第10章 「いつも謝る日本人」

 

 

 そんな日本の社会でも、行き違いや摩擦は避けられない。友人同士、同僚や顧客、そして見知らぬ人に対して、誰であれ、どんな単純な問題でも――どんなに些細でも、また公共工事ならどんなにもっともな原因であっても――引き起こしたら、この国では謝罪しなければならないことになっている。ましてや1つの失敗が、すべてに完璧を期す日本人の個券にかかわるものとなると、その機関の代表が謝らなければならないのである。

 公共テレビNHKの夜のニュース番組で、公共事業を請け負うある建設会社の責任者が、北海道の工事現場で従業員の1人が暴風雪にあおられて死亡したのを受け、国民全体に向けて謝罪していた。ある開放型受刑施設の所長も、逃走した窃盗罪の受刑者が3週間にわたってのべ約6000人の警官を動員させたこと(後述)に謝罪し、また、ある列車の運転手は数10秒早く発車したことを謝罪していた。いっぽうフランスのレンヌでは、私のホテルの部屋の浴槽が水漏れしていたことに対して、誰も謝罪しなかった。というのもこの点において、フランス人と日本人の姿勢は個人の自由と同様、正反対だからである。

 

社会の歯車の潤滑油

 ヨーロッパでは、問題は個人の視点で処理され、そこでの最優先事項は自分を守ることである。謝ると間違いを認めたと見なされ、「言い訳するのはやましい証拠」となる。したがって、非難される理由がないと判断する者は謝罪をしない。自分の責任を否定できない者は、それを限定しようとする。謝罪はするが言い訳を探すのだ。私のレンヌの浴槽水漏れ事件では、受付の若い女性の頭に謝罪の文言はいっさい浮かばなかった。なぜなら、彼女はその件では個人的に何の関係もなかったからである。いっぽう日本では、最優先とされるのは、社会の相互関係をスムーズにすることだ。謝ることは、あなた、またはあなたの属する組織が、それを乱したことを認識して表明することだ。そして公に認めることは、対策を講じる約束と同じになる。こうして、謝罪した者のほうが交渉に臨むうえで強い立場になる。というのも、うるさく文句を言う者は、問題を長引かせて社会を苦しめる悪者になるからだ。日本では、「謝罪すれば罪を許される」のである。

 パリヘ行ったとき、スーパーマーケットで買い物をした。レジは7個あるうちの2個しか開いておらず、列ができていた。私の番が来たところでレジが止まる。列が長くなり、上司があらわれる。彼は一言も発さず、誰にも視線を合わせず、キーボードを動かそうとするのだが、うまくいかない。少し急いでいた私は、買い物を諦めなければならないことを丁寧に伝える。すると突然、その上司に言葉が戻った。興奮している。「これはコンピューターの問題です、違いますか?」。たった1フレーズで、彼はすべての責任を否定、私を被告人の立場にしてしまった。私は訳がわからず、コンピューターのせいなのか、原因が何なのか知るよしもないと、冷静に答えたつもりだ。その結果、喧嘩となり、1人は顧客を失い、もう1人は不愉快になった。

 日本のスーパーマーケットの責任者なら――レジ係が不足しないようにするのに加え――、顧客の目を避けずにしっかりと見て、謝ることから始めるだろう。まずは顧客の問題(列にぎっしり)に取り組み、新しいレジを1、2個開け、謝りながら列を並べ直すだろう。本当は自分の問題(止まったレジ)に関心があるはずなのだが、最優先はサービスだ。声を荒らげることもなく、そうして顧客はその熱心さと手際のよさに感心するのである。

 

公の謝罪――国家団結の儀式

 そんな日本人とて完璧ではない。企業は会計偽装をし始め、政治家は懐を肥やしている。「日本のベートーベン」ともてはやされ、20年間も全聾と思われていた有名な作曲家佐村河内守は、作曲家でなかっただけでなく、頼んでいたゴーストライターが秘密を漏らしてしまった。いっぼうモンゴル出身の大相撲の横綱白鵬は、幕内最高記録となる33回目の優勝がかかる取り組みで、横綱にふさわしくないとされる「はたき込み」の手を使って非難された・・・。それは、日本人が国の美徳とするものを疑わせるものだった。しかし日本には、これら個人的な不祥事を栄光の賛歌に変える儀式がある。実業家も政治家も、音楽家、スポーツ選手も、悪事の現場をおさえられた者は全員、マスコミを周到に意識して公に謝罪するのである。

 楽な方法を選び、誰にも物質的損害を与えなかった偽のベートーベンと横綱は、こうして正式な謝罪の儀式を国民全体に向けて行なった。また、日本人としては珍しく中東で人質になった3人が解放されて祖国の土を踏んだとき、厳しい世論に従って謝罪したのも国家に向けたものだった。彼らは当局に迷惑をかけたこと、罪に値するほど軽率だったことを公に認めたのである。

 厳しいルールに応える形で行なわれる謝罪は、フランスでは耐えがたいほど屈辱的な行為と判断されるだろう。テレビカメラの前で、両手を両脇に張りつけ、頭を低く下げ、ミリ単位で計算された形式で平身低頭お辞儀をしなければならないのだ。お辞儀の深さと継続時間は、犯した悪事の重大さによって決まる。状況によって、涙があればよりメディアに喜ばれるだろう。地方の県議会議員で、支給される政務活動費を多めに請求した野々村竜太郎議員は、謝罪時に突飛なパフォーマンスで号泣、その映像がテレビで放映され世界的に有名になった。もし涙が出なければ、横綱白鵬が楽に優勝したあとの公式インタビューで見せたように、できるだけ顔をゆがめ、目元を拭う仕草をするのがふさわしいのである。

 自らを罰すると、よい結果をもたらすことになる。企業の上層部は、いやな顔ひとつせず数か月間の報酬を辞退する。2004年、当時の民主党党首だった菅直人は、一部の年金未納を追及されて代表を辞任、その後、非難には根拠がなかったことが認められたにもかかわらず、四国巡礼の長い旅に出た。先の野々村氏もその後、僧侶のように頭を丸めた。恋人との密会をスクープされたAKB48の
峯岸みなみもまた、頭を丸め、涙を流して闇に葬られないよう哀願している。このような自己懲罰は組織であっても可能だ。2016年、育児休暇を不謹慎な目的で使った自民党の宮崎謙介議員は辞職、党はその後行なわれた補欠選挙で候補者を擁立しなかった。議会で圧倒的多数を占める自民党にとっては、痛くも何ともなかったのだが、しかしこの小さな自己懲罰は世論に評価されたのである。

 

電通とフランス・テレコム

 日本では、間違いを犯したのが組織だった場合、トップ、または監督する立場の者が、自ら儀式に臨むのがふさわしいとされる。横浜の女性市長が、福島から避難していじめの犠牲になった生徒の事件で行なった謝罪会見がそのケースである。2016年、電通の若い女性社員の自殺を受け、社長が公に謝罪して辞職を表明したのは、その事件のわずか3日後だった。フランスでは、電気通信事業の大手フランス・テレコム〔現オランジュ〕が、2年間で(2008一2009年)33人もの自殺者を出しながら、最高責任者は良心の苛責を覚えるどころか、犠牲者を踏みにじるように「自殺の流行だ」と語った。ところで、日本人はフランス人以上に政治家を信頼しているわけではないのに、なぜ彼らに対してもっと激しく失望をぶつけないのだろうか? これもあえて理由を探す必要はないだろう。不祥事が起きると、即座に公に謝罪するからである。日本のテレビ視聴者は――ミリ単位のお辞儀と、派手な涙に編されてはいないにしても――、間違いを犯した側が社会に向けて、つまり彼らに向けてミスを認めたことで溜飲を下げるのである。謝罪者の立場が何であれ、それが形だけのものであったとしても、彼らは罰せられたからである。

 ヨーロッパで慣例とされるのは、フランス・テレコムのように責任をいっさい否定するか、あるいは、フォルクスワーゲンのソフトウェアを操作した排出ガス規制不正事件のように部下に責任を押しつけることだ。または、当たり障りのない弁明(記憶にない)や、意味不明な説明(行政的な手続きへの恐怖など)で逃げきることである。いっぽう日本では、このような態度を取ると自分で大きな代償を払うことになる。東京都の2人の都知事は2013年と2016年、相次いで自らの身をもってそのことを学んだ。最初は猪瀬直樹で、選挙期間中に現金で受け取り賄賂と追及された5000万円を、無償の借入金だと断言した。次の舛添要一は、公私混同と追及された豪華旅行での莫大な出費や芸術品の購入を、違法ではないと主張した。2人とも謝罪しなかったことでメデイアに激しく糾弾され、辞職に追い込まれたのに対し、先の菅直人は巡礼を終えたあとの2010年、政権のトップに返り咲いている。

 

国を危ぶませる者に不幸あれ!

 菅氏は、行政のミスで年金未納扱いされたにもかかわらず、行政側を決して非難しなかった。猪瀬氏はといえば、アリバイの証明になぐり書きの借用書を掲げ、そして舛添氏はおそらく法律上は正しかった。しかし、スキャンダルになった時点で、彼らはミスを犯したのである。フランスでは、嫌疑をかけられた側は、司法が最終的に有罪と判断するまで――いつかそうなるとわかっていても――職にとどまり、最後まで職務を続けることができる。政治家に対するフランス人の怒りや冷笑的な態度が高まったとしても、彼らにはあまり関係がない。彼らにはあらゆる権利の秘策を使う権利があり、そこでは権利は社会秩序の最後の砦として「有罪になった者に不幸あれ」になる。つまり、裁かれるのは受刑者だけなのである。日本はそれより、マタイによる福音書(18・7。ルカによる福音書17・1)この「罪の誘惑をもたらす人は災いである」なのだろう。国を意気消沈させ、弱体化させる者が不幸になる。つまり、政治家や国の栄光を疑わせる者である。

 メディアが政権政党と密接な関係を維持する国日本では、スキャンダルが操作されることが多い。菅氏の年金未納事件は、仮に彼が自民党と敵対する野党で人気の党首でなかったら、決して起こらなかっただろう。いっぽうの舛添氏は、保守党内においては個性が強く、煽動的な政治家だった。しかしフランスへの造詣が深く、フランス語も完璧に話す彼(1)は、謝罪という国家的儀式に身を委ねる代わりに、フランス式に権利に基づく自己防衛策を適用して墓穴を掘った。もし彼が、数か月分の報酬を犠牲にする覚悟で謝罪していたら、おそらくまだ束京都知事でいただろう。

 

もしブイヨン氏が日本人だったら・・・

 ここで、2017年のフランス大統領選に共和党から立候補して落選したフランソワ・フィヨン〔サルコジ大統領時代の首相〕が、もし日本式に謝罪の心を示していれば、「ベネロプゲート」〔妻のペネロペに不正給与を払っていた疑惑がスキャンダルになった〕を優位に切り抜けられたと想像することはできるだろう。負けるはずのない選挙に負けた男は、フランス式にどこまでも自分の無実を主張した。最初は、他人を非難した。メディア、嫉妬深いライバル、政治家の裏工作・・・などだ。ついで、法的にとるに足りない違反を犯したことを否定し、それから自分で弁解を探った。彼が非難されているような手口は政界では普通に行なわれていた……などだ。最後に、小罪を認めつつ(時代が変わったのを理解していなかったなどと説明)、せいぜいが世論で叩かれるだけだと開き直った。

 カトリック教徒のフィヨン氏は、キリスト教で最大の罪はスキャンダルを起こすことだと、まさか知らなかったのだろうか? 彼には、この大罪を犯した自覚があったのだろうか? 彼はフランス人が政治家にまだ抱いていた少しの信頼感を壊してしまった。かつて人々はそれより小さな罪で、ローマや、サンディアゴ・デ・コンポスデーラ〔スベイン北西端〕の巡礼をした。日本でも、菅氏は四国巡礼をした。巡礼の代わりにフィヨン氏は、スキャンダルで追及された金額を慈善組織に回すなどすれば、拍手喝采で許されることができたのではないだろうか? そのように振るまえば、おそらくは少なくともフランス人の政治家に対する不信感が和らぎ、そしてもしかすれば彼にエリゼ宮への扉が開かれたのではないだろうか?

 なかには彼にこの作戦を提案した者もいたのだが、しかしそれを受け入れさせるには、少なくとも背後に、いまなお偉大なフランスと、公明正大な政治家を信じようとする人々の共同体がなければならなかった。日本人は、日本人なりのやり方でこの共同体を形成している。儀式にこだわり、それが社会をつくるのと同様に「国家をつくる」助けとなり、フランスが失ったように見える団結力の元となっているのである。

 

不可能な謝罪――戦争犯罪

 したがって不思議なのは、このように何に対しても素早く謝罪する日本人が、1931年から1945年の期間に日本軍が犯した犯罪に対す謝罪をつねに拒否していることだ(2)。理由は簡単、謝罪という日本の儀式は、厳密に国内だけの慣習だからである。その目的は一つ、謝罪という形で共同体に身を委ねた者を元の共同体に復帰させることだからだ。許すことができるのは共同体のみ、なぜなら共同体とその構成員にとっての善悪を判断できるのは、唯一共同体だからである(後述)。暗黙にで
国民の合意を得ずにほかの国に謝罪する者は、取り返しのつかない間違いを犯すことになる。なぜならそれは、自国より外国の価値観に同意することになるからだ。つまり、日本を公に否定して面子を失わせ、そうして国を弱体化させ、危険にさらすことになるからなのである。

 一般に日本の首相は、何か事が起こると、国民の前で謝罪し、どんな理由であれ、国民の団結を呼びかはる。しかし、国民の合意なしに外国人に謝罪すると、国民を裏切ることになる。戦争犯罪の問題では、国民の意見はつねに二分されている。だから、これまでの首相は誰一人、この問題で合意を取りつけることができなかった。誰一人事実を明確に認めず、代わりに、国が「耐えがたい苦しみを体験させ」たと述べ、そして個人として犠牲者に対し、「同情」や、ときに「心からの反省」という言葉を加えるだはだった。たしかに、自民党出身の首相のほとんどは、内心では戦争加害をなかったものとする否定論者だった。しかし、そうでなかった首相も、3年間(2009一2012年)政権の座にいた民主党の例を見てもわかるように、それ以上の努力はしなかったのである(3)。

 

 

 謝罪の仕方は基本の社会性として、日本の子どもが3歳から身につはることの一部である。すべての目的は、他人との相互関係にたえず身を置かなければならないことを学はせるための一環だ。謝罪とともにもっとも重要なことの一つはお礼で、その習慣は一般の西欧人からは非現実的に見えることがある。なぜ、私の職場のある大学の警備員は、夜型の私が夜中ので一時に夜間通用口から出るのを見てお礼を言うのだろう? 何に対してのお礼なのか? 一所懸命に働いたことに対して? 通るときに挨拶をしたからか? 権威ある大学の「先生」で、その施設で彼も働いているからなのだろうか? 何も買わずに出た店の店主にまでお礼を言われ、荷物を届はに部屋まで上ってきた配達員にもお礼をされる。工事現場に必ずいる警備員にお礼を言われるのは、私が彼らの注意に従ったからだろうか……。そしてある日、コンビニのレジ係の女性が通りまで私を追いかはて一円王を返し、レジで私のお釣りを「忘れたまま」にしておいたのは彼女のせいだと謝り、私が受は取ったことに何度もお礼を言ったことに、何と言ったらいいのだろう?

 これは極端な例にしても、日本人はそれぞれが社会の歯車に潤滑油をさしていると言えるだろう。そうして社会の相互関係は力関係や便利さだはの問題ではないことを示しているのである。全員が意識して潤滑油になっている日本と違って、フランスの社会の歯車は軋む一方である

 

 

(1)彼の人物像に関しては、拙著『Quand les sumos apprennent La fin due modele japonsis』(相撲がダンスに教えるもの――日本モデルの終焉)(Fayard 2003)』を参照。

(2)日本人にとって第2次世界大戦は1931年に日本軍が満州を侵略した時に始まった「大東亜戦争」でしかない。


(3)唯一、1994年6月から1996年1月まで首相を務めた社会党の村山富市だはが、戦後50周年(1995年)の声明で明確に「お詫び」という言葉を使った。自民党に支配されない連立政権で政治生命を賭はた彼は、国民の半数から批判されるのを覚悟で、歴史に名前の残るチャンスをつかんだのだ。

 

 

 

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