御相伝の大事

 

時局法義研鑚委員 高橋信興

 

(1)

 最近、正信会とか在勤教師会と称している者達の主義、主張を見聞すると、初めの頃の主張とその後になってからの主張とは、かなりの違うことや、全く反対のことを述べていることに気がつく。しかも、その論者らは、自己の以前の主張に対して反省や、総括批判することもなく、いとも簡単に自己の信念や主張を転向、正当化して自分勝手な意見を述べているのである。日蓮大聖人が

「非学匠は理につまらず」 (全集380)

と他門の学匠を批判されたことが、彼らにもそっくり当てはまると思う。かかるさまは、本宗のなかにあっても、戒壇の大御本尊に対する絶対信を忘失し、宗門七百年の正法伝持の法脈に背信した僧俗の悲しい姿を、私達に教示してくれるものであろう。

 今、その一例として、元正信会会長・久保川法章の論文が挙げられる。彼は以前

「戒壇の大御本尊を根本に、唯授一人の御法主上人の御指南を中心に信心していくことが即身成仏の直道である」

 と信者に講演していたが、のちに

「戒壇の本尊といえども究極の本尊とはいえない」

「血脈は貫主のみならず大衆にも流れている」

 等々と、『正信会報』や『継命』に発表している。

 この自己の信心を放棄した主張は、以前と180度の変わりようである。

 また、同論文に対する正信会の、とりわけセンターを構成する者達の態度は、きわめて曖昧であった。

「久保川論文にしても、詮じつめれば『……更に法門的に御戒壇様を申し述ぶれば、大聖人の御当体たる宇宙大の久遠元初自受用身を、御本尊(御戒壇様)として……』

 と論じたものと私は理解している。しかも久保川師の論文というよりは、自坊での御説法の原稿である。百歩ゆずって間違っていたとしても、御説法を間違えるたびに擯斥ではたまったものではないが、それが全国檀徒機関紙に掲載され、あたかも『御戒壇否定』と受けとられたのは、誠に遺憾である」(児玉大光・継命50号)

 「久保川師が、宗門の血脈とはそんなちゃちな非民主的なものではない、と血涙の中に信者各位に訴えられた、宗門を守らんがための論文に対して……いかにして信者を正しい信心に導くか、この論文の底に流れる久保川師の、苦心惨憺の心情が少しも解せないとは……。勿論この論文に対して、それぞれがこれから論じ合うことを否定するものではない」 (佐々木秀明・同36号)

 「(問)要するに、この論文は、近代の宗門、学会がしらずしらずに陥った物神論的本尊観に対する、一つの問題提起ととらえていいわけですね。

(答)そうですね。われわれも、この運動の過程で多くのことを学び、反省もしましたが、その一つが法門のあり方です」 (渡辺広済・同73号)

 等の擁護の言は、久保川論文の誤りの重大さを認識できない正信会センターの、まことに歪曲性に富む性格を物語るものであろう。

 当時、久保川が正信会会長という重要な、そして影響力のある位置にあり、また、同論文を正信会の機関誌である『正信会報』に発表し、さらにそれを檀徒に知らしめるために『継命』(34号)紙に全面掲載したことは、今後の正信会の意志統一をはかるための思想とみなされても、いたし方あるまい。もし、正信会が「統一見解」なるもので

「本門戒壇の大御本尊を断じて否定するものではない」(継命36号)

 と主張するならば、まず久保川論文を総括批判し、否定したうえで「統一見解」を述べるべきであった。なぜならば久保川論文の主張は、本宗の『宗制宗規』の根本たる、宗綱第2剰条、第3条を否定し、二座の観念文たる

「久遠元初自受用報身如来の御当体(中略)本門戒壇の大御本尊」

 を否定した、異流義の論文そのものである。およそ「統一見解」とはほど遠い邪義、邪説である。また、本宗の信仰の根本は戒壇の大御本尊と定まっているのであり、その宗旨の根本にかかわる事柄について正信会が「統一見解」を発表すること自体、矛盾に満ちたことなのである。

 しかも正信会センターは、「統一見解」なるものを発表した前々号の『継命』(34号)において、久保川論文の掲載と共に同紙一面に、御当代上人に対し奉り、さきの慇懃無礼な質問に対してお答えいただけないとの理由だけで「法主詐称」と断定、発表しているが、このような者達には同論文の異流義を判断するだけの能力や冷静さもなく、また正しい信仰心のなかったことは、疑いのないことである。

 正信会は、日顕上人を否定するばかりではなく、いとも簡単に御相承の全権を有されていた御先師日達上人の法脈伝持という本宗の根本伝統精神までを否定したのである。

 また、最近発表された在勤教師会の論文は、広宣流布、令法久住という本宗の大願や、将来の宗門発展、近代化へのビジョンというにはほど遠く、その場かぎりのことばや、刹那的な発想論稿が多く、また自己の妄執、我見に執われ、激昂した感情的な論文が多い。

 これは何を物語るものか。それは、いつにかかって正信会の者達の信仰そのものが変質したからであり、とりわけ、御当代日顕上人によって一々垂示、慈折の教示を受けるたびに正信会路線の自己正当化、言いわけをしなければならなかったからである。

 

 

(2)

 さて以前、在勤教師会の者達が発表したパンフレット『事の法門について』を読み、気づいたことを少しく述べてみたいと思う。

 まず、パンフレットの「はじめに」の部分に、現在の宗門の教学を明治教学の影響を受けたものとして、次のように批判をしている。

 「今一言をもってこれを言えば、内証己心を基調とした法門が、物質文明の影響によって次第に外相化していったということである。こうして出来上がった教学を一応明治教学と呼べば、この教学はおのずから外相中心の教学である。三秘惣在であるはずの本門の戒壇が、単なる物体として独り歩きするいわゆる国立戒壇論や戒壇本尊真偽論争は、明治教学の中から出るべくして出た」

と言って、彼らは己心に偏重し、外相を軽視しているが、本宗の法門は内証も外相も、教相も観心も、そして宗教も宗旨も、双方がしっかりと組み合わさっている。そして、その根底に、相伝の御法門があるのである。

 大聖人の教義は「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(全集398)

 と仰せのように、相伝の法門が根幹となってそれが伝わり、さらに所対によって法門は展開されるのである。日淳上人は

「既に大聖人は此経は相伝によらずんば知りがたしと仰せられて相伝の鍵をもたずに此経の扉を開くことはできないとせられてをる。その鍵こそ日蓮大聖人の御教である」(日淳上人全集159)

 と、また

「大聖人様から日興上人様への御相伝、日興上人様から日目上人様への御相伝、仏法の要を尽して御相伝あそばされてありまする。実に尊い所と拝する所であり、我が日蓮正宗は、この相承の家にありまして、この大聖人の尊い教を七百年の間一糸乱れず今日に伝へて居る次第でごぎいまする」(同194)

 と述べられている。

 このように本宗は、御相伝の法門が根本にあることは、いうまでもない。そして令法久住、広宣流布という大綱のうえに、教相判釈の筋目が明確にされたり、観心内証についての教義研鑚に重点がおかれた時もある。また一方、弘教の面においても、ある時代には外に対する布教も思いにまかせず、護りの時もあり、また大いに折伏の法鼓を鳴らした時もあったのである。

 しかし、いずれにしても、その時に応じて、その御相伝を根本に一宗を率先、教導される御法主上人の尊い大悲願や、広布への深い情熱が拝されるのである。

 我々が信心の眼をもって本宗の歴史を振り返るとき、大聖人の

「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」(全集507)

 という大目的に向かって、たとえ一歩や半歩なりとも前進されようとした御歴代先師方の、並々ならぬ御苦労が拝されるのである。

 過去、徳川時代を見るならば、当時は布教や自讃毀他を禁ぜられ、たしかに折伏も思うにまかせぬ封建制の時代で、外面的に改宗も難しい時世には、やはり内面的な教学の研鑚に力を注がれ、一見、学問中心、摂受中心のように見受けられる時代もあった。

 このようななかにあって、日寛上人の教学顕彰は目を瞠るものがあるのは誰人も異論のないところであり、一方、破邪顕正の弘教の折伏は、令法久住の形をとり、本門戒壇建立も将来に托して、戒壇の大御本尊を深く蔵して厳護されてきたというのが、徳川時代の信心の姿と拝せるであろう。このような時代であっても、日寛上人の広宣流布への大情熱は少しも萎えることなく、ますます内に秘めて強く燃え、徒弟の育成、信者の教化にと勤まれたのであった。

 そして

「但吾富山のみ蓮祖所立の門流なり故に開山已来化儀化法四百余年全く蓮師の如し」(当流行事抄・富要3―211)

 と仰せられて、化儀・化法が正しく相伝されて来ていることを仰せられている。

 つづいて明治に入り、国体思想が強くなり、また西欧の思想も漸次、入ってきて物事の考え方も大きく変わったであろうが、前述の如く宗門の教学は、相伝されてきた御法門の基本が厳然とあって、そのうえで教学が展開きれたのである。日応上人は

「一、吾本山大石寺ハ血脈相承ナルモノハ元ヨリ唯授一人二限ルモノニシテ断シテ二三アルニアラス故二開山日興ハ是を日目ニ附シ日目ハ是ヲ日道ニ附シ金口嫡々附嘱相承シテ五十有余代ノ今日マテ毫末乱ルゝナシト為ス」(法之道・研究教学書27ー31)

 と仰せられ、また

「此ノ金口ノ血脈コソ唯仏与仏ノ秘法ニシテ独リ時ノ貫主ノ掌握セル所ナり是レニハ数種アリ又数箇ノ條目アリトイヘトモ其ノ中一種ノ金口血脈ニハ宗祖己心ノ秘妙ヲ垂示シ一切衆生成仏ヲ所期スル本尊ノ活眼タル極意ノ相伝アリ又師資相承ノ如キハ宗祖直授ノ禁誠ニシテ令法久住ノ基礎タリ是レ等ヲ此レ唯授一人金口嫡々血脈相承ト云フ也」(同474)

 と、御相伝の法門が令法久住の基礎となっていることを仰せられているのである。

 今また戦後、信仰の自由により大いに信心の内容、数量ともに充実、伸展してきたのであり、これまた誰人も否定できない現実であって、そこにはまた、たしかに種々の問題も出てきたのであった。

 その問題を解決しようとする努力は大切であるが、大聖人の教えの信心の筋道から外れ、宗門の方針にそぐわない我意・我見をもってしたり、前述の如き流れのなかにある宗門の教学の在り方を批判することは、時代性を無視した“未得謂得”の増上慢という他はないであろう。在勤教師会の者達は、あえて「明治教学」と批判し、物質文明、外相中心の教学というが、それは大いなる謬見である。

 本宗は、日淳上人が仰せになった如く「相承の家」であり、そして「相伝の鍵」をにぎられる御歴代先師上人方の尊い信仰を根本・中心にしてすべてが顕揚されたものであり、それは“日蓮が慈悲曠大”の流れから、いささかも外れるものではない。したがって日有上人、日寛上人、日応上人等、若干の特徴があろうとも、根本の大御本尊に対する絶対信においては少しも違いはないのである。“我らにも血脈はある”といって、自己の短見によって先師方を冒涜することこそ城者破城の者でなくて、何であろうか。

 

 

(3)

 次ぎに在勤教師会の彼らのいう「師弟一箇の本尊」ということについて述べてみたい。

 彼らは

「大御本尊建立の起因が、最底下の衆生たる熱原法華衆の受持にあること(師弟一箇)、そして、大聖人お一人でなく日興上人と師弟相寄って建立されているということである。この師弟一箇こそが事迷の法門大聖人の仏法の真髄であって、戒壇の大御本尊・久遠名字の妙法の正体である」(事の法門について・10)

 といい、また

「師弟一箇戒壇の大御本尊建立となったのである」(同11)

 といっている。

 まず「師弟一箇」ということについてみると、この語は“人法一箇の御本尊”と申されるように、人と法とに勝劣がない場合は「一箇」といってもよいと思われるが、入門初心の弟子は当然、師より教えを授けられ、しかして行学が増進していくのであって、この師弟の関係は師弟相対の姿でもあり、師弟不二平等とは信心のうえからいえることなのである。しかし現実には、師弟にはおのずから上下・差別があるのであるから「師弟一箇」という語は適当ではない。師弟不二一如といっても、師弟而二がなければならない。そうでなければ、それこそ“師弟の混乱”ということになろう。

 末法の我々は師弟相対して信心修行することが大切であり、そのことを「事の一念三千」とも「事行の妙法蓮華経」とも申されるのである。日有上人は

「師弟相対する処が下種の躰にて事行の妙法蓮花経なるが故に云云」(有師化儀抄・富要1ー64)

「是れも師弟相対十界互具の事の一念三千の事行の妙法蓮華経なる故なり」(同65)

 等と仰せられている。

 次に彼らがいう「師弟一箇の本尊」ということについてみると、「戒壇の大御本尊」をそのように称しているようであるが、これも不適当といわざるをえないのである。

 戒壇の大御本尊は、御弟子日興上人と信徒の熱原の法華衆の強い不惜身命の信心によって、大聖人は深く御感あらせられて、御建立になられたのである。しかしながら『御伝土代』の

「その時大聖人御感有って日興上人と御本尊にあそばすのみならず云云」(日蓮正宗聖典596)

 の御文を曲解して「師弟一箇の本尊」と命名するのは不適当であろう。

日寛上人は

「故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(日寛上人文段集452)

 と仰せである。御本仏日蓮大聖人の仏力・法力が顕発され、唯我与我の御境界の日興上人と弟子檀那の信力・行力の顕現とあいまって、今こそ末法万年尽未来際のため、大御本尊建立の時と、大聖人が「御感あって」御建立されたのである。

 宗内では古来より、この大御本尊を“戒壇の大御本尊”“一閻浮提総与の御本尊”と伝統的に称し奉ってきたのである。

「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず」(全集254)

 と大聖人が仰せられた大御本尊である。今、何の理由あって「師弟一箇の本尊」などと、法義に外れた意義づけをして称する必要があるのか。ただただ深い御本仏の大慈悲に感謝、御報恩申し上げるべきではないか。

 ここで御法主日顕上人の御指南を拝してみよう(要約して掲げる)。

 ○ たしかに、大聖人と日興上人が唯我与我の境界において仏法は伝承されるから、お二人が寄り合って建立という意味はある。

 ○ しかし能開・能顕の主は大聖人であられる。

 ○ そしてその根源において、大聖人の一迷先達という意義がある。『総勘文抄』『当体義抄』に“即座開悟”の重大な御文がある。大聖人お一人の境智の御振る舞い、百界千如・事の一念三千としてのお悟りがある。

 ○ 仏界即九界・九界即仏界、唯我与我の承継、久遠名字・妙法の受持一体の境界をもって末法万年に弘通するいちばん元に立たれたのが日興上人である。

 ○ 本宗では日興上人のお立場をあくまで僧宝と立てる。このことは『当流行事抄』に明らかである。

 ○ 日有上人の御文や他の先師方の御文を引いて師弟一体の問題を論じているが、法門全体の綱格を見失って御先師の正意が解らず、一文の筋を取り違えて全くおかしなこじつけが出てくるのである。