第13章 国物語の国
私は体験から、物語には人を惹きつける力があることを知っている。私にこの使命感を授けてくれたのは、第6学級(日本の中学1年)で教わった教師だった。彼は物語を朗読し、語り、私を魅了した。
13年後、教師としてデビューしたアルジャントゥイユ高校〔パリ近郊〕で、視察に訪れた大学区視学官は、私が同じことをして生徒たちが評価しているのを見て驚いた。彼らは当時すでに多様な文化圏から来ていたのだが、フランスや世界の歴史を発見した喜びを全員が共有していた。
しかしフランスでは現在、昔ながらの国物語は表現の多様性を妨げるデマ宣伝ととらえられ、教科書からは消えている。たぶん、生徒には使用する言語として大きなことはもたらさないからだろう。しかしこの日本では、いまだに文部科学省がそれを強制し、テレビでは大盛況だ。私にはそれで日本が国家としての体制をうまく保っているように見えなくもない。そして確実なのは、この国はこの視点から見ても、恐ろしいほど理不尽なことである。
きわめて理不尽な国
フランスはキリスト教にルーツを持つ白人種の1国家であるなどと言おうものなら、いまや「反共生罪」である。しかし日本では、国民の大半と、政治、メディアのほぼ全体にとって、日本は特別な1民族がつくる国で、このような文化や言語、文明はほかになく、この特異性が国力になっているのは言わずもがなである。このような見方はある一言で言い尽くされるのだが、その言葉はタブーになっている。というのも、日本を1945年の敗戦に導いた、軍国主義政権のイデオロギーの中心だったからである。それは「国体」〔天皇を中心とした秩序〕だ。
ここでの「体」は器官の意味と理解していいだろう。日本人は同じ土地に住み、均質で、共通の起源を持つ民族と見なされているのである。したがって、日本国は「生得のもの」であるのに対し、欧米の国々は、戦争終了時の条約によって偶然に領土と人口が集まり、人工的につくられたものとなる。この理由で、日本は西欧諸国より文字通り一体になりやすく、したがって、1858年の開国や、1945年の敗戦ような最大の試練もうまく乗り越えられることになる。この見方は日本人を力づける意味において必要なものでもある。なぜなら、日本人は世界から嫌われていると思っており、唯一原爆を投下されたことで、その思いは少なからず強固にされたからである。
もし共通する歴史的な蓄積がなかったら、文化的にもアイデンティティの面でも不安定になるものだが、日本人はこの不安定さからは免れている。なぜなら政権、またメディアからもつねに監視下にある教育制度が、ありうる限りの歴史的蓄積を維持するのに中心的な役割を演じているからだ。そしてそこでは、日本国の過去に関する歴史的に重要な部分の多くが、意図的に短縮され、不透明なままになっている。こうして語られる国物語は明らかにごまかしなのだが、しかしこれも国家的視点から見て、それほど有害と言えるのだろうか?
考えてはいけないこと
「日本人は世界史上、時代的に大きく遅れた民族のなかに入る」 日本民族は紀元前400年頃まで、石器時代にとどまっていた。紀元前400年といえば、最初の偉大な文明が金属を利用し始めてからなんと5000年も経っている。言い換えると、1つの民族集団が自らの歴史が書けないほど長く、文字のない先史時代にとどまっていたということだ。ところで、日本最古の書物とされる『古事
』が世に出たのは紀元後8世紀でしかなく、日本では文字がなかったことから、渡来してきた移民の中国人書記によって伝えられた表意文字で書かれたものだ。そしてこの本では、表題にもかかわらず、日本と日本人の歴史については何もわからない。伝説や神話を継ぎはぎしただけのもので、その目的は、神武天皇以来の「万世一系」の子孫、大和民族の権力を正当化するところにあるからだ。したがって2019年、天皇に即位した徳仁は126代目の天皇となる。
日本人の歴史のはじまりは、中国の旅人の旅行話によってしかうかがい知れず、それによると日本人は倭(小さい人という意味)と侮辱的に呼ばれていた。これらの旅行談は、265年から463年のあいだ中断している。このブラックホールの期間中に、日本は上から下まで編成されたようだ。265年頃の日本は、権力者に支配された小さな国々に分割しており、もっとも発展していたのが九州だった。それが2世紀後、何の説明もなく倭の大王朝が興り、その中心が畿内〔京都周辺の国々〕になっている。この間に何が起きたのだろう?
「初期の日本人はアステカの運命を味わった可能性があるだろう」 日本に金属や騎馬、その他の技術革新が普及した速度の速さは、中国から朝鮮半島を経由して到着した――きわめて確実な線で――ほかの民族集団が、日本民族より技術的に優に1000年は進んでいたことを示している。したがって初期の日本民族は、約20世紀後、やはり石器時代のまま馬を知らなかったアステカ民族のように、金具で高度に武装した騎馬兵からなる小さな侵略集団に支配された可能性がある。この不敬きわまりない仮説に従うと、日本の初代天皇は、スペインのコンキスタドール〔中米および南アメリカ人陸を征服したスペインの冒険家〕のような中国系民族だった可能性があるのである。
この仮説を考察した考古学者、江上波夫(1906−2002)は、米軍の占領で日本に思想の自由が確立される前は、あえて自説を公表する勇気がなかった。現在、彼の提唱する急激な断絶のシナリオは放棄され、その代わりに、日本民族と大陸から来た先進的な民族集団のあいだで、半戦闘・半平和的に、段階的に統合していく見方が前面に出されている。それでも、本当の研究が欠けていることから、正確なことは何もわからないのが事実である。東京国立博物館では、かつてはそれなりのやり方で、日本における石器時代から金属時代までの推移が説明され、日本独特の文明が緩やかに、平和に熟成したように描かれていた。それでもおそらく過剰だったのだろう。というのも、私が最後に行って確認したのは、石器時代から古墳時代(紀元後538年)までの日本の歴史が、展示上では簡単に一部屋におさめられ、それとわかる区切りも明確な変化にも触れられていなかったことだった・・・。
知りたくないこと
「天皇家の起源は誰も知らない」 そのじつ日本人は、天皇家の歴史は世界でもっとも古いと言うのがとても好きだ。しかし、初代天皇の歴史的実像も、数世紀にわたったとされる統治の年代についても、人はいまだに何も知らないのである。それでも、大阪からさほど遠くないところに、応神天皇のものとされる巨大な墓が存在する。天皇家の公式な年代記によると、彼が統治したのは270年から310年、まさに「ブラックホール」期の初期である。この人物は例外的な長寿(111歳)だったとされていることから神話的な側面もあるが、しかしそれでも、物質的な痕跡のある最初の天皇である。その墓には、大和朝廷の起源と年代の疑問に答える重要な要素がおさめられている可能性が大きいのだが、しかしそこへ行って探すのは禁止されている。天皇の墓は発掘できないのだ! こうしていまは「万世一系」の天皇家の初代は神武天皇とされ(その祖先は天照大神)、紀元前8世紀から前6世紀まで127年間生存し、うち76年間は、紀元前660年1月1日に建国した国を統治していたとされている。この非常に神話的な歴史を称え、現在の日本ではいまだに2月11日〔1月1日の新暦〕が祝日になっている。
この21世紀、天皇の墓の秘密をすべて明らかにできる技術を持つ先進国で、人がそれについて話そうとしないのは、信じられないことに見える。フランスだったら、議論が沸騰するだろう。国民の知る権利を盾に、真実のすべてを要求するだろう! ここでは、それを要求する声はどこからも聞こえてこない。日本では、個人や裁判――また宗教やモラル、スポーツ、情報の義務、幸せ――と同じように、歴史の真実もまた状況的に変化するのである。神武天皇を初代天皇とする物語は誰をも傷つけるものではない。日本人はそれに慣れており、そして神武天皇が好きなようだ。しかしもう一つの真実となると、疑問と無意味な議論しか引き起こさないだろう。ただの一度も「世界でもっとも古い皇室」ではなかったことと、それを明らかにしなかったことが暴露され、日本人の尊厳を傷つけてしまうのである。日本人の多くはおそらく、そこに誤った操作があると見るだろう。応神天皇の墓があまりに意外な事実を語ってくれそうなだけに、よけいそう思わざるをえない。
知っているが話さないこと
「日本の初期の発展はすべて、あるいはほとんどが、渡来人(移民)のおかげである」 天皇家によって丁寧に保管されている日本の特権階級の公式年鑑には、政権を握っていた高官階級の家系の起源が示されている。それによると3分の1は中国系または朝鮮系で、桓武天皇(737−806)は母親が百済系渡来人である蘇我氏の出身だった。しかし2001年、現上皇で当時の天皇明仁が、その事実に照らして韓国との「ゆかり」を感じたと公式に言ったとき、メディアはその発言を困惑して受け止め、政権はその部分を密かに排斥、本質的な議論に発展しないよう細心の注意を払ったのだった。
「いわゆる『万世一系』とされる天皇家の歴史は暴力的だった」 しかもその歴史は、裏切りと暗殺、武力抗争のるつぼだった。日本国の偉大な建国者で、肖像画が一万円札を飾るほど――私が最初に日本に滞在したときはそうだった――敬愛されている聖徳太子(574−622)もまた、蘇我氏と血縁関係にあり、権力の座についたのは天皇が暗殺された内乱のあと、その子孫も全員ほかの乱で抹殺されていた。それについての詳細は不明で、しかもそれ以上に語られないのが、天皇家が継承するとされる三種の神器の原物の一部が1185年以降、内海の底に眠っていることだ。これらは有名な源氏と平家の長きにわたる合戦の果て、「壇ノ浦の戦い」で入水する天皇とともに海底に沈んだとされている〔『吾妻鏡』より〕。もう1つ、多くを語られないのが14世紀、その時代の日本は60年間、2人の天皇が対立して闘争を行なっていたことだ〔1336−1392年の南北朝時代〕。無政府状態となった国は貨幣さえ製造できず、天皇は2人とも貧困に陥り、1人は薪を買う金がなくて火葬ができず、もう1人は生き残るために自らの書を売っていた。
この無政府状態は、領土をめぐる戦争と絶望から発生した百姓一揆に明け暮れ、16世紀終わりまで続いた〔戦国時代〕。その時代に終止符を打つには、国物語が偉人として祭り上げる三英傑が必要だった。1人は多くの武士を虐殺し、1582年に最後は家臣の裏切りから自害に追いやられた織田信長。2人目は下層階級出身の成り上がりで、最初は苗字もなかった豊臣秀吉。道楽者で偉大な武将、かつ外交手腕もあった彼は、天下を統一して日本を平和にしたのだが、大軍を派遣して朝鮮半島に攻め入り、そこで大量虐殺をしている。平和の回復を完成させたのは3人目の、狡猾で忍耐強い徳川家康。1603年、強権的な江戸幕府を設置し、保護を誓ったはずの秀吉の子孫を抹殺した。学校の教科書や無数のテレビドラマは、国を立て直した3人の英雄を誉めそやしているが、これらの細部にはあまり踏み込んでいない・・・。
日本が「本当の日本人」だったとき――江戸の神話
国物語が諸手を挙げて賛美しているのは、日本が世界に向けて公式に鎖国していた江戸時代(1603−1868)である。しかしこの時代は野蛮そのものだった。人々は行動の自由を奪われ、農民は土地を離れると処刑された。社会は完全な身分制度で分割され、追放された者は最下層の階級に落とされた。武士階級は事実上、庶民の生死の権利を握り、農民は重税にあえぎ、周期的な飢饉で大量に死んだ。国は日常生活の隅々まで管理を拡張し、庶民には隣人を監視して告発することを強制、従わなければ集団で処罰された。この秩序はこのうえなく凶暴な方法で維持され、それを証明するのが、開国したばかりの1860年代、日本へ旅した初期の西洋人によって撮影された写真である。そこに写っているのは、当時まだ行なわれていた傑や、槍に剌されて道端に並ぶ斬首台上の列である。
しかし、映画やテレビの歴史ドラマを通して描かれる江戸は、いかにも魅力的な時代に見える。外国の影響から守られ、平和だった日本が本当に日本自身だった時代として。威風堂々、危険をものともしない武士と、懸命に働く農民、楽しげな都会の庶民、そして指導者は厳しくも公平だった。その時代はまた、国が国民感情を鍛えあげ、エネルギーを蓄積していたおかげで、その後、欧米の帝国主義に勝利を飾ったアジアで唯一の国になった――これは結局のところ、間違いではないだろう。
大河ドラマ――ためになる過去
国物語は、テレビを通して日本のすべての家庭に継続して浸透している。その筆頭がNHKの大河ドラマだ。1963年から日曜日夜に放送され、翌土曜日の午後一番に再放送されている。ドラマの舞台となるのは、ほぼつねに平安時代(794−1185)から江戸時代のあいだで、とくに好まれているのが国家構築の鍵となる2つの時代だ。1つは戦国時代後半の40年間から、1603年に国が再統一されるまでの時代。もう1つが幕末の1850年代と1860年代。まだ封建時代だった日本が欧米と対立し、うまく切り抜けて開国から近代性を受け入れる時代である。過去と現在が継続していることを強調するため、各回の最後にドラマの事件が実際に起きた場所を短いルポで紹介、わずかでも残る痕跡を探している。文字の彫られた古い石、寺、ゆかりの場所、地元の民謡・・・などだ。
大河ドラマの主人公は、ほとんどが武士か有名な為政者で、女性の単独での主役は半世紀以上でわずか10人である。シナリオは、多少なりとも現在に関連する教訓を与えるために選ばれるものが多い。たとえば2010年、日本が10年にわたる危機からの脱出を探し求めていたときの主人公は坂本龍馬。江戸時代末期の改革のヒーローとして人気者だった人物だ。2014年、硬直したイデオロギーで知られる安倍首相が、実践的で巧妙な作戦を取り入れようと努力していたときは黒田官兵衛(1546−1604)。彼は日本を統一した2人の武将〔信長と秀吉〕に仕え、軍事作戦の参謀として活躍した人物だ。そして2019年は東京オリンピック、これもまた国家的偉業に沿っている。
絶頂期だった1980年代と1990年代、大河ドラマの平均視聴率は30%近くあり、最高記録は1987年の39.7%だった。2010年以降、視聴率は半分になっているのだが、それでも根強い人気を保っている。フランスのテレビ界における歴史物の連続番組は、国家的遺産の側面は例外として非常に稀になっているのに対し、日本では国物語と、偉大な登場人物抜きには話にならないのである。ここでは信長、秀吉、家康がいまだに有名で、多くの人々の憧れになっている。テレビの貢献は大きく、それもNHKだけではない。大手民放もまた、日常的に一定量の歴史物番組を放映しているのである。
フランスの教育現場で現在、歴史としてまだ教えられているものを見ると、社会が根底から変化しているのに合わせて、象徴的な事件や日付は消えている。かつて登場していた歴史的人物は庶民に、国家は一般大衆に、場所を譲っている。想像をかき立て、フランス人のアイデンティティに結びつくような特徴的な出来事にももう場所はないのである。加えて、このような教育改革は議論の元となり、その結果フランスでは、国の過去は新たな断絶――日本では団結――への口実となっている。
国物語が操作されるのは原則でもあり、これは否定しないのだがしかし、それでも悪い面だけではないと考えることはできるだろう。たしかに日本の若者を育てる物語で多くの場所を占めているのは、愛国主義や武士だが、しかし彼らには、世界で国のために戦うという視点が欠けている。一般に、偉人とされている人物の真の姿を探り、国の神話を穿って考察することは、若い精神に欠かせない批判的感覚を発達させるものだ。しかし、若者には自分の国を褒め称え、はては好きになる気持ちもあるのではないだろうか? このグローバル化の時代、国に敬意や愛を抱く必要はなく、抱いても無駄とまで説くのは構わないとして、逆にそれを守ろうとする日本を非難することはできないだろう。歴史を美化した欺瞞に、それほど騙されているわけではないのだから・・・。