既成仏教の「教義」と「寺院・僧団」の構造再編成への提言
−現代人の精神的動向を予見しつつ−
中 野 東 禅 (駒沢大学講師・曹洞宗教化研修所講師兼主事)
はじめに
お招きをいただきましてありがとうございます。最近、特に日蓮宗の皆さんと親しくさせていただいておりまして、布教研修所にお招きをいただいたりして、日蓮宗についてだんだんと知ってきたわけでございます。こういう中央教化研究会議そのほかの施策については、だいぶ以前から現宗研の方々から伺っておりまして、本当によく頑張っていらっしゃるので、曹洞宗としては皆さんのご努力を真似なければいけないと思うのですが、曹洞宗の方は一向にそういう活力が出てまいりません。今回、初めて中央教研会議を目の当たりにいたしまして、また、例年出されていらっしゃる『紀要』を拝見いたしましても、これが活力の一つの確かめになっているのだなと感じます。本当に尊いことだと思います。
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さて、お手元に私の問題提起の資料を差し上げてありますが、「現代の教化を問う」という形で議論をしたいというお話を伺いまして、現代の教化と言ったときに、旧教団の側からいきますと、基本的に大きな問題は構造を支える基盤の問題だと思いまして、「既成仏教の『教義』と『寺院・僧団』の構造再編成ヘの提言」という題名を出しておいたわけです。
今、大村先生のお話では、宝塚へお寺を移動されたということでございましたが、私も自分の個人的な立場を申し上げておかなければいけないと思います。私は大学を終わって今の研究所に入りましたが、その当時から僧侶抜きの仏教はあり得ないということで、その重要性は感じておりました。しかし、今の寺院のあり方については欠陥だらけであって、この矛盾に耐え切れないというのが私の出発点で、今でもそれは変わっておりません。ですから、私の立場は、今の教団仏教、特に僧団仏教、僧・俗の仏教というものの必要性は否定できないと思っております。しかし、それを支える基盤については大いに批判すべきであるという立場で、今まで研究と活動をしてまいりました。結局、寺院の機能があまりにも不統一で、長い歴史の間に、特に経済成長によって寺院や僧侶の機能が非常にアンバランスになってしまったということが、現在のまず出発点にあると思います。
例えば、今、私が携わっております問題で、ターミナルケアの問題、ホスピスの問題、グリーフワークの問題にいたしましても、すぐに仏教が役に立つと言うことをおっしゃるお医者さんもいるし、僧侶もいるのです。今、大村先生は「鎮めの文化」というすばらしいことをご指摘でございますが、仏教の持っている鎮めの役割、思想が、実際には人々にどう伝わるかといったら、共感する場所が切れてしまっているし、お坊さんくさいのが押し売り意識で出られて来て、まことに迷惑するというのが現場でございます。そういうことがございますので、実は、仏教の持っている機能が生かされないようなことを、我々がバラバラにつくってきてしまったというのが実感でございます。
おとといの夜のNHKのニュースをごらんになった方もいると思いますが、仏教大学のターミナルケアの講座がございまして、ことし十名近い受講生がおりますが、あれなんかも思い切って仏教大学が始められたわけでございます。しかし、お医者さんたちから言ったら、とにかくそういう形で始めていただいて、少しでも医療の現場とかみ合う方をどうぞつくってくださいという意味では期待はされていますけれども、お坊さんならみんな死の問題についてはプロだというような思い上がった形の方には、患者も家族も看護婦さんも医者も、冗談じゃないということになりますから、そういう意味で、私は今の寺院の機能はバラバラであるということが、まず出発点であります。
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そこで、宗教教団の宗教的生命力をもう一度振り返ってみたいと思うわけです。日蓮宗の祈祷的な、あるいは江戸時代からある一代法華のような系統の活動がある。曹洞宗はそういう点では檀信徒を教化しない宗派です。日蓮宗さんのことはよくわからないので、いろいろ日蓮宗の皆さんから教わって、こういうところに参加して、少しずつ耳学問している程度でございます。
資料に、次のような表を書いておきました。大村先生も中野毅先生も宗教学の立場ですが、私は教化という現場の立場でございますので、学問的な論証抜きでやっています。
まず今まで日本仏教が背負ってきた宗教的な代表的なものを、「T教義」「U生き方の解決」「V現世利益」「W命の落ちつき」の四つに分けてみますと、宗教的な場が、教義は代表的にはかつての檀林(禅宗ですと叢林と言います)それから今の大学です。
生き方の解決は、恐らくかつての講、現在も講という形であると思います。現世利益は祈祷、命の落ちつきは葬祭という形になっていると思います。
それを支える集団は、教義のほうは修行や僧団的なコミュニティです。ですから、僧侶の組合としてのほうが強いと思います。人生論的コミュニティというのは講などです。現世利益的な祈祷のほうは、師檀的な、先生との関係です。命の落ちつきの葬祭のほうは、ムラ的、イエ的なコミュニティ、いわゆる寺檀的なコミュニティのほうにいくと思います。
ニーズは、教義のほうには発心、自覚に基づくところの救いの探求という方向。生き方の解決の講のほうは、現代人的な孤独な群衆的なところから出発したり、さまざまな人生の悩みということで、これは仲間を求めますから、その下の欄の宗教集団の形としては、仲間のほう、信者の自主性という方向へいきます。
こういうところでは、僧侶はむしろ共感できない人になっていきますから、私は日蓮宗の江戸時代の一代法華が明治、大正から講という形で、霊友会や立正佼成会のほうへ行ったのは当然の帰結で、僧のような宗教者を必要としなくなる。もともと仲間であった範囲。患者や家族の立場からいったら、お坊さんというのはやっぱり異質なんですね。ところが、その坊さんが同じ病人となって、痛みを持った者となったら、みんな相談したくなる。衣を着て役割で来た坊さんには用はない。生き方を求める側の特徴は、そういうところにあると思います。ですから、これは分化していく。日蓮宗なり各宗派とも、会・講に分化して、特に日蓮宗系の新興宗教の方々は、これを背負ってくださったと思います。
現世利益のほうは、貧病争の解決ですが、師檀的関係で、特殊な能力を持っている非常に個性の強い先生を中心とする仲間づくりになっていきます。恐らく現在の新々宗教のほうが案外これを背負っていっているのではないかとも思えます。というのは、この間、吉本隆明さんの新々宗教のことについての講演の記録が新聞に載っておりまして、それを読んでいて思ったのですが、立正佼成会、霊友会といった戦後の新宗教の系統は、生活がよくなるということを大きな柱にしておりました。旧仏教のほうでは煩悩として否定してきたほうです。もちろん江戸時代の旧仏教のつくった勤労の倫理というものもありますが、基本構造としては空になるほうでございますから、煩悩として重視してこなかったし、究極にいけば否定されるべきものです。ところが、それが奥歯に物がはさまったように、お坊さんも含めてみんな生活を求めているけれども、表向きは、それは抑圧されていたわけです。その抑圧された部分の生活がよくなるという願望を真正面に持ってきたのが、戦後の新宗教の動きである。そこには、今、大村先生がおっしゃったような「頑張リズム」的な非常に禁欲的なものがあると言われているわけです。ところが一方で、昭和四十五年以降の霊を中心とする新々宗教は、霊ということと、もう一つは幸せということを言います。その幸せは個人主義です。個人主義と言っても、他人を蹴飛ばすような個人主義ではなくて、個人の感情、個人の感覚というものです。
旧仏教は悟りという真理を追求いたしますから、個人的な経験、個人的な感覚というものは否定されるわけです。なるべく個人を捨てて真理に向かっていこうとします。その抑圧された個人を全面に解放したのが、新々宗教の霊という考え方の中にあるのではないか。
そう考えると、今までは旧仏教が主体になっていたと我々は思っていましたけれども、江戸時代を見ると、必ずしも旧仏教が主体ではないのです。ええじゃないか運動であるとか、あるいは心学運動を見ても、いつでも仏教の足りない部分を補う民衆宗教というか民衆運動はあったわけです。そういう意味では、我々の出発点に対する認識がまだまだ甘いわけです。一応、一般論で言えば、仏教に何もかも役割があるということで出発しているけれども、実はそうではなくて、そういう役割はどんどん分化していっているのではないかと見られるわけです。
ところが、どういうわけか、これだけ戒名料だ何だかんだと批判されながら、葬式仏教だけはますますエスカレートしていく。仏教を批判して自分は仏教徒だと思っていない人でも、お葬式になると戒名を欲しがるわけです。それを我々は承知でもって、それを旧仏教の役割として利用して稼いでいる。こういう状況が続いているわけです。そこにはどういうわけか形式化と独占化という形があって、それも少しずつ崩れる傾向はあっても、基本的には崩れておりません。
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こういうようなことを考えますと、宗教の住み分けがますます進んでいるのではないか。その中で旧仏教の弊害は何かというと、出発点が釈尊仏教であり、日蓮仏教である、つまりセクトです。宗教社会学で言えば、セクトの仏教を出発点としながら、生まれついたら何々寺の檀家というような無自覚な、命の落ちつきどころには答えはあるけれども、心のほうをまとめることができない。自覚の宗教を出発点としながら、無自覚の宗教に乗っかっている。この矛盾をどうすることもできない。それが現代化の前で我々がつかみ切れていない理由だろうと思います。
私が学生時分、昭和三十年代ですが、日本は左傾化するかどうか宗教の立場から調査しろというアメリカ政府の委託を受けた学者が、日本に宗教の調査に来たという記事が『朝日ジャーナル』に出ていました。その学者は、まずハワイで半年間、日本語の勉強をして、日本に半年か一年間滞在して研究し、アメリカ政府に報告をしたそうです。彼はまず日本の資産の中に占める宗教資産を調べたそうです。もちろん新興宗教の資産も調べました。宗教の資産と言っても、国宝の本尊様もあるわけで、それをどういうふうに評価したか知りませんが、結論的に日本は絶対左傾化しないというわけです。旧仏教も新宗教も仏教で、神道系は大局から見れば右翼みたいなものですから、そういう意味では、資産の上から言っても人々の行動から言っても、結局、全部右派であると。今は、右派と左派という考え方はソ連が解体してから通用しませんが、そういう報告をしているわけです。その記事を読んで、なるほど人間を見るときに、こういうふうに見ていく方法があるのかと、ショックを受けました。
結局、新宗教、新々宗教、旧教団と言ってみても、人間の精神のあり方について大局から見たら、みんな役割を背負って、同じ土俵の中で私たちは次の世代に向かって人間をどう見ていくのかという見方も一方になければいけないと、私は思います。
そこで、資料の「提言」をごらんいただきたいと思います。
1)、二十一世紀へ向かっての宗教の予見
宗教の人間中心化(世俗化)はますます進み、(世界宗教は人間を超えるもの)
宇宙観の内心化も進み、(真理の宇宙観を社会全体に実現していた)
救いの部分化が進む。(人生まるごとの救いから、救いの使い分けへ)
と書いてあります。
宗教の人間中心化はどんどん進んでいます。新々宗教の創価学会、立正佼成会、霊友会がかなり生活中心を言いました。その次に真光教、阿含宗、原理運動がでる。ところが、我々の旧教団のほうは人間中心ではないかと思うと、浄土真宗は昔、ファミリーエゴと言ったことがあるように思いますが、子供が病気であるとか受験であるというときに、お墓へ行って、「おじいちゃん、守ってやってください」という形で、ご先祖様が神様になっていきます。そうすると、旧教団だって昔から人間中心をやっているわけです。しかし、坊さんと在家という二重構造があるから、一見、世俗化でないような顔をしておりました。ところが、どんどん世俗化が進んでいたわけです。
次に、宇宙観の内心化が進みます。これは旧仏教で言う内心化ではなくて、特に阿含宗で言うような瞑想によって神と共感したという形で、個人的な感覚レベルでの神との一体、神を自分のほうに近づけて、感覚でもって把握できる神様という意味です。
その場合に考えられるのは、旧教団の教義、特に禅宗の場合、道元禅師の教えでは、労働なら労働のところで空、つまり仏になる。便所に入って尻を拭いておろうと、飯を食っておろうと、風呂に入っておろうと、坐禅をしているときも同じであると見るわけです。今ここで私が仏の真実である空を実現していくと言うと、普遍真理と個人的な体験が、そこでもって教義的にははっきり一致しておりますから、やっぱり個人主義なんです。ところが、その個人主義はいつでも空・仏にダブッていくのが旧教団の教義です。ですから、普遍的真理と個人的な感情、感覚を一致させようとするのが旧教団の教学だと思います。
ところが、新々宗教においては、宇宙構造を説明したりしますが、自分の感覚、感情でとらえたところを神と言います。神というのは霊です。これは西山茂先生がおっしゃる日本人の霊の「着せかえ人形論」を見ても、霊というのは病気を治したり幸せにするという人間の価値観をいつでも中心に据えていますから、要するに人間中心主義なんです。そういう人間中心、感覚中心主義の宗教がますます進んでいくという意味です。
だから、旧教団のように、真理に向かって個人を合わせていくというようなものは歓迎されなくなってきている。一見、構造は似ていますが、実は、そこでもって人間が味わうものは全く違ってくる。我々僧侶の側は、僧侶であるがゆえに、建前上はそこのところは絶対に踏み越えないでいようとしているわけです。それを踏み越えてしまうと、霊感商法になっていくわけです。ここのところが、私は儀礼仏教としての(儀礼というのは単なる儀礼ではありませんで、そこに哲学、宇宙観が含まれていますが)僧侶仏教の踏みとどまるべきところがあると思います。これが僧侶と在家という二重構造をいただく教団の重要な点だろうと思います。そうすると救いの部分化が進んでいきます。旧仏教は人生まるごとの救いでございます。ところが、適度に救いというものを自分の感情の中で理解していくという救いの使い分けという形になっていくと思います。それに対して、あらゆる人間存在そのものが仏のお命である、法華経のお命であるという形になるわけで、構造的には似ていますが、人間の実感や欲求という点からすると、かなりかけ離れている。それを成り立たせるものは何だということが、現代における旧教団側の答えの重要な点だと思います。それを実現する場を、ターミナルケアというところに求めていったりすることができるわけです。ところが、私のように、そういう方面でお医者さんと協力し研究している立場から言うと、どうしても今の葬祭仏教をやっている限り、長所は即欠点でございます。葬祭仏教というのはまさに「鎮め」の重要な役割でございますから、特にグリーフワークではこれから非常に重要になってきます。しかし、それゆえにその限界、欠点があります。長所は欠点でございます。幾ら理論や働く場所を探してもダメです。
その限界は何かというと、人間の問題です。ほとんどのお寺さんは忙し過ぎて、お坊さんは疲れ切っている。特に私みたいに教育に携わっている者ははっきり感じます。働くお坊さんはみんな疲れ切っています。マンパワーが足りない。ですから、奥さんが病気でもしたら途端にお寺の活動も停止していきます。信者がその中間を補佐できない。そこで、提言の2〜4です。
2)、信者パワーの活性化
3)、信者の参加と運営権の開放
4)、宗教的コミュニティの活性化
信者パワーをどう活性化していくか。そして、信者の参加と運営化です。だったら、新宗教がやってきたではないかと言うかもしれませんが、構造が違いますから、新宗教のようにやったら、すぐにお寺はつぶれます。お坊さんは批判されるし、トラブルが起こります。ですから壊れてしまいます。昭和27年に宗教法人法の制定のときに、住職が代表権を持つという形で、すべてを持つようにしたのは、それをはっきりと知っていたからです。これは井上先生がおっしゃっていました。例えば、かつてお寺の財産を檀家の総代さんたちが食いつぶしてしまったということがあったから、会計の権限を僧侶に持たせたわけです。それが今、逆に出ているわけです。お坊さんの独占化が始まって全く裏目に出ているわけです。信者さんたちがみんな「おれたちは知らないよ」と。大きなお寺さんはいざ知らず、一般的なお寺では信者さんたちはお寺に責任を持っていません。特に活動に関しては責任を持っていません。
そういう意味では、適度に信者の参加をどうするか、僧侶の周辺部分の人材をどう活性化するかということで、宗教的コミュニティをつくり直さなければいけない。今、コミュニティになっていないと思います。特に檀家制度、お葬式中心のお寺さんはそうです。
この2〜4の土台と結びついて、提言の5、6が成り立つわけです。
5)、法華教学と現実的欲求とをつなぐ生命論・宇宙論的・教化論的教学の構築。
6)、「僧」の必要性は「法」の維持と「儀礼の執行力」にある。
観念としての方向づけを幾ら模索しても、ナンセンスだと私は思います。現場の経済基盤や人間の問題、宗教施設、宗教資本がどう活性化をして動いていくか。人がどう動くかという問題と理念とが同時でなかったら、全然意味を持たないと私は思います。そういう意味では、制度的な面と寺院の現場の面、そして教えの面を同時につくっていくという努力をしなければ、いつまでたっても議論で終わってしまうと思います。
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とにかく我々の周りにはいろんな問題があって、僧侶仏教だけでは対応できない問題がたくさんあります。ところが、在家信者はせいぜい講習会でお医者さんに講師で来ていただいて話を聞くという程度の参加では、どうにもならない。もちろん浄土真宗さんでは宗会議員に在家の信者さんもいらっしゃるわけで、そういう意味では少しずつ構造が違うわけですが、基本的には僧侶主導型の限界をどう超えるかという、構造との関係を我々ははっきり意識して、葬祭仏教、祈祷仏教の持っている面の限界を、どう長所に変えていけるのかということが、はっきり言って「現代の教化を問う」一番の根幹だと思います。それに乗っけてターミナルケア等を議論していただいたら、そこで初めて実現可能な仏教の試みとして、お医者さんや看護婦さんたちの協力者もふえてくる。今は実現可能性がない内輪での議論ではないかと思っております。
以上で問題提起を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)
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死者のまつり |
宗教集団の形 |
僧団の関係 |
会・講関係 信者の自主性 主体性重視 |
師檀関係 先生の主導 (個性) 指導者の必要 |
寺檀関係 僧侶の主導 (無個性) 儀礼中心 |