誓願論

 

 上原專禄

まえがき

 

1970年10月7日、私は東京都大田区池上にある日蓮宗宗務院で開かれた第三回日蓮宗教化研究会議で、『誓願について』と題して講演を行なった。日蓮宗の僧侶諸氏を聴衆としたこの講演が文字によって、またいっそう広い層の人たちによって読まれるためには、講演の精神と骨格とをそのままに残しつつも、字句の訂正以上に立ちいった添削が必要である、と私は考えた。しかし、その後の私は、身辺きわめて多事、1971年酷暑の侯にいたって、漸く小康・小暇を見出すことができ、右の講演に、ともかくも読めるだけの修正を施した。それが本『誓願論』に他ならない。しかし、本論は、もともと私事に出発して私事に終るところの、それも独り合点の自受用作品に過ぎないものなのである。いずれは、文献による吟味などを通して補完せられるべきものと、私自身は考えている。

この「まえがき」は、全体を通じての浄書を終えた1971年11月15日、旅窓とも仮寓ともつかぬ場所で書かれた。そして次に記すアクシデントが起らなかったとしたら、「まえがき」は以上で終るはずであった。しかし、浄書の直後、私は新聞広告で、東京の現代評論社から出版された1新著の、共著者の1人として私の名が出されていることを知った。おどろいてさっそく電話でたしかめたところ、その新著に収められている拙文というものが、日蓮宗宗務院におけるあの講演に他ならないことがわかった。私の作品が、たとえ誰れかの善意から出たにもせよ、無断で出版されたことの不当はいうまでもないが、「まえがき」で「その後の私は、身辺きわめて多事」と要説したところの、私なりの必死の回向実修の営為が、出版にあたって、理解も、顧慮もされていないことの空虚さに、私はたいへんがっかりした。他人相手の営為ではないのだから、理解も顧慮もいらぬはずだが、行手に立ちはだかるような行動はやめてもらわねば困るのである。しかし、そうでなくてもがっかりすることの多い私の昨今の心情を、なんとか乗り越えていくためにも、私自身が添削を加えたこの『誓願論』を、私にとって最も好ましい仕方で公表することを急務と考えるにいたった。この『誓願論』には、「身辺きわめて多事」と記した最近の人生経験を通して、どうやらつかみとれつつあるように思える諸視点が、あるいはそこはかとなく、あるいは意外に鮮やかに影を落しているのである(1971年11月17日)。

 

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最初に、日蓮聖人の『開目抄』のなかで「三大誓願」三言われている一段を拝諦させていただきます。

詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼の婆羅門の責を堪へざるゆへ。久遠大通の者の三五の塵をふる、悪短識に値ふゆへなり。善に付け悪につけ法華経をすつる。地獄の業なるべし。本と願を立つ。

これ以後が誓願の文言になるわけであびます。

日本國の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をご(期)せよ。父母の頸を刎ねん、念佛申さずわ。なんどの種々の大難出來すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべがらず。

以上の日蓮聖人の「三大誓願」について領解を申し述べさせていただくのが私の本日の課題なんでございますが、その前にこの講演をお引受けいたしました事情、あるいはお引受けせざるをえないと考えました意味合いのようなものを暫くお聞きいただきまして、その上で本論に入らせていただきたいと思うのでございます。

ただいま中濃〔教篤〕先生からご紹介がございましたように、私もまた日蓮聖人についての領解をえたいと考えてまいりましたものでございます。また信仰をえたいと願ってきたものでもございますが、果たして日蓮聖人の教義や信仰が身についているかといえば、とてもそういうわけにはいかないものでございます。いったい私は、日蓮聖人の教義と信仰を今日、現代の日本においてどう言い現わし、どう生かしていくことが可能であるか、そういう問題を考えることに即して、日蓮聖人はどういう方であったのか、日蓮聖人の教義や信仰とはどういうものであるのかということを考え続けてきたものでございますが、歳は進んでまいりましたものの領解の方も信仰の方もいっこうに増進されつつあるという実感を持つことはできないでいるものでございます。そのような中途半端な人間である私が、すでに日蓮聖人の教義の、ご研鍍も、ご信仰も進んでいられる方々の前で、中途半端な話を申し上げていいものかどうかということで、講演をお引受けする時ちゅうちょいたしたのですが、いったんご注文が出た以上は、お引受けしなければならないという感じもありまして、お引受けいたしました。それにつきましては、後で申し上げるような事情もあるのでございます。

しかし、お引受けいたしました後で、これは大変なことになった、あるいはご辞退申すのが至当であったかも知れんな、という感じが逆に強くなってまいりました。といいますのは、一般的にいいますと、私は長い長い教師の生活をやり、「教育」という仕事を長い間やってまいりましたけれども、その五十年に近い教師の生活の中で、人を育てるということができたという実感はどうしても持てなかったのでございます。優秀な若い人が育っていくという事実はいろいろあったのですが、それはなにも教師としての私の働きの結果としてそうなったのではなく、そういう方は始めからそういう素質の方であり、いい素質を与えられているという因縁の中で勉強した人だから良くなったまでであって、なにも私が「教育」をしたために良くなったとは、決して思えないのであります。またへあまり優秀ではない人、いろいろと迷っている人に対しては、いかに私が口をすっぱくして何かと申してみましても、それでその人がいくらかでも利発になったとか、今までのへんな考え方を改めたというようなことは、ほとんど一回も経験されなかったのであります。そういうこともありまして、先年以来、私は教師をやめました。いや、人を教えるということをやめたのでございます。それには、本来、力というものが私には不足で、教師というものが私には不向きな仕事であるということが分ってきた、ということもあったのですが、大体、教育というものがそういうものではないのか知らん、というような考えなども、やはり加わってきたかも知れません。つまり、教育というようなものでは、根本的には人間をどうすることもできないんではないか、それが教育というものではないのか、というような感じにもなってきたわけであります。

それでは、「宗教」というものは、いったい、どうなのか。教育というものと宗教というものとは、どこかで交わるものでしようけれども、必ずしも交わるとは限らない。宗教の中には教育という一面が含まれていて、宗教の働きとしての教育ということがもとよりあるのですが、しかし通途の意味では、教育と信仰ということとは別のことのように考えられる。そうした場合に、教育というものについて失望した人間が、宗教とか信仰ということで、つまり、教育によって達成しえなかったことを、宗教なり信仰実践というものを通して、いくらかでも果すことが可能かどうか、という問題がやはり残る、と思うのでございます。

実は、教育の他に、また宗教の他に、「学問」というものがあるのですけれども、その学問というもので、いったい何がどうつかめるのか、という問題があるわけです。これも不勉強のせいで、ございましょうが、私などのやってまいりました学問などでは、人間というもの、人生というものの一番深いところをつかむことはどうしてもできない感じがいたします。事物や事柄の周囲をグルグル回るということは、あるいはできるかも知れない。事物の外側を現象としてつかまえることは、あるいはできるかも知れない。その上、それで結構ではないか、という学問論上の主張もある。しかし、事物の内容に突入してその本質をつかむということは、少なくとも私などの今までのやり方では、とうていできない、ということであります。また、事物の内実に立ちいってゆくような学問研究ということを、たとえば若い人たちに申しても、その意味さえなかなか理解されないのが現状であります。

こういうわけで、教育の畑でも、学問の領域でも、少な<とも私の経験についていいますと、自分の無力と仕事の空しさとを痛感するばかりでございました。また、対外的な働きとしてではなく、自分自身のいわば教養として、自分自身の自己教育というようなこととしてやってみた場合でも、事情はほとんど同一であります。自己教育というもので自分をどこまで押し進めることができたか。自分自身の自己開発として、いわゆる学問の仕方でやってきたことによって、どれぐらい事物についての認識を深めることができただろうか。それを考えてみると、ゼロとはいえないでしょうが、いかにも成果が乏しい、いかにも得るところが少ないということが、自分でわかるのでございます。

そこで、宗教というものはどうなのか、ということが改めて問題になる。本来は、教育とか、学問とか、文化とかいうものの前に存在する、あるいはそういうものをささえるものとして深ぶかと存在する、そういうものが宗教だと思うのですが、教育という方法、あるいは学問という方法によってとらえることのできなかったそのことを、宗教の働きを通じて、また信仰の獲得という道を通じてつかむことができるかどうか、という問題があるわけであります。昨今、私がやっておりますのは、その問題をめぐるいわば悪戦苦闘のようなものなのでございます。

もとより、通途の問題次元においては、また、常識の支配する日常世界においては、教育という仕事も、結構意味はありましよう。学問というものも、結構意味はありましよう。しかし、常識を越えた、あるいは常識の底にある問題としての生死の問題、それも生と死とを自覚的に一つにしてとらえた生死の問題、その上たんに生と死とではなく、「生者」と「死者」とのかかわり方をこそ同時に問題にせざるをえない私自身の生存と生活全体の問題、そういうものにとって私がやってきた学問なり、教育の仕事なりは、いったいどれ程の意味を持ちうるのか。また人さまの問題一般といたしましても、生死の問題、生者・死者の問題も含めてトータルな生存と生活というものを考える場合に、教育とか学問とかはどれぐらいの意味を持ちうるのか。通途の問題次元、常識的な日常世界のなかでは、なかなか問題になってこないかも知れないけれどもいったんそれにとっつかれれば、どうしても振り切ることのできない深刻で切実な問題としての生死の問題というものが誰れにでもあるはずです。それにかかわっていうならば、誰れでもが意味あり気にやっている教育の働きとか、学問の仕事というものは、ほとんどなにもやらないのに等しいと考えるのが本当です。どうすれば、生死の問題も含めて、いや、含めてではなく、まさに生死の問題に立脚して人生のこと、社会生活のことを考え、そこに出てくる問題を理解し、且つ処理することが可能か、という問題があるわけであります。

先ほどから申してきましたように、通途の意味では、学問や教育というものの存在理由はありましょう。また、宗教を中心に据えて考えた場合にも、それにかかわっての学問とか教育というものには、意味もございましょう。しかし、少なくとも常識的な日常世界のなかでの話としては、教育とか学問について、私はもう発言権がなくなっているように思う。そういうものに関心を持つことは、もう私の柄ではない、というような感じがしている。ですから、ここ数年間というものは、ほとんど、教育とか学問というものについての講演などもお引受けしないできましたし、書くことも極度に控えてまいりました。しかし、やはり信仰の問題に関しては、少し違う。たとえ自分でそれかできなくても、もし講演させていただくことが、あるいはものを書かせていただくことが、私自身の領解の増進に、あるいはまた人さまの領解の増進に、いくらかでもお役にたっということであるなら、やはりお引受けしなければならないのじゃないか、というように考えてまいったわけですが、持にその考えが強くなってまいりましたのは、実は昨年(1969年)の4月、私が家内を失ってからでございます。家内を失いますと、その死というものが直接の動機となりまして、今まで考えておった生死の問題というものが、非常に観念的なものであったということがわかってきました。生死の問題について今まで考えてきたのは、観念の世界、理屈の世界のことであって、事実の世界とか、実感の世界とかにおいて生死の問題というものを考えでいたのではなかったんだな、ということに気がついたのです。そして、一人の人間が死ぬるということはどういうことなんだろうか、という問題を本当に考えなけりゃならない、というところに追い込まれたのでございます。

ところで、死の問題については、特に仏教がそれを重視してきた。しかし、仏教だけではなしに、総じて宗教というものは必ず生死の問題というものを問題にしている、中心的な問題にしている。しかしながら仏教というものは、特に死の問題、生死の問題というものを中核的な問題にしている、あるいはしてきた宗教だ、と思うのであります。いうまでもなく、キリスト教とかイスラムの教えにおきましても、死の問題は大変に大事な問題である。その死にかかわって、死の対立物として、永遠の生命というものを追求している。死というものに最も端的に現われる人生の無常というものについては、仏教が強調してきましたが、それは何も仏教だけの特徴ではない。キリスト教、イスラムの共通の源流としての古代のユダヤ教においてもそれが力説されております。その人生の無常を端的に示す死というものに対して、永遠の生命、永生を保障するものとしての信仰が説かれている、と思いぎす。一方、釈尊は全人生を特に生老病死の問題として把握されたと教えられていますが、その中で死というものをとりわけ重要視しておられた。このように、宗教という宗教はことごとく死を問題にしてきたのですけれども、家内の死において私が感じましたのは、「死」というものよりは、むしろ「死者」ということであった、と思います。避けることのできない運命的なものとして、そこに立ち現われてくる死という事態そのものではなくて、生きてきた人間が死んだ存在へと転化していったその事実をどう見るのか、というのが私の感じた問題でした。つまり、生者であった者が死者になっていったその事実を、まだ生きている者がどう受けとめるのか、というのが弘め感じたその問題なのでございます。

そこで考えるのですが、問題を生老病死としてとらえる、つまり、生死としてとらえるのと、生者と死者とのかかわりとしてとらえるのとでは、一見同じようであるが、実は少し違う、いや、相当違うかも知れない。といいますのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラムにおいても、また仏教においても、そこで説かれ且つ教えられてきましたものは、いわば自然に与えられるもの、避けることのできない運命的なものとして立ち現われてくる、そういう自然の事態のようなものとしての死についてであった、と思うのであります。実際、たとえば釈尊という方が死というものをそういうふうにだけ考えていられたかどうかは、本当に腰をすえて勉強しなければわからないんですが、普通には、死というものをいわば与えられた、避けることのできない、非人為的な自然の事態として受けとめていられた、というようにいわれてきたと思われるんですが、私の家内が死んだときには、いわば自然死を死んでいったというふうにはどうしても思えなかったのでありまして、家内は社会の仕組みの中で、邪悪な心の人たちによって殺されていったのだ、という感じが強いのであります。その邪悪な心というものは、第一、医者の怠慢、医者の不注意、医者における生命の蔑視として現われると同時に、医者でない多くの人びと――その中には親類縁者や無人がたくさん含まれている――における忘恩として現われる。家内に、一人の人間として背負うことのできないほどの心配と苦労をかけながら、かえって家内を侮蔑し冷笑している、そういう人間もたくさんあって、それが家内を病身にさせてきた、と思われる節があるのでございます。そこへもってきて医者の不注意、怠慢、無責任というものが折り重なって死んでいった、死なざるをえない状態につき落されてしまった。大事な点は、そのことを死んでいった家内自身がはっきり意識していた、ということです。「死ぬのはちっともいやではないが、こういうことで死んでいくのはいやだ」と家内はなげきました。つまり家内は、ただ死んでいくんではなくて、殺されていっているんだ、ということを自覚していたわけです。そういう死者をみますと、こういう場合の死を、たんに自然の死であるとか、生老病死の運命の実現であるというように、哲学的に、あるいは人生論的に淡々と迎えることは私にはどうしてもできない。そういう死にぶつかった私としましては、死者の思い、死者というものの持っていた問題を、生き残っている人間としてどう受けとめなければならぬのだろうか、どう受けとめることができるのだろうか、どう受けとめたときに正しい受けとめ方といえるのか、というような疑問がそれからそれへと沸き上ってまいりました。

重ねて申しますが、家内の場合には、死というものは、昔からいわれてきた通りの、いわば老少不定の一つの運命的なものとして生じてきたのではなくて、人為的に殺されていった、それも社会的に命が奪われていった、ということなのだ。そのような、ただ死んでいった人ではなくて、殺されていった人間の思い、そのことを自覚していたそういう死者の思いをどう受けとめていくことが、本当の深い意味において、その亡くなった故霊の成仏ということに寄与することになるのか、という問題があらためて起ってくるわけです。一般的にいうならば、題目を唱え、お経をあげ、回向とよばれる営みをすることによって、まさに迷っていると思われるその死者の霊を成仏させることができるのだ、というふうに教えられているわけであります。しかし事態に即して考えると、果たしてそういうありきたりのことで死者は満足するであろうか、死者を成仏させることができるであろうか、という疑問について考えないわけにはいかなくなってきました。それが第一です。

ところで、このよう思索を続けてまいりますと、今度は、さらにそれと関連しまして家内は社会の仕組み、そのあり方の中で殺されていった、誉れるという仕方で死んでいったと思うのですが、そういう言に嘆く私自身がやはり家内を殺すのに加担してはい無かっただろうか、という疑問が起ってきました。家内の死については、第一に医者というものが責任をとらなけりやならない。次に親類縁者というものも責任を分担しなきゃならない。もっと広い世間というものも責任をとらなければならない。しかし、夫である私とものも、やはり家内を殺すということを無意識のうちにやってきたということがありはしないだろうか。そういう自己批判も当然に起ってくるわけです。

このように問題を掘り下げてまいりますと、殺されていった人間というものは、もとより家内一人だけじゃなく、少なくと今日の日本社会においては、自然死を死んでいった人間、死んでゆける人間などは存在しないのであって、ことごとくが殺されていった、また殺されていれていくのではあるまいか、という疑惑も起ってきます。何かうまくごまかされて、まあいろいろ介抱を受け、養生したけれども、死んでゆくのだ、というふうに本人も思い、周囲の人も思っているような場合でさえも、事実においてはやはり、社会の仕組みと仕掛けの中で殺されていくのが実態だ、ということではないのか。これはまことに恐しいことです。しかしそれよりももう一つ恐しいことは、家族も自分もそのように殺されていくだけではなくて、そういう自分自身がやはり殺す側に加担していないとはいえない、ということである。特に意識して自覚的に人を殺すということはさすがにやらないとしても、結局は人を殺すことになる社会の仕組みを、承知の上でそのままに放置しておくならば、そのような人間はやはり人を殺す悪行に加担していることになるのではないのか。これが第二です。

いずれにしても、今日の、少なくとも日本社会における死ということは、仏教で長く教えられてき、問題として取り上げられてきた、宿命的な生老病死ということの一つとしての死というような、そういう透明なものではなくて、社会の仕組みの中でどろっと殺されていくことを意味すると同時に、そういうことを困ったもんだと慨嘆している当人自身が、やはり殺す側に加担しているんではなかろうか、という二重の危慎があるわけであります。昨年4月家内が死んで以来、そういう問題がたえず私の頭と心の中を往来しているのであります。今日の日本社会においては、単純素朴な死というものはありえないのではないか。人びとは、正義によわい社会の仕組み、その中に生きる正義によわい人びとの邪心によって殺されていっているんではないのか。それと同時に、その殺す作業に私自身が参与しているということがありはしないか。要するに、「死」の問題ではなくて、殺の問題、「生老病死」ではなくて、「生老病殺」の問題こそが、今日の日本社会における現実の死の問題ではないのか。そういうふうに私は考えざるをえなくなっているのであります。

それでは、このような現実に対して、私としてはどうすればよいというのか。死というものを、殺された死者の姿として理解した場合に、どうすればよいというのか。私はいろいろ考えました。考えざるをえなくなったことはいろいろあるのですけれども、最初に思いいたったのは、回向という問題についてであります。第一には回向、そのように回向の問題が中心であるということにすぐさま思いいたったのは、やはり仏教というものに比較的長く触れさせていただいたおかげだと思うのですが、回向というものこそは、死んだ人間と生き残っている人間とをつなぐ唯一のきずな、あるいはコミ二ーケーションの唯一の方法であることに、気がつきました。仏教においては、よくぞ回向という観念を持ち続け、大事にしてきたことよ、とそのとき思ったことです。そして今でもそう考えております。回向というものこそは死者と生き残った生者とをつなぐほとんど唯一のパイプなのです。死者の思いが生き残った人間に伝わり、生きている人間の思いが死者に通じるほとんど唯一の通路なのです。このただ一つの道としての回向は、同時に悟りへの道でもある。死者は迷っている。生きている人間はいっそう迷っている。両方迷っているのですが、その双方がやがて悟りの道へ到達する方法としても、この回向というものは特別大事な意味を持っているように考えられる。そのような回向というものの観念と実修方法を仏教で長く育ててきた、ということに私はむしろ驚嘆するのであります。死者と生者とをつなぐこういうパイプについて、仏教は長く考え且つ育ててきたのであります。

ところでここに深刻な問題があります。それは回向の内容、回向の方法についてであります。いったいどうすることが回向になるのか。どうすることが回向を通じて、死者との交流を成り立たせ且つ深めていくことになるのか。どうすることが回向という仕方で、死者の思いを遂げさせるということになるのか。そういう問題であります。回向は回向で、日本社会では数百年の間、いや千年以上も、その思想、教義、実修方法が育てられてまいりましたが、今日ではけっこうマンネリ化している、と思います。そこで私としましては、改めて回向の内容、方法について再検討を迫られたかたちになりました。いったいどうすれば、死者との交流ができたというふうにたんに幻想されるだけではなくて、事実において死者との交流が成り立つような回向がなされたことになるのか。また、どうすることが死者を成仏させ、同時に生者をも成仏させるような内容の回向であるのかということが、改めて問題になってきたわけであります。

マンネリ化したかたちで回向といいますと、各宗で慣例的に定められた法要を営んでいき、故霊のために供養をしていくことを意味する。そして、供養をしていくと、それが故霊の成仏あるいは往生の因行になるのだ、と説かれるわけです。本来は供養といいましても、種々様々の場合がありうるのですが、今日では、ともかく決められた作法で忌日の法要を行ない、慣例にしたがって供養をしていくことが故霊への回向だというふうに考えられている、と思う。それは、まことに便利重宝な回向観でありまして、死というものを自然的なもの、宿命的なものとして淡々とーー余りにも淡々とーー受けとる観念的な生死観に対応するものといえましょう。そのような回向は、無事に死んでいったと考えられる死者については、あるいはそれでいいのかも知れないが、殺されていったと考えざるをえない死者、殺されていっていることを自覚していたそのような死者の場合には、今申しましたような回向は、なんとも無意味で、空疎で、おまけに侮蔑的だ、というふうに考えざるをえません。いずれにしましても、妻の死に茫然自失した私は、回向の道というものが与えられていることを想起して、一道の光明を見る思いがしたのですが、それと同時に、回向の内容、回向の方法というものについて、改めて考えなければならないんじゃないか、と思ったのであります。いや、内容や方法だけではなく、根本的にいうならば、総じて回向とは何か、仏教における回向の意味は何かが問題であり、更にはその問題にかかわって、誓願とは何かという問題が深ぶかと問題になってくるはずだ、ということに思いいたったのであります。

ご承知のように、回向と誓願の問題を直接結びつけて考えてきた仏教者は、他にもあるかも知れませんけれども、浄土系の諸師、なかんずく親鸞聖人が、その教義や信仰、伝道の中で、回向というものと誓願というものとを結びつけて考えられた、と思うのであります。その教えによりますと、後でも申し上げますけれども、無量寿経に法蔵菩薩の四十八の誓願というものが見えていますが、その第十八願というものが、「念仏往生の願」といわれるものであります。それから第二十二願が「必至補処の願」、あるいは「一生補処の願」ともいわれている誓願であります。それらはどういうものかというと、法蔵菩薩がまだ菩薩位にあって修行をしていられたとき、成道正覚の必須諸条件としてその充足を自身に課したものであって、その第十八願が、「もし十方の衆生が心からねがって極楽浄土に往生したいと思って念仏したのに、その極楽往生ができないようなら、私はあえて成仏はしないと誓った「念仏往生の願」であります。また、第二十二願においては、「他方仏土の菩薩たちが、極楽浄土に来生して、結局のところ一生補処の位に達しないようなら、私はあえて成仏はしない」と誓われています。法蔵菩薩の四十八願の中で、この第十八願と第二十二願というものこそが、浄土真宗の教義の中心になっている法蔵菩薩の誓願であります。すなわち、その誓願、とりわけ第十八願を信じるといことが、浄土真宗の信徒にとっては、いわば救いの決め手であります。ここでは、信者自身の誓願などというものが問題なのではない。浄土真宗で重視れている誓願というものは、菩薩位における阿弥陀如来、すなわち法蔵菩薩の誓願なのであって、まさにその法蔵菩薩の誓願を信者が信じる、まさしくそのことにおいて極楽往生が保障されるわけであります。

ところで注意を要するのは、このような誓願と回向との関係であります。親鷺聖人の教えにおいては、第十八願の「念仏往生の願」という誓願は、「往相の回向」ともいわれています。また第二十二願の「必至補処の願」というものは、「還相の回向」とも呼ばれ、親鸞上人自身が持に強調した回向であります。誰れを主体とした回向といえばそれは法蔵菩薩の回向なのであって、もっと立ち入っていうならば、それは成道正覚をした法蔵菩薩としての阿弥陀如来の回向のであります。すなわち、回向という場合にも、信者から発出るところの通途の回向などとは全くかけはなれた高次で絶対のものが、ここに説かれている回向の概念です。そのうち、「往相の回向」、これは阿弥陀如来が衆生の念仏往生を誓願し、それによってその念仏往生を必然のものとしていく大願業です。また、「還相の回向」といいますのは、浄土に往生しえた諸菩薩が穢土であるこの娑婆世界に帰来して衆生のために菩薩行を行ずることを阿弥陀如来が誓願し、それを必然のものとしていく如来の大願業です。今日の浄土真宗では、普通、「往相の回向」だけが説かれているようですが、これは間違いであって、親鷲聖人自身は、往還の両相を共に重視し、とりわけ「還相の回向」を強調した、と思います。いずれにしましても、親鸞聖人の教義と信仰では、回向の主体は法蔵菩薩=阿弥陀如来であり、その誓願力に基いて往還両相の回向が成就する、と考えられている、といえましょう。

以上は浄土真宗、とりわけ親鸞聖人における回向観のあらましですが、法華経に立脚した天台宗の教義や日蓮宗の教義では、回向と誓願とのかかわり方というものについては、どういう具合に考えられてきたんであろうか、という問題があるわけであります。いや、かかわり方だけではなく、そもそも回向というもののをどう考えてきたか、という問題があるわけであります。つまり、回向の内容、回向の方法、とりわけ回向の主体の諸点について、日蓮宗では回向というものをどう考えてきたか、という問題があるわけであります。たとえば回向の主体についてですが、故霊の縁者や信者が回向をするのだ、あるいは回向の儀式をとり行なう僧侶がその主体なのだ、というふうに考えられているかも知れない。しかし法華経そのものの教理、とりわけ日蓮聖人の教義の中では、回向の主体はいったい誰と考えられているのか、また主体とかかわって回向の対象は何と考えられているのか、さらにどういう内容と方法の回向が勧められているのであろうか、というような問題が次から次へと私には問題になってまいりました。また、日蓮聖人の遺文や、聖人の法華経講義として伝承されてきた『御義口伝』などに散見する言説に基づき日蓮聖人の回向観を再構成することも不可能ではない、と思われるのに、それが日蓮教学の方で十分になされていないように思われるのはなぜか、という問題も起ってまいりました。そして、そういう感じになっていくうちに、もしもそのことがいくらかでも回向の意味をさぐるチャンスとなり、回向の実修としても意味があるというのであれば、私がとっくに放棄してしまった講演というようなものもあえて辞すべきではなかろう、というような甘い考えも出てまいりました。ちょうどそのところへ、こちらから話をせよという、こ注文がありましたので、つい、受けてしまった次第でございます。それに演題の方も『誓願について』としてくれということで、そういうことにいたしたわけでございます。

しかしお引受けしてからだんだん気持ちが重くなってまいりました。私が申し上げようとするぐらいのことは、日蓮宗の僧侶の方ならば、もう当然わかっていらっしゃるはずだ。そういう方に何かを申し上げるということは、いかにもてれくさい。その反面、回りくどい私のレトリックみたいなものにお慣れにならない方は、一回や二回話をお聞きくださっても、わかってはいただけない、ということもある。そう思うと、やっぱり無駄な時間つぶしという感じがするんですが、そこはそれ、死んだ人間に対する回向ということにひどく弱くなっているものですから、つい、お引受けしてしまったわけです。

 

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これから本論に入るわけですが、その前になお一言おことわりをさせていただきます。すべて人と人との交わりというものは、やはり因縁のしからしむるところである、と思います。こうしてお会いすることも、今日一回こっきりになる可能性も多い。今日私の話を聞いてくださる方と、二度目にお会いしてまた何か話を聞いていただけるかどうかめからないし、今日は宗務院へ伺いましたけれども、これが最後でないという保証はなにもない。また伺うかも知れませんけれども、伺えなくなる可能性もずいぶんある、と思うのです。現に、そういう兆候はもうあちらこちらに出ています。日蓮聖人の教義についての領解を深め、信仰を持とうとするその願いは消えることはあるまいと思いますけれども、この池上の本門寺のそばの日蓮宗の宗務院というところへまで足を運ぶことが重ねてあるかないかは、私自身にもわからない。その意味では、今日一回だけの、これ限りの、いってみればこれが最後になるかもしれない講演だ、と思うんです。そう思うといよいよもって気が重くなります。いわないでおれば、もう少しお付き合いが続けられるかも知れないけれど、いってしまえば続かなくなるかも知れない。そういったこともあえて言おうとするのだ、と思うと、いっそう気が重くなるのです。

それにもかかわらず、やはり申しあげなければならない。私の力ではとうてい申し上げられませんので、日蓮聖人の誓願のおことばを最初に貸していただいたのです。私の信仰や学問の力ではとてもその話はできない。そこで聖人にお力をお貸しいただき、聖人の誓願に乗じて、個人上原としては申し上げかねるようなことまで、思い切って申し上げてしまうことになるかも知れない。そういう意味で非礼をおゆるしいただきたいのであります。

またまた前置きが長くなりましたが、実は前置きそのものが本論みたいなものなんであります。これから先はある意味では蛇足かも知れない。しかし蛇足なりに、かえって前置きの意味、事柄の意味をお汲みとりいただける可能性があるかも知れない。そういう次第でこれから「誓願」の問題というものについて申し上げます。

第一に申し上げておきたいのは、私が誓願という問題について考えていく心の底には、回向の問題というものがひそんでいる、ということであります。つまり、回向とは何か、回向の主体と対象は何であり、回向の方法は何で、回向の内容はどういうものであるべきであろうか、という回向の問題が誓願の底に横たわっているわけであります。こういう問題のあり方は、実は、親鸞聖人の場合のように、仏の誓願の問題というものから堂々と且つ朗々と出発して、同じく仏の回向の問題へと沈潜していく問題構造や、日蓮聖人の場合のように、ご自身の誓願行というものが、信仰実践の全問題領域の中で、いわば独占的且つ圧倒的な比重を占めているような問題構造とは、何よりも位いどりがちがっている、というべきでしょう。つまり、私の場合には、何かショボくれて、気恥かしいみたいな、亡妻にたいするひそやかな回向ということが心底を占領しているのでございまして、その回向の内包する課題として誓願ということが要請されてくる、という小市民的な段取りだ、といえましょう。ところで、そのような私的な回向ごころから出発して私的な誓願行のあり方を模索していく場合にも、誓願というものの一般理念を明かにしておき、とくに日蓮聖人における誓願の意識や意味について心得ておきませんと、私の誓願行というものがひどく独善的なものになってしまうおそれが多分にある、と思うのです。そういうわけで、最初まず誓願とは何かについて考えるわけですが、誓願の主体、内容、方法として知られているものは、ひょっとすると、普通想像されているものよりはるかに複雑なものではあるまいか、そう思われます。しかも、その複雑なものを通して、やはり一本、太い線が通っていると思われるのであります。

まず始めに注意してみたいと思いますのは、どの宗旨にも共通といえるかどう、かわかりませんけれども、日蓮宗ではもとより法要の中でお唱えになっているし、曹洞宗や臨済宗のような禅宗の主流においても行なわれている「四誓」というものについてであります。日蓮宗のほうでは「発願の四誓」といわれているようですが、曹洞宗や臨済宗では「四弘誓の願文」と申されております。大体において同じ文言ではありますが、厳密に言いますと、日蓮宗でお用いになっておるのと、臨済などのほうで使っておられますものとは、少し文句に違いがある。日蓮宗のほうでは、ご承知のように、

衆生無邊誓願度

煩悩無數誓願断

法門無盡誓願知

佛道無上誓願成

といっておられます。臨済や曹洞のほうでは、「衆生無邊誓願度」は同じですけれど、「煩悩無數誓願断」とはいわないで、「煩悩無盡誓願断」と申します。それから日蓮宗で「法門無盡誓願知」という代りに、「法門無量誓願學」といいます。それから「佛遺無上誓願成」、これは日蓮宗においても、臨済宗などにおいても同じで、ございます。いずれにしましても、この四誓というものは、苦・集・滅・道の問題次元ごとに、菩薩そのものの誓願として、あるいは菩薩行に身を任せている、菩薩行において生きようとしている修行者の誓願として、これが唱えられておるように思うんであります。つまり、日蓮宗のほうで申せば、「衆生無遷誓願度・煩悩無數誓願断・法門無意誓願知・佛遣無上誓願成」の度・断・知・成というものは、菩薩修行をしている修行者、それが主体になってなされる誓願と考えられているように、私には思われるんです。もしこれが私の邪推でないとしますと、このような四誓観は日蓮聖人自身のそれを、少なくとも倭小化したものといわざるをえません。いったい日蓮聖人は「四誓」といわないで、いつも正しく「四弘誓願」といわれ、略称の場合は天台大師にしたがって「四弘」といわれましたか、その四弘を日蓮聖人が一括して問題にされたのは、ほとんどいつも爾前の経々では菩薩でさえも成仏することができないことを論証する、その文脈においてであったのです。つまり二乗(声聞・縁覚)の作仏が否認されている爾前の経々では、たとえ菩薩が四弘誓願を起したとしても、「衆生無邊誓願度」の願を充足させることができないはずだ。だとすれば、菩薩自身にかかる「無上菩提誓願護」――聖人は第四願をいつもこう記していられる――も成就されえないわげだ、と主張されるのです。このことが記されているこ遺文はたくさんあるのですが、真偽未詳の分はさし除き、断片ながら真蹟の現存しているものだけを挙げますと、文永十(1273)年に系けられている『小乗大乗分別鈔』の一節がそれです。これが、日蓮聖人が四弘を問題にされるときの、通常の視点なのですが、日蓮聖人には、実はもう一つの、いっそう深い視点があり、それが成熟していって、『日向記』――すなわち弘安元(1278)年三月から同王(1280)年五月にかけて日蓮聖人が身延の山中で法華経を講義されたのを、日向師が筆記したものと言い伝えられているもの――の最末三箇条における四弘論へと凝結していった、と考えられます。そのうち、「入末法四弘誓願事」と題した一条をみますと、そこでは法華経の序品から神力品にいたる全篇を四弘誓願の法門としてとらえた上で、伝統的成句としての四弘に素晴らしい活釈が施されています。すなわち四弘は、神力品末尾の四句「於我滅度後、應受持斯経、是人於佛道、決定無有疑」へと止揚され、昇華され、開顕されていき、この四句こそが末法における四弘誓願に他ならない、と説かれます。そして最後に「教主釈尊末法ニ入ツチ四弘誓願モ此文也。上行菩薩ノ四弘誓願モ此文也。深ク之ヲ思案スベシ」と結ばれています。つまり、神力品末尾の四句へと開顕されていった四弘の主体として、第一には教主釈尊自身が、次には上行菩薩が掲げられているのであります。このような『日向記』の講述をみますと、日蓮宗で今日唱えられている四誓はあまりにも通大乗的であり、日蓮聖人自身の目からしますと、もう六日のあやめ、十日の菊に過ぎず、四誓の主体を修行者とみることは、倭小化も甚しいことになる、と思われます。それと同時に、ここで注意されてよい、と考えられるのは、四弘論において開顕された四弘としての神力品の四句が、聖人のもう一つの法華経講義の筆録といわれている『御義口伝』に「佛ノ廻向ノ文ト習フ也」と述べられていることであります。このような『御義口伝』と『日向記』とを比読しますと、四弘誓願の主体としての教主釈尊がそのまま回向の主体として仰がれている、と考えられるのですが、もしもこのような領解が正しいとすれば、親鸞聖人の阿弥陀如来観と日蓮聖人の釈尊観との間に、一種の対応がみられることになりましょう。ここでは一つの問題として提示するに止めたいと思いますが、この問題の解明のためにも、『日向記』、『御義口偉』の成立と伝承についての周到な文献批判がどうしても必要になってまいりましょう。

ここでもう一度、今日の諸宗における四弘誓の話に立ち戻りまして、その祖型のようなものを調べてみますと、それは非常に古い経典ではないんですけれども、『陀羅尼雑集』というものに出ております。撰者はわかりませんけれども、今日の大正新修大蔵経では、第二十一巻に入っておりますが、その『陀羅尼雑集』の巻第三に、諸菩薩――文殊師利菩薩であるとか、教説菩薩であるとか、そういう菩薩たち――の「四弘誓」というものが記されている。そのうちの一つだけを申し上げますと、たとえば文殊師利菩薩の「四弘誓」というものは次の通りです。

我れ四弘誓有りと読かんと欲す。何らかを四と爲す。一は一切の衆生を覆育すること、猶橋船の人を度するを倦むことなきが如し。二は萬物を苞含すること猶太虚の如し。.三は願わくは我が身をして薬樹の如くならしめん、其れ間者あらば患苦悉く除かん。四は願わくは我当来に成仏を得ん時、衆生を漉する所、恒河沙の如く奮む、是を菩薩曠濟の心となす

以上が文殊師利菩薩の「四弘誓」で、他に救脱菩薩とか、堅勇菩薩とかのそれか掲げられております。それらの「四弘誓」は、今日日蓮宗や臨済宗などで使われております四弘誓そのものと同一ではありませんけれども、今日ではいわば様式化された四弘誓の、おそらくは元のかたちといたしまして、今挙げました「四弘誓」というものが、『陀羅尼雑集』の中に掲げられていることは、十分注意されてよい、と思います。いずれにしましても、四弘誓というものあるいは四誓といいますものは、古来菩薩を主体とするものとして、説かれているわけであります。

このように、誓願の主体というものは、本来、菩薩一般であり、また誓願こそは菩薩の中心課題であると考えられていた、と思うのですが、なかんずく法蔵菩薩の誓願に問題を集約しまして、そこに教義を展開しようとしたものが浄土三部経、特に『大経』=『無量籌経』がそうだと思うのであります。

先ほど申しましたから詳しいことは申し上げませんけれども、浄土真宗では「正信偈」というものを唱えます。これは、親鸞聖人の『教行信證』の中にも出ていますし、『浄土文類聚鈔』の中にもございます。『教行信證』の中にある「正信偈」と『浄土文類聚紗』の中に出てまいります「正信偈」の文句とは違うんですけれども、その「正信偈」をみますと、そこには、特に阿弥陀如来になる前の法蔵菩薩の誓願が、諸菩薩一般の誓願を撥無したかたちで、端的に高唱されています。『教行信證』にしたがってそこのところを申し上げますと、

帰命旡量壽如來 南旡不可思議光

法藏菩薩因位時 在世自在王佛所

覩見諸佛浄土因 国土人天之善悪

建立旡上殊勝願 超発希有大弘誓

ここの「願・誓」、これが『浄土文類聚鈔』ですと、

西方不可思議尊 法藏菩薩因位中

超発殊勝本弘誓 建立旡上大悲願

となっていまして、「誓・願」という文言がこの順序で出ております。『教行信』のほうは前出のように「願・誓」とひっくり返っておりますが、意味はまったく同じだろうと思うのであります。いずれにしても、法蔵菩薩の菩薩行として、一切の衆生を救わずにはおかぬ、一切の衆生を往生させずにはおかぬ、そういう誓い、そういう弘誓にささえられた本願、それが「本誓悲願」とも述べられている浄土真宗における誓願の意義である。いや、浄土真宗といってしまうのはまだ早過ぎるかも知れません。それがまず、経典『無量壽経』における誓願の意味であり、浄土真宗は特にその点に注意と関心を集中させまして、誓願の宗教ともいうべき一つの明徹な宗教を完成させた。そうしてその誓願というものこそが、前に申しましたように、そのまま回向の意味を持つわけですが、総じて回向の主体はもとより信者でもなければ修行者でもなくって、阿弥陀如来その方が回向の主体である。阿弥陀如来の他には、回向の主体たりうるものなどは存在しえない。故霊の親類縁者などが故霊のために「回向する」というような言い方は、通途の仏教儀礼の一つとして許されてよいかも知れないが、本来の深い意味における回向の業というものは如来だけのものである。だから、たとえば故霊のために回向をしたいという願いが衆生の側に出てくるとすれば、そういう願いが出てくること自体が、すでに阿弥陀如来の回向なんである。如来の側にいわば根元的な回向があればこそ、それを起動力として衆生の側に回向の願いも出てくるわけだ。浄土真宗では多分このように考えるのだ、と思うのであります。

ところで他経のことは他経のこととしまして、法華経のほうで誓願というものがどういうふうに説かれているだろうか、その点をこれから考えていかねばなりません。そこで考えてみますと、法華経というものはその点について、実に深い教理を備えております。日蓮聖人は、前に指摘しましたように、法華経の全篇――少なくとも序品から神力品にいたる全体――を「四弘誓の法門」としてとらえられたほどであります。私としましては、そのような認識に接近していく階梯として、法華経をしばらく分析的に観察するのですが、法華経に説かれている誓願には三段の誓願があることに、まず気づきます。第一は釈迦牟尼如来の誓願、教主釈尊の誓願であります。第二は諸菩薩の誓願、第三は、二乗の誓願であります。つまり法華経では、誓願というものは一義的に説かれてはいないで、釈迦如来の誓願と諸菩薩の誓願と声聞・縁覚たちの誓願との三種類にわけて説かれている。しかし全体を通読してまいりますと、あらゆる菩薩、あらゆる二乗の誓願を含めて総じて誓願の行というものを成り立たせるもの、誓願をして意味あらしめるものは、結局、教主釈尊の誓願であることがわかってまいります。諸菩薩の誓願や二乗の誓願というものがいろいろありましても、結局それらは教主釈尊の根元的な誓願に帰一する、あるいはそれによって基礎づけられ、動機づけられ、意義づけられ、内容づけられている、というふうに考えざるをえないのであります。

皆さん方は先刻ご承知なので、申しあげるのもいかがかと思うんですけれども、釈尊の誓願というものが第一に大きく出てくる方便品第二のなかには、釈尊ご自身の次のような言葉が掲げられています。

舎利佛當知 我本立誓願

欲令一切衆 如我等無異

如我昔所願 今者己満足

化一切衆生 皆令入佛道

舎利弗よ當に知るべし、我れ本と誓願を立てて、一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき。我が音の所願の如きは、今はすでに満足しぬ、一切衆生を化して皆佛道に入らしむ。

この短かい偈頌のなかに「我」という表現が三遍も繰り返して出てまいります。この「我」は迹門の釈迦牟尼如来のことで、文言そのものは、霊鷲山の法華会の中で舎利弗を対合衆として宣説された釈迦牟尼如来であります。ここでは明瞭に釈迦牟尼如来か誓願の主体になっております。「我れ本と誓願を立てて、一切の衆生をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき。我が昔の所願の如きは、今はすでに満足しぬ」と、誓願の満足、誓願の成就というものをも込めて、舎利弗尊者にたいして釈迦牟尼如来が説いていられるのが、方便品のこの段である。

それからまた、方便品のすぐあとのところで、

諸佛本誓願 我所行佛道

普欲令衆生 亦同得此道

諸佛の本の誓願、我が所行の佛道、普く衆生をして、亦同じく此の道を得せしめんと欲す

と説かれています。ここでは釈迦如来ではなく、諸仏が誓願の主体になっておる。その誓願の中味は、前に釈迦如来が「一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめん」と宣説された、あの誓願であります。それは一切衆生をして釈迦如来と全く等同の存在にならしめないではおかない、という誓願であります。

そういう誓願が釈迦如来ならびに諸仏を主体とするものとして方便品に説かれており、その諸仏の誓願を総括するようなかたちで釈迦如来の誓願が大きく出されている。このことは、法華経を読む者としては、ぜったいに忘れてはいけない点であります。この講演の初めに『開目抄』の三大誓願というものを読ませていただいたのですが、日蓮聖人のこの誓願も根本的には教主釈迦如来の「一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめん」と述べられた、その誓願に支えられての宣言であったのであって、この方便品における釈迦牟尼如来の誓願、それからすぐあとで寿量品の「自我偈」のことを申し上げますが、そこでの釈迦牟尼如来の誓願と無関係に、日蓮聖人の誓願が展開されているのではない、そう思うのであります。

そこで、最初方便品に現われた釈迦牟尼如来の誓願というものを、私としては特に強調したいと思うのであります。これは、法蔵菩薩の誓願とは違って、ここでは迹門の釈尊ですけれども、他ならぬ釈迦牟尼如来自身の誓願なんであります。その釈迦牟尼如来の誓願が法華経の全体を貫ぬいているように思うのであります。その意味では、ちょうど浄土三部経の無量壽経というものは法蔵菩薩の誓願について述べられた誓願経であり、全経は法蔵菩薩の誓願を中心として展開するといわれておりますけれども、法華経も実は釈迦牟尼如来の誓願についてうたい上げた一つの壮麗な誓願経であるような感じがするのであります。

そう考えた場合に、誓願の内容があらためて問題になりますが、それは前に幾度も注意しましたように、「一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめん」という途方もなく大きく、途方もなく矛盾にみちた、途方もなく困難だと思われるそういう大課題、これが誓願の内容であることは、疑いありません。ただその先きでわからなくなるのは、衆生の側からみて、何がどう動き、何がどう存在していることが、「我が如く等しくして異なること無からしめん」といわれた誓願が成就されていく、その現実のすがたなのか、「我が昔の所願の如きは、今すでに満足しぬ」と方便品に断定された、その具体的なすがたであろうか、という点であります。この点についてあらためて想起されなければならないのが、日蓮聖人の誓願であります。日蓮聖人の誓願というものは、法華経において説かれた、いわば絶対の教義としての誓願が歴史化されたかたちで展開されたものだ、と私は推察するのであって、これあればこそ、釈迦牟尼如来の誓願が実現されていく具体的なすがたが、後代のわれわれ衆生の目にも鮮やかに見えてくるわけだ、と思うのです。いずれにしても、歴史的現実化された釈迦牟尼如来の誓願行、そういうものが『開目抄』の三大誓願であり、この三大誓願が打ち出されてくるところに、天台流の法華経理解と日蓮聖人の法華経把握との違いが大きく出てくる、そういうふうに思うんであります。

法華経における誓願は、以上のように、釈迦如来を主体として、方便品に最初出てまいりますが、その次に出てきますのは薬草喩品第五であります。いったい日蓮宗においても、その他の諸派においても、「発願」というものがあるわけであります。その「発願」のなかで、「未だせざる者はせしめん、未だ解せざる者は解せしめん、未だ安せざる者は安せしめん、未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしめん、」と毎日毎晩唱えられております。ところで、その発願の主体はいったい誰れかといいますと、普通の法要式では――これはその道の方にお教えいただかなければならぬのですけれども――、そういうふうに発願文を唱えているその当人、勤行でその発願文を読誦しているその僧俗男女の方が、その発願の主体のように受け取られているのではないだろうか。その発願は、「未だせざる者はせしめん」云々と仏壇の前で唱えているその人の誓願のように理解されているのではないでしようか。しかし、それは今日の法要式での話であって、本経、法華経におけるその出典、薬草喩品を尋ねてみますと、日蓮宗で「四度」ともいわれている四発願の本来の主体は、そういう勤行者などではもとよりなくして、方便品の発願の場合と同様に、これも釈迦牟尼如来であります。薬草喩品の比較的始めのところで、釈迦牟尼如来は大迦葉等を対合衆として、「我は是れ如來…天人師・佛・世尊」と自称自賛されたのにつづいて、

未だ度せざる者は度せしめん、未だ解せざる者は解せしめん、未だ安せざる者は安せしめん、未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしめん。今世後世、實の如く之を知る。我は是れ一切智者、一切見者、知道者、開道者、説道者なり。汝等天人、阿修羅衆、皆此に到るべし、

と説かれたわけであります。ここは全体として釈迦牟尼如来の説法でありますが、いわゆる「四度」のところは、まさしく釈尊の誓言であります。それをいつの間に、人間の、修行者なり勤行者なりの誓願として唱えるようになったのか。原典における「未だ度せざる者は度せしめん」という誓いの主体は釈迦牟尼如来であったのに、なぜ、いつの間に、修行者や勤行者の誓願というものにいわば低められたのか。いや、「低められた」のではない、という考え方もありうる。低められたのではなくて、その誓願は、たいがいの法要式では最後に近いところで唱えられているのですが、その段で、薬草喩品で述べられた釈迦牟尼如来の誓願を思い起すことによって、如来の大慈悲を再確認し、その大慈悲に感謝するのが、勤行者に「四度」を唱えさせる法要式のこころかも知れません。その大慈悲への感謝・報恩行として、四度の奉唱者は四度の実践者へと自らを行動化させていくはずですから、その点では四度は奉唱者の誓願ともなりましょう。いずれにしましても、たとえば私が四度を唱えるにしても、それは私自身に発した誓願というものではない。それはわれわれのような凡夫、われわれのような末法の衆生をも、どのような方法をもってしてでも救わずにはおれない、と説いた釈迦牟尼如来の誓願を信じ、その誓願に感謝するこころと姿勢が四度奉唱の中心であるはずだ。まだ得度していない連中は、こちらのおもわくや裁量でやがて得度させてやるんだ、というようなそういう奢った思い上がった気持ちが、勤行の最後に述べられるんではない、と思うんであります。こういう領解の仕方が果して正しいどうか、十分ご検討いただきたいと思うんであります。もとより私どもは、いわば菩薩行としての四度の実修をやらなければならぬ、いや、やらせていただくわけですが、何ほどか菩薩行をやりうるとすれば、それは釈迦牟尼如来の誓願がその根底にあればこそだ、と考えられます。それがなければ、おそらくはぜったいに不可能だ、と思います。進んでいえば、釈迦牟尼如来の誓願を踏まえ日蓮聖人の三大誓願というもの通さなければ、私どもにできることは何一つないはずです。私ども自分自身の判断や知恵で何かができると考えるのは、それはとんでもない見当違いだ、そう思うのですが、これもやはりご検討いただきたいのであります。

次はいよいよ最後で、如来寿量品第十六に現われた釈迦牟尼如来の誓願であります。寿量品の「自我偈」の最後は、

毎に自らこの念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速かに佛身を成就することを得せしめん、

毎自作是念 以何令衆生

得入無上道 速成就佛身

という四句で結ばれています。これはいうまでもなく久遠実成の教主釈迦牟尼世尊の、三世にわたる生きた大誓願であります。ですからこの四句を単なる慣用句として受けとってはぜったいにいけません。すでに迹門の釈迦牟尼如来として、方便品と薬草喩品において一切衆生を度せしめようという誓願が言い現わされましたが、今は寿量品の「自我偈」の最後のところで、久遠実成の教主釈迦牟尼世尊の大誓願として、「衆生をして速かに佛身を成就することを得せしめん」という大宣言がなされたわけです。これは本門の教主釈尊の大誓願であり、大慈悲であります。この大慈悲が慈雨のようにふりそそぎつづけておればこそ、われわれはわれわれなりの誓願の道を歩むことができるんではなかろうか。日蓮聖人さえもが、実は、すでに方便品で説かれた釈迦牟尼如来の誓願、今また「自我偈」で告げられた久遠実成の釈迦牟尼如来の大誓願に支えられて、あの『開目抄』の三大誓願というものを宣示されたのではあるまいか。そこに釈迦牟尼如来と日蓮聖人とを一本に束ねる意義深量の儀軌があります。また、それこそが、今日の日本社会に生きている、生きようとしているわれわれになおも語りかけ、働きかけている大秘儀ででもあります。いや、釈尊と日蓮聖人とのこの両重の大誓願こそが、これなければ、もはや生きつづけていく気力さえも失なわれようとしている私などを、絶望の瀬戸際でむんずととらえて、なおも生きつづけていく勇気を私などにも与えてくださる起死回生の大妙薬ででもあるのであります。いずれにしましても、この大誓願こそが、三世にわたる「生死一大事の血脈」というものの当体ではなかろうか、とさえ思われるものなのであります。

あとで関係が出てきますので、ついでながらここで申し上げておきますが、『生死一大事血脈鈔』には誓願という言葉はなくて、「廣宣流布の大願」と書かれている。「大願」という言葉は、日蓮聖人の、ご遺文中、いま申しました『生死一大事血脈鈔』、それから『祈祷経送状』に出ています。しかしこれらは今日真蹟が残っていないご遺文であります。『生死一大事血脈鈔』、これは写本で伝えられ、なかでも朝師本がいちばん古い。ですから、あえて疑っていうならば、『生死一大事血脈鈔』というものは日蓮聖人の真作でないかも知れない。その中に「廣宜流布の大願」と書かれている。それから『祈祷経送状』というものも、後世の成立がも知れない。そこにも「廣宣流布の大願」と書かれている。しかし、「宣流布の大願」という熟語は、日蓮聖人自身の言葉でないかも知れない。そうではなくて、日蓮門下の誰れかが、あるいはどこかの日蓮門流が、廣宣流布というものにたいして託した希望、あるいは考え方の表明かも知れない。これは文献学的に、ご遺文を読んでいる方がたのお教えをいただきたい、と思っているのでございます。

ところで、誓願という言葉ではありませんが、日蓮聖人の誓願の理念が真正面から大きく出ているのは、最初に拝謁しました『開目抄』であることは申すまでもありません。その、いわゆる「三大誓願」の内容として第一に掲げられたものは、「我日本の柱とならむ」という一句であります。「日本の柱」という言葉はここだけではなく、『種種御振舞御書』にも、それから『撰時抄』にも出てきます。私どもにとって大事なことは、この「日本の柱」となろうという日蓮聖人の誓願の持っている意味を、釈迦牟尼世尊の誓願とのかかわりでどういうように理解するか、という問題です。また、われわれ、今日の日本社会に生きて日蓮聖人というものを信じようとする者、あるいは信じていると自認している者は、どういうぐあいにこの『開目抄』の誓願を受け取ればいいのか、という問題である、と思うのであります。注意してきましたように、法華経の方での誓願というものは、何よりも釈迦牟尼如来の誓願として、方便品、薬草喩品に出ており、誓願という言葉は出ておりませんけれども、ことに「自我偈」の最後の、「毎自作是念」以下の四句に、それがはっきり出ているように私は思うのであります。そこで私の考えでは、前にも一言しましたように、無量寿経を法蔵菩薩=阿弥陀如来の誓願の経典だというならば、法華経はまさしく釈迦牟尼如来の誓願の経典である、といわねばならない。事実、釈迦牟尼如来の誓願という一事を軸にして法華経を読むと、いったいどういうことが読み出せるだろうか。この角度で通読しますと、二十八品のいずれも、釈迦牟尼如来の大誓願というものの展開でないものはないような感じになるのであります。そして、釈迦牟尼如来のその大誓願を歴史的現実の場でどう実現していくかという、その問題に実践的解答を出されたのが、日蓮聖人であったような感じに、私はなってくるのであります。誓願ということは浄土真宗の教えであるが、日蓮宗ではあまり聞かない教えである、などということになると大変であります、二乗作仏・久遠実成の法門も、釈迦牟尼如来の誓願というものが働いておればこそ、衆生の身上に血肉化していくのではないでしょうか。

しかし、法華経の中には、今まで述べてきました釈迦牟尼如来の誓願を第一としまして、第二に諸菩薩の誓願、第三に二乗の誓願というものが、やはり記されています。その第二の、諸菩薩の誓願について簡単に申し上げますと、諸菩薩の誓願が出てまいりますのは、勧持品第十三、安楽行品第十四、従地涌出品第十五、神力品第二十一、属累品第二十二と、この五品の中でであります。それらの諸菩薩の誓願の中で、勧持品と安楽行品における誓願は、三千大千世界からの地涌の菩薩の出現以前に、娑婆世界そのものや、他方の国土から来会しました諸菩薩誓願であって、その誓願の内容はいうまでもなく、釈迦牟尼如来の滅後に法華経を護持し、読誦し、解説し、書写し、供養する、ということであり、一口にいえば、如来の滅後における法華経の廣宣流布であります。つまり、こうした廣宣流布の実践というものが、勧持品、安楽行品に出てまいります諸菩薩の誓願であります。

ところで法華経の説相からしますと、ご承知の通り、そういう他方の国土からも来会しました恒河沙の菩薩たちが説主であるところの釈迦牟尼如来に、法華経護持の誓願をいたしましたにもかかわらず、それを涌出品にいたって釈迦牟尼如来は、きびしく拒否していられる。「そういうことはお前さん方やらなくてもよろしい。仏滅後にこの娑婆世界で法華経を護持し、読誦し、広説するものとしては、すでに地涌の菩薩というものが別に用意されている。上行菩薩などの四菩薩を筆頭とする六万恒河沙の地涌の菩薩たちがそれだ。」釈迦牟尼如来はこういわれるのであります。今後はその地涌の菩薩たちが久遠実成の釈迦牟尼如来に対して、仏の滅後において法華経を弘める、という誓願をするわけであります。もっとも誓願という言葉は経文の上には表われてまいりませんけれども意味はまさしく誓願であります。つまり、神力品の最初にこう記されております。

爾の時に千世界微塵等の菩薩摩詞薩の地より涌出せる者、皆佛前に於て一心に合掌し、尊顔を瞻仰して佛に白して言さく、世尊、我等、佛の滅後、世尊分身所在の国土、滅度の処に於て當に広く此の経を説くべし。所以は何ん。我等も亦自ら是の眞浄の大法を得て、受持読誦し、解読書蔦して、之を供養せんと欲す〔るが故なり、と

このように誓願という言葉は表われておりませんけれども、勧持品や安楽行品で大菩薩たちが提起しました誓願と合わせて考えてみますと、神力品に述べられているのは、処としては世尊の分身所在の国土ならびにその滅の処、時としては仏の滅後、この法華経を広く説かせていただきます、という地涌の菩薩たちの誓願に他ならないのであります。こうして神力品では、地涌の諸菩薩が独占的且つ特権的に仏滅後における法華経弘通の誓願をしているのです。しかし、面白いことには、その後で属累品にいたって、地涌の諸菩薩以外の、ありきたりの一般諸菩薩――すなわち、勧持品や安楽行品で法華経弘通の誓願をしようとしたのに、涌出品においてその念願が冷たく却下された当の菩薩たち――にたいして、釈迦牟尼如来はやはり法華経の弘通を命じていられるのです。菩薩たちは喜びいさんでその命令を承わり、「勅のごとくに奉行する」と誓約しています。これも誓願であるに違いありません。このように、菩薩における法華経弘通の誓願は二段に分けられているわけですね。一つは地涌の菩薩の誓願、第二は地涌の菩薩を除外した、他方の国土から来会した諸菩薩の誓願であります。このように菩薩における法華経弘通の誓願が二段に分けられているわけは、教義学の立場からも、文献学の立場からも、たいへん問題を含んでいると思いますが、今日はその点には触れません。

それから第三は、二乗の誓願であります。二乗の誓願というものは実に面白い。むしろ滑稽で、つい吹き出したくなる。まだ地涌の菩薩が出現する前のことですが、薬王菩薩であるとか、大楽説菩薩であるとかの大菩薩たちが、最初に法華経弘通についての誓願をしますと、それにつづいて今は、二乗が誓言を発します。すなわち五百人の阿羅漢、それから学.無学の八千人、こういう人たちが誓願をします。その誓言の内容が、なんともおかしいのです。勧持品に次のように記されています。

爾の時に衆中の五百の阿羅漢の受記を得たる者、佛に白して言く、世尊、我等亦自ら誓願すらく、異の国土に於て広く此の経を説かん。復、學無學の八千人の受記を得たる者有り、座より而も起って合掌し佛に向いたてまつつて是の誓言を作さく、世尊、我等亦當に佗の國土に於て広く此の経を説くべし。ゆえはいかん。是の娑婆國のうちは人弊悪多く増上慢を懐き、功徳淺薄に瞋濁諂曲にして心不實なるが故なり。

娑婆世界の人間は、人が悪くて威張りやで、善いことをやらずにひねくれていて、心に実がなくて苦手だから、よその国へ行って法華経を説かせていただく、というのです。やはり自分の力量というものを心得ているわけでしょうけれども、悪人の巣のようなこの娑婆世界で法華経を説くことは、古代インドのスマートなインテリに他ならない声聞・縁覚の諸君は敬遠したい、というわけです。ですから、どこかよその国へ行って説きやすいところで法華経を説くことにいたしたい、というのです。薬王菩薩や大楽説菩薩はさすがにそういう勝手はいわないで、この娑婆世界で法華経を説かせてください、と申し上げるのです。それというのも、最初釈迦如来ご自身のほうから、誰れか法華経をこの娑婆世界でわしの滅後あえて説こうとするつもりか、と責めたてるようにお勧めになったからです。そこで、なんとしても力を合わせてみんなで如来滅後のこの娑婆世界で法華経を説いていかねばならぬような気持ちになってゆき、それならばやらせていただきましょう、と菩薩たちが張り切ると、お前たちなんかにやらせない、と釈迦如来は峻拒される。随分と意地が悪いように見られもしますが、滅後弘通の独自の量要性はまさにこのような息使いでしか表現できないのかも知れません。同様に一見おかしいだけの二乗たちの心情と発言の記載も、娑婆世界における滅後弘通のきびしさと、そこでの弘通に要求される姿勢の高さを同時に表現する手練の技法だ、と理解されないこともありません。

こういう出入りやパロールをたくさん含みつつ、法華経における教説の中心をなしているものは、第一に釈迦牟尼如来の誓願であります。つまり、一切衆生をして如来自身と等同の実存たらしめよう、というあの誓願であります。しかし第二に、菩薩の誓願があります。菩薩の誓願というものは、今までみてきましたように、如来の滅後における法華経の弘通ということが、誓願の内容をなしているのであります。そこで重ねて強調しておきたいと思いますことは、法華経というものは、釈迦牟尼如来の誓願と上行菩薩などの地涌の菩薩の誓願という二つの――しかしながら、一本に通った――、そういう如来と菩薩の誓願の経典である、という一事であります。私たちはこういう認識をあらためて持つ必要があろう、と私は考えるわけであります。

 

V

以上は法華経の誓願についての概要でありますが、それを前提といたしまして、今度は日蓮聖人の誓願について、まとめて考えてまいりたい、と思うのであります。いったい、日蓮聖人の誓願というものは、先ほど拝読いたしました『開目抄』にいちばんはっきりと表われている、と思います。その『開目抄』における誓願は、「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、」につづけて、その次下を門流によりましては、「大願を立てん」、と読んでいられるところもおありか、と思います。霊艮閣の縮刷本でも「大願を立てん」になっている。師子王文庫版の『類纂高祖遺文録』の中でも「大願を立てん」となっている。しかし、立正大学宗学研究所版の『昭和定本』では、「本願を立ツ」と書かれている。私はこれが正しい、と思う。だいたい、「本と願を立つ」という言い方は先ほど掲げました法華経方便品の文言そのままです。「大願」という言葉は、先ほどちょっと指摘しましたように、『生死一大事血脈鈔』とか、『祈祷経送状』のような、日蓮聖人の真蹟が伝わっていないで、後世の写本だけで伝わっているご遺文だけに出てくる言葉であります。真蹟が現存しているものには、「大願」という言葉は出てこないのであります。したがって、ということにすぐさまなるかどうか分りませんが、真蹟曽存の『開目抄』として、「大願」という言葉ではまずいんであります。それに「大願を立てん」というように未来形で読むのにも問題があります。ここでは文脈上もやはり「本ト願を立ツ」であるべきです。釈迦牟尼如来の誓願について、方便品では、前引の通り、「我れ本と誓願を立つ(我本立誓願)」と記されています。その「我れ本と誓願を立つ」を日蓮聖人は『開目抄』で、思想の上でも表現の上でも継受されたのだ、と私は考えるのです。

ここでいささか想像をめぐらすわけですか、『開目抄』で日蓮聖人は「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」と宣言されましたが、その宣言の前に何が書かれているかというと、それは宗学のほうで「人開顕」と呼ばれているものであります。『観心本尊抄』は「法開顕」だといわれていますが、それにたいして『開目抄』は「人開顕」だといわれているわけです。その「人開顕」というのは、いったい日蓮とは何者であるのか、その本質、その実体を明らかにするという意味であって、日蓮とは何者か、その自覚を示されたものが『開目抄』だといわれており、それが「詮するところ……」の前に記されているわけです。その自覚問題は、日蓮その人が「法華経の行者」というものであるかどうかをめぐって追究されていきます。その際、諸天善神の衛護があるかないかが、法華経の行者であるかないかの極め手である、という想定に日蓮聖人は立っていられます。この想定に立って白已検討をしていくと、どうも諸天善神の衛護がある、と言い切れない。ご自身には法華経の行者という動かぬ自意識があるが、世間の側では、日蓮聖人にたいして諸天の衛護がないことを理由として、日蓮は法華経の行者などではないという悪評を立てている。日蓮聖人にはもとより法華経の行者であるという確信はあるにしても、諸天善神の衛護というものが事実ない以上、果たして法華経の行者といえるだろうかという疑惑がどこまでもつきまとうわけです。そうした息づまる自己検討・自己反省の末に、いわば突如として、思考方法の百八十的転回がなされます。それが、「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」という真に捨て身の表現です。諸天善神の衛護があろうがなかろうが、そんなことは実は問題じゃないんだ、と跳躍的にいわれるのです。その前までは、法華経の行者であるなら諸天善神の衛護があるはずだ、といういわば常識的論理を日蓮聖人自身持っていられたかも知れない。その常識的論理の世界を決然と打ち破られたのが、「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」という断言です。つまり、法華経の行者であるなら、必ずや諸天に守られて生命・身体の危険など一切ないはずであるのに、事実は、度重なる迫害で何も生命・身体の危険が生じている。それにもかかわらず、なおかつ法華経の行者であるという確信は、いったいどこから出てくるかといえば、それは「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」という、思考方法の急転回によって創造的に切り開かれた思惟の地平に、深ぶかと点出された一つの確固不動の内的行作から湧き上ってくるのです。その内的行作こそが、「本と願を立つ」の一事に他なりません。わしは本と――即ち、もともと――こういう願を立てているんだ、という誓願行動、つまり誓願行という内的行作に全幅のアクセントを置いて、法華経の行者であることの自意識をあらためて理由づけるものが、「本と願を立つ」の一句によって導入せられた「三大誓願」の大文字だ、と思うのです。こう考えてきますと、いわゆる「三大誓願」の内容が大切であると同時に、『開目抄』のこういう箇所に、こういうしかたでそれが出されているその構成というものも実に重大である、と考えるのでございます。

ところで誓願の内容ですが、これは最初に拝謁しましたように、次のように書かれております。

日本國の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をご(期)せよ。父母の頸を刎ねん、念佛申さずわ。なんどの種々の大難出來すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべがらず

日蓮聖人はこの誓願において行動し、この誓願を生きてきた。佐渡配流の日蓮聖人にとっては、この誓願を生きてきた、ということだけが大事なことであって、諸天の衛護があったかなかったかなどということは、日蓮とは何者かを論定する上に二義的なことだ、衛護はあっても結構だが、なくったってどうした、というものではない。日蓮聖人は佐渡流罪に伴なう聖人への疑惑と非難の風潮のなかで、内外の疑惑を払拭することが必要だと判断され、前まえから立てていられた誓願とその誓願の実践に立脚して法華経の行者たる自覚を確立されると同時に、他者をも説得されたのが、『開目抄』のこの一段であることを、しっかり注意しておきたい、と思います。

そこで、さらに話を進めてまいりますが、この日蓮聖人の「三大誓願」――こういう言い方が行なわれていますので、「三大誓願」と私も申すのですが、「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ、等とちかいし願」といわれたその誓願と、方便品や寿量品に説かれている釈迦牟尼如来の誓願とは、どう関係するのか。それから、神力品や属累品に述べられている諸菩薩の誓願、とりわけ神力品に述べられている地涌の菩薩たちの、仏滅後における法華経弘通の誓願というものと、日蓮聖人の「三大誓願」とは、どう関係するのだろうか、という問題があらためて出てまいります。

これは非常にむずかしい問題でございます。むずかしいというのは、ここで私たちは日蓮聖人という方をどういう存在として認識するか、理解するか、という日蓮認識の根本問題に直面することになるからです。それと同時に、「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」という日蓮聖人の三大誓願とどうかかわって、700年、750年の年月を隔てた今日の日本社会において、私たち日蓮聖人を仰ぎみようとするものは、生きるべきであるか、という実践問題が私たちに追ってまいりますので、いっそうむずかしい問題になってきます。他人事としてみるならば、そうむずかしい問題ではないかも知れません。しかし、私なら私が、『開目抄』に述べられていることを、文字の上だけのこととしてではなく、私自身の生活の上に実践していかねばならないものとして読んだときに、「三大誓願」というものと私とのかかわりはどうなるのか、という問題なのですから、これは、まことにむずかしい問題だ、と申すほかありません。そのことを合点した上で、『開目抄』に示された「三大誓願」の意味内容、とりわけ、『開目抄』の他に『種種御振舞御書』や『撰時抄』にも出てまいります「我日本の柱とならむ」という誓願の意味について、これから私の領解を申し上げます。

最初に立ち返って、文献学的なところからもう一度吟味いたしましょう。先ほど申しましたように、『開目抄』の誓願の箇所は、文献学的には、「大願を立てん」というように平べったく読むべきではなく、「本と願を立つ」と拝読すべきです。そのように読んだ場合に方便品とのつながりが如実に現われてまいります。いったい、日蓮聖人の念願にはいつでも、釈迦如来が――述門においても本門においても釈迦牟尼如来というものが――、「一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめん」、「是の人佛道において決定して疑いあることなけん」というように述べられた、その釈迦如来のことばというものが、いきいきと生きつづけ、働きつづけています。いや、日蓮聖人の頭の中だけではなく、心の中にも、五臓六腑、からだの全体にも、釈迦如来の誓願というものが、いつもいっぱいに満ちあふれています。これが大事なところです。ここに日蓮聖人の釈尊観というものがあるわけでありまて、日蓮聖人は釈尊をそのような誓願を立てた方、その誓願を成就された方として、その故にこよなく尊とくありがたい方として、仰ぎみていられる。しかも釈迦如来のその慈悲というものを、もうほんとうに慈雨が降り注いているような感じで、日蓮聖人は受けとめていられたのではないか。そして、日蓮聖人の信仰実践の全体というものは、釈迦如来の大誓願をまさしく大慈悲として受けとめた法門行ではなかったか。

それはこういうことです。釈迦如来の誓願というものは成就された、と釈迦如来自身も述べていられますけれども、それが歴史的現実の場において未来永劫実現されつづけていくためには、そのときそのときに釈迦如来の誓願を成就していくメディアというものが必要である。上行菩薩以下の、地涌の諸菩薩はそのメディアに他ならない。日蓮聖人が好んで使用される「佛の御使」という言葉はまさにこのメディアを意味する。一方、法華経の廣宣流布ということを申しますけれども、廣宣流布というものは法華経の文言をそのまま機械的に伝えていくという意味ではなくて、釈迦如来の大誓願を歴史的現実の場において具体的に成就しつづけていくことだ。おそらくはそういう知見に立った日蓮聖人が、自分自身と釈迦如来との、誓願を中心としてのかかわり方をどう意識されたかというと、上行菩薩がそのようなものとして法華経に説かれているように、日蓮聖人自身も釈迦如来の誓願の、歴史の場における代理者、それのメディアとして自己を意識されたのではなかろうか。そのことは、日蓮聖人のご遺文の全体、日蓮聖人の行動の全体が立証していると思うのですが、日蓮とは何者か、ということの自己認識の表明として『開目抄』を拝見した場合に、そのことが端的に明かにされる、と思います。

法華経には、一切衆生をして釈迦如来そのものと等同のものたらしめようという釈迦如来の誓願が経全体の骨髄として記録されているだけではなく、釈迦如来滅後におけるその誓願の永遠実現の担い手とその任務遂行の問題についても、懇切な指示が与えられている。それが上行菩薩等の法華経弘通の作業であります。日蓮聖人は、釈尊の誓願の重大性について思いをいたされればいたされるほど、上行菩薩の任務の重要性を痛感されることになる。そこから、上行菩薩というものはいつ、どうして出現するか、という問題がアクチュアルな問題になってくる。他方、法華経弘通というものの具体的形態が日蓮聖人の問題になってくる。法華経の弘通は、歴史化され、血肉化された形態をとりつつ、まさしく歴史的世界において永遠に実現されていかなければならない。これが日蓮聖人の法華経弘通観というものであった、と考えられます。日蓮聖人が『開目抄』の誓願の段で「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」と宣言し、そこで「日本の」ということをことさらに強調されたのは、この法華経弘通観があるからです。すなわちここで「日本」というのは、まず何よりも、法華経流布の歴史的・現実的な場を意味する、と思われます。その「日本」とは、仏滅後の娑婆世界の問題性のすべてを具備した一つの具象的な歴史的世界であり、ただ人間としてではなく、日本人として思惟し、行動する限り、播種し、耕作し、収穫する歴史的現実的世界として、着眼せざるをえない生活・行動圏を意味します。つまり、「日本」が考えられたということは、たくさんの国ぐにのなかで日本を選び出した、という意味ですが、しかしそれは何も、世界史における日本の役割りや序列や価値のようなものを、先験的な尺度としての選択であったのではなく、およそ思惟や行動を意味あるものとして定立する歴史的世界の措定であった、と思うのです。そのような歴史的世界としての「日本」は、日蓮聖人にとっては、体制的な国家というものより、はるかに根源的な、そしてはるかに生活的で自然的な「国土」を意味した、と考えられます。それは月氏(インド)、漢土(中国)とならぶ世界史的地域の一つででもありました。こういう世界史的地域の一つとしての日本のことを、日蓮聖人はしばしば「日域」という言葉によっても言い現わされました。

このような「日本」にかかわって「我日本の柱とならむ」と日蓮聖人はいわれた。この一句において日蓮聖人は、「日本」という歴史的世界に即した歴史的問題情況における、ご自身の歴史的職分について宣誓せられ、誓願せられたわけです。つまり、この誓願においては、法華経弘通において自分の果たすべき中枢的・指導者的役割りを強調されると同時に、ご自身の働きを通して法華経が日本において弘通されていった場合に期待される効果・功徳にアクセントを置いて、「日本の柱とならむ、日本の眼目とならむ、日本の大船とならむ」といわれたわけです。いずれにしても、釈尊の誓願を滅後末法の娑婆世界において実現していく願行が日蓮聖人にあるからには、諸天の加護の有無などとは関係なしに、自分が法華経の行者であることに疑いをさしはさむ余地はない。これが日蓮聖人の自覚であり、同時に自信であった、と考えられます。

ところで、ここに想起されるのは、『立正安國論』でございます。「日本の柱」(「日本國の柱」、「日本園の柱橦」)という言葉は、文永8年9月12目夜、日蓮聖人の庵室が襲撃されたとき、夜襲のリーダー平左衛門尉に向かって日蓮聖人が高唱された言葉であることが、『種種御振舞御書』や『撰時抄』に記された記事で明かですが、思想なり教義なりの問題として考え合わされるべきものは、当然、『立正安國論』だと思うのであります。現に『種種御振舞御書』で、『開目抄』のことを書かれたすぐあとに、『立正安國論』のことが注記されているのであります。『種種御振舞御書』のこの段で、「例せば立正安國論に委しきが如し」として特記されたのは、『開目抄』で「我日本の柱とならむ」と記されたその「日本の柱」としての日蓮聖人が平左衛門尉によってたおされたそのことの、当然の帰結として、白界叛逆・他国侵逼の政治的危機が生じるという予見についてであって、その予見は『立正安國論』で詳記した通りだ、と日蓮聖人はいわれるわけです。日蓮聖人のこういう主張を聞いて、「それはなんとも背負った議論だ、日蓮などという一介の貧僧がどうして日本の柱となるというような思い上がった誓願を立てたのか、また日蓮の打倒がどうして全日本の政治的危機を招きよせる、などと言いうるのか」と非難する人があるなら、それはその当時の日本社会の歴史的現実のもっている問題性と、他方、日蓮聖人の自覚あるいは自己認識の構造とについて不案内だからです。

一方においては当時における日本の歴史的現実――その背後には、全アジアの歴史的現実がある――の問題性、他方においては日蓮聖人の自覚の内容と構造、この両者を統一的にとらえる視点に立つなら、「我日本の柱とならむ」といわれた誓願の意味も、「日本の柱」が倒された場合の危機の意識も首肯されるはずです。日蓮聖人は自分自身について、過大坪個も過小評価もしてはいられない。一方では法華経の行者=「佛の御使」という自己認識、他方では歴史的現実についての問題認識、この二つを突き合わせて意識した場合、「日本の柱」という自己評価が出てこざるをえない。日蓮聖人白身はやれやれというお気持だったと思うのです。出しゃばるというのではなく、自分がやらなかったら、いったい誰れがやり始めるのか、という追いつめられた責任感から、日蓮聖人の対外行動が始まります。それも、「日蓮がさきがけをするから、和党ども二陣三陣と続け」というようなマス行動を日蓮聖人は予期していられるわけです、つまり、日蓮聖人一人でできる仕事であるとは、少しも考えてはいられないんです。行動の主体について日蓮聖人はこう考えられると同時に、行動のいわば目標として、自然的ならびに人為的災害のトータルな根絶をお掲げになります。この両面の災害、つまり一方では天変地異というもの、他方では他国侵通難、自界叛逆難というような政治的人為的災害、この双方を含めてそこに当時の日本社会の歴史的現実の問題性というものを日蓮理人は、巨視的且つ根源的に洞察された。そしてそういう問題洞察と災害予見に立って、日蓮聖人は、自分は何をしなければならんというのか、また、何をなしうると考えるのか、という実践問題を法華経に記されている釈迦牟尼世尊の大誓願と照らし合わせて吟味し、検討していかれた。その結論として、『開目抄』に高唱された「我日本の柱とならむ」というあの誓願が必然的に出てくる。これが日蓮聖人における誓願の生起の経過であり、同時にその意味ででもある、と思います。

 

W

さて、このように考えてきまして、ここであらためて問題になるのは、以上のような日蓮聖人の誓願と私たちとの関係であります。いったい、われわれ自身の誓願というものがありうるのかどうか。ありうるとすれば、それはどのような誓願であるのか。釈迦如来や日蓮聖人の誓願を無視し、それを棚上げしておいて、法華経の信者であるとか、日蓮聖人の信徒であるとかいえるのか、いえないのかという問題であります。これは根本的に大事な信仰問題、回避を許さない信仰問題であると同時に、現代の日本における法華経および日蓮聖人信仰の社会的意義を問う問題だ、と思うのであります。ここでは特に信仰問題の側面について考えるのですが、そのために、脚下の今日の日本の歴史的・社会的問題情況というものに一瞥を投じますと、今日の日本というものは、日蓮聖人在世時代の、鎌倉時代の日本社会に比して、恐らくはもっとめんどうな、もっと複雑な、もっと困難な問題をかかえこんでいる、と見られます。政治の問題にしても、社会・経済の問題にしても、宗教・文化の問題にしても、はるかに多元的で、はるかに重層的で、しかもはるかに根元的である、と思うのであります。日蓮聖人の時代の問題と現代のそれとの間に類似や相似を想定しようとする素朴な時代観も、日蓮信奉者を自負している人たちの間にかつてありましたし、今もあるようですが、そのような時代認識の方法を、安易なハラレリズムとして私は避けたい、と思います。なぜなら、そのような安易なハラレリズムというものが少なくとも一つの心理的温床となって、日蓮聖人を超国家主義の音頭取りのように仕立てたり、あるいは人間主義や民主主義のイデオローグのように見立てたりすることになるからです。日蓮聖人という人は、超国家主義からも、人間主義や民主主義からもはるかに遠い存在だ、と私は考えます。

それにしましても、現代の問題というものの一つびとつをここに取り出してみる必要はないでしょう。しかし、平和の問題というもの一つを取り出してみましても、それはまさしく現代の問題です。平和の問題というものは、民族としても、人類としても、われわれ人間は生存をつづけることができるか、という問題ではないでしょうか。このような人類生存の危機という意味での平和の問題は、十三世紀にはもとよりなかった。また今日には、自由・平等の問題というものがある。しかし、十三世紀の日本社会には、社会的自由、社会的平等を生活理想とする社会理念が欠落していたので、今日の意味での自由・平等の問題は存在しなかった。そのくせ、自由・平等を理想とするはずの今日の日本で、差別の事実はいまなお根強く存在している。いや、ただ存続しているだけではなく、ある方面ではデスペレートなまでに強くなりつつあるにさえみえる。擬似自由・平等主義のもとでの恥知らずの差別主義などの存在しなかった鎌倉時代のほうが、社会的空気はよほど清澄ではなかったか。さらに無視できない大切な問題として、安穏な生活の確保という問題がある。いわゆる経済成長の暗い谷間において生活にあえぐ大勢の庶民的大衆の苦しさは、資本主義的収奪のメカニズムを通したものであるだけに、鎌倉時代の貧苦よりもいっそう重苦しくはないのか。こういう諸問題の底に、独立の問題というものがある。鎌倉時代において、まさに日蓮聖人こそが最も深く憂慮されたモンゴル人の侵入という外患が生じた。しかし、アメリカの軍事基地が何箇所も、何箇所も残されている今日の日本、原爆基地沖縄の全国化が策されている今日の日本、それはモンゴル人の一時的侵入などとは比較しようもないほど深刻な自主独立侵害の問題情況ではないのか。

今日の日本には、一端を挙げただけでも、以上のような深刻な問題があるわけですが、そのような歴史的・社会的問題を自分の問題として意識すればするほど、日蓮聖人の誓願というものが、切実でしかも慈悲にあふれた、そういう願行として意識されてくるにちがいありません。日蓮聖人時代の問題は、今日のそれに比して素朴であったかも知れませんが、日蓮聖人はなお且つ「天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」という捨身の姿勢で、「日本の柱」たらんことを期し、法華経弘通の行動を起されました。もしも私たちが、現代の歴史的・社会的問題の危機性をいくらかでも感じるなら、私たちは『開目抄』に掲げられた日蓮聖人の誓願を私たち白身の誓願行によって受け止めないわけにはいかないでしょう。日蓮聖人の誓願を信じるかどうか、という信仰問題は、私たちの銘々が、信仰への道に私たちを導くはずのアクチュアルな問題意識や問題感覚に私たちが従順であるかどうかによって左右される、と私はいいたいのでございます。

ここまで申し上げてきますと、私自身の只今の問題感覚につきましても、あらためて検討しなければならなくなります。現在、と申しても昨年(1969年)4月以来のことですが、私のに迫っている問題は、いちばん先に申しました、愚妻の死という問題です。あまりにも私的な話で、重ねて申し上げるのは恐縮なのですが、愚妻が死んだだけではなく、殺されてもいった、と実感される、その問題です。それだけではなく、これも前にいいましたように、殺されつつあるということ、殺されていくんだということ、そのことをはっきり意識して妻は死んでいったということが、また一つの問題です。そういう妻の死は医師たちの無知と無恥、無責任と怠慢だけではなく、根本的には医師たちにおける生命蔑視の心情とマナーにも由来しているように思われます。結局、同じことを意味するわけでしょうが、医師たちは申し合わせたように病人にたいして――したがって家族の私たちにたいしても――、非礼の限りをつくしました。武蔵野市在住の、家庭医であった女性の医師、阿佐ケ谷の大きい私立病院の院長と在勤の医師、東京大学医学部の内科の教授、それらの医師たちは、病人にたいして冷酷か、無情か、無礼であった、といわざるをえません。妻の病気にもっとも責任のあるはずの女医は、妻の病状が重くなるにつれて、治療放棄の姿勢をあらわにしてきました。病院長は命且夕にせまった妻の看護にあたっている私たちに、「なんとかという注射をすれば、一遍だよ」と威嚇して夜勤の医師を病人から遠ざけさせました。医学部教授は瀕死の、しかし意識のはっきりしている病人の枕頭で「お役に立たずにすみません」と死の宣告をやってのけました。病院での担当の医師は、死が翌朝にせまっていることを承知していながら、一回も姿をみせず、死ぬ十分ほど前にかけつけてきて、漸く脈だけをとる始末でした。医師たちのこういう態度が許されてよいとは、私にはどうしても考えられないのです。

しかし、医師たちだけが、妻の死に責任があり、また、無礼であったのではありません。だいたいが病弱であった妻にたいして、私自身を含めての話ですが、親類縁者が世話をかけ過ぎ、そのために妻はヘトヘトになっていき、いよいよ健康を害していった、ということもある。親類縁者だけではなく、妻は知人や隣人にたいしても限りなく寛大であった、と思います。それをよいことにして、妻の重荷になった知人もたくさんあります。それらの一人びとりが糾弾されねばなりませんが、医師の無責任と無礼を許容し、親類縁者や知人朋輩の勝手な振舞いを結局は容認している社会のあり方そのものも批判されねばならないのは、いうまでもありません。要は、政治がくさり、社会がいびつになり切っているまさにそのことが、妻の死を招きよせた、という一面もあるのです。一人ひとりの人間と全体としての社会、この両面にわたって妻の死因というものを感じとり、そのような死因が拡大再生産されつつある事態のうちに、まさしく今日の日本社会の歴史的・社会的問題情況を看取せざるをえないのが私だとしますと、そのような私はいったい日蓮聖人という人にたいしてどういう態度をとるべきであるか、ことに『開目抄』に宜示された日蓮聖人の誓願にたいして、どうかかわるべきであるか。これが、只今申し上げうる限りの、私の問題意識というものでございます。

私が一私事に過ぎないこのようなことを、臆面もなくここで申し上げましたのは、前にもお断りしましたように、亡妻への回向としてであります。ところでその回向ですが、いちおう回向の主は私のようでありながら、回向のこころを起こさせるものはまさしく亡妻なのですから、回向のほんとうの主は私ではなくて、むしろ亡妻です。しかし亡妻がギリギリの回向主かというとそうではなく、皆成仏道の誓願を立てられた釈迦牟尼如来、その誓願を歴史的世界において実現することを誓われた日蓮聖人、この方がたこそが実は窮極の回向主という他はありません。ここで、神力品の最後の四句「於我滅後、鷹受持斯経、是人於佛道、決定無有疑」を、「傍ノ廻向ノ文ト習フ也」と述べられた『御義口伝』のあの一節が再び想い起こされます。この方がたの風向がなければ、私も亡妻も回向の志を起こすことさえできまいと考えられます。そう思いいたりますと、感恩のささやかな証として、心情の上ではもう触れることさえけがらわしい今日の日本の歴史的社会的問題情況にたいして、やはり私なりに戦いをいどみつづけないわけにはまいりません。それより他には、私の生きる道は残されていない、と思います。

ところでここに、新しい問題として公害問題というものがあるわけです。問題は山積していまして、なにも公害だけが問題ではないのですけれども、現在においては公害というものを一つの顕著な象徴とするところに、日本社会の大きいひずみの歴史的特徴のようなものがある。だいいち「公害」という名称が責任回避の表現ですが、そのいわゆる公害が実は私害に他ならないことを意識して、公害における企業主の責任というものが最初に指摘され、告発され、糾弾されねばならない。しかし、もっと大きい責任は、そういう公害が起こるであろうことを百も承知していながら、経済成長の名において日本の産業の恣意的開発に拍車をかけてきた政治家、またそういう政治家に経済理論という名前の経済妄想を提供してきた学者たちに帰せられなければならない。しかしながら、おそらくはもっといけないのは、そういう政治家や学者が今日なお大手を振って横行している現実を、そのまま見過し、見送っている大衆の日和見的な愚劣さです。前に言ったことに口をぬぐい、「公害は追放されなければなりません。大衆の福祉のほうが企業の利益に優先されなければなりません」などと、今ではほざいている、そのような恥知らずの政治家や学者が、そのまま容認されているそのこと自体が、実は公害ではないのか。

たとえば、このように理解された公害をいかにして根絶するか、という問題とかかわって、『開目抄』の三大誓願というものも読まれなければならない、と思うのでございます。このようなアクチュアルな問題を視野に入れることなしに『開目抄』を説もうとするものは、日蓮聖人を信じようとするものではない、と思うのであります。前に触れたわけですが、『開目抄』の三大誓願は、『立正安國論』における立正安国の誓願を踏まえて、それを主体化したものといえましょう。「安國」というものを願行の目標としてとらえた場合、全くの尻拭いであほうらしいといえばあほうらしいのですが、公害の駆除というものはもとより「安國」の内容として、やはり願行の一つになるはずです。しかし、根本的に大切なことは、「安國」ということは、たんに一つの政治理念ではない、ということです。「安國」とは、歴史的社会的な諸問題の克服を介して、国が安泰になり、国土が平和になっていく、そのような政治動態を意味するだけではありません。信仰改革の直道によって、三界即仏国として顕現する高次の「安國」をこそ日蓮聖人は『立正安國論』の最後の段で要望していられることに、注意すべきでしょう。

そこで日蓮聖人はこう記していられるのではありませんか。

汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ速ニ實乗ノ一善ニ帰セヨ。然レハ即チ三界ハ皆佛國也。佛國其レ衰シヤ。十方ハ悉ク賓土也。賓土何ソ壊レンヤ。國ニ衰微無ク土に破壊無クンハ、身ハ足レ安全ニシテ心ハ足レ禅定ナヲン。比ノ詞比ノ言信スベク崇ムベシ。

また、「立正」というものは、いわゆる「安國」のたんなる手段ではありません。「立正」を通じて「安國」という事態が生み出されていくと同時に、「安國」という歴史的事態を媒介として、さらに「立正」という願望が成就されていく、そういう無限の展開が「立正安國」の理念だろう、と考えるのです。ですから、政治家にとってならば、あるいは政治的思考としてであるならば、たとえば公害が追放されれば、それで仕事はいちおう終るわけでしょう。しかし宗教者の対公害の態としては、そういうものが追放されればそれですむというのではなくて、それを情況として正法が確立されていくことに作業が集約されていかねばならないはずです。公害というものに代表された歴史的社会的な問題にたいして超然としている宗教者の信仰形態は、おそらく観念論的というべきでしょう。しかし、たとえば公害問題の解決以外に宗教者の職分なしと主張するものは、おそらくは政治主義的と評されるべきでしょう。共に、肯定できません。しかし、政治主義への逸脱を警戒する、という名分のもとに、実は惰眠をむさぼっている宗教が、今の日本にはあまりにも多いのではないでしょうか。今日の日蓮宗もそういう存在ではありませんか。

いったい、歴史的社会的な問題に、とくに実践的に取り組んでいこうとすると、むつかしい信仰問題や教理問題がそれからそれへと出てきまして、実践というものが決してやさしい仕事ではないことが、すぐにわかってきます。いちばんいけないことは、日蓮宗としても、日蓮教学の方面においても、どのような今日的な問題についても、それと取り組みうるほどの教義の深化ということがなされてはこなかった、ということです。総じて現代の問題というものを消化しうるほどに、教義が深められていき、また、教義が構造化されていくことがなかったのではないか、と思うのです。日蓮聖人の滅後、実に大勢の学僧たちが、聖人の教義について、また信仰について研鑚され、検討してこられましたけれども、しかもなお日蓮聖人の教義を現代において生かすに足るような基礎的な研究は、いままできわめて不十分にしかなされてこなかった、という他はありません。だいいち研究方法というものをそれとして問題にすることなど、全くといってよいほど欠落していた。ですから、平和の問題にせよ、公害の問題にせよ、実際問題を取り上げていいのやら、わるいのやら、腰がすわらない。いずれにしましても実際問題にぶつかっていくためにも、日蓮聖人の教義と信仰を現代に生かす基本的な視点と方法というものについて、学習し、研究していく必要があるのではないか。その視点と方法というものはたんに座視していて、手に入るものではない。語が逆になるみたいですが、日蓮認識の生きた視点と方法を獲得するためには、まず現実の問題を理論的にも実践的にも取り上げていき、その中で、日蓮聖人の教義や信仰として伝承されてきたものを、内側から検討しなおすという作業も――いや、作業こそが――必要になってくる。すでに明治、大正以来、日蓮聖人門下からたくさんの碩学が出られ、いろいろな新見解も提示されてきましたけれども、歴史的現実への姿勢とみられる誓願の問題を軸とした日蓮教学の新展開というものは、きわめてわずかしかなされていないのに、驚かざるをえないような有様です。決して怠慢だった、というわけではありませんけれども、いわば自覚されなかった問題の一つが、この誓願の問題だった、と思います。もっとも、たまたま誓願問題の重要性を意識してなされた論篇も絶無ではありません。しかしそれらは、今日からみますと、現代認識の方法に独断があったりしまして、それらはそれらとして、今では再批判されねばならない、と考えます。

前にも指摘したことですが、誓願ということを申しますと、それは浄土真宗の教学の問題であって、日蓮宗の問題ではないかのごとくに受け取られる向きもあるかも知れません。しかし、これは大変な間違いである。誓願の問題を外視しては、『開目抄』は理解されえない。その『開目抄』が理解されえないんでは、『立正安國論』というものも理解されえない。しかし、『立正安國論』、『開目抄』を通して、日蓮聖人という人を、法華経に説かれた釈迦牟尼如来の慈悲と誓願を、釈尊滅後の時代において生かそうとして骨身をけずられた方としてとらえるためには、法華経の勉強も、日蓮聖人の教義の勉強も、ウンと高い研究次元でやり直さねばならないのではないか、とツクヅク考えるのでございます。しかし、私の未熟な言い方でいうならば、日蓮認識の不可欠的必要性というものを痛感して、日蓮聖人の、ご遺文を読み直す、その仕事というものは、非常に地味な、そして手のかかる仕事であります。その仕事の中には、ご遺文の文献批判的研究というものが、一つの基礎作業として当然含まれるべきです。日蓮聖人のご遺文については、おどろくべく多数の真蹟が現存している一方、偽書もたいへん多いわけです。ご遺文として伝承されているものの真偽を一つひとつ厳密に選別していき、真実のご遺文のみによって日蓮聖人の教えと信仰を根底からとらえなおそうとするのでなければ、正しい日蓮認識に到達することはとうてい不可能でしょう。その点で今日数の上では一つの社会勢力にもなっている日蓮信奉者の集団などにおきましても、その日蓮認識は根本のところで間違っている、といわざるをえません。

日蓮聖人の滅後の学僧たちのお書きになったものを拝見するごとに、その信仰心の強烈であること、学識の高いことに驚嘆するのでございますが、しかもいえることは、そういう偉い学僧たちによっても、全然触れられていないような問題、あるいは少ししか触れられていないような問題が、日蓮聖人自身の教学の中にも、法華経の中にも、深ぶかと横たわっている、ということが一つ。そして、そういう深い教理の認識を媒介にしなければ、実際問題との取り組みについての正しい姿勢も出ないのではあるまいか、ということが一つ。そういうことがいえる、と思うのであります。そういう深い教理把握が欠落していますと、きわめて警戒すべき日蓮聖人教義の実用主義的解釈が生じてきます。日蓮聖人の名において自己流の社会論や文化論を打ちまくることなど、許されるべきではない、と思います。

そこで、最初に申し上げましたこと、つまり妻が死に、私としては回向に生きたいと願っていること、そのことと今日の話とはどうつながるのか、それを最後に申し上げたいと思います。私としましては、実は亡妻への回向ということで、気持ちがいっぱいなんであります。あえていうなら、他のことを考えるゆとりはないのであります。しかし、亡くなった妻の回向というものについて考えてまいり、いったい誰れが回向の主体であるのか、何が回向の中身であり、方法であるべきであるのかという問題を考えてまいりますと、奇しくも日蓮聖人があれほど重大視され、釈迦牟尼如来も最重要視された、あの誓願の問題に突きあたるのであります。そして、妻はただ死んだのではなく、今日の日本社会において人為的に葬られていったのである、そういう日本社会の問題として妻の死というものをとらえた場合に、日本という国土の問題として信仰の問題をとらえてこられた日蓮聖人の存在と行実が、改めて意識され直すのであります。そしてそのような日蓮聖人の存在と行実の軸をなすもの、信仰者としてのに日蓮聖人のあり方を最も中心において言い現わすもの、それが『開目抄』に述べられている三つの誓願に他ならないことも、改めて自覚されてくるのであります。もっとも、三つですけれども、実は一つです。「日本の柱」ということがそれだと思うんですが、「日本の柱」になろうとしていかれたその日蓮聖人の心をどう生かすかという問題と回向の問題とが結びつく。いや、結びつくというよりは、回向を正しくやるためには、日蓮聖人の心に刻みつけられた誓願を、私自身の課題として受け取っていくより他はない、と考えるのであります。その受け取るというとき、知的に理解する、心情的に共鳴するということ以外に、人と自分との具体的なかかわり方において実践的に日蓮聖人の行実を学ぶということも当然含意されます。私自身は、元来、行動力も何も持たない無力の者です。その上、いいかげん齢もとっていまして、すべて行動ということはおっくうにもなっています。しかし、人と自分とのかかわり方について改めて考え直していき、惰性的ななれ合いや、人を甘やかすだけの忍従などを、一切吹っ切っていく必要を感じており、それを実際問題として実行していかねばなるまい、と私なりには考えているのであります。

日蓮宗のある門流の輝かしい伝統として、私がいつも思い出すのは、謗法の者からは供養を受けず、謗法の徒には供養を施さない、あの「不受不施」ということであります。不受不施ということは、かつて江戸時代に存在した。室町時代にその源流があり、江戸時代において、権力からの弾圧を受けながら、強情に実行された。学問的にも日蓮教学というものを盛んなものにしていき、生きたものにしていったのは、この不受不施の実践者ですし、日蓮信仰というものをいつも新鮮なものとして盛り上げてきたのもこれだと思うのですが、まさしく今日の日本社会において私には不受不施の実行が要請されている、と思うのであります。この不受不施の実行というものこそが、『開目抄』に述べられた日蓮聖人の誓願を、非常に消極的なようですけれども、ミニマムな、最小限のところで実践的に学習することを意味する、と思うのです。不受不施というものが実修されさえすれば、それで『開目抄』に述べられている日蓮聖人の誓願が成就されるなどとは、考えておりません。しかし、少なくとも不受不施を出発点とすることなしには、日蓮聖人の誓願を自分のものにしていくことはとうていできない、と私は考えます。その不受不施というものの相手はいったい誰れか。今日の権門勢家としての権力者はいうまでもないが、そのような権力者のイデオローグや支持者や追随者ともきっぱり絶縁せざるをえない。そういう人たちとの間には、不受不施の関係をきびしく立てていかなければならない。私はそう考えるのであります。

今日ここにお伺いさせていただきましたのは、幾度も申し上げましたように、亡くなりました老妻の冥福を祈り、それの回向になぞらえたいからであります。つまり、日蓮聖人という偉大な存在によって媒介されたみなさまがたに、私のいたらぬ考えを聞いていただいてご批判をいただくということが、私の日蓮聖人への景仰と理解の増進にとって望ましいだけではなく、特に亡妻への回向実修のよすがになるのじゃなかろうか、と考えたからであります。いってみれば、そういう身勝手な気持ちから伺いましたのであります。ところで、私の考えを相当はっきり申し上げましたことについて、お前のようなことをいうのは、せっかく静かになっている日蓮宗の中に波風を立てるというものだ、寝ている子供を起すというものだ、というおしかりがあるいはあるかも知れません。そういうおしかりにもかかわらず、あえていうならば、今日の、少なくとも日蓮宗というもの――必ずしも日蓮聖人の個々の信仰者ではありません――は、『開目抄』に記されている日蓮聖人の誓願を、たとえ完全に無視してはいられないにしても、棚上げしていられるんじゃないか、と私は思うんであります。これは、日蓮聖人を、単に日蓮宗一宗門だけのものではなく、日本人全体のものにしていきたい、という私の素願からしますならば、甚だ遺憾であります。いったい、日蓮聖人の信仰において、日蓮宗とはおよそ何か、ということを、みなさんにあえてお尋ねしたい、と思うのであります。いずれにしましても、『開目抄』の三大誓願について、今日の日蓮宗は、甚だ怠慢である、と私は申し上げたいのであります。こう申すことさえ何かさしさわりがおありのようでしたら、私の方からも再び伺うのをご遠慮申し上げたい。何よりも気恥ずかしく、てれくさいからであります。その意味で、初めから私は、これが最後になるかも知れん、と申し上げたんであります。どうぞこれが最後にならないことを、私のためにも、日蓮宗のおためにも、祈らせていただきます。これで話を終わらせていただきたい、と思います。ご清聴ありがとうございました。

 

 

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