上行化現の日蓮

 

曽我量深

 

 

現代思潮と四箇格言  

信仰の門戸はいたって小なり、しかしてそれはただ一箇なり。むべなるかな、過去億兆の生霊が、惨憺たる苦楚によってこの清閑の門牖を求めつつ、滔々として九十五種の邪道に彷徨し、阿鼻焦熱の大城はあまねく三千大干を呑みて、啼叫の声海岳ために震い、人々みな頭下足上、恬として一人のこれを怪しむなきを。そもそも宏量は美徳なり、ただそが碌々たる日常事に関係する間は、深厚なる賞讃に値せん。もし、それ永劫の大問題に関して、暖昧姑息懈慢なる宏量は、断じて認容すべからざるものとす。およそ宗教の信念は、あたかも秋水したたる利剣の向こうところ、また金鉄なきがごとく直截簡明なるを要す。旗幟は明瞭なるが上に明瞭ならざるべからず、鋒端は鋭利なるが上に鋭利ならざるべからず。信仰の上には唯一真理ありて、はるかに一切の情実と愛着とを断絶せざるべからず。父母妻子と君主と家族と国家とは、宗教の第一義の上よりせば第六天の魔王なり。いわゆる第六天の魔王とは他なし、吾人心中の根本無明これなり。これらの差別は明らかに吾人の先天に有するところの元始無明の産物にして、同時にこの無明に対してのみ、暫時その存在の権理を有するのみ。仏教に八万四千の法門あるは、けっして我等の大いに誇るべき長点にあらず、むしろ仏教の最大の短所なり。二乗三乗四乗五乗は、これ慈愛に満ち給える仏陀が、時機いまだ到来せざるがためにやむなく第六天の悪魔に類同し、しばらく、涙を呑み、屈辱を忍んで、発表し給える方便の邪道に過ぎざるなり。されば世尊は山岳のごとき過去の教訓に対して、『大般若経』には「一切皆空一字不説」と喝破し、『無量義経』には「四十余年未顕真実」と宣言せられたり。これ他なし、宇宙の真理の唯一にして、能入の信門したがって唯一微小なるをもってにあらずや。

これゆえに、いわゆる仏教通と称する輩、揚々として八万の法門を喋々し、得々として如来の啓示いたるところにありと喃々するがごとき、もしそれ円熟せる信仰を得たるものの言としては可ならんも、ただ朦朧たる酔眼をもって、漠然たる言をなすものなりとせば、この世の眼目として任ずる宗教家の言として、けっして許容すべからざるなり。吾人はよろしく旗鼓堂々、怠慢無責任なる彼を叱責し、真理の闡明に尽くさざるべからず。

見よ、過去一切の宗教的先覚の旗幟は、はなはだ鮮明なり。南無阿弥陀仏は、これ法然・親鸞の旗幟にあらずや。南無妙法蓮華経は、これ我が日蓮の聖旗にあらずや。坐禅はすなわち達磨・道元の旗幟にあらずや。真言はこれ空海の旗幟にあらずや。人はこれをもって宗教の真精神にあらずして、ただ一箇方便の儀式に過ぎずとなす。しかれども、宗教の上には儀式はこれ精神の方便もしくはその表白にあらずして、直ちに宗教の真生命そのものなり。宗教にありては信仰と儀式とは唯一なり、儀式以上なんらの精神なし。されば念仏と題目と坐禅と戒律と真言とは、これ直ちに信仰の生命そのものなり。ただ念仏と云うなかれ、ただ題目と云うなかれ、宗教の上には一称の念仏、一口の題目、これ直ちに悲智円満百福荘厳の如来なり。南無阿弥陀仏をもって仮に如来の御名と云う、されど、この名号によりて表顕さるべき実体の如来の外に存するにあらずして、この六字の言語これ実に生身の如来なり。五字題目は、これ法華廿八品を表示する題号に過ぎざるにあらずして、刻実すればこれ実に廿八品の実体なり。法華廿八品あり、しかしてのち五字題目あるにあらず、五字題目ありて、しかしてのち縁起して廿八品の経巻となる。換言すれば、題目は『法華経』廿八品中より抽象せられたる概念にあらずして、甘八品縁起の実体なり。これ、はなはだ常識の所見に反するがごとしといえども、いやしくも宗教に入らんと欲する者の必ず理会を要するところとす。宗教の儀式をもって、ただこれを一層高遠なる大精神の表象方便となす間は、とうてい宗教を解すべからず。かくのごとき輩は口を開けば宗教家の偏狭を潮笑し、宗教の本体の宗教儀礼以上に存するを喋々し、各宗教の相違するはむしろはなはだしく重要ならざる教義や、さらに重要ならざる儀式にありとし、かくのごとき浅薄なる儀礼の枝葉の上に黒白を諍う宗教家の愚狂を冷笑す。しかして彼等はこの宗教の本体の上に一切歴史的宗教を総統して、理想的宗教を構成し、一切の儀式を廃して、しかして宗教を統一し得たりと称す。一見はなはだ巧妙なるがごとくして、しかも特別なる生命ある宗教は忽然跡を絶ち、空虚なる学問的概念と化し終わる。これ、けだし宗教における儀式の真意義を捕捉し得ざる浅薄なる識見のいたすところのみ。

それ六字名号、七字題目、人はその本質の何物なるやを疑わん。しかり、すでに名号と云い、題目と云う。その実体の言語にあるや明らかなり。名号とは南無阿弥陀仏と唱うるの謂いなり、言亡慮絶の捕捉すべからざる不可知の体にあらずして、吾人が容易に口をもって顕わし、耳をもって聞き得る言語なり。名号ありて、しかしてのち、これを唱うるにあらずして、実にこれを唱うるほかに名号なるもの存在せざるなり。名号は声と語とのほかに実在せざるなり。されど、これによりて名号の実在を否認するにあらず、ただ言語以外に別の執持し得ざる奇異なる名号の存在を拒否するなり。すでに言語以外の実在を拒否す、すなわちこれ明らかに言語なる名号そのものの上に、直ちに宇宙の大精神を認容するものなり。もちろん学術上より云わば、言語は単に思想の表示の記号なり。言語ありてのち思想あるにあらず、思想ありてしかしてのち言語あり。されど、これ誤謬なり。世に言語なき思想ありや、世に思想なき言語なきと同時に、言語なき思想は存在せざるなり。思想の分量と言語の分量とは必ず精密に相等し。すなわち思想と言語とは実に一体に過ぎず、言語を外とし思想を内とするは、これ実に吾人人類の思想上の妄念にして、したがって吾人が常に内に自由の思想を包懐しながら言語文字の不完全なるがために大いに思想の妙力を減殺せらるるを感ずるは、そのじつ思想の暖昧なるによって言語を自由に応用し得ざるなり。言語は思想の記号にあらずして直ちにこれ思想なり。六字名号や七字題目をとりて、これを言語文字の方便記号とし、したがって題目と名号と口唱するをもって宗教の閑事とし、これを看過せんと欲するは、これ豈、宗教に対する根本的誤謬にあらずや。

吾人さきに云えり、宗教の門戸はいたって小にして、唯一なりと。また言えり、宗教の真理は簡明直截ならざるべからずと。もしそれ儀式と精神と、その体おのおの別ならば、精神ははなはだ高遠不可知となりて、吾人のとうてい捕捉すべからざるものとならん。もしそれこの不可知の霊体を、複雑なる思想によってこれを捕捉し得るものなりとせば、学問なき者はとうていこれに達すべからず。かつ賢愚は相対なり、人智は極限あり、不可知の霊体はとうてい不可知なり。いかなる愚者もまたこれを賢なりと称するを得ると同じく、いかなる賢者もまたこれを愚なりと称するを得べし。吾人はとうてい愚者の領域を脱する能わざる以上は、吾人の思想はとうていこの不可知の実在に対して、依然一歩をも近邇する能わざるなり。吾人は儀式を軽蔑する世の学者の、なにゆえにその智識をも軽賎せざるやを疑うものなり。畢竟、儀式と理想とは不可知の実体(もし存在すとせば)に対しては、同等地歩を占むるものにして、理想に対して儀式を爾く蔑視するゆえん、毫も存在せざるなり。学者がいわれなき空想を逞しくするは、けっして漠然として南無妙法蓮華経と唱うると毫末の優劣なきなり。吾人は、むしろ煩雑なる空論に日を暮らすよりも、簡単なる題目を漠然唱うるを勝れりと思惟する者なり。いわんや漠然として空論を弄する学者に対して、題目の名言の上に無上の霊体を自覚するにおいてをや。学者もし学者の真価を決定せんと欲せば、言語儀式の最大の価値を認定せざるべからず、すなわち思想と言語儀式との一体を確信せざるべからず、すなわち言語儀式をもって直ちに思想、しかして直ちにこれ宇宙の実在と自覚せざるべからず。科学的宗教は独り儀式的宗教を滅せしむるに止まらず、科学自己の滅亡を宣告するものなり。儀式を否定する科学的宗教は畢竟矛盾を有する空言のみ。彼の言が痛快を極むるだけ、それだけますます自己の愚を発表するに過ぎざるなり。

題目と云い、名号と云い、真言と云い、ひとしく言語的儀式なり、坐禅はすなわち身体的儀式なり。この身語の儀式はすなわちその宗教の神髄なり。されど一切の複雑なる儀式はけっして宗教の神髄なるべからず。宗教の信仰が簡単直截なるがごとく、その儀式また極めて簡単直截なるを要す。この点において種種煩多なる苦行を奨励する小乗教は、けっして宗教の真の精神を得たる物となすべからず。禅宗の坐禅の儀式のごとき、けっして簡を尽くせるものにあらず、彼は一念頓成を主張するに拘わらず、その入道の至難なる、とうてい常人の入る能わざるところとす。この点において日蓮の題目、法然・親鸞の念仏は、宗教の根本的儀式を把持するにおいて、ともに完全に達せるものなり。彼は七字題目をもって宇宙の根本主義、宇宙人生の一切活動の最元となし、これは六字名号をもって久遠実成十劫出現の如来となし、同時に吾人人類の一切活動の帰趣となす。もし果たして爾らば、念仏と題目とついに相調和し得べしとなすや。かれこれともに一切儀式の根本的実相を求めて、一は念仏に到着し、一は題目に到達す、ともに簡の頂上なり、ともに易の極致なり。しからば念仏題目の宗義諍論のごときは、畢竟卑劣なる狭量より来たるとなすべきか。曰く否、断じて否。

そのもって云わんとするところは何。念仏は畢竟、念仏にしてこれ最終唯一の実在なり、これをまたさらに変化すべからず。題目は畢竟、題目にして元始の唯一真理、これをさらに要略すべからざればなり。題目は日蓮の真理にして、念仏は法然の真理なればなり。日蓮のほかに題目なく、日蓮則題目、題目即日蓮、法然のほかに念仏なく、法然即念仏、念仏即法然なり。法然のとうてい法然にして日蓮にあらざるがごとく、念仏はとうてい念仏にしてついに題目にあらず、日蓮のとうてい日蓮にして法然にあらざるごとく、題目はとうてい題目にしてけっして念仏とならざるなり。題目がその体質純一にして分析する能わざる以上は、とうていこれを念仏のごとく改造する能わざるなり。法然は分かつべからざる実在なるがゆえに、その性格を分析し、これを加減して日蓮を造るべからず。畢竟、法然の上に幾分の好ましからざるところありて、吾人の全生命を挙げてこれが奴隷たるを甘んぜざる以上は、吾人は根本的にこれを排斥五伐せざるべからず。究竟の信順か、しかずんば究竟の反抗か、究竟の崇敬か、しからざれば究寛の卑賎か、いずれかその一を選定せざるべからず。いずれにするも、宗教的信仰そのものたる宗教的儀式は唯一至簡ならざるべからず。

日蓮の折伏主義はここに来たれり。七字聖語の敵は何ものぞ。念仏と禅と、真言と戒律となり。日蓮すなわち宣して曰く、念仏無間禅天魔、真言亡国律国賊と、これけっして理なき痛罵の声にあらず、また学術上より下せる力なき断定にあらず、四箇格言は誠に彼が法華廿八品の本体たる五字題目に対する血註なり。五字題目中果たしてかくのごとき乱暴なる意義ありや、世人の大いに驚駭するところならん。されど廿八品をもって五字首題の註解としたる日蓮の眼中、明瞭に妙法蓮華経の五文字中に四箇格言の意義あることを認めたり。彼まず題目を唱え、しこうしてのち廿八品の経典を披読す。かくすること幾万度、しこうして彼は初め廿八品の経典中より要義大綱を抽象して、五字首題を置きしものとしてこれを看過したり。しかり、この看過は独り彼日蓮の看過にあらずして、遠く二千六百年にわたれる看過なりしなり。二千六百年間の仏教歴史はこの題目を看過したる歴史なり。龍樹世親の大菩薩またこの題目を看過したり、慧思智の法華の偉聖またこれを看過したり。日本の伝教大師またこれを看過したり。それこの数者の先覚は仏教史上の明星、法華経宗の眼目なり、しかも平等にこの題目を看過して、単に廿八品の要義の掲示に過ぎずとなす。二千六百年間の『法華経』は首級生命なき『法華経』、死せる『法華経』に過ぎざりしなり。天台智その迹門によりて一念三千三諦三観を発見せし点において、はなはだ偉なりといえども、彼はなおこの一念三千三諦三観の本源生命の五字首題に存するを知らざるなり。一念三千諸法実相、その思想の深玄、その構造の広潤、世尊一代の教義、宇宙無尽の秘奥を開顕摂入し、吾人をして暐曄煥爛目を眩せしむるにたれり。されど理論は容易に実行すべからず、一念の妄心の上に三千の諸法を観ずと云うも、その実けっして要領を得たりとなすべからず。一念は依然一念なり、三千は依然三千なり、罪は依然として罪なり、無明は依然として無明なり、空は依然として空なり、有は依然として有なり、中は依然として中なり、人間は依然として人間なり、地獄は依然として地獄なり。理論の巧妙は巧妙を極むるほど実行上、ますます要領を得ず。小乗の戒律的苦行に反対して興起せる識見観想の大乗教、易行頓悟の妙教は、小乗の外形的煩瑣なる苦行に比して幾層煩瑣なる冥想主義となり、冥想また冥想、心緒ますます乱れて、ついにいかんともすることなし。煩瑣は依然たり、ただ外形的煩瑣変じて内面的となれるのみ。三千威儀二百五十戒その要を得ること難しといえども、しかもまたはなはだしからず、いわんや五戒あり十戒あり、やや捕捉に便なるがごとし。ただそれ一念三千の観に至りては、吾人は忽然眼を開きて身茫々たる大洋の中央なる一葉身にあるがごとし、茫然自失せしむ。ああ、これ生命ある『妙法蓮華経』の教えるところならんや。これ明らかにその本末を顛倒し、廿八品の経巻の、源五字首題より縁起してこれが註解に過ぎざるを知らざるが致すところなり。日蓮、『妙法華経』を誦する幾万遍、いつしか諸法実相の真理の本体の、釈尊の人格に存するを感じ、この経全部の中に釈尊の尊厳なる人格の無限の力をもって活躍するを見たり。すなわち日蓮は釈尊を単に『法華経』の説者として見ずして、廿八品全体が釈尊の人格的霊動そのものなるを確知したり。曰く『妙法華経』はすなわち釈尊なり、釈尊はすなわち『法華経』なりと。

経に曰く、「若有受持読誦正憶念修習書写是法華経者、当知是人則見釈迦牟尼仏如従仏口聞此経典当知是人供養釈迦牟尼仏」(第八)、また曰く「不信法華経人前釈迦牟尼仏取入滅信此経者前、雖為滅後仏在世也」と。見よ、この『法華経』を信ずる者の前には如来は常に存し、この『法華経』を信せざる者に対しては二千年前において、いわゆる仏在世においてすら如来は在さざるなり。釈尊はただ法華のうちに棲息し給う、これゆえに『妙法華経』あらん限りは、釈尊は永劫入滅し給わず。『法華経』を信ずる者にして、はじめて真に生ける釈尊に接するを得るなり。それ華厳阿含方等般若涅槃において接するところの釈尊は単に釈尊の形骸にして、その無作常住の真法身にあらざるなり。そはなお始めあり終わりある釈尊にして、生滅無明を有せる死骸的釈尊なり。真の釈尊は『法華』廿八品のみ、その廿八品のうち迹門十四品はなお全く無明生滅の形骸なり、真に活ける釈尊の面目はこれを極むればただ寿量の一品なり。「此経ノ文字ハ皆悉生身妙覚ノ御仏也、然レドモ我等ハ肉眼ナレバ文字ト見ル也、例セバ餓鬼ハ恒河ヲ火ト見ル、人ハ水ト見ル、天人ハ甘露ト見ル、水ハ一ナレドモ果報ニ随テ別々也、此経ノ文字ハ盲眼ノ者ハ不見之、肉眼ノ者ハ文字ト見ル、二乗ハ虚空ト見ル、菩薩ハ無量ノ法門ト見ル、仏ハ一々ノ文字金色ノ釈尊ト御覧アルベキ也、即持仏身トハ是也」。吾人は読者諸君のこの語を再誦せられんことを希望す。

日蓮はかく『妙法華経』即釈尊と観じたり、彼は妙法華の字々何々について威厳堂々たる釈尊を見たり。彼はさらに『法華経』中に幾度となく是経是経と縷回したるゆえんについて、異様の感を禁ずる能わざりき。天台智はこれをもって諸法実相十如是の教義と決定したり。日蓮はさらに一歩を進めて活ける釈韓の人格なるを自覚したり。廿八品が結局釈尊の人格の発展縁起に過ぎざる以上は、すなわち釈尊の根本人格の註解に過ぎざる以上は、釈尊そのものは、これ他人ならずして廿八品の巻頭に掲示せられたる「妙法蓮華経」の文字と決定したり、『法華経』中いたるところに縷回さるるところの「是経」の文字は、明らかにこの五大文字を指示せしなり。『法華経』の正宗分はただこの五大文字なり、序品以下の廿八品はみなことごとくこの五大文字のための流通分なり。本文廿八品、本門あり迹門あり。迹門に序分あり、正宗分あり、流通分あり、また本門に序分あり、正宗分あり、流通分あり。迹門の正宗は方便品なり、本門の正宗は寿量品なり。しかも迹門は本門のため序分なるがゆえに、寿量の一品は正宗中の正宗となす、しかも知らずや、この寿量品といえどもまたこの題目の流通布演に過ぎざることを。『法華経』すでに題目に極まるがゆえに、すなわち法華たる釈尊はすなわちまた五字題目のほかなし。ああ、これ聖日蓮、二十年間深厚なる敬虔をもって『法華』を誦し、建長五年四月、清澄山頂の霊地に立ちて、渺茫たる大洋より堂堂旭日の登りきたりて、限りなき大洋ことごとく旭日の光明中にあるを見て、廓然悟るところあり、思わず南無妙法蓮華経の高唱を止むるを得ざりしとき、法華題目の教義はここに初めて宇宙に誕生し、彼はここに本門釈尊と同化し、世尊と題目と日蓮との三者は一体となり終わりしなり。彼はすなわち釈尊なり、彼はすなわち『法華経』なり。以後、彼の言はことごとく『法華』の言なり。彼の行動はことごとく世尊の行動たりしなり。すなわち彼は一躍して「閻浮提第一の聖人」となりしなり。

されど日蓮は、彼が自白するごとく「日本第一の僻人」なり。日蓮は徹頭徹尾日蓮なり、彼はとうてい三ツ子の心を変ぜざるなり。彼はとうてい彼ならざる釈尊に対して妙法宣伝の大責任を有したりしなり。勇ましき太鼓の音とともに、南無妙法蓮華経を高唱するとき、彼の血涙はたちまち沸騰し、邪法折伏の宣命は厳然として彼に降るなり。四箇格言は、すなわちこれ日蓮がこの堂々たる世尊の大命に対する彼の奉答なり。およそ問題の解答は、これすなわち問題の註脚なり、問題そのものの意義如何を開明するとき、問題はまさにこのとき解明せられ終わるなり。四箇格言はこれ題目問題に対する彼の生命ある註解なり。これすなわち七字題目の註解たる『法華』廿八品を身読して、その大綱を掲示し、二千六百年後の今日、この国のために、すでに二千六百年の昔、あらかじめ宣説せられたる『法華経』を、今日今時の宣言として、すなわち念仏禅真言戒律に対する宣言として、二千六百年間仮死せし『法華経』を復活せしめたるなり。誰か経文を故紙と云うや、もしその経典にして時機を得ざれば元より故紙なり。時機を得れば、文々句々これすなわち生身の如来にあらずや。『妙法蓮華経』、本門法身の釈尊、末法の日蓮に勅して念仏と禅と真言と律とを破折せしめんがために、日蓮に下されたる節刀なり。四箇格言はその実仏の宣言なり。来たれ権宗の徒、妙法の聖旗に抗するはすなわち釈尊に抗するなり。日蓮を罪するはすなわち世尊を罪するなり。釈尊多宝本迹二門の菩薩講天善神ことごとく我にあり。

それ念仏はすなわちこの土の主師親たる教主世尊を捨てて、他方の如来に降伏せんとする自暴自棄の腐腸の愚人なり。自暴自棄はすなわち一闡提、まさに常に法界の最下なる無間地獄に入るべきなり。禅はみだりに生仏不二の悪平等を唱えて仏を痛罵し、経典を故紙となす、無慚無愧なる暴慢の徒、これまさに天魔にあらずや。真言はすなわち、なんらの確信と敬虔となくして、いたずらに奇怪千万なる真言をもって、鎮護国家を祈願して、その根本なる自己心霊の救済を忘れたるもの、それ豈に、自己の救済を離れて国家の救済あらんや。永劫の解脱を離れて一時の鎮護あらんや。自己の心霊を忘れたる加持祈祷ほ、あたかも大道の占者のごとく、ただ愚民を惑わすのみ。心霊を忘れたる国家はこれすなわち亡国なり。心霊的に滅亡せる国家は久しからずしてその形骸また滅亡せん。戒律はすなわち他律的行為によって自己心霊の秘奥を忘却し、些々たる外形的小善に誇りて自己罪悪の深重なるを知らず。国家の尊厳を無視し、これに反抗しみだりに三界の大導師と称す、これ豈に、国賊にあらずや。それ永劫の問題に心を労するもの、念仏に行かざれば禅に行く、現世の事項に心を用いるもの、真言に行かざれば戒律に行く。すなわち念仏と禅とは権宗仏教真諦両面の極到なり。真言と律とは俗諦門の起点なり。念仏と真言とはともに他力なり、禅と律とはともに自力なり。もしそれ人にして自己心霊の尊厳を自覚せざるもの、現世に対しては真言に行き、来世に対しては念仏に行く。念仏はこれ真言行者の必然的に墜ち行くところなり。加持祈祷はその裏面必ず如来の大悲と大力と自己の無力とを予想す、しからばすなわち加持祈祷の観念を純化すれば、絶対依憑の念仏に転入せざるべからず。戒律はすなわち一種の律法にして、その性質国家法律と同種類のもの、すなわちいきおい国法と衝突矛盾すべき性質を有す。国法にして心霊的に無価値ならば、戒律また当然無価値ならざるべからず。戒律に対する執着は、要するに国法に抵触して国法の罪人たるのほか何等の効力と意義と存せざるなり。さればもし国法の不当を喋々し、国家の尊厳を無視して、しかも戒律の尊厳を妄執する者は、いつしかこの間に非常の撞着あるを自覚して、ついに自己の尊厳と戒律の全能ととうてい相一致するものにあらざるを知り、一切律法以上の天地即身即仏の坐禅に入る。

真言と念仏とは向下門自暴白棄の系統なり、律と禅とは向上門妄尊妄大の系統なり。自暴は国家を滅し白棄の極致は白已また霊的に滅亡して無間地獄に入る。妄尊の初門は国法に抗して自ら国賊となり、妄大の究極はさらに邪路に飛躍して悪魔となる。要するに権宗邪教は亡国と国賊とに始まりで、無間と天魔とに帰結す。講か真に国家を浮活かし、また自已を活かすものぞ。誰か国家社会の根底に霊活を与え、また自已心霊の真面目を発揮するものぞ。講か国家の眼目となり、師父となり、日月となり、先覚となりて、これを霊化するものぞ。自暴の向下門を離るる者は誰ぞ、自尊の向上門を離るる者は誰ぞ。妙法華、豈にこれにあらずや。霊山霊現の釈尊、豈これにあらずや、日蓮、豈にこれにあらずや。慙愧と感謝と確信と希望とを兼有して行進するものは、それ妙法と妙法の化現たる日蓮とをおいて誰ぞや。ああ南無妙法蓮華経、何ぞそれ凛烈なる、何ぞ森厳なる、題目は悲哀にあらずして悲壮なり。題目は深痛なる慙愧なり、ただそれ自棄哀願の漸悦にあらずして憤然たる漸悦なり。題目は暴勇にあらずして沈勇狂り、深遠なる根底より来たる勇気なればなり、根底なき天魔無明の勇気にあらざればなり。題目はすなわち国家の長久を祈る、しかもいたずらに一身の肉体的安住を得んがための物質的長久にあらずして、国家の根底の七字題目にあるを自覚して、その精神を発揮し、これを改造せんがためなり。人あるいは宗教をもって国家以上とし、ただ漫然として国家を捨てんとす。しかも知らずや、国家はただ権力ある者の国家にあらずして人間心霊の発現なるを、すなわち国家の腐敗はけっして二、三有権者の腐敗にあらずしてその実自己の霊の腐敗なることを、自己即国家、国家即自己、一体不二なることを。国家の形骸を活かすと自己の肉体を活かすとは必ずしも相一致せず、ただ自己の心霊を活かすと国家を心霊的に改造するとは全然一致なり。国家の救済は、すなわち自己の救済なり。国家に対する義慣は、その実自己に対する義憤なり。真実の意義においての国家的宗教は、実に国家以上の宗教なり。誤れるかな、真言の師、彼等国家の大精神を知らず、それと自己の心霊との一体なるを知らずして、ただ漫然消極的に一時姑息の形式的現状維持の加持祈祷を事とす。ああ、これ国家の寄生虫にあらずや。これすなわち、その実国家の権威を借りて自己の生命を維持せんと欲する者なり、自己一時の安全を貪る者なり、これを国家的宗教と云わんや。これ護国の宗教にあらずして、その実亡国の宗教にあらずや。国を亡ぼす者は真言なり、国を亡ぼすはその実自己の心霊を亡ぼすなり。しかして念仏は、まさに自己の心霊を滅亡して無間に入るものにあらずや。漫然国法に反抗する戒律の徒は、国家の反賊たると同時に、自己本来の面目たる如来の賊にあらずや。ゆえに戒律に一歩を進めたる禅は自己心中の如来を殺害するの法賊たり。愚かなる真言念仏の徒大いに憐むべし、狂なる律禅の徒大いに悪むべし。

この悪むべき憐むべき無明の偽仏法に対して、七字題目をもって立てる日蓮は、断然折伏主義を取れり。信仰は唯一なり、その門戸はいたって狭なり。偏狭は由来真信仰の特色なり、漫然たる宏量は偽善なり。四箇格言は七字題目弘通の方便手段にあらずして、題目の実質なり、精神なり、題目の超絶的大精神なり。題目の声はただ進軍の太鼓とのみ相和するにあらずや。知れ、国と自己と、他人と我とは一つなり、国と他とを五するはすなわち自己を五するなり、国と他とを救済するは自己を救済するゆえんなり。彼一歩を進まば我また一歩を進まん、妙法宣伝は如来に対する大責任なり。責任は煩悩の産物なり、煩悩なければ責任なし。すなわち知るべし、法華宣伝の大業はすなわち日蓮自己の修養懺悔なることを。また知るべし、大いなる折伏はすなわち大いなる自責なることを。天に向かって放てる箭は再び自己に復る、そのもの自己に出でたればなり。日蓮が煩悩より出でたる折伏はついに日蓮に来たらざるべからず、法華題目に出でたる折伏はついに法華題目に帰せざるべからず。日蓮が罪悪はすなわち法華の罪悪なり、法華の罪悪は霊化せられたる罪悪なり、すなわち日蓮の罪悪また霊化絶妙の罪悪なり。迹門性具の罪悪は本門より見れば如来の万徳なり、罪の懺悔はすなわち妙法の宣伝なり、常識より見たる折伏は自覚の上よりは大いなる摂受なり、苦行はその実安楽行なり、猛烈なる迫害はその実、慈悲無蓋の如来の恩寵にあらずや。折伏に怒る者は怒れ、折伏のほかに何等の摂受あらんや。

今や国家万能主義、倫理的宗教を唱うる者、国内に充つ。吾人謂う、国家万能主義は、これすなわち真言にあらずや、教育勅語を礼拝して国家の長久を得べしと信ずるものにあらずや、国家の大精神を知らずして漫然国家に盲従する寄生虫にあらずや、名づけて亡国の主義となす。倫理的宗教は宗教の根底の倫理にあることを救う。彼等は善悪の現相の区別に確執して、これ等の根底なる大精神を知らざるなり。倫理的宗教は善悪を固定せる区別とするがゆえに、要するに他律的に終わらざるべからず。他律的なる道徳はまた他の他律的法律と撞着す。見よ、ミューアヘッドの自我実現主義は、明らかに国家に対する反逆を許容せざるべからざるにあらずや。吾人は近時教育界の一大問題たる哲学館事件なるものを見て、ますますこの感を深くするものなり。吾人は、なにゆえに独り自己の善悪を認むる倫理主義者の国家の善悪を認許する能わざるやを怪しむ。倫理的宗教は、その仮装せる偽善的態度を捨てて、真面目に露骨にその主張を実現せんに、彼等は必ず国法に反抗せざるべからず。井上哲次郎氏の大我教のごとき、けっしてその日本主義と相一致せざるなり、氏いかに弁護に勉むるも、いたずらにその曲学阿世の醜魎を曝露せんのみ。これ吾人の喋々を侯たずして井上氏自ら反省して知るべきなり。これ畢竟倫理は善悪の区別を根本として出立するがゆえに、形式的律法的たるを免れざればなり。ああ、これ律国賊にあらずや。国家万能主義は亡国の主義なり、倫理万能主義は国賊の主義なり。この両者はとうてい一致すべからず、もしこの二つを一致せしめんとせば、これあるいは曲学となり、似非愛国者となる。倫理的宗教者の日本主義を唱道するがごときは、国賊にしてしかも国家の寄生虫たるものにあらずや。国家主義者と倫理主義者の充満せる国家は憐むべからずや。しからばすなわち国家万能主義の帰結は、そのいたずらに国家の権力に盲従して国家を堕落せしめ、国家の大精神を亡滅して、ついに国家の侍むに足らざるを悟るとともに、自己の果敢なき運命を観じて悲哀厭世、いたずらに死を待つあるのみ。国家万能主義はまず国家の大精神を亡ぼし、しかしてついに自己の理想光明を滅却するに終わるなり。吾人は国家万能主義によって教育せられつつある帝国の子弟の末路を想うて痛歎に堪えざるものなり。自暴自棄の無間地獄は、いわゆる愛国者なるものの眼前に横たわりつつあらずや。倫理的宗教はまず国家法律を横議せん、しかしてのち彼は自己に反省して善悪なる事実に向かって疑わん、彼はついに善悪虚無論に達せん、彼は実行より空論に遷らん、理窟天狗とならん、無慚無愧に堕せん、空イバリとならん。天魔はすなわち倫理教の帰結にあらずや。釈尊、二千年の昔において、二千六百年後の日蓮時代のために妙法華を宣言し、日蓮また六百年の昔に生まれて、六百年以後の今日の思想界のために四箇格言を預宣す。釈尊は親しく『法華』を日蓮に授与し、日蓮また四箇格言を現に吾人に付す。『法華』は三千年前の宣言にあらず。四箇格言は六百年前の告白にあらず。釈尊日蓮はけっして過去の人にあらずして、現在の人にあらずや。釈尊いずこにか活ける、日蓮いまいずくにかある。如来の実在を科学的に証明せずんば承知せざるごとき者は、とうてい『法華』と釈尊と四箇格言と日蓮との霊活を語るに足らざるなり。

(1904年3月『精神界』)

 

 

華厳、般若と法華  

天台智、『妙法蓮華経』によって一代仏経を総括判釈し、五時八教の広大なる系統を建立したり。『妙法蓮華経』一部、構想深大、如来の威神と大慈と善巧方便とを闡明して余蘊なし。しかりといえども有体に云わば、五時八教の系統は、これを『法華』一部の産物としては、はなはだ雄大に過ぐ。方便品における十如是の経文は、独り智の透徹鋭利の眼光によりて一念三千の観法の淵源となり得べきや、迹門段に現われたる釈尊は、吾人をして忌揮なく云わしめば、これ世尊によりて自白せらるるかごとく、一切衆生を愛子とせる老熟なる慈父に過ぎざるなり。彼は比喩によりて現われたる心霊上の大長者に過ぎざるなり。彼はけっして威神晃々たる宇宙の大光明にあらずして、その年歯において、その温厚の慈愛において、人情の機微に通ずるの点において、世事に長ぜる白髪の老翁に過ぎざるなり。その序品において東方万八千土を照しつつ、無量義処三昧に入りし寂然不動の大覚世尊は、方便品以下に来たりで忽然としてその神力と光明と、無窮の沈黙とを捨て、醇々として説いて倦まざる父老と変化したり。吾人はいつの間にか尊むべき大聖を忘れて、親愛すべき慈父を見るなり。もちろん慈愛なる老慈父は、涌出品において三千大千世界の地裂けて涌出せる無量百千億の本門菩薩によりて、忽然として甚大久遠実成の法身と転じたり。しかも自ら久遠実成を証明せんと勉むるや、ふたたび父老の老巧なる比喩を出して暫時にして老比丘の相に還帰したり。要するに『法華』における釈尊は、徹頭徹尾三界を家とし中に住むところの一切衆生を愛児とせる慈父にほかならざるなり。吾人は『法華』において、巧妙にして抜け目なき説法に接するを得れども、森厳なる遍十方の宣言に接するを得ざるなり。

『法華経』を、文句や科註によりて間接に分析して読む者は、あるいは誠らしく一念三千の観法を『法華経』文に求むるを得べし。されど、かくして得たる三千は、これ宇宙法界を総括せる三千にあらずして、胸裡方寸の所変たる小三千に過ぎざるなり。芥爾の一念、無限の大三千を具すと知ればこそ、智の構想と識見との博大は顕わるれ、一念が一念より大ならざる箱庭的人工的十界三千を具すればとて、これ何の不思議があらんや。彼等の箱庭的の小世界観は、依然として一念即一念、煩悩即煩悩にして、実相観として何等の意義あらざるなり。十界三千をして真に宇宙法界を包括しつくすところの大三千たらしむるためには、吾人は単に『法華経』を直読して、とうていこの観、地に達するを得ざるを見るなり。誠に法華の雄大なるは、けっして独り法華の雄大なるにあらずして、華厳阿含方等般若を前駆とし、涅槃を後駆として、一代の中心を法華に集むるによりて、初めて意義あるなり。構想絶大、宇宙法界を如来の身体とし、しかして遍法界の如来を一経の体とせる『華厳経』は、文々何々これ直ちに宇宙の塵々なり。『華厳経』一部は一文一句ことごとく穢悪雑毒なる人間的情愛の域を超越して、宇宙の霊光、法界の妙音なり。

『華厳経』は世尊の口より説かれたるのゆえをもって仏説にあらず、宇宙を身体とせる世尊を顕現することにおいて仏説なり。『華厳経』は誠に人情に当合して、人間を誘導教化する逐機の末経にあらずして、高く人間世界と懸隔せる本有無作の宣言なり。愛と恋と情とをもってその生命とするところの人間より見れば、『華厳経』における如来はとうてい人情を解せざる、したがって吾人によって捕捉せられざる大怪物なり。毘盧遮那法身如来の頂上より来現して、文殊師利より大聖普賢に至るまで、ともに五十三の知識を歴訪し、修道の行程に進転して倦まざりし善財童子は、これ実に華厳法界の人格的化現にして、容姿秀麗、心意超塵、一点煩悩の汚れなし。これ煩悩苦悶によるにあらずして信心歓喜の域に達する能わずと思惟する輩の、とうてい想像する能わざる無作自然の人格にあらずや。霊は、ただ霊を観る。善財が眼には、菩薩も二乗も、在家も出家も、男子も女子も、老夫も童女も、人聞も鬼神も、ことごとく霊化せられて彼が師父なり。宇宙法界を周遊することはこれ唯一修道の行路にして、吾等がただ時間によりてのみ修道の階級を示すに反して、彼は明らかに空間をもって修行の道程としたり。これ煩悶苦痛なる人間の、とうてい想像する能わざるところなり。

法華が如来の偉大を示さんがために、久遠実成をもってしたるに対して、華厳は如来を讃嘆ぜんがために、無辺の法界をもってしたり。それ寿命の久遠をもってするは、これ多年の経験によりて人情の微奥に通ずる大慈父なるを示すものにして、これ如来を三界の主人とし、如来の上に過去煩悩の経験を肯定せんとするもの、したがって世尊は依然僧俗の人間と伍して、人聞以上の霊格となる能わず。しかるに華厳における如来は、誠に人間以上なり。無限の虚空を集めて体をなすもの、これ華厳のいわゆる如来にあらずや。重々無尽事々無碍法界縁起は、華厳の文字を分析して抽象推理したる真理にあらずして、生々活躍せる華厳の一字一句ごとごとく無尽の塵々なり。微小六尺に過ぎざる、しかして我執と煩悩とによりて、方寸の小天地に曲蹐し、汚穢なる塵土に付着して、無辺の虚空に逍遥する能わざる情欲的人間は、恐らくは『華厳経』を読むことによりて、何等の得るところなかるべし。彼等の汚濁に同和せざるところ、これ華厳の崇高偉大なるゆえんにあらずや。『華厳経』は迷情を主とせる詩人よりは、何等実質なき空想なり。それ如来世尊の霊格の捕捉せられざるはもちろん、これを人格化せる善財童子すら、とうてい理解せられざるなり。誠に善財童子を描ける入法界品は、たとい経典批評家が、これを世尊釈迦の直説にあらずとなすも、しかも吾人はこれをもって人間的詩人の製作となす能わざるなり。真に無我の見地に到達して、無限の法界と冥合せる大詩人にあらざれば、少なくとも文殊普賢の大聖にあらざれば、とうてい描く能わざるべきなり。

これゆえに方便品における十如是は、『大方広仏華厳経』を精読し、その大識をもって『法華経』を読破せし智によりて、初めて一念三千の大観法を闡明し得たるなり。法華における巧みなる老慈父の誘導は、入法界品において文殊普賢が善財童子を誘導して、無辺法界に周遊せしめし大事実と相映ずることによりて、初めて善巧を超絶したる大善巧を覚知し得るにあらずや。人情に精通せる老慈父も、法界をその身体とせる華厳の如来の面影を観ることによりて、初めて威神巍々の仏貌に接するにあらずや。一切衆生の慈父は一切衆生をもって体とせざるべからず。三界の父は三界を包括する体を有せざるべからず。法界の父は法界に遍在せる身を有せざるべからず。久遠実成の本門の如来は、宇宙に至深の根底を有せざるべからず。六尺の老比丘自ら称して久遠実成の如来と宣言す、これ何等の滑稽ぞや。しからばすなわち久遠実成の如来は、宇宙法界を挙げてその体とせるものならざるべからず。なにごとぞ天台日蓮の徒、開迹顕本をもってただ法華の特有とすることや。遍法界の如来は云わずして久遠実成の古仏なり、言語文字の間接法をもって久遠を開説せしは法華なり、直ちにその体量をもって直接に久遠を開顕するは華厳なり。これをもって吾人は断言せんとす、法華はこれ『大方広仏華厳経』の註脚に過ぎずと云うことを。それ一代仏経は、ことごとく『華厳経』の註脚なり。阿含と云い方等といい般若と云い涅槃と云い、一つとして華厳の註脚にあらずと云うことなし。

これゆえに、もしそれ文殊普賢善財の霊光を有する者は、直ちに華厳によりて宇宙法界に入るべきなり。されど恩愛と情欲とを生命とするところの人間は、とうてい註脚なくして法界に入る能わざるなり。ここにおいてか第一の註脚として阿含来たり、次に方等来たり般若来たり、最後の註脚として法華来たる。法華に来たりて初めて、また華厳法界に帰す。天台智の五時八教は、誠に彼『大方広仏華厳経』より出発して、最後に法華によりて華厳法界に復帰せし経験の表白にあらずや。彼は明瞭に華厳復帰を自覚せざるがごとしといえども、しかも彼の観たる『法華経』がとうてい『華厳経』の最後の註脚たりしことは諍うべからざる点なりとす。これをもって天台法華宗に次いで、華厳宗は起これり。五時の教相を単に直線的に観察せし智によって、さらにこの無限直線的進行がさらに最初の一点に復帰すべきを自覚したる五時の円周的観察は、賢首法蔵によりて唱えられたり。真に賢首は智の大成者なり。智が云わんとして未だ道破せざりしもの、達せんとして未だ到達せざりし最終の帰着を明らかにしたるは賢首なり。智の製作たる法華の三大部は、これその実、華厳の註脚の二重の註脚たりしなり。一念三千、諸法実相、開迹顕本はこれその源流を華厳に発し、法華の人情的縮写的比喩的解釈によりて、初めて二乗の頭脳に印象せられたるこれらの法門は、もしさらに『華厳経』に復帰せざる限りは、これ称性の法門にあらずして依然逐機の模型に過ぎざるなり。

一代仏経はことごとく華厳よりいでて、またついに華厳に帰す。智の法華はまた華厳よりいでて華厳に帰せり。彼が『法華経』は依然として華厳の法界観を帯挾せる法華なり。森厳広博なる華厳の面影を有する法華なり。人は法華華厳両宗の優劣を諍う、しかも公平なる批判は両者優劣なしと云うに帰す。これ、けだし両経互いに相映して、相融和せざるによるなり。されば天台の法華は、法華的法華にあらずして華厳的法華なり。初め『華厳経』を読んで、ただその広博にして心霊上に何等の得るところなきに失望したる彼は、次に小乗阿含の真摯着実なる教訓より、ようやく一箇の化城を得たり。しかれども彼つぎに方等諸経を開くに及んで、彼は自己の信念のはなほだ浅薄偏狭、その地位の如来と菩薩とに比して、はなはだ陋劣なるを自覚したり。されど大乗小乗の差別は、そのよるところ遠くして、ほとんど先天の懸隔と云うべく、白已は陋劣と知り、慙愧しつつ、しかもついに大菩提を求むることのとうてい不可能なるを自覚せざるべからず。大小乗の懸隔はもちろん小乗経に存せず、ただ方等経典中いたるところに散説す。その最も激甚なるものを『維摩経』となす。智は、この方等経典を披読して慙愧と煩悶とその絶頂に達せり。しかるに彼は、忽然として慙愧と煩悶とを減ずるの機会を得たり。なにものぞや。大般若を得しこと、これなり。それ方等はこれ如来折伏の利剣をもって、小乗を誘導ぜんがために、彼が衷心に霊的煩閥を与え

て、卑小なる信念を破却せしめんがために説かれたるものなり。これゆえに方等経中に顕われたる大小乗の差別は天地のごとし、その間に調和進転の道路なし。これをもって小乗経は吾人に一時の安慰を与えたるに対して、方等経は吾人が得たる安慰を奪いて、吾人に何等の安慰を与えざるなり。得るところは深痛の苦悶なり、慙愧なり、恐怖なり。吾人はこれに至りて頭を打ち胸を叩いて、大叫喚焦熱阿鼻の地獄に堕在せざるべからず。もちろん時に救主なきにあらず、しかもその救済は依然として一時の化城に過ぎざるなり。化城的救済はまた暫時にして滅せん。これをもって信仰はしばしば立って、またしばしば破れ、しばしば破るるにしたがって懐疑恐擢の念ますます深し。

大慈悲の如来は、これを知り給えり。彼はこのとき静かに根本的大手術を断行せんと欲し、空の利剣を奮って一切高下智愚善悪の差別的思念を破斥し、万有平等の信念を確立したり。しかれども般若皆空の教理は余りに消極的にして、積極的差別の思念を生命とする吾人には、とうてい理解すべからず。見よ、四諦と云い、十二因縁六度と云い、一つとして積極的修行にあらざるなきにあらずや。一切皆空の消極的平等主義は善悪高下を同一視して、しかして一様にこれらの修行の無効を宣言するものなり。積極は必ず差別なり、平等はただ消極にあり、吾人一歩を進まんか、差別ここに生ず。しからば消極的平等観は、これ修道を否定するものなり。吾人は方等において積極的に自己の地位の卑陋を観察して慙愧措く能わざりし。自己がいかにしてか大乗菩薩に進転すべきやについて、深奥なる煩悶に陥りき。しかるに今や全くこれに反して、一切平等の教理によりて自己の卑陋についての苦悶を脱却し得たると同時に、またさらに自己がとうてい真に高下の見を斬捨する能わざるを悲しまざるを得ざるに至れり。ゆえんのものは何、吾人は大乗に対して自己の卑醜を自覚せざるにあらず、しかも自己の修道またけっして容易にあらざりしなり、吾人は善悪高下の思念によりて、勇健なる態度をもって、ようやく現在の地位を得たるなり、いずくんぞこれを絶対無価と云うを得んや、何ぞこれを見るを弊履のごとくなるを得んや。されど吾人は、この差別の思念を根底より破却せざるべからず、これを破却すれば自己が惨憺たる困苦によりて得たる現在の地位を捨てざるべからず。もしまた現在の地位を意義あらしめんがために、積極差別の見地に住せんか、吾人は忽然として自己の見識と信念のはなはだ醜卑にして、しかもとうてい回心同大するの勇気なきを歎ぜざるべからず。ああ吾人は般若皆空の信念に来たりで、進退を決定する能わざるなり。これ、けだし般若の平等観は全く消極的にして、積極的修養の功を破壊せんことを恐るればなり。しからばすなわち最後の大安心は、積極主義の上に平等観を建設せざるべからず。積極主義と平等主義とは果たして真に相一致すべきものなりや。もしこれ両者にして相融和せざる限りは、積極主義を脱する能わざる吾人は、とうてい平等観に住する能わざるなり。すなわち菩薩と小乗との懸隔は依然たり。懸隔依然たらば、吾人は何によりてか小乗を捨てて菩薩に達すべき。しかりしこうして高下の差別見を捨てざる吾人は、菩薩に達せざればついに安住すべからざるなり。

『妙法蓮華経』は、すなわち積極主義と平等観との調和を可能とするの主義なり。これを名づけて如是観と云い、または実相観と名づく。それ人おのおの能あり不能あり、これゆえに吾人はただ自己の性と能とにしたがってその人事を尽くすにあり。人事すでに尽くす、ここに待つべきは一に天命にあらずや。小能は小をもってせよ、大能は大をもってせよ、ただその先天の性能にしたがって勇健に進行せよ。休息することなかれ、狐疑顧慮することなかれ、ただ与えられたる一道に乗じて直進すべし。道は一つのみ。汝、ただ汝に与えられたる一道を進め、それかくのごとく八万四千の道路はただ教義を客観に置きて批評研究する時においてのみ存す。実際修養の上に二道なし、いわんや八万四千をや。これをもって吾人に与えられたる道は、吾人に与えられたる唯一至善の道なり。小は小たるにおいて絶対なり。大は大だるにおいて絶対なり。価値はただ自己にありて多数決にあらず。果たしてしからば吾人がかってあるいは勝とし、あるいは卑陋としたる四諦小乗の法は、これ直ちに絶対不二の教法にあらずや。慙愧することなかれ、驕慢なるなかれ。慙愧と驕慢とは姉妹なり、如何となれば両者の根底は同一の高下差別の思念たればなり。吾人高下の念を捨つる時、慙愧悲泣恐怖の念去ると同時に、驕慢愛着の想念また自然に去る。ここに至りて阿含において自力建作の四諦の観行、方等において化城方便に過ぎざりし四諦の信念、般若において絶対平等と逆行せる迷悟の思念は、今この妙法華に来たりで、自力建造の四諦は自然無作の四諦となり、化城方便の四諦は真実実在の四諦となり、絶対平等に逆行せる四諦は直ちに絶対唯一の実在となれり。ここに至りて恐怖と顧慮と、悲泣と増上慢と退縮と去りて、歓喜と確信と勇健と安慰と堅忍と自任と直進と来たる。

かくして到得せる一道はこれ絶対無二の大道なり、宇宙法界を包括せる一道なり。四諦因果を浅いと云うなかれ、宇宙法界はただ苦集滅道に過ぎざるにあらずや。四諦は無辺たり。苦も無辺なるごとく、集もまた無辺なり、苦集の無辺なるがごとく滅道また無辺なり。かくて吾人はただ一箇の心苦に驚くなかれ、汝の苦悶はその数無辺なればなり。宇宙法界は苦によりて充満せられたり。名利を失うて悲しむもの、妻子を失うて泣くものよ、汝の苦痛は無限の苦痛中の一苦のみ。喜べ、汝は無限の苦中ただ一箇を得たるのみ。小善に誇るものよ、汝の善はただ一箇にあらずや。宇宙法界は無限の善をもって充たされたり。罪悪に泣くものよ、汝の罪悪はただ一箇のみ、宇宙法界は罪悪充満の世界なり。この思念に達して、小なる四諦は一躍して絶大の四諦となれり。四諦は無辺なり、四諦は人為にあらず、人為によりて達し得べきにあらず。四諦は宇宙法界に属す。宇宙法界はこれすなわち大方広仏華厳の如来身にあらずや。これゆえに四諦はこれ如来身なり。吾人は無作自然の四諦に達するとき、忽然として華厳一乗に復帰したり。吾人は華厳法界観より来たりてふたたび華厳法界観に帰せり。見よ、華厳における不可知の世界はことごとく可知の世界となれり。瓦礫に過ぎざりし世界は、忽然として微妙なる如来の世界となれり。空想は実現せられたり。忽然として思う、自己はこれ入法界品の善財童子たりしなり。怪物善財は疑うべからざる自己にほかならざりしなり。華厳に二乗開会なかりしは、これ開会すべき二乗なければなり。開会の必要なきを自覚すること、これ至上の開会にあらずや。しかるに天台の人士この道理を知らずして、開会二乗はただ法華に存すとなす、愚かなるかな。

それ疑問の提出は、すなわちこれ一面疑問の解答なり。疑問はこれ解答の始まりなり、解答はこれ疑問の終わりなり。『華厳経』はこれ疑問の提出なり。吾人にして眼光鋭利、疑問の果たして正当なるや否や、この疑問のよって来たるところ云何、疑問の中心は云何、疑問中に撞着なきや否や、疑問の帰結は云何、かくのごとく疑問を整理純化したるもの、これ真の解答にあらずや。解答は疑問の要約なり、これをもって識見高遠の大士は、すでに『華厳経』において直ちに法界三昧を成就するを得るなり。しかるに常人は、容易にこれに到達する能わず。ここにおいてか阿含方等般若を経、法華に来たりで初めて華厳三昧に入る。もしそれ法華によりて開会を受けたるもの、真に法華によりて開会を受けたりと確執する間は、これ真の開会にあらざるなり。開会を忘るるもの、これ真に開会せられたるものなり。されば真の開会は、これ無作の開会なり、無作の開会はいつの間にか開会せられ終わりしたり。されば法華の始覚は本覚に帰せざるべからず、迹門は本門に帰せざるべからず、将来の成仏は久遠塵点の過去に転ぜざるべからず、作仏は是仏と化せざるべからず、法華の開会はその実華厳の開会ならざるべからず。法華の註脚によりて華厳を見る吾人はすでに華厳において開会せられ終わりしなり。華厳の開会は、これ本覚の開会なり。無尽の苦と、無尽の罪と、無尽の真理と、無尽の智行と、無始より以来無作自然に霊在して、増もなし減もなし。ここに至りて吾人は六尺の身体をもって、直ちに無尽法界を、開化し包擁し、大覚世尊と一体たるに至れり。不可思議なり不可思議なり、一切煩悩これすなわち如来の徳相なりしなり。断と云うも証と云うも、迷と云うも悟と云うも、善と云うも悪と云うも、性と云うも修と云うも、結局無辺法界の徳相に過ぎざりしなり。理具の三千はこれはなはだ力なき、実質なき、光明なき、精錬せられざる、有限微小なる事物に過ぎざる、人為人工を脱する能わざる、有作箱庭的観法に過ぎざるなり。ただそれ理具の三千、華厳法界の大光明の霊化を待ちて、初めて理の三千は霊の三千となり、実在の三千となり、生々活地塵々みな生命ありここにおいてか、木石躍り、山河泣き、日月語り、罪悪霊光を放ち、糞土妙法を宣説す。これ理具的理談にあらず、現実の現実なり。性具性悪、これ何等迂回の言ぞや。煩悩即菩提と云わんと欲すれども、即を要する煩悩なきを如何。生死即涅槃と云わんと欲すれども、本来涅槃のほか生死なきを云何。三千はこれ霊光の三千なり、無尽の三千なり。至大至高かくのごときは、これ誠に天台智の一念三千観の実相にして、これ宛然として『華厳経』の面目にあらずや。

もしそれ大と高とをもってせば、一代仏経中まず指を『華厳』に屈せざるべからず。もしそれ深と広とをもってせば、吾人はまず『般若経』を挙げざるべからず。空はこれ至深の真理なり、宇宙至終の断定なり。空は否定なり、しかも文字的否定また肯定にほかならず。されば空は百非千非をもってするも、とうてい明瞭に捕捉すべからず。空はこれ無尽の否定なり、これすなわち底なき大海のごとし、不可測なり。一切無尽の肯定を絶滅したるところ、これ真の空なり。しかも吾人はとうてい肯定を捨つべからず。ここにおいてか妄情所現の空はこれ否定の形式を有せる肯定に過ぎざるなり。名づけて悪取空と云う。懐疑論と云い、邪見と云い、断見と云う。これをもって如来、悪空、すなわち否定に類せる肯定の悪見を断破せんがために、非有非空の中道を説く。知らずや、中道は有空調和の原理にあらずして、真の中道はただ絶対否定の真空にほかならざるを。これをもって『妙法華経』が説くところの中道実相は、般若皆空の真理を吾人に了解せしめんために、有と空とを調和し、二乗と大乗とを融合せしめんとす。ここにおいてか調和の形式をもって記せられたる中道実相観は、むしろ至深無底の真空を隠没して、放浪主義、中間主義、平凡主義を顕わすがごとく信ぜらる。これ叡山最澄の門下が、中道の文字に迷惑して確固不抜の信念なく、あるいは密教に降り、あるいは禅に傾き、あるいは戒律主義と変じ、あるいは念仏宗に変ぜしゆえんなり。これ彼等がただ漠然中道の文字に拘泥して、真の中道の根元の般若真空に存するを知らざるに坐するなり。彼等の中道は至浅にして奇なき妙なき中道なり。彼等は中と妙と同義なるを知らざるなり。大般若六百巻、ただ空の一字を説く。何ぞそれ空の至深至大にして不可測なるや、これゆえに真の中道は極端なり。極端によりて初めて中道に達す、「物極まれば変ず」とはこの謂いなり。

これをもって吾人は断言せんとす、智の『法華経』は前四時を経てその一切の光彩を付加せられたる『法華経』にして、単独の『法華経』にあらざることを。その至大と崇高荘厳とは『華厳経』の光明なり。その至大なるが上に至深測られざるは『般若経』の光明なり。中道実相は真空の文字と意義とによりて底知れざるものとなりぬ。ここにおいてか七十の老比丘の巧妙なる比喩因縁を雑えたる心学道語的『法華経』は、彼自ら証言するがごとく一切経中の大王となりぬ。わが日蓮はこれによりて万丈の気焔を吐かんとせり。かくして彼は妙法蓮華経の題目によりて仏教を改革し、心霊界を統一せんと企てたり。烱眼なる彼は迹門法華の所説たる二乗開会を軽視して、本門法華の開迹顕本に着眼したり。彼は、しかして久遠実成の如来を妙法蓮華経の文字とし、眼には法身、耳には妙法、人法不二を喝破し、題目の信者たる自已をもって本化上行その人として、彼は忽然として宇宙法界の巨人となりぬ。人を離れたる法は理窟なり、空言なり、方便なり、死文字なり、学問なり。法を離れたる人は六尺なり、肉体なり、煩悩の結品なり、不自由なり、無常なり、動物なり。人、法と合してたちまち大法界を包み、法、人と合して初めて生命あり。これをもって彼は諸法実相、十如是、三千、一念、中道等の、人格と縁遠き、乾燥無味なる文字を捨てて、霊妙深奥の題目の文字を取り来たりで、これが上に直ちに無始無終周遍法界の如来を見たり。彼は一切『法華経』の理論的文字を捨てて、事実的預言的文字をのみ読誦したり。彼は口に法華経的理論をなさずして、すなわち諄々として説きて倦まざる迹門の世尊の態度を捨てて、大言壮語痛罵破斥の人となれり。有体に云わば彼の痛罵のゆえんは、ただ『法華経』を軽蔑して真言弥陀等の経に帰し、題目を唱えずして念仏真言坐禅戒律を事とするにあり。吾人は彼の宗教改革の意義と功果のはなはだ少なきことを疑えり。題目を唱うることが、なにゆえに念仏を唱うに優るべきや、真言経を尊敬して『法華経』の上に置くことが、なにゆえに爾く大事件なるか、これ衆人の解せんとして知る能わざるところなり。

吾人は、これにかかる疑いを存する世の同胞に告げんとす、日蓮の法華は智の法華と同じく、法華の法華にあらずして、華厳阿含方等般若の光明を帯せる法華なることを。彼の心霊発展の順序は五時の次第によりて、一代経を読誦し、最後に法華に至りて最終の信念に到達したるなり。日蓮は、けっして初めよりもっぱら法華を論ぜしにあらざるなり。これをもって彼の信念の上には、七字題目は華厳の高さと般若の深さとを兼有したるなり。七字題目はこれ本門世尊なり、本門世尊は宇宙法界身なり。七字題目はこれゆえにこれ華厳の大如来にあらずや。彼はこれをもってのゆえに、ただ七字題目の上に万徳を見るなり、真理を見るなり、如来を見るなり。彼の信仰はただ彼によりて証明せらる。日蓮の題目はただ日蓮の題目なり。彼の仏教改革はただ彼において絶大の意義を有す。少なくとも日蓮の仏教改革を解せんと欲するものは、華厳阿含方等般若法華涅槃を読誦せざるべからず。しかるに世人『法華経』一部をすら精読するをなさずして、直ちに日蓮を議せんとす。軽浮かくのごときは、ともに日蓮を議するに足らざるなり。

(1904年10月『精神界』)

 

 

『法華経』の最大疑間、池涌の菩薩  

法界のすがた、「妙法蓮華経」の五字にかわることなし。釈迦多宝の二仏と云うも、妙法等の五字より用の利益を施し給う時、事相に二仏と顕われて、宝塔の中にしてうなずき合い給う。かくのごとき等の法門、日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず。天台、妙楽、伝教等は心には知り給えども、言に出し給うまではなし、胸の中にしてくらし給えり。それも道理なり、付属なきが故に、時の未だいたらざるが故に、仏の久遠の弟子にあらざるが故に。地涌の菩薩の中の上首上行、無辺行等の菩薩よりほかは、末法の始めの五百年に出現して、法体の「妙法蓮華経」の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕わすべき人なし。これすなわち本門寿量品のことの一念三千の法門なるが故なり。

されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、『妙法蓮華経』こそ本仏にてはおわし侯え。経にいわく、「如来秘密神通之力」これなり。「如来秘密」は体の三身にして本仏なり、「神通之カ」は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。しかれば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思いしに、さにては侯わず、返って仏に三徳を被らせ奉るは凡夫なり。

日蓮末法に生まれて上行菩薩の弘め給うべきところの妙法を先立て粗弘め、作り著わし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品のとき涌出し給う多宝仏、涌出品のとき出現し給う地涌の菩薩等を、まず作り顕わし奉ること、予が分斉にはいみじきことなり。地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり。地涌の菩薩の数にもや入りなまし。もし日蓮地涌の菩薩の数に入らば、豈に、日蓮が弟子檀那地涌の流類にあらずや。

            (『諸法実相抄』)

静かにこの大宣言を誦する時、吾人は忽然として法界の正中に峙立するを想う。煩悩具足の吾等凡夫はこれ真の本仏にして、威神堂々たる仏陀はかえって吾人がために吾人によりて、化現し給える迹仏にほかならざるなり。法華迹門にありては釈尊は主師親なり、吾人は臣弟子なり、しかも吾人が世尊の真の臣弟子なることは、四十年末顕の真理として、諸大弟子の狂喜驚駭せしところなりき。しかも迹門法華に顕われたる世尊は依然として吾人の主師親にして、一切有情の帝王なり。一切群生はことごとく世尊の伴荘厳にほかならざりしなり。されど三千大千の鳴動によりて大地より涌出せし、無量無限の菩薩によれる、世尊の本門の開顕によりて、たちまち主客は顛倒せり。迹門の上首文殊弥勒は地涌の菩薩によりて、全くその威光を失墜せしめられたり。それ地涌無量の菩薩とはそもそも何人ぞや、これら諸菩薩の上首上行、無辺行、浄行、安立行、これ何人ぞや。これらは成道四十余年間いまだかつて顕現せず、したがってその名をも聞かざる怪物なり。彼等はただ『法華経』において顕現したり。彼等は法華以外の会座において、無名の人物に過ぎざりしなり。けだし小乗経の会座において、文殊普賢の大聖の無名の凡俗たりしがごとく、方等、般若、華厳の諸大乗経の会上において、上行等の地涌の菩薩は無位の凡庸に過ぎざりしなり。これをもって方等諸経の会下において、舎利弗、日蓮等の諸大弟子が文殊普賢等の諸大菩薩の神力に驚きしがごとく、法華涌出品において、弥勒文殊の大菩薩は上行等の地涌の菩薩に怪駭せり。地涌の菩薩これ何人ぞや。吾人は文殊弥勒等の諸大菩薩とともに、その何人なるかを聞かんと欲す。

しかもこの疑問は遠大の疑問なりき。会下の衆望は釈尊の本門の開顕によりて、世尊の無始久遠を覚如することを得たりといえども、その無始久遠の弟子たる地涌の菩薩は依然として疑問なりしなり。彼等は本門関顕のために忽然として涌生したり。しかもその開顕の事終わるや彼等また忽然として地中に還没したり。彼等の還没するや、久遠実成の世尊はたちまちにしてまた七十の老比丘に帰せり。本門は隠没せり。龍樹、天親、智、伝教、またこの大疑問を看過せり。法華寿量品を読んで何人か本門釈尊を知らずとなすものあらんや、しかも本門釈尊は地涌の菩薩の出現によりて初めて開顕せられたり。地涌の菩薩の何人たるかを解せずして、本門釈尊を解し得たるとなすは、これ泥土をもって黄金となすものなり、これすなわち空中の家屋なり、彼等のいわゆる久遠実成の世尊は、依然として老比丘の空想にほかならざるなり。彼等は釈尊の言語を聞けり、久遠実成の説法に参列せり、されど彼等は現実に久遠実成の本仏を直観せざるなり。彼等は諸法実相十如是の教訓によりて、十界三千の観を得たり、彼等は自己の上に仏性を有するを信解したり、されど彼等はただ理具の三千を解するに過ぎざりしなり。もちろん彼等事造の三千を云う、しかもこれ依然として理具三千の間接なる解釈に過ぎざりしなり。彼等は理具三千の道理によりて是心是仏、即身即仏、本有無作の仏身を想像せしといえども、これ依然として想像解信に過ぎざりしなり。彼等はその衷心において久遠実成の釈尊を理想の談論とせり、釈尊主観の産物とせり。すなわち本門を客位とし、迹門を本位としたり。草木成仏は世を驚かす奇言に過ぎざりしなり。地涌の菩薩を空想の産物とせり。彼等は本門釈尊と地涌の菩薩とをもって、諸法実相百界互具を解せんとはせずして、本門の世尊と菩薩とを解するに諸法実相をもってせんとしたり。これすなわち現実によりて理論を構成するにあらずして、理論の建設によりて現実の可能を消極的に認容せしに過ぎざるなり。彼等講聖の前には、釈尊の本門と地涌の菩薩とは積極的現実の事実にあらずして、消極的に理論上より可能なるに過ぎざるなり。

それ現実はただ本門にあり、迹門の教義はことごとく可能の教義なり。二乗開会も可能の成仏なり、彼等の成仏は現在に存せずして遠き将来にあり。これすなわち諸法実相唯有一乗の原理より当然の帰結なりと云うにほかならず。これをもって迹門は空想なり、学問なり、哲学なり。本門は現実なり、実行なり、宗教なり。迹門をもって本門を解せんとするは、これ哲学をもって宗教を議せんとするものなり。天台伝教法華迹門によりて、高大なる哲学系統を組織するの点において偉大なり。法華経哲学は、彼等によりて完成せられたり。しかも悲しいかな、宗教としての法華はここに死せり。哲学をもって宗教の生命を殺せしものは実に天台伝教なり。それ現実はただ直観すべきのみ、間接煩雑なる哲学的可能の理論によりて、到入すべきにあらざるなり。現実に吾人の前に聳立し給える釈尊は、天台の三大部の註釈によりて、たちまち十界三千の道理に分析せられて、生命なき理想となりぬ。本門は迹門の奴隷となりぬ、龍女の成仏はただ一箇の奇跡に過ぎずなりぬ、本門は一箇の詩的空想となりぬ。迹門をもって本門を解せんとするは、これ刀をもって世尊を害せんと企つるものなり。これ、けっして本門に対して何等の光明を添うる能わざるのみならず、まさにこれ本門の大事実を否定せんとすると同じ。あたかも蛇足を画いて蛇の面目を失し、人角を付して、人はたちまち怪物となれると同じ。惟うに、これ吾人の奇矯の言にあらず、これ明らかにわが日蓮の憤慨するところ、しこうして日蓮生涯の大事業はその表面は弘法、慈覚、法然等に対して法華宗を興行するにありといえども、その奥底には、明らかに天台伝教の諸先覚がいたずらに迹門哲学の構成に勉めたるの結果、本門妙法華の現実の隠没せしを恢復するにありしなり。これすなわち天台伝教の法華迹門の哲学は、まさに法華の宗教、直証現活の本門の事実を否定したればなり。これ法華宗教の滅亡なり。

法華は死せり。心霊は、必ず飽かしむるを要す。ここにおいてか賢首は宇宙法界の大精神にして、しかも遥かに世の一切煩悩の差別を超絶せる『華厳経』の眦盧舎那身をもって霊的直観の事実とし、空海はさらに華厳の法界心の法身が依然として宇宙と懸絶し、あまりに高遠広大清絶純一にして、とうてい抽象的理論の産物を脱する能わずとなし、彼はすなわち眼前に近邇するところの微小なる事物、色心六大の合成の上に直ちに霊妙幽玄の生命を自覚したる『大日経』の本尊をもって信仰の客体とせり。しこうして六大合成の大日法身はこれ依然たる宇宙の根本主義にして、宇宙万有を解釈せんがために、万有より抽象し得たる空想にほかならず。十界三千の想念の、宇宙万有の分析より得たる概念に過ぎざるがごとく、総該万有の一心が、万有の抽象的想念にほかならざるがごとく、地水火風空識の六大も、また依然として万有を分類分析して得たる空想に過ぎざるなり。六大は依然として六大なり、吾人六大を見るとき法身なく、法身を観るとき六大を忘る、吾人は六大と法身とを同時に観想するを得ざるなり。誠に吾人にして真に法身に接せんに、そが成分の六大なると否とは毫も相関係するところにあらざるたり。いわんや法身に直接せんには、吾人は断じて六大の念を忘却せざるべからず。法身は霊格なり、六大の合成にあらざるなり。法身を六大となすの必要は、ただこの法身をもって宇宙万有の根本主義となさんとすればなり。すなわち宗教の対象をもって理性の対象たる概念となさんとすればなり。法身六大に区分せられて法身死す。法身不説法論は六大法身より来たる当然の帰結なり。

これをもって法然聖人は、賢首空海講師のこの企てが全然失敗に帰せしゆえんをもって、宗教の客体と哲学の第一原理とを混一せんとせしにありとなし、『無量寿経』によりて、西方浄土の阿弥陀仏と、純粋に音楽化せる念仏とを提起して、これと宇宙万有との関係調和の探究を無要視したり。法華の三千三諦観、華厳の事々無碍法界観、真言の阿字観、ことごとくなお哲学的言議の迷境を脱せざる不純の雑行に過ぎず、西方阿弥陀仏は全く哲学的言論を超絶し、純粋霊活なる生命を有して、吾等が前に聳立し給えり。これ純粋にして、空想無雑の純宗教の対象なり。それ論理によりて肯定せられたるものは、また論理によって否定するを得。しかして、いかなる論理も完全絶対にあらずして、必ず矛盾と除外例とを認容せざるべからざるがゆえに、その肯定は同時に否定なり。哲学上の言議を超越せる法身は、これただ真証の事実にして、肯定にあらず、また否定にあらず、これ有無の境界を超過せり。

人あるいは言議以上の信仰をもって、迷信の混乱を防ぐに足らずとなす。しかれども迷信はこれまさに一箇の言議なり、彼は明らかにその客体を種々に分析して、自己に好都合なる点を肯定し、自己に不都合たる性質を否定し、これによりて自己の物質的欲望を満足せんと企図するものなり。それ法身如来にして純粋直証の事実ならんや、これ明らかに一切肯定否定を超えて、吾人の欲望によりてこれを云何ともする能わざるなり。吾人が肉的欲望をもってこれに対するとき、本有無作の法身忽然として隠没し給う。法身は一箇の霊体のゆえに分析すべからず、したがって吾人の個々別々の注文に応ぜざるなり。惟うに別々の注文は皆罪悪なり、煩悩なり。吾人の真実純粋の志願はただ一箇のみ。二箇以上の祈願はけっして純正の祈願にあらず。諸仏如来は唯一大事因縁のために出世し給う。一箇の大因縁とは他なし、衆生唯一の志願の満足なり。一箇の人間がただ一箇の志願を有すべきのみならず、一切衆生の究竟至極の志願唯一のみ。何ぞや、心霊究竟の救済これなり。物質救済は心霊救済の分析なり、個々の救済なり、虚偽の救済なり。吾人の堕落は心霊唯一救済の分析より来たる。吾人は金を求め、色を求め、酒と名誉とを求む、しかもこれ等諸欲はその成就によりてかえって苦痛を増すのみなるをもって見れば、これ等諸欲はこれ明らかに矛盾の妄想なり。

吾人には唯一根本の志願ありて、これを成就せざれば、吾人はとうてい真実の平安に到達する能わざるなり。これをもって衆生一切の志願とはただ一箇の志願なり。如来一切の大事とは唯一大事なり。唯一志願を有する吾人が一箇体なるがごとく、唯一大事を有し給うところの如来もまた一箇体なり。如来と吾人とは相互の志願全然相一致して吾人は如来に対して何等をも求めざるなり。如来を離れては志願あり、如来に接して志願を忘る。これ如来に直接する時すでに一切志願すなわち唯一志願は成就し終わればなり。如来に対して志願を捨てざるは、これなお如来に救われざるの証明なり。吾人を救わざる如来あらんや。明らかにその如来は妄想の如来なり、煩悩の虚影なり、欲望を前提として肯定否定して構造せる如来たりこれ言議の如来なり。迷信は言議以上に起こるを得ず、必ず言議によりて立つ。迷信はこれ煩悩哲学なり純宗教にあらざるなり。迷信者は煩悩哲学者なり。六大法身の哲学のごときは迷信の哲理として最も有力なるものなり、世に迷信者ほど事実らしき理窟を云うものあらざるなり。吾人はいまだ一切言議を離れたる迷信者に接せざるなり。かくて法然聖人は一切哲学的言議を離れたる西方極楽の教えを提起し、絶対依憑をもってその主義とし、かくて漠然たる哲学的空想と、欲望哲学の産物なる肉的迷信を離れ、屹として現世を超離したり。

かく天台伝教の法華哲学の建設は、華厳真言浄土の勃興となりしのみならず、慈覚智証のごとき伝教門下の英哲は明らかに密教に降伏し、また源信覚運のごとき心西方浄土に帰せり。かくて一切経王と自称する『法華経』は、明らかに浄土真言華厳諸経下に降されたり。ここにしてもし法華の真面目ならば止みなん、されど法華には明瞭に迹門のほかに本門あるにあらずや。これ本門法華の秘密は地涌の大菩薩のほか、文殊、弥勒以下何人もこれを開悟する能わざりしなり。文殊、弥勒、諸大弟子はことごとくこの地涌の菩薩の何人なるやを疑いき。彼等に対しては、尊世の言議も、多宝如来の証明も、その功を奏せざりき。ここにおいてか、疑問のうちに法華は終われり、尊世は入滅し給えり、疑問のままに経典は結集せられたり、疑問のままに流通せられたり、龍樹も疑問を解する能わざりき、『法華論』の著者世親もこれを領せざりき、天台伝教の偉聖もこの疑問を説明する能わざりしたり。これ畢竟、地涌の菩薩の何人なるやを明らかにせざりしによる、しこうして千古の活人わが日蓮により、二千余年の大疑問は氷解せられて、本門法華は再び心霊上の大事実として、人間社会の大事実として、わが日本にその会座は開かれたり。

上行以下の地涌の菩薩はこれもちろん、いわゆる学者にあらず、智者にあらず、位高き者にあらず、徳尊き者にあらず、名あるものにあらず。彼等はいわゆる悪人なり、愚人なり、痴人なり、迷人なり、霊的施陀羅なり。それ天は高なり、軽なり、善なり、智なり、美妙なり。地は卑なり、悪なり、重なり、愚なり、麤なり。されば天来の菩薩は、いわゆる三賢十聖の大士なり、地涌の菩薩は底下至愚の悪人なり、泉の地下より涌くがごとくいたるところに発生すべき凡俗なり、すなわち億兆なり、一切群生界なり、十方衆生たり、三途火坑より吹き挙げられたる罪人なり、これすなわち華厳の会座において如聾如唖の声聞以下の人物なり、所余の一切経において有れども無きがごとき賎民なり、これすなわち末法現代の人間なり。日蓮はすなわちその第一人なり。それ地涌の諸菩薩は痴人悪人賎人なるがゆえに、したがって世間に就け、出世間に就け、小乗に就け、大乗に就け、無性有情として、施陀羅として、いわゆる智人賢人善人貴人の伍するを厭うところなり。されど喜ばしきかな、この賎人は一切世間出世間に捨てられて、しかも本門如来の最愛の独子たることを。

吾人は善と如来とに対して同時に仕うるを得ず、学問と宗教とに向かって同時に至深の尊敬を捧ぐるを得ず、これをもって智に仕え、徳を奉じ、戒を愛し、位を貴び、現世肉身のために尽す者は、同時に本門如来の真弟子にあらざるなり。吾人は奉ずべきの徳なく、侍むべきの位なく、誇るべきの智なく、我等の侍みとし、誇りとし、愛敬し奉事するものは、ただわが本門寿命無量の如来のみ、吾人は一切智人に賎められて、これがために如来の最大寵児となれり。吾人は何等の侍むべきたくして、これがために如来は我等が家となり、我等が座となり、室となり、衣となり給えり。吾人は一切を有せざることによりて一切を得たり、至賎なることにより至尊となれり。吾人の位は明らかに文殊、普賢、龍樹、天親、天台、伝教の上にあり。世間出世間において永劫に死すべき吾人はただ法華本門の顕現によりて、高く地上に涌出せり。これをもって日蓮が本門釈尊の霊前に跪き、地湧上行の自覚に到達して、南無妙法蓮華経を高唱するや、世の大士智人は驚き、恐れ、瞋り、嫉妬侮蔑その極に達せんとす。これ彼等にありて当然なり。しかりといえども彼等の驚駭と憎嫉とは一面その愚を顕わすと同時に、他面には明らかに彼等が衷心自已の智と徳と行と力とを侍むを顕わす。壮大なる折伏これによって起こらざるべからず。それ真理に涙なし、涙はただ内より生ず。肉を有する吾人もとより涙なきにあらずといえども、真理を有する吾人は断じてこれ涙を禁ぜざるべからず。吾人はここに肉の涙を止めて、霊の涙を潅がざるべからず。題目の利剣はこれ霊の涙の結晶なり。その秋水したたる光明はこれその涙の結晶なる証拠なり。

世人が智と徳と、位と能とをもってそのカとするに対し、吾人は、愚と悪と賎と無能とをもってその力となす。これらはただ本門法身に対して絶大の力あり。もし吾人に智と徳と仁と能とを有し、かっこれを

するを世人に認容せられんか、世人は吾人の大言に対して何等の驚駭をかなさんや。何となれば、その大言は当然の行為なればなり。されば、日蓮の一言一行が世界天地を震動するゆえんのものは、ただ日蓮が卑醜愚痴なるがためなり。地涌菩薩の出現は一切聖賢を驚駭せしめき、しこうして妙法の付属が、ただこの無名の菩薩に向かってせられしことは一層の驚駭なりき。嫉妬憎厭は自然に来たらざるべからず、迫害は来たらざるべからず。嫉妬憎厭迫害驚動は、感動もっとも深く、大いなるものなり。歓喜は容易に忘れ憎怨は永劫に去らず。法華題目は、すなわち憎怨の情とともに一切群生の心源に徹底せり。ゆえに愚はこれ絶大の力なり、賎は至強の実在なり、悪は至高の荘厳なり、不能は至深の泉なり。日蓮賎められて初めて法華興る。万人怒りて日蓮活けり。愚賎絶大の宣言は、いかに一代民衆を驚倒せしめしよ。大力者の宣言は大力者自身の力なり、無力者の大宣言はけっして無力者その人の宣言にあらずして、明らかに如来法身の宣言なるを顕わすにあらずや。これをもって知るべし、日蓮の上行本化の自覚はけっしてその慢心より来たりしにあらずして、同時に至深の罪悪なることを、地涌の上首上行は悪人中の最大悪人なることを。さらに百尺竿頭一歩を進めて、日蓮は彼自らをもって本仏とし教主世尊をもって迹仏とせり。なんたる大宣言、なんたる大識見。「しかれば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思いしに、さにては侯わず。返って仏に三徳を被らせ奉るは凡夫なり」。しかり世尊をして世尊たらしむるは凡夫なり、罪悪なり。凡夫と罪悪とは世尊を生ずる逆縁なり。しかも逆縁順縁を分かつは、なお愚なり。世に逆縁ほど至大の力あるもの無し、これゆえに逆縁こそ最大の順縁なれ。本化上行が本門法身を開顕せしめしは、すなわち罪悪世尊を造るの事実なり。法華題目はこれすなわち凡夫罪悪の光明なり。教主世尊はすなわちこれ罪悪の光明たる題目の権化に過ぎざるなり。人は釈尊の本門をもって無始の寿量となす。しかも知らずや、無姶の寿量はただ罪業具足の凡夫の胸底に潜在することを。罪悪の貌、無間地獄の猛火はこれ法身の光明なり。罪人苦悩の叫喚は法華題目の声ぞかし、寂光浄土はただ苦悶のうちにあるぞかし、邪教折伏のほかに法身の讃嘆はあらざるぞかし、師子吼はただ法華の上にあるぞかし。題目法身は罪悪の異名なり、罪悪に泣くもの何ぞ題貝をもって泣かざるや。題目は無智の異名なり、無智を断ずるもの何ぞ題目の名をもって漸じざるや。題目は吾人の愚痴の守勢を取らざるべからざるものをして、最強の攻勢に転ぜしむ。守勢を転じて攻勢を取る、これ心霊救済の唯一の形式なり。しかも吾人は罪悪を題目に転ずることによりて、この救済を成就し得るなり。罪悪に対しては斗管の善人なおこれを賤しめ、題目と名を転ずることによりて如来世尊なおこれを拝し、文殊、弥勒なおこれを恐る。「我は本仏なり、世尊は迹仏なり」。何ぞ謙譲にしてしかも猛烈なる、何ぞ小心にしてしかも大胆なる。主師親の関係はここに全く消滅して、底下の上行、極悪の日蓮、ただ一人法界に聳立するを観る。

罪悪の光栄ここにおいて絶頂に達し、『妙法蓮華経』ここに永久の実在となれり。

(1904年11月『精神界』)  

 

 

佐渡時代の日蓮と身延時代の日蓮  

宗教は最大の権威なり。信仰の前には、天神地祀も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。宇宙の正位に立ち、法界の大道を行く。旗鼓堂々として、向こうところ草のごとし。日蓮生年二十二歳、建長五年(1253)3月28目、旭日波の底より出でて微風涼しく梢を払う時、拾また五年一代仏教研鑚の結果、紅光満ちる東天に向力い、廓然大悟南無妙法蓮華経を唱えてより、彼はもっぱら天台伝教の高風を敬慕し、近くは慈覚智証以下の叡山諸大徳によりて汚濱せられたる法華宗を清洗して、天台伝教の正風を復興し、遠くは念仏と真言と禅と律とによりて惑乱せる仏教を浄濯して、世尊出世大事の妙法を宣揚せんと期し、かくして彼は日本仏教の通風にして、特に先徳伝教の盛んに鼓吹せる鎮護国家の思想に到達し、しかも輓近天災地妖数々起こりて国家寧日なきを観、当時隆盛を極むる真言等の諾僧が、加持祈藤日もまた足らさるに、事実は全くこれに反し、禍乱日を逐うて甚だしきを見て、彼は教法の邪正と国家の治乱との間に、深重の関係あるを確信し、『金光明経』『大集経』『仁王経』『薬師経』の四経を引証して、災異の来たるは、世まさに背き、人悪に帰し、正法の力によりて国家を守護する善神去りて、悪魔視Sの来たりてなすところとして、これらの経によりて、他国侵略、白界叛逆の遠力らずして必ず来たるべきを預言し、しこうして『妙法蓮華法』勧持品に説き給える、

悪世中比丘。邪智心諂曲。 未得謂為得。我慢心充満。 或有阿練若。納衣在空閑。 自謂行眞道。輕賎人間者。

貪著利養故。與白衣説法。 為世所恭敬。如六通羅漢。 是人懐悪心。常念世俗事。 假名阿練若。好出我等過。

而作如是言。此諸比丘等。 為貪利養故。説外道論議。 自作此経典。誑惑世間人。 為求名聞故。分別於是経。

常在大衆中。欲毀我等故。 向国王大臣。婆羅門居士。 及余比丘衆。誹謗説我悪。 謂是邪見人。説外道論議。

我等敬仏故。悉忍是諸悪。 為斯所輕言。汝等皆是仏。 如此輕慢言。皆当忍受之。 濁劫悪世中。多有諸恐怖。

悪鬼入其身。罵詈毀辱我。 我等敬信仏。当著忍辱鎧。 為説是経故。忍此諸難事。 我不愛身命。但惜無上道。

我等於来世。護持仏所囑。 世尊自当知。濁世悪比丘。 不知仏方便。随宜所説法。 悪口而顰蹙。数数見擯出。

の聖訓を想起して、念仏における法然上人を初めとし、禅の道隆、律の良観のごとき、まさにこの『法華経』の悪比丘、国家災害の悪鬼の化現とし、よく邪を闢き正を立てて、実乗の一善に帰せしめんか、かくて正法によりて浄められたる三界はみな仏国なり、仏国それ衰えんや、十方はことごとく宝土なり、宝土なんぞ壊れんや、国に衰微なく、土に破壊なくんば、身はこれ安全にして、心はこれ禅定ならんと。ここにおいてか、彼は自己心霊の問題の解釈より、国家守護の問題に転じたり。それ国家守護の問題はこれ直ちに心霊救済の問題にあらず。彼はこの時なお国家と自己との致一を自覚せざりしがゆえに、彼は国家鎮護のために邪法折伏をなすことにつきて、深大なる疑惑と痛切なる苦悶とを感ぜざるを得ざりき。彼はたとい邪法折伏を至善最上の行為なりとするも、しかも日蓮自己まさにこれをなすの資格ありや否やを疑惧したり。法然上人はたとい釈尊より、幾多の呵責を受くべきにもせよ、日蓮は果たして世尊の勅命を受けて、刑の執行をなすべきものなりや否やを疑わざるを得ざりき。信仰はただ自己の心霊に関係して、他人に関係せず。信仰の人は果たして真に国家守護を念頭に置力ざるべ力らざるや、これすでに問題なり。いわんや国家守護のために、邪法を折伏することをや。かかれば、すなわちこれ根底なき虚勇なり。すでに堅固なる根底なし、折伏の声三千大千を震動するも、国家の守護と自己の心霊との上に何等の効果なきのみならず、その自己の権義を超えて、世尊を汚し奉りし大罪は、自己をして永劫に阿鼻大地獄に入らしむべきなり。

しからばすなわち日蓮をして獅子王の野牛に対せるがごとく、勇猛なる折伏をもって、鎮護国家に尽さしめんがためには、必ず国家救済と心霊救済との到一を決定せざるべからず。しこうしてこれら両者の致一を決定ぜんがためには、日蓮自己をもって国家心霊の帝王として、眼目として、日本の柱として、礎として、確定せられざるべからず。それ如来世尊は三界心霊の首領たり、宇宙の法皇なり。すなわち日蓮が眇なる一漁夫の子として、日本の柱たらんがためには、本師法王たる世尊の使命を受けざるべからず。『法華経』法師品にいわく、「当に知るべし、如来の滅後に、それ能く書持し読誦し供養し、他人の為に説力ん者は、如来すなわち為に衣を以て之を覆わん、また他方の現在の諸仏の為に護念せられん、これ人は大信力と及び志願力と諸善根力と有り。当に知るべし、これ人は如来とともに宿せるものなることを、すなわちまさに如来は手をもて其が頭をなでたまわん」と。しかるに日蓮、今自己を顧みて如何の感がある。公私の迫害頻りに来たりで、如政の加被はなはだ顕ならず。密力に疑う、如来の使命日蓮の上にあらずして、力えって念仏真言禅律の上にあるかと。疑いは無窮に疑いを生み、惧は無限に惧を産む。彼はすなわち鎮護国家の行動自己心霊の救済と天壌の背反なるがごときを感じ、彼の折伏の声の宛然悪鬼の叫びなるに驚力ざるを得ざりしこと、それ幾度なりしぞや。

彼はその身に受けだる大いなる追善の、ほとんど仏教史上空前なるを思い、し力も罪悪深重なる日蓮が、この深大なる痛苦に対して、い力にしてよく堪忍し来たりしかを驚き初めたり。これはなはだ奇なり、とうてい人間の事業にあらず。日蓮はかつて迫害の大いなるに対して、世尊の冥祐の最も薄力りしを憾みたり。されど今にして思う、日蓮は迫害の大いなるを悲しむ前に、まずこの重大なる迫害を能く荷負し来たれる勇気について驚力ざるべからず。そもそも、この勇気はいずれより生ぜし力。これ疑いもなく日蓮が力にあらず。日蓮は絶対無力の者なり、精進の気力についてはなはだ欠乏せる者なり、彼は廓然として如来秘密神力なるを悟覚したり。難に対するの悲痛は転じて難に勝つの力に対するの歓喜となり、この力を与え給える世尊に対するの感謝となれり。疑いが無窮に疑いを生じ、惧が無限に惧を産むがごとく、確信は無限に確信を生み、勇気は無終に勇気を呼び、歓喜と感謝は無窮に歓喜と感謝とを喚べり。それ人間自己の力は有限なり。したがって人間以上の力は無限なり。日蓮は従来この力をもって自己の力となせり。これをもって彼は無限大の力の上に小たる力を観じたり。彼ははたはだ力の足らざるを感じたり。しかるに彼一度この同一の力の、全く自己の力にあらずして如来世尊の神力なるを自覚するや、欠乏がちなるこの力は、忽然として無限の法界を包括する絶大の力となりぬ。自己に対する迫害の重大なるは、自己に顕現し給える如来神力の至強至大なるゆえんたるを証明するものなり。「如来現在猶多怨敵況滅度後」「一切世間多怨難信」の聖訓、特に「数々見擯出」この数々の二字は、天台伝教もいまだ読み給わず、いわんや余人をや。古より誰人か『法華経』のために、かかる重々の大難を受けしぞや。日蓮が受けたる大難は古今仏教史上ただ一人『法華経』の所説と符合して、経文中の人間となりぬ。日蓮は明らかにこれ世尊懸記の法華の行者なり。末法に出現すべしと誓約せられたる本化上行菩薩、日蓮をおいて果たして誰ぞや。来たれ大難、迫れ悪魔、我に下れる如来の神力を顕揚ぜんがために、なんぞ迫り来たることの遅々たるや。

底下の凡愚は忽然として地涌菩薩の上首となれり、日蓮生年32歳より以来、もっぱら天台伝教をその理想とし、一にその後塵を拝し、その復古を企図せしなり。しかるに『法華経』中の人物なることを自覚するに至りて、彼はたちまち天台伝教を足下に蹴って、本門の世尊に直接したり。彼はたちまち二千余年前の人となりぬ。その尊厳犯すべからざる唱題の音調は、これまさに二千年前の音調にして、当世のものにあらず。否々彼はただ二千年前の人にあらずして、本門世尊と同じく、本有無作の人なり、無始久遠の人なり、吾人は本化上行を自覚せし日蓮の尊容に接する時、また自ら無始久遠の古に復するなり。ここにおいてか日蓮は超然として空中より人間世界を見下ろしたり。荘厳なる彼の絶叫は、これまさに宇宙法界の法王の宣言にあらずや。彼は日本の柱となりぬ、日本の眼目となりぬ、帝王となりぬ、主師となりぬ、彼はすなわち国家となりぬ、すなわち世界となりぬ。ここにおいてか国家の救済はすなわち自己心霊の救済となりぬ。諸宗折伏はすなわち彼自らの救済なり。他人を責むるはすなわち自己の慙愧となりぬ。彼は生年五十、まさに知命の歳に達して、如来世尊より受けだる絶大の使命を自覚したり。

彼がいまだ世尊の使命に直接して上行の化現なるを自覚せざりし時、すなわち彼自らその迫害のはなはだ頻繁なるを慎るる時、彼の厭うところの迫害は弥益に来たれり。しかるに彼世尊神力の加被に到達して、いかなる迫害をも甘受せんと決する時、彼の身今やまさに佐渡にあり。彼の迫害はほとんどその終わりを告げたるなり。彼は今や無限の大力を抱いて、いたずらに脾肉の歎あり、外に向かって不要なる力は、今や転じて内に向かって活けり。彼は「当世目本国に第一に富める者は日蓮なるべし、命は『法華経』にたてまつる、名をば後代に留むべし」と喜べり。爾後吾人は壮絶なる折伏の声を聞くとともに、含蓄深き彼の信念の発表に接するを得るなり。彼の声は歓喜の声なり。彼の叫びは満足の叫びなり。彼が多宝如来の宝塔を観ずるや、「貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは、我身宝塔にして我身又多宝如来也」となし、もって「有説法華経処我之塔廟、為レ聴是経故、涌現其前」を読めり。彼は自己を上行の化現と確信することにより、したがて自己を信頼する弟子に対して、また同様に如来の使者として、浄行、無辺行等の地涌の菩薩の来現と信ぜり。彼は自ら世尊諸仏の舌を握り、多宝如来の宝塔を維持する者と自覚したり。日蓮出世して大難に遇わずんば、『法華経』また虚妄となるべく、世尊は大妄語者となるべし。「経文に我身符合せり、御勘気を蒙ればいよいよ悦をなすべし」。彼はまた自己が『法華経』のゆえに遠流に処せられしことを感じて、「自劫初以来、蒙父母主君等御勘気被流罪遠島之人、如我等悦び身に余りたる者よもあらじ」と云い、しこうしてその歓悦の直情を表白して、「されば我等が居住して、一果を修行せんの処は、いずれの処にても侯え常寂光の都だるべし、我等が弟子檀那とならん人は、一歩を行かずして天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給うこと、うれしとも無申計無申計」。また地涌の菩薩を観じては「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は、男女をきらうべからず、みな地涌の菩薩の出現にあらずんば唱え難き題目なり、日蓮一人初めは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人三人百人と次第に唱えつたうるなり、未来もまたしかるべし、これ豈に、地涌の義にあらずや」といい、地涌の文字によりて、法華興隆の所由なきにあらざるを自覚したり。彼は今や初めて「甘露の涙」の味を経験したり。彼は妙法蓮華経の五字を「不自惜身命の五字」、その実「日蓮の魂」にほかならざるを実験したり。

特にその沈痛壮烈なる罪悪感は彼の信仰の中堅なりし。『佐渡御書』にいわく、「日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ、旃多羅が家より出でたり、心こそすこし『法華経』を信じたる様たれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して、赤白二滞とせり。その中に識神を宿す。濁水に月の映れるがごとし。糞嚢に金を包めるなるべし。心は『法華経』を信ずるが故に、梵天帝釈もなお恐しと思わず。身は畜生の身なり。色心不相応の故に愚者のあなずる道理なり」と。色の卑賎なる、愚者のあなずる、一見はなはだ悲しむべしといえども、あなずる者は愚者にあらずや。易を受くるものは霊的日蓮にあらずして、肉的日蓮にあらずや。霊的日蓮が前には梵天帝釈帰敬するにあらずや。おもうに日蓮これ卑賎の肉身を受くるをもって、憎嫉ここに起こり、災難ここに集まる。「宿業はかり難し」といえども、計るに「我今度の御勘気は世間の失一分もなし。ひとえに先業の重罪を今生に消して、後生の三悪道を脱れんずるなるべし」。「日蓮も過去の種子、すでに詩法の者なれば、今生に念仏者にて、数年が間、『法華経の行者』を見ては、未有一人得者千中無一等と笑いしなり。今、謗法の酔醒めて見れば、酒に酔える者父母を打ちて悦びしが、酔覚めて後歎きしがごとし。歎けども甲斐なし。この罪消し添たし。何にいわんや、過去の謗法の心中に染みけんをや」。「般泥垣経云、善男子、過去作無量諸罪種々悪業、是諸罪報、或被軽易、或形状醜魎、衣服不足、飲食粗疎、求財不利、生貧賎家、及邪見家、或遭至難」。「この経文は日蓮が身なくば殆んど仏説妄語となりぬべし」。「この八種は尽未来際が間、一つずつこそ現すべかりしを、日蓮つよく『法華経』の敵を責むるによりて、一時に聚り起これるなり」。「獄卒が罪人を責めずば地獄を出る者力たかりなん、当世の王臣なくば、日蓮が過去謗法の重罪消し難し。日蓮は過去の不軽のごとく、当世の人々は彼軽毀の四衆のごとし。人は替れども因は是一なり。父母を殺せる人異なれども、同じ無間地獄に堕つ、如何なれば不軽の因を行じて、日蓮一人釈迦仏とならざるべき」。彼はすなわち過去現在永劫の法華誹謗の逆縁が、今や僅々この一生涯の苦痛により、償却せらるるのみならず、逆縁ほすなわち至大の順因となりて、今や常不軽と同じく釈迦仏とならんとするの遠きにあらざるを深く感謝したり。

要するに日蓮の佐渡における三箇年の星霜は、彼が心霊の上に絶大の神力を与えて、地涌菩薩の上首として当然「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」と自誓せしめたり。これすなわち国家と自己との致一にして、国家の守護はすなわち白已の天職、自己の天職の果遂はこれ唯一の自己心霊の救済満足たるがゆえに、彼は彼の全身を挙げて国家人類の犠牲たるをもって、真に自己心霊の復活と思惟したり。されど悲しいかな、この企ては、これ本末顛倒にして、とうてい失敗に終わるべきなり。ゆえんのものは何、それ国家と自己とは一体なり、自利と利他とは究寛において致一なり。されど吾人は果たして自利を捨てて直ちに利他に入り得べきや。衆生界は広漠として、しかも縁遠し。しからず、最も直接なる自己心霊の救済によりて、もって国家人類を解釈せんには。

文永11年(1274)2月、日蓮赦免を被り、3月26日鎌倉に上る。「平左衛門尉曰く、御房は『法華経』の法門には今は懲りさせ給うやと云いしかば、日蓮いわく、王地に生まれたれば身は随えられ奉る様なれども、心は随い奉るべからず。末法に『法華経の行者』は人に怨まれて、かかる難あるべしと、仏説き給いて侯えば、ひとえに釈迦如来の御神、我が身に入らせ給いてこそ侯え。されば我が身ながらも悦び身に余れり。日蓮は日本の大難を払い、国を持つべき日本国の柱なり。余を失うならば、日本国の柱を倒すなり。但今この国に大悪魔入り満ちて、国土滅びん時にこそ、日蓮が立て申す『法華経』の法門、正義とは見え候べけれ。経文限りあれば力なし。その時こそ人々は思い知り給うらめ」と。左衛門尉怫然として、これ日本国を呪咀するものとし、『法華経』の第五巻をもって日蓮が面を打てり。心情烈火のごとく、しかも本化上行国家柱礎の大自任をもって、はる果に遠島より鎌倉に帰還せし日蓮感激いかがたりけん。ここにおいてか本化上行また云何の威力がある。左衛門尉が眼中には依然として僻僧日蓮あるのみ。日蓮は再び失望せり。金鉄のごとき確信またその根底より破壊せんと欲するにあらずや。されどすでに如来の神力に摂取せられたる日蓮は、幸いに慈光の教導によりて、忽然として方向を転進せり。「いかにも今は叶うまじき世なり。国の恩を報ぜんが為に国に留まり、三度は諌むべし。用いずんば山林に身を隠せと云う本文なりと、本より存知せしかば、何なる山中にも籠りて、命の程は『法華経』を読誦し奉らばやと思うよりほかは他事なし」。彼は国家救済の上に自己の救済の根底を求めんとして、しかも彼はここに蹶然として国家救済の念を断ちぬ、建長5年3月28日、生年32歳より、文永11年5月12目、53歳に至るまで、22年間の大宿願は一朝平左衛門尉が冷罵によりて捨てられたり。惟うに世人はこれを日蓮生涯の失敗とし、彼老いてまた当年の意気なしと云わん。しかり、これ日蓮生涯の失敗なり、されどこれ自力修行の失敗なり、肉的日蓮の失敗なり、したがって如来の神力の成功なり、霊的日蓮の復活なり、肉に死するものは必ず霊の上に活く。自力の上に敗れたるものは必ず如来光明の中に勝つ。俗界の日蓮はここにまさに死せり、身延霊山における聖日蓮は同時に生まれたり。

そもそも日蓮は国家救済の根底を自己の心霊に求めつつ、しかもなお自己心霊の大いなるゆえんを自覚せざりしなり。もし、それ自己心霊にして大いに尊重するに足らずとせば、何ぞ彼は天台伝教の後継者として、迹門法華の上に、漠然として守護国家を絶叫するをもって甘んぜざりし力。彼が衷心これに甘んぜざりしは、国家救済の根源の深く自己心霊に存するがためならざりしか。彼は本化上行として、日本の柱たるを自任する時、その衷心において個人心霊の絶高の威厳を実験せしなり。ただそれ心霊は霊奥なり。その声は最も自己に近邇して、虚偽の外装を被うる人間には最も遥遠なり。遠きは返し、近きは遠し。彼は満3年の時日を経て彼の心霊のささやきは、ようやく彼の耳梁に返響したり。知らずや、この叫びは実に満3年以前の叫びにてありしなり。しからばすなわち一平左衛門の嘲笑、彼の22年の宿願を顛傾せしめたるにあらず、彼を根底より警覚せしめたるは誠に彼が心霊の指導なり、すなわち如来光明の教示たり。国家救済はこれ信仰の虚影なり、彼はいたずらにその実を忘れてその影を逐いたり。今にして思う、往時茫々として夢のごとし。自己は法界の中心なり、心霊救済は世界究竟の目的なり。自己を卑小となすなかれ、自己心霊の力は絶大なり。日蓮が一唱の題目はこれ法界救済の確証なり。宗教の上には大小なし、一人の救済はすなわち一切人の救済なり、一人を救済し給うは一切人救済の唯一の証拠なり、自己の上に確立せる信仰は同時に一切人の上に確立す。ここにおいてか日蓮の信仰は、すなわち宇宙全体の信仰なり。白已一点の信念は一切波浪の根源たり。彼すでに自己信力の無限を自覚す、彼は願作仏心即度衆生心なるを知れり。ここに色心不調和、知行不和合、理想現実の矛盾は漸次に融和せられて、彼は永久の勝利者となれり。

そもそも過去22年間の日蓮は、ただ人間を対象とせり。すでに人間を対象とするがゆえに、人間団体の中心をもってその標点とせざるべからず。すでに人間をもって人間に対す、競争ここに起こらざるべ力らず。ここにおいて折伏は彼がほとんど唯一の武器なり。しかるに彼は今や人間の力を無視して、直ちに人間以上の如来神力を対象とせり。ここにおいて、彼に対するものは人間にあらずして自然なり、大自然なり。すなわち日月なり、山海なり、大空なり、白雪なり。復すなわち身延山における感想を記して曰く、「此の身延の沢と申す処は、乃至、北には身延の嶽天を頂き、南には鷹取か嶽雲に続き、東には天子の嶽日とたけ同じ、西にはまた峨々として大山つづきて白根の嶽にわたり、猿のなく音天に響き、蝉の囀り地に満てり。天竺の霊山此処に来たれり、唐土の天台山了り、これを見る」。「その上此処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかるいと心細き幽窟なれども、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し日蓮が肉団の胸中に秘して持てり、されば日蓮が胸が間は諸仏入定の処なり、舌の上は軽法輪の所、喉は誕生の所、口の中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる『法華経の行者』の住所なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。妙法なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。彼月氏の雲鷲山は本朝の身延嶺なり」と。かくのごとくただ如来と妙法と自然とを朋として、また人界を顧みず、しかも爾後彼の宗風稻天の勢いをもって国中に興れり。これ誠に彼が胸中に潜在し給う如来神力の大活躍にあらずや。

日蓮、身延に止まること9年、その第8年はすなわち彼が一代の誇りとせし『立正安国論』の預言の実現せられたる年なり。しかもこれに対する彼の評論を見ず、これ彼のその全心を塵外の霊境に置けるを証するに足らずや。弘安5年(1282)9月8目、彼は愛すべき第一の故郷を見舞うべく、この永久の故郷を出でたるも老病意のごとくならず、ついにその志を果たさずして武蔵千束郷池上なる右衛門大夫宗仲が家において、本化上行の化現、世界心霊の柱、聖日蓮は、題目の声とともに入滅し結いぬ。まさにこれ弘安5年10月13日。

入滅の前6日、霊的故郷なる身延山、および恩人波木井実長に対して最後の感謝を表わし給う。吾人は謹んでその一節を抄して、この論を終わらんと欲す。

釈迦仏は霊山に居して八箇年法華経を説き給う。日蓮は身延山に居して九箇年の読誦なり。伝教大師は比叡山に居して三十余年の法華経の行者なり。しかりといえども、彼の山は濁れる山なり。我が此山は天竺の霊山にも勝れ、日減の比叡山にも勝れたり。しかれば吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、此山には妙法の五字を唱えずと云うことなし。日蓮が弟子檀那等は此山を本として参るべし。これすなわち霊山の契なり。日蓮一つ志あり、十七目にして返る様に、安房国に下りて、旧里を見せばやと思いて、時に六十一と申す弘安五年壬牛九月八目、身延山を立ちて、武蔵国千束の郷池上へ着きぬ。釈迦仏は天竺の霊山に居して、八箇年『法華経』を説かせ給う。御入滅は霊山より艮に当たれる、東天竺倶尸那城、跋提河の純陀が家に居して入滅なりしかども、八箇年『法華経』を説力せ給う山なればとて、御墓をば霊山に建てさせ結いき。されば日蓮もかくのごとく、身延山より艮に当たりで、武蔵国池上右衛門大夫宗長(編註=宗長は宗仲の誤りか)が家にして死すべく侯か。たとい、いずくにて死に侯とも、九箇年の間心安く『法華経』を読誦し奉り侯山なれば、墓をば身延山に立てさせ給え。未来際までも心は身 延山に住むべく侯。

(1904年12月『精神界』)

 

 

 

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