第4章 ハラスメントと差別

 

 

 

 フランスより暴力的ではない日本だが、しかし、社会が抑圧的なことを物語る「悪」に蝕まれている。それはさまざまな形のハラスメントと、差別である。日本の社会はいまだに、儒教思想を受け継ぐきわめて厳しい上下関係からなる組織づくりをモデルにしている。その結果、女性をはじめとして、下に属すると見なす集団を、構造的に差別するようになっている。儒教では、目上の者は目下の者を徳の高い精神で思いやるよう強く勧めているのだが、それでも上下関係の強い組織では、下の階級に属する者をいじめて、搾取し、虐待するようになる。そして多くは、小学校からそのように叩き込まれているぶん、よけいに抜け出せなくなるのである。

 

鉄の天井と、政府の無関心

 ジェンダーの視点でみると、日本は完全に理不尽である。本書を執筆している2018年末の時点で、政権にいる20人の閣僚のうち女性は1人だけである。国会議員では13.8%〔2019年現在〕、割合的にはフランスの3分の1だ。これを基準にすると、日本は世界の「女性国会議員比率」で不名誉な144位、パラオと同位でギニアビサウの上だった。もちろんG20中で最低だ。地方レベルでも、女性は47人いる知事のうち3人のみ、地方議会では10%しかいない。中央官庁でも、責任ある地位にいる女性はわずか5%、企業ではさらに低く、うち半数は取締役会に属していない。対してフランスでは、法律で取締役会の40%は女性にするよう定められている。日本人女性にとって、天井はガラスではなく、鉄のように硬いのだ。

 女性問題に対する男性政治家の煮え切らない態度が一目瞭然なのは、専属大臣がいないことだ。「女性活躍担当」と「男女共同参画」は内閣府特命担当大臣の管轄(!)だ。そして、ほかにこの特命担当大臣のアジェンダに入っているのは、市民活動の促進から情報通信技術、さらには少子化対策、知的財産戦略、科学とテクノロジー政策、宇宙政策、「クールージャパン」のイメージの促進・・・すべてがごちゃまぜなのである。

 

ハラスメントといじめ

 日本女性は喜んでいいだろう。フランスのように街で下品に口笛を吹かれることも、あけっぴろげに誘われることもなく、不快感を示せば侮辱的な言葉を投げかけられることもないのだから。それでも、セクハラは大きな問題になっている。私が最初に滞在したのは前世紀のことになるが、日本の地下鉄は痴漢地獄として有名だった。そしてその評判は再来日時もそのままだった。2017年、フランスで出版された『TCHIKAN〔痴漢〕』(佐々木くみ、エマニュエル・アルノー著)は、痴漢を体験した日本の若い女性が2000年代、12歳のときから毎日、通学路で体験したことを綴った証言だ。この本はフランス人に、何百万人という日本女性がいまも体験していることについて、身も凍るようなイメージを与えている。職場での煩わしい質問、場違いな指摘、あちこち触る手――いまだに多すぎる――などは、若い女性会社員共通の定めだったのだが、多くは未来の夫を探すために就職していたぶん、抗議することもできなかったのだ。

 私が日本を離れていた4半世紀のあいだ、事態は劇的には変化しなかったが、しかし動いてはいた。そうしていまや「セクハラ」という名の恪印を押されるようになっている。1990年代に登場した、「セクシヤル・ハラスメント」を短くしたこの単語は現在、メディアで広く使われており、もはや関係のないシニア以外、知らない日本人は少ないだろう。最近では、「マタハラ」(マタニティ・ハラスメント)が、妊娠した女性社員を辞職させるために雇用主がかける圧力や、それに応じない女性をあからさまにいじめる意味として使われている。というのも、妊娠した女性社員は生産性が低くなるうえ、その分の仕事を押しつけられる同僚からエゴイストと見られるからである。加えて、セクハラを訴える反抗分子は、女性の理想とされる「良妻賢母」とはほど遠いところがある。この理想像は明治時代からのものなのだが、いまだに多くの雇用主は、女性が守るべき義務と見ているのである。

 

構造的ないじめ社会?

 「セクハラ」が言葉として成功したのを受け、メディアはあちこちで「ハラ」をつけるようになった。大学では、正教授が修士生や助手を、自分の意のままに扱うことを「アカ(アカデミー)ハラ」と言う。「ブカハラ」とは、学生の部活で、新入部員、とくに女性を、「血気盛んな」先輩が、ときに暴行までして抑えこむことで、有名大学でも行なわれている。職場では、「パワ(パワー)ハラ」と「モラ(モラル)ハラ」が話題になっており、いじめや、傲慢な顧客、狭量な上司による従業員への侮辱行為のことで、まさにフランス人女性作家アメリー・ノートンが、日本で体験した自らのOL生活を元に、日本の会社の矛盾を辛辣に描いた「畏れ慄いて」(2000年、作品社)の世界である。

 ある日、私は東京のタクシーで、お客に「パワハラ」をしないように要求する小さなポスターが貼られているのを見た。そこには、乗客が運転手の頭に「横蹴り」を入れているイラストが描かれていた。私にはこの警告が大げさに思われ、メディアが自由民主党衆議院議員の豊田真由子をさらし者にしたことに思い至った。彼女は日常的に運転手兼秘書を馬鹿にし、叩いていた。被害者の秘書はついに、この虐待シーンの録音をある週刊誌に送った。そこには、罵倒されつつ謝り、うめき声をあげる彼の声も入っていた。

 日本では、フランスでもどの国でもそうだが、上の地位にいる者は立場を利用して支配欲を満足させることがよくある。しかし彼らはフランスより有利だ。というのも、日本ではモラハラは犯罪にならず、むしろ歯をくいしばって我慢するほうが尊い行動とされているからだ。とくに女性にとってはそうだ。そして集団では理由が何であれ、不平や不満で規律を乱す個人はきわめて悪く見られている。しかし、長く自然に受け入れられていたこれらの行動は、いまや公に非難され、代償が高くつくこともある。前述の豊田真由子議員は自民党を離党させられ、2017年の総選挙で落選している。

 

いじめ――学校での暴力

 「いじめ」は、日本の教育制度の傷である。これはネット上の話だけではない。被害者は仲間外れにされ、侮辱されてからかわれ、叩かれ、ときに100万円以上ゆすられることもある。いじめる側は排泄物を机の上に置き、教室でからかって被害者の葬式まですることもある・・・。いじめは小学校からあり、何か1つ他と異なるだけでクラス仲間の虐待の的になる。子どもにとっては恐怖だ。「ハーフ」はおそらく絶好の対象だが、しかし、同じ日本のほかの地方から転校してくるだけでも充分だ。理由はなんでもいい。背が低い、内気、シングルマザーまたは父親が失業中、家が貧しい。またはその逆に、頭がよすぎる、きれいすぎる・・・。福島の原発事故で、放射線に汚染された地域から避難した子どもの多くは転校先でいじめにあい、伝え聞いたところによると、新天皇の一人娘、愛子もいじめにあったと言われている。

 この現象は、日本の教育制度に深く根づいている。フランスよりよほど厳しいのである。中学校では2001年まで、生徒が登校するのは年に250日で計1300時間、フランスの生徒より90日間、380時間も多かった。加えて休み時間は、子どもが教室を整理して掃除するのに使われることもある。多くの学校〔私立〕は、評判を高めるためによい結果をあげることと、教師の補足収入〔公立校の教員の残業代は一律4%〕を保証するのに心を配り、名ばかりの「選択教科」を加えている。さらに、わが子の将来を考えて有名大学に進学させたいIそしてその手段のあるI家庭の子どもたちは、放課後や週末、夏休み、春休み中も塾に行くことが多い。最後に、中高生の大半はどの学校にもある無数の部活動でI週に数回1社会性を身につけてこそ完璧となる。どれか一つでも部活に参加しないと教師に嫌われ、いじめの対象になるのはほぼ確実だ――いじめは、拘束されて自分の時間も選択肢もきわめて少ない子どもたちが、そのプレッシャーをはねのける1つの方法のように見えるのだ。

 

等級づけという強迫

 社会と同様、日本の学校は等級づけと、順応性を土台に成り立っている。成績のよくない子どもや、少し変わった子どもは大変だ。選別は小学校の最終学年から始まり、教師による等級づけと推薦が、よい中学へ行けるかどうかを条件づける。そのあと優秀な高校へ進学でき、有名大学の入試に成功するかどうかが、ここで決まるのである。さらにストレスになるのは、多くの民間組織が就学期間を通して、基本教科の全国学力テストを提供していることだ。たとえば高校3年で25000人中3681番になった生徒は、両親が望む有名5大学に行けるチャンスは、レベルの低い大学だと29%、難関だと3%・・・などと、きわめて正確にわかるのである。

 こうして、成績のよくない生徒は、非常に早くから、一生出世できないことを理解し、その不満をクラスのもっとも弱い者に向けて発散する。このはけ口は、社会全体に反抗する方向には向けられない。したがって、いじめを受ける側を支援する者は少ないことになる。クラス全体がいじめる側に賛同しない場合は、全員が黙りこくり、教師の多くは責任逃れをする。その口実は、いじめられるのは本人が弱いからで、クラスを混乱させて教師の評判を悪くするというものだ。声をあげるべきはいじめられる側、というわけで犠牲者を守る制度もない・・・。なかには、いじめる側とグルになってクラスの平和を守ろうとするとんでもない教師もいる。そのいい例が2016年、マスコミが暴露して大騒ぎになった新潟市の小学校で、福島から避難してきた生徒の名前を呼ぶとき、「くん」の代わりに「菌」とつけて呼んだ教師だった。

 

沈黙の掟

 1990年代終わり、自殺した子どもの両親が、相次いで訴訟を起こしたのを受け、メディアがいじめ問題を取り上げた。そのときのアンケートで明らかになったのは、高校3年生の4分の3はいじめを見たことがあると証言、うち半分は犠牲者で、3分の1はいじめる側だった。2017年は324000件近くのいじめが報告された。ある情報筋によると、中学生の4分の1は鬱状態で、それがひどくなった生徒が「引きこもり」を増加させているということだ。いじめは犠牲者の10人に1人を自殺に追い込み、これは10歳ー19歳の死因の第1位で、新学期が始まる前日がピークである。

 学校は、評判を守るために「いじめ」を隠蔽する傾向がある。学校制度を監視するはずの地域の教育委員会は、社会にトラブルが生じるのを嫌い、被害者の家族がいじめた側を罰するよう求める訴えに応じようとしないのだ。なぜなら、もし加害者側が公然と告発されたら、訴えられた側はよい学校に進学できなくなり、将来的に実績ある企業で安定した雇用を得るチャンスも失うことになるからだ。地域や小さな集団では、いじめで犠牲になった子どもの両親が加害者家族をさらし者にすると、妊娠しても仕事を辞めない女性のように「エゴイスト」と見られてしまうのだ。たとえば1986年、子どもがいじめから自殺したのを受け、初めて訴訟に踏み切った家族は、葬式にクラス全員を招待し、しきたりにならって食事も準備した。しかし誰も来なかっただけでなく、家族がお返しに受け取ったのは嫌がらせや脅しの手紙だった。

 

フランスと日本どつちもどつち?

 これらに憤慨する読者は、フランスの数字と、ハリウッドのプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン事件後の怒濤のようなマス攻勢で、再び浮かび上がった事実を思い出してみよう。働くフランス人女性の少なくとも20%が、職場でハラスメントを受けたと言っている。うち上司に訴えたのは3分の1以下、そのうち4分の3はその後のキャリアで苦しんでいた。しかも裁判になったのはわずか5%、たいていの場合は不起訴になった。いっぽう街中や交通機関でのハラスメントの調査によると、犠牲者の率は85%から・・・100%。レイプでは、裁判に訴えたのは犠牲者のわずか10%、訴訟で有罪判決にこぎつけたのもわずか10%・・・レイプ100件に対してわずか1件である。

 学校でのいじめは、フランスでも大問題になっており、2015年以降、告発を目的とした国民の日〔11月8日「学校でのハラスメント闘う日」〕が設けられているほどだ。その日は、日本より危惧すべき統計を発見する機会となる。2016年は、383000件の「深刻な」いじめと、323000件の「控え目な」ハラスメントが報告された。就学人口が40%も多い日本の2倍である。執拗ないじめで自殺したマリオン(13歳)のように、もっとも悲劇的なケースは、日本になんら引けを取らない。繰り返されるいじめの否定と、学校の指導部から学区事務局まで至る報告の拒否、事実を知ろうとしない教師たちの卑劣さ、自殺あるいは自殺未遂、行政と告発された家族が被害者家族に抱く敵対心、そして、最後は誰も罰せられない可能性・・・。

 

 


 

 日本とフランスは同じ問題を抱えているのだが、しかし、取り組み方は違っている。フランス人から見ると、日本のように男性中心主義がまかり通り、ハラスメントが合理的な意味で支障をきたす要因にならない社会は、倫理的な意味で罰するに値する。つまり日本では、社会がその悪を罰するだけでは不充分なのである。社会はまた、全体的な内省に真摯に取り組み、その罪を認め、集団的に考えて行動する方法をすべて変えるよう、精神を再教育しなければならないだろう。社会の悪習と闘うために全員で立ち上がることは「事実上」、社会的規範が対立する様相を帯びてくる。そして、現在のそれはジェンダーの対立である。

 もし日本人が、フランスでの路上ハラスメントがどんなにひどいかを知ったら、あらゆる形の権力、共同体に対する、想像を絶する挑戦に見えるだろう。そこでは少なくとも、女性だけが暴力の被害にあっている……。「セクハラ」はいまや、企業にとっても評判が傷つくことから有害と判断されている。この展望でいくと、共同体と企業は加害者であると同時に、多少なりとも被害者で、対策を誤ると事態を悪化させることになる。したがって、問題は全体を変える社会的規範の問題ではなく、効果の問題で、現実路線で対処できると言えるだろう。ハラスメント問題に対する意識は現在、日本では現実として高まっているが、対処法はフランスとは微妙に違っている。それについてはあとで述べることにしよう(第12章)。

 

 

 

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