「読書とは人生にとって何であるか。」こう問われたとき、問題は広大に過ぎて、私としては答えに窮する。「読書とは私の生涯にとって何であったか、また、何であるか。」こう自問したとき、ためらいを感じつつも、何ほどかの応答めいたものを提出できそうな気特に、最近私はなってきた。本書『クレタの壷』ーーこの書名は、本書の「W、世界史の核」中に収められた1小篇の題名に由来するーーは、そのような自問にたいする自答の試みに他ならない。

ここに、私の生涯のうち、およそ70年の読書経験について回顕すると、読書の意味と様式においても、また、読書の対象と内容においても、顕著な変化が見出されるのは、われながら興趣深い。まず、読書の意味と様式についてであるが、読書とは、私にとっては、最初明らかに「娯楽」を意味していたのに、やがてそれは、「禁欲」と同義語となり、次にそれは、はからずも「闘争」の一局面を形成するにいたり、最近には、「回向」に他ならぬものへと、それは定着するにいたった。次に読書の対象と内容についてみると、「娯楽」としての読書の時期には、手当り次第の濫読が行なわれ、「禁欲」としての読書の時期に入ると、いわゆる専門家的研究のための史料と文献の閲読が主となり、「闘争」としての読書の時期に進むと、一般的なものであれ、専門的なものであれ、その時どきの「闘争」にとって必要な典籍・文献の味読が要請されるにいたった。それと同時に、「闘争」としての読書は、それを裏づける「闘争」の生活そのものの要求に基づき、一方においては闘争における主体の確立に、他方においては闘争をめぐる問題情況の客観的把握に、それぞれ寄与しうる文献の選択を私に命じた。こうして、一方では、闘争における主体の確立の問題にかかわって、読書対象は「日蓮遺文」へと収赦してゆき、他方では、闘争をめぐる問題情況の客観的把握の問題にかかわって、読書対象は「世界史像形成のための諸文献」へと拡散していった。ここに、闘争の生活における実践課題の分極化に対応する、読書の分趣化が行なわれるにいたったのだ、といえよう。しかし、敗戦後4分の1世紀におよぶ私のささやかな闘争は、妻利子の被殺に具象化されているように、完敗に終った。そして、私としてはそれより他にありようのない「回向」の生活へと、私は分けいるにいたり、読書も「回向」の実践形態としての色読ーー全肉体による読書ーーを意味するにいたった。断っておくが、「闘争」は廃絶されたのではなく、「回向」へとそれは昇華してゆき、勝敗を越えたいわば「絶対闘争」へとそれは転化するにいたったのである。

そのような「絶対闘争」の関頭に立たされていることを、この序を草している今日、私はあらためて強烈に自覚する。

本書は、5篇の構成によって、敗戦のときから今日にいたる約30年間を蔽う、「闘争」としての読書と「回向」としてのそれの、いくつかの場合を提示し、それによって、どのような足取りで読書の分極化が行なわれてきたか、また、その分極化のうち、「世界史像形成のための試読」というものが、どのような様式と内容のものとして行なわれてきたか、それらの一端について報告しようとするものである。すなわち、「T 十種の典籍」は、戦争の末期と戦後において、私に必読を迫ってきた古典の挙示であり、「U 『永遠の古典』」は、それらの古典を永遠性においてとらえるための試読の結果の報告である。「V 世界史への姿勢」所収の5篇は、永遠性においてとらえられる古典を、世界史認識の主体的方法の問題側面からとらえ直すための、予備的考察といえよう。それらのうち、1950年代の初期に書かれた最初の2作については、それぞれの古典のうちに「世界史への姿勢」を探る方法について新に考えた、「補記」を書き加えた。とりわけ「ファウストにおける『不満の念』」に付した「補記」は、カッシラー、マイネッケのファウスト研究にたいする批判を通して、総じて世界史認識の理論と方法の問題の一側面を考察したものといえよう。「W 世界史の核」は、世界史の全体像が形成されるために試作された諸部分像の展示であり、そこに収められた15の小篇は、だいたい、1960年代の初頭の制作にかかる。これらの小篇は、全体像のための部分像であると同時に、それぞれには全体像が独自の仕方で全的に投映されている、そのような部分像でもある、とみられよう。これら小篇の制作には、文献の他に郵便切手が試用された。最後に、「X 本を読む・切手を読む」は、70年にわたる私の読書経歴を、この序の初めに掲げた読書の4時期に分けて、今度新に書き上げたものであり、本書の1〜4に収めた諸篇の解説としても役立つことを、著者としては期待している。本書を編し終ってつくづく思うことは、私にとって読書とは、それの4時期を通じて、人間課題の内発的追求の、最も簡素な一形式に他ならなかった、ということである。生命のあらん限り、そのような読書を、私は今後もつづけてゆくことだろう、と私はひそかに想像もし、念願もしている。

本書の出版にあたり、評論社の竹下晴信氏のおせわになること甚大であった。心からお礼を申し述べたい。氏らの多年の要望が、このようなかたちで果せるようになったことを、私は多幸とする。

1974年9月25日

 

著 者

 

 


 

 

抜粋論文

 

十種の典籍

私と文学

民族叙事詩礼賛

クレタの壺

 

 


 

十種の典籍

 

T

蔵書ーーというのもおこがましく、研究上、最少限度の必要をもみたしえぬ乏しい書物を備えているのに過ぎないのであるが―のすべてを喪失しても、なお生命のあるかぎりは朝夕手もとに置きたい書籍は何なにであろうかをとっさの間に思案して、次の数点を書架から選び出し、柳行李の一隅につめこんで、子供の疎開先へと携行したものである。いかにとっさの思案であるとは言え、相互の間に大した脈絡もなければ、平素の研究との間に直接の関連のないのも奇妙であったし、ただもう最少の容積で最大・最善・最美の書籍内容をと心がけたのであるから、粗本・悪本、まざり合っていて、どうにも苦笑を禁じえなかった。それにしても、これら教壇の書物を荷造りしてしまうと、後は焼けても惜しくはないような気持ち忙なって、ホッとしたものである。

第一に選び出したのは、ホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイアー』とであるが、1855〜58年のドンナーのドイツ語訳本をとった。軽くて携行に適するからである。第2はヘロドトスであるが、1839年のパルム校訂の16折本3巻を1冊に綴じ合わせたものがあったので、それを選ぶことにした。第3はプラトソの全集であるが、1850年のシュクルバウム校訂の16折本で間に合わせた。第4はタキトスの全集である。やはり16折本が軽便であるので、近時の善本をすてて、1846年のワイゼ本を携えることに決めた。第5は旧約・新約両聖書である。米国聖書協会の46版日本語訳本を適当と考えた。第6はアウグスチヌスの『神国論』と『告白』とのドイツ語訳本である。これも16折本であったが、そのときの書物は現在手もとになく、訳者の名も思い出せない。第7に、『十三経注疏』をと考えたのであるが、どうにもかさばるので断念し、有朋堂文庫の『四書』と『三経』とで我慢することにした。専門家の間には悪評が存するけれども、携帯に適するものが他にないから、仕方がない。第8は『古事記』と『日本書紀』とであって、岩波文庫本をとった。第9は『万葉集』であるが、これも佐佐木信綱博士編の岩波文庫本を選ぶことにした。第10には、霊艮閣本で日蓮.聖人の遺文集を選びとった。これら10種の他に、普及会本の 『法華経』と小型の 『新約聖書』とは、常時携えている鞄に収めて、疎開本中には加えぬことにした。

以上10種の典籍は、どれも十六折本か、さもなければ四六版か文庫版の小型本であるので、携行にすこぶる便利であるばかりでなく、疎開先のせまい一室の違い棚に並べてみても、全部で幅3尺とは取らぬから、たいそう都合がよかった。選択した10種の典籍そのものは、人類の思索と詩想との最大・最善・最美なるものを網羅しているわけではなく、殊に近世のものを一点も含まぬという憾みもあるけれども、古代の佳品をいちおうは収めていると言えぬこともない。そこで美本ではないけれども、諏訪平を一望のうちに収めうる静寂な小室にこれらの典籍を備えたとなると、5年や10年の蟄居は物の数ではないように思いなされたばかりでなく、この小文庫を後に残して東京へ引き返すのが、どうにも物憂く感ぜられたものである。

 

U

 やがて戦争は終った。戦後直ちに学問研究に精進しえた人たち、芸術創造忙適進しえた人たち、政治活動に没頭しえた人たち、さようの人びとも多かったであろう。しかしながら自分はすこぶる怠惰な数箇月を送った、と思う。その反動というのかも知れぬ、戦後1年にして繁忙をきわめる生活が襲いかかつて釆て、今日に及んでいる。怠惰であれば書は読まぬものであろうし、多忙であれば書は読めぬものであろう。かくて戦後の読書量は、おどろくべく少ない。しかしながら、その間にあっても、念頭を去らなかったものは、また今でも去りえないものは、先の10種の典籍のことである。

 第一に、とっさの間に10種の典籍を選択して、後は焼けても惜しくはないような気持ちになったのは、いったい何を意味するのであろうか。言いかえれば、主立った古典若干を選び出してしまうと、平素の研究用書に心残りを余り感じなかったのは、いったい何によるのであろうか。それは、せっばつまった非常事態における一種感傷的なる古典讃美精神のしからしむるところであったであろうか。それとも、ふだんの研究なるものが、対象の点でか、素材の点でか、方法の点でか、煎じつめるとこれらの古典を志向し、またはそれらに依存し、またはそれらに基礎づけられているように直覚したせいであろうか。いずれにしても、その瞬間における10種古典の選定は、容易に解ききれぬ問題を蔵している、と思う。

第2に、唐突のこととして選びとられた典籍は上掲の10種であったけれども、多少とも熟考の暇ある今日において、しかも自分一個の偏好を除いて、万人必読の古典10種ばかりを選ぶとするならば、先のものをいかように修正すべきであろうか。これは新制大学における一般教育の問題とも関連して、実際的重要性を有する問題である、と考える。

以上の2問題とも、簡単に答えうべき性質のものではない。前の問題は、自らの学問研究の其の対象と方法と意味とをつきとめる問題であると同時に、広くは一般教養なるものと専門研究との関連いかんの問題をも含むであろう。後の問題は、人塁史の全体を通じて発現せる人間精神の、最も高き代表作品はいかなるものであろうかを究明する、という問題であろう。

しかるに最近自分には、万人必読の古典とは何であろうかを述べる機会があった。その際、前記のような面倒な問題の存することを承知の上で、だいたい次のようなものであろうかと言ったのであるが、それはとっさの間に選択した例の十種とは、いくぶん違ったものになっている。

第1はやはりホメーロスの両叙事詩であり、第2は旧・新約の両聖書であり、第3は『論語』であり、第4は『法華経』であり、第5はアウグスチヌスの『神国論』と『告白』であり、第6はダソテの『神曲』であり、第7はモソテスキューの『法の精神』であり、第8はアダム・スミスの『国富論』であり、第9はゲーテの『ファウスト』であり、第10は『万葉集』である。

かようの選定が適当であるかどうかについて、多少とも根拠のある見解を持ちうるためには、これらの典籍の各々を味読するとともに、他の大小の古典、近人の著作についても研究を積まねばならぬのはもとよりである。

 

ーー1948・11・17―

 

 


 

私と文学

 

歴史家というものは多欲なもので、人事官般、何から何まで自家薬籠中のものにしないと気がすまないものらしい。政治といわず経済といわず、思想といわず宗教といわず、学問といわず芸術といわず、それも古今東西のけじめもなく、人の息がかかり、人の思いで出来上ったものなら、こなしてしまわないと、落ちつかないものであるらしい。ところで、心の傾きはそうであっても、余程の大歴史家でもないかぎり、何から何までこなし切るなどということは、できることではない。それに分らないのは、「こなす」ということだ。いったい、こなすというのはどうすることか。こなして、それからどうしよう、というのか。こう疑ってくると、歴史家の多欲というものが、何でも欲しがる子供の気ままと大差のないもののように見えてくる。

そこで私はーー思えば、自分の非力を人前に取りつくろい、風当りせぬ狭い分野に惰眠をむさぼろうとする魂胆から出た話ではあったのだがーー、長い間、画も見ず、音楽も開かず、文学作品も読まぬ学究生活に自分で自分を閉じこめてしまった。そう、いつごろからいつごろまでのことであっただろうか、はっきりしたことはいえないが、30歳そこそこから始まって、終戦ごろまで続いただろうか。その間というものは、新聞さえ幾月も読まず、綜合雑誌などにいたっては、何年も手にしたことさえなかったような有様だったし、詩や小説を読むことは全く稀有のことに属していた。何かの拍子で『ファウスト』などを読んでみることはあったが、20代で読んだときとはだいぶん違って、へんに騒がしいように感ぜられ、途中で投げ出すような始末だった。変れば変るもので、およそ15.6の歳から始まって、シュクスピアだ、トルストイだ、ドストエフスキーだ、ツルゲネフだ、ロマン・ローランだ、メレジュコフスキーだ、と手当り次第に耽読した青年時代の文学好みは、すっかり影をひそめてしまったようだった。

ところで、人生には思いもよらぬことが起るものだ。戦争の末期になり、爆弾さわぎで吉祥寺の私宅もあぶなくなり、急に子供を田舎に疎開させることにしたときのことである。蔵書のすべてが焼かれても、生命のある限りは朝夕手もとに置いて読みたい本は何だろうかをとっさの間に思案して、書架の中から何冊かの本を抜き出して、疎開先へ携行する柳行李の隅に詰やこんだものだ。その本というのは、今でも覚えているが、ホメーロス、ヘロドトス、プラトソ、タキトクス、新旧約の両聖書、アウグスチヌスの『神国論』と『告白』、『四書』と『三経』、『古事記』と『日本書紀』、『万葉集』、日蓮遺文集の10種であり、他に『法華経』と『新約聖書』は手提鞄に入れることにした。スペースの都合で、善本よりも小型本を選びとり、荷物を作ってしまうと、ホッと安心して、後の蔵書はみな焼けてしまっても惜しくはないような気特になったのは妙だ。その10種の書物というのは、広い意味ではみな文学作品といぅものだろうが、その中に専門書というべきものが一冊も加えられなかったのもおもしろい。とっさのことではあり、系統も脈絡もあったものではなく、たまたま目に入った本を選んだわけだが、文学作品ばかりが選ばれたというのは、いったいどうした理由からだっただろうか。

20年近くも、狭い専門分野での研究に自分で自分を閉じこめた、その怯儒と固陋への反撥が激動する歴史の現実に触発されて、こんなかたちで爆発したのかも知れない。いったい誰への義理立てで、視界を限り、情念を限り、問題を限り、方法を限ったわけだったろう。限るもよい。それで何かがとらえられた、とでもいうのだろうか。いつの間にか心中にうっせきしていた、こうした不満と懐疑が、生死不定の緊迫した空気に媒介されて、あんなかたちで突破口を見出したのかも知れない。いずれにしても、専門書以外のこうした作品に切実な関心をいだいている自分自身を発見して、われと苦笑を禁じえなかったものである。

戦争は終った。戦後の混迷の中から何とかして新しい生活の軌道を切り開こうとする社会の喘ぎの中に身を置くと、私も私なりに思いめぐらさざるをえないことが多かった。今までやってきた研究というものは、いったいどういう意味をもつものだろうか。研究の方法やテーマというものは、今まで通りでよいものだろうか。これからの研究は社会の中でどういう在り方をすべきものだろうか、また、しうるものだろうか。こうした疑問を自分の手慣れた仕方で解いてゆくには、今まで片はしをかじってきた歴史学自体を、その歴史的発展において究明する他はないだろう。歴史学の歴史、それは当然に歴史叙述の歴史を含むものである。そして、歴史叙述とは、いうまでもなく、文学の一つに他ならないだろう。今まで他人事だときめ込んでいた文学がーー少なくとも文学の一つのジャソルがーー、どうやら他人事ではなくなってきたらしい。

まだある。微々たる存在であることはいうまでもないが、微小の存在は微小の存在として、やはり戦後の日本の運命というものが気にかかる。明るい展望、暗い予感、その両面をそなえた日本の全動向というものを察知せずには、動きもできぬ、思索もできぬ。いや、察知するだけではまだ不足だ。いいようもない苦しい動向のうちに胎動する、新しい生命の息吹きに触れずには、呼吸さえもできかねる。そこで触手を八方に伸ばして、日本の足取りを知ろうとし、そこに胎動する新しい生命に触れようとする。そうすると、たとえば木下順二の戯曲が、野間宏の小説が、木島始の詩が、無数の生活綴方が、新しい生命の胎動として感得せられてくるのである。

こうして今の私には、3つの違った源泉から流れ出た、文学への傾斜というものがあるようだ。ところで、源泉の違うのに応じて、同じく文学という言葉で呼ばれたものの、私にとっての意味にも違いがある、と思われる。

終戦時に近い切迫した雰囲気の中で選び出された10種の典籍が、もしも文学作品と呼ばれうるものだとすれば、そこでの「文学」は、永遠の生命を瞬時の言葉でつなぎとめるもの、無限の価値を有限の器に盛ろうとするものを意味するでもあろう。そのような「文学」の中には、たとえばダソテの『神曲』やゲーテの『ファウスト』が加えられてよいだろう。そのときの「文学」とは、今も述べた通り、永遠の生命をやどした瞬時の器として、私に「救い」を約束しようとする何ものかを意味するだろう。ところで、歴史叙述を文学の一つのジャソルとみたときの「文学」とは、そういうものではない。そのときの「文学」は、歴史的時間と歴史的空間に制約されつつ、社会のうちに生きざるをえなかったある人間のーーしかしながら私にとっては、ある他人のーー情意の告白を意味し、今において思考しつつ生きる私にとっての「参考物」を意味するだろう。最後に、日本の運命を懸念した触手に触れる「文学」というものは、私とともに喜憂を分かちつつ、私に「はげまし」を与える何ものかを意味するだろう。

 私は「文学」という言葉に定義を下そうとしているのではない。源泉が異なるのにつれて、私にとって文学の意味が違っていることをいいたいだけである。

 ところで、「文学」という同じ言葉でいいあらわされているものが、いつまでも、3つの源泉にしたがって3つの意味をもちつづけていてよいものだろうか。いや、それは3つの意味をいつまでももちつづけうるだろうか。これは、「救い」を求める心、「参考物」を求める心、「はげまし」を求める心、これら3つの心が相互にどう関連し合っているだろうか、という問題であるが、同時にこれは、作品の理解と評価のための方法を確立しなければならぬ、という問題でもあろう。いずれにしても、文学というものは、今の私にとっては、すこぶる面倒な問題になっているのである。

 

ーー1953・11・19ーー

 

 


 

民族叙事詩礼賛

 

「この小説はちょっと面白い、この詩はなんだかつまらない、」などと、漠然とした無責任な気持で作品を読むことも多い私に、「文芸観」というような、しかつめらしい文学認識があるわけもない。しかし、民族叙事詩のあれこれを少しまとめて読んでみたいと考えている今の私には、小粒で、こざかしく、結局はひとり合点に終わっている作品の多い今日の日本の文芸が、何か物足りなく、うら寂しいものに思われる、ぐらいの感想はある。

 ひとくちに民族叙事詩とはいっても、ギリシアの『イーリアス』、『オデュッセイア』、イソドの『マハー・パーラタ』、『ラーマーヤナ』の間には、それぞれ大きい違いがあるし、イランの『シャーナーメ』、ドイツの『ニーベルソゲソ・リード』をそれらに加えてみると、作品間の違いはいっそう顕著になるだろう。それにもかかわらず、個性の強烈で、一つびとつの言動に全自我を発現させずにはおかぬ男女の個人たちーーそれを「英雄」と、後世の者が名づけるわけだろうがーーの、いわば必然的で抜きさしならぬ言葉と行為の、非情ともみえる客観的描写を通して、大きく深く全部族、全民族の歴史的運命が同時に物語られてゆく点は、民族叙事詩の多く共通する、といえるのではあるまいか。個人の宿命と民族の運命の両者を統一的にとらえるこうした叙事文芸は、個人と民族との間に本質的な矛盾や分裂のない生活構造が実存する場合だけ、生まれるものだろう。そして、民族叙事制作の主体についていえば、個人と民族との一体的意識がいきいきと躍動していた、と考えられるだろう。

また、正邪、善悪、美醜のけじめがはっきりしており、明暗の色わけもあざやかである点も、民族叙事詩の多くに共通する、といえるだろう。−切の個人を自己の胎内におさめている民族のーーあるいは、部族のーー生活目標が明確で、その生活理想が一義的に明瞭であるかぎり、個人の言動を評価し、情況を判断し批判する価値基準も、簡明でありうるわけだ。民族叙事詩が、懐疑のための懐疑、善悪不詳の境地における自己低迷を知らず、行為へと表出しない心情の、自家中毒的な空転を知らないのも、民族の生活理想がその時どきに確かなものとして意識されるからにほかなるまい。そのこととかかわって、多くの民族叙事詩におけるm情景展開の躍進的なディナミ−クも理解されえよう。民族叙事詩に、「英雄」たちの陰微な心操のあり方をとらえようとする志向が、ないわけではない。しかし叙事詩は、「英雄」たちの心情分析にふける代わりに、かれらの心操が行為へと発現してゆく過程を大胆に且つ急歩調で追跡し、かれらの行為がそのまま全民族の運命を形成してゆく道程を、ためらうことなく動的に描き出すことに熱意を傾ける。民族の歴史的運命がたとい悲劇を意味する場合でさえも、叙事詩の描く情景は、男性的に明るい。

今日の日本に、このような民族叙事詩を生み出しうる客観的条件も主体的意識も、ただわずかにしか存在しないのは、いうまでもない。したがって、今日の日本に、社会と自己の矛盾、民族と個人との分裂を前提とした、女々しい作品が横行するのも不思誤はない。しかし、だからこそ、私としては、新しい「民族叙事詩」が生み出されるのを待ち望まずにはいられないのだ。なぜなら、情況の壁をつき破って、そこに主体を創造してゆくことこそが、やはり文芸というものの社会的・文化的課題であるはずだ、と考えるからだ。

 

ーー1963・2・19ーー
                                     

 

 


 

クレタの壺

 

 近頃、といっても去年の6月のことであるが、エーゲ海の南に浮かんでいるクレタ島に栄えた軽妙で流麗な文化の諸相を3500年後の今に伝える8枚の可憐な郵便切手が、ギリシアで発行された。ギリシアでは、古代ギリシアの通貨の単位ドラクマをそのまま今日の通貨単位の名称とし、その100分の1をレブタと呼んでいるわけだが、この一組の切手のうち、20レブタの切手はクレタ文化の中心地クノッソスの宮殿から出土した淡茶地白彩の百合模様の壷を図示し、1ドラクマのそれはこの壷よりももう2,300年も古い渦巻模様の皿底をあらわし、10ドラクマの分はクレタの南岸に近いバイストスの宮殿から出た、やはり紀元前1800年頃のさしロのある二つの壷ーー両方とも黒地で、一方には雄渾な渦巻模様が、他方には大胆なジグザグの線にはさまれた花形模様がそれぞれ描かれているーーを示している。今では、ヘラクレイオンの博物館に収蔵されているたくさんのクレタ陶器のうち、切手で取り上げられたものはわずか数点に過ぎないが、それでも、クレクの陶芸の時代的発展をもこめて、前1500年頃爛熟の頂点に達したクレタ文化の相貌がこれらの切手で示されているのは、手際がよい。

 この3枚にも劣らず面白いのは後の5枚だ。そのうち4枚はクノッソス宮殿の壁画のあれこれをあらわし、「パリの女」 の名で通っている婦人像こそ加えられていないが、樹園に遊ぶしゃこときつつきの像、祭に集まった貴婦人たちの座像、リトソを捧げる若者の像、胸を張った婦人の像は、この4枚のうちに収められていて、在りし日の華麗華であでやかな宮廷生活のイメージを伝えている。残る一枚は、ハギア・トリアダ離宮出土の石膏棺の側壁をかざる祭儀図のうち、祭に奉仕する二人の男女をあらわしているが、その男女の足取りはむしろ軽やかで洒脱に見えるのであって、本来は生真面目なはずの供犠というものさえ、クレクではのびやかなものであったらしい印象を、この小さな画面からは受けるのである(以上、口絵参照)。

 ところで、私がこれらの切手に興味をおぼえるのは、そこに示されているクレタ文化の、一見エキゾチックな情趣そのものの故ではない。クレタ文化の芸術的特徴を遠い日本で実感しようとするなら、たとえばスキラ版の 『ギリシア絵画』(1959年)に収められた忠実無比の複写にょるのがよいのであって、可燐ではあるにしても、縮写と略化の過ぎた切手の国柄などによるべきではないだろう。そこで、スキラ版でクレタの陶芸や壁画の莫をじっくり味わってゆき、編者ロバートソソのこくめいで落ちついた図版解説をしずかに読んで考えていくと、一見エキゾチックなクレタ芸術が、実はエキゾチックでもなんでもなく、足利以後の日本の陶芸や絵画のうちに、色調にしろ構図にしろ、いくつも似たものが見出せそうな、そういう体質の芸術であるような気持ちに、私はだんだんなってゆくのである。

 いずれにしても、クレタ芸術は、ギリシア芸術に刺戟や影響を与えたに違いあるまいが、体質というか、本質というか、そうした点では、この2つの芸術の間には、連続よりもむしろ断絶の方が、私には余計に実感されるのである。そのことはそれとして、たいへん面白い現象であるのだが、そのようなクレタ芸術のあれこれを、あたかもギリシアそのものの民族芸術であるかのように取扱った、以上の切手は、今日のギリシア人のーーより正確忙いえば、切手の発行権者である今のギリシア政府のーー多彩ではあるが何かすっきりしない文化意識の一面を示すものとして、私にはまた面白く感じられるのだ。

そこで今日のギリシアとはいったい何か、という問題が改めて起ってくるわけだが、ちょうど中国やインドの場合と同じように、ギリシアの場合にも、古代ギリシアを見る視点と現代ギリシアを見るそれとをうまくかみ合ぁせることが、実は私などにはなかなかむつかしいのだ。問題意識の一貫性というものがこちらにありさえすれば、2つのギリシアは1つのものとしてとらえられるはずなのだか、うまく1つにまとまらないのは、むら気のさせるわざでもあるだろう。

こんな思いでいるときに、去る【1962年〕1月26日付一夕刊の片隅に、次のようなモスクワ25日発のロイター電が載っているのを見つけ出し、一瞬私はドキソとした。「25日のタス通信によると、セルゲエフ駐ギリシア・ソ連大使は23日、アベロフ・ギリシア外相を訪れ『ソ連国内では、現在ギリシアに核兵器が持込まれているとの情報について、不安の念が高まっている』と抗議し、
きらに次のように述べた。『ソ連はパルカソの平和と安全を守る各種の措置を取っているが、ギリシアではこれをギリシアの安全に脅威を与えるものとみなそうとする、反動的な宣伝が行なわれている。』」1947年3月のトルーマソ・ドクトリソに基づき、トルコといっしょにギリシアがアメリカから巨額の経済援助を受け、その代わりにこの両国がアメリカの反ソ反共政策の前哨基地になっているということ、1949年4月結成された北大西洋条約機構にはギリシアも参加し、その有力メソバーになっているということ、去年10月のギリシア総選挙ではカラマソリス首相のひきいる親米派の国民急進連盟が圧勝し、11月には第4次カラマソリス内閣が成立したということ、こういう周知の諸事実を念頭に置いてこの夕刊の記事を読むと、ロイター電の報じるソ連大使の抗議も、何か理由がありそうに考えられてくる。そして、そのギリシア政府の発行したものがクレタの壷などの切手だとすると、その可憐さだけに眼をうばわれているわけにはいかなくなってくる。

このなんとも釈然としない気持ちを整理するには、ギリシアの「独立」というものが、いったい、どういう中味と度合いのものかをつきとめねばならなくなるだろう。それには、紀元前168年ピドナの会戦でギリシア(マケドニア)がローマに破れ、前146年ローマの属州に転落してからの、ギリシアの対外従属の長い歴史 − ローマ帝国、ビザソツ帝国、ラテソ帝国、最後にトルコ帝国に従属してきたその長い歴史ー1821一29年トルコから独立してからの諸強国への依存の歴史、近くは、第2次大戦における対伊・対独抗戦の実態と大戦後における内戦の内容を検討しなければなるまい。これは手間のかかる仕事ではあるが、こうした長期観察の過程で、新旧二つのギリシアをどう統一的につかむか、という方法上の問題も解決されてゆくだろう。いずれにしても「クレタの壷」は、単に眼を楽しませるだけの代物ではなさそうだ。

 

ーー1962・2・1ーー

          

 

 

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