第2章 日本のすべてが電車にある――新幹線

 

 

 

 完璧な時間厳守、全面的な安全性、快適さと清潔さは他に類がなく、静けさは保証され、乗務員はみな親切。新幹線は、初めて体験する外国人から文句なしに称賛されている。フランスのインターネットユーザーは、わがTGVとの比較に熱中している。新幹線が日本の縮図であるのに対し、TGVの格安列車イヌイ(inqui)とウィゴー(Ouigo)はフランスの縮図で、いろいろなことが明らかになるのである。

 

国民的神話を創作する

 新幹線が開業したのは1964年、東京オリンピック開催の年だった。われらがTGVの17年前、日本の人口密集地の大半を焼け野原にした敗戦から、わずか19年後のことだった。日本が国際社会に復帰し、テクノロジーで勝利をおさめるまでの期間、この年の東京オリンピックは復興の瞬間として、目撃者であり当事者でもあった3世代の日本人の記憶に深く刻まれた。

 このような状況から生まれた新幹線には、国民的神話になりうる要素がすべてあり、そして日本は神話の創作においては秀でている。新幹線神話は、名前と色、形に負うところが大きい。名前でいくとフランスにはかって、「ル・ミストラル」〔フランス東南部に吹く地方風〕があった。現在、その路線は単に9時37分パリ発マルセイユ行きの列車としか呼ばれていない。日本では東京から大阪、その先に行くのに、「ひかり」、「のぞみ」、「こだま」が利用されている。金沢へ運んでくれるのは「かがやき」。東北へは行き先によって「はやぶさ」、「やまびこ」、「こまち」から選べばいい。九州へは「さくら」か「みずほ」。いずれにしろフランスよりはインパクトがある。

 形と色ではどうか。TGVの鼻は、いくつかバリエーションはあるものの、どちらかというと低く、車体の色は白またはシルバーとブルーだ。駅に入ってくるときはけっこう汚れ、引っかき傷が付いていることもある。新幹線の衣装はつねに完璧だ。車両に一つでも傷があると、それが消えるまで運行は停止される。車体の色も、白とブルーに加え、青リンゴ色、黄色があり、派手なピンク色で着飾ることもある。路線によって、鼻部分はアヒルや丸みを帯びた〈カモノハシ〉のくちばし型、あるいは、長短のアローラインが取りつけられている。日本の児童はすでに3歳で一連のシリーズ名を挙げ、認識することができる。彼らにとって日本の列車は「ステキ」で「かっこよく」、さらには「すごい」ものとなる――一般のフランス人は、3歳でも、もっと年齢を重ねても、TGVを話題にはしない。ここでは幼稚園児から新幹線を誇りにし、ひいては、日本も誇りにしているのである。

 

民族統合の術

 新幹線のネットワークは、われらがTGVの8倍も密度が高い。全長2765キロ〔2019年現在〕は、居住可能地域20平方キロに一本あるのに対し、フランスは160平方キロに一本だ(1)。したがって新幹線は、TGVより有効に国土を統合していることになる。これはまた日本の鉄道網、道路網、飛行機便の国内線、地方バス路線全体に言えることで、バスは過疎化が進む地方にも走っている。この密度は、国の一体化に重要なその他のサービスでも見られる。宗教施設、警官の駐在所(後述)、素晴らしい「宅配便」、郵便局(約24700局に対し、フランスは約16000局)、また、世界一のオンライン商業施設とも言われる楽天のショップは45000軒もある。忘れてならないのが清潔な公衆トイレで、地下鉄構内にもあれば、私の住む地域には自宅から1キロ以内に7か所、さらに、通りがかりの人を気持ちよく迎えてくれる商業施設のトイレも忘れてはならないだろう。

 密度とサービスの質の素晴らしさで、それに携わる人も大衆に広く受け入れられている。地域の警官は好意的な目で見られ、寺の僧侶や神社の宮司は地域の名士として尊敬されている。ローカルバスを称えるテレビ番組は10年以上前から人気、日本のアニメーションの大御所、宮綺駿は『魔女の宅急便』を制作している。フランスの映画館で『配達便メルラン』〔無料配達を行なう大型ホームセンター〕など、上映されることがあるだろうか?

 

人の流れの整理術

TGVにもよい面はある。新幹線は東京の空港にはどこにも停車しないのだが、シヤルル=ドーゴール空港に着くと、私はその場でレンヌ行きに乗ることができる。ホームが人でいっぱいなのは東京と同じだ。私の車両番号は7。どこに停車するのだろう。重いスーツケースを押しながら人混みを進み、1か所にだけある路線図の掲示板まで行く。Bの標識? しかし、そこにたどり着いても、私の車両のドアが正確にどこで開くのかは何も示されていない。何もわからないなかで、一部の乗客がホームの端でかたまり、ほかは中央で待っている。その結果、列車が止まると、人の流れがぶつかって一種の混乱状態になり、それぞれが座席指定券を持っているにもかかわらず、やや緊張が高まることになる。

日本のホームはその点、表示であふれている。車両番号は上部に掲げられていて見やすく、ドアが開く場所はホームの上に書かれている。列車の長さはすべて同じではないことから、10両編成の列車、車両番号5、ドア2/8両編成の列車、車両番号4、ドア1・・・といった具合だ。各ドアの前には、列車待ち用の列の印が2本、しっかりとつけられている。1つは先発用、もう1つは次発用。列を外して立つ人は誰もおらず、こうして、ホームには売店や自動販売機があるにもかかわらず、人の流れは端から端までスムーズなのである。

 このように人の流れが完璧に管理されているおかげで、東京駅のホームでは、新幹線の発着は約10分ごと、ピーク時には3分ごとが可能になっている。この時間差で、列車は空になり、各車両は専属のスタッフに掃除され、各座席の列が進行方向に向けられて、そして乗客が乗ってくる。列車内には1300人まで乗り降りできるそうだ。自由席の車両の前でも、混乱はなく、いざこざも起こらない。東京の地下鉄も同じやり方で成功し、約2000人の乗客を収容でき、全長200メートルほどの編成の車両が、ピーク時には3分ごとに発着する。

 日本は、人の流れの管理術では世界トップの域に達している。それもそのはず、東京の新宿駅は。1日の乗降者数が360万人以上で、『ギネス世界記録』に登録されている。ヨーロッパーの記録を持つ、わがパリの北駅の6倍だ。日本を離れた移住者はよく、駅構内のしつこい合図、階段は右または左を利用しましょう(きちんとしたルールはない)、ホームのここには立ち止まらない、車両の前できちんと待ちましょう・・・といったアナウンスを馬鹿にする。しかし、このきめ細かな規則のおかげで、入の流れは静かに、恐怖の「ラッシュアワー」の時間帯でさえ効率的に進むのである。

 

個人空間の神聖化

レンヌに向かうTGVのなか、私は一人の母親が子どもに読み聞かせる物語や、管理職同士の仕事の会話、若者たちが教師や恋愛の話をするのを耳にして楽しんでいる。つい聞きたくなる、これらの音が飛び交うなかで本を読むのは不可能だ。

新幹線の場合は、全体的に静かである。1平方キロ当たりの人口密度がフランスの3倍、東京となると6200人を超える国で、他人のスペースを尊重することは基本のルールの1つである。仮に各自が隣人のスペースに少しでも足を踏み入れたら、生きづらい社会になるだろう。そうして、全員が外界から隔離された空間で生きている。周囲を見回す視線は非常に少なく、交わることはほとんどない。誰も音一つ立てず、それぞれがスマートフォンに熱中し、話しかけることもない。少年少女たちでさえ小声で囁いている。こうして公共の交通機関は、ぎゅうぎゅう詰めになるピーク時でもなんとか生きられ、それ以外の時間帯は非常に安心できる空間になっている。

公共の場では、できるだけ場所を取らないことも望まれている。電車の座席では、だらしない座り方をせず、斜め座りや、足を開いたり、組んだり、伸ばしたりもせず、大入しく手をそろえて座る。さまざまなポスターが他人に迷惑をかけないようにさとし、定期的に新しい指示が加わる。リュックは人の邪魔にならないよう前に抱えましょう、傘は振り回さないように、スマートフォンを見ながら歩くと通行の邪魔です、音楽を聞くときは音を漏らさないように・・・、化粧さえしてはいけないようだ。化粧については、私はなぜ駄目なのかずいぶん考えたことがある。他人の視線を挑発するからか、それとも公共の場に香りが流出するからか? おそらく両方だろう。

このように個人的空間を尊重して神聖視するのは、一部は歴史に基づいている。江戸時代(1603ー1868年)、日本人の庶民社会には権利というものがなかった。平民は隣人同士の集団で組織立てられ、各構成員は義務として、他人の行動を探り、犯罪的な行為はすべてお上に告発しなければならなかった。対して、武士階級に属する者は全員が個人的空間を有し、絶対的な支配者として君臨していた。仮に平民がそこへ侵入すると――うっかり武士とぶつかる、顔をじろじろ見る、あるいは、掟を守らずに話しかける――、武士には刀を向ける権利があった。個人的空間の征服は、日本人にとって測り知れない進歩だったのだ。歴史の一部はいまも大事にされている。というのも、隣人同士の集団はまだよき遺産として残っているところがあるからだ。

 

列車はすべてが禅

シヤルル=ド=ゴール空港からレンヌまで(350キロ)は直通で1時間半、東京から大阪まで(515キロ)は、途中で3駅に停車して2間半。TGVのほうが、仮に定刻に着いたとしたら、少し上回っている。私が2013年から10回利用したパリーレンヌ間のTGVで、定刻通りに着いたのは3回のみ、10分以上遅延しだのが2回、うち1回が20分だった。新幹線の場合は、2015年度、わずか3%の列車が秒単位の遅れ(!)で非難され、遅延した列車の平均は6秒前後だった。安全性でも申し分がない。開業して半世紀以上で、新幹線には死者を出した重大事故がなく、例外的な3件のうち2件は責任を問われなかった(2)。いっぽうのTGVは開業35年で、重大事故が24件、14の死(うち11人は車両の試運転で)と、約140人の負傷者を出しているが、大半は軽傷である。

新幹線は座席の配分でも完璧だ。いっぽうの、たとえばレンヌ行き。フランス国有鉄道のコンピューターは、私が指示する好みの座席などまったく無視だ。半数の回は進行方向と逆の座席で、1回は狭い「四角」のなか、乗客同士の両足がぶつかり合い、視線を避けるのに疲れたことがある。新幹線ではすべての座席がつねに進行方向に向き、人と顔を向き合わせることは決してない。もし、前後の列の友人同士と話したければ、背もたれを軽く動かすだけで向き合うことができる。こんなことは考えるだけでできると思うのだが、それには、サービスの質を事細かに配慮する必要があるだろう。

自由になる空間もたっぷりある。新幹線では、「ガイジン」の長い足でも伸ばすことができ、隣席の人に迷惑をかけずに、子どもを遊ばせることもできる。荷物にしても同じだ。空間があるので、通路をふさぐ荷物は一個もなく、重ねる必要もない。車内トイレも同様、数が多く、しかも清潔この上ない。車内サービスも万全だ。TGVには車内販売コーナーはあっても割高で、利用する気になれないのに対し、新幹線では笑顔の売り子が商品で山盛りのカードを押し、列車の端から端まで回ってくれる。売り上げも大きいそうだ。たしかに、これらのカートは、幅415センチのTGVの通路では通れないだろう。新幹線の通路はTGVより広いのだ。

 

新幹線で見る社会

イヌイにしろ、ウィゴーにしろ、TGVの切符を買うとストレスだらけになる。予約が義務になっていることから、すべてを事前に計画しなければならず、それもできるだけ早いほうがいい。というのも、出発日が近づくほど値段が上がるからだ。もし途中で計画が変わると、追加料金を払う羽目になり、それが最後の瞬間だとゆすり同然だ。そこまでしても、旅行シーズンになると、切符を持っているのにホームに残されることがある。というのも、わがフランス国有鉄道は平気でオーバーブッキングするからだ。いっぽう新幹線はというと、ほとんどは自由席の車両が一両か複数ついて編成されている。自動券売機もその場で、どの路線でも、予約席より安く、一日有効な切符を発券しているのである。

フランス国有鉄道の料金体系は、定期券もあれば、各種さまざまな割引カードもあって、罠だらけのジャングルのようである。私が利用ずるシャルル=ド=ゴールとレンヌ間でも、最先端のアルゴリズムのおかげで、予約サイトを2度検索するあいだに、同じ時間と路線で、料金が巧妙に値上がりしているのを発見した。うまく立ち回れる人は得をし、短気な人は損をする。生きるとは1つの闘い、有能な者が勝つのである。イヌイによる社会生活のレッスンだ。

新幹線は逆のレッスンになる。料金の割引はいっさいしないのだが、例外として外国人観光客向けに予約格安パス「ジヤパン・レール・パス」がある。したがって、外国人旅行者を除けば、どんなに利用者が賢かろうと、新幹線のほうがどうしてもTGVより標準的には高くついてしまうのだが、しかし新幹線の料金体系のシンプルさは完全な抗ストレス剤である。というのも、全員が同じ料金を払い、無断侵入不可能な改札口で切符の有効性を認めてもらわなければ、ホームに行くことも出ることもできないからだ。おまけに車内では車掌が不正乗車を絶対に見逃さないよう管理している。車掌は各車両の予約済席の表を持ち、一瞥して席が正しく使われているかをすべて確認、何も聞かずに次の車両に移動する。対してTGVの場合、料金体系が込み入っているせいで、構造的に不正乗車の温床になっており、ホームへのアクセスも新幹線に比べれば緩く、出るのは自由である。たまに愛嬌をふりまく車掌がいるとしても、不信感を持っているのは確実で、それがまたストレスの原因になるのである。

 フランス国有鉄道の離れわざのような料金体系は拉、収益を確実にするのが目的だと反論する人もいるだろう。だったらなぜ、TGVは全路線が赤字で、いっぽうの新幹線は一路線をのぞいてすべてが黒字なのだろう? 要するに、TGVは補助金を支給されているのである。結果、格安切符を利用したことのない納税者が、パリーマルセイユ間3時間7分をパリのメトロの回数券より安い料金で利用ずる抜け目のない旅行者の代わりに、安くなった分を払っていることになる(3)。さて、新幹線の収益はといえば、日本の鉄道会社の支援にまわされ、地方の赤字路線を維持するのに使われている。こうして新幹線はよいイメージを得ているのに対し、わがフランス国有鉄道は、どちらかというと、フランスの生きづらさを象徴しているように見えるのである。

 

 

パリのメトロの改札口は閉まった状態で利用者を迎え、正規の乗客であるのを確認したあとでのみ開く仕組みになっている。したがって、全員がそこで足止めされ、とくに強固に防備された一部の改札口は、大きいスーツケースやベビーカーが通れなくなることもある。東京では、地下鉄の改札口はつねに開いている。正規と見なされない客が通ると、2つの小さな扉が素早く腰の高さで閉じ、赤い光と警報が響いて、通行人と係員の注意を引きつける。こうして、誰も歩調をゆるめず、立ち止まることもなく、人の流れはスム−ズに進んでいく。

東京の地下鉄と新幹線も、フランスと同じように不正に目を光らせているのだが、しかし、それを乗客に悟られないように配慮しているところが、いかにも日本的な社会と言えるだろう。この正反対の考え方は多くを物語っている。つまり、フランスでは人は用心し、それを表に出す。日本でも人はやはり警戒するのだが、洗練されて巧妙な管理体系が整っているおかげで、その不信感がぬぐわれ――そうして、国全体で社会的な教育もしているのである。

 

 

(1)居住可能地域の基準は、傾斜が8%以内の土地。日本の国土でこの基準を満たしているのは約27%しかない(約12万平方キロ)のに対し、フランス本土は70%近い(38万4000平方キロ)。この尺度でいくと、日本はフランスの約3分の1の土地に、約2倍の入口がいることになる。

(2) 1件は車両内での焼身自殺で、巻き込まれた女性が一人犠牲になり、もう1件は踏切を強行突破した車との衝突事故で、車を運転していた女性が亡くなった。3件目は、2018人年に東海道新幹線で殺傷事件があり男性1名が死亡。

(3)2017年9月28日現在、10ユーロで提供。httPs://NMouigo.com/train‐PaHs‐marsdle

 

 

 

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