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日本とポルトガル440年の縁 少年が奏でた音色を修復

 

 

大航海時代のポルトガル栄華の象徴、リスボンのジェロニモス修道院。その威容に少年たちは驚愕した

日本と最初に交流し、日本人が初めて訪れたとされる欧州の国、ポルトガル。はじまりは「天正遣欧少年使節団」と呼ばれた10代半ばの4人の少年たちだった。その絆は文化財の修復などを通じて今も続く。少年たちがリスボンに到着して今年で440年。日本を飛び出し世界とつながった4人の足跡を現地で追った。

「天正遣欧使節肖像画」=京都大学付属図書館所蔵 (右上)伊東マンショ(右下)千々石ミゲル(左上)中浦ジュリアン(左下)原マルチノ


8年の旅路、世界とつながる

キリスト教に入信し洗礼を受けた九州の大名、大友宗麟(豊後)と有馬晴信(肥前)、大村純忠(同)。彼らの名代として、ローマに派遣された4人の信者の少年を中心に結成されたのが天正遣欧少年使節団だ。正使の伊東マンショ、千々石ミゲル、副使の原マルチノ、中浦ジュリアンは海路マカオ、マラッカ、ゴア、喜望峰を回り、1584年8月にポルトガル・リスボンに上陸した。

当時の航海は風力頼みで、追い風が吹くまで数カ月、風待ちをするのも珍しくなかった。4人は途上、キリスト教の経典や歴史を学び、ラテン語やポルトガル語の読み書きを習得。マカオ滞在中にはパイプオルガンの演奏術も身につけた。長崎を出航して2年半、ポルトガルでは遠く東洋の国からやってきた4人は大歓待を受けた。

7つの丘の街といわれるリスボン。海沿いの市街地には朱色の屋根の家並みが続く

使節団の派遣をキリシタン大名に進言したのはイエズス会の東インド管区巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノだ。日本でキリスト教の布教が順調に進んでいることを示して、新たな資金獲得につなげ、少年たちの帰国後は、欧州の文化がいかに進んでいるかを伝えることで、キリスト教の布教活動に弾みをつけようと画策した。一方、キリシタン大名たちも当時、国力を誇ったポルトガルとの交流を深めることで鉄砲をより多く確保し、戦国時代の群雄割拠で優位に立つ思惑があった。経済力強化の側面も担っていた。

今回、ローマを目指した使節団の行程の一部を実際にたどってみた。

リスボン上陸後、4人の少年たちの目にまず飛び込んできたのがジェロニモス修道院で、彼らは威容に驚愕(きょうがく)したという。そして、サン・ロケ教会に1カ月ほど滞在、長旅の疲れを癒やした。長年、同教会の神父を務めるアントニオ・トゥリゲイロスさんは「この教会は1755年のリスボン大地震で半壊したが、天井画は当時のまま。4人の少年たちも同じ絵を見たはず」と語る。

リスボン到着後、少年たちはサン・ロケ教会で1カ月ほど長旅の疲れをいやした。天井画は当時のまま残されている

じゅうたんやタペストリーの名産地アライオロス、イエズス会の拠点があった古都エヴォラ、大理石の産地として知られるエストレモスを経て、スペインとの国境近くの街、ヴィラ・ヴィソーザで荷を下ろす。お世話になったのがブラガンサ公爵邸だった。

スペイン国境近くの街、ヴィラ・ヴィソーザのブラガンサ公爵邸は300人の使用人がいた大邸宅だ

ブラガンサ家は後にポルトガルがスペインから独立した後、王家となったほどの名門だ。4人の少年は使用人が300人以上いる大邸宅に長期滞在した。ヴィラ・ヴィソーザの副市長、ディアゴ・サルゲイロさんによると「公爵邸は多数の狩猟犬を飼っていた。少年たちに懐いた一頭を贈呈し、少年たちからは刀剣、屏風などが贈られた記録がある」という。

ブラガンサ公爵邸の内部には、1500年代の家具や調度品などが今も残る

その後、少年たちはスペインで国王フェリペ2世を表敬訪問し、85年、ついにバチカンのサン・ピエトロ大聖堂でローマ教皇グレゴリウス13世に拝謁する。4人は教皇からローマ市民権を授与され、代表して伊東マンショがラテン語でお礼の挨拶を述べた。

サンタレンの領主公邸を受け継ぐペドロ・カナヴァロさん(左)は元欧州議会議員

一行はローマからの帰路、リスボンの北にあるサンタレンに立ち寄り、領主公邸に滞在した。当時の公邸を受け継ぐのが、元欧州議会議員のペドロ・カナヴァロさん。元リスボン大学教授で、1966〜1968年には東京大学などで教壇に立った。カナヴァロ邸のテラスからは、リスボンまでゆったり流れるテージョ川が見下ろせる。「4人もきっと、この風景を眺めたことだろう。1580年代に4人の少年が日本からやってきたのは奇跡だ」

少年たちは帰路、サンタレンにも訪れた

日本に帰国も情勢は一変、キリスト教の布教は禁止

そして1586年4月、リスボンから日本に向けて帰国の旅に就く。ところが4人が日本を出発した頃とは情勢が一変していた。87年に「伴天連(バテレン)追放令」が出され、キリスト教の布教は禁止に。88年にマカオに到着したものの足止めを食らう。ヴァリニャーノの粘り強い交渉が奏功し、豊臣秀吉から使節団の帰国許可を得たことで90年7月、ようやく長崎に帰還した。足かけ8年5カ月もの長旅になった。

4人を派遣した大友宗麟、大村純忠は1587年に死去、有馬晴信も後に流罪となる。天下統一を果たした秀吉は4人を招き、家臣として仕える要請をしたが、伊東マンショは「例え多大な報酬を受けても、信仰の師の元を去るわけにはいかない」とこれを断る。

4人は91年7月天草に渡り、その後聖職者育成のための学校「天草コレジヨ」に入る。だが、キリスト教の布教は困難な状況だった。千々石ミゲルは1601年にイエズス会を脱会。伊東マンショは12年に長崎で、原マルチノは29年に追放先のマカオで病死する。最後まで布教活動を続けた中浦ジュリアンは32年に捕縛され、殉教した。

歴史に翻弄された4人だが、多くのものを日本に持ち帰り、文化の発展に貢献した。グーテンベルク式の活版印刷機、オルガンやギターの源流となる楽器、海図などを伝えたという。

また、パンやたばこ、かるたなど、ポルトガル語が日本語として定着したものも多い。長く日本ポルトガル友好議員連盟会長を務めた自由民主党元総裁の谷垣禎一さんは「ポルトガルは親日国、食事も日本人に合う。多くの国を表敬訪問したが、ポルトガルは最も好きな国の一つ」という。

英国やドイツ、フランスなどと比べて現在は経済的な結びつきは薄いポルトガルだが、歴史が紡いだつながりは今も続いている。

 

2国の交流、文化財に息吹

リスボンから東へ車で2時間、古都エヴォラは世界遺産に登録された観光地だ。13世紀初頭にかけ建設されたエヴォラ大聖堂で2023年5月、パイプオルガンの修復を祝うコンサートが開かれた。演奏を聴こうとポルトガル各地から500人ほどが集まり、立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。

修復されたエヴォラ大聖堂のパイプオルガンは、今も礼拝などで活躍している

傷みが激しく、音が出なくなる寸前だったパイプオルガンの修復に関わったのが、出版社・かまくら春秋社社長の伊藤玄二郎さんだ。学生時代、リスボンに長期滞在して以来、渡航回数は300回以上にのぼる。小渕恵三元首相の要請で、愛知万博誘致の協力をポルトガルに求めるミッションに1997年に参加。現地で人脈を広げ、信頼を得たことが、文化財支援事業につながった。

天正遣欧少年使節団の4人は1584年9月にこの地を訪れ、伊東マンショがエヴォラ大聖堂のパイプオルガンを演奏したという。伊藤さんと長年交流のあるエドワルド・ブレイラ神父は「日本から来た少年が堂々と弾いてみせた。当時の信者たちはさぞ驚き、感激したことだろう」と語る。

古い歴史を持つエヴォラ大聖堂はゴシック様式の荘厳なたたずまいをみせる

パイプオルガンの修復は2021年9月に始まった。正面にあるパイプをすべて外して、真っすぐに整えるとともに、空気を送るふいごを交換。鍵盤も調整した。16世紀の状態に近づける一方、漏電火災防止のため通電システムを刷新した。修復費用は約2000万円で、三菱商事や日本たばこ産業(JT)などの日本企業が支援した。

演奏室に入ってみると空気を送り込むパイプがぎっしり並び、1人がやっと入れるほどの狭さだった。修復の困難さを改めて感じた。

パイプオルガンの修復はパイプをすべて解体する大がかりなもので、1年かかった(伊藤玄二郎さん提供)

「ポルトガルは一度訪れれば誰でも良さを実感する国。日本人にもっと知ってほしい」と語る伊藤さん。手がけた文化財修復はこれが初めてではない。

 

エヴォラ屏風下張り文書を修復、歴史伝える貴重な資料に

1998年、「エヴォラ屏風下張り文書」といわれる古文書の修復も主導していた。戦国時代、日本から欧州へ多くの美術品が持ち出されたが、中でも屏風は人気があった。キリスト教の宣教師が持ち帰ったほか、交易していた九州の大名たちも輸出していた。

屏風は厚みを出し、形を保つため、中にたくさんの和紙を入れる。一扇の屏風に半紙300枚ほどの反故紙が使われた。当時和紙は貴重品で、書き損じた紙や読み終えた手紙などが使われた。

エヴォラ屏風下張り文書は、伊藤玄二郎さんが中心となり復元した。歴史的に重要な文献も多い(リスボン)

「扇」と呼ばれる屏風のパネル部分の多くはすでに存在しない。エヴォラ古文書館で見つかった下張り文書も傷んでいたため、98年4月に伊藤さんらが日本へ持ち帰り、直すことに。京都国立博物館文化財保存修理所で、重なる古紙を慎重にはがし、虫食いを補い、シワを伸ばすなどの修復を施し、ポルトガルに返還された。エヴォラ古文書館のゼリア・パレイラ館長は「レプリカを作ってもらったので、市民が気軽に古文書を見ることができる。両国の友好を深めるきっかけになる」と喜ぶ。

反故紙と思われていた屏風の下から出てきた古文書の数々、実は貴重な資料の山だった。豊臣秀吉家臣の安威(あい)五左衛門が京都・山崎に滞在する秀吉に上洛(じょうらく)の日程を尋ねる手紙や、柴田勝家を攻撃する際の兵糧に関する記載など、歴史的事実を肉付けする資料が多く発掘された。さらに著名な宣教師ルイス・フロイスの書簡など、イエズス会も喜ぶ貴重な文献も見つかった。

エヴォラは16世紀、イエズス会のポルトガルにおける最大の拠点で、多くの宣教師がここから海外に派遣され、戻ってきた。日本の屏風も宣教師が持ち帰ったものが多いが、伊藤さんは「天正遣欧使節団の少年たちが、日本からお土産として持ち込んだものもあるはず」と指摘する。

2014年には安倍晋三首相(当時)がエヴォラ古文書館で修復された文書を視察した。このことをきっかけに、ポルトのソアレス・ドス・レイス国立博物館から「所蔵している南蛮屏風にも大量の下張り文書があるはず。調べてほしい」と伊藤さんに要請があった。19年に修復し、返還したという。

さらに、エヴォラ屏風下張り文書の修復に携わった関係者は、バチカン民族博物館にある絵画「日本二十六聖人図」の修復を計画する。1597年に長崎で処刑された26人の宣教師、信者を岡山聖虚が描いた大作だ。岡山が1931年に時のローマ教皇ピオ11世に寄贈したが、傷みがひどい状態という。日本での修復に向け交渉を重ねる。

 

エヴォラのエスピリト・サント教会の中浦ジュリアン像。最期まで布教を続け、殉教したことをたたえる

伊藤さんは今、天正遣欧少年使節団の功績や役割を検証する書籍発行や映像化のプロジェクトを進める。DVDは2025年国際博覧会(大阪・関西万博)のポルトガル館でも上映される見込み。取り組みには現ローマ教皇フランシスコも賛同し「当時のグレゴリウス13世が4人の少年を受け入れ、豊かさを高めたように、(このプロジェクトが)文化交流、宗教対話の豊かさを高めるきっかけになりますように」という自筆の書簡を伊藤さんに送った。

「命ある限り、両国の橋渡しになる」(伊藤さん)。ポルトガルから日本にもたらされた文化や習慣は今も多く残る。ユーラシア大陸の東西に位置する両国の絆は、さらに強固になりそうだ。

 

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