今でも大石寺大坊の起床は軍歌ですか?



              
廣 田 頼 道


 昭和27年生れ。戦後世代の私なのに、テレビやラジオで軍歌が流れると、知っているものが多いなあと感じる。

 京都の平安寺へ在勤して、定時制高校への通学の行き帰りに、パチンコ屋から流れる「軍艦マーチ」のメロディーに合せて「守るも攻めるも鉄の――」の歌詞が自然と口から出て、大石寺大坊の起床時を想い出し、体が反応した時には、これは完全に心に刷込まれてしまっているなと自覚した。

 昭和38年3月28日に出家得度し、大石寺大坊での生活が始った。

 東西南北、右も左も分らない。世間の家庭生活とはまったく違う生活様式について行くだけで精一杯だった。

 3月29日の朝の起床から、今迄の人生で聴くことのなかった


〇 守るも攻めるも鉄の――


〇 見よ東海の――


〇 海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の手にこそ死なめ、還り身はせじ――


〇 来るなら来てみろ赤とんぼ――


〇 ここは御国の何百里、離れて遠き満州の――


〇 貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く――


〇 徐州徐州と人馬は進む――


等が、繰り返し繰り返し流れた。毎日聞かされれば、それが戦争時の歌であり、兵隊の士気を高揚させ、民族意識と愛国心の発揚と、民族の正統性、戦争の正当性を謳い上げた内容のものである位の事は小学生でも分る。そして不思議なことに哀切迫り、格調高く流れるメロディーに歌詞の内容等、何も考えない内に、どんどん頭の中、心の中に無批判に刷込まれて行くのであります。

 この朝のレコードは、内事部で朝だけ、勤行時刻前の30分前位から連続して流され、内事部番によっては選曲の好みの問題で、シャンソンにしたり、クラシックにしたり、マンガの主題歌にしたりすることがあっても、眠りを破るという効果からすると、勇ましく軽快な軍歌ということに結局落ち着くのか、大半は軍歌にもどつて行くのであります。朝、昼、晩の御飯の合図は拍子木、朝夕の勤行の集合場所で鳴らす合図は板木で、充分足りているのであります。チャイムやベルの音をスピーカーで流しても事足りるのであります。大坊には小僧の学生だけでなく、大学を卒業した所化も御仲居も御仲居室に泊る事がある為に、恒常的に軍歌が流れている事は把握していても、誰もそれを止め、異議を唱える者はいなかったのであります。長年慣例化し、何の疑問も感じない状態になっているのであります。私もそうてした。

 

 海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍――

 

 美しい荘厳な歌で、私はこの格調高い曲調が大好きでした。しかし、何の事を歌つているのかこの歌詞の内容はまったく分りませんでした。大学時代、これが何を表現しているのかと思い、軍歌の本を求め、歌詞を目の当りにした時、私は自分の愚かさに冷や汗が出ました。とんでもない事を美しく荘厳で格調高いものと思っていたんだ。でも小僧の時から頭の中に刷込まれたものは、たたき出して忘れたいと思っても出て行きません。

 大石寺には第二次世界大戦で4000万人の人間が死に、沢山の信者さん、僧侶、家族が犠牲になったことの反省や深い悲しみ、戦争に反対し、異議を唱えることの出来なかった腑甲斐無さ、惨めさ等、何も無く、国の方針で決った事だからしようがない、自分達が判断してやった戦争じやないから程度の認識しかないのだろう。どんな立場の人間よりも戦争の愚かさ、惨めさ、戦争で問題の解決は出来ない、憎しみの連鎖が残されるだけだと訴えなければいけない僧侶が、こういう認識態度しか持っていない。

 小僧の時、塔中の住職から戦争中、食べ物に不自由したという苦労話しは聞いても、戦争は絶対にやってはいけないんだという話しは聞いた事がなかった。今、日本は、戦争への道ならしを着々としている。大石寺は、以前の戦争の時と同じ様に御上の言う通りで、大石寺を潰されるよりは戦争に協力し、どれだけ戦死者が出ても、私達の責任ではないからと時代順応の道を選ぶのだろう。大石寺と戒壇本尊と貫主という存在を守ることが第一と考えているだけだから、世界中がどんな悲惨な状態になっても我慢する事が一番大切な事で、これが以前の戦争で証明されている態度なのであります。挙句の果には、謗法が充満しているからこうなった、こうなるんだと主張し、他人事なのであります。

 小僧の教育。どういう資質を備えた僧侶にならなけれはいけないのかという基本方針、計画性、基礎知識、専門職等まったくない状態だったのであります。昭和40年代に学衆課という細々とした専門部署が作られましたが、大石寺の理事の1人として、大石寺全般の運営もし、小僧のこともするという御仲居の補佐部署であって、根本となるどういう信仰者、どういう僧侶が日蓮大聖人の仏法を折伏弘通していく上で必要なのかという基本理念がないのでありますから、組織の目先が変っても、基本姿勢の改善はまったくなされない状態が永々と続くだけなのであります。

 昭和35年から、社会人となってから志を立てて出家得度する人達を、臨時得度者として大石寺は募った。創価学会員が全国的に急増し、全国的に寺院不足となり、早く御授戒、法事、葬式が出来る者を必要としたからであります。

 年分得度として、小学6年生から修行する者の小僧頭(小僧の生活係)を得度してすぐのそういう人達にも担当させ、又、大学を卒業して末寺から仕上げの修行として在勤する23才ほどの所化に、一年で交替する小僧頭を担当させていくのであります。

 風邪をひいたり、ケガをしたり、学校の連絡事項とか参観日とか、学年ごとに小僧頭になって頂いた方々には御世話になり、貴重な想い出も沢山あります。しかし一年一年の関係であって、大石寺が長期に渡って人作りを志していたとは到底考えられないのであります。修行に名を借りて私的感情の制裁を日常的に行う者も沢山いた。全体責任、先輩後輩、年功序列を根本のものさしとし、道理を根本とする思想はない。上に立つ者がそうであれば小僧もその様に育って行く。小僧の時代、ピンク、拳骨で殴られたり、長時間コンクリートの床に座らせられたり説教を聞いたりして来たが、犯人探しと目上の者に逆らうな、がその内容であり、本当に日蓮大聖人様の教えや生き方を通して、真心からていねいに教え、戒める説教など一度も聞いた事がなかった。こちらも餓鬼だったが、所化も大学を出たばかりの餓鬼が、自分を大きく見せようと力んているだけなのだから、望むべくも無い事と、今振り返って見ると良く分る。

 つまり、こうなる事が、御仲居はじめ上層の者は火を見るよりも明らかな事が分っていて、末寺の住職と同じ様に生活の安定、保証を与え、5年10年と継続して小僧頭の出来る人間を、人作りの一番大切な仕事として配置するということを何故しなかったのか。リンチ事件が起り、沢山の下山者を出す事件があっても、そういうことを根本的に必要とする発想、改善しようとする智恵もなかったことが、あまりにも無責任であり、残念な事であります。こういうのは修行でなく、ただの生活であります。そしてこの生活の中では、


 「一日でも早く出家した者のいう事をきかなくてはいけない。先輩は神様、天皇」


 「法主は仏様」


 「戒壇本尊絶対」


 「戒壇と法主様があれば日蓮正宗は大丈夫」


の単純、無批判な、黙って言う通りにしていろという社会が形成されて行くだけなのであります。殴られて、殴られているうちに、意見を言う気力がなくなり、自分が先輩になったら下の者に同じ事か、それ以上の事をやってやろうという、信仰者の本質から懸け離れた状態にエスカレートして行くだけなのであります。

 にもかかわらず、「広宣流布の暁には、僧侶は国師となって衆生を導く立場となる。」というような自負心、自尊心だけで何の中味の教育もなく、おまえ達は偉いんだからと教えられ、プライドだけは肥大化して行くのであります。


 日有上人の化儀抄の中に


 法華宗の僧は天下の師範たるべき望み有るが故に、我が弟子門徒の中にて公家の振舞に身を持つなり


とあります。


 大石寺大坊では、箸の上げ下ろし、御茶の出し方、飲み方、着物のたたみ方等を教えて貰うことはなかった。鉄筋コンクリートの和・洋混乱の生活の中では、和の行儀作法、洋の行儀作法、どちらも世の中に出て行く為に必要だと思うが、何も無い。私の出家前の育ちも加味され、がさつなままの、公家どころではない者になってしまった。

 「法華宗の僧は天下の師範たるべき望み」のプライドだけが一人歩きし、公家の振舞の教育もしなければ、出来る人もない。口汚い体育会系の男社会の上下関係絶対、暴力で圧倒して行くことが中心となり、信仰の教えを根本に養い、育て、導くことが排除されて行くのであります。当然、心の豊かさのない、出家してからの年数と経済力を誇る、成り上り者体質になって行くのは自然なことなのであります。不軽菩薩の教えなど忘れ去られてしまつているのであります。私は大学へ通学する為に在勤させて頂いた法道院で、初めて住職や奥さんと同じ御膳を囲んで食事をしながら、箸の上げ下しを教えて貰った。ただ怒鳴るのではなく、肘を食卓について食べるな。つくのと、つかないのと、どっちが美しいと身を示して教えてくれた。右手で箸をおさえるように取り、左手で受け、右手で持ち換えてと教えられ、なるほど美しいなあと感激した。迷い箸、しずく箸、ねぶり箸、テーブルや皿で箸を立てて揃えることの間違い、箸で人間をさしてはいけない事。

 新茶の季節になると、住職になっている弟子の方達が、師匠に新茶を送ってくる。

 「○○さんが新茶を送ってくれたから、初物を皆んなで飲もう。○○さん用意しなさい。」

 ○○さんが全員に一度に注ごうと、大きなやかんで沸湯した湯の中に、新茶を缶の半分ほど入れて運んで来た。

 「○○さん、物を知らないね。新茶は香りだ。小さな急須で、ぬる目の湯で、沢山の人で、何度手間がかかったとしても、そうしてこそ美味しいんだ。やかんに入れた御茶と、そうして飲んだ御茶と、どっちか美味しいか、もう一度やり直してごらんなさい」

 私が犯した失敗ではなかったけれども、私もそうしただろうなあと思い冷汗が出た。

 新茶に限らず、弟子の方々や信者さんが送ってくれためずらしいものがあると、皆んなに食べさせ、この弟子は小僧の時こうだった、ああだったと話してくれた。

 ある時、当時本源寺の住職だったN師が、経済的に厳しい生活の為に、師匠に持ってくる御土産を、寺のイチョウから収穫した銀杏を手間暇かけて真白にし、奥さんが作ったと思われる天竺木綿の袋に入れて持って来てくれた、と何度も何度もさすって、ながめて、これを焼いて2、3粒ずつ皆んなで食べよう。御供養っていうのは、こういう事をいうんだよなあ、嬉しいなあ、と語ってくれた。作法や振舞い、そして心まで立ち入って、山から出て来た猿のような人間に忍耐強く教えてくれたものだと想い出す。世間に出て抹茶を差し出された時、自然に飲めなければいけないと、信者さんの中で茶道の先生をしている方に来て頂いて、定期的に作法と共に頂いた。抹茶と茶菓子欲しさにやっていた為、あまり身にはなっていないが、どんな状態にあっても目を白黒させないで、堂々とした態度で臨まなければいけない事だけは心の中に入った。

 教えて頂いた事が身に生かされず、がさつな人間のままで申しわけないと、亡くなられた法道院様には頭を垂れるのみであります。

 公家にはほど遠いけれども、人を育てるとはこういう事をいうのではないか。御金や時間がないから出来ないのではなく、考えがないからしないのであります。

 軍歌が流れ、何の為に信心、修行が大切であり、僧侶とはどうあるべきなのかが語り合われない生活集団。常不軽菩薩の教えも、日蓮大聖人様の生き様に触れる訓戒もない畑に何が実るのだろうか。

 創価学会の様に「師匠(池田大作)の為に死ねるか」という教育も、軍歌が流れる生活と同質で論じる価値もないが、もしもまだ大石寺大坊に軍歌が流れているとすれは、何故流れているのか。貫主が生き仏であり、貫主の言う事をきく、ロボット軍隊を養成し、ロボット軍隊こそが成仏出来るという法門ならば、それはいたしかたのない事だと思う。しかし、その思想は、一切衆生の仏性を認めた日蓮大聖人の法門とはまったく違ったものである事は、大石寺の人でも良く分ると思う。それはただ。

 貫主の手にこそ死なめ、還り身はせじ………の、自爆の法門である。

 

 

 

もどる