第7章 息子を保育園へ連れていく道すがら

 

 

日本は儒教社会である。それぞれが、どんな下の者でも、社会的な上下関係で定められた立場を占めている。そして各個人はそれを深く自覚し、「儀式」を観察して態度で示さなければならないことになっている。ここで言う「儀式」には、宗教的な意味はまったくなく、社会で各自の立場に適した行動をとることを意味する。それに順応することは、社会秩序を律する規則に賛同していることの表明で、儒教ではこの秩序は宇宙を律する秩序でもある。したがって、それを拒否することは無作法よりも重大、秩序をくつがえす行為となる。そのいい例が江戸時代、すべての武士は身分をわきまえずに立ち向かってきた者を誰であれ有無を言わせずに刀で切りっけ、遺体はその場に見せしめに放棄することを許されていたことだ〔斬捨て御免〕。そのあとで犠牲者の身の証しが立てられたとしても、命は戻らなかった・・・。

現在もなお日常生活で、日本の社会は人々に、一般の西欧人からは不条理で屈辱的に見える行動を要求することがよくある。西欧人にとって、それに従うことは自分の自由意志と個性を放棄することになる。しかし日本では、社会が決めた行動に文句を言うことは許されず、内面ではどう考えていても、それを受け入れることが重要なのである。そうしてあらゆる状況で、「社会をつくる」ためにふさわしい行動をし、集団や仲間が「一体」になる。日本人は、個人で完全に自由に振るまうことはない。個人は個人でも、ある意味、状況に応じて行動する個人なのである。

 

基本の教訓――団結と寛容

今朝は、私が息子を自宅近くの保育園に連れていく番だ。息子の小さな歩幅で12分。この短い道すがら、さまざまな日常的サインが、日本の社会はどう機能すべきかを私たちに思い起こさせてくれる。

自宅から下りたところにあるガソリンスタンドでは、5人の従業員が働いている。車が1台、出るところだ。担当者が道路の中央に立ち、お辞儀をしながら大きな動作で道が空いたことを示し、「ありがとうございます!」と大声で叫ぶ。ほかの仕事をしていた従業員もいっせいに「ありがとうございます! ありがとうございます!」。このスタッフ全員による声かけには何の意味があるのだろう? お礼は基本の社会的儀式だが、ここでは同時に、従業員全員で「企業の顔」にならなければならない。通行人はそれをみて、「素晴らしいスタッフ!」と考えるだろう。エネオスにとつては好評価の得点になる。高得点を得ているのは、その前にある私立の商業系学校もそうだ。職員全員が正門の前に一列に並び、登校する生徒に挨拶している。

道を歩いていると、八百屋は共産党支持、私が利用する理髪店は自民党で、庭に大きな木のある古い家に住んでいる老夫婦は公明党に投票することなどもわかる。店舗や家に貼られている議員のポスターが証明しているのだ。主のいない壁面には、地域の区議会議員のポスターがすべて、隣組のように仲良く並んで貼られている。破られ、いたずら書きされているものは一枚もない。それぞれに自分の意見があり、地域の平和な団結のために誰が何を考えているのかを知るのは、そう悪いことではない。しかし日本人にとって意見は二の次、政治にはそれほど重きを置いていないのは、議論などしないことからもわかる。彼らは政治を、経験に基づくシニカルな現実主義でとらえている。そのせいか、区議会議員選挙の立候補者は無所属が多い。地方議会選挙では、政党の公認は有利と言うよりはハンディになる。候補者は地域全体に属しているのである。

 

枠組と規律と優しさ

私は、勤務する大学近くの地下鉄駅に近づく。この駅は多くの学生に利用されている。講義が始まるのは10分後。広い階段から、急ぎ足の学生たちが束になって、混み合う交差点に着く。いまは大学の新学期。これらの若者は多くは東京が初めてか、外国から来たばかりで、日本のよき習慣に慣れていない。一歩間違えば人にぶつかってしまうのだが、階段を上ったところに、小柄な男性がつっ立っている。警備会社の紋章と金の総つきの肩章がついた紺色の制服を身につけ、北朝鮮の将校のような立派なひさしつき帽子をかぶっている。押し寄せる学生の波を前に、「おはようございます! 信号に気をつけて!」と繰り返しながら、機械的に、1分間に6回――私が数えた――お辞儀をしている。

この儀式は何を意味するのだろう? 大学が権威をもって学生の安全に気を配るのはいいとして、しかし、その代弁者である警備員は、どんなに意味のない儀式にも従わなければならないということか? 警備員がかぶっている立派なひさしつきの帽子はその権威の象徴であり、その彼がお辞儀をしているとしたら、若者はどんなに有名な大学の学生であっても、その指示に従わなければいけないということか? この結果は1か月後にはあらわれると思われ、その時点で、小柄な警備員は秩序が乱れそうな別の場所に赴き、そこでまた規則に従うように注意を促すのだろう。

その少し先に工事現場があり、私と息子は20メートルほど車道を歩かされることになる。柵、渡り板、掲示板、私たちを守る装備品一式は、毎夕方解体され、毎朝元どおりに配備されている。もう1年以上もこうだ。安全な通路のそれぞれの両端には、制服にヘルメットをかぶったシニアが2人、1人は蛍光誘導の棒でもう1人は身振り手振りで、私たちが通るべき道を指示する。それも必ず「おはようございます、すみません。気をつけて。ありがとう!」と、単調な口調で繰り返しつつだ。息子はふりまかれた笑顔をもらい、タッチをして、ときに飴をもらうこともある。

これらシニアの担当者が言っているのは、私たちの安全を守っているということなのだろうか?社会が私たちを過保護すぎるほど守っているのは確かだが、しかしそこには優しさも少し加えられている。私たちがその配慮を心から評価するためだ。これは無料だが、とても重要なことでもある。

 

地域が見守り活動・・・

道を歩いていると、「町内会」――江戸時代から受け継がれて昭和に名づけられた隣組の風習――の四個の掲示板と出会う。これはほぼ300メートルごとに設置され、多種多様なポスターが貼られている。有権者は政治家から物品を受け取ってはいけないことについて8件、夏に避けるべき蚊の多い場所について6件、自転車と車の衝突事故のおもな原因について5件、風邪を引かないようにという警告が4件(春は花粉症、夏は熱中症の警告)、地域の中学校で行なわれるイベントと神社の祭りの日にち、防災と地震の訓練日、講演会、青空市、「町内会」が空き缶のリサイクルで集めた金額(約5000円)、そして元町内会会長の死(政治家と同じように、ここでもほとんどが男性)・・・。

道すがら、いろいろなものが目に入ってくる。数えてみると、犬の形をした黄色いプラスチック製の小さな標識が5枚、犬の飼い主に糞は必ず拾うようにと日本語と英語、中国語、韓国語で書かれている。町内会の名で、車の運転者に小路ではスピードを落とすように厳令する大きな看板が3枚。住宅のあいだにはさまった2つの駐車場では、大声で話さない、ドアをパタンと開閉しない、エンジンをふかさないと繰り返し要請、そして多くの家の前に、門前でたむろしないよう通告する張り紙。ちょうど冬だったせいで「火の用心」と書かれた旗も1本はためいている。当然、この地区では歩きながらの喫煙は禁止されていることを注意するポスターやシールが何枚も貼られ、とくに、家の前に吸い殼が捨てられている家では玄関前や車道にまで貼られている。

このご時世、あからさまに禁煙を無視する者ははとんどいない。それでも明け方、私が利用するスポーツクラブまでの約2キロの道のりに、花壇や道端にこっそり捨てられた吸い殼が、数えたら200個以上もあった。それを毎朝、商店主たちが店の前の道を掃除して拾い集めている。ビルの警備員は、建物の周囲100メートルの側溝をきれいにしている。何回かの週末は、ボランティアの集団がそろいの蛍光色のベストで、ほうきと長いトング、象の鼻型の吸引機を手に作業している。フランスでは、これらの仕事はすべて地方自治体の職員の管轄だ。ここでは共同体が行なっている。フランスでは、汚したのは自分ではないから掃除するのは自分ではない。ここでは、公民精神を欠いた行動は全員の妨げとなり、だから掃除は全員の仕事になるのである。

小さな公園には滑り台やブランコがあり、隅には公共情報用の大型拡声器が設置されている。ここからは毎日、夕方の5時に、子どもたちに家へ帰るように忠告するアナウンスが流れる。大人にも、北朝鮮のミサイルが発射されたり、巨大な津波が発生すると警報が流れることになっている。地域の警官との連絡拠点というシールが貼ってある家の真ん前には、中古の3輪車、スクーターなど一式が置かれ、地域の子どもたちが自由に借りられるようになっている。壁の一部は白塗りで、絵や落書き用に提供されている。3輪車などが紛失したことは一度もなく、子どもたちの芸術作品が傷つけられたこともない。もちろん、いたるところにある自動販売機――花からピザまで提供――を狙うものなど誰もいない。ちなみにパリでは頻繁に破壊されたのが原因で、撤去されてしまった。また、どこからも交番は走って2分以内のところにあり、そこでは3人の警官がすべてに目を光らせている(後述)。

 

・・・われらの警官も、地域全体とともに

わが交番は、2つの寺と並んで建つ大きな神社の足元にある。歩道に面したガラス張りの正面は、窓に金網が張られているフランスの警察署よりよほど入りやすい。内部は丸見えで、誰でも気軽に道を聞きに、あるいは落とし物を届けに入ることができる。2台の白い大型自転車が地域のパトロールに備えて待っている。1つの掲示板が、東京での毎日の交通事故件数(平均で死者1人、負傷者100人ほど)を示して注意を呼びかけている。もう1つは写真でおおわれている。アルツハイマーで迷子になった高齢者の写真が3枚、行方不明の女子高生が1枚、極悪人のような顔をしたお尋ね者が15枚ほど。一部の写真には、300万円から600万円の懸賞金がかかっている。ほかには、1968〜1972年代の学生運動の過激派闘士の写真がまだ貼ってある。それらの写真は、私が初めて日本に来た1975年にもすでにあった。国は決して諦めないことを示しているのだろう。成功した例もある。なぜなら2016年、これらの写真の一枚に「逮捕」という紙が貼られていたからだ。その写真の逮捕者が火炎瓶で警官を1人殺したのは、半世紀も前のことだ。

こうして、警官との協力を請われている地域共同体は、それを実行し、行動で示している。一部の家には、交番との連絡場所を示すステッカーが貼られ、ほかには防犯に睨みをきかせる歌舞伎風の目を貼っている家もある。家や電柱には「空き巣等特別警戒地域」と書かれた旗。3つの店舗は「セーフティステーション」を提供、子どもや女性が危険を感じたら、そこへ逃げ込むことができる。守ってくれるのは、警視庁のマスコットキャラクター「ピーポくん」、半分ネズミ、半分ウサギで宇宙人風でもあり、彼が守るのは――ジェンダーの視点ではきわめて理不尽なやり方で――、笑顔で少し内気なピンクの女の子「ピー子」である。

「町内会」も負けてはいない。どの掲示板でも見かけるのは、知らない人には注意しようと小学生に呼びかけるポスター。ほかには、地域から組織犯罪を撲滅するために守るべき15のルール、オートバイの引ったくりにあわないための注意事項6つ、高齢者を狙うオレオレ詐欺に用心する、など。2つの掲示板には、町内の有志による自転車パトロールの時間も書かれている。これを行なうのはとくに母親が多く、前後にチャイルドシートを装備した頑丈な電気自転車には、「パトロール」と誇らしげなレッテルが貼られている。これら高価な自転車は、持ち主の家の前に止められていることが多いのだが、盗難防止用に付けられた簡単な鍵は、フランスでは初心者でもほんの数秒で外せるだろう。

 

 

保育園まで歩く12分間のあいた、社会は私と息子を一瞬たりとも見放さなかった。通りではたえず、日本風に共に生きるにはどうすべきかを思い起こさせてくれた。危険と思われるものにはすべて注意し、協力して、情報を伝え、共同体をつくり、そこに少しの優しさを加える・・・。つねに同じメッセージが、形を変え品を変えて、いたるところにある。

日本を離れた人にこれら表示の話をすると、「日本人は誰も見てもいない。風景の一部になっている」と反論される。たしかにそうだがしかし、それだから全員の頭のなかに入っているのではないだろうか。町では、すべてが意味をなし、すべてが同じ方向に向かっている。そこに見えるのは、ジョージ・オーウェル(1903−1950)が『1984』〔1949年刊〕で描いた、すべての行動が当局によって監視される社会の、執拗なデマ宣伝のようでもある。しかし、西欧人の目にはオーウェル派がいかに危険に見えても、私が住む界隈は静かで安全、人々は団結して好意的、そのうえ、世界中から来る学生たちは楽しく活気に満ちた学生生活を送っているのである。

 

 

 

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