以下にyamu_cyaさんが友人へ宛てた手紙を披露致します。一読していただければ、川澄勲先生への想いが良く分かると思います。

私はyamu_cyさんのその想いと自分自身の知的好奇心等に駆られてこのサイトを立ち上げました。

Aさんへ

丂Aさんとメイルの通信が出来て本当に嬉しいです。これからも御法門を開拓して川澄先生の御恩に報じたいと思います。Aさん、韓国の皆様も御法門の研鑚に励まれその成果を発表され、日本の私たちにも教えてくださるよう切にお願いいたします。今年、西暦2001年1月1日、法門研の念願でありました川澄先生の法門を、インターネットでその全文を公開することが出来ました。法門の研鑚のお役に立てていただきたいと思います。ホームページの「法門研のお知らせ」の頁で法門研のサイトアップについて次のように記しました丅

最初川澄勲の取り出した法門を、宗門も正信会も誰も取り入れなかったことは、結果として我々の為にはかえってよかったのかも知れない。若し宗門や正信会がこれを取り上げていたとしたら宗教的権威や宗団の指導者の意向の中に組み入れられて百万文字にも及ぶ先生の記述は無かったかもしれない。阡陌陟記の途中で終っていて木下晴夫氏が私財を投じてまでも阡陌陟記・仏道雑記・大石寺法門と日蓮正宗伝統法義・大石寺法門を出版することも無く、終に日の目を見ることもなくなって我々の眼に触れることも無かったのかもれない。その意味では宗門の高僧達にお礼を申し上げたいと思います。川澄勲を不信の輩と侮り、狂った学と蔑み、魔説とまで称した以上、この法門を日蓮正宗や正宗傘下にある宗教団体は今後二度と絶対に使わないでもらいたい。これは、我々末法愚悪の凡夫に古えの賢聖が時空を超えて手ずから下さった贈り物であると思う。そのお使いを川澄先生が果たされたのかもしれない。論争の道程で記述したものであっても、記述されたものから見れば我々一般民衆の為のものであって、一部の専門家の研究の為のものだけではないように思われる。そのために特別の仏教的な教養など無くても、通常の字書を片手にすれば良く理解出来るように書かれている。これからはこの法門を手掛かりにすれば独自に日蓮が仏法を開拓することが出来るように思われる。それはそのまま刹那成道につながり本尊抄の本尊を手中にすることにもつながると思う。先の見えない不安な、そして世知辛い世の中に、大きな希望の灯を点してくれることであろう。今回は阡陌陟記から仏道雑記、大石寺法門と日蓮正宗伝統法義、大石寺法門(6)までのデジタル化が完了したのでホームページを開設することが出来ました。誤字脱字があるものと思われますが、宜しくお知らせ頂きたいと思います。次には関連するものを順次デジタル化して公開出来るものは公開し、先生の残された大石寺法門(七)、離騒雑記、その他大量の未解読の資料もデジタル化して研究の資料に供したいと考えています。情報処理技術は日進月歩しており、法門研鑚の実も上るものと期待して居ります。その為にこのサイトを利用して頂きたいと思います。コンピューターを利用してもこの仏教から仏法への転換は想像以上の難事業であると思う。基礎資料のデジタル化だけでも5年10年かかるかも知れない。出来れば多くの方に参加して頂きたいと思います。特にコンピューターの使える若い人にお願いしたいと思います。古い日本の思想も現代に通用するものと思います。読者諸賢のご協力、ご指導をお願い致します丅

以上です。川澄先生とお会いしてからは早くも15年、それ以上になるかもしれません。Aさんとお会いしてからも同じくらいではないかと思います。私の記憶はどんどん薄れてしまいますが、この先生の法門は必ず世を救い、人々を済う法門であると信じております丅

先生にお目にかかる前、この法門を大分読み込みました。先生にお会いしてからも絶えず読み続けました。先生とお別れしてからもずっと読んで参りました。どう読んでもこれが謗法の書であるとは到底考えられません。むしろ宗祖の仏法そのものではないか、読めば読むほどそのように思えるようになりました。先生の在世の頃は、自分が間違ってお話しても先生が直して下さると思い、貴国を訪問して自由に自分の思いの丈をお話させて頂いておりました。楽しい思い出ばかりです丅

月日の経つのはまことに早いものです。先生がお亡くなりになり、先生の法門と宗祖の御書の連絡をとり、詳細な部分を明らかにしたく一昨年春コンピューターに入力を始めました。半年かかって百万文字を超える全文のデジタル化を終了しました。今、更めて「成道」の2文字を検索してみましたが、今まで聞いた事も、見た事もなかったような、途方も無い御法門に出会う事が出来ました丅

丂或る一文を捉え、その一文を課題として検索することが容易に行えるようになりました。「信心」も「本尊」も「本仏」もよく理解出来ます。先生が何を論じ、我々に何を教え、何をこれからの課題として修行すれば良いのか、そのような委細な事も調べることが出来るようになりました。そして川澄先生の取り上げた法門は、宗祖のお示しを一歩も外れるものではないということもよくわかりました。一体今まで何を読み、何処を読んでいたのかと思えるほどです。「次」の字を検索しても、出てくること出てくること丅

韓国の皆様も是非一度お試しになってみて下さい。書物の文字のみでは、「あの語句は何処に記述されていたのか」、「たしか阡陌陟記だったと思うけれども」、などと思いながらも、その語を探す事だけでも容易なことではありません。併しながら私は無力です。私の力だけでは宗祖の御書との連絡を完全にとることは出来ませんし、儒教や老荘思想との連絡も中々とることが出来ません。お志のある方々、韓国の皆様が必ず受け継いで下さることを信じております。日蓮は一部の宗教団体のものでは勿論ありません。必ず研究される方がこのサイトに参加して下さり、川澄先生の正義を明らかにして下さることと思います丅

丂有師の頃すでに「仏法皆破らるべき也」という状況にあったようです。宗祖の仏法も有明の海もだいぶ被害を受けたようです。今の日本は不況とはいえ、海を干拓して田んぼや畑をつくらなければならない程困っているとは思えません。水害の被害を未然に防ぐための干拓事業なのかも知れませんが、ほんとうのところは政治家や行政や業者のお金の為のようにも思われます。もうすこし慎み、知恵を働かさないと、海の怒りをかい竜神のいかりをかってしまうのではないかと思います。信心も同じことだと思います。権威や権力、お金や目先の利に目を奪われることなくもっともっと謙虚になる事が大切だと思います。そして地道な法門の研鑚と人人との触れ合い、自然との触れ合い、共生が必要なのではないかと思われます。その志を持てば吾々は自由自在に御法門を開拓し、人人と互為主伴して師弟子の法門を事に行ずることが出来るのであります。 

有師の頃すでに宗祖の仏法が危機に瀕していたようであります。 

「当門流に古えは碩徳も多く御座し賢人達も多く有りしかば化儀法体ともに自ら得意玉ひし間、加様の法門をば之を秘す也。今は化儀法体ともに無くなる間、秘すべしとて云はずんば仏法皆破らるべき也。去る間、此の如く顕然に申す也云云」(下野阿闍梨聞書、歴全1-399

とお示しの通りであります。興風談所の池田令道師は、「富士門流の信仰と化儀」で、「法体とは読んで字の如く、法の体でありますから南無妙法蓮華経そのものと言えましょう。或はまた当家でいえば本尊としての日蓮大聖人のことでもあります。」と論じておられます。この聞書は今から500年以上も前の事であります。その当時大石寺には宗祖の御真筆の御本尊もあった筈であります。また今の宗門の説では戒壇の大御本尊もあった筈であります。それなのに何故有師は「化儀法体ともに無くなる間」とお示しになり危機感に立たれ、聞書や化儀抄を顕されたのでしょうか。現実に形あるものとしての御本尊はあっても、その相貌を感得する御法門が無くなった、姿を消したととれないでしょうか。以来今に至るまで「化儀」「法体」とも形が変わり、混乱を重ね、遂には民衆成道はその名も聞かず、跡形も無くなり、消え去ってしまったようです。併しながら「化儀」はともかく、その化儀に即してあった筈の「法体」は、先生の御法門を以てすれば受持することもまた、感得することも出来るのではないかと思うのです丅

最近の継命新聞は川澄先生の取り出された法門を次々に取り上げているようです。継命新聞、平成12年11月1日号の「富士門僧俗の自覚と使命を問う」「清流のままに」の記事を引用します丅

日本の仏教寺院のほとんどが、仏像を本尊として安置しています。しかし仏の説かれた法を拝する仏教には本来、仏像を拝む信仰はありません。そうとは知らずに仏像を拝んできた日本人は、仏像そのものがもつ力を信じて願をかけることが仏教であると思い込んでしまいました。これでは偶像崇拝です。「本尊とは勝れたるを用うべし」(本尊問答抄)「法華経を以て本尊とするなり」(同)。仏像を本尊とすることに疑問を懐かれた大聖人は、より勝れた本尊を法華経に求め、未曾有の大曼荼羅として顕されました。しかし顕された大曼荼羅の御本尊をこの肉眼を開いて見たといっても、その目は大聖人の魂魄そのものを見ているわけではありません。即物的に偶像として見誤るおそれはあるのです。それゆえ戒壇の大御本尊は蔵の形式をとり、あえて肉眼で見ることができないということを本義としたと考えられます。大聖人の魂魄が、直にこの目で拝せないのと同様に、御宝蔵に蔵された戒壇の大御本尊も外からは拝せません。しかしその御本尊の相貌は、一機一縁の御本尊によって拝することができます。そして強盛な信心の眼を開けることによって、面々各々の御本尊の奥にまします戒壇の大御本尊の真実を拝することができるのです。このように戒壇の大御本尊は、凡眼を通して直接に拝するのではなく、信心の眼をもって遥拝するからこそ、自受用報身如来の御当体であると感得できるのです。丂以上、前後略

この論文の中には先生が取り上げられた言葉がいくつか出てきます。しかし先生の取り出された法門をそのまま取り上げたのではなく、少し用いただけです。そのために誤りも目に立つようです。この論でいくと他宗他門はもっぱら偶像崇拝のように思われますがほんとにそうでしょうか。少々失礼なのではないでしょうか。礼を失っては「礼学前に馳せて真道後に啓く」ことも出来ないのではないかと思われます。他宗他門の御信心はよく分かりませんが偶像崇拝だけと決め付けてよいのでしょうか。仏像を拝する心を起こさせる他宗の御法門はあるものと思われます。ただ宗祖の仏法と違っていることは確かであると思います。そこの処をよく説くべきはないかと思われます丅

丂「信心の眼を開ける」ことは法門の受持に限るのではないでしょうか。法門を受持せずして、御本尊を直拝したり、その御本尊の奥にある大聖人の魂魄である戒壇の大御本尊を遥拝する、その事によって開眼することが果たして吾々に出来ることなのでしょうか。これでは直拝も遥拝も共に拝むことのようです。遥拝の意義を何か取り違えているのではないでしょうか。これでは文字を受持せずに成仏をすすめ、仏眼を開くことを課題とする禅宗に近いものがあるのではないでしょうか。他宗はそれで救われても、それで日蓮門下は救われるのでしょうか。宗門の広宣流布はいつ来るのでしょうか。法門をもってよく理解させて、納得させて、「なるほど」とおもわせてこそ「信心の眼を開ける」ことができると思います。その法門を説かずにどのように「信心の眼」を開き、「強盛の信心の眼」を開けばよいのでしょうか。ただ「信心の眼」を開きなさい、「強盛の信心の眼」を開きなさいとの「信心の指導」「信心の強要」のみのようであります。そのような決め付け方だけでよいのでしょうか。御本尊の直拝、遥拝の意義を法門をもって論じ、説くべきではないでしょうか。そして本尊そのものも法門をもって説くべきであると思います。先生の法門はそのことを説かれているのではないでしょうか。継命新聞の読者の方々は平成5年7月22日に刊行された、興風談所の池田令道師の「富士門流の信仰と化儀」は読まれていないのでしょうか。そこには「信心の眼」を開く法門があるようです丅

丂川澄先生の取り出された法門は「大聖人の魂魄」そのものを説き、「戒壇の大御本尊の真実」そのものを説かれているのです。それは拝む対照としてではなく、「開目抄」「本尊抄」こそ「大聖人の魂魄」そのもの、「戒壇の大御本尊の真実」そのものであるとのことのようです。この本因の本尊はあくまでも師弟相寄って共に成じるところの本尊、つまり「本因の本尊」です。それは信の一字をもって建立するものであり、信心の信ではない。我々は宗祖の御書の中から、直に己心の一念三千法門、宗祖の魂魄そのものを取り出すことは出来ません。そのような力は持っておりません。先生の取り出された法門をもってよく理解し、充分成道を確認し、そこに師弟相寄って信の一字をもって本尊を建立し、而る後に信心を興すべきであると思います。先生の法門はその己心の一念三千法門・宗祖の魂魄を文字をもって示されたのであります。この先生の法門を手掛かりにしっかりと成道を確認し、本因の本尊を今こそ相寄って建立すべきであると思います。宗祖も文字を大切にされていたようであります丅

蓮盛抄には「仏は文字に依って衆生を度し給うなり、問うその証拠如何、答えて云く涅槃経の十五に云く『願わくは諸の衆生悉く皆出世の文字を受持せよ』文、像法決疑経に云く『文字に依るが故に衆生を度し菩提を得』云云、若し文字を離れば何を以てか仏事とせん」と丅

諸宗問答抄には「文字は是れ一切衆生の心法の顕れたるすがたなり、されば人の書ける物を以て其の人の心根を知って相する事あり、凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、書きたる物を以てその人の貧福をも相するなり、然れば文字は是れ一切衆生の色心不二のすがたなり」と丅

その他にもまだまだ沢山あることと思います。「強盛の信心」も文字には違いはありませんが、その「強盛」の2字をもって信心を強化するより先生の法門をよくかみしめることの方が大切であると思います丅

「久遠は修行、末法は成道」という記述があります。また「折角成道をとげ乍ら」という記述もあります。今の世の民衆は成道は必ず遂げている筈であります。ただそれと気づかずにいるのみであると思います。それは、それを気づかせてくれる法門がなく、また法門を帯した僧が少なくなって、中々我々の不足を補ってくれるところまで手がまわらないからなのではないかと思います。もちろん中には成道とは無関係の人も居ることもあるかもしれません丅

阡陌陟記(13)に「常々の修行により法を受持することによって僧としての摂受を守り、これによって信者の不足を補いながら、師弟一箇の成道を遂げる」と記述されている通りであると思います。今のような時代は、我々が独自にこの法門を手掛かりにして本尊抄で説かれる本因の本尊を自力で建立しなくてはならないと思います。いくら信心をしても信仰に励んでも信心や信仰では成道を遂げることは出来ない。先ず成道を確認してから、信心は始まるものと思います。日蓮正宗の指導者は「信心指導」のようなことはされずに、宗祖が魂魄の上に記された開目抄・本尊抄を分かり易く我々信者に直接説いて頂きたいと思います。信心に限っていえば、信者さんは皆さん立派な信心を行じられているのであります。丂遠く韓国から、日本の、そして700年以前の宗祖を堅く信じておられる方々が沢山おられるではありませんか。全世界にも沢山おられると思います。いまの我々は継命新聞社にそのようなご意見を申し上げる勇気は持ち合わせて居りません。また宗内の指導者の方々にそのようなことをお話する力もありません。それよりも先生の取り出された法門を研鑚することの方が余程建設的であり、魅力的であると思います。人と人との触れ合い、人と自然との触れ合い、そして人と歴史との触れ合い、それは遠く日蓮、伝教、天台、羅什、釈尊との触れ合いでもあります。出来れば次の世代を担う若い方々が、この川澄先生の御法門を取り上げてくれることを祈っておるのみであります。 

阡陌陟記の序文には丄「この小録を名付けて阡陌陟記とする。東西南北わたりあるきと訓むのであるが、実は四維上下を求めて陟記する意を含めている。東西南北は仏の領する所、四維上下の一隅は上行菩薩の知らす所の意、前者は在世正像末の末法、後者を滅後末法の意を含めることにする。今各項目を断片として文字にしてみた。この中から何か新しく、而も古い富士の伝統に立った法門を考えだしてもらいたい。」とあります。先生の法門を何回か読み、それからこの序文に立ち帰り「この」の2文字に注目してみたいと思います。既に「この」の2文字に民衆成道が含まれているではありませんか。決して屁理屈ではなく、また教条的な意味ではありません。宗祖のお題目に比較しようと言う意味ではありません。「この」の字の中に、川澄先生の50年を超える修行の因果が全て含まれている。私はそのように思います。そこには師弟一箇もあり、本因の本尊もあり、常寂の浄土もあり、釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の因行果徳も含まれ、宗祖大聖人の魂魄もあり、本仏の寿の長遠もあり、現世安穏・後生善処も全て含まれています。先生が筆を執り「この」と書き記された時の気魄というか、無私・無我の境地というか、そのようなものが感じられませんか。久遠元初とか末法の始めとか名字の初心とかいう文字の「元初」・「始め」・「初」の字を思い合わせて思惟すべきであると思います。それは全く私心・我心の無い処、魂魄かも知れません。ここから後は一気呵成に筆の赴くままに書き記されたのではないでしょうか。そのような想像も許されるのではないでしょうか。先生は「筆がかってに書いたのじゃ」とおしゃいました。そのような中で先生の息づかいを感じ、気魄に触れ、安心に浴するというのも先生の法門の読み方の一つであると思います。そこに宗祖大聖人の大慈大悲を受け止めることが出来る。そのように思います。そこに宗祖をお慕い申し上げる恋慕の情も生まれ、行学にも励み、報恩の力も生まれるのではないか、そのように考えます。そこからは安心して信心が始められそうです。その様な中で上代では、或は処を追われ、或は疵を蒙り、或は折伏行により弘通所を建立し、それらの行によって、「なお一分の信心有り」と認められて一機一縁の本尊を御下附されたようです。殆んどの僧俗の方々は御本尊は御下附されておられて無かったようです。それでも上代の御僧俗の方々は立派な信心に励まれたのではないでしょうか。併しながら、一機一縁の本果の本尊は、本尊抄の本因の本尊とは明らかに違うようで、これは流転門の本尊のようです。先生の本文からよく整理されて引き出されて頂きたいと思います。勿論、私もこれから始めるところです。宗祖の建立された一閻浮提総与の戒壇の本尊とは、全ての民衆に宗祖が一方的に授与された本因の本尊であり、その本尊を民衆が受持すること、それこそが宗祖の唯一の念願であり、悲願に近いものではなかったか。そのことは本尊抄に示された通りであり、先生のご指摘通りであると思います。一番大切なのはこの本因の本尊のようです。だから今我々が拝している本尊は間違っているというわけでは勿論ありません。本因の本尊を受持し本因修行に励まれ信心堅固になり、その上に授与されたようです。それは池田令道師の「富士門流の信仰と化儀」に詳しく説かれております。本尊については、先生の法門はあくまで「本因の本尊」を説かれているようであります。今、先生の法門の中から「本尊」の語を含む単語・熟語・短文を引き出し、整理し始めました、5月ちゅうには出来上がるものと思います丅

阡陌陟記の「阡陌」とは田んぼの畦道のようです。畦道のあるところ人の居る場所であり民衆そのもののようです。陟記の「陟」の字はこざとへんに「歩」と書きます。先生にお伺いしたところ、『普通に使われる「渉記」の「渉」の字は「さんずい」が付されており、川面を渉る意味になる。川面には人は住んでいない。陟記の「陟」は京洛を歩く意を含めている。人の住む里の意を含めて「こざとへん」を付けた。漢字にはないけれど、法門じゃからこれでいい』とおっしゃられました。宗祖も常に吾々民衆を対告衆として御消息を書かれ「御書」といわれる大量の文書が残されております。先生は「一宗の派祖がこれほどの御消息を民衆の為に書かれたことはギネスブックものじゃ。親鸞にも消息は7、8通あるが殆んどは恋文じゃ」といわれていたことがあります。この先生の言葉は私の多少の記憶違いがあるかも知れませんが、先生の文書は他人の介在する余地はありません。充分信頼出来るものです。 

「東西南北わたりあるき」も、先生の本文中にある記述の通りであると思います。ちかぢか本文中に出てくる書名も整理してみます。どれほどの書物を読まれたか。また、どのくらい読み込まれたか。或る時先生に「先生、御書に五大部十大部とかありますが、先生は何回位お読みになりましたか」と質問しました。今思えば随分失礼なことを聞いたものだと思いますが、先生は全く表情を変えず、「五大部十大部は1000回読んだ」。六巻抄は。「六巻抄は暗記した」。とのことでした。それも活字本だけではなく、直筆・写本等古文書が中心です。とても今の御僧侶方、学者の能くするところではありません。これは宗門や正信会の御僧侶を非難する為にこのような事をいうのではありません。それ程の学に励まなければ宗祖の開目抄や本尊抄、或は、寛師の六巻抄の中にある民衆成道を取り上げる事が出来ない。それ程今の日蓮正宗には宗祖の大事の法門が姿を消したということなのです。それは七百年も経てば言葉も変り、言葉の持つ意味も変り、人人の生活も変り、御書を拝読しても、その意味を正確に掴むことが中々難しくなるということです。他門の教学が入り込んでくれば尚更です。民衆成道を裏付ける法門が分らなくなったという事は、無くなったと同じ事です。知らず識らず事行の法門として、師弟子の法門をもって成道を遂げていても、今の宗門や正信会、学会、その他の講中の教学に触れると即時に成道の芽を摘み取られ、もっと信心に励めと追っかけられるのです。これでは安心して信心にいそしむことも出来ません。この様な指導が果たして許されるのでしょうか。これは今に始まったことではありません。それでも信心に励まれる信者さんを先生はどう思われますかとお伺いしました。「それ程民衆は人がいいのじゃ」とのご返事でした。先生は宗祖が御一生を通じて片時も離されなかったという「註法華経」やその他、一切経また宗祖に関連のある殆んどの法門書、漢籍、日本の奈良平安のかきもの等、よくもお読みになられたと思います。私たちはこれから先生の辿られた跡を一歩一歩、ゆっくりとでいいから、歩いて行きたいと思って居ります丅

丂「実は」とは「じつは」と読むのでしょうが、音読のよみとは別に内心では「まことは」と読んでよいのではないかと思います。先生の御修行の目的を表わされた御言葉だと思います丅日達上人が猊座に上がられる前、宗務総監か庶務部長をされて池袋の常在寺に居られた頃、当時宗門では宗学の基礎となる古文書を読める御僧侶が少なく、上人の知り合いの弁護士さんに誰か古文書をする人はいないだろうかと相談されたところ、その弁護士さんの知り合いが川澄先生で、先生を紹介されたそうです。川澄先生は日達上人に招聘されて、常在寺の2階で宗門の古文書の解読整理をされ始めたようです。上人が猊座につかれ本山に上がられ、先生も一緒に本山に行かれ研究されたようです。「昭和新定御書三巻・大石寺版法華経・学林版六巻抄、今も本尊の前に安置しておる折本の法華経二十八品等、何れも筆者の作ったもので、折本の法華経及び要品は筆者の書写に関るものである」「その他録内啓蒙や明暦本三大部の復刻などもその内の1つである」「また富士年表の草稿も筆者のものによって始まり、年表の作成を日達上人に進言したのも筆者である」と仏道雑記に記されております丅

「四維」は国家を保つための4つの大綱、その国家とは閻浮国家つまり、国土世間であり一閻浮提のように思われます。いぬい・たつみ・うしとら・ひつじさるを表わしています。「上下」は天と地のようです。ここらあたりにも何者かが控えているように思われます。これはこれからの課題であると思います丅

東西南北は仏の領する所」とは、釈尊仏教の表示であると思われます。ここから「上行菩薩の知らす所の意」までは開目抄の文底秘沈そのもののようです丅

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり。竜樹・天親は知ってしかもいまだいひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり」と丅

宗祖がこの御文の直前で二箇の大事を取り出し、釈尊仏教を天台大師の一念三千の語をもってまとめられて筆に含まれ、「一念三千の法門は」としてこれを一旦持ち上げられ、「但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまえり」と書き置かれた。ここに於いて一切の民衆の己心に全ての珠玉が留め置かれた。そして本尊抄の末文に至って全ての民衆に「己心の一念三千の珠」を「妙法蓮華経の五字の袋」にいれて授けられる御用意をされた。そのように思われてなりません。一体どれほどのものを秘して沈められたのでしょうか。「一念三千」の当体とはすべての有情非情をふくみます。そこには国土世間も含まれている筈です。若しかしたら「東西南北は仏の領する所」すべてを「法門」として秘沈されたのかもしれません。山河渓谷田畠から奈良の東大寺や叡山・高野山・神社仏閣すべてが「法門」として沈められたのかもしれません。それは宗祖の魂魄の所作によって始めて可能になったのではないだかろうか。その魂魄の所作によって現実世界そのものにも、あくまでも魂魄の所作によってその余慶を及ぼすことにもなるのではないか、そのようにも思われます。そのことによって、東西南北を領有することなく、争うことなく、何時でも何所でも必要な時に必要な分だけ、吾々の信の一字で取り出して用いる事も、分かち与えることも出来る。そして分かち与えてもらうことも出来る。無尽蔵とはこのことなのかもしれません。汲めどもつきぬ本仏の慈悲はここから生まれ出るものかもしれません。勤行の時、「諸仏の智慧は甚深無量」といいます。その甚深にして無量の智慧、そのありかを定められた。そして吾々一般民衆の己心のうちに魂魄として留め置かれた。具足道そのもののようであります。この文底秘沈によって始めて愚悪の凡夫である吾々が、舎利弗のような途方も無い知恵才覚も持たずに、ただこの法門を思惟し、受持するちから、そこから生ずる「信の一字」で、本仏の大慈大悲に浴することも出来るようになったようです。ここから「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」の最後の末文まで、「四維上下の一隅」であり、「上行菩薩の知らす所」なのではないかと思われます。本尊抄の副状にはこの魂魄を所持した現実の師弟が登場するように思われます。これはまだ整理検証しておりません。これからの課題です丅

次に「前者は在世正像末の末法」の「は」の字に注目したいと思います。この「は」は釈尊仏教は既に世上に認知されておる。筆者が云云するものではない。このように聞き取れるようです。それから次に「後者を滅後末法の意を含めることにする」の「を」の字に注目したいと思います。この「を」の1文字は、これは誰も知らなかった、今まで誰も取り上げる事はなかった。「東西南北」田圃の畦道のような左するべきか、右するべきか分からないような道を歩みながら、時には足をすべらせて、田植えの季節でもないのに、泥んこまみれになりながらも歩き続け、その泥んこまみれの人生の中にキラリと光る真実を見出された。これは今は誰にも見えないけれども、その見出した真実は「まこと」に滅後末法の真実、上行菩薩所持の本法、妙法蓮華経の五字の袋につつみこまれた、宗祖の大慈大悲そのものだった、とのことのようです。これほどの序文に触れることが出来た吾々はまことに倖せというかなんというか分かりませんが、有り難いきわみではありませんか。どこかの本に書かれてあった「なにごとの丂おわしますかは丂しらねども丂かたじけなさに丂なみだこぼるる」そのもののように思われます丅

「今各項目を断片として文字にしてみた」の「文字」は前に記したようにほんとに大切なもののように思われます。宗祖の仰せのように文字を受持すること、まことに大切ではないかと思います。御本尊も文字をもってその相貌を顕わされております。先生の文字にしてみても吾々が受持しなければ只の文字でしかありません。宗祖の南無妙法蓮華経も吾々が唱え、受持しなければ只の文字でしかありません。唱える事、それは受持を事行に現したもの、そう考えるべきであると思います。声を出すのに差し障りがあれば内心で唱えてみても、それは立派な信心であると思います。あくまでも「受持」が本番のようであります。受持の「受」は直授が原則のようです。それは「受」の字の姿形そのものに含まれております。受け渡す手と受け取る手をもって字の形が出来ている。字書によれば、「うけわたしする」がもとの意で、転じて「うける」となったようです。「受」の意味も、「うけ渡しする」「うける」「うけとる」「得る」「授けられる」「もらう」「取る」「蔵める」「容れる」「受けいれる」「用いる」「応じる」「うけつぐ」「被る」など、どれも成程と思えるもの計りであります。どれ一つでもよいと思います。一つでも成程と思えるならば、本因の本尊を受持する用意が出来た、法門を受持する準備が整ったとのことのようです丅

受持の「持」にしましても、「手に持つ」「たずさえる」「所有する」「扶ける」「支える」「保つ」「守る」「もちこたえる」「おさめる」「ただす」など意味深いものがあります。どの意味も長い歴史の中で、多くの民衆の智慧によって作り上げられた、吾々の手になじむものばかりです。そして、一機一縁の御本尊も文字をもって表わされております。宗祖の御書も、我々民衆の成道を示されたものと捉えるならば、御書に遺された文字は必ず受持しなければなりません。「開目抄上下」「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」「法華取要抄」「撰時抄」「報恩抄」、これだけは宗祖が吾々に直授されたものとして、必ず先生の取り出された法門をもって受持しなければならないと思います。今の宗門や正信会、学会、その他の教学で、宗祖の御書を読むのではなく、あくまでも宗祖の御書と先生の法門との連絡をとること、また孔孟や老荘との連絡をとることが大切であると思います。そのことが、「この中から何か新しく、而も古い富士の伝統に立った法門」を考え出す基本になるのではないか、先生が吾々のなすべきこと、行く手をご指南されたものも基本はそこにあるのではないか、そう思います。それはそのまま先生に対する、また宗祖にたいする御報恩の行であると思われます丅

阡陌陟記の序の最後に説かれた、「古い富士の伝統に立った新らしい法門」、これを「考え出す」のは、「考え出してもらいたい」と、阡陌陟記の序で託された川澄先生を師と思う吾々の仕事ではないかと思います。これは師の厳命であると思います。宗門や正信会また学会の方々は先生の事を「師」とは思われないでしょう。これは吾々が事を進める以外にないように思う。教学がない、学問がない等と言って逃げてしまってはいけないようです。今ある力、今ある気力を以て「師」と向かい合い、「師」の示された「賢人」「聖人」と向かい合い、一つ、一つ、「法門を考え出して」いきたいと思います。これは私一人の仕事ではありません。韓国の川澄先生を「師」と頼み、「師」と思う人の仕事でもあります。どうかお願いしたします。先生から「法門」をよろしく頼むと託されても私一人ではどうにもなりません。韓国の方々が頼りなのです。コンピューターに入力するまでは韓国の方々にお願いすることも出来ませんでした。日本ではお寺も沢山ありますし日蓮を宗祖と仰ぐ人々は大勢おります。しかしながらこの法門を大事と考える人等はほとんどおりません。韓国の人々が頼りなのです。日本の仏法は韓国を経由して月氏に還るようです。私にはそのように思えてなりません。私は韓国の人々によって啓発されました。世界が狭くなったとはいえ、貴国と日本とは海をへだてているのです。その韓国のお一人、お一人から、求道の真心と、純粋な信心の真実の姿を、お教え戴きました。韓国の皆様と共倶(とも)に残りの人生を過ごして参りたいと思います。毎日毎日、韓国の方々のことを思いながら先生の法門を行じて参ります。私も韓国の皆様には不思議な御縁を感じております。前回貴国を訪問させていただいた時、帰りに岡山の先生のお宅にお伺いし、先生にお目にかかったのが先生のご生前の最後でした。その時の先生の厳粛な雰囲気と、おおらかな慈愛の眼差しを忘れることが出来ません。遠く印度・古代中国、三韓から日本へと仏教が流れ来(きた)り、長い歴史の中で、釈尊始め、竜樹・天親・羅什・道生・謝霊運、天台・章安・妙楽・伝教、そして宗祖日蓮・開山興師・三祖目師・有師・寛師と、悉く、相い対して修行された先生の、凛とした雰囲気を忘れることが出来ません。孔孟・老荘とも相い対してこられたことと思います丅

その最後の時に、六巻抄の依義判文抄の講義を受けたのです。それは一一文文の講義ではありません。先生が御自分で読んで下さったのです。昼食をはさんで7時間、1時も休むことなく、読んで聞かせて下さいました。そして最後に「かろうじて間に合った」と結ばれたのです。わたしは教学もありません。学もありません。但その時の先生の迫力を全身で受けとめたのみでありました。「かろうじて間に合った」と結ばれたことは、先生がこの己心の一念三千法門への思いの丈を、韓国を旅して己心の法門を宣伝して来た一人の愚悪の凡夫に、何かを伝えたかったのかも知れません。それは先生が古えの賢聖と相い対して来た魂魄による迫力であったのかもしれません。私もその迫力を浴びることによって、コンピューターに先生の全文を入力することが出来たのです丅

先生のお宅を辞する時、車が到着するまでの間、先生と奥様から、くれぐれも先生の法門をよろしく頼むと諭されたのです。私はその時のことは一生忘れることはないと思います。その思いのままに韓国の方々に法門をお送りしたいと思います。私の解釈は未熟であると思います。必ず韓国の皆様も参加して、よりよいものにして末法万年に通用する法門に育てて下さい。日本では興風談所もあり又、コンピューターを日本語で検索して先生の御法門を受け止めて開拓される方もこれから現れることと思います。また御僧侶方も沢山おられます。日本のことはともかく、わたくしは韓国の皆さんとともに修行に励みたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。報恩の行のお役に立てるかどうか、今、開目抄・本尊抄のデジタル化を終り法華取要抄のデジタル化を進めております丅

明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る

これは前にも記しましたように、先生が、最後にわたくしに読んで聞かせて下さり、「かろうじて間に合った」と結ばれた六巻抄の第三依義判文抄の序の文です。この文が阡陌陟記本文の冒頭に掲げられていることに、今更めて驚いております丅

「明者」とは開目抄によって開目した人。宗祖の仏法と釈尊仏教の違いが分る明者丅

「其の理」とは「文底秘沈」の大事。寛師は六巻抄で令法久住の為に、開目抄の「文底秘沈」の句の解明をされ多くの大事を示されました丅

「闇者」とは開目していない人。宗祖の仏法と釈尊の仏教と混同している闇者丅

「其の文」とは法華経の文上そのものの事。「文」と「守」で「守文」の成語がある。 

丂「文底」とは川澄先生の法門ことごとく文底について御示しです。その正体を明らかにされているように思われます。それは宗祖の魂魄でもあり、宗祖滅後の今は宗祖をお慕いし、先生の法門を以て互為主伴する吾々の魂魄でもあるようです。本文に沿って少しずつ、私(わたくし)に、私(ひそか)に、解釈を試みていきます。Aさんのお考えも聞かせて欲しく思います。決して私の考えを全て正しいとは思わないで下さい丅

丂寛師が六巻抄を思い立たれたのは、宗祖の開目抄の「文底秘沈の句」にあるようです丅

正徳第三癸巳予四十九歳の秋、時々御堂に於て開目抄を講ず、而して文底秘沈の句に至るに其の義甚深にして其の意難解なり、所以に文に三段を分ち義に十門を開く、草案已に畢りて清書未だ成らず虚しく笈中に蔵めて之を披く遑あらず、而る後、享保第十乙巳、予六十一歳の春邂逅之を閲するに疎略稍多し、故に粗添削を加う、敢て未治の本を留むことなかれ、然るに此の抄の中には多く大事を示す、此れは為れ偏に法をして久住せしめんが為なり、末弟等深く吾が意を察にせよ云云丅

しょうとく、だいさん、みずのとみ、よ、しじゅうきゅうさいの、とき、よりより、みどうに、おいて、かいもくしょうを、こうず、しかして、もんていひちんの、くに、いたるに、そのぎ、じんじん、にして、そのい、なんげ、なり、ゆえに、もんに、さんだんを、わかち、ぎに、じゅうもんを、ひらく、そうあん、すでに、おわりて、せいしょ、いまだ、ならず、むなしく、きゅうちゅうに、おさめて、これを、ひらく、いとま、あらず、しかるのち、きょうほう、だいじゅう、よ、ろくじゅういっさいの、はる、かいごう、これを、けみするに、そりゃく、ややおおし、ゆえに、ほぼ、てんさくを、くわう、あえて、みじの、ほんを、とどむる、ことなかれ、しかるに、この、しょうの、なかには、おおくの、だいじを、しめす、これは、これ、ひとえに、ほうをして、くじゅう、せしめんが、ためなり、まっていら、ふかく、わがいを、つまびらかにせよ、うんぬん丅

已上六巻抄の最初、三重秘伝抄の序で寛師は開目抄の「文底」についてその義意を解明するために六巻抄を記されたと示されております。次に三重秘伝抄の本文の冒頭では開目抄の文底秘沈の文を掲げられております丅

開目抄上に曰く「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘し沈めたまえり、竜樹・天親は知って而も未だ弘めたまわず、但我が天台智者のみ此を懐けり」等云云。 

かいもくしょう、じょうに、いわく、いちねんさんぜんの、ほうもんは、ただほけきょうの、ほんもんじゅりょうほんの、もんの、そこに、ひして、しずめ、たまえり、りゅうじゅ、てんじんは、しって、しかも、いまだ、ひろめたまわず、ただ、わが、てんだいちしゃのみ、これを、いだけり、とらうんぬん

丂ここから六巻抄が始まるのです。六巻抄の序も本文も共に宗祖の開目抄によっております。そして先生の阡陌陟記の序も本文も同じく開目抄です。先生は阡陌陟記の序では、開目抄の文底秘沈の句を取り上げられておられるようですが、阡陌陟記の本文の冒頭では前にも記しましたように「依義判文抄」の序を掲げております。これは先生が「六巻抄で見ると宗祖の慈悲は、三重秘伝抄の最後に秘された撰時抄の広宣流布の文が依義判文抄の冒頭に示されている事からみても、文底秘沈抄を除外して依義判文抄に流れている。」と書かれているように、宗祖の慈悲、大慈大悲こそ文底秘沈の正体であるとのお考えから「依義判文抄」の序の文を掲げられたようにも思われます。「明者」とはこの本仏の大慈大悲を受けとめる人々の事のように思います。それは必ず「信の一字」を以て受け止めるべきもののようであります。「信心」で受けとめると、今の世知辛い世の中では「我心」「欲心」が割り込みそうです。注意が肝要です。本来「信心」は常住不変なもの、吾々全ての民衆の故里のようなものに「畏敬」の念を感じ「感謝の念を発す」その発露のように思います。今の信心は我心・欲心が割り込んでおります。「信の一字」は「己心」に限り、「信心」は「心・こころ」のようにも思われます。本来の「信心」は人は誰でも持っているもの、生れながらに持っているもの、そのように思います。それがゆがめられ、濁って来ているように思います。私自身に置き換えてみればよく納得できます。「己心」は「法門」によって授けられ教えられるもの、また、本因修行によって得られるもの。そしてその「己心」はわれわれの「魂魄」を育て鍛えていくもののようにも思われます。この、「信の一字」と「己心」、そして「信心」「魂魄」はこれから尨大な量の記述があります。それぞれ微妙に視点・観点を変え、様々な光をあて、吾々が理会し、納得し、受持が出来るように書かれております。楽しみです丅

丂宗祖は開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐渡の国に至りて云云」と、御自身の事を仰せである丅

丂阡陌陟記の本文の冒頭で、先生はまず寛師の依義判文抄の序を掲げられ、次に宗祖の魂魄を取り上げられております。阡陌陟記の序では同じく開目抄上の文底秘沈を取り上げられ、ここでは開目抄下の宗祖の魂魄を取り出だされております。阡陌の2字も開目抄にあります。共々に開目抄のようです。先生は、「阡陌とは仏法所住の処である。戒定恵はそこから出現しているのである。その意をもってまず阡陌をあげ、3学を取り出したのである」と記述されております丅

「天にあるを魂といい、地にあるを魄という」との記述があります。四維上下の上下は天地のこと、その天地が魂魄によって満たされているとすれば、天地の恵みによって生れ、生きている吾々は必ず魂魄をもってこの精神と肉身を保っているのではないかと思われます。これは生きている吾々の中におわす魂魄のようです。この魂魄を育て鍛えることによって宗祖との触れ合いも出来、3世を超過することも出来、後生にも師と共々に生ずることも出来るのではないでしょうか丅

2月3日は日本では節分です。大石寺では節分の豆まきのときには「鬼は外」とは唱えないそうです。宗祖の魂魄を吾々の己心に確認することのように思われます。鬼は外では宗祖と触れ合うことの出来る魂魄を放棄することになるのではないでしょうか。「刹那己心」とはこの魂魄の上の事のようです。宗祖の頃のお考え方と今の吾々の感覚は大きく隔たってしまったようです。魂魄は本文中に大量の記述があります。これは必ず捉えなければならないもののようです。宗祖の仏法も御本尊も魂魄の上の所作であるならば、吾々も魂魄をもってお迎えしなければ、誤ってしまうのではないかと思われます。開目抄も六巻抄も先生の法門も全て、この魂魄によって成り立っているようです。それは吾々が死んで生じた魂魄ではなく、生きている吾々の身中深くにおわします魂魄のようです。この魂魄の上の法門は、ぼんやりとした感覚的なものではなく、あくまでも手に取ることの出来るもの、必要な時にすぐに役立つものとして、常に用意しておかなければなりません。それが本因の本尊であり法門であるようです。そして先生の法門をすぐに手に取ることが出来るように約五千の要文として段落を付しました。これは私が先生に申し上げ、先生も大変喜ばれて允可を頂戴したものです。事務局の仲間と阡陌陟記をコピーして台紙に貼り、ルビを付して先生のお宅に持参し、翌日先生のお宅を訪問しますと、全部朱を入れて下さっておりました。しかし、先生に目を通していただいたのは阡陌陟記のみであります。大石寺法門はまにあいませんでした。残念ですが仕方ありません。今になって私の努力不足を悔いるばかりです。伝統法義以下の要文は、私に付した段落であり未熟であると思います。韓国の皆様のお手で訂正していただいて、直してお使い下さい。先生のお許し下されたものをお手本に、更に手になじむものにしたてていただきたいと思います。尚、ホームページの段落はこの先生の付された段落とは別にしております。今度貴国を訪問するまでに、先生が允可して下されたものをお持ちいたします。韓国の皆様、是非お願いいたします。そして「ああではないか」「こうではないか」と楽しく研鑚に励んでいきたいと思います。皆さん参加していただいて法門の研鑚を致しましょう。それは受持につながり、成道につながり、御報恩の行そのもののようです。そこに喜々として人人が参加する、そしてまた自然と親しみ楽しく遊びましょう。釜山も仁川も議政府も懐かしい思いでいっぱいです丅

阡陌陟記の本文の書き出しで、最初に宗祖の魂魄を取り上げたことは、その魂魄に大切な示しがあるように思います。「君子危うきに近づかず」という言葉がありますが、最初に取り上げる「文」が大切なようです。何かを初めて、それから危うい所に近づくことに注意を払うのでは無く、最初から「危ういものを取り上げない」事が、大事なようです。寛師の六巻抄のように「文底秘沈」を取り上げれば、已後は大胆な発想をもってしても、「文の底に秘して沈めた法門」として、いつでもこれを切り返す事が出来るのです。つまり己心の法門として、求めに応じてこれを切り返す用意をしてから、法門を論じ、諭(さと)されているのです。宗祖の安国論もそのような用意をされてしたためられたようです。先生は「魂魄」を、それも大聖人の「魂魄」を、本仏の大慈大悲として取り上げられたようです。ここの処を良く胸にたたみ込んで置かなければならないと思います。宗祖の魂魄こそ文底秘沈の正体であるとのことのようです。これは釈尊仏教の世界、つまり仏の領有する世界ではない、あくまでこれは仏教の世界ではない、新しい日蓮が仏法の世界であるとのことのようです。宗祖の仏法の世界はこの開目抄から始まったようです丅

これを以て当家では宗祖の発迹顕本とする。然るに龍之口法難を指して宗祖が発迹顕本したとするのは何れの文証に依るかなどと聞くのは、その事自体愚であると云わねばならない。宗祖に発迹顕本と受けとれる様な文証があるとしても、発迹顕本の刹那そのものについての文証などある筈がない。天台の自解仏乗に文証を求めるのと同じで、文証のないところが宗祖独自の境界と云えるのである丅

発迹顕本(ほっしゃく、けんぽん)とは、「発」は開くこと。「迹」は垂迹(すいじゃく・仮りの姿)のこと。「顕」は顕わすこと。「本」は本地(ほんじ・真実の姿)のこと。発と迹で「発迹」の語が成り、「顕」と「本」で顕本の語が成る。発迹とは仮りの姿を開くという事であり、顕本とは真実の姿を顕すという事のようです。魂魄佐渡に至るの文によって、宗祖の佐渡流罪已前の御書や御化導を「佐前」といい、已後の御書や御化導を「佐後」の御書、あるいは「顕本日蓮」の姿として、これを捉えているのです。この「佐前佐後」は三沢抄に委しくされています丅

三沢抄(佐前佐後抄)編年体御書1081頁に、 

「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば。よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり。而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には出し給はず、其の故は仏制して云く「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と・ありしゆへなり、日蓮は其の御使にはあらざれども其の時剋にあたる上・存外に此の法門をさとりぬれば・聖人の出でさせ給うまでまづ序分にあらあら申すなり、而るに此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光・巧匠の後に拙きを知るなるべし、此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きえうせて但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候、各各はかかる法門にちぎり有る人なれば・たのもしと・をぼすべし。」

と在ります。 

「また、ほうもんのことは、佐渡のくにへ、ながされそうらいし、いぜんのほうもんは、ただ、ほとけの、にぜんの、きょうと、おぼしめせ、このくにの、こくしゅ、わがよをも、たもつべくば、しんごんしらにも、めしあわせ、たまわんずらん、そのとき、まことの、だいじをば、もうすべし、でしらにも、内々、もうすならば、披露して、彼等、知りなんず、さらば、よも、合わじと、思いて、おのおのにも、もうさざりし也、しかるを、いぬる、ぶんえい、はちねん、くがつ、じゅうににちの、よる、竜の口にて、くびを、刎られんと、せしときより、後、ふびんなり、われに、つきたりし、ものどもに、真の、ことを、言わざりけると、思うて、佐渡のくにより、でし共に、ないない、もうす、ほうもん、あり、これは、ほとけより、のち、かしょう、あなん、りゅうじゅ、てんじん、てんだい、みょうらく、でんぎょう、ぎしんらの、だいろんし、だいにんしは、しりて、しかも、みこころの、なかに、ひせさせ、たまいし、くちより、そとには、いだし、たまわず、そのゆえは、ほとけ、せいしていわく、わがめつご、まっぽうに、いらずば、このだいほう、言うべからず、と、有りし、ゆえなり、にちれんは、その、みつかいには、あらざれども、その、じこくに、あたるうえ、ぞんのほかに、このほうもんを、覚りぬれば、しょうにんの、いでさせ、たもうまで、先づ、じょぶんに、粗々、もうすなり、しかるに、このほうもん、しゅつげんせば、しょうぼう、ぞうぼうに、ろんし、にんしの、もうせし、ほうもんは、みな、ひ、いでて、のちの、ほしの、ひかり、たくみの、あとに、つたなきを、しる、なるべし、このときには、しょうぞうの、じとうの、ぶつぞう、そうらの、れいげんは、みな、消え失せて、ただ、この、だいほうのみ、いちえんぶだいに、るふすべしと、見えて、そうろう、おのおのは、かかる、ほうもんに、契りある、ひとなれば、恃もしと、思す可し丅

丂この「内内申す法門」こそ己心の一念三千法門のようです。すでにこの三沢抄を説かれる以前に、開目抄・本尊抄・法華取要抄・撰時抄・報恩抄の五大部が顕わされております。宗祖の最重要御書は竜の口法難已後、つまり「佐後」の御書であります。この五大部をもって当家では宗祖の「顕本」已後の御書としてこれを大事にしているようです。宗祖がこれら五大部御書でお示しの大事の法門を先生が吾々に分かり易く説かれたのです。それがこれから始まるわけです丅

「発迹顕本」はあくまでも宗祖御自身の境界であって、その本地内証の世界は「宗祖独自の境界」である。「垂迹」から「本地」へ切り替わる「発迹顕本の刹那」そのものには「文証」などは無いとされております。これは当然のことと思われます。「明者は其の理を貴び」の「理」とは理屈の「理」ではなく、宗祖の発迹顕本は何を意味するのか、何の為の発迹顕本か、独自の境界とはどのような境界か、吾々との関係は何か、何を以て本懐とするのか、三沢抄で「内内申す法門」とはどのような法門か、などとその内容を明らかに知ることが「理」を貴ぶことになるのではないかと思います。「明者」とはその理(ことわり・道理・おさまっているものの正体)を明らめ、その内容を知り、その宗祖の法門を受持し、我が身に体達(たいだつ)する「日蓮が弟子檀那」のことのようです。これに対し「闇者」とは、そのような内容には触れず、見ず、弁えず、宗祖を迹仏と同様の仏様のように思い、ただ讃嘆する人達のことのように思われます。それは宗祖の「魂魄」を捉えたか、捉えそこなったかによるのかも知れません丅

「自解仏乗」とは天台大師智顗を讃嘆する「法華玄義」の序の一つ「法華私記縁起」の冒頭の文です。天台大師の弟子、灌頂が記したものです。灌頂とは章安大師のことです丅

「大法東漸してより、僧史に載する所、んぞ幾人か曾て講を聴かずして、自ら仏乗を解する者有らんや。」「だいほう、とうぜんしてより、そうしに、のするところ、いずくんぞ、いくにんか、かつて、こうを、きかずして、みずから、ぶつじょうを、げするもの、あらんや」の「自ら仏乗を解す」から成り、灌頂が、師天台大師を讃嘆した「十徳」の一番目の語です丅

丂先生がここで「自解仏乗」を取り上げられたのは、宗祖の発迹顕本の刹那に、「文証を求めること」の「愚」を指摘なされたと共に、あくまで師の「発迹顕本」は弟子が歎ずるものであることを示されるために用いたものと思われます。弟子が師の内証を受持しなければ師の徳を歎ずることも出来ない、師の覚りの世界を世に出だすことは出来ないということのようです。取りも直さず弟子が現れなければ、師も出現することが出来ないことのようでもあります。川澄先生は宗祖の弟子を名乗っては居りませんが宗祖の一番近いところに居られたのではないかと思います。それは直弟子中の直弟子のように思います。勿論、これは私の信念の世界での事であります丅

丂そもそも宗祖が龍之口に於いて発迹顕本したと思うのは弟子の得分であり、これを師弟子の法門と云う。「魂魄佐渡に至る」を単に文章の綾として見るか、この一点を捉えて宗祖の発迹顕本と考えていくかでは、結果として天地雲泥の開きがある。この一文を法門として捉えるなら、そこに一宗の根源を求める事も出来る。ここに御書の読み方の重要性がある丅

阡陌陟記の序の終りで呼びかけられた弟子達は先ずここに集れ、とりあえずここに引越しして来いとのことのようです。ここから弟子の修行が始まるようです。修行の道すがら何処に居を定めるかは弟子の自由意思にまかされているようです。「此は魂魄佐渡の国に至りて」を法門として捉えなければ誤るぞとのお示しのように思われます。先生は「御書や六巻抄を小説を読むような感覚で読んでは、何ものも取り出すことは出来ない」とおっしゃいました。取り出すことが出来なければ、受持など思いもよらぬことになるのではないかと思われます。受持したものが、ぬくもりとして手のひらに感じられるようにならなければ受持したことにはならない。その魂魄のぬくもりこそ宗祖の大慈大悲そのもののようです。その本仏の大慈大悲を受け止める力、これこそ吾々愚悪の凡夫が生まれた時、天から授かった感得する力であると思います。これは迹仏世界の神通力ではなくあくまでもわれわれ愚悪の凡夫の神通力ではないでしょうか。神通力とは「吾々の己心におわします魂魄の力」のように解釈してもよいように思われます。つまり己心の一念三千法門の力のようです。そこのところをしっかりと捉える事が出来れば、一宗の根源を求める事も出来ると示されています。大石寺の根源もそこに求める事が出来ると思います。しかしながら宗祖滅後七百年、この宗祖の魂魄の語も、魂魄の大事も、殆んど捉えたためしが無かったのではないでしょうか。私も「魂魄」は形容詞のようなものであると思っておりました。韓国の皆様も先生の御法門を手にするまでは「魂魄」などというものは、なくなった人のたましいとして受け止めておられたのではないかと思われます。これは失礼なことを申し上げました。しかし先生はこの「魂魄」こそ「○○○」。この「魂魄」こそ「○○○」。と、様々な角度からお示しであります。それも結論を示しながら、我々の思惟をうながし、己心の法門をもって魂魄の余韻を与えながら、同時に吾々が参加する余白をも最大限に残されております。そしてその「魂魄」は吾々の課題でもあるようです。前に記した天台大師の法華玄義ではそうはいきません。我々の参加する余地など微塵もないかもしれないのです。師弟子の法門の世界に私たちが参加しなければ、宗祖からの「魂魄」を頂戴することも出来ないのではないでしょうか。頂戴しなければ受持することなど出来る筈もありません。諸天善神もその魂魄の中におわすもののようであります。この「○○○」をコンピューターで検索して確認し互いに師となり、また弟子となってお話し合いをして下さい。そこには見事な上行菩薩の知らす世界、吾々が宗祖日蓮大聖人と讃歎し、申し上げる世界が開かれているようです。もちろん宗祖の佐渡已前の御書や折伏行のお姿をないがしろにしてもよいというものではありません。「御書の読み方の重要性」とは大聖人の魂魄から宗祖御一代の御書を読み直すということのようです。開目抄から本尊抄、法華取要抄や撰時抄、そして報恩抄を根本として拝すべきであるとのことのようです丅

法門の世界に於いては文証の介在する余地はない。あるのは感得だけである。感得は受持と同じ様な意味であり、文の底に秘して沈めた法門を知るためにはこの感得以外に方法がない。弟子が師の内証、即ち文の底に秘して沈めた法門を感得した時、そこに戒壇の本尊を感じ、本仏日蓮大聖人を見る事ができる。自解仏乗というのもまたこのような境界を云うのであろう丅

川澄先生は本仏日蓮大聖人を見ることが出来たようです。本仏日蓮大聖人を見ることが出来なくて、「見ることができる」とは絶対に書くことはできません。しっかりと見ることが出来なくて、いつわりをもって百万文字を続けることは不可能です。「おぼろげながら」見たのでは見たうちに入りません。勿論凡眼で見ることはできないと思いますが、だからと云って迹仏世界の神通力をもって見るものでも無いようです。迹仏世界の神通力ではなく、天然自然にわれわれに備わっている愚悪の凡夫の感得出来る力、その力によって本仏日蓮大聖人をみることです。富士門流の法門を手掛かりに、つまり先生の百万文字を素材として思惟をもって修行すべきであると思います。その法門を手中にするには、他人の感得力に頼るのではなく、あくまでも自身に備わった力によって、自力で宗祖大聖人を見る、本仏日蓮大聖人を見ることに力を尽すべきだと思います。そのために、修行の相手方である同志、仲間が必要なのです。先生の法門が現れた今日、吾々に一番必要なのは同志・仲間であります。法門の聴聞は本来は御僧侶に求めるもののようであります。しかし己心の法門を邪偽とし、魔説と称している限りは駄目でしょう。無理だと思います。有徳の僧が誕生するまでは、吾々が自力で立ち上がるしか方法はないように思います。前の「自解仏乗」は、宗祖独自の境界を表わしており、この「自解仏乗」は弟子が登場し、師弟子の法門をもって、宗祖の示された内証を感得する、文底秘沈の法門を感得する世界であると記されております。弟子の「感得する世界」にも自解仏乗があるとのお考えのようであります。「戒壇の本尊」も「感じ」つまり感得する本尊であると明記されております。また感得は受持と同じような意味であるとされております。連陽房雑々聞書に「能持の人の外に全く所持の妙法を置かず。能持の人、道俗男女に依らず法華経也、末代悪世の法華経とは色体巻軸なし、能持の人を指して当時の法華経とは高祖も曾て、祖師も遊ばして候也」とありますように、文底秘沈の法門も吾々が受持する外にはありえないとのお示しであります。特別むづかしい修行は必要ないと思います。先生は「本仏日蓮大聖人を見ることができる」とはっきりとお示しです。その師のところに揆を一にすべきであります。それは先生の法門の力でもあるようです。師の法門の力、そして弟子の受持することの出来るちから、感得出来るちから、それは行ずるちからでもあるようです。この法と行のちからによって根源の師、宗祖大聖人を見ることが出来る。自解仏乗も遂げることが出来る、そして、そこから信心は始まるものと思われます丅

かかる意味に於いて感得は師弟子の法門の中にしか存在しない。而も師弟子の法門は文証の通用する流転門の世界ではない。唯仏与仏乃能究尽の還滅門の世界での話である事を知らねばならない丅

吾々には親を親と思い、師を師と思う力は自然に備わっていると思います。それを迷わせよう、妨げようとしている代表が明治教学であり、西洋流の学問のようです。日本では聖徳太子の昔から愚悪の凡夫は健在のようです。根源の師、大聖人の魂魄、これを師弟の魂魄をしてとらえる大石寺法門を先生が今に蘇らせたのです。その師弟とは僧侶と信者のことのみの事ではありません。この御法門を受持する人と人の相寄った世界のことであります。それを宗門も正信会も今は用いていないようです。ただ継命新聞では少しずつ取り上げ始めました。有り難いことであります。それは先に記しました通りであります。もちろんこのように言う私にも誤りはあると思います。誤りに気が付けば、即座に訂正致します。韓国の皆様のご意見が欲しいところです。受持即持戒・受持即観心と云います、受持がなければ持戒も観心も感得も無い。この感得は刹那成道と同義であると思います。宗祖の滅後、700百年以上も経過してしまった今日、この法門を手掛かりとして、今生きている吾々が、互いに相寄って感得するしか道は残されていないようです。それは事行の法門そのままの姿のように思われます。これは本尊を下附され勤行唱題する以前に為さなければならない世界のようです。また仏教の世界では弟子が勝手に成道を遂げることは出来ないようで、必ず師の許可が必要なのです。それも摩訶迦葉は法華経授記品第六で未来に光明如来の記莂を受け、舎利弗は法華経譬喩品第三で化華光如来の記莂を受けたように経の裏付けの文が必要なのです。それに対して釈尊滅後の末法に生きる吾々は成道を確認することが修行なのであります。「久遠は修行、末法は成道」の語がありますが、今の吾々は成道の世界に生きているようです。先生の法門を持って互いにあいよって、互いの魂魄の上に、己心の上にその同体を確認する行が事行のよう思われます丅

「事行の法門といわれる大石寺法門では、まず成道が先行している。愚悪の凡夫の成道についてである。その成道に次いで本尊・本仏と現われる。事の法門としてその理を説く時には本仏・本尊・成道の順序であるが、事行では逆次によるのである丅」と先生が記されている通りであると思います。還滅門の世界とはこの世界のように思います。流転門の世界、つまり釈尊仏教の世界では成道も文証が必要なのです。釈尊の法の功力が失われた末法で、宗祖の大慈大悲に浴するには、先生の法門を手掛かりにして、仏教の教養・感覚を生かすところに還滅門の世界があると思います。あくまでも現世に刹那成道を遂げることが、釈尊仏教の受持であり、宗祖の仏法の受持であり、本因修行なのではないかと思います。先生は「仏法(宗祖の仏法)とは世間の中にあって仏教的な教養或は感覚を生かそうとする処に真実があるのかもしれない。」と記述されております丅

「宗祖が龍之口に於いて発迹顕本したと思うのは弟子の得分であり、これを師弟子の法門と云う」と、この文から師弟子の法門が始まり本因修行が始まるのです。師弟子の法門の語も本因修行の語も上代にあったとは思いますが、これほど鮮明に、明らかに説き出だされたのは、先生のものをもって初見として良いのではないかと思います。その意味では歴史的な意義を持っているのではないかと思います。歴史的とは「700年以来」の意義をもっているようにも思われます。この修行は決して苦しい修行ではないと思います。私もAさん始め韓国の方々と一緒に励んでいきたいと思います。宗祖の仏法の世界は上代の大石寺に伝わる多宝不二大日蓮華山への登山であるようにも思います、先生の取り出された法門の山であれば間違うことなく登ることが出来るようになっています。ちゃんと帰って来ることも出来ます。己心の一念三千法門であれば、雪崩にあったり、道に迷うこともありません。吾々愚悪の凡夫の俗身の中におわす、魂魄と魂魄とのふれあいです。1人の同志が居られれば、これほど楽しいことはありません。それは同体そのものです。そして時には一緒に勤行し、お題目を唱えましょう。1回目に先生のお宅を訪問した時に、先生は、「勤行とは確認式じゃ」と言われ、2回目に訪問した時には、「皆さん、今日は談所に泊って勤行をしなさい」とおっしゃいました。今思えば、「もう勤行をしていい」「信心する資格がととのったのじゃ」との謂なのかもしれません。勤行も宗祖の大慈大悲を受け、己心の一念三千を賜った確認式の1つなのかもしれません。まことに晴れがましい儀式のようにも思われます丅

宗門から不信の輩と呼ばれても、法門をもってお応えなされた先生、今はこの世にはおられませんが、吾々が信心を誤らない為に、宗祖とお目通り出来るように、そして生きてゆく為に100万文字を残して下さいました。それは一宗門の為だけではありません。間違いなく私達、か弱い1人1人のためのものであると申し上げたいと思います。今まで書きしるしたものは、私の解釈です。お目ざわりかも知れません。どうかお許しいただきたいと思います。今21世紀になって漸く入門が許されたと勝手に解釈しております。入門が許され初めて先生の法門を習い学べるようになったような気がいたします。それは先生の御在世の時のあまえんぼうの時のものとは全く違った世界です。入門は、100万文字を達成したご褒美かもしれません丅

Aさん、韓国の皆様がこの先生の法門を取り上げて下さり、共に信心にいそしまれることは、涙がこぼれるほど有りがたくうれしいかぎりです。先生もどれほど韓国の皆様を支えとされておられたことか。このインターネットでは誰でも全世界に一方的に吾々の思いを発信することが出来ます。韓国の皆様もどうぞ世界の方々にメッセージを発して下さい。そのためにこのホームページを開設致しました。どうぞご利用ください。またメールします。

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