折伏(広宣流布)とは何なのか

 



              
廣 田 頼 道


 現在の土地に御寺を構えて、20年来、2ヶ月か3ヶ月置きに、創価学会員の大川さん(高校の先生をしているという40代位の方)と宮さん(停年退職されている70才代位の方)が、双方で連係を取つているのか否かは分らないが、創価学会がいかに正しいかという事を2人にとっては折伏だと思って主張に来る。忙しい時は玄関で帰って貰うが、事前に電話連絡をして来て、時間があいている時には1時間、2時間と話しにつき合う。しかし何度話し合いをしても、創価学会は絶対に正しい、創価学会こそが日蓮大聖人の教えを正しく実行している団体であり、池田大作氏はその偉大な指導者であるという考えを一から改めて考え直そうとする発想がない為に、正信会は山崎正友にそそのかされて出来たものであり、200ヶ国弱の世界に広宣流布し、一同に御題目を唱える姿を作り出した創価学会の正しさを良い加減に認めなさい。正しいからこそ世界に流布出来たんだ、正しくなければ出来るはずがない。それも沢山の人々が……、という判で押した様な同じ言葉を繰り返す、戦略家のアジテーションの様相なのであります。

 これが、創価学会と日達上人の時代。創価学会と日顕上人の時代。創価学会と日顕上人相剋の時代。と内容が変化しても彼等は、以前の事を整理し詫びる事もないまま阿部日顕に「裏切られた」「とんでもない悪僧だった」「やっばりそうだった」と主張し、平気で恥しいとも思っていないのであります。

 こんな人達でも仏性があるのだから、何かきっかけで正しい日蓮大聖人の仏法に縁するかもしれないと思い対話するのだが、20年たっても、妙法の芽が出る気配も無いことは、本当に悲しい事としか思えない。

 この2人だけが特別変質した信仰感を持っているのでなく「聖教新間」や「創価新報」の論調を見れば、創価学会は正信会が産れた頃の30年前よりも、本音丸出しで悪くなっているし、2人は素直で純粋に洗脳教育された創価学会員さんと理解出来るのであります。

  創価学会の広宣流布観は単純明快で、


○ 多くの世界に多くの信者(池田大作氏を偉大な世界の指導者、人生の師、仏の様に完全な存在と理解する人々)が存在するという事が正しいことの証。


○ 御題目を唱えているのだから基本的に間違いはないし、間違いがあったとしてもゆるされる。日蓮大聖人の弟子、池田の弟子を巧妙に使い分ける。


○ 正しい信心をしているのだから選挙活動、政治活動によって日本の国を動かす力を持つことは当り前のことで、政権与党に入り、日蓮大聖人の教えをまっすぐ貫くことが出来なくても現実の社会の動きと将来の事を見つめ、自分達の考えを自由に通す未来に向ってアクセルとブレーキを使いわけ、今は忍ばなければいけない事もある。日蓮大聖人様の教えを守るという教条主義、原理主義では、日蓮大聖人様の教えを流布させる事は出来ない。


○ どんなに正しいといっても、数が少なければ、力持っていなければ正しいとは言えない。負けである。


 差別される事、馬鹿にされる事を病的に嫌う池田大作氏は、入信する以前の幼少時に何かトラウマになる原因というものがあったのだろう。その人物が、日蓮大聖人の法を何者にも負けない魔法の杖と錯覚して、振廻すようになったのだと思う。

 日蓮大聖人が弘安5年10月13日に亡くなられるや日興上人以外の五老僧が、信者には自分が日蓮の一番の高弟である様に訴え乍、世間には天台宗の僧侶を名乗り、世間に融和し、かつ日蓮の弟子として目をつけられたり、命をねらわれる事を避けようとした事と、創価学会の選んだ道は、奇妙に一致するのであります。

 創価学会員に指導する時には、日蓮大聖人の法難を売りものにしながら、自分達は政治力を持つことで絶対に法難に値わない、差別されない状態を確保し、逆に自分達に賛成もしくはなびかない人間を差別し、圧力を加えて行こうという道をめざしているのであります。

 だからこそ、創価学会は、自分達を批判した者を、口ぎたなく軽蔑し、復讐を誓い、怨念を持ち、見返すことに執念を持ち、「聖教新聞」「創価新報」に見える様に、本音丸出し、丸見えになってしまうのであります。 「正しい事を言うのは悪口ではない、慈悲である。」と創価学会では強弁しますが、口ぎたなく軽蔑し、復讐を誓い、怨念を持ち、見返すことに執念を持った慈悲などあろうはずがないのであります。それ等をすててこそ慈悲であり、相手の仏性を見出し、『罪を憎んで人を憎まず』ということになるのであります。

 ともかく、創価学会がどれほど多大な組織になうが、創価学会の歴史は壮大な「日蓮を敬うとも悪しく敬えば国亡ぶべし」の人体実験であり、咲いても実を結ばない徒花であるということを現実に証明しているのであります。

 創価学会の考え方が世界中に流布した時が広宣流布と言うならば、それは一人の絶対者に服従しなければいけない身の毛がよだつ、怨念渦巻く圧制の世界ということになってしまうのであります。

 広宣流布イコール一切衆生成仏。この大前提から外れないで広宣流布を考えなければ、広宣流布は単なる組織の勢力拡大という陳腐な考え方になってしまうのであります。かって創価学会員だった丁さんが創価学会を脱会した。その理由を聞いて見ると、ある国政選挙の折に、立候補者と直接、自由懇談が出来る企画が立てられ、小さな中小企業の経営者だった丁さんは、自分の会社の業種に関係する理不尽な社会構造を国会の場で問題にして貰いたいということを願った。専門家でない立候補者と、専門家の丁さんではどうしたって、Tさんの方が説明役に廻り候補者は間合役に廻る。長年にわたって一部の者が利権を握って離さない構造問題にメスを入れるのは大変な事だということだけは理解出来てくる。話し中端で、立候補者はじれて、
 「丁さん、そんな事悩むことないよ、公明党が政権を取って広宣流布になれば、なにもかも解決するのだから。選挙頑張ってよ。」
と発言し、打ち切った。

 丁さんはこれが原因で創価学会から離れた。

 創価学会(公明党)の広宣流布とは、こういう単細胞な思想回路の子供のブリキのおもちゃにも劣るものなのであり、それを『法戦』と称しているのであります。

  『世界広宣流布』全世界、一人も残すことなく創価学会員になる事。そうすれば、戦争、貧困、犯罪、災害、全てがなくなり、世の中は幸福だけのかたまりになる。

 「吹く風枝をならさず雨壊を砕かず、代は義農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時」(如説修行抄)(全502P) この様に御書に示してあるのだから、ユートピアの様な世の中が出来上るのだと、心の世界と現実の世界を混乱、混同しているのであります。

 もちろん「天瞋るは人に失有ればなり」(法華取要抄37P)と示される様に三千大千世界の乱れは人間の心の乱れ、人間の心の乱れは三千大千世界の自然や社会の乱れ、全ての生命はつながっていて、多くの人々が正法を受持すれば犯罪を犯す者も少なくなり、災害も少なくなるかもしれない。しかし日蓮大聖人の教えの基本は凡夫至上主義であり、十界互具の地獄・餓鬼・畜生・修羅の生命は完全に滅する事など出来ないのであります。故に少なくなっても絶滅はないという事なのであります。この事を無視して、どうしても現実の世界と摺り合せようと考えるあまりに、『世界広宣流布』は年数がかかるし、簡単にはいかないから、とりあえず日本一国の広宣流布をして、国教、国立戒壇を建て、世界に見本を示して、他の国が日本があんなに幸福になるなら、私達の国もしようという風になるようにという『日本広宣流布』(一国流布)論。

 それもむずかしいとなれば、各地方『地域の広宣流布』『職場の広宣流布』『親類縁者の広宣流布』『家庭広宣流布』という風に、順次楼小化して行くのであります。

 あえて倭小化と言いましたが、広宣流布を人数の拡大、規模の大きさという覇権主義の武力や権謀術数を使ってでも、自分達は正しい信仰をしているのだから犯罪に手を染めても正しく、赦されるんだという、多大なことが正しい事だとする考えを根本とすれば、人数のスケールが小さくなるに従って、曲がって低くゆがんだ楼小化という表現がピッタリすると言えるのであります。創価学会が編み出し、大石寺が思い込んだ「舎衛の三億」の屁理屈も、世界人口広宣流布を不可能と計算した倭小化なのであります。

 そしてこの考え方の中に、世の中の不幸は全て邪宗(道理から外れた間違った信仰)が世の中にはびこっていることが原因で起るのだという発想が生れ、日蓮大聖人もそのように示していると発言されて来るのであります。

 はたして本当にそうなのでしょうか?

 広宣流布に楼小と巨大、人数の多少、国家の流布数の多少で尊卑があるなどといえば、一人の信心と百人の信心の価値が違うという、妙法に偏りがあるという「一念三千の法」という基盤が狂っていることになってしまうのであります。

 一人の成仏が叶えば、一人の広言流布であります。南無妙法蓮華経の仏性を自覚し、法悦を感じ、自分と同じ様に仏性に目覚め、仏性に叶う生き方をして頂きたいと縁する人に折伏弘通する。一人に折伏弘通している位でどうする、百人千人万人に折伏して、御授戒を受けさせ、御本尊を持たせ、御題目を唱える人を増やしてこそ広宣流布、世の中が変わるんだと叫ぶ人がいるが、凡夫は、どれだけ御授戒を受け、御本尊を受け、御題目を唱えても、瞬間瞬間にネコの眼の様にクルクルと変わる十界の生命を固定しておくことは出来ないのであります。っまり、この条件を満たしたら不動の広宣流布の構成員の一人という数え方は出来ないのであります。御授戒を受けても、御本尊様を受けても、御題目を唱えても信、不信を繰り返す人は沢山いるのであります。それが凡夫なのであります。だからこそ、日蓮大聖人は、不軽菩薩の行体を通じて妙法に縁する聞法下種、下種結縁、逆縁成仏を一番大切な事として示し伝えているのであります。千人、万人があっても、それは一人一人の集りでしかないのであります。

 千人万人を尊く思い一人二人を卑しく思う考え方を捨てない限り、真実の広宣流布は理解出来ないし、語れないのであります。

 一人が仏の生命を感じ、喜びを得る。その喜びを伝え、次の人が同様に感じ喜びを得る。凡夫の性ゆえに、忘れたりすることはあっても、又目覚め妙法の心に立ちもどる。

 五十展転随喜の功徳も、同意の教示なのであります。

 本来の教えから外れてしまい、全世界の人間が信仰しないと平和は訪れない。全世界の人間が信仰しないから病気や天災、事故、戦争が起る。こういう主張が法華経の主張であり、日蓮大聖人の主張であると、常識であるかの様に言いはやして伝えているのであります。

 創価学会は、創価学会の組織としては広宣流布しているのであります。その組織の考え方を正しいと信じ、これこそ信仰だと確信を持てば、その組織の中は百%広宣流布なのであります。


○ どんな手をつかっても相手に勝たなければいけない。


○ 政治権力をつかって自分達の自由自在になる社会を築く。


○ 池田先生を国家の長と仰ぐ。


○ 創価学会に対する裏切り者は、仏罰を蒙る。


○ 創価学会こそ日蓮大聖人の直弟子である。


○ 池田先生こそ日蓮大聖人の教えを正しく受けた世界の指導者だ。


等々、これ等の考え方を世界中の人々が持った時に、さて、本当の妙法の世界と言えるかどうかという事なのであります。そして創価学会の中で起きる様々なスキャンダルは、世の中に真言宗、禅宗、念仏宗の信仰がはびこっている為に自分達がこういうことで悩まなければいけないと責任を転嫁することが、はたして正統な法華経の考え方なのか、ということなのであります。

 大石寺においても、大石寺を正しいと信じ込んでいる人達の集りにおいては広宣流布であります。

 若い僧侶が未成年買春法で警察に捕えられた。創価学会が建てた正本堂、大客殿を謗法払いの様に壊す。建て物が諸法ならば建っていた土地は何なのか。教学部長として大石寺に大客殿、正本堂が建立されるまでの}部始終の御膳立てをした阿部氏自身という謗法払いはどうなっているのか。未成年買春僧侶よりも下賤な生き方と言えるのであります。

 この大石寺の考え方、生き方、体質を世界に広宣流布して行こうと考えているのであります。

 創価学会は、創価学会としての組織は、池田大作氏を生き仏と拝で広宣流布。大石寺は大石寺として、その時代の貫主を生き仏と拝する組織として内部は広宣流布なのであります。

 讐えば、五人家族で御本尊様を御安置し、全員が御授戒を受けて父、母、子供三人が生活をしている。この家庭は広宣流布であります。夫婦ケンカが起る、兄弟ケンカが起る、風邪を引く、高校受験で悩む、親子の価値観の違いで意見がくい違う。五人がいっしよに日蓮大聖人の教えを信仰していても、生活の中で色々と諍は起きるのであります。

 じゃあそれは、隣りの人が真言宗だから、社会の人々が邪宗をしているから夫婦ケンカが起きるのだと言えるでしょうか。言つたら馬鹿であります。信心をしていても、生活の中で人間関係の中でトラブルが起るのは当然の道理であります。

 しかし、今迄日蓮正宗は、色々な世の中の問題を全て邪宗のせいにして来た。今でも多大なガス抜きとして謗法のせいに押し付けて、自分達は正しい信心をしているのだから、問題のない選ばれし者の様に考え、言って来たのであります。

 自分達の組織という広宣流布されている世界で、安心立命の境涯が得られないということは、自分達の組織の広宣流布(信仰姿勢・法義解釈)が間違つているということであり、他宗の謗法や末法のせいではないのであります。

 世の中の人々が信心をすれば、全てのトラブル、戦争・災害・飢饉・ガン・エイズ・成人病・子殺し・親殺し・オレオレ詐欺・カード詐欺・保険金目的殺人・大言・洪水・渇水・地震・台風・飛行機事故・電車事故・交通事故・就職難・不景気・狂牛病・鳥インフルエンザ・覚醒剤・麻薬・ヤクザ・アルコール依存中毒・夫婦ケンカ・兄弟ケンカ・親子ケンカ・離婚・不倫・不況・買い物中毒・幼児誘拐殺人・ハイジャック・バスジャック・拉致事件・国境問題・ニセ札事件・エボラ出血熱・インフルエンザ・アルツハイマー・痴呆症・浮気・ギャンブル依存症・二コチン中毒・誰かが損をする株価変動・賃金格差・学歴格差・年令格差・男女格差・ゴミ屋敷・子育ノイローゼ・生活習慣病・信仰している者同志の性格の不一致・好き嫌いetcがなくなるのでしようか。なくなるはずがないのであリます。これらも全て道理の上に現われるもので、謗法の者だけに現われる事象ではないからであリます。信心している者同志ても、性格の合う合わないがあるのであリます。

 「吹く風枝をならさず」

とは、どんなに苦しいこと、悲しいこと、辛いことがあっても、妙法の心の宝を持って泰然自若として、自分を見失うことがないという心の世界を表現しているのであります。広宣流布になったら台風も集中豪雨もないと考える事自体が道理を否定し、道理から外れていることとなるのであります。

 70年間築いて来た創価学会の考え方、体質が、世界中の人、動物、地水火風空の森羅万象の全ての生命に伝わって、それが真実の妙法の香りがする広宣流布と言えるのでしょうか。私は創価学会の、人をさげすみ、人を呪い、惘喝する体質が広宣流布だとしたら、日蓮大聖人の教えとまったく違う状態になってしまうと思います。

 大石寺はどうでしょう。時の貫主だけが生き仏であり、今日蓮であり、後の全ての生命は時の貫主の言う事に逆らわず、ハイハイと信伏随順すれば正しい信仰であり成仏出来、反対であれば謗法であり堕地獄となるという、創価学会と同質、同根の思考回路であり、日蓮大聖人の悉皆成仏、逆縁成仏を口で説き乍、本音は憎しみ、怒り、怨み、自己中、正統化を訴えるだけの外道宗なのであります。

 (所で、時の貫主が生き日蓮ならば、隠居した阿部氏は何なのでしようか。仏から凡夫にもどったのでしょうか。生き日蓮が二人いるということなのでしようか。どっちの日蓮が偉いのでしようか。御書に示してあるのでしょうか。)

 世界に大きな戦争や災害、事故、疫病、原因不明、治療不能の病気の発生が伝えられると、僧侶も、信者さんも、世の中に邪教が蔓延しているからだ、早く正法流布をしなければいけない。と言う人がいます。

 これは、個人個人のつきあいにおいても、「あの人には何回も折伏したけれども、私の言う事を聞かなかったから業病にかかって死んだ。謗法者のあわれな末路だ」と、悲しいのか、それ見た事か、ざまを見ろと言っているのか、その人に成仏してもらいたいのか、地獄に堕ちることを喜んでいるのか、理解出来ない心理状態の人々がいます。その人自身や身内に同様の事が起きれば「これは魔に試されている。業が出ている。変毒為薬する時だ」という考え方に平気で切リ替るのであリます。

 たしかに日蓮大聖人様は、爾前迹門の謗法の罪によって三災七難、自界叛逆難、他国侵逼難が起ることを指摘され天下に訴えました。そうなる事をいじわるに喜ぶ為に言ったのではなく、法華経の信仰に目覚めて貰うことが一番の目的で言つた。天下に法華経を訴えていたからこそ言えたことで、訴えていない者にとっては、世の中にすねる、ひね言、よた話しでしかないのであリます。かつて在勤していた寺の住職が。

 「広宣流布前夜の時代は、世の中が乱れ、広島、長崎級の何百倍の原爆が地球に何発も爆発して壊滅的状態になってこそ、人々は妙法に気付き、一気に広宣流布されるんだ」という壊滅を喜ぶような予言、よた話しを自信満々折に触れ、していた。もっともっと世情が狂わなければ人々は気付かないんだ、それが正法流布の前触れなんだと壊滅する事を望み、信心している者はその埓外で助かるというようなノアの方舟の様な、選ばれし者との考えを持っていた。

 現在の顕正会も同質て、中国、ロシア、北朝鮮の軍事脅威を「他国侵逼」と説き、天候の不順、地震を「天変地異」として預言者の如く喜ぶ終末思想で大衆をおどし、おびえによる精神操作をし、終末論を前面に出し、徹底して改宗を迫リ、改宗しなければ地獄であリ魔であると教える。顕正会の会館は、耐震構造だから大丈夫だと訴え、戒壇本尊の建物は大丈夫か、耐震構造の建物で守れと檄を飛ばす。そして信仰している者は奇跡的に救われるんだ、天変地異を回避する為にも早く折伏、何万人の達成をしなければいけない。天変地異が来たとしても信心している者は助かるのだから、早くしなければいけないと信じ込んでいるのであります。

 総理大臣が靖国神社に参拝する現実に対しても、「『日本は靖国神社などやめる。日本には日蓮大聖人の仏法がある。この仏法こそ全人類成仏の大法であり、世界平和の秘法である。よって日本は、この大法を全人類のために、国家の命運を賭しても護持し奉る』――と。このように国家目的を明白にし宣言をするとき、諸天の働きによって、状況は一気に変わってくる」と、今どうするかということに答えず世界に発信しても無視されるだけの噛み合わない大言壮語を吐き、顕正会員は、『早く全政治家が全日本人が、この先生の師子吼を聞き仏法に目覚めなければならぬ』と心酔しきっているのであります。右翼の大将であります。

 第2次世界大戦で、この戦争に関わった国々で6千万人の人間が死んだ。この中には広島原爆、長崎原爆、アウシュビッツ等強制収容所死者も入つている。人類の地獄を見たが故に、あの戦争の中心的存在だった日本は、不戦の誓いを憲法九条に掲げた。あれだけの人間が死んでも、妙法に気付かない人々が、もし未来に1億10億、100億の人間が死んでも妙法に気付くはずがない。それ以前の間法下種をしていないのだから。種がないのに芽が出るわけがない。日蓮大聖人の様に為政者にも民衆にも立正安国論を1回目の国諌とし、3度の高名として下種折伏し、その名は流刑地佐渡にまで事前に轟き、暗殺計画まで起リ、本州よリ日蓮を破折せんと真言、禅宗、念仏の僧侶が佐渡へ渡つて塚原問答がなされた。赦免の時には、善光寺門徒中が日蓮を生かして街道を通してなるものかと不穏な動きをする。

 だからこそ、やはリ日蓮の言う通リなのか、法華経の信心でなければならないのかと目覚めさせる。
それは天下に妙法の縁が結ばれていたからなのであります。

 何も下種折伏していない者が、


○謗法の為に世の中がこうなった。


○広宣流布前夜の時代は世の中が乱れ、広島、長崎級の何百倍の原爆が地球に何発も爆発して壊滅的状態になってこそ。と、これほど無責任な信仰の道を外れた戯言はないのであります。

 日蓮大聖人の時代から700年、凡夫の性として壊れたレコードの様に繰り返される自界叛逆、他国侵逼を後世の人間が、見ろ言った通り当っただろうと言い続けて何の意味があるのでしょう。日蓮大聖人の教えは、自界叛逆の人々にも仏性があり、侵逼する外国の者にも妙法を伝え、仏性があることを自覚せしめ、一切衆生成仏の為にあるのであって、そんな予言をいつまでも喋く為にあるのではないのであります。ものすごく大きな勘違いが信仰者の頭の中に居座っているのであります。



摂受と折伏の勘違い

 何も折伏せず不軽菩薩の生き方を説き、聖人君子、人格者を目的とした生き方ではなく、末法のどうしようもない荒凡夫が成仏出来る妙法だと説き乍、法華経の行者の振舞いが知らず知らずの内に浸透し、事を荒立てず、法華経行者としての生き方の背中を世間の人々が見て感化され、下種されて行くと主張する人々がいます。

 「法華折伏、破権門理」末法は摂受でなく折伏、強折の時だと言い乍、無理に法を伝えれば創価学会と同じで、人数を追い権力を求め、無益な誤解を社会に与えるだけだから、四箇の格言を言つて反感をかうことは止めた方が良いと主張する人々もいる。

 御会式に立正安国論、各上人の申状を読むが、読むだけで、その内容の様に生きることはしない方が良い。時代が違うから。「折伏、折伏」と言つて、創価学会の様になったら危険だ。学問によって日蓮大聖人の教えを解明し、後の世に伝え残すのも立派な折伏だ。しかし、学問的に解明されても、実行するかしないかは別問題。

 こういう人達もいる。摂受をしているのに折伏だと言い包める考え方、行動。これはどの様に理屈をこねても日蓮大聖人の生き方の延長にある広宣流布とは違うのであります。

 右に箇条的に挙げた内容というのは、法華経の四楽の修行に付合するのであります。


 四安楽行とは、

 安楽行品第十(迹門)に説かれる四種の法。身体、言語、意志の三種の生活行為においてあやまちを離れ、生けとし生けるものを悟リに導こうという誓いを立てること。初心の者が悪世に法華経を安楽(危きを離れて安きを得、遠く楽の果(報)を感ずるが故に、通じて安楽行と称する)に修行して仏果を得るための摂受の行法。


@身安楽行(身に十事を遠ざけて離れること)身を安定して、誘惑をさけ、静寂な場所で修行すること。


A口安楽行(四種の語を遠ざけ離れること)仏滅後にこの法華経を説く時、他人を軽蔑せず、その過失をあばかず、おだやかな心で口に宣べ説くこと。


B意安楽行(意に四種の過を遠ざけ離れること)末世に法が滅しようとする時、この法華経を受持、読誦する者は、他の仏法を学ぶ者に対して嫉妬、そしり、争いの心を抱かないこと。


C誓願安楽行(無上菩提を得たら神通智慧力をもつて衆生をその法に引き入れようと誓願を起すこと)大慈大悲の心で一切衆生を救おうとの誓願を発すること。


※四種とは、四種悪人の意味
イ 好んで他人の誤リを語る人
ロ 好んで邪見を説く人
ハ 口が軽く、心が劣っている人
ニ わずかしか行なわず、多くを語る人


 口に日蓮大聖人の生き方と御書を引用しながら摂受を否定し折伏を勇ましく説き、自分の生き方は折伏の生き方でないばかりか、腰が引けて理屈をこね乍折伏を否定し、ひょっとしたら摂受の四安楽行のABCさえも実行していない寺院、住職。これ等を「寺信心」と今日迄称され、批判されて来たのではなかろうか。寺院を荘厳にする、立派に勤行して法要をすることも大切なことだが、何を荘厳しているのか。読んだ御経の内容、心が何なのか。信者さんが新来者をつれて来たら折伏してやろうてはなく、僧侶も折伏、信徒も折伏、御互いに切磋琢磨して、こういう伝え方も出来るよ、ああいう伝え方も出来るよと学び合い、すすめて行くことこそが下種折伏、妙法の種蒔なのであります。

 日蓮大聖人が説く「師弟」と、住職と信者さんの関係が同じ内容だと錯覚し、信者さんに服従を強要し、最後に引導を渡す事が最後の責任を取るという事であり、住職から離れる事は謗法であり、批判する事はゆるされない。と考える住職がいます。

 他の寺院に移る事は謗法であリ罰が当る。を離れて、病気になったリ不幸になるのは当り前と言い乍。普段の指導は、継命新聞の読み合せや、他人が書いたものを掻き集めたものでしかないのに、住職の言う事は全て正しく、日蓮大聖人の教えそのものだというならば、大石寺の貫主は日蓮大聖人の生れ変リ、内証はいっしよという考え方と同じであり、こんな考え方が小さな御寺の中でも広宣流布されたら大変なことであります。

 住職の所に信を求める事が出来ないのに地域に御寺がないから仕方がないという信心の信頼関係が壊れているのに、最後に葬儀をするという事が師弟の証しと言えるのでしようか。そんなことで自信を持ち安心していて良いのでしょうか。

 熱原法難を源とする「師弟不二」「師弟一箇」を住職と信者さんの関係に混同、混乱すべきではないのであります。一番に考えるべき事は、住職自身の成仏、信者さんの成仏がどうしたら叶うかという事であります。

 信心を教える側、教えられる側という主従関係でなく、御互いが日蓮大聖人、日興上人を師として法華経の行者を目指す事が成仏二道なのであります。

 折伏しろ折伏しろ、新来者をつれて来いと号令だけの立派そうな監督がいても、笛吹けど踊らずの状態であったならば、監督はいらない。全員が法華経の行者として、「我れ深く汝等を敬う、敢て軽慢せず……」の折伏の生き方をすれば良いのであります。

 創価学会の時代は折伏しやすかった。「入信しないと罰が当るぞ、地獄に堕ちるぞ、と言えば素直に入信した」という信者さんがいます。しかしこれは折伏ではありません。

 日蓮大聖人が文永元年12月13日、小松原法難直後傷痍を押して、病床で退転の危機にあった南条兵衛七郎殿に、鎌倉で入信した当時に語った「宗教の五綱」を、又改めて書き示し、退転の翻意を捉した日蓮大聖人の姿を拝する時、何故地獄に堕ちる、罰が当ると言うのか、何故法華経でなければ成仏出来ないのかの内容を示してこそ妙法の縁、折伏なのであります。

 創価学会の折伏と言えない折伏を否定するならば、本当の折伏とは何なのかを示し、摂受の屁理屈で折伏を否定せず、実行する生き方を事実として行っていかなくては、法華経並に御書に認められる妙法の縁としての広宣流布は、末法の我々衆生の生き方によって虚妄と化してしまうのてあります。

 正信会という会の中味は広宣流布と言えるのだろうか?

 現在の正信会の中味を三千大千世界に広げて一切衆生成仏の広宣流布と言えるのだろうか?深く考えなければいけない。

 

 

 

もどる