緒言

 

この書は、鎌倉時代に形成し確立された日蓮(1222、承久四〜1282、弘安五)の宗教を、他の鎌倉新仏教思想の文脈に位置づけながら、思想史学の方法に基づいて研究するのが目的である。

日蓮の宗教を研究の主題に選んだのは、鎌倉新仏教中、日蓮の宗教ほど思想史的にみて、複雑な問題をはらんで、それがこんにちまで強い影響を及ぼしているものは他に類がないと考えたからである。それだけに、思想史学の立場からみて、日蓮の宗教を選ぶことは研究の仕甲斐のあるテーマといわなければならない。他の鎌倉新仏教についても、それぞれ未決の少なからぬ問題を包蔵していないのではないが、問題の質と量は日蓮のばあいほどではあるまい。思うに日蓮のばあいは、新旧両思想の交叉する歴史的雰囲気のなかから、しばしば妖しく発散するカリスマ的要素の介在しているために、科学的照射を遮ることが余りにも多く、その正しい理解に到達するための道をつけるのが、ひときわ困難を免れないからである。

宗教のばあいを除いて、およそ単純な大人物はまれだといわれる。日蓮という史上の人物が真に偉大であるか否かは、みる人の価値感情の如何によることであろう。ただここで疑いなくいえるのは、彼の性格と、宗教思想の内容が、宗教史の常識を破り、必ずしも単純明瞭でなかった、ということである。相次ぐ官権の弾圧に抵抗して正法を必死に守りぬき、生涯権力に妥協することを拒絶した日蓮の宗教は、世法の権力と対決を回避し、主観的な心の世界に無難な亡命を企てた法然や親鸞や道元を理解するばあいのような、ある意昧での単調な筋道をたどることをゆるさない。たとえば、自力とも他力とも一見見分け難い教学的な思索の糸が、日蓮の宗教を縦横に織りなしているのである。この教学の特異性は、念仏の他力、禅の自力を共に打ち克たるべき抵抗とした折伏思想や、日蓮自身のおかれていた鎌倉仏教思想史掉尾の地位とも無関係なことではなかったように思われる。そのうえ、日蓮に特徴的とみとめられる合理的態度と呪術的態度との奇妙な混淆が、思想的には自他共力の折衷主義に由来していたことをも知らなければならない。権力からのはげしい弾圧に抵抗してゆくには、禅をしのぐほど強い自力の意志がなければならないし、苦難に直面して、闘志を慰め鼓舞するには、ときとして涙の谷の聖影を描く他力の感傷も必要となるだろう。日蓮における自他共力の折衷主義とは、まさにそのようなものであった。いいかえれば、純他力と純自力との、いわば中間的な折衷主義と複数主義とが、日蓮の宗教を非合理的に特徴づけるカリスマ的性格と、論争癖の強い主知性との思想的根拠であった。「念仏」を「無間」とののしりながら、称名と発想を全く同じくする唱題の易行や、西方浄土に範をとったとみなされる霊山浄土の往詣を説き、「禅」を「天魔」と破折しながら、冥想的な観心本尊を教門本尊に対置し、「真言」を「亡国」と呪いながら、自らは密教風の曼茶羅を図顕し、「律」を「国賊」ときめつけながら、律僧もおよばぬ出家の作法を厳守し、天照・八幡を本仏釈尊に比較して、とるに足らぬ小神と軽視しながら、臆するところなくこれを法華の番神に位置づけ、現世の孝養しか説かない儒家の聖賢を「有名無実」と批判しながら、自らは忠孝の倫理を説いてあやしまなかった。このような実例からも推定されるように、日蓮の宗教に固有な折衷主義は、日本宗教史の特徴である複数主義の、きわめて典型的な具体例であると解せられる。

史上の日蓮像についても、われわれは、法然、親鸞、道元のばあいのように、単調なイメージを抱くことを許さない。日蓮自身の言葉によれば、彼は、「法華経の行者」ということになるのであるが、この行者の自覚の地平には、客観的にみて、学僧、政治僧、験者僧、儒僧、さらに僧兵などの、雑多な姿が投影されていて、そのうちのどれがほんとうの日蓮像であるのか、理解に苦しませるものがある。以上のほかに、宗門人が、宗祖として崇拝する象徴的な日蓮の聖像を追加しなければならない。そうしてみると、日蓮をただ彼の言葉どおり、「法華経の行者」としてうけとるだけでは、日蓮に関するたんなる問題の提起にとどまり、その解決にはならないとみるべきである。

史上の日蓮像に関する以上のごときイメージの分裂から、さらに眼を転じて、日蓮の主要著作の内容に向けてみると、ここにおいても複数主義と折衷主義の思想形成が、単調な日蓮理解を困難にしていることを知る。日蓮の生涯と思想を、普通なされているように、佐前と佐後の二つの時期に区分するこころみは、あるばあいには妥当しないこともないが、それを定説とするには困難がある。なぜならば、日蓮が晩年力説してやまなかった主著の一つである「立正安国論」は、仏の爾前の説法になぞらえられた、佐前の時期に成立したものにほかならないにもかかわらず、その比重は佐後の開本両鈔に次ぐものだからである。「立正安国論」では、政教一致が理想として説かれ、一般に日蓮の宗教といえば、この書によってその特徴が回想されるほどである。ところが佐後の「開目鈔」になると、政教一致のような俗論は影を潜め、自らを「法華経の行者」とする内観の抱負に沈潜する反面、繊悔滅罪の自覚を展開するまでに変化する。また本鈔につづく、「観心本尊鈔」になると、「法華経の行者」に、理論的な確信をあたえる、事の一念三千観が思索され、「開目鈔」にみられる神秘的な激情は、鎮静されてしまう。わずかの時期においても、それだけの変化がみとめられる。

右に述べた開本両鈔は、いずれも佐渡在島中の撰述に属するが、甲斐国の身延山に隠退して後の、撰時、報恩の二鈔になると、佐前の「立正安国論」に呼応するような、予言者的な神秘の熱情が、折しも元冠の難の実際の到来をまって再び鮮明によみがえってくる。こうして日蓮の宗教思想は、後世、五大部とよばれる主要撰述においてさえ、なお不協和音をかなでていたのである。戦時中、皇室の尊厳にたいする不敬思想のゆえに、官権によって告発された日蓮の遺文が、ちょうどその時点において、最も皇室の尊厳を権力の精神的支柱とする軍人のあいだから、少なからぬ帰依者を輩出したのも、いわばそういう不協和音の奏する悲喜劇の一例にすぎなかったといえよう。「大瀑布の天より落つるが如く、始より終まで段落なく章節なく」とは、高山樗牛の「開目鈔」にたいする評語であったが、たんに「開目鈔」だけでなく、日蓮の文章は、一気呵成に書かれたものが多く、それだけに読者にたいし感動を与える反面、論理のキメのこまやかさを欠き、読者に誤解をいだかせたり、信者に歪曲の口実を与えやすい傾向を免れなかった。本書は、こういう問題のきわめて多い日蓮の遺文を研究対象にとりあげ、これに科学的分析を加えようとしているのである。中世思想史上の日蓮の全貌は、根本資料となる遺文の思想史的研究が、現在の未開拓状態にとどまっている限り、まだまだ神秘の薄霊のなかに、正体を隠す点が多い。もとよりわたくしは、本書において、日蓮の全貌が全く残りなく、真昼の太陽の下にさらけだされたなどと自負しているのではない。ただ自信をもっていえるのは、教団所属の学者によってほとんど全く無視され、教団外の歴史家によって、こんにちまでわずかに先鞭をつけられたにすぎない未開の研究領域を、本書が幾分なりとも前進させえたのではないか、ということだけである。

鎌倉新仏教を、西欧の「宗教改革」と類型的に考えるのは、両者の歴史的状況を全く無視するものとして、わたくしはこの考えに賛成できなかった。わたくしは、日蓮の宗教を、他の鎌倉新仏教と同様、日本中世の封建制宗教としてとらえたうえで、古代世界への対応の仕方や、封建制過程の時間的落差や、またそれぞれの宗教に深く刻みこまれた歴史的個性を重視しようとした。その結果、古代のまどろみからまだ完全に覚醒していなかった鎌倉新仏教を、ヨーロッパ中世の封建制の解体過程から、農民一揆などと結合して現われた宗教改革に比較して、その歴史的意義を過当に誇張することの誤りを指摘せざるをえなかった。比較宗教史的観点からすれば、鎌倉新仏教の思想史的地位は、むしろ中世基督教に対比さるべきものであろう。古代の終りと、中世の始まりに位する鎌倉新仏教の持つ革新性は、日蓮をふくめ、古代仏教に相対したばあいにだけみとめられるのであって、それは、中世的世界がそこから打ち破られ、資本主義の精神の曙光を告げたような宗教改革と比較しうるほど、画期的な現象ではなく、またそのひろがりの規模についていえば、宗教改革にみられたような国際性は全く皆無であったといえよう。

鎌倉新仏教に現われた現状打破の革新性は、念・禅・法華の別なく、辛うじて、それぞれの祖師在世の一時期だけにとどまった。それは滅後教団の門下によって向上発展させられることなく、とりわけ日蓮の宗教のばあいのごとき、かえって退歩堕落の過程をたどる有様であった。西欧思想史において、カトリックからプロテスタンティズムが、プロテスタンティズムから民主主義が、民主主義から社会主義が生成し展開したような思想発展のダイナミックな経路を、われわれは、王朝仏教と鎌倉新仏教とのあいだに、あるいは、鎌倉期以降、南北朝から室町期をへて、徳川、明治の各時代の仏教史の変遷のうちにみいだすことができない。日本仏教の思想と制度の多くは現代においてさえ、ほとんど近代化以前の段階にとどまっている。明治初年に行なわれた暴力的な廃仏毀釈は、神仏分離に端を発する、平田派神道によって企てられた、たんなる反動現象にすぎなかったけれども、このような現象を誘発した背後には、鎌倉新仏教の伝統をふくめて、長く封建支配の道具と化し、それに甘んじてきた日本仏教への根づよい民衆の不満がみなぎっていたことはいうまでもない。自由民権運動の後退した明治20年代以降、日本仏教が挙げて国権主義の軍門に馳せ参じ、反動思想の精神的積秤となったのも、いうなれば封建制宗教としての歴史的骨格を固めつづけてきた日本仏教の当然の帰結であったといえる。そういう反動的役割の水脈は、徳川時代からさかのぼって、源を鎌倉新仏教のうちにさえ、探求することができるのである。無から有は生じない。近代になってからの鎌倉新仏教の歪曲と堕落の原因は、遠く鎌倉新仏教の祖師の思想のうちに潜在していた、とわたくしはあえていいたいのだ。祖師はよかったのであるが、滅後の門下がいけなかった、という弁解の声を、われわれは教団系以外の、しかも革新的な抵抗史観に立脚する学者のあいだからさえ耳にすることがまれではない。なるほど鎌倉新仏教が王朝仏教のたんなる延長ではなく、その否定の努力や修正の傾向をはらんでいたことは、もとより高く評価されなければならない歴史的事実であろう。法然、親鸞、道元が例外なく南都北嶺からの抑圧をこうむったのも、彼らの思想のうちに、古い価値や秩序にたいするなんらかの否定の精神が働いていたことを立証する。日蓮のばあいも旧仏教からの被害者に立たされた点では、念・禅の祖師たちと全くひとしかったといえる。したがってわれわれは、鎌倉新仏教の旧仏教とは異なる思想史的な進歩の足跡を全面的に否認するつもりはない。しかし天皇制の護持を精神的に全く拒絶しえなかったばかりでなく、王朝旧仏教の遺産たる王仏不二の思想と信仰を継承して、そこから皇室の権威に阿諛迎合しようとする滅後各教団の俗化と退廃の原因は、鎌倉新仏教の祖師たちが不用意にも皇室の権威にたいする忠誠観念を根絶していなかったということのうちにある事実を、わたくしはどうしても看過するわけにはゆかないのである。滅後各教団の退落コースは、けっして史上偶然に展開されたのではない。してみれば、祖師はよかったのだが、滅後の門下や教団だけがいけなかった、という弁解に安んずるのでなく、そもそもよい教祖から、どうして悪い門下や教団が生まれてきたのであるか、という事実を深く追求することを、むしろ重要なことだと考えたいのである。稀代の俗僧蓮如が、親鸞の法脈をうけついで出現したのも、日蓮の折伏弘通が、頑迷な狂信者を生みだしたのも、禅の祇管打坐が、社会悪との対決を回避して、主観の心の世界に亡命を企てさせたのも、たんに後世をまってはじめて生じた歪曲現象とばかりはいいきれない。それゆえわれわれは、科学的理性をくもらせることなく、こんにち祖師の祭壇に足をふみこませ、神聖のべールをはぎとり、さまざまな技巧的イドラを一度思い切って解体してみる必要がある。祖師が伝説化されたような真に偉大な人物であったならば、科学的照射によって、その人物の価値は微動だにしないはずであろう。真の宗教は科学を超えることがあっても、科学を否定するものではない。

さて科学的な思想史的方法を、宗教史上の人物の研究に適用するばあい、その人物の活動を深くささえている価値の構造にまで、科学の光をおくりとどけることができず、とかくその人物の外形的な表皮を撫し、あるいは周辺を俳徊するだけの結果におわりやすい。換言すれば、理解すべきものを、ただ認識するだけにとどめるような欠陥を免れない。しかしこれは思想史的方法だけの欠陥なのではなく、一般に科学的方法の免れない限界である。たとえ理解を欠き同情をもたないばあいでも、科学的方法は、冷厳に、認識の仕事を遂行してゆかなければならないし、また、理解や同情を持つばあいでも、それを認識の仕事と対立させることなく、かえって認識の次元のうちに定着させ位置づけるのでなければならない。主観の価値感情を、対象の内部へ投入することなしに捕捉できない、との理由で、宗教上の人物の認識を拒絶する不可知論はなりたたないと思う。たとえ神といえども、われわれ人間にとって認識できるのである。すでに神という言葉が、人間のつくりだした言葉ではないか。聖書も経典も、すべて人間のうみだした作品である、とする科学的命題を拒絶しうる理論も実証もまだないのである。

従来の歴史学者による鎌倉新仏教の研究成果を概観すると、史実の側面に偏し、教学遺産との取り組み方がすこぶる弱かったように思われる。およそ教学というものは、信仰を生命とした宗教的人物の頭脳の所産であるから、これを軽視したり無視したりしては、思想史的研究も皮相にとどまり、とうてい科学的認識とよぶことさえできぬものとなるであろう。しかし思想史の研究は、宗門の教学史とは異なるのであるから、同じ教学を研究するばあいでも、歴史的思惟をできるだけ外面に現われた事実との因果関係に結びつけてみなければならない。外面に現われた歴史的事実を皮相とし、内面に現われた宗教的自覚だけを深遠とするのは、いわば主観主義者の独善にすぎないのであって、どのような宗教的自覚の内奥のすみずみにまでも、外界の歴史性は漏れなく滲透しているのである。思想史の研究は、個人主観の内面に正体を隠す冥想を問題としているのではく、じつに外面に現われ、歴史の動きと四つに取り組んでいる思想を問題とするのでなければならない。思想とは、存在や行動を表現する社会的歴史的な意識形態のことである。これに比較すると、教学は思想いな冥想ですらありえないばあいが多かった。

歴史上の日蓮を宗教者とみなす以外にも、思想家とよぶことにちゅうちょする必要はないように思われる。なぜならば、宗教者としての日蓮は、信仰の領域からたえず外部にはみでて、その時代の政治や道徳と深い関係を切り結び、時勢の変化を、宗教の布教に巧みに利用し、かつ向外的に行動していたからである。何も抽象的な思索の表現に長ずることだけが、思想家の唯一の条件ではない。親鸞の「教行信証」、道元の「正法眼蔵」に比較できる著作を残さなかった日蓮は、時事評論的な多数の消息文を倥偬のあいだに執筆し、それによって、彼は親鸞、道元以上の思想家でありえたばあいもないわけではない。史上の日蓮は、北畠親房らと並ぶ中世の史論家であり思想家であった。彼の遺文がたんに一宗だけの宝典にとどまらず、中世史研究の重要文献とみなされるようになったのも、鎌倉新仏教の他の祖師に類をみないほど、歴史にたいする深い関心を示していたからである。「仏法を学せん法は必ず先づ時をならふべし」とする歴史的な時の自覚が、日蓮の法華信仰を縦断している。もちろんこの自覚は、「法華経」の本門の真理を最高とする信仰と結合していたし、そのうえ日蓮という人物は、頭で考えるよりも心で感じとる神秘的傾向の強いところがあったから、思想には、つねに非合理の陰影が深く刻みこまれていた。しかしこの種の傾向は、日蓮だけではなく、程度の差こそあれ、およそ中世的世界に住む人たちの共通する点であったといえる。したがって、わたくしは中世史上における日蓮を思想史的に研究することの意義と必要およびその可能を、何のためらいもなくみとめるものである。

日蓮には、珍しく真蹟の消息文が多量に現存している。文献学的に吟味すれば、真蹟は百五十余篇、断簡零墨を加算して、二百数十点の量に及ぶ。このようなことは、一見すると、いかにも研究上の便益を提供しているように思えるが、実際は必ずしもそうではない。なぜならば古来の真蹟鑑定に問題のあるものもあれば、偽撰遺文が真蹟現存遺文以上に影響をあたえた事実もあるからなのである。消息文の数量が多いだけに、消息文相互の表現に出入や矛盾はいたるところ介在し、研究者の解釈と理解をいちじるしく困難にするばあいも多い。伝記の研究でも、史料が豊富であるといわれながら、史料の乏しい親鸞、道元の伝記の研究ほどに進んでいるとはいえない。「栴陀羅」の児を自称した日蓮の生年月日や在俗氏姓については、こんにちでさえ伝説に一任されている有様である。だから、日蓮研究の史料は、じつをいうと豊富なのでなく、ただ雑多にすぎないだけだといわなければならない。そしてこの雑多な史料の文献学的な検討と整理の仕事は、現在まだ漸くその緒についたばかりである。それがため、わたくしの思想史的方法による日蓮研究も、文献学上の未決の問題の前に、しばしば立ちとどまり、いくたびか研究の進行を阻止されなければならなかった。元来、文献学を専門としていないわたくしは、右に述べたような研究上の隘路を打開する方法として、従来、日蓮の真撰遺文としてほとんど一点の疑いももたれなかった「立正安国論」、「開目鈔」、「観心本尊鈔」、「撰時鈔」および「報恩鈔」を標準書にえらび、この標準書と引き合わせて、他の遺文の真偽や、そこに現われた思想の評価を行なうように配慮したのであって、これはおそらく文献学者でさえも首肯せざるをえない確かな方法であろうと思われる。もちろんそうしてみてもなお方法上の不安や疑点が残りなく一掃されたわけではない。それは五大部相互に思想上の差異があり、一つの遺文の特定箇所の問題の解釈についてさえ、じつに多種多様な異なった見解を受容しうる余地が少なくないからなのである。しかしそれらの事柄は、今後の研究によって解明されるほかない。

本論文は全部で四編から成立する。第一編は護国思想の展開と変容を課題とした。すなわち「立正安国論」に現われた護国思想を広く仏典のなかから、その源泉を汲みあげるとともに、天台、真言、念仏、禅における護国思想と比較しながら、日蓮の国家観の一般性と特殊性を明らかにしたのが第一編の内容である。この第一編の論文によって、日蓮の宗教が一見、過剰なほどの国家思想をもって蔽われているにもかかわらず、その本質においては、正法為本、法主国従、仏本神迹にほかならぬことが、疑いのないものとなるであろう。

第二編は、鎌倉新仏教に与えた儒教道徳の影響の事実を実証してみた。これは第一編でとりあげた護国思想も儒教道徳の影響なしにありえなかったことからくる当然の課題設定といえよう。そもそも儒仏の二教は、律令国家と封建国家の時代を通して、支配階級のイデオロギー的な二大支柱であった。この事実を、日蓮の儒仏折衷思想であるところの五戒五常説によって明らかにしようとしたのが第二編の内容である。宗教も世俗に同化するためには、どれほど世俗道徳に依存せざるをえないかを、第二編は明らかにしていると思う。

第三編では、日蓮の末法思想のなかに奇しくも折り重なっている信仰と歴史的思惟の関係を考察してみた。エミール・ブルンネルは、「信仰に歴史的思惟を織り込むことは背理である」といったが、日蓮にとって、歴史的思惟を織り込むことは、「法華経」を末法救済の至法とする信仰生活の要請のうえからも、緊要不可欠な課題であった。歴史感覚に遅鈍な仏教が、印度からシナを経て日本に移植されると、実際的功利的な民族性と深く触れ合い、仏典のなかに教説として眠っていた末法思想が、よびさまされて、それが外在する歴史的な危機意識と結びつき、きわめて重要な役割を果たすようになった。このことを、末法の「法華経の行者」を呼称した日蓮についてみたのが第三編の内容である。前に寿永・承久の乱があり、後に元冠の役が迫り、その中間に、連年の天変地夭飢饅疫癘と宝治の合戦が継起した13世紀の時点は、日蓮ならずとも末法思想を抱かせるにじゅうぶんな悲観的諸条件をそろえていた。しかもこうした条件のなかにありながら、ペシミズムにおちいることなく、正法.像法の時代よりも、かえって末法の当今に値遇したことを、このうえなき生甲斐として感じた日蓮の宗教の、強烈な歴史意識を、法華信仰との関係をとおして述べたのが第三編の主要点である。

第四編は、仏教倫理思想の恥部ともいうべき低調な罪悪感の問題をとりあげてみた。仏教をふくめて、東洋思想が一般に、罪悪感を欠き、責任の倫理に乏しいことは、アメリカの女流人類学者ルース・ベネディクト(1887〜1948)が、「菊と刀」(1945)のなかで独創的に指摘したとおりであって、これが指摘は仏教にも全くあてはまらぬわけではない。罪悪の実在を時の無常の流れのうちに解消し、あるいは呪術信仰の偉力にうったえて悪業のむくいを消滅するという考え方は、倫理的には、罪悪感や責任の自覚の低調をもたらしたといえるであろう。このことを日蓮についてみるならば、彼は、殺生を職業とする武士の階層と深く交わっていたので、生命尊重の倫理を貫徹することができず、一殺多生や謗法斬罪のごとき、生命否定の思想をもいだいていたことである。「法華経」の受持即戒という信仰的主張は、浄土教などと同様に末法無戒思想につらなり、不殺生戒を重視しない結果となった。こういう不殺生戒の軽視は、近代以降、日蓮の宗教が政治上のテロリズムや、戦争の正当化をもたらす遠因とすらなった。慈悲を強調したはずの仏教思想のなかから、なぜ、殺生是認の倫理が発生したかを、日蓮を中心に考察したのが第四編の内容である。

以上の四編につづいて、第五編に、「日蓮の宗教と近代ナショナリズム」の論文が予定されていたのであるが、すでに第四編までで一千枚を若干うわまわる分量に達したため、残念ながら割愛するととにした。ただここで論文の骨組だけを簡単にいっておくならば、第五編は、明治二十年代の教育宗教衝突論争前後の、ナショナリズムに対応する仏教界の動勢を概観し、とくに田中智学・本多日生らの日蓮思想の国家主義的歪曲、内村鑑三、高山樗牛らの日蓮の非国家主義的精神の再認識、北一輝におけるテロリストの立場からの日蓮への傾倒などをとりあげ、近代人の日蓮観を、その時代の歴史的状況との関連の下に考察して、日蓮の思想を反射的に明らかにすることに役立てていることである。

創価学会を母胎とする公明党の政界進出、反権力的な日本山妙法寺の非暴力主義的平和運動などにみられるような社会現象がわれわれの眼前に展開しているとき、日蓮を信ずるも信ぜざるも、現代のわれわれは、客観的史実をとおして、彼らが祖師と仰ぐ日蓮を理解しておく必要と義務があるのではないか。史上の日蓮の思想を理解することは、今や日蓮系門下だけの限られた小さな課題ではないように思われる。しかし日蓮の宗教と思想は、戦前からもそうであったが、戦後20年を経たこんにちもなお、正しく認識され理解されているとはいえない。したがって、現代の日本人が、日蓮から何を学びとり、何を捨て去るべきか、というととも、思想的にはまだ明らかにされていないのである。これは目蓮だけに限ったことではないが、13世紀の宗教思想の価値が、その古典のまま、現代に妥当しうるはずはない。当然、現代の視角をとおして、きびしい取捨選択を必要とし、また、この必要にこたえるために、価値判断を排除した、実証的な事実認識を、まず歴史学の分野において遂行しなければならない。本書は、じつにこの課題を、日蓮を中心とする鎌倉新仏教一般について設定し、思想の客観的復原を企てながら、現代的評価のための貴重な素材を提供しようとしたことにある。それがどの程度に成功したかは、これからの学界や読者の批判にまたなければならない。しかしこの書の特色は、事実を明らかにするだけでなく、日蓮を中心としつつ、法然・親鸞・道元等の思想の論理構造を批判的に分析し、それぞれの矛盾点や限界線をみきわめることにある。わたくしは、鎌倉新仏教だからといって、手放しで激賞するような安易な気持ちになれなかった。後世、高い評価をうけうる革新性がみとめられるにもかかわらず、内蔵する限界が、祖滅後の法華・真宗・曹洞等の教義・教団の歴史的な変質と退化の内在的根源をなすものであることを知ったからである。鎌倉新仏教の美質を歴史のなかから探り出すためにも、それを妨げている歴史の黒い垢をこのさい思い切って、一度は洗い落としてしまわなければならない、というのが、この研究をとおして得た日蓮を中心とする鎌倉新仏教一般にたいしてのわたくしの結論的な主張なのである。

 

 

 

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