2. 生命の蔑視

 

 

 いのちが大切なものであることは解りすぎるほど解っていることで、生命の尊重ということは誰れでもがかんがえていることだろうとおもいます。

 しかし日本の社会生活の実際をみると、解りすぎているせいか、これが単なる合言葉みたいなものになってしまっている場合が多いようにおもえます。大きな企業体においてたびたび生命が軽くあつかわれているのがみられます。鉱山の保安設備が不充分であって、そのために大勢の鉱山労働者が亡くなった場合などに、生命の蔑視がみられます。それだけではなく、広く社会生活のなかでも、いわゆる公害というかたちで生命の蔑視が行なわれています。誰れでも知っているように、鉱山の場合の鉱山保安法が生命を守るのと同じょうに、エ場排水などの害から生命を守ろうとする法律はあるけれども、法律の運用、その他について、いっぱい問題があるようにおもわれます。ところが、こうした社会現象のほかに、ややもすれば見過されがちであるけれども、事実上は行なわれているとおもわれるものに、医師および医療機関における生命の蔑視ということがあるのではないかとおもわれます。

それは診断と治療の両面において見出されます。診断にはしばしば誤診というものがあるし、病人が訴えるにもかかわらず、その病気についてていねいに診察しようとしない、不診の問題があるようです。また充分に診断材料がないにもかかわらず、病気を速断したり、そうとうの診断材料がそろっているにもかかわらず、診断が遅れたりする場合がある。また投薬や注射、その他の処置におけるマンネリズムからその病気の個性をかんがえないで概念的な投薬や法射が行なわれている場合もある。また看護法とか養生法に関して、医師として指示する義務がある場合にも、それがきわめて不誠実に行なわれ、患者蔑視の傾向があるとおもわれる場合もある。また、病気がひじょうに重くて、とても治らないような病気だと医学的な診断でわかってしまうと、医者の仕事はこれ以上ないというわけで、急にその患者にたいする扱いが不親切になってしまう場合もある。また重症患者がそこにいるにもかかわらず、旅行にでかけるとか、他の用事のために患者を放置するというような、診療義務の放棄のような場合もありはしないか。なるはど、治らない病気であるかもしれないけれども、体力を推持することが、いのちを永らえさせるのに必要であるにもかかわらず、消耗をそのまま見過していくようなこともあるのではないか。こういうふうにこまかくかんがえてみると、もちろんすべての医師がそうであるわけではないけれども、しばしば医師のなかで、あるいは医療機関において、診断と治療の両面にこうした現象があることを、私はかんがえないわけにはいきません。もともと技能がおとっているということもあろう。しかしそれをそのまま見過していいのだろうか。医師法の第4条、第7七条では医師の貴任を問うことになっているけれども、生命の蔑視という事態にたいして立ち向かうような措置が講じられているかどうかがたいせつな問題なのです。

ところで、日本の仏教者、なかんずく鎌倉時代の仏教者が、とくに現世のいのちというものをどういう具合にみていたかということを、今日における生命の蔑視の風潮にかんがみてふりかえるならば、とうぜんのことながら、祖師たちは、おどろくはど現世におけるいのちを大事にしているのです。たとえば栄西禅師の『喫茶養生記』を見ましても、あるいは親密の作だといわれている『現世利益和讃』を見ましても、日遵の『可延定業御書』を見ましても、近代の僧侶においては容易に発見することのできないような生命尊重があるのです。本来は死を、とくに死後を大事にするといわれている仏教者においては、現せの生活とか生命とかには無関心のようにおもわれていました。しかし鎌倉時代の高僧たちについてはそのことはあたらない。『喫茶養生記』をみると、「伏しておもんみるに天萬像を造る、人を造るをもつて貴しとなす。人一期を保つ、命を守るをもつて賢となす。その一期を保つの源は養生にあり」というふうにいのちを大事にする。その大事にするために茶を飲むことをすすめる。『現世利益和讃』によれば親鸞に現世利益の願いがあることは不思議なようであるけれども、そうではないのであって、その第4をみると、「南無阿爾陀彿を称うればこの世の利益きわもなし、流転輪廻の罪きえて定業中夭のぞこりぬ」ということばがあるし、『可延定業御書』には「一日のいのちは三千界の寶にも過ぎて候うなり、一日も生きておわせば功徳額もるべし。あら惜しのいのちや、あら惜しのいのちや」とあります。いかにもとうぜんのことがとうぜんのべられているまでのことでありますが、それを現代の仏教者についてみると、すべての現代の仏教者とはいわないけれども、死というものを安易に容認する傾向が強くなっているのではないかという気がするのです。

死の原因、その経過、または死の意味、死の責任という問題一切を棚上げしてしまって、死の事実を安易に容認する。そういう思想傾向ないし思惟傾向が認められるのはどういうわけであろうか。理由はいろいろあるだろうとおもう。それを社会科学的なことばを使えば、こういぅ思惟傾向の物質的基礎としてかんがえられるものに、今日の仏教が葬式仏教や法要仏教に転落してしまっているということがあるとおもいます。つまり生死の両面にわたって、生死を超える道を追求するはずの仏教が、あたらしく死者がでると、自分の仕事がまたできたというように死を安易に容認してしまうのであります。

それよりわるいことに、死の容認、すなわち「もうご寿命だからいたしかたがない」といってくれる専門家が存在することが社会にとって都合がいいという、皮肉な現実があるようにおもえるのです。つまり社会の側に死の容認をしてくれる人の存在を歓迎する傾向があり、死の容認という専門家的行為にたいする社会的需要があるようにおもうのです。そうだとすると大衆はいったいどうすればいいのか、ということになります。宗教者というものがなぜもっと生命を尊重し、僧侶というものが死を安易に容認しないかんがえ方に立ってくれないのか、私ども在家の大衆はこのことをしみじみかんがえる次第です。

 

ーー1969・8・8放送ーー
                                

もどる