平成の摂折論争 その後の展開

 

「教化情報」編集部

 

この論争の意義とは何か

 

平成の摂折論争。
 この名前が適切かどうかは別として、今成元昭先生が提起して巻き起こった教学論争は、まさしく平成に立教開宗七五〇年を迎えた日蓮宗にとつて、一宗を挙げて論議すべき問題となったことは間違いない。その後、編集部にも前号の反響が幾つか寄せられ、他のメディアでもこの問題を取り上げている言説が目立つようになった。
 なぜこの論争がそれほどに重要なのか。宗門内にはこの論争を「今成問題」などといって、今成先生個人に帰して済んでしまう問題にすぎないと、トンデモナイ勘違いをしている人もいるようなので、この論争の意義をはじめに説明する必要があるようだ。
 この摂折論争は宗門にとって、戦後五十七年問も曖昧にしてきた問題に決着をつけ、近代日蓮宗百年問にわたる教学論争の帰趨を定めるための絶好の機会となる論議なのである。それがちょうど立教開宗七五〇年に興ったという意味を、真剣に受け止めなければならないだろう、
 ではその平成の摂折論争がもつ意義とは何か、ザッと宗門の近代史を振り返って説明しよう。

 周知のように、明治七年から始まる近代日蓮宗は、充洽(本当はニス)園で学んだ新居日薩管長の下で優陀那院日輝の教学を教育の根幹にそえてスタートする。
 優陀那院教学は「立正安国論は当時既に其の用を為さず。今世に至って全く其の立論の無実を見る」(庚戌雑答)と述べているように、折伏中心の布教法を時期不相応として否定して、寛容な摂受主義をもって社会との融和を計ろうとした。いわば明治の文明開化時には相応しい、現実重視の摂受教学だった。
 この優陀那院教学を学んで、後に摂折観の違いで徹底的な批判者となるのが、明治八年に日蓮宗大教院へ入学した田中智学である。
 智学は、父親が折伏的な法華信仰をもつ江戸講中の寿講の先達だったため、はじめから教科書(「弘教要義」)の摂受主義に違和感を感じ、後に独学により宗祖の折伏主義を確信してからは宗門を離れ、やがて「日蓮主義」という言葉を創り出して、折伏中心の教学を組織することになる。
 智学の日蓮主義の主張は、急速な富国強兵・殖産典業の近代化を遂げる明治後期の日本の状況に適合して、その折伏主義は大日本帝国の侵略主義とも重なり、また国体論としても整備されていく。智学の教学は、その旺盛な活動によって日蓮門下全体に広まり、日蓮主義という言葉はやがて一般名詞となり、摂受主義だった日蓮宗もその影響力を全面的に受け人れていくことになった。
 昭和三年、日蓮宗宗務院は月刊『日蓮主義』を創刊するが、その二号の管長法話に「畢竟宗門の此雑誌を発行したのも弘通本位の宗是を復活したのである」とあって、摂受主義からの転換をはかって折伏的な広宣流布に乗り出すことが宣言されている。
 その雑誌内容をみると、田中智学の新作戯曲が連載されており、聖訓解説では「吾宗の教徒たるものは、大上人立正安国の御主張を心として、自らの信念を此に据え」と述べ、編者の言葉に「すべてを法華経化するのです。
そのための宗旨です、宗門です、僧侶です、信者です、その真面目本領を、正直に世に示さう為の本誌です」とあるなど、智学の影響は顕著であり、明らかに日蓮宗は智学の折伏主義に帰したのである。
 しかし敗戦を迎えると一転して、田中智学の折伏主義は天皇中心の国家主義として、戦争を推進した思想的戦犯として断罪されるに至る。

 この時、日蓮宗は影響を受けた田中智学の教学を批判的に再検討することなく戦犯の名の下に断罪して済ませ、立正安国を立正平和と言い換えることで国家主義的なイメージを払拭して、戦後の民主主義の時代に適応しようとしたのである。「立正平和」というスローガンが摂受主義の表明であることはいうまでもない。その時点で日蓮宗での折伏主義は「日蓮主義」という、言葉と共に、表立っては封印されたといえるだろう。
 一方、戦後に田中智学の折伏主義を取り込んだのは創価学会だった。創価学会は、戦中に弾圧を受けたという反戦イメージを最大限に活かし、戦後民主主義の信教の自由を折伏主義に接続して侵略的布教を展開し、これを智学経由の国立戒壇を目標化すろことで抑圧されたナショナリズムを吸い上げる機能を果たしながら肥大化していった。
 戦後の日蓮宗の摂折論議は、ようするに創価学会の折伏大行進に反応する形で論じられてきたのであり、自らの歴史を省みることで議論を深めるという機会がなかつた。曖昧なまま、教化の場では摂受で教学的には折伏と、一貫性のない状態で今日までいたっている。
 その点で比べると、興風談所は「なぜ興門教学から創価学会のような暴力的折伏をする団体が生まれてしまったのか」という自らの大疑門に答えるべく大石寺を離れて研鑚に励んだすえ「創価学会は涅槃経の折伏のみ、しかし日蓮聖人は不軽品の折伏」と結論づけたが、そのような真剣な摂折論研究が日蓮宗ではこれまで為されて来なかったのである。
 その創価学会も現在では既に成長も止まり、政権の一角に食い込んだ現状を維持するための融和策に転じて、摂受主義を打ち出そうとしている。すでに戦後の一国平和主義も冷戦構造の終焉で無効となり、「立正平和」という言葉は、世界各地で宗教がらみの地域紛争が続く中で、虚しく響くしかない現状である。アメリカの凋落も始まって、いまは世界的な秩序の混迷期にあり、さらなる混迷を乗り切って新たな世界秩序を創り上げる準備が進めらねばならない状況に入っているといえるだろう。
 こうした経緯と状況の中で、今成先生が、いわば平成の優陀那院として、「日蓮聖人の本懐は摂受であり、宗門は摂受教学を根幹とすべし」という提起をされたのである。上述の通り、近代日蓮宗において摂折観の違いが教団の方針に決定的な役割を果たしてきたため、その提起の意義は予想以上に大きいと思う。
 教学的には、明治以来の優陀那院教学と田中智学教学の対立の最終的な決着をはらみ、教化的には、戦後以来の教化と教学の分裂状況を正して、新時代を乗り切るための宗門の教育と布教方針を確定する絶好の機会となるはずである。
 なぜ宗門は今までこうした問題を放置してきたのか、また、なぜ今こうした問題を解決する機会が訪れているのにこの論争を無視しようとするのか。宗門の研究諸機関の怠慢と、教育・布教関係者の鈍感は責められてもしかたがないのではないだろうか。
 この問題は、一教化センターの情報誌で経過報告がされて済む問題ではないし、中心的に論じる場としても、不適当だと自認している。一メディアとして最大限の努力はしていくつもりだが、問題と課題が大きすぎる。しかし、大きいからといって避けて通ることはできない。宗門の未来が懸かっているからだ。
 この摂折論争に決着をつけていくのは、教学関係者の責任だと思う。各研究機関と研究者がこの論争に加わり、各メディアが取り上げて、宗門的な論議を興すことをお願いしたい。
 特に、今成先生が勧学職であるにも関わらず、勧学院でこの問題が論じられていないのは不可解でしかない。早急に、教学の最高機閑としての義務を果たして頂く事を強くお願いして、本題の経過報告に移ることにしたい。

 

 

摂折論争の反響

 教化情報第十号、十一号での摂折論議の記事にたいして、幾つかご意見ご感想が事務局に寄せられた。寄稿のかたちでは前号で御意見を掲載した松山市の清水直之氏、顕本法華宗の土屋信裕師、また浄妙全書刊行会の廣田龍五郎氏からは電話ならびに書簡にて貴重な御意見を再三にわたり頂戴している。
 また、日本国体学会の機関誌『立正』において「摂折論特集」を組むために前号に掲載した大賀義明氏の論考の転載許可を求める連絡が入ったことも反響の一つといえるだろう。そのほかに長谷川正浩師が、ご自身の法律事務所の『所報』において数回にわたり今成先生の所説に賛意を表してその重要性を指摘しているのが注目に値する。また名古屋の伊藤弘冶氏が、『大海』第六七号において今成所説への反論を展開しているのも見逃せないだろう。
 こうした賛否両論について、その概要を報告していきたいが、その前に、今成先生からも、前号の大賀義明氏の寄稿論考に対して、論点をしぼっての反論が寄せられているので報告しておこう。
 大賀氏の論考には、それまでの議論を一歩進めたといえる論証があって、それは、日蓮聖人が不経品を折伏と捉えていた文証として、撰時抄の冒頭近くの一節を挙げて、従来の「涅槃経の折伏」から「法華経の折伏」へと宗祖の折伏観が転換していることを指摘しているところである(『教化情報』第十一号三四頁参照)。
 大賀氏は、引用の撰時抄の箇所では摂受・折伏の語こそ見えないが、「天台云く『時に適ふのみ』。章安云く『取捨宜きを得て一向にすべからず』等云々。釈の心は、或時は謗じぬべきにはしばらくとかず、或時は謗ずとも強ひて説くべし。或時は一機は信ずべくとも万機謗るべくばとくべからず、或時は万機一同に謗ずとも強ひて説くべし」(撰時抄)と宗祖が述べておられるのは摂折を論じた箇所に間違いないとして、その中で宗祖は譬喩品、法師品、安楽行品を摂受の行に、勧持品、不軽品を折伏の行に当てており、「従来の世間通途に「折伏」といわれている身業の「涅槃経の折伏」から、忍難弘経の口業正意の「法華経の折伏」への、折伏観の転換を見ることが出来ますと述べている。
 この指摘は「不軽品がなぜ折伏といえるのか」という論点に、真蹟遺文の論拠で答えたものであり、いままでの開目抄と不軽品をめぐる議論では出ていなかった論証である。しだがって今成先生が寄せられた反論もこの箇所に限って述べられている。
 今成先生の反論は以下の通りである。

 大賀氏は『教化情報』第十一号三四頁上段において「『開目抄』で摂折を論じられた際に、天台大師の「法華文句」の「適時而已(時に適ふのみ)、章安大師の『涅槃経疏』の「取捨得宜不可一向(取捨宜きを得て一向にすべからず)」、の語を以て判じられていることはご承知の通りです。この両語は摂・折の時を決択する言葉です。」と断定した上で、その断定を前提とした
を展開していますが、右の断定自体に懐疑の余地があるので、を肯定するわけにはいきません。
 前記の「適時而己」「取捨得宜不可一向」の二語は、『開目抄』の定本六〇五頁一三行目および六〇六頁二行目では『文句』および『涅槃経疏』の、摂折を論ずる文中に在るのですが、『撰時抄』の場合は、同語が独立して用いられているので、それらを摂折を論ずる語と断定するわけにはいきません。
 というのは、定本九六〇頁十四行目〜九六一頁一行目に、摂折の対比とは無関係に前記の二語が援用されている例があることによって知られます、前の部分も含めて引用すれば次の通りです。
 「雪山童子は半偈のために身を投げ、常啼菩薩は身をうり、善財童子は火に入り、楽法梵士は皮をはぐ、薬王菩薩は臂をやく、不軽菩薩は杖木をかうむり、師子尊者は頭をはねられ、提婆菩薩は外道にころさる。此等はいかなりける時ぞやと勘うれば、天台大師は適時而巳とかかれ、章安大師は取捨得宜不可一向としるさる。法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其行万差なるべし。」(種々御振舞御書)
 ここでの趣旨は「法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其行万差なるべし」(定本九六一頁一行目〜二行目)ということですが、日蓮聖人は、それに類する説法をよくなさるお方で、前記の二語を享受する教養にかけた対告衆には、ただ「仏になる道はときによりてしなじなにかわりて行ずべきにや」(定本九六一頁十行目)と平易な語法で教えています。ちなみに右に引用した遺文のすべての箇所に、不軽菩薩が登場していることも見逃すことは出来ません。
 その他の論難の諸件については、今後に公刊される論著を見ていただくことを原則としていきたいと思います。

 以上、今成先生は今後の論争を論著を通して継続していくとのことで、大賀氏が指摘した宗祖の「折伏観の転換」に関しては、これから本格的な論争となっていくものと思う。論点としては、宗祖の折伏観が、涅槃経に限るものなのか、不軽品に発展して涅槃経を捨てたものなのか、涅槃経も不軽品も含んだものなのかが論議されると思う。

 次に、寄せられたご奇稿ご意見について、全部を掲載するのは無理なのでお赦し頂き、幾つかの要点を択んで紹介させて頂きたい。
 顕本法華宗の土屋信裕師からの御寄縞は、日什門流懇話会で行われた研修会で同師の発表した論考で、この全丈は顕本法華宗の非公式サイト「法華行者の会」(
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/)に「摂折論に関して」の題で載っているので、そちらを参照していただくのがよいと思う。土屋師は、本尊抄と勝鬘経、開目抄、如説修行抄、真蹟五大部などの章を立てて今成説を批判しているが、最後の「摂受と折伏の関係」に、摂折妙用論ともいうべき摂折観が述べられているので、挙げさせて頂く。なおこの研修会の日付は平成一三年十二月六日である。
 「邪義多き時、正義を掲げれば、邪なるものは益々盛んに攻め立ててくるのは道理であります、これに屈せずして、正義を立てるのが折伏であります。この有り様を見て、如何なるかと問うてくる者を導くのが末法の摂受でありましょう。邪義に勢力ある時は、折伏に摂受を具足し、正義に勢力ある時は摂受に折伏を具足しているものであります。宗祖の本懐云々に、折伏・摂受に偏する差別があるのではないと理解するのは、仏教を習う者の当然のこと。宗祖の本懐は、本仏釈尊の本懐を広宣流布することのみであり、末法に仏教を護り復活させるためには、仏説によって「時」に応じて「折伏」を表としているのであります。
 願わくば、今成先生の敢えて門下の通説に異論を掲げられたことは、宗門の活性となって、宗祖の精神を門下に復活させんとする機会になることを、期待致すものであります。」

 また、松山市の清水直之氏は前号に引き続き、第十一号を読んでの感想と三点にわたっての指摘を寄稿いただいた。全部は載せられないので申し訳ないが御指摘の一点のみを要約して紹介しよう。
 その一点は、『開目抄』では「悪国が摂受、破法の国が折伏」で、『転重軽受法門』では「悪国が摂受、善国が折伏」になっていることについて、今成師が「このままいけば、悪国が摂受で、善国が折伏になつてしまうわけですね、順序からいきますと。しかし、そんなはずは無いでしょう」と述べて「この頃の日蓮聖人はまだ摂受、折伏ということはあまり気にしておられなかった」と結論した事に対しての異見で、清水氏は「善国が破法の国であり、折伏すべき国である、で良いのです」と反論している。
 清水氏は、『南條兵衛七郎殿御書』に「末法に入って二百余年、見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり」「仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみへはんべり」とあり、また『守護国家論』の「世間の善悪は眼前に在り、愚人も之を弁うべし。仏法の正邪、師の善悪に於ては、証果の聖人なお之を知らず。況や末代の凡夫に於てや」を論拠として、「善悪の分別は愚人でも知っている(善国)、しかし、仏法の邪正は聖人さえも見分け難く、人々は善だと思い込んで邪まな仏法を信じている(破法の国)、だから折伏すべきである」と解釈している。したがって日蓮聖人は「この頃摂折ということを気にしていなかった」のではなく、『守護国家論』を書いた頃からずっと摂受と折伏の問題を気にしていたのでは、と指摘している。清水氏はまた、この箇所について大賀氏が「この問題は田中智学先生が『本化摂折論』で、言葉は同じだが意味するものは違う、「名同体別」である、と結釈され、誰でもわかるように会通しておられます」と述べて、善国摂受・悪国折伏を踏襲していることについても、前述の理由から解釈の間違いであると反論している。

 また、浄妙全書刊行会の廣田龍五郎氏からは、多くの御指摘と山川智應著『法華十講』等多くの資料をお送り頂いたが、内容が多岐にわたるため、また筆者の勉強不足のため紹介しきれないことをお赦し頂きたい。ただ、この摂折論に関しては、近代に限っても田中智学、山川智應はじめ先師先哲の業績を踏まえなければ論じられないことは間違いなく、今回の摂折論争を徹底するためにも近代摂折論を時系列を辿って再検討しておく必要がある。そのためにも摂折現行段を論じた『高問答釈竝再釈』をはじめ、浄妙全書刊行会の諸刊行物は重要なテキストとなるだろう。こうした著作群に基づいた廣田氏の御見解については、後日を期して紹介できればと思う。

 さて次に本誌に寄せられた御意見以外に、散見できた限りでの反響について触れておきたい。
 まずは賛成意見から紹介しよう。
 長谷川正浩師は、昨年ご自分の事務所の『所報』に「四箇格言と全一仏教運動」を書いて、今成師の所説を仏教運動の現場の視点から取り上げ支持を表明した。その後も『所報』でこの問題を取り上げ続けて、第十号(十四年一月)では、「教学は実践である」という題で、宗門と摂折論、折伏と四箇格言、折伏主義への疑問、教学とは何か、を論じるなかで今成師の所説を説明し、実践において桎梏となっていた折伏第一主義と四箇格言を取り除き、教学と実践を結びつけることを可能にしたその意義を宣揚して、「実践に役立つ教学であれ」と、現代の問題解決のための「教学の方法論」の必要を呼びかけている。
 長谷川師の指摘する「教学と教化の分裂」という問題は、教化の現場にいる多くの教師が感じていることではないだろうか。教学と教化、この二つは本来「教えの実践」として一貫したものなのだが、はたして現状において一貫しているといえるのか、という問い糾しが今回の摂折論争には含まれている。それは、今成師の今回の提起に到った経緯にも関係している。
 今成師は、現状における一般的な評価として日蓮聖人は折伏だと言われているが本当にそうなのか、と疑うことから始めている。まず教化の現場で「折伏」についての疑問があり、その疑間を解決すべく真蹟を検証してみたら、日蓮聖人は特に「摂受」「折伏」という用語の片方を重視することなく、また使用頻度も少なく、折伏立教とはいえないという結果がでた。したがって日蓮聖人の本懐は僧の本筋である摂受であったのだから、現代の日蓮宗の教化においても他宗を破折調伏する布教法は採るべきではない、という見解を出している。
 宗門の現状をみれば、『宗義大綱』では折伏立教と教えているにも関わらず、宗是とする折伏を宗門が布教方針として展開しているとはいえないだろう。対他折伏にしろ自己折伏にしろ、現在の日蓮宗を折伏主義の教団とみるのは難しいのではないか。そのように分裂した教化と教学との首尾一貫性を、今成師の摂折観は教化の側から回復する役目を果たしているのである。
 しかし今成師の見解は別に教化の都合に合わせて御遺文を解釈した訳ではなく、真蹟を検証してみれば日蓮聖人は折伏主義ではないという結論からくるのだが、長谷川師はこの結論をより教化の現場に引き寄せて論じていて、「極端なことを言えぱ、実践に役立たないような認識などはいらない」とも述べている。
 もちろん実践とは教化であり、役立たない認識とは教学である。しかし、実践に役立たないのなら都合に合わせて御遺文を改憲してもいいといっているわけではないだろうから、問題は認識(教学)を実践(教化)にまで一貫して持っていく、いわば知行合一の誠実さだろうと思う。
 長谷川師には、ご自身の法学界での経験から、教学とは、認識の部類にとどまるものなく、価値観の実践であるべきという問題意識が強くある。それが問題解決のための「教学の方法論」の提案につながっているのだが、だからこそ恣意的な御都合主義を排して、教えが認識段階に止まらずに課題として行動化していくためにも、宗祖の真意を見出すための御遺文の厳密な読み直しが必要なのではないかと思う。
 今成師の摂折観が、今回日蓮門下に衝撃を与え得たのも、長谷川師のいう「認識の部類に属する」教学の場において、通説を破る論を立てたからであり、これは逆に、たとえ無力にみえようとも教学がいかに教化に影響を与えているかの証明ともいえる。論争はいまだ継続中であり、長谷川師にはぜひこの教学論争を価値の実践として捉えて、論議に参入して頂く事をお願いしたい。

 次に『大海』六七号(二〇〇二年二月一日)に掲載された伊藤弘治氏の反論を紹介する。この反論は「日蓮教団の現今は高祖の教義に拠っているのか
一信徒の眼より」という連載の第十六回目「茂田井教亨先生の鴻恩を偲んで@」に言及されたもので、散文形式で「変節漢の梅原猛に好かれなければ高祖を宗祖として認め難いならば」など、誤解と悪口も交えながらかなり闊達自在に述べ立てている。論点は三つほど読み取れる。
 一つは『佐渡御書』に「日蓮御房は師匠にてはおはせども余りにこわ(剛)し、我等はやわらかに法華経を弘むべしと云わんは、蛍火が日月をわらひ、蟻塚が崋山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし、わらふなるべし、南無妙法蓮華経」とあることを引き、「今成先生は高祖を自分のレベルに引き下げようとしている。この頃流行の「人間日蓮」である。」と批判している。
 二つには高祖の身延入山について、今成師が「『立正安国論』以来堅持してきたところの退くことを知らない折伏主義路線に大転換を追るものだけは確かである。そしてその路線転換がたいへんな葛藤の末に実現したものであるということも疑いない」と書き、「力およばず」「人にしのびてこれ(身延)へきたり」「このところへにげ入り侯」とか引いて、弟子・信徒をほったらかしに身延に逃げ込んだように述べているのは間違いとの批判である。高祖の身延入山は蒙古襲来に備えての一種の疎開であり、根本は弟子の育成と宗教生活の完成と論述で、身延期の「報恩抄」「撰時抄」をみても折伏的態度は不変であるとする。
 三つに、今成師ならびに長谷川正浩師の「立正安國論」観を問題にしており、「安國論」を失敗の書とした優陀那院日輝と重ね合わせて批判をしている。伊藤氏は「熟考すれば高祖の一生はこの安國の実践にあったと言えるのであって、「法華経の行者」とは、「立正安國論実践者」ということだと私は思っている。」と述べ、また「安国論」にある「能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さず皆此の善に帰せば、何なる難か並ひ起り、何なる災か競い来らん。」(昭定二二四)の箇所において、「不受不施」が提言されていると指摘している。そして「不受不施」こそが祖命であり、「折伏」の要諦であり、高祖にあっては折伏は聖諦の慈悲心の発露である、と述べている。

 以上、不充分ながら前号から以降の摂折論争の反響を報告してみたが、この論争が今成師の問題提起を発端としながらも、いかに日蓮教学全体にわたる歴史的論議を引き継いだものであるかが、感じていただけたかと思う。はじめに述べたように摂折論争は近代日蓮宗のスタート時から、優陀那院日輝・日薩教学と田中智学教学の対立軸としてあったものであり、行学二道にわたる教えの根幹に関係する対立であったため、教団のあり方そのものを変えるほどの大問題だったのである。
 それゆえに歴史的に検証すべきことも教学的に検証すべきことも数多い。
 現在の日蓮宗教学が折伏為本であるならば、優陀那院の摂受教学がどのような教学者の変遷を辿って折伏に変わっていったのか、その教学史的変遷を跡付ける必要があるだろう。すでに近代においても摂折論は先行する論議がなされており、その内容を現在の論議と比べる必要もある。
 また、摂折概念の確定のためには、涅槃経・不軽品・勝鬘経・御遺丈をめぐる文献研究の他にも、宗祖滅後の教団・教学史の流れの中で、摂折概念に関係するだろう四箇格言・国家諌暁・不受布施・勝劣・一致・謗法罪・与同罪などの概念とどう関連して来たのか、その検討も行っておく必要もあるだろう。
 それと特には、折伏大行進によって戦後の「折伏イメージ」を植えつけた創価学会を中心として、教学的背景としての富士門流教学ならびに現在の富士大石寺顕正会の折伏のあり方も再検討しなければならない。
 そうした研究・検討と平行して、今成師の提起した摂折観の現代的意昧を再吟味すると共に、戦前・戦中の侵略的折伏主義の宗門史を洗い直し、近代日蓮主義を通して国家と宗教のあり方を再考した上で、摂受にしろ折伏にしろ世界に向けて宗門が果たすべき使命を明確にして、具体的な布教方針と布教計画の下に、立教開宗七五〇年を再スタートとする誓願を立て実行していくことが、宗団としてのあるべき姿勢ではないかと思う。
 ともかくこの平成の摂折論争から導き出される課題はこのように多岐にわたり拡がっていく本質的なものだが、まずなによりも日蓮宗門としてこの摂折論争をどのように捉えるのか、勧学院ほかにおいて表明する必要があるだろう。何といっても反論や寄稿のほとんどが宗外の方々からであるという現状をまず打ち破らなければ、何も始まらないからである。

 

 

 

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