南条兵衛七郎の死を受けて

 

上原 專禄

 

 

T

佐渡に遠流せられること2年有余、文永11(1274)年3月26日、日蓮にとって正法宣布の接点であり、逆化折伏の中心舞台でもあった鎌倉に再来した日蓮は、そこに滞留することわずかに40余日、その年の5月12日鎌倉を立ち、同17日、有力檀越の一人波木井六郎実長の所領、甲斐国波木井の郷に到着した。そして、そこまで随従してきた門弟たちのすべてを送りかえした日蓮は、波木井の郷にまる一箇月滞在したうえ、6月17日、独り身延の庵室に入居した。ここに、弘安5(1282)年9月8日、「常陸の場」での病気療養をめざして出山するまでの、9年に余る日蓮の身延止住の年月が始まる。前に私は、日蓮の身延入山そのことよりも、むしろ鎌倉退出の行動の意味を汲みとろうとする視点に立って、『日蓮身延入山考』一篇を書き、日蓮があえて身延に入山したモチーフなどにつき考察を試みた。

ところで、外見上は隠棲ともうかがえる日蓮の、結果からみて9年を越すにいたった長い年月の、一見静寂気な身延止住は、日蓮自身にとって、また日蓮の教化に浴しつづけようとした弟子・檀越たちにとって、さらにまた日蓮を白眼視つづけてきた当時の日本社会にとって、いったい何を意味し、またそれぞれに何をもたらした、と考えられるのだろうか。その全貌につき展望を企てたり、その深義について洞察を試みたりすることは、もとより拙考のよくなしうるところではない。しかし、身延止住期の日蓮の動静における一局面を形成しているだけではなく、いわば情感にみち溢れた余りにも人間的な日蓮と、信仰の理性に徹しきろうとする一箇の宗教者としての日蓮との内的緊張のうちに、信仰というものの勝位が一つびとつたしかめられてゆき、刻印づけられてゆく一連の事態について、私は小考せざるをえないような心地になっている。その一連の事態とは、まさに身延入山後、とりわけ頻繁に日蓮をおどろかせ、悲しませた篤信の檀越たちの死と、それぞれの死者にたいする日蓮の、自己の傷心をそのままに打ちまけた対応の事実とを指す。

 いったい日蓮は、一箇の仏教者として、もとより生死の問題の解明とその克服に生涯をかけた宗教者ではあった。しかし日蓮は、一人の人間の死をただちに死一般の問題に埋没させてしまい、そのうえ生と死とを伝統的思惟方法のままにいわば無造作に一括して、それを「生死の問題」として処理しょうとする観念的な仏教者ではありえなかった。たとえば、一人の縁者、一人の信者が死んだ、とする。その報に身延の山中で接した日蓮にとっては、その縁者、その信者は、今や一箇の個性的な「死者」として実存することとなる。そして日蓮は、個性的実存としてのその「死者」にたいして、まさに永遠の実存として永久に対応しづづけ、その「死者」の命運につき個別的に配慮しつづけることになる。その関連において日蓮はまた、生き残った遺族たちの信仰のあり方と、現当二世にわたるその安否につき、あらためて懸念することとなる。日蓮には、「生者」としての遺族たちの信仰のあり方が、そのまま「死者」そのものの命運を左右する一つの契因を形成する、という認識があるからである。それと同時に日連は、「死者」の命運が、逆に「生者」 のそれを規定する、という洞察をももっている。このような認識と洞察に立つ日蓮は、「死者」と「生者」との間にコミュニケーションを成り立たせる方法について考究し、さらに進んで、「死者」と「生者」との共存・共生についての保証を用意しょうとする。日蓮はこのように、きわめて具体的に、きわめ生活的に、「死者」なる個性的実存と「生者」なるそれとにかかわりつづけてゆくのであるが、そのとき日蓮は決して超越的説教者の第三者的立場に身を置くことをせず、不知不識のうちに、「死者」・「生者」の双方と、ともに悲しみを悲しみ、なげきをなげき、それからの超出への願いをともに願う姿勢と立場に立つ。そして、まさしくそのような悲歎からの超出の切願に即し、「死者」と「生者」とへの共鳴と共感に密着して、日蓮はその悲しみとなげきとからの超出を確約し、それを保証するに違いない仏の慈悲と法華経の功徳とにつき、「死者」と「生者」との双方を深ぶかと説得してゆこうとする。これが身延住期における日蓮の、「死者」というものをめぐる一連の事態の骨子といえるだろう。しかし「死者」が個性的・個別的にとらえられ、生きのこった遺族たちもまたそのようにとらえられるだけでなく、つねに集団死の問題としての内憂外患の社会的・政治的事件、殉教死の問題を内包する法難の宗教的・社会的情況が、さまざまの構造と濃度において日蓮の生活と思惟とを揺り動かしつづけ、悩ましつづけているので、日蓮が示す死者観や「死者」への対応態度も、それらの問題とからみ合うことによって、きわめて多彩な変化と相異とを示す。そのいくつかの場合について、私はこれから述べてゆくことにしたい。

 


 
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(1)  身延の沢の庵室に入って40日ばかりを経た文永11(1274)年7月26日、日蓮は、駿河国富士郡上野に所領をもつところから上野殿と通称されている、南条七郎次郎時光という一人の青年檀越にあてて、一通の書状を認めている。立正大学日蓮数学研究所編『昭和定本、日蓮聖人遺文』(以下、定本と略称)147『上野殿御返事』がその書状に他ならない。実はこの書状の前に収録されている定本144『富木殿御書』、同じく145『法華取要抄』の両篇は、定本にはそれぞれ「於身延山」と注記されているけれども、事実ほそれに反して、日蓮がまだ波木井の郷に滞在していたときの述作であると考えられること、前記の拙文で注意した通りである。またこの両篇につづく定本146『富木尼御前御返事』も、身延で書かれたもののように取扱われているが、そのことの確認できる手がかりは、底本の真筆断簡にも、見出しがたい。つまり日蓮は、富木尼あての礼状を、身延の庵窒においてではなく、そこへの入山以前に、波木井の郷で認めたのだ、とも考えられるのである。そうだとすると、定本147として掲げられている前記の『上野殿御返事』こそが、その文面からみて身延の山中で寄かれたものであることの明かな最初の書簡であり、且つ日蓮が身延で書いた多量の論作、書状などのうち、今日にまで伝えられた最古の述作といわねばならなくなる。水戸久昌寺に真蹟が現存しているその全文を定本(819p)にしたがって左に掲げよう。

 

鷲目十連・かわのり二帖・しやうかう(董)二十束給候〔ひ〕了〔ぬ〕。かまくらにてかり

そめの御事とこそをもひまいらせ候〔ひ〕しに、をもひわすれさせ給〔は〕ざりける事、申

すばかりなし。こうへのどの(故上野殿)だにもをはせしかば、つねに申〔し〕うけ給〔はり〕

なんと、なげきをもひ候つるに、をんかたみに御み(身)をわか(若)くしてとどめをかれ

けるか。すがたのたがわせ給〔は〕ぬに、御心さへにられける事いうばかりなし。法華経にて

佛にならせ給(ひ)て侯とうけ給〔はり〕て、御はかにまいりて候しなり。又この御心ざし

申〔す〕ばかりなし、今年のけかち(飢渇)に、はじめたる山中に、木のもとに、このはう

ちしきたるやうなるすみか、をもひやらせ給〔へ〕。このほどよみ候御経の一分〔を〕ことの

(故殿)へ廻向しまいらせ候。あわれ人はよき子をもつべかりけるものかなと、なみだかきあ

へずこそ候し。妙荘厳王は二子にみちびかる。かの王は悪人なり。こうへのどのは善人なり。

かれにはにるべくもなし。南無妙漁連牽軽。

七月二十六日
                                                 日蓮 花押

  一読すれば合点されるように、この書はまぎれもなく、文中「こうへのどの」と呼ばれた故南条兵衛七郎の子息で、やはり書中「よき子」と称せられた南条七郎次郎時光が、身延入山後間もない日蓮のもとへくさぐさの贈りものを携えて訪問した、その芳志にたいする礼状である。しかし、この事が同時に、「死者」としての故兵衛七郎にたいする日蓮の敦厚な弔慰、その遺児で「生者」たる七郎次郎時光にたいする日蓮の懇切な慰撫、そのうえ、常見では断絶が生じているとみられるだろうところの、「死者」兵衛七郎と「生者」七郎次郎時光との両者をねんごろに結びつけて、そこに父子共存の妙境を実現させてゆこうとする日蓮の懇鷺な斡旋、およそこのような諸面への同時配慮の上に織りなされた一篇の弔慰書を形成していることは、誰れの眼にも明かだろう。しかし、もしも私たちがこの書の、人情の機微に触れた情感の流露だけに眼をうばわれて、書状のここかしこに記されている教義やそこにうたわれている信行実修にかかる章旬ーー上の引用中、圏点をつけておいた章句が特にそれであるーーを看過するなら、私たちは日蓮を宗教者たる存在をもこめて全的にとらえたことにはならないだろう。私がこのように考える意味合いをよりはっきりさせるためには、上の文永11年7月26日付書簡に若干の注記を加えるに先だって、なお1、2の時光あて日蓮書簡をあらかじめ併載しておくのがよろしいだろう。

(2) 日蓮は前掲の書簡より3箇月余をへだてた文永11(1274)年11月11日、またもや南条七郎次郎時光にあてて書状を書き送っている。定本153『上野殿御返事』がそれであるが、真筆本は失われている。しかし、南条一門との間に深厚な港縁が形成されるにいたった日興の自筆写本で伝えられているので、信憑度は高いといえよう。日蓮はこの書状で、時光からの数かずの贈りものにたいして謝意を表するというよりも、このように「法華経の行者を供養する功徳」の面を最初に讃歎し、その後をうけて日蓮は、次下に「死者(=時光の父)」と「生者(=時光その人)」とのはかなくもあわい現世の因縁と、そのあわれさを十分に包みきるであろう両者の共存・共生への展望を次のように書きつけるのである。

 

其上、殿(=時光)はをさな(幼)くをはしき。故親父は武士なりしかども、あながちに法

華経法を尊〔み〕給〔ひ〕しかば、臨終正念なりけるよしうけ給〔はり〕き。其親の跡をつが

せ給〔ひ〕て又此経を御信用あれば、故聖霊いかに草のかげにても喜びおぼすらん。あわれ

いきてをはさば、いかにうれしかるべき。此経を持〔つ〕人々は他人なれども同〔じ〕霊山

へまいりあわせ給〔ふ〕也。いかにいはんや、故聖霊も殿も同〔じく〕法華経を信〔じ〕させ給

へば、同〔じ〕ところに生〔まれ〕させ給〔ふ〕べし。いかなれば他人は五六十までも、親と

同〔じ〕しらがなる人もあり。我わかき身に、親にはやくをくれ(後)て、教訓をもうけ給はね

ざるらんと、御心のうちをしはかるこそなみだもとまり候ほね

 現世の有限的存在としての父と子のそれぞれにたいして、また父と子との悲運なかかわり方にたいして、涙とともにそそぎ入れたしみじみとした感情と、同じ対象にたいする救済の願いをこめた深ぶかとした教導志向とが、からみ合い、重なり合い、補い合って、世出両面の問題領域を同時に蔽って、なげきをもうれえをもー挙に昇華させずにはおかぬこの弔慰の一文は、以上で終るのではない。文末に「なみだもとまり候はね」と書いたその慟哭の思念におそらくは触発されて、やはりなみだのとまらぬ、他の、一次元深いーーといえばいえるーー政治的・社会的事件を、日蓮は右の一文の後をただちに受けて、次のように書き加えるのである。

  抑〔も〕日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども、日本国の上下萬人一同に、國のほ

ろぶぺきゆへにや、用〔ひ〕られざる上、度々あだをなさるれば、カをよばず山林にまじはり

候ぬ。大蒙古國よりよせて候と申せば、申せし事を御用〔ひ〕あらばいかになんどあはれな

り。皆人の當時のゆき(壹岐)・つしま(封馬)のやうにならせ給はん事、おもびやり候へば

なみだもとまらず・・・

 多くの研究者によると、元・宋・高麗の侵略者船団が対馬島の佐須浦を急襲したのは文永11(1274)年10月5日で、翌6日に守護小弐氏の代官宗右馬允資国との間に合戦が展開された。また侵略軍が壱岐島に来襲したのは同月14日で、翌15日上陸した敵軍にたして防戦に つとめた同島の代官平景隆は敗れて自害した。つづて16・17日には平戸・能古・鷹島の諸島が襲われ、ついで18日肥前松浦郡も侵されたが、在地の松浦党が惨敗を喫した。越えて19日侵略者大船隊は筑前今津に来襲し、部隊の一部が上陸したが、翌20日には博多の西方百道原、博多の東方箱崎にも大部隊が上陸し、守護小弐景資をその日の総大将とする防衛軍との間に激闘がくりひろげられた。戦闘の後、侵略軍は博多湾頭に仮泊していた艦船にことごとく撤収したが、その夜半逆風が吹き荒れ、艦船は漂没あるいは大破し、多数の将兵も失なわれ、残る船隊は高麗合浦撤退した、といわれている。注意を要するのは、このような戦況ーー未詳の点も多いーーなどが、いつ、京・鎌倉に通報されたか、またその通報にたして京・鎌倉はどう対応したか、という問題である。相田二郎氏の考証によると、10月5日の敵船対馬襲来の警報が京都に届いたのが10月17日で、鎮西からの使者が関東に下向したのは、同月18日だつた、という。この通報に接した鎌倉幕府はようやく11月1日にいたって、鎮西諸国と中国筋の守護人たちにたして「禦戦」を督励した御教書を発し、さらに同3日にいたって、今度は地頭・後家人たちにあてて同じ内容の御教書を送っている。一方朝廷は、11月2日にいたって亀山上皇が告文を親書して神功皇后池上陵等の8陵に奉呈し、賊徒の撃退を祈請し、同7日にはやはり上皇が十六社に奉幣して、異賊降伏の祈願を行っている 。

いわゆる文永の役についてのこのような日取りと経過を念頭に置いたうえで、あらためて前掲の定本153『上野殿御返事』における「抑〔も〕日蓮は」以下の文面を検討すると、日蓮が蒙古襲来後の、いかに早い時点で事件に対応しているかにおどろくと同時に、そこに述べられている所見がいかに悲痛な思いに貫ぬかれているかにも、心が打たれる。定本153の日付は前記のように〔文永11年〕11月11日であって、鎌倉幕府が守護や地頭・御家入にたいして発した御教書が名宛人のもとへやっと届いたか、まだ届かぬかの頃合いである。蒙古襲来の危機につき予言を重ねると同時に、その実現を畏怖してきた身延山中の日蓮にたいしては、鎌倉在住あるいは在動の、弟子または檀越の誰れかが、いちはやく事件を通報した、と想像される。その情報自体の中にすでに素材が含まれていたかどうかは不明であるが、急報に接した日蓮は、たまたま南条時光に書き送る手順になっていた書状の中で、特に父子死別の悲しさに打ちしずむ時光に同情の涙をそそぐその条にまさしくオーバーラップさせて、まず第一に、かねての他国侵逼の予言の的中した不幸を大きく痛恨した。それと同時に日蓮は「皆入の嘗時のゆき(壹岐)・つしま(對馬)のやうにならせ給はん事、おもぴやり候へばなみだもとまらず・・・」と告白して、壱岐・対馬の人たちを襲った悲運が、やがては万人の身上にも同じように実現するであろうことを予見して、涕涙を止やえなかった。ここに注意を要するのは、日蓮が「皆人の當時のゆき・つしまのやうにならせ給はん事」と書き記したことの具体的内容である。「當時のゆきつしまのやうに」という言い方のもとに、日蓮はいったいどのようなイメージをもっていたのだろうか。これに答えると考えられるものは、建治元(1275)年5月8日に系けられている定本178『一谷入道御音』中の次の一節であろう。


 ・・・去〔る〕文永十一年詣十月に蒙古國より筑紫によせて有〔り〕しに、封馬の者かため

て有〔り〕しに宗〔の〕對馬〔の〕尉逃ければ、百姓等は男をば或るは殺し、或るは生け捕りにし

女をば或は取集〔め〕て手をとをして船に結付、或は生〔け〕取〔り〕にす。一人も助かる

者なし。壹岐によせても又是〔くの〕如〔し〕。船おしよせて有〔り〕けるには、奉行入道・

豊前〔の〕前司ほ逃て落〔ち〕ぬ。松浦〔が〕党は数百人打〔た〕れ、或は生〔け〕取〔り〕

にせられしかば、寄〔せ〕たりける浦々の百姓ども壹岐・封馬の如し・・・


 日蓮が「昔時のゆき・つしまのやうに」と文永10年11月11日付の『上野殿御返事』に書きつけたとき、日蓮はすでに、誰れよりまず「浦々の百姓」たる一般庶民の身上について考えていたことであろう。その悲惨きわまる「百姓」の運命は、右の『一谷入道御書』によれば、対馬ではとりわけ「宗〔の〕對馬〔の〕尉」が逃亡したからであり、壱岐でも「百姓」がそういう羽目におちいったのには、敵船来襲の前に「奉行入道・豊前〔の〕前司」が逃散したという事由もある、と日蓮はあえて主張する。松浦党はさすがに在地の武士にふさわしい行動をした末に壊滅したのだが、松浦党をたよりに来集した「浦々の百姓」は壱岐・対馬の者と同じ運命におちいった、というのが日蓮の観察であった、といえよう。文中「宗〔の〕對馬〔の〕尉」と記されているのは、対馬の代官宗右馬允資国のことであり、「奉行入道・豊前〔の〕前司」と書かれているのは、豊後守兼鎮西奉行たる大友頼泰入道道忍と豊前前司たる小弐資能入道覚恵の二人を指す。百姓たちの惨状が侵略軍そのものにすぐさま帰せられていないで、防戦の指揮者層の卑劣で無責任な行動に理由づけられる点に、日蓮の問題意識における大衆的立場がうかがえる、といえよう。小弐・大友等にたいする非難は、定本176『種種御振舞御書』中でもなされており、「同〔=文永11年〕10月に大蒙古國よせて壹岐・對馬の二箇國を打〔ち〕取〔ら〕るるのみならず、太宰府もやぶられて小武入道・大友等ききにげ(聞逃)其外の兵者ども其事ともなく大體打〔た〕れぬ・・・」と日蓮は書き記している。

 いずれにしても日蓮は、定本153『上野殿御返事』で南条時光への慰撫に直結させ、それに折り重ねて、壱岐・対馬の大衆にふりかかった災厄をなげきつつ、その不運がやがては日本人全体を撃つであろうことに心を戦かせている。時光の父の死と壱岐・対馬の大衆の不幸とがこのように、いわば重層的にとらえられることによって、この事を書く者、読む者、その両者の悲しみは、相互媒介的に増幅されていったにちがいない。

(3) 日蓮は文永12(1275)年正月の中旬か下旬、またもや南条時光に一書を与えている。定本161『春之祝御音』がそれであるが、これは前二書の場合のような返礼の書状ではなく、日蓮自身の方から進んで書いた自発的書簡と考えられる点に、すでに一つの特異性が認められる。定本によってその全文を次に鴇げる。


 春のいわい(祝)わすでに事ふり候ぬ。さては故なんでうどの(南條殿)はひさしき事に

は侯はざりしかども、よろづ事にふれてなつかしき心ありしかば、をろかならずをもひしに、

よわび盛〔ん〕なりしに、はかなかりし事、わかれかなしかりしかば、わざとかまくら(鎌

倉)よりうちくだかり、御はかをば見候ぬ。それよりのちはするが(駿河)のびん(便)に

はとをもひしに、このたび〔の〕くだしには、人にしのびてこれへきたりしかば、にしやま

(西山)の入道殿にもしられ候はざりし上はカをよばず、とをりて候〔ひ〕しが心にかかり

て候。その心をとげんがために、此御房は正月の内につかわして御はかにて自我偈一巷よま

せんとをもひてまいらせ候。御とのの御かたみもなし、なんどとなげきて候へば、とのをと

どめをかれける事よろこび入〔て〕候。故殿は木のもと、くさむらのかげ、かよう(通)人

もなし。仏法をも聴聞せんず、いかにつれづれなるらん。をもひやり候へばなんだもとどま

らず。との(殿)の法華経の行者うちぐ(具)して御はかにむかわせ給〔ふ〕には、いかに

うれしかるらん

 前二者の場合についても同様であるが、この一書にいたって、南条父子にたいする日蓮の切々たる真情が後世の私たちの心にもいよいよ強く迫ってくるのを覚える。そこで、理解しかねるところは理解しかねたままにしておき、とらえにくい点はとらえにくいままにしておいて、ただもう心を素直にして書状に接すれば、伝わるぺきものはこちらの胸にも心にも伝わってくるはずだ。そう私は考えるのである。しかし、それと同時に、3通の書状というものが、実は名宛人時光を越えて私たちにも与えられているのであるように感じてくると、及びもつかぬことと一方では承知していながら、知解の手段をいくぶんなりとも用意しょうとするのが、むしろ作法というものだろう、という心境にもなる。そういうこころで私はこの拙文を書きつづけてゆくわけだ。

 
 

V

 南條父子の生涯については、富士大石寺の所伝に基づく堀日享師の『南條時光傳』があり、諸方面で重用されている。しかし日蓮自身が、とりわけ父の兵衛七郎について記すところは、前節に掲げた時光あて3書簡における記事以外には多くはなく、兵衛七郎の没年さえ日蓮は明記していないのである。ただわずかに、文永元(1264)年12月13日付と考えられる、当の兵衛七郎あて日蓮書簡が定本38『南條兵衝七郎殿御書』として伝えられているので、この時点では当人はなお生存していたことが知られる。また兵衛七郎の末子で、時光の弟にあたる七郎五郎が弘安3(1280)年9月5日に夭折したあとを受けて、その母尼に日蓮が逐次書き送った弔慰状が5通残されているが、そのうちの2通 ーー 弘安3(1280)年10月24日付定本388と弘安4(1281)年正月13日付定本400ーーに基づいて、兵衛七郎の没年が文永2(1265)年に相当することが、辛うじて推察される。ここでは、前記定本38『南條兵衛七郎殿御菩』によって日蓮の兵衛七郎像について検討しておこう。

数紙の兵蹟断片は現存しているものの、完本としては日興の写本で伝えられている本状は、

打っつけに、

御所勞之由承〔り〕候はまことにてや候覚。世間の定なき事は病なき人も留〔り〕がたき

事に候へば、まして、病あらん人は申〔す〕におよばず。但〔し〕心あらん人は後世をこそ

思〔ひ〕さだむべきにて候へ。又後世を思び定めん事は私にはかなびがたく候。一切衆生の

本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候ぺけれ、

と書き初められ、最後は、

されば日蓮は日本第一の法牽経〔の〕行者也。もしさきにたたせ給はば、梵天・帝繹・四

大天王・闇魔大王等にも申させ給〔ふ〕ぺし、日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子也、と

なのらせ給へ。よもはうしん(芳心)なき事は候はじ。但一度は念佛一度は法撃経となへつ、

二心ましまし、人の聞にはばかりなんどだにも候はば、よも日蓮が弟子と申〔す〕とも御用

ゐ候はじ。後にうらみさせ給〔ふ〕な。但〔し〕又法華経は今生のいのりともなり候なれば、

もしやとしていきさせ給〔ひ)候はば、あはれとくとく見参して、みづから申〔し〕びらか

ばや。語はふみにつくさず、ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候ぬ。恐恐謹言

と結ばれている。心を沈めてこの文初・文末を通読すると、日蓮は兵衛七郎をたんに病者としてではなく、死期の近い重病人として表象していることがわかる。そこで日蓮は、まさしく「臨終正念」を祈請するこころに立ってこの病者にたちむかい、後生問題に決着をつけ
る根本示教としての「繹尊の教」をどう受けとめるべきか、という安心の方法にかかわるものとして、五義論を詳細に展示する。いうまでもなく「五義」とは「五綱」とも称せられるもので、日蓮にとっては、後に「三秘」として組織化されてゆく法華経至上の法門が確立されてゆくための教判の体系を意味し、対他的には諸宗批判の視点の系列を形作るものである。そのような教判論としての五義論は、普通、日蓮の伊豆伊東流罪中ーー殊に弘長2(1262)年ーーに形成された、と考えられており、「五義」の項目としては、「教・機・時・国・序(=教法流布の前後)」が五義論形成の当初から列挙せられていたように信ぜられてきた。

しかし、重病人兵衛七郎を対象とした五義論は、多くの点で普通に信ぜられているものとはちがい、まず項目として「教・信・時(機を含む)・国・教法流布の順序」の五が挙げられている。そのうえ、一般の五義論に此して、整序が未熟で、体系化も定着していないような印象を受ける。それと同時に、五義論が日蓮によって提起せられるのは、普通の場合、仏法弘通の実践者にとっての正法選別の基準的視点としてであるのに、兵衛七郎にたいした場合には、「後世を恩〔ひ〕定め」るための示教としての「釈尊の教」を死に直面する人間としてどう信受すべきであるか、という「臨終正念」に直接的にかかわる懸命の課題として提示せられている。もとより兵衛七郎が五義について日蓮から教示を受けたのは、この事簡が最初ではない。それ以前にも、彼が御家人としておそらくは鎌倉在勤中、それを聴聞した事実があること、その聴聞に基づいて念仏者兵衛七郎が法華経信仰へと帰入したこと、それにもかかわらず駿河国富士郡上野の所領に立ち帰ってからは念仏者へと再転向した可能性があり、それゆえに堕地獄の危機が彼の身上に迫っている、と日蓮が憂慮していることが、書中五義について説示したあとを受けた次の記述から明らかにされる。

但〔し〕とのは、このぎ(義)をきこしめて、念佛をすて法華経にならせ給〔ひ〕てはべり

しが、定てかへりて念佛者にぞならせ給〔ひ〕てはべるらん。法華経をすてて念佛者となら

せ給はんは、峯の石の谷へころび、空の雨の地におつるとおぼせ。大阿鼻地獄疑なし。大通

結縁の者の三千塵鮎劫を、久邁下種の者の五百塵鮎を経し事、大悪知識にあいて法華経をす

てて念佛等の権敦にうつりし故也。一家の人々念佛者にてましましげに候しかば、さだめて

念佛をぞすすめまいらせ給〔ひ〕候らん。我惜〔し〕たる事なればそれも道理にては候へど

も、悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人々也とおぼして、大信心を起〔し〕御用〔ひ〕

あるぺからず・・・。

この必死の警告につづけて日蓮が、この書簡の時からほぼ一箇月前の文永元(1264)年11月11日に遭遇した安房国東条松原の法難について、その意味と情景とを鮮烈に書きつけたのも、死に面した兵衛七郎をして念仏着たちとの断乎たる対決、念仏の決定的克服を成就させようとする配慮に出たものといえる。その法難を通してこそ日蓮は、前引の通り、「されば日蓮は日本第一の法華経〔の〕行者也」と言い切ることが可能になったのであり、それに基づいて、「もしさきにたたせ給はば、梵天・帝梓・四大天王・闇魔大王等にも申させ給〔ふ〕べし。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子也、となのらせ給へ、よもはうしん(芳心)なき事は候はじ」と激励することもできたわけである。 

要するに日蓮は、この書簡において南条兵衛七郎を、死を目前にひかえながら法華経信仰の放棄を余儀なくされようとしている薄命の人格としてとらえ、念仏者との絶対闘争を勧説すると同時に、その闘争のための理論的武器としての五義論と、それへの心操的確信としての「日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子」たる自意識とを付与しょうとしたのが、この書簡のねらいであった、といえよう。注意を要するのは、この書簡において日蓮は、生物的・生理的意味における死というものを全く問題にしていない点である。日蓮が問題にしたのは、兵衛七郎が「死者」となったあかつきにおけるその在り方であり、堕地獄が約束されている邪信にたいする、なお「生者」たる存在における克服の戦いであり、その戦いにおける勝利の託としての「臨終正念」であった、といえよう。

ところで日蓮が不安と憂慮のうちに督励し、指導もした邪信との闘争において、兵衛七郎はどのように行動し、どのような成果を挙げえただろうか。また、その成果をふまえて日蓮自身はどう思惟し、どう行動したであろうか。また日蓮の行動はいったい何を生み出したであろうか。これらの疑問にこたえるものこそが、兵衛七郎へ右の書簡が書かれた時から満10年に近い歳月をへだてた文永11(1274)年7月26日にいたって、いわば突如として日蓮が書き初めた時光あて諸書簡ーーそのうち最初の3が前節に摘げられたものに他ならないーーである。もとより、文永2(1265)年における兵衛七郎の死を受けて、文永2年7月11日に此定せられている未亡人あての日蓮書簡というものが朝師本で伝えられている。定本39『上野殿後家尼御返事』がそれであり、そこには夫に死別した未亡人の悲嘆を慰撫するこころにおいて「即身成仏義」が説かれている。しかしこの事は、そこで説示されている無作三身の仏身観のゆえに、かつて浅井要麟師によってその実偽が疑われただけでなく、文末の追善供養をすすめた一段などにも中古天台の教風が認められるので、私としては採用しがたい。そこであらためて時光あて3書簡を集中的に検討することになるわけだが、そこには故兵衛七郎と日蓮、遺児時光と日蓮との間の、情愛の限りをつくしたかかわり合いが見出されるだけではなく、それらの交渉の中で、日蓮が果たした教導者的・仲介者的役割を通じて、故兵衛七郎と遺児時光との間に、いわば永遠の結びつきが新しく創造されてゆくのが発見される。これら三重の結びつきは、一面では現世的・世間的な倫理関係であると同時に、他面では未来世的・超世間的な信仰現実を形成しているものなのであり、日常的リアリティにおける日蓮の教義と信仰実践をその柔軟な動態性と周到な生活性において、もっとも生きいきと汲みとりうる人間関係を示すものと、私考される。


W

孤独ならぬ孤存の境涯を求めて身延に入山した日蓮を最初に訪れた人びとは誰れであったか、それらの来訪者にたいして日蓮はどう対応しただろうか、また、来訪者との接触によって日蓮の孤存への志向とその境涯はどう影響されていっただろうか。これらの疑問に答えることは、実は、容易ではない。しかし、第2節に鴇げた3通の書簡の名宛人南條七郎次郎時光が、身延入山後の日蓮を訪れた最初の人びとの一人であったこと、その訪問が予測も予期もされなかった深いよろこびと大きい感動を日蓮に与えるものであったことは、右の書簡の文面そのものからすぐさま読み取りうる。

まず、文永11(1274)年7月26日付の最初の書簡(=定本147)で日蓮は、およそ10年という長年月の後に時光を再見しえたよろこびを、「かまくらにてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候しに、をもひわすれ給〔は〕ざりける事、申〔す〕ばかりなし」と記している。かつて日蓮は鎌倉で時光に会っているのだが、その折の時光はまだ少年で、おそらくは故父兵衛七郎に伴われて日蓮の面前にまかり出たまでのことであっただろう。いずれにしても日蓮の側では鎌倉での時光との出会いを、やがては本人も忘れてしまう一つのエピソードに過ぎぬ、と思い込んでいた。だから、時光の自発的行動としての折目正しい来訪は、もうそれだけで、日蓮にとっては一つの驚異であったに違いない。しかし、それだけではない。日蓮は「こうへのどの(故上野殿)だにもをはせしかば、つねに申〔し〕うけ給〔はり〕なんと、なげきをもひ候つるに、をんかたみに御み(身)をわかくしてとどめをかれけるか。すがたのたがわせ給〔は〕ぬに、御心さへにられける事いふばかりなし」と書きつづけている。

前記のように、南条兵衛七郎が死んでから、10年の歳月が流れている。しかし日蓮は故兵衛七郎を忘れ去ることができず、好個の話相手を失ったなげきのうちに故人を思いつづけてきた。

それだけに、日蓮にとっての生きがたみとばかりに、相貌も心情も故父に生き写しの瑞みずしい青年時光が立ち現われたことは日蓮を驚喜させた。もとより日蓮のよろこびのなかには、南條家における法華経信仰の継承と定着を慶賀するこころも内包されていただろう。「御心さへにられける事いふばかりなし」の「御心」をただちに「信仰」を意味すると解する場合には、そのような解釈が理由あるものとして成り立つだろう。しかし、今考察している時光あて第1書簡では、絵じて、法華経信仰の継承的発展の命題を実践的に追求する日蓮の行動人的相貌よりも、特殊に、一方では死者兵衛七郎にたいし、他方では遺児時光にたいして、一人の人間としてねんごろに対応しょうとする日蓮の生活者的風姿の方が、むしろ前面に立ち現われているように感ぜられる。わけても死者兵衛七郎へのこころやりに立って、日蓮は自分の感激をも言いあらわしているのであり、身延山中、窮乏のうちに生きる日蓮への数かずの贈りものも、結局は、故人回向の横線をなすものとして受けとられている。殊に末尾の「あわれ人はよき子はもつぺかりけるものかなと、なみだかきあヘずこそ候し」の一句は、この第一書簡で書きあらわされた日蓮の感動が、どこまでも故兵衛七郎への永続する思いやりに根ざしていることを物語るものではあるまいか。

ところで、時光が来訪した際、いったい何が語り合われただろうか。そのすべてについて想像することはもとより不可能だが、兵衛七郎の死後おそらくは間もないころ、日蓮が故人の墓にまいってくれた格外の厚志を時光が深謝したのにたいして、墓参のわけを日蓮が説いてきかせたことだけはたしかである。この点について第1書簡では、「法華経にて佛にならせ給〔ひ〕て候とうけ給〔はり〕て、御はかにまいりて候ひしなり」と記されているが、文永12(1275)年正月の第3書簡(=定本161)では、前引のように、「さては故なんでうどの(南條殿)はひさしき事には候はぎりしかども、よろづ事にふれてなつかしき心ありしかば、をろかならずをもひしに、よわひ盛〔ん〕なりしに、はかなかりし事、わかれかなしかりしかば、わざとかまくら(鎌倉)よりうちくだ(打下)かり、御はかをば見候ぬ」と述べられている。この二つの記述はもとより矛盾ではなく、相互に補足し合うものと考えられるが、これらによると、駿河国富士郡上野郷に設けられた兵衛七郎の墓に、日蓮はわざわざ鎌倉から下向して、まいったわけである。その墓参の事由として、第1書簡では、「法華経にて佛にならせ給〔ひ〕て侯とうけ給〔はり〕て」という感激が挙げられており、第3書簡では、「わかれかなしかりしかば」という傷心が揚げられている。両者のうち後の方は、一読ただちに意味の理解されうるものであるが、前者は本考第三節で検討した定本38『南傭兵衛七郎御書』との此読によってはじめて意味内容が明かにされうるものである。第3節で小考したように、この書簡によって日蓮は、死期を目前に控えた兵衛七郎が信仰の危機に立たたさていることを洞察して、念仏者たちとの断乎たる戦いを通じて法華経信仰を貫ぬき通すことを要請し、且つその闘争のための理論的ならびに心操的武器を兵衛七郎に与えた。しかし日蓮は、督励の書状を兵衛七郎のもとへ送りとどけた後も、おそらくはなお不安と焦慮に耐えぬ思いをつづけていたにちがいない。その日蓮のもとへ、多分文永2年のある日、兵衛七郎の訃報がもたらされたが、その訃報には故人が法華経信仰を堅持したことが明記されていた。時光あての第1簡に「法華経にて佛にならせ給〔ひ〕て候とうけ給〔はり〕て」と記されているのがその証であるが、この報道に異常の感激を覚えざるをえなかった日蓮は、その感激を動因として展墓を実行したのだ、と解されよう。第1簡における「法華経にて佛にならせ給〔ひ〕て候とうけ給〔はり〕て」の右に該当する記事は、文永11年11月11日付の、時光あて第2書簡(=定本153)にも存し、そこでは「故親父は武士なりしかども、あながちに法華経を尊〔み〕給〔ひ〕しかば、臨終正念なりけるよしうけ給〔はり〕き」と記されている。もとより「法華経成佛」といい、「臨終正念」tいい、日蓮の教学におけるその独自の意義については別段の究明を要するわけであるが、邪信克服の戦いにおける兵衛七郎の勝利を慶祝する心情が、これらの用語に縮められている、と考えられるだろう。

日蓮はこのように、兵衛七郎の死を受けてひとたびはその墓に詣でた。しかし、展墓というものを死者との交流の現実的方法の一つと思惟していた日蓮は、その後も兵衛七郎の墓を訪ねたいと念願し、駿河下向のチャンスをとらえてそれを実現したい、と思いつづけてきた。しかし、過去10年ほどの間にはとうていそのチャンスを見出しえなかったし、好機のようにみえた今度の身延入山も、それが内密の行動であったがために展墓の志を達することができず、日蓮としてはなんとも残念であった。その心情を日蓮は第3書簡で、「それよりのちはするが(駿河) のびん(便) にはとをもひしに、このたびくだしには人にしのびてこれへきたりしかば、にしやま(西山)の入道殿にもしられざりし上はカをよばず、とをりて候〔ひ〕しが心にかゝりて候」と記しているわけだ。そこで日蓮は、代参を立てることによって多年の宿願を果たすと同時に、憂心をふっきろうと決心し、そのことを時光に申し送った。それが全体としての第3書簡の趣旨に他ならないのであるが、代参計画を伝えた一段は、殊に死者兵衛七郎への心づかいにその計画が発していることを示している。「その心をとげんがために、此御房は正月の内につかわして、御はかにて自我偈一巻よませんとをもひてまいらせ候・・・。故殿は木のもと、くさむらのかげ、かよう(通)人もなし。佛法をも聴聞せんず、いかにつれづれなるらん。をもひやり候へばなんだもとどまらず。との(殿)の法華経の行者うちぐ(打具)して御はかにむかわせ候〔ふ〕には、いかにうれしかるらん、」の一段がそれである。この一段には、日蓮にとっては実存し、現存しつづけている死者兵衛七郎への思いやりがとりわけ溢れ出ているが、時光に同行をうながしたことも、死者への同情に動機づけられていることに注意したい。文中の「此御房」を鈴木一成師は「三位房か」としているが、高木豊氏は、堀日享の見解を受けて「日興」と見ている。確証は存在しないけれども、状況判断に立てば、後説が妥当だろう。「自我偈一巻」はいうまでもなく、法華経如来寿量品六の後半の偏頌を指すが、特に兵衛七郎の墓前における自我偈読誦の意味を日蓮自身がどう自覚していたかは、自明のことがらではない。しかし、後続の「故殿は‥…佛法をも聴聞せんず、いかにつれづれなるらん」の句にかけて考えると、日蓮の教義における自我偈の玄義に留意すると同時に、死者兵衛七郎のいいようもない無聊をけんめいに慰藉しょうとする日蓮の友情の深さに、私としては注目せざるをえないのである。

以上観察してきたように、文永11(1274)年7月26日付にはじまる時光あて3書簡は、実存する死者兵衛七郎にたいする日蓮の深厚な同情を基軸にして書かれている。兵衛七郎にたいする日蓮の思いやりは、すでに幾度も示唆したように、過去の存在になってしまったものへの追憶とか回想というような性格のものではなく、死者として現存しているものへの共感と感情移入なのである。ところで、このような姿勢において死者兵衛七郎と対応してきた日蓮は、新に同じ態度で遺児時光に対応し、故父への思いやりに劣らぬ同情をこの遺児に注ぎ初めると同時に、薄倖の父子の共存・共生の可能性について提言する。すでに本考第2節(2)においていちおうの検討を試み、また本節の初めでも「臨終正念」の語がそこに現われていることを注意した、文永11年11月11日付の第2書簡の一節がそれである。ここに、父子の共存・共生の可能性について提言した部分だけを重ねて引くと、「此経を持〔つ〕人々は他人なれども同〔じ〕霊山へまいりあはせ給〔ふ〕也。いかにいはんや故聖霊も殿も同〔じく〕法華経を信〔じ〕させ給へば、同〔じ〕ところに生〔まれ〕させ給〔ふ〕べし。いかなれば他人は五六十までも、親と同〔じ〕しらがなる人もあり。我わかき身に、親にはやくをくれ(後)て、教訓をもうけ給はらざるらんと、御心のうちをしはかるこそなみだもとまり候はね」と、そこには記されている。「臨終正念」の用語と同様に、ここに述べられているいわゆる「霊山往詣」の観念も、日蓮自身の教学におけるその意義をいずれは厳密に、しかし広い視野において、検許しなければならないのであるが、今日の日蓮教学において「霊山往詣」とよばれている法門が日蓮自身の意識のなかで形成され成熟していった事情の一つとして、この第2書簡で述べられているような親子の死別、夫婦や師弟のわかれのような薄倖がどう救済されうるだろうか、という実際問題を日蓮が強烈に意識してい。た、という事実関係が存在しないだろうか、と私は考えるのである。

 


X

時光あて3書簡に示された死者兵衛七郎の日蓮の心づかい、第2書簡に述べられた遺児時光への日蓮の思いやりは、それ以後の時光あて諸書簡にも引きつづき現われている。ここに注意を要するのは、時光あて日蓮書簡の全体像であるが、日蓮遺文の文献学的・批判的研究が総じて未熟であることがこの場合にもわざわいしていて、時光あて日蓮書簡と称せられてきたものの真・偽・疑を識別することも、したがって親撰書簡の実数を押さえることも、また正確な日付にしたがって順序をつけてみることも、現在の私には不可能に近い。そこで、不十分ながらも文献学的批判の顧慮がいくらかは払われている『昭和定本』の収録諸書にいくぶんの取捨を施したうえで数えると、時光あて日蓮書簡の総数は、真・偽・疑取りまぜて34点の多きに上り、他に真蹟断簡2点を挙げうるようである。この数は、1人の弟子なり、檀越なりに与えられたものとしては最多の部類に属し、富木常忍・四条金吾のそれぞれへの日蓮書簡の数と比肩しうるものであるが、身延入山以後の期間に限っていえば、この両入のそれぞれにあてられた書簡数を圧倒して、首位を占める。つまり、書状による交流というかたちからすると、身延入山以後の日蓮は最も濃密なしかたで時光に接していた、ということになる。しかし、ひとしく濃密なしかたでの接触とはいうものの、書簡の全体を検討してみると、時光にたいする日蓮の姿勢に相当の変化と展開があること、そしてその推移にかかわって死者兵衛七郎をかえりみる日蓮の視角にも変動があることに気づく。そこで、このような時光にたいする日蓮の姿勢における変化と展開に留意しつつ、時光あて全書簡を整理してみると、全くの仮説ながら、次の3期が区別せられてくる。なお表中、〇印は死者兵衛七郎へ関説されている書簡であることを示す。

                                  

時光書

仮番号  

『昭和定本』  

番   号

 書  名

系 年

伝 承

       第1期

 

○第1 

147

上野殿御返事

文永11・7・26

真蹟 完

〇第2  

153

上野殿御返事

文永11・11・11

日興写本

〇第3  

161 

春之祝御書

文永12・1・中(下)旬

真蹟 完

       第2期

 

○第4 

177  

上野殿御返事

建汚元・5・3

日興写本

第5 

185  

南條殿御返事

建治元・7・2

日興写本

○第6

206

南條殿御返事 (春初書)

建治 2・1・19

日興写本

第7

210

南條殿御返事

建治 2・3・18

本満寺本

〇第8

215

南條殿御返事(大橋書)

建治 2・閏3・24

真蹟 完

〇第9

246

南條殿御返事 

建治 3・5・15

真蹟 断

第10

252

上野殿御返事

建治 3・7・28

日興写本

第11

268

上野殿御返事

建治 3・冬

其蹟 完

第12

276

庵室修復書

建治 4・2・25

其蹟曽存

第13

282

上野殿御返事(法要書)

弘安 元・4・1

日興写本

〇第14

300

時光殿御返事

弘安 元・7・8

日興写本

第15

306

上野殿御返事

弘安 元・9・19

日興写本

第16

314

上野殿御返事

弘安 元・閏10・13

延徳古写本

○第17

325

上野殿御返事

弘安 2・正・3

日興写本

第18

330

上野殿御返事

弘安 2・4・20

真蹟 断

第19

338

上野殿御返事

弘安 2・8・8

日朝写本

第20

350

上野殿御返事 (竜門書)

弘安 2・11・6

日興写本

第21

357

上野殿御返事 

弘安 2・12・27

真蹟 完

第22

359

上野殿御返事

弘安 3・正・11

真蹟 完

〇第23

363

上野殿御返事

弘安 3・3・8

本満寺本

第24

372

上野殿御返事

弘安 3・7・2

真蹟 断

第25


377

上野殿御返事 (子財書)

弘安 3・8・26

日興写本

    第3期

 

9書並に断簡2点

第26

380

南條殿御返事

弘安 3・9

真蹟 断

第27

391

南條殿御返事

弘安 3・12・13

真蹟 断

第28

394

上野殿御返事

弘安 3・12・27

日興写本

第29

402

上野殿御返事

弘安 4・3・18

日興写本

第30

406

上野殿御書

弘安 4・春夏頃

真蹟 断

第31

412

上野殿御返事

弘安 4・9・20

本満寺本

〇第32

426

春初御滑息

弘安 5・正・20

本満寺本

第33

430

莚三枚御書

弘安 5・3・上旬

真蹟 断

第34

431

上野殿御書

弘安 5・8・18

延山本

第35

断簡27

弘安 3・9以降

真蹟 断

第36

断簡42

弘安 

真蹟 断

 上のうち第1期の3書は、第2及び第4節で考察したように、身延入山直後の日蓮書簡であって、それらには時光再見の興奮と感動に媒介されて、死者兵衛七郎への日蓮の友情が事新しく噴出している。第2期の22書は、弘安2(1279)年9・10月のいわゆる「熟原法難」へとエスカレートしてゆくところの駿河国富士郡下方地域の法華経信者にたいする狂気的弾圧を具体的問題情況として、あるいは少なくともそれを一般的背景として書かれたもので、これらの諸書で日蓮は、かつて故父兵衛七郎にたいしてそうであったように、今度は遺児時光にたいして峻厳きわまる教導者として立ち現われてくると同時に、死者兵衛七郎は時に、弾圧者とのゆるぎなき戦いにおける遺児時光を援護する「共闘者」として書き現わされてもくる。第3期は、「熟原法難」一過後、富士地域が相対的安定の状態を迎えようとしている時期にあたるが、時光の舎弟七郎五郎の急死に打ちのめされた時光の母尼をどう慰撫すべきであるかに、病中の日蓮が苦慮した期間であり、時光へあてた9書簡の他に、母尼へあてられた5書簡(定本379・388・400・415・416)が併読せられるべき時期をなす。以上のうち、ここに第2期における日蓮の、死者兵衛七郎と遺児時光にたいする対応のしかたの基本的特徴をとらえようとすると、あらかじめ富士地域における日蓮とその直門日興との弟子檀那たちに加えられた弾圧と迫害の宗教社会学的特質に一瞥を投じておく必要が起ってくる。

 「熟原法難」については高木畳氏の好研究があり、参照を望みたいが、ここでは最初に、弘安2(1279)年9・10月に此定されているこの迫害事件の苛烈で残虐な性格を示唆している日興稿『本尊分輿帳』の中の記事に注目したい。詳しくは『白蓮弟子分輿申御筆御本尊目録事』と題され、永仁6(1298)年に作製されたこの『本尊分輿帳』は、白蓮すなわち日興の弟子たちに分与された日蓮自筆本尊の目録であって、その分与件数は約66の多きに上っている。当時曼荼羅本尊というものは、法華経信仰の獲得を見定めたうえで一人びとりの信者に授与されたものであるが、目録を作製するにあたって日興は、「〔出家弟子分〕」・「俗弟子分」・「女人弟子分」・「在家人弟子分」の4者を区別した。そのうちの「在家人弟子分」の筆頭に掲出された3人が「熟原法難」 のいわば代表的な殉教者であり、それには下の注記が施されている

一 富士下方熟原郷住人神四郎兄

ー 富士下方同郷住人弥五郎弟

ー 富士下方熟原郷住人弥次郎

此三人者越後房・下野房弟子廿入内也。弘安元年奉信始處依舎兄禰藤次入道訴被召

上鎌倉、終仁被切頚畢、平左衝門入道沙汰也、子息飯沼判官十三歳ヒキメヲ以散散仁射天

可申念佛之旨再三雖責之、廿人更以不申之間、張本人三人召禁天所令斬罪也、

枝葉十七人者雖令禁獄終仁放畢、其後経十四年平入道、判官父子、發謀反被誅畢、

父子コレタ、事ニアラズ、法華現前罰蒙レリ。

この日興注記から逆に出発し、日蓮の諸遺文、殊に定本343『聖人御難事』、344『伯耆房殿御返事』、345『瀧泉寺申状』、346『変毒為薬御書』に参看しつつ、事件の輪廓を考えることにするが、注記は、斬罪に処せられた3人は越後房・下野房の弟子20人中の者だ、という。ところでこの越後房・下野房とは富士下方の天台寺院瀧泉寺の住侶で、駿河地域における日興の精力的な教導活動によってその弟子となり、日蓮義を信奉するにいたった越後房日辯・下野房日秀のことであり、神四郎らはさらにこの2人に教化されて法華経を信奉するにいたった「百姓」である。つまり神四郎らは日蓮からみると、曽孫弟子にあたるもので、ようやく処刑の前年に入信した、信仰歴のきわめて浅い新信者に過ぎない。その3人らが、あたかも神四郎兄弟の舎兄弥藤次入道の提訴によって鎌倉へ拘引せられた、と上の注記は記すわけである。しかるに、定本345『瀧泉寺申状』によると、提訴ーー実は「不実濫訴」ーーを行ったものは、瀧泉寺の院主代平左近入道行智というもので、そこでは日秀・日粋が法華盗専修の主張と院主坊内の苅田狼籍との2件について訴えられている。このように日興の注記と『瀧泉寺申状』との間には、一見矛盾が存するようであるが、実は補足し合うものであるかも知れず、一方では行智が訴状を鎌倉に抜出して日秀・日辯を訴えたのと前後して、他方弥藤次が弟の神四郎らをたとえば富士下方在地の政所代に訴え出た、とも考えられる。それはともかくとしてここに注意したいのは、日興注記にも、定本344『伯耆殿御返事』にも、弥藤次が「入道」と称せられている点である。この『伯耆殿御返事』では、弥藤次は行智に使嗾せられて、大進房とともに百姓にたいして狼籍を働き、殺害刃傷にも及んだ悪党として糾弾されているが、その弥藤次が「入道」であったことから判断すると、兄弟間には、社会的対立があった他に、信仰面においても大きい違和があったことが想像され、そのことを基礎条件の一つとして、舎兄弥藤次による弟神四郎らの告発という事態も発生した、と考えられる。このような想像が当をえているとすれば、たんに上・中層部だけではなく、社会の底辺としての農民層における家族関係の内部においても信仰対立のアクチュアルな問題情況が形成されていたことになるだろう。いずれにしても鎌倉へ引きたてられた20人の百姓は、例の侍所所司平左衛門尉によって処断された。いわゆる「検断沙汰」を専掌する侍所所司の処断であるから、これは手続法的にはいちおう適法といえるだろうが、処断の内実は不法をきわめたものであった。頼綱は当時13歳の少年で飯沼判官資宗と称されるにいたった自分の次男をして、蟇目の矢で20人の百姓を射させて念仏への改宗を迫ったが、それに屈するものが絶無であったので、張本人として神四郎ら3人を斬罪に処し、残る17人を投獄した、と日興注記はいうのである。蟇目の矢とは、犬追物に使用される矢であるが、日道稿『日興上人御傳草案』には「子息イイヌマノンクハン、ム(馬) ニ ノリコヒキメ(小蟇目)ヲモッテ、一々 ニ ヰ(射)タリ」と書かれている。ところからすれば、20人の農民は犬追物の犬に見立てられた可能性もある。いずれにしても頼綱の処断には私憤をはらそうとする私刑の色彩が濃厚で、頼綱は農民たちの不屈の面構えのうちにおそらくは日蓮自身の相貌を感じとり、かれらを軽侮と憎悪の眼で見すえていたことだろう。

農民を迫害の直接対象としたこの「熱原法難」は、日本の全殉教史の中でも特に重要な意味をもつものと考えられるが、それが惹起されるにいたった問題情況と素因は、日蓮の身延入山を媒介として形成されはじめた、といえよう。日蓮の身延入山によ って、いったい何が、誰れの身上に生じたかという問題は、実は十分に解明せられていない問題であるが、一つの確実な事態として、日蓮の佐渡流罪中師匠日蓮に随侍していた伯耆房日興が、日蓮の身延入山のおそらくは直後に、自分がかって供僧として止住していた駿河国富士郡蒲原の天台寺院四十九院に帰住し、そこを拠点として駿河・甲斐の両国にわたって旺盛な教化活動を展開した、という事実がある。その努力の結果、高木豊氏の指摘しているように、駿河国富士郡一帯に有力檀越が造出されたうえ、右の四十九院の供僧たち、隣接する岩本実相寺住僧たち、問題の熱原瀧泉寺の住侶たちの誰れかれが、日興の弟子となり日蓮義を奉じるにいたった。そして日興の弟子になった僧侶たちは、地域の農民ーーおそらくはそれぞれの寺院の檀越であったーーを弟子・檀越として獲得していった。「熱原法難」で鎌倉へ引きたてられた20人の百姓も、このような地域農民に他ならない。ところで、日興とその出家弟子による精力的で実りの多い教化活動は、信仰と経済の両面における既存利益への挑戦を意味するわけで、寺院と地域の内部には急激に対抗関係が形成されてゆき、その中で既成勢力の側からの圧迫・弾圧が日興とその出家弟子たちへ、また、かれらを支持する俗弟子・檀越たちへ加えられることになり、その弾圧が頂上に達して「熱原法難」が勃発したわけである。もとより、隠微で執拗なものをも含めて、圧迫・弾圧の全スケールはどのようなものであったか、どの時点、どの契機において、寺院と地域内部の抗争が鎌倉のどの層の関心事になったか、これらの疑問に答えることは容易ではない。しかし、瀧泉寺内の日興の弟子たちにたいする院主代側の圧迫がおそくも建治2(1276)年に始まっていることは、弘2安(1279)年10月の日付をもつ『瀧泉寺申状』に「此四ケ年之程、奪取日秀等之所職住房」と記されているので推定されるし、日興を含む四十九院の供僧たちにたいする寺務二位律師厳誉による弾圧が弘安元(1278)年3月以前に行われていることは、この日付をもつ日興等提出の『四十九院申状』が示唆している。これらの年次は、文永11(1274)年6月に日蓮が身延に入山した後、日興が富士郡で展開した法華経弘通の数宣活動がいかに短期間のうちに成果を挙げえたか、それと同時にいかに的確にそれが反作用をも招きよせたかを物語っている。これらの時点において鎌倉の反日運勢カが日興等の行動とその問題性を熟知するにいたったことは、もとよりである。しかし日蓮が、定本343『聖人御難事』に「一定として平等も城等もいかりて之一門をさんさんとなす事も出爽せば」と記した「平等」=平左衛門尉薪綱の一類、「城等」=秋田城介安達寮盛の一類などは、おそらくは日蓮の身延入山、日興の四十九院帰住のころから、宿敵たる日蓮・日興の動静を追跡しているはずであるから、すでに前記の建治2年のさらに以前において富士郡の問題情況をとらえていただろう。いずれにしてもこの地域における日興らの教化活動を抑圧し、信仰を圧殺しようとする動きは、すでに建治元(1275)年に始まっていたことが、同年6月27日に系けられている定本184『浄連房御書』の追申に「返〔す〕返〔す〕するが(駿河) の人々みな同〔じ〕御心と申させ給〔ひ〕候へ」と日蓮が書いていることによって推察される。この『浄連房御書』を間にはさんだ建治元(1275)年5月3日の時光第4書簡、同7月2日の時光第5書簡もこのような一般情勢と文脈の中で理解せられるぺきであろう。

弘安2(1279)年9・10月の「熟原法難」そのものに際して、南条時光が必死の覚悟に立って事件に決然と対応したことは、「上野賢人殿」という異例の宛名の書かれた同年11月6日の時光第20書簡(=定本350、異称『龍門書』)の追申に、「此はあつわらの事のありがたさに申〔す〕御返事なり」と日蓮が記していることで推察される。また事件の後も、迫害者によってねらわれている可能性のある熱原の神主や農民妻子を時光がかくまい通していたことは、弘安3(1280)年3月8日の時光第24書簡(=定本372)に、「さては、かうぬし(神主)等が事、いままでかかへをかせ給〔ひ〕て候事ありがたくをぼへ候」と記されていることで明かである。それらのことを口実として時光自身に圧迫が及んだだろうことは、同じ時光第24書簡に「ないないは法華経をあだませ給〔ふ〕にては候へども、うへ(上)にはたの事によせて事かづけ、にくまるるかのゆへに、あつわらのものに事よせて、かしこここをもせかれ候こそ候めれ」と書かれていることで想像がつく。

しかし時光への圧迫はこの時が最初ではない。すでに示唆したように時光第4書簡(=定本177)は、前に検討した3書簡とは調子の著しくちがうものになっているが、身延入山後まだ1年に満たない建治元(1275)年5月3日に系けられているその第4書簡で日蓮は、時光から「いものかしら」一駄を贈られたのにたいして謝辞を記した次下に、

 さる事なくば、梵天・帝釈・日月・四天その人の家をすみかとせんとちかはせ給〔ひ〕て

侯は、いふにかひなきものなれども、約束と申〔す〕事はたがえぬ事にて候に、さりともこ

の人々はいかでか備前の御約束をばたがへさせ給〔ふ〕べき。もし此事まことになり候はば

わが大事とおもはん人々のせいし(制止)候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此事

かなうべきにやとおぼしめして、いよいよ強盛なるぺし、

と書きつけて、きびしく時光を激励している。さらに日蓮は、同じ建治建元(1275)年7月2日の時光第5書簡(=定本185)で、白麦一俵などを贈られたことに感謝して後、

「追申」として、

 このよ(此世)の中はいみじかりし時は、何事かあるべきとみえしかども、當時はてとに

あぶなげにみえ侯ぞ。いかなる事ありともなげかせ給〔ふ〕べからず。ふつとおもひきりて、

そりやう(所領)なんどもたがふ事あらば、いよいよ悦〔び〕とこそおもひて、うちうそぶ

きてこれへわたらせ給へ・・・

とあたたかくさとしている。第4書簡にいう「此事」が具体的には何を意味するか不明であるが、それが時光自身によって自主的に発意され、能動的に企てられた何ごとかであるだろうことは、用語・構文・文勢の上から、まず間違いあるまい。そして「此事」が、「さる事なくば」の一文の明示しているように、梵帝らの衛護が当然のこととして期待されているものである点からしても、またそれが大難を喚起するものと想定されている点からしても、「此事」が法華経弘通にかかわる何事かであるだろうことも、推察に難くはない。それ以上は想像であるのだが、文永11(1274)年7月日蓮を再見し、翌12(1275)年正月、日蓮の紹介でおそらくは初めて日興に接した時光は、両師から受けた強烈なインパクトのもとに、弟子たるものにふさわしい信行実践を決意し、たとえば手始めに南条一門や御家人同輩らの正信帰入をめざす弘通活動を開始しようと計画したのではなかっただろうか。もとより確証は存しないが、これが「此事」 の具体的内容であり、そのような決意について時光が日蓮の見解をただしたのにたいして日蓮が答えたのが、時光第4書簡の右の一節ではあるまいか。だから、この時点では、時光の決意はまだ行動化されていなかっただろう。しかし、右の第5書簡の時点(建治元年7月2日)になると、「追申」から読みとれるように、すでに行動化が始まっていたように考えられる。その行動化の歩みは、建治3(1277)年5月15日の時光第9書簡(=定本246)、同4(1278)年2月25日の第12書簡(=定276本)の示しているように、たゆみなくつづけられている、といえる。すなわち第9書簡に記されている「殿は法華経の行者ににさせ給へりとうけ給はれば」以下の全文は、時光が法華経のたんなる静的信者としてではなく、その動的行者として存在していることを示唆しているだろう。また、第12書簡の末文に「まことやらん、いえの内にわづらひの候なるは、よも鬼神のそゐ(所為)には候はじ」云々と書かれているのは、第4書簡にいう「此事」の実践が南条一門の内部においてトラブルと反作用を生み出していることを語っているのではあるまいか。いずれにしても、富士郡上方における建治元(1275)年5月以降の時光の動的な信仰実践とそれへの反作用は、同期の同郡下方における日興を中心とする旺盛な教化活動とそれへの強引な反撃にまさしく照応するものであり、時光は全く「共闘」の意識に立って、前掲第20書簡、第24書簡に記されている同志的援護を「熟原法難」の被害者にたいして惜しみなく提供した、と考えられるのである。

ところで、富士郡一帯の地域における信仰問題の急展開の中で、法華経信仰の主体的実践者として時光が立ち現われてき、それとして時光が急速な成長を遂げていったこととかかわって、死者兵衛七郎にたいする日蓮の姿勢と心情にデリケートな変化が生じていったように観察される。

まず、前引の時光第4書簡の一節とそれに前後する両段とを、ここに一括して検討しょう。

(1)・・・此身のぶのさわは石なんどはおほく候。されどもかかるもの(=「いものかしら」)なし。その上夏のころなれば、民のいとまも候はじ。又御造営と申〔し〕、さこそ侯らんに、山里の事ををもひやらせ給〔ひ〕てをくりたびて候。所詮はわがをやのわかれをしさに、父の御ために釈迦彿・法華経へまいらせ給〔ふ〕にや。孝養の御心か。

(2) さる事なくば、梵天・帝渾・日月・四天その人の家をすみかとせんとちかはせ給〔ひ〕て候は、いふにかびなきものなれども、約束と申〔す〕 ことはたがへぬ事にて候に、さりともこの人々はいかでか備前の御約束をばたがへさせ給〔ふ〕べき。もし此事まことになり候はば、わが大事とおもはん人々のせいし(制止)候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此事かなうべきにやとおぽしめして、いよく強盛なるぺし。

(3) さるほどならば聖霊彿になり給〔ふ〕ぺし。成〔い〕給〔ふ〕ならば来〔り〕てまほ〔守〕り給〔ぶ〕ぺし。其時一切は心にまかせんずるなり。かへすがへす人のせいし(制止)あらば、心にうれしくおぼすべし。

(1)の段は、時光から身延山中の日蓮へ供養として贈られた「いものかしら」一駄への謝辞であるが、注意を要するのはそこに記された供養のモチーフと意味である。日蓮は自分への供養を、時に「法華経の行者」 への供養としてとらえ、時に「繹迦佛・法華経」 へのそれとして理解するから、この段で「繹迦佛・法華経へまいらせ給〔ふ〕にや」と記されているのは異例ではない。しかし、釈迦仏・法華経への供そのもののモチーフとして、「所詮はわがをやのわかれをしさに、父の御ために」と書かれ、その意味として「孝養の御心か」と集約されているのは、それが故父を慕いつつそれに仕えようとする遺児時光のこころ根へ深く降り立った日蓮自身の心情を言いあらわしている点で、注意せられるべきであろう。(2)の段は、前に考察したように、法華経信仰の主体的・能動的実践者たろうとする時光へのきびしい鞭撻を意味すると考えられるが、(3)の段では、その時光の信仰実践の戦いに死者兵衛七郎が来援するだろうことへの洞察を通して、鞭撻が切実さと深さを増してゆく。日蓮は第2書簡において、父子の「共存・共生」の可能性について説示した。しかし、その「共存・共生」は霊山浄土におけるそれとして約束されているのであって、現世のこととして述べられているのではなかった。しかるに第4書簡の(3)の段では、いわば「共闘」ーーしかも現世におけるそれーーが説かれているのである。何の段で日蓮は「張盛な」信仰実践を時光に勧説した。(3の段に入って日蓮は、遺児時光の「強盛な」信仰実践が故父の成仏を実現させる、と言い切った。そして、成仏したことのいわば証として、故霊は時光のもとへ来援し、共闘するにちがいない、と日蓮は保障した。そのうえ、その瞬間、一切を制御しうる境涯が切り開かれてくるのだ、と日蓮は断言したところで、第4書簡において供養のモチーフとして日蓮が指摘した時光の「孝養の心」は、その後日蓮の意識の中でどう評価されていっただろうか。また、死者兵衛七郎と遺児時光とのかかわり方として日蓮が想定した「共闘」の理念は、日蓮の心情の中でどう扱われていっただろうか。そして、これらの問題とかかわって、死者兵衛七郎にたいする日蓮の姿勢や基本心情のうえにどういう変化が生じてきただろうか。容易にとらえることのできる現象として注目されることは、建治2(1276)年閏3月24日の第8書簡(=定本115)、翌建治(1277)年5月15日の第9書簡(=定本246)などにおいて、あるいは供養のモチーフとして、あるいは信仰実践のそれとして、第4書簡の場合よりもいっそう大きく、いっそう深く時光の「孝養の心」が評価されている、という事実である。すなわち第8書簡では、「かたびら一・しをいちだ・あぶら五そう(升)」を供養として時光から贈られたのにたいして日蓮は、

かたがたのものをくり給〔び〕て候。御心ざしのあらわれて候事申〔す〕ばかりなし。せ

んずるところは、こなんでうどの(故南條殿)の法華経の御しんようのふかかりし事のあら

わるるか。王の心ざしをば臣のぺ、をやの心ざしをば子の申〔し〕のぶるとはこれなり。あ

われことの(故殿) のうれしとをぼすらん、

と応答し、法華経信仰という故父の旧志を表明したものとして時光の行動を評価している。そのうえ日蓮はさらに、未見の父大橋太郎を捜しもとめた末、頼朝にとらえられているその父を法華経読誦の功徳によって釈放させた一子の説話を詳記し、時光の述志の行動と一子 の捜父のそれとをアナロジーとしてとらえて、

今の御心ざしみ候えば、故なんでうどのはただ子なれば、いとをしとはをぼしめしけるらめ  ども、かく法華経をもて我がけ

うよう(孝養)をすべしとはよもをぼしたらじ。たとびつみ  ありて、いかなるところにをはすとも、この御けうやうの心ざしを

ば、えんまほうわう(閻  魔法皇)・ぽんでん(梵天)・たびしやく(帝釈)までもしろしめしぬらん。釈迦彿・法華経  も、いかで

かすてさせ給〔ふ〕ぺき。かのちご(稚児)のちのちのなわをときしと、この御心  ざしかれにたがはず。これはなみだをもちて

かき候なり、

と礼賛している。ことわるまでもないが、日蓮は第4書簡の場合と同様、この場合に も、時光にたいして故父への「孝養」を勧説したり、それについて教訓したりしているのでは ない。そうではなくて日蓮は、自ら深い感動を覚えさせられた時光の行為を「孝養」として意 味づけることによって、それを賞賛し、且つそれを死者のために慶賀しているのである。同様 に日蓮は、第9書簡においても、時光に要請される柔軟でしかも不屈な信仰を、故父の後世を とむろう「孝養」として意味づけているのであって、必ずしも「孝養」そのものをあらためて 要望しているのではない。つまり日蓮は、時光が日蓮自身をも圧倒する底の「孝養」の人間で あることを見通しているのであって、さればこそ、時光のそのような孝養意識に訴えたとき、 法華経信仰も貫徹させうる、と日蓮は判断していた、とみられる。すなわち第9書簡で、時光 に信仰を棄てさせようとする動きがあるだろうことを警告している条で日蓮が

御信用あつくをはするならば、「人〔の〕ためにあらず、我故父の御ため。人は我をやの後生にはかはるべからず。子なれば我こそ故をやの御世をばとぶらふべけれ。郷一郷しるならば、半郷は父のため、半郷は妻子権族をやしなふべし。我命は事出〔で〕きたらば上にまい らせ候べし」と、ひとへにおもひきりて、何事につけても言をやわらげて・・・

と説いているのがそれである。  このように、第4書簡に初出した「孝養の心」は、時光評価のいわば核心的モチーフとして、 日蓮によってその後ますます重視されてゆくが、これに反して、やはりその書簡ではじめて示された、時光の信仰実践の戦いに故父兵衛七郎が来援して、そこに「共闘」が展開されるだろう、という日蓮の見解の方は、その後のどの時光あて書簡にも見出せないのである。建治2 (1276)年1月19日の第6書簡(=定本206)には、「もちゐ(餅)七十まい」などの供 養の功徳によって、「慈父過去の聖霊は教主釈尊の御前にわたらせ給〔ひ〕、だんな(檀那=時 光殿)は又現せに大果報をまねかん事疑〔ひ〕あるぺからず」として、故人と遺児とを同時に視野に入れた日蓮の感慨が述べられているけれども、そこには死者と生者との颯爽たる「共闘」の理念のごときは、片鱗すら見出しえない。また弘安元(1278)年7月8日の第14書簡(=定本300)では、時光の贈った白麦一駄について日蓮は、「此の時光が麥蓼、何〔ぞ〕変〔じ〕て法華経の文字とならざらん。此の法華経の文字は釈迦佛となり給〔ひ〕、時光が故親父の左右の御羽となりて霊山浄土へとび給へ。かへりて時光が身をおは(覆)ひはぐくみ給へ」とねんごろに書きしるしているが、ここにも故霊来援の生産的な見解は語られていない。そこで当然起ってくるのは、第4書簡に現われたところの、時光を限りなく鼓舞するだろうはずの故父の来援、死者と生者との共闘という理念が、その書簡限りで終ってしまったのはなぜか、という疑問である。しかし、この疑問にかかわって考えねばならないもう一段深い疑問がある。それは、第2期群の時光書簡において、故兵衛七郎にたいする日蓮の姿勢と基本心情にどのような変化が生じたか、また、その変化の意味は何か、という問題である。前掲の書簡表が示しているように、日蓮は総計36点の書状を時光に与えているが、そのうち第1期分として3書、第2弟分として22書、第3期分として9九ならびに断簡2点を算えうる。そのうち故兵衛七郎に関説したものは、第1期分では3書の全部、第2期分では7書であるが、第3期分としてはわずかに1書に過ぎない。これらの、故兵衛七郎に開設した諸書簡における日蓮の姿勢と心情をうかがうと、第1期の3書はもとより、第2期のものも、建治年間(1275.4〜1278・2)に属する4点(第4、第6、第8、第9)においては、日蓮はわが身と心を死者兵衛七郎にすりよせて、後世におけるその安否を気づかっている。しかし第2期の中でも弘安元(1278・2)年以降になると、時光あて書簡の中でその故父に関説する度数がとみに減少してゆくだけではなく、関説が行なわれた場合にも、建治以前の場合のように、切々たる至情に立って故霊の祥運を祈請するような筆致が乏しくなってゆく。いったいこれは、何を意味するのだろうか。

思うに、故兵衛七郎にたいする日蓮の姿勢と心情の変化とみえるものは、日蓮の時光認識ならびに評価の推移と深化にかかわっているのではあるまいか。文永11(1274)年7月、日蓮と時光が再会したとき、日蓮が時光において見出したものは、十分健気で神妙ではあったにしても、幼時に父を失なって悄然たるはずの孤児であった。だからこそ、霊山浄土における故父との「共存・共生」のよろこびを説いて、その孤児を激励する必要を日蓮は感じたのだろう。しかし翌建治元(1275)年5月になると、時光のうちに故父への「孝養の心」を見出すと同時に、法華経信仰の行動的実践者たろうとする決意を発見した日蓮は、信仰の確立をはかる遺児の戦いに「来援」し「共闘」するだろう故父のイメージを伝達して、時光を鼓舞した。

やがて日蓮は、建治2(1276)年間3月の第8書簡が示すように、時光の「孝養の心」の手厚さと深さにむしろ圧倒される思いになってゆく。そしてその思いが高まってゆけばゆくほど、死者兵衛七郎の後世についても安んじて時光に一任する気特に日蓮はなってゆく。つまり、死者兵衛七郎にたいする日蓮の情熱が一見冷却していったようにみえたのは、「孝養の心」を発条として行動する時光への日蓮の評価と信頼が高まっていったことの一証なのではあるまいか。死者兵衛七郎にとっては、もはや日蓮の介意と顧慮を必要としないまでに時光が成長した、と日蓮は感じきたったのではあるまいか。建治3(1277)年5月の第9書簡になると、たんに物資の供養だけではなく、時光の信仰実践そのものが、故父の後世をとむろう「孝養」として措定されてくる。こうなると、時光の信仰実践の戦いは、わざわざ故父の来援がなくても、十分展開されうることになるだろう。少なくとも日蓮はそのことを確信するにいたったのだ、とみられよう。


 
                         ーー 1972・10・27(亡妻埋骨3周年)ーー

 

 

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