私曲の蝙蝠(こうもり)論法たる「富士の立義」を破す

 

 

時局法義研鑚委員 山田亮道 

はじめに

 『論語』の述而(じゅつじ)篇の冒頭にある「述べて作らず、信じて古を好む」との言葉は、孔子が自らの学問の態度について、先人の学問を祖述するだけで、新たな創作をしないのは、古代を信じ、かつ愛好するからであると晩年になって述懐されたものであると言われる。

 この文を、日寛上人は『法華取要抄文段』において、さらに深い意味から取り上げられている。すなわち
「論語第四初に云く『子日く、述べて作らず、信じて古を好む』。註に云く『述は旧を伝うるのみ。作は則ち創始なり。故に作は聖人に非ずんば能わず。而して述は則ち賢者も及ぶべし。孔子は皆先王の古を伝う、末だ嘗て作る所有らざるなり。其の事は述と雖も、而も功は則ち作に倍せり。知らずんばある可からず』已上。

 蓮祖もまた爾なり。皆久遠名字の妙法、塔中付嘱の要法を伝う。豈先王の古を伝うるに非ずや。故に『日蓮之を述ぶ』というなり」(文段集553)

との仰せがそれである。

 徒に新奇を好み、前人未踏の分野のみを追いかけたり、反対に、先人の跡を安易に踏襲するだけの凡庸の学者とは違い、古を学び尽くし、その法制・伝統を知り早くした上で、それを時代に適応・展開させながら人倫の道を縦横無尽、に説き出した孔子と、宗祖日蓮大聖人とがどのように結びつき、「蓮祖もまた爾なり」と仰せられたのか、その深意のほどは凡愚の私にはとうてい計り知ることはできないにしても、この文からは、私なりに多くの示唆を感ずることができたような気がするのである。

 

 

蝙蝠論法について

 先回(当誌7月号)も取り上げた『正信会報』第26号に所載の3者の論文を一読して感じたことを重ねていえば、これは蝙蝠のような論法ではないかということであった。

 それとは『妙密上人御消息』に

「例せば外道は仏経をよめども外道と同じ・蝙蝠が昼を夜と見るが如し」(全集1239)

と仰せられていることに、まさに符合するからである。彼等にかかると、御歴代上人の御指南のいくつかは、彼等の最も得意とする二重構造の邪義に見えてしまうらしい。

 その二重構造とは、宗旨分と宗教分、内証・己心と外相、流転門と還減門などと名付けた二つのものに立て分け、使い分けることであり、その二つのものの中で、より重要な一方を等閑にする現宗門の在り方は、教義の解釈においても、布教・教化の活動面においても、富士の立義に全く違背していると言うのである。

 そして、その見方を正しいと信じているかぎり、蝙蝠が昼を夜と見るが如く、正邪を顛倒して現宗門を誹毀讒謗する彼等の言動は止むべくもないであろう。

 したがって、具体的な破折に入る前に、彼等が何故にかくなる誤りに陥ることになったかの経緯について一考してみたい。

 本宗においては、聖滅七百余年の今日に至るまで、二祖日興上人の

「富士の立義柳も先師の御弘通に違せざる事」(同1617)

との御遺誡の精神を宗是として、大聖人の仏法は血脈付法の御歴代上人によって厳正に護り伝えられている。しかし法を弘める上においては、根本の元意・本義をいささかも変ずることなく、その時代、時代に応じての必要から、時世に適応するさまざまな形で、大聖人の仏法の法義・法門を表現・展開された御歴代上人がおられたことは、近年しばしば、日顕上人が御指南あそばされているところであり、そのことはまた、はじめに挙げた『取要抄文段』の文においても、まことに明らかに示されていると拝されるのである。

 したがって、今日の宗門がいまだかってないほど多数の信徒を有するに至ったのは、世上のめまぐるしい変化に対応して、現実の社会や、個々の人々がかかえている諸問題に対して、正しい解決の方途を積極的に示す意味において、これまでのどの時代よりも、本宗の伝統法義・法門を現実のさまざまな面に応用・展開して、布教や指導を行ってきた僧俗一体の活動があったからであると言えよう。

 もちろんなかには、その現実に対する応用・展開を快く思わない批判的な僧侶や、そういう僧侶に不信感を抱く信徒達がおった、などの諸問題があったことはたしかである。そうして僧侶と信徒との間に昂(こう)じた、宗内の不協和に対して御先師日達上人は、一貫して本宗の信心の基本を逸して伝統法義の解釈をしたものや、行き過ぎた応用・展開をなしたものについて指摘され、その部分を改めなければ本宗の正しい信心の道から逸脱してしまう旨を御指南あそばされたのである。

 その間さまざまな経緯はあったにしろ、御法主上人に全て随順し奉るという信徒側の恭順な姿勢によって、この問題は日達上人によって一往、終止符が打たれたのである。

『生死一大事血脈抄』に

「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(同1337)

と仰せの御聖訓を戴くわが宗門にあって、その僧俗が互いに信じ合うことができず、しかも一時的・部分的ではあったにしろ、互いに批判し反目し合う時期があったということは、宗門にとってこれ以上の悲しみと不幸はなかったと言えるのではあるまいか。

 その責任の一端もしくは全ては、僧侶たる我々の側にもあると自覚し、反省の念を持っていた僧侶達にとっても、また何が何やらわからず戸惑っていた信徒達にとっても、日達上人の最終的な僧俗和合のための御指南は、どれほど有り難く受け止められたか知れない。

 不信や反目の要因を除去し、信じ合い協調する方向に進もうとする時に、いきがかりを捨て切れず、その流れに棹(さお)をさす者は、世間にあってもへそ曲り・愚か者と評されよう。まして、異体同心の御金言を常に忘れてならない宗門に身を処する者は、なおさらである。

 しかるに今、自ら正信会と称して悪口誹謗を重ねている輩でさえ、日達上人御遷化のころまでは、その最終的な御処置に対して、不満を抱きながらも渋々従っていたのは、時の御法主上人の御指南に随順する布教・教化の活動にこそ、その正しさがあることを認めざるを得なかったからである。

 それが一転して、御当代日顕上人の時に至り、彼等が今日の謗法集団に暴発して行くため、その理由づけとしたのは、初めは、同じ二重構造といってもより単純なもので、御法主上人に随順するという恭順な姿勢そのものが建て前のポーズであり、本音・本心は別のところにあるとの邪推を信徒側に押しつけ、それにだまされないための活動であるとの口実をもうけて、ひそかに御法主上人の僧俗和合の御指南に逆らっていたのである。

 その後に台頭してきたのは、川澄勲の『阡陌渉記』にその原形が見られる、彼の独創による「大石寺法門」と称する、二重構造を持った邪説である。この川澄に影響された在勤教師会と自ら名乗るグループによって、それがさらに拡大解釈され、富士の立義の全てはその二重構造の意義を持つ法門・法義であるとの邪見を育てあげたのである。

 しかし本来の富士の立義には、本地内証と垂迹外用、文上と文底、付文と元意等の種脱の勝劣を判ずる法門があり、その勝劣法門の一切は、日寛上人によって完全に説き尽くされているのである。大聖人の仏法では何故この勝劣を厳しく判ずるかと言えば、勝は劣を兼ねるが、劣は勝を兼ねないとの意味から、比べる二つのもののうち、いずれが勝れ、いずれが劣るかを正しく知らなければ法門・法義に迷うからである。

 彼等の邪説は、この種脱の勝劣法門に形を似せているが、その内容は全く異なり、種脱を判ずるものではなく、大聖人の下種の法門・法義のことごとくを、宗教分と宗旨分、流転門と還滅門、内証・己心と外相などの二つに分断して、その一方を根本(勝)とし、他の一方を枝葉(劣)として勝劣を論じたものであり、その論法をもってすれば、現宗門はすべてにおいて勝を捨てて劣を取っており、富士の立義から遠くはずれているということになるらしいのである。

 自称正信会(自称在勤教師会をも含む)は、こうして現宗門の在り方を否定し批難するために、にわかに創り出した川澄の偽の大石寺法門・蝙蝠論法を時を得たりと取り出して、それを富士の立義と称し遮二無二、現宗門のすべての在り方に当てはめ、批難を始めたにすぎない。

 以上はきわめて大雑把なとらえ方であり、多くの疎漏(そろう)があることは当然としても、個々の問題を論破する前に、彼等の邪説がいかなる構造をもち、何を目的としたものであるかについて、その経緯を通し私なりに考察を加えたものである。

 

 

池田令道の研究ノートについて

 池田令道の研究ノートは「当局教学の破折と富士の立義に関する一考察」というもので、これも大黒喜道と同じく昨年の教師講習会における日顕上人の御指南に対して、主に反論を書いたつもりらしく、随所にその反発の感情を露骨にむき出している。

 当誌7月号に掲載させていただいた拙文の最後にも少しふれたように、池田令道の結論のもっていき方は、論者の常道をわきまえない、ただの乱暴者のすることだと言ったのは、加えて次のようなこともあるからである。

 彼のノートでは、(4)本仏論と題したもののなかに

「ここにおいては、すでに元初自受用身は一行も触れられず、ただ俗身の宗祖と板曼荼羅の人法一箇のみが語られている。しかし寛師がいわれている『法即人』『人即法』『自受用身即一念三千』は文字通り、元初自受用身と事の一念三千の辺における人法体一である(中略)元初自受用身と久遠名字妙法に勝劣なきを言った要語である」

というものがある。「ここにおいて」とは日顕上人の御指南を指したものであるが、「俗身の宗祖と板曼荼羅」などという表現を猊下がなされたわけではないことはともかくとして、このように「俗身の宗祖と板曼荼羅」は人法一箇ではないのに、それだけの人法一箇を語るのが現宗門であると決めつけ、日寛上人がいわれているのはそうではなくして「元初自受用身と久遠名字妙法」の人法体一のことであると、蝙蝠論法の用語こそは使っていないが、意味においては得意の二重構造の使い分けを用いていることに変わりはない。

 しかしながら、昼を夜と見る蝙蝠ならばいざ知らず、日寛上人の『撰時抄愚記』には

「凡そ末法下種の正体とは久遠名字の妙法、事の一念三千なり。これ則ち文底甚深の大事、蓮祖弘通の最要なり(乃至)当に知るべし、正境とは本門戒壇の本尊の御事なり(乃至)久遠名字の妙法、事の一念三千、何ぞ外にこれを求めんや」(文段集228)

と仰せられ、本門戒壇の大御本尊と久遠名字の妙法、事の一念三千とは全く一なることを示されているのである。しかもまた『取要抄文段』には

「『無作三身の宝号』等とは、久遠名字の釈尊の宝号をも南無妙法蓮華経というなり(乃至)また蓮祖聖人の宝号をも南無妙法蓮華経というなり(乃至)『事の三大事』とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ちこれ人法体一の本門の本尊なり」(同571)

とも仰せられ、久遠名字の釈尊(久遠元初自受用身)と蓮祖聖人の宝号をともに南無妙法蓮華経といい、その南無妙法蓮華経とは、人法体一の本門の本尊の御事なることを明かされているのである。

 故に、この両文は彼の二重構造の邪論を粉砕してあまりあるものであろう。かくの如く、池田令道のノート中に随処に記されている「寛師はいわれている」とか「寛師は言われていない」とかいう彼の断言ほど、当てにならないものはない。それでいて他をこきおろすことにだけは急であるという意味でも「乱暴者」というべきであろう。

 

 

「中央の本尊」の文について

「中央の本尊」の文とは、彼のノート(3)本尊論に

「師弟一箇がそのまま戒壇本尊に顕われた、と伝えるのが富士の法門であり云云」

と訳のわからないことを言っているが、そのための依文としている、房州日要の『富士門流草案』の中にある「教相観心の事」に対する日寛上人の破折の文、すなわち

「種家ノ本因本果卜者、本果ハ即是蓮祖上人本因即開山上人師弟冥合則事ノ一念三千也其ノ事ノ一念三千卜者中央ノ本尊是ナリ」(研教9−766)

と『当体義抄文段』の

「種家の本因・本果・本国土、三妙合論の事の一念三千にして、即ちこれ中央の本門の本尊なり」(文段集666)

との両文の中で仰せられているものである。これは昨年の教師講習会の折、日顕上人によって

「彼等が師弟一箇だと言いたいのは、内証が中心だということを言いたいがためであります。しかしながら、戒壇の御本尊は御内証だけの御本尊ではなく、御内証即御化導の上の究竟の御本尊であり、そのように拝さなければならないのであります」(当誌58年10月号68)

等々と、完膚なきまでに破折せられたことに対し、一往反発の姿勢を示したものであろうが、せっかく引用したこの両文を解することができず、

「日蓮・日興師弟冥合、中央の本尊とは一体何を指すのか(中略)この種が家の三妙合論、中央の本門本尊も当家の本尊を示したものにならないのであろうか」

と、苦慮しながらも、強引に「私達は素直に先の文を当家の本尊、則ち戒壇本尊を示したものであると拝している」と結論づけているのである。そしてさらに、同意の文として三十五世日穏上人の『三重の境智の事』の

「爾れば畢竟境母の法身日興は左に居し、智父の報身日蓮は右に居し、境智冥合する時中央は則ち本尊曼荼羅なり」

の文、および三十九世日純上人の『衣証事記』に示されている

「境母法身ノ日興左ニ居シ智父報身ノ日蓮右ニシテ境智冥合スル時中央ノ大曼荼羅也」(研教30巻35)

との両文を挙げ、何とか彼等が主張する師弟一箇のこれが依文ではないかと言いたいらしいのである。しかし、それほど確信があるわけではなく

「これらが、当家の戒壇本尊に縁もゆかりもないものであれば、穏師や純師は一体何れの『本尊曼荼羅』『中央の大曼荼羅』について説明を試みたものなのであろうか」

と、やはり彼は、間違いは間違いなりにも明確に解釈できないまま、結論だけは大上段に構え、

「先にあげた寛師・穏師・純師の御文は、有師の聞書にあらわされたものを忠実且つ明確に敷衍している。阿部師のように、相伝を承けたといいながら、戒壇の本尊の意義を根本から否定するような愚かなことはなされない」

と、不遜きわまる悪言をもって、日顕上人を謗ることだけは忘れていない。しかしこれは「窮猿、林に投じて木を択ぶに暇有らず(追いつめられた猿が林に逃げ込むとき、木の良し悪しを選んでいる暇はない)」との俚諺の如く、三上人の御指南はかえってむしろ、彼のこうした邪論を打ち砕くための正しい解答を示されていると拝されるのである。

 すなわち、彼はこれらが(三上人の御指南が)当家の戒壇本尊(師弟一箇)をあらわしたものでないとすれば、何を意味するか等と、処々において疑問をなげかけている。したがって、逆に三上人の御指南をもって、これらの御指南が戒壇本尊(師弟一箇)をあらわしたものでないことを証すれば、彼の邪論は一挙にその根拠を失い瓦解してしまう以外にないであろう。

 故にまず、彼のなげかけた疑問について愚考してみたい。

 『富士門流草案』に対する日寛上人の文は、そこだけが引かれており、説明はないが、『三重の境智の事』および『衣証事記』には全く同趣の法門が示されている。すなわち『衣証事記』には

「重テ問テ云ク、当門ノ三幅一対ノ所表如何」(研教30卷34)

とあり、以下はその「三幅一対」すなわち中央に御本尊、御本尊の右に日蓮大聖人、左に日興上人の御尊影(像)を安置する、三宝一対の奉安形式について、その謂れを示されたものと拝されるのである。故に同記に

「三幅一対ノ相承各別トテ之無シト雖モ観心本尊並ニ御内証大切ノ御書判(ノ)深意ヲ伺ヒ奉ルニ中央南無妙法蓮華経ノ左右ニ釈迦多宝卜遊ス事一往文上在世ノ様二見ユレドモ左ニ非ズ忝クモ末法ノ釈迦トハ日蓮大聖人多宝ハ日興也題目トハ則事行ノ本尊也所謂十界互具人法一箇ノ題目也」(同34)

とお示しの御指南は「一往文上の様に見ゆれども左に非ず」と仰せの如く、御本尊の相貌を末法の観心に約して示されたものと拝せられ、次の

「境母法身ノ日興左ニ居シ智父報身ノ日蓮右ニシテ境智冥合スル時中央ノ大漫荼羅也」(同35)

との仰せは、左右を明示し、また「中央南無妙法蓮華経」が「中央の大漫荼羅」と変わっていることからして、三幅一対の奉安は境智の妙法を事相にあらわしたものであることを示されたと拝せられるのである。

 このことは、遡って二十五世日宥上人が、日蓮大聖人と開山上人の木像を造立する所以について『日蓮二字沙汰』の中に

「祖師ノ己心十界ノ大マンダラ本因名字本有ノ形ヲ事相ニ造ル時祖師ハ智父、開山ハ境母ノ口決也」(歴全3ー408)

と示されていることによっても明らかである。

 故に『三重の境智の事』『衣証事記』の二文は、事の一念三千・境智の妙法(中央の本尊)を、事相をもって左右に日蓮大聖人、日興上人を安置して境智の二法を表す所以を示されたものと拝するのである。

 日寛上人は、このことを『観心本尊抄文段』に「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」(全集二四七)の御文を釈された中に

「是れ能表を以て所表を顕し、『塔中の妙法蓮華経』というなり」(文段集500)

と仰せられている。すなわち左右の釈迦牟尼仏・多宝仏の境智の二法は能表、冥合一体なるを表す中央の妙法蓮華経は所表、能表は而二、所表は不二を表すところが、難思境智の妙法である。

 したがって『富士門流草案』に対する日寛上人の文と『当体義抄文段』の文は、天台大師の『法華文句』に

「境と智と和合すれば則ち因果有り、境を照して未だ窮らざるを因と名づく、源を尽すを果と為す」(国訳文句414)

とあるが如く、事の一念三千・境智の妙法を、本因・本果・本国土の二妙及び三妙に約して示されたものと拝せられるのである。

 故に彼が苦慮せる「師弟冥合」「種家の三妙合論」「中央の本尊」の文は、能表・所表に約せば本果妙の日蓮大聖人、本因妙の日興上人は、師弟・因果・境智のいずれに約しても能表であり、その二法が冥合して一体なるところは所表にして、事の一念三千・中央の本尊となるのである。

 しかるに、彼の如く「師弟冥合・中央の本尊」の文が不二の一辺をあらわす所表たることを知らず、能表而二の本因妙・本果妙の文を消して、所表の一辺のみを立て、「師弟一箇」と呼ぶことは、難思境智の妙法の立義ではないのである。この一事をもっても、彼の論義は私曲の富士の立義以外の何物でもないことが知れよう。

 しかして『当流行事抄』の

「起信論に云わく、一には根本を信じ、二には仏宝を信じ、三には法宝を信じ、四には僧宝を信ず已上取意。初めの一は総じて明かし、後の三は別して明かすなり。初めの一は総じて明かすとは総じて久遠元初の三宝を信ずることを明かすなり。血脈抄に云わく、久遠元初の自受用報身無作本有の妙法。又云わく、久遠元初の結要付嘱と云云。自受用身は即ち是れ仏宝なり、無作本有の妙法は法宝なり、結要付嘱豈僧宝に非ずや。久遠元初は仏法の根本なり、故に根本を信ずと云うなり。後の三は別して明かすとは久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益し給う」(学林版323)

との仰せを拝し、さらに前項において既に論じたように、本門戒壇の大御本尊はすなわち久遠元初自受用報身無作本有の妙法の御当体であらせらるれば、本門戒壇の大御本尊は、初一総明の久遠元初の根本、総体三宝に当たり、三幅一対の事相は後三別明の別体三宝を表したものであると拝されるのである。

しかれば『本尊抄文段』に

「問う、当門流に於ては総体・別体の名目、これを立つべからざるや。答う、若しその名を借りて以てその義を明かさば、本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり」(文段集501)

と仰せられているのである。

 故に、彼の言うが如く、三上人の御指南は本門戒壇の大御本尊をあらわした文でないことは明らかであり、また重ねて言うまでもなく「師弟一箇」をあらわしたものでもないのである。

 たとえ文に仏界の境智に約し「末法の釈迦とは日蓮大聖人、多宝は日興也」と仰せられていても、『報恩抄文段』に

「今謂く、月氏の風俗は定めてこれ右勝左劣なり。故に左右を以て上下と為す。謂く、宝塔既にこれ西向なり。故に北はこれ右勝なり、故に上座と為す。南はこれ左劣なり、故に下座と為すなり」(同384)

との仰せ、および『妙法曼陀羅供養見聞筆記』の

「況やこの法華経・日蓮上人は、三世十方の諸仏の智父・境母なり、三世諸仏の御魂魄なり」(同738)

とのお示しを拝せば、勝は劣を兼ねることは明らかであり、第二祖日興上人の智徳尊容・唯仏与仏にして、凡下の我々とははるかに遠く隔たるとも、日蓮大聖人に望めばなお勝劣のあることは、既に両文に明らかである。

 たとえ彼と彼等が、いかに勝劣が無いのは現実世界の所談ではなく、法門世界における所談と、蝙蝠論法をもって欺瞞し、一箇の平等を立てようとも、それは富士の立義ではない。そしてさらに『文句記』の

「豈伽耶を離れて別に常寂を求めん寂光の外・別に裟婆有るに非ず」(全集1506)

との正説を覆すことはできまい。

 現実への対応・展開のみを正しいと言っているのではなく、末法唯一の正しい信仰と、法門・法義を持てる宗門の僧俗であればこそ、随力弘通をもって、むしろ現実への積極的な村応・展開を進めながら、迷妄の人々を覚醒し、末法唯一の正法に導き、かつ教化していかなければならないのである。

 その信心の活力を失わしめることなく、しかも行き過ぎを制せられた正師の深意を知らず、反逆して、見当違いも甚だしい悪口謗法を重ねる輩が、たとえ正しく富士の立義を論じたとしても何になろう。まして偏見と誤謬に満ちたニセの富士の立義では、本来ならば取り上げるほどの値打ちもないものであろう。

 

 

むすび

 この他に、彼の研究ノートには30数ページにわたってさまざまなことが書かれている。その一つひとつを取り上げて対破するとなれば、その数倍のページが必要となろう。“そのようなことは不可能だ、無駄だ”というより“所詮、その根底になっている共通の誤りはそれほどあるものではない”という考えのもとに、これは書かせていただいたものである。

 浅学菲才の故に、長々と書いても対破の切れ味も悪く、正義を示す点でもおぼろで適切さを欠いていることを自らよく知りながらも拙文を書こうとするのは、次々に出てくる謂れのない誹謗や、一人よがりの正義論を見過ごすことはできないからである。