日蓮論  

木下尚江

 

 宗教も、政治家のために国利民福の道具に使われ、学者のために正義人道の補助品扱いをされている間は駄目です。やがて政治家の術も尽き、学者の智も窮する時が来る。しかして人は、もはや利害や名聞や世間や習慣や一切虚仮の権威にかまっている余裕がなく、赤裸々な生死問題の門口に面と向かって立たされる。学者や政治家は、この状態を見て戦傑します。しかして危険だとか不健全だとか言って、しきりに老婆親切に世話を焼きます。しかし人心すでに政治問題、社会問題というような物質の将を越して、絶対の生命の泉を求めているのだから、これはもはや学者や政治家の手の届かないところです。この時機は一個人の生涯について見ても、人類の歴史について見ても、必ず数々襲い来る。

釈迦とかキリストとかいえば、神だの仏だのとみな崇拝します。たとい彼等を信仰しない人たちでも、その超凡の人物であったことだけは異口同音に許しています。しからば釈迦やキリストはどこがそんなに豪かったのかとたずねれば、つまり最も誠実熱烈に生死問題と奮闘し、一身を捨ててその解決を示したところにある。しかして時の学者や政治家は、やはり危険な人物、不健全な思想として、百方迫害の手段をめぐらした。

日本の歴史を見ると、いわゆる鎌倉時代があたかも宗教問題の赤裸の姿を見せだ機節でした。仏教はとっくの昔から弘まっていましたが、しかし奈良朝から平安朝へかけての仏教は、やはり政治家や学者の宗教で、出家遁世の僧侶は、かえって名聞の一新階級をつくり、欲を離れて生命を求めるはずの信者は、あべこべに放逸歓楽を貧るために寺を建て、経を誦み御祈祷を頼み、仏像を拝んでいた。かくて仏法隆興の社会の実況はといえば、貴族の予女は歓楽に飽いて、一般賎民は飢餓に泣き、文物燦燭、盗賊横行。眼には不安の雲がかかり、心の底には悲哀の潮がとどろき、一世の空気は懐疑の臭いに満ちてしまった。いつとはなく不断に高まってきた宗教改革の機運が、法然房によって爆発されたのです。彼が八宗の奥義を極めた智慧第一の名声をなげうって念仏三昧の愚痴にかえり、娑婆の名聞を捨てて直ちに仏の腹に突入した勇猛の心、荘厳の姿は、貴賎貧富を通じて迷羊のごとき一代民衆の前に、暗夜の光明、金剛のカでした。

人は、まず絶対平等の気息に触れるほかに道がない。神と抱合し、仏と合体し、この解脱の眼をもって絶対の奥よりはじめて相対界を見るのです。生死即涅槃、差別即平等、煩悩即菩提。往生成仏には、もはや智慧学問の必要がない。建寺読経の必要がない。御祈祷の秘法にも及ばない。僧権の仲介にも及ばない。念仏と禅とは実にこの宗教革命の時期における双壁でありました。宗教革命とはいずれの所、いずれの時を問わず、智慧と教権とを打ち破って直ちに無造作に生命の光を見ることです。学者や政治家や僧侶にとっては、いかにも愚者の猛悪な破壊に見える。ゆえに宗教革命者は、常に必ずこの三種族連合の迫害を受けます。

予は日蓮において、その宗教革命者としての本来の天分が、充分自在に発揮されずに終わったことを感じ、かつそれを無限の遺憾に思うものです。後世に崇拝される日蓮は、主として『立正安国論』の日蓮、「四個督言」の日蓮です。しかれども、これは学問に囚われ教権に囚われた方面の日蓮で、すなわちむしろ宗教改革の迫害者としての日蓮です。しかして日蓮自身も、この内的葛藤で61歳の生涯を終わっている。実に彼は一個悲劇の人です。彼は自己を偽らぬ人でした。偽り得ない人でした。その美、その醜、ことごとく露出しています。修行者が探すには手掛かりの多い人ですが、同時に彼としては亡びて行くべき方面の気質や態度や事業等が、常に彼の真像のごとくに持てはやされるという不幸を見るのです。これか本書の版行にいたった動機。予は、さらに日蓮に対する研究を継続したいと心がけていますので、読者諸君に向かって腹蔵ない教訓を与えられるよう切望しておきます。

日本では近年、古人の祭礼が一世の流行になりました。この一事によっても、今日の人心が光明なく威力なく、いかに不安で寂蓼であるかを知ることができます。かくて宗教改革の機は刻一刻、瞬一瞬と接近している。宗教改革者として日蓮の名が、一世の呼び物になっているという話を聞きますが、日蓮のいかなる点が恋慕されているのですか。

来年の春は法然上人の七百回忌だそうですが、なにとぞこの時を空しく過ごさせたくないものです。

明治43年(1910)10月木下尚江

   

日蓮初対面

予は以前、日蓮の文集を一度見た。けれど、仏教というものを知らず、『法華経』一巻読んだことのない身には、日蓮に対して別段の興味を惹き起こすこともできずにやめた。日蓮の文章、その敵に対する熱烈な反抗的態度、調伏的態度にははなはだしく唆かされたものの、日蓮の事業そのものについては、茫然として何等の知識も得なかった。それゆえに長く名前のみ聞いていた奇代の俊傑に、予は今度はじめての対面を遂げたわけ。

予はこの初対面によって、胸中多くの疑問を巻き起こした。その疑問の多くは、予自らも未だ説明することのできない真っ黒な塊である。予はおいおいにこの疑問に光明を与えるべく研究を進めてみたい。その第一歩として、予がこの朦朧の鏡に映した容貌の一班をそのままに書き現わして、今後研究の門戸にしたいという所存。

予はかねて日本の仏教家の態度について、すくなからぬ不愉快を抱いている。彼等はほとんど一様に聖徳太予によって仏教の受けいれられたことは、日本の光栄だと信じている。しかれども予の見たところでは、聖徳太予によって受けいれられたために、日本において仏教はほとんど発達の希望がない。爾来、朝廷を離れて仏教は立たないことになってしまった。政権を離れて仏教は立たないことになってしまった。仏教でも耶蘇教でも、その歴史を考えて見るに、帝王の手に受けいれられた時、その生命は葬られている。ゆえに日本の仏教は、最初からその生命を失っていた。

従来、日本の歴史家というものは、概して仏教を敵視していた。しかして奈良朝の末路、すなわち教権が政権を圧倒し、僧侶が帝位を危うくしかけたということをば、屈強の証拠品として、衆愚の法廷に訴えてきた。けれど、奈良朝の末路というものは、帝権のための禍であったというよりも、むしろ仏教というものの大災難であった。釈尊は王位を擲って沙門と扱った。しかるに聖徳太予は、身、摂政の椅予に坐し、手に政治の全権を握り、しかして仏教によって政治を演ろうとした。この思想この事業の発達が、つまり道鏡の「大臣禅師」となり「法皇」となり、法皇と俗皇との一身合体という一大飛躍を挑発するまでに押し寄せた。進化則からいうなら、これは必然当然の趨勢である。しかれども、これがために仏教はなにものをも穫なかった。僧侶の驕慢によって得たところのものは、ただ仏教の堕落のみ。

平安朝の天予は、前者の禍災に懲りて、僧侶というものを数段低いところへ引き下げてしまった。伝教、弘法など、その才学手腕、おそらく前代未聞の英傑であったらしいが、しかも彼等は王城鎮護の隷属的官僧で、もはや帝権を上から呑んでかかるという奈良朝怪僧の面目は、影すらもなかった。官僧は出家ではない。出家の形をした名聞の俗吏だ。こんな寺院僧侶の生活態度のもとに、まことの仏法が発揮されるはずはけっしてない。

朝廷の衰微によって、仏教ははじめて、いささか蘇生の時機を得た。平安朝の末路、政権が朝廷を去って武人に移り、その形式においても実質においても、既往の歴史を全然打破したいわゆる鎌倉時代の幕開きは、生を日本の土に受けた身にとっては、明治の維新とあわせて、きわめて興味ある人生の活劇だ。この時代の人物として、頼朝だの、義時だの、泰時だの、誰だの彼だのという武人や政治家は、盛んに後世の視聴を驚かしているが、そんな武人や政治家などよりも幾層倍の大人格がこの時代に続々出現して、爾後今目日までの日本の内的生命を、支配している。まず現われたの絶代の人豪法然上人。それから親鸞上人が出てきた。道元和尚が出てきた。しかして、ついに日蓮が出てきた。殺生と、政権争奪とが人生の暴大名誉最大事業とのみ心得られていた日本民衆は、「僧は乞弓丐の徒のみ」などと冷語して、とうてい人生の最深最高最大の意義を理解することができなかった。したがって僧侶自身も自己の位地職分というものを会得せずに、やはり自ら武人や政治家の奴隷となり得たことを天晴立身出世と心得ていた。これがほとんど古今の通態だ。この聞に立って、霧の海の山のごとく、二千年の仏教史上に嶄然頭角を露わし、この腐敗した後世の末輩末徒の上にすら、なお不可称不可思議の信仰力を繋いでいるものは、実に彼等開祖たちの人格と信念との惰力にほかならぬ。

「衆生済度」教法究竟の目的は、この一語に尽きている。しかれども奈良朝の法宗三論律華厳も、平安朝の天台真言も、権力名利が第一の事業で、衆生済度というこの階級なく境域なき絶対平等自由独立の救済事業とは、すこぶる遠隔の距離に立っていた。朝廷の衰微は南都北嶺の官僧輩にとって、致命の大打撃であると同時に、仏法本来の生命は、ここに初めて多くの新しい人格の胸に宿って、氷雪を出でた春野のごとく、百花の緑芽を明したのを見る。

予は日蓮を見ない前には、時代に対するこの概念によって、ただはるかに彼を想像していた。しかして彼に対する世間の風説を聞くに、すこぶる予の想像と違う。世間は彼を狂熱な愛国者といい伝え、その偏狭な愛国者という一点を特に声高く唱えて拝んでいるようにも見える。かくて彼の銅像は博多の海岸に建立されたという。そもそも「法華経の行者」、これが日蓮一生の眼目だ。「法華経の行者」と愛国者。提灯と釣鐘。しかれども、この矛盾は崇拝者の罪か、それとも日蓮自身の罪か。これがつづいて湧いた予の疑問。

このほとんど同時代に出た諸大人格について、まずその出生の外縁を考えてみるに、法然でも親鷲でも道元でも、いずれも西国の人で、みな京都という文明の空気に成長した人たちであるなかに、日蓮一人は東国の、しかも房州の海岸、太平洋の激浪、巨巌を打って日夜に虎のごとく叫び、獅予のごとく吼える辺土の漁村に初声をあげた。彼の先祖も、もとは京都の士人であったという。そうかも知れない。しかれども、日蓮自身はすでに全く東海辺土の風のなかに、野民の血液を浴びて出た純粋の野蛮の児だ。したがってその気質といい性格といい、その態度といい、他の諸開祖の都雅優長と全くその趣を異にしている。道元和尚は予が古き崇敬の目的であった。崇敬というよりも、むしろ崇拝の本尊であった。これ一つには予の家が代々曹洞宗の檀徒であったためもあろうが、その権力に対する凛とした態度、あるいは鎌倉執権の厚聘を斥け、あるいは勅賜の紫衣を拒むなどいう一挙一動が、いかにも峻烈な禅僧の機鋒を遺憾なく発揮しているものとして、常に泣きたいほどに嬉しく感じた。けれど、彼はもとこれ公卿の児だ。永い間の公卿の児だ。その謹厚、その細線。予等、東夷粗野の気風に染みているものには、とうてい肌触わりの合わないという恨みがある。この点になると、予は以前から「日蓮という男は好いたらしい奴だ」という、どこか懐かしい感じを持っていた。かくて予は、いまだ一度も見たこともなく違ったこともない彼に対して、こんな予想を描いていた。「彼もやっぱり東国の野人だ。これが自分の道という見当が立った上は、余の事などは何も調べずに、何も考えずに、向いたまま、ただズンズン進んで行く。装にも振りにも頓着はない。

その猛気の前に立つ箭はないが、しかし同時に訓練を欠くという一大欠点を免れない。しかして、この欠点は進軍の途中、自ら気がついて、はじめて練磨せられるのだ。高い意気の面には古い感情の垢がこびりついている。それで高所に立って眺めている冷静な批評家にとっては、噴き出すような真面目な滑稽が沢山ある。大き祖小児、これが東国の野人の共通性だ。日蓮も、きっとこうした人であったろう」

予は実に永い間こんな風に日蓮を想っていた。「法華経行者の愛国者?」。けれど、こう思わせた罪は必ず日蓮の方にあったに相違ない。それで今度彼の全集を繙いて、はじめて彼に対面を遂げようとする時、予の胸中には、この喜劇の本体を親しく見定めたいという一個の希望が動いていた。

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それからいま一つの疑問が解決を求めていた。すなわち彼の身延入山の一件。佐渡の流罪が赦された後、なにゆえに彼は直ちに鎌倉を捨てて人跡遠い身延の奥山へ入ったか。世間の学者や日蓮信徒の間には疾く解のついている事件であろうが、予のごとき彼について今まで全然無智無学の徒輩には、この一事がいかにも興味深き疑いだ。諸宗の高僧を罵り、天下の執権を呪い、白昼公道に悪鬼のごとく狂い叫んだ日蓮が、四年の流罪の惨苦を経て赦免になると、黙然一巻の『法華経』を抱いて、甲州の山に逃れてしまった。この天地雲泥もただならぬ前後態度の相違は、必ず深い心的変化の結果でなければならぬ。しかるに、世俗がやかましく伝唱する「日蓮上人」というものをみるに、いわゆる竜口の御法難までを拝んで、その後のことはほとんど全く忘れている。彼等にとって、身延入山後の日蓮は、すなわち隠居の日蓮。生まれながらに死んだ日蓮になっている。しかれども、こんな馬鹿な話はない。「身延入山の動機」、日蓮一生の秘密はこの一句に蔵められている。同時に日蓮解決の鍵も、やはりここに貯えられている。これが予が日蓮初対面にあたっての第二の問題で、しかも最大一の問題であった。とにかく、予はこうした予想、こうした希望、こうした目的を描きながら、一個史上の怪傑日蓮大菩薩の帳前に、臆面もなくにじり出た。

   

迷雲その1

あれほどの大覚醒を抱き、あれほどの大光明に照らされていながら、なにゆえに日蓮は、一生をついに修羅の暗路に送ったか。

つまり三重の迷雲が、彼の大霊の眼を蔽うっていたからだ。

三重の迷雲とは?

第一は彼の気質。

第二は日本の歴史。

第三は時代の学問。

このうち、第三の雲は、ひとり日蓮一人ではなく、同時代の改革者全体がやはり同様の迷執に悩んでいた。第二の雲はただに鎌倉時代の覚醒者のみでなく、今日に至るまで、依然その圧迫から解脱することができなくている。

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予は、まず彼の気質の雲から啓きはじめたい。

日蓮は一個の野人だ。素朴であると同時に偏執なのが、野人の特質だ。否、素朴なるがゆえに偏執なのが、野人の特色だ。彼等はよく信じる。躊躇なく、遠慮なく、批判なしに底の底まで信じてしまう。その代わり、いったん染みたものはいかにしても抜けない。日蓮は『立正安国論』を死後まで捨てることができなかった。

「此書は徴ある文なり。これ偏に日蓮のカに非ず。『法華経』の真文、聖の感応する所歎」と、彼は自ら奥書している。けれど、日清戦争を十年前に予言したからとて、日露戦争を予言したからとて、それが何でもないと同じく、鎌倉時代、すなわち支那とは常に往来し、朝鮮あたりには絶えず問題の引っかかっていた時代に、外国の圧迫を感応するくらいのことが何で不思議だ。もしこの感応のないものがあったなら、むしろそれを不思議とせねばならぬ。北条一門の間に悶着が起ころうくらいのことは、当時鎌倉の人間は、おそらく誰でも予想していたことであろう。いわんや日蓮が『安国論』を書いた動機は、浄土宗退治ではないか。しかしてこの思想感情信仰というものは、実に叡山の賜物ではなかったか。しかるにこの根底が、すでに覆ってしまった。真言宗が日本国禍乱の根本であり、しかして彼がさきに崇拝した叡山、すなわち慈覚、智証の真言の叡山が一切禍乱の根源であるということに一変した以上、彼はまず血涙を絞って、わが過去の愚鈍迷妄、驕慢を慚謝しなければならぬ。しかるに彼は、この謙遜な態度に出ることを忘れ、蒙古の牒状が来たと聞くと、「それ見ろ。我の言ったとおりだ」と、枝葉の末に全力を奪われて、全く狂人のごとくになってしまった。

内なる霊はすでに欄々と目覚めている。けれど「法華経行者の名を一天に揚げ、誉れを末代に浅さばや」という、この壮快らしいケチな根性が、門戸一枚を押えている。されば、『観心本尊抄』という立派なものを書いている時にさえ、彼はなお五十年の誤謬を弁護し保存し、弥縫しようと苦心していた。末法の時に地涌の菩薩出現するという彼の自信を立証するために、天台や伝教の文章をあげ、さらに、

伝教大師が日本にして、末法の始を記して云く、代を語れば像の終、末の初。地を尋ぬれば唐の東、羯の酉。人を原ぬれば則ち五濁の生、門諍の時。

と記したるのち、彼自ら断言していわく、「この釈の門諍の時とは、今の白界叛逆、西海侵逼の二難なり」と。

予は読んでこの一語にいたり、いま一歩というところで船が沈んだような遺憾を感じた。ああ、これ何たる愚痴の繰言が。北条一門の悶着、蒙古の襲来、このごとき出来事はわが人生においてきわめて些々たるものだ。仮にも坊主の身として、それくらいのことの判らぬはずはない。北条一門の騒動よりも、蒙古大軍の襲来よりも、何千倍何万倍の大闘諍が、実に日蓮、汝の心中に眠る暇もなく七転八倒の苦悩を演じているではないか。

人生、いつの世か五濁の時でない世があろう。いつの時か五濁の世でない時があろう。『観心本尊抄』の大文字を誦し来たってこの末後の一句に躓いた時、予はけっして日蓮の煩悩を嘲らなかった。この人間というものが、なにほど愚鈍で傲慢で、しかも自ら知らずに賢人顔しているものかを思った時、覚えず底なき暗の寂蓼に泣いた。

V

日蓮は、人跡はるかな身延の山へ攀じ登っても、塵界の名聞は、日夜かつて彼の念頭を去らなかった。誠に身延山の栖は、ちはやぶる神も恵を垂れ、天下りましますらん。心なき賎の男、賎の女までも心を留めぬべし。哀を催す秋の暮れには、草の庵に露深く、軒にすだく蜘蛛の糸、玉をつらぬき、峰の紋葉いっしか色深うして、たえだえに伝う懸樋の水に影をうつせば、名にしおう龍田河の水上も、かくやと疑われぬ。また後ろには峨々たる深山そびえて、梢に一乗の果を結び、下枝に鳴く蝉の音滋く。前には湯々たる流水湛えて実相真如の月浮かび、無明深重の闇晴れて、法性の空に曇りもなし。かかる砌なれば、庵の内には、昼は終日に一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす。伝え聞く釈尊の住給いけん鷲峰山を、我朝この砌に移し置きぬ。霧立ち嵐はげしき折りおりも、山に入りて薪を樵り、露深き草を分けて、深谷に下りて芹をつみ、山河の流も早き岩瀬に菜をすすぎ、快しおれて干しわぶる思いは、音、人丸が詠ける和歌の浦に藻しおたれつつ世を渡る海士も、かくやとぞ思いやる。つくづくと浮き身の有様を案ずるに、仏法を求め給いしに異ならず。……これ等の様を思いつづけて観念の床の上に夢を結べば、妻恋う鹿の音に目をさまし、わが身の内に三諦即一、三観一心の月、曇りなく澄みけるを、無明深重の雲引き覆いつつ、昔より今に至るまで生死の九界に輪ること、この砌に知られつつ、自らかくぞ思いつづける。

立わたる身のうき雲も晴れぬべし

たえぬ御法の鷲の山風

これは彼が自ら描いた身延山上の生活だ。されど身は雲霞猿島のなかに横たえても、心に鎌倉の空を思い忘れいる時がない。

第一回の元寇は、文永十一年(1274)、すなわち日蓮が身延へ入った年の冬であった。日本の軍勢も、ずいぶんひどい目に遭った。爾来、京都の朝廷では諸寺請社に命じて敵国調伏の祈祷に心を奪われ、鎌倉の政府は、あまねく沿海の防禦を厳重にし、再度の来襲に対する準備に忙殺されている。天下騒然、鎌倉の信徒や門弟からの通信に接するごとに、西海の波よりも先に、日蓮の心の方が狂い荒れた。

年壮に気剛なる執権時宗は、厚く禅宗に帰依して、この内外多忙の間にも、悠々たる天地に遊んでいた。日蓮が先に極楽寺の良観とあわせて当の敵とした建長寺の道隆は、このときすでに死んで、そのあとへは仏光禅師が、に応じて来朝していた。彼は、乾坤無地卓孤筇  喜待人空法亦空  珍重大元三尺剣  電光彩裏新春風

の一喝を食わして、元の将卒を驚殺させたという名僧だ。ひとり山にいてこん在ことを耳にする日蓮は、果たして何事を胸に描いたか。

今や日蓮の胸中を往来している妄想は一「法華経行者」たる我を信任したいことのために、日本は必然滅亡するという一事である。「諸寺請杜の祈祷が何になる」「日本の軍勢が何になる」、彼は山の奥で、.眼を瞋らして、こう叫んでいた。左の山からの手紙を見よ。

去る文永十一年十月に蒙古国より筑紫へ寄せてありしに、対馬の者固めてありしに、宗対馬尉逃げければ、百姓等は男をば或いは殺し、或いは生け取りにし、女をば或いは取り集めて手を通して船に結ぴ付け、或いは生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐に寄せても、また如是。船おし寄せてありけるには、奉行入道豊前の前司は逃げて落ちぬ。松浦党は数百人打たれ或いは生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども、壱岐対馬のごとし。また今度は如何が有るらん。彼国の百千万億の兵、日本国を引き回らして寄せてあるたらば、如何になるべきぞ。北の手はまず佐渡の島につきて地頭守護をば須臾に打ち殺し、百姓等は北山へ逃げん程に、、或いは殺され、或いは生け取られ。或いは山にて死ぬべし。そもそもこれ程の事は如何として起こるべきぞと推すべし。前に申しつるがごとく、この国の者も一天もなく三逆罪の者なり。これは梵天帝釈日月四天の、彼蒙古国の大王の身に入らせ給いて責め給うなり。日蓮は愚なれども釈迦仏の御使、「法華経の行者」なりと名乗り侯を、用いざらんだにも不思議なるべ、し。その失に依って国破れなんとす。あわれ平左衛門殿、相模守殿の、日蓮をだに用いられて侯いしかば、過ぎにし蒙古国の朝使の頸は、よも切らせまいらせ侯わし(建治元年〈1275〉9月、元使杜世忠等五人を竜口に斬った)。くやしくおわすらん。人王八十一代安徳天皇と申す大王は、天台の座主明雲等の真言師等数百人かたらいて、源右将軍頼朝を調伏せしかば、還著於本人とて、明雲は義仲に切られぬ。安徳天皇は西海に沈み給う。人王八十二、三、四、隠岐法皇、阿波院、佐渡院、当今、以上四人、座主慈圓僧正、御室、三井等の四十余人の高僧等をもて、平将軍義時を調伏し給う程に、また還著於本人とて、上の四王島々に放たれ結いき。この大悪法は弘法慈覚智証の三大師、『法華経』最第一の釈尊の金言を破りて、『法華経』最第二最第三、『大日経』最第一と読み給いし僻見を御信用ありて、今生には国と身とを亡ぼし、後生には無間地獄に墜ち結いぬ。今度はまだこの調伏三度なり。今わが弟予死したらん人々は、仏眼をもてこれを見給うらん。命つれなくて生きたらん眼に見よ。国主等は他国へ責めわたされ、調伏の人々は或いは狂い死に、或いは佗国或いは山林に隠るべし。教主釈尊の御使を二度まで街路をわたし、弟予等を牢に入れ、或いは殺し、或いは害し、或いは所国を逐いし故に、その科必ずその国々万民の身に一々かかるべし。或いはまた白癩黒癩諸悪重病の人々多かるべし、わが弟予等この山を存ぜさ世給え。

次の手紙のごときは、彼が憤怒悶々の状か見えるようだ。

あわれ佗国より攻め寄せ来たりて、鷹の薙を取るように、猫の鼠を噛むように、攻められん時、尼や女房どもの、あわて侯わんずらん。日蓮が一類を二十八年が間、責め侯いし報いに、或いぼ射殺し切り殺し、或いは生取り、或いは佗方へ渡され、宗盛が縄付きてさらされしように、数千万の人々の縄付きて責められん不憫さよ。しかれども日本国の一切衆生は、皆五逆罪の者なれば、かく責められんをば、天も悦び、私もゆるし給わし。あわれあわれ、恥見ぬさきに阿闍世王の提婆を戒めしように、真言師念仏者禅宗の者どもを戒めて、すこし罪をゆるくせさせ給えかし。あらおかし、あらふびんふびん。わが国の奴原の智者げなれば、まこととて、もてなして、事にあわんふびんさよ。

また彼は弓矢神と言われる八幡を罵って、

去る文永十一年に大蒙古より寄せて、日本国の兵を多く亡ぼすのみならず、八幡の宮殿すでに焼かれぬ(箱崎八幡宮の兵火に躍るを云う)、その時なんぞ彼国の兵を罰し給わざるや。まさに知るべし、彼国の大王はこの国の神に勝りたること明らけし。

など八つ当たりに当たっている。隣国の聖人を起こして謗法の日本を征伐するというのが、この時における日蓮の妄想なので、彼の予言に従えば、日本は是非とも全敗してしまわねばならない。だからある手紙には、「また蒙古国の日本に乱れ入る時は、これへ御渡りあるべし」など書いてある。つまり山へ逃げて来いというのだ。関東も何もかも、みな大元の大軍に蹂躙されてしまうことに、彼の胸中にはすでに明らかに定まっていた。

X

しかるに弘安4年(1281)の閏7月、一夜颶風、海を巻いて、大元の兵船みな破壊。意外の全勝に、日本の朝野、みな神助なりと躍り上がって慶賀した。この報道に接した日蓮の心事いかに。彼は頑としてこの報道を信用しなかった。その年の10月22目をもって、當滅入道へ送った左の一書を見よ。

今月14目の御札、同17日到来、また去る後の7月15目の御消息、同20日ごろ到来、そのほか度々の貴札を賜るといえども、老病たるの上、また不食気に侯間、未だ返報を奉らず侯、その恐不少候。何よりも去る後の7月御状の内に云く、鎮西には大風吹き侯て、浦々島々に破損の船充満之聞、乃至京都には思圓上人、また云く理豈然哉等云云。この事別してこの一門の大事なり。総じて日本国の凶事なり。よって病を忍びて一端これを申し侯わん。これ備えに日蓮を失わんために、無かろう事を造久出さんこと、かねて知る。その故は日本国の真言宗等七宗八宗の人々の大科は今に始めざる事なり。しかりといえども、すべからく一を挙げて万を知らしめ奉らん。去ぬる承久年中に隠岐法皇、義時を失わしめんがために、調伏を山の座主、東寺、御室、七寺、園城に仰せ付けられ、よって同3年(1221)の5月15日に、鎌倉殿の御代官伊賀太郎判官光末を、六波羅において失わしめ畢んぬ。しかる間19日20目、鎌倉中に騒ぎて同21目、山道海道北陸道の三道より、19万騎の兵士を指し登ぼす。同6月13目、その夜の戌亥の時より青天にわかに陰りて、震動雷電して武士ともが首の上に鳴り懸りかかりし上、車軸のごとき雨は篠を立てるがごとし。ここに19万騎の兵者等、遠き道は登りたり、兵乱に米は尽きぬ。馬は疲れたり。在家の人は皆隠れ失せぬ、冑は雨に打たれて綿のごとし。武士ども宇治勢多に打ち寄せて見ければ、常には3丁4丁の河なれどもすでに6丁7丁10丁に及ぶ。しかる間、1丈2丈の大石は枯葉のごとく浮かび、5丈6丈の大木流れ塞がること間なし。昔、利綱、高綱等が渡せし時には似るべくもなし。武士これを見て皆臆してこそ見えたりしが、しかりといえども今日を過ぐさばみな心を翻えして堕ちぬべし。さる故に馬筏を作りてこれを渡す所、或いぼ百騎、或いは千万騎。このごとく皆、我も我もと渡るどいえども、或いは1丁、或いは2丁3下渡る様といえども、彼岸に着くものは一人も無し。しかる間、緋縅赤縅等の甲、そのほか弓箭兵杖、白星の冑等の河中に流れ浮かぶことはなお長月、神無月の紐葉の吉野立田の河に浮かぶがごとくなり。ここに叡山、東寺、七寺、園城等の高僧これを聞くことを得て、真言の秘法、大法の験とこそ悦び結いける。内裏の紫宸殿には山の座主、東寺、御室、五檀十五檀の法を弥盛に行なわれければ、法皇の御叡感きわまりなく、玉の厳を地に付け、大法師等の御足を御手にて摩で給いしかば、大臣公螂等は庭の上へ走り落ち、五体を地に付けて高僧等を敬い奉る。また宇治勢多に向かいたる公卿殿上人は、冑を震いあげて、大音声を放ちていわく、義時所従の毛人等たしかに承われ。昔より今に至るまで王法に敵をなし奉る者、何者か安穏なるや。狗犬が獅子に吼えてその腹破れざるはなく、修羅が日月を射るに、その箭還ってその眼に中らざることなし。遠き例はしばらく、これを置く、近くは我朝に代始まって人王八十余代の間、大山皇子、大石小丸を始めとしてほとんど二十余人、王法に敵をなし奉れども、一人として素懐を遂げたるものなし。みな頸を獄門に懸けられ、骸を山野に曝らす。関東の武士等、或いは源平、或いは高家等、先祖相伝の君を捨て奉りて、伊豆国の民たる義時が下知に随う故に、かかる災難は出来せしなり。王法に背き奉って、民の下知に随うものは、師予王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するがごとし。今生の恥これをいかんせん。急ぎいそぎ冑を脱ぎ弓弦をはずして参れまいれと招きける程に、如何にありけん、申酉の時にもなりしかば、関東の武士等の河を馳せ渡り、勝ちかかりて責めし間、京方の武者ども1人もなく山林に逃げ隠るるの間、4の王をば4つの島へ放ちまいらせ、また高僧御師御房たちは、或いは住房を追われ、或いは恥辱にあい給いて、今に60年の間、未だその恥を雪がずとこそ見え侯、今嘆また彼僧侶の御弟予たち御祈祷うけたまわられて侯げに侯間、いつもの事なれば秋風にわずかの水に敵船賊船なんどの破損仕りて侯を、大将軍生け取りたりなん,ど申し、祈祷成就の由を申し候げに侯なり。また蒙古の大王の頸の参りて侯かと問い給うべし。そのほかは如何に申し侯とも御返事あるべからず。御存知のためにあらあら申し侯なり。ないし、この一門の人々にも相触れ給うべし。

いわく「この事別してこの一門の大事なり」、いわく「総じて日本国の凶事なり」。日本軍の勝利と聞いて、驚愕し狼狽した日蓮の様予が、この短い文字の上に描き尽くされている。

この時、彼、山居すでに8年、齢まさに60。多年め奮闘劇戦に肉体のはなはだしく衰弱している矢先、この意外な警報に接したので、その心身におよぼした打撃の激烈さは、推し量られる。神からも仏からも人からも一切に棄てられた全然孤独という譬えよう無き悲痛と憤懣とに、幾夜夢さえ結び得なかったであろう。

この頃、彼はちょうど山に寺を一棟建立しつつあった。翌11月の末の手紙にその様予が書いてある。

坊は10間4面に、又庇さして造り上げ、24日に大師講並びに延年、心のごとくつ仕りて、24日の戌亥の時、・御所に集会して、三十余人をもって1日、経書まいらせ、並びに辛酉の刻に御供養すこしも事故なし。坊は地ひき山づくり侯しに、山に24日、一日も片時も雨ふる事なし。11月朔日の日、小坊造り馬屋造る。8目は大坊の柱立て、9日10日葺きおわぬ。しかるに7日は大雨。8日9日10日は曇りてしかも暖かなること春の終わりのごとし。11日より14日までは大雨ふり、大雪ふりて、今に里に消えず。山は1丈2丈雪降りて、堅さこと金のごとし。23日4日はまた天晴れて寒からず。人の参ること洛中鎌倉の町の申酉の時のごとし。さだめて仔細あるべきか。

しかし、この頃の手紙を見ると、いずれもいずれも心細げなこと添書いてある。

あまj酒一桶、山の芋、ところ、少々給い畢んぬ。梵網経と申す経には一紙一草と申して、紙一枚、草一つ。大論と申す論には、土の餅を仏に供養せるもの、閻浮提の王となる由と書かれて侯。これはそれには似るべくもなし。其上夫にもすき別れ、頼む方もなき尼の、駿河の国西山と申す所よ甲斐国の波木井の山に送られたり。人にに捨てられたる聖の寒さに責められて、いかに心苦しかるらんと思いやらせ給いて、送られたる歎。父母に後れしよこの方、かかる懇ろの事に蓬いて侯事こそ侯わね。

せめての御心ざしに給い侯と覚えて、涙もかきあえ侯わぬぞ。日蓮はわるき者にて侯えども、『法華経』はいかでかおろそかにおわすべき。蓮を愛せば池をにくむ事なかれ。さるにても日蓮はわるくてもわるかるべし。わるかるべし。恐々謹言。

 

春の初めの御悦、木に花の咲くがごとく、山に草の生えいずるがごとしと我も人も悦び入って侯。さては御送物の日記、八木一俵(米のこと)、白藍一表、十字三十枚、いも一俸給い侯畢んぬ。深山の中に白雪三日の間に、庭は一丈につもり、谷は峯となり、峯は天に梯かけたり。鳥鹿は庵室に入り、樵牧は山にさし入らず。衣は薄し。食は絶えたり。夜は寒苦鳥に異ならず。昼は里へ出でんと思う心ひまなし。すでに読経の声も絶え、観念の心も薄し。今生退転して未来三五を経ん事をなげき侯つる所に、この御とぶらいに命活きて、またもや見参に入り侯わんずらんと嬉しく侯。

 

Z

弘安5年(1282)、鎌倉にては、執権時宗、山の内の幽蓬の地を下して円覚寺を創立し、仏光禅師を講じて開祖とした。

おなじ年の9月、日蓮は病気保養のため、はじめて山を下りて常陸の湯へと志した。9年ぶりに見る海道筋。戦勝の誇りと、戦後の疲れとに、早くも「時世一変」の色そよぐ秋風の音。ポクリポクリと馬の背に揺られつつ、病に痩せた眉根の下、昔しのばす爛々の眼を張って、果たして何物を観じたか。

畏み申し侯。道のほど別事侯わで、池上まで着きて侯。道の間山と申し何と申し、そこばく大事にて侯けるを、公達に守護せられまいらせ侯て、難もなくここまで着きて侯事、恐れ入り候ななら悦び存じ侯。さてはやがて帰り参り侯わんずみ道にて侯えども、所労の身にて侯えば、不定なる事も侯わんずらん。さりながらも日本国に、そこばくもてあつかうて侯身を、9年まで御帰依侯ぬる御心ざし、申すぱかりなく侯えば、何処にて死に侯とも、墓をば身延沢にせさせ侯べく侯。また栗鹿毛の御馬は、あまり面白く覚え侯程に、いつまでも失うまじく候。常陸の湯へ牽かせ候わんと思い侯が、もし人にもぞ取られ侯わん。また其の外いたわしく覚えば、湯より帰り侯わん程、上総の藻原殿のもとに、預け置きたてまつるべく侯に、知らぬ舎人を付けて侯ては、覚束なく覚え侯。罷り帰り侯わんまで、この舎人を付け置き侯わんと存じ侯。そのようを御存知のために申し侯。恐々謹言。

9月19日                                  日蓮    

 

進上  波木井殿御侍

所労の間、判形を加えず侯事恐れ入り侯

今は馬一匹にも三千界の情愛を全注するのやさしさ。けれど、この栗毛の駒もついに再び用無しに終わった。

譲与

南無妙法蓮華経

末法相応一閻浮提第一立像釈迦仏一体

立正安国論一巻  御免状

右、妙法流布一切利益のために、『法華経』中の一切功徳においては、大国阿闍梨に与えるところなり。

みな末際に至るまで、仏法のために身命を捨てて、一心に妙法を弘通すべきものなり。

これはその歳10月の3日、すなわち死亡先立つこと10日の日、自ら筆をとって認めた、弟予日朗への譲

状。予は、彼がついに『立正安国論』を脱することのできなかった心事を思うて、熱涙の乱れ落つること

を禁め得ない。

   

迷雲その二

日蓮をおおった第二の雲。

世間に人の恐るる者は、火炎の中と、刀剣の形と、この身の死するとなるべし。牛馬なお身を惜しむ、いわんや人身をや。癩人なお命を惜しむ、いかにいわんや壮なる人をや。……世間の法にも重恩をば命を捨てて報ずなるべし。また主君のために命を捨てる人は少なきようなれども、その数多し。男子は恥に命を捨てて、女人は男のために命を捨つ。魚は命を惜しむ故に池に栖むに、池の浅き事を歎きて、池の底に穴を掘りて栖む。しかれども餌にばかされて鈎を呑む。鳥は木に栖む。木の低き事をおじて木の上枝に栖む。しかれども餌にばかされて網にかかる。人もまたかくのごとし。世間の浅き事には身命を失えども、大事の仏法なんどには捨てること難し。故に仏になる人もなかるべし。……

儒教道教をもって釈教を制止せん日には、道安法師、慧遠法師、法道三蔵等のごとく、王と論じて命を軽うすべし。釈教の中に小乗大乗権経実数雑乱して、明珠と瓦礫と、牛駿の二乳を弁えざる時は、天台大師伝教大師のごとく、大小権実顕密を強盛に分別すべし。畜生の心は弱きをおどし、強きを恐る。当世の学者等は畜生のごとし。智者の弱きをあなずり、王法の邪を恐る。諛臣と申すはこれなり。

強敵を伏して始めて力士と知る。悪王の正法を破るに、邪僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし。

これは彼が佐渡へ流された翌年、鎌倉へ送った、日蓮宗徒のいわゆる『佐渡御書』の一節だ。しかれども王法の前に諛臣でない僧侶が古来果たして一人でもあったか。日蓮が日本唯一人と称揚する伝教大師のごときは、実にこの諛臣佞僧中のもっとも巨大な一人だ。

仏法と王法、この関係は歴史の問題でもあろうが、予はむしろ人々各自の心中の葛藤であることを信ずる。

おなじ年、日蓮は『祈祷抄』という文章のなかで、次のようにいっている。

まず山門はじまりし事は、この国に仏法渡りて2百余年、桓武天皇の御宇に、伝教大師立てはじめ給いしなり。当時の京都は、昔、聖徳太予王気ありと相し給いしかども、天台宗の渡らん時を待ち給いし間、都を建て給わず。また上宮太予の記にいわく、わが滅後二百余年に仏法日本に弘まるべし云云。

伝教大師延暦年中に叡山を立て給う。桓武天皇は平の都をたて結いき。太子の記文たがわざる故なり。されば山門と王家とは松と栢とのごとし。蘭と芝とに似たり。松枯るれば必ず栢枯れ。蘭しぼめばまた芝しぼむ。王法の栄えは山の悦、王位の衰えは山の歎きと見えしに、すでに世、関東に移りし事、何とか思食しけん。

この一文を読む者は、日本を辺土だの、島守だのと怒号して、真に宇宙をわが世と誇った日蓮の魂魄も、いかばかり深く遺伝の官僧的臭気に汚されていたかを知り得よう。時はといえば、奈良平安の2朝を渡って来た御用仏教を打破して、直ちに「人」を対象とする1大新時期に際会し、日蓮彼自身も「法華経行者」という新人の覚醒の奥から現われてきたのだ。

「王法」を楯にして新人を狙撃する。これが古今東西を通じて、地上の恥辱だ。王法とか仏法とかいう差別的執着を是認して、それで「法華経の行者」などとは、鉄面皮もはなはだしい。この迷執のために、日蓮は、第一、否、唯一の事業は国主を降服させることだと思いつめた。それゆえに一所懸命に当時の実際的国主というべき鎌倉政府に肉薄した。しかして、とうてい駄目だと思った時に、彼自らは非常な屈辱に動かされて、山へ入った。内なる生命は、ここにはじめて思う存分芽を吹く時期の到来を悦んだが、迷執の日蓮は、自分でもこれを退隠だと思っていた。ゆえに身は身延の奥に、法華経』を睨んでいながらも、迷魂は絶えず権力の門前をさまよっていた。強健な彼の肉体を、わずか61歳で倒したものは、佐渡の風でもなければ、身延の雪でもない。この解脱しかけていながらに、とうとう一筋切れなかった名聞の苦悩である。彼の死は、これ実に人生の偉大な悲劇だ。

   

迷雲その三

第三の雲―――学問。

パウロは「コリント書」(、新約聖書))の冒頭に、

ユダヤ人は休徴を乞い、ギリシャ人は智慧をもとむ。我等は十字架に釘られしキリストを宣べ伝う。

すなわちユダヤ人には礙くもの、ギリシャ人には愚かなるものなり

といっているが、新人の事業は、いつの世でも、いつの時でもすべてこれだ。しかして古い時代や、遠い世界の事件ではなく、各人自家心中の不断の葛藤だ。

鎌倉時代の宗教改革の本義を知るためには、まず当時の仏教というものを知らねばならぬ。しかして当時の仏教というものは、やはりかのパウロの一言に喝破しつくされている。ユダヤ人式に休徴を求むる祈祷僧と、ギリシヤ人式に智慧を漁さる学問僧。しかして叡山は実に最もよき標本であった。

当時の風習で、なにかといえばすぐ加持祈祷だ。頭痛がする、それ御祈祷。風が吹く、それ御祈祷。喧嘩をする、それ御祈祷。妊娠をした、それご祈祷。真言の加持僧が、真っ黒に護摩を焼いて、蛙のごとくに陀羅尼を誦して、さかんに莫大な布施を貪っていた。平安朝時代の物説類だの、日記類だのというものを見ると、当時の人民が、貴賎押しなべて、この利已的迷信の囚人であ一たことが明らかに知られる。

かくて彼等僧侶という一階級は、王公四民の霊魂を支配する恐ろしい魔権を握っていた。しかしてその一方には、この魔力で強奪したる豊かな財産に衣食し、無数の閑僧が、年中経文や論釈や汗牛充棟の文字を漁猟し穿鑿して、寸毫の意義もない煩瑣な空論を糊張りし、やれ何某は華厳の学者でござれの、やれ誰某は天台の知識でござるの、六宗を明らめたの、八宗に通じたのと、愚かな名聞を誇っていた。

祈祷僧の手から教権を奪い、学問僧の口から空論を落とし、貧富なく、貴賎無く、賢愚なく一切平等に直ちに自ら仏智見を開かせるという。これがすなわち宗教革命を要求された第一義で、念仏宗で禅宗でもみなそれであった。

U

幼年にして文殊と驚嘆せられ、叡山一の大智識と仰瞻れた法然が、40年の蓄積を弊履の如く投げ棄てて、大谷の草庵に念仏三昧に入った大飛躍を遠望し、さらにそのここに到った彼が内的葛藤の血の跡を尋ねる時、いかに萎えた腕にも力が充ち、いかに疲れた脚にも活気が湧く。再び「一枚起請」を取り上げて見よ。

もろこし我朝のもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして、念の心をさとりて申す念仏にもあらず。たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、智者の振舞をせずして、ただ一向に念仏すべし。

これ明らかに休徴を求める連中には張合抜けした礙きで、智識を誇る学者先生には大笑いの種だ。道元が帰朝第一に書いた『普勧坐禅儀』の短き一篇は、これまた同じく時代に対する革命の宣言だ、いわく、

「道本と円通なり、いかでか修証を仮りん。宗乗自在なり。何ぞ功夫を費やさん。いわんや全体遥かに塵挨を出づ。いずれか仏拭の手段を信ぜん」

「ゆえに、あまねく言を尋ね、語を逐うの解行を休むべし。すべからく回光返照の退歩を学すべし、身心自在に脱落して本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ」

「身相すでに調って欠気一息し、左右に揺振し、兀と坐定して、筒の不思量底を思量せよ。不思量定、いかが思量せん。非思量。これすなわち坐禅の要術なり。いわゆる坐禅は習禅にあらず。ただこれ安楽の法門なり」

念仏と云えば愚夫愚婦のことで、座禅と云えば、何かむずかしい智者の業のように思われている。なるほど「不思量底如何思量。非思量」なとと漢文で書くと、何か知らず非常に難解な奥義らしく聞こえるが、これを我々の日用語にいい直せば、「屈理屈は後にして、まず坐ってごらん。何も思うな。思うまいとも思うな」。

ただこれだけのことだ。学者の知識というと、何か大層エラそうに聞こえるが、つまり五感の見聞覚知でゆ捏上げたパノラマで、自ら暗所に立って、しかも自ら描いた幻影に、自分の眼を欺いているだけのこと。何の価値もない。何の力もない。何の命もない。ゆえに少しく真面目な人は、ついに自己の虚偽に堪えられなくて、我と我が手に、積年苦心のパノラマ館を焼き捨てることになりゆく。このの悲痛すなわち解脱。

こうなると、祈祷僧の必要が亡くなってしまう。学僧の虚仮脅しが利かなくなってしまう。再び馬鹿な金を出して真言僧に加持を乞うにもおよばない。仏知見を開くには、漢語も梵語も、諸外国語も、経文論釈、一切の文字みな無用だ。宗教改革は、すなわち全人生の根本的維新である。

V

わが日蓮もまた、実にこの宗教改革の大道を潤歩した一個の巨人。

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

と大音声に法華の題目の唱え上る。彼の事業はこれに尽き、また実にここに成就している。この御題目の奥義につきて、彼は『法華題目抄』というものを書いて、次のようにいっている。

問いて云く、法華経』の意をも知らず、義理をも味わわずして、ただ南無妙法蓮華経とばかり五字七字に限りて、一日一遍、一月ないし一年、十年、一期生の間に、ただ一遍なんど唱えても、軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかず、ついに不退の位にいたるべしや」答えて云く「しかるべきなり」問いて云く、「火々といえども手に取らざれば焼けず。水々といえども口に飲まざれば水のほしさもやまず。ただ南無妙法蓮華経と題目ばかりを唱うとも、義趣を悟らずば悪趣を免れんこと、いかがあるべからん」答えて云く「獅子の筋を琴の弦として一度奏すれば、余の絃ことごと切れ、梅子の酢き声を聞けば、口に唾たまりうるおう。世間の不思議すらかくのごとし、いわんや『法華経』の不思議をや。『法華経』の題目は、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目なり。汝等これを唱えて悪趣を離れるべからずと疑うか。正直捨方便の『法華経』には、『信をもって入る』といい、雙林最後の『涅槃経』には『この菩提の因は、また多量なりといえども、もし信心を説けばすなわちすでに攝尽くす。云云』。それ仏道に入る帳本は信をもて本とす。五十二位の中には十信を本とす、十信の位には信心、初めなり。たとい悟りなけれども、信心あらんものは、鈍根も正見の者なり。たとい悟りあれども信心なき者は、誹謗闡提の者なり。善星比丘は二百五十戒を持ちて四禅定を得、十二部経を暗にせし者なり。提婆達多は八万四千の宝蔵を覚え、十八変を現ぜしかども、これ等は有解無信の者なり。今に阿鼻大城にありと聞く。また鈍根第一の須梨槃特は、無解有信の者なり。仏に授記を蒙りて、華光如来、光明如来といわれき。仏説いて云く『疑いを生じて信ぜずんば、まさに悪道に堕すべし』と。しかるに今の世の学者の云く、ただ信心ばかりにて解心なく、南無妙法蓮華経と唱えるばかりにて、いかでか悪趣を免るべき云云と。この人々は経文のごとくならば阿鼻大城を免れがたし。されば左せる解なくとも、南無妙法蓮華経と唱えるならば、悪道を免るべし。琥珀は塵を取り、磁石は鉄を吸う。我等が悪業は塵と鉄とのごとく、『法華経』の題目は號珀と磁石とのごとし。かく思いて常に南無妙法蓮華経と唄うべし」

これでいい。これだけでいい。実にただ、これだけでいいのだ。

しかるにミイラ取りがかえってミイラに取られた。この勇猛な改革家は、あべこべに教権と字間との廿き誘惑に捉えられ、進軍の門で、後ろ向きになってしまった。見よ、彼は叡山の御使者と化けて、法然目がけて打ってかかった。

そもそも当時の南都北嶺の僧侶というものを、これをインド式でいうならば、あたかも波羅門の種族に当たる。王公貴族、商工、農奴の諸種族諸階級の上に傲然と坐して、万民精神の鍵を独占する大魔王であった。この階級的圧迫、精神的窒息の苦悩から万民を救って生命の自由を回復させねばならぬとう積年の要求と計画とが、ついに王族の子釈迦牟尼の出家によて成就されたごとく、法然、親鸞、道元など、幾多の小釈迦が呼応して起こった。彼等はいずれも釈迦と同じく貴族階級の出身だ。しかるにここに最もおくれて一個の大勇者が猛然として露出した。「我は旃多羅の子だ。奴隷の子だ」。猛獅、鬣を振ってひとたび吼えれば、百獣声を呑んで隠れてしう。しかるをこの旃多羅の子は、たちまち波羅門の悪に酔うてその本分を忘れてしまった。

彼は、弟予の青年が京都へ行ってその悪風に感化されたことを叱りつけた。が、それは弟子のことではなくして、御師匠様御自身のことであった。予は日蓮が、種々の経文を引っ張ったり、古い論釈などを探し出して教義や教理を説述することに貴重な一生を養やし、修羅ばかり燃やして、本然の発達をわれから妨害したことを、いかに残念に思う。彼は天台の教義を基本として、いわゆる釈迦一代の経典というものを批判し、『法華経』のみを真実として、他はみな方便の虚偽と排斥し、また『法華経』のなかにては、後の十四品が真実で、前の十四品は方便だと貶しつけた。彼はこんな穿鑿だてに忙殺されていた。しかして多くの反古を書いた。その効果といえば、多数の善男善女に自身の信仰を深からしめるよりも、他宗に対するぞ憎嫉の悪念を高めさせ、彼が白骨の火気いまだ消えやらぬうちに、遺した弟子の中、早くも『法華経』を全部用いるものと、ただ後ろの十四品だけを用いるものとの間に水火の争論を起こし、それが昂じて多くの分派を生じ、同じ日蓮宗でいながらも、派の違った寺では礼拝もしないというまでの偏執に陥らせてしまった。これ一つには師匠を誤解し妄拝した弟子や門徒の罪だが、その種子を蒔いたものは、いうまでもなく日蓮自身である。

野の児は、あくまでも野の児で行け。自然の児は、どこまでも自然で行け。それが人巧の学問などに降参した日には、悲惨で、滑稽で、とても見るに堪えられない。

予はこの時代の前後において、残念でたまらぬ二個の偉男児を見る。木曽義仲と僧日蓮――義仲は勇あり義あり、いかにも信濃の山河が生み育てた自然の好漢だ。彼は兵を用いることにおいて、義経に勝り、情に温かに義に厚さことにおいて、頼朝のごときは、慚死すべきはずであった。しかるに百戦百勝、ひとたび京都の地に入るにおよんで、たちまちその魔風を吸って、故郷の山河を忘れてしまった。あるいは公卿の娘に溺れ、あるいは衣冠束帯、牛車などに坐して、いたずらに京人の嘲笑となった。野人の使命は、その峻熱無垢の野気をもって、無遠慮無会釈に文明の悪風を掃蕩するの一点にある。悲しいかな、義仲はそれを失念した。義仲が政治的に失敗したあとを、宗教的に踏んだのが日蓮だ。「いやらしい京言葉など使うじゃないぞ」と怒鳴ったが、かれ自身はこのときすでに全く叡山の鸚鵡で、しかも悲惨は、かれ自ら少しもそれと気づかずにいたことだ。

智者大師に触れたのを悪いとはいわぬ。伝教を見たのを悪いとはいわぬ。釈迦も善い。『法華経』も善い。ただこれらの諸縁によって、ひとたびかれ本有の眼が開いたなら、なにゆえにこの諸方便を一呼吸に拭き取ってしまわなかったか。智者大師でも、伝教でも、釈迦でも、『法華経』でも、日蓮でも、一切なんでもない本有の一物で、風のごとく、潮のごとく、横行潤歩しなかったか。口に唱えるものなどは、南無妙法蓮華経でも、南無阿弥陀仏でも、「いろはにほへと」でも、なんでもいい。唱えたいと思ったら、唱えるかいい。黙っていたかったなら、黙っているがいい。「一切無拘束」。「絶対の自由自在」。旃多羅の子の使命は、すなわちこれだ。経文の批判だの、教義の組織だのということは、野の児にとっては、無用の沙汰というよりも、むしろ明白に悪事である。

しかれど日蓮を誘惑し、日蓮を挫躓せた当時の学問学風というものは同じく他の革命者をも悩めている。法然で親鸞で道元でも、みなこの時代の流行病に罹っている。

しかして彼等をを躓せた路傍の石は、「経文の神聖」すなわちこれ。

すでに彼等の求めたところのもが「仏教」だ。しかして仏教は「経文」のうちにあり。経文は仏陀の金口から直説されたもの。かくて彼等は、自家の信仰を表白するに、「われ、かく信ず」というだけでは駄目だ。必ず「何経にあるから、かく信ず」といわなければ駄目だ。それゆえに彼等の法論というものを見ると、各自に勝手な経文や、論釈のなかから拾い来たり、それを弾丸にして発砲し合ったに過ぎない。禅宗のごときは、「直指人心、見性成仏」という卓抜な態度でいるにかかわらず、やはり「教外別伝」で、これが仏陀じきじきの教門だということを、その根抵にしている。彼等は経文の範囲内で、甲乙を立てることは知っていた。しかしてわが第一と見込んだ経文の上に、わが宗旨を建てた。けれど経文そのものを批評するということをば、ほとんど夢に考えなかった。経文そのものの批判――-こんな言葉は直ちに不敬至極の外道魔類の囈語と響いたに相違ない。

法然は解脱自在を得てていた希有の大人だ。けれど彼が南都北嶺の旧仏教に対して浄土宗の新建設をするにあたっては、いわゆる浄土の三部経を標榜して、その金口の仏説であることを明かしている。また選択集』など書いて、古人の言説を掻き集めて、おのが教議の論拠を弁護している。これすなわち時代と彼とともにともに、「経文の神聖」に捉われていた明証だ。

国民性とか、個人性とかいうことを誇張する人がある。彼等はその国民性とか、個人性とかいう差別的現象の上に、絶対平等普遍常住の生命の片影を瞥見して、それに随喜渇仰する。ゆえに尊きは、その国民性でもなければ個人性でもない。否、国土、時代、個人というものは、真生命を封鎖する牢獄だ。我等の常に努力を要する問題は、この国土、時代、個人を超絶して、直ちに絶対普遍の光明生命に合致するの一事にある。

釈迦や耶蘇の見たものと、その彼等の言葉に現われたものとの間には、すでに千万里もただならぬ距離がある。人を通じて顕われた真理は、千重万重の塵や垢を被ぶっている。ゆえに地上の真理はすべて畸形児だ。「不二」の法門を喋ヵ弁じた諸菩薩の愚かさ。不二の法門は言説のおよぶところでないといった文珠の短語も、すでに多舌に過ぎている。維摩の一黙、真に百雷の響きがする。

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

日蓮の事業はこの念法念仏のうちに尽きている。ただ実にこれだけで足りていた。しかれども彼の自ら浴びた塵や垢は、あまりに深く厚かった。彼はこの塵や垢のために、ついに悶死した。彼が自由を得るまでには、さらに一段の大奮闘と大懺悔とを待たねばならなかった。六十一歳は彼にとって短命すぎた。

(1910年『日蓮論』)

 

 

 

 

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