あとがき

 

本書では、鎌倉新仏教の中心に史上の日蓮をすえてみた。それは、日蓮を鎌倉仏教の第一人者、あるいは最高の代表者とみなしたからではない。いったい日蓮ばかりではなく、親鸞、道元、そして法然でさえも、鎌倉時代にあっては、仏教界の片隅に埋もれた名もなき下級僧侶でしかなかった。ただ法然だけは、念仏の流行にともない、かなり著名の様子であったが、それでも高級僧侶、天台の慈円などの目からみれば、ちょうど現代の有名本山の法主や貫主とよばれる人たちが、街の教祖をみくだすような下等人種の存在にもひとしかったのである。彼らが、ふり返って、鎌倉新仏教のピークに、それぞれ位置づけられるようになったのは、滅後教団の発展した結果にほかならない。だから教団によって偉大化された祖師のイメージをもって、そのまま史上の法然・親鸞・道元・日蓮のありのままの姿をみることはできないのである。ところで、そのなかの日蓮を選んで、わたくしが鎌倉新仏教の中心にすえた理由については、すでに緒言の箇所でも指摘しておいたから、ここで改めて繰り返す必要はないだろう。ただ一言、新たに、附加しておきたいのは、鎌倉新仏教中、最も複雑な問題をはらんでいるために、解釈と評価の多岐に分れている日蓮の思想史的究明を通し、いったいわれわれは日蓮から、何を学びとろうとしたか、ということである。日蓮の他の何物を捨てても、現代人が、是非これだけは学びとってほしい、と著者の念願するものは、いったい何か、ということである。わたくしは、本書において、長いあいだ、誤解と歪曲と偏見を積み重ねられてきた日蓮像を、思想史的な認識に基づいて、遠慮なく解体し去ったので、読者のなかには、本書が、日蓮の宗教をあたかも排斥しているかのような印象を懐いているものがあるかも知れない。しかしそれはわたくしの本意ではない。ただわたくしは、史上の日蓮を学ぶことによって、そこに功罪二つのものが奇妙に葛藤する事実を知ったので、この事実を、ありのままに思想史的方法を用いて復元しようとつとめただけである。したがって、功だけを称揚して、罪を隠蔽したり、罪だけを暴露して、功を無視する、といった便宜主義を意識的に回避した。批判は科学の生命であるから、思想史的研究が科学であるならば、日蓮の何物かを学びとるためにも、余計な爽雑物を思いきって切り捨ててしまわなければならなかった。掴むには、まず放さなければならない。捨てることによって、何物かを得るのである。これまでのように、祖師の遺産だからといって、あれもこれもそこから学びとり、受けとろうとするのは、けっきょく、祖師のあれもこれも捨てることになってしまうのである。現今の、念・禅・法華の各既成教団が、一向に各自の祖師を生かすことができず、それどころか精神的にも思想的にも、自らが、崩れかけた壁のようになりはててしまっているのは、祖を殺し、仏を詞する批判を恐れ、歴史の垢のついたまま、祖師の全遺産をごしょうだいじに受けとろうとしてきたからである。そのため、歴史の垢の重みにたえかねて、当然生かされてよい、また生かされねばならぬ祖師の思想と精神までもが押しつぶされている。もっとも祖師の思想と精神が、歴史の垢を洗條されて、みずみずしくよみがえってくるとき、まっさきに困るのは、ほかならぬ祖師をかつぎ、祖師の教を売り物にしている当の教団や信者ではないのか、というパラドックスが成り立つ。教団をささえている客観的基盤は、前近代的な封建遺制であって、祖師の精神でも思想でもないからである。祖にあやかろうとするものが祖を殺し、祖を殺すものがかえって祖を生かすことを知らなければならない。

わたくしをして、鎌倉仏教にたいする批判的精神を培った最大の機縁が、やはり20年前の敗戦の休験と、戦後の平和と民主主義による洗脳であることを率直に告白せずにはいられない。この機縁がなかったならば、おそらく本書が今日、世に問われることは全くありえなかったであろう。明治以降の仏教の歴史を顧みただけでも明らかなように、仏教の主流的役割はただ反動の一語に尽きたのである。それはたんに世俗の絶対主義天皇制の権力が盲目的強大を極めていたからではない。あるいは、仏教徒が力関係を顧慮して、権力と止むを得ず妥協した結果でもない。そもそも仏教思想の内部に、奥深く定着していた卑屈な奴隷的性格があったから、そういう世俗の権力と、安易に妥協しえたのである。幕末期まで、切利支丹とともに反権力闘争の担い手だった不受不施派の硬骨漢でさえも、維新を迎えるようになると、天皇制国家権力の前には全く軟弱と化し、新しい在野叛骨の精神は、基督教徒や自由民権主義者にとって替られてしまった。それ以後数10年の仏教は、敗戦まで、天皇制権力に卑屈な迎合と媚態を示し、基督教を敵視し、自由主義や社会主義には水をさし、労働運動にはソッポを向き、戦意昂揚のための精神総動員の一翼を担い、平和主義に反対しつづけてきた。この近代日本仏教思想の、今からみれば、まことに恥ずべき歴史のあゆみは、鎌倉仏教の時点に立ち返って反省するとき、いったいゆるされることかどうか。

それともこういうあゆみの遠因を準備することに、鎌倉仏教は与って力あるものであったのかどうか。本書は、実にこういう戦後的観点に立ち、問題を抱えながら、日蓮を中心とする鎌倉新仏教の思想をみつめてみたのである。したがって、思想史的研究といっても、本書がたんに、実証主義や、価値判断を排除した事実判断だけに満足するはずはない。

他の何物を捨てても、これだけは日蓮から学びとらねばならぬといいうるような、貴重な精神的遺産は何か。日蓮を信ずるも信ぜざるも、これだけは継承に値するとみとめられる思想的遺産は何か。次の六点にしぼらく要約してみよう。それは第一に、日蓮の「立正安国」だという人がいるかも知れない。しかし「立正安国」をどう解するかによって、それは継承に値するばあいもあるし、排除しなければならぬばあいもありうる。何よりも、そういう解釈をめぐる価値判断に先行し、思想史としては、日蓮が、立正安国をどのように理解していたかを、実証的に究明しなければならない。著者の研究によれば、日蓮は、正法流布の環境として、たしかに国土を重視したが、それ以外の何ものでもなく、したがって日蓮の立正安国思想は近代的な意味でのナショナリズムや愛国心の先蹤にはなりえない、ということである。ただわれわれとしては、立正安国の主張から、国家、国土をふくめて、精神にたいする物的環境を重視した彼の思想を学びとるべきである。第二に、立正安国と当然、関連することだが、破邪顕正の倫理思想に学ぶべきではないかということである。正義を愛し、正義を信じ、正義を顕現しようとするには、邪法を憎み、邪法を告発し、邪法を打ち破らなければならない。正義を肯定する、ということは、不正を否定することである。いな不正を破るところ、必然的に正義が顕現する、と考えなければならない。正義を愛するものの生涯が、戦闘の連続であるといえるならば、抵抗を経験しないものに、正義を語る資格はないといえよう。日蓮は、この破邪顕正の戦いを折伏とよんだ。日蓮の折伏思想も、立正安国と同様、多くの誤解を招きやすいアポリアの一つであるが、歴史的制約の宗教的表皮を剥ぎとり、その内実の精神を、現代の地点に立って凝視するならば、それはあらゆる不正との妥協を拒む心情の戦闘性として重要な意味をもつ。日蓮が、権力者からの弾圧によって、連続的な受難の生涯を繰りひろげたのは、不正や権力と妥協することを知らなかったからである。現代のように、権力悪が、国民に底知れない不安をよびおこし、道徳的堕落を促しているとき、日蓮の正法への熱愛と、不正との妥協を知らぬ折伏の思想は、惜しみなくこれを継承し、現代人の倫理感に強く訴える必要がある。

第三に、日蓮の正法為本と、人師仏教の排撃に学びたい。鎌倉新仏教は祖師仏教といわれるほど、祖師とよばれる神聖化された人聞像への信仰的イメージを中心に展開されてきた。そういうことの必然の結果として、滅後の鎌倉新仏教は、法門を中心に生きる宗教的態度がきわめて乏しい。しかしこういう態度は、はたして真実の仏教といえるだろうか。仏陀は、「法灯明」を垂誠したが、「人灯明」ということをけっしていわなかった。「涅槃経」でも、「依法不依人」を説き、日蓮は、たびたびこの句を引用して、論師・人師に依止する信仰の在り方を非難した。ということは、日蓮が、「仏法とは道理なり」の言葉からも明らかなように、特定の人を仰ぐ宗教をしりぞけ、普遍的な真理を重んじていたからである。これは必ずしも日蓮だけに特徴的な思想といえないが、日本人の狭隘な島国根性と、セクト的な偏見を打破するうえで、普遍的な真理に生きぬく正法為本の思想は、現代日本に寄与する点が少なくない。日蓮の思想の水脈からは、日蓮本仏論とか人本尊論とか、人法不二本尊論とかを主張することはできないのである。本尊は、当然法本尊でなければならない。

第四に、われわれは日蓮の思想から、事行の勇気を、美徳として学びとりたい。勇気は、日蓮のばあい、思想ではなく行動的な事実であった。勇気とは何か。それは熟慮をともなった危険を回避せぬ行動のことである。日蓮の不惜身命の勇気が、衝動的に発生したのではなく、熟慮と苦悶と決断の結果、発生したことについては、「開目鈔」一巻の叙述が、それを遺憾なく証明している。どれほど学識や思想が、観念的に過剰なほどに蓄積されていても、真に身についたそれらのものは、実践によって確証されていなければならない。非実践的な百の理論も、一の理論の実践に打ち破られるほど、実践は打ち克ち難い力をもつ。しかし理論の実践は、その理論が正しければ正しいほど、抵抗も多く、したがって抵抗をはね返す勇気のうらづけを必要とする。師子王のごとき勇猛心をもって、正法を惜しむ人でなければ仏になれない、とする日蓮の思想は、無気力なインテリの多い現代にたいし、貴重な示唆を投げ与えていると思う。

第五に、日蓮の大衆追随にたいするきびしい批判に学びたい。日蓮の宗教において大衆性のあることは事実だが、いわゆるその大衆性は、大衆の願望にたいし、直接的に追随することを何ら意味していなかった。機によって法を説くことは、僻見として否定されなければならなかった。大衆を愛しようとする日蓮は、必ずしも大衆から愛されようとはしなかった。むしろ彼は、大衆の先頭に立とうとさえした。そこに独善的なエリート意識がみとめられるけれども、大衆の直接的願望に追随することは、大衆が理性的でなくしばしば感情的であるがゆえに、独善的なエリート意識に劣らず危険をはらんでいるといわなければならない。このように考えるならば、大衆に迎合することを止め、大衆の要求を汲み上げながら、その要求内容に即して、大衆を批判することがたいせつである。ただ本文でも指摘しておいたように、日蓮を支持した階層が、武士に限られていたため、農・工・商をふくんだ幅ひろい大衆性をもたず、したがって、日蓮の思想には武士かたぎを反映した指導性が非常に強いところに問題を秘めている。

第六に、日蓮の歴史的感受性の鋭敏さに学びたい。宗教上の信仰は、とかく主観の心の中へ亡命を企て、歴史に流され、社会に動かされておりながら、歴史や社会にたいして、積極的に関係することを拒む主観主義的傾向が看取される。日蓮以外の、鎌倉新仏教の開祖たちには、この傾向が支配的であった。法然・親鸞、道元らはどんなに政治悪がはびこっていても、彼らは、これにたいする抵抗の意志を公然と表示しようとしなかった。念仏も禅も、ただ政治悪と妥協しながら、幻想と讃をそれ自らで祝福していたのである。このようなとき、国家の安危を政道の直否に求めた日蓮の態度は、当時の鎌倉仏教の盲点をっいていた。いわゆる国家諌暁という行動は、当時、仏教者の時代的良心の限界点を示していたと思う。日蓮の政教一致の思想を創価学会や公明党のごとく、今ごろになって受けとるのはもちろん時代錯誤にすぎないが、歴史にたいする感受性の鋭敏なあまり、日蓮が、心の中へ亡命することを避け、内部をとおして、たえず外部の世界にたいする実践的関心をいだいた、ということは、今日、なおわれわれが日蓮から学ぶべき重要な遺産として継承すべきではないであろうか。

本文において、ややきびしい日蓮批判の態度をつらぬいたので、誤解のないよう、わたくしは、今日、日蓮からも、思想的に学ぶべき点があることを以上要約したのである。それにしては、顕正面が余りにも申しわけ的ではないか、と不満をいだく読者もおられることであろう。なぜもっと、日蓮を中心とする鎌倉仏教思想の積極面をとりあげなかったか、と非難する読者もおられるにちがいない。わたくしは、これらの不満や非難を全く予想しないわけではなかった。しかしわたくしは、真の積極的な顕正は、消極的な否定を遂行することによってのみ可能だと考えている。玉石混渚は、鎌倉新仏教のばあいも、けっして例外でなかったのであるから、玉の価値を発揮させるには、まず玉の価値をきずつけている石をできるだけ排除しなければならないと考えた。本書はその仕事を遂行したのである。限られた紙数のなかで、すべてをいい尽くすことはできない。次の機会には日蓮の思想の積極的な面を、現代の視角をとおして、じゅうぶん解明したいと思っている。

本書は昭和39年2月19日、東京教育大学文学部日本史学研究室に提出した学位論文の原稿を加筆訂正して公刊したもである。論文主査は、家永三郎教授、陪査は、和歌森太郎、芳賀幸四郎、川奈辺保、小林信明の各教授であった。そして論文審査委員会を通過したのが同年12月19日、文学部教授会を通過したのがこえて本年1月13日であった。論文提出から、教授会通過まで1年に満たない短期間のうちに、1500枚に及ぶ部厚な論文の審査を速やかに完了された各教授のお骨折りにたいし、ここに謹んでお礼の言葉を申し上げる。また各教授の論文内容にたいするそれぞれの専門領域からする貴重なご批判は、著者の反省の指針ともなって、それはすべて本書のなかに吸収されている。ばあいによっては、大ナタをふるい、思い切って削除した部分も少なくない。提出当時の論文よりもずっと上出来のかたちをとって公刊できたのは、まことに以上5教授の賜である。とくに主査の家永博士からは、著者の必ずしも専門としていない一般史的背景や、最新の歴史学上の研究成果などに関し、その都度親切なご教示に預かることが少なくなく、それがため、倫理学者のわたくしが、歴史学の分野に深く介入して本論文の内容に、より一層正確を期し、論旨にも精彩を添えることができたことを深く感謝するものである。

読書界の大衆社会的状況の進行、中小企業の逼迫など、悪条件の積み重なるなかで、採算の合わない浩瀚な学術研究書刊行が困難を極める出版界の現状にかえりみて、このような学位論文が公刊できたのも、家永博士のご配慮と、冨山房坂本社長、青池編集部長、石田毅氏のご援助なかりせば全く不可能なことであった。校正については、服部達彦氏を煩わした。各位のご苦労にたいし、お礼の言葉をのべておきたい。なお巻頭写真の資料を提供された立正大学日蓮教学研究所の坂本博士、宮崎教授、渡辺講師のご厚意も忘れることができない。

この論文の執筆から完成までの年月は、僅々数年を算するに過ぎないが、宿縁は遠く数10年の過去にまでさかのぼる。それはわたくしが、幼時、実母に死なれ、官吏の実父が、止むをえず、ふとした因縁で、わたくしを千葉県一漁村の日蓮宗の寺院に養子として送りこんだところから、わたくしと日蓮との関係がはじまったことである。わたくしの先祖は姓を山中といい、三重県菰野藩の貧乏士族であって、家の宗旨は浄土真宗だった。養父はわたくしを日蓮宗の僧侶にするつもりで、小学校をおえると、宗門の学校で学ばせてくれた。関東大震災の翌年大正13年のことである。しかし養父もその翌年には死んでしまったので、それからのわたくしは、東京の日蓮宗の寺院をあちらこちら転々としながら、立正大学を卒業したのであるが、この間、日蓮の信仰を外部から吹き込まれ、自分も進んで日蓮の信仰と研究を深めようと努力した。しかし仏飯をはみながらも内側からみた寺院の在り方、僧侶生活の実態は、折から純心な青年期を迎えたわたくしを失望させ、憤慨させるばかりであった。加えて、昭和5年のころのマルクス主義の流行は、観念論と信仰のまどろみから、わたくしをよびさまさずにおかなかった。夢からさめたわたくしは寺院生活の内幕もさることながら、それが実は社会の矛盾と分ち難く結合していることを学んだのである。そしてわたくしの関心も、日蓮から漸次遠ざかり、哲学や社会科学に移り、宗門の内地留学生に選ばれた昭和10年以降、日蓮をふくめ、宗教一般にたいする懐疑と批判の芽が急速に成長し、この結果、ついにこれまでの日蓮研究を断念するとともに、哲学専攻の道を決意し、昭和14年、日華事変に従軍して生きのこったのをさいわいとして、東北帝大に入学し、昨年物故した教授高橋里美博士の指導のもとで基礎的な哲学の勉強を開始した。これは今日、わたくしが倫理学者となった宿縁でもある。

それから再び日蓮への関心がよみがえった。昭和23年秋、歴史学者服部之総先生との邂逅がそれである。ちょうどそのころ、わたくしは、「宗教と唯物弁証法」の一書を著わしたのであるが、これは原稿をご覧になった服部先生がおみとめになり、出版されたいきさつもあったので、神田の白揚社の若主人と一しょに、鎌倉朝日ケ丘の先生宅へお礼に参上した。当時、先生は刊行されたばかりのインクの香も新しい「親鸞ノート」を手にされながら、わたくしにたいし、「君のような人物によって、日蓮が研究されたら面白いだろうな。僕も日蓮には非常な関心がある。しかし今は近代史と親鸞の研究で手いっぱいだ。是非、日蓮研究を続けなさい」と激励された。しかし当時は、まだなかなかそういう気になれないうち、「宗教と唯物弁証法」が縁となり、昭和25年、今は立命館大学教授、その頃は第四高等学校教授であったギリシャ哲学専門家の安藤孝行氏の招きで金沢大学に赴任し、日蓮と全く関係のない倫理学の勉強に追われる日を送っていたのである。その間、日蓮に関する資料蒐集や、書肆の需めに応じ、いくつかの論文を書いたが、とても日蓮研究と四つに取り組む心の姿勢はおこらなかった。この姿勢が確立したのは、昭和31年、創価学会が参議院へ進出してからである。またそれ以後の、同学会の異常な躍進ぶりにおどろかされてからのことである。基地闘争や平和運動に挺身する日本山妙法寺の僧侶にも刮目せざるをえなかった。善くても悪くても、現代社会においてこのように信仰の力を発揮する日蓮の宗教を、科学の目をとおして、その秘密を解明してみたい衝動が、わたくしの日蓮への関心を再びよびさましてくれた。過去の遠い日蓮研究、太平洋戦争の敗北と軍国主義の崩壊、敗戦直後の服部先生との邂逅、そして創価学会の異常な躍進、日本山妙法寺の平和運動など、これらが、今回の研究成果をもたらした宿縁となっていた。日蓮にたいするわたくしの態度が、実証主義の歴史家のように、新しい事実を掘り出したり、説明したりするだけで満足できるはずもない。日蓮に関する資料や知識は、あることはあっても、どういう主体的な思想と、科学的な方法で、それを処理するか、いろいろ思いあぐねて日を過しているうち、旧制学位令の適用の時期が切れてしまった。漸く自分の見解と方法に自信を持ちだして、筆をとりだしたのが、昭和36年の暮、脱稿したのが、38年の6月、浄書完了が同年10月下旬であった。

長い日蓮研究35年の道程をふり返ると、いくたびか断絶はあったけれども、かくしてここにひとまず終止符を打つことができた。これからのわたくしの日蓮研究をどう進めるか。しばらく考えてみることにしたい。

「行信を獲ば遠き宿縁を慶べ」とは、ほかならぬ鎌倉高僧の言葉であるが、行信ならぬ今この研究成果を獲たこんにち、遠き宿縁の一端を記して、半生の思い出とした次第である。なおさいごに、著者の研究生活を、これまでその都度精神的、物質的にささえて下さった今はなき人々の霊にたいし、この一書を捧げて、心から冥福を祈りたいと思う。

(1965年1月31日正午しるす)

 

 

 

 

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