第4節 本門戒壇の思想と行動

 

 法然、親鸞、栄西、道元についで、日蓮の護国思想を本門戒壇の思想と行動に焦点を合わせ、滅後教団の趨勢をも考慮のうちに入れながら、その歴史的性格を検討するのが本節の目的である。

日蓮の護国思想に関する重要な未決の問題は、三大秘法(本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇)のなかの、本門戒壇とは何か、ということである。この問題に関する解釈の多義性のゆえに、日蓮教団は、700年末今日にいたるまで、深刻な派閥抗争の歴史を繰り返してきた。本門戒壇に関する多義的な解釈を生ずるようになつた主要原因は、日蓮がその名目だけをあげて、内容をはっきり規定しておかなかったことにある。一例として次の報恩鈔の文をあげてみょう。

  問云、天台伝教の弘通し給ざる正法ありや。答云、有り。求て云、何物乎。答云、三あり。末法のために仏留置給。迦葉

   ・阿難等、馬鳴・龍樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求云、其形貌如何。答云、一は日本乃至一閻浮

  提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。

  ニには本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閣浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華

  経と唱べし。(昭定遺1248頁)

 右の遺文でも明らかなように、本門の本尊と本門の題目についでは一応の説明がついでいるのであるが、本門の戒壇についでは名目を列挙するにとどまっている。それゆえ威後教団では、早速、その解釈をめぐって問題が発生した。

  日昭門家之法式ノ事ハ都鄙共ニシカ卜法華宗ノ様ニハ諸門徒ノ人人存セザルカ。其根本ハ叡山ノ戒壇ヲ踏ム故カト覚タ

この「伝燈鈔」の記述にして誤りがなけれぱ、滅後、土足の日昭(1221、承久2〜1323、元亨3)は、門下をして叡山の戒壇をふませていたことになる。本門の戒壇を唱えて、実際に何を意味するのか祖師の真意を捕捉しかねた門下が迷ったあげく、叡山戒壇を踏んだであろうこともじゅうぶんありうることである。しかし日蓮の教義からすれば、叡山戒壇はあくまでも迹門の戒壇であって本門の戒壇ではない。それならば、本門の戒壇は、日蓮においてどのように意義づけられていたのであるか。この問いにたいしては、ほぼ二つの答が提出できる。すなわちその第一は理壇説ともいうベきものであって、本門の本尊に向い、本門の題目を唱える当の場所を本門戒壇とする説であり、その第二は事壇説ともいうべきものであって、一国同帰のさい、国主の命によって建立せられるはずのいわゆる王仏冥合の戒壇説である。護国思想に関して重視に値するのはいうまでもなく、以上のうち第二の事壇説であるけれども、日蓮は、はたして本門戒壇を王仏冥合の戒壇、つまり国立戒壇と考えていたのであろうか。近代日蓮教団史において、日蓮の宗教を国粋主義と吻合させた田中智学(1861、文久1〜>1939、昭和14)は、本門戒壇についで次のように述べたことがある。

   本化ノ聖判ハ、三大秘法ニ究極シ、三大秘法ノ中堅ハ戒壇ニ帰ス。此義ヲ失ハバ、本尊モ意義ナク、題目モ詮ヲ亡スベ

     シ、人多ク此旨ヲ暁ラズ。戒壇ヲ以テ戒法ト混ジ、理壇ヲ以テ事壇ヲ消セソトス。既ニ本門ノ戒法ト謂ハズシテ、本門ノ

     戒壇ト云フ。立壇正意、推シテ知ルべシ°報恩鈔ニ、三秘ヲ標出スル時、本尊題目共ニ其義ヲ釈シ戒壇ハ名ヲ標スルノ

     ミ。是レ釈ヲ欠クニアラズ。壇ノー字既ニ義ヲ叙シテ余リアリ。立壇正意ナルガ故ナリ。而シテ立壇ハ必ラズ国主ノ命ニ

     依ル・・・宗風ノ振ハザル職トシテ戒壇法門ノ浅解ニ由ル。

 さらにまた田中は、戒壇を、小乗戒壇(印度発達)、大乗戒壇(支那発達)、迹門一乗戒壇(日本統一)、本門一乗戒壇(世界統一)と分類したうえで、

    国民も執政者も帝王もすべて法華に帰依した暁で、合議協定の上、『国家の宗旨』として時の天皇の勅宣によつて建てるの

    である・・・要するに日本国中悉く法華の持者となり、朝廷亦、 『この法が国体の内容』なることを認めて、王法と仏法と

    が一体になった時、世界統一の大標示として、『本門戒壇』の建設を勅命せらるる時、その時!日本国みづからが始めて

    自己の真意と正体とを認め得るのである。大日本帝国は本門戒壇の為の国なり。

 仏法を目的とし王法を手段とする点で、そこになお宗教者の俗権にたいする自尊心も示されていないことばないが、明治の思想状況のもとでは、そういう自尊心はすべて天皇制国家主義によって、換骨奪胎され、結果的には、日蓮の宗教を権力の道具に提供する以外のなにものでもありえなかった。

 田中智学に劣らず、国粋主義をもって上層階級に働きかけたのは、顕本法華宗の管長、本多日生(1867、慶応3〜1931、昭和6)である。彼は、日蓮の「立正安国論」の正意は、「安国立正論」にあるとして、故意に題号を変更するほど、国家の地位を重んじ、仏法はかえって国家目的の手段にすぎないかのごとき説を唱えた。今日では、以上のような国粋主義的戒壇論は、一見かけを潜めたが、国柱会出身の日蓮系門下のなかに依然根強く受けつがれているし、また創価学会などの主張するところによれば、広宣流布のとき国立戒壇を建て、天皇が信者になって勅使を差し向け、そこで板本尊を祀るときが必ずくる、というのである。ただ現在は、主権が天皇になく幕府もないから、議会の決議によって国立戒壇を建てるのだといい、天皇制復活をめざしているという非難を封じようとしている。政教分離をめざしてきた近代立憲国家とは全く相容れない時代錯訣の反動性をばくろしている点で、創価学会の王仏冥合論は田中、本多らの偏碕きわまる戒壇論と少しも異ならない。

 以上のごとき事壇説の政治性を除去して、宗教的に本門戒壇を解釈する例に、「身延の山は三秘体験の霊場なり。山即本尊なり。山即戒壇なり。山即題目なり。人若し本門事の三秘を知らんとせば、宗祖の棲める身延の風光に接すべし」といった身延戒壇説や、また、特定の場所に本門戒壇を建立することに反対し、本門戒壇を世界平和の実現された理想境として解釈するする独特の説もあって、たとえはそれを代表するものに、藤井日達師(1885、明治〜、)の主宰する日本山妙法寺の主張がある。

  今日の国難は原水爆であり、誘導弾であり、熱核兵器、人工衛星であるとするならば、立正安国の精神に照らして、これ

   ら凶暴なる殺人破壊の兵器を否定することが・・・実践課題である。

と藤井師はいう。

 戒壇の戒とは、三学、六波羅蜜の一つであって、消極的には防非止悪、積極的には諸善発生の根本を意味するから、それは仏教道徳を総称していたのである。次に戒壇の壇とは、戒を受持する式場のことである。このようなものとしての戒壇を、仏陀時代に接至比丘がはじめて祇園精舎に建立し、シナでは、曹魏の嘉平、正元の頃すなわち三世紀中葉、曇枸迦羅が洛陽にそれを建て、流行したのは唐代南山律宗の祖適宜(595〜667)の時代からといわれる。日本では、天平勝宝6(754)年、鑑真の来朝に当り、東大寺盧舎那仏殿の前に、同年4月、戒壇を建て、天皇・上皇など沙弥440余人が受戒したのが始まりとみなされる。東大寺戒壇は、下野薬師寺戒壇と筑前太宰府の観世音寺戒壇と合わせて、本朝三戒壇とよばれ、そこではともに四分律による授戒が行なわれた。その後、嵯峨天皇時代には最澄の遺志により、叡山に大乗戒を授ける円頓戒壇が建てられ、白河天皇時代には三井寺に三摩耶戒壇が作られた。

 日蓮における本門戒壇の思想も、右に述べた戒壇建立の歴史的背景をぬきにしては全くありえなかつたのである。とくに叡山戒壇を「法華経」迹門の戒壇として位置づけることが、それより高次の価値をもつと信ぜられた本門戒壇の前提には必要であった。ところで印度やシナのことはしばらくおき、日本の戒壇建立の歴史をみて、まず深い疑義をわれわれが覚えるのは、戒の実践を無視し、もっぱら儀式的な壇の在り方だけにとらわれてきたことである。とくに、この傾向が、 「法華経」の受持即戒を教説とする日蓮教団に甚だしかつたといえる。戒壇といいながら、戒を軽視して壇だけを重視してきたのは、日蓮系をふくめて一般に、日本仏教が倫理的でなく、呪術的であったからだろうと思われる。浄土教の興隆に伴う末法無戒思想の普及が、戒の軽視と壇の偏重におち入らせた大きな原因となったことも否定できない。日蓮の宗教も末法無戒思想の影響をこうむり、ただ「法華経」の受持のみをもって一切の戒律に代替させていたのである。しかしすでに本門の戒壇を語る限り、「法華経」の受持ということ以外にも、戒の内容を明らかにしなければ、戒壇とよぶに値しないのは当然であろう。戒法なき戒壇建設運動は、必然的に倫理性を廃棄して、皮相な政治宗教とならざるをえないのであって、この弊害をわれわれは、とくに日蓮滅後教団の本門戒壇建立運動史のあゆみについで疑いなく指摘できると思う。自己の信奉する宗教だけを絶対視して、その宗教のもとに一国同帰を実現しようとする本門戒壇の思想と行動は、政教未分の中世国家を背景としてのみありえたのであって、一旦、政教分離が近代立憲国家の方向となった以上、すべてその意味を喪失したものと判断しないわけにゆかない。宗教は、今やすべて私事と化し、国家の干渉する問題でなくなったのであるから、一国同帰を理想としたり、その理想実現を妨げる他宗教を折伏するなどということば、安藤昌益の批判によれば、 「正気の者に非ず、狂乱者なり」ということになる。

 日蓮滅後教団の戒壇建立運動の歴史を、わたくしは次の四時期に分類してみることができると思う。

  第一期 日蓮滅後より天文法乱までの245年間。

  第二期 天文法乱より織豊・徳川の各時代を経て、明治初年の廃仏毀釈までの440年間。

  第三期 明治初年廃仏毀釈から太平洋戦争敗北までの77年間。

  第四期 太平洋戦争の敗北から現在まで。

 ここではしばらく近代以前の第一期と第二期だけをとりあげ、この期間中に現われた本門戒壇の思想と行動の傾向を概観するにとどめておく。第三、第四両期のそれについでは別の拙著にゆずる。

 まず第一期の戒壇論史上、重要な役割を果たし後世ヘの影響も大きかったのは、富士門流の祖日興(1246、寛元4〜1333、元弘3)である。彼によれば、大唐の天台山、日本の比叡山はいずれも「法華経」迹門の戒壇にすぎないが いま「法華経」本門の戒壇は、日本第一の名山富士山を最勝の地として選定し、ここに本門寺を建立しなければならないとする。そして王仏具合の教理に基づき、王城の建設も、戒壇の設営された場所を遠く離るベきでないとした。

    王域ニ於テハ殊ニ勝地ブ撰ブ可キ也、中ン就ク仏法王法卜本源一体也、居処随テ相離ル可カラザル歟、偶テ南都ノ七大

      寺、北京、比叡山、先雌之ニ同ジ、後代改メズ、然レバ駿河ノ国ノ富士山ハ広博ノ地也、一ニハ扶桑国也。二ニハ四神

       相応ノ勝地也。尤モ本門寺ト王城卜一所ナルベキ由、且ハ往古ノ佳例也、且ハ日蓮大聖ノ本願ヲ祈ル処也。(原文和漢混合文)

      今日蓮聖人共ニ本化垂迹ノ師檀卜為サソガ夕メニ、迹門ヲ破シテ本門ヲ立テ末法ヲ利益シ国土ヲ治ム可キ也。 (原漢文)    

 日蓮の所説では、まだきわめてあいまいを免れていなかった王仏冥合ということが、日興によってすこぶる明瞭となった事実を注目しよう。王仏の背景にある、神勅に基づく天皇統治の必然性と、富士山を本化垂迹の師檀に擬する目興においては、王仏二法が、神道的要素まで念入りにまじえて主張され、その後長く興門派の伝統的信条となった。今日の日蓮正宗、創価学会、および公公明党が、その法流を継承していることにつては周知のとおりである。日興の孫弟子三位日順(1294、永仁2〜1354、正平9)は、派祖の思想を承継し、本門戒壇ついて次のように述ベた。

   本門戒壇ノ建立ハ必定也、所以ハ者何、涌出神カノ明文ニ本化ノ大人ヲ召シテ、久成ノ要去ヲ暖ク・・・久成ノ定慧広宣流

  布セハ本門ノ戒壇其レ壹、立タザラソ哉。仏像ヲ安置スルコトハ本尊ノ図ノ如シ、戒壇ノ方面ハ地形ニ随フ可シ、国主信

    伏シ造立ノ時ニ至ラハ、智臣大徳宜ク群議ヲ成スベク、兼日ノ治定後難ヲ招クコト有り、寸尺ノ高下ハ注記スル能ハズ。(原漢文)

 日興や日順からみれば、戒法や修行が問題なのではく、ただ妙法を広宣流布することだけが問題であった。その広宣流布の目標が戒壇建立になければならないとして、同じ興門派の顕応日教(1428、正長1〜1489、延徳1)のごとき、天生カ原に六万坊を立て、ここに永劫不失の本門戒壇を建立すベきであると主張したのである。

 第一期本門戒壇論史上、日興について注目されるのは、日興と同じ日蓮門下の土足日朗の弟子日像である。彼は、延慶3(1310)年6月23日の訴状のなかで、「法華経」の「十方仏土中唯有一乗法無二亦無三」の経文を、一君万民の倫理と対応させ、

  王法ヲ守ルノ仏法ハ天台宗ニ限ル可シ、仏法ヲ助ルノ王法ハ法華経ヲ崇メラルぺキ者歟、所以ニ仏法王法相応セハ聖代速

   ニ唐堯虞舜ノ栄ニ踰ヘ、正法ノ正義弘通セハ宝祚久ク不老不死ノ算ヲ保チ給ソ歟。(原漢文)

 と述ベている。これによってみると、日像の理解している本門戒壇は、天台宗のように王法の守護を目的とするのでなく、まさに王法こそ仏法守護を目的とするのでなければならなった。「凡ソ国土ノ安危ハ正法ノ興滅ニ依リ、王法ノ盛衰ハ邪法ノ得失ニ酬ユ](原漢文)ともいっている日像は、たしかにこの限りでは、日蓮の正法為本の原則をうけついでいたといえる。しかしこの原則も、当時の歴史的状況のなかに置かれるときは、正法守護の方便にすり替えらた。「仏法ハ王臣ニ就テ弘ム可シ。更ニ僧衆ノカノ及フ所ニ非ス」(原漢文)などという身分観念を深く吸いし込んでいた日像から、王法にたいする仏法優位の信条が回復されるのを、期待するのは全く無理であった。むしろ日像という人物は、日蓮の宗教を貴族的反動化の方向へ駆り立てた最初の張本人とみなされてよいのではないか。元弘3(1333)年、後醍醐天皇(1288、正応1〜1339、延元4)が隠岐の島を離れ、船上山に行幸したとき、第一皇子の護良親王(1308、延慶1〜1335、建武2)は同年3月5日、日像開創の妙顕寺(京都市上京区寺之内新町に現存)に令旨を下し、天皇の還幸を祈願させ、令旨の文に同寺を、「霊験無双之本尊、利生方便之聖跡」と記し、以後、後醍醐天皇の勅願所に指定した。

 妙顕寺第二世妙実は摂政近衛経忠(1352、正平七、没)の子であって、当寺の創建にカを尽して以来、住職は必ず近衛家の子たるべき例を開いた。そして新田義貞(1301、正安3〜1338、延元3)、が鎌倉を陥落させた元弘3年5月12日、大塔宮は再び令旨を下して妙顕寺に寺領を下賜し、これが機縁となつて、法華宗は帝都開教の基礎をつくったのである。俗権の勢威をかりることを終生拒みつづけてきた日蓮が果たして、とのような王仏不二の実現を希望していたか否かは、大いに疑問としなければならない。日像は、朝廷から法華宗弘通の院宣をうけたとき、「日本国之法華宗面目」といって喜んだ。

 日蓮の「開目鈔」と「如説修行鈔」とを読んで感激と驚きの余り、天台から改宗し、後の顕本法華宗の祖となった日什(1314、正和3〜≧1388、元中5、嘉慶2)は自ら起草した「諌状奏聞」に、戒壇と本尊との二法をのせないで、ただもっぱら題目弘涌だけを説いている理由を、弟子の日穆から間われたとき、彼は、戒壇と本尊とは入信後の人に向って説かるベきで、未信の人にたいししてはただ題目の五字に限る、という意味のことを答え、さらに次のような教示を日穆にあたえた。

 総ジテ奏聞ノ事ハ、涅槃経ノ若善比丘等ノ、仏法中怨ノ難ヲ恐レ、是我弟子真声聞也等ノ金言ニ任セテ、上人仰セ侯ヒシ

 事ナレバ、一天御承引ノナカラソ程ハ、日什ガ門弟ニ於テハ、一大事夕ルベク侯。是則チ日本国ノ人ニ訴ヘ申候也。一天

 承引ノ後ハ、花洛ノ弘通、公方ニ望ムコトハ、名利ノ禍モ有ルベク候歟。仍テ田舎卑賎ノ土民ヲ教化スル事ヲ、化導ノ本

 意ト為スベク候。

 一部修行本勝迹劣の義を唱え、三大秘法中とくに題目の弘通を重んじた日什は、ここで一天承引すなわち一国同帰の後、地方に退き、土民相手の教化を本意とすべきである、と奇妙な説を述べている。当時日蓮門下の戒壇建設運動が、すでに信仰の本質から逸脱して、 「名和の禍」を生じていたことは、右の文章でも明らかである。それゆえ日什は、上層階級に深くとり入ることなしにありえない戒壇運動から、不可避的に生じる僧侶の世俗化的退廃を恐れて、一天承引後の土民教化の必要を訴えたこのであろう。しかしまず上層を教化して、次に下層に及ぼうとする日什の布教方法は、いかに封建的思惟方法の止むをえない時代的制約であったとはいえ実践的に全く無意昧であつた。なぜならば中世封建制支配や天皇制支配に指一本触れることなく、国立戒壇を建立しても、それが僧侶や教団の特権階級化を招きこそすれ、庶民の幸福には全く何の関係もなかったからである。祖滅後数十年、教団の貴族化にともなう弊害が早くも眼を蔽うようにえうなることを恐れていた日什自身が、弘和元(1381)年6月、二条関白良基(1388、元中5、没)の仲介を経て、「安国論」と「申状」を献上したさい、二位僧都に叔せられ、洛中停住の地を下賜されていたほどである。

 いったいその頃の日蓮門下が好んで行なった国家諌暁は、けっして当初の日蓮にみられたような真剣なものでなくなっていた。国家諌暁のため「安国論」を奏聞すると、その意見が一向にうけ入れられなくても、そういうことをすれば、たちまちに京都に停住の地所をあたえられたり、褒賞が下るいう、普通にはいぶかしい慣例を生じていたのである。こういう慣例を生じたのは、当時、日蓮教徒が国家諌暁をするばあい、「安国論」に自分の意見書を添え、上洛して行なうのであるが、そのさい、単独でなく、集団的に行ない、多額の金銭を使用して、高位高官の取次を得て奏聞に達するため努力をしなけれぱならなかったからである。僧階叙任や土地の下賜は、いわば贈賄にたいする見返りの報酬にひとしかった。戒壇運動は、こうして現実政治と交渉をもつに従い、堕落した公家階級の政治の泥沼に足をふみ入れ、立正安国の行動も、利権あさりと何らえらぶところがなくなつてしまったのである。日蓮がかって幕府にたいし、必死の決意でこころみた諌暁とは異なり、それが今や日蓮教徒のたんなる行動のパターンにすぎなくなっていた。「安国論」と「申状]には、奉献の品物が沢山につくので、いきおい取次の人たちにも沢山の品物を贈らなければならないことになる。奏聞するためには、このように賄賂を使用し、その意見の採否とは別問題に、奏聞をしたことが、一種の賄賂にうらづけられた功労となり、その見返りとして、僧侶に停住の地や寺院が下賜されたのである。

 日蓮は、前述のごとく弟子の三位房日行が京文化になじんで貴族化することを非常に恐れていたのであるが、日像の永仁2年京都開教以来、日蓮門下の京都進出はめざましく、その不幸な代償として素朴強健な法華宗徒の関東かたぎが失われ始めていたのである。そもそも日蓮門下が、戒壇建立を目ざして入浴布教を競ったのは、元寇の役後、農奴制の成長による社会構造の変質に伴う御家人層の困窮、幕府の財政難、政治の紊乱などのため、とみ衰弱を増した鎌倉権力に見切りをつけ、京都の反革命的な公家勢力と結合することによって、自宗教団の発展を企てるためであった。したがって彼らの入洛布教を、純粋の宗教的動機に基づく行為とのみみなすわけにゆかないのである。日像が入洛後、叡山の圧力をうけながら、間もなく赦されたのは、辻博士の推定によれぱ、近衛経忠の子、大覚(妙実大僧正)が、裏面にあって運動したからであろうといわれる。

 祖滅後の日蓮門下の活躍は、もちろん入洛布教することだけに尽きていたのでなく、彼らの足跡は全国各地にあまねく及んでいた。その中心は、相武房総にあったけれども、ここを中心として一つは常野に伸び、一つは甲駿、遠尾に、一つは越佐に、そして北陸全般に蔓行した。このほか中国四国九州辺にも拡がるうちに南北朝の内乱時代(1331、元弘1〜1392、明徳3)を迎えた。彼らの最も望んでいたことは、やはり法憧を京洛の地に打ち立て、朝廷を動かすことであった。こうして栴陀羅の子の宗教は、下層の庶民から遠去かり、もっぱら上層階級ヘ接近することに懸命だったのである。この傾向は、前述のごとく、日像が朝廷から法華宗の公認をえて、元亨元年、勅をこうむり妙顕寺を開き、宗の礎石を築いたときからいよいよ拡大し、ついに室町期中葉に及び、宮廷への接近にまで成功するようになった。三条家の出身妙本寺日明、裏辻家の出身立本寺日実、庭田重育(1440、永亨12、没)の子妙蓮寺日応など、 いずれも日蓮教団と公家階級の交流を物語っている。天文法乱のときも、宮内卿従二位卜部兼永や近衛中将小倉公右が、教団防衛のために戦死をとげたほどである。三条西実隆(1455、康正1〜1537、天文6)が、二条関白尚基(1497、明応6、没)の日蓮信仰をなげいたというのも、当時の法華宗がいかに公家階級へ惨透していたかを物語る。

 中山門流の久遠日親(1407、応永14〜-1488、長亨2)は応承34(1427)年正月、京都に上り、翌35年1月一条戻橋の畔で折伏を開始、永亨11(1439)年、日蓮の「立正安国論」に擬して室「町幕府第六代将軍足利義教(1394、明徳4〜1441、嘉吉1)に、「立正治国論」を献じて諌言した。義教の前身は義円といい、大僧正天台座主であつた。正長元(1428)年還俗して翌年将軍となり、義円を義教と改名したのである。怒った義教は、「法華の行者は化人之を衛護すと、果して然らばその験証を試みん」といって、日親を投獄し、炎天薪を積んで炎り、寒夜木に縛って鞭打ち、鍋を焼いてこれをかぶせるなど、あらゆる手段で拷問の責めノ苦にあわしたけれども、日親は所信をひるがえさなかった。日親の行状としては、華洛弘通十五回、西国弘通九回、北国弘逓六回、寺院建立三十六箇寺、公式諌暁八回、他宗対論六十六回といわれ、応仁の乱(-1467、応仁1〜-1477、文明9)前後の京都の日蓮宗弘通に大きな刺戟を与えた。彼は、本門戒壇を建立するためには、日蓮門下が教義の論争を止めて、一致団結しなければならぬ必要を次のように訴えた。

   一宗ノ中ニ鮒露調アレバ、他宗ノ疑ヲ起ス事ハ、少少ハ法華経ヲ成仏スべキ法、無上ノ妙典、或ハ経王ナンドヲ心得テ法華

    宗ニ成タケレドモ、本迹ニモー致勝劣、叡山ノ戒壇ヲ踏ミ踏マズ、謗法ノ供養ヲ受ケ受ケズ、社参仏詣ヲ致シ致サズ、乱

    タル髪ノ如ク、結レタル糸ノ如クナル事ヲ立テ、其義ニ非ハ地獄ニ堕ツ可シ卜談ゼラルル間、何方ヘ帰伏シテ得道スベキ

    ヤラン、トテモ地獄ニ堕ツ可キナラバ、譜代ノ禅念仏ニテコソアルヘケレ卜テ帰セザル者之多シ、広宣流布ノ遅滞併シ乍

    ラ之ニ依ル歟ト歎キ存ズ云々(原文和漢混合文) 

 とのような日親の統一のよびかけにもかかわらず、日蓮教団は、当時すでに九派に分裂し、統合の機運は全く生じなかつた。分派のうちの主なるものは、日昭を祖とする浜門流、日朗を祖とする朗門流、日興を祖とする富士門流、日向を祖とする身延系藻原門流、日常(1216、建保4〜1301、正安3)を祖とする中山門流などであって、その他にも、日持(1249、建長1〜?)を祖とする松野系、日門を祖とする真間弘法寺系、日頂(1251、建長3〜1317、文保1)を祖とする岡宮光長寺系などがあって、それぞれ自派教義の正統性を競って他にゆずらなかった。分派現象の発生は、日蓮教団のみに限られれたことではないが、とりわけ鎌倉新仏教中、日蓮教団が最も顕著をきわめたのは、日蓮の説<教義のなかに多元的な要素や、折衷的なな複数主義を含んでいたからである。そのうえ室町期になると、世俗の下剋上的気風を反映して、教の統制はますます困難をきわめ、ことに国立戒壇の建設は、日蓮各派教団をして、それぞれの思或をはらんだ恣意的行動に転化させ、他と協力するよりは、自派の抜け馳けの功名を争う結巣を招いた。

 中山門流の本成日実は、本門戒壇が勅許の国立戒壇であるベきことを夢想して、次のように述べた。

   三大事ノ中ニハ、本尊ト題目ノ五字ハ弘マル様ナレドモ、未ダ戒壇ハ弘マラズ。其ノ故ハ広宣流布ノ時、王ノ勅ニテ戒壇

   ノ地之アルベキ故也。此ノ三大秘法ハ、高祖大事ノ法門也。去レバ御書ニ云ク、三大秘法、其ノ休如何・・・時ヲ待ツベキ

   耳云云

 日蓮のいわゆる「立正」とは三大秘法のことであり、「安国」とは本門戒壇のことである、と解した行学院日朝(1422、応永29〜1500、明応9)や、 六条門流の円明院日澄(1441、嘉吉1〜1510、永正7)など、主張に若干の差異をふくみながら――たとえば日澄は事壇建立の時期にあわなくても、信心決定の場所がすなわち戒壇であるとして理壇を重視した――いずれも基本的に、勅許の国立戒壇を本門戒壇の内容とする点で一致していた。

 以上が、日蓮滅後天文法華の乱直前に及ぶ第一期の本門戒壇論の趨勢であつて、その間の特徴を概括していえば、教団の外延的拡張がめざましく、それに応じて行動もきわめて政治的であったことである。こうして乱の直前、日蓮教団は、洛中に二十一箇寺の本山を擁し、 なかでも足利尊氏(1305、嘉元3〜1358、延文3)を外叔とする妙龍日静(1298、永仁6〜1369、正平24、応安2)のとき、すなわち嘉暦3(1328)年勅願所となった大光山本圀寺ー現在京都市下京区五条通南堀川ーのごとき、十二町の寺域を領有し、さながら一箇の法城の観を呈した。その他洛中寺院四十ー、洛外をあわせてじつに百三十余箇寺にまで及んだ。このように教団が優勢を極めたのは、やはり公家の外護があったからであって、 「実隆公記」にも、 「日蓮党参内云々」の記事がみえるほどである。それだけに、他教団からの反感と嫉視による風当りも強くなり、ついに叡山や浄土真宗宗との大衝突によって、天文法華の大乱がひきおこされた。

 大乱の直接原因は、天文5(1536)年3月叡山西塔の花王房なるものが、一条烏丸の観音堂で説法を始めたとき、その場に行き合せた日蓮の一信者が花王房に問答をしかけ、彼を閉口させたことにある。乱はこのわずかな宗論に端を発していたが、かねて法華宗号をめぐり、弾圧の意図を懐いていた叡山側は6月1日三塔の集会を開き、幕府を始め、東寺、園城寺、祇園感神院、興福寺、本願寺などに通牒して、日蓮党類の追罰を宣言して助力を請うた。木沢長政らは、かって一向一揆の討伐に助カした法華宗徒に同情し、両宗のあいだに立って、調停をこころみたが不調に終った。山門側は、15万騎あるいは6万人と称する大勢を差し向けて法華宗徒に攻撃をしかけ、一方、法華宗徒も、21箇寺と信徒約2万騎で応戦したが、衆寡敵すべくもなく、洛中洛外の法華宗徒は悉く滅亡し、残党は本尊を抱き、聖典を負うて泉州堺に逃れ去り、以後天文16(1547)年まで、彼らはついに入洛を許されなかった。再度入洛してからの、法華宗団の教勢はもとより昔日の比ではありえなく、戒壇思想にも変調を生ぜざるをえなかった。すなわち日蓮門下の戒壇思想は、この乱を転機として、第二期を迎える。その時期は巨視的にみて乱後から明治初年の廃仏毀釈にまで及び、特徴も事壇諭に比較して理壇論が支配的となったことである。

 事壇建立の時期にあわなくても、信心決定のところが即戒壇であるとして、理壇を重視する傾向は、法乱以前、「註画讃」の著者円明日澄の、「嘉会宗義抄」などに説かれていたが、乱後後とくにその傾向が強まり、常寂日耀(1445、文安2〜1522、大永2)の「本尊抄講談」、智秀日覚(1486、文明18〜1550、天文19)の「発心共轍」、広蔵日辰(1508、永正6〜1576、天正4)の「到彼岸記」、金剛日承(1501、文亀1〜1579、天正7)の「五段抄」など、 いずれも天文法乱の影響を深刻にうけ、理壇説ヘの変調をはっきり刻みだしていた。もとより理壇説は、すでに日蓮が随所に散説していたところであるから、この時期をまって、突然、提唱されたというわけでないが、ただこれまで、事壇説と相互に入り組みながら説かれてきた理壇説が、戒壇思想のいわば主流にせり上った事実は否定できない。しかし天文法乱の衝撃がどれほど深刻であったにしても、事壇建立の信仰はそれによって全く消滅したわけでない。天正7(1579)年安土宗論にたいする信長の弾圧、文禄4(1549)年秀吉の大仏供養にたいする不受不施の創唱者妙覚日奥(1564、永禄7〜1630、寛永7)の法要参加の拒否と、慶長元(1596)年後陽成天皇ヘの奏上、家康の命による日奧の対馬流謫、常楽院日経(1622、元和8、没)のこうむった耳そぎ鼻そぎの惨刑(慶長法難)など、それからおよそ幕末まで、法華宗徒のこうむった受難の足跡は、キリシタンのそれと並んで歴史を生ぐさい鮮血でいろどってきた。 

このように事壇思想と行動は、天文法華の法乱後も消滅したのではなかつたが、これを全体の傾向と比較してみれば、むしろ例外にぞくし、教団一般は非政治的と化し、内観的な理壇説のかげに逃れ、ことに封建制の再編強化された徳川時代になると、不受不施の一派を除けば、ほとんど権力にたいし、無抵抗の姿勢に転じてしまった。こうして本門戒壇建立の願業は、事実上放棄されたもひとしかったのである。ただ日奥の孫弟子に当る安国院日講が、「世間仏法至極ノ道理ハ二途ヲ存スル事ナシ」という立場をとって、「王土ニ生ズル故ニ、其身ハマカセ奉ルべシ。後世菩提ノ道ハ釈尊ノ告勅日蓮ノ制法ニマカスべシ、公儀ヘモ其道理ヲノべテイサメ奉ル」と国主諌暁を断念していなかった。寛文9(1669)年4月9日、幕府から寺領を敬田供養として手形提出を強要されたときも、彼は不受不施の節を守り、頑としてこれに応ずることなく、「守正護国章」という諌疏一篇を幕府に献じ、そのなかで、

    天ノ三光ニ身ヲアタ夕メ、地ノ五穀ニ神ヲ養等ノ義御供養ト仰ラルトイヘドモ、コレハ仏法ニテハ共業ノ所感ト云テ、面

    面ノ過去ノ業因ニ依テ受ル処ニシテ、分分ノ果報力也。

と論じ、封建領主の吹聴する国恩というものにたいし、仏教的な立場からの批判を加えていた。「国土ノ総体其国主ニ属ス卜イヘドモ、別シテ施ノ体アリ、施ノ心ヲ行ゼザレバ施ノ行卜ハナラザルナリ。」 つまり日講によれば、国主の物的布施が、敬虔な精神からのものでなければ、僧としてこれを受納するに値しない、というのである。そのうえ日講はたとえ君命に反抗しても、仏意に背くべきでないと主張しつづけたために、寛文6(1666)年6月、将軍徳川家綱(1680、廷宝8、没)の命により、日向佐土原に流された。日講は、その終生の大著、「録内啓蒙」において、日蓮の「三大秘法鈔」を真撰として引き合いに出していたほどであるから、事壇論を支持していたことはいうまでもない。天文乱後、事壇論の量も急進的な代表者は、じつにこの不受不施の一派であって、大石寺派ではなかったことを注目しよう。

 不受不施派のごときは例外にぞくするのであって、徳川時代は、権力との犠牲的な闘争を回避するため、観念的な理壇論が支配的風潮となっていたことは前述のとおりである。そしてこの風潮は、いちがいに日蓮門下の怯儒のみ由来するといいきれないものがあった。その挙証についで述べよう。

 合掌日受(1692、元禄5〜1776、安永5)は、 「三大秘法書ノ如キハ、安心録及ヒ微考ニ御真筆富士重須本門寺ニ在リ卜曰フ。然リト雖モ牛羊眼ノ如キ汝等何ゾ能ク御真筆ヲ定メン耶」(原漢文)といい、本門事壇に関する唯一の日蓮遺文、「三大秘法鈔」を偽書と判断し、顕本法華派の事本理迹の教説が、けっして理壇を疎外するものでありえないことを述べ、 「事理亦前後無シ、事ヲ以テ体卜為シ、理ヲ以テ徳卜為シ、事理一体ニ由ルヲ以テノ故ニ、事理ヲ束ネテ亦、事卜名ケ、亦体卜名ル也」(原漢文)とも述ベている。事理相即の原理に照応させても、理事両壇を対立的に思考することばゆるされなかった。

  什門派の永昌日鑑(1806、文化3〜1869、明治2)は 「三大秘法鈔」を「御義口伝」、「本門宗要鈔」、「本因妙鈔」などとともに束ねて大石寺派の偽作と判定し、本門戒壇を定義して、

  戒壇トハ受法ノ処ヲ云フ、受法トハ久成ノ釈尊ヲ戒師トシテ、今身ヨリ仏身ニ至ル迄、本門ノ題目ヲ能ク持チ奉ルト約束

   スル也。

 といった。政治へのアプローチを断念して、戒壇の意義を個人の内観へ転回させ、 「三大秘法鈔」の事壇説を次のように批判した。

    霊山浄土ニ劣ラス勝地ヲ簡テ本門ノ戒壇処ヲ建立スベシト云フー義アレ卜モ、余ハ是ヲ信セス、何ソトナレハ爾前迹門ニ

     於テハ未ダ本国土妙顕レズ、故ニ国王ノ地上ニ於テ勅許ヲ申下シテ別ニ戒壇処ヲ建立スべキ筈也、然ニ本門ニ於テハ我常

     在此娑婆世界ト説テ、已ニ本国土妙顕レ夕リ、若シ爾ハ十方法界悉ク本門ノ戒壇処也、胡ゾ別シテ勝地ヲ簡ブノ理由アラ

     ンヤ、故ニ釈尊寿量品ニシテ本門ノ壇処ヲ説顕シ、神カ品ニ於テ上行菩薩ト相承シテ云ク、若経巻所住之処若於園中若

    於林中若於樹下等当知是処即是道場云云、方ニ知ルべシ本門ノ本尊ノ御座シマス処、本門ノ行者ノ住スル処ハ、野ニテモ

    山ニテモ寺ニテモ在家ニテモ、何レノ処ニテモ本門ノ題目修行ノ処即本門ノ戒壇処也、而ヲ録外三大秘法鈔ニ泥着シ、爾

    前迹門ニ例シテ本国土妙ノ功徳ヲ滅スル事ハ何事ゾヤ。

このように「三大秘法鈔」を偽作と判断し、理壇の正統性を主張する日鑑が、大石寺派の、富士山を本門戒壇所立の勝地とする迷信をしりぞけたのはいうまでもないことであろう。

  寿量顕本ノ上ニハ我常在此娑婆世界我此土安穏等ト本地ノ浄土ヲ開顕シ給ヘバ、富士山ハ勿論月漢和三国及ヒ南閻浮提尚

   狭シ、百億ノ四州百億ノ日月百億ノ須弥是皆悉ク本門ノ戒壇処也、経文ノ如ソバ是尚狭シ、自従是来我常在比娑婆世界説

   法教化亦於余処云々、十方悉ク本地久成ノ事ノ戒壇処也、石徒ガ如キ狭量ノ眼ニハ須弥ト云ヘドモ富士ニハ及フマジト思

   ハ尤也、呼呼、井蛙大海ヲ知ラズ卜ハ是也。(原文和漢混合文)

    本妙法華宗(旧称本隆寺派)の唯妙日東(1824、文政7、没)も宗旨の三秘を解釈して、

       本門ノ本尊トハ即チ能証ノ仏也。本門ノ題目トハ所詮ノ法体也。本門ノ戒壇トハ其ノ人法ノ住処也・・・中略・・・本門ノ戒

       壇ト住処卜ハ叉是レ十方法界、本有常住ノ寂光土也。

 といい、本門戒壇が国立戒壇であることを否定し、理壇論の正続を主張した。「三大秘法鈔」を「観心本尊鈔」の略要とみなしていた境達日順(1854、安政1没)は、日鑑のように、 「三大秘法鈔」を偽書とは判定しなかったけれども、やはり理壇論を支持した一人である。その他、熊本の一妙日導(1724、享保9〜1798、寛政10)と加賀の優陀那日輝とは、理論的に事壇論を支持していたにもかかわらず、著作と教育に余念なかったこの幕末の二大学字匠は、現実政治にたいして何らの関心を示すことなく、行動的にはむしろ理壇論者と簡ぶ点がなく、とりわけ日輝のばあい、加賀藩の手厚い外護をこうむつていた事情もあって、現実政治に働きかけをすることなしに、その理想を全く実現しえない日蓮の「立正安国論」をば、「当時慨に其用を失ふ、今に至りては其立論の無実なるを知る」といってしりぞけたほどである。

こうして天文法乱以後、明治初年の廃仏毀釈の行なわれるまで、法華教団は、概して個人的な理壇説に変容する過程をたどってきた。もちろん事壇説が理壇説に変容したからといって、日蓮の宗教が政治と全く没交渉になった、というのではない。幕府権力を是認して、そのなかで思考されるかぎり、どれほど観念的な教義としての理壇説であっても、政治の刻印をこうむっていたのである。理事二壇、そのどちらであるにせよ、そこから封建政治や天皇政治を否定する理論はでてこないのであるから、結果として、本門戒壇の思想と行動は所与の体制に迎合する点で変りなく、日蓮教団の堕落を深めることに役立ったにすぎない。明治初年の廃仏毀釈が、日蓮系をもふくめて、幕府宗教政策に迎合した仏教諸教団にたいする、平田派を中心とする神道者の反動として発生したことについでは指摘するまでもない。往年の国立戒壇論が、絶対主義天皇制の精神的支柱の一翼を担って、再び反動的役割を果たすようになったのは、明治もじつに20年代以降のことである。

 

 

 

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