1  過ぎ行かぬ時間

 

 

 時間の流れのなかで、事柄というものを理解したり、評価したりすることを、普通の意味では、歴史的思考というんでしょうけれども、妻に死なれてみると、その死んだ時点で、時間の歩みというものがとまってしまったんです。いろいろな思いがグルグル、グルグル妻の死という事実を旋回するだけじゃなくて、時間もある意味では、いっこうにたたないんです。つまりはかの諸事物は、どんどん時間とともに流れていくのに、妻が死んだという事実とそれにかかわる諸事物とは流れないんですね。それでハッと気がついたのは、自分の感じ方というものが、ふだんのいままでの自分の感じ方と異質なものになっているということなんです。その異質なものというのは、いったいなにかと考えてみると、歴史のなかに出てきた事柄でありながら、少なくとも歴史的時間・歴史的空間にかかわらないで、いつまでもーつの意味を持ち続けているものとして、一つのことを見るという見方、つまり歴史のなかにいながら、歴史にかかわりなしに、あるいは歴史を超えたものとして、そのものを見る見方というもの、少なくともそれに近いような考え方になっているということが、あらためて自覚されたわけです。これはたぶん、キリスト者が、キリストの死というものを考えたり、仏教者が、仏の涅槃というものを考えたりすることと同じじゃないだろうか。つまりキリストというものは、クリスチャンにとっては、過去の人間ではない、歴史のなかに流れて行く過ぎ去った人間ではなくて、永遠に現在的な存在じゃないのか。いまから2000年近く前に、イエスという人が死んだということは、歴史的には事実だけれども、死んだ者がまた蘇るという形で考えられているのは、端的にいってみれば、死んだにもかかわらず、死んではいない存在として、イエスがキリストとして意識されているということじゃないのか。一方で歴史的に考えると同時に、非常に大事なことについては、歴史を超えた永遠に現在的な問題としてそれを感じる、その2つの感じ方が、どうかかわるのかという問題です。それでさらに気がついてみると、いわゆる歴史家とか、歴史学者というものが、あらゆる事物を時間の経過のなかに流してしまうという考え方をしているのは、事物の真実という、いちばん大事な点をネグっているということじゃないのか。永遠に現在的なものを時間の流れのなかでどう理解するかということは、むずかしい問題だけれども、私としてはそんな感じです。

それと同時に、やはり少なくとも現在の気持では、大きい問題では政治や経済の問題にしろ、社会や文化の問題にしろ、やはり妻の死というものを通して理解すると、いままで考えていたものとは、そうとう違った意味を持ってくるような感じがする。死ぬということは自然現象かも知れませんが、医者や医療機関における医療のマンネリズムというものとか、あるいは非常にケアレスな措置とかが死因の一つであったということ、あるいはそれ以上に、生命の尊貴というようなものが、生きいきと感じられなくなってしまっている現代の日本の社会のなかで死んでいったということ、一口に言えば、生命の蔑視みたいなことが原因になって妻が死んでいるんで、いわば自然死を死んでいったというふうには考えられないんです。いずれは死ぬものであることはきまっているけれども、だからといって、そういう日本の社会の、簡単にいえばヒューマニズムの欠落みたいなものを通して、極端にいえば殺されていったという感じがする。そういう生命の蔑視というか、生命の尊貴というものを、ほんとうに感じなくなっているという事態が、現在の日本の社会や文化、政治や経済のあらゆる面にある。ハッと気がつけば、おそろしいぐらいに人間の命というものが、どんなに粗末に扱われているかということが、医者や医療機関に限らず、大は戦争と平和の問題から、身辺的にはさまざまの公害問題にまでつらぬいている。そのような社会的諸問題と生命の蔑視ということとの間には、幾段階ものクアションというものはあるでしょうけれども、どうも救いようのないような現実というものが出てきているんじゃなかろうか。そんな感想も持たざるをえないような状態なんです。少なくとも私の意識の上には、それが問題として厳存していて、どうすればその問題そのものを解決していくことができるだろうかということになると、まだなかなかそこまではいかなくて、いまでは、いわば永遠の現在の問題としての妻の死という問題にかかわって、いったい妻の死とはなにか、妻が死んだということは、どういうことなのかということを、できるだけ突きとめていきたいと考えている。自分の奥さんを亡くした人は多いし、またこういうお話をしている最中でも、亡くしつつある人は、日本でもたくさんいるので、ぺつにめずらしいことでもなんでもない。一般化していえば、当然人間は死ぬもので、妻が死んだからといったって、ぺつに驚くことはなにもないんだけれども、少なくとも私にとっては、非常なショックで、そのショックによって開かれた目で見ると、一口に生命の蔑視というけれども、その問題をお前はどうするつもりなのかといって、亡くなった妻から問われているような感じです。

この間、務台理作さんの奥さんが亡くなったときに、古在由重さんも来ておられて、お互いに不幸に見舞われた人間として、悔みをいいあったような形になったんですが、古在さんもご自分のお嬢さんを亡くされて3年たっでいるんだけれども、ぜんぜん悲しみは薄れない、むしろほかの情景がうすれて、亡くなったという悲しみだけが濃厚になっていく、そこであなたが始終親しくしていられる日蓮などは、そういう死という問題についてどう言っているのか、日連によってこういう思いを軽くしていくことができるのかということを古在さんに聞かれました。そこで私はお話したんです。日蓮は自分の檀越にあって手紙を出す時には、ほとんど例外なしに、人生というものは本来むじょうなものだから、いつまでも嘆のなかに沈んでいないで、亡くなった人の菩提を弔うがよろしいというようなことをいいそうだけれども、そんなことをそっけなくいったことはない。少なくとも死んだ人間を悼むことに対して、日蓮は、その近親者の気持のなかにはいり込んで、悲しくてとてでお悔みすることはできないという立場に立つので、説教めいたことはいわないんです。日蓮のたくさんの手紙を読むと、日蓮は、近親者を失なった人に対して、早く悲しみをこえるようにということは教えないで、一緒に悲しんで、もっと悲しめ、もっと悲しめといっている。そういう日蓮の手紙を読むと、不恩義なもんで非常に気持は落ちつきますから、古在さんも日蓮の手紙を読まれると、またよろしいこともあるかもしれませんね、というお話をしたんです。

そこで日蓮とはなにかという問題が出てくるわけですけれども、そういう死という事実に対して、日本の高僧たちはどう考えたか。無常迅速≠ニか、老少不定≠ニか、そういう感じが底にあることは確かだけれども、生死の問題というものを一般論としてどう考えるかということと、具体的に死者というものが出たとき、死者そのものに対して、また死者を出した近親者に対して、なにをどういうかという問題とは別のことなんで、日蓮の場合では、いまいったように説教口調であきらめなさいという話は絶対にやらない。ではほかの高僧たちはどうだろうか、たぶん同じじゃないのかと思うのです。そういう手紙にあらわれた日蓮の共感と同情みたいなものは、非常に私にとってはありがたいんですけれども、なにか仏教というものが誤解されているんじゃないかしらん。少なくとも仏教者というものは、いまの日本人が普通想像しているように、死というものに対して、いわば淡々と、超越的な、悟ったような立場からものをいうということはない。われわれ日本人が、死んだものを早く葬ってしまい、死んだ者にこだわらないでいわば前向きに生きていかなければならんということを美徳と考えるのは、その方が実利があるからですね。実利があり、倫理的には美徳であるというふうに考えたいという思惟方法が、日本の有能な仏教者もまた、死というものを簡単に超えていったんだというふうに、思わせるようになったんではあるまいか。私は少なくとも、簡単に、妻の死というものをあきらめるわけにはいかん。いわばこだわっている。むしろこだわってこだわってこだわり抜いてやろうというか、うっかりあきらめてはいけないし、また、妻も簡単に成仏してくれても困る。簡単に往生してくれても困る。これは実際不思議な話ですけれども、肉体はなくなったということは確かなんだけれども、すっかりなくなったとは思えないんで、私の日常生活の中に、私や子供というものを通して、やはり要は、自分の意思みたいなもの、あるいは思考のようなものをフットと出してくるんです。肉体がなくなったということは、掩うぺくもない事実だけれども、どういっていいのかしら、キリスト教的にいえば霊というものでしょう。仏教では霊なんていうものはそう簡単にはいえないでしょうけれども。つまり、そういう一緒に生きているという経験が実際なんどもなんどもあるわけですね。そういうことを考えてみると、いままで歴史的に考えるということをいってきたわけですが、うすうすは感じていたけれども、歴史のなかに生きながら歴史を超える、あるいは超えたものの存在を自覚し、意識して、それと歴史的なものとのかかわりを考えないと、現象だけを追う歴史的思考というものになってしまうんじゃないか、近くの者に死なれてみると、その感じが非常に強い。

いわゆる日本史の流れの全体、あるいは世界史の流れの全体、それに対してもいま感じているような生命の尊貴、その否定としての生命の蔑視、そういうものを軸にして一つずつ楔を打っていくというか、杭を打っていくというか、時間とともにあぶくのように消え去らない、そういう全体と⊥て歴史を考え直してみると、どういうふうになるのかという大きい問題。もう一つ手近かなものとしては、日蓮を含んだ日本の仏教史の全体、そのなかで生命の問題というものが、どういうふうに考えられてきたのか、それを普通考えられているようにではなく考え直してみると、どうなるのか、そういう問題もあります。その二つを同時にということはむずかしいから、あちらこちらということに、結局はなってしまうかもしれないけれども、やらなければならんのじゃないか。若い時分からやってきた研究ーー自分としては惰性のつもりではないんですけれども、現在のような問題意識から見ると惰性化していたかもしれない研究ーー、というものを、もう一つ新しい気持でやってみようと思います。結局、世界史の全体の動向というものを自分自身の中に内包した一人の人間、あるいは、せ界の全体によって規定されている今日の日本の社会、その今日の日本社会のなかで死んでいった、あるいは殺されていった一人の人間、その一人の人間の死というものの経過と意味を内面化してとらえたい。一人の人間が死んでいき、かつ殺されていった、そういう事実の経過と意味を、内側からも外側からもつかんでいく、まあそれが新しい年の仕事になるのじゃないかと、一方では思うんです。

奥さんは死んだけれども、元気を出せといろいろな人が来ていうけれども、私はそれは、無理だろうというんだ。そんな無理なことをいっても、しようがない。先生にはまだしなければならない仕事がいろいろ残っているから、やりなさいといってくれる人もあるけれども、それも無理だろうと思うのです。やることは叙情的にいえば、死んだ妻のために回向をするということが、一つ残っているだけなんですね。これが生き残っている人間と、死んだ人間とをつなぐ唯一の道みたいなものなんで、回向は続けなければならない。だから回向において生きていくよりほかに、もう生きようがないということです。ただその回向の中身ということになってみると、いまのように妻の死というものを、内側と外側と、精神と内容と、それから歴史の全体の動きの中で、その死の経過と意味を、ギリギリのところでとらえるということに、多分なるんじゃないかしらと思う。だから主観的にいえば、それは回向なんです。その回向の心が濃くなっていけば、いまのような死というものを突き詰めていかなければならなくなってくるんです。

ところで、主として平安朝の末期から鎌倉時代にかけての、いわば時代の過渡期における日本人は、貴族といわず、庶民といわず、だれか近親者が死ぬと、出家をするとか、自分の私宅を寺にかえて回向三昧に暮らした。そういうことを、いまの日本人は、王朝時代なり、あるいは武家時代の初期における、一つの叙情的な、文学的なできごととして、追憶するだけであって、それ以上の現在的な意味というものは、なんにもないように考えるかもしれませんけれども、私の場合はそうじゃないんですね。やはりその人とともに半世紀近く歩み、いっしょに生きてき、それが逝ってしまうと、いまの日本の社会というものは、非常に峻しい社会ですから、それに対して、どういうぐあいに立ち向かうのか、そういう立ち向かえる古い砦みたいなものとしての家庭というものを形成したつもりできた人間ですから、そのメンバーが欠落すると、これは再構成できないんですね。再構成できないのがほんとうなんです。その再構成できなくなった人間は、どうして生き続けていくのか、そういう人間にとって、生き続けていくということの意味はどこにあるのかといえば、そのことを王朝時代などに移して考えてみると、やはり自分の家を寺とし、出家的な世界に入り、読経と回向三昧にふけるよりはかに道はない。ただ読経といった場合の読経の中身は違ってくる。回向といったときの回向の中身は違うでしょう。それは違っても、その違いは、やはり時代の変化というものが、そういう違いを招き寄せるんだと思う。しかし出家遁世して、菩提を弔うといった、その気持ちは、平安末期・鎌倉時代の昔話としてでなく、少なくとも私にとっては現在的な、それよりほかに生きようのないあり方として意味をもってくるわけです。ところでいまの日本の社会の中で故人の菩提のために回向していくとなると、今度は逆に、非常に忙しくなってくる。いままで読まなかった本も読まなければならんし、読んだ本も読み直さなければならんし、自分がやってきたようについ自分が思っている仕事も、自己批判されなければならんし、すべてのものが、再吟味・再批判されるし、人さまのいうことも、よく耳を傾けて、聞かなければならなくなるし、自分のお腹のなかにあることも、いえることは、はっきりいわなければならなくなってくるし、なかなか当世の出家遁世というものは、とても忙しくてね。ちょっとそれで、ある意味ではおそれをなしているわけです。つまり12,3世紀の日本社会と、やがて21世紀に迫ろうとするいまの日本社会とでは、たいへん違った面もあるし、本質的には、同じじゃないかという一面もある。つまり年をとってから妻に死なれた人間に、どういう生き方が残されているかという問題は、やはり故人の冥福を祈り、菩提を弔うために、回向を続ける以外のことはないと思うし、それは12,3世紀でもいまでも同じで、そのことはいくら強調しても、強調しすぎることは、私にはないと思う。それが昔の話だというふうに思うのは、いまの人間が非人情になっているだけなんで、それは恥ずべきこと、あるいは警戒すべきことで、もっと現代の人たちは中世的であってよろしい。と同時に、回向の中身というものは、12,3絶と20世紀が違っているだけの違いは、まさにあるべきだし、あるよりほかにしかたがないと思うのです。そういう感じ方というものは、いったいどこから出てくるのか、よくわからないんですけれども、つまり妻に死なれたという事実そのものが、いろいろなことをあらためて教えてくれるわけです。

この間も京都へ行って、末寺の講堂の須弥埴に並んでいる二十一尊を見たり、また仁和寺へ行って御室御所を見たりしたんですけれども、妻が生きているときは、醍醐寺や、高雄の神護寺にも行ったんです。神護寺、東寺、醍醐寺、仁和寺、これは平安仏教の二つの大きい柱のうちの一つ、つまり天台に並ぶ真言の系列のなかで、それぞれ一つずつ時期を画するお寺ですが、東寺も、また御室の仁和寺もそうなんだけれども、テープが回っておって、ボタンを押すと、「そもそも、当寺の講堂と申しますのは……」という案内の声が流れてきて、坊さんは一人もいないわけです。私は末寺は書生の時代にも行ったし、戦前にも行ったことがあるんですけれども、ご承知かと思いますが、いまは非常に美しい公園のようになっている。そして八十円出すと、講堂と金堂の中に入って二十一尊などが見られるようになっている。書生の時分にはわざわざ庫裏へ行って、講堂を開けていただけませんかとお顧みして、拝ましてもらったけれども、いまはそんなめんどうをしなくても、入湯料を払いさえすれば、見られるわけです。その上に丁寧な説明までついている。つまりまったく、観光財になってしまっているんで、そこにはもはや真言宗なんてものはないんですね。末寺もない、菩提寺もない、それから御室仁和寺もない。しかし神護寺はちょっと違う。おととし妻と一緒に行ったんです。神護寺のご本尊は薬師如来ですが、左右の壁に、胎蔵界の曼荼羅と、金剛界の曼荼と、両曼荼羅をかけていて、そこに坊さんがいてお札を売ったりなんかしている。その坊ざんに、「ご本尊は薬師さまだと思うけれども、そこで毎日お上げになるお経はなんですか」と私が聞いたら、「理趣経です」とおっしゃった。「ああ理趣経をこちらでも、お上げになるんですか」といって、お経の話をいろいろしたり、それからいまでは違った寺になっているんですけれども、すぐ近所の栂尾の高山寺の明革上人の話をしたりしたら、その若い坊さんは、こちらの質問とか、こちらの話に、ちゃんと乗ってきてそれにふさわしい応対をしてくれたんです。だからここでは少なくとも、勉強を続けている坊さんがいると感じたんです。東寺や、醍醐寺や、仁和寺はひどいことになっている。つまりお寺はあっても、もはや宗教的な意味というものはなくなってしまって、みせものになってしまっている。日蓮は真言の批判をしたわけですけれども、真言も古義真音と新義真音と、二つある。新義のはうはどうなっているか、少し別の問題だけれども、古義真言の系統に属するものは、宗教としては、滅んじゃったといっていいのじゃないか。少なくとも京都の四つの大きい寺に関していえばです。それを滅ぼしたのは、いったいだれか。まさに真言を滅ぼしたのは真言の坊さん自身が滅ぼしたのではなかろうか。古義真言の行き詰まりを覚鑁という人が、打ち破ろうとしていわゆる新義真言というものを広めていくわけですね。つまり、日蓮によって真言の批判が行なわれる前に、すでに古義真音というものの行き詰まりを自覚する人が、真言の内部にあって、それが根来寺を創建した覚鑁の根来での新しい警になって出てくるわけですね。その護法の意識というものが、僧侶たちになくなったから、滅んだということであるかもしれないけれども、日本の社会というのは、できてきた仏教の流れを、一つづつ、つぶしてきた歴史みたいですね。真言もつぶれた、天台もつぶれた、法相とか、華厳とか、三論もつぶれたというと、古義真言の人でも、天台の人でも、そうじゃないとおっしゃるだろうけれども、とにかく天台の比叡山延暦寺には、ひところ2000ないし3000三の草侶というものがおったのが、いまではお山まわりをしている坊さんというのが一人か一人半、かっての盛んな時分の3000分の1になってしまっている現実を見ると、やはりつぶれているに近いといわざるをえないのじゃないか。もっとも天台というものは、叡山だけじゃないですけれども。奈良の法相、三論、華厳なんていうものもつぶれた。そういうと、東大寺もある、薬師寺もある、興福寺もあるじゃないかというかも知れない。それは確かにあるんです、あるんだけれども、ついきのうも見ていたら、NHKNのテレビで『古都残照』というのをやっていましたが、これは非常に皮肉な編集で、そういう奈良時代の奈良の大寺院が、いまいかに観光的なものになっているかということを、おも苦ろおかかしく見せたものでした。また、つい一箇月ほど前に、東京の国立小劇場であった薬師寺の声明のごときも、小さい小僧さんが声明のけいこを、汽車の中でつけてもらって、それから、国立小劇場の舞台に出るまでの舞台裏が映る。そして、「東京におりながらも、奈良の古都へ直接足を運んでいる以上に、国立小劇場での薬師寺の声明を聞くことによって、十分古都へのあこがれを満たし得たことでありましょう」というような解説をつけている。やはり、そういう事実があるんですね。見るだけじゃなくて、聞くものとしても、そういうぐあいになっている。そうすると、いま生きている日本の仏教のなかで、法相、三論、華厳は滅び、天台、真言も少なくとも半身不随になっている。そして、浄土宗、浄土真宗、それから曹洞、臨済の両禅宗、日蓮宗、これらもまた半身不随におちいりつつあるのじゃないか。

   日本の仏教のそれぞれが生きているか、生きていないかというテストをするのには、一つの基準があると思うのです。それは、そういう仏教のもろもろの流れにおいて、死者というものが、どういうしかたで葬られなければならないと考え、かつそれを実行しているか。つまり現在の医師や医療機関では、全部が全部そうだとはいわないですけれども、確かに生命の蔑視というものがある。一方、日本仏教の諸派には、死というものの安易な容認がある。つまり医者が殺すと、坊さんがそれに引導を渡して、葬る役をするわけです。医者と坊主のなれ合いだ。そうでないお医者さんもあれば、そうでない坊さんもあるし、まだ全部が全部そうなっていないところに、いささかの救いはあるわけですけれども、現在のもろもろの多くの僧侶における、死というものへの安易な容認というものは、許すぺからざるものであると同時に、そのような僧侶たちによってになわれている仏教というものは、もはや宗教の役を果たしていないで、単なる埋葬人というものになってしまっている。はかにも、生きている仏教か、死んだ仏教かということのけじめはありますけれども、いまの日本人は、一方ではお医者さまに渡されて、他方では坊さんに、簡単に浄土や極楽に持っていかれている。その点も、妻が死んだことで、非常にはっきりと自覚されるように、私はなってきた。そこで、懇意な日蓮宗の若い坊さんたちが、そのことをあらためて自覚して、これはいかん、日蓮宗なら日蓮宗、真宗なら真宗というものが、生きた仏教であるためには、まず祖師たちがそうであったように生命の尊貴に対する敬虔な気持と、死というものを簡単に容認しないという意識、そういう生命観に立ちかえる必要があるんじゃなかろうかということを感じはじめたわけです。近ごろ、私はほうぼうの寺へ行ったり、仏教関係の本も読みますけれども、日本の仏教は生きているのか、死んでいるのか、一般論としてはいえないんですけれども、それぞれの宗派は、いつ死にはじめたのか、ということが気になります。現在日本の宗教のなかで、とくに仏教だけを問題にしますと、仏教諸派のなかに、生命の尊厳、仏教流にいえば、生命の尊貴という自覚を持ち直す、つまり日本の仏教が転落してしまった葬式仏教の現状から、どう脱け出して、祖師たちの思いのなかにあった信仰へとどう立ちかえっていこうとしているのか、ということです。あちらこちらにその動きがあって、そのうちでいちばん私が個人的に希望をつないでおったのは、東本願寺の若い僧侶のなかでの同朋運動というものなんです。これは祖師親驚の信仰に立ちかえらなければならんという純真な運動なんです。それが成功するかしないかは、真宗だけの問題じゃなくて、日本の仏教の諸派に通じる一つのテスト・ケースみたいなものとして、私は見ていたんです。そしたら最近、本願寺の法主から新門というものに管長職を譲るといってきた。本願寺の法主というものは、本来法主であり、管長であり、それから、本願寺の住職なんですね。そのうちの管長職を新門に譲るということなんですが、それはなにかというと、若い僧侶たちのなかに起こった同朋運動の、いわば復古の形をとった宗門改革の動きを封じる政策のように思われるのです。非常な勢いで若い僧侶の間に起こっているる宗門革新の運動が、法主を中心とした旧勢力によってつぶされようとしているんです。つまり本願寺における天皇制というものですね。だから人の知らないところで、宗門を新しくしようとする運動がないわけじゃない、あるんですが、それが起こりかけると、つぶそうとする。いってしまえば純真な運動で、そういう宗教改革ーー宗教改革というのは、ルターの場合でもそうだけれども、復古運動の形をとるんですが―は、新しくするということじゃなくて、もとへかえるという形なんです。宗教革命というものが、世俗の革命と違う点で、復古することによって、新しくなるわけですね。そのような現世的な利益とか、現世的な権力に左右せられない信仰の世界を確立していくという運動は、真宗であろうが、日蓮宗であろうが、禅宗であろうが、いまの日本や、いまの世界の歴史的な問題情況のなかでは、非常に深い抵抗を意味するわけです。抵抗姿勢の確立ということになるわけです。鎌倉時代のときには、新仏教が旧仏教を批判したが、ことに日蓮が「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」といって、諸宗の批判をした。そこで、いまでもそういう日蓮によって批判された諸宗の末流と、日蓮宗の僧侶や檀信徒との間には、なにか感情の疎隔みたいなものがあるわけですけれども、その本願寺の同朋運動をやっている真宗の若い坊さんたちは、いまの浄土真宗の現実というものは、鎌倉時代に日蓮によって批判されたとおりの形になっている、それも日蓮の批判を押し返すことができないようなあり方を、いまの真宗はしているじゃないか、日蓮の批判を押し返しうるような真宗に、われわれはならなければならないというわけです

実はこの間も、NHKで話をしたときに、日蓮は、親鸞や道元と同じ時代に生きながら、3人の間には交流がなかった、この3人の間に交淀があったら、どういう現象が起こっただろうかという話が出たんです。私は、そんなことを想像してみても意味はないんだけれども、それから650年とか750年とかたった今日おいて、日蓮の門流、親鸞の門流、道元の門流の者が、事実交流し合っている。その交涜は、実は非常にあいまいなしかたで、交流をし合っているかも知れないけれど、あいまいなしかたでなく、その間に緊張関係を持った、しかもどこかで問題の共通性というものを自覚したような、そういう交渉というものはありえないだろうか、ということを現在問われているような気がすると話したんです。昔のことではなくて、いまのこととしてね。どうしてそのことが私に問題になるのかというと、この手がまわらないぐらいにひどい状態になっている政治悪、ことに反動のカというものが非常に強くなっている状態のなかで、いちばん深いところで抵抗して、そういう権力を乗り越えていける主体性というようなものは、どうしたら形成されるんだろうかという問題があるからです。その間題にかかわって考えてみると、もう死んでしまって、観光財になってしまったというふうに、普通は考えられている仏教というものが、一奮発も二奮発もやってみて、そのむずかしい役を買って出なければならない。そしてなにはどかのそういう政治悪克服の主体形成において、ご用に立つというぐあいにならなければならない。しかし、日蓮宗といわず、真宗といわず、臨済宗といわず、そういう諸宗の内部における動きを見ていると、生産的だなと思われる動きが出たと思うと、すぐつぶれちゃう。それはいっそう広い政治画における、権力と反権力との緊張というものの縮図みたいなものです。まあそういうことを考えていると、日本の仏教史をやる、あるいは日本の仏教史を含んだせ界宗教史というものをやっていきたいんですが、ずっとお聞きになったように、そういう問題の設定とか、問題の接近のしかたというものが、やはり妻が死んでから、少しリアルになり出したんじゃないかなという感じです。いままでわからなかったことが、なにか少し薄く、ぼんやりとわかるような気になってきた。そのためには、妻を殺さなければならなかった、まあ、そんなところなんです。

 

『未来』宿集部付記 本篇は、1969年12月2日、上原専禄先生宅におうかがいし、お話をテープにおさめ、原稿におこしたものを締集部の貴任においてまとめたものです。編集部からの突然のお願いでもあり、また自由な形で話された談話という関係から、先生は、編集部が内容をみずからのものとして新たに再生産して欲しいと言われましたが、何分にも非力のため、お話をそのまま並理することしかできませんでした。

 

 

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