1. わかれは悲しく
盛者必滅・会者定離の抜きさしならぬ無常に対応できる道をどう見出せばよいのか、生死の定めなき流転の運命を離れた境界にどう立ちいたればよいのか、という空怖ろしい疑問こそが、日蓮の場合にも、彼を仏道修業のけわしい道へ駆りたてた最も深い動機の一つだった、といえる。それだけではない。日蓮は、盛者必滅・会者定離の無常をたんなる悟性的命題として受けとったのではなく、容易には耐えることのできない感覚の痛みとして、生涯にわたってそれを感受し通した。日蓮の宗教は、そのような五官の疼痛において受けとめた無常よりの超出として形成されたのだ、といえば、奇異の言ということになるだろうか。
檀越富木常忍の病める夫人を慰撫した日蓮の消息には、蒙古の来襲にそなえて筑紫に派兵された男と鎌倉にとどまる女とのわかれの悲しさがこう記されている。
・・・尼ごぜん又法華経の行者なり。御信心月のまさるがごとく、しを(潮)のみつがごと
し。いかでか病も失、寿ものびざるぺきと強盛にをぼしめし、身を持し、心に物をなげかざ
れ。なげき出来時は、ゆき(壹岐)・つしまの事、だざいふの事〔をぼすべし〕。かまくらの人
々の天の楽のごと(如)にありしが、常時つくしへむかへば、とどまる女こ、ゆくをとこ、
はなるるときはかわ(皮)をはぐがごとく、かを(茄)とかをとをとりあわせ、目と目とを
あわせてなげきしが、次第にはなれて、ゆいのはま・いなぶら・こしごへ・さかわ・はこね
さか(箱根坂)。一日二日すぐるはどに、あゆみあゆみとをざかるあゆみを、かわも山もへだ
て、雲もへだつれば、うちそうものはなみだなり、ともなうものはなげきなり。いかにかな
しかるらん・・・。
見知らぬ男女の生別の悲しさが、すでにこうアクチュアルに共感されるのだから、死別の悲しさにみまわれた檀越・門人の傷心に五体をあげて共鳴した日蓮が、追悼のことばを見出しかねて絶句する場合があったとしても、少しもふしぎはないだろう。駿河の富士郡上野に任していたので上野殿と呼ばれていた南条家の後家尼ーー先に夫を失い、今また子息に死別した不運な女性ーーに日蓮が与えた書簡がそれだ。
南條七郎五郎殿の御死去の御事。人は生〔れ〕て死するならいとは、智者も愚者も上下一
同に知〔り〕て候へば、始てなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし、我も存〔じ〕、人に
もをしへ候へども、時にあたりてゆめかまぼろしか、いまだわきまへがたく候。まして母の
いかんがなげかれ候らむ。父母にも兄弟にもをくれはてて、いとをしきをとこ(夫)にすぎ
わかれたりしかども、子どもあまたをはしませば、心なぐさみてこそをはし候らむ。いとを
しきてこご(子)、しかもをのこご、みめかたちも人にすぐれ、心もかいがいしくみへしか
ば、よその人々もすずしくこそみ候しに、あやなくつぼめる花の風にしぼみ、満月のにわか
に失たるがごとくこそをぼすらめ。まことともをぼへ候はねば、かきつくるそらもをぽへ候
はず。又々申〔す〕ぺし。恐々鎗撃盲。
〔弘安三年〕九月六日 日蓮 花押
上 野 殿御返事
これが法華経の行者という自覚に達し、生死の境界をもはるかに越え出たはずの仏者の消息なのである。もしも次の「追申」がなかったとすれば、これは老少不定の理を認めようとせぬ一俗衆の、素朴な悲欺の奔放な吐靂としか見られないであろう。
追申 此六月十五日に見奉り侯しに、あはれ肝ある者哉。男也男也と見候しに、又見候は
ぎらん事こそかなしくは候へ。さは候へども釈迦彿・法華経に身を入〔れ〕て候しかば臨終
目出〔度〕偉けり。心は父君と一所に霊山浄土に参りて、手をとり頭を合せてこそ悦ばれ候
らめ。あはれなり、.あはれなり。
富士大石寺に現存する真蹟本に欠けているこの「迫申」部分120字をも、あえて日蓮の自作と想定するなら、霊山往詣の思想が教条されることなく、「あはれなり、あはれなり」と結ばれてあるところに、依然として感性的な傷心に低迷している日蓮の姿を見出しうる。いずれにしても、官能の疼痛において無常が受けとめられ、あくまで感性的な傷心において愛別離苦が担われているところに、日蓮の宗教の秘密の一つがあるように、近ごろ私は、ありがたい思いのうちに、感じるのである。
ー1996・7・27ー