第21章 宗教制度――実践

 

 

 宗教制度の基本が、私たちフランス人と大きく違っているとしたら、その実践法もまた違っていても驚きはないだろう。日本の宗教は何よりもまず、超越や神秘的な力、抽象的な現実というものとは無縁である。実践法が現実に即しており、とくに信者に具体的な利益をもたらすことを目的に、神と商取引をしているのだ。そして信仰の場を開拓した団体は、その利益を享受しているのである。

 

きわめて密度の高い宗教施設

 日本では、免税の恩恵を受けるために、各宗教施設は行政機関に登録し、聖職者の実数と信者数を提出するのが義務づけられている。こうして各神社、寺、キリスト教会は宗教法人として登録されているのである。それによると、本書を執筆している時点で、日本には約22万の宗教施設があり、うち神社と寺はそれぞれ40%、残りは「その他」とキリスト教会となっている。

 宗教施設の密度はフランスに比べて非常に高い。もし――大いにありうるが――公表された宗教組織が最低でも1つ、宗教関連の建物を管理しているとしたら、日本にある宗教施設は1平方キロあたり約3か所、フランス(4平方キロに1か所)の12倍で、しかもフランスの場合は多くが廃用になっている。ちなみに東京では、私の家から15分歩くだけで、氏子のいる神社が4社あり、10ケ所以上の寺に参拝できる。神社は大型店の屋上にもあり、商売繁盛の神が見守っている。ある民俗学者が、好奇心から銀座界隈を隅々まで探検したところ、わずか2平方キロ以内の面積に、あらゆる宗教に属する、あらゆる大きさの像や供物台、建物が数100個もあったそうだ。

 公表された宗教組織が雇用する職員は65万人――日本人193人に1人の勘定だ。ちなみにフランスでは、人口1300人に1人しかおら(司祭、修道士、牧師、ユダヤ教のラビ、イスラム教のイマーム)、割合にして7分の1である。フランスのカトリック教会はまだ1400が、しかし司祭は14000人しかおらず、その半数は75歳以上、しかも後継者はほとんどいない。対して日本では、各信仰施設に必ず職おり、神社の神主にしろ寺の住職にしろ、大半は後継者がいる。それぞれの長男だ。実際、有名な神社仏閣を除き、多くの宗教施設は家族営で職員や家族を養い、父から息子へと少なくとも5、6世代にわたって受け継がれているのである。

 いっぽう、公表された信者数に関しては不可解なところがある。神道の信者(約8700万人)と仏教徒(約8400万人)、キリスト教徒(2000万人以下)と、「その他」(約780万人)を合計すると、日本の人口の1.5倍になるのだ。冷静に見ると間違いか詐欺だろう。もし「神」を信じていたら、仏陀を信じることはできず、逆もしかりである。しかし日本人は、私たちが思い描く意味での神は何も信じていない。彼らは状況と必要に応じて、神と仏を使い分けている。競合する神はすべて排除すべきとする、私たちフランス人の「ねたむ神(1)」と異なり、日本に無数に存在する神々は、いっさいの排除を要求してこなかったのである。

 

信仰心がなくてもどんどん実践

 矛盾するのは、宗教がこの21世紀になっても増え続けている国で、世論調査を何回行なっても、国民の3分の2が無信仰と答えていることだ。キリスト教徒は別として、誰一人信じている神の名をあげることができないのである。それなのに、多くの家庭にはいまも仏壇か神棚、さらにはその2つがあり、ときにそれに加えて七福神の一体が置かれていることもある。また、神棚は商売繁盛を願う多くの企業や、温泉、銭湯では浄めのために設置され、選挙では勝利を願う政治家の選挙事務所にもある。リベラル系でも置かずにいる候補者が少ないのは、「本当の日本人ではない」と思われるのが不安だからである。

 1つの神を信じない代わりに、日本人は近隣のさまざまな神、有名な神社仏閣を頻繁に訪れて、参拝する。それも救いや許しを求めるのではなく、楽しむためだ。儀式を観察してその場にいる人たちと雰囲気を共有するのである。通りがかりにその気になったら、そのときの必要に応じて、神に向かって祈願の儀式をしてもらうのだ。宗教が個人の行動や倫理観と同様、これほど状況に応じて変化するものでなかったら、それこそ矛盾するだろう・・・。

 日本人は新年や、大人になるまでの人生の節目には(第19章)、こぞって神社へ参拝に行く。ほとんど例外なく、建築の棟上げ式を皮切りに、それが新しい情報システムを設置するさいでも、その前に金を払って神道の神主に祈祷を頼んでいる。葬式は仏教に頼み、また、古い人形や玩具なども「供養」と称して寺で火葬してもらうのである。

 日本人はまた、お守りの類の大消費者でもある。大学の入学試験を控え、合格祈願や学業成就を専門とする神社へ参拝に行かない学生は少数派だ。そこで、平均500円で絵馬を買い、願い事を書いて所定の場所に掛けるのだ。自分の名前と、志望大学を入りたい順番に、なかには住所や電話番号が書かれていることもある。神道と仏教は、この縁起物の市場を同等に分け合っている。どちらも、どんな小さな神社仏閣でも、選択幅の広い物品を提供し、あらゆる種類の護符やお守りがある。価格幅は100円から数千円、支出を気にしない人のためには、有料のお浄めやお祓いの儀式もある。

 

共有される市場――生と死と縁起物

 フランスの「ねたむ神」に加え、宗教紛争の一つの理由に、信仰で発生する収入をめぐる奉仕者間の競争がある。日本では、神道と仏教の聖職者数から判断して、これらの収入は莫大である。電卓を手に、神社と寺を一巡りして確認できるのは・・・。

 どの信仰の場でも最初にある設備品は、建物の前に置かれた賽銭箱だろう。その上に、鈴を鳴らすための綱がぶら下がっている。東京でもっとも人気のある浅草の浅草寺では、参拝客の多い日は1日で約1875000円の賽銭が集まるそうだ(2)。さらにこの収入源は、ほかの収入源――お守りや線香代、有料の祈願、葬式ビジネスなど――のなかでは最小の部類である。同じく、東京の合格祈願で有名な湯島天神で、大学入試が熱を帯びる月間、参道沿いに束になってぶら下がる絵馬を価格にすると、概算で1250万円にもなるのである(50枚の絵馬の束が500本あるとして。絵馬は1枚500円)。

 仏教にしろ神道にしろ、無料の儀式はいっさいない。神道は生の市場を独占しており、結婚から安産、誕生、子どもの成長、豊作と豊漁、商売繁盛・・・、そこから転じて、あらゆる種類の企業の成功を請け負い、加えて季節の変わり目の特別な儀式もある。これらすべてのために、神社は15種類ほどの有料の儀式を提供しており、そこには会計年度の始まりや、新車や新しい情報システムの安全祈願、選挙運動の出陣式なども含まれる。加えて、お祓いやお浄めの儀式も重要な市場で、ここでも驚くべき商才を発揮している。そのいい例が、市谷亀岡八幡宮で、少し前からペットのための七五三の儀式を提供している。対して仏教の寺では、ソニーが1999年から2006年まで生産していたペットロボット、アイボの葬式を想定している。というのも、現在は交換部品不足で死んでいるからだ。私が知っている神社では、使い古した筆を供養するささやかなビジネスをしているのだが、書道が衰退したことから、使い古したヘアブラシの供養に転向した・・・。

 いっぽう、死の市場は仏教が独占している。日本の葬式代は世界一高く、平均250万円のうち、僧侶が手にするのは約4分の1(約625000円)だ。仮に年に150万人が亡くなるとして、その収益は9375億円にもなる。それに加わるのが、故人の保管代だ。分譲墓地の価格は、有名な寺になると購入に一区画が200万円、プラス年間の管理費がかかる。その半額以下の値段で、一部の寺が提供しているのが、故人の骨壷を預かるビジネスだ。さらに僧侶は、故人は死後に成仏するという日本特有の仏教的思想から、独特の文字を入れた戒名を授けるのが風習としてあり、そこに社会的に権威のある要素が組み入れられると、値段が数100万円になることもある。それに加えて、さまざまな儀式が死後40年まで続くことがある。保管に関しては、死後40年間の潜在的な顧客を全部合わせると、6000万人ほどの故人になる。仮に、時が経つにつれて3分の3が消滅し、各故人が1周忌のあと定期的に供養される費用が年にわずか12500円だったとしても、収益はこの保管だけで1875億円に達するだろう。

 

活気あふれる宗教は道化芝居?

 いっぽう、宗教の気晴らし的な役割は、不当にも見落とされているところがある。しかし何あろう宗教はつねに、面白くて夢中にさせ、恐ろしくてあっと驚く物語の汲めどもつきぬ泉だったのだ。その意味でも世襲財産なのである。この分野では、神道は想像力にあふれていることがわかる。九州は宮崎県日南市、多くの参拝客が訪れる鵜戸神宮の伝説が語るのは、海に住む豊玉姫が陸の君主の山幸彦と結婚するため、夫が妻の裸体を見ないという条件で、海から陸地にあがった物語だ。彼女は夫とのあいだに息子をもうけたのだが、授乳中の姿を夫がうっかり見てしまう。すぐに海へ戻らなければならなかった彼女は、赤ん坊の命を救うために、乳房を切って残していく。つねに授乳できる状態の乳房は、洞窟のなかでいまも見ることができ、石に姿を変え、賽銭箱に守られて置かれている。こうして奇跡的に育てられた子どもは、神話の初代天皇、神武天皇の父だった。もちろん、この神宮の売り物は安産と子どもの健康だ。私たちは息子の通学路を守ってくれるのに特化した、特別なお守りを700円で買った。もっと完璧なお守りになると、値段が3倍になる。

 これもまた九州の宮崎県高千穂町、天皇家の祖先とされる太陽の女神、天照大神が閉じこもったとされる洞窟を、有料で展望できる神社がある〔天岩戸神社〕。何かと問題を起こす弟、須佐之男命に皮を剥いだ馬を投げつけられ、気分を害した彼女は天岩戸に閉じこもり、地上から太陽を奪ってしまう。女神の気分一つで世界が暗闇に包まれた物語は西欧にもあり、地獄の神に娘を誘拐されたギリシャ・ローマ神話の豊穣の女神、デメテル〔ギリシヤ名〕−セレス〔ローマ名〕が、悲しみと怒りで洞窟に閉じこもった物語を連想させる。西欧では、問題は双方の理性的な交渉による合意で解決、娘は一年の半分を母親のいる地上に戻ることが許され、その間、母親の女神が楽しく過ごしたおかげで地上に春と夏がもたらされている。日本では、洞窟に閉じこもっていた天照大神が退屈のあまり、外で大きな笑い声がしているのに誘われ、思わず岩戸から鼻を突き出したところをとらえられ、岩戸から引きずりだされている。外では芸能の女神、天宇受売命が滑稽で官能的なダンスを踊っており、こうして天皇家の祖先は快く降参、世界に太陽が戻ったのである。西欧では理性的な契約で、日本では淫らで田舎じみた道化芝居で・・・ということか。神社の近くにはいまも急流が流れ、伝説では神々がその河原に集まって天照大神を引き出す作戦を練ったとされている。

 もう一つ、あまり上品と言えないのは、東京近郊の川崎市にある金山神社、別名「かなまら様」の伝説だ。これは一人の姫の性器に悪魔が棲みつき、そこに侵入してきたものを全員、歯で噛み切ったという物語だ。一人の鍛冶屋が鉄で作った男根(かなまら)を入れたところ、悪魔の顎が砕けてしまったという。この神社は毎年4月の第1日曜日、日本でもっとも注目すべき祭りの舞台になる。神輿がなんと巨大な男根で、境内で売られているお菓子は男根の形をした飴細工、それを砥めてセルフイーを撮るのが観光客のあいだで人気になっているのである。

 

まだ生きている国民の文化遺産

 神話がもっともそろっているのは、おそらく出雲大社(島根県)だろう。物語が始まるのは、日本が天照大神と怒りっぽい須佐之男命の子孫で分断されていたはるか遠い昔である。そのなかに、ウサギとサメ〔ワニの例もあり〕がどちらの種の数が多いかで競争する話がある〔「因幡の白ウサギ」〕。サメの怒りを買ったウサギは身体の皮を剥がれてしまうのだが、そこへ通りかかったのが、一人の姫をめぐって求婚争いをする80人の兄弟神「八十神」・・・。なかでいちばん心優しい神がウサギを助け、「あなたの求婚は成功する」と告げられる。彼はウサギの予言通り姫と結婚するのだが、これが原因で兄たちから2度殺され、2度とも母親に生き返らせられる。その姫とは別に、須佐之男命の娘と恋に落ちた彼は、彼女の父に相談に行くのだが、怒り狂った須佐之男命に何度も殺されそうになっては生き延び、ついに結婚の許可を得る。彼女は持参金として出雲の国を彼にもたらし、彼は平和裡に国の残りを統一、こうして日本の国が誕生し、彼自身も大国主になった・・・という物語だ。したがって、この神社は日本の国粋主義者にとっては記念すべき場所となり、それが証拠に神殿の前には日本一大きい巨大な日の丸国旗がはためいている。さらに縁結びの神社としても有名で、恋人たちがウサギの絵のあるお守りを競うように買っていく。こうして出雲の神主たちは人もうらやむほどの繁栄を謳歌しているのである。

 これら奇妙な物語の舞台は日本だが、同じようなオリュンポス12神の神話があるのはギリシャだ。いずれも国民が共有する文化遺産だが、西欧ではこの遺産はキリスト教によって無にされた。そのギリシヤがいまだに、知恵の女神アテネを崇拝していたらどうなるだろう?

 アクロポリスをきれいに整備して、浄めの儀式や合格祈願のお守りを売り、あるいは頭痛に効用(3)があると宣伝して、司祭たちの懐が豊かになるなど、想像できるだろうか? 日本では誰も、天照大神も大国主も「信じて」いないのだが、しかしこれらの物語は笑いものにもされず、弾圧の道具として告発もされず、まして天皇家の起源としての科学的な研究もされていない。それなのに人々はむしろ一種の敬意を払っている。私たちフランス人にとって革命記念日のないフランスが想像できないように、日本人は天照大神なしの日本は想像できないのである。アテネなしのギリシヤは、観光客が少なくなるだろうが、天照大神なしの日本は、日本人にとって日本ではなくなるのだろう。国の文化遺産はまだ生きており、そうして国家の団結に貢献しているのである。

 

論争にもならない政教分離

 こうして、日本では政教分離がまったく意味をなしておらず、論争さえされていないことがよくわかる。しかし、政教分離の原則は、米国人によって編纂され、1947年に施行された日本国憲法にきちんと組み込まれている。彼らは超国粋主義の要因を神道と見て、それを排除するのに心を配っているのである。憲法20条は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と禁止している。それなのに、公表された宗教組織は免税の恩恵を受け、多くの組織は政権政党を支援し、それだけでは足りずと、政治にも手を染めている。そのいい例が、自民党と連立を組む公明党を介しての創価学会だ。

 フランスの概念から見ると、日本の政教分離の原則は、「個人の資格」や「社会の習慣」を隠れ蓑に、たえず破られている。新年にあたっての国民に向けての短い挨拶で、天皇は「国民と世界の幸せを祈ります」と述べ、彼が死後「神」になる儀式は、天皇家の個人的な儀式と見られている。さらにメディアが厳しく監視するなか、首相が毎年、年始に神社へ参拝するのも黙視されている。そして公共放送NHKは、毎年大晦日の夜、多額の費用をかけて複数の寺にスタッフを派遣し、仏教の儀式である年越しの「除夜の鐘」を完全生中継で放送している。108回つかれる鐘は、日本人の心のなかにあるとされる108の煩悩を追放するのが目的だ。そしてまた、社会通念の名のもと、最裁はキリスト教徒の妻の訴えを却下し、地方自治体が何かの工事をする前後に神道の神主による有料の儀式を認めているのである。

 いっぽうのフランスでは、ある市庁舎に設置されたキリスト生誕の情景や、公共広場の十字架を撤去させるため、市民は裁判や国家権力にまで働きかけている。しかし日本はこの種の緊張からは免れている。新年には、地区の交番は何の問題もなく、習慣上欠かせないからと神道の飾りをつけている。仏陀の誕生日には、私が利用するスーパーマーケットは毎年、売り場の中央に供物台を設置するのだが、客は誰一人、不快には思っていないようだ。むしろ逆。お盆には、ほぼ全員が果物の入った供物用の龍を買っているのは、家の仏壇の前に置くのだろう。この光景を見て、意識の自由がないがしろにされ、さらには違いを認められる権利が踏みにじられていると、不満を述べる人はほとんどいないのである。

 日本人はおそらく、2つの信仰で職務と市場を合理的に分割する宗教制度に秘策を見いだしたのだろう。それぞれが人生の重大な2つの心配事に応えている。つまり生の維持とよい死だ。人間の多様な要望に、安心できて、あるいは単に楽しい縁起物をたえず提供する制度である。それが日本の国土を人的、物質的なインフラで網の目のようにつなぎ、いまなお生き生きとした儀式で人生に区切りをつけている。そうして、外部から絶対的な命令として提示されると不寛容の源となる善と悪の問題を排除しているのである。善と悪の問題は、日本では社会が状況に応じて決めるもので、それ自体、国家のアイデンティティの重要な要因の一つとなっているのである。

 反論として、この制度には何かを乗り越え、存在を超越したいと熱く思わせるものが何もなく(仏教で、世間から隔絶して死ぬまで瞑想する修行は別)、だから宗教ではないとは言えるだろう。たしかに躍動感に近いものはいっさいもたらさず、愛と希望と慈愛のある世界へ進化させるという目的もない。日本では、人々はお互いの愛と1つの神によって結ばれた「みな兄弟」ではなく、全員が一つの社会、国家の一員で、観察すべき行動の善悪の決断は、広く社会や国家に任せている。日本人が団結しているのは、本物ではない信仰に締めつけられた現実的な骨組みによってであり、名前ほど宗教的ではない(西欧の意味において)大小の儀式によってである。そこには興奮も、精神を高揚させるものもないのだが、しかし安心できて、楽しいのは事実である。そうして日本の社会は、フランスの社会にストレスを与えている信仰がらみの分断を避けているのである。

 

 

 

 

 

(1)「あなたは愚か者にひれ伏してはならず、拝んではならず、仕えてはならない。なぜならわたしは、永遠なる神。あなたの神、ねたむ神、罰する神だからである」(申命記、5・9)

(2)仮に、寺の営業時間10時間のあいだに、1分間に40人が平均50円の賽銭を入れたとすると、1日の収入は120万円に達し、この計算でいくと、年に43800万円になる。参拝客の少ない時間や日を考慮して、これを3分の1にしても、寺院は年に14600万円の小銭での収入があることになる。しかも税金は免除だ。

(3)神話では、ゼウスのしつこい頭痛を治すため、鍛冶屋の神ヘファイストスが頭を斧で割ったところ、そこからアテネが出てきたとされている。

 

 

 

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