日蓮上人とはいかなる人ぞ  

高山樗牛

日蓮上人と上行菩薩

  今の世の凡俗に飽きたるものは、願わくばこの篇を読め。日本はいかに堕落するとも、吾人はその同胞に日蓮上人を有することを忘るるなかれ。彼の追懐はカなり、信念なり。諸君、もし学究先生の所説を聞くの余暇あらば、吾人とともにこの一大偉人を研究せざるべからず。  

『法華経』における上行菩薩

大覚世尊年すでに70有2、法機ようやく熟し、一代の嘉会まさに近きにあらんとす。すなわち、まず成道以後、法華爾前における権実両教の起尽を明らかにせんと欲し、一巻三品の『無量義経』を説き、「四十余年未顕真実」と喝破しおわりて静かに禅定に入り給う。この時、四種の天華雨のごとく降り、普刹の大地六様に動き、世尊眉間の白毫たちまち光を放ちて東方万八千の世界を照らし、洞然として周偏せざるところなし。満地の大衆かつ歓びかつ怪しみ、思えらくかくのごとき瑞相は未だかって有らざるところ、世尊それ大法雨をふらし大法義を演ぜんか。すなわち専念合掌してひとしく瞻仰す。無見頂相遠く雲に入り五大寂寞として声なし、ひとえに一大事因縁の顕現に待つところあるもののごとし。ここにおいて世尊安庠として三昧より起ち、方便、比喩、信解等の八品をもって、おもむろに一乗無待の真理を証し、会下一切の衆生を導いて無上道を悟らしむ。「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」る世尊出離の本願ここにすなわち成就しぬ。経にいわゆる「如我昔所願、今者已満足」すなわちこれなり。

しかれども三世の人父は、なお当来の生霊に慮りなきを得ず。もしそれ前師すでに去りてのち仏いまだ世に出でざるの日、六道流転の凡夫それ何によりてか長夜の生死を脱離せん。仏縁いまだ浅からざる正像二千年の間こそ、権教人師の教化もなおこいねがわくば力あるを得べけん。ただ信解の機根ともに敗退し、謗法不信に充満すべき末法万年の初めにいたらぱ、国土と衆生とともにひとえに『妙法華経』の開顕を待って、はじめて救済せらるるを得ん。しからばすなわち、ここに末法の大導師を選定して妙経の弘通を付属しおわるにあらざれば、世尊身後の慈悲いまだ全きを得ず、出離の本願また具足せりというを得ざるなり。

世尊すなわちさらに法師品を説き、授戒の沙門、稟道の弟子について妙経の一個一句を力にしたがって唱説する大功徳を推奨し、進みて宝塔品に入りては三たび末法弘通の付属を提唱して仏前の祈誓を促し、提婆品に入りては世尊の成道と龍女の作仏とにより、前例の証悟をもって後来の信解をもとめたまいぬ。ここにおいて薬王、勢至、弥勒等の二万の菩薩すでに作仏の授記を得たる五百の阿羅漢、ならぴに会下無数の比丘、比丘尼等ひとしく仏前に進み、固く不惜身命の志を持して末法の化導に当たらんことをねがう。他方仏国の八恒河沙に過ぎたる無数の菩薩また同時に詣りて、同じく濁世弘通の付属を得んことを望む。世尊巖然としてこれらの菩薩大衆に告げていわく、巳みね、善男子、汝等のこの経を護持することをもちいず、わが娑婆世界に六万恒河沙の菩薩あり、彼等わが滅後において、よくこの経を護持し、読誦し、弘通せんと。梵音十方に徹し、三千ことごとく震い響く。このとき大千世界の国土、皆震裂して無量千万億の菩薩・同時に地中より涌き出だしぬ。「法華経」本門の序品たる従地涌出の大観、かくのごとくにして展開せられぬ。

地涌の菩薩、身は皆金色にして三十二相無量の光明あり、儀格堂々として威容四辺を圧す。かくのごときは霊山会下いまだかつて見ざるところ、弥勒菩薩が補処兼知の明をもってしてなおかつ一人も知らず。大衆皆疑って思えらく、わが仏成道このかた年処いくばくなし。いかにしてかくのごとき無量無辺の大菩薩を教化し得たりしや。世尊ここにおいて初めて如来久遠の法門を開顕し、本因本果の妙理を説き、久成の妙経を付属すべきもの、また久成の菩薩なるべきを示し給う。この顕本遠寿の教理こそは実に四十余年の仏説を撥無して法華爾前の経典に全然新面目を与えたるもの、しかしてこの本門の開顕のよってもとづくところは、地涌菩薩の本貫を明らかにして末法付属の大事業を完成せんがためにほかならず。

世尊すでに衆疑を排したる後、分別、随喜、法師の三功徳品を説いて妙法受持の利益を讃歎し、さらに不軽品に入りて折伏逆化の現証を示し、もって末法弘通の標範を垂れ給う。ここにおいて地湧本化の無量の菩薩、その上首たる上行等の四大菩薩によりて仏前に誓っていわく、われら仏の滅後において広くこの経を弘めて、あえて退転するこなけんと。世尊これを嘉納し、告知していわく、善いか上行菩薩、「如来一切所有の法、如来一切自在の神力、如来一切秘要の蔵、如来一切甚深のこと、みなの経において宣示し顕説しぬ。このゆえに汝等如来の滅後において一心に受持し、読謂し、解説し、書写し、説のごとく修行すべし」と。法華一経の主眼たる末法付嘱の一大事はここに初めて成就しぬ、世尊成道の本願はこのに初めて全きを告げぬ。多宝の大塔はここに初めてその出現の因縁を了しぬ。十方諸刹は、この一大慶事の歓喜のために広長舌を出して無量の光を放ち、謦咳弾指の響きはあまねく三千の世界にいたり、地は六種に動き、虚空に賛美の声あり、天華繽紛として雨のごとく降り、瓔珞旛蓋のたぐい雲のごとく十方より集まり、変じて五彩の宝帳と在りて諾天諸仏の上に揺曳きぬ。かくのごときは、『法華経』におけるいわゆる結要付属の次第なり。本化地涌の上首たる上行菩薩の上に寄托せられたる末法の大導師たる使命は、本論の大序として吾人とくに読者の注意をもとめんと欲す。何となれば日蓮の品性、抱負、信仰を包括せる彼が一代の本領は、実に「我は上行菩薩なり」という一大自信に存すればなり。  

上行菩薩出現の予言

上行菩薩という日蓮の自信は、畢寛、釈尊の預言に対する絶対の信仰と、妙経色読の行者としての一身の証悟とに基づく。されば吾人は、まず彼が信仰上の経歴について少しく考査するところなかるべからず。けだし、かくのごときは日宗学徒が常套の談義ならんも、しかも本論の序次として日蓮の立脚地を会得する上においては、きわめて重要なる事項に属す。

仏滅後における『法華経』弘通の使命は、すでに十地地涌の上首たる上行菩薩に寄托せられたり。しからばすなわち彼、上行の出現すべき歳時はいずれの年代にして、方処はいずれの国土なりや。はたまた彼がよってもってその使命を果たすべき当体は、そもそも如何の人、もしくは如何の神ぞ。これらの事情に関する釈尊の預言はいかに。

吾人は先に上行出現の仏識を記して末法の初めと謂えり。これ、しばらく文底の本意によれるのみ。『法華経』には単に、あるいは末法と云い、あるいは末世と云い、あるいは悪世、濁世、濁悪世等と云えるのほか、特に末法の「初め」の明文なし。「唯薬玉品」に「我滅度後、後五百歳中、広宣流布、於閻浮提、無令断絶……」の文字あり。この文中の「後五百歳中」の五字をもって正像二千歳後の五百歳、すなわち末法の初めとするは後世学者の定解にして、上行出現の時期はこの定解によりて永く確定せられしなり。しかして、かかる解釈のよってきたるところを尋ぬるに、一は本文の末法、末世等の文字に参照せる結果ならんも、主として『大集経』の有名なる五個の五百歳の預言に起因せるもののごとし。すなわち、この経第五十一に世尊月蔵菩薩に告げていわく、「わが滅後において五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固(以上正法一千年)、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固(以上像法一千年)、次の五百年はわが法中において闘諍言訟あり、白法隠没せん」と。これ明らかに末法の初めにおいて教法の堙滅を預言せるものにして、かの「後五百歳中」に対するの擬釈として前後あたかも符契を合するものに似たり。これをもって妙楽、天台、伝教等みなこの解釈を取り、日蓮また数々これをもってその門下に教えたり(『撰時抄』『法華敢要抄』『曾谷入道殿御書』等)。かくのごとくにして、『法華経』弘通の付属を受けたる上行菩薩が末法の初め、すなわち仏滅後二千年より二千五百年までの間において出現すべしとは、仏説の預言を信ずるものにとりて疑うべからざる信念なりしなり。

時代はすでに末法の初めに定まりぬ、しからばすなわちその国土はいかに。仏説はこの点に関して、なんら信憑すべき徴証を与えずといえども、後世の論釈中には多少の預言的文字なきにあらず。弥勒菩薩の『瑜伽論』に「東方に小国あり、そのなか唯大乗の種姓あり」と謂えるは、妙経流布の国土のインド以東にあるを示せるもの、しかも特に記して小国と調えるは注意すべき文意なりとす。肇公が翻経の記に大師友手に『法華経』を持し、右手に鳩摩羅什の頂を摩して授与していわく、「仏日西に入りて遺耀まさに東に及ばんとす、この経典東北に縁あり、汝慎みて伝弘せよ」と。インドより東北の国土は支那にあらざれば韓半島、しからざれば日本あるのみ。伝教これを擬釈していわく、「代を語ればすなわち像の終わり、末の初め、地を尋ぬればすなわち唐の東、羯の酉、人をたずぬればすなわち五濁の生、闘諍の時なり」と。知るべし、彼が明らかに弥勒のいわゆる東方の小国をもって日本国なりと信ぜしを。日蓮また伝教の擬釈をうけ、さらにその時代の情態と一身の現証とによりて、この信念に動かすべからざる根拠を与えぬ。

いわゆる時代の情態とは何ぞや。他なし、末法行者の境遇に関する『法華経』の預言なり。そもそも世尊『法華経』を説くや、この経を受持し、弘通するの極めて困難たるを誡むること一再に止まらず。方便品に「この経を読誦し書持するものを見て、軽賎憎嫉して結恨を懐かん」と云えるをはじめとして、法師品には「この経は如来の現在すら、なお怨嫉多し、いわんや滅度の後をや」と説き、宝塔品にはいわゆる六難九易の教えを述べて、須弥山を擲つも、足指をもって大千世界を動かすも、もしくは手に虚空をとりて遊行するも、あるいは大地を爪上に置きて梵天に昇るも、なお末世において『法華経』を受持するの難きにしかざるを告ぐる等、策励戒飾いたらざるところなし。殊に勧持品と不経品との二者のごときは、全篇の文字ほとんど皆「法華経の行者」に対する迫害の覚悟を垂示せるものにあらざるはなし。その世運の衰頽を述べ、教法の堕落を描き、この末法の行者たるものはいわゆる三類の強敵に反抗して不惜身命の苦節を忍ぱざるべからざるを説くところ、文意もっとも激越を極む。これすなわち上行菩薩出現の国土の状態に関する釈尊の預言として見るべきものとす。『大集経』に、いわゆる「闘謹言訟、白法隠没」とは、すなわちこれなり。

これをもってこれを見る、時はすなわち末法の初め、地はすなわち日本国。時と地とすでに定まりぬ、一しからぱすなわちその人は如何の人ぞ。勧持品説くところのごとくんば、彼は悪世の中に『法華経』の真理を弘むるために身命を惜しまざる者ならざるべからず。諸々の無智の人、悪口罵言してあるいは刀杖瓦石を加うるものあらん。邪智諂曲の比丘、俗悪鄙吝の僧侶等、名を正義に仮り、力を権家に求めて彼を誹謗せん。彼はこれら一切の迫害を忍受し、身命を愛まずしてただ無上道を惜しむものならざるべからず。彼はこれがために「数々擯出せられ」、また幾度か寺塔住居を遠離せん。しかも彼は、ただ大覚世尊の告勅を念うのほか、その他を知らざるものならざるべからず。ああ、時はまさに到りぬ、比もまた定まりぬ、かくのごとき人ひとり未だ出でざるや。この時にあたり、現身の証悟をもってこの疑問に最後の解決を与えんがため、仏議の摂理によりて日本鎌倉を追われたる一個の僧ありき。彼、名は日蓮、この一大使命のまさに彼の頭上に落ちんとするの時、彼はまさに佐渡流竄の途上にありき。

ここにおいて、一言の読者に告ぐべき事あり。吾人が上文述べ来たりたる上行菩薩の付属とその出現の時処位とに関する教相判釈は、毫も吾人の佛意に出でたるにあらず。天台、妙楽、伝教等の継紹授受したる定解にして、したがってまた仏教教理の上においてのこれら諸大師の伝統をうけたる日蓮の教判たりしなり。台家以外の諸宗派にありては、あるいはかくのご上き教判を認容せざるものもあるべく、今日の学者等がいわゆる仏教教典に対する高等批評の見地よりすかば、かくのごときの問題また全然別種の意義を有し来たるやも知るべからず。しかれど、かくのごときは本論の毫も関知するところにあらず。吾人の主旨は、上行菩薩の自信に到達するまでの日蓮上人の教判および信仰上の経歴を明らかにするにあり。この目的に向かっては日蓮その人が如何の和解、如何の信念のもとにその宗教的性格を修養したりしかを看取し得れば、す在わち足る。吾人はこの点において、特に読者の注意を請わんと欲す。さもあらばあれ、日蓮はいかにして上行菩薩の自信に到達したりしや。この自信億彼の性格、信仰、事業の上に如何の影響を与えしや。吾人はここにおいて、少しく日蓮の伝記について語るところ、なかるべからず。  

「法華経の行者」としての日蓮

多宝の塔閉じ、霊山の会散じてより、春去秋来二千二百有余年。日本東海の辺土、安房国清澄寺に一個の小僧ありき。彼、素漁夫の子、年十二にして家を出で、十八にして僧となり、爾来もっぱら聖典の研究に身をゆだね、天下の名山巨刹を歴訪して智見を修養し、信念を陶冶すること前後十有五年、内外古今の典籍一つも渉猟せざることなし。彼、今まさに長き遊学の旅路よりその故郷の寺門に帰り来たり、その故旧および檀下の大衆を集めて教を説がんとするなりき。遠近伝え聞き、新来の学僧説くところの教法のいかに清新なるべきかを想いて、来たり集まるもの、はなはだ多かりき。これ天台大師が「のちの五百歳、遠く妙遣に沾わん」と預言せしより七百年、伝教大師が「正像やや過ぎて末法はなはだ近きにあり、法華一乗の機これ正しくその時」と預言せしより四百年の後、時はまさに建長五年(1253)四月二十八日。しかして彼とは、いうまでもなく日蓮なりき。

日蓮かごの目の説法は会下大衆の期待せるごとく、実に清新なるものなりき。おそらくは仏法二千年の歴史における論師の説よりも清新なるものなりしならん。彼は口を開いてまず一切現行の宗門を否定し、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と宣言し、「法華経の行者」たる彼の唱道する一仏乗の妙理にあらざるよりは、一切の諸宗を排してすべて無得道と喝破しぬ。聴衆はみなこの意外の傲語に驚きて、あるいは怒り、あるいは笑う。同門の僧侶、袂を連ねて席を去り、互いに顧みて「ああ、わが蓮長ついに狂せり」と嵯嘆しぬ(蓬長とは彼が当時の名なりき)。あたかもキリストがその故郷ナザレに帰り、イザヤの預言を誦して、「この録るされたること今次等の前に応えり」と言いし時のごとく、何人も日蓮の言をもって常識あるものの口より出で得べしと思惟する者あらざりき。

しかり、「法華経の行者」たる彼の宣言は常識を超越する天来の獅子吼なりき。彼は狂と呼ばれ痴と噺けられながら、ついにその故郷を追われぬ。かくて、おそらくは何人もこの一狂信の前途を思念する者なかりし間に、日蓮の名はいくばくもなく天下の覇府なる鎌倉の中央より響き渡りぬ。彼は浄土、禅門の全盛を極めつつあるこの大覇府の広衡において、彼等の熱心なる帰依者にしてかつ外護者たる北条氏の権威を嘲りつつ、公々然として四個の宣言を標榜し、諸宗無得道を絶叫して一日も緩怠することあらざりき。いうまでもなく、あらゆる嘲笑罵詈は彼の身辺に集まれり、瓦石糞土はいたるところに雨のごとく彼の頭上に降りかかれり。しかれども、これただますます彼が折伏の決心を堅うし、道化の気焔を昂むるのみなりき。

かかる間に『立正安国論』の大論策は、彼が立宗の大本、一期の遠鑑として世に現われぬ。三災七難の仏識に基づきて内証外患の近きにあることを警戒せる一大国家的要言は、青天の霹靂のごとく上下の耳目を聳動しぬ。衆怨ついに爆発せり。数百の暴民は幕府の黙許のもとに、彼が松葉が谷の庵室を焼撃しぬ。北条氏は罪名を糺さずして彼を伊豆に流しぬ。年を越えて、赦され帰るや、門下みな折伏を緩うせんことを請う。彼、儼然としていわく、折伏道化は聖経自爾の本義、釈尊弘法の遺範なり、仏識昭々として火を睹るがごとし、「法華経の行者」一日もこの事なかるべからずと。侃諤ますますカむ。日蓮宗聖日の一つたるいわゆる小松原の法難は、この間に起こり、彼の額上はこれより永く深大の刀痕を印しぬ。かかる間に、彼の精神に一大覚悟を促すべき時機は、ようやく迫り来たりぬ。文永五年(1268)の初め、蒙古大陸連勝の余威に乗じて書を我に送り、暗に侵逼の禍心を示す。上下驚怖し人心洶々たり。まさにこれ日蓮が八年前に発表したる『安国論』の預言を実にするもの、適中あたかも符契を合するがごとし。彼は、ここにおいて十一通の書を蔵して、北条氏をはじめ幕府の権家、府中の大寺に送り、おおいに往年の誹謗を詰り、預言の現証によりて改悔の実を促し、揚言していわく、極楽寺の良観、建長寺の道隆等の頭を由井が浜に曝して、早く一仏乗に帰依世ずんば、国家の滅亡ついに避くべからざるなりと。辞意激獅極め、気塊一世を呑吐す。十宗の維素怨嵯措くところを知らず、百方詭を構えて刑薮を幕府に逼る。幕府ついに彼を捕えて斬に処す。この時、彼、昂然としていわく、死はもとよりわれの期待するところ、この臭骸を『法華経』に捧ぐるは糞土をもって黄金に換ゆるなり。「わずかの小島の主の威さんに恐れては、閻魔王の責をば如何にすべき」と。

しかれども天か、命が、彼の頭は竜口に落ちざりき。越えて一月、彼は警護の武士に伴われ、信山越水を踰えて遠く北海のほとりに漂泊いぬ。関外、秋深くして野に悲風あり、眸を放てば北洋の煙波蒼茫として、はるかに青螺の天辺に横たわるを見る。これすなわち流人目蓮の配処、佐渡が島なりき。ああ、佐渡が島! そこには如何なる運命の、この希有の流人を待ちつつありや。  

疑問

日蓮にとりて佐渡は、すなわち末法の寿量品なりき。鎌倉の反対者が彼を北海の孤島に放逐したる間に、法華折伏の使命を付属せられたる末法の大導師は、さらにこの誘法の国土に大法雨をふらすべく出現しぬ。末法の大導師とは、いうまでもなく本化地涌の上首上行菩薩にして、しかしてこの一大使命を自覚したる者は、すなわち日蓮その人にほかならざりき。

いかにして日蓮は上行菩薩の自信に到達し得たりしか。これ彼にとりて健孚感応の一大事に属し、もとより傍人の交啄を容れざるべしといえども、しかもなおその事蹟の彷彿を想うに足るものあり。吾人はここに、彼の信仰上の径行についてその心事を観測せざるべからず。

第一、最も明らかなるは彼の「不惜身命」の一切の云為は『法華経』の教理および預言に対する絶対の信仰にもとづくことなり。彼は、末法教化のために展開せられたる顕本遠寿の一大真理を信ぜり。本化地湧の菩薩等がこの使命のために霊山の会下に招集せられたるを信ぜり。しかして、この使命の付属を受けたるものは、彼等の上首たる上行菩薩なりしことを信ぜり。彼はまた、この上行菩薩の出現すべき時の末法の初め五百年、すなわち仏滅後二千年より二千五百年までの間なること、ならびにその出現のところの東方の小国日本国なることを信ぜり。かくのごとき信仰を固持せる彼は、果たして彼自身について如何の感想を有したるべきか。彼の時は仏滅後二千二百余年に当たる、いわゆる末法の初めにあらずや。彼の国土はすなわち日本国にあらずや、とりも直さず、彼は少なくとも上行菩薩の出現すべき時機と国土とを共有せることを覚らざるべからず。この自覚も彼の宗教的生活の初めより存在せることは、遺文明にこれを証するのみならず、「法華経の行者」としての彼が不撓なる精神と遠大なる抱負とは、主としてこの自覚に基づきしことは、きわめて明瞭なる事実なりとす。すでに時代と国土との契合を確信したる「法華経の行者」たる彼は、上行菩薩みずからの出現に関して如何の観察を有せしか。『法華経』の預言にして真ならば、もしくは大覚世尊にして妄語の仏にあらずんば、この時、この国、すでに上行菩薩の出現を見ざるべからず。―― かくのごときは必ずや妙経色読の間において日蓮の胸中に日夕往来したる疑惑にして、また同時に苦悶ならざるべからず。

しかれども、本化の大菩薩をもって自ら讃するかごときは、彼のおそらくは想い及ばざりしところ。彼はただ一個の誠虔なる「法華経の行者」たるに過ぎざりき。「法華経の行者」として一身を法王の宣示に委ね、「如説修行」の大願に一住してその他を知らざりき。彼は末法の導師のために預言せられたる勧持品二十行の偈を読みて、あらゆる迫害を忍受すべき一大決心を固め、危害の身に及ぶことに仏識の空しからざるを喜べり。かくのごとくにして折伏逆化の事業に当たること二十余年。今や、わずかに竜口の斬首を免れて遠く北海の流人となりぬ。ああ悪世悪国並び存して「法華経の行者」身を容るるにところなし、しかも上行菩薩はついに出現せざるべきや。彼は疑いもなく、この幽深在る疑惑を抱いて北海の配処に向かいしなり。  

疑問の解決、一大醒覚

しかれども、この疑惑の解決せらるべき日はようやく近づきぬ。一大醒覚まさに近きにあらんとす。塞外十月、北地風荒く波高し。彼は、しばらく越の寺泊に泊して天候の回復を待ちぬ。匆劇の境を離れて、たちまち幽静の地に客たり、感懐果たして如何。ああ、彼はついに目覚めたり、永遠に目覚めたり。二十年来の疑惑は霧のごとく散じたり。『法華経』の預言はこの覚醒によりて、さらに新しき生命を得ぬ。東海の仏子日蓮の生涯は、にわかに寂光宝生の光明に照らされて直ちに仏識の現証となりぬ。彼が過去は、久遠の過去となりぬ。彼の未来も久遠の未来となりぬ。彼が接触したる一切の衆生と国土と、すべて彼の一身に関連して妙経預言の註脚となりぬ。弥勒、天台、妙楽、伝教等は彼によりて初めて妄語の罪を免れたるのみならず、一代仏教の帰着は彼によりて初めて現前の事証となりぬ。この大自覚の喚起せられたる時、鎌倉の流人、安房東条の施陀羅の子日蓮は、一躍して本化地涌の上首上行菩薩となりぬ。

彼は、いかにしてこの自覚に到達したりや。吾人は『法華経』勧持品のいわゆる二十行の偈が、この自覚を彼の心中に喚起したる重なる媒介者なることを疑わず。何となれば末法の大導師の一身上の経歴に関する預言は、ほとんどこの一偈の中に包括せらるればなり。されば日蓮にして自家二十年の境遇が歴々としてこの預言の現証たることを認識したる時、猛然として自ら省悟するところあるは、けだし自然のことなるべし。偈の文にいわく、

諸々の無智の人、悪口罵詈等および刀杖を加うる者あらん。我等みな、まさに忍ぶべし。悪世中の比丘、邪智にして心諮曲なり。いまだ得ざるをすでに得たりと謂い、我慢の心充満せん。あるいは阿練若に納衣にして空閑に在り、自ら真道を行なえりと請いて『法華経』を弘むる者を軽賎する者あらん。彼、利養に食著するがゆえに法を説き、世間無智の人に恭敬せらるること六通の羅漢のごとくならん。この人、悪心を懐き常に世俗の事を念う。唯名を阿諌若に仮るのみ。好んで我等『法華経』を弘むる者の過を出し、しかして言わん、此の種々の比丘等は利養を貧るためのゆえに外道の論議を説き、自らこの経典を作りて世間の人を誑惑し、名聞を求むるためのゆえにこの経を分別すと。常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に 国王、大臣、婆羅門、居士及び余の比丘衆に向って誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人外道の論議を説くと謂わん、これ邪見の人にして外道の議論を説くのみと。我等仏を致するのゆえに、ことごとくこの諸悪を忍ぶべし。濁劫悪世の中には 多く種々の恐怖有らん 悪鬼其の身に入りて我を罵詈し毀辱せん 。我等仏を敬信してまさに忍辱の鎧を著け、この経を説くためのゆえに、この種々の難事を忍ぶべし。我は身命を愛まず、ただ無上道を惜しむ。我等来世において仏の所嘱を護持せん。世尊自らまさに知り給うべし。濁世の悪比丘、仏の方便宜しきに随って説くところの法を知らず、悪口して顰蹙し、かずかず擯出せられて塔寺を遠離せん。かくのごとき衆悪をも、仏の告勅を念うのゆえに、皆まさにこの事を忍ぶべし。(文意不通のところには仮に釈字を添加す)

この偈に、いわゆる罵詈は言うまでもなし。刀杖を加うる者とは、すなわち東条景信等の一輩にあらずや。悪世の比丘、邪智にして増上慢なるものは、当時の十宗の僧侶にあらずや。阿諌若(寺院)にありて白衣空閑、無知の人に恭敬せらるること阿羅漢のごとく、名利に貧著して「法華経の行者」を誹誇するものは、すなわち良観、行敏、道隆、隆親等の当時のいわゆる諸高僧にあらずや。国王大臣に向かって我を讒毀するものとは、すなわち持斎念仏墓言師等が北条氏に強訴せるの謂にあらずや。身命を愛まずしてただ無上遣を惜しみ、これら一切の諸悪を忍受して仏の付属を護持せるものは、すなわち日蓮にあらずして誰ぞ。いわゆるかずかず擯出せられて塔寺を遠離せんと謂えるものは、すなわち居処を追わるること二十余度、一度は伊豆に放たれ、二度は佐渡に流されたる日蓮その人の現境にあらずして何ぞや。日蓮は「法華経の行者」なり、時は末法の初めにあたり、国は東方の悪土に合し、しかして現身をもって勧持品二十行の預言を実現す。かくのごときは南岳、天台、妙楽、伝教等のなおはるかに及び到らざるところ、本化の上行菩薩にあらざるよりは誰かよく仏識を顕証して比のごとく的確なるを得んや。仏にして妄語の神ならんか、すなわち已む。いやしくも久遠実成の三界の教主ならば、日蓮また必ず上行菩薩ならざるべからず。日蓮は疑いもなくかくのごとく思惟し、かくのごとく確信したりしなり。  

上行菩薩としての日蓮

今、彼の遺文について検するに、この信念の曙光は、彼が越後の寺泊よりその随一の檀越富木氏に与えたる、いわゆる『寺泊御書』に顕われはじめぬ。「当世三類の敵人はこれあるも地涌の菩薩は一人も見えざるか、日蓮は八十万億那由陀の諸菩薩の代官としてこれを申す」と言えるもの、彼の爾前の書かつて見ざるところの文意に属するを見るべし。越えて一月、佐渡より同じく富木氏に送りたる消息に至りては文義さらに明晰なるものあり。「寺泊より法門を書き遣わし侯いき。推量侯らん、すでに眼前なり。仏滅後二千二百余年に、天台、伝教は粗々釈し給えども、弘め残せる一大事の秘法をこの国においてこれを弘む、日蓮豈にその人にあらずや」と。またいわく「前相すでに顕われぬ、これ時の然らしむるゆえなり。経にいわく有四導師、一名上行云云」。これまさしく上行菩薩の使命を言明したるものにあらずや。翌年(文永九年=1272)二月、最蓮房に与えたるいわゆる『生死一大事血脈抄』、また明らかにこの意を表わしていわく、「上行菩薩末法今の時、この法門を弘めんがために御出現これあるべき由、経文に見え侯えども如何に侯やらん。上行菩薩出現すとやせん、出現せずとやせん。日蓮まず粗々弘め侯なり」と。かくて教相の釈義として日蓮大一代の大文章たる『開目抄』は、主としてこの一大事実の宣言のために草せられ、法体の主判として目宗全門の秘鑰なる『観心本尊抄』またこの説明のために著わされ、『如説修行抄』はたまたこの信仰の偉大なる勢力を代表し、壮詞ラzなる法華折伏の宣戦状となりて全国門下の志気を鼓舞しぬ。

ここにおいて、彼は一代聖教みなこれわが一身の註脚のみと喝破し、勧持品二十行の偈は日蓮だにこの国に生まれずば世尊の大妄語となり、本化地涌の菩薩は提婆が虚誑罪に堕すべしと揚言し、日蓮『法華経』のゆえにたびたび流されずば「数々見擯出」の数々の二字をいかがせんと高語し(『開目抄』)、「今の遣使還告は地涌なり」と説き(『観心本尊抄』)、「すでに地涌の大菩薩上行出てさせ結いぬ、結要の大法また弘まらせ給うべし、日本漢土万国の一切衆生は金輸聖王の出現の先兆、優曇華に値えるなるべし」と示現して一閻浮提広宣流布の一大理想を発表しぬ(『教行証御書』)

日蓮は、果たして上行菩薩の化身なりや。彼は仏家のいわゆる前生において、霊山会上に釈尊の付属を受けたりしや。かくのごときは吾人の知るところにあらず、また知るを要するところにもあらず。吾人は、ただ日蓮が釈尊に対する無限の帰依によりて「われは上行菩薩なり」という金剛不壊の確信に到達したるを見るをもって足れりとせん。かくのごとき確信洪今の学究輩によりて如何の説明を得べきかは、吾人の関するところにあらず。ただこの確信が、日蓮の精神において無上絶対の事実なることを知れば、すなわち足る。見よ見よ、この確信を得てより彼の性格の偉大はほとんど人界の規矩を超越しぬ。彼はこれによりて天地人生の上に無限の威力を得ぬ。その意志と情熱とともに、天来の霊気によりて鼓吹せられぬ。彼は、これによりて預言の力おのれの手にあることを信じ、祈祷の聴かれざることなく、呪咀の行なわれざることなきを信じぬ。彼はこの確信のカによりて、天下万国の一切衆生に向かって無上の権威を持てるもののごとく教訓し、告知し、かつ命令せり。彼は自らかくのごとき権威を有せることを疑わざりしなり。彼は、国家政府がこの確信の前には、いかに小弱なるもの在るかを見ぬ。これをもって、当代の君主執権を指して「わずかの小嶋の主」と軽んじ、天照太神、正八幡等の国神を「小神」と卑しめぬ。三世十方の世界を貫通して久遠実成の無上道、『妙法蓮華経』の現証たるこの確信の前には、日月もその光を失い、天地もその大を失い、一切人天の衆生は帝王も乞食もことごとくみな一小児となりぬ。事ここに到りては言の記すべきなく、文の述ぶべきなし。吾人はただ帰命讃歎して、奄々の一語を反覆するのほかなきなり。

さもあらばあれ、かくのごとき大いなる確信のもとに活動せる彼が半生の事業のいかに雄大崇厳を極めたるかは、ただに鎌倉時代の偉蹟としてのみならず、ただに日本歴史の壮観としてのみならず、また実に人類永遠の史上における一大事実として伝えらるべきものなり。吾人、乞う、篇を改めて少しく述ぶるところあらん。

本論を草するに当たり、田中智学氏および氏の門下山川智応氏が有益なる注意を与えられたるは、著者の深く感謝するところなり。(1902年4月)

   

日蓮上人と日本国  

読者の疑惑

次節にかかげたる「日蓮とキリスト」と題する論文中には、おそらくは読者の多数を驚かしたる数行の文字ありたるべし。吾人ははじめよりこれを予期したりしが、果たして天外生と称する人の寄書によりて、この予期の空しからざることを知り得たり。かくのごとき疑惑を懐けるものは、けっして天外生一人に限らざるべきを想えば、吾人はここにこの疑惑に対して明瞭なる解決を与え置かざるべからず。

しかして読者よ、この問題の関わるところは吾人にとりては意外に重大なり。すなわち歴史上の一宿疑たる日蓮対蒙古の問題もこれによりて解釈せらるべく、しかしてこの解釈の結果として日蓮上人その人の通俗的概念は一大刷新を被るべく、さらに吾人のいわゆる日本の一大偉人としての上人は、ここに初めてその本来の面目を発揮し来たるべし。天外生の寄書はすこぶる長しといえども、その要は左に記するがごとし。

樗牛兄足下、余は足下の指導に随いて日蓮の研究を初めたる一人なり。余は見下と共に日蓮の偉大を悟り得たることを欣ぶ者なり。しかれども、足下近時の文章は余が研究の前途に一疑団をもたらせり。果たして足下の言のごとくんば、余は恐る、日蓮に対する余の態度はまた前日のごとくなるを得ざらんことを。

近刊の『太陽』載するところの「日蓮とキリスト」と題する足下の論中に、護法の国家日本は滅ぶべし、ただ日蓮の徒のみは幸いなるかな云云の文字あり。これをもって見れば、日蓮は日本の滅亡を意とせざりしのみならず、かえって謗法の国土としてその滅亡を希いし者にあらざるか、果たしてしからば日蓮こそは日本国の大不忠漢にあらざるか。余は足下と共に日蓮の人物を敬慕す、しかれどもその本国の滅亡を憂えざる不忠漢は余の道義的感情と相容れざるなり。日蓮、果たして足下の言うごとき人物なるか。足下これを認めて、なおかつその偉大を讃美せんとするか。足下と余とその執るところに、あるいは相容れざるものあらんを恐る。しかれども余の見るところによれば、日蓮はけっして足下の言うごとき亡国を意とせざる不忠漢にあらざるなり。これ、ひとり余のしか言うのみならず、その忠君愛国の精神において本邦諸高僧の間に一異彩を放てるは、日宗歴代の諸高僧のひとしく認むるところなり。日蓮宗徒の或者が自宗を標榜して特に国家的宗教と称するもの、また必ずしも不当の見にあらざるを想う。足下燃犀の識、必ずやかくのごとき観察に一頭地を抜けるものあらん。余は足下のいわゆる「断片」ならざる論文においてその委曲を知り、もってこの一大疑惑を解かんことを希う、云云。

想うに天外生の疑惑は、すなわち多数の読者の疑惑ならん。吾人はここに最も簡明にこの問題に答え、延いて左の条々について吾人の見るところを陳ぜんと欲す。

1、日蓮は今日のいわゆる忠君愛国主義に反対せり。

1、日蓮の説をもって国家主義と呼ぶは可なり、しかれどもそは全く理想上の意味に解すべし。今日のいわゆる国家主義とは相容れず。

1、佐渡以後の日蓮の進退 ―― 身延退隠の原因。

1、蒙古襲来に対する日蓮の態度。

1、日蓮には蒙古調伏の形跡なし、元寇記念像の建立は無意義なり。  

日蓮は大不忠漢なり

天外の疑惑に対する吾人の答弁は、きわめて簡単なり。いわく、日蓮は生の疑えるごとく日本国の滅亡を意とせざりし生のいわゆる大不忠漢なりき。しかれども驚くなかれ、吾人のこの語を誤らざらんと欲せば、読者はまず「国」という文字の真意義を解せざるべからず。

この世において最も大いなるものは、必ずしも国家にはあらざるぞかし。最も大いなるものは法なり信仰なり。しかして、法に事うるの人もまた時としては国家よりも大いなることあるなり。かくのごとき人にありては、法によりて浄められたる国土にあらざれば真正の国家にあらざるなり。日蓮は、すなわちかくのごとき人なりき。

世の日蓮の国家主義を説くもの、吾人数々これを聞けり。しかれども畢寛、これ贔屓の引き倒しのみ。

ああ、国家的宗教と云うがごとき名目のもとに自家宗門の昌栄を誇らんとする僧侶は禍いるかな。かかる俗悪なる僧侶の口よりその国家主義を讃美せられつつある日蓮上人は気の毒なるかな。

日蓮の国家主義を説くもの、必ずまず『立正安国論』を引く。いわく「国を失い家を減ぽさば、いずれのところにか世を遁れん、汝すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を祈るべし」。またいわく「それ国は法によりて昌え、法は人によりて重し。国亡び人減せば仏たれか崇むべき、法たれか信ずべけんや。まず国家を祈りて、すべからく仏法を立つべし」。かくのごときは吾人をもって見れば、たとえば一昨目御書における「日蓮は生を此土に得たり、豈、我国を思わざらんや」といえると等しく、尋常一般の辞令のみ。これによりて直ちにその国家主義を論ぜんとする、むしろ大早計といわざるべからず。

法はその対境として国と人とを要す。しかれども如何なる国も如何なる人も、ことごとく皆法の対境たり得べきにあらず。悪国は膺懲せざるべからず。悪人は戒化せざるべからず。かくのごとくにして適法の国と人とを造る、毫も怪しむべきにあらず。日蓮は真理のために国家を認む、国家のために真理を認めたるにあらず。彼にとりては、真理は常に国家よりも大たり。これをもって彼は真理のためには国家の滅亡を是認せり。否、かくのごとくにして滅亡せる国家が滅亡によりて再生すべしとは、彼の動かすべからざる信念なりしなり。蒙古襲来に対する彼の態度のごとき、また実にこの超国家的大理想に基づく。

『立正安国論』は、日蓮立宗の大論策なりといえども、その国家観はなお、はるかに佐渡以後の諸文章の緊当剴切なるに及ばず。畢寛、その心いまだその境に到らざるの致すところか。何ぞその明瞭を捨てて、彼の摸稜を執るの理あらんや。いわんや国家主義者流説くところの「国は法によりて昌え、法は人によりて貴し」と云える文意は、宗教を離れたる国家の存在を否定するものにほかならざるをや。ひとえに文字の外観によりて、いたずらに偉人を誤る、罪は甚はだ大なりというべし。

かつ、それ生を此土に受けたるがゆえにこの国を思うというがごときは、きわめて浅薄なる愛国者といわざるべからず。もし彼をしてイギリスもしくはロシアに生まれしめば、すなわち直ちに英、露の愛国者たるに過ぎざるべし。何ぞ、かの丙丁童子の国家観と相似たる。イギリス史上の愛国者の最も大いなる者、吾人まず指をクロムウェルに屈す。しかして彼がイギリスおよびその国民を愛したるは、その生国たるがためにあらずして、上帝の摂理を負える神聖なる選民なりという偉大なる信念に基づきたりき。この信念ありて初めてこの真正の愛国心あり。  

日蓮は真正の愛国者なり

日蓮の理想は『法華経』の真理を宇内に光被せしむるにあり。この大理想のもとに活動せる彼にして、もし特に日本国を愛したりとせば、そは生国の因縁以外において、真理そのものとこの国土との間の、ある必然的関係に基づかざるべからず。しかして彼みずから「日本乃至一閻浮提」(『報恩抄』)と言えるをもって見れば、彼がこの国土においてこの必然的関係を認めたるは疑うべからざるがごとし。しからばすなわち、この必然的関係とは何ぞや。他なし、『法華経』本門において末法化導の寄託を受けたる上行菩薩出現の国土はすなわち日本国たること、および上行菩薩は日蓮その人にほかならずとの自覚、すなわちこれなり。

吾人はクロムウエルをもって真正なる愛国者なりとすると同一の意味において、日蓮を真正の愛国者なりと認む。かくのごとき意味においての愛国心は和気清麻呂、楠正成、ないし北条時宗等の夢にだも会得しあたわざりしところ、おそらくは二千五百年の歴史において、日蓮ひとりこれを会得したりしならん。

吾人が清麻呂、正成、時宗等を措いて特に日蓮に帰依するものは、畢寛これがためのみ。

かくのごとき愛国心の要求するところは、ただこの国土の究寛の栄光のみ。時の政権に奴隷たらざるのゆえをもって直ちに擬するに叛逆の名をもってするは、彼のなさざるところなり。彼は時として当路の君主に従順ならざることあり。天の名によりてチャールズ一世を断頭台にのぼせたるがごときはその例なり。彼は時として、いわゆる滅亡をば甘受することあり。彼は真理の命ずるところには、けっして滅亡なるものなきことを確信すればなり。世俗の道徳は時として種々の悪徳の名によりて彼を呼ぶことあらん、しかれども、最終の勝利は常に真理の味方なることは、彼の信じて疑わざるところなり。かくのごとくにして彼は一世の耳目に逆らい、その信念に殉ずるなり。

再びいわん、日蓮は二千五百年の日本歴史中において、かくのごとき愛国心を有したるほとんど唯一の偉人たり。丙丁童子の国家主義は、乞う去って道学先生とともにこれを談せよ。吾人の日蓮はすなわち与からず。  

日蓮と日本国

吾人はここに佐渡以後の日蓮の進退とその遺文とによりて、彼が日本国に対して如何の観念を有せしかを明らかにし、あわせて蒙古襲来に対する彼の態度について述ぶるところあるべし。

日蓮流されて佐渡にあるや、地頭本間の六郎左衛門に向かっていえらく、

わが言を用いすば国心ず亡ぶべし。日蓮は幼若なれども、『法華経』を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし。わずかの天照太神、正八幡なんどと申すは、此国には重けれども、梵、釈、日月、四天に対すれば小神ぞかし。されども、この神人なんどを失まちぬれば、ただの人を殺せるには七人半なんどと申すぞかし。太政入道、隠岐法皇等の亡び給いしはこれなり。これは彼に似るべくもなし。教主釈尊の御使なれば、天照太神、正八幡宮も頭を傾け、手を合わせて地に伏し給うべきことなり。「法華経の行者」をば、梵釈左右に侍り、日月前後を照し給う。かかる日蓮を用いぬるとも、あしく敬わば国亡ぶべし。いかにいわんや数百人に憎まれ、二度まで流しぬ。この国の亡びんこと疑いなかるべけれども、しぱらく禁をなして国を助け給えと日蓮かひかえればこそ、今までは安穏にありっれども、法に過くれば罰あたりぬるなり。また、この度も用いすは大蒙古国より打手向こうで日本国亡ぼさるべし。云云。

(『種々御振舞御書』)

かくのごときは、今の道学先生にとりて真に驚心駭目の文字なるべし。天照太神、正八幡を目して小神となし、自らは教主釈尊の御使いなれば、天照太神、正八幡も叩頭合掌して拝脆し給うべきことなりと言い、わが言を用いずば国必ず亡ぶべしと断言す。日蓮そもそも何の権威ありてこの不敵の言をなすや。これ道学先生等の怪しみで、しかして解し能わざるところなり。

しかれども、怪しむを休めよ。日蓮にとりてはかくのごときは毫も奇矯の言にあらじ。彼にして、いやしくも国家神砥に及ばんか、言のここに到る、むしろ理義の自然のみ。畢寛三界はことごとく皆仏土たり、日本またその国土と神明と万民とをあわせて教主釈尊の一領域たるに過ぎず。いやしくも仏陀の悲願に適わず、真理の栄光に応えざるものは、その国土と民衆と、ともに膺懲し、改造せられざるべからず。日蓮釈尊の勅使として「国必ず亡ぶべし」と宣言せる、毫も怪しむに足らざるなり。三界すでに仏土たり、天照太神、正八幡の諸神もまた仏の春属のみ。昔、釈尊霊山の会上において地涌の菩薩を雲集し、三千世界の仏神を集めて末法化導の大任を上行菩薩に寄託したりし時、天照太神、正八幡等もまた世尊の告勅に応じて末法行者の影護を誓いたる八万恒河沙衆の中にあり。今それ一代仏教の大掃趣を体現せる上行菩薩は、おのれ自らにほかならずとの自覚に任せる日蓮よりしてこれを観れば、天照太神、正八幡のごときはもとより一言うに足らざるのみ。頭を傾け、手を合わせて地に伏し給うべきなりしと宣言する、また毫も怪しむを要せざるなり。  

身延隠退の理由

日蓮の国家に対する観念は佐渡以後、元寇の時期ようやく迫り来たりたる頃より、いよいよ明らかに発表せられぬ。史を案ずるに、文永5n年(1286)以降、元使かずかず来たりて連に侵逼の禍心を漏らしぬ。日蓮赦されて佐渡より還れる年、すなわち文永生11年におよびては、禍機ようやく熟して、国家の大事旦夕に逼りたるの観あり。暴慢無礼の平の左衛門が辞礼を厚うして、来襲の期を日蓮に問いたるがごとき、またもって幕府上下の狼狽を想うに足る。この時に際し、門葉歓呼の中に鎌倉に帰りたる日蓮が、にわかに法鼓を鎮め、幔幢を収めて、甲州身延の深山に退隠したるの事実は、すこぶる注意すべしとなす。借問す、日蓮はこの国家多事の前途を望みて、事に救済に従わず、かえって道を世外に避けたるは、果たして何の思うところありてしかりしや。これ疑問なり。

従来の日蓮伝の告ぐるところによれば、この理由はきわめて簡明なり。すなわち日蓮、鎌倉に還り、時の執権時宗に説きて妙経の帰依を勧めしも容れられず。これ彼か前年より幕府に上りたるいわゆる第三次の諌暁なり。彼ここにおいて歎じていわく、ああ、はなはだしいかな、わが化の及ばざることや。三度諌めて聴かれざれば逃る、これ古の礼なり。嘉遁の時まさに至れり、われこの地を去るべきなり。――

『註画讃』『別頭統記』『日蓮大士真実伝』等の諸書録するところ、皆この意にほかならず。しかして日宗歴代の碩学、・またこの意を体認して、あえて違わざるもののごとし。

しかれども、・吾人はこの文意を信ずる能わず。これを日蓮出世の因縁に見、上行菩薩の自覚に見、立宗以来二十余年の行動に見て、「三度諌めて聴かれざれば逃る」と云うがごとき理由によりて、その従来の事業を放擲するがごときは、わが日蓮においてけっして有り得べからざる進退なるを認む。彼のしたがうべきものは釈尊の告勅あるのみ。その一生の事業は霊山寄託の大使命を果たすにあるのみ。国土ここにあり、衆生ここにあり、末法化導の大悲願を貫くにおいて日もまた足らずとすべし。北条時宗何者ぞ、いわゆる「わずかの小島の主」にあらずや。その諫の聴かれたると聴かれざると、彼において何の軽重するところぞ。三度諌めて聴かれざるがゆえに去ると謂うがごときは、腐儒循臣にしてこれを言うべきなり。上行菩薩の使命を自負する末法の大導師の口にすべき言にあらず。これをもって吾人は断ず、かくのごときは流俗に対する一片の辞柄のみ。日蓮の真意けっしてここに存すべからざるなり。

しからば日蓮の真意、いずこにか存すとなす。吾人断じていわく、これ蒙古の襲来を予想せるがためのみと。その理由おおむね左のごとし。

日蓮すでに世尊の告勅を担える末法の導師なり。すでにまた、久遠なる仏識の摂理に基づきて東方有縁の小国に降り、妙経の真理を流布ぜんがために二十余年の迫害を忍受しぬ。しかして国君その説にしたがわず、国民依然として邪法に沈湎せり。そもそも仏勅照々として動かすべからず、しこうして百魔競うてその途に横たわること、かくのごとし。事体ついに変ぜざるを得ざるなり。すなわち仏は、この護法の国土を膺懲ぜんがために、ここに降魔の軍を起こしてこの国に臨まんとす。蒙古の襲来は、すなわちこれなり。これをもって日蓮の眼より見れば、蒙古は外敵の仮面を破れる仏陀の遠征軍のみ。彼が二十余年の間、呼号し来たりたる真理の声に目覚めざる謗法の国民は、この遠征軍の剣に流さるべき自己の血潮をもって自ら浄めざるを得ざるなり。かくのごとくにして、国はあるいは亡びなん、民はあるいは殺されなん、ただ真理の光これによりて輝き、妙経の功徳、新国土を光被するを得ば、また恨むところなかるべきなり。日蓮は日本国の上に懸かれるこの一大惨劇の運命を忍受ぜんがために、鎌倉を去りて身延の幽谷に退隠したるのみ。

吾人の説をもって臆測に過ぎたりとするものあらん。しかれどもかくのごとく思料するにあらざれば、日蓮という人物はついに解釈すべからざるなり。良しや文献の明らかに徹すべきものなしとするも、彼が前後の経歴よりその遺文に徴証すれば、吾人の断案は牢乎として動かすべからざるものあるを覚ゆ。読者、もし煩を厭わずんば、左に援くところの文字を一読せよ。

蒙古国のこと、すでに近づいて侯や。我国の亡びんことは浅ましけれども、これだに虚事になるならば、日本国の人々いよいよ『法華経』を謗じて万人無間地獄に堕つべし。彼(蒙古)だにも強よるならば、国は亡ぶとも謗法は少なくなりなん。警えは灸治をして病を癒すがごとく、鐵治にて人をなおすがごとし。当時は敷くとも、のちに悦びなり。云云。(『異体同心事』)

亡国は誠に悲しむべし、しかもこのことなくんば日本は永く謗法の国土に堕しおわるべし。すなわちこれ一時の悲嘆にして永遠の歓喜たり。日蓮この危機に際し、しばらくその生国を蒙古の膺懲に任せ、身は身延に退隠して忍んで機縁の熟するを待つ、心事はなはだ推察しがたからず。いわゆる『異体同心事』は、彼が身延に入りてより三ヵ月の後、すなわち文永11年8月の初め、その檀越の太田殿に復するの書にして、彼が当時の心情を最も明瞭に言明せるものなり。

身延退隠後の彼の文書には、蒙古のことを言えるものはなはだ多し。文永11年の10月は蒙古の軍太宰府に寇し、大いに壱岐、対馬を劫掠したる時なり。同じく11月、日蓮が南条七郎二郎に復する書にいわく、

そもそも日蓮は日本国を助けんと深く思えども、日本国の上下万人一同に国の亡ぶべきゆえにや、用いられざる上、たびたび仇をなす、されば、カおよばず山林に交わり侯。また大蒙古国より寄せて侯と申せば、皆人当時の壱岐、対馬のようにならせ給わんこと、思いやり侯えば涙も留まらず。云云。

この文また日蓮が退隠の事情を暗示して、はなはだ分明なるものなり。読者すべからく「カおよばず山林に交わり侯」の一句に注意せらるべし。  

蒙古襲来に対する日蓮の態度

蒙古の襲来に対する彼の態度、また多言を要せざるなり。彼はクロムウェルのごとく、一切人世の事すべて佛意によりて摂理せらるることを確信せり。蒙古は彼にとりては政治上の国敵にあらずして、佛意によりて遣わされたる膺懲の義軍なり。日本の国民としてその生国の滅亡を目睹するは、彼の忍びざるところなりといえども、彼はその精霊の本貫において光とこれ仏子法臣たり。世尊の告勅に基づける一切の運命は彼において何等反抗するの理由あることなし。すなわち彼は蒙古の襲来に対して、いわゆる愛国者流とその歩調を異にせざるを得ざるなり。復すなわち明言していわく、

これ梵天、帝釈、日月、四天のかの蒙古国の大王の身に入らせ給うて責め給うなり。日蓮は愚かなれども、釈迦仏の御使、「法華経の行者」なりと名乗り侯を用いざらむだにも不思議なるべし。その答によって国破れなん。云云。(『一谷入道御書』)

またいわく、

後生はさて置きぬ。今生に『法華経』の敵となりし人をば、梵天、帝釈、日月、四天罰し結いて、みな人に見懲りさせ給えと申しつけて侯。日蓮、「法華経の行者」に有る無しは、これにて御覧あるべし。こう申せば国主等は、この法師の成すと思えるか。あえて悪みでは申さず、大慈大悲のカ、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり。云云。(『王舎城事』)

この文中に、いわゆる今生に『法華経』の敵となすし人とは、すなわち日本人なり。日蓮みずから明言して梵、帝、日月、四天に対してこの日本人の懲罰を要請したりといおう。とりも直さず蒙古の襲来は、日蓮みずからの希望を実現せるものにほかならず。彼はこれに反対し、もしくはこれを呪詛すべき何等の理由をも有せざるなり。したがって彼は、その生国の滅亡を忍受するをもって、いわゆる無間地獄の大苦を今生に消さしむる「大慈大悲の力」となし、ひとり彼のみならず、「日本国守護の天照太神正八幡等も、争わでか、かかる国をば助け給うべき。急ぎ急ぎ治罰を加えて自禍を免れんことこそ励み給うらめ」(『下山御消息』)と思断せり。

文永十一年五月、身延退隠以後の日蓮の文書には、この思想を現わせるもの1つにして足らず。一々引用の煩を避けて単にその重なる書目を列挙せん。読者のついで参照せられんことを望む。

1、『顕立正意抄』(『高祖遺文禄』十六巻十九巻) 2、『撰時抄・下』(同十八巻) 3、『高橋殿御返事』(同十九巻) 4、『蒙古使御書』(同十九巻) 5、『下山御消息』(同廿二巻) 6、『頼基陳状』(同廿三巻) 7、『兵衛志殿御書』(同廿三巻) 8、『本尊問答抄』(同廿五巻) 9、『聖人御難事』(同廿七巻) 10、『筒御器抄』(同廿八巻) 11、『上野抄』(同寸廿八巻) 12、『妙一女御返事』(同廿八巻) 13、『智妙房御返事』(同廿九巻) 14、『諌暁八幡抄』(同廿九巻) 15、『富木入道殿御返事』(同三十巻)  

日蓮が蒙古を調伏せりとは妄誕なり

蒙古の襲来に対する日蓮の態度は、ほぼ右に説けるがごとし。しかるに、いわゆる国家主義によりて自家宗門の昌栄を望みたる日蓮宗の俗僧等は、その『守護国家論』と『立正安国論』とによりて日蓮を一個の道学先生的愛国者に堕落世しめたるに慊らず、さらに蒙古の襲来に対して調伏の祈祷を行じたりとの事実を捏造して、国民の耳目を迎合せんと務む。荒誕無稽もまた、はなはだしというべし。

日蓮果たして蒙古を調伏したりや否やかくのごとき疑問は果たして日蓮の人物性行を知る者の念頭に起こり得べきものなりや、かくのごとき疑問の起こりたること、この一事すでに日蓮に関する知識の皆無を証するものにあらずや。かくのごとき問題に容喙するは吾人にとりてこの上もなき馬鹿気たることなり。

二十余年の間、「法華経の行者」を迫害し、三度の暁諌にも耳を傾けざるは北条氏なり。その配下に生活して謗法の邪宗に傾倒し、末法の導師を苦しめたるものは日本人なり。蒙古は梵、帝、日月、四天の力をかりてこの謗法の国土を膺懲せんがために来たらんとす。その来たるは佛意たり、摂理たり、はたまた「法華経の行者」たる日蓮その人が生国の安寧を犠牲として仏天に祷りたる大悲願なり。しかるに彼を調伏すとは何の意ぞ。日蓮にとりて日本は大いなり、しかれども真理はさらに大いなり。調伏論者は『祖書綱要刪略』をもって典拠となす。その文にいわく、

至弘安四年六月、作小蒙古書。其旨乍反前来。所以然者。足時時宗、頼綱既発悔心。委高祖干蒙古降伏之事故也。云云。(巻二、蒙古退治本化威カ章)

かくのごときは曲解もしくは誤解のみ、毫も典拠とるに足らず。いわゆる『小蒙古御書』(『高祖遺文禄』巻三十)は、蒙古襲来の事実が日蓮年来の予言に適中せるをもって、その門弟檀越等の中に連りにその師の達見を吹聴するものあるを見、特に門下に牒してこれを戒めたるに過ぎず、文意平明、毫も疑義を留めず。いわゆる「たちまち前来に反す」と云うがごときは吾人、何の意たるを解せざる在り。いわんや時宗、頼綱等が悔悟の実跡は日蓮一代中に一度も現われず、いわんや蒙古調伏のことを日蓮に委ねだりと請うがごときは、毫も証跡なきことなり。かかる妄誕を構成してほしいままに千古の偉人を評隲す、畢寛、小人おのれをもって他を料るの罪のみ。その最教寺(東京本所押上)伝うるところの旗曼陀羅と称するもののごとき、後人俗を敷くの偽物たるや、もとより論なきなり。

近年、元寇記念像と称し、日蓮の銅像を博多に建てんとする者あり。これまた蒙古調伏の妄誕に依拠せる妄挙のみ、無意義もまたはなはだしと請うべし。無知の俗人にしてこの事ある、なお暫く恕すべしとせん、堂々たる妙宗の碩学あい率いてこの没分暁の事をなす。ああ日蓮の世に知られざる、けだしまた久しいかな。

この文は、もと個条書に書きざりしを、後に読者の見やすからんがために節を分かちて小題を付せり。ゆえに文義間々貫通せず、説明また簡単に過ぎ、一篇の論文としては体裁を成さざるところあるを免れず。読者その意を取りてその文を取るなくんば幸いなり。(1902年6月)

   

日蓮とキリスト(その一)

◎ 四福音書は実に日星河嶽の大文字にして、吾人が宗教的感情に対してあらゆる高大なる理想を標示す。まことに仰いで貴むべく、ついて親しむべし。しかして人、もしその中に最も偉大なる宣言は何なりやと問わば、吾人は答えて言わん、貢の貨幣についてのキリストの答えなり。

「カエサルの物はカエサルに帰し、神の物は神に帰せ」。あわれこの一語こそは、ただにローマ帝国の至上権に対する大折伏なるのみならず、すべての地上の権力を永遠に否定し、人間霊性の独立、自由、光栄、威厳に対して、万古動かすべからざる是認を与えたるものにあらずや。いかなる宗教がいかなる福音を伝うるとも、理想はおそらくはこの一言を超越し得べからざらん。予はキリスト教の信者がこの一言のカによりて人生最大の祝福を自覚せんことを希望するものなり。

人は患う、この世おいて霊性の自由を神の国に捧ぐるものは、その現実の生活において支吾するところあるをいかんと。ああ、これ何の患うるところぞや。迫害の歴史を飾れる幾多の義人が、平和と満足とをもってこの疑問に答えたるを見よ。これ人生において最も大いなる祝福にあらずや。

人の国は、ついに神の国にあらず。人性の無限たる要求に応じ得べき生活は、この世のものにあらざるや、むしろ明らかなるに過ぐ。人は方便を説く、しかれども、これ強弁のみ、仮託のみ。事実は長えに事実たるをいかにせん。誠虔なる信者よ、汝は果たしてその真信の声にしたがい、その霊性の囁きに聴きて、なおかつこの両者の両全を望み得るか。調和を口にし得べきか。

昔者、日蓮鎌倉の殿中に宣言していわく、「日蓮王土に生まれたれぱ、身は従い奉るとも心は従い奉るべからず」と。これまた、まさしくカエサルの物はカエサルに、神の物は神に帰せよの意なり。ああ、貢を納むる者のみが臣下にはあらざるぞかし。吾人は、この世において別に霊の国土を有す。吾人は、この霊性の支配のもとにいかなる人をも、いかなる国をも征服し、君臨し、かつ審判し得る者なることを悟れ。

ここにおいてか吾人に自由あり、希望あり、栄光あり。いわゆる祝福せられたる生活、すなわちこれなり。

世に見苦しきもの何ぞ限らん、なかにも神の国を建立すべき宗教家が地上の権力を調和してその安逸を貧らんがために、自家の真信を柾げて世に阿るほど見苦しきはなし。予はかくのごとき見苦しき事例を、現に我邦の多くの宗教家において実見せり。国家的宗教と云うがごとき名目のもとに、その存在と昌栄とを誇らんとする宗教は見苦しきかな。人よ、何ぞ言い得ざる、わが教は地上の一切の権力を超越すと。かくのごとくにして迫害せられんか、これ迫害せられたる者の恥辱にあらずして光栄なり、敗亡にあらずして勝利なり。迎うべきものは国家にして、迎えらるべきものば宗教なり。彼等はこの超絶の見地によりて安立する能わざるや。もし生命とは、この世においてのみ言い得べきものならぱ、吾等なんのためにか宗教を要せん。永世の命と無限の祝福を望むもの、何すれぞ現世の栄辱に心を労すること爾くはなはだしき。

ああ、今の時、国家の面前に立ちて神の物は神に帰せと宣告し得る人あらば、吾人は走ってその靴の紐を結びても彼の門下とならんや。

(1902年5月)

   

日蓮とキリスト(その二)

◎ 吾人かつて日蓮を評して謂えらく、「彼を目して日本のルターとなさんは謬れり。彼の偉大は、ひとりキリストのそれに較べ得べきのみ」と。人のこの言をもって誇大に過ぎたりとするものあり。想うに彼はそのキリストを知りて、いまだその日蓮を知らざるものか。

日蓮とキリスト、この二者の比較は吾人にとりて一好題目たり。その精細は地目を俟ちて必ず世に問うの期あるべし。今こころみに、その概要を録して読者に示さんか。片言隻語もとよりその言わんと欲するところを尽くす能わず。これをもって直ちに吾人の日蓮・キリスト比較論と見做すなくんは幸いなり。

日蓮とキリストとの比較は、その根底において仏・耶両教の比較を予想す。仏・耶両教の比較は、直ちに民族風土の上に基づける東西文明の比較たらざるを得ず。この考察を離れてみだりに両者の異同をわかち、優劣を弁zeんは、ほとんど無意義の事だるを免れず。

一言もってこれを蔽えば、キリスト教は主として感情の教えなり、仏教は主として道理の教えなり。吾人は四福音書によりて現わされたる原始キリスト教において、何等後世神学家のいわゆる教理なるものを認むる能わず。キリスト自らは、ただその高潔なる熱情に動かされて直に人間の本然に訴えたるのみ。彼みずからがいわゆる識者にあらざるがごとく、彼はその対者においても何等の学識をもとめざりき。彼の教えに聴きたるものは、例えばガリラヤ湖畔の漁父のごとき単純無垢なる自然の小児なりき。畢寛、彼の言を解するには哲学を要せず、伝説を要せず、ただこの小児のごとき心あればすなわち足れりしなり。これをもってキリスト自らも小児のごとき心あるものにあらざれば、天国に入ること難しと訓えたりき。彼がわずかに三年の短日月の間において、よくこの世界の一大宗教の根拠をきずき得たるゆえんのもの、またその教えの簡単明瞭にして直下に人情の本然に訴えたるがためにほかならず。これを釈迦が五十余年の永き説法によりてわずかに法華一乗の真理を開顕し得たるに比すれば、彼此両教の性質またおのずから画然として明らかなるを見る。

仏教は主として道理の上に立つ。領解の一途、もとより直ちに無上道に達しがたく、その根本において信依の一念を予想するは言うまでもなしといえども、しかもこの信依の一念をして大悟の域に徹底せしむるには、その方便としてきわめて煩瑣にして、かつ難解なる道理の判釈を要す。これをもって八万四千の教義、一代五時の説法、機にのぞみ根に応じて成仏の道を示さざるなしといえども、畢寛、法華一乗の真理を開顕せんがための方便にほかならず。かくのごとき深遠なる教義は、キリストのごとく三年の間に説明し得べからず。されば釈迦の響慧広大をもってして、その成道の初めより『法華経』寿重品において顕本遠寿の妙理を現示するまで、実に五十余年の長目月を要したりき。

日蓮は、彼みずから釈尊の正統と称せしごとく、その教風において仏教の精神を最もよく体達したる一人なりき。されば彼とキリストとを比較するにあたっては、読者はまず仏・耶両教の特性を眼中に置かんことを要す。

しかれども大いなる宗教家として人類の救済を目的としたることにおいては、両者もとよりその軌を一にす。大いなる宗教家において常に見るごとく、その心事の清朗にして純潔なる、その意志の勇猛にして大胆なる、その事業の高明にして悲壮なる、しかして、現世以上において理想世界の実在を認め、人間霊性の醇化によりてこの世界の実現にカめたる、かれとこれと、ほとんど符契を合するがごとし。両者の比較にあたりて遭遇する幾多の異同は、この点より説明し得べし。すなわち多くの場合において、その異は仏・耶両教の根本的差別に基づき、その同は大宗教家としての特性、すなわち宗教そのものの普遍性に基づく。

吾人はここに、かくのごとき点について精透なる論述を試むる能わざるを憾みとす。ただ左に両者の史蹟に基づきて、その性行の一斑を比較するをもってしばらく足れりとせん。

吾人はまず、その出世の因縁に関してキリストと日蓮との類似のはなはだ大いなるに驚かざるを得ず。聖者東方に出でて天下を動かさんとの信念は、当時ローマの天下に普ねく行なわれしところにして、ヘブライの預言者も、タチッス、スエトニウス等の歴史家等も、ともに証するところなり。キリストこの信念の間に生まれて、この聖者の預言に応えぬ。これ仏滅後二千年と二千五百年との間において、末法付属の行者たる上行菩薩、東北有縁の小国に出現せんといえる仏識とすこぶる相似たらずや。

キリスト自らの預言を身現せんがために、ベツレヘムに生まれたるをもって、メシアの預言を実にせるものとなし、また、イザヤの預言に応んがためにその後ナザレに移りぬ。彼がサマリヤの婦人に答えて、われはメシアなりと言いしは、日蓮が寺泊の羈宿において上行菩薩の自覚を喚び起こしたると、心事何の異なるところぞ。

キリストの前には洗者ヨハネあり。日蓮の前には伝教あり。彼は、われより後に来たるものはわれその靴の紐を結ぶにも当たらずと預言し、これは末法の初め近きにあり、法華一乗の行者まさに現わるべしと預言しぬ。両者出世の因縁は驚くべく相似たり。

キリストの教えをはじむるや、預言者のその郷に容れられざるを知りながら、まずその故郷ナザレに帰りて神殿の前に立ちぬ。イザヤ第61章の破題を吟じて、この録るされたること今汝等の前に応えりと叫びし時、人みな彼を狂せりとし断崖の上より落とさんと企てたりき。日蓮もまた十五年の沈思と勉学との後その新しき真理を唱えんがために、その故山清澄に帰りぬ。彼が七字の題目を唱えて四個格言を喝破せし時は、彼の郷党故旧は皆、彼を狂せりと想いたりき。人、神に近けば目して狂とせらる。古今東西その軌を一にせるを見よ。.

◎ サマリヤの女子にメシアの任命を証したるキリストの自覚は、寺泊の羈宿に上行菩薩の付属を証悟せる日蓮の心事と何の異なるところぞ。キリストは学者と呼ばれず、智者と称せられず、ただ自らは人の子と称し、人よりは神の子と称せらるるを喜びき。日蓮は自ら日本一の曲者と称し、知解において天台伝教が千の一にだも及ばすと卑しめ、あるいは自ら施陀羅の子と称して、ただひとり上行菩薩の自信のなかに自家の天職と満足とを求めたり。超世の大理想を抱けるもの、おのずからしからざるを得ざるなり。

◎ キリストはポンテオ・ピラトに答えて、我は王なり、真理を証さんがために臨めりと言いしと、日蓮が平の左衛門尉に答えて、我は日本国の主なり、師なり、親なり、『法華経』の妙理を弘めんがためにこの土に降れりと言いしと、精神口吻ともに相似たり。無上道に安んずる者の言はおのずからしからざるを得ざるなり。

いずれの世においても等しく、村学究と道学先生とは真人の喜ぶところにあらざりき。キリストは当時の祭司学士の徒を罵倒していえらく、長き袍にて歩き、衡にて礼せらるるを喜び、会堂宴席の高座を好み、長き祈祷に託けて寡婦の家を呑むかの学士等を慎めと。これ日蓮が勧持品二十行の偈によりて空閑白衣の当時の高僧学者等を痛罵したるの言と、何ぞ相似たる。偽人と真人とは、常に相容れざるなり。

キリストは、おのれにしたがわんとする者に訓えていわく、行きてあらゆる汝の所有を売り、帰りて十字架を取りて我にしたがえと。日蓮また、その弟子檀那等を誡めていわく、謹んで所領を思うなかれ、父母親子を顧みるなかれ。常にこの臭骸をもって『法華経』に捧ぐるの覚悟あれ。これ砂をもって金に換え、糞をもって米に換えるなりと。その高調激越の聖語、ともに永く霊界の指針となれるを見ずや。

キリストがその使徒等に示して宣教の覚悟を訓えるの一段は、四福音書中の最も光焔ある文字なり。読者もし去りて日蓮が日進に与えたる、いわゆる『教行証御書』を一読せよ、布教の方法もとより相同じからずといえども、その地上一切の権力を否定して真理に殉ずるの精神気塊に到りては、両々相照らしてその文字また光明を競うの観あり。

キリストが山上の説教は、当時の文明に対する大折伏匁りき。続いてその弟子等に副えて伝教の覚悟を

示せる言のごときは、光焔万丈、真に今古の大文字なり。日蓮が『種々御振舞御書』に述べたる仏滅後二

千二百二十余年以下の告示と日進に与えたる『教行証御書』とは、まさにこれに匹敵すべきものなり。そ

の折伏の意気においても、その文字の壮大においても。

吾人が前項に一言せしごとく、貢の銭に関するキリストの答えは、実に四福音書中の最大の宣言なり。いわく、カエサルの物はカエサルに帰し、神の物は神に帰せと。これまさに日蓮が鎌倉の殿中において、身はしたがい奉るとも心はしたがい奉るべからずと断言せると、あたかも符契を合するがごとし。この一言を没し去らば、天下またキリスト教扱く、仏教なし。

キリストのあらかじめ受難の運命を知るや、難じていわく、ああエルサレムよエルサレムよ、汝等の家は墟址となりて遺されん。ただわれ汝等に告ぐ、主の名により来たるものは祝されんと。これ日蓮が蒙古の来襲に関する預言とははなはだ相近し。いわく、ああ謗法の国家日本は滅びなん、ただただ幸いなるものは日蓮が徒なるかなと。ああ諸君よ、諸君はこの両個の宣言に潜める偉大なる真理を如何にとか観るや。

読者、もし四福音書と『高祖遺文禄』とを比較せば、かくのごとき類似はなはだ多きに驚かん。吾人また煩を避けてこれを尽くさざるべし。ただ両者の相反対せる諸点については、さらに一言の要あるを見る。

キリスト教は感情の教えなり、ゆえに直覚的なり、頓悟的なり、秩序なく系統なし。仏教は道理の教えなり、ゆえに思弁的なり、理論的なり、秩序あり、系統あり。

キリストはパリサイ、サドカイ等の徒にあらず、また当時流布せる何等の知識にも触れざる一無学者に過ぎざりしが、はからずも洗者ヨハネが熱誠に感ぜられて愛の道に悟り入りぬ。日蓮の学知はこれに反して、ただに当代のみならず、永く今古に俯仰して何人にも遜色なきものなりき。彼は清澄に学び、叡山に学び、前後15年の間、一代聖教の疑惑を決せんがために天下の書を読みつくして、ついに法華一乗の真理に達したり。

キリストは3年の間一度も学理を説きたることなし。彼みずからも当代の知識に離れたる一個の自然児に過ぎざりき、今日の学者は彼が姦淫の女に対するの場合において地に書けりと云うの一事をもって、わずかにその文字を書し得たるを証するほどなリ。日蓮は全くこれに反せり。彼は智見高遠、学殖豊富、ただに当代の大智なりしのみならず、その教相判釈の点において古今に俯仰して多くの遜るところなきなり。この点において両者の性格まさに相反す。

布教の方便において、二者まったくその軌を異にせり。キリストは情に訴えるを先とし、悩める人の心に慰めと望みを与うるを旨とせしが、日蓮は理を攻むるを旨とし、対者の邪義を破折して自家の真理を認識せしめずんばやまざりき。さればキリストに従うものは情の門よりし、日蓮に従うものは智の門よりせり。

山上の垂訓のいかに感情的に、いかに直覚的に、また、いかに詩的なるかを見よ。これを日蓮が、いわ

ゆる四個格言の理論的思弁的なるに転ぶれは、その立教の大本において明らかに両者の相違を見る。

キリストはヨルダンを離れてより40昼夜の間、砂丘の中に彷徨いしが、日蓮は叡山を下りて8年の間、

天下の知識を求めたり。彼の教えを弘めたるや3年、この法を説けるや30年。

日蓮は道理の弁折をもって対者を屈せんとす。これをもって奇蹟のごときは、彼の教えにおいて多く用うるところなし。かの伊東の朝高の病を治し、その母を復活せしめ、あるいは竜口に奇厄を免れしがごときは、彼が伝記中の奇蹟に類すれども、その有無は彼の教えにおいてほとんど軽重するところなし。この奇蹟を外にしたるキリスト伝がいかに落寞たるべきかに比較せよ。またラザロ復活のごとき事実が、いかにその教えの伝播にカありしかを思え。

布教の方法(場所)において、両者は全くその趣を異にせり。キリストの教えを説けるは聖京の殿堂にあらずしてガリラヤの湖畔なりき。彼に聴きたるものは、当時の学者にあらずして多くは漁夫の類なりき。彼は、その感情の言葉に聴き得る者が当代の俗智に汚されざる小児のごとき民衆なるべきを賢くも覚りしなり。日蓮の法を弘めたるは、鎌倉覇府の中央にして天下の碩学名僧の環視の間においてその法鼓を鳴らしたりき。彼はまず当代最高の知識を屈服して自家の教義に帰依せしめ、もって天下の民心を風靡せんとしたりしなり。その方法、キリストが無知の民衆を感化して社会を根底より改造せんとしたると、まさに相反す。日蓮のやり方は、いわば演線的なり、キリストのやり方は、いわば帰納的なり。

キリストはいとまあれば、すなわちカペルナウムの谷、ガリラヤの湖畔、もしくはハイチンの山に登りて、その自然の美の間に高潔なる感情を養うを楽みしが、日蓮がややもすれば経蔵を巡歴し、岩窟に隠れて論述著作を事とせり。『高祖遺文禄』30巻を読めば彼が平生の研究にはなはだつとめたるを認むべし。

キリストのその反対者に向かうや、多くは機智をもってその正面の攻撃を避け、かえって省察によりて悔悟を促すの態度を取れり。例えば姦淫の女に関しては、汝等のうち罪なきものこれを打てと言い、貢の銭に関しては、カエサルの物はカエサルに帰せと答え、また何の権威ありて汝これらの教えをなすやとの長老学士等の難詰に対しては、我もまた一言汝等に問わん、ヨハネが洗礼は何処よりぞ、天よりか人よりかと反問する等、いずれもこの類ならざるはなし。しかれども日蓮は全くこれに反す。しかれば、いかなる場合においても正々堂々の論陣を張り、天下に檄して法論の対決を求めたり。彼は常に公言していえらく、われは真理のあるところにつく。わが説誤らば、われは直ちにこれを捨てんのみと。されば『開目抄』の三大誓願に序して、「わが義智者に破られずば用いじとなり」と公言せり。

この種の同異は、なおはなはだ多し。畢寛これその立教の精神のおのずからしからしむるところにして、みだりに軽重是非の批判を許すべきにあらず。もしそれ東西の偉人を取っていたずらにその異同を列挙するの無用の事たる、もとよりこれを知る。ただ吾人はよってもって、かくのごとく外面の比較の下に伏在せる偉人そのものの本分を看取し得ればすなわち足る。

(1902年6月)

 

 

 

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