平成五年五月三日  

 

大石寺法門研究会発会式の祝辞  

 

茲に五月三日大勢の自然に盛り上がった中で大石寺法門の研究の会が催されることは誠にお目出度い限りであると存じます。

昔、日寛上人の頃には信者が集まって開目抄の講義が行われていたようで、文底秘沈の語に至りこれを子細に解明するのが目的で六巻抄の編集を思い立たれた事は序文の示すごとくであり、その後今に至るまで察(さっ)せよと読みとったために、これを察(つまびらか)にすることが出来なかったようで、これを切り開く目もなかったようで、この文字は古訓古事記によってこれを読めば、六巻抄を更に究明せよと命じられているようであり、そこに今日の課題もあるのではないかと思われます。 この文字は老荘などでは先に只記した如くに読むようになっているようで、それが途中で只、察(さっ)せよと読んでいたために深く追求されることもなく、今日に至ったのではないかとおもわれます。

今度談所で出した保田要師の開目抄の講義によれは常に身延側から追求されていた文底秘沈の読みは御開山の読みではないかと記されている。六巻抄もそのような考えの中での追求が必要なのではないかと考えられます。そこに行くべき道があるのではないでしょうか。さてその語意がどこから引き出されたものか、これを知ることが最も肝要ではないかと思われます。

御承知の如く、大石寺では元来仏法という語が使われて居り、今は長い間の他の影響下で次第に仏教の中に差し置かれるようになって、仏法の語が次第に死語化してその真実を発揮する日がなくなっているのが実状である。そこで今こそ仏教から抜け出て、本来の仏法に立ち帰るべき時を迎えて、この様に皆さんの立ち上がりの中で今日の好き日を迎えることが出来たことを、心からおよろこび申し上げたいと存じます。それは全く皆さんの自然に盛り上がった力であり、そこに本来のものが含まれている筈ではないかと思われます。その力こそ宗開三以来の伝統的なそのものの盛り上がりではないかと思われます。それが本来として内在する潜在力であり、即ち六巻抄ではいうまでもなく、その内秘する仏法の力を期待されているのではないかと思われます。それを富士の大地の底に内在する文底秘沈の力、即ちそれを御開山は一言に文底秘沈と申されたのではないかと確信するものであります。

昔から富士の山においては「神竜棲み老ゆ洞中の渕」といわれて常々神竜を確認されております。その僧侶は古くから薄墨の衣に身を固めて当家三衣抄のごとく竜得一縷の袈裟に身を固められているようですが、今はその意も案外忘れられたのではないでしょうか。それでは折角薄墨の袈裟をかけながら何の意味もないことである。その袈裟を掛けることによって自らも天竜の一分であるとの自覚を呼び起こしてもらいたいものである。そのために本来の仏法に立ち帰る必要が求められているように思われます。願わくば、今日の好き日をその日のために使ってもらいたいと思います。

富士宮市にも浅間様がお祀りしてあり、浅間は本来の富士の天竜の擔当する処となっているのではないでしょうか。そのために富士川が在り天竜川もあるようで、そこは常に天竜の通路になっているのではないでしょうか。それをも共に興師は富士北山の地を選定されたものと思われます。富士の大地の底はその天竜によって占められているものと思われます。それを身に付けている皆様方の上にこそ大いに意義のあるものと思われます。

御開山以来の御先師方も常に今日のごとき日を待ちわびていられたのではないでしょうか。吾々も亦これを神竜の出現と考えたいと思います。そこに大きな天命があるものと思われます。既に大地の底ではその神竜の鳴動も始まっているということのようです。一日も早く眠りをさまし眼をさまして神竜をお迎え願いたいものである。竜得一縷あれば即時に天竜の威力を発揮出来る人等である。宜しくその独りを慎んでもらいたいものである。そこには大いなる自覚を求めたいものである。そのために薄墨色の袈裟を指定されているのである。神竜とは神であり仏の資格を具しているものである。飽くまで袈裟に恥じないような処に身をおいてもらいたいものである。あくまで竜得一縷の袈裟に恥じないようにしてもらいたいものである。上代の諸師はあくまで後来の弟子をそこまで信頼をされているのである。そこにあるのは只師弟関係のきびしさのみということのようである。そのきびしさの堪える資格のない吾らは横合いからお手伝いが出来るのみである。

興師は大地の底の天竜の神徳を大きく受けとめていられたようである。上代の方々の制定はきびしいのではなかろうか。そこに本来の修行もあり得るもののようである。師弟相寄って厳密に守り続けられたいものである。宗祖が身を底下に下ろされる処はそこに天竜のごときものがほの見えるようである。それを御開山は感得されたのではなかろうか。その天竜を師弟相寄って護持している所に仏法の真髄があるということではなかろうか。そこから滲み出ている処に仏法の真髄があるとくことではなかろうか。そこに成り立っている処に仏法本来の姿があるということではなかろうか。神竜の眷属である自覚を持ち続けてもらいたいものである。富士の仏法はいうもでもなく、あくまで竜得一縷の処から発っているようで根元は今にきびしく伝持されているようにおもわれる。大いに受持のきびしさを求められているようである。

六巻抄はあくまで本来の仏法を求めることを目標とされて書き上げられたようである。最も斥われているのは京なめりのようであるが今は仏教という名のもとに次第にその方向に進みつつあるのではないかと思う。今の最大の課題は仏教から本来の仏法に如何にして立ち帰るかという処にあるようである。これはまことに容易ならざる大事業である。ウラボン経の流布から本来の法花の流布に立ち帰ってもらいたいものである。

聞く処によれば「桜の花切る」ということもあるが、これはやま台()の国の吉野(きの)がりであり、やまと人(びと)の魂魄の所在を示すものである。今でも大和魂を桜にたとえることもあるように思うが、「吉()」とは魂魄であり己心そのものである。「吉()の」が「鬼の」と変じてわかりにくくなっているようである。肥後の国の「きのがり」も岡山の「鬼の城」も分かりにくいものの一つである。吉備津神社でいう浦とは魂魄を指しているように思われる。ウラも鬼も共に魂魄である。解釈の中でこのように変化していくのである。「やまだい」も「やまと」と読めば分りやすいのではなかろうか。「と」とは雨が降っても水分もすぐに流れ去る住みよいところを指しているのではなかろうか。大和とはそのような理想地であったように思われる。

今回の大雨では流れこんだ濁水で明星池は濁りきったのではなかろうか。池も亦、濁流に押しつぶされたかもしれない。いささか気掛かりな処ではある。明星池は濁水の処理場ではない処が妙である。

富士の大地の底に抱かれる神竜の怒りを買わないようにしてもらいたい。既に神竜は怒りを発さんとしているように見受けられる。その御心を怒りに導かないようにしてもらいたいものである。如何にして神竜の御心をとらえるか、それが今差しあたっての大仕事ではないかと思う。その秘法を示されているのが六巻抄なのである。そこでまず排除を命じられているのが台密の一念三千法門を切りすてて本来の己心の一念三千法門に立ち帰ることを求められているようである。そして一切の我欲をすてて無欲の処の根を下すことを求められている。我欲は一切を破壊するようになるかもしれない。神竜の下に一切をすてて結集してもらいたいと思う。そこに今の行く手があるのではなかろうか。今の現実は一切の欲望から手を引くことを明示されている如くである。そこにあるのが富士の清流なのではなかろうか。そこに始めて衆生は喜々としてたわむれることができるのである。そこに霊山浄土・己心の浄土を目指してもらいたいと思う。

如何にして己心の仏国土を建立するか、それが差し当たっての課題なのではなかろうか。そこに師弟相寄って具現する浄土こそ現世の霊山なのではなかろうか。これこそ生き乍らの現世の浄土なのである。その浄土とは生前の浄土である。それは云うまでもなく丑寅の浄土のようである。常にその浄土を求めているのが富士の仏法ということではなかろうか。これは一刻たりとも休止することは許されないきびしさを持って動いているように思われる。それをまとめられているのが宗祖の己心の一念三千法門を求められている一念三千法門出処勘文ではないかと思われる。これこそ天台浄土の秘曲を集められている如くである。これは千年以前、京の白川の地において求め集められたもののようである。それは五十年以前未だ未解読であった。それを出版した処に日達上人の夢があったのではないかと思う。それらは安楽行品の三法、三秘の夢の中に秘められているように思う。それを開拓するためにまず必要なのが止観第五に説く己心の一念三千法門なのである。それは本尊抄の御引用の如くである。その再確認を求められているのが六巻抄なのではなかろうか。そこに課題は明了に示されているのである。それをまとめられているのが己心の上に説き出されている己心の一念三千法門なのである。そこに示されているのが文底秘沈の大法である処の仏法ということなのではなかろうか。それらの結論はすべて当家三衣抄の処にとりまとめられているようで、そこに富士の精髄は秘められているのではないかと思う。それはいまだに秘められたままの如くである。おおいに開拓してもらいたいと思う。その方法を秘めているのが開目抄ということなのではなかろうか、いま漸くその兆しがほの見え始めたように思われる。そこに必要なのが師弟一ケの努力なのではなかろうか。その方法を秘められているのが六巻抄ではないかと思う。そこに必要なのが師弟子の法門なのではなかろうか。

もって大石寺法門研究会の発足式の御祝詞を申し上げること期の如くであります。よろしくお願い申し上げます。右、今日の為に御祝詞のみである。そこから新しい道を開拓してもらいたいと思う。そこでは私心我心を除くことを求められている如くである。

謹んで御祝詞申し上げます。

 

                   川    澄

 

大石寺法門研究会発足式の皆様へ                         

大いに神竜の跡を追うてもらいたいものである。

以上については後日さらに詳したいものと考えていることを申し上げたいとおもう。

 

 

 

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