第5節 日蓮を汚す三大秘法鈔

 

数量の豊富な日蓮遺文のなかには、同一問題についての解釈や批判を異にするものが少なくない。これは開祖日蓮の思想の不統一や、表現の拙劣に依存するのではなく、後世の日蓮門下が、自派の教義を有利に論証して、他派の教義を封じる謀作から生じた結果であるばあいが多い。いわゆる偽書と称せられる文献が、現存日蓮遺文には少なからず混入しているのである。通称400余編といわれる日蓮遺文も、真偽未決の分や、偽書と判定できるものを除去すれば、真撰遺文はおそらく110数編の量にとどまるであろう。このようなことを考慮にいれて、本節では、前節で述べた本門戒壇の思想と行動の根拠になった三大秘法鈔について、思想史的な観点から、真偽の考察をするのが目的である。

由来、日蓮の本門戒壇を勅許の国立戒壇の意味に解釈しようとするものは、ほとんど例外なく「三大秘法鈔」真撰説を熱心に唱えてきた。「法華経」に天皇を帰依させ、その権威の余光をかりて一国同帰を実現させようとする国粋主義者が、とくにその熱心な真撰論者であったのはいうまでもなく、たとえば山川智応博士は次のように述べていた。

此の国立戒壇といふものを以て、聖人本意の本門戒壇であるとする時は、何としても三大秘法鈔」の本門戒壇の御解釈

を以て、その標準としなければならない。なぜなら内外六十五巻、「他受用」其他の遺文中、まことに国立戒壇の顕文釈

は、この一書の外には全く跡を削ってないからである。

右の論理によれば、「三大秘法鈔」が真撰だから、それに基づいて国立戒壇を唱えるというのでなく、本門戒壇を国立戒壇として解釈を統一するためにも、それが唯一の顕文釈たる「三大秘法鈔」を真撰の標準書にせねばならぬというのである。山川博士と親交のあった姊崎正清博士は、本門戒壇を、「法華経主義の道徳を促進する中央機関」あるいは、「法華経主義に化した世界教団の中心聖地」の意味に解釈し、王仏冥合を山川説とは全く異なる観点からうけとっていたけれども、「三大秘法鈔」を本門戒壇思想のよりどころとしている点では軌を一つにしていた。

三大秘法、この顕示に依って、日蓮一期の弘法はその結論に達し、身後流通の理想は茲に顕示せられた。五字の題目を、

建長5年開教の始に宣布して、弘法の根抵とし、文永11年には佐渡で本門の本尊を解説し、その顕示に依って一生事

業の中心を作り上げ、而して後、文永11年身延退隠の後、直に戒壇の抱負を明にし、茲に自分が齢60に達した弘安4

年の卯月8日に、三法門を一括して、先に上行自覚の大事を明かした理解の高弟、太田金吾へ送るに至った用意尋常なら

ず、比を以て自分が一生に於ける色読法華経の神力品に擬し、即ち又一生身後の遺言という意味であった事を見るに足

る。

姊崎博士は、「三大秘法鈔」の真撰を白明の事実として推論されているが、これは何もけっして自明なことではなく、古来から非常に疑惑をいだかれてきた日蓮遺文中の第一号にぞくする。

何よりも本鈔には、古写本が伝存するだけで真蹟がない。その古写木というのは、中山門流の久遠日親が嘉吉2(1442)年8月、書写してこれを弟子の式部阿闍梨日慶へ授与された京都本法寺伝存のものである。真蹟が欠如し、たんに写本だけが伝存するにすぎぬということは、その内容もさること1ながら、文献学的に疑わるべき第1の理由となるだろう。それゆえ、古くから、日昭門流、合掌日受、永昌日鑑、桓春日智らの偽作論が跡を絶たなかったのだ。もちろん偽作論に対抗して、これまた古くから、三位日順、久遠日親、本成日実、行学日朝、円明日澄、一音日暁、禅智日好、一鈔日導、優陀那日輝らが真撰説を唱えてゆずらなかったのも事実である。境達日順のように、真撰説を一応みとめるにしても、 「三大秘法鈔」を「本尊鈔」の略要とみなし、それに独立的価値を与えないものもあった。すなわち境達日順は次のように述べている。

此抄ハ観心本尊鈔ノ略也、案ズルニ太田殿ハ最初ヨリ大事ノ御檀那也、然ルニ富木殿へハ大切ノ法門ヲ遣ハサレ、太田殿

    ヘハ真言ノ事耳仰セ遣ハサル、故ニ太田殿少シ悦バザル意之レ有ル歟。故ニ此抄ヲ遣ハサルト見ヘ夕リ、故ニ常ニハ仰セ

    ラレザル御文章多ク、叉予年来ト云ヨリ已下ハ全ク巧説也、知ヌ太田殿ノ機嫌直シノ御書ナル事ヲ。

 「三大秘法鈔」を真偽いずれかに判定することによって、日蓮自身が、王仏冥合の戒壇実現をほんとうに期待していたか否か、という問題もほぼ明らかとなるのである。

 概観する限りでは、偽作論より真撰説を支持するものの方が多く、それゆえ現在でも一般に、「三大秘法鈔」は真撰として重んぜせられている。そして、たとえ本鈔が偽撰であるにしても、その内容と彼此対応するような護国思想が、他の日蓮の真撰遺文に全くなかったといいきれないものがある。たしかに国立戒壇の顕文釈は、「三大秘法鈔」の一書だけであっても、正法至上をつらぬくために、必ずしも王法を否認していなかつた日蓮の他の遺文から、王仏冥合に対応しうるような戒壇論を抽きだしてくることば必ずしも困難でない。たとえば、真撰遺文「守護国家論」に、「朝野遠近同帰-乗」といった源信の「一乗要決」の文を肯定的に引用(昭定遺129頁)しているなどはその一例である。だから特定の意図をさきにいだいて、解釈しようとすれば、 「三大秘法鈔」をまたないでも、日蓮を王仏冥合論者に仕立てあげることば容易である。しかし一旦、本鈔を真撰

遺文として動かないものときめるならば、じつに困難な問題が発生してくる。それは本鈔の思想と、真撰遺文の基調となっている日蓮の根本思想とのあいだに、一面相通ずる要素があると同時に、他面鋭く反発し合う種々の矛盾や違和感を発生してくるからなのである。二つの要素のうち、後者の方がはるかに支配的であつたので、浅井要麟氏のごときすぐれた宗門の文献学者でさえ真撰説にたいし、きわめで消極的態度を示してきた。

 今なお日蓮系国粋主義者に絶好のよりどころを与えているこの「三大秘法鈔」を、中世思想史の文脈に定着させて分析してみると、謀作の書であることを推定させる根拠がはるかに強い。そこで検討にさきだち、まず本鈔の最も問題となる箇所の指摘から始めておこう。

    戒壇とは王法仏法に冥し、仏法王法に合して王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王覚徳比丘の其のが乃往を末法

    濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者歟。

    時を待つ可きのみ。事の戒法と申すは是也。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下

    し踏給ふべき戒壇也。(原文和漢混合文 昭定遺1864〜5頁) 

「法華取要鈔」、「法華行者値難事」そして「報恩鈔」などにおいて、ただ名目だけをあげるにとどまっていた本門の戒壇を、これだけ顕釈した例は他になく、しかもここに引用したのは、王仏冥合の説明の中心部位を占めている。そこでこの部分を、標準的な真撰遺文の思想と比較して、矛盾点を掘りだしてみたいと思うのである。

 第一に、「立正安国論」との関係を考えてみなければならない。行学日朝は、立正安国の安国とは、本門戒壇のことであると解釈したが、もしこの本門戒壇を、そのまま王仏冥合の戒壇というふうにうけとるならば、その解釈は完全に誤っている。なぜならば、「安国論」の

    三界ハ皆仏国也。仏国其レ衰ン哉。十方ハ悉ク宝土也。宝土何ゾ壌レン哉。国ニ衰徴無ク土ニ破壊無ソバ身ハ是レ安全ニ

    シテ心ハ是レ禅定ナラソ。(昭定遺226頁)

 という国土の概念は、必ずしも政治的な王土を意味していたのでなく、いわば身体や精神の環境一般のことである。したがって王仏冥合ということは、右の文章からだけではひきだしえない。 「安国」の国が、さしあたって当時日本の国土であったことば疑いえないが、それは「十方宝土」の語でも明らかなように、日本国だけに限定しえない世界概念である。そこでこの世界概念からすれば、戒壇の建立も、日本のどこと具体的に限定されるのではなく、身心の安全と平和の保証されるところならば、それはどこでも安国であり、戒壇建立の場所となりうるわけである。もしそうでないならば、「三界仏国」、「十方宝土」の言葉は全く宙に浮いてしまう。永昌日鑑が、 「十方法界悉ク本門ノ戒壇処也、胡ゾ別シテ勝地ヲ簡ブノ理由アランヤ」といったのは正しい。換言すれば、立正安国の国は、直接的には日本の国土一般、間接的には世界全体、つまり一閻浮提を包括していたのである。「三大秘法鈔」が、由来、富士門流の謀作になるものと強く主張されてきたのも、この一門が、「安国論」の主張と全く矛盾し、戒壇建立の勝地に、ただもっぱら富士山という特定地域だけを固執してきたからである。「立正安国論」は題号の証示しているとおり、正法の建立が、国家の平和の前提になっているのであるから、の逆ではありえない。日蓮はそれゆえ「立正安国論」の草稿、「守護国家論」では、「法華経」

カ品の女を引用して、「即是道場」を唱え、これを他土往生にあこがれる念仏破折の一つの理由にあげたあとで、「王位ニ居ル君・国ヲ治ムル臣ハ仏法以テ先ト為シテ国ヲ治ム可キ也」(原漢文昭定遺25頁)といっている。世俗の王臣でさえも仏法為先を守らなけれぱならぬといっているのに、仏教徒とりわけ日蓮門下が王法為先を主張するのでは全くおかしなことになってしまうではないか。要するに、日蓮によれば、王法は仏法に従属すべきものなのである。ところが「三大秘法鈔」の王仏冥合になると、王法が仏法に従属すべき原則をゆがめてしまっている。いったい「冥合」の冥とは暗黙のあいだに意志の一致することである。合とは合致、合一のことであるから、冥合という表現は王仏二法の価値の妥協に基づく前後後序列の混乱以外のなにものでもない、ということになろう。

 祖滅後、日蓮教団は長いあいだ本迹致劣論争に莫大なエネルギーを消耗し、分裂に分裂を重ねてきたにもかかわらず、なぜか王仏二法の離合と勝劣についで、真剣に討議してこなかった。それは、この教団の広宣流布をスローガンとする活動が、何よりも政治的であったからである。すなわち王仏冥合という教理は、そこからいつでも王法為本、仏法方便の便宜主義をひきだし、教団拡張の政治的利権にありつくことを可能にする口実となりえた。これが、「王臣は不覚にして邪正を弁ずることなし」といった日蓮門下の堕落でなくて何であろうか。その他、「三大秘法鈔」には、「国主と成て民衆の歎きを知らず」、「王地に生れたれば身をば随ヘたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず」といった、仏法為本をふまえる王法批判の精神に全くそぐわないものがある。これがわたくしの「三大秘法鈔」を偽撰とする第一の理由である。

第二に、本門戒壇が勅許の国立戒壇であるとする「三大秘法鈔」の所説についで検討してみなければならない。日蓮の従前の主張によれば、本門戒壇は、主観的には「法華経」行者所住の場所であり、客観的には、立正安国、四海帰鈔の理想実現の状態を意味する以外のものでなく、したがってその主張は、特定の場所を選んで、 そこに国立戒壇を建立することを述べている「三大秘法鈔」のそれと根本的に矛盾している。いったい日蓮は、世俗の国王が下す「勅宣」とか「御教書」のごとき天降りの形式を重視するような事大主義者であったのであろうか。 「法王の宜旨背きがたければ」ということをいってはいる(如説修行鈔 昭定遺733頁)が、 このばあいの法王とは、いうまでもなく「法華経」の教主釈尊のことである。「正像二千年の大王よりも後世ををもはん人々は、末法の今の民にてこそあるべけれ」とまでいった日蓮が、どうして勅許の権威を仰いで戒壇を建立する気になれるだろうか。「仏法は王臣に就て弘む可し」といった日像などは、孫弟子でありながら日蓮の精神をふみにじったものといわなければならない。なぜならば、日蓮は次のように述べているからだ。

   当世ノ高僧等謗法ノ者ト同意也。復自宗ノ玄底ヲ知ラザル者也。定テ勅宣・御教書ヲ給ヒテ此凶悪ヲ祈請スル歟°仏神

   弥瞋恚ヲ作シ、国土ヲ破壊セソ事疑無キ也。(原漢文 安国論御勘由来 昭定遺423頁)

 これは日蓮が、「勅宣」・「御教書」の天降り形式を借りる当時の高僧――その実は朝廷の権威に阿訣迎合する俗僧――を批判していた証拠である。してみれば当の日蓮が、自ら進んで「勅宣」・「御教書」を申し受けてまで、滅後の門下に国立戒壇の建立を期待するはずがないではないか。「三大秘法鈔」の国立戒壇論は、ちょうど施陀羅の子日蓮の家系を、聖武天皇にまでさかのぼって関係づけた荒唐無稽きわまる権威崇拝に基づく系図作製と同様であって、日蓮の宗教を宮廷と結びつける必要から、おそらく南北朝以降足利時代までのあいだに、日蓮門下によって偽作されたものであろう。「三大秘法鈔」の名が日蓮宗史上みえだすようになったのは、祖滅後180年ぐらいも経過して後のことであった。これがわたくしをして「三大秘法鈔」の真撰説を否定させずにおかない第二の理由となる。

第三に、本門戒壇の本門ということからも、戒壇を特定の時処に限定することの矛盾が指摘されなければらない。「三大秘法鈔」の主張するように、本門戒壇を霊山浄土に似た景勝の地に限定して設営するならば、そこだけが本門戒壇となって、事実上の迹門戒壇と全く同一のもののとなり、永遠の意味をもつ本門の概念が完全に崩壊せざるをえない。日蓮は、本門の意味を、「三世常住にして遍せざる処無し」(総在一念鈔 昭定遺85頁)と定義していたのである。久速実成すなわち永遠的なものは、また普遍的でなければならない。特定の時処に限定されないがゆえに、本門は実に本門でありうるのである。ところが国立戒壇論者のいうように、戒壇を特定の時処に限定してしまえば、それは歴史的な迹門戒壇と同質のものとならざるをえない。迹門戒壇は、何も叡山の戒壇だけを意味しているのでなく、歴史的特殊的に実現される限りでの戒壇は、すべて迹門戒壇とならざるをえない。身延山にせよ富士山にせよ、そこに「法華経」の戒壇を建立すれば、本門の二字を冠すると否とにかかわりなく、それはひとしく迹門戒壇なのである。私見によれば、日蓮のいわゆる本門には、「法鈔なるが故に人貴し。人貴きが故に所尊し」(南条兵衞七郎殿御返事 昭定遺1884頁)というばあいと、「天下万民諸乗一仏乗と成て妙法独り繁昌せん時、代は義農の世となりて、今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理り顕れん時」 (如説修行鈔 昭定遺733頁)というばあいとのふたとおりが考えられる。前者は個人の体験に即する本門戒壇であり、後者は世界平和の客観的状態に即する本門戒壇である。「時を待つべき」とか「広宜流布」とかいうのは、つまり前者から後者ヘの、絶えざる歩み寄りを意味するのである。だから「広宜流布」が実現しないからといって、その間の個人が空しく過程のうちに戒壇を知らぬまま埋もれてしまうというわけのものではない。狭義の本門戒壇は但人が本尊に向い、口に題目カを唱える内的経験をとおして必然的にしかも厳粛に実現するのである。これをたんなる理壇とよんでさげすみ、事壇と全く区別したり、あるいはその非国家的傾向を軽視するのは、本門戒壇をもっぱら国家主義的にのみ解釈しようとする偏向から生じた結果にすぎない。およそ個人の願望を無視して宗教はどこにもありえないのである。本門の本尊と本門の題目とが、個人の内的経験によって、統一される場所に本門戒壇の実現するのは当然の帰結であるといわなければならない。三大秘法の秘とは秘密の謂であるが、智顎はこの秘密を解釈して、「一身即三身を名づけて秘と為し、三身即一身を名づけて密と為す」(原漢文)といい、日蓮もこの解釈を引用(万法一如鈔 昭定遺2195頁)している。そこで秘密ということがこのように、一即三、三即一の関係を意味するものだとするならぱ、戒壇だけを本尊と題目から分離できない。換言すれば、妙法の本尊と題目を受持する当処が戒壇なのである。

 第四に、「三大秘法鈔」と「波木井殿御書」とのあいだに、思想上の謀作的な対応関係が指摘できるということである。「波木井殿御書」の系年は弘安5年10月7日、対告衆は波木井実長であるが、この書にも真蹟はなく、ただ本満寺写本が伝存するだけにすぎない。本書に、次のようなことが記されている。

   釈迦仏は霊山に居して八箇年法華経を説き給ふ。日蓮は身延山に居して九箇年の読誦也。伝教大師は比叡山に居して三十

   余年の法華経の行者也。然りと雖も彼山は濁れる山也。我此山は天竺の霊山にも勝れ、日域の比叡山にも勝れたり。・・・

   九箇年の間心安く法華経を読誦し奉り侯山なれば、墓をば身延山に立てさせ給へ。未来際までも心は身延山に住む可く

   候。(昭定遺1931〜2頁)

 以上の記述は、とくに身延山を本門戒壇の場所として選定することを何ら意味していないにもかかわらず、門下によってそこを戒壇の聖地とする口実をじゅうぶん与えていたと思う。もし日蓮がこのようなことを実際いったものとすれば、彼は、「海人漁人のとまやまでもわが遺跡と思ふベし」といった法然などに比較して、まことに宗教者らしからぬ思想のもち主といわねばなるまい。ことに自分の墓を身延山にたてることを委嘱するなどは、俗臭ふんぷんと鼻をつき、思想の見劣りが余りにも甚しい。しかし「法華経」の行者所住の場所を即是道場とよんできた日蓮が、身延山だけを特別視したとは、どうしても思われない。もし場所の重要性ということを、宗義的に立論するならば、開本両鈔を撰述した佐渡こそ第一位にあげられなければならない。身延在山の生活は九箇年に及んだけれども、この間の著者作、消息文にして、開本両鈔の思想を発展させたものは何も現われていなかった。もっとも身延生活を即是道場の意味で霊化したのであれば、それはもちろん背理ではない。「南条兵衛七郎殿御返事」に、「彼の月氏の霊鷹山は本朝此の身延の嶺也」(昭定遺1884頁)と述べられているが、これは、「波木井殿御書」の記述と異なり、「法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」といっているように、即是道場の帰結として語られていたのである。ちょうどこの消息文を執筆したのが、弘安4年、身延在山中であったから、そこを霊鷲山に比較して自負したまでにすぎなく、したがって身延山だけに自分の魂が永住しているとか、そこに墓をたてるベきであるとかいっていたのではない。「開目鈔」執筆のときは、佐渡流罪中であったから、「此は魂塊佐土の国にいたりて」と記していたのである。つまり「法華経」行者所住の場所は、野でも山でも、街でも村でも、在家でも寺院でも、いな樹下石上のいかんを問わず、全て本門戒壇なのであって、わたしはこれを日蓮における本門戒壇のポリセン卜リズム(多中心主義)とよんでおこう。

「波木井殿御書]は何故、聖地を身延山だけに限定するような口吻を漏らしていたのであろうか。それは「三大三大秘法鈔」に 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者歟」とあるいわゆる「最勝の地」を、おそらく日興門流が富士山であると強硬に主張し、そこに本門戒壇建立の聖地を選定しようとした動きに対抗する必要があったからであろうと推測される。換言すれば、「三大秘法鈔」と「波木井殿御書」とは、初期日蓮教団の分派抗争史の課程から生じた遺文の謀作対謀作の関係を暗示しているのではないか、ということである。もっとも、興門一派が何時ごろから「三大秘法鈔」の、「最勝の地」を富士山であるといいだしたのか明らかでないが、日興筆と伝えられる「富士一跡門徒存知事」には、「立正安国論」、「開目鈔」、「撰時鈔」、「下山鈔」、「親心本尊鈔」、「法華取要鈔」、「四信五品鈔」、「本尊問答鈔」、「唱法華題目鈔」などの主要遺文が列挙されているにもかかわらず、後世、富士門流が最も重大視している「三大秘法鈔」の名が記されていない。おそらく日興在世のころ、「三大秘法鈔」はまだなかったのであろう。もしあったとすれば、本門戒壇に関する唯一の顕文釈をふくむこの本鈔を、日興が看過するはずがない。なお本鈔と対応する「波木井殿御書」については、姊埼博士が十五箇条の理由をあげて偽作と判定したことがある。

 第五に、身延在山中の重要遺文、たとえぱ「撰時鈔」やf「報恩鈔」を三大秘法鈔に比較して生じる疑問は、前両鈔において、未曾有の国難、元寇の由来をもっぱら諸宗の謗法に求めていたのに、後者になると、そのことに一言半句もふれていないまま、唐突として戒壇建立に説き及んでいるという奇怪千万な事実である。こころみに「撰時鈔」の一文を引用すると、

   高麗六百余国も新羅・百済等の諸国等も皆々大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壱岐・対馬並に九国のごとし。闘

   謬堅固の仏語地に堕ちず。あだかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし。是をもつて案ずるに、大集経の白法隠没

の時に次で、法華経の大白法の日本国並び一閻浮提に広宣流布せん事も疑ふべからざるか。(昭定遺1016〜7頁)

とあって、大蒙古襲来を白法隠没の絶好の機会としてとらえ、しかもその白法隠没後に、太白法たる「法華経」の広宣流布することを期待し、当然、この期待の妨げをなすものが謗法としてはげしく折伏された。

闘諍堅固の時、日本国の王臣と並に万民等が、仏の御使として南無妙法蓮華経を流布せんとするを、或は罵巴冒し、或は悪

口し、或は流罪し、或は打掛し、弟子春属等を種々の難にあわする人々いかでか安穏にては候べき。 (昭定遺1017〜8頁)

ところが「三大秘法鈔」になると、こういう謗法にたいする一言のの折伏もなく、ただちに王佛折衷の論理を打ち出してくる。およそ一国同帰の戒壇建立の前提には、国内とりわけ王臣の折伏が逐行されていなければならないのである。後醍醐天皇の、日像への妙顕寺寺領の下賜も、天皇が「法華経」に特別帰依していたからではない。「神皇正統記」の所伝によれば、後醍醐天皇は日蓮のいわゆる「真言亡国」の信者でさえあった。「第95代。第49世。後醍醐天皇・・・仏法にも御心ざしふかくて。むねと真言をならはせ給う」他方天皇は正中2(1315)年、南禅寺に夢想疎石(1275、建治1〜1351、正平6)を招いたりしているのでも明らかなように、臨済禅とも関係していたのである。為政者としてみれば一宗一派に偏することば、政策上も賢明ではない。だから天皇が、法華や真言や禅の各僧と同時的に関係していても、なんらふしぎなことでないが、こういうことば、謗法を折伏しようとする日蓮の宗教からみれば許しがたいのである。

日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし。如是展転至無数幼疑なきものか。かかる謗法の国なれば天もすて

ぬ。天すつれぱふるき守護の善神もほこらを焼て、寂光の都ヘかヘり給ぬ・・・去文永9年10月に大蒙古の来しは偏に日

    蓮がゆヘにあらずや。(報恩鈔 昭定遺1222〜23頁)

もし「三大秘法鈔」が真撰の書であるならば、それは身延在山中の重要教義に関する代表遺文の一つなのであるから、当然、右に列挙した遺文以上に、元寇や謗法所破に言及するところがなければならないはずなのに、それが全くない。国内には謗法が上下をあげて充満し、国外からは蒙古襲来で物情騒然としているとき、この現実をよそに勅許の戒壇を建て、それを本門戒壇とよんでみたところでいったい何の意味がみとめられるというのであろうか。日蓮の教義からすれば、そのようなことは全く無意義である。

 第六に、「法華経」行者の自覚の宣表に関する「開目鈔」の叙述と、「三大秘法鈔」とのそれとのあいだに存する矛盾についで指摘しておかなければならない。「開目鈔」は、文永8(1271)年冬から翌9年2月にかけて、流罪地の佐渡塚原で執筆された日蓮の主著であるが、そこではこれまでの20余年の「法華経の行者」であったことを深刻に反省し、自己が経文に約束された末法の「法華経の行者」である自覚と抱負を述べている。その自覚と抱負の持ち方は、過去20余年の修行と体験を、経文に照合するという、きわめて宗教的な意味での実証を重んじているのにたいし、「三大秘法鈔」になると、「此三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥に教主大覚世尊より口決相承せし也」(原文和漢混合文)というきわめて、天降りの神秘的啓示の告白に変っている。つまり本鈔によれば、日蓮は生まれる以前から、 「法華経の行者」以上の地涌千界の菩薩であったということになる。しかしこれでは、「我が身法華経の行者にあらざるか」と、20余年身命を賭けた法華経」の行を、「開目鈔」で内省した意味が全く消失してしまう。「開目鈔」では、こう述ベている。

   既に二十余年が間此法門を申に、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず。大事の難四度なり。二度はしぱら

   くをく。王難すでに二度にをよぶ。今度はすでに我身命に及。(昭定遺557頁)

 これだけの受難をこうむれば、行者にたいして「法華経」に約束されている化人の擁護が、現証として当然なければならない。それがないのは、我が身が真実にまだ「法華経の行者」ではないからなのか、あるいは、たとえ現世で真実の「法華経の行者」であっても、その功徳を打ち消すほど、わが身の犯した過去世の罪業が 深かったから、化人擁護の現証がないのか。こう疑いに疑いを重ねて日蓮が最後に到達した決断は、「詮するところは天もすて給、諸難にもあえ、身命を期とせん」(昭定遺601頁)といういわば、現生利益盃をこえる捨身の姿勢であつた。これは、前世から上行菩薩を約束されていた、とする三大秘法鈔の神秘的な口決相承説とは、発想法を全く異にしてるといわなければならない。したがって、この「三大秘法鈔」という偽作遺文の所説を抹殺することなしに、「開目鈔」の主張は成立しないのである。

 最後に、「立正安国論」、「開目鈔」、及び「本尊鈔」における王法観と、「三大秘法鈔」のそれとのあいだにわだかまる矛盾を間単に指摘しておくならば、「立正安国論」では「王臣は不覚にして邪正を弁ずることなし]といい、「開目鈔]では、「賢王の世には道理かつべし。愚主の世に非道先をすべし」といい、そして「本尊鈔」では、「折伏を現ずる時は賢王と成て愚王を誠責」するとまでいいきって、王法折伏の鉾をゆるめていなかったのに、「三大秘法鈔」になると、急に折伏の鉾をおさめ、前の自説を根本からくりがえすかのように平然と王仏冥合を説きだしているのである。こういうことは、日蓮が精神異常者でない限り、ありうることではない。この点からも、わたくしは「三大秘法鈔]をとうてい日蓮の真撰遣文としてみとめることができないのである。

 以上、私見に基づき7箇条の理由をあげて、「三大秘法鈔」が、日蓮の真撰遺文とは、認められないことを推論してきた。すでに指摘したとおり、「三大秘法鈔」偽作諭は、今に始まったわけではなかった。それなのに偽作論よりは、傾向として、真撰論の方が日蓮門下のあいだではるかに支配的であったのは、学問的な理由によるのでなく、むしろ政治的な理由によるものであった。すなわち戦前の国粋的な日蓮系学者は、「三大秘法鈔」を、王仏具合を説く唯一の遺文として、政治的に利用し、これを教線拡大の口実としたのである。しかし封建政治が倒れ、絶対主義天皇制が変革された今日、王仏冥合の教説は世俗的な権力と権威の支柱を夫い、低級な思想レベルを上下し、反動政治思想との野合のなかに見苦古しい活路をみいだそうとしているにすぎない。いずれにしても、「三大秘法鈔」が今や偽作であることが判明した以上、日蓮を国立戒壇論者とみなす見解を否定する必要がある。妙法の本尊と、題目の受持当処を戒壇としながら、それを日本ないし一閻浮提までおしひろげてゆく広宜流布のための精進と修行と安心の目標こそが、わたくしは、日蓮の宗教における本門戒壇の正しい意昧であったと解釈する。「三大秘法鈔」は、じつに日蓮の宗教を歪曲する不潔きわまる偽撰遣文として日蓮門下は進んで廃棄しなければならない。

 

 

 

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