代表的日本人

内村鑑三 (内村美代子・新木〈内村〉桂子訳)

 

宣言

 「予言者は、おのが故郷において尊まるることなし」という。それにもかかわらず、予言者が常にその公生涯をその故郷で始めるというのは、いたましい事実である。この世に枕する所のないのを、おのが運命と知りつつも、なお故郷に引かれ、そこで、どのように扱われるかを知り尽くしながらも、鹿が谷川を慕いあえぐように、そこに行き、そこで、拒絶され、石で打たれ、追い出される――それが予言者の運命である。蓮長の場合もまた例外ではなかった。

彼の故郷、小湊の、ささやかな生家では、彼の父母が息子の帰りを待ちわびていた。そして彼はここに、生涯の試練の中の最初にして最大のものと戦わねばならなかった。ここには、青年時代の彼を、はぐくんだ寺があり、その寺の住職としておさまる息子の姿を見たいという、両親の無理からぬ願いに、彼はそむいたからである。彼は名を日蓮と改めた。すなわち彼に生を与えた神「日輪」と、彼が、これから広めようとする「妙法蓮華経」、この二つを意味する名前である。建長五年(1253年)4月28日、紅の太陽が東方海上に半ば姿を現わしたとき、日蓮は、広い太平洋に面した断崖の上に立ち、前なる海と、後ろの山と、さらにこの海と山とを通して全宇宙へ向かって、彼自身の定めた祈祷の言葉、南無妙法蓮華経を繰り返した。この言葉こそは、すべて他の人の口を封じ、彼の弟子たちを地の果てまでも導き、永遠に弟子たちの合言葉とするようにと定められたものであって、――実に仏教の真髄、ならびに人間と宇宙との大理を現わしたものである。「南無妙法蓮華経」、その意味は、「私は心から妙法蓮華経に帰傾いたします」である。

朝、大自然へ語りかけた彼は、午後は村人に語りかけようとした。彼の名声はすでに近隣に隠れもない。鎌倉、叡山、奈良で十五年の研学を積んだこの僧は、新奇で、深遠で、有益な何事かを教えてくれるにちがいないと信じた村人は、老いも若きも、男も女も、群れ

をなして彼のもとに集まった。ある者は、真言宗の"ハラハリタヤ≠、また、ある者は、浄土宗の〞南無阿弥陀仏≠唱えながら――。堂に人があふれ、香が四隅に立ちこめたとき、日蓮は、太鼓の音とともに壇上に現われた。当時まさに男盛りの日蓮、連日の徹夜のあとは顔に残るが、両眼は熱情に燃え、予言者の威風堂々として、満堂の注目を一身に集め、会衆は息を潜めて彼の発言を待ち受けた。

彼は、彼の経典である「法華経」を取り上げて、第六巻の一部を読み、顔色おだやかに、声張り上げて、次のように語りはじめた。

私は長年にわたり、あらゆる経典の勉学に努め、諸宗の主義、主張について、ことごとくを究めました。一説によれば、「仏の入寂以後、五百年間は、多くの人は、努力なしに成仏することを得、次の五百年間は、勤勉と黙想とによって成仏することを得るだろう」とのことであります。これを正法の千年と言います。次いで来るのが、読経の五百年、その次が造塔の五百年であって、この二つを合わせて、像法の千年と言います。それに続いて、「純粋な法の覆い隠される五百年」が始まりますが、ここで仏の御利益は尽き果て、人類成仏の道はすべて閉ざされるとのことであります。これが末法の始めであって、これが一万年続きましょう。・・・今日は、末法の世に入ってより二百年という未の世でありまして、仏がこの世に御教えを垂れたもうたのは、遠い昔のこととなりました。今のわれわれにとり、成仏を得る道とでは、たった一つしか残されておりません。これぞ妙、法、蓮、華、経の五字であります。しかるに、浄土宗は、この貴き経文を閉じて、これに耳を傾けるなど教え、真言宗は、これを、彼らの経典である大日経の足下にも及ばぬものだと、ののしるのです。かかる者については、法華経の第二巻、『譬喩品』の巾に、「かかる人々は、仏陀の教えの根絶者であり、その終わりは無間地獄である」と、しるされてあります。聞く耳を持ち、見る眼をそなえた人は、この理をわきまえ、虚偽と真実とを区別なされよ。浄土は地獄に落ちる道、禅は悪魔の教え、真言は国を滅ぼす邪法、律は国賊でありまするぞ。これを言うのは、この日蓮ではありませぬ。日蓮が、法華経の中で読んだことであります。雲上の、ほととぎすの声を聞かれよ。ほととぎすは正しき時を知り、今は田植えの時だと教えております。それゆえに、みな様は、今、田に下りて植え、刈り入れの時に至って悔いることのないようにせねばなりませぬ。今こそは法華経をひろめるべき時であり、私は、この目的のためにつかわされた御仏の便であります。

彼が語り終わるや否や、猛り立った聴衆から怒りの叫びがあがった。ある者は、「彼は気ちがいだ。そう思えば、腹も立たぬ」と言ったが、他の者は、「彼の不敬は極刑に値する」と、いきまいた。そこに出席していた地頭は、この不敵な僧が、この寺の境内から一歩でも足を踏み出したが最後、直ちに彼を殺そうとした。しかし彼の老師は親切だった。この弟子が、やがては悔い改めて、正道に立ち帰り、悪夢から覚めるであろうと思って、二人の弟子に命じ、夕やみにまぎれて、地頭の目の届かぬ裏道から、日蓮を連れ出させたのである。

 

 

孤独の反逆児

故郷を追われた日蓮は、「真理をひろめるのに最適の場所」である、首都の鎌倉へ直行した。そして、今日なお松葉ケ谷と呼ばれている、持ち主のない土地に、小さな草庵を建て、法華経を携えて移り住んだ。一個独立の人たる日蓮は、今後、ここを拠点として、誤謬に満ちた周囲と戦おうとする。偉大な日蓮宗門も、その端緒を、この小さな草庵に発したのである。身延、池上をはじめ全国に散在する五千の壮大な寺院と、二百万の信徒とは、実にこの小さな草庵と、この一人とから始まった。偉大な事業はつねにこのようにして始まる。世に抗する一個の不屈な魂――永遠に偉大なるものは、その中から生まれるのである。われわれ二十世紀に住む者は、彼の教義は別としても、彼の信念と勇気とには学ぶところがなくてはならぬ。ところで、日本におけるキリスト教の始まりは、はたしてこのようなものであったろうか? 否、宣教師学校や教会など、物心両面にわたる多くの援助が与えられたのではなかったか。――偉大なる日蓮は、このような助けの一つをも借りず、すべてを独力で始めたのである!

その後の1年間、彼は再び勉学と黙想とに明け暮れる日を送った。後の日昭を、最初の弟子として迎えたのはこの間のことである。日昭は、日本仏教の現状に関する日蓮の見解に共鳴し、はるばる叡山から、日蓮のもとに来たり参じたのである。日蓮の喜びは非常なものであった。あとに日昭ありと思えば、わが教えの、この国で絶えはせぬかの恐れなしに、一命をなげうって公衆の前に立つことができるからだ。そこで、翌1254年の春、日蓮は、この国人がかって聞いたこともない"路傍説教=i辻説法)なるものを始めた。首都の聴衆の、あざけりと、ののしりとの中で、故郷で行なった最初の宣言を、再び強調したのである。路傍で説教をするなどは、僧としてあるまじき所業だという非難に対しては、「戦時には立食すら許されるではありませんか」と、断固、反駁した。また、国の統治者の抱く信仰を悪しざまに言うべきではないとの叱責に対しては、「僧侶は仏の御使であります。世間や人を気にしていては、使命は達成できませぬ」と、明快に答えた。「他の礼拝形式が、すべて誤りであるはずはない」という、もっともな疑問に対しては、簡単に答えた、「辻説法は、寺を建てるまでの足場のようなものにすぎないのです」と。こうして日蓮は6年間というもの、春夏秋冬を問わず、この辻説法を続けた。人々はようやく彼の努力と人柄とに注目するようになり、少なからぬ高官をはじめ、将軍の家族までが、彼の弟子となった。もし適当な時期に制圧を加えなければ、彼の感化は鎌倉全市に及びそうな勢いである。そこで、これを憂えた建長寺の道隆、光明寺の良忠、極楽寺の良観、大仏寺の隆観などの、権威ある高僧連が一所に集まって、首都における新興宗教の弾圧を協議した。しかし、大胆不敵の日蓮は、彼に対する連合勢力などを、ものの数とも思わない。あたかも、このころ、多くの災害が国土を襲ったのを機として、"『立正安国論』(国に平和と正義とをもたらすことに関する所論)執筆に取りかかった。今もなお、この種の本の中で最もすぐれたものと思われているこの本の中で、彼は、当時の日本を苦しめていた災害をこと占ごとく数え上げ、それらはすべて、民衆の問に誤った教義が伝えられているためであるとした。彼はこれらのことを、諸種の経文からの広汎な引用によって証明したのである。彼の見解によれば、この大難から救われる道は一つしかない。それは、最高の経典たる法華経を全国民が受け入れることである。もし国民が、この貴い賜物を拒み続けるならば、その結果として、必ず"国内の戦乱≠ニ"外国の侵略≠ニが起こるであろうと、彼は指摘した。かほどまでに辛辣な言葉が高僧連に向けて発せられたのは未曾有のことである。全文が雄叫びであり、決然たる宣戦布告であって、この戦いの行き着くところは、彼の宗派の絶滅か、他のすべての宗派の全滅か、そのどちらかよりほかはない。それは狂気と紛ろうほどの熱情であった。ここに至って、北条時頼(わが国における最も賢明な統治者の一人)は、この宗派の弾圧を決意し、この熱血漢を首都から追放したのである。しかし政治家である時頼には、日蓮の人物がわからなかった。すでに死を恐れず、また、多くの共鳴者を獲得したほどの誠意と、あらゆる試練に堪える覚悟(それは後によく証明される)とを持っている日蓮のような人に対しては、どんな脅迫も効がないのだ。かくて「仏敵に対する戦い」は、飽くことなく続けられ、ついにこの小集団は解散を命ぜられた。そしてその指導者たる日蓮は、遠い地方へ追放されることとなったのである。

   

剣難と追放

『立正安国論』の発表後15年間の日蓮の生涯は、世の権力と権威とに対する戦いに終始した。彼は最初、伊豆に流された。そしてそこに3年間、とどまるうちに、多くの改宗者を得た。許されて鎌倉に帰った彼に、弟子たちは、この上は仏敵との戦いをやめて、自分らの指導に専念していただきたいと懇願したが、彼は決然として次のように答えた。

今は末世の始めである。多くの誤りが世に害毒を流しているこのとき、決戦は、瀕死の病人に対する薬のように必要だ。一見、無慈悲のように見えて、これこそはまことの慈悲であるのだぞ

そして頭上に迫る破滅をものともしないで、この度しがたい僧は、直ちに以前の攻撃的態度に立ちかえった。そのころのある晩、彼が数人の弟子とともに伝道旅行をしていると、突然、刀を持った一団の暴徒に襲われた。彼らの首領こそは、日蓮が新しい教義の宣言をした4年前の日、この大胆不敵な改革者を殺そうと計った、あの地頭であったのだ。日蓮の弟子の内、僧1人と俗人2人の3人が、師の命を救おうとして殺された。こうして、法華経は、日本における最初の殉教者を出したのである。この三人の名は、今日なお、この教えを信ずる多くの人々に記憶され、尊ばれている。日蓮は、ひたいに傷を受けたが、危く逃れ、その傷は、この教えに対する彼の忠信のしるしとなった。

だが、真の危機がおとずれたのは、1271年の秋だった。彼がそれまで無事に過こせたのは、ひとえに当時の法律が、僧籍にある者の死刑を禁じていたからである。彼の不謹慎な態度は目に余ったが、その剃髪と袈裟とが強力な隠れ簑となって、法の励行を妨げていた。しかし、彼の毒舌がますます激しくなって、国内の諸宗派のみか、政治、宗教両面の権威者にまで、攻撃が及ぶに至るや、北条氏はついに例外的非常手段として、彼を死刑吏の手に渡すこととしたのである。いわゆる「龍の口の御法難」というのは、日本宗教史上、最も有名な出来事である。この事件の歴史的真実性が、近ごろ疑われているが、後世の信徒がこの事件に付け加えた奇蹟の衣を取り去った「危機」そのものは、疑う余地なく存在したと思われる。

通説による事件のあらましは次のようなものだ。――刑吏が、まさに刀を振りおろそうとした瞬間、日蓮が法華経の経文を繰り返すと、突然、天から烈風が吹き起こり、周囲の人々があわてふためくうちに、刀身は三つに砕け、刑吏の手はしびれて、もはや二の太刀を下すことはできなかった。かくするうちに、鎌倉から、赦免状を携えた使者が早馬で馳け付けて、法華経の道は救われたのである。――

しかし、この事件を、奇蹟の力を借ることなしに説明すれば、当時、聖職にある者を死に至らしめようとする刑吏の心が、迷信から生ずる恐怖におののいたことは実に当然であった。それゆえ、読経しながら自若として死の一撃を待ち受けている僧の威厳に満ちたさまを見た、あわれな刑吏が、この無事の血を流したならば、どのような天罰が下るであろうかと、恐怖に駆られたのは、もっともなことである。一方、この先例のない処刑を決意した北条氏自身も、それと同様の恐怖に襲われたであろうことは確かだ。そこで、彼は直ちに使者を飛ばして、日蓮に対し、死刑に代わる流刑の判決を申し渡したという次第である。まさに危機一髪ではあるが、しかし、きわめて自然の成り行きであった。

処刑台上に命を終えんとして観音の力を念ずれば刀身、片々と砕かれなん

死刑に代わる流刑は、きびしいものであった。日蓮は今度は佐渡に流されることになった。日本海の孤島、佐渡に渡る旅は、当時は困難をきわめ、それゆえ、ここは、重罪犯人の流刑地として最適の場所であった。彼がここに、5年間、流人として生き抜いたことはまさに奇蹟である。あるきびしい冬などは、その心の糧である法華経よりほかに、ほとんど糧もなしに過ごした。彼の糧は、ここに再び獲得した、肉に対する心の、また力に対する精神の勝利であった。

 それのみか、彼は、その流人生活が終わりに近づくころには、その霊的領土に、さらに一つの地域を加えたのである。この時以来、佐渡と、その隣国で人口の多い越後とは、彼の宗旨に熱烈な忠信を誓って今日に至っている。

彼の、このような不屈の闘志と忍耐とを見て、鎌倉の権威者は、彼に対し、恐怖と賞讃との念を抱くに至った。のみならず、彼が予言した外国の侵略が、現に蒙占襲来という危機となって迫って来たので、鎌倉幕府は、1274年、日蓮の鎌倉帰還を許すこととした。そして鎌倉に帰った日蓮に対し、その宗旨を自由に国内にひろめてもよいという免許状を与えた。精神はついに最後の勝利を得たのである。これ以後七百年の間、彼の宗旨は、この国内の一大勢力となろうとする。

   

晩年

日蓮今や52歳、これまでの生涯の大半を、徹夜の勤行と、この世に対する戦いとに費やして来たが、今こそは国人に対し、自由に布教できる立場に立ったのである。しかし、幕府がこの許可を与えた由来を考えると、日蓮は少しも喜べなかった。彼の目的は、支配者と国民とが、心から法華経に帰依することであるのに対し、北条氏が布教の自由を与えたのは、恐怖のためであったからだ。彼は引退を考えるようになった。かの、ヒンズーの師、仏陀にならい、山に入って、静かな黙想と、弟子たちの教化とに、余生をささげようと考えはじめたのである。彼の偉大さと、彼の宗旨の永続する主な理由とは実にこの点にあると、われわれは信ずる。世が挙げて彼を受け入れようとするとき、彼は世を捨てたのだ。彼より劣る人物がつまずくのは、実にこの時点においてである。

しかし彼の弟子たちは、宗派の禁制が解かれたのを機として、旧来の諸派の信徒に対する攻撃活動を公然と開始した。彼らは寺から寺を廻り歩き、問答攻撃によって、それらを攻略していったという。それら熱狂者たちのやり方といえば、各自が手に手に太鼓を持ち、口をそろえて、南無、妙法、蓮、華、経の題目を唱えつつ、その5つの音節に合わせて、太鼓を五度、たたくのである。彼らが20入も集まれば、耳も聞こえぬくらいのすさまじさだが、それが何100人の集団となり、新しい元気と情熱とに燃えて、鎌倉中の家から家、寺から寺を練り歩きながら、すみやかに法華宗へ帰依せよと呼びかけたさまは、目に見えるようだ、宗祖日蓮の熱情と不寛容の精神とは、現代の宗徒の間にも、はっきりと認められる。――この戦闘的情熱は、本来、非攻撃的また厭世的な宗教である仏教の中で、唯一の例外である。

われらが主人公の晩年は平和であった。彼は、富士山の西にある身延山に居を構え、南に太平洋の絶景を見おろし、周囲を霊峰に囲まれた所で、日本全国から集まる崇拝者たちの礼を受けた。そして、彼の予言が12281年の蒙古来襲となって、さながらに実現するのを、そこで見たのである。これによって、彼の名声と影響力とが著しく増大したことは言うまでもない。この大事件の翌年、彼は、池上(大森駅の近所)にある在家の弟子の家に客となって滞在中、10月11目、そこで死んだ。彼の最後の望みは、天皇のいます都、京都で法華経を説き、ついには天聴に達したいということであった。

そして彼はこの仕事を、当時14歳の少年であった日像に託したのである。ここにわれわれの注意を引くのは、彼の臨終の一場面だ。このとき、弟子たちは、臨終の床の慰めにと、仏陀の像を持って来たが、彼は手を振って、それを直ちに取りのけるように命じ、はなはだ不興気な様子を示した。そこで弟子たちは次に、南無妙法蓮華経と、漢字で大書した"掛け軸≠ひろげて見せたところ、彼は静かにそちらに向き直り、両手を合わせて礼拝しながら、最後の息を引き取ったという。彼は、経典崇拝者ではあっても、偶像崇拝者ではなかったのである。

   

性格の評価

日蓮は、わが国の歴史を通じ、最も不可解な人物である。彼は、敵にとっては冒瀆者であり、偽善者であり、食欲漢であり、いかさま師の親分のたぐいであった。彼のいかさまぶりを証拠立てるために、多くの本が書かれたが、その中には全く、まことしやかなものもある。日蓮は、敵が仏教をあざける時の絶好の対象であるのみか、彼の兄弟であるはずの他派の仏教徒までが、仏教の受ける非難のすべてを彼一人に押しつけようとするのである。彼ほど中傷の的となった日本人は他に居ない。そして、わが国にキリスト教がはいって来たとき、キリスト教もまた日蓮攻撃に参加し、この方面からも、彼に対して、さらに多くの石を投げた。ある著名なキリスト教の牧師が、ひととき、日蓮攻撃に全力を集中していたことを、私は知っている。まことに日本のクリスチャンとして、日蓮に讃辞を呈することは、イスカリオテのユダをほめるぐらい、けしからんことなのである。〔要するに、誰かが異教徒をほめる場合でも、最後まで取り残されるのは日蓮というわけだ。〕

しかし、私のみは、必要とあらぱ、日蓮のために、わが名誉を賭けようと思う。彼の教義の多くは、現代の批判に堪え得ぬということを、私は認めるし、彼の論争は粗野で、また狂気じみている。彼は確かに均衡のとれない性格で、ただ一方に偏していた。しかし、彼に附随している知識上の誤りや、生来の気性や、時代や環境の影響等を取り去った彼自身は、心の底まで真実な魂、最も正直な人、最も勇敢な日本人である。25年以上も偽善を続けられる偽善者などが居るものではなく、また偽善者は、彼のために命を投げ出そうとする何千人もの崇拝者を集めることなどはできない。「不誠実な人間に宗教が創められようか? 不誠実な人間は、煉瓦の家すら建てることができない」と、カーライルは叫んだ。日蓮の死後700年の今日、日本全国には五千の法華寺院があって、四千人の僧と八千人の教師とが配置され、百五十万から二百万人の信徒が、日蓮の定めた方式に従って礼拝している。それでもなお、これは恥知らずの、いかさま師の仕事であると言うのか? 人間性に深い信頼を寄せる私は、そんなことを信じない。この土地において、虚偽がそれほども長く続くものだとしたら、われわれはどのようにして虚偽と真実とを区別したらよいのか?

最も恐れを知らぬ人間、日蓮の勇気は、自分は仏陀が特に地上につかわしたもうた使者であるという確信に基づくものであった。彼自身は言うに足りない者である――「海辺の施陀羅の子」にすぎない――しかし、法華経の伝道者としての日蓮は、天地にもひとしい重要性を持つ者である。かつて、ある権力者に向かって、彼は次のように言った。

私は、つまらない、平凡な僧侶にすぎません。しかし、法華経の伝道者としての私は、釈迦が特につかわされた御使であります。それゆえ、梵天は右に、帝釈は左にあって、私に仕え、太陽は私の先導をし、月は私に従い、わが国の神々はすべて頭を垂れて私を敬うのであります

彼白身の生命は、彼にとり全く価値のないものであったが、このような法の担い手である彼を国民が迫害するということは、彼にとって、言い尽くせぬほど嘆かわしいことであった。彼が狂気であったとしても、それは尊い狂気である。すなわち、自己に課せられた使命に価値あるがゆえに自己を尊しとする、かの最高の自尊心と、区別しがたい狂気であった。そして自分自身をこのような眼で評価した者は、歴史上、日蓮一人ではなかったはずである。

それゆえ、激しい迫害の月日の間にも、聖経のかずかず、ことに彼自身の法華経は、つねに彼の慰めの源であった。かつて日蓮を乗せた船が、流刑地へ向かって船出しようとしたとき、愛弟子の日朗は、船に追いすがろうとして、怒った船頭の櫂の一撃に、腕を折られたが、そのいたましい姿に向かって、日蓮は次のような慰めの言葉を述べた、

末世に法華経をひろめる者は、杖で打たれ、流刑に処せられると、二千年前の法華経の『勧告』の章に書かれたことが、今、君と私との上に起こったのだ。それゆえに、喜びなさい、法華経の勝利の時は間近いぞ

流刑地から弟子たちに宛てて書いた彼の書簡は、経典からの引用句に満ちている。その中の一つに、彼はこう書いた、

涅槃経に、「重きを軽さに変える法」という教義があります。私どもは、この世で、このような重い苦しみを受けましたがゆえに、来世の苦しみの軽いことが保証されているのであります

・・・提婆菩薩は異教徒に殺され、師主尊者は首をはねられ、龍樹菩蔭は多くの試練に会われました。しかもこの方々は、正法の世、仏陀の生まれたもうた国において、この災難に会われたのであることを思えば、この辺境の地、しかも末法の世の始めに住むわれわれが、この災難に会うのは実に当然のことであり ます・・・

法華経が、日蓮にとり、尊かったことは、聖書がルーテルにとって尊かったのにも劣らなかった。

もし法華経のために死ぬことができたら、わが生命は少しも惜しくない

というのは、幾度かの危機に際して、日蓮が発した言葉である。ある意味で、われらのルーテルが聖書崇拝者であったように、日蓮もまた経典崇拝者であったかもしれない。しかし経典は、あらゆる偶像や権力よりも尊い崇拝の対象物である。そして、経典のために死ぬことのできた人は、英雄の名をもって呼ばれる多くの人たちよりも高貴な英雄である。日蓮を悪しざまに言う現代のクリスチャンは、"自分の$ケ書が、ほこりにまみれていはしないかを顧みるがよい。

また、たとえ彼が聖書を日々、口に唱え、聖書から得た霊感に燃えていたとしても、彼は、はたして聖書の宣伝者としての使命のために、十五年にわたる剣難と流刑とに堪え、その生命と霊魂とを危険にさらすことができるであろうか。すべての書にまさって人類の諸問題を善導して来た聖書の所持者であるクリスチャンが、日蓮を非難することは、見当違いもはなはだしい。

日蓮の私生活は簡素をきわめたものであった。鎌倉に草庵を構えてから30年の月日が経ち、その間には、富んだ俗人の幾人かも彼の弟子に加わって、安楽な生活は望むがままであったにもかかわらず、彼は身延におけると同様の草庵生活を変えなかった。そして「仏敵」と彼が名付けた者に対しては、きびしさをきわめた日蓮も、貧しい者、悩める者にむかっては、この上なくやさしかった。弟子に対する彼の手紙は、おだやかな調べに満ち、それはあの有名な『立正安国論』の激しさとは、きわ立った対照を示している。弟子たちが日蓮を慕ってやまなかったのも無理のないところだ。

日蓮の生涯を見るとき、われわれは、"多妻主義を除いた"マホメットの生涯を思い出さずにはいられない。両者ともに、同じ熱烈さと、同じ病的熱狂とを示し、また目的の純粋なこと、内心にあるあわれみと柔和さとの豊かなことにおいて、この2人はよく似ていた。

しかし私は、日蓮の法華経に寄せる信頼が、マホメットのコーランに対する信頼よりも強かったところから、日蓮の方を偉大だったと信ずるものである。心から信頼できる経典を有していた日蓮は、現世的の力を必要と"しなかった。法華経は、それ自体、大きな勢力であるから、その価値を確立するために、いかなる力をも必要としないのである。マホメットから偽善者の汚名をぬぐい去った「歴史」は、日蓮に対しても、より正常な評価を与えるべきではなかろうか。

日蓮から、13世紀の衣と、批評的知識の錯誤と、彼に存在したかもしれない、わずかな精神異常(これは、すべての偉人にあるとだと思う)とを取り去ると、われわれの眼前に現われるのは、一個の著しい偉人像であって、これは、世界史に現われる同種の人物の中でも最も偉大な一人である。われらの国人中、日蓮よりも独立の人を考えることはできない。まことに彼は、その独創性と独立心とにより、仏教を日本人の宗教とした者である。他派の仏教の始祖  がすべて、インド人、シナ人、朝鮮人であるのに対し、彼の宗派のみは純粋の日本生まれである。彼はまた、当時の世界を呑むほどの大志をいだいていた。すなわち、彼が出るまでは、仏教はインドから日本へ""進して来たが、今後は、より"改善された形。で、日本からインドヘ"西"進するのだと、彼は常々語っていたのである。従って彼は、消極的、受動的な日本人の中で、全く型破りの人物であった。自分自身の意志を有していたがゆえに、確かに扱いにくい人物ではあったろうが、しかし、このような人物のみが国民の中軸となるのである。愛嬌、卑下、ほしがり屋、物乞い性というような名で呼ばれるものは、国家の恥辱にほかならず、それはただ、改宗勧誘者たちが本国へ報告する「回心者」の数をふやすのに都合のよいものであるにすぎない。゛闘争性を取り去った日蓮≠アそは、われらの理想の宗教家である。

 

(『明治文学全集』39 昭和42年 筑摩書房刊 抄録 訳注略 原文旧漢字)  

 

 

もどる