戒壇本尊とは何なのか

廣田頼道

 

はじめに

 15年ほど以前に、三費院(当時は「福山布教所」から脱講したいという信者さんがいた。創価学会の信仰上の間違いに目覚め、創価学会と手を結ぶ大石寺の謗法に怒りを感じて三費院に所属し、私も大石寺、創価学会の謗法と、私達の主張の違いを、その人に5年間、折に触れて話し、説明し、論述してきたのだから、まさか後戻りは無いであろうと思っていたところ、強く大石寺側の信徒の人々に、

「戒壇本尊絶対」

「貫主絶対」

を囁かれ、間違った信念を持ったらしい。

その方と話し合いをした中で、今でも心に焼き付いているセリフがある。

その人が薄笑いを浮かべ勝ち誇ったように、

「住職、謗法厳戒と戒壇の大御本尊とはどっちが重 要なんですか。」

私は即座に、

「謗法厳戒です。」

と、応えた。

 相手は呆れたように、付ける薬がない、救いがたいと慨嘆したようであった。

私は続けた、

「戒壇の本尊は、熱原法難をきっかけとして顕わされた本尊です。日興上人が身延離山をして、後の、大石寺に安置した本尊です。謗法厳戒という大地の上でなければ本尊は立たない、謗法厳戒の基礎でなければ、本尊は倒れてしまう、謗法厳戒の信心の志の大前提がなければ、本尊の姿をしていても、本尊にはならないんです。そのことがどうして分からないんですか。」

 どうしてもその人達には分からなかったようで、

「戒壇本尊絶対」

「貫首絶対」

の大石寺へ逆戻りして行ってしまった。

 私は今でも15年前の自分の主張した信仰の信念に嘘も偽りも訂正もなく、同様に思い続けている。

 

法華経の行者イコール仏

 

 日蓮大聖人が終生、自身を法華経の行者と称せられた事には、重い意味があると思う。

@ 法華経は仏も一切衆生も平等である。 

A  一切衆生が仏と同じ妙法の生命を有し成佛できる。

B 当意即妙不改本位の成佛。 

C 法華経の行者として仏であること。

 これらの法華経の内容こそが、爾前述門の仏が主人公の考え方と、本門の、法が中心、一切衆生中心の考え方との天地雲泥の違いということなのであります。

 ここに、南無妙法蓮華経日蓮在御判の本尊が建てられるということは、法華経の心(法)というものを表したものが本尊。ということは同時に表しがたい心(法)を強いて表 したものが本尊であるということなのであります。

 我々衆生が求める、仏道修行の本当の姿とは、

 仏や、仏の跡を求めるのではなく

 仏の求めたる法を求める

 仏は法を悟った先達としての人間であります。その悟った法を私達に、説き伝えてくれる、その振舞いが高潔で崇高な慈悲と使命感に満ち満ちているために、多くの衆生は仏自体を拝んでしまうのでありますが、それは間違いであって、我々衆生は、仏を人法一箇の手本として、仏と同じように仏の源にある法を拝し、仏を通して、法にかなった生き方を目指さなくてはいけないのであります。そこが法華経以前、法華経以外の経典を依り所とする宗教と、法華経の信心の違いなのであります。

 勿論、法華経を信じていても、煩悩を退治する段階を経て悟りや成佛が得られるという、歴劫修行の釈尊の教えの範疇で、仏を拝し法華経を読んでしまい、仏と自分達は天地雲泥の差が有り、元々違うんだという自縄自縛の中で信仰して、難行苦行、制約、抑圧の中で地獄、餓鬼、畜生……の生命を退治して行けば、仏界だけが残るという、空虚な幻想を求めて、法華経を信じていると思い込んでいる人達も沢山います。これは法華経読みの法華経知らずで、完璧な間違いなのであります。世の中の大多数が、皆この類いなの であります。

 日本は仏教国と自他共に言いながら、国民性の中に法華経の内容など社会、思想の中に、微塵も存在していません。金銭至上主義、天皇を始めとして、政治家、医学者、教育 者、経営者等々責任者が責任を取らない。物事の正邪を根本に考えない。等の仏教の精神の流れていない仏教国などあるはずがないのであります。

 信仰とは教えのように生きるということなのであります。

 法華経の教え(心)は、実に簡単で、シンプルな、質実、普通、普遍の道理なのであります。しかし、実行することが難信難解なのであります。

 仏は神のように増上慢に、天地を創造したとか、所有している。等ということは言いません。そして道理(法)も元来、本然として無作にそなわっているものであり、仏が創造 したものではないのであります。

 仏は法を一切衆生の先達として、人法一箇として認め、悟り、衆生の中でも人間が一番偉いと勘違いした愚かな衆生の智恵で、魅魅魁短ともつれさせていた道理を、こんなに分かりやすい単純で簡素なものじゃないか、

◎森羅万象の一切衆生と仏が、元来平等であること。 

◎人間が中心の世の中、仏が中心の世の中でもない。森羅万象の生命が中心である。

◎誰にも地獄の生命もあれば、仏の生命も有ること。 

◎法華経は初めて諸法の要である本然、無作の法をありのままに説いた法であり、一切諸法の頂点のように表現されるがそうではなく、 一切を脱ぎ捨てて原点に回帰した法なのであります。

 日蓮大聖人の教えは爾前述門を破折して、歴劫修行に象徴される灰身滅智の考え方では一切衆生の中の一微塵をも永遠に救うことは出来ないとして、右の四点を本来の立脚点 にしたのであります。

 だから、日蓮正宗の信仰に縁していながら、権威、権力、名聞名利、組織至上主義、君主主義、覇権主義、中華思想、選民主義等々に陥っている、大石寺、創価学会、顕正会等 は日蓮大聖人の示された法の信仰者とは言えないのであります。

 創価学会が社会向けには、「民衆仏法」等と主張しながら、本音の陰では池田大作を生き仏のように崇め、池田大作に認めて貰えば正しく。認めて貰えなければ謗法で地獄に堕ちるという。 一人一人の仏性を否定し、人間をロボツト化し、池田大作がコントロールするという、間違った考え方、生き方をしながら、法華経の信心、日蓮信仰を主張しているということは、その姿勢自体が法華経から外れ、日蓮大聖人の信心とは言えるものではないのであります。大石寺も、顕正会も、思考方法は同じなのであります。

 

 日蓮正宗で、さも有難そうに、伝家の宝刀の如くに説く

戒壇の本尊

血脈

貫主

相承

相伝

秘伝

口伝

一閻浮提総与

広宣流布

等は皆んな一切衆生成仏の法華経の教え(基本理念)を表現する、意味は同じで言葉だけが違い、同じ事を説明しているのであります。

 仏と衆生の差別化や、権威を、さも有難そうに見せたり、一般の民衆と違って超能力があるように思わせたりするようなものでもないし、そんな事のために、これらの言葉を使うこと自体が、日蓮正宗の信心に縁しながら、釈尊、大日、阿弥陀、弥勒、観音、地蔵等を拝んでいる信仰と同じ事をやっている、淫祠邪教であるということなのであります。日蓮大聖人と釈尊や他の仏菩薩とを同じ土俵に乗せた上で、入れ替えて、どうだ日蓮大聖人は釈尊や他の仏菩薩より偉い仏なんだぞと、子供が何の中味もなく自慢しているようなことをやっているのであります。

 何故偉いんですか? 教えの中味がどう違うんでか? 中味も分からない、説明も出来ないで、偉い偉いと大声で言うだけならば、文明に関係なく生きる土民の様が、鼻輪、耳輪、首輪という権威をジャラジャラ付けて、一番偉いとふんぞり返っているのと同じであります。

 日蓮大聖人が偉いという事の最大の理由は、一切衆生成仏の教えを一切衆生に伝え残したからであって、他の仏と比べて偉いとか、凄い力の持ち主だとか、本仏だとか、偉そうにする必要など元々ないのであります。

 貫主が虎の威を借りる狐のように、日蓮大聖人を持ち上げ、利用し、その実体は迹仏であるところの釈尊や、大日、阿弥陀、等のカリスマや権威と同質である。これでは日蓮正宗は、折伏の宗でも、グローバルな世界宗教でもない、仏は仏、衆生は衆生、貫主は貫主、僧侶は僧侶、信者は信者という身分差別流布の宗教である。成仏、安心、救いどころか、人を迷わせる迷惑な信仰、押しつけの脅迫団体であります。主観的な善の主張や絶対化は、それ自体が悪となることをわきまえなければいけないのであります。

 信仰は強制や脅迫をして、とりあえず御受戒だけ受けさせておこうとか、とりあえず御本尊を持たせておこう、正しい信心だから今、嫌がっていても、やがて必ず喜び、感謝するときが来ると言って、「とりあえず信心」を当たり前のようにやってきました。しかし、信心は、その人の仏性に受けるものでありますから、強制でなく、当事者自身の自己決定、自己責任に始まる信仰こそが本当なのであります。「とりあえず信心」の為に、心に法を持つことも、縁もなく、誤解や憎しみを日蓮大聖人の法に抱いている人々が世の中に沢山いるのであります。

 

 戒壇の本尊は一切衆生成仏の為に顕わされたのであります。

 龍の日の法難を「発述顕本」といいますが、これは日蓮大聖人だけのことであって、これだけでは仏の、出世の本懐、「発述顕本」とは言えません。

 出家者として、求道の信心修行一筋に生きてきた日蓮大聖人や弟子達がどんな法難にあっても、それは出家者としての衆生教導の義務と責任の範囲内、覚悟の上のことですから個人のことです。仏の本懐は一切衆生成仏ですから、衆生が法を中心に、仏と共に師弟一箇として仏と同じ志しに立って生きる姿が表れてこなければ、仏の真の喜びとする、衆生の真の喜びとする、本当の師弟一箇の発述顕本(成仏) とはならないのであります。

 

 龍の口法難は仏だけの発迹顕本。

 熱原法難は師弟一箇の発述顕本(出世の本懐・一切衆生成仏の証・宗旨)なのであります。一切衆生を成仏せしめることが仏の大願であり、目的であるのですから、衆生があらわれ、衆生が主人公にならなければ、仏がこの世の中に出世した意味は絶無ということになります。このことから、真の発述顕本は、 一連の熱原法難の中に展開される、師弟の法華経の行者の振る舞いであり、戒壇の本尊は、その振る舞い、心映えを、強いて写し取った物であると言えるのであります。元来木や紙に表現することが出来ぬ師弟の法華経の行者としての仏性を強いて表現して顕わした物なのであります。

 一切衆生成仏の確証として示された本尊は、「国立」とか「世界立」とか「民衆立」とか、時代の政治状況に翻弄されて、いくらでも変化するような物ではなく、一切衆生、森羅万象の生命という生命の心の中に、妙法という仏性を確認し、信心修行によって妙法を確認し、建立し即身成仏をとげることを、戒壇の本尊を表すまでのプロセス一切を含めて示しているのであります。

 世界のどこかの一カ所を聖地として堂を建てる様な物ではなく、一人一人の妙法受持の法華経の行者の心に建立する妙法でなければ、一切衆生成仏を本懐とする正法とは言えないのであります。キリスト教の聖地エルサレムが、宗教の権力闘争によって奪い合いの流血が繰り返され、土地という物が人間の心の憎しみや恨みに左右されるという愚行の歴史を見れば、聖地や偶像崇拝の物体というものはシンボルとしての、記号、象徴であって元来、法の心、師弟一箇の成仏の心から出た【色】を【心】へ回帰させようとする、努力の目標として拝するならばともかく、【色】こそ【心】とする、【色】中心の【色】にこだわる事は、心の外に法を求めるカスの法であり、愚行なのであります。

 戒壇の本尊も熱原法難の心を写し表したシンボルであって、あの大石寺という場所、あの楠という材質、あの寸法に凝縮、凝固し、封じ込まれ、そこから一歩も出ることの出来ない魂の存在など有るわけがないのであります。

 森羅万象、一切衆生の生命(あなた方の生命)はこうなっているんだよということを示されているのが本尊であって、此の本尊の外には法は無いという教では、森羅万象、一切衆生の成仏を示すことなど出来るはずがないのであります。

 

 御本尊は『窓』である。

 朝の勤行で、東に向かって初座(天拝)の勤行をしますが、諸天善神は東にしかいないのでしようか。東西南北、天上天下、森羅万象、どこにでも色々な姿を通して存在しているのであります。しかし、我々は太陽が昇る東をシンボルとして、便宜的に東天に向かって勤行をしているのであります。これと同じように、御本尊に顕わした法は、御本尊の所だけにあるわけではないのであります。

 

 

 御本尊をシンボルとして、窓として、ここを通じて、森羅万象、三千大千世界(法界)の諸法の実相として、一箇して、 一念三千(開)三千一念(合)として感得するのであります。

 御本尊を窓とは、貶めて表現しているのではなく、真実の法を凡夫心に感得するには、日蓮大聖人が、法華経身読の上、仏滅後二千三百二十余年、未曽有として示された、此の御本尊という、窓でなければ、又、謗法厳戒の信仰心と一体になった刹那でなければ、此の窓から森羅万象、三千大千世界(法界)の諸法の実相は見ることの出来ぬ、森羅万象の中で、これしかない唯一の窓なのであります。

 世界に何千万体の御本尊が存在していても、真理が個々別々に何千万体あるのではないのであります。真理=正法とは一つであり、かつ全体なのであります。窓=本尊が何千万体あっても窓を通して拝する真理=正法は一つの同じものなのであります。

 御本尊は鏡である。

 二番目の書えを示します。

 一般的に、境と智が一如となった所が成仏であると言います。

 境は万法の体。智は自体顕照の姿をいいます。

 平明に言えば、境は南無妙法蓮華経の法の当体であり、姿に示して言えば、御本尊ということになります。智は、この南無妙法蓮華経の法の当体に照らされて一如となり、成仏する側の衆生、我々凡夫という事になります。

 つまり、御本尊という対境(鏡)に向かって、謗法厳戒の信仰心を持って自らの姿(生命)を写す、ということであります。

 法を示された本尊に、自分の姿を写す。

 御本尊には、森羅万象、 一切衆生、凡夫のあなた方の生命は、仏と同じ南無妙法蓮華経の生命を根本として、仏となる原石を持っているんだよ、この原石を信心修行によって磨くことによって、生死一如即身成仏があるんだよ。だから勇気を持って生きていかなければいけないんだよ。ということを、強いて表現しがたい本尊という姿に示し、我々に伝えているのであります。

 

   御本尊に示されている南無妙法蓮華経の法とは、実は御本尊に信を持って向かっている衆生の生命が実体として写っているのであります。

 御本尊に示される南無妙法蓮華経の本当の在所、住所は、謗法厳戒の信仰心を持って、本尊に向かう信仰者の己心の仏界であるということになります。

 心真っ直ぐに鏡(御本尊)の前に立てば、真っ直ぐ己心の仏界が映り、外れて立てば、己心の仏界は写らないわけであります。

 御本尊とは一切衆生の成仏を大願として示されたものですから、御本尊の側に在所、住所の本籍があるのではなく、衆生の側に在所、住所の本籍が元来あることをわきまえなければいけないのであります。

 しかし、衆生は本尊無くして、自己の仏性を覚知する事が出来ない。そこを、境智冥合即身成仏と言うのであります。

 一如にして、初めて成仏の大願を成就することが出来ることを、我々末法の凡夫は、愚かな貫主のように慢心などで忘れてはならないのであります。

 

 本尊は地図だ。

 本尊は法門を凝縮した当体であります。

 成仏を目的地にした地図であります。

 世の中には沢山の依経の異なった、教義、宗派という色々な地図があります。

 偽物の地図、日標が違う地図、成仏を謳いながら地獄へ行ってしまう地図、種々雑多であります。

@正しい地図を選び。(一切衆生成仏の叶う本尊) 

A正しい地図の読み方を知り。(信行学)

B現在地を知り。(末法の凡夫としての自覚)

C現在地にどっち向きに自分が立っているか。(縁)

 この時、初めて、地図は、正しいあるがままの力を発揮してくれます。

 しかし、鏡の喩と同様に、地図は、縮尺し、紙に写した仮りの物であって、本物は、衆生が立っている大地こそが、その本体なのであります。

 しかし、衆生は、事実としてその大地に立っていても、地図を見なければ、自分の土地の形も、場所も、方角さえも分からないのであります。地図(法門・本尊)が無かったならば、我々凡夫は、一歩として進むことが出来ないばかりか、成仏することができないのであります。

 

 日蓮大聖人御真筆の御本尊

 身延日蓮宗の古い歴史のある寺院に、日蓮大聖人の正真正銘本物の御真筆の御本尊が安置されているとします。そこへ、謗法厳戒を志す正信の者が訪ねて行って、御真筆の御本尊を拝するとします。

 合掌して、日蓮大聖人が顕わした御本尊だと感激します。ここまでは出来ますが、彼は、その身延日蓮宗の寺院で身延の僧俗と共に信心修行出来るでしょうか。それは出来ません。しても、成仏出来ません。身延の僧俗から離れて個人的に、日蓮正宗の化儀によって、そこで修行したとしても、同様に成仏に通じるものではありません。

 御真筆の本物の御本尊であっても、そこが謗法厳戒の志しによって建立され、清浄が持たれるよう持続される努力、謗法厳戒の信仰心があってこそ本尊であり、そうして初めて本尊の意味、はたらきが表れるのであります。

 たとえ本物でも、鏡として、役に立たない。本尊の姿はしていても、本尊ではないのであります。信心修業と本尊が同じ志で一体になった所こそ本尊なのであります。

 

 戒壇の本尊が根本であり、他の本尊は仮りの本尊、影の本尊。

 代々の貫主が地方に新寺が建立されると、必ず、「この本堂に戒壇の本尊を御写しした御本尊を御安置申し上げました。」ということを言います。もちろん、その御本尊は、戒壇本尊を、そのまま、字も寸法も内容も変わらず写した本尊ではなく、その時の貫主が書き、仏具屋が彫刻した本尊であります。ならば、写したとは、何を写したのでしょう。

 写したということは、コピーということなのか。影を撮った、撮影。影ということなのでしようか。

そうであるならば、

 戒壇の本尊よりも低級な力の弱い本尊ということになるのでしようか。

大石寺の中で、一番は戒壇の本尊ということになっています。二番目は、末寺の本堂の大きな板御本尊ということになります。

 三番目に挙げる御本尊は、歴代の貫主が、ほとんど、信者さんの顔も見たことがなければ、信仰姿勢を語り合ったこともない。そういう信徒からの常住御本尊の願い出を、末寺住職の連名保証の願い出によって、貫主はそれを鵜呑みにして書写するのであります。

 それが、万が一にも、住職が信者を末寺に引き付けておく手段。名聞名利の心を慰撫する手段。末寺幹部信徒の論功行賞の手段であったとしても、貫主は御本尊書写マシーンに徹して、書き進め、渡していくのであります。

 真筆の本尊というだけで、一機一縁の本尊とは言っても、貫主と信徒を結ぶものは、末寺住職の口添えだけで、たとえ理由が不純であろうが、問い質しも何もないのであります。御本尊に願主として、信徒の名前が示されるだけの状態になっているのであります。これが本当に一機一縁と言えるのでしょうか。

 一機一縁の常住御本尊を受けた人が亡くなって、その御本尊が、その家と縁のない家に御安置される。御本尊を受け、亡くなった人は一機一縁でしょうが、後の時代に、その御本尊を安置し、拝する者は、一機一縁とは言えないのであります。

 何をもって勝れるというのでしょうか。墨を擦って、筆を使った肉筆で、世の中に一つしかないから、勝れるということになるのでしようか。

 四番目に挙げるのは、御形木御本尊ですが、近代のような高度な印刷技術が発明されるまでは、末寺に於いて版木を所蔵し、御本尊を刷っていたのであります。しかしこれとても、富士門流上代においては、禁じられていた方法なのであります。ならば近代ではこの事が法門的に正当化される会通がなされたのかと言えば、何もされずになし崩し的に当たり前の如く正当な顔をして行っているだけなのであります。

 今からでも会通すべき事であります。

 もちろん、何十万、何百万という、とりあえず御本尊を受けさせておこう、気が変らない内に持たせておこうという折伏の結果の人数ですから、手書きの本尊を下附することは、物理的に不可能な状態です。そして、そういう折伏ですから、返却の本尊も何十万、何百万という数にのばり、御本尊が消耗品として考えられ、扱われて来たのであります。創価学会も、大石寺も、この事に何の漸愧の念も、反省も感じていないのであります。

 とりあえず御本尊を受けさせておかなければ、すぐ気が変わってしまうという折伏なのであります。月末には集計をして数を競い合う折伏なのであります。

 何の会通も示さないために、上代から近代迄、御形木御本尊は、常住御本尊、 一機一縁(貫主直筆本尊)迄の、仮りの御本尊という考え方が、正当な論の如くに認識され、語られてきているのであります。

 五番目に、これを解消するためか、誤魔化すためか、法門的には何の補足も、理論の再構築の会通も無いままに、入信の時の御受戒で下附された御本尊を、長年御安置して退転無く信仰されてきた方に、という条件を付けて、特別御形木御本尊というものをあみ出した。

 大石寺から表具屋に発注して、末寺僧侶を通さず、貫主から直接創価学会専用の御本尊の意味合いを持って、創価学会会館にて、学会幹部の手によって、

「池田先生が、頑張ってきた皆さんに、特別に御本尊様をあげよう。」

と言って、渡されていったのであります。

 御本尊の寸法が大きくなり、正宗仏壇業界の活況が生じるという、計算された効果も、計算通り生まれた。

 御形木御本尊が、仮りの本尊、正式でない本尊と言うならば、特別御形木御本尊とは、特別な仮りの本尊というのであろうか。

 戒壇の御本尊が一番で、

 二番が、末寺の御本尊。

 三番が、貫主直筆の常住御本尊。

 四番が特別御形木御本尊。

 五番が御形木御本尊。

 御本尊に順位、差別があるのだろうか、必要なのだろうか。そして、御本尊の意味、働き、効果が違うのだろうか。

 写しとか、影とか、仮りとか言うのであれば、当然その内容を意味し、信じ方にも、拝し方にも、扱い方にも、軽重があるのが当然という事になります。写しの本尊を拝する信心は、写しの信心なのか、影の本尊を拝する信心は影の信心なのか、仮りの本尊を拝する信心は、仮りの信心であり、これらは全て成仏を遂げることの出来ぬ徒労な信心、不完全な信心をしているというのだろうか。

 そんな物が、本尊と言えるのだろうか。

 いや、本尊は、写し、影、仮りであるけれども、成仏は出来ると言うならば、境智バラバラの信心ということになってしまうではないか。

 今日まで、何の会通も講じられないまま放置されてきたこの考え方は、間違った考え方だと言えます。何度も言うように、御本尊は一切衆生成仏の大願のために顕されたのであります。そして、仏の出現も、この事を、一切衆生に伝えるためにあるのであります。ならば、その願目のために顕された御本尊は全て、戒壇の本尊と同じ魂塊であり、同質の本尊であると言えるのであります。そうでなければ、何のための御本尊なのか分からなくなってしまうのであります。

こういう法門を、先送り先送りで、整備、会通の無いまま放置しているため、創価学会のような、本尊なんてあればいいんだというような考え方に対して、正面から、正邪を明確にすることが出来ないのであります。

 貫主はじめ、僧侶自身が分からずに、その会通に取り組もうとしていない訳ですから、今日の混乱は当然のことと言わなければなりません。

 

 一機一縁

 一機一縁とは、特定の機縁に結ばれた衆生のことを言います。

 一機とは、特定の仏の説法及び法を悟り、信を取る限られた衆生の機根を言います。

 一縁とは、特定の仏と縁のある限られた衆生を言います。

 たとえば、爾前権教は一部の機縁の衆生の為に御経が説かれるのであります。

 法華経の述門の中に説かれる、十大弟子の様に、個人面接の如く成仏を約束することを、 一機一縁と言うのであります。

 しかし、法華経の本門は、仏の一番の大願である、一切衆生成仏の法を説き切った教えである為、万機万縁なのであります。

 戒壇の御本尊(弘安二年の御本尊)を、一閣浮提総与の御本尊と言います。熱原の法華講衆が、死をも恐れず、法華経の信仰を貫かれた姿を通し、一閻浮提、森羅万象、一切衆生に対し、御本尊、全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。

(中略)

此の御本尊も只信心の二字におさまれり。以信得入とは是なり。 「日女御前御返事」(1144頁)

 つまり、

只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる信心の志の胸中の肉団こそが御本尊の本当の在所であると示されているのであります。

 だからこそ、謗法厳戒の信心の所にしか、戒壇の本尊でも、御形木御本尊でも、そこに御本尊の姿形が存在していても、御本尊の心は存在出来ず、拝する衆生の己心にも本尊は建立されないということを示されているのであります。謗法厳戒の信心で師弟一箇になったところが本尊であって、信心の無いところ、謗法の所には、本尊は存在していても、存在できないのであります。

 つまり、物としての本尊だけがあっても、本尊ではないのであります。

 日蓮大聖人も、熱原の法華講衆も、成仏を目的に謗法厳戒の信心を貫かれた。その上に御本尊が顕わされた。

 大石寺が開かれたのも、日興上人が、どの土地であっても聖人の志を立てていきたい。

という謗法厳戒の信心を貫かれるために、身延を離山して開山されたのであります。

 つまり、謗法厳戒の基礎、基本を無くしては、御本尊も、師弟も、成仏も、大石寺もないのであります。

 創価学会の謗法に気付くのに20年もかかる、自称生き仏、詐称貫主が何を言おうとも、今日の大石寺を、身延日向のように、己義を構えて、第二の身延山に彼がしてしまったことは衆知の事実なのであります。

 本尊があっても本尊の心、本尊が指し示す法は存在しないのであります。

 

 末法の戒壇とは、正法、像法時代の戒壇のマネでよいのか。

 大石寺は戒壇の本尊が存在する所が聖地、霊山であり、代表管理者こそが、時の日蓮大聖人であると主張して止まない。

 戒壇とは授戒の場として、在世、正法、像法と、築かれ、その時代の人々は、そこに詣で、授戒を受けてきた。

 インドから中国へ、仏教が渡ったとき、「戒壇」と訳されたために、わざわざ、中国、日本では、三段の壇を築くという、大まじめな誤解から始まったわけであります。

 中国では、セイロン僧の求那跛摩によって、431年頃、南林寺に初めての戒壇が作られ、その形が後に各地に広まっていったのであります。6世紀に、梁の武帝が宮中に戒壇を築き、自ら受戒して以来、この風習が世の中の信仰の常識として定着していったのであります。このため、日本でも、日本独自では戒壇・授戒が出来ないこととして、鑑真を招き、754年、東大寺に戒壇を築いたのであります。しかしこれは小乗の戒壇であります。これを打ち破り、大乗の戒壇を作ろうとして伝教大師が朝廷に願い出るわけですが、生前には叶わず、死後、832年に比叡山に戒壇堂が出来ます。しかし、これとても、梵網戒を授ける像法の戒壇堂で、日蓮大聖人は、真っ向から破折するのであります。

 在世、正法、像法時代は、戒壇とは場所であり、権威でした、権力者、為政者の管理下にありました。

 この末法の時代、法華経文底の本因妙の仏法の御受戒は各末寺の御本尊の前で行われます。時と場合によっては、寺院でなくとも、御本尊の前であれば、どこでも御受戒は出来ます。 

 大石寺の戒壇の本尊の前では授戒はしません。出家得度式もしません。

 それは、在世、正法、像法の時代に、権威と、場所と考えられていた戒壇が日蓮大聖人によって、法華経本来の、いかなる山であろと、谷であろうと、噴野であろうと、妙法を持つ所こそが成仏の道場であるという教えに基づいているのであります。

 在世、正法、像法の仏教のあり方を破折しながら、姿形はマネをし、権威、場所、堂にこだわる愚劣な姿勢を死守しているのでありす。

 万機万縁、一切衆生皆成仏道の法に逆行する姿には、成仏の未来も、日蓮大聖人の慈悲も無いのであります。

 

 

 

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