失て、国もやぶれ、主をも失て、返て各々が身をほろぼさんあさましさよ。

 「熱原の事は、今度のことをもって認識されるがよい」といわれる、認識すべき熱原のこととは何か。それは次下に述べられている。


日蓮が佐渡流罪にあったとき、守殿(執権北条時宗)は詳しく審議もせず、側近の言いなりになって流罪に処したが、後に浅はかであったと反省して赦免したのであり、そのようなことがあってからは、よほどの咎がない限り、日蓮及びその一門に何でまた怨することがあろうか。しかるに側近の者達は法華経(日蓮が一門)を憎く思っても、上に逆らうことになっては都合が悪いので、他のことにかこつけて一門を怨む故に、かえってついにはそれが虚偽であることが露見するのである。この(熱原の判決を記した)御教書が、側近達が上の意向を無視して勝手に作成したものであることは、日蓮は見ぬ先に推知していたことである。自分のときも三度まで虚御教書を作った者達であるのだから。

 つまりこのとき大聖人は、熱原事件の有罪判決は、自分の場合もそうであったように側近が上を無視して下した偽りの判決であり、そしてついにそのことが露見したとの認識に立っていることがわかるのである。とすれば、「さてはあつわらの事。こんどをもつてをぼしめせ。」という、熱原の件の今度のこととは、偽りの判決が露見したこと、そしてそれにともなって彼等が釈放されたことを指しているのではないかと思うのである。もしこの推測が許されるなら17人の釈放は、本状5月3日以前おそらく4月の下旬頃ではなかったかと思われる。

 ところで大聖人が17人の釈放を、えん罪が立証された結果と受け取られた以上、そのような何らかの動きはあったのであろうが、はたして実際に上の意向によって虚偽の有罪判決が覆されたのであろうか。時宗を取り巻く平左衛門を始めとする側近達が、上の威をかりて暴政を行い、「木のしたなるむしの木をくらひ案じられながらも隠忍自重せよと指示されるのは、『かわいどの御返事』と同轍である。

 さらに神主を匿いきれないようであれば身延へ寄越すよう指示され、女房子供にまでは取り調べもないであろうから、ことが鎮まるまでしばらく養ってほしいと要請している。後弘安四年三月十八日状『上野殿御返事』には「又かうぬしのもとに候御乳盬一疋、並口付一候。」とあって、このとき神主は身延いるようであるから、程なく大聖人の指示に従ったものと思われる。

 その約半年後の12月27日『上野殿御返事』には

貴辺はすでに法華経の行者に似させ給へる事、さるの人に似、もちゐの月に似たるが如し。あつはらのものどもかかえをしませ給へる事は、承平の将門、天喜の貞任のやうに、此の国のものどもはおもひて候ぞ。これひとへに法華経に命をすつるゆへなり。またく主君にそむく人とは、天御覧あらじ。其の上わづかの小郷にをほくの公事せめあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかかるべき衣なし。かかる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもひやらせ給ひて、ぜに一貫をくらせ給へるは、貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたへ、りだが合子の中なりしひえを辟支仏にあたへたりしがごとし。たうとしたうとし。

と述べられて、熱原の人たちをこのように「かかえをしませ給へる事」、すなわち養い守ったことを、世間の人たちは主君に背く者と思っているだろうが、諸天はけっしてそのように思われてはいない。それどころか、わずかの領地に多くの公事を課せられ、一家が困窮しているにもかかわらず、この法華経の行者日蓮に銭一貫を送られることは、誠に尊い限りであると賞賛されている。

 ここに「わづかの小郷にをほくの公事せめあてられて」とあるのは、まさに7月2日状『上野殿御返事』に「あつわらのものに事をよせて、かしこここをもせかれ候こそ候めれ。」とある、平左衛門等の弾圧の実態を示すものというべきであろう。

 以上熱原法難について述べてきたが、結論的にいえば本法難は、単なる院主代(領主)による農民への迫害ではなく、得宗政治が形成されていくこの時代、得宗被官の最高実力者である平左衛門が、しかも得宗領というその権力が最も発揮しやすい場所において、日蓮一門を弾圧するという明確な意志を持って引き起こされた、宗教弾圧であったと結論づけることができよう。それ故に弾圧の手は熱原の地に限らず、法難を前後して上野南條家・伊豆新田家・興津藤原家・西山河合家等にも及んでいる。しかもその弾圧の方法は、表向きはあくまでも世事に関し、しかも上の意向をもって合法的になされているのであって、そこに一連の弾圧の特徴を見いだすことができるのである。それは、もし宗教弾圧を前面に出し、その結果公的な場所において宗教的是非が問われることにでもなれば、かえって自分たちの首を絞める結果になることを、大聖人と2度の会見をした平左衛門は熟知していたからであろう。熱原の事件は、少なくとも行智が訴えるところによれば、日秀や日弁がその首謀者であるにもかかわらず、結果的には農民のみが逮捕・処刑されていることは、そうした状況を雄弁に物語るものといえよう。

 このように、ある意味では幕府の最高実力者ともいうべき平左衛門が首謀し、しかも熱原法難のみならずそれを前後して恒常的・波状的に弾圧がくり返されたにもかかわらず、この地における教線は、衰えるどころかますますその広がりを見せたのである。それは一体いかなる理由によるものであったろうか。次項ではそのようなことを念頭に置きながら、熱原法難の意義について考えてみたい。


第3 熱原法難の社会的意義


 1、権力へのプロテスト

 不当に逮捕された熱原の農民達は、平左衛門父子蟇目の矢を射て脅しながら「念仏申せ」と強要したにもかかわらず、断固それを拒絶して題目を唱え続けた。そのような不屈の精神を支えたものは何であったろうか。もちろん第一にあげられるべきは、宗教的確信、すなわち受持唱題による成仏への確信であることは論ずるまでもない。しかしそれを前提としながらも、そこに「権力者へのプロテスト」という、きわめて社会的意義を見ようとしたのが高木豊氏である。高木氏はその著『日蓮とその門弟』に

このように、念仏を強要されても、それをおこなわなかったのは、神四郎らが強要の無視と唱題をとおして権力にプロテストしたことにほかならない。自己の利益を踏みにじられたものの悲しみ・憤りや、自己の利益を犠牲にすることによってのみ成立する権力へのプロテストが、念仏の強要に対する唱題となって表現されたのである。

と述べ、彼等の抵抗を「権力へのプロテスト」と位置づけている。また。

それは、百姓農民が権力にプロテストする場合、それを強力に押し出すほど成長していない時においては、信仰を媒介としてそれを表現する、あるいは信仰をその前衛とするのではないかということであり、権力が強ければ強いほど、その観念ぜはいっそう強くなるのではないかということである。

と述べて、プロテストする側が自己の正当性を強力に主張するほどに成長(それは理論的あるいは組織的にという意味であろう)していないときに、宗教を媒介とするのではないかとしている。まことに当を得た見

 先に紹介した『実相寺衆徒愁状』に見られる、寺務厳誉の供僧や勤仕の住民への、坊地や金品の搾取から追放・拷問にいたる横暴ぶり、さらに『滝泉寺申状』に見られる院主代行智の横暴ぶりから推して、在家百姓に対する不当な公事の取り立て等の暴挙は、日常のことであったと思われる。

 当時の農民の悲哀は、今日ではあまりにも有名になった、紀伊国阿弖河庄の百姓達が自分たちの窮状をつたない片仮名書きで訴えた申状に端的に示されている。この「阿弖河ノ上村百姓ラツツシ(ン)テ言上」で始まる13箇条から成る申状には、地頭が執拗に年貢を責め取るさま、年貢の収納が思わしくないと大勢で押しかけて頚を切るぞと脅すさま、地頭の無理難題にも、逆らえば女房どもをつかまえて耳を切り鼻を削ぎ髪を切って尼にし、縄で打って責め立てるぞと脅されるさま等々、地頭の百姓に対する横暴ぶりが、実にリアリティーに描写されている。

 この申状は建治元年10月28日に書かれたものであり、地域や対する相手等、熱原の場合とはその状況は異なるものの、時期的に見ても百姓農民の置かれた立場そのものは大同であったと思われる。この申状が示すものは、なんといっても地頭の横暴ぶりであるが、それとともに見逃してならないことは、そのような横暴に農民達はただ屈するのではなく、たどたどしい文章ながら自力でその非を訴えていること、すなわち農民の自立性と抵抗する姿である。

 滝泉寺に属した彼等在家百姓達が、院主代の禁ずる日蓮信仰にあえて身を投じえたのは、法華信仰による成仏の保証は不可欠な要因であったとしても、やはり常日頃の院主代行智の横暴に対する反発という要素、
 そして何より反発をしたいと願う自立心があった故ともいいうるのではなかろうか。かの阿弖河庄の百姓達は、結束し文字を習い申状を書いて地頭に立ち向かった。熱原の農民達はそのような手段の変わりに、法華信仰によって院主代の横暴に抵抗する旗印と手段とを獲得したのである。そして日興・日秀・日弁等が語る、権力者に断固として立ち向かって忍難弘教する大聖人の姿や、法華経に示される忍難弘教の故に約束される成仏への保証は、彼等に勇気を与えたことであろう。

 彼等の抵抗は相手が院主代行智から、絶大な権力を誇る平左衛門に変わっても何等変わることはなかった。法華信仰という抵抗手段を獲得した彼等にとって、相手が強大であればあるほど、弾圧が熾烈であればあるほど、それに屈せず抵抗し続ける意味、すなわち百姓としての意地、信仰者としての誇りを守るという本懐は、より高く達成されるということなのであろう。そしてそれは高木氏が「権力が強ければ強いほど、その観念性はいっそう強くなるのではないか」と指摘された通りである。

 そういう意味で熱原法難は、阿弖河庄の百姓申状とともに、この時代に抑圧されながらもしたたかに生きた、在家農民達の姿を伝える貴重な資料といえるであろう。



  
2、宗教と政治の対立構造

 当時の顕密仏教を中心とする寺社体制は、権力すなわち朝廷や幕府と相関関係にあり、宗教と政治は構造的に一体であって対立関係にない。そのような中にあって、鎌倉時代に登場した、いわゆる鎌倉新仏教と呼ばれる新宗教は、その形態や指向するところはそれぞれ異なるものの、政治的価値観に対し宗教的価値観を優先させる、いわゆる「仏法為本」を主張することにおいて共通する。そのような、政治に対してその優位性を主張し「仏法為本」を掲げる新仏教が、やがて政治との軋棒を生み対立関係となることはむしろ必然であったといってよいであろう。

 両者の対立抗争は、多くの事例を挙げることができるが、そんな中で最下層に属する一在家百姓が、政治的最高権力者に属する平左衛門に立ち向かうこの熱原法難は、特にこの時代において特筆されるべき事例といえるのではないかと思う。こうした視点からの今後の研究がまたれるところである。

 また、こうした宗教と政治の対立関係の中で、信仰集団が社会的階層や立場を超えて団結し、権力に対抗しているという点も注目すべきであろう。

 既に述べたように、富士上方上野の地頭であり得宗被官であった南條時光は、法難関係者を匿うなど身を挺して協力し、大聖人より再三にわたって賞賛されている。鎌倉の四条金吾は御家人江馬氏の家人であるが、大聖人の指示により直接拘留中の農民達を激励している。千葉氏の文筆官僚であったと思われる富木入道は、これまた大聖人の指示で『滝泉寺申状』の草稿を作成し、また裁判での相手方の証言の聴取を行っている。

 いわゆる外様御家人の家人である四条金吾や富木入道は、この場合むしろ動きやすかったであろうが、得宗被官でもある南條時光は、鎌倉南條家が平左衛門と近い関係にあったこともあって、かなりの圧力があったであろう。ともあれこのような全く異なる階層及び立場を超えて、一致団結して法難――直接的にいえば権力者平左衛門に立ち向かう姿は、為政者が定める社会機構や制度とは異なる、宗教的価値観による機構や制度による行動であり、そうした集団の勢力拡大は、為政者にとって脅威であったであろう。平左衛門が断固たる姿勢で臨んだ理由の一端は、こうしたことにもあったのではないかと思う。

 


第4 熱原法難の法義的意義


 右に熱原法難の社会的意義について述べたが、ここではその法義的意義について考えてみたい。


 
1、逆縁の世界の中で――自立的信仰の確立

 大聖人の生涯は法難の歴史といってよい。『聖人御難事』には

而るに日蓮二十七年が間、弘長元年〈辛酉〉五月十二日には伊豆の国へ流罪。文永元年〈甲子〉十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる。同じき文永八年〈辛未〉九月十二日佐渡の国へ配流、又頭の座に望む。其の外に弟子を殺され、切られ、追ひ出だされ、くわれう等かずをしらず。

と、諸難を述懐されている。弘長元年の松原法難では、地頭東条景信に襲撃され、自身眉間に刀傷を負い手を折られるばかりか、「弟了一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。」とて、弟了の中からも死傷者を出している。文永8年の法難の際も、自身龍口の頸の座、佐渡流罪という過酷な刑に処せられたが、弟子檀越に対しても、禁獄や嫌がらせ等、合法非合法含めて試練が及んでいる。

 そうした大聖人及び弟子檀越の法難の中で、熱原法難はどのように位置づけられるのであろうか。まず本法難の特筆すべき点は、他の法難と異なり、直接的には大聖人が関与していないということである。他の法難は、その中心に必ず大聖人の存在があった。しかしこの法難は、もちろん大聖人の指示を仰いでいることは当然としても、その発生から経過の一切が、直接的には弟子檀越達によって対処されているのである。

 これは大聖人と弟子檀越という一つの核が、日興とその弟子檀越、あるいは日秀とその弟子檀越というように、自立的に分裂再生されていることを意味するのであり、大聖人を中心とした点が、未来に向けて線となり面となるべき第一歩ともいいうるであろう。

 未だ賢王が現れざる間は、この世は逆縁世界である。逆縁世界において法華信仰を純一に貫こうとすれば、あるいはまたその法華信仰を純正に伝えていこうとすれば、そこに軋轢が生ずることは必然である。その逆縁世界に、法華信仰が大聖人を離れてなお根付くためには、是非とも弟子檀越自身が、諸難に負けぬ自立した信仰を確立しなければならない。そういう意味で、信仰して1年足らず、未だ大聖人と面識すらない一介の百姓達が、権力の中枢にあって、他ならぬ大聖人をも苦しめ続けた平左衛門の、斬首という最も過酷な弾圧に屈せず題目を唱え続けたことは、法華信仰が自立的に展開し始めたことを象徴する出来事であったといえるであろう。

 熱原の百姓20人が有罪判決を受けたとき、粛々と題目を唱え続けたとの報告を得た大聖人が、その返書『聖人等御返事』の宛所に、「聖人等御返事」と記されたのは、その文面からして直接的対告者である日興や、日秀・日弁を指すことはもちろんであるが、その「等」の文字の中には、題目を唱え続けた熱原の農民達も含まれるのではないか。大聖人は、この法難にたずさわった弟子檀越の自立的信仰に対し、感慨を込めて「聖人等」と記したと思うのである。

 そしてこの自立的信仰の確立こそが、熱原法難の法義的意義としてまずあげられるべき点であろう。



 
2、非妥協・非暴力――不軽菩薩の利益

 さて、彼等熱原法華衆の不屈の精神は、大聖人が常に自身の行動の軌範とした不軽菩薩の利益に通ずるものがある。法難の最中9月15日、四条金吾に宛てた書状『四条金吾殿御返事』には

末代の法華経の聖人をば何を用てかしるべき。経に云く「能説此経能持此経」の人、則ち如来の使ひなり。八巻・一巻・一品・一偈の人、乃至題目を唱ふる人、如来の使ひなり。始中終すてずして大難をとをす人、如来の使ひなり。日蓮が心は全く如来の使ひにはあらず、凡夫なる故なり。但し三類の大怨敵にあたまれて、二度の流難に値へば、如来の御使ひに似たり。心は三毒ふかく一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使ひに似たり。過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。現在をとぶらふに加刀杖瓦石にたがふ事なし。未来は当詣道場疑ひなからんか。

と述べて、自身凡夫の身ながら妙法蓮華経の五字を不退に受持し弘通する姿を、不軽菩薩が杖木瓦石の難に値いながらも但行礼拝し続けた姿に擬している。もちろんここに熱原法難に関する記述は見られないが、自身の忍難弘教と、熱原の法華衆の不退の信仰の姿と、そして過去不軽菩薩の但行礼拝とが、大聖人の気持ちの中で一体となっていたことは、想像に難くない。

 熱原法華衆の非妥協・非暴力の姿は、まさに不軽菩薩の利益そのものであり、大聖人が後『諌暁八幡抄』に「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。」と弟子檀越に遺命された、逆縁世界における信仰のありようや弘通の方軌の、まさに実例ということができよう。



 
3、『聖人御難事』の本懐の意味

 熱原法華衆が鎌倉に連行され、法難もいよいよ重大な局面を迎える最中の10月1日、大聖人は四条金吾他鎌倉の諸人に宛てた書状『聖人御難事』に、次のような重大な宣言をしている。

此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年〈大歳己卯〉なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の
懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。

 釈尊が四十余年にして本懐を遂げたというのは、いうまでもなく「四十余年未顕真実」の後に説かれた『法華経』を指す。天台大師が三十余年に本懐を遂げたというのは、二十九年間『法華玄義』『法華文句』を講じた後三十年目にして説かれた『摩詞止観』を指している。伝教大師が二十余年に本懐とを遂げたというのは必ずしも明瞭でないが、『撰時抄』に伝教が龍樹・天台等に勝れる理由を、叡山に圓頓戒壇を建立したこととしていることを考えれば、56歳入滅後初7日に叡山大乗戒壇の勅許が降りたことを指すと考えるのが、最も妥当であろう。とすれば「二十余年」とは、それより21年(数えで)遡る、たとえば延暦21年(802)36歳にして南都7大寺の高僧14名を高雄山寺に招いて法華十講を修して以来ということであろうか。

 いずれにしてもこのように、釈尊・天台・伝教がそれぞれ多くの大難を経た上で、上述の年次において本懐を遂げたように、自身は建長5年4月28日清澄寺の諸仏房の南面にてこの法門を申し始めて以来、27年経過した弘安2年の今、多くの大難を経て本懐を遂げたと高らかに宣言しているのである。

 では大聖人は。弘安2年のこの時点で、何を以て本懐といわれたのであろうか。この時期『法華経』や『止観』に相当する大著をものされた形跡はない。しかし、釈尊や天台が本懐とされたのは、『法華経』や『止観』という著述そのものもさることながら、そこに示された教説により、一切衆生の成仏が保証されたこと自体を指すと考えるべきではなかろうか。そういう意味からすれば、伝教の悲願であった大乗戒壇の勅許は、まさに本懐というにふさわしい出来事というべきであろう。すなわちここでいわれる本懐とは、釈尊は在世の教主として、天台・伝教は像法の迹門の導師として、それぞれにその時代の衆生の成道を確固たるものにするという使命を、全うしたことを指していると思うのである。

 では大聖人の場合はどうであろうか。遠くは

今日蓮は去ぬる建長五年〈癸丑〉四月二十八日より、今弘安三年〈太歳庚辰〉十二月にいたるまで二十八年が間、又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。

といわれたごとく、建長5年4月28日の初転法輪以来、近くは『観心本尊抄』において上行再誕の自覚に立ち、末法の衆生の為めに上行所伝の妙法五字を示して以来、その妙薬たる妙法蓮華経の五字を末法の一切衆生に服せしむることが、大聖人の唯一にして絶対の目的であった。

 確かにもう一つの目的である、上行再誕の賢王が出現して一国乃至一閻浮提を広宣流布するという大願は成就していない。そしてそれは大聖人の熱望とは裏腹に、大聖人を取り巻く現状からすれば、当分成就しそうもない。しかし今、その逆縁の世界に、着実に上行所伝の妙法蓮華経が根付こうとしている。大聖人は門下一丸となって幕府に立ち向かう、この熱原の法難にその姿を見たのではないだろうか。そしてそれは末法濁悪の世界に、諸難を乗り越えて妙法蓮華経を建立することを使命とする、上行再誕の大聖人のまさに本懐であったのではなかろうか。この「弘安二年に本懐を遂げた」と宣言された事実、そしてこの時期に、熱原法難以外にそれに相応する大著や事項が見あたらない以上、この推測はけっして軽視されるべきではないと思うのである。

 

 

第3項 末法教主の自覚――『諌暁八幡抄』を中心として


 本項においては、大聖人が『諌暁八幡抄』末文に

天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すがし、不軽菩薩の利益此れなり。各々我が弟了等はげませ給へ、はげませ給へ。

と述べている、その真意につて若千の考察を加えたいと思う。

 そもそも『諌暁八幡抄』は、弘安3年11月14日に鎌倉の八幡宮が焼失したことを受けて、その意味を総括したものである。右文はその結論であり、その真意を考察するためには、まずそこに至るまでの大聖人の思考の足跡を辿ることが不可欠であろう。以下、その辺から考察の歩を進めていきたい。

 

第1 八幡宮炎上の理由の相違


  1、『智妙房御返事』・『四条金吾許御文』の場合

 弘安3年12月16日状『四条金吾許御文』には

而るに去ぬる十一月十四日の子の時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給ひぬる故をかんがへ候に……

とあり、鎌倉八幡宮が11月14日焼失したとの記述が見られる。翌々日の『智妙房御返事』には

なによりも故右大将家の御廟と故権大夫殿の御墓とのやけて候由承はりてなげき候へば、又八幡大菩薩並びに若宮のやけさせ給ふ事、いかんが人のなげき候らむ。

と更に詳しく、先に源頼朝の御廟(法華堂)と北条義時の墓が焼けたのに続いて、八幡大菩薩と八幡宮が焼けたことが記されている。

 前者は四条金吾からの報告によることは明らかである。後者は直接の対告者は智妙房であるが、智妙房は富木入道・大田入道有縁の僧であったと思われるので、鎌倉にて情報を得た富木入道が、智妙房にそのことを大聖人に報知させたのではないかと思われる。

 さてこの二つの返状で、大聖人は八幡宮の焼失をどのように捉え、また教示されているのであろうか。以下真蹟のある『智妙房御返事』を中心として見てみよう。

 まず第一に、八幡大菩薩の本地について述べられる。すなわち世間一般では八幡大菩薩は阿弥陀仏の化身といわれているが、実はその本地は釈尊であるとして、二つの現証をあげている。

但し大隅の正八幡の石の銘には、一方には八幡と申す二字、一方には「昔霊鷲山に在りて妙法華経を説き、今正宮の中に在りて大菩薩と示現す」等云云。月氏にしては釈尊と顕はれて法華経を説き給ひ、日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二字を願に立て給ふ。教主釈尊は住劫第九の減、人寿百歳の時、四月八日〈甲寅〉の日、中天竺に生まれ給ひ、八十年を経て、二月十五日〈壬申〉の日御入滅なり給ふ。八幡大菩薩は日本国第十六代応神天皇、四月八日〈甲寅〉の日生まれさせ給ひて、御年八十の二月の十五日〈壬申〉に隠れさせ給ふ。釈迦仏の化身と申す事はたれの人かあらそいをなすべき。

 1つには大隅の正八幡の石の銘、2つには印度応誕の釈尊と日本に八幡大菩薩と現じた応神天皇は、誕生日4月8日・入滅日2月15日・享年80と同じであることをあげて、八幡大菩薩の本地は釈尊であるとしているのである。

 ではなぜその八幡大菩薩をご神体とする若宮(鎌倉八幡宮)が焼失してしまったのか。

しかるに今日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生、善導・恵心・永観・法然等の大天魔にたぼらかされて、釈尊をなげすてて阿弥陀仏を本尊とす。あまりの物のくるわしさに、十五日を奪ひ取りて阿弥陀仏の日となす。八日をまぎらかして薬師仏の日と云云。あまりにをやをにくまんとて、八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と云云。大菩薩をもてなすやうなれども、八幡の御かたきなり。知らずわさでもあるべきに、日蓮此の二十八年が間、今此三界の文を引きて此の迷ひをしめせば、信ぜずはさてこそ有るべきに、いつ、きつ、ころしつ、ながしつ、をうゆへに、八幡大菩薩宅をやいてこそ天へはのぼり給ひぬらめ。日蓮がかんがへて候ひし立正安国論此れなり。

 日本国の一切衆生は念仏者にたぼらかされて、釈尊を捨てて阿弥陀仏を本尊とし、そして八幡大菩薩は阿弥陀仏の化身とする。これは八幡大菩薩を崇めているようで、実は八幡大菩薩を敵とする行為であり、あまつさえ釈尊を崇めよと主張する日蓮を二十八年間迫害し続ける咎により、八幡大菩薩は宝殿を焼いて天上に昇ったのであって、このような、日本国が法華経を捨てる故に諸天が天上に昇るという「神天上法門」は、『立正安国論』以来変わることなく主張してきたことである、と述べるのである。

 すなわち結論的にいえば、八幡宮が焼失したのは日本国の一切衆生が八幡大菩薩の本地である釈尊をないがしろにする故に、八幡大菩薩自ら宝殿を焼き払って天上に昇ったが故であるとしているのである。

 

 2、『諌暁八幡抄』の場合

 では『諌暁八幡抄』の場合はどうであろうか。しかしそれを見る前に、まず『諌暁八幡抄』の異本及び対告等について述べておきたい。

 『諌暁八幡抄』はその第16紙から第47紙(最終紙)までが静岡県大石寺に現存し、第1紙から第15紙は伝わらない。しかし、『日常日録』(写本の部)に「八幡抄」とその名が見られるように早くから写本された形跡が伺え、『平賀本』等によりその全文が伝えられている。

 さて、この現行本の他に、曽つて身延に所蔵されていた本抄の異本の存在が、日乾の写本によって伝えられている。この異本については、寺尾英智氏がその全文を翻刻するとともに解説を加えられているので、詳細はその論考『日蓮遺文「諌暁八幡抄」の曾存真蹟』を参照されたい。今本論考を参考として2・3その特徴を記せば、2紙から15紙まで、つまり大石寺本の欠損部分は現行本と比べ小さな出入りがあるだけで殆んど同内容であり、それ以降は内容的には殆んど同じであるものの、大石寺本に比べて文章が簡略である。したがって全体的に短い。『身延山久遠寺御霊宝記録』(『日乾目録』)によれば裏にも真蹟が記されかつすべての紙に丁付けがあったようである。末尾が欠しているので大石寺本の最末紙、本稿で問題としている 「天竺国をば月氏国と申す……」の文章が身延本にあったか否かは不明である。以上のような特徴を持つ身延本であるが、寺尾氏は「異なる本文を持った独自性の高い異本である」とされながらも、「身延本は草稿や手控えであった可能性がある」と述べられている。私もその意見に賛成である。それは第一に身延本にはその紙背全紙に亘って大聖人の筆跡が認められる故である。もちろん寺尾氏のいわれるように、そのどちらが紙背であるかはにわかに決しがたいけれども、仮に今裏と考えているものが紙背と考えた場合は、表の『諌暁八幡抄』は全文反故紙を使って書かれていることになるのであるから、草稿と考えるのが妥当であるし、たとえ『諌暁八幡抄』の方が紙背であったとし、ても、その場合はそれを紙背として次の日的に使用されたことになるのであるから、やはり草稿であったと見るのが妥当であろう。また、身延には『開目抄』『撰時抄』『法華取要抄』等の草案と思われるものが多く所蔵されていたこと(これは身延が発信地であり、ことに長文の重要著述には草稿本があったはずであることを思えば当然のことである)、現行流布本が大石寺本であること、さらに文体がやや整束されていない感があり、字句についてもたとえば本来「禰宜・祝等」とすべきところが「宜禰宜祝等」となっているなどの、いかにも草稿らしい過ちがそのままになっていることなども勘合すれば、一層草稿の可能性は高いといえるであろう。

 次に対告者について少々述べれば、本書は書状ではなく著述であるから、門下全体に宛てたものというべきであろうが、あえてその直接的対告者を推定するとすれば、南條時光があげられるのではないかと思う。

 その理由は、大石寺本奥には大石寺四世日道の「建武第三丙了六月六日奉読誦畢」という識語が見られ、日道は建武元年(1334)の仙代問答のときに下之坊に住し、また『日容縁起』によれば建武2年6月17日の時点においても下之坊に住していたようであるから、およそ1年後の本奥書も下之坊にて記された可能性が高い。そしてその下之坊及び日道は南條家に縁が深いのである。すなわち日道は元徳4年(1332)3月「上野南殿持仏堂」において『上野殿御返事』(蹲鴟書)を写している。「上野南殿」とは日道がその持仏堂で南條時光宛書状『上野殿御返事』を書写していることを考えれば、南條時光その人を指すか、それにごく近い人物と考えるのが妥当であろう。

 ところで南條時光はその2ヶ月後元徳4年5月1日に寂しており、そこに寓していた日道は、時光寂後南條家持仏堂を寺院化し、そこが下之坊といわれるようになったことも充分考えられるのではなかろうか。

 また同年4月28日に日道は、時光の娘と思われる阿原口御前の女子鬼鶴御前から、養父として蒲原庄の土地を譲られている。

 いずれにせよ、このように南條家と日道とは誠に深い関係にあり、かつ下之坊も不確定要素を含みながらも、その位置関係からしても南條家に縁が深いことは間違いないのであって、そこで日道が『諌暁八幡抄』の奥書を記したとすれば、『諌暁八幡抄』は南條家から日道へ伝わり、その後日道によって大石寺に所蔵されるようになったと思われるのであり、そうとすれば南條時光に宛てられた可能性が高いのではないかと思うのである。

 また、『諌暁八幡抄』は周遍状況から推して、実に短期間に述作されているようである。後述するように八幡宮焼失の法義的意味が、『四条金吾許御文』(12月16日)『智妙房御返事』(12月18日)と決定的に異なることから、『諌暁八幡抄』はその後に書かれたことは確実であり、とするならば「今弘安3年大歳庚辰十二月にいたるまで」とあって12月中には一応の完成を見ているようであるから、わずか10日あまりで一気に草稿を書きかつ現行本へ仕上げていったことがわかるのである。

 さてでは本題に戻り、この『諌暁八幡抄』に示される八幡宮焼失の法義的意味と、先に示した『四条金吾許御文』『智妙房御返事』のそれとは何が決定的に違うのであろうか。

 『諌暁八幡抄』はまず天神の威光勢力から説き起こされている。すなわち天神の威光勢力は、馬が1・2歳のときには元気がよく、7・8歳になると次第に衰え力も弱くなるように、成劫のときは心身ともに壮健であるが、住劫以降になると次第に勢力が衰えてくる。しかしそのときに仏が出現して仏教という良薬を与えれば威光勢力は復活するのであるが、同じく仏教といっても一律でなく、五味の相違があるのであって、今末法においては醍醐味たる法華経以外では威光を増すことはできない。いわんや醍醐に水を入れる真言宗によって勢力を増すことはできないばかりか、一切衆生の危機となる。概ねこのように述べた後次のように述べるのである。

今日本国を案ずるに代始まりて已に久しく成りぬ。旧き守護の善神は定めて福も尽き寿も減じ、威光勢力も衰へぬらん。仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに、仏法の味は皆たがひぬ。齢はたけぬ、争でか国の災を払ひ、氏子をも守護すべき。其の上、謗法の国にて候を、氏神なればとて大科をいましめずして守護し候へば、仏前の起請を毀つ神なり。しかれども氏子なれば、愛子の失のやうにすてずして守護し給ひぬる程に、法華経の行者をあだむ国主・国人等を対治を加へずして、守護する失に依りて、梵釈等のためには八幡等は罰せられ給ひぬるか。此の事は一大事なり・秘すべし秘すべし。

 すなわち今日本国の諸天なかんずく八幡大菩薩は、法華経という法味を舐めて威光を増すべきところを、法華経の行者を怨む国主等を対治せず、かえって彼等を守護する故に罰せられたのである、と述べられているのである。そして次下にはより具体的に、『大集経』には謗法を治罰しない神は罰せられると説かれていること、釈尊が八幡大菩薩を使いとして伝教に送った袈裟衣が、叡山が真言化することによって汚されているのに八幡大菩薩はそれを治罰しないこと、法華経の会座において法華経の行者を守護すると起請しながら、法華経の行者を守らぬばかりか謗法者を誡めないこと等の咎をあげた上で

梵釈・日月・四天等のせめを、八幡大菩薩かほり給ひぬるにや。・・・・今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼かれ給ひぬるか

と述べ、八幡宮の焼失は、八幡大菩薩が法華経の行者を守らず、法華経の行者を怨する国主等を一度も誡めざる故に、梵天・帝釈・日月・四天等が八幡大菩薩を罰するためになしたことである、としているめである。

 この後も、法華経を下す真言師を守護するのは八幡大菩薩のもくろみではないのか、伊東流罪・佐渡流罪の際に八幡大菩薩の前で日蓮が謗法者に辱めを受けたときに、守護しなかったのは大科ではないのか、一切経並びに法華経の掟のごとくんば八幡大菩薩は大科の神である等と、徹底して糾弾している。

 以上『諌暁八幡抄』においては、先の『四条金吾許御文』『智妙房御返事』が八幡大菩薩を「神天上法門」により庇っているのに対し、徹底して八幡大菩薩の咎を指摘し、八幡宮の焼失はその咎の故に梵天帝釈等により罰せられたものと断じているのである。

 

第2 八幡大菩薩への諌暁


 1、弟子達の疑問

 右に見たように『諌暁八幡抄』は、冒頭から激しく八幡大菩薩の咎を指摘し叱責している。『開目抄』に

我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ

と自身や弟子達に言い聞かせて以来、大聖人及び弟子檀越達は幾多の難にも負けずに、ひたすら法華経の行者として正法を受持弘通し続けてきた。末代悪世に法華経を弘通しようとすれば、諸難に値うのは必然であると言い聞かせて精進してきたのである。しかしそれはそれでよいとして、それにしても八幡大菩薩等の、法華経の会座における法華経の行者を守護するとの誓いはいったいどうなっているのか。先にも熱原の農民が法華経の故に残酷な弾圧を受けたにもかかわらず、何一つ手を差し延べないのはどうしたことか。大聖人は熱原法難において不軽菩薩の利益を貫いた弟子檀越の信仰に対し、「我が本懐なり」という最高の賛辞を贈る一方で、ここではその行者を守護しなかった八幡大菩薩の怠慢に対し、烈火として叱責しているのである。

 しかし、その断固とした大聖人の姿勢は、多くの弟子檀越にとって誠に衝撃的なことであった。実際本抄には

我が弟子等の内、謗法の余慶有る者の思ひていわく、此の御房は八幡をかたきとすと云云。

とあって、弟子の中にはわが師は遂に八幡大菩薩を敵とするようになった、と不信感を募らせる者がいたこ
とを伝えている。しかし大聖人は断固としてその姿勢を崩そうとはしない。



 2、道理ありて法の成就せぬは本尊を責む

 弟子達の心配はある意味ではわからぬではない。これまで一度たりとも善神を否定したりいわんや叱責したことなどはなく、むしろ神天上法門により庇ってきたはずであって、はたしてそのような大胆な行動は法義上許されることなのだろうか。八幡大菩薩を敵に回して罰が当たることはないのだろうか。こうした疑問を懐くことはむしろ当然のことともいえるであろう。それほどに『諌暁八幡抄』の大聖人の態度は今までと異なり、しかも激しいものであった。

 しかし言葉は激しく、そして前代に全く異なる所論であったとしても、当然の事ながらそれは感情的突発的な見解ではなく、そこにはしっかりとした法義的裏付けがあるのであって、大聖人は諸経論を引きつつそうした疑問に反論していく。まず『付法蔵経』に見える、迦葉尊者の父尼倶律陀が、子をもうけんがために樹神に祈り続けたにもかかわらず、その兆候すら見られぬ故に、樹神に対し7日の内に験がなければ焼いてしまうぞと大いに怒り、その瞋恚によって7日の内に子を授かったという故事を引いた上で

常のごときんば、氏神に向かって大瞋恚を生ぜん者は、今生には身をほろぼし、後生には悪道に堕つべし。然りと雖も尼倶律陀長者、氏神に向かって大悪口大瞋恚を生じて大願を成就し、賢子をまうけ給ひぬ。当に知るべし、瞋恚は善悪に通ずる者なり。

と述べて、瞋恚は善悪に通ずるものであれば、たとえ氏神であるうと道理にもとるのであれば、このような
先例に任せて大いに怒るべしと主張している。そして

今日蓮は去ぬる建長五年〈契丑〉四月二十八日より、今弘安三年〈大歳庚辰〉十二月にいたるまで二十八年が間、又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。……只不軽のごとく大難には値ふとも、流布せん事疑ひなかるべきに、真言・禅・念仏者等の讒奏に依りて無智の国主留難をなす。此れを対治すべき氏神八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに、日蓮、氏の神を諌暁するは道理に背くべしや。尼倶律陀長者が樹神をいさむるに異ならず。

と建長5年より一心に日本国の一切衆生に妙法5字を授与せしめるために精進してきた自負が示され、その法華経の行者日蓮を守るどころか、日蓮を諸難に値わせる者達に罰を与えることを怠る八幡大菩薩を叱責することが、なんで道理に背くことになるのであるうかと反論するのである。また

蘇悉地経に云く「本尊を治罰すること鬼魅を治するが如し」等云云。文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために、数年が間、法を修行するに成就せざれば、本尊を或はしぼり、或は打ちなんどせよととかれて候。

と『蘇悉地経』の文を引き、経文に寸分違わず道理をもって所願を祈り修行し続けて、もしそれが成就しない場合は本尊を責めなければならないと述べ、さらに

而るを日本国の守護の善神等、彼等にくみして正法の敵となるゆへに、此れをせむるは経文のごとし。道理に任せたり。

と結論づけている。
 また、弟子達(それはごく一部の者であったろうし、場合によってはそのような仮定に立っての所論とも考えられる)のもう一つの不満である

我が弟子等が愚案にをもわく、我が師は法華経を弘通し給ふとてひろまらざる上、大難の来たれるは真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊との給ふゆへなり。例せば道理有る問注に悪口のまじわれるがごとしと云云。

との意見についても、「日蓮我弟子反詰云、汝、若爾者我か問を答よ」以下、各宗が今日のごとくあくまでそれぞれの自宗自論に執し、あまつさえ法華経を下しているとき、「いかにとしてか南無妙法蓮華経良薬をば彼等が口には人べき」すなわち他にどのような方法があるというのだ、と反論するのである。もちろんここには直接的文言は見られないが、「いかにとしてか」という語の中に、不軽菩薩の逆縁毒鼓、すなわち強説によってせめて逆縁を結ぶ以外にどのような方法があるというのか、という意が内示されているのは間違いあるまい。それは本抄末文に

末法には一乗の強敵充満すへし、不軽菩薩の利益此なり。各々我弟子等、はけませ給へ、はけませ給へ

と弟子達に遺言されていることによっても首肯されるであろう。

 さて、この不軽菩薩の利益については初期の頃から変わらぬ一貫した主張であるが、八幡大菩薩が大科の菩薩であるとする見解は、少なくとも本抄直前の『智妙房御返事』までの見解と、著しく異なることは明らかである。では、このような、ある意味で今までの自説を否定してまでも、大胆な見解を示さざるを得なかった理由はいったい何であったろうか。

 それはあえて1言でいえば、日蓮1門を率いてきたリーダーとしての責任ということではなかろうか。すなわち先に引文したように、大聖人には建長5年より今日まで、幾多の難を乗り越え、法華経の説示に一分たりとも違せず如説修行してきたという自負がある。そして自分を信じてついてきた弟子檀越もまた法華経の故に諸難に値いながらも懸命に頑張ってきている。にもかかわらず先の熱原の法難にしても、法華経の行者を守護すると誓った諸天等は、一人としてその験さえ見せなかったではないか。頚を切られながらもけなげに題目を唱え続けた法華衆のためにも、否、末代の一切の法華経の行者のためにも、一門を率いるリーダーとして、また上行再誕を自認し末法の一切衆生を救っていくという自覚に立つ者として、是が非でもこのことを正面から問い、一つの結論を示す必要と責任とを痛感したが故であったと思うのである。



 3、「教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや」

 ところで『諌暁八幡抄』は右のような八幡大菩薩への厳しい叱責の後、本抄の最終段階に至って一転八幡大菩薩及びその本地である釈尊が、正直の法華経の行者を守護するという期待と確信が述べられている。

 すなわちまず正直に世間の正直と出世間の正直があるとし、前者は世間的不妄語の人に八幡大菩薩がやどり守護し、後者は本地釈尊が不妄語の法華経を説き、今滅後に日本国に八幡大菩薩と示現して、正直の経を持つ正直の行者にやどり守護することが示される。

 次で『智妙房御返事』等と同じく、釈尊と八幡大菩薩が本地垂迹の関係にあることを大隅正八幡の石文等により示した後、今日本国の万民が垂迹八幡大菩薩を敬いながら本地釈尊を捨て侮るのは、影を敬って体を侮り子に向って親を罵るに等しいと述べる。また

諸の権化の人々、本地は法華経一実相なれども垂迹の門無量なり。

と法華経からさまざまな権化が垂迹していることを示した上で

今八幡大菩薩は本地月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと云云。若爾者、此大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給とも、法華経の行者日本国に有ならば其所に栖給べし。法華経第五云 諸天昼夜常為法故而衛護之文。経文の如ば南無妙法蓮華経と申人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべしと見えたり。又第六巻云 或説己身或説他身或示己身或示他身或示己事或示他事文。観音尚三十三身を現じ、妙音又三十四身を現じ給ふ。教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや。天台云即是垂形十界作種々像等云云。

と述べて、八幡大菩薩は宝殿を焼いて天上に昇ったけれども、正直の法華経の行者の住所に栖むであろうこと、否、経文の示すことが実ならば、教主釈尊がなんで八幡大菩薩として現じないことがあろうか、と述べられているのである。

 以上に述べられる、釈尊と八幡大菩薩の本地垂迹説から、八幡宮は焼失しても八幡大菩薩は法華経の行者の頂にやどり守護するという見解は、先の『四条金吾許御文』『智妙房御返事』の説と全く同じであるから、こうした考えが示されること自体は何等問題はない。しかしこれまで、本抄の大半を費やして八幡大菩薩が法華経の行者を守らず、あまつさえ行者を難ずる国主や諸宗を保護する大科を激しく叱責し、宝殿が焼けたのはまさにその大科の故であると難じた直後に示されていることを考えると、そこに不自然な落差を感じざるを得ないのである。ではその落差の理収は何であったろうか。

 それは釈尊への配慮ではないか思われる。八幡大菩薩を厳しく叱責するということは、論理の趣くところその本地たる釈尊を叱責することでもある。現実問題として法華経の行者を守護しない八幡大菩薩を叱責することは、法華経を信奉する者のリーダーとして当然の責務ではあったろうが、教主釈尊までをも叱責することは避けなければならない。そうした思いが、最後に一転「教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや」という釈尊及び八幡大菩薩への期待という形で示されたのではないかと思うのである。

 しかしやはり本抄の全体的なトーンからすれば、これが結論ということになれば、尻切れトンボの感はいなめない。しかし本当の結論は最後の一紙に用意されていたのである。


 

第3 末法教主の自覚と不軽菩薩の利益

 

 1、月と太陽――末法の教主の自覚

 その結論は最終第47紙に、まるで計ったように鮮やかに一紙に纏められている。その直前の第46紙が冒頭3行のみでその後が欠損している。流布本にはその欠損部分「法華経第五云・・・作種々像等云云。」が存するから、本来は当然当該文章があった筈である。それにしてもなぜこのような不自然な切断がなされたのであろうか。切断部が出現すればその手がかりが得られるかも知れないが、今のところ不明という他はない。ただこの切断された部分は、その不自然な切断から推して、後世何者かによって切り離されたのではなく、大聖人自身が切り離したのではないかと思う。すなわち四行以下は本抄結論への導入部でもあり、かなり苦慮し推考を重ねた結果添削の跡が激しくなり、大聖人自らその部分を切り取って、現行本に見られる文章を整理し貼り付けたのではないか。それがいつの時代か剥がれて、行方不明になったのではないかと思うのである。

 そして推測に推測を重ねることになるが、46紙から47紙へは一気に移行したのではなく、一定の時間的経過を経て、1つの決断をもって認められたのではないかと思う。この結論部分がまさに初行から始まり、内容的にもあたかも独立しているかのように一紙に纏め上げられているのは、そのためではないかと思うのである。

 さてその結論は在世の釈尊と滅後末法の聖人との対比から始まる。

天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。

 インドを別名月氏国というのは仏が出現されることを示すものであり、我が国が日本国と名付けられるのは聖人が出現する故であるという。ここに仏というのは在世の釈尊であることは、次下に「在世は但八年なり」とあることによって了解される。聖人とは他ならぬ日蓮大聖人であることは疑う余地はない。そして月氏国にその名が示すように釈尊が出世したように、今末法の日本国に聖人が出現するのは必然であると述べている。この両者の対比を端的にいえば、在世の釈尊は月であり、末法出現の聖人すなわち日蓮大聖人自身は日である、ということになる。

月は西より東に向へり、月氏の仏法東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。

 そして西に出た月が東に向かうのは、あたかも仏教がインドから中国を経て日本に東漸した歴史を表すものであり、日が東より出て西に向かうのは、末法の今日本国において聖人によって建立された妙法五字が、逆に仏法の失われた中国・インドに帰ることを意味すると述べる。これは『顕仏未来記』や『曾谷入道殿許御書』に引文される、遵式の「始め西より伝ふ、猶月の生ずるが如し。今復東より返る、猶日の昇るが如し」との文によることはいうまでもない。この二つの御書には、この文によって日本国が仏法乃至法華経有縁の国であることが示されるのであるが、ここではそれを踏まえた上で、さらに在世釈尊が示した法華経の光は在世八年を照らすほどの月のごとき弱き光であり、末法において聖人が示す妙法五字の光は後五百歳の長き闇を照らす大陽のごとき光であるという、釈尊と大聖人との光の勝劣が、両者の直接的対比によって示されているのである。そして

仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩利益此れなり。

と述べ、釈尊は在世には存在しなかったからではあるが、謗法一闡提人を救われなかったのに対し、聖人たる自身は、一乗の強敵が充満する末法逆縁の世界において、太陽めごとき妙法五字を掲げ、不軽菩薩の利益をもって一切衆生を救っていくのだという決意が、高らかに宣言されているのである。

 これまでも日本国の主師親であることや末法の教主たる自覚は、『開目抄』や『観心本尊抄』等によって表明されてきたが、それはあくまでも教主釈尊の使いとしての教主論であった。しかしここにおいての末法の教主としての自覚乃至宣言は、それまでの主張と根本的に相違する、釈尊と相対した形でなされていることに注目しなければならない。もちろんここで対比されている釈尊は、在世の釈尊であって久遠実成の釈尊ではない。しかしそれが始成の釈尊であったとしても、釈尊との対比の上でのこのような自覚は、法義的新展開を示すものというべきであろう。

 こうした釈尊の相対化は、「身延前期の思想」において述べたように、身延前期から徐々になされているのであり、そういう意味ではその集大成ということができるのかもしれない。しかしやはり、このようなはっきりとした形の表明は、八幡宮の焼失を機縁とし、本抄前半に見られた八幡大菩薩への厳しい叱責を経て、はじめてなしえたことというべきであろう。現実的に末法逆縁の世界において如説修行する日蓮一門に、諸仏・諸菩薩・諸天等が守護の手を差し延べないのであれば、自身こそがそのリーダーとしての責任において救いの手を差し延べなければならない。この末文には大聖人のそうした強い意志が感ぜられるのである。

 

 2、不軽菩薩の利益

 さて、右のように大聖人は自らを末法の教主と規定した上で、その救済の方法として不軽菩薩の利益を提示しているのであるが、これは末法の教主としての内実を知る上で極めて重要である。

この結論に至る直前に、大聖人は仏と自身の、衆生に対する基本的姿勢の相違を次のように述べている。

涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是れ如来一人の苦なり」等云云。日蓮云く、一切衆生の同一苦は悉く是れ日蓮一人の苦と申すべし。

 この言葉は、弟子の「法が弘まらず難を受けるのは諸宗を強く破折するからである」との批判に対する反論の結論に置かれたものである。先に述べたように大聖人はこの批判に対して、諸宗を強いて破折することによって逆縁毒鼓の縁を結んで行く以外にどんな方法があるのかと反論し、その後に法華経『方便品』の「自ら無上道 大乗平等の法を証して 若し小乗を以て化すること 乃至一人に於てもせば 我則ち樫貧に堕せん 此の事は為めて不可なり」との文をあげ、これを「釈尊自身未顕真実の爾前経のみを説いて真実法華経を説かずに涅槃したならば、自ら地獄に堕ちると述べているのだ」と解釈し、それに習って日蓮も、今日まで自身地獄に堕ちぬためにも、そして一切衆生がせめて法華経に結縁できるように、真実一乗の法を強いて説き聞かせてきたのだと述べる。そしてその意において、仏が自身および一切衆生が地獄に堕ちないように、一切衆生の異の苦を請け負っていこうと決意されたように、今日蓮は一切衆生の「同一苦」を受けていく決意をするのだ、と述べているのである。

 高木豊氏はこの一文について

ここには、日蓮その人に集約された救済のための受苦の考えと決意がある。こうして、日蓮にとって受苦は、なによりもまず自らの滅罪のための受苦がら、救済の受苦に展開した。

と述べている。誠に烱眼である。また高木氏は

(『崇峻天皇御書』の「同地獄なるべし」の文及び『聖人御難事』の共同意識を説く文をあげ)この共受苦の意識とともに、晩年の日蓮には代受苦の意図があった。

と述べ、この一文にそれまでの共受苦の立場から仏菩薩の代受苦の立場への移行を見て取られている。

 しかしその件については、『涅槃経』では「異の苦」としているのを、わざわざ見せけちで書き直してまで自身の場合を「同一苦」としていることにこだわりたいと思う。たしかにここにおいては、高木氏がいわれるように、それまでの立場とは異なる、救済者としての強い決意が込められていることは疑いない。しかし同時に「異の苦」と「同一苦」という受苦の仕方の相違をもって、教主としての質の違いを提示していると思われるのである。すなわち『涅槃経』の文をまつまでもなく、仏は煩悩を断じているから本来苦を苦と感ずるごとはないのだが、敢えて一切衆生の苦を代受しようというのであって、それが大悲代受苦の内実である。しかるに大聖人の場合は、末代の聖人であり一闡提人を救う教主ではあるが、その身は『顕仏未来記』に

彼ノ二十四字ト与此五字其語雖殊ナリト其意同シ之。彼ノ像法ノ末ト与是末法ノ初ト全ク同シ。彼ノ不軽菩薩ハ初随喜ノ人日蓮ハ名字ノ凡夫也。

といわれるように煩悩を備えた名字凡身であり、それ故に当然苦は苦と感ずるのであって、その点一切衆生と本質的には同等である。そこで仏が「一切衆生の異の苦」といわれているのを、あえて「一切衆生の同一苦」としたものと思うのである。もしその推測が許されるならば、ここにおいて大聖人は単なる仏の使いとしてではない、仏に相対しての末法の教主たる自覚に立つと同時に、その教主はあくまで名字凡夫身なのであって、その慈悲のおり方もまた、仏の大悲代受苦とは異なる、質的に衆生と共にある共受苦たることを宣しかと見るのが妥当ではあるまいか。

 そしてその共受苦のあり方こそ、他ならぬ不軽菩薩の利益なのであって、それは先の『顕仏未来記』の不軽菩薩と自身との共通項を示す文をもってしても明らかである。かくのごとく大聖人は、末法の教主として不軽菩薩の利益をもって末法の一切衆生を救済していくという覚悟と決意とを宣言するとともに、本抄の末文を

各々我が弟了等はげませ給へ、はげませ給へ。

と結んで、弟子達にもそれを奨励しているのである。


第4『諌暁八幡抄』の総括


 以上『諌暁八幡抄』に見られる、大聖人の末法の教主としての自覚を見てきたが、最後にその論点を総括しておこう。

 まず第1に、末法の教主の自覚が、逆縁世界を前提として述べられているという点である。しかもそれは身延前期のような近い将来順縁になるとの見通しの中での現実逆縁世界というものではなく、諸天等の守護の誓いも守られず、当面順縁世界が望めないという、極めて厳しい現状を直視しての逆縁世界であるということである。

 第2に、それ故にそれまでの釈尊の使いとしての教主の自覚というのではなく、諸仏・菩薩・諸天等が手を差し延べぬ逆縁世界を救う教主として、釈尊を相対化した上での自覚であるということである。第3に、その末法の教主は名字凡身なる故に、不軽菩薩の逆縁毒鼓の利益を本とし、「一切衆生の同一苦」を請け負う共受苦の教主であるということである。

 第3章「佐渡期の思想」第4章「身延前期の思想」において、大聖人が釈尊より結要付嘱を受けた上行菩薩再誕の自覚をもって、「末法日本国の主師親(教主)」と宣言されていることや、釈尊を含む仏的存在への供養よりも、末代の法華経の行者への供養が勝れるという『法師品』等の文によって、仏的存在が相対化されていることなどを考察したが、『諌暁八幡抄』における末法の教主の自覚は、それらの延長線上にあるものではあるが、右にあげた3つの点において、その本質を異にするものということができるであろう。

 しかし、このような自覚に立ったからといって、八幡大菩薩を切り捨てたり、あるいはまた釈尊を尊崇し
なくなったというわけではない。八幡大菩薩は曼荼羅本尊に、天照大神とともに最後まで列座に配されているし、弘安5年正月7日状『四条金吾殿御返事』には、四条金吾始め鎌倉の檀越達が集まって、釈尊の誕生の8日(このときは1月ではあるが)を祝したことを賞賛されているように、大聖人は当然のことながら釈尊を慈父として生涯尊崇し続けたことは疑いを挟む余地はない。しかし、その一方でこの時期に『諌暁八幡抄』によって、釈尊を相対化した上での末法の教主の自覚に立たれたことも、また事実として認められなければならないであろう。

 

 

第4項 弘安の役をめぐって



   
第1 蒙古軍再度の襲来

    1、蒙古軍再度の襲来と大聖人の見解

 弘安の役とそれに関する大聖人の見解については、川添昭二氏の『日蓮と鎌倉文化』「終焉の章――弘安4年蒙古合戦と日蓮の死」というすぐれた研究があるので、ここではそれを参考とし、若于の私見を交えて論を進めていきたい。

 弘安4年5月3日、蒙古・漢・高麗連合のいわゆる東路軍は高麗の合浦を出航し、5月21日に対馬に到着、対馬・壱岐を攻撃し、6月6日には博多湾に姿を現し、その後志賀島付近で日本軍と本格的な戦闘に入った。しかし日本軍の激しい攻撃に侵攻を阻まれた蒙古軍は、慶元からの江南軍10万と合流し体勢を整うべく、一端壱岐を経て肥前鷹島に退いた。翌7月に入って両軍は合流し7月27日には体勢が整い、いざ
出陣という矢先の7月30日夜半、突如大風が吹き荒れ、翌閏7月1日には蒙古軍はほぼ壊滅状態となった。

 さて、蒙古軍再度の襲来の情報が大聖人のもとにもたらされたことを示す初出資料は、弘安4年閏7月1日状『曽谷二郎入道殿御報』である。それによれば曽谷二郎入道が大聖人へ書状を認めたのが7月19日、大聖人のもとに届いたのは7月30日である。文永の役の際に10月5日に対馬沖に姿を現した蒙古軍について、大聖人のもとにその情報が届いたことを示す初出資料が11月11日の『上野殿御返事』であり、約1月余りであったことを考えると、この度は2ヶ月以上が経過し、しかも書状が下総からとはいえ11日を要しているなど、報告にしてはややゆっくりな気もする。しかしそれは川添氏が指摘されるように、本状が必ずしも情報の報告ではなく、御家人として出兵の可能性を踏まえての、心構えを問うたものである故であろう。

 本状では、日本国は日蓮の再三の忠告を用いないが故に、蒙古軍に亡ぼされるのは必定であり、日蓮一門も日本国民である以上、現世においては運命をともにすることは避けられないであろうが、後生においては師檀ともに霊山浄土に生ずるであろうと教導されており、この時点では蒙古軍による日本国の滅亡を確信している。

 次に8月8日状『光日上人御返事』では

例せば此の弘安四年五月以前には、日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさざりしを、日本国に只日蓮一人計りかかる事此の国に出来すべしとしる。・・・此の五月よりは大蒙古の責めに値ひてあきれ迷ふ程に、さもやと思ふ人々もあるやらん。にがにがしうしてせめたくはなけれども、有る事なればあたりたり、あたりたり。日蓮が申せし事はあたりたり。ばけ物のもの申す様にこそ候めれ。

と、自身の予言の適切であったことが述べられている。本状は8月8日付けであり、次に掲げる『富城入道殿御返事』によれば、閏7月15日の富木殿の書状が20日に届けられており、その書状には蒙古軍の大破が伝えられていたことが知れるから、大聖人はその報告を受けてもなお、蒙古軍の敗退と受け取ってはいなかったことがうかがえる。



 2、蒙古軍の敗退と大聖人の見解

 蒙古軍敗退に関する大聖人の感想が見られるのは、10月21日状『富城入道殿御返事』である。本状は門下代筆で、花押のみが大聖人の筆である。代筆者を特定することはできないが、中山法華経寺聖教殿に所蔵される『識分法門一念三千即離事』に同筆跡を見ることができる。本書は巻子本全九紙からなる要文集であり、丁付けがないこと、字が継ぎ目を渡っていることから、はじめから継ぎ紙に記されたものであることがわかる。第1紙から第3紙までは富木常忍筆であり、第4紙から第9紙までが『富城入道殿御返事』の筆跡と全く同じである。しかも第3紙の終行が第4紙に渡っており、本書が2人の手により、ときを経ずして書き継がれたものであることがうかがえる。とすれば『富城入道殿御返事』の代筆者は、誰と特定できないものの、少なくとも富木殿と同時代に生きた者であることは確実である。また『富城入道殿御返事』の花押も、形態・筆勢等から大聖人の真筆であることを疑う余地は無く、本状は身延において大聖人の口述を筆記した代筆書状に、大聖人自身によって花押が加えられたものである可能性が極めて高いといえるであろう。本状には

其の外度々の貴札を賜はると雖も、老病為るの上又不食気に候間、未だ返報を奉らず候条、其の恐れ少なからず候。

と述べられており、このとき大聖人は宿病の痩せ病が悪化していたようで、そのために門下による口述筆記となったものと推測される。

 さて、本状には冒頭、先に閏7月15日の書状が、そして今回10月14日の書状が富木常忍から送られたことが述べられており、かつ


何よりも去ぬる後の七月の御状の内に云く、鎮西には大風吹き候ひて浦々島々に破損の船充満の間、乃至京都には思円上人卜。又云く、理豈に然らんや等云云。

とあるから、蒙古軍が大風により敗退したという情報を得た常忍が、再度に渡ってそれをいかに認識すればよいかを問うたのに対し、しばらくことの推移を見られた上で、その質問に答えられたものであることが知れるのである。

 大聖人は先ず

是れ偏に日蓮を失はんが為に無かろう事を造り出ださん事、兼ねて知る。

と述べ、彼等諸宗の輩のねつ造は今に始まったことではないとして、承久の変の時、義時軍が宇治川を渡る際に多くの死傷者を出したことを、叡山真言の僧達は祈りの効験があったと喜んだが、程なく亡ぼされたことを先例としてあげている。そしてこの度の件については

                        
今亦彼の僧侶の御弟子達、御祈祷承られて候げに候あひだ、いつもの事なれば、秋風に纔かの水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生け取りたりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候なり。又蒙古の大王の頚の参りて候かと問ひ給ふべし。其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。

とて、たとえ蒙古軍に打撃があったとしても、それを鬼の首を取ったように誇張し吹聴する輩に対しては、蒙古国の大王の頚を捕った訳ではあるまいと諭して、その他は一切議論をしてはならぬと念告している。

 この大聖人の答えについて川添氏は、「行文の間に負けおしみやくりごとめいた気味がある」としながらも、「戦争というものは、交戦国のどちらかがはっきり負けを認めるまではつづくもの」であり、そうした観点に立てば確かに蒙古国は亡びるどころか、「いったん廃止した征東行省を再建して出兵計画を具体化しようとしている」のであり、「このような歴史的事実をふまえてさきの日蓮の答えを読みなおしてみると、その答えが、その後の歴史の動きからはずれたものでなかったことは理解できる」と、歴史的動向から見た場合は的はずれな回答ではないとしている。

 しかし一方において

しかし、常忍が日蓮に問いたかったのは、謗法・悪法の日本をこらすために日本をおそってきたはずの蒙古軍が、大暴風によってついに敗退したということはいったいどういうことなのか、ということであった。その点で、日蓮の答えは合理的なよそおいをとりながら質問の要点をそらしていることになる。

と述べ、この答えは「信仰達成の弁証としてはあまり意味がない。」と指摘されている。しかしだからといって、そもそも日蓮の真価は「日常性を通じて根源的・永生的に生きることを」教えられたところにあるのであって、そういう意味では「蒙古襲来についての宗教的解釈が貫徹しなかったからといって、日蓮の価値がそこなわれるわけのものでもない。」と結論づけられている。

 川添氏のこの見解はまことに当を得たものであり、私も賛意を表したい。そもそも大聖人が蒙古襲来を預言し、日本国が亡びることを預言しているのは、あくまで末法に法華経が流布し一切衆生を成仏させたいと願ってのことであって、単なる預言ではないのである。つまり預言はそのための手段であって、目的は一切衆生の成仏にある。もちろんその預言は経文に基づいているのであるからけっして軽いものではない。しかし、本質的にいえばそれが目的たりえぬことは当然のことであって、極論的にいえば、その預言が的中しなかったならば、その現実を踏まえていかに法華経弘教者としての責任を全うするかということが重要なのである。その意味において、川添氏のいわれる「蒙古襲来についての宗教的解釈が貫徹しなかったからといって、日蓮の価値がそこなわれるわけのものでもない。」との見解に賛意を表したいと思うのである。



 
第2 理想と現実の狭間で――結果としての逆縁世界

 さて、ここでは右のような見解を念頭に置きつつ、富木常忍の質問に対する大聖人の回答のかかえる問題点について、改めて考えてみようと思う。大聖人が示した回答は、「国難は一端回避されたように見えるが、将来必ず予言は的中する」という、いわば将来に希望を託した答えの先送りなのであって、そこに重要な問題が内包していると考えられるのである。すなわち大聖人はこのように答えを保留したわけであるが、現実としては大聖人在世はもちろん、滅後においてもそれは実現しなかったのであり、もしそうした現実を突きつけられた場合、大聖人はどのような回答をしたかという問題である。

 これはつまるところ、経説による理想世界=順縁世界と、理想と異なる現実世界=逆縁世界との矛盾を、いかに会通するかということであって、先に述べた『諌暁八幡抄』の場合と軌を一にするものといえるであろう。すなわち『諌暁八幡抄』においては、経典に示された諸仏・菩薩・諸天等の、末代の法華経の行者を守護するという誓いが、一分の過ちなく法華経を行じ続けているにもかかわらず、守られないという現実に鑑み、八幡大菩薩を烈火として叱責する一方、そのような現実世界(逆縁世界)において、自ら不軽菩薩の利益をもって末代の一切衆生を救っていこうとの自覚に立っているのである。この『諌暁八幡抄』に示された大聖人の覚悟乃至決断を考慮すれば、この問題の回答も全く同じ視点によってなされると考えるのが妥当なのではあるまいか。すなわち蒙古襲来によって日本国は一端亡び、賢王の出現によって法華経流布の国になる(順縁世界が実現する)という経説によって導き出されたシナリオが、現実的に完全に消滅したとするならば、そのような現実を受け止めて、逆縁世界において不軽菩薩の利益によって、自他の成仏を目指す以外に方法はないのであって、まさに『諌暁八幡抄』、の末文のごとく、自身の末法の教主としての自覚と、不軽菩薩の利益を弟子檀越に奨励したと思われるのである。

 そういう意味では『富城入道殿御返事』における大聖人の回答は、将来蒙古軍襲来による順縁世界の実現を期待するものでありながら、それが実現しなかったという事実から見るとき、結果的には全く逆の、『諌暁八幡抄』に示される逆縁世界を、規定確認する意味をも内包していたといえるのではないかと思う。

 その後弘安5年10月13日の入滅にいたる1年間、蒙古襲来に関してはもちろん、順縁世界の到来を期待する文言は、病気がちで書状・論述の絶対数が少ないことも考慮しなければならないが、全く見ることができない。但し次に考察する『三大秘法抄』を除けばという前提に立ってのことであるが。

 

 

 

 

第5項 『三大秘法抄』について


 
第1 『三大秘法抄』の真偽について

 『三大秘法抄』の存在を示す古い資料としては、従来三位日順の『本因妙口決』に「三大秘法抄に云はく題目に二意有り云云」とあることと、『摧邪立正抄』の「爾前迹述門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し・・・是れ即ち大聖の本懐御抄に分明なり」との文があげられるが、前者は三位日順のものとはいいがたく、後者の「御抄」が『三大秘法抄』を指すとは限らないので、日順時代に『三大秘法抄』の存在を確認することにはならない。また、大石寺に所蔵される日時筆とされてきた『御書目録日記事』中に、 『三大秘法抄』が筆写されているが、これも近時池田令道氏の研究により日時筆ではないことが判明している。

 そうなると、日隆がその表紙に署名しているといわれる「日隆所持本」、また京都本法寺に所蔵される嘉吉2年に式部阿闍梨日慶に授けた日親書写本あたりが、最も古いものに属することになろう。

 本抄はその出自が必ずしもはっきりしないことや、王仏冥合による本門戒壇建立が明示されていることなどから、古来その真偽についての論争があり、未だに決着はついていない。

 本論においては、古写本の存在しない本抄は、基本的に使用範囲外の御書に属するが、本門戒壇建立について唯一具体的な見解が示されている点で、その真偽は本論に重要な影響があることから、ここに少々考察を加えたいと思うのである。

 本来であれば、これまでの研究成果を列挙すべきであろうが、その大部分は思想内容に関する検討が主であり、こうした議論はもちろん重要ではあるが、客観的判断とはなりにくい側面を持っている。そこでここでは、できるだけ客観的な事項をいくつか取り上げ、真偽判定の材料として提供したいと思う。なお、その中心となる語句の使用例に関する記述は、興風談所から提供されている『御書システム』に多くよっていることを、あらかじめ記しておきたい。



 1、用語の問題

 さて、まず用語の問題を取り上げてみようIまず第一に取り上げるのは「無作三身」である。その類文として「無作の三身」「本有無作三身」があり、それらを含むことはいうまでもない。さて、御書システムにおいてこの類文一切を検索する(絞り込む)場合、「無作 三身」と打てば、「無作」と「三身」を含む一切の用例が絞り込まれる。その結果は左の通りである。

【無作 三身】の語が使用される御書

 @「諸宗問答抄」      A「義淨房御書」         B「当体義抄」

 C「受職潅頂口伝抄」    D「教行証御書」         D「三世諸仏惣勘文抄」

 F「妙一女御返事」     D「三大秘法禀承事」       H「真言宗私見聞」

 I「放光受職潅頂下」    J「成仏法華肝心口伝身造抄」   K「無作三身口伝抄」

 L「十八円満抄」      M「万法一如抄」 

 N「今此三界合文」


 この内で@の「諸宗問答抄」は前半日代写本がある。しかしここでは伝教の『守護国界章』の「有為報仏夢中権果、無作三身覚前実仏」の文を引用されているのであって、自身の言葉として用いているわけではない。それ以外はすべて古写本すらない御書である。

 右の結果は、「無作 三身」の用語を自身の言葉として使用された例は、真蹟完及び断存、真蹟曾存、古写本のある御書においては、全く見られないという極めてはっきりした傾向を示している。しかも古写本以上の御書は、全体の半分以上を占めるのであって、これを偶然として片づけるわけにはいかないであろう。もし偶然というならば、確実な御書は全体の半数以上を占めるにもかかわらず、「無作 三身」の用語が使用された御書は偶然すべて失われ、後世の写本としてのみ残ったことになるわけで、そのようなことは現実的には考えにくいであろう。しかも@以外の御書は多く疑義がもたれていることも、充分考慮する必要がある。このような歴然とした傾向が、全く無視されるならば学問自体が成り立たないであろう。ともあれ右の分析により、『三大秘法抄』はまず疑がって見る必要のある御書であることは間違いあるまい。

 ちなみにこれは『三大秘法抄』とは関係ないが、同じような例として「本覚」という用語があげられる。

 「本覚」の用語が使用される御書は

 @「十法界事」        A「持妙法華問答抄」     B「聖愚問答抄」

 C「生死一大事血脈抄」    D「八宗違目抄」       E「受職潅頂口伝抄」

 F「阿仏房御書」       G「大白牛車書」       H「教行証御書」

 I「三世諸仏惣勘文抄」    J「十如是事」        K「一念三千法門」

 L「成仏法華肝心口伝身造抄」 M「無作三身口伝抄」     N「大黒天神御書」

 O「十八円満抄」       P「読誦法華用心抄」


の17編であり、その内真蹟のあるD「八宗違目抄」において、華厳宗の立場からの所見中に『蓮華三昧経』の「帰命本覚心法身」の引文が見られる他は、すべてが古写本すらない御書であり、しかもその中には古来疑義がもたれている御書が多いという結果が出ている。これなどもけっして偶然として片づけるわけにはいかないであろう。むしろ「無作 三身」や「本覚」の語は、当時特に天台宗においては頻繁に使用されているのであり、大聖人がそれを膨大な真蹟とそれに類する御書の中で、自身の言葉としてただの一度も使用されていないということは、意識的に使用を避けられたと考える方が自然であろう。

 なお、これらのことは中古天台口伝法門に関連することがらでもあり、機会を得て詳論したいと思っている。

 次に、本抄に「疏九云」と述べられていることに注目したい。ここにいう「疏」とは次下の引文から天台の『法華文句』であることがわかる。しかるにこれまた古写本以上の御書において、『法華文句』を引用する際に「疏云」といわれることは皆無であって、すべて「文句云」といわれている。但し大聖人が引用する文献中に「疏云」とある、いわゆる孫引きの場合(『三八教』)は、当然これを除かなければならない。これは大聖人が「疏」だけでは真言三部経の疏をはじめ『維摩経疏』等いろいろあって混乱しやすいために、わざわざ「文句」といわれていると思うのだが、その理由はともあれ、こうした傾向があることは綿密に調査をすれば、一目瞭然認められるはずである。

 このような主観の入る余地のない用語使用の分析から、短編の本抄に大いに疑うべき事項が2例もあることが判明した以上、常識的にいえば疑義を持たざるを得ないということになるであろう。

 さて、近時伊藤瑞叡氏の研究グループが、コンピュータ解析により本抄を真撰とする見解を発表されている。その分析方法など詳細は不明であるが、もしその方法が信頼できる御書の文体や用語との類似性・共通性を照合するというやり方であるとすれば、それによって真偽判定を行うのは極めて不合理といわざるを得ない。なぜかならば偽書の中には、どうみても大聖人が書かれたとは思えないできの悪いものもあるが、文体などをよく研究してまことにそれらしく偽作されたものもあるのであって、類似性を分析する方法では、よくできた偽作を見破ることは困難である。たとえば『教行証御書』などは、北条時宗を「法光寺殿」といって、弘安7年死の直前に名乗った法号を使っている故に偽撰が確定するのであるが、もし文体や内容をもって分析した場合、文体の類似性や内容的破綻のないことをもって真撰とされる可能性は極めて大きいといえるであろう。したがってそのような解析方法で『三大秘法抄』が真撰と見なされたとしても、その分析結果に信を置くことは到底できないのである。



 2、伝来の問題

 次に『三大秘法抄』の伝来についてであるが、先にも若于示したように、その存在を示す資料は日隆の時代をそう遡ることはできない。つまりその伝来ははっきりしていない。もっとも伝来がはっきりしないことは疑うべき要素の一つではあるが、そのような真蹟もあるのであるのであるから、必ずしもそのことが決定的な偽書の証拠とはならない。しかし本抄の場合、それが大田乗明に宛てられたものであって、それ故に伝来が不明であること自体に疑を持たざるを得ないのである。

 すなわち大田乗明は、自身に宛てられた(連名も含む)書状を大切に保管管理していたようで、それは子息といわれる帥房日高が大田氏私邸を本妙寺とした際に、本妙寺重宝として所蔵された。『日祐目録』には法華寺に所蔵される富木氏の所持分と、本妙寺に所蔵される大田氏所持分とが列記されているが、その本妙寺分に大田氏に宛てられた書状が記録されている。そこに記されるのは(『定本番号』170)『曾谷入道殿許御書』(370) 『大田殿女房御返事』 (243)『乗明聖人御返事』(197)『大田入道殿御返事』(36
1)『慈覚大師事』の計5編である。当然ここには『曾谷入道殿許御書』(『日祐目録』では『遣大田禅門許御書』)や『慈覚大師事』等の重要な御書が含まれている。また、本目録には収録されていないが、(159)『大田殿許御書』(89)『転重軽受法門』(富木殿と連名)が中山法華経寺に現蔵しており、現中山法華経寺は本妙寺と法華寺が一体となったものであるから、それに準ずるものとしてよいであろう。

 一方現中山法華経寺に所蔵されていないものとして、大阪府長久寺に所蔵される(337)『乗明上人御返事』一遍がある。また真蹟が不現存分としては(285)『大田左衛門尉御返事』(『日朝本録外』)、(265)『大田殿女房御返事』(『平賀本』)、(308)『大田殿女房御返事』(『平賀本』)の三編が伝えられている。

 以上を通覧すれば、大田殿宛て書状が大田殿本人はもとより、連名書状も含めて近隣の富木殿により大切に保管されていたことがわかるであろう。流出したものも一遍あり、真蹟が伝わらないものも三編あるが、その残存率はかなり高く、しかも重要なものはすべて中山法華経寺に所蔵されているのである。

 また、真蹟が残らないものの内『大田左衛門尉御返事』が『日朝本録外御書』である以外は、二編ともに近隣の本土寺日意による『平賀本』に収録されている。

 こうした状況にあって、同じく大田殿に宛てられた『三大秘法抄』が、『日常目録』『日祐日録』『平賀本』のいずれにも見あたらないということは、やはり不審というべきであろう。ことに本抄には

予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の後言を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間、貴辺に対し書き送り候。一見の後、秘して他見有るべからず、口外も詮無し。

と述べられており、対告者のみならず門下遺弟のために留め置かれたいわば大聖人の遺言に近いものであり、かつ本門戒壇についての唯一の具体的な見解が述べられているのであるから、対告者大田乗明はことさらこれを大切にし、保存されたはずなのである。自身に宛てられた書状を保存することに腐心している大田氏であれば、なおさらのことである。また『日常目録』には真蹟の日録のみならず、『立正安国論』『顕立正意抄』『開目抄』『撰時抄』『報恩抄』『諌暁八幡抄』『下山御消息』『曾谷入道殿許御書』等の重要御書はもちろん、その他四条金吾宛て書状や兵衛志宛て書状の写本を記録しており、精力的に後世に伝えよういう姿勢が見られるのであって、その写本日録にさえ見られないのは、いかにも不審といわざるを得ないのである。

 伝来が不明な理由を、本抄に「一見の後、秘して他見有るべからず、口外も詮無し。」と述べられていることに求め、大田殿は公には伝えなかったのだという意見もあるが、それはまともな学問を志す者の意見とはいいがたい。これに類似する言辞は『観心本尊抄副状』にも見られるのであり、また本抄が門下の遺弟に示すことを想定していることを思えば、伝え残すことこそが重要なのであって、それでなくとも大聖人の遺筆を保管伝持することを志した大田殿が、それを怠るようなことは到底考えられないのである。

 以上『三大秘法抄』における問題点を、用語と伝来に焦点を絞っていささか所見を述べたが、その結論としては本抄は偽撰の可能性が濃厚な御書であるといわざるを得ない。

 


  
第2 本門の戒壇について

 三大秘法については、第3章「佐渡期の思想」および第4章「身延前期の思想」にて少々論じたが、その中で、ことに本門戒壇については、伝教の迹門戒壇建立に習って、国主が本門の本尊・題目を受持することによって建立されるものであることがかろうじて内示されてはいるものの、その名目が示されるのみで具体的には全く触れられていないことを指摘した。それは本門戒壇建立を最も期待している身延前期はもちろん、身延後期に至っても同じであって、疑義濃厚な『三大秘法抄』を除けば、大聖人は遂にその具体相は示されなかったことになる。その理由は一体何であったろうか。

 まず考えられることは、場所や形態はその時々に変化しうることであって、そうした具体的な事柄をあらかじめ示すことは、かえって混乱を来す可能性がある故ではないかと思われる。

 しかしそのような皮相的問題ではない、法義的な理由があったようにも思われるのである。その第1は大聖人は本門の戒壇建立を伝教の迹門戒壇建立に倣って、国主の允許による建立を目指したが、両者にはそもそも決定的な社会政治機構の相違があるのであって、その結果目指すところが必ずしも一致しない面があると考えられるのである。すなわち伝教の場合は、律令制が機能していた社会にあって、戒壇は僧尼令に基づき国家が僧侶を認可する上において不可欠な存在であり、かつそれは小乗戒壇によってのみなされていたという状況がある。そうした状況下にあって大乗仏教の神髄たる法華経を標榜する伝教にとって、大乗戒壇をも正式な国家機関として認可させなければ、ついに大乗仏教を学び弘める正式な僧侶は輩出しないのであって、その閉塞状況を打開するためには、是が非とも大乗戒壇を国家の允許のもとに建立しなければならぬという必然性があったのである。しかし大聖人の時代にはそのような機構は無実化しており、私度僧が大半を
占めていたのであって、そういう意味では国が認可する戒壇建立を目指す必然性は必ずしもないのである。

 第2に、戒法に照準を当てて考えるとき、叡山の大乗戒が梵網戒すなわち十重禁戒及び四十八軽戒を基本とし、小乗戒に比べればかなり大衆化したとはいえ、なお厳しい受戒の儀式が要請されたのに対し、大聖人が示した本門戒は、詰まるところ題目の受持唱題であって、その受戒に要求されるのは信受のみであり、そこには老若男女・貴賤賢愚、さらには僧俗の隔てさえ存在しないのであって、受戒そのものが敢えていえば極めて非国家的なものというべきものなのである。つまり受持即持戒を専らとする本門戒及び戒壇は、その性質上本来律令国家における国家認可の戒壇とは、対極にあるものといっても過言ではないのである。

 大聖人は、たしかに法華経がこの国に受持建立されたことの旗印として、国家認可の本門戒壇建立を目指したことは事実であるが、こうした理論的矛盾が必ずしも整理されてのものではなかったように思われる。それが本門戒壇の言葉は示されながら、その内実に触れられなかった一つの要因ではなかったかと思うのである。

 かくして順縁世界目前にありとして本門三大秘法を高らかに掲げた身延前期にあっても、本門戒壇の具体相は論じられなかったのであり、逆縁世界を中心に法義が展開される身延後期にあっては、一層それを述べる環境になかったといえるのではなかろうか。国主が法華経受持を拒否する逆縁世界では、当然のことながら国家的戒壇など考えられないのであつて、それ故にこそ不軽菩薩の利益、また逆縁のための要法妙法受持を基軸とした法義が展開されているのである。もちろん『滝泉寺申状』等に見られるように、身延後期においても順縁世界の実現を指向し、期待する文言がないというわけではない。しかし上来見てきた通り、身延前期における期待乃至確信に比して身延後期においては朋らかにそのトーンが下がり、加えて逆縁世界を本とする法義が力強く提示されていることは、事実として認められるべきであると思う。

 さて『三大秘法抄』の存在を肯定する意見の中には、これが本門戒壇建立の唯一の具体的記述であり、もしこれなかりせば、三大秘法すべての具体相が明示されたことにならない、というものがあるが、それは順縁世界を基軸においた所論であって、逆縁世界を基軸とした場合は全くそれは当てはまらぬことは、上来繰り返し述べてきたごとくである。

 

 

 

第6項 本章の結論

 

 第1 身延後期の思想の総括

 以上、身延後期の思想について述べてきた。その要点を纏めれば、まず第1に『本尊問答抄』を基点として、それまでの本門の教主釈尊中心とした本尊観から、法華経の題目を中心に据えた本尊観に移行展開していることがあげられる。それは仏的存在である釈尊を相対化した上での、法たる題目を中心に据えた本尊観であり、具体的には曼荼羅本尊−それも法義的に完成された曼荼羅本尊を意味している。

 第2に、熱原法難を媒介として、逆縁世界に基軸をおいた法義が展開されることが表明されていることである。「一定として平等も城等もいかりて、此の一門をさんざんとなす事も出来せば、眼をひさいで観念せよ。」という『聖人御難事』の言葉はそれを端的に表している。そして重要なことは、その『聖人御難事』に、弘安2年の今自分は本懐を遂げたと宣言されている事実である。これは具体的にいえば、逆縁世界に展開されるべき不軽菩薩の忍難弘教の精神――それは当然大聖人の精神である――が、熱原法難における門下僧俗の自立的信仰をとおして、末法濁悪の世に根付いたことを指すものであると思われる。

 そして第3に、『諌暁八幡抄』に見られる、末法の教主たる自覚が宣言されていることである。これもただ末法の教主たることを宣言したのではなく、諸仏菩薩・諸天等が手を差し延べないという現実的前提に立ち、釈尊を日に対する月として、相対化した上での宣言である点に留意しなければならないのである。

 これらの身延後期の思想は、身延前期の思想が現実的には逆縁世界にありながらも、蒙古襲来を媒介として近未来に順縁広布が実現するという期待感のもとに、順縁世界を前提として建立されているのに対し、順縁世界を指向し期待しながらも、現実に展開する逆縁世界をあくまでも正視し、逆縁世界を前提として展開されているものということができよう。それ故に、それら法義の一つ一つの提示乃至宣言は、単に経典等による論理の上から構築されているというより、まさに逆縁世界における自身及び門下の実践の中から、必然的に導き出された見解であるともいいうるであろう。釈尊を相対化した上での末法の教主としての自覚などは、ある意味では釈尊乃至諸仏菩薩・諸天の、約束反故という経典には示されない現実を踏まえ、断腸の思いでなされた宣言なのである。もちろんそれは、法華経の行者として28年間、法華経に示された道を一分の過ちなく歩み続けてきたという、圧倒的な自負に裏打ちされていることはいうまでもない。

 しかしこうした身延後期の思想は、けっして唐突に示されたわけではなく、前章「身延前期の思想」において論じたように、身延前期において既に、法に対する意味において、あるいは法華経の行者との対比において釈尊が相対化される兆候は見られたのであり、いわばその路線が、逆縁世界という現実を直視することによって、徹底昇華したというべきなのであろう。

 このように大聖人の思想には、明らかに順縁世界を指向した身延前期の思想、すなわち本門三大秘法、就中教主釈尊を中心に据えた法義と、逆縁世界を軸とした身延後期の思想、すなわち法華経の題目・不軽菩薩の利益・逆縁世界の教主自覚を前面に出した法義との、2つの思想を見出すことができる。しかしそれは二者択一的に背反するものというより、どちらを前面に置くかという問題であったように思われる。すなわち身延前期においては現実的には逆縁世界において不軽菩薩の利益を展開しながらも、法義の中心は順縁世界に据えられていたのであり、身延後期においては、未来の順縁世界を期待しつつも、現実逆縁世界を基軸においた法義が構築展開されているということである。

 そのどちらが大聖人の真意であったかは、重要であると同時にまことにデリケートかつむづかしい問題ではある。しかし、現実的に21世紀を迎える今日においても、この世は明らかに逆縁世界であるということ、そして大聖人自身、釈尊や天台や伝教が本懐を遂げたことに倣って、身延後期、就中弘安2年に本懐を遂げたと述べていることは、一定の参考となろう。私は大聖人の思想を今日に受け継ぐ者の一人として、身延後期の思想こそ今日逆縁世界に展開されるべき思想であると結論づけたい。



 第2 本尊の相貌と法義

 最後に、先に若于述べたことではあるが、曼荼羅本尊の相貌について述べて本章を締めくくりたいと思う。

 曼荼羅本尊の初見をどこに置くかは、その視点によって異なってくる。しかし曼荼羅本尊が上行自覚によって顕され、かつ『観心本尊抄』に示されるごとく虚空会の儀式を移したものであることを考慮すれば、少なくとも上行等の本化の四菩薩が配される以前のものは曼荼羅本尊とはいいがたいであろう。番号9番の通称「女人成仏本尊」は本化四菩薩が配されているが年記がなく、その現存初見は番号11番、文永11年6月日の曼荼羅本尊となる。それ以降曼荼羅本尊が現存しない年はなく、その多寡はあるにせよ間断なく図顕されている。

 ところで曼荼羅本尊の相貌、すなわち題目を中心とする基本形態は生涯変化がないのであるが、列衆その他にいくつかの変化が見られる。その大まかなところを山中喜八氏の『日蓮大聖人真蹟集成』本尊集解説を参考に示せば、

@番号11番文永11年6月日本尊より総帰命式が多いが、それは番号24番文永12年卯月日本尊をもって終る。

A文永11年かと思われる番号18番本尊には両界の大日如来が配されている。

B番号31番建治2年2月日本尊より、それまで左右に離れていた署名花押が結合して、これ以降離れず。

C当初より基本的に配されてきた十方分身諸仏及び善徳仏が、番号46番建治3年11月日本尊をもって排除される。

D番号49番弘安元年7月日本尊より、花押変化す。

E番号50番弘安元年7月5日本尊より、図顕讃文の字句が定型化する。

 この他に細かな変化はたくさんあるが、以上の要点のみを見ても、曼荼羅本尊が次第に相貌を整え、定型化していく様子を伺うことができるであろう。そして、たとえば当初に配されていた迹仏が消えていくことや、先に考察した花押の変化など、おおむねその変化は法義の進化に伴うものであることがわかるのである。

 つまり本尊の相貌の変化は、大聖人の法義の展開や変化を反映しているのであって、逆にいえば相貌の変化の具合や定型化の度合いなどから、法義の変化や思考の跡を見出すことがある程度可能であるといえるのである。

 細かな研究は他日に譲ることとし、そのような大まかな傾向から今は、第1に、弘安元年以前に多くの基本的な変化が見られ、弘安2年頃に相貌がほぼ一定することに注目したい。思うに弘安元年以前の変化は、大聖人の法義が試行錯誤を繰り返しながら徐々に成熟されていることを示すものであり、弘安元年から2年頃に安定するのは、法義が成就安定していくことを示すものといえるであろう。

 第2に、番号83番弘安3年卯月10日本尊あたりから、ことに署名花押が大きくなり、題目と一体となっていく姿に注目したい。おそらくこれは末法逆縁世界が題目中心であること、同時に自身その末法逆縁世界の教主であることを示すものではあるまいか。この年の暮れ『諌暁八幡抄』が執筆されているのはけっして偶然ではなく、そこに示された気概が曼荼羅本尊に反映していると思うのである。


【追記】

 なお、身延後期の思想を語る上で、左のことも重要なことと思われるので追記しておきたい。

 それは大聖人の諸経論釈の筆写及び抄録についてである。それらの系年については、今のところ『日蓮大聖人御真蹟対照録』の文字鑑定に頼るしかないのであるが、それによれば弘安元年以降には全く見られなくなるのである。もちろん現存するものに限ってのことではあるが、これだけ見事に写本・抄録等がなされなくなっているとすれば、何らかの理由があるものと思われる。考えられることは一つには「身延前期の思想」で述べたごとく、写本・抄録の集大成ともいうべき『注法華経』が、この時期に完成していることと関連するものかもしれない。すなわち、そもそも写本・抄緑は、法華経の理解や諸宗との対論のための教材としてなされる訳であるから、その決定版ができあがった以降においては、もはやその必要がなくなったのではないかと思うのである。

 そしてもう1つの理由としては、この時期に大聖人の法義が成熟していったことと関係しているのではかかろうか。先に考察したように大聖人の思想は、弘安元年の『本尊問答抄』あたりから成熟し、曼荼羅本尊の相貌も安定していく。写本・抄本はむしろその形成過程に多くなされるのは当然のことであり、逆にいえばそれがなされなくなるということ自体が、法義的成熟度が高くなったことを証しているのではないかと思うのである。

 しかしこのことは、文字鑑定による系年特定が、どれほどまでに正確になし得るかということも含めて、今後の研究課題としておきたい。

 

 

 

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