日蓮の思想と行動  

紀野一義/梅原猛

   

インテリの日蓮ぎらい

梅原 日蓮はむずかしいですね。

紀野 ふつうの人は、日蓮という人を深く知らない。そしてまた、日蓮についていわれていることは、ほとんど表面的なことばかりだから、それを根拠にして日蓮という人を理解するという面が強いですね。それで、日蓮という人物をわりあい単純に考えているんじゃないかしら。私にはそうは思えない。相当屈折したところがあると思う。

梅原 私も賛成ですね。

紀野 屈折したところと、まっすぐにくるところとがある。それが実にうまくピタッと重なっているものだから、ちょっと見当がつかなくなってくるんじゃないですか。

梅原 日本のインテリはたいてい日蓮ぎらいでしょう。

紀野 きらいですね。

梅原 日蓮に愛着をもったのは高山樗牛、姉崎正治まで、それ以後の日本のインテリは、ほとんど日蓮ぎらいですね。インテリが好きなのは、親鸞と道元。鎌倉仏教の三本柱のうちの一本の柱が落ちている。ここに日本のインテリ自体の問題点を含んでいると思います。空海もインテリから無視されてきたわけですが。

紀野 空海を落とし、日蓮を落とすということが、日本のインテリの弱さじゃないですか。

梅原 私もそう思います。

紀野 日蓮という人は、私が見たかぎりでは、いちばん日本人的ですね。日本人の匂いというのがムンムンしているような感じです。ところが日本のインテリは、日本人の中でいちばん日本人の匂いのしない人種じゃないか。そんなこといったら怒られるかもしれないけれども…(笑)、インテリであることを自称している人たちの教養というのは、西洋的なものの考え方、西洋の知識というものです。小学校以来ずっとそれで教育されてきている。だから、教育されればされるほど、日本人らしくなくなる。そうすると、これは日本人のニセ物だ。はっきりいえばそうです。ところが日蓮は純乎たる本物の日本人です。いい悪いは別としてね。その本物が向こうからくれば、ニセ物は負けるにきまっているんです。だからいやがる。

このあいだ、私びっくりしたことがあるんですよ。宮沢賢治を理解するのには『法華経』と関連づけて賢治を読むべきだと私がいうと、ある人は、『法華経』は宮沢賢治にあまり影を落としていない、だから、賢治を理解するのに『法華経』は必要ないというんです。ところがよく聞いてみると、その人は『法華経』をぜんぜん知らないんです。これじゃ話にならない。このやり方が、いまのインテリと称する連中のやり方ですよ。自分に都合の悪いものはみんな避けて通る。

梅原 つまり空海と日蓮は日本仏教の中では陽性の人ですね。仏教の持っているエネルギーの面を代表している。ところが、日本のインテリはヴィヴィツドに人生を生きる部分を全部落としてしまって、どっちかというと、陰性というか、陰の部分のほうだけでもって仏教を見るのです。実は親鸞にも道元にもそういうエネルギーにみちた面はあるのだけれども、そこを見ないわけです。いわばワビ・サビの眼でしか仏教を見ない。こういう見方をとるかぎり仏教はインテリの自己満足に終わって、仏教というものが、生きて日本人を指導するものにはならないだろうと思うのです。

その点からみると、日蓮という人は、インテリからは無視されているけれども、庶民によって重視されている。現代の新興宗教はだいたい日蓮を祖師としている。そしてその庶民の感覚というものは、必ずしも聞違ってはいないという気がします。

紀野 庶民にはなんでもかでも西洋のものがいいなどという意味の教養はない。あまり必要でない教養はくっついてないわけですよ。だから、けっきょく自分の持っている地のもので勝負するよりしかたがない。自分の地というのはなにかというと、日本人の持っている日本人らしさしかないわけですよ。そういう人たちと日蓮とはピタッと合う。

   

日蓮の二面性

梅原 日蓮という人は非常にストレートな面と、非常に複雑な面と、二つの面があるとおっしゃったですね。インテリの日蓮に対する嫌悪の気持は、わからないこともないが、日蓮のストレートな面、とくに日蓮の言動にはオーバーなところがある。私もオーバーなほうだけれどもね(笑)。ストレートでオーバーな点が、インテリには自己嫌悪を伴って、ちょっと恥ずかしい気持にさせるところがある。

紀野 やっぱり自分の一面を見せられるというところがあるんだな。

梅原 しかし日蓮は、一面非常に神経がこまやかなところがあります。そのへんが私は非常におもしろいと思いますね。

紀野 日蓮という人は、たとえば女性に手紙を書いたりするときは、実にきめがこまかいですね。冷静に読んでいくと、ああ、こういうふうに書かれるとコロリといくなというところがあるわけですよ。それは少し意地の悪い見方をすれば、ちゃんと計算して書いたということになるんですよ。そういう面もあったと思いますね。

しかし、それと同時に、もう一つすさまじい力でまっすぐに迫ってくるものがある。それが、計算したのではないかな、などと疑う気持をどこかにふっとばしてしまうのです。あれはたいしたものですよ。なかなかああはいかないものだ。

梅原 日蓮の手紙は、親鸞の手紙とよく比較されるのですけれども、親鸞の手紙は、だれにあてても同じようなこと書いています。このくらい同じだとこれもみごとなもので、私は感心するんですけれどもね(笑)。ところが日蓮の手紙は、一人一人違うでしょう。一人一人の泣きどころをパッと書く。泣きどころにふれるような殺し文句はかなわんという気持はもちろんありますけれども、同時に、いまおっしゃったように、相手の心のいちばん深いところに、うまく自分の思想を打ち込む、そういうめったにない才能が日蓮にはある。やっぱり先天的な説法の才があって、日蓮は思想家であると同時に、すぐれた説法者であるということもうなずけるわけです。おそらく仏教というものが、宗教であるかぎり、説法というのはたいへん大事な武器だと思うのですけれども、日蓮は、日本の歴史はじまって以来の説法者ではなかったか、と思いますね。

紀野 真宗でいいますと蓮如が似ております。蓮如は消息をたくさん書いておりますし、その消息の一つ一つがおもしろいし、才ーバーなところがある。日蓮によく似ておりますね。なにしろ日蓮も蓮如もオーバーですね。相当なオーバーだ。(笑)

梅原 私たちも、まあどっちかというとオーバーなほうだ。(笑)

紀野 日蓮の消息には、松葉ヶ谷の草庵に数千人押し寄せたなんて書いてありますけれども、あんな狭い鎌倉の町で数千人も押し寄せたら、これはもう内乱ですよ。幕府だって黙認することはできなくなる。おそらくその人数は数十人だろうと思うんだ。それがいつの間にか数千人でしょう。ああいう手紙をもらった弟子は、みんなほんとうに数千人と思ったんじゃないでしょうかね。たいしたものですよ、その筆力たるや。

梅原 すごいですね。

私は日蓮について感じるのですけれども、自分の信念を定めたらあくまで進んでいく情熱。これはたいしたものだと思いますね。真理の探究に携わっている人間はそうでなくてはいけない。その模範を示してくれたという気がします。同時に内的なもの、デリケートなもの、これも非常にみごとなものです。

さらにもう一つ、私が注意したいのは日蓮という人は、非常に論理的だということです。

紀野 論理的ですね。

梅原 特に『守護国家論』。これはみごとに論理的ですね。いままで日蓮について語られるときに、ほとんどこの論理的な面がとり上げられなかったと思うのです。

紀野 たしかに論理的ですよ。そして、とにかく相手を説得せずんばやまずという情熱がある。これは説得されますね、あれだけきちんきちんと証拠をあげて押しまくってこられると。その論法は、日蓮独特の方法論によっていますから、方法論が違う人からいえば腹が立つでしょうけれども、方法論なんかぜんぜん持っていない人聞が、ああいう論法で押してこられたら、かなわんですよ、これは。

梅原 日蓮の日という字は、一つには、日月のごとく明らけくという意味だという。非常に明断だということを意味している。これは大事な点ではないかと思うのです。日蓮という人は、日本人のインテリの常識でいうと、熱情だけの人間と見られるけれども、それだけではない。日蓮にはデリケートな面と同時に論理的な面がある。道元の思想は非常に深くていいものだと思うのですけれども、論理的ではない。

紀野 直観に基づいた論理ですからね。

梅原 親鸞もそういう傾向が強い。日蓮の思想は、日本仏教の中で、最も論理的なものの一つではないか。もちろんその論理の根拠は、天台智の説いた「五時八教」の教判に照らしてつくられたものですから、もしその教判が正しくなかったら、日蓮の論理は崩れるわけです。けれども当時としては、それはしかたがないことだと思いますね。当時としての限界を認めた上で考えれば、日蓮の思想は非常に論理的なものだと思いますね。

紀野 現代人の論理だって、もう何百年もすれば、やっぱり限界のある論理だといわれるでしょうから、しかたのないことですね。

   

空海と日蓮の即身成仏

梅原 紀野さんにいちばんお聞きしたい点は、本書の第一部「典型的日本人日蓮」(『仏教の思想12 永遠のいのち <日蓮>』角川書店刊)の中でいちばん興味深かった「即身成仏」の問題です。妙一女が日蓮に、空海の即身成仏との違いをたずねたのですね。これに対して、日蓮ははっきり答えていないとお書きになっておりますね。これはいったいどう考えればいいのか。日蓮がはっきり答えでないとしても、「即身成仏」という考えが空海と日蓮とではどう違うか。

あるいは、空海の思想が生命論であり、日蓮の思想の中にも生命論があるといわれる。この二つの生命論はどう違うかという点です。

日蓮が他宗を最初に批判したのは法然の浄土宗ですね。途中で禅が加わり、真言に対しては最後に批判しましたね。それは祈禱してもさっぱりきかないじゃないかという形の批判で、ほかの浄土宗や禅宗よりも相当いい評価をしていると思います。祈禱という点では日蓮も相当似ている点がある。この2つの生命論は思想的にどう違うか。それが現代においてどういう意味をもつか。そのへんが非常に興味深いのです。まだそういう点は明らかにされていないのではないですか。

紀野 これはなかなかデリケートな問題で、みんな避けて通っているような気がしますね。日蓮自身も論理的には空海がうち立てた「即身成仏」の考え方を越えるようなものを持っていなかったのではないですか。空海のうち立てた体系を論理的に越えるということはできないのではないですか。「即身成仏」を理論的に説明するという点では、やっぱり空海がいちばんすぐれているし、行き届いていると思いますね。だから日蓮の「即身成仏」は、27年間の説法はみんな「即身成仏」だといういい方をしているんで、論理的に「即身成仏」を説明するという点からいえば逃げているといわれてもしかたがない。しかし、日蓮としてはああいうよりほかなかった。たしかにあそこに日蓮の「即身成仏」に対する考え方というものはあるわけです。しかし、あれは日蓮だからいえることであって、おそらく弟子にはいえない。また、弟子たちには理解できなかったことではないですか。それは空海の弟子の場合にもいえることです。空海が「即身成仏」をあざやかに説明したって、弟子たちがそのとおりにできたわけではないんですから。

梅原 これは私の感じですけれども、空海の「即身成仏」、あるいは生命論といってもよいかと思いますが、現実の自分の生命がそのまま仏である。そしてその無限の生命としての仏は、命が満ちあふれるように、さまざまなものに現われてくる。その現われが天地自然でもあり、芸術であるというような思想が、彼の即身成仏論、あるいは生命論の特徴ではないかと思うのです。空海は天才だった。あの活動にみちた人生が、彼の「即身成仏」を示している。ところが日蓮の生命論というものは、他人からいじめられればいじめられるほど、生命がますます燃えてくるというような生命論だと思うのです。いわば空海の芸術的な直接的な生命論に対して、日蓮のものは倫理的、あるいは反抗的な生命論だと思うのです。空海の生命論が、芸術家や詩人、あるいは貴族の生命論であるのに対して、日蓮の生命論は、やっぱりいじめられた逆境にある民衆の生命論ではないのでしょうか。「即身成仏」というものを、日蓮は直接説明していないのですけれど、なにか空海のものとはことばの意味にだいぶ違いがあるような気がするのですけどね。

紀野 それは空海がおかれた立場と、日蓮がおかれた立場の相違ということもあるでしょう。空海が鎌倉時代に生きており、日蓮と同じような境遇におかれたとしたら「即身成仏」を書いたかどうか問題ですね。

梅原 それ以外にも『大日経』と、『法華経』の違いが第一にあると思います。『大日経』は、すべての教えを自己の中に含もうとする性格が強いのに対し、『法華経』は他の教えを否定しようという傾向が強いですね。

紀野 日蓮は、やっぱり法というものにもとづいてものを考えていこうとしておりますね。法といっても、それは『法華経』に説かれ、象徴されている妙法というものが中心ですが、たしかにそれは法というものを中心にした考えかたです。

   

正法を立てる

梅原 日蓮は、立正、というでしよう。「正」という面を強調しています。日本仏教の中で、最も倫理的な仏教といってよいと思いますね。

紀野 正法を立てるというのが日蓮のたてまえですからね。ですから「即身成仏」ということも、正法というものを明らかにしていく人聞が、「即身成仏」した人間というような考え方になっていくんじやないですか。だから27年間の説法が全部、「即身成仏」という形になって出ていく。だから芸術的なものはそこから出てこないですよ。

梅原 例の「ヒゲ曼荼羅」というのは、やはり空海の曼茶羅に対抗しようとしたものでしょうね。

紀野 しかし、日蓮宗の寺の庭を見ても、建築を見ても、彫刻や絵画を見ても、それは真言や禅系統の寺にくらべれば、芸術性というのはいちばん稀薄なのではないですか。

梅原 日本の宗教の中では、芸術性は最も稀薄だと思いますね。

紀野 それだけ正法に対する情熱というものはきびしいわけです。

梅原 鎌倉仏教は、平安仏教が現世の美に溺れすぎたのに対する反発として出てくる。それは親鸞にも日蓮にも、道元にもある。…道元は非常に芸術性を持っている人だけれども、それを極度に否定している。鎌倉仏教というのは、そういう美的宗教への反発から起こったともいえる。

紀野 しかし、私は美というものは、なくならないと思うんですよ。つまり真を追求し、善を追求していっても、必ず美というものは出てくると思うんで、それが、平安仏教で現われたような現われ方はしなかった。たとえば日蓮の文章というのは独特で、実に美しいと思うんですけれども、あの独特の格調やリズム感というのは、抑圧された美が、ああいう形で出てきたような気がする。道元の『正法眼蔵』の格調やリズム感や論理だってやっぱりそうじゃないですか。

梅原 例の「ヒゲ曼茶羅」でもそうですね。妙を得てみごとな字ですね。空海がつくった『曼茶羅』のように絢燭豪華なものは否定されていますけれども。

紀野 一ぺん精神的なもののふるいをかけた美という感じですね。親鸞でもそれは同じだと思う。一遍なんかは、歩くことによって美というものを表現したというか、一つになったという感じでですね。まったくわれれが考える美とは違うんですけどね。そういう直接感覚に訴えてくるものじゃなくて、一ぺん精神というものを通っていますよ。あれは鎌倉仏教の背骨だ。

梅原 空海のもってきた密教は、大きな精神的な背景を持っていて、それを独自に学問的なもの、芸術的なものの中に生かしたのでしようけれども、しかし、その後腐敗堕落して精神性を失った。その精神性の復活が日蓮などの鎌倉仏教の出現となったのでしょうね。だから、日蓮の思想は美に対して禁欲的で、文章ではけっして芸術について論じていない。しかし、それが深い精神を表現しているかぎり、それもまた一つの芸術的なものとなっているのですね。

紀野 日本人に、新しい形の美というものを教えたことになるんじゃないですか。

   

人間神化の時代

梅原 私はこの前、身延に打って、御開帳を見てきたのですが、大き日蓮の像がフーツと出てくる。これを見たときに、やっぱり人間神化の時代が鎌倉時代だ。つまりそれまで仏さまという人間以外のものを拝んでいたのに、人聞を拝むようになった。いわゆる人間が神になった時代だと思ったのです。親鸞でも道元でもそういう傾向があって、浄土真宗では、祖師堂のほうが黙阿弥陀堂の前にあったりする。そういう一種のルネッサンスを、あの御開帳を見て感じたのですけどね。

紀野 たしかにそういう面も感じますけどね、それは人聞の持っている生命力が低下した証拠じゃないかと思うんですよ。つまり仏というものと人聞とが対決できた時代がだんだん終わってきて、仏というものを見る場合でも、人間を通さなくちゃならなくなってきた。それは生命力の低下だと思いますよ。

やっぱり仏法というものは、仏対人間の問題であって、人間対人間の問題じゃないと思いますよ。祖師を通して仏を見るというのならそれでもいいですけどね。禅宗でも師家は非常に大事にしますけれども、お釈迦さまとか仏をほったらかして、お師家さま第一というのでは、これは仏法じゃない。そういう点は鎌倉仏教はたしかに危険なものを持っていると思いますよ。

梅原 そういう危険性を同時に持っていますね。

紀野 キリスト教でもそういうことがあるのではないですか。ルネッサンスが興り、リフォーメーションが起こって、キリスト教がだんだん人間くさくなってきますね。カソリックが昔持っていたものが、だんだん調和されていく。たしかに人間的でいいことですけれども、しかし、カソリックがずっと昔持っていた恐ろしいほどの宗教的な力、そういうものをキリスト教がなくしたら、宗教としてのカが弱くなるんじゃないかなと思いますよ。

梅原 カソリックでは、神があり、天使があり、人間があり、動物があり、植物があるという秩序の中で、人間の地位がはっきりしていた。つまり中世において、人間は神のつくった宇宙の中の一つの成員であった。しかしプロテスタントでは人間が正面に出てくる。しかし正面に出てくることによって、神や天使の力が下落してくる。そうすると、宇宙の中における人間の地位というものが、よくわからなくなってくる。宇宙はすべて人間でできているかのごとき幻想が成立する。

紀野 たしかにそういう錯覚を起こしますよ。だからキリスト教は、そういう意味じゃ魅力がなくなってくるんじゃないでしょうか。

梅原 そういう意味では、鎌倉仏教はキリスト教のプロテスタントに似ていますね。どこかで仏がなくなる…。あなたがおっしゃったように、危険なときだと思います。

紀野 危険だと思いますよ。祖師はそれでよかったんですけれども…。

梅原 背後に仏があったからね。

紀野 祖師はそれを持っていたけれども、祖師に続く人たちは、それを半分しか持たない、その次になれば三分の一というふうにだんだん減っていくから、これはたいへん危険なことですね。梅原 現代的に人間的な祖師解釈を行なうのはよいのだが、その反面祖師の背後に持っていた仏の世界、あるいは道元がいう、石の女が子供を産むというような神秘的な世界がぜんぜん消えていってしまう。

紀野 ああいう、山は流れて川は流れずという世界をなくしたら、およそおもしろくないと思うんですよ。だから禅なんかは、たしかにそういうものをなくしたことによって、自分がすわって、自分がさとるという、へんなものが出てきたんじゃないかと思いますよ。

さとるということは、たとえば道元なんかの場合ですと、「はるかにこえてきたれるゆゑに」っていうんですから、はるかに永遠なるものからくるんで、さとりだって実は、さとらされるわけです。親鸞の場合だったら、「念仏申させられる」という形にきちんと定まっていたわけですよ。しかし、いまの人たちはそうですかねえ。今日では、親鸞が本来持っていたもの、道元が本来持っていたものから、だんだんはずれていっているんじゃないかと思いますよ。

梅原 この前、日本哲学会で田辺元、和辻哲郎の仏教理解について道元を中心に研究発表したときにも、そのことにふれましたが、和辻さん田辺さんにはそれがないんですよ。二人ともミスティックなものを全都合理的に解釈するのです。それでは道元の持っているものは、ほとんど消えていくのですよ。

紀野 それはたしかに味わいがなくなっちゃいますよ。味わいがなくなるだけならいい。けれども、生命がなくなったんじゃ意味がないから…。

   

『立正安国論』『開目抄』

梅原 日蓮の話に戻りますけれども、日蓮の思想ができあがるのは、やはり佐渡ですか。

紀野 佐渡だと思いますね。それ以前から日蓮にはそれがありましたけれども、たしかに佐渡で日蓮はそういう世界を取り戻したというか、はっきり自分のものにしたんじゃないですか。

梅原 そういう意味でいうと、日蓮の哲学を『立正安国論』に見ることはできないですね。日蓮というと、とかく『立正安国論』しかいわれないですね。

紀野 その『立正安国論』もあまり読まないからね。(笑)

しかし、『立正安国論』というものを日蓮が提出しなかったとしたら、佐渡という時代はおそらくこないですよ。こないから、『立正安国論』というものは、佐渡において日蓮が目をさました世界というものにとって、これは不可欠なものだと思うんですよ。

梅原 最初の著作である『守護国家論』は、法然の『選択集』との対決の意図がありますね。ですから非常に論理的で、いまの念仏じゃダメだ、『法華経』に帰れといっています。それを公の席に出したのが少しあとの『立正安国論』でしょう。それで迫害受けて伊豆に流される。再び例の蒙古牒状の件で当時の仏教界に論争をいどむわけでしょう。そして相手にされずとうとう佐渡に流される。この佐渡で、日蓮は永遠にめざめるのでしょうね。

紀野 生命の危機に最もさらされたのは佐渡ですからね。渡る前に殺されかけていますね。ほんとに不思議に助かっているし、佐渡に行って雪の中で『開目抄』を書くなんて、たいへんなことですね。

梅原 『開目抄』というのは、人の目を開くのではなくて、自分の目が開いた、自分の目が、永遠なものに対して見開かれたということではないかと思うんですね。

紀野 永遠なるもの、神々の世界、たしかに自分を動かしている永遠の力というのを、日蓮はほんとうに感じたのでしょうね。それは、『立正安国論』を提出したときには、そういうものを感じていたに相違ないけれども、佐渡で感じたほど深いところで感じていたんじゃないと思うんですね。むしろ、あれはほんとうに日蓮が書いたというより、書かされたんじゃないですか。あれを書いたことによって、日蓮のその次の舞台の転換がはじまるわけですから、これは岡潔先生流にいえば、神々が日蓮をそういうところに追いやるために書かしたというような形になるんじゃないですかね。たしかに人間というのはへんですよ。そんなものを書いたら完全に自分が窮地に追い込まれるのが解っていますからね。解っているのに書かずにおれない。

梅原 いままで、そんなばかなことはないと思っていたけれども、神といっていいのか、あるいは普遍的な絶対精神といっていいか、とにかく何か自分を越えて流れているものが、書かざるを得なくする。そういうことが人間の世界にある。

   

本門と迹門

梅原 日蓮の『開目抄』なんか、やっと目が開かれた、あるいは神が目を開いてくれた、仏が目を開いてくれたということではないかと思うのです。それまでは智の解釈した伝統的な『法華経』擁護一点張りだったのに独自な『法華経』解釈が出てきた。つまり『法華経』を本門、迹門と二つに分けた場合、本門を強調し、迹門を中心に置く天台智の解釈を否定してゆく。智では、迹門、特に「方便品」が中心ですね。それに対して日蓮は本門、特に「寿重品」を中心として『法華経』を解釈する。いままで『立正安国論』や『守護国家論』では、智に帰ればいい、最澄に帰ればいいという、一種の復古論者だったのが、『開目抄』を書いたころになると、復古論者じゃなくて、新しい哲学の創造者になる。

そこで、また問題は日蓮教学の独自性はどこにあるかということなのですけどね。つまり、日蓮のこの解釈は、どこまで天台伝統の中にあるか、どこまで日蓮独自のものかということですが。

紀野 たしかにむずかしい問題ですね。私はこんなことを考えるのです。日蓮がどんなに独自な教学を説いたにしても、当時の日本人は、そういう思想的な深さを受け入れる素地を持っていたとは思われない。日蓮が何を説いたにしても、そして日蓮が説いたことが変わっていったとしても、それを理解できた弟子というのは、おそらくあまりなかったんじゃないかと思いますよ。日蓮のそばにいた人たちの中でいちばん深く日蓮の気持がわかっていたのは富木胤継ですね。日蓮は、自分の思想的変化が起きたときに、必ず富木胤継に手紙を出して、富木胤継を通して、ほかの弟子たちにそれを話さしていますね。おそらく日蓮は、自分の思想的な深まりを、直接弟子に話してもわかってはくれないと思っていたのでしょう。日蓮の思想の深まりを弟子たちに理解させるような仕事をしたのは富木胤継です。そういうことを考えると、思想的にいくら深いものを日蓮がつかまえたにしても、そうした微妙な変化を受け取るだけの理解力が弟子にはなかったと思う。ただ、日蓮自身が変わったことを直観的に感じとるということに対しては中世の日本人は敏感だったから、肌でパッと何かを感じ取って、弟子たちもまたどんどん変わっていった。どうも仏教の人は、すぐそれを思想にむすびつけて、そして、こういう思想的変化があったから日蓮の弟子たちはこういうふうに変わっていったと考えやすいけれども、どうですかね、わたしはそういうことはあまりなかったと思うんですよ。

梅原 ただし、何か自分の思想を持っていると、自信みたいなのができるでしょう。それが宗教家には大事なことだと思いますよ。そのりっぱな態度を見て大衆ははじめて動かされるというわけですね。

紀野 つまり、人間的なものから発散する何かでそれが変わってくるわけなんでね。だから道元なんかも、正師に出会えということを強調したわけでしょう。

梅原 そこで『法華経』読んで迹門が中心なのか、本門が中心なのかよくつかめないのですが、天台智はたいへん分析的なんですね。「一念三千」という思想は三千の世界が人間の現在の心にあるというような、一種のカテゴリー論ではないかと思うのです。それに対して、日蓮は、久遠実成というような永遠なるもの、永遠なる釈迦崇拝を強調する。カテゴリー論から永遠論へとなる。日蓮は天台智をよく読み返したと思いますね。けれども、このような「一念三千」のカテゴリー論では実践につながらない。そこから、彼の理の一念三千に対して、事の一念三千という思想が出てきたように思います。それが日蓮の哲学形成のポイントではないかと思うのですよ。

紀野 それはそうでしょう。日蓮は天台大師を非常に高く評価していますからね。しかし日蓮は、実践面では天台教学のような展開は見せなかったですね。

梅原 天台思想というのは、最澄以来、哲学ではわかっても、実践において手段に困った宗教ではないかと思うのです。だから日本天台は密教になったり、あるいは浄土になったり、禅になったりして実践の形をいろいろ考える。

紀野 法然だって、親鸞だって、あれだけ勉強した人が、最後はお念仏だけでしょう。日蓮も、天台をあれだけ勉強して、お題目でしょう。いちばんよく見抜いていたのではないですか、日本人はどういうものを受け入れ、どういうものを生かしていくかということを。天台の教学で、自分の生き方やなんかをきちんとしている人なんて、あまりいないのではないですか。

梅原 そうですね。実践論的性格の不足への批判によって造られた日蓮の生命論は、天台智の様相論に対して一種の本質論みたいな、永遠の命に生きるという立場をはっきり出してきたのだと思います。望月歓厚さんは、日蓮の思想に台密の影響を見るのですね。台密の中に本覚思想があるが、その日本天台本覚思想には密教の影響があるのではないか、日蓮は叡山でその天台本覚思想を学ぶ、その影響があの本門の教えにあるのではないかというのですけど、おもしろい説だと思いました。

   

日蓮のたたかい

紀野 たしかに、日蓮自身にも密教的要素がたくさんありますね。だから最初のころは、真言宗に対する破説なんていうことはぜんぜんやらなかったですね。晩年に、なぜそれをはじめたか。おもしろいことですね。

梅原 『立正安国論』のころは天台と真言を一つにして、両方とも肯定すべきものとしている。いわば真言に対して遠慮している。浄土宗をやっつけ、禅宗をやっつけたが、真言に対する批判は、いちばんあとなんですね。日蓮の思想の中に、真言的なものが相当多いのではないかという気がするのです。

ところで日蓮の当面最初の敵になつた浄土宗ですね。日蓮が浄土宗をやっつけた理由はどこにあるのでしょうか。

紀野 むずかしいことですね。本質的に同じようものが日蓮の中にあったということじゃないですかね。

梅原 津田左右吉は、そういうふうにいいますね。

紀野 それから、日蓮という人はやっぱりいちばん最後に出てきた人ですから、いちばん一最後に出てきて、自分の立場を押し出そうとすると、すでに同じようものがあるとしたら、これを倒さなくては自分の立場というものは押し出していけない。だから、表向きの理由はどうあれ、裏はやっぱりそういうところがあるんじやないですか。同質なものがいちばん強烈に戦い合うということは、よくあることですよ。

梅原 前にもいいましたが、『守護国家論』という著書などは、例の法然の『選択集』を破ろうとする意図で書かれているので、その体裁においてかえって「選択集」の影響受けていると思うのです。『選択集は』論理的で、『守護国家論』もそれに劣らず論理的です。そして日蓮は智の理論な一念三千にあきたらずに、だにもできる一念三千を考え出した。それが御題目すなわち「南無妙法蓮華経」ととなえることですが、これは明らかに法然の口称念仏の影響だと思います。つまり、「南無阿弥陀仏」の代わりに「南無妙法蓮華経」ととなる…。

紀野 たしかに日蓮という人は、法然、あるいは、『選択集』というものを実に執念深くやっつけますね。執念深くやっつけざるを得ないほど、一面においてはたしかに惹かれるものがあったと思うんですよ。だからあんな形で出てきた。

梅原 もう一つはね、念仏ではどうも人間は救われないのだという批判が日蓮にあったと思います。念仏はやっぱり来世教ですからね。来世教では日本の国は持たないぞという判断が、彼の中にあった。来世教では日本の国は弱まるばかりで、とても強い国にはなれないぞという力の見地から見た、生命力の見地から見た浄土宗批判が日蓮にはあったと思います。

紀野 だんだん日蓮に似てきたな(笑)。たしかにそうですよ。日蓮はやっぱり現実肯定主義ですね。現実をくしたいとか、娑婆をよくしたいという信念に燃えていましたね。

梅原 親鸞について、日蓮はぜんぜん知らなかったのでしょうか。

紀野 どうですか…。文献の上から何にもいえないから…。私は、知らないということはないと思いますね。

梅原 日蓮が活躍しはじめるころ、親鷲はすでに関東にいたわけですね。

紀野 そうです。

梅原 日蓮は道元についても知らないわけですか。

紀野 いろいろいわれておりますね。道元に会ったという説もあるしね。

梅原 もしこの鎌倉仏教の代表者三人がお互いに知らなかったとしたら、これはおもしろいことですね。

紀野 道元や親鸞は、日蓮の立場からいえば、本質的なものをきちんと伝えているわけで、本来攻撃する対象にはならないと思うんです。それに、二人とも日蓮とはまったく違ったタイプの人ですから。ですから、知っていて、知らん顔していたということがほんとうじゃないかな。

梅原 親鸞の浄土教でも来世肯定から現世肯定みたいなところに帰ってきている。日蓮に近い立場に立つわけですよ。

紀野 平安末期と鎌倉の違いですね。平安の末は、あんな形にならざるを得なかったんでしょうね。しかし、鎌倉時代にああいうことをいわれて、そのとおりのパターンで信じられたんじゃ、日蓮はやりきれなかったんでしょうね。ところが、親鸞のお念仏の心情というものは非常に日蓮に近いです。道元の立場も近い。そうすると、論攻撃の立場としては不向きですよ。だから法然に持ってくる。

梅原 日蓮の禅宗攻撃の中心は能忍ですね。栄西も出てきませんね。日蓮は道元を知っていたはずだと思うんですけどね。禅というものは、日蓮から見れば…

紀野 問題にしてなかったんじやないですか。日蓮は、禅宗というものは、日本人の本来の信心のあり方に向いていないと思っていたんじやないですか。最も日本人に向いているのは、お念仏と彼のいうお題目ですよ。だから問題とするにたらないというふうに思っていたんじゃないですか。禅宗は支配階級にはもてはやされていても、庶民の間にはほとんど生きていなったのでしょう。ところがお念仏はそうじやないですね。日本国の津々浦々まで浸透しているんですから、これは取り上げないわけにいかない。日蓮上人という人は作戦をきちんと立てていたんじゃないですか(笑)。一言もいかないけれども、つまり問題とすべきものは徹底的にやっつける。しかし、問題としなくてもよさそうなものは、黙殺するという…。

梅原 『立正安国論』に禅宗に対する悪口を書かなかったのは、時頼に対する遠慮があったのでしょうね。禅を信じなくても、時頼をくどき落とすためには、念仏の悪口いって、禅への批判はかくしておこうとしう作戦もあったと思いますよ。

紀野 いまだって禅宗の信者とお題目の信者を比較すると、問題にならないんじゃないですか。禅宗の信者でも信心の形態からいうとお念仏に近いのじゃないですか。それだけ日本人の土壌に合わないところがあるんですよ。ただ、日本人の哲学にはなっておりますね。

   

日蓮は国家主義者か

梅原 話はとぶかもしれませんが、日蓮において、国家というもの、日本国というものはいったい何であったか。仏教というものは本来超国家的なものです。だから親鸞や道元でも、日本とか国家についてあまり考えていない。ところが、日蓮は日本というもの、国家というものに対して真剣に考え言及している。このことをどう見るのかという問題が出てくると思うのですよ。

日蓮が、明治以来インテリに非常にきらわれた理由には、さきほどのべた日蓮のあくどさと同時に、国家意識みたいなものがその理由である。それが非常にコスモポリタンと称する日本のインテリにきらわれた。しかし、同時に石原莞爾というような、国家主義の人たちに日蓮はもてはやされる。はたして日蓮は国家主義者なのか。晩年の高山樗牛は、日蓮は国家主義者ではないといっています。日蓮は、蒙古を滅ぼすことではなく、むしろ日本が蒙古に滅ぼされることを祈ったのだ、蒙古こそ仏の軍で、『法華経』を忘れている日本を減ぼしに来たのだということを強調しているんですがね。日蓮と国家の問題を、どういうふうに考えるか…。

紀野 日蓮は国家主義ではないと思いますね。仏法は国家を越えた立場を持っておりますし、日蓮だってやはり例外じゃないと思いますよ。ただ、日蓮の場合は、国主というものが正法を護持する国家がいちばんいいと考えていたわけで、そういう意味では、ときどき国家主義的なことばを発することはあったようですけれども、本来はそうじゃなくて、正法によって治められる国家というものを、彼は理想にしていたわけですから、朝廷というものを絶対視して、盛り立てていこうというような考え方、つまり明治のころに一部の日蓮宗の人たちがいったような考え方は、そんなになかったと思いますよ。

梅原 日蓮には皇室というものに対する崇拝はないですね。日蓮においては、日本というのは『法華経』の国だという特別な歴史的意味を持っていて、日本こそ『法華経』広宣の国だ、という確信があった。そういう意味では日蓮は国家主義なのです。しかし日蓮の思想は本質的には皇室というもの、あるいは幕府というような現実の政治権力とむ結びつかない。だから日蓮自身がどこかでいっておりますね。天照大神、八幡大菩薩はじめ、日本の神々は『法華経』の座にはべっている周辺の神々にすぎないんだ。この周辺の神々は、法華経行者のおれに対して尊敬を払うべきであり、おれを助けないのはけしからん、何しとるっと。神様を叱ったのがありますね。(笑)紀野 徹底しておりますよ。神々だって、『法華経』の信心を持っている人を守護すべき仕事があるんで、その意味において存在価値があると思っているんじゃないですかね。

梅原 日本の国法も、日蓮を庇護するかぎり存在価値がある。(笑)

紀野 しかし、正法というものを打ち立てようと思ったら、それぐらいの信念がなくちゃやっていかれないでしょうね。念仏の信心というものを打ち立てるときだって、念仏一辺倒ですからね。

梅原 ですから、その意味において、日蓮は国家主義者ではなかった。一切の権威というものを認めないという点においては、彼は国家主義ではなくて、むしろ非国家主義だったというふうに思うのです。

けれども同時に、例の正法・像法・末法という形で時代区分を行ない、歴史哲学をこしらえるでしょう。正法時代はインドで釈迦が中心である。ところが像法の時代になって仏教は中国に来る。その中心は智だ。しかし末法の時代には仏教は日本において栄えるが、その中心は日蓮だというふうにしますね。そうすると、やっぱり日本という国が、日蓮の歴史哲学からいうと、非常に大きな意味を持ってくる。そういう点があると思うんですよ。

   

日蓮の発想形式

紀野 日蓮のものの考え方はおもしろいですね。一ぺん否定的な表現をしておいて、そして肯定するんですね。だから末法というときだって、末法ということは自体あまりいいことばじゃないし、時代としてもいい時代じゃないんですけどね。だからこそ日本は、末法にいちばん相応している国であり、そういう時代に『法華経』がいちばん相応しており、そしてその中心になるのは日蓮だという形が出てくる。ああいう論理のもっていき方は、なかなかおもしろいと思うんですよ。

梅原 少なくともそういう意味で、当時の現実世界の支配者、つまり天皇や将軍、あるいは守護や地頭、現在でいえば総理大臣とか、政党の党首とかはまったく一切無視してしまう。そういう意味でいうと、彼はナショナリストではないですね。しかし自分の生まれた運命として生まれたこの土地というものを、これほど愛した人間はいないのではないですか。

紀野 いないと思いますね。

梅原 日蓮は、自分は上行菩薩だという自覚に立つでしょう。上行菩薩とは、『法華経』では釈迦が説教されるとき、土の中から出てきて釈迦の教えをたたえる仏でしょう。その土の中から出てくる仏のイメージに、私もやっぱり土着の仏という印象を受けるのですよ。

紀野 それと、地下人ということもあるでしょうね。釣人権頭の子だという考えと、それから上行菩薩の自覚というのは、あれは『法華経』というものを歴史的に読んでいきますと、抑圧されてずっと仏教史の表面に出てこなかった菩薩団が、仏教史の底から出てくるわけなんで、それが地涌の菩薩という形で表現されているんです。それが、抑圧された人間たちの中から日蓮が出てくるという形で表わされてくる。まあ、自分が釣人権頭の子であるとか、栴陀羅の子であるとか、こういうふうな立場はその当時の仏教界では非常に不利だと思うんですけどね、しかし、彼はそれを逆に利用しておりますね。それをスプリングボードにしてとび上がっていく。いつでもそうだと思うんですよ。だから死罪になりそうになれば、それをスプリングボードにしてとび出していく。流罪になれば、それを自分の開眼の転機とする。否定が先に来て、それから大きい肯定がズバッと出てくる。こういう行き方は、日本人の中ではたいへんめずらしいし、りっぱなことだと思うんですよ。

梅原 そこが先ほど私がいった空海との違いの一つではないですか。空海の生命論は直接に開化する生命の世界でしょう。障害なくパッと・・…。

紀野 否定的な契機がなく出てくる。

梅原 空海は天才で、しかも何をしてもうまくいくでしょう。否定的な契機がない。そういう人生とこの生命論はつながっていると思うのですよ。これに対して日蓮は、マイナスをプラスにできる生命論です。これは庶民の知恵ですよ。雑草の民はそういうものでないと生きられないマイナスをプラスにして、大学をやめたり、女性にふられたりする(笑)それをまたプラスにして次の人生を生きてゆく。

紀野 何だかあやしげな話になってきた。(笑)

梅原 日蓮はまさにそれの極端なものだな。マイナスが全部プラスになる。これはやっぱり、空海のように天才でよい条件におかれたらパッと自己の人生の才を発揮できるかもしれないけれども、庶民はそうじゃない。庶民はやっぱりマイナスが多すぎるわけだ。マイナスにかこまれ、がんじがらめに縛られている。それをプラスにできる達人が日蓮だ。彼はそれをやって見せているでしょう。そこに庶民は彼の人生に最も必要な知恵と勇気を見いだすわけです。

ところで上行菩薩の自覚が生まれるのは佐渡ですか。

   

菩薩としての自覚

紀野 そうです。佐渡一ノ谷で書いた『観心本尊抄』に、日蓮自身が地涌の菩薩であることを示唆しています。

梅原 身延になると変わりますか。

紀野 変わっておりませんね。やっぱりずっと続いています。文永11年(1274)に書いた、『法華取抄』には、自分が上行菩薩の再誕であるこことを言外にほのめかしています。これが蒙古襲来を契機に、明白に言い出すようになるのです。

梅原 例の日蓮本仏説というのがありますね。

紀野 ただ、佐渡に行く直前は常不経菩薩の自覚が強いですね、迫害に対して耐え忍んでいくという性格がね。

梅原 常不経菩薩の自覚は、身延に行くとなくなりますか。

紀野 形の上ではっきりは出てきません。なくならないと思いますが、上行菩薩の自覚のかげにかくれてしまった形です。

梅原 上行菩薩の自覚は最後までありますか。

紀野 あります。上行菩薩たる自覚をはっきりと形にあらわした大曼茶羅を書いているくらいですから。

梅原 自分がお釈迦さんに代わったという考えはありませんか。

紀野 それはありませんね。あるわけはない(笑)。もともと菩薩の成立がそうだからじゃないですか。迫害の中から菩薩という思想が出てきたわけですから、菩薩というのは必ず迫害というものを伴ってくる。徹底的に否定される、否定されることによって、その次に大きな飛躍をするというのが、大乗仏教の菩薩の行き方ですからね。菩薩というのは、もともとお釈迦さまの前身だったわけですから、はじめからそういう約束をされていて仏さまになる。これは空海なんかにありますね。約束され

たものが花開いていく。

梅原 否定が少ないわけだ。

紀野 ところが、日蓮の場合は、同じ菩薩でも徹底的に押えつけられたものが下から芽を吹いてくるという形ですね。体質的に、法然という人と合わなかったでしょうね。しかし、よく考えれば、空海だって、戻ってきて蒸発の時代だってあるんだから、ないわけではない。

梅原 あるけれども、そういう経験は多少少ないでしょうね。

紀野 日蓮なんかに比べれば少ないでしょう。

梅原 日本の宗教者の中で、日蓮ほどひどい迫害を受けた人はない。しかも迫害のたびごとに、菩薩としての自覚は強まってくる。これはやはりたいへんなものだと思いますね。

紀野 親鸞と法然の場合でも、親鸞のほうが、迫害され、押しつけられた時代が長いですね。

梅原 法然は晩年ですからね。

紀野 晩年ですし、ほとんどあれは遊んだようなものでしょう。流罪っていつたって、実際の流罪地まで行きゃしないし、至るところで大事にされているし……。ところが親鸞の場合そうじゃないですね。百姓の間にほうり出されるわけですし、豪族の娘だった恵信尼という奥さんができたから、まあまあ切り抜けられたんでしょうけれども(笑)、それにしたって、やっぱり相当苦労しておりますよ。

梅原 それだけに、一種の雑草にも似た生命力の強さみたいなものがあり、書いたものからも匂ってきますね。

紀野 匂ってきますね。お公家さんの出身なんていう顔じゃないですね、親鸞上人は。相当の面魂ですよ。

   

身延の日蓮

梅原 日蓮の生涯を時代分けすると三つの時期がある。鎌倉期というのは、彼の思想の出現の時期で、『守護国家論』と『立正安国論』で代表される。それから佐渡に行って彼の思想が開花した。いってみれば、そういう佐渡の時代というものは、日蓮教学の成立といってもいいかもしれない。永遠の仏の自覚が出てくる。それとともに、おれが『法華経』の行者だという信念が、ますます高まってくる。それが『開目抄』『観心本尊抄』になる。身延期というのはどういうふうに考えたらいいのか。

『撰時抄』『報恩抄』を書いた身延期は佐渡期の延長になるのか、身延期独自のものがあるのか。

紀野 私にもよくわからないですね。どうして日蓮が身延にはいったか。

梅原 身延にはいったのは、鎌倉に蒙古が攻めてくると日本はめちゃくちゃになるということで、一種の避難ではないでしょうか(笑)。日蓮は未来洞察者だから、そういう気持があったのではないかという気がします。

先日、高山樗牛の『日蓮上人とは如何なる人ぞ』を読んでいたら、避難とはいわないけれども、それに近いことをいっていますね、もちろん避難といってもよい意味の避難ですが。鎌倉がどんなに戦乱の被害を受けても、あるいはこのまま国が滅びても、正法だけはこの身延でがんばって残す、山の中でワラビ食べ食べがんばっても残す、そういう信念があったと思うのです。その考えの前提になるのは、いささか喜劇的なので、こういう臆測は叱られるかもしれないけれども……(笑)、やはり蒙古が攻めてくるという予想があったのだと思うのです。しかし、笑いごとではないと思うのですよ。もし大風が吹かなかったら、蒙古は鎌倉まで攻めてきたと思うのです。そのとき、日蓮が鎌倉にいたら、まちがいなく殺される。結果からみて、日蓮の避難は早すぎたかもしれませんが、それは結果からのみいえることです。大風が吹かなかったら、どういうことが起こったか全くわからない。それが歴史ではないかと思います。

紀野 それは、たしかに、いまわたしたちが笑って考えるようなものじゃないですね。現実に蒙古軍は九州に上陸してきているんですからね。兵力の差、戦闘能力の差は、圧倒的なんですものね。日本軍はやられっぱなしですもの。そういう危機感はありますよ。

梅原 ほんとうは蒙古が鎌倉まで攻めてくる可能性のほうが強かった。それじゃかなわん。身延に行って正法を守ることに専心したら、いつかまき返して、逆に蒙古をも感化できるかもしれないという気持があったと思うのですよ。

紀野 しかし、それだけじゃないですね(笑)。日蓮が身延に行って、大ぜい集まってきて、うるさくてしようがなくなった。日蓮の心では、小さな庵室で小法師と二人でお経をよんでいたいと思ったのに、これではかなわぬから、年があけたらどこかへ逃げていきたい、最後は日本国中放浪して歩くのがわたしの身の上だなんていうことをいっておりますからね。正法の根を向こうに残すという人のいうことはとは思われない。ちょっと感じが違います。

梅原 しかし実際には放浪しなかったですからね。日蓮は、多少センチメンタルでそういうことをいうことがあると思うのですよ。それともう一つは、正法の根を残すこととともに、山岳仏教の伝統にしたがったのではないでしょうか。高野山とか、比叡山とか、永平寺とか。

   

日蓮の手紙

紀野 佐渡から鎌倉に帰ってきたころの日蓮上人と、身延にはいってからの日蓮上人とはずいぶん違いますね。手紙読んでもずいぶん違いますよ。四十代、五十代、ずっと迫害の歴史でしょう。あれだけすさまじく人間がいためつけられたら、身心が衰えるということも早いんじゃないですかね。

梅原 しかし、日蓮の手紙などを見ますと、食糧などなくて、けっして安穏の生活ではないでしょう。

紀野 食糧がなくて苦しんでいたというのも、見方によると、日蓮が手紙で書いたほどではないんじやないかということもあるのですよ。

梅原 身延は寒くて、雪が一丈と書かれているけれども、現在はせいぜい一尺しか降らないそうです。昔は雪は多かったとはいえ、鎌倉時代でも一丈では多すぎる(笑)。また寒さがきびしくて、体は石のごとしとも書いてありますね……。酒を飲んだらはじめて暖まった、という…。

紀野 たしかに体は相当弱っていたんじゃないですか。いくら庇護者がいるっていったって、あれだけ流罪されたり、迫害されたり、旅をさせられれば、人間の体は持たないですよ。あの当時61っていえば、いまだったら80過ぎでしょう。だから相当な年ですよね。

梅原 身延期の日蓮の遺産は『撰時抄』や『報恩抄』という著作もあるけれども、やはり手紙がきでしょうね。

紀野 そういう体の状態できちんとしたものを書くということは、人間にはできないのでしょう。

梅原 身延は一種の内省の時代だと思います。それで多くの手紙を書いた。日蓮の人間性が、手紙には非常によく出ていますね。

紀野 身延の手紙がいちばん好きだという人はたくさんありますね。ほんとうにしみじみとしている。それは裏返していえば、日蓮という人は、体も精神も往年のようではないということですよ。それだけ深く沈んできたということ。たいへん涙もろくなっているみたいですね。四条金吾なんか尋ねてきて、彼が帰るまでずっと影を追うみたいに考えているなんていう文章読むと、日蓮上人も年とったんだななんていう感じがしますよ。昔の日蓮はそうじゃないですものね。しかし、そういう静かな時代が日蓮上人にあったということは、いいことじゃないですか。あんな疾風怒濤の連続じゃ、ちょっときのどくですよ。日蓮上人の情感というものが、いちばんしみじみ出てきた時代じゃないですか、身延の時代というのは。

梅原 日蓮の人生にも一つのリズムがあって、パッと陽性なものが開いたのは鎌倉時期で、佐渡に行って内的な思弁的なものが強くなる、最後に身延でしみじみと内省する。

紀野 精神的な深さが最高潮に達したのはやっぱり佐渡ですね。

梅原 佐渡は理論と情感と兼ね備えたものを書いた時期でしょう。身延ではしみじみと人生を振り返るという時期になるのでしょうね。身延期のものは自分の一生を振り返ったときの深さというか、魅力というものがたしかにありますね。

紀野 そういうときでも、もっとほかの山を選ぼうと思えば、住みやすい山はあったでしょうね。ああいう住みにくい、寒いところを選ぶというところが、日蓮上人らしいんじゃないかなあ。

梅原 身延を選んだ理由がわからないのですが、突然きまったみたいですね。

紀野 健康にだってよくなさそうだし、はいるなら千葉のほうの山だってあるでしょうにね。

梅原 どちらかというとあの山は暗い山ですね。見晴らしだって、それほど絶妙ではないですし

   

魂の故郷、海

紀野 ただ、日蓮という人の心情を考えると、あの人は海で育った人ですから、海がいつでもつきまとっておりますね。どこでも生涯ほとんど海がつきまとっているから、やっぱりそれは日蓮の心情の中に、無意識に海というものがあり、それが日蓮を動かしていったような気がするんですよ。ところが、最後に山の中にはいる。それはどういうことかなと思って…。本来なら、海のそばで命を終わったら、いちばん日蓮らしいと思うんですよ。それが、そうでなくて山の中にはいっていく。私はこのごろ、人間の心情というものが、いかにその人間を動かすかということを考えるものですから、日蓮の心情にも興味があって、いろいろ考えているんですけれども…。そうすると、日蓮の心情の中に、海以外にもう一つ何か要素があったんでしょうね。それが日蓮を身延の山につれていったということも考えているんですけどね。

梅原 興味深い話ですね。生命の哲学者というのは、海が好きなのではありませんか。空海も海が好きです。

紀野 ですから、日蓮の情感の深さというのは、日蓮の心情の中に、海で育ち、海というものがいつも存在したというのが現われるような気がするんですよ。

と同時に、私がいちばん最初にいった、日蓮という人は、情の深さ、きめのこまかさと同時に、圧倒的に追ってくる力を持っていた、その心情のもとはやっぱり山なのかなということを考えてね。それで、山の中で最後を終わる。親鸞は京都の町の中で終わっているし、道元も京都で死んでおりますね。

梅原 道元には「海」というイメージはないですね。

紀野 あの人はお公家さんですからね。京の町が心情ですね。

梅原 道元も親鸞も京都に帰って死んでいる。これは不思議なことですね。

紀野 それなら、なぜ日蓮は海のそばで死ななかったかということなんですよ。日蓮の心情にはもっと別なものがあった。つまり身延の山のようなものがあり、それが日蓮のある一面を代表しているんじゃないか。

梅原 空海が若いとき修行した室戸岬で太平洋を見た感じと、日蓮が若いとき修行した清澄山で太平洋を見た感じと、どこか似ていますよ。向こうは何もない一面洋々たる海で非常に似ている。ああい洋々たるものが、日本の精神の伝統にあるような気がしますね。

それから、空海もやはり最後は高野山、日蓮も最後は身延山、このこともおもしろいことだと思いますね。

紀野 道元禅師なんか、福井の山の中で完全に命を終わるはずなのに、帰ってくるんですね。しかも帰り方が、あまり理由がはっきりしないですね。親鸞の場合もはっきりしない。だから、やっぱりこれは心情に惹かれて帰ったとしか思えない。

梅原 最後は、どんな偉い人でも故郷に帰る。

   

日蓮の死

紀野 お釈迦さまがカピラヴァストウに向かって歩いていかれたのと同じに、つまり自分の心情にいちばん深く根差しているところに帰っていくんだと思うんですよ。

梅原 日蓮は最後に山を降りて池上で死ぬでしょう。あれもやっぱり故郷に帰りたかったのでしょうね。

紀野 故郷に帰りたいという気持もあるし、それから日蓮という人は、このへんであきらめるなんていうことのない人ですから、やっぱり常陸の湯に行って、静養してもう一ぺん再起するという気持を持っていたんじゃないですかね。

梅原 しかし、温泉だったら身延の近所にもあるではないですか。だから私は、やっぱり最後は故郷の海が見たくて帰ろうとした。そうでなければ、身延で亡くなったほうがむしろ日蓮の死にはふさわしかったと思います。

紀野 では、なぜ墓を身延の山へ…。

梅原 ですから、やはり身延のほうがよかったんでしょ。

紀野 だから、白蓮の心情は二つあるということでしようね。海と出とね。ただ、あれは池上宗仲に招かれたということがあるんですね。それで行った。いろんな理由が重なってきたんでしょうね。しかし、海のそば、自分が生まれた海のそばに行きたいということがあったんでしょうね。

梅原 そういうところが、人間というものの不思議さですね。そこが私は人間というものに魅力を感じるところです。親鸞でも道元でも、人生を生きぬいたのですけれども、やっぱり最後は故郷に帰りたくなる。人間というものは、おもしろいものですね。

紀野 人聞の心情のおもしろさですね。やっぱり日本人というのは、思想よりも心情のほうに動かされることが、どうも多いような気がしますね。いいことであり、同時にまた、人間の弱さでもあるわけですけれども…。

梅原 日蓮というのは、明治以後のインテリというものの悟りすましたようなものを一発ガツンとやるような大きなものを持っている。そういうところを、もう一ぺん日本の文化の中に、正当に評価させなくちゃいけないでしょう。

紀野 そうですね。不当に評価されたり、誤解されたりしておりますからね。たしかにいまみたいなある意味で乱世の日本人には、大切な人ですよ、日蓮は。

梅原 そうですね。ほんとうにそう思います。私は日蓮のような人がいま最も必要としている人物のような気がしてしようがないのです。

 

永遠のいのち <日蓮>1969年9月角川書店刊

 

 

 

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