富士門流の血脈観 (阿部発言と貫首無謬・絶対論の過ち)



              
廣田 頼道

 


1、序


 大石寺側の僧俗は、今日の混乱に至る流れの当事者でありながら、今だに


○貫主絶対(貫主が現代の日蓮大聖大である。貫主の判断にかなわなければ謗法である。)


○戒壇絶対(戒壇の本尊が存在する所こそが正しく、戒壇の本尊に御目通り出来ない者は、血脈が切れ、成仏出来ない。戒壇の本尊に、日蓮大聖人の全てが納まり、森羅万象の事物が消滅したとしても、戒壇の本尊は消滅しない。消滅すると思う者が謗法である。)


 この2つの考え方にしがみつき、しばられているのであります。

 しかし、この二つの考え方は、日蓮大聖人の御書の中には無く、御法門の根本に存在するものではないのであります。700年の歴史の流れの中で水垢が生れるように、まったく日蓮大聖大の御心、妙法よりかけ離れた、大石寺の組織や、貫主の権威権力を守る上で安易で便利な方 法の上に生れた、迷信として、今日の大石寺に鎮座まし ましている妖怪なのであります。  

 今ここでは、本来の血脈と、その源は何かということ を明確にし、貫主絶対。戒壇絶対が、いかに意味のない 珍腐な考え方であるかということを明し、多くの人々に 良く考えて貰いたいと思うのであります。  

 当然、このことは、今日、正信覚醒運動の道を歩んで 来た、私達自身も、実はかって、この二つの迷信の虜で あったとの、反省に立った上でなければ、示せない事な のであります。  

 私達は、阿部貫主の信仰者としての姿勢に疑問を持ち、 裁判にのせて貰いやすいことを考えて、阿部貫主の日達 上人から相承があったと主張する事に関して、まったく 立証する人が誰もいない闇の世界で、不審があるという ことから、阿部貫主が主張する昭和53年4月15日 に相承があったかなかったかを争点として地位不存在の 訴えを裁判所へ起しました。  

 しかし、本当に問題とすべきは、阿部貫主に、もし、 日達上人より明確な証人のある相承が行なわれた事実が あったとしても、阿部貫主の信仰姿勢は、自分の地位名 誉、政治的判断を絶対として、日蓮大聖人の御法門から はるかに外れる信仰失格者であるということであります。  

 相承がもしあったとしても、我々は、日蓮大聖人の御 法門を守護する行動を取らなければならなかったのであ ります。  

 つまり相承が有ろうが無ろうが、誤っている者は、信 仰者でも無く、貫主でも無いのであります。  

 この意味から、あの訴えを起す時、多くの僧俗が、貫首を訴えるか否かの書面に、著名捺印の決断を下さなけ ればならなかったことは、それ迄引きずって来た永年の 迷信である貫主絶対と戒壇絶対の理屈を真正面から、自 からに問い直す、有意義なことであったと思うのであり ます。  

 今迄、この二つの絶対を、信徒や、他宗の人々に全智 全能の魔法の杖の様に振廻して来た自分達自身が、これ らのことから離れて、本当の日蓮大聖人の心(仏法)と はなんなのだろうかと、大きな岩石をどんどん砕いて行っ て原子の世界に至る様に、我々も全ての鎧を脱いで、赤 裸になって、何も自分の地位や名誉も無い、ひ弱で愚かな、末法の1人の荒凡夫として、成仏する為、真実の仏法とは何んなのかという、貫主も、大石寺も、戒壇本尊 も存在していなかった時点に心を置いて、日蓮大聖人の 血脈法水とは何んなのかを考えなければいけなかったの であります。そのことが結果的に出来たということが、 逆に、私達の幸せであったと、今日心底から思えるので あります。  

 

2、何んの為に仏法があるのか

  

 およそ仏法というものが何んの為に、この世の中にあ るのかといえば、それは一切衆生成仏の為であります。  

 釈尊の出家の理由が、生老病死を、心の内に乗り越え られる法を求めて――であることを静かに考えれば、 誰でも理解出来ることであります。  

 又、私達が朝夕読経する法ヶ経の御文にも「阿耨多羅 三藐三菩提」という語句があります。まさしく、仏は、 私達の億劫の辛労(永遠の時の流れの中での一番の艱難 辛苦)とは、成仏することが出来ないということこそが どんな貧乏や、病気、家庭不和という、一般凡夫が一番 の辛労と思い込んでいることであっても、成仏出来ない 苦しみから見れば、それ等は苦しみとは言えないと、仏 は言うのであります。この視点に仏と凡夫の違いをあり ありと感じるのであります。病気直しや、貧乏直しの為 であるならば、仏はこの世に出て来る必要はなかったの であります。一切衆生を成仏させ、仏と同じ生命、心を 自覚せしめる為に、一大事の因縁として、衆生に「仏知 見を開かせ」「仏知見を示し」「仏知見を悟らせ」「仏知 見に入らしめる」〈仏知見とは仏の智恵、つまり仏界の こと〉(方便品)為に生れて来たのだと説示されている ことでも分るのであります。  

 日蓮大聖人の仏法も同様に、現世利益の為でなく、成 仏の為にあるのであります。  

 世の中の人々は、宗教は何れも同じだと見ていますが、 たとえば、キリスト教や浄土宗は、天国や浄土、極楽を 最上と考え、この国土と別に、そこがあると考えます。 キリスト教では、天国に召され、神の下僕になることが、 仏教で言う成仏と説いているのであります。釈迦、大日 如来を拝む者も、観音、弥勒、薬師を人格と拝して拝む 人々も、その仏菩薩が持っている法力が何かを考えるこ ともなく、その名を唱え、自分自身の悩みを解消する手 段としているのであります。成仏を大願とわきまえるこ とが、それらの宗旨には出来ないことなのであります。 これでは、宗教はどれも同じなどではなく、どれもパラ パラでどれほど信仰しても、仏と同じ、成仏の境界を得ることは出来ないのであります。

 仏は、一切衆生に、仏と同じ心、生命を持ってもらいたい。自分と同様に悟りを得てもらいたいことを願われて、この世に現われ、出世の本懐として、一切衆生が成仏出来る法を、妙法蓮華経と示し、表わしたのであります。

 世の中の宗教全般、仏教と呼ばれているものであっても、神、仏と衆生の差別区別を当然のこととして説き、神仏と等しくなるという、当り前のことさえ説いていないものが大勢なのであります。

 このことを指して、釈尊は法華経を説くにあたって、自からの爾前経も含め「四十余年未顕真実」と断じているのであります。この経文中の「真実」とは、成仏の直道、成仏出来る道理を持った法は説かれていないということなのであります。

 法華経には、自から「已今当説最為難信難解」(法師品第十一)と示し、過去、現在、未来の説法の中において、法華経に勝る経はない。何故ならば、成仏を遂げるという大願を、この妙法蓮華経に説いたならば、この教え以上の教えを説く必要もなければ、説くことも出来ないという、釈尊の思いが、ここに表わされているのであります。


 日蓮大聖人が「妙密上人御消息」(全1239P)に
 日蓮は何の宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず

 と、明言されているのも、一切衆生成仏の法を個有の宗派の個有の法とするべきものではないし、一切衆生成仏という宗教の大願であるはずのものを日蓮の所有物とすることの愚を明示しているのであります。

 この様に考えて来ると、釈尊も日蓮大聖人も、法も、信仰、修行、寺院、僧侶(手継ぎの師)の存在、貫主、血脈、戒壇の本尊、法華経、御書、法水………等々、全ては、私達が成仏する為の指標であるということがいえるのであります。成仏を度外視して、仏や貫主や、血脈、戒壇を論じても、それはまったく題目から遊離した不毛の議論であり、成仏すべき一切衆生には、有害で邪魔なものでしかないのであります。

 「一切衆生成仏」このことをキーポイントとして、日蓮大聖人の御法門を拝して行く時に、総ての役割が何かという位置が見えてくるのであります。



3、血脈法水の源とは何か

 久遠元初の法とは、一切衆生は、仏となることが出来るという法のことであり、この法は、人類の発生の有無に関係なく、森羅万象と共に本然として存在して来ている法なのであります。それを、仏は妙法蓮華経と説示されているのであります。

 仏の本来あるがままの姿を「無作」と言いますが、繕わない、名聞名利に働かないという無作の意味は、自然ということであり、全ての生命、物質は、もともとあるがままの自然を道理として生きて来たのであります。つまり「無作」があたり前の状態であったのであります。欲望のあるがままではなく、妙法蓮華経の法にあるがままを「無作」というのであります。

 ですから、妙法蓮華経は、人間界だけを対照にして、その存在があるのではなく、森羅万象に存在する事物の全てに悉有仏性としてそなわっている、そのものを説いているのであります。しかし、この森羅万象の事物の中で、一番にこの妙法蓮華経の道理から外れ、迷っている事物は何かといえば、人間であります。その点についていえば、妙法蓮華経は人間界への慈悲を色濃く持っているのであります。人類の発生に関係無く、山川草木の自然は、もともと自然の道理の中で生きているわけで、名聞名利に迷う必要もないわけですから、そこに法を説示する必要はないのであります。しかし、ここに人間が凡智と共に、妙法蓮華経から外れる迷いを持ち、畜生と化して行くことによって、仏が現われ、妙法蓮華経を説示する必要が生まれてくるのであります。

 しかし、今日の衆生は、仏を尊敬するあまりに、原始人が動物と同様に生きていたような時代であっても、まるで仏は、人類の発達史とは無関係に、智識と人格を持ち、高貴で悟りを持ち、一切衆生を慈愛の眼で見守っていたように思い込み、それが無始の古仏であると考えている人々がたくさんいますが、無始の古仏という、一人の人格化されたものが経文に説かれているのではなく


 「観心本尊抄」 (全247P)
 我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり、経に云く「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり」等云々、我等が己心の菩薩等なり

 

 無始の古仏とは、始めの無い永遠ということであります。そしてこの無始の古仏は、久遠元初ともいわれるのであります。久遠元初の元初というと、永遠でなく出発点である様にイメージし、無始というと出発点のない永遠とイメージするというのは、大変な矛盾であります。
 そして、この御文には、「我等が己心の菩薩等なり」と、加えて、仏だけが無始ではなく、己心の菩薩も同様に無始、永遠であるのであります。つまりこの無始の古仏とは、法のあるがまま、人法一箇の、自然に一体化した存在を示していると言えるのであります。つまりそこに、仏法の源があるということであります。


 「崇峻天皇御書」 (全1174P)

 教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ


 とありますが、もちろんこの振舞いとは、前に「無作」の所で書いた様に、欲望にまみれた人間の振舞いではなく、久遠元初無始の妙法蓮華経、人法一箇の振舞。このことを一切衆生に示すことを、釈尊は出世の本懐としたということなのであります。

 そうして見ると、


「上野殿御返事」 (全1554P)

 仏はいみじしといえども法華経に対しまいらせ候へば螢火と日月との勝劣、天と地との高下なり、仏を供養して、かかる功徳あり、いわうや法華経をや


「乗明聖人御返事」 (全1012P)
 経は師なり仏は弟子なり涅槃経に云く「諸仏の師とする所は所謂法なり乃至是の様に諸仏恭敬供養す」と、

 

 つまり、仏の出現がなくても、法は本然として存在しているのであり、仏がこの法を悟り人法一箇して、覚智出来ない衆生に身をもって説き伝える存在であるということであります。


 「当体義抄」 (全513P)

 至理(至極の道理、一切諸法の根本となる真理、いいかえれば久遠元初無始の法)は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時、不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華経と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因妙果倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり

 

 の御文は、このことを示しているのであります。

 衆生は説き伝えられ縁して(下種)はじめて我が身にそなわっている法に気付くのであります。気付かないものは、眼の前にあっても無いと同じであります。昭和27年、大賀一郎博士が千葉県検見川遺跡から2000年前の古代ハスの種を発見して、発芽させ華を咲かせ、世間の耳目を集めたことは、今日でも有名な話しですが、考えて見ると、どれだけ種があっても、条件が揃わなければ、種は無に等しいのであります。下種とは、種を植える、種を授けるというイメージでとらえられますが、そうではなく潜在する仏の生命を、自覚せしめることをいうのであります。

 つまり、久遠元初無始の法は、悠久の過去から流れ来たるものではなく、森羅万象の事物に、悉有仏性、本然としてそなわっているものなのであり、一切衆生個々が仏となる資質、つまり己心の仏界、己心の本尊として持つものであり。その法は、久遠即末法として時間や空間に束縛されることのない法なのであります。

 真理には、古いも新しいも、大きいも小さいも、生も死も、男も女も、上も下も、仏も凡夫も、一切の差別区別の無い、時間、空間に拘束されないものなのであります。このことは、久遠即末法と同様に、仏が不滅の滅を表わし、「常住此説法 我常住於此」と表現されることも、同じなのであります。

 そして、一切の仏においても、


「秋元御書」 (全1072P)

 三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給えり


 として、一切の諸仏諸菩薩が仏となった法の源も妙法蓮華経であることを示されているのであります。

 雨水の様に、場所によって差別のある降り方ではなく、久遠元初の法は地下水の様に平等に潤すものと説明される方もいますが、地下水よりも、全ての生命に、生命あるものに必ずある。本然としてそなわっていながら、迷いによって忘却されてしまっているもの。有るのに無いと考えられているもの。それこそが久遠元初無始の妙法蓮華経であるわけであります。

 しかし、本然としてそなわっているだけでは、天台の六即でたて分けると、理即(理の上では仏性をそなえているが、いまだ正法を聞いていない迷いの凡夫)であり、妙法蓮華経の真理と一体であっても、そこには成仏を遂げるだけの信のないもの、法と共に存在していながら、法の存在が分らない、自身が永遠常住の仏と同等の生命の尊貴に値いするということを知らず、反対に自身の尊貴を否定することになってしまうのであります。(法華経の「衣裏繋珠の譬」や「髪中明珠の譬」「良医病子の譬」はこのことを示しているのであります)本然として法のもとに生きていながら、法を知らない。大聖人が示される。
 「悟るを仏、迷うを凡夫」
とは、その点を指しているのであります。

 日蓮大聖人は、この理即の一つ上の名字即(はじめて正法を聞き、正法を信ずる位)に信を立てることによって、自身の仏性、仏種を言葉(妙法蓮華経)を通して知る。又、妙法蓮華経に縁することによって必ず妙覚に致ることが出来る。悪人、女人、畜生、二乗の成仏、歴劫修行の否定、一切衆生が平等に、成仏することが出来る。名字即に妙法蓮華経の信を立てることによって、金剛宝器戒として、永遠に破ることの出来ない、成仏の道を得るのであります。理即の上に立てた空論が『本覚思想』であり大聖人はあくまで名字に妙覚を立てる法門であり本覚思想との混同混乱ではないのであります。

 それでは、禅宗の独悟の世界と同じではないかと、筋違いな指摘をする人がいるかもしれませんが、摩詞止観第五に指摘される様な「盲跛の師徒」と大聖人の師弟一箇の法門とは源も、プロセスもまったく違うのであります。


 「法華初心成仏抄」 (全552P)

 とてもかくとも法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏にふるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり。

 

 縁だけでなく、即座に信を立て、不軽菩薩の行の道に連なり、法華経の行者として、修行、弘道に志を立てれば、即身成仏であります。

 つまり、名字即に信を立てるとは、法華経の行者には、精進という、修行が必要不可欠であるということを同時に示しているのであります。

※己心とは、元来、他心(他人の心)に対する言葉として表現されるのでありますが、


 「止観輔行伝弘決し(巻2の1)
 一切の諸仏は己心は仏心と異ならずと観ずるに由るが故に仏に成ることを得る


 と示され、己心とは仏心であり、成仏とは自分の生命が仏であると悟ることであると示されています。

 そうすると、己心とは、ただの自分の心という意味ではなく、心の中の心、心の核を言うのであります。りんごの果実でたとえると、私達人間は、りんごは食べる為の果肉の部分をりんごと思っていますが、りんごからすると、りんごは種をもって子孫を残そうとする、その種自身が、りんごのエキスであり、目的ということになります。この種は悠久の過去と未来とを内蔵し、現在に存在しているわけであります。果肉は現世だけではてるものになります。

 心にも表面的な、好きだ嫌いだの類から自分でも把むことの出来ない心層の部分まであります。この種の部分は、時空を超えて、無限の可能性を秘めているのであります。心の中の心、心の核、りんごの種にたとえていえば、己心とは、そういうものなのであります。我々にとって己心とは、久遠元初無始の法ということであります。



4、血脈の中における大聖人の位置

 それでは、日蓮大聖人の存在は何かといえば、この血脈法水の源である。久遠元初無始の法を、妙法蓮華経として、法華経の文底より取り出し、人法一箇の不軽菩薩の跡を継ぐ者として妙法蓮華経の身読をもって、人法一箇の成仏の姿を、末法一切衆生に、手本として示された仏であります。

 釈尊は、法華経を説法しても、法華経の身読はされず。法華経(妙法蓮華経)の身読は日蓮大聖人をして、最初で最後、未曽有のことなのであります。この点から、久遠元初本因妙の教主と拝し、勤行の時の観念品も、本尊の観念として法を表わし、日蓮大聖人の観念として仏を別々に表わしているのであります。

 日蓮大聖人が、三国四師と、釈尊、天台、伝教、日蓮の系譜を示されるのも、四師内証の最要の法は、妙法蓮華経の一言であることを示しているのであります。

 日蓮大聖人の振舞いがなければ、久遠元初無始の法を一切衆生は知ることが出来ず、一切衆生成仏イコウル広宣流布は、法華経の嘘言となってしまうのであります。


 「もし地獄に墜ちた時、某(日蓮)を怨むな――」

 

 との日蓮大聖人の教示からいえば、日蓮大聖人が私達を成仏させてくれるわけでも、日蓮大聖人が地獄に墜すわけでもないのであります。

 久遠元初無始の法を悟り、身読の生き方をし、妙法を貫き、この様に生きることが成仏ですよ。――このことを久遠から末法に至る迄、未曽有、唯一の手本として、己心の仏界を凡夫に分る様に示してくれた御方が、日蓮大聖人なのであります。

 「法華初心成仏抄」 (全557P)

 我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば寵の中の鳥なけば、空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれぱ籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ。



5、血脈の中における本尊の位置

「阿仏房御書」 (全1304P)

 一御文に云く多宝如来涌現の宝塔何事を表わし給うやと大切云々、此の法門ゆゆしき大事なり宝塔をことわるに天台人師文句の八に釈し給いし時証前起後の三重の宝塔あり、証前は迹門、起後は本門なり或いは又閉塔は迹門開塔は本門是れ即ち境智の二法なりしげきゆへにこれををく、所詮三周の声聞、法華経に来て、己心の宝塔を見るという事なり、今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。
 今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此より外の才覚無益なり聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養したもうかとおもえばさにとは候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはし、まいらせ候ぞ子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ出世の本懐とはこれなり。


 この御文を拝する時。
 宝塔=御本尊。阿仏房。己心。法華経を持つ男女のすがた。南無妙法蓮華経を唱うるもの。妙法蓮華経。多宝如来。出世の本懐。
と、幾重にも、宝塔とはかくの如きものと示されているのであります。多宝如来が同時にここに示されるのも、身をもって、この法華経の正しさを証明する姿が宝塔であることを表わしているのであります。

 ならば、この宝塔(本尊)の本当の在所はどこかといえば、

 「日女御前御返事」 (全1244P)
 此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是れなり。


 として、前章から示して来た様に、その本所は、己心の仏界、己心の本尊が真の所在なのであります。

 対境、つまり鏡として、私達は本尊を拝し自分の心を写す。自分の姿、心を写して、自分の心を把むことが出来るのであります。

 30年、40年と化粧して来たので、今では、暗闇でも、眼をつぶってでも化粧が出来るという人は、いないと思います。自分を鏡に写してこそ、自分の顔を確認することが出来るのであります。その為に昔しから、鏡を生命の様ににし感謝することはあっても偽物を写す、とんでも無い物だと、軽んじたりする人はいないのであります。

 つまり、私達に、久遠元初無始の法という仏と同等の己心の仏界があり、その本所は、胸中の肉団であることを教え伝えるものが本尊の当体というわけであります。

このことを


「日女御前御返事」 (全1243P)

 是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり――中畧――此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。


 と、日蓮大聖人が、創作、創造したものでないことを示されているのであります。ならば、釈等の創造によるものかといえば、それも違うのであり、「本有の尊形となる」こと、久遠元初無始の法と人法一箇することこそが、本尊の当体(成仏の姿)なのであります。

 「涅槃経巻三十八」の中に、我々の仏性というものを、正因仏性、縁因仏性、了因仏性という、三因仏性に分けて説明している所があります。

 正因仏性とは、一切衆生が本然としてそなえている仏性。縁因仏性とは、正因仏性を覚知する善行並に縁のこと。了因仏性とは、自身に正因仏性がそなわっていることを覚智すること。


 「金光明経玄義拾遺記巻三」には
 縁因は了因を助け、了因は正因を顕わす、更に正因はより勝れた縁因を起こす、この三因仏性は互いに相いよって仏果を証する妙因となる」(取意)


 正因仏性が、本然として個々の生命に、久遠元初無始の法を妙法蓮華経として納め。縁因仏性が妙法蓮華経の本尊、対境として表わされ。凡夫はそこに名字即の妙法蓮華経の信を立て、善行(精進)を積み。正因仏性を悟り、了因仏性となる。

 日蓮大聖人も、戒壇の本尊も、久遠元初無始の法を示し表わす為に存在しているのでありますから、血脈法水の源ではないのであります。当然、それ以下の貫主も、血脈法水の源や全権を持つ立場には、なり得るはずもないのであります。つまり、日蓮大聖人は出世の本懐として、自分の身を持って、末法一切衆生に、久遠元初無始の法を示したのであって、一切衆生成仏の法の源にはなれないのであります。

 又、戒壇の本尊は、その法を表す為の本尊であるということで源にはなれないのであります。仏としてあげたてまつられることを目的に仏が出世したり、本尊を一切衆生の心から外れて、その物体を出世の本懐として表わす為に出世した仏などいるばずもないのであります。

 日蓮大聖人の竜の口の法難を、発迹顕本と拝しますが、これは仏(日蓮大聖人)の側に立った、久遠元初無始の人法一箇であります。弘安2年の熱原法難を通じて、日蓮大聖人は、衆生の側の発迹顕本(多宝如来が身をもってこの法を証明するように)、幼い時から修行して来た、僧侶の立場ではなく、一文不通の、信仰の自由も、生きる自由もない弱い立場の農民が、日興上人を手継ぎの師匠として、信仰に入り、日蓮大聖人に御合いしたこともなく、日浅く本尊の受持もかなわない、末法の荒凡夫が、妙法蓮華経の為に、死の結末を避けず、妙法蓮華経通りに生き抜いた姿に、末法一切衆生成仏の確認を得られ、弘安2年、戒壇の本尊を御認めになったのであります。

 近年、いつ頃か、建長5年4月28日を、宗旨建立会と称していますが、4月28日は法華経の南無妙法蓮華経を中心に据えたという意味の、あくまでも立教開宗であって、4月28日に、宗旨の建立はされていないのであります。もしこの日を宗旨というならば、真言宗批判もしていない。天台宗批判もしていない。本尊も表わしていない。法華身読もしていない。師弟一箇すべき弟子もいないで、宗旨を建立したということになってしまいます。その上、他の日蓮宗も、この日を宗旨建立と称していますが、他の日蓮宗系と富士門の宗旨は同じだということになります。富士門の宗旨は弘安2年、それもこの年に限定されて勃発したと理解される熱原法難ではなく、日興上人が四十院を出られた弘長元年より、四十九院、実相寺に縁する人々に折伏教化して来た、その結果に表面化したものが宗旨の建立である。弘安2年ということなのであります。日興上人は、日蓮大聖人のこの宗旨を守らんが為に、身延を離山されたのであります。建長5年4月28日を『宗旨建立』と称する愚を、富士門流は、速やかに改めるべきであります。

 血脈法水の源は、久遠元初無始の法。その本所は己心の仏界、己心の本尊であります。しかし、日蓮大聖人の振舞いなくして、名字即に信を立て、己心の仏界を悟ることは出来ません。必ず、師分としての、日蓮大聖人の法華経身読の過程、弟子分としての、熱原法難の過程、このことを外して、了因仏性と、身に体することは出来ないのであります。


「観心本尊抄送抄」(全255P)
 仏滅後二千二百二十余年未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演読す乞い願くば一見を歴るの輩は師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん


 とは、このことであります。

 


6、血脈の中における貫主の位置

 こうして見て来ると、時代時代の貫主とはどういう立場なのかといえば。

 血脈法水の源である、久遠元初無始の法(衆生の己心の仏界)を根本に、日蓮大聖人の法華経身読、熱原法難の師弟一箇の姿を、どの時代においても率先垂範して、組織運営者としての、政治的懸引きや妥協ではなく、謗法厳戒を旨とした、成仏への道に外れずに手本となる人間ということであります。しかし、貫主も全て、末法の荒凡夫ですから、そこに完全無欠な人格を求めるものではないのであります。


 「如説修行抄」 (全501P)
 末法今の時は教機時当来すといえども其の師を尋ぬれば凡師なり、弟子又、闘諍堅固、白法隠没、三毒強盛の悪人等なり

 

 と示される通りであります。しかしただ一点、仏法の上において、世の流れや、自分の都合で己義を構えることがあってはならないのであります。それは、衆生がどこに信を立てるべきなのかを見失しない、一切衆生成仏の道を塞ぐことになるからであります。

「化儀抄」(学林25P)
 一、手続の師匠の所は三世の諸仏、高祖已来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此の如く我に信を取るべし、此の時は、何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり云々。


「化儀抄」 (学林31P)
 一、信者門徒より来る一切の酒をぱ、当住持始めらるべし、只、月見、三度の花見等計り児の始めらるるなり、其の故は三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられたる所なるが故に、事に仏法の志を高祖開山日目上人の受け給う姿なり。

 

 この「もぬけ」とは、抜け殼という意味であります。抜け殼は役目が終った後の呼称で身が入っている間は、本体そのものということになります。言い換えれば、箱と中味。中味が貴重であれば、「袋汚なしとて、黄金捨つるべからず」で、汚ない袋自体も貴重品でありますが、黄金が出されれば、ただの汚い袋であります。トンネル等も、大きな「もぬけ」で、穴があいて、人や車を通すことに、トンネルの意味があります。穴がつまっていては、ただの壁で、迷惑なだけであります。廻りの土や、岩石から道を守り、交通を便利にする。

 貫主の貫は「もぬけ」ということであります。このトンネルをまっすぐ覗けば、必ず久遠元初無始の法(己心の仏界)に至らなければいけないのであります。(トンネルの貫主が偉いのではなく、何んの法を貫き通すかが、その役割りなのであります。

 故に、常に、日蓮大聖人の御振舞、御法門に照した、法華経の行者でなくてはならないのであります。前任者が曲っていたら、法に照し、破折し、修正しなければならないのが貫主であります。66人が全部日蓮大聖人だったという考えや、日精上人は謗法ではなかった。貫主になる前は釈迦仏を本尊としていたけれども等と、愚にもつかない弁解をしていますが、釈迦仏を本尊としていた者が貫主になってしまうほど大石寺は混乱していたことを深く考えるべきなのであります。

 久遠元初無始の法を、その身に貫かずして、前任者、前任者の言動を貫いて行く内に、久遠元初の法が分らなくなってしまう愚を犯すのであります。

 大石寺側にいる人々は必ず


 「御本尊七ヶ相承」 (新定三巻2721P)
 日蓮在御判と嫡々代々ト書クべしとの給う事如何。師ノ曰ク深秘也、代々ノ聖人悉ク日蓮と申ス意也。

 

 を挙げて、だから代々の貫主が日蓮大聖人だといいます。しかしこの御文も謗法、日有上人のいわれる「もぬけ」のことをいっているだけのことであります。

 

 「化儀抄」(学林26P)
 一、行躰、行儀の所は信心なり、妙法蓮華経なり、而るに高祖、開山の内証も妙法蓮華経なり、而るに行鉢の人をば崇敬すべき事なり云云。

 

 の御文を拝見しても、日蓮大聖人の生れ変りと自讃する前に、妙法蓮華経に貫主自身の生き方が重っているかどうか、自身が成仏出来る、行躰行儀を持った信仰者であるか否かを考えるべきであります。

 阿部師は、「大日蓮548号」 (平成3年8月24日行学講習会閉講式)で

私自身、血脈をお受けして、大聖人様以来の御指南を特別な意味においても拝受しておるけれども、それだから私が大聖人の御法を全部掴んでおって、『私が現在の大聖人様である』などということは、毛頭思っていない。そんなことを思ったならば、私自身、大謗法である。御本仏様の深く尊い教えについて、凡夫が簡単に『私が全部掴んだ。これからは私が代わって教えるんだ』などと考えるこど自体が大きな増上慢であり、そういう考え方が元になると色々な誤りが出てくるのであります。

 この様に、歯切れの悪い「毛頭思っていない。」という発言をしたから、そういう批判は中傷だというのでありますが、阿部師の発言内容がどうこうではなく、阿部師自身の生き方が、現代の日蓮大聖人になり切っていることを指摘申し上げているのであります。

 「現代の大聖人様であるなどということは毛頭思っていない。」と言うならば、阿部師自からが、日蓮大聖人の法門上、貫主とはどの様な立場なのかということを明白にして、故に時の貫主は日蓮大聖人ではなく、そう思う者も謗法であると、理論をもって示してこそ、弁明、弁解といえるのであります。否定だけして、法門上の立場を明白にせず、そればかりか

 「大日蓮414号」 (昭和55年7月4日全国教師指導会)
 阿部日顕個人ではなく、唯受一人の血脈を紹継するうえから申しますけれども、法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません。これだけははっきりと申し上げておきます。ですから『法主にも誤りはあるんだ』などということを信者に言いふらす僧侶も、また、それを信じて平気で法主を誹謗するような信徒も同じく、そういう人の唱えるお題目には功徳はない、と私は申し上げるものであります。

 この日蓮大聖人をも越える慢心は、いったいどうしたことなのでしょうか。


「松野殿御返事」 (全1381P)
 聖人の唱えさせ給う題目の功徳と、我等が唱え申す題目の功徳と、何程の多少候べきや、と云々更に勝劣あるべからず候。其の故は愚者の持ちたる金も、智者の持ちたる金も愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり。但し経文の心に背きて唱えば其の差別有るべきなり。との、「経文の心に背きて唱えば其の差有るべきなり」

 

の、謗法があればという、日蓮大聖人自身を二の次に、法を中心にした、依法不依人の上から、日蓮大聖人は阿部師と違ったことを説かれているのであります。

 阿部師は、貫主は、完全に久遠元初無始の法にかなって無謬であることを表わし、自分は日蓮大聖人であると表現しているのであります。

 時の貫主に認証、認可をしてもらって、成仏するのではないのであります。

 久遠元初無始の法の有無。己心の仏界の有無を、時の貫主が判定したり、決定したり、与えたり、奪ったりするものではなく、本然としてそなわっているものなのであります。

 日蓮大聖人の仏法に権威権力はいらないのであります。

 貫主も元来「もぬけ」と共通する。手継ぎの師の一分であります。手継ぎの師とは、衆生の手と久遠元初無始の法に人法一箇された、日蓮大聖人の手を継ぎ合せ、成仏を遂げてもらう為の師が手継ぎの師であり、三者の内証は妙法蓮華経であります。その手継ぎの師が、政治的な組織運営に関する考え方迄、信仰と混同して、私の考えに背くならば手を継いでやらないと、信仰の邪魔をするほど、醜悪なものがあるでしょうか。貫主自身が日蓮大聖人より手を切られている状態を分っていないのであります。

 極め付けの阿部師の謗法は、
 「大日蓮435号」 (昭和57年3月31日第3回非教師指導会)
 もしも日達上人が相承をなさらなかったとすれば、どうなりますか。仏法は絶えたことになるではありませんか。日達上人がもしもそのことをなさらないで御遷化になったならば、本当に、仏法はなくなっているわけなのです。


「報恩抄」 (全329P)
 日蓮が慈悲礦大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり無間地獄の道をふさぎぬ

 

 何故、相承がなかったとしたら、久遠元初無始の法、大聖人の法華経身読、発迹顕本、熱原法難、戒壇本尊図顕等々の、久遠元初無始の法を人法一箇として、顕わされた未曽有唯一の振舞いが、何故無くなるといえるのでしょうか。阿部師の主張は、日蓮正宗の宗旨とは、貫主であると言っているのと同じであります。

 たとえ、戒壇の本尊が消滅したとしても、「日蓮が慈悲廣大ならば、南無妙法蓮華経は万年外未来までもながるべし」の、日蓮大聖人が示し顕わした久遠元初無始の法が絶えることはないのであります。

 阿部師自身も幼い時からの貫主絶対の迷信に対する信奉者として、日達上人が亡くなられた時、嘘でも自分が名乗り出ないと、日蓮大聖人の教えが絶えてしまうと、犠牲的精神から貫主を詐称したと思えるのであります。

 加えて、貫主の権威を高める上で、時の貫主が所持厳護していると思い込んでいる、戒壇の本尊に御目通りしなければ、血脈法水が流れないという。一切衆生成仏の為に示し顕わされた戒壇の本尊が、歴代貫主の付法の深義と云われ、貫主の権能と所有物の様に思われて行く愚かさ。又、大石寺に所属していなければ、血脈法水は流れないとか、ひどい解釈になると、戒壇の本尊は「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」の本尊だから、戒壇の本尊に全てが納まり、日蓮大聖人は空の立場で、戒且本尊が中心であり、戒壇本尊より血脈法水が流れるのであると解釈を立てる人がいます。一切衆生成仏の証しとして顕わされた本尊に、御目通り出来ない人は成仏出来ない。御目通りしなければ己心の仏界がないということであれば、戒壇の本尊とは、何んと偏狭な、一切衆生成仏の道を差別し、閉すものであるということになります。

 大石寺の人々は、血脈法水の源を何と心得ているのだろうか。ある時は戒壇の本尊といい。ある時は日蓮人聖人といい、ある時は、戒壇や、大聖人よりも、時の貫主が偉いといい。何を持って成仏を志すのか分らない、行き当たりばったりの浮き草の信仰なのであります。



7、むすび


 前章から申し上げて来たように、私達末法の凡夫は、本尊を拝し、本来の本尊の在所である己心の仏界、己心の本尊に目覚める為に名字即に信を立てるのであります。

 戒壇の本尊を拝し、この本尊が顕された、久遠元初無始の大法一箇の一切衆生成仏を確証された、熱原の師弟一箇の姿を、我々が信仰の手本として拝した時。はじめて私達は、戒壇本尊が顕わされた魂魄に御目通りしたと言えるのであります。

 昭和50年、私が、番役として正本堂2階席の一番うしろで御開扉に立ち合った時。御経がはじまるや、やおら、便箋ぐらいの紙に、びっしり書き連ねた願い事を、御経そっちのけで繰り返し読み上げている人を見ました。又退場する時、「ばっちり願って来た。」「あ〜一つ御願いするの忘れてた、今からでも効くかしら(振り返って)南無妙法蓮華経」こういう場面を見た。私は、御開扉がこんな状態になっているようでは狂っていると、暗澹たる気持を抱きました。

 つまり、戒壇の本尊は、本尊の中で一番効めの強い本尊だ、ぐらいに考えられてしまっているのであります。

 戒壇の本尊が、どの様な因縁によって一切衆生に示され、何を一切衆生に伝えんとしているのかを心から拝しようとしている大々は皆目いないのであります。

 創価学会がどうこうではなく、御開扉する僧侶目身が、本尊の姿形のみを議論し、自分達の権威権力に利用し、生活の種にして、戒壇の本尊の心を拝するということを忘却して来た為に、今日の混乱は当然の帰結といえるのであります。

 万物が壊れる道理であっても、戒壇の本尊だけは、その道理にあてはまらない。そういうことを考える者は謗法である。壊れると考えないことが信心である。と、言い続けているだけで、成仏出来る者がいるでしょうか?日蓮大聖大は、そんな珍腐な法門の為に生涯を送られたのでしょうか。

 どれほどの人間が、何千回もの御開扉を受けようと、了因仏性として、己心の仏界を拝することの出来ぬ者は、久遠元初無始の法を拝することも、その手本を示された日蓮大聖大の心にも縁することは出来ないのであります。

 全ての事柄に「一切衆生成仏」という、仏の願目である光をあてて、「一切衆生成仏」に障りを生じるものは、全て、今日的解釈に誤りがあるということを自覚し、検証しなおして行かなければならないのであります。

 久遠元初無始の法も、釈尊はじめ、日蓮大聖大、一切の諸仏諸菩薩の出世の題目も、全て「一切衆生成仏」にあるのであります。

 もう良い加減に、家元制の様な、秘密結社の内部規約のような、貫主絶対無謬論や戒壇絶対の迷信から目覚めなければ、己心の仏界を開くことが出来ず、不成仏の道を歩くことになってしまうのであります。

 今でも、阿部師はじめ、大石寺の衆が、「不相伝の輩に何が分る」と、権威権力を振り廻すことが、正しい信心だと思い込んでいるのであるならば、


 1、何んの為に仏法があるのか


 2、血脈法水の源とは何か


 3、血脈の中における大聖人の位置


 4、血脈の中における本尊の位置


 5、血脈の中における貫主の位置


 以上5点を思考明示して、一切衆生成仏の為、法論しようではないか。

 

 

 

 

もどる