第9章 「日本は自由ではない!」

 

 

 

 社会をつくるためには、全員に多様性の素晴らしさを教えることが欠かせないのだが、しかしまた、社会人になればつねに自由には――「自分一人の好みで」という意味で――行動できないという考えも教え込まなければならない。日本では、後者の考えが社会性を身につける過程の中心になっている。社会的束縛やさまざまな禁止事項を守る義務が強調され、そこには自由意志が些細なことと対立するような面も含まれる。

 日本では国家自身が日本人を製造するために、はるか昔から束縛や禁止事項を守らせる方法を使っている。すでに平安時代(7941一1185年)、庶民は自由に「和歌」を書くことができず、中国の陶器を所有すると死刑になる恐れがあった。江戸時代は誰も自由に旅行ができず、許可が必要だった。農民は土地を離れると命がなくなり、酒も、お茶さえ自由に飲めなかった。商人は自由に彩りの鮮やかな着物を着ることができず、子どもに大きすぎる人形を与えることも、西洋風の大時計――ほかにも、国〔藩〕によって下層階級には贅沢すぎると判断されたものは多かった――を所有することもできなかった。現在もなお、日本人は幼少時から「自由ではない」ことを学び、そのことを社会人になるまでたえず思い知らされている。

 

無数の束縛がある国

 それは保育園のルーチンから始まり、そのプレッシャーは子どもの成長とともに大きくなる。小学生が許されているカバンは唯一 「ランドセル」、長方形のデザインは一世紀以上も変わらない。ほとんどすべての中高生は制服の着用を強いられ、製造を独占するメーカーと契約していることが多い。生徒は化粧も、髪を染めることも自由ではなく、生まれつきの色が日本の黒髪ではない場合は例外だが、それでも多くの学校が染髪を禁止し、直毛ではない生徒は男女ともくせ毛をなおすことを義務づけている。ほかにも多くの学校で、髪の長さに厳しい規則があり、ときに教師自身が、ハサミを手に生徒の髪を規則に合わせて切ることもある。とくに地方の学校では、子どもたちの登下校時にヘルメットの着用を義務づけるだけでなく、一部では、安全を理由に通学路まで強制している。また、緊急時の情報を伝えるためとして、学校側は親に休暇中の連絡先を求めたり、子どもが友人宅に外泊する場合も連絡するよう求めている。

 若者は原則として20歳まで、タバコもアルコールも禁止、どんな契約も親の合意なしにはできないことになっている。携帯の使用契約も例外ではなく、契約者の名前は親となり、その関係は子どもが成人後も続くことになる。事態は仕事の世界でも改善されない。就職の面接では、濃紺のきっちりした服かグレーのスーツに、スカートは膝丈と決まっている。会社では、毎朝の体操がいまも続いているところが多く、ラフな服装は事実上禁止、同僚との飲み会はほとんど義務となっている。女性従業員の多くは――なかでもとくにOL、売り子、電話交換手、レジ係など――、甲高い人工的な声を使うのが義務で、従順さと誘惑が混ざり合ったような甘い声は、フェミニスト的な意識のある者を苛つかせ、私のような西欧の白人男性とて例外ではない。これらの儀式を守らないと、武士のように刀で切りつけられることはもうないが、しかし失職する可能性は大きいのである。

 

禁止されていないのに許されないこともある

 わがフランスの人権宣言は、「法律によって禁止されていないすべての行為は妨げられず」(第5条)と明言している。日本では、学校の規則は逆の原則で機能している。「明白に許可されていないことはすべて、暗に禁止である」。こうして校則には、男子と女子は一緒に勉強することが許可されていると明確に書かれていても、それは暗に男女は勉強以外の不真面目な動機で会う約束をしてはいけないことを意味するのである(一部の学校では、男女がきょうだいであっても一緒にいる充分な理由にはならないと、明示しているところさえある)。

 同じ論理は、公共の場でも幅をきかせている。たとえば、明治天皇を祀る東京の明治神宮で、参拝者を迎える掲示板には、禁止事項が16項ほど並んだあと「当神社が不適当と認める行為を行なうこと」という項目が加えられている。これ以上は言及できないのだ! 東京の地下鉄でも、人は自由ではない。音を立ててはならず、携帯や友人同士と大声で話してはならず、場所をとりすぎても、座席に荷物を置いてもいけない。車内で食べたり、歩きながらスマートフォンを操作したり、化粧さえしてはならないことになっている。罰せられることはないのだが、しかし、無数のポスターがこれらの行為を非難し、他人のとがめるような視線が当事者に突き刺さる。続けるにはわざとその場を離れるしかないのである。フランスでも、これら一部の行為は非難されるのだが、しかし厳しく禁止することは公式の見解でも全員一致でもない。おおっぴらに禁止を求めると、良くて場違い、最悪は騒動に発展する。いずれにしろ無意味なのは「それに対する法律がない」からだ・・・。日本にも法律はないのだが、それは理由にならないのである。

 

倫――社会が法律になるとき・・・

 フランスの人権宣言では、自由は「消滅することのない自然な権利」(第2条)で、「他人を害しないすべてのことをなしうる」(第4条)と、きわめて広く定義されている。法的に禁止されているのは「社会に有害な行為のみ」(第5条)である。日本では、自由は自然な権利でも、絶対的な価値でもない。憲法では全体的な定義は何も示されていないのだ。定義としてもっとも適切と思われるのは「避けたほうがよい混乱を社会に引き起こさないことをする権利」だろうか。そのため、法律を破らない行為で、とくに誰かに有害ではなくても、通常の社会的規範から見た許容度によって、厳しく条件づけられる可能性が生じることになる。

 不倫は、日本ではフランスより違法ということはない。それでも日本のある企業は、社則でわざわざ従業員に、秩序を乱す要因になりうる「不謹慎な行為」として禁止し、処罰として解雇としている。処罰された者が裁判に訴える珍しいケースでは、違法な関係が引き起こした問題の深刻度に応じて意見が述べられる。妻子ある局長クラスが部下の女性と堂々と不倫した場合は重大と判断されるが、観光バスの運転手が女性ガイドと同じことをした場合は、そうでもないのである。また、裏切られた妻が不倫した夫の職場へ押しかけたり、独身の女性教師が妊娠したケースも深刻になる。これらの場合、それぞれのプライバシー権は、「エゴイスト」によって「過度に乱される」のを否とする「社会の権利」より軽いことになる。

 自分たちの肉体、さらには名前の自由な使用を奪う契約に署名させるのも違法ではない。ショービジネスの世界では、若いアイドルはつねに、結婚もボーイフレンドも禁止されている。2013年、有名なAKB48の1人のメンバーが、明け方にある有名な歌手の家から出たところを写真で撮られ、侮辱的なやり方で謝罪に追い込まれた。相手は結婚しておらず、不倫ではなかったのだが、彼女はキャリアを守るめ、目に涙、頭を坊主にして謝った。その後の世間の反応を見ると、若いとはいえ20歳をすぎた大人から行動の自由を奪ったエージェンに対し、異議をとなえた者は少数だったように見え、エージェントをやめたスターに芸名だけでなく、戸籍上の本名まで使用を禁止したケースに対しても、同様だった。

 

・・・社会自らが処罰する・・・

 仕事の枠外でも、不倫は社会から、あるいは社会的な規範から見て「不謹慎」と指摘されると罰せられる。2016年、タレント、女優、歌手として人気者だったベッキー(レベッカ・英里・レイボーン)は、ある歌手との愛人関係で週刊誌の標的になった。男性は当時、結婚したばかりだったのだが、彼女はたぶんそれを知らなかったようだ。30歳をすぎれば、日本であれどこであれ、心も身体も自由である。それでも「罪を犯した」(何の?)彼女は即、レギュラー出演していたテレビの10番組から降板させられ、契約していたCMの全スポンサーから解約された。そうしてすぐ、短かった愛人関係に正式に終止符を打ち、相手の妻に謝罪の手紙を受け取ってもらうため、あらゆる方法を使った。ショービジネス界が処罰を解くまで、罰は6か月間続いた。フランスでは、いまをときめくスターがナイフでの襲撃や実質的な犯罪など、別の重大な事件を犯しても、テレビに復帰してネット上で著名なインフルエンサーに戻るのに、それ以上の時間はかからないだろう・・・。

 2017年、今度は自民党の所属議員で、有名な政治家一家の世襲議員でもある中川俊直が、ストーカー被害を受けていた愛人からの告発で、最終的には議員引退に追い込まれた。「通常の社会的規範」から見て状況を悪化させたのは、妻がガンで苦しんでいたことだった。その前年、保守系の同僚議員の一人〔宮崎謙介〕もまた、政治的な「切腹」を強いられた。彼は妻の出産にさいして育児休暇を申請し、女性問題の理解者を気取っていたのだが、妻の出産入院中に女性タレントと一夜を過ごしていたのだった。いっぼう野党側では、民進党の若手女性議員で、安倍晋三首相に舌鋒鋭く質問してスターになり、次期幹事長候補と思われていた山尾志桜里議員が、婚姻外の関係を暴露されて2日後、離党届の提出に追い込まれた。ここでもまた、さまざまな状況が彼女のケースを悪化させた。家庭を持つ母親で、相手もまた既婚者で彼女より若く、高級ホテルで週に数回密会していた、などだ。もしこれらの基準がフランスに適用されたら、政界からはすぐに人がなくなってしまうだろう・・・。

 

・・・そして最高裁が証明する

 1988年以降、日本の最高裁は自らの責任で、このような通常の社会的規範に応じて権利を判定する方法に戻った。職務中の事故で死んだ自衛隊員(1)の名が、独断で「神」として崇められ神社(2)に登録された。キリスト教徒だった彼の妻は、宗教の自由が侵害されたと主張して提訴したのだが、却下された。理由は、国は共同体として、原告の思想の自由より伝統を守る権利があるというものだった。この場合、思想の自由は最高裁によって過剰と判断され、国を乱してはならないという要求に負けたのだった。別の言葉で言えば、社会をつくる必要性のほうが思想の自由に勝ったのだ。西欧では、同様の場合、まったく異なる判決になっていたと断言しよう。

 キリスト教徒の妻の事件で思い起こされるのは、フランスでイスラム教徒の水着であるブルキニ着用禁止をめぐって裁判になったブルキニ事件だ。この事件では日本とまったく逆の判決が出たのだが〔フランス国務院は最終的に、禁止は基本的自由を侵害する深刻かつ明白な違反行為と判断〕、禁止派が引き合いに出したのは、共同体の緊張が高まる状況において公共の秩序を乱すというものだった。日本の最高裁は、ここまで明確な脅威に言及する必要はなかった。公共の秩序には広い意味で社会的規範が想定され、そこには日本国のアイデンティティの元となる伝統も含まれるというものだ。したがって司法は、ある状況においては、日本人は男女とも法的に義務ではないことを強要されても――この場合は亡夫を神道の神にすること――拒否する権利がないと見なしたのである。「権利」は法律だけの問題ではなく、個人と同じように、日本の司法では状況的になりうるのである――同じことは、歴史的真実(第13章)、モラル(第20章)、宗教(第20章)、情報の義務(第23章)、幸せ(第29章)、そしてスポーツ(第18章)にまで言える。

 

車を持つのも自由ではない!

 私が日本を訪れたフランス人に東京を案内するとき、大通りを通ると必ず聞くことがある。

 「この光景で何が足りないか?」

 「・・・」

 「パリの光景を考えてみて・・・」

 「・・・」

 答えは一目瞭然のはずだった。歩道に縦列駐車する車が一台もないことだ。パリの道のように、バンパーをぶつけて入り込んだ車が両側にひしめき、交通を麻痺させているようなことはまったくない。したがって、東京の幹線道路の車の流れはほとんどつねにスムーズだ。網目のように入りくんだ狭い道路に入ると、パーキングや個人の家の駐車場に小型車が無理やり押し込まれ、その様子はどこか血管をふさぐ血栓を思わせる。個人の駐車場は各家に食いこみ、ときに一階が丸ごと使われている。

 フランス人から見ると奇跡だが、これが可能なのは、日本では車1台も自由に所有できないからだ。車を取得するには、自宅から2キロ以内のところに、個人の駐車場を確保しているという証明書を提出しなければならない。私が最初の滞在で日本に来てワゴン車を1台購入したとき、地域の交番から派遣された警官が2人、巻尺を手に、家の前に確保した駐車スペースが充分かどうかを確認に来た。車が少しでも道路にはみ出してはいけないのだった。

 集団生活にとっての利点はたくさんある。空気の質はパリよりよく、1立方メートルあたりの微粒子は、パリの1人から38マイクログラムに対し、東京は15から26マイクログラム。当然、公共の交通機関は完璧だ。タクシーは車内が広く、静かで申し分なし。運転手は丁寧なうえ、だいたいどこでもいつでも拾え、最初の1.2キロの料金は約3ユーロ相当〔380円から410円〕だ。対してパリでは、どんなに短距離でも最低料金7ユーロ〔約875円〕を払わなければならない。日本には電気自転車も多く、いたるところで見かける。こうして開放された公共スペースは、各自が独断で駐車スペースを確保するフランスより上手に使われているはずだ。違法駐車がまかり通ることなどありえないのだから。フランスでは、自由が奪われると個人同士がわめき合っている。禁止や制限事項を増やしてもどこか恣意的な部分がある。そこから論争に発展し、管理を民間会社に委託したらしたでスキャンダルを起こし、それが政府の責任問題となって跳ね返っている。それでいいのだろうか? 日本ではその前に問題は決着している。

 

国の無駄な努力――トイレと騒音

 欧米では、法的に禁止されていないことに対しては、個人の自由がすべてに優先する。したがって自由権はどこでも、何に対しても行使すべき権利となる。そしてこの論理で極端に走ると、国家はどんな少数派に対しても、どんな状況でも、個人の好みで行動できる権利を保証することになる。この原則に沿って2016年、米国のオバマ大統領は権力にものを言わせ、トランスジェンダーの人たちに公立学校のトイレを自らの意志で選んだ側で使用する権利を与えた。後継のトランプ大統領はこの決定を撤回したのだが、その間、この問題は激しい議論を呼び、訴訟が次々と起こされて、なかには最高裁までいったものもある。

 トランスジェンダーの問題に無関心ではないのだが、しかし私たちは自由をふりかざすあまり、国家の権力を低下させているのではないだろうか? 米国のトイレ事件しかり、フランスでも近隣の騒音問題で個人が口出しし、国家の権威を弱めているところがある。実際にフランスでは、他人から公衆衛生法の上限を指摘されないかぎり、私は自由に音を出すことができる。仮に、苛立った隣人の抗議を私が無視すれば、隣人は歯ぎしりするか、喧嘩を持ちかけるか、警察を呼ぶ。もしそこで警官が来たら、騒音の主はぶつぶつ不満を言うだろう。「こいつらは、もっとほかにやることがないのか?」。もし警官が来なかったら、呼んだ隣人は罵るだろう。「あいつら、必要な時にいたためしがない!」。どっちに転んでも、国家の権威は何かを失うことになる。

 ところでこの国家の権威は、過剰に行使される場合以外は、素晴らしい「共通善」の一つである。というのも、社会の存在自体がそれにかかっているからだ。日本では、この共通善を小さな集団の善よりも重要視する。司法は、例のキリスト教徒の妻が訴えた思想の自由権を、原則は否定せずに、象徴天皇の伝統を見直す国家的議論になるほどのものではないと判断したのだ。少数派とはいえ、日本のキリスト教徒の割合は米国のトランスジェンダーの3倍(3)だ。それにもかかわらず、原告を支援する動員はなく、判決に対する抗議もなかった。

 対立を避け、共に生きるために、私たちフランス人は教育と各個人の善意を当てにする。それらが充分でないと、公権力の介入を期待し、期待外れに終わると非難する。対して日本人は、社会生活に必要な束縛を教え込むために、なにより社会そのものを当てにしている。そうして社会は「日本の社会人製造工場」のように機能しているのである。グローバル化と、格差の広がりに衝撃を受けているのはフランスも同じだ(後述)。それにもかかわらず日本の社会が団結しているのを見て、その理由を自問してみることもできるだろう。日本人がこれだけの束縛を受け入れ、少なくとも「共に生きている」のは、幼少時からそれらを自分のものにしているからだけではない。それはまた、束縛が全員に平等に(少なくともそう見える)課されており、守らなければ、どんなに実力があっても大きな代償を払って後悔する羽目になるからである。

 

 

(I) 1945年以降、戦闘で亡くなった自衛隊員はI人もいない。

(2)天皇のために命を落とした死者を神格化する風習は、靖国神社が創設された1869年にさかのぼる。

(3)日本のキリスト教徒は人口の約2%弱なのに対し、米国のトランスジェンダーは0.6%と言われている。

 

 

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