阡陌渉記の題名および「明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る」の独断解釈を破す

 

 

時局法義研鑚委員 山田亮道 

 

 

昨年までに、狂った異説を構え誹毀讒謗を重ねてきた徒輩に対して最終の処分が下され、それらの迷僧・邪僧は宗内から一掃された。

しかるに、今でも盛んに彼等は、本宗の伝統法義に異をとなえ誹謗を重ねながら、かえって彼等の言い分こそ本宗伝統の法義だといっているのは、そのほとんどが川澄勲の珍説を基にしたものであり、『阡陌渉記』にある独断解釈を敷衍したものである。

よって、川澄がいかに珍無類の独特の解釈によって阡陌渉記を書いたかを述べ、その破折の一端にしたいと思うのである。

阡陌渉記の要点

同書の「序」に

「この小録を名付けて阡陌渉記とする。東西南北わたりあるきと訓むのであるが、実は四維上下を求めて渉記する意を含めている。東西南北は仏の領する所、四維上下の一隅は上行菩薩の知らす所の意、前者は在世正像末の末法、後者を滅後末法の意を含めることにする(中略)この中から何か新しく、而も古い富士の伝統に立った法門を考え出してもらいたい」

といっている。この川澄流の解釈を図に示せば

@仏 ―― 東西南北 ―― 在世正像末の末法

A上行―― 四維上下 ―― 滅後末法

となる。「この中から何か新しく、而も古い富士の伝統に立った法門を考え出してもらいたい」といっているというこ逆にいえば、古来からの富士法門に依りながら、それよりも勝れた新しい法義を作り出して、古来からの富士法門を劣とし、新しくて古い新義を勝とする、勝劣の法門を発明することに阡陌渉記の目的がある、といえるのである。

したがって、川澄が発明しようと思う勝劣法門を阡陌渉記全体からまとめ、上記の@とAに当てはめて相対すれば、 @の「仏」とは本果妙の仏を指し、「東西南北」は国土すなわち空間を意味し、「在世正像末の末法」とは順次に流れる時間であり、これは流転門、外用、宗教分、垂迹、右尊左卑のうえに本仏を見る法門で、師のみの法門、貴族仏教という意味らしいのである。

 Aの「上行」は本因妙の仏を指し、「四維上下」の一隅は、一隅に四維上下を摂尽する已心の仏国土すなわち超空間を意味し、「滅後末法」とは末法から逆次に在世および久遠を内証に感得する已心の時間を表わし、これを還滅門、内証、宗旨分、本地、左尊右卑のうえに本仏を見る法門で、師弟一箇の法門、民衆仏法と称し、@を現在の大石寺法門に無理やり当てはめ、Aは自分以外には読み取れなかった文段抄や六巻抄にある本来の大石寺法門である、というものである。しかして同じ頁に

「今各項目を断片として文字にしてみた」

というとおり、贅言を費しているが、結局のところ、この二種に勝劣を立てて本宗の法門を惑乱しようとする以外のなにものでもない。

したがって、次の「明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る」の項には

「宗祖に発迹顕本と受けとれる様な文証があるとしても、発迹顕本の刹那そのものについての文証などある筈がない(中略)そもそも宗祖が龍之口に於いて発迹顕本したと思うのは弟子の得分であり、これを師弟子の法門と云う(中略)法門の世界に於いては文証の介在する余地はない。あるのは感得だけである。感得は受持と同じ様な意味であり(中略)文の底に秘して沈めた法門を感得した時、そこに戒壇の本尊を感じ、本仏日蓮大聖人を見る事ができる(中略)而も師弟子の法門は文証の通用する流転門の世界ではない。唯仏与仏乃能究尽の還滅門の世界での話しである」

といっている。これを川澄流勝劣法門にまとめれば、1つは、宗祖に発迹顕本の文証があると思って文証の通用する流転門の世界に法門を見る者は、文の底に秘して沈めた法門を感得せず、したがって弟子には解らない師のみの法門となり、戒壇の本尊および本仏日蓮大聖人を見ることができない。この「戒壇の本尊」とは正本堂に御安置の大御本尊ではなく、己心に感得する戒壇の本尊という意味で使っている。

2つは、宗祖の発迹顕本を文証が介在する余地はないとみなし、発迹顕本と受け取れるような文証の、その文の底に秘し沈めた法門を感得することができることを還滅門の世界といって、師の法門を弟子が感得できる師弟子の法門といい、この弟子の感得あって初めて戒壇の本尊と本仏日蓮大聖人を見ることができる、というものである。

このように1と2を勝劣相対して、川澄独特の勝劣法門を生み出している。すなわち、“守文”の師のみの法門は流転門であって真の大石寺法門ではなく、“貴理”の師弟子の法門は還滅門であって真の大石寺法門である、と阡陌渉記に主張する様々な勝劣法門の根幹(もちろんでたらめだが)をなす大綱を示している。川澄のいう“守文の闇者”とは、日寛上人の六巻抄、文段抄の真意をくみ取れない歴代上人を含めた僧俗、特に現猊下を指している。そして“貴理の明者”は川澄本人であることは、次の「六巻抄と文段抄」に論じていることを読めば明らかである。

 

 阡陌渉記の珍名題を破す

“阡陌”の文は『止観』の第七に

「今別の位を明すに四門の異説種々に不同なり。阡陌経緯と雖も其の致一也」(仏教大系・摩訶止観4−540)

とあり、『弘決』にはこれを

「阡陌等とは、南北を阡と為し、東西を陌と為す。経は阡の如く、緯は陌の如し。四門は緯の如く、諸位は経の如し。門門位殊れども皆極果に至る。故に一と云ふ也」(同)

と釈されている。すなわち「阡陌経緯」とは、阡は竪に南北となし、経の不同による諸位に誓え、陌は横に東西となし、緯の不同すなわち四門の異なりに誓え、門々位の不同はあっても皆、成仏の極果に至るが故に一経一位を是とし、他を非として争うべきものではない故に一というのであると、その意味を述べられているのである。これは『法華経薬草喩品』の

「其の所説の法は、皆悉く一切智地に到らしむ」(開結279)

の意を阡陌経緯の譬えによって示されたものである。漢字では、阡陌は田間の道、あぜ道等をいい、東西を陌、南北を阡というが、転じて耕作地を意味する言葉となったのである。これを仏家では、衆生の心田に仏種を植えしめ生育する相に用いられ、法服袈裟の田相に表わしているのである。

 したがって『止観』に述べられている意味は、天台大師は像法・法華迹門の導師なるが故に、阡陌の田相に一代の教法を摂尽して、開権顕実の義をもって門々、位異なれども皆、一仏乗の極果に至ると、廃権入実の意をもって示されたものである。

 宗祖大聖人の御書には、この阡陌の言葉は使用されてないが(ただし日代の作といわれる『法華本門宗要抄』には使っている)、『一念三千法門』に

「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す」(全集416)

と、少しく田相の譬えを用いられている。もちろん、この御書の「法華経の行者」と「如説修行」に三重秘伝の義があり、権実、本迹、種脱の相対をもって依義判文すべきことは、日寛上人の『如説修行抄筆記』に

「純円・一実の法華経文。附文の辺は権実本迹なり。元意の辺は種脱本迹なり」(文段集764)

と述べられているとおりである。今は三重秘伝を述べる目的ではないので略すが、譬えを引用する場合は、必ずその譬える教法にふさわしいものを選ばなければならないものである。

 したがって、像法の天台大師がこの阡陌の譬えを用いられたのは“諸経諸門の異なり”とは三乗のことであり、三乗の差別が法華経に入れば一乗に開会され、ことごとく平等の成仏の極果に到達するとの意味からである。

 また大聖人が『一念三千法門』に用いられている「春夏田を作る」の譬えは、末法の時、下種の妙法を如説修行するもの、早、晩の上・中・下根の差別はあっても、下種の妙法経力によりことごとく平等に一生のうちに成仏する、との意味に使用されているのである。

 このように阡陌の譬えは、差別を開して平等に会す、すなわち開会の法門に用いるべきであって、川澄がいうような、本宗の伝統法義を流転門と還滅門、宗教分と宗旨分とかに分断し差別するための譬えとすることは、全く珍妙という以外にないのである。まして 「東西南北は仏の領する所、四維上下の一隅は上行菩薩の知らす所の意」とか、その依って立つ文も義もないでたらめな川澄の解釈は、『法華真言勝劣事』の

「此の義・論義の法に非ざる上仏の遺言に違背す慥に経文を出す可し若し経文無くんば義分無かる可し」(全集122)

との破折にそのまま当てはまるものである。

 しかも「前者は在世正像末の末法、後者を滅後末法の意を含める」との邪に邪を重ねる解釈は『星名五郎太郎殿御返事』の

「凡眼を以て定むべきにあらず浅智を以て明むべきにあらず、経文を以て眼とし仏智を以て先とせん(中略)其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ但愚者の行ひなり」(同1206)

との仰せそのままであり、凡眼凡智をもって本宗の法義を切り張りし、わけも解らず近き師たる血脈付法の御先師上人、御当代上人をいやしむ愚迷の怨嫉の徒輩に持ち上げられて、無文、無義の邪論をはく川澄が事に符合するものである。

 

「明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る」の愚釈を破す

 川澄は「宗祖に発迹顕本と受けとれる様な文証があるとしても、発迹顕本の刹那そのものについての文証などある筈がない」といっているが、川澄が深く読み取っていると自負してやまない、日寛上人の文段(開目抄)に

「一、子丑の時に頸はねられぬ文。当に知るべし、この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」(文段集192)

と述べられている。子丑の時は発迹顕本の刹那ではないなど、理屈はいくらでもつけられるが、日寛上人は「明文」と断定され、川澄は「文証などある筈がない」と断定している。いずれを取るべきかは、賢愚の異あるのみである。

 次に、川澄の明者、闇者の解釈は先に述べたように明者は自分とその弟子達と勝手に決め込んでいるように、阡陌渉記の内容も全く独断と偏見をもって勝劣を判じているのである。故に『法華取要抄』に

「夫れ諸宗の人師等或は旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず或は新訳の経論を見て旧訳を捨置き或は自宗の曲に執著して己義に随い愚見を注し止めて後代に之を加添す」(全集331)

と仰せあそばされる、その意に通ずるものである。

 川澄は、己の研究を自讃しているように、御歴代上人、特に日寛上人の著書に含蓄を傾けてはいるようである。しかし、それとても自己の曲解に執着し、己義に随って愚見を注し止めているだけであって、宗祖大聖人、御開山、中興二祖上人の御書および御教示を正しく知るためには、信の一字と、その信に基づく行と学とがなければならない。特に本宗の御法門は、信の一字によって血脈付法の御歴代上人、御先師、御当代上人が有する幅広く奥深い学解による御指南を拝してこそ、正しく把握できるものであると愚見するものである。

 川澄は、その根本の信がないうえに、山の如き慢心だけがあって自是毀他(自らを是とし他を毀る)の分別をもって曲解の自論を主張しているだけである。しかれば、同抄次下に

「株杭(くいぜ)に驚き騒ぎて兎獣(うさぎ)を尋ね求め智円扇に発して仰いで天月を見る非を捨て理を取るは智人なり@」(同)
と仰せられることと、また日寛上人の同抄の文段に、この御文を釈せられたところの

「今文の意に云く、株(くいぜ)に驚いて兎を求め、扇に依って月を見る。若し求めて兎を得ば則ち応に株を捨てて兎を取るべし。若し月を見ることを得ば則ち応に扇を捨てて月を見るべし。これはこれ智人なり。故に今、末師の株扇(しゅせん)を捨てて専ら本経の兎月を取るなり」(文段集559

との両文を拝すれば、我慢偏執の株扇に執していかに含蓄を傾けようとも、本宗の法義・法門たる兎月は決して得られるものではないと知らなくてはならない。故に同文段次下に

「然るに諸宗の族は、縦い兎を得るも仍株を守り、縦い月を見るも仍扇に執す。豈愚人に非ずや」(同)

との仰せの「諸宗の族」を、川澄が族に置きかえれば、そのままこの意に通ずるのである。

 しかして、この愚人に尊敬をはらう川澄が弟子の在勤教師会とやらが、川澄流勝劣法門をそのまま用いて書いた論文があるので、これを破して川澄が愚論を一層鮮明にしようと思う。

 

 宗教分、宗旨分の異解を破す

 彼等の異解・異説の論文は数多に及ぶが、尾林師等が本宗の伝統法義をもって論じた、宗務院発行の昭和五十六年二月の論文に対し「その稚説を破す」と題して論じているもののなかに

「宗旨・宗教の立分けは、先の寛師の御文の如く、宗旨分が根本であり、宗教分が枝葉であることは論をまたない」

とある。これは宗旨分を根本とし、宗教分は枝葉とする、宗旨本・宗教迹の立て分けである。また、次に彼等は

「宗旨分とは宗教分の裏付けであり、宗旨分のない宗教などはありえないからである。宗旨分は裏付けというぐらいだから、本来面には出て来ない。文上に対する文底、脱に対しての種のようなもので、当家深秘の法門には悉く宗旨宗教の立分けが有する」

と力んで断定している。これは、宗旨、宗教の勝劣は種脱相対に相当するもので、法華経の文底、文上の勝劣に等しい立て分けが、本宗の法門にはことごとくある、というものである。しかも彼等は「先の寛師の御文の如く」といって、まるでその根拠が日寛上人の文段にあるかのようにいっているが、我々が拝する日寛上人の文段には、全く正反対の仰せがあるのである。

 すなわち『法華取要抄私記』に

「さて本迹の沙汰は一往・再往ともに勝劣なり。総じて五重の勝劣あり。一には内外相対、二には大小相対、三には権実相対、四には本迹相対、五には種脱相対の法門なり。是くの如き重々の相対の上に下種の法を顕すなり。文底とはこれなり」(文段集800)

と仰せられており、総じては五重本迹勝劣のうえに、別しては種脱本迹勝劣のうえに下種の法すなわち本宗の文底の法門を顕わすと申されていて、彼等がいうような宗旨宗教本迹勝劣の文は更にないのである。

 もし彼等が主張するような立て分けがあるとすれば、総じて五重の勝劣ではなく六重の勝劣となり、別しては種脱相対のうえにではなく、旨教相対のうえに文底下種の法を顕わすのが本宗の法門ということになってしまうではないか。日寛上人の御文のなかのどこにそのような解釈があるかを明示してから「寛師の御文の如く」というべきである。無いのに有るかの如く断定して人を惑わすのは川澄の常套手段であり、彼等のかかる主張も、その弟子たる何よりの証左である。

 そして宗旨、宗教についての正しい解釈は、日寛上人が『報恩抄文段』に

「総じて蓮祖弘通の大綱は宗旨の三筒、宗教の五箇を出でざるなり。これを宗門八箇の法義と謂うなり。中に於て宗教の五箇はこれ能詮、宗旨の三箇は所詮なり。故に先ず須く宗教の五箇を了すべし云云」(文段集420)

と仰せられ、この八箇は文底独一本門の法義、大綱と判じられているのである。しかも『取要抄文段』には

「当に知るべし、久遠元初は但これ本門の一法にして、更に迹として論ずべきなし。故に独一の本門というなり。二意ありと雖も往いてこれ一意なり。只これ能詮・所詮の異なるのみ」(同595)

と明かされ、久遠元初独一本門の一法は全分これ本なるが故に、本迹の立て分けがなく、ただこれ能詮・所詮の異なりがあるだけである、と述べられているのである。

「詮」とは“詮顕”といい、経典の文句をもって能く義理を顕わすを「能詮」といい、顕わされるところの義理を「所詮」というのである。したがって、宗祖大聖人の久遠元初独一本門の一法においては、宗教の五箇は三箇の法義(三大秘法)を能く詮じ顕わすが故に能詮といい、宗旨の三箇は五箇の法義によって顕わされるところの三箇の法義(三大秘法)なるが故に所詮というのである。

 故に、もしこの能詮・所詮の義に迷い宗教、宗旨を旨教相対の勝劣と主張するならば、同文段のなかで申されている「守護章中四十六に云く『凡そ能詮の教権なれば、所詮の理も亦権なり。能詮の教実なれば、所詮の理も亦実なり』略抄」(同554)

との意味を全く知らない迷惑論義である。故に日寛上人は「二意ありと雖も往いてこれ一意なり」と仰せられているのである。彼等の迷論の如きは、能詮の教は迹(権)にして、所詮の理は本(実)なりと読み取っていることになり、見当はずれもはなはだしいといわなければならない。

 このように、川澄の弟子達の迷惑勝劣法門は、本宗御歴代上人の所説のように装いながら、その文を示さず、あるいは文は示したとしてもその義を曲会して示すのみであり、所詮「故に先ず須く宗教の五箇を了すべし」との宗教の五箇を、宗祖大聖人の御書のうえから、御歴代上人の御指南のうえから正しく拝し取ることのできない錯乱がある故であり、それはまたひとえに、宗教の五箇を“宗教分”と下す独断、偏執の曲解がなせる誤りである。

 ちなみに、御歴代上人がお示しの宗教、宗旨に何故“分”を加添するのかを考えると、“分”とは分けること、全体を構成する部分、全体に占める位置等の意味がある。したがって御歴代上人はいずれも宗教、宗旨と示されているのに対し、川澄とその弟子達は、中古天台の忠尋のように、宗教分、宗旨分という。本師違背の忠尋Aよろしく、在勤教師会の徒輩は正師の所説に“分”を加え、文底独一本門の法義、大綱を謬解し根本的錯乱に陥った、といわなければならないのである。

 故に、錯乱、誹謗する者に、文の底に秘して沈めた法門が感得できるわけもなく、本仏日蓮大聖人を見ることができるはずはないのである。まさに川澄とその弟子達は、『真言見聞』の

「経論に文証も無き妄語を吐き法華を顕教と名づけて之を下し之を謗ず豈大謗法に非ずや」(全集145)

との意をもっていうならば、御書にも御歴代上人の御指南にも無い妄語を吐きちらし、本宗現今の法門流行を指して宗教分と名づけて蔑如し誹謗する徒輩を大謗法の者といわずして、誰人を大謗法というべきか。そして笑うべし、このような愚人の川澄を“其の理を貴ぶ明者”と仰ぐ愚かさを。また恐るべし、故なくして“其の文を守る闇者”と誹謗する浅識、計我の誤りを。川澄が発明の無文、無義の勝劣法門は、結局はこのように大謗法の道に人を導き入れるものでしかないのである。

 

結び

 日顕上人は昨年の教師補任式の砌、次のように御指南あそばされている。

「法門を説く場合において、過の咎、不及の咎という二つの咎がありますが、そのうちの“過”というのは即ち法門の言い過ぎ、考え過ぎということであります。本来の本宗の法門にはまことに甚深の義がありますが、この甚深の義のなかには従浅至深していくところの方向、即ち浅いところから深いほうに入っていく方向があります」(当誌436−15)

との仰せは、特に僧侶にとって常々念慮しなければならない誡めであることは、いうまでもないことである。川澄に毒されたところの一党は「過の咎」に当たり、また我々平僧においては「不及の咎」のあることを常に反省しなければならない。しかし、川澄が一党の如く慢心をもって独断、独善に陥らないかぎり、彼等のような誹謗の徒とはならないであろう。

 次に、本宗法門の甚深の義のなかに従浅至探していく方向があるとの仰せは、宗教の五箇を申されたものであり、次の

「そしてもう一つには、深いところに入っていって最後の本当の根本の法に到達し、大聖人の出世の本懐の御法に到達したうえから、今度は浅いほうのところに振り返り、それぞれの法の浅深の形に従って、しかもその意義を与えその法を活かしていくという方向との二つがあるのであります」(同)

との仰せは、宗旨の三箇を申されたものである。なぜならば、宗教の五箇は『報恩抄文段』に

「第一の教とは、一代諸経の浅深勝劣を判ずるを教というなり。天台大師は五時八教を以て一代の浅深を判じ、以て法華最第一を顕せり。蓮祖聖人は三重の秘伝を以て文底秘沈の大法を顕したまえり。謂く、爾前当分・迹門跨節、迹門当分・本門跨節、脱益当分・下種跨節なり。下種跨節とは即ち三大秘法なり。『日蓮が法門は第三の法門』とはこれなり。諸宗諸門はこの事を知らず」(文段集430)

と。すなわち宗教の五箇は、従浅至深の依文判義によって宗祖大聖人の御本懐たる三大秘法を願わすものである故に、かくの如く拝するのである。

 また宗旨の三箇と拝するのは、『取要抄文段』に次の如く仰せられていることによるのである。

「問う、諸抄の中に或は『一大秘法』といい、或は『三大秘法』といい、或は『本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字』といい、或は『法華経の題目を以て本尊とすべし』といい、或は『本門の教主釈尊を本尊とすべし』という。諸文一准ならず、如何がこれを消釈せんや。

 答う、この事を知らんと欲せば、須く開合を了すべし。若し一大秘法というは即ちこれ本門の本尊なり。この本尊所住の処を本門の戒壇と名づけ、この本尊を信じて唱うるを本門の題目と名づく。故に分ちて三箇の秘法と為るなり。また本尊に人あり、法有り。戒壇に事有り、理あり。理は謂く、義理なり。題目に信、行有り。故に開して六義と成す。この六義、散じて一代五十年の説法と成る。また蓮祖一期の弘法と成る(乃至)またまた、これを合する則は釈尊一代の説法、日蓮一期の弘法は但六義と成る。またこの六義を合する則は但三箇の秘法と成る。またこの三箇を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故にこの本門の本尊をまた『三大秘法総在の御本尊』と名づくるなり」(同597)

と。すなわち、日顕上人の後者の御指南は依義判文による宗旨の三箇を仰せられること、明らかである。したがって次下に

「従浅至深の形のなかで、例えば迹門の文のところを直ちに本門の形で解釈するならば、それはやはり論証の仕方がおかしいということになってまいります。ところが、いったん三大秘法の深義に入ってそこから振り返ってあるいは本門文上、あるいは迹門の法、あるいは爾前経をも見るときに、そこに三大秘法の意義が顕われておるという法門の関連はまことに大切なことであります」(当誌436−16)

と、依文判義、依義判文の関連、ならびに宗教の五箇、宗旨の三箇の法門上の関連を過と不及の咎なく正しく説いていくことこそまことに大切である、と御指南あそばされたものと拝するのである。

 したがって、宗旨と宗教は相照の関係にあり、依文判義、依義判文のいずれもその立場にあって正しく用いなければ、法門は必ず迷惑してしまうのである。この深義を知らず、勝手に宗旨分と依義判文の方向のみを偏重した法門を振り回す故に、“過ぎたるは及ばざるに等し”の諺どおり、過にして不及の外道の論義となってしまっているのが、川澄が一党の現実の姿である。『上野殿御返事』の

「なかなか法門しりたりげに候人人は・あしく候げに候」(全集1546)

との仰せを拝して、慢心、悪心を投げ捨て、川澄が魔説に迷って阿鼻の大昔を招くことなきように祈るものである。

 @ 株杭に驚き云云の語源は『韓非子』に「宋人ノ田ヲ耕ス者アリ、田中ニ株アリ、兎走リテ株ニ触レ頸ヲ折テ死ス、因テ其耒(すき)ヲ釈テテ株ヲ守り復タ兎ヲ得ンコトヲ冀ヘリ、兎復タ得ベカラズシテ身ハ末国ノ笑ト為ル、今先生ノ政ヲ以テ当世ノ民ヲ治メント欲スルハ、皆守株ノ類ナリ」とある。すなわち、頑鈍暗愚の者を、株を守る愚人に譬えたもの。――また、智円扇に発して云云は『止観』一に「月重山ニ隠ルレバ、扇ヲ挙ゲテ之ヲ類シ、風太虚ニ息(や)メバ樹ヲ動シテ之ヲ訓(おし)フルガ如シ」とある。すなわち、円扇は方便権経、月を真実の法華経に譬えたもの。諸抄に多く引用されている。

 A 中古天台の忠尋。忠尋(一〇六五―一一三八)は、台家における慧心流の始祖・源信より下って四代目の学匠。忠尋の著書といわれる『漢光類聚』に宗旨分、宗教分の語が初めて使用され、これらの判釈によって台家はますます混迷の度を深め、本師・伝教大師の教えに違背した。ただし『漢光類聚』を忠尋の作と認めない説も数多い。