グローバルオピニオン
世界に拡散する偽情報
米ユーラシア・グループ社長
10月17日、イスラエル軍のロケット弾がパレスチナ自治区ガザの病院で爆発し、罪のない約500人が犠牲になった。このニュースはSNS(交流サイト)に流れ、すぐにニューヨーク・タイムズやウォール・ストリート・ジャーナルなどの報道機関で伝えられた。コメントを求められた公職者は対応に追われた。パレスチナ自治政府のアッバス議長は悲報を受け、予定していたバイデン米大統領との会談をキャンセルした。だがニュースは誤報だった。爆発はあったが、現場は病院の駐車場だ。事件後の写真からは病院の窓ガラスが数枚割れた以外、被害がほぼなかったことが判明した。犠牲者の数は、存続をかけて戦闘を続けているイスラム組織ハマスのでっち上げだった。各報道機関が初報の誤りを訂正する頃、多くの国がすでにイスラエルの攻撃を非難する声明を出していた。中東だけでなく、欧米でも反イスラエルの抗議活動が活発化した。
政治的な利益のため、故意に事実をわい曲する偽情報の活用は今に始まったことではない。「ウソは飛び、真実は足を引きずりながら後をついていく」。作家のジョナサン・スウィフト氏は1710年にこう記している。流言飛語は歴史と同じくらい古い。過去の戦争でも、悪質な情報が作用している。だが今日、意図的なウソの発信は従来より格段に速く容易に実行できる。SNSの環境下で「市民ジャーナリスト」が正規の報道機関と対等の立場で悪質な情報を投稿し共有している。投稿はアルゴリズムによって増幅し、対立をあおる偽情報が拡散される。その結果、受け手側は何を信じればいいかわからなくなる。
SNSは検証されていない話をリアルタイムで数億人に向けて発信する。競合する主要な報道機関は絶えず注目を集める事件を探し求め、慎重に事実確認してしかるべき内容をすぐに書き立てる。
ネットの閲覧者や読者は矛盾する報道を目にすると、自分が支持したい世界観と一致するメディアの方を受け入れる。二極化する社会で偽情報が強く求められているのはこのためだ。ニュースを消費する人々の多くは、自分の価値観や信条を疑われたくはない。求めるのは真実ではなく、自分の思い込みを正当化する情報である。
SNS時代の本格的な戦闘はイスラエルとハマスの衝突とウクライナ戦争が初めてだ。常に間違った情報の拡散が容易になる。ロシアや友好国である中国などではウクライナ侵攻について、ニュースの消費者の理解が欧米や日本などと異なる。意図的かそうでないかにかかわらず、偽情報は世界のあらゆる地域で急増し、不安や恐怖、憎しみをあおっている。
この傾向は、選挙が待ち構える国・地域にとっては特に気がかりだ。ブルームバーグ・エコノミクスによると、2024年に選挙で新しいリーダーを選ぶのは40カ国・地域に上る。世界の人口の40%超、世界の国内総生産(GDP)の約40%に相当する。年頭には中国政府が切実に影響力を行使したいと考えている台湾の総統選があり、11月には米大統領選が控える。ニュースの情報源をSNSに頼ることが若年層を中心に顕著になっている。偽動画が進化して本物との識別が難しくなっていることは誰もが不安を感じるだろう。
願うべきは信頼の高い報道機関がウクライナやイスラエルから教訓を得て、より慎重に事実確認を行い、責任感を持ったゲートキーパー(門番)になることだ。我々は各国の政府に働きかけ、SNSのプラットフォームにおける偽情報を巡り、運営企業に責任を負わせることができる。我々全員が情報の真偽を判別する消費者にならなくてはならない。だが最も切実に願うのは、今後こうした教訓を学ばなくてすむ日が来ることだ。
感情が世論形成に影響
ニュースに対して真実ではなく「自分の思い込みを正当化する情報」を求める人が多くなっている。ブレマー氏のこの指摘は、「post-truth(ポスト真実)」時代の象徴といえる。
ポスト真実は、英オックスフォード英語辞書が2016年に選んだ「今年の流行語」で、客観的な事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を指す。政治評論で使われていたが、同年の米大統領選でトランプ氏が勝利し使用頻度が急増した。
SNSなどでは、自分と似た意見ばかりが返ってくるという「エコーチェンバー」がおきている。自分にとって心地の良い情報だけに囲まれて、観点に合わない情報からは隔離される「フィルターバブル」とともに、総務省が19年版情報通信白書で指摘する「もともとある人間の傾向とネットメディアの特性の相互作用による現象」は、思い込みを正当化するニュースへの志向を助長する。「戦争の最初の犠牲者は真実」といわれる。偽情報にまどわされないためのリテラシーの重要性が高まる。(編集委員 木村恭子)