エッセー

 

言の葉 

作家・樹のぶ子

 

 

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

紀貫之による有名な古今和歌集の仮名序の冒頭です。中国から入った漢詩に対して、日本で生まれた和歌の本質を、植物の種や葉を譬(たと)えにして称賛しています。

人の心が種となり、成長してやがて言葉の葉となり育ったのが、和歌であると。

これに続く文章は、ちょっと大袈裟(おおげさ)に過ぎるかな、と思えるほど。なにしろ、すべての人のみならず、花に鳴く鶯(うぐいす)も、水に住む蛙(かわず)も、すべて命あるもので歌を詠まないものがあるだろうか。

思い入れの力のままに、息も荒く宣言しています。

紀貫之は「女が書く仮名文字で、土佐日記を書いてみた」人だけあり、女性がしばしば、高揚の頂点でオーバーな表現を迸(ほとばし)らせてしまう性向を身につけておられたような気もして、いえいえ、その性向は私のことなのですが、微笑(ほほえ)ましくも近く感じられる御方。

けれど注目すべきは、種や葉の譬えなのです。言葉、という単語に、葉が用いられているのはなぜだろう、あらためて考えてしまいます。言葉を「事の端」つまり重要でないどうでも良いこと、の意もあるという説は受け入れられず、言は「言う」行為から来ているとして、葉はもしかして紙の無い時代、木蓮(もくれん)や枇杷(びわ)、椿(つばき)などの肉厚な葉に文字を記したのでは、などと想像してしまいます。

日本よりさらに植生が盛んなフィリピンのある島にも、植物と言葉のご縁の歴史がありました。

マニラがあるルソン島よりさらに南に位置するミンドロ島のマンヤン族は、竹幹に言葉を刻みつけていたのです。それも社会的な約束事ではなく、貸し借りの契約書でもなく、なんと詩文を。

以前アジアをめぐるプロジェクトを主催していた折り、竹の幹に刻まれたマンヤンの詩文に出合い、英訳されたものを日本語にして紹介したことがありますが、それは「蛍とキツツキの恋」を詠(うた)ったものでした。

夜が明ければ、捕食し、される関係ですが、水辺の暗い夜の時の中では、草で編んだベッドで愛しあえる奇蹟(きせき)の恋。

このような詩文は、現存するだけで二万点を超えるそうです。

そこに言葉を刻みつける竹があればこそ、思わず書き付けたに違いなく、言葉を刻むそのときの、青竹の匂いまで感じられます。

思ったものです、匂やかな緑の植物に文字を刻むときは、恋情こそ相応(ふさわ)しいのだと。青竹だけでなく、木蓮や枇杷、椿の葉であっても同じでしょう。

石に刻めば、文字は永遠に残りますが、植物のいのちには限りがあり、刻んだ言葉や思いも、やがて土に還(かえ)ります。人の思いも限りがあり、その哀(かな)しみもまた一瞬匂い立ちます。

日本も竹は神聖で力強く、伊勢の斎宮の住まいは「竹の宮」と呼ばれていました。かぐや姫が竹から生まれて月へと戻っていったのも、深い意味があるようです。

植生豊かな世界と、草木も乏しい石ころだらけの土地では、刻む言葉への期待も覚悟も、その責任も、異なるのではないでしょうか。

一神教が生まれた中東の地は、まさに石と砂の世界で、モーゼの十戒も、映画では石板に刻まれていましたね。

原理が不変のまま長く伝わるには、石の力が必要なのでしょう。言葉が情を表すか、理を固定するものかの違いだとも考えられます。

けれど日本では、石は永遠の存在ではなく、「さざれ石が巌(いわお)」となるらしい。石も壊れて無に帰すかと言えばそうではなく、生きもののように成長するわけです。

梅原猛氏によれば、二つの川の合流場所を「川合(かわい)」と呼び、これは交合を意味しているし、「山の背」「山の尾」「山の腰」も、体の一部を当てて呼んでいるのは、大自然もまた生命の盛衰から逃れられないという認識から来ているのではないでしょうか。

各地の歴史を振り返れば、山も川も生きもののように、変わり続けています。

大和の言の葉は、思いの種を葉として育ててきましたが、その葉を季節ごとに振り落として、植物はいのちを長らえてきました。

私も大自然の一部、一本の木であれば、その時々に書き付けてきた言の葉を、身勝手にも容赦なく振り落として、今ここに生きているわけです。

 

 

たかぎ・のぶこ 1946年山口県生まれ。小説家。著書に「小説小野小町 百夜」、「小説伊勢物語 業平」(泉鏡花文学賞)など。文化功労者。

 

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