坊主に裏切られた坊主

坊主に裏切られた信者



             廣 田 頼 道


 小学校6年生で出家して、大学生になる迄は、大石寺大坊の先輩、後輩の社会と、京都平安寺の寺内の事しか知らないで、僧侶全体の社会を感じたり、考えたりということは出来なかった。

 昭和46年に大学生になった時、日達上人の弟子の頭数の次に多い弟子を育てて来た、それも、日達上人の弟子よりも出家年数の長い、先輩格に当る人間を多くかかえ、全国にちらばっている弟子から、瞬時に全国の様子を把握し、宗会議員の議席も多数を占め、縁戚関係、孫弟子に致る迄の人間関係、総監の地位、大日蓮(報道の掌握)、御本尊、御経本の掌握等を考えれば実質的な日蓮正宗のセンターであった池袋の法道院へ縁あって4年間在勤することになった。

 高校生の時迄には考えもしなかった、日蓮正宗の実体が、地方の住職よりも、リアルタイムで頭の中に入ってくるのである。

 急に頭だけが大人になって行くのである。この時期から私は、時々地方の末寺の御盆や彼岸の塔婆書きがいそがしい時、又、どうしてもという時の留守番や手伝いでその御寺に何泊かした時、そこの住職と色々な現状、実情、宗門の問題点、矛盾点を真剣に聞き、尋ねた。同様に、在勤の先輩、後輩とも議論した。 はるかに先輩の幾人もの末寺住職の対応パターンはほとんど同じだった。

頼道〜 宗門のこういう点、創価学会のこういう点は、明らかに矛盾をはらみ、間違っているのですから、皆んなで声を出して直していって下さい。

住職〜 心配するな、そんなことを考えるより、今はしっかり勉強しろ。おまえが偉くなって、言える様な立場になったら、良く変えていけばいいんだ。

頼道〜 しっかり勉強してみると、大石寺で主張しているこういう点は、折伏にしても道理が合わないし、説得力がないし、議論にならないんじやないですか? 不相伝の輩、不相伝の輩だけでは一切衆生を救うことが出来ないじやないですか。

住職〜 頼道、頭でっかちになってどうする。智者、学匠の身となって地獄に堕してどうする。日蓮正宗は信の宗旨だ。戒壇様絶対、法主様絶対で一日一日頑張って行けばいいんだから、総ての学問は、その説明にすぎないんだ。

頼道〜 このままいけば、宗門と創価学会はどちらも矛盾をかかえどうしようもない決裂が生じると思います。そうすれば僧侶社会も分裂すると思います。今の内に日蓮大聖人の仏法を根本に御互いが真剣に話し合って、御互いが見直さないとまずいんじやないんですか。

住職〜 頼道、俺達坊主は、小さい時から仏飯を頂いて来たんだ。天地がひっくりかえる様な問題が起きたとしても、皆んな何にも話し合い等しなくても仏法を守る為にガアツと一枚岩になって微動だにしないんだよ、それが坊主ってもんだよ。創価学会が何をして来ても大丈夫だよ。そんなこと心配しないで、そういう時代になった時、力を発揮して命がけで御奉公出来るように、一所懸命勉強しとけ。

 この様に幾人もから言われ、そんなもんかなあと思い乍、創価学会の池田本仏論、創価王国思想、池田師匠論の昭和52年路線に突入して行った。

 これこそが、「天地がひっくりかえる様な問題が起きた」と思った。

 ガアツと一枚岩になると思ったら、バラバラの砂利だった。一枚岩になると言っていた住職達も屁理屈を並べたてて右往左往、眼はキョロキョロして砂利の一粒になった。

 日蓮大聖人の教え、心はどこにあるかという生き方ではなく、勝馬を見つけ、乗ること。まさしくギャンブルの様に、妻子眷属、地位名誉を守る、身過ぎ世過ぎの渡世の泳ぎ方を見せてもらった。坊主の世界が信心の世界でなく、手枷足枷のしがらみで動いて来た世界だということが判明した。

 完全に坊主が坊主に裏切られた。坊主も、地獄、餓鬼、畜生、修羅の生命を持っているのに、持っていないような振りをする、ただの醜い人間だということが良く分った。

 何事も無い平穏に見える時代に、どれほど先輩面をして、もっともらしい演説を声高に朗々と述べても、真実はその人自身の信心の生き方にあらわれるということが分った。

 坊主以前に信仰者として、まともかどうか、それか全てだと思った。

 私自身が坊主に裏切られた坊主として、所詮自分もその埓外ではなく、それだけの人間でしかないということが分った。自分だけは特別な、りっぱな人間であるはずがない。坊主から信仰と修行と志が欠けたらプライドだけを振り廻す、ただの遊び人でしかないということも分った。

 坊主だから正しい、無謬である。坊主だから信じ尊敬しなければいけないというのではなく、その坊主が信、行、学、折伏にどれほど真剣に取り組み、実行しているか、という中味をまず見なければ、坊主として信じること尊敬することは出来ないはずであります。

 坊主を供養をして支えるのは信者としてあたり前だと言う僧俗がいる。本当にあたり前だろうか。信、行、学、折伏に真剣でない者、信者、一般人に法を説かない者、説こうとしない者、説けないと逃げる者、遊ぶことの方に忙しい者、これ等に供養することは、法泥棒に追い銭で供養すればするほど、道から外れて行くことになるならば、供養しないで目覚めて頂くこと、供養しないことこそか供養ということになるはずであります。
 信頼しても、信用してはいけない。

 一切衆生、生命を有するものは全て南無妙法蓮華経の十界互具として仏性を持っている。阿部日顕(本名阿部信雄)師も池田大作氏も麻原彰晃も、皆んな持っている。どんな者でもいつかは必ず仏になることか出来る。そのことは、日蓮大聖人の仏法に縁する者として、一切衆生に絶対の信頼を持たなければいけない。

 しかし、その一切衆生か、もう一方では、地獄、餓鬼、畜生、修羅の生命を持ち、貪り、瞋り、癡れの三毒を強盛に持ち、バラ蒔き、名聞名利の慢心のかたまりで、鬼か出て来ても蛇か出て来ても、どんな極悪非道の事件を起こしても、いたしかたのない生命を持っているのであります。まさしく十界互具の生命は、信頼しても信用してはならないものなのであります。

 道理に叶う尊い仏界と、道理から喜んで外れて行く御し難い地獄界と、矛盾したものか同居して十界の生命の存在かあるのであります。だから我々は、日蓮大聖人の信心をしているからとか、坊主だからという様なことで、選ばれし者の如く、地獄、餓鬼、畜生、修羅の生命など持たないかの如く、謬か無い者の如く、思い込んではいけない、自覚を持たなければいけないという、日蓮大聖人の教えを信仰しているのであります。

 必ず成仏することか出来る。しかし最低、最悪の醜く愚劣な迷い、弱さ、いやらしさも同時に持っている。最高と最低を持った末法の凡夫であるということを自覚した所から、そのことを常に忘れないように自問自答し乍生きていかないと、我々の信心も、我々か批判して来た人間、組織と何等変らない方向に必ず行ってしまうのであります。

 坊主に裏切られた経験を持つ坊主、坊主に裏切られた経験を持つ信者。正信会に残った者は全て正しいではなく、日々十界互具の生命か試されていると考えるべきなのであります。

 生命の尊さと醜さを、きちんと見据えて信仰していかなければいけないのではないか。坊主に裏切られたから、坊主は裏切るものだということを学習した。だから、私達は法を裏切りたくないと思って20年間やって来たはずなのであります。信心の中心は坊主ではなく、法だから。

 

 

 

もどる