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興福寺寺務老院・多川俊映さん 現代の祈りのかたち求め


たがわ・しゅんえい 1947年奈良市生まれ。立命館大を卒業後、興福寺へ。1989年から30年間、貫首をつとめ、中金堂の再建など伽藍の復興に取り組む。現在は寺務老院(責任役員)。著書では人の心の成り立ちを説く仏教理論「唯識」を「五月雨をあつめて早し最上川」といった俳句などで平易に解説する。


  長い歴史を誇る奈良の興福寺。一時は広大な寺域で教学や芸術を主導しながら、戦乱や宗教政策に翻弄され、存亡の淵に立ったことも。「天平の文化空間の再構成」を掲げ、復興に挑む興福寺の寺務老院、多川俊映さん。挑戦は五重塔の大修理という新たなステージに進む。

奈良・興福寺の国宝「五重塔」は木造の塔として日本で2番目に高い50.9メートル。春日山の裾野の丘の上に立ち、威容はまほろばの地のシンボルだ。

その日本の仏教建築の粋ともいえる建造物を数年間、素屋根(すやね)と呼ばれる囲いですっぽり覆う工事がいま境内で進む。2031年春の完了予定で、明治以来約120年ぶりの塔の大がかりな修理が始まったのだ。

多川俊映さんが、長年、寺のトップ貫首として追い続けた「天平の文化空間の再構成」は新たな段階に入った。現在は寺務老院の立場で伽藍(がらん)の復興を見守る。「東南海、南海トラフの地震に備えるための大修理。経過次第では数年延びる可能性もある」と気を引き締める。

五重塔の修理に着手 挑戦は新たな段階に

瓦を一枚ずつ打音点検し、破損している垂木や木組みなどは替える。用材への力のあんばいや樹種も見る。修学旅行生や外国人旅行者には、塔との対面がかなわず残念だが、貴重な文化財を後世に伝えるための大切な事業だ。

奈良時代の始まりと歴史を一にする興福寺。法相宗の大本山として教義「唯識」を学ぶ拠点であり、阿修羅像など多くの寺宝も誇る。しかし、一方で幾度となく戦乱や自然災害に見舞われ、修理や再建を経てきた。

とりわけ、現在にも尾を引く影を寺に落としたのが、明治新政府の神仏判然令に伴う廃仏毀釈の動き。

寺領は大幅に狭められて公園の一部とされた。いっときは「法相宗」や「興福寺」も名乗れず「明治初期の数年は管理する者もいない『無住』の状態だった」と多川さんは解説する。

興福寺の執事や貫首を務めた父、乗俊さんの三男として生まれた多川さん。幼いころの忘れられない光景がある。戦後すぐは「公園の中の寺」という印象を多くの人にもたれていたようで、春には花見客がどっと訪れ、境内はゴミが散乱する惨状だったという。

 

多川さんは1989年、貫首に就いて以来「かつての『祈りの空間』を取り戻す」と強く願い、歩んできた。

寺を創建した藤原不比等(ふひと)に連なり、有力な「北家」ゆかりの南円堂の大修理を97年に終え、ついで「信仰の基点」と位置づける寺の中核、中金堂を天平期の規模と様式で2018年に再建。国内には堂の規模に適した用材がなく、カナダへも足を延ばして下調べをしたが、結局、宮大工、瀧川昭雄棟梁(とうりょう)のすすめで、アフリカ西部のカメルーン産のケヤキ80本以上を使った。

釈迦如来を本尊とする中金堂は寺とほぼ同時に建てられたが、戦乱や天災で7度焼失。江戸後期からは仮堂や他の寺の堂を移築してしのいだ。多くの先人たちの目標だった本格的な再建が300年ぶりに果たされたのである。

大がかりな寺の復興には、文献を調べ、各分野の専門家の意見を聞き、計画を実行に移す必要がある。多くの人たちとの円滑な意思疎通と協働が欠かせない。その要諦のひとつを多川さんは若き日にある和上から学んだ。

学園紛争で荒れる大学で学生生活を過ごした多川さん。得難い恩師や本との出会いに導かれて仏道を志し、卒業後は興福寺に入った。

ほどなく師である父から「密教の修行もしておいた方がよい」と命があり、真言律宗の西大寺長老、松本実道和上が住職を兼ねる奈良の生駒山に立つ宝山寺でひと夏、修行の時を送った。

「この和上との出会いは、人生の転機になりました」。密教の法具である金剛鈴や数珠を扱う所作、真言の意味などを「文字通りマンツーマンで教えを被り、質問にも丁寧に答えていただいた」。和上は当時、60代半ばだった。

修行を終えた後も、用事にかこつけたり、何か疑問を抱えたりした時など折に触れ訪ねた。嫌がらずに応対していただいたのだが、やや勝手が違った。「こちらが求める『こうしなさい』という答えをおっしゃらなかった」

ラジオ出演に書籍執筆 考え深めるきっかけに

それでも、面会した後は重しが取れた気分になったそうだ。「結局、人は誰かに悩みや困りごとを語りながら、自分の中で問題点を整理し、答えを見つけていることも多いのではないか」。多川さんは気付いたという。

もちろん、それは聞く側の分け隔てのない態度、磨かれた心があってのこと。多川さん自身、教義「唯識」への学びが深まっていたのかもしれない。

その唯識は「外界の存在は客観的なものではなく、個人の心に映ったものにすぎない」と唱える。この考え方を基礎に、心の多層構造や認知の枠組みを説く。理解が深まれば、自らの生き方を見直す宗教的な契機も訪れる。

多川さんには忘れられない思い出がある。30年以上前、ロボット研究の最前線にいた森政弘さんから、突然電話があった。数々の弟子を育て、ロボットコンテストの創始者としても知られる。むろん面識はない。「あなたの唯識に関する著作を読んで感銘を受けた。ロボットを深く研究するためには、人間の心も深く知らねばならない。学生たちとお経の勉強をしている」などと話し、切れたという。森さんは相次ぎ仏教関係の著作も世に問い、多川さんは問題意識の深さや探究心に驚いたという。

生命科学や人工知能(AI)の発達で人間の存在が根底から問われる今、いにしえの高僧らが自己を徹底して見つめ大成させた教学に触れることは、決して回り道ではなかろう。

昨年4月から1年間、多川さんはNHKラジオで月に1度、30分間、唯識を解説する番組を持った。喧噪(けんそう)と冗舌の世にあって、改めて命や個性について考えを深めてほしいと願う。

年末に向け日本独特の「神仏習合」を、鎌倉時代の絵巻から読み解く著作も準備。「神といえば仏、仏といえば神」との古くからの信仰を説く予定だ。

伽藍の復興をめざし、現代に求められる祈りのかたちも問い続けていく。

【My Charge】連綿と続く浄火の下での猿楽 金春流で自らも謡を稽古

興福寺は能が大成する以前から、その淵源のひとつ散楽(猿楽)が儀式として舞われてきた。「春日山の東、花山から運ばれてくる神聖な御薪(みかまぎ)を迎える『薪(たきぎ)迎え』の所作などを堂童子と呼ばれる雑用係がマネたことが始まりとされます」(多川さん)
浄火の下で猿楽が舞われた伝統は、例年5月の「薪御能(おのう)」として今に連綿と続く(写真下)。

今年は初日が雨にたたられ、屋内での開催だったが、足駄に太刀を帯びた衆徒(しゅと)(僧兵)が能の舞われる芝の様子を検分する儀式も古式ゆかしく行われた。
多川さん自身も30代から金春流で謡を稽古。ところが、40代のある時「観世流の浅見真州(まさくに)さんの『井筒』に心を揺さぶられた」と話す。伊勢物語に題材をとったストーリーだ。
その後、浅見さんの協力をあおぎ、東京の国立能楽堂で中金堂の再建の一助にと勧進能を15年間にわたり続けた。寺が発祥とされる芸能の普及も後押しできたと自負している。
もう一つの趣味は写真。高校生のころはプロを夢みた。当時は撮るのも見るのも好きで、境内の国宝館の暗室で現像や焼き付けに精を出したという。
いまはファインダーをのぞくことはなく鑑賞一筋。デジタルカメラの写真は苦手でフィルムによる作品を好む。
「デジカメは、外の風景を電気的に処理していて、写真の改変も自在にできる。フィルムには、ありのまましか映らない」というのが理由だ。
中でも、写真家の三好耕三さんの作品がお気に入り。超大型のカメラで風景と対峙し、静けさの中にも自然や事物の力があふれる作品を生み出す。
米国の砂漠で巨大なサボテンを撮った一枚は三好さんの個展で出会い、思わず賛嘆の声を漏らした。厚意で贈ってもらい、興福寺の本坊で床の間に掛けている。「湯船」シリーズの一枚は、古い湯治場のガラスの曇りが湯の表面に写り込み「デジカメでは出ない風合いが気に入っている」

三好さんには中金堂再建の折、五重塔の上からの撮影もお願いした。こちらの作品は材木を調達してくれた奈良県天理市の佐藤木材さんにある。
実は、最近、少し撮影にも興味がわき「ピンホールカメラで撮ってみたい」と多川さん。小さな穴をレンズ代わりにする簡単な構造だが「この穴の開け方が難しいらしいんですよ」。

 

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