頼道師と川澄先生の出会い・・・・そして研鑽・実践

 

 

 私達僧侶は、出家してから、戒壇本尊絶対、貫主絶対を事あるごとに教え込まれ洗脳されて来ました。

 振り返ってみると軍国主義の天皇現人神思想みたいなものでした。

 思春期になって、何故、絶体なんですかと質問すると、絶対だから絶体なんだ、頭でっかちになるな。増上慢になり道から外れるぞと言われました。

 ですから、基本的な、三大秘法、五時八教、五大部、十大部、天台四教義等々をカリキュラムとして習い、論文の後には必ず、御法主上人の指南に従ってという紋切りの決まり文句を書くのが当然でした。

 立正大学へ進み、日蓮宗の僧侶教授が講義の中で「日蓮正宗では、日蓮聖人を本佛と言っているけれども、贔屓の引き倒しで間違いであります。」と露骨に言うのを聞いて、初めて、日蓮正宗は世間から、こういう風に批判されているんだという事が分かり、とても新鮮で、何故か嬉しく思いました。次から次へと日蓮正宗が世間の批判に対して、答えていない、答えられない、「不相伝の輩」で無視し、済ませている事が色々と分かって来ました。創価学会も同類だという事も分かりました。宗門の人間に尋ねても、答えられる人は誰もいない事も今迄の経験で分かっていました。そんな状況の中で、大学を卒業して、本山に最後の在勤をした昭和50年に、創価学会も狂っているけれど、それを利用している日蓮正宗は本来の日蓮大聖人の法を見失った最悪な状態になっていると考え、止むに止まれない気持ちになって三人で「芝川」を発行しました。反対する者、止めろという者はいても、他に賛同してくれる人はいませんでした。日達上人も止めるように言ってきました。当初の三人も、方向性の違和感があり、在勤が終わると自然消滅になりました。しかし、私は他所に問題提議する窓が無いなら、一つでも続けるべきではないか、五人十人といなければ一人でも、すべきではないかと考え、一人で、矛盾点を挙げながら進めました。その流れと、方向性は違いますが、山上師、池田師、成田師、関師が大石寺から離れて学問所を作って、日蓮大聖人の法を探究しようと考え、川澄先生の居宅の近くに家を借りました。本山在勤が同じであった事と、問題意識の方向性は違っても、今の状態は最悪の状態であるという問題意識が同じであった事も、近いという地域間もあり、自分も大石寺から離れ、将来がどうなるか分からない中で布教所を開いた事も同じであった事で、交流し、その中で勉強会以外の時にも川澄先生の所へ伺ったりしたわけであります。

 話を聴いて、師弟法門、遥拝直拝、流転還滅、己心の法門等々は、自分がやってきたカリキュラムでは、想像を絶するものでした、目から鱗が落ちるどころか、コロンブスの卵、発想の転換と感じました。何度か聞く内に、私は、仏教の本来の目的、仏の使命と責任、一切衆生が見失っている、一番の本願は一切衆生成仏以外に無いと、当たり前の事に気付きました。

 戒壇本尊も、貫主も、相承も、血脈も、全て一切衆生成仏為のものであるにもかかわらず、全てが組織の為、権威の為に外相に存在している事に気付きました。そういう意味で、私は、川澄先生に出会う事が、信仰を難しいものでは無く、極めてシンプルな原点から帰納的考えなければいけないと考える事に目覚め、今も続けています。

 私は、談所所員のような、学生時代からの教義研鑽の環境や切磋琢磨する先輩や仲間に恵まれていませんでしたので、一人でもがき、手当たり次第に本を読み、系統立ての無い知識を繋ぎ合わせ頭に入れるだけで、絶対的な素養がありませんでした。そういう縁だから、それはそれで桜梅桃李の道筋だと考えています。

 今、こうして信仰の道を歩み乍ら、日蓮大聖人の法を一つ一つ、何故だろう、何故だろうと、洗い流し、洗い流し考える毎日の中で、微かでも、あの時、川澄先生の謦咳に触れた事が、大石寺近代に組織信仰の為に築かれた、日蓮大聖人の法という名目だけを悪用した、似て非なる外相一辺倒の考え方を破壊して、本来の己心の法門へ進む方向を頂いたと思っています。

 私の様な先生との縁薄い者も沢山いて、そういう者でも、何百年もの地下水が想像も出来ない様な所から湧き水となってあらわれ、その場所に縁する生命を、微かでも潤す事が出来るのではないかと思っています。心より感謝申し上げます。

 

 妙々頼道拝

 

 

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