「貴族仏教・民衆仏法」の邪説を破す

 

 

時局法義研鑚委員 藤本信恭 

 

 

「新生宗門」の名にふさわしく、我が日蓮正宗は、今や御法主日顕上人の御指南のもとに、正法興隆・広宣流布を目指し着実な前進を開始している。

しかし「魔競はずは正法と知るべからず」の御金言のごとく、これを嫉む正信会なる非法の衆が時折、雑音を発している。

正信会の内部においてどのような立場に置かれているかは知らないが、在勤教師会なる無道心のグループがあり、彼等の主張する邪説の一つに、貴族仏教と民衆仏法という立て分けがある。

 

当家に非ざる教判

「貴族」「民衆」という言葉は、一般的に広く使用されており、その意味するところも社会的に共通概念として、深く定着している。

いま改めて『広辞苑』(新村出編)を見るに「貴族」とは、

1、家柄や身分の貴い人々。

2、出生によって特権を与えられた支配階級、封建社会になると僧侶と共にその身分は階級として位置づけられ農奴、さらにはブルジョワジー(資本家階級)と相対した。

とあり、「民衆」とは、

1、多くの国民。

2、世間一般の人民、大衆。

とあり、あくまでも人間社会における大まかな立て分けを意味する言葉に過ぎないのである。
 また仏教史を論ずるもののなかに、「貴族仏教」「民衆仏法」などの言葉が用いられてきたこともあったが、それは『広辞苑』などに紹介される意味あいの域を出ないものである。

ところが彼等は、この貴族仏教・民衆仏法の語に独断による意義づけをほどこし、仏教の勝劣を判ずるものと見なしているのである。

当家における勝劣判とは、『常忍抄』に

「総じて御心へ候へ法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり」(全集981)

の御聖文に極まるのであり、この御文について第26世日寛上人は『三重秘伝抄』に

「脱益は当分、下種は跨節、是れ種脱相対にして第三の法門なり。此れ即ち宗祖が出世の本意なり。故に日蓮が法門と云うなり」(学林版169)

と明快に解釈されているように、種脱相対をもって宗祖大聖人の出世の本意と立てるのである。

 彼等のいうような貴族仏教と民衆仏法などという教判上の立て分けは、当家においては古来、存在していないのである。早くいえば、経文や御聖文には全くないところの教判であり、新義である。このような仏説にない新義を軽々に立てることは、宗祖大聖人が最もきらわれるところであり、厳しく破折せられるところである。

『開目抄』には、彼等と同様に、仏説に非ざる我見の教判を立てた邪宗邪義を破折して、

「天台大師云く『修多羅と合う者は録して之を用いよ文無く義無きは信受すべからず』等云云、伝教大師云く『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』等云云、円珍智証大師云く『文に依つて伝うべし』等云云、上にあぐるところの諸師の釈・皆一分・経論に依つて勝劣を弁うやうなれども皆自宗を堅く信受し先師の謬義をたださざるゆへに曲会私情の勝劣なり荘厳己義の法門なり」(全集219)

と教誡されている。

この破折は現代にあっては、在勤教師会の者どもにそのまま当てはまるものである。

 

貴族・民衆に関する解釈

『正信会報』なる雑誌に、山上弘道が「色法と心法」という一文を書いて載せているもののなかに、次のようにいっている。

「民衆仏法の民衆・貴族仏教の貴族の語が一部に誤解されているようであるから、一言付言する。我々の云う仏法上の民衆とは、決して下層階級とか貧民等をいうのではなく、又貴族というのも、上流階級とか富貴な人達の意ではない。貴賤道俗に関係なく煩悩を持した衆生を民衆といい、煩悩を持さぬを貴族というのである」

と。また『芝川』なる雑誌のなかにおいて、大黒喜道は、「仏教の中にも貴族と民衆があります。貴族とは仏、釈尊であり、民衆とは一切衆生であります。そして釈尊一人の成道の域を出ないのが貴族仏教であるのに村し、一切衆生の悉皆成道を説くのが民衆仏法であります」

という。ことここに至っては、彼等の言い分を聞いているだけで当方が赤面してしまう。まさに珍無類の迷説である。

彼等には一体、学問的良心や恥を知る心があるのであろうか。今更まともに取り上げる程の価値はなんら認められないが、熱病を患っている彼等の頭に冷水を浴びせる意味において、一言、破折を加えるものである。

だいいち「煩悩を持した衆生を民衆といい、煩悩を拝さぬ仏を貴族という」とは、いったい誰の説か。また経文や御書のどこにそのような定義があるのか。明確な文証をもって論証できない新義ならば、今後このような邪説は後代の物笑いの種になるだけであるから、二度と口にせぬがよかろうと、老婆心ながら忠告しておく。

 

彼等の教学的混乱

 ここで彼等の貴族仏教・民衆仏法に関する解釈に、いくつかの根本的混乱が見られるので述べておこう。

山上弘道は、日寛上人の『末法相応抄』の

「若し久遠元初とは但本因名字に限って、尚お本因の初住に通ぜず、何に況や本果に通ぜんをや」(学林版286)

という御文を引用して云く、

「当宗の云う名字凡夫とは、初住已上、本果妙覚に通じて行く名字凡夫ではなく、本因名字の凡夫つまり妙覚に登って行かぬ名字凡身の侭に当位即妙不改本位の成仏を遂げる本因名字の凡夫であることが説かれている」

と解釈し、ここから更に飛躍転用して

「この本因名字の凡夫をもって民衆といい、そこに建立される法門を民衆仏法といっているのである。逆に、本来妙覚、乃至、妙覚位に通ずる本果の中の歴劫修行途上の凡夫も含めて、これを貴族といい、そこに建立される法門を貴族仏教といっているのである」

と強弁するのである。この『末法相応抄』の文は、日寛上人が、

「又日辰が記に云わく、一宗の本尊久遠元初の自受用身なり、久遠の言、本因本果に亘ると雖も、久遠元初の自受用身の言は但本果に限って本因に亘らず」(学林版285)

という、日辰の邪義を破折された三箇条のなかの第二条にある一文であって、この文と貴族仏教・民衆仏法とはなんら関係がないのである。
 また彼等は、貴族とは煩悩を持さぬ仏なりと立てながら、一方では本果のなかの修行途上の凡夫も貴族なりといい、明らかな自語相違、自己矛盾を犯している。

 なぜならば、脱益の仏法においても未断惑の衆生は多く存したのであり、『当体義抄』には法華経涌出品の説相にふれて、

「地涌の菩薩五十小劫の間如来を称揚するを霊山迹化の衆は半日の如く謂えりと説き給えるを天台は解者惑者を出して迹化の衆は惑者の故に半日と思えり是れ即ち僻見なり」(全集517)

と説かれている。これは法華経虚空会の座に列なって本化地涌の涌出を見聞した高位の菩薩のなかにも、「惑者」即ち見思の惑を起こした者がいたことを示している。

 これらの「惑者」も彼等の言い分によれば、本果脱益の機なる故に「煩悩を持さぬ貴族」ということになる。新義邪説なれば仕方もないが、これなども彼等の悩乱ぶりを示す一例であろう。

また「妙覚に登って行かぬ名字凡身を民衆と称し、久遠元初の仏も本因名字であるから未断惑の民衆である」という。これは、久遠元初の仏身を直ちに末法未断惑の我々衆生に置き換えて論ずる、本末顕倒の説である。

 信心なき彼等は、御本仏大聖人の広大無辺の御境界を拝信できず、我等下根の衆生と同等の凡下日蓮としか理解できないのであろうが、信心をもって御書を拝すれば『三世諸仏総勘文教相廃立』の「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(全集568)

の御文や、『百六箇抄』 の

「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」(同863)

との御文から、大聖人が名字の凡夫僧でありながら、実はその名字即の当体に妙覚究竟を開悟せられた本仏であることが容易に拝されるのである。

 これもまた、当家の法門を心肝に染めぬ無道心と無知からくる誤ちである。

 

結  び

 このように彼等は、一般的用語として永い間使われてきた言葉を勝手に意義のすり替えをして、それが理解できない者は無知の輩であると見下すのであるが、この態度こそ貴族的特権意識というべきである。

 更に彼等の最も哀れむべき基本的欠陥は、自分達の世界にしか適用しない定義や、カテゴリー(範疇)を恣意的に造り上げ、それを理解できない者や、自説に適合しない者を、頭から否定し去るという恐ろしいまでの思い上がりにある。

 彼等は、ことあるごとに「大石寺は信の一字のみを強調しても、法門教学に昧く学問研鑚の息吹きがない」などと批難しているようであるが、まさにこれ、邪智謗法にかぶれた輩の無認識の評価というべきである。

 今更説明の必要もないが、獅子身中の虫が駆除された現今の宗門は、今や教師から所化・小僧に至るまで挙宗一致して、御法主日顕上人の御指南のままに、興学布教の意気に燃え、日夜、信行学に励んでいるのである。

 先に『日蓮大聖人正伝』を第七百御遠忌の御宝前に奉備し、更に『日興上人・日目上人正伝』を興・目両上人の御宝前にお供え申し上げた我が宗門は、また新たな目標に向かい、陸続と人材を輩出しつつ、大前進を重ねているのである。

 今や、在俗の身となり邪宗の徒となり下がって、愚にもつかぬ怨言と邪説を唱える正信会・在勤教師会の者どもの末路は、まことに哀れというほかはない。