信の宗旨

 

 

時局法義研鑚委員 高野法雄 

 

 

『日女御前御返事』に

 

「仏法の根本は信を以て源とす……弘決の四に云く『仏法は海の如し唯信のみ能く入るとは孔丘の言尚信を首と為す況や仏法の深理をや信無くして寧ろ入らんや、故に華厳に信を道の元・功徳の母と為す』等」(全集1244)

と説かれるように、信は仏法究極の目的たる成仏を期すための根本となるべきものであるが、何を信じてもよいというものではない。そこにはおのずから法の正邪、勝劣、浅深が厳密に決判されたところの、正法正義を信ずることが肝要である。第9世日有上人は

「行体行儀の所は信心なり妙法蓮華経なり」(聖典974)と。

信のあるところには行が具足し、また行躰・行儀の顕われは信そのものであり、妙法蓮華経の振る舞いである、と『化儀抄』に教示されている。

『大乗起信論』には、信の内容について

「一には根本を信ずるなり、所謂真如の法を楽念するが故に、

二には仏に無量の功徳ありと信ずるなり、常に念じて親近し、供養し、恭敬して善根を発起し、一切智を願求するが故に、

三には法に大利益ありと信ずるなり、常に念じて諸波羅蜜を修行するが故に、

四には僧能く正しく自利利他の修行すと信ずるなり、常に楽って諸菩薩衆に親近して如実の行を求学するが故に」(国訳一切経論集部5−24と。

日蓮正宗において、根本を信ずるなりとは、三大秘法の根源たる本門戒壇の大御本尊を信ずることであり、仏とは宗祖日蓮大聖人、法とは一念三千の南無妙法蓮華経、僧とは血脈付法の日興上人である。すなわち、本因下種の三宝(仏法)に大利益のあることを信じて仏道修行し、さらに学に精進する、いわゆるこの信・行・学の三つが具足して初めて正しい意味での信心となるのである。

三大秘法の根源たる本門戒壇の大御本尊を離れての信心は、もちろん有り得ないが、この三宝に異を唱えたなら、それは日蓮正宗の信心とはいえず、邪義そのものである。

私達が朝夕に御報恩謝徳する「観念文」を拝しても解るように、本尊とは本門寿量品の肝心、文底秘沈の大法、久遠元初自受用報身如来の御当体そのものであり、仏とは本因妙の教主、主師親三徳兼備の宗祖日蓮大聖人である。また人法体一なるが故に、大御本尊は即宗祖日蓮大聖人と拝し、大聖人の御当体は即本門戒壇の大御本尊と拝するのである。いわゆる

「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(全集1124)

の御指南のままに信じ行ずるのが、日蓮正宗の信心である。この大道をはずし、堕地獄の要因となる、とんでもない邪義を吐いているのが、自称正信会の徒輩である。彼等は「戒壇の大御本尊と雖も、即久遠元初の自受用報身如来であると断定するわけにはいきません云云」

といって、戒壇の大御本尊は究竟の御本尊にあらず、と断定している。この邪説こそ、その最たるものである。

しかるに、日寛上人は『観心本尊抄文段』に

「故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり」(文段集452)

と仰せられ、さらに日寛上人が『報恩抄文段』に

「本因妙の教主釈尊、自受用の全体即ちこれ事の一念三千の法の本尊なることを。事の一念三千の法の本尊の全体、即ちこれ本因妙の教主釈尊、自受用身なり」(同435)

とお述べになられるは、明らかに、戒壇の大御本尊こそ究竟中の究竟の御本尊であらせられ、久遠元初の自受用身そのものである、と断定せられた御指南であることは、素直な信心で拝すれば、誰人にも納得されることではないか。

次に

「ダイナマイト一本で、すっとぶようなものが大聖人の本懐たる三大秘法の仏法であるわけがない云云」という彼等の言い分もまた、信の欠如、冒涜これに過ぎるものはない。

日寛上人は、彼等の如き、能顕の宗祖大聖人と、所顕の一念三千の御本尊とを立て分ける徒輩を破して、

「問う、法の本尊を事の一念三千と名づくる意は如何。答う、一流の義に云く、己心の一念三千を紙墨に図顕するが故に、事の一念三千の本尊と名づく等云云。今謂く、事の一念三千の本尊は紙墨にこれを図顕す。紙墨にこれを図顕するが故に事の一念三千と名づくるには非ざるなり」(文段集598)と『取要抄文段』に仰せられている。

“自受用身即一念三千、一念三千即自受用身、人法体一の故に事の一念三千の本尊と名づく”との次下の御指南と併せ拝するとき、彼等の邪説の如きは、能顕の宗祖大聖人己心の一念三千は、これを尊重するが、所顕の事の一念三千の御本尊は、ダイナマイト一本ですっとぶと、蔑視するかのような証惑の言をなしている。

このようなことは、同文段に

「所謂『即』とは二物相合に非ず、背面相翻に非ず。当体全き、これを『即』というなり。故に自受用身の当体全くこれ一念三千、一念三千の当体全くこれ自受用身なり。豈事の一念三千に非ずや」(同599)

との文意を解せぬ浅識邪解である。このような悪言をなして戒壇の大御本尊を下す徒輩が有るということは、いまだかつて聞いたことがない。もし有るとするならば、定めて邪見の誹謗を事とする族のみであろう。自ら語るに落ちるとは、このことである。

また次に、御本仏たる大聖人を“鎌倉の人間日蓮と魂魄日蓮”とに立て分ける類いの狂説があるが、日寛上人が『如説修行抄文段』に

「猶また蓮祖は今日出世あれども本師なり。迹に非ず、末に非ず、久遠最初の本師なり」(文段集761)

と仰せられるは、彼等の狂説を否定されたものである。すなわち、日寛上人の文段等に宗祖大聖人を拝し奉るに、本地内証の辺に約する場合と、垂迹外用の辺に約する場合との二つがあって、彼等の邪見のような見方を生ぜしむるところの垂迹外用の辺に執するを附文の辺といい、正しくは、当家深秘の相伝をもって本地内証に約し、久遠元初自受用身、末法下種の教主と拝するところが元意の辺である。故に右の仰せがある。

しかるに諸宗諸門の徒輩は、附文と元意の二辺ともに信ぜず、あるいは附文の一辺のみを尊んで元意をけなす等は、相伝が無い故にその深意を知らざるが故である。自称正信会の徒輩が当家の深秘の相伝を習いそこね、鎌倉の人間日蓮等と宗祖大聖人を立て分けるは、まさに諸宗・諸門の悪義を混入するところの邪見である。

故に『末法相応抄』に

「血脈抄に云く本地自受用報身の垂迹上行の再誕日蓮云云、日辰如何ぞ但示同凡夫の辺を執して本地自受用の辺を抑止するや」(富要3−166)

と。また 『開目抄愚記』に

「正しく末法下種の教主出世の時・処・種姓を明かすなり」(文段集115)

と。この御指南は、今日出世の宗祖大聖人の本地内証の辺に約し、元意をもって御一代の御化導を判じ給う文である。

彼等がよく言うような、読みの残さとは、彼等にこそ当てはまる言葉であり、本地自受用身が顕われてなお人間日蓮を唱えることは、『三重秘伝抄』(記の9の文)に

「本門顕れ已て更に近ならば迹門会し已て会せざるや云云」(富要3ー40)

と批難あそばされることに同ずるものである。

 日亨上人は、この註解に

「本師は茲に已に本と成りたるものが無意味に迹と変化しやうかとの意義に文九記九の釈文を引用せられたのである」(同41)

と述べられている。当家深秘の相伝を習いそこないの族が、この意を知らないにすぎない。所詮は、宗祖大聖人御一代の御化導の大綱を習い失い、部分に執して読みあさることからこのような僻見が生じるのか、あるいは自称正信会に属する檀徒の動揺を押さえるための手段か、あるいはまた仏法壊乱の魔が自らの立場を有利にしようとするためか、全く知るよしもないが、それらはすべて浅識・計我からくる己義であって、増上慢の最たるものであり、既に彼等には日蓮正宗の信心を語る資格は全く残されていない。

 仏宝、法宝を破壊した彼等は、当然のことながら、僧宝をも破壊してしまった。すなわち、僧宝とは唯我与我血脈付法の日興上人であるが、

「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(全集398)

とか

「血脈の次第 日蓮日興」(同1600)

と仰せのように、大聖人の法門、仏法は血脈付法の日興上人にすべて唯授一人御相承され、その御相承の御法門はまた唯授一人の血脈相承によって末法万年、尽未来際まで承け継がれてゆくものであり、これは

「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(同329)

と大聖人の仰せになられた規範であり、日蓮正宗の宗旨の根本、命脈中の命脈である。

 故に『百六箇抄』には

「白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」(同869)

と、代々の上人に信をとり随従せよ、と遺誡されているのである。

 古来より、血脈法水に関することは、そのまま深く信仰にかかわるもの故、すべてが御仏智のしからしむるところで、軽々に口にすべきものではないというのが、信の上に成り立つ日蓮正宗の伝統ともいうべきものであった。

 それゆえ彼等とて、当初は日達上人にも、また日顕上人にも一往随順の姿勢はとっていたものの、運動の展開につれて法の下には何人も平等であるとの憲法を悪用し、さらに宗制宗規においても主文をさけて但項のみを故意に曲解して、ついに日達上人は誰人にも御相承されなかったと冒涜し、日顕上人を一般僧侶と同格にしようとしたのである。

 日蓮正宗の宗史のなかで血脈はすでに断絶しているとする彼等が、いまさら日顕上人には血脈はない等と云々すること自体おかしなことであるが、血脈相承が有ったか無かったかと、

「何度質問状を呈しても解答がないのは、『解答出来ない』からなのであろう」

とか

「法義を弁えず、一方的強圧的に正信会を弾圧している阿部師の姿を通して、大聖人の血脈から逸脱しているのではないかという疑惑が生じるのも当然ではなかろうか」

といい、これがさらに発展して

「阿部さんに血脈の無い事は衆知の事実です」

とか、ますます猛り狂い、さらに

「宗門を治められず、前代未聞の混乱に落し入れているということは、型式的にも実人的にも法主の器でない」

等々と、全く狂った暴言を吐き、あまつさえ現法主上人に対して偽法主呼ばわりをしている。

しからば、日達上人より血脈相承をうけ継がれた真の法主は誰なのか。日顕上人に血脈がないというなら、ほかに誰が受けられたかを明言すべきである。このことを明示できない彼等の暴論は、全く低俗な、狂人のたわ言以外の何ものでもない。

 要するに、信心の根本を忘れた彼等には唯授一人の血脈相承などはどうでもよいことで、自分達の言い分さえ聞いてくれる法主であれば血脈はあったとなる、何とも奇妙にして不可解な論理である。

 何が彼等をして暴走せしめたか。これこそ信の欠如以外のなにものでもない。

 日達上人は第66世の法主としての責任のうえから、広布への展開のなかでの行き過ぎ、逸脱に関して種々の御指南を下された。この信徒善導ということから、正信覚醒運動なるものは動き出したのである。

 しかし、この件に関しても彼等の主張は様々で、“我々はだれに言われたからでもない。僧侶として、やみがたい道念から立ち上がったのである”と胸を張るかと思えば、形勢不利となるや、“猊下の命により”とか“すべて猊下の思し召しのままに行動した”と逃げを打つのが常套手段であるが、ここのあたりに彼等の悪辣な、狡るがしこさ、姑息な体質が表われているといえよう。

 同一人が一方で甲と主張しているかと思えば、他方では乙と主張するように、各人が理由にならない理由をつけ、勝手放題に法門をもてあそび、結局は何を根拠に何を主張しているのか、全くとらえところがない。その場その場での主張に対し、それが誤りと解っていても、いったん主張したことを改めることができないから、前言をかばいつつ修正に終始するのである。その結果は、かかる似ても似つかぬ異義が充満するのである。

 信の宗旨の中にいながら、信じそこね、計算と思惑に終始する。結局、彼等はその場その場で口には巧言を唱えながら、最も恥ずべき手段と策謀の世界へのめり込んでしまったのである。

 本門戒壇の大御本尊を離れ、血脈法水の御指南に背いての信心に功徳があるか、ないかを、信徒各位は真剣に考えていただきたい。

 僧侶としての道念を失い、日蓮正宗を混乱させ、もって世の笑いものにせんと企つ自称正信会の首脳部はそれで目的を果たすのであるから自業自得、それもよいであろう。しかし、その首脳部に有ること無いことを吹き込まれて洗脳され、手駒にされているかつての法友や信徒が、何とも哀れでならない。まして、

「今、大聖人の血脈は正信会にしか流れておりません。その証拠に正信会の僧侶のみが正法弘通の為に誹謗悪口を受け、大聖人一人しか身読していないと云う『数数擯出せられん』と云う経文を身読している云云」とか

「この信はあらゆる疑問が氷解して、疑う余地がまったくなくなってしまったときに生まれる信の意味です」

とかいって、“血脈は我れにあり、身読は己にあり”と乱逆を勧め、“今の日蓮正宗は徹底して疑え、己に対しては徹底して信ぜよ”と阿諛するは、

「末代に於いて経巻相承直授日蓮と申して、受持知識相承を破らんが為めに、元品の大石が僧形となって、日蓮が直弟と申し狂える僻人出来し、予が掟の深密の正義を申し乱さんと擬する事之れあらん、即ち天魔外道波旬の蝗虫なり。上首等同心にして之れを責むべきものなり」(聖典371)

と『百六箇抄』に仰せられるとおりであろう。

 日顕上人は

「日興上人御化導の特性の一つに、聖門下ながら似て非なる5人の弟子等の法義・信仰に対する破折と峻別が存し、それが必然的に正法の万年弘通の根幹となったのである。これと符節を合する如く、日興上人第650回遠忌奉修の昨年において、宗内に盤踞する似て非なる迷僧・邪僧どもの専断横道の謗法に対し、最終の処分を断行する運びとなった。これも経典・祖書の大精神および先師方の御指南に照らすとき、止むを得ざる処置であり、更に未来への大法弘通の基礎を確立したものと信ずる」(当誌443−4)

との辞を寄せられた。

 日顕上人は御登座以来、一宗を統率・教導する法主としての責任と慈悲のうえから、彼等に対して実に忍耐強く訓戒を繰り返され、その反省を促されたのであったが、五千起去の増上慢の如き彼等には所詮、通ずるものではなく、結果として万止むを得ずの処分となったのである。

 日蓮正宗に籍を置く我等は、迷僧・邪僧が一掃され、本宗本来の信の宗旨として蘇えったこの機に当たって、向後、再びこのような事態を起こさないためにも、確固たる基盤を築き、もって祖道の恢復に精進しなければならない。