日蓮その人と思想

 

 

茂田井教亨

日蓮と時代的背景  

日蓮は貞応元年(1222)安房国東条郷小湊(千葉県安房郡天津小湊町)に生まれた。伝説では出自を飾っているか、日蓮みずからは、「施陀羅が子」(『佐渡御勘気抄』『佐渡御書』)、「海人が子」(『本尊問答抄』)、「遠国の者、畏が子」(『中興人遣御消息』)等といい、「賎民の子」(『善無畏三蔵抄』)といっている。そして伝記中の最古のものといわれる『御伝土代』(法孫日道〔1341化〕著)にも「海人子也」とあるから、あまり飾らぬ方か日蓮の素意にもかなうものであろう。ただ推測されることは、日蓮は十二歳のとき同郷清澄寺に上り、道善房を師として就学しているので、一介の海人の子ではなかろうということである。史家によれば、「荘官級の出自」かと推測(高木豊『日蓮とその門弟』)されている。

とにかく、日蓮は天福元年(1233)清澄寺に上り就学したが、十六歳の嘉禎三年(1237)には薙染し、是聖房と名乗った。後年そのことを回顧して、

然るに日蓮は東海道十五カ国の内、第十二に相当たる安房国長狭郡東条郷片海の海人が子也。生年12、同郷の内清澄寺と申す山にまかりて、遠国たるうえ、寺とはなづけて侯えども修学の人なし。然、而随分諸国を修行して学問しほどに……(『本尊間答抄』)

而るに日蓮は日本国安房国と申す国に生まれて侯しが、民の家より出でて頭をそり、袈裟をきたり。此の度いかにもして仏種をもうえ、生死を離るる身とならんと思いて候し程に……随分にはしりまわり、12・16の年より32に至るまで20余年が間……(『妙法比丘尼御返事』)

などと語っている。出家の動機については種々の説があるが、『妙法比丘尼御返事』の「比の度いかにもして仏種をもうえ、生死を離るる身とならんと思いて」は、もっとも明瞭にその動機を語ったものであり、『開目抄』の「父母の家を出て出家の身となるは、必ず父母をすくわんがためなり」の一句こそ、その目的を語ったものでなければならぬ。

日蓮の生まれた貞応元年は承久4年にあたり、かの承久の乱の翌年であった。頼朝によって樹立された武家政権は、後鳥羽上皇の討幕失敗によって得宗専制という変形によりながらも、鎌倉幕府の権力を固める結果になった。保元・平治の乱以来、国民は動乱に重ねるに動乱のため、虚脱の状態となり、仏教のいう「末法」到来の意識に戦いたのである。若くして法性寺座主という栄職にあって、摂政・関白の権威をもった九条兼実を実兄とした慈円(1155〜1225)でさえも、治承3、4年(1179〜80)頃には屡々隠居を望んだことが『玉葉』に見える。名門の生まれで仏門にある慈円のごときでさえ、「生涯無益」という虚無に陥るのであるから、庶民の心情はおそらく想像を絶したものがあったろう。このようなとき、彗星のごとくに現われた源空法然(1133〜1212)の説く「選択本願」の念仏は、あたかも燎原の火のように、庶民の福音として上下の階層に浸透していったのである。慈円は天台座主という僧門最高の立場から、これには賛成しかねていたものの、兄の兼実は源空に帰向していった。日蓮も幼少の頃から念仏を口ずさんでいたことは、さきの『妙法比丘尼御返事』に、「皆人の願わせ給う事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱え候し程に」とあるによって明らかである。

この法然の浄土宗の他に、明庵栄西(1141〜1215)の臨済禅の高揚も忘れてはならない。元来、禅は天台止観行の一法であった。栄西は叡山の学僧として葉上流の祖となったほどの台学の僧であったが、仁安3年(1168)入宋し、禅を学んで帰朝してから天台復興のため禅の必要を感じ、文治3年(1187)再び入宋して天台山虚庵懐蔽より臨済禅を承け、建久2年(1191)帰朝して博多に聖福寺を建てて禅を鼓吹した。叡山の圧迫を避けつつ鎌倉幕府の庇護を受け、北条政子の外護によって正治2年(1200)鎌倉に寿福寺を創建したが、さらに建仁2年(1202)京都に建仁寺を創して円・密・禅三宗兼学の道場と称して「興禅護国」を謳ったのである。これは旧宗天台からの脱皮であったが、叡山の圧力といい、葉上房栄西としての立場上、純粋な禅の宗風を示し得なかった。この後の大業を成し遂げたのが、希玄道元である。

道元(1200〜53)は、はじめ建仁寺に栄西を慕って禅を問うたが、いくばくもなく師の遷化に会い、つづいて明全に師事するに至った。明全は入宋求法を決意し、道元を伴って貞応2年(1223)入宋したが、不幸にして宋の宝慶元年(1225)寂したので、道元は単身弁道工夫し、ついに天童山長翁如浄の提撕によって大悟を得るに至った。道元の伝えた禅は栄西と異なり曹洞の流であるが、彼が帰朝後、寛元元年(1243)越前に開いた永平寺は本邦初の曹洞禅道場として、後世に多大の影響を与えたのである。日蓮は、同時代でありながち道元を知らなかったが、大日能忍の禅については知るところもあり、批判の筆も加えている。法然の浄土宗をさらに進展させたもの、周知のごとく親鸞(1173〜1262)でああるが、彼についても日蓮は知るところなかった。

とにかく、このような仏教界の新しい動きのなかに、日蓮は出家し、法を求めていったのである。そのことにつき『報恩抄』の冒頭の一節は、みずからの告白として日蓮の勉学求道の経路を知る重要な資料である。該書にいう「日蓮が愚案はれがたし。……いかんがせんと疑うところに、一の願を立つ」は端的にそれを語ったものだが、いうところの「日蓮の愚案」こそ、彼が「いかにもして仏種をもうえ、生死を離るる」道における一大疑問だったのである。前にも述べたように、日蓮は幼少の頃から弥陀の名号を唱えていたが、師の道善房も念仏の信者であった。ところが、たまたまこれについての疑問を生じ、それを師匠・先輩等にも尋ねたが、満足な答えは得られなかった。これが彼に諸国勉学の旅を思い立たせる動因となるのである。そのことについての回顧は、前に引用した『妙法比丘尼御返事』の連文に委悉である。

幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて此事を疑いし故に、一の願をおこす。日本国に渡れるところの仏経ならびに菩薩の論と人師の釈を習い見侯わばや。また倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗、真言宗、法華天台宗と申す宗どもあまたありときく上に、禅宗、浄土宗と申す宗も侯たり。此等の宗々枝葉をばこまかに習わずとも、所詮、肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分にはしりまわり、十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉、京、叡山、園城寺、高野、天王寺等の国々寺々あらあら習い回り候し程に、一の不思議あり。

ここにいう「一の不思議」とは、仏法帰依の形において破仏法の因縁をつくる、という日蓮のいわゆる「謗法」罪という意識である。これは日蓮の宗教の根本契機となるものであるが、つぎの項で述べる機会があろうと思うので、ここでは省略する。とにかく、日蓮がこのように「随分にはしりまわり」「寺々あらあら習い回」った結果、ついに把握し得たものは、『法華経』こそ教主釈尊一代の本懐であるという信仰的認識であった。おそらく、比叡留学を中心として行われた天台(智額=538〜597)・伝教(最澄=767〜822)の教学への沈潜によって得た賜であろう。

日蓮はこの確信発表の場所を、揺藍の地・清澄寺に選んだ。その理由については、

此の諸経諸論諸宗の失を弁える事は、虚空蔵菩薩の御利生、本師道善御房の御恩なるべし。亀すら思を報ずる事あり。何に況んや人倫をや。此の恩を報ぜんがために清澄山において仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す。

と述べた『善無畏三蔵抄』の言葉で明らかである。日蓮は疑問の解決には「日本第一の智者」とならでは叶うべからずと思い、清澄寺の虚空蔵菩薩にこれを祈願し、利生を得たとは後年しばしば語るところで、「御利生」云云はすなわちその一例である。この信仰告白を宗門一般の人は「立教開宗」と呼んでいる。建長5年(1253)4月28日のことで、日蓮数え年32歳の時であった。しかし、この信仰を告白するに至るまでの日蓮の苦悶は、『報恩抄』の辞句にも見えるとおり、「進退谷まる」ものがあった。『開目抄』の左の一節はもっとも有名で、這般の消息を雄弁に語るものである。

日本国に此をしれる者、ただ日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば、父母兄弟師匠に国主の王難必ず来るべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経涅槃経等に此の二辺(率直に信仰の告白をすべきか否かの)を合わせ見るに、いわずは今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔、必ず競い起こるべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は、退転すべくは一度に思い止むべし。…今度、強盛の菩提心をおこして退転せじと願じぬ。

「二辺の中にはいうべし」という二者択一の決断を日蓮に促したものは、文中にもあるとおり『法華経』涅槃経』に見える如来の勧奨の勅命であった。すなわち、『涅槃経』には「寧ろ身命を喪うとも教をは匿さざれ」といい、とくに『法華経』には、「此の経は如来の現在にすら、なお怨嫉多し。況んや滅度の後をや」と滅後弘教の至難を示し、さらに「これはこれ難事なり。よろしく大願を発すべし」と決意を慫慂している。この仏勅に応えたのが、有名な勧持品に示された薬王菩薩らの「われ身命を愛せず、ただ無上道を借しむ」という誓言である。日蓮が信仰を告白する直前に「今度、強盛の菩提心をおこして退転せじと願じ」たのは、とりもなおさずこの誓言をみずからのものとして反芻したわけである。ここに日蓮の回心的事実があったと見なければならない。この回心に対する回想は、『開目抄』のほか『報恩抄』にもあるし、『一谷入道御書』『高橋入道殿御返事』『頼基陳状』『三沢抄』『種々物御消息』等、枚挙に暇がない。それだけ信仰者日蓮にとって、一大体験であったことを語るものであろう。

「日本国に此をしれる者、ただ日蓮一人」という自負のもとに清澄寺で行なった最初の説法(信仰の告白)の結果は、予言者故郷に容れられずの言葉どおり、山を逐われる身となった。清澄を去った日蓮は、当時政治の中心地たる鎌倉に出た。そして天台沙門として二、三の交友と共に勉強会のごときものをもったようである。幕府の政治は前述にも触れたように、執権の名のもとに得宗専制というわずかな寄合衆の壟断するところであった。彼等は表面は禅や念仏に帰依し、何々寺入道と称していかにも殊勝に見えるが、つねに権謀術数を弄しで自己の権力の拡大と保全に汲々たる者が多かったのである。これに対する日蓮の直接的批判はないが、『立正安国論』に予言した「自界叛逆」は、他の遺文では「同士討」と表現されて、得宗政治に対する一種の警告といえるものがあるようである。『立正安国論』執筆の直接動機は、中山所蔵正本の奥書にも明らかなように、正嘉元年(1257)8月23目の大地震に因るものである。日蓮が鎌倉に出たのは、建長5年の末か6年の初めごろと思われるが、それから康元・正嘉・正元と、わずか4、5年の間に、鎌倉は頻々と起こる天変地夭に見舞われた。そのほか飢鐘・疫癘と重なり、庶民のこれに横死する者、数えきれなかったという。ことに正嘉元年8月の大地震は前代未聞といわれ、『吾妻鏡』はつぎのように伝えている。  

23日、乙巳、晴、戌刻大地震、音有り、神社仏閣一宇として全きなし。山岳は頽崩し、人屋は顛倒す。築地皆悉く破損し、所々地袋け水涌出す。中下馬橋の辺、地裂破し、その中より火炎燃え出づ。色青しと云云。  

このような累年に及ぶ異変に日蓮は深く憂え、ひそかにその災難の由来を考えたのである。文永5年(1286)4月、法鑒房に呈した一書(『安国論御勘由来』)には、そのときの心境をつぎのように述べている。

正嘉元年八月二十三日戊亥の時、前代に超えたる大地振。同二年八月一日大風。同三年大飢饉。正元元年大疫病。同二年四季に亘って大疫已まず。万民すでに大半に超えて死を招き了んぬ。而る間、国主これに驚き、内外典に仰せつけて種々の御祈祷あり。爾りといえども一分の験しもなく、還って飢疫等を増長す。日蓮、世間の体を見て、ほぼ一切経を勘うるに、御祈請験しなく、還って凶悪を増長するの由、道理文証これを得了んぬ。ついに止むたく勘文一通を造り作し、その名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日屋戸野入道に付し、古最明寺入道殿に奏進し了んぬ。これ、ひとえに国土の恩を報ぜんがためなり。(原漢文)

宗教者が政治にかかわってはならぬ、政治と宗教とは次元が違うから宗教の政治への接近は宗教の堕落である、などというこえは、かってしばしば耳にしたことである。が、日蓮の『安国論』は、そういう性質のものでなく、同書にもいうように、「一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を祈」らねばならぬという信仰が指向するモラルの発言であった。自己ひとりの安心さえ得れば、世間の危機はやむを得ないというようなインテリじみた在り方は、日蓮のモラルからは許せなかった。「生死無常のことわり」は「如来のときおかせおわしまし」(文応元年11月十13日乗信房宛の親鸞書簡)た道理だから驚くな、という親鸞の態度とは、日蓮は対照的に異なっていた。『法華経』の至上命令として息むに止まれぬものが、日蓮の思惟と行動にはあったのである。鎌倉という幕政地におり、隣国支那の動きに敏感だった日蓮には、世界史認識における現代認識が急務となって、親鸞や道元のごとき観念的思索の深淵に身を置くことはできなかったのであろう。

『立正安国論』の奏進という一事を起点に、今日の日蓮は昨日の日蓮と異なった存在になっていった。すなわち、一持経者にすぎなかった日蓮は、今日から「法華経の行者」として生きることになったのである。「法華経の行者」とは、『法華経』に予言されているごとく、『法華経』のゆえに留難を受けつつ弘教生活に邁進する者をいい、日蓮みずからもそのように説いている。が、現代的にもっと幅広くいえば、アクチュアルな留難に拘泥せず、純真に『法華経』に入って『法華経』に出る宗教者の謂いだ、といってよいであろう。日蓮は、いわばそういう宗教者だったのである。形而上的思索を嫌い、経の文相に忠実に如来の声を聞こうとした日蓮には、色読ということが「行者」としての唯一の資格条件と考えられたのである。しかし、じつは日蓮の用語の行者にこそ、時代背景を担った『法華経』の純粋な表出が示されているといえる。そのことは日蓮理解の重要な鍵となるであろう。なぜならば、そのことが仏教の根本課題である成仏という問題に連なり、それが世間・出世間にわたる絶対の報恩道だったからである。『安国論御勘由来』の「これ、ひとえに国土の恩を報ぜんがためなり」は、たんなる辞令的辞句ではなかったのである。

このような政治的歴史的危機感の切迫こそ、人びとの宗教的関心を誘ったであろうし、それゆえにこそ、新鮮にして溌剌とした新仏教運動が展開したのであった。客観的にみれば、日蓮の新しい法華信仰運動も、その一環にほかならないであろう。しかし日蓮からいえば、そうではなかった。というのは、古い天台や真言の頽廃は、やむを得ないとしても、新たに興きた浄土宗や禅宗は、仏教という偉大な生き物の自主的流れからみるとき、いずれも恣意的枝葉的展開にほかならないと考えられるからであった。日蓮的に法然の立場をみると、それは人間的迷いや弱さが仏教選択の第一条件となって、仏法自体が意図する大きな歴史的志向を歪曲するものであった。また栄西や能忍の唱導した禅の立場は、教外別伝という美名に眩惑された怪しげな自己が、誤れる主体性という鋳型に仏教を嵌め込んでしまおうとするものであった、いい換えれば、前者は仏教のなかに自己を没入させた形において仏教を曲げ、後者は自己のなかに仏教を受容した形において仏教を曲げたもの、というのが日蓮の両宗観である。

これはもちろん、教理面からの批判ではあるけれども、その背後に鋭い日蓮の時代認識か強く両宗批判を支配していたことに注目しないと、かれの真意はつかめないであろう。すなわち、政治的にも歴史的にも大き在危機を孕んだ時点における宗教としては、個的実存の立場(念仏)も非歴史的象徴の立場(禅)も、これを担いこれを指導する力がないと見るのが日蓮の立場であって、かれはこれを止揚した三位一体の立場を打ち出したのである。ここにいう三位一体とは、仏教は教法として志向的に超歴史的意図をもつている。その超歴史性は、行者(師)のアクチュアルな実体化によって歴史性を回復し、それを外護する檀那によって創造的に歴史的世界は展開するという見方をいう(『問注得意抄』参照)。もちろん、こんな術語が教団で用いられているわけではないが、日蓮が歴史性と超歴史性とを自覚的に統一した独特な――ということは、従来の仏教者には見られなかった――宗教体験世界には、このような意義が認められるのである。

かくして日蓮は『立正安国論』を契機に、伊豆流罪・小松原法難・竜口法難・佐渡配流と、『法華経』色誌の歴史を積み重ねていくのである。その劇的生涯の展開は、あまねく人の知るところだが、この積み重ねのうちに日蓮の思想が深化していく過程については、あまり理解されていない。それは、日蓮のドクトリンが信仰的思索をとおして象徴される型でなく、行実によって生まれ、それに支えられているという特質に基づくものだからである。「行者」という自覚に誇りをもったのも、そのためであった。佐渡で著わした『開目抄』はその表明であり、その行者によって初めて顕わされる「信心」の行・証とその歴史的必然性とを説いたものが『観心本尊抄』であった。在島三年、佐渡の日蓮は生涯において、もっとも充実した意義のある月目を送ったのである。

蒙古来寇の緊迫を感じた幕府は文永11年(1274)3月、日蓮を赦して柳営に招いた。しかし、幕府に誠意のないことを認めた甘蓮はみずから身を退き、檀越波木井氏の縁によって身延に隠棲するに至るのである。それは赦免後、わずかに数十日を経た5月17日であった。  

けかち(飢渇)申すばかりなし。米一合もうらず。がし(餓死)しぬべし。この御房たちもみなかえして、ただ一人侯べし。このよしを御房たちにもかたらせ給え。

十二日さかわ(酒匂)、十三日だけのした(竹ノ下)、十四日くるまがえし(車返)、十五日おおみや(大宮)、十六日なんぶ(南部)、十七日このところ。いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中に叶で侯えば、しばらくは侯わんずらむ。結句は一人になて日本国に流浪すべきみ(身)にて侯。また、たちとどまるみならばけさん(見参)に入侯べし。恐々謹言。

十七目。                                  日蓮花押

ときどの  

これは5月12日に鎌倉をたって17日身延に着くまでの状況と、日蓮の心境とを淡々とした筆で、唯一の知已である檀越富木氏は送ったものであるが、三度まで身命を賭して諫言しても容れられぬ、失望に似た寂しい気持ちを懐いて身延に入って行った日蓮の心境が実によく表われている、端書にある「ただ一、人候べし」は数の「一人」であるが、本文の「結句は一人になで」は心の「ひとり」である。この文面でみると、最初から身延入山と決めて鎌倉をたったのでないことかわかる。しかし、地位と財力を有する波木井氏の勧めや、弟子日興のゆかりなどもあったし、地形も気に入ったらしく、ここを終の棲家として8ヵ年の隠棲がばじまったのである。

日蓮が身延に入山した年の10月、蒙古は壱岐対馬に寄せてきた。4月8日、柳営招喚の際、日蓮が「よも今年は過ぎ侯わし」と予言したとおりになったのである。ここにおいてかれは、橡大の筆を振って『撰時抄』一篇を著わした。仏教は生きた歴史であるとして、自己の立場から遡源的に必然史を見た独特の史観である。その翌年3月、恩師道善房は老齢をもって亡くなった。この時また、日蓮は前著の史観を基調に、そこに形成される理念こそ、生涯を貫く宗教と倫理の一体化の実践であることを強調し、『報恩抄』一篇を著わしてその墓前に捧げた。

多年、迫害多難の生涯をつづけたうえの山中生活は、次第に日蓮の肉体を蝕んでいった。それでも各地に散在する檀越の心をこめた供養には、つねに真情の溢れる書簡をものしてこれに応答し、山中にはつねに数十人の門弟を教育していたが、弘安5年(1282)秋、門子檀越の慫慂もあったのであろう、出でまいと決意した身延を出でて常陸の湯治に赴くべく、途次、武蔵池上の右衛門大夫の館に落ち着いた、が再び起つ堪わず、10月13日辰刻(午前8時)61年の生涯を閉じたのである(『波木井殿御報』参照)。

日蓮は、信仰の確立とともに末法における『法華経』の弘宣者の自覚をもって起ったのであるが、その多難の生活が『法華経』に予言された地涌の菩薩たることを身証したことについて成仏の意義を感じ、ここにきわめてダイナミックな宗教を形成するに至ったのである。後世、江戸時代に出たそのエピゴーネンである深草の元政(1623〜68)がかれを讃して、

霊山の別付独り濁末を済う 険危を蹈遍して死せんと欲して復活す 塵尾雨灑ぎ唄音雲遏る 諸天竜神法を聴いて蹙渇す 如何んが讃ぜん如何んが讃ぜん 南無本化上行菩薩

とたたえたのも所以なしとしないであろう。

   

日蓮の宗教の特色  

日蓮の宗教の特色については前項の叙述でもおのずから触れているのだが、ここでは主として教理的面から解説を試みょうと思う。

普通に『法華経』というのは『妙法蓮華経』のことで、姚秦の鳩摩羅什(344〜413)によって訳されたものである。現存する漢訳『法華経』三本のうち、もっとも傑れた名訳と謳われているものである。この『法華経』は宗の如何にかかわらず尊重されてきたが、中国陳隋の世に出た智天台智者大師によっ

て縦横に解釈され、爾来、仏教経典中における本経の価値は不動なものとなった。智の立てた天台法華宗は最澄伝教大師によって日本に将来され、比叡山に根を下ろしたが、爾後、この山は日本仏教の淵叢として栄え、前述のように鎌倉三宗(念仏・禅・法華)の祖師たちもこの山から輩出したのである。しかし、法然や栄西は天台に学んで天台を捨て、それぞれ別途の方向に発展したが、日蓮のみは天台に学んで天台に復古し、それを新時代に生かそうとした。

『法華経』は二十八章から成っている。そして第一章から九章までと、第十章あたりから後半とは内容的に趣を異にしている。普通の見方に従えば、十四章ずつに分けて前十四章を迹門と呼び、後十四章を本門と呼ぶのだが、日蓮の法華観を率直にいえば、かれは第十章法師品以後の世界に生命を託しているとみられる。智は、前半の第二章方便品に『法華経』の核心が説かれていると認め、そこに展開する教理を根底に、かれ独自の行法を樹立したのである。専門的叙述は避けるが、方便品を中心とする九章は、いわば釈尊とその弟子たちとのあいだに展開した崇高な宗教世界であり、そこに説示されている教理は、今日のわれわれにも普遍化し得られるものである。したがって、智はその人間平等に普遍する法華の教理を世界観の根底として、高遠ないわゆる天台教学を樹てたのである。ところが『法華経』の第十章以後の説相は、問題の重点をむしろ釈尊滅後におき、滅後のなかでも末法と呼んで、仏法滅尽のときと見られる時代を、とくに『法華経』流布の対象とすることが強調されている。日蓮は自己の立つ時点が『法華経』のいう末法であると認め、『法華経』が自己の実現を図ろうとして選んだ末法に、自己自身は選ばれた者として起ち上がったのだ、と自覚したのである(『顕仏未来記』参照)。こういう『法華経』の受容は、天台・伝教の遺産を継承しなならも、きわめてユニークなものになっていった。しかも日蓮は、天台や伝教も内鑑においてはこういう『法華経』の実現を希望していたが、時機が到来しなかったため、内心日蓮を羨望しておられるのだとさえ認識したのである(『報恩抄』参照)

このような独特た法華経観は、『法華経』にいう「末法」という言葉のなかに秘められた人間観と深いつながりをもっている。『法華経』は自己実現的意欲をみなぎらせている経典であるが、その底辺にあるものは、末法という時の人びとに仏法滅尽の危機を直感せしめ、その時代意識のなかに自己を実現せしめようと念じているものがあるのである。ここに『法華経』を生きたものと受けとる受けとり方がある。その人格化されたものが、日蓮のいう「釈尊」である。釈尊は、けっして二千五百年前に印度に入滅された仏ではなく、永遠にわれらとともに生き、われらに救いの説法をつづけている仏なのである。それは、われらの純潔な信仰のあるところに生き、それのないをころに死にゆく仏なのである。日蓮はそれを素朴に「釈尊」「釈迦仏」と呼んだ。呼び方は一般的なそれであるけれども、日蓮の信仰的認識のなかに生きた釈尊は、叙上のごとき意義をもっていた。つまり、釈尊はつねに『法華経』として生き、『法華経』は、ときに釈迦仏として仰がれもするのである。すなわち、日蓮の法と仏との観方には渾然とした一体観があったのである。

そこで末法は、歴史的釈尊滅後へだたり遠く、仏法結縁の人も稀少になっている。言葉を換えていえば、仏法滅尽の時が末法である。この時代にこそ、『法華経』は純粋に生きなければならない。『法華経』が純粋に生きるということは、釈尊が歴史性を否定した超歴吏的世界に生きることである。釈尊が超歴史的世界に生きることは、『法華経』の核心的精神が純粋にそれみずからを実現することである。このような『法華経』の受容が、日蓮によって、『法華経』の第十章から第二十二章までの説相のなかに把握されたのである。すなわち日蓮はこれを「教」の志向とみたのである。日蓮の教義における教の概念は、きわめて複雑なものをもち、単純にはいえないが、一口にいえば久遠の釈尊の智慧と意志と情熱とが、宗教的に倫理的にダイナミックに展開していく世界、といったらよいであろうか。それが象徴化されたり、具象化されたりして「南無妙法蓮華経」になるのである。ゆえに日蓮のいう「南無妙法蓮華経の五字七字」という言葉は、単に『法華経』がパラフレーズされたものというようなものではない。かれは、そのなかに釈尊の智・情・意を端的にいい表わそうとしたのである。

したがって、この釈尊の全人格的なものが法的に表現され、それが権威的に志向していく世界に対して、意識的にはもちろん、無意識的にも反逆する行為を、日蓮は「謗法」と呼んだのである。謗法という語は、元来、正法を謗る行為を意味し、仏法反逆の行為を指したものだが、日蓮はとくにこれを『法華経』との不可分関係に見出している。ゆえに逆説的ないい方をすれば、『法華経』の生きるところには必ず謗法があり、謗法のあるところには必ず純粋な『法華経』があるのである。さきに「末法という言葉のなかに秘められた人間観と深いつなかり」といったのは、こういう意味からであった。ゆえにいい換えれば、末法には必ず『法華経』が生きねばならず、末法には必ず謗法がなければならないのである。このような時代と人間との、いわば不思議な宗教的な関連を日蓮は重視し、それが法師品から属累品に至る十三品に横溢した『法華経』の未来への意欲的な精神であると認識したのである。これが教義的な概念に集約されて「仏種」という概念を生む。

冒頭にも引用した添、日蓮が晩年述懐した文章のなかに「比の度いかにもして仏種をもうえ、仏にならん」という言葉がある。この一行だけでもうかがえるように、日蓮は仏法に入って道を求むることは仏種を植えることと、幼少の頃から理解し、それが生涯を貫く初一念となった。宗教者として、その人の出発的契機は、その教義的思想構成を考えるうえに重要な意義をもつ。日蓮が幼少時から仏種をうえようと念願したことは、死に至るまで変わるものではなかったと思われる。生涯を飾った波欄万丈の生活は、すべて「仏種をもうえ、仏にならん」最大の条件だったのである。したがって、思想・信仰が円熟し、教義的構成が試みられるに至ったとき、この仏種の観念は見事に結実して教義概念の重要契機となった。すなわち、少年時代に情意的に求められたある漠然としたものは、仏法の真実を体験的に身証し得たとき、それは『法華経』の、また釈尊の心髄的なもの、換言すれば、仏教における因果の概念によって表現される種子の世界の根源的なものとして知的に把握されたのである。そしてこのことは同時に、末法の謗法の人びどに対する仏法の必然のつなぎとして意識されている。あるいはこれは、日蓮自身における末法の仏法滅尽という時代意識が、逆に『法華経』の仏種という観念を形成せしめた、といったほうが正しいかも知れない。

とにかく日蓮の教義における教の概念は複雑で、『法華経』と釈尊とが相互に否定しあいつつ矛盾的自己同一的に実現しあう世界を教の概念で規定し、それを象徴的にまた具象的に「南無妙法蓮華経」とか「本門寿重品の珠」とか「仏種」とか表現しているのである。そして、この教が直接かかわりをもつ人間(機)と、その人間が要素となって形成していく歴史的世界(時)と、その歴史的世界の形成されていく場所(国)との宗教的な有機的関連、さらにこの宗教的な有機的関連の必然性を認識し、その形成の担い手となる「法華経の行者」を「師」と規定している。この教・機・時・国・師の五項の教義は「五義の法門」といって、日蓮教義の綱格となるものである。

これを要するに、「南無妙法蓮華経」とか「仏種」とか呼ばれる日蓮の教義における根源的なものは、「寿量品の玉」ともいい表わされているように、その発想の源を如来量品においている。これはさきも述べたように、天台の法華経観の逆をいくもので、日蓮は、宗教における内面的教理論の根底を第十六章寿量品に求め、それと第十五章の涌出品、さらに第十七章の分別品を中心にして前後に展開する十章の説示に外面的実践理論の根拠を求めた。すなわち、「五義」の中心となる教は寿量品から導出され、教の有機的属性たる機・時・国・師は、迹門の流通段といわれる法師・宝塔・提婆・勧持・安楽行の五章と、本門の流通段といわれる随喜功徳・法師功徳・不経・神力・属累の五章とを発想の根拠としている。つまり、本門の本論(正宗設)たる寿量品(涌出品と分別功徳品とは寿量という概念に包摂されている)に信の教・信の行・信の証を、そして他の十章にそれと人間的・歴史的・社会的かかわりの原理を求めて構成された教義が、日蓮の独特な教理である。したがって、日蓮ほど仏教の担い手と歴史との関連に対し、敏感にかつ厳粛に考察を向けた仏教者はなかった。ここに日蓮の宗教の特色があるといえるであろう。

   

宗教と倫理の融合  

宗教が単なる倫理ではなく、倫理がまた宗教でないことは常識である。いうまでもなく、宗教は倫理と次元を異にするからである。宗教は人間性の本質にある霊性から生まれるもので、宗教から倫理を志向し得ても、倫理から宗教を志向することはできない。したがって、倫理の世界に背理は許されないが、宗教の立場には、ときに背理を敢えてする超倫理の立場があり得るのである。すなわち『報恩抄』の冒頭で、日蓮が「出離の道をわきまえざらんほどは、父母・師匠等の心に随うべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはずれ冥にも叶うまじとおもう」といっているのは、その例である。これは倫理の立場では明らかに理に背き、許し得ない行為でも、それが一切のものを救う大道に通ずるものである限り、いわゆる(宗教哲学的立場での)神の名において許されるというごとき意義からいい得るのである。しかし、宗教といえども敢えて倫理を否定し、背理に赴こうとするものではない。むしろ、宗教は背後にあって倫理を強力に推し進める働きさえもっている。いわゆる神の指向に従って、そこに殉ずるというごとき意義から、それが普通の倫理者になし得ない行動をも敢行せしめる力をもつのである。日蓮の、一見強烈に見える行動は、すべて『法華経』の名のもとになし遂げられたものである。道元を非情のモラリストと呼んだ学者がいるが、そういう意味からは、日蓮は情熱のモラリストであろう。

そこで、日蓮の宗教における倫理との融合を考えてみたい。周知のように、日蓮は儒教的教養を多分にもっていた。日蓮の代表的著述の一篇である『開目抄』の冒頭には、「それ一切衆生の尊敬すべき者三あり、いわゆる主・師・親これなり。また習字すべき物三あり、いわゆる儒・外・内これなり」と提唱している。そして論述が進むにつれて、ある文脈ではきわめて孝を強調し、「孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。また孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何に況んや仏法を学せん人、如恩報恩なかるべしや」と論じている。

日蓮は、ある意味では、きわめて常識的なモラリストである。この日蓮のモラルは、ただに仏教からきたとか儒教からきたというものではないようである。わたくしは、これは日蓮の資質にもとづくものと思う。かれが出家の動機を語ったなかに、「本より学文し候し事は、仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う」(『佐渡御堪気抄』)という言葉がある。これは偽らぬ日蓮の気持ちを語ったもので、仏教だから、儒教だからというものでなく、天性的発言と見なければなるまい、「恩ある人」とは父母.兄弟・師匠であり、一切衆生である。「仏教をきわめて仏にな」ることは、己れのためであるとともに他のためでもあった。自利は利他であり、利他は自利であった。ここに日蓮における仏教の根本義はあったのである。これは、きわめてモラリスティックである。『開目抄』の冒頭で習字すべきものとして儒外内の三道を挙げたのも、当然といわねばならない。しかし、人間の生死観には過去と現在と未来とがある。現在のみのモラルでは、未来の父母を救う道はなかった。これ『開目抄』に「而りといえども、過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり」と儒教を批判し、さらに「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過・未をしれども、父 母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ」と、外道とともにこれを斥ける所以があったのである。

故知辻博士も指摘したように、日蓮の生涯を一貫した報恩の理念は、献身の道徳であり慈悲の道徳であった。しかし、この報恩のまえには、その「恩」の意義を知る「知恩」の立場がなければならぬ。すなわち、報恩は必ず知恩を前提としている。さきに引用した『佐渡御勘気抄』の語からみると、「学文」の目的は「仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う」ことにあった。その目的・動機は単に知識のためのみでなく、最初から報恩にあったようである。しかし、恩意識は儒教的意義をもつものであることは推察に難くない。ただ、日蓮のいう学文の対象が「仏教」であり、目的が「仏種をうえ」ることにあるとすれば、儒教的報恩意識はやがて次元を超え、「恩ある人」の三世を救おうという高次元世界へ高められていくのである。いい換えれば、日蓮の報恩の理念は最初、世間的常識から出発したが、法華経的世界の人となることによって深化したと考えられるのである。これ、後年の『開目抄』に「仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をほうずべし」と強調した所以である。以上は、日蓮の倫理における学問と報恩との関係である。

つぎに、日蓮には開宗報恩という特殊な報恩観があった。これは「日蓮と時代的背景」の節でも簡単に触れたとおり、信仰が確立しこれを告白しようとするにあって、故郷の清澄を選んだ理由に、虚空蔵菩薩の御恩と師道善房の恩に報いようとの意図があったことである。これは『法華経』を知る(これを日蓮は「知教」といった)という感激法悦と利生訓導の知恩とが、人格的特性において融合したものである。知恩意識の深さは、知教の自覚という人格的自覚の深さと正比例する。道義的義理からくる通り一遍的な恩意識は、それに報いる行為が終わると忘れ去ることが多いであろう。だが、知教につながる知恩の意識は、永劫に消えることがないのである。それは報恩なお未報恩という意識に支えられているためで、「報恩をほうずべし」と強烈に志向されてくるからである。この知教と知恩とが表裏関係を保つことについては、『千日尼御前御返事』の左の一節がよくこれを語っている。

しかるに、日蓮はうけがたくして人身をうけ、値いがたくして仏法に値い奉る。一切の仏法の中に、法華経に値いまいらせて侯。その恩徳をおもえば、父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩なり。

さらに日蓮の報恩の実践として、国諌報恩という特異な一ケースがある。日蓮はみずから『撰時抄』のなかで、「余に三度のこうみょう(高名)あり」といって、(1)文応元年7月16日『立正安国論』を最明寺時頼に奏進、(2)文永八年9月十12日平左衛門尉頼綱に諌言、(3)文永11年4月8日柳営諫言を挙げて自己の誇りとし、「この三の大事は日蓮が申したるにはあらず。ただ、ひとえに釈迦如来の御神我身に入りかわ(ら)せ給いげるにや。我身ながらも悦び身にあまる」と述懐している。この三度にわたる国家諌言は、いったい何を意味していたであろうか。権門権勢に近づくことを潔しとしない仏者は多い。道元のごときは、その典型である。しかし、日蓮が北条時頼の近臣宿屋禅門を尋ねたり、直接時頼との対面を遂げたりしたことは、道元らが嫌った意味での権門への接近ではなかった。仏法は王法に付属されるという涅槃経』の説示にも影響されたであろうが、「予、少量たりといえども、かたじけなくも大乗を学す。蒼蝿、驥尾に付して万里を渡り、碧羅、松頭に懸かりて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて、諸経の王に事う。何ぞ仏法の衰微を見て心情の愛惜を起こさざらんや」(『立正安国論』)という切実な一行こそ、日蓮の真実を告白したものであり、黙止し得ぬ報恩行であったと見なければならない。ここに日蓮の仏者としてのモラルがうかがえる。「仏法の衰微」は国の危殆を招く、仏法の邪正こそ政治の姿勢を左右する――これが日蓮の認識だった。ゆえに、さきにも引いた『安国論御勘由来』の「これひとえに国土の恩を報ぜんがためなり」は、端的にその心情を吐いたものといえよう。す狂わち、「日蓮、生をこの土に得たり。豊、この国を思わざらんや」というのが、日蓮の国諌報恩の観念だったのである。

元来、自己否定を本質とする宗教は、絶対他者たる神によって措定された自己に生きるものである。日蓮の場合ならば、『法華経』によって措定された自己に生きることの拡大し、強化されることによって、より行者たり得たのである。その場合、『法華経』による措定は、受難を媒介とするより他に道はない。すなわち、「一切世間」の「多怨」(いずれも安楽行品の句)という媒介なしにh、現実的には『法華経』による措定ということはあり得なかったのである。それはすべてが『法華経』によって光被せられた世界であって、自己は今そのなかにもっとも純粋な自己として、あるいは自覚的な自己として、描かれたのであるということになるのである。つまり、逆説的にいい換えれば、謗法という世界にあって、初めて自己は行者と措定されるということである。これは矛盾であるか、このような矛盾的自己同一の場にして宗教が倫理に、倫理が宗教にと現実的に白已実現を遂げるのである。ここに日蓮のいう「大いなる悦び」と「大なる歎き」(『四恩抄』)がある。この悦びから「知恩」が生まれ、歎きから「報恩」が生まれる。そして、この体験の積み重ねによって、日蓮はますます自覚を深め、仏教の極点である「証」という世界を信認するに至るのである。それは佐渡で書いた『開目抄』と『観心本尊抄』とによってうかがうことができる。

いったい『法華経』という経典は、受容者を自己のなかに溶解してしまおうとする性格をもっているように思われる。『無量寿経』の方は受容者のなかに溶け込もうとしているが、『法華経』はその反対である。これが日蓮と親鸞という二大偉人によって見事な典型を示したといえる。親鸞の信は他力の信というが、それは『無量寿経』の精神が親鸞の個性のなかに溶け込んだもので、親鸞のいう他力は、立場を換えればきわめて親鸞的・白力的なものである。これに反し、日蓮のいう『法華経』は、きわめて日蓮的であり、個性的であるように見えるが、じつは、日蓮は『法華経』のなかでしか生きていないのであり、他力的に法華経』において死んでいるのである。両者の宗教的人間的性格の差を示す例がある。きわめて寛容に見える親鸞に善鸞を勘当する厳しさがあるのに対し、日蓮は、たとい背信行為があった弟子(三位房・大進房等)でさえもこれを追及していない。一見、排他的とみられる日蓮に、そんな寛容さがあろうとは、人は意外に思うであろう。たとい謗法的行為であっても、日蓮には弟子を勘当する非情がなし得なかったのである。日蓮は法然の謗法は責めても、法然の人は責めていない。こういう心情が、『本尊抄』擱筆後一カ月余を経た『顕仏未来記』に「願わくば我を損せる国主等を最初にこれを導かん」といわしめたのであろう。これをわたくしは、かって「得証報恩」と呼んだ(拙著、観心本尊抄研究序説))。得証報恩とは熟さない一言葉だが、「仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う」とは、まさにこの意味にほかならないであろう。

このような日蓮における宗教と倫理との融合は、建治2年(1276)7月の『報恩抄』に至って見事な結実を示したのである。いうまでもなく、日蓮の思想的深度のピークは、『開目抄』『観心本尊抄』の二書に求めなければならない。が、その生涯を貫いた道徳意識である報恩が、宗教的人格完成の域において、自覚的に、また衿時的に表現され、ひとつの終止符を示したのは『報恩抄』である。しばしば言及したように、日蓮の出家求道の目的は仏道をきわめることであった。この出家者として誰にも当然の目的は、日蓮においては仏道をきわめるとは真に仏種を植えることであった。そしてそれは同時に、父母・兄弟・師匠・一切衆生の恩を報ずるという自利と利他とが一体のものであった。つまり、仏者となることは報恩者となることで、『報恩抄』にも引用されている「恩を棄てて無為に入るは真実報恩なる者なり」は、日蓮のモットーであったのである。こういう出発点は、日蓮の宗教をきわめて倫理的なものに性格づけた。最初の公の発言である『立正安国論』がすでに国民の苦を見るに忍びず、国恩に報ぜんとの悲壮な決意から出たものであったし、それにつづく受難生活は、報恩行の積み重ねにほかならなかったわけである。したがって、「孝」を強調し、『法華経』をもって仏教の「孝経」とまで規定した(『開目抄』)のである。

すなわち、仏教の教主釈尊がわれらの主・師・親である限り、仏子たるわれらにはこれに対する至順至孝が要請されてくる。それには肉体的にも精神的にも教主の全生命である『法華経』への絶対随順こそ、仏法における孝道でなければならぬ、というのが日蓮の宗教的倫理観であった。そして現世の倫理である儒教に未来の父母をたすける力のない限り、仏教における『法華経』の孝道こそ、高次の立場からの孝養父母であって、国恩への、一切衆生の恩への報恩もこれを根幹として出発する、というのが俗諦を真諦に包摂止揚した日蓮の倫理観であった。そしてまた、このような仏教把握を可能ならしめた、そもそもの根源は恩師道善房の恩沢といわねばならない。思いここに至れば、日蓮として当然、師に対する報恩の行為がすでになければならないであろう。『報恩抄』そのものについてここでは深く立ち入れないゆえに、ここで日蓮と道善房にからむひとつのエピソードを紹介しておこう。

文永元年(1264)11月14日、日蓮は安房の西条華房の僧房(蓮華寺か?)で、道善房と見参の機会を得た。これは思うにその11日、東条の松原の大路で東条景信の要撃を受け、傷ついた日蓮を見舞うため、清澄から裏間遣を抜けて華房へ下りたものらしい。この時、道善房は日蓮にこういう質問をしている。自分は智慧や学問もなく、人に招かれたいという望みもない。それに年老いて元気もないから、別に名ある念仏者に尋ねることもせず、世間にひろまっている信仰ということで、念仏を唱えているだけである。また、自分から思い立ったのではないが、縁があって、阿弥陀仏を五体まで造り奉ったことがある。こういうことも、みな過去の宿習だろうと思う。だが、この科によって地獄に堕ちるのだろうか

この質疑に対して、日蓮はどう答えたであろう。日蓮は、みずからこのときの心境をつぎのように述べている。

その時に日蓮は心の中で思った。別に仲違いをしているわけではないが、東条景信のことで師匠とは10余年もお会いしていない。外からは不和のように見られている。穏便な考え方に立ち、おだやかに答えることこそ師への礼儀だとは思ったが、生死の世界は老少不定である。二度と見参することはむずかしかろう。私は、この人の兄である道義房義尚にも、「無間地獄に堕つべき人」と申しておったのだが、臨終は思うようではなかったであろう。この恩師もまた、そうなるのではあるまいかと哀れに思えてきたので、思い切って答えた。「阿弥陀仏を五体お造りになったということは、五度無間地獄に堕ちたもうでありましょう。そのわけは、『法華経』には釈迦如来は我等の親父、阿弥陀仏は伯父とお説きになっています。その伯父を五体までもつくって供養なさりなから、親父を一体もお造りにならないとは、豈に、不孝の人ではありませぬか。反って山人・海人などの、東西も知らず一善も修せぬ者は罪浅い者でありましょう。当世の道心ある者が後世を願いましても、『法華経』や釈迦仏を打ち捨て、阿弥陀仏などを念々に申して捨てないということは、どういうことに相い成りましょう。外見には善人のごとく見えますけれども、親を捨てて他人につく失は免れようとは思えませぬ。一向悪人はまだ仏法に帰せず、釈迦仏を捨て奉るという失も見えませんから、あるいは縁あって信仰に入るときもございましょう。……」等と細々と語ったが、師は心得られぬというふうに見えた。傍におった者も心得られぬように思われたらしい。云云。

このエピソードは文永七年(1270)の作と伝えられる『善無畏三蔵抄』に見えるものである。この書は日蓮の遺文中、有名なもので疑わしい点はないが、文献学的には第一資料とするわけにはいかない。しかし、文永元年の秋、日蓮が故郷を訪れているのは事実であるから、地頭東条景信の勢力範囲から外れた西条の華房で、師弟が久しぶりに会見したということはあり得ることである。してみれば、称名念仏より余念のない道善房と、念仏は無間の業と破折している日蓮とのあいだに、このような会話が交わされたとしても不思議はない。

ここで興味のあることは、質疑のなかに見える道善の性格と、解答における日蓮の性格である。道善は正直に平凡な自己を表に出して、恐るおそる弟子にものを訊ねている。日蓮は弟子として「穏便の義」を考慮したが、「老少不定」の人間のことであるから、一期一会の気持ちで、率直に真実を語ろうとしている。両者に利鈍の差はあっても、仏者として真実をつかもうとしている心情は等しい。そこに読者をして邪気のないすがすがしさを感晋しめるものがあるのであろう。

ただひとつ、日蓮の教義を考察するうえで重要なことは、この弥陀信仰一辺倒の道善に対し、あくまで釈尊本尊の立場でこれを導こうとしていることである。この例は他の檀越に対しても同様で、かつて念仏者であった者には、いつも釈尊をもって正している。だが、真言者に対しては『法華経』の理をもって正すのがつねである。この『善無畏三蔵抄』は法兄の浄顕房・義城房が対象であるが、彼等は天台密教の学徒である。したがって、直接彼等を啓蒙するときには『法華経』の理をもってしている。すなわち、弘安元年(1278)9月、浄顕房に与えた『本尊間答抄』はその好例である。しかるに『報恩抄』は浄顕・義城に与えたものでも、呼びかけている対象は恩師遣善の精霊である。ゆえに終始、釈尊本尊をもって教導している点は、この『善無畏三蔵抄』と同数である。これは日蓮の教義を考察するにあたり、重要なポイソトになるものであろう。そしてまた、『善無畏三蔵抄』の文献的価値を問題とするときの、大きな考証資料ともなるであろう。

以上のように、日蓮の宗教は報恩の道徳であり、報恩の道徳は献身の宗教であった。しかし、ここに日蓮の宗教が平俗なものと誤解される一因がある。すなわち、一片の倫理にすぎないと見るからである。宗教は倫理ではないが、世俗的次元を超えた倫理をもっている。国家権力にも抵抗し得るエネルギーはそこから生まれ、それが父母・六親・一切衆生救済の道にも通ずるところに日蓮の宗教がある。宗教経験の深奥は、のちの神学者や宗学者によっていろいろの解釈も試みられようが、それ自体は超倫理的倫理の体験にほかならないともいえよう。それをきわめて世俗的倫理の立場でものをいっているところに、「民の子」日蓮の特色、があったのである。

(1972年、玉川大学出版部刊『仏教教育宝典C法然・親鸞.日蓮集』)

 

 

 

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