経済教室

 

一人ひとりの能力向上、優先を

 

終身雇用制の功罪


柳川範之・東京大学教授

やながわ・のりゆき 63年生まれ。東京大博士(経済学)。専門は金融契約、法と経済学

ポイント

○ ミスマッチを招くうえ持続可能でもない

○ リスキリングは汎用性の高い方向目指せ

○ 兼業・副業通じ転職しやすい環境整備を

終身にわたる雇用を制度として企業に要求することにより、従業員は一生の生活の安定と充実した活躍場所が得られ、企業側は安定した労働力の確保が可能になる。一見すると、とても魅力的な仕組みにみえる。

しかしこの「終身雇用」の仕組みが成り立つには、企業がその間しっかりと存続し、その人のスキルに見合う活躍可能なポストや仕事を提供できることが大前提となる。確かに高度成長期ならば、企業はどんどん大きくなりポストも増えていったので、その前提が成り立つことが期待できた。

だがこの環境変化が激しい時代に、会社が長期間存続するとは限らない。また存続しても、環境変化に応じて事業領域も変化させていく中で、各人のスキルに見合うポストを提供し、企業収益に貢献させるのは難しくなっている。さらに言えば、寿命が延びる中で「終身」にわたり雇用機会を提供し続けることは現実的でなくなり、多くの人が定年後のセカンドキャリアを考える必要性が生じている。

もちろん長期雇用自体には多くのメリットがあり、長期的取引関係により相互理解が進むし、協調関係も実現しやすくなる。またその会社での活動に役立つ能力向上や、暗黙知の共有など、いわゆる関係特殊的投資が促進されるプラス面も指摘されている。

一方でデメリットも存在し、大きなものはミスマッチが解消されにくいという点だ。環境変化に応じて企業の活動領域が変化していくならば、従業員が持つスキルと社内で必要とされる仕事内容にミスマッチが生じる可能性も高くなる。それをうまく解消できないと有意義な働き方ができず、双方にとってデメリットが生じる。その負担を回避しようとした結果として、非正規と呼ばれる短期有期雇用が増えている面もある。

従って人生100年時代の今、もはや終身雇用を守るか守らないかという選択を考えるのではなく、実態として持続可能ではないという前提で、社会のあり方を考えていく必要がある。

この点は既に10年以上前から、筆者を含めた多くの論者が指摘してきた。技術革新による産業構造変化のスピードが圧倒的に速くなった今、多くの人がそれを実感するようになった。本質的に問われているのは、それに代わる新しい仕組みをどうつくり上げるかだ。

◇   ◇

短期雇用契約だけで成り立つ労働市場が望ましいわけではなく、特に生活の安定性を重視する現代日本社会で長期雇用のメリットは大きい。だが超長期にわたり雇用保証をすることは企業側には負担が大きく、実現できるとも限らない。

では安定的な所得と活躍場所の確保をどうやって実現すればよいのか。それは結局、スキルアップによるところが大きいのではないか。一人ひとりの能力を高めて、より付加価値の高い労働ができる人材になることが、所得と活躍場所の安定的な確保につながる。

だからこそ近年、人的資本投資やリスキリング(学び直し)が強調されている。狭義のリスキリングは、デジタルトランスフォーメーション(DX)など会社の戦略に合わせて、社内で必要とされる新たなスキルを身に着けることだ。前述したようなミスマッチの解消を従業員側の能力開発により達成するイメージだ。

だが従業員の立場に立って能力開発を考えると、今の企業の戦略に合わせたものである必要は必ずしもない。よって近年は、社外でより活躍できるための能力開発・スキルアップを含めて定義される場合も多い。

適材適所の働き場所が見つけられることは、会社にとっても働く側にとっても重要なことだ。かつては適材適所は社内にあるものであり、それは人事部門が見つけるものだった。だが経営環境が変われば、会社の目指すべき方向性も、自分が能力を生かせる環境も変わるかもしれない。適材適所は変化する(図参照)。

であれば、場合によっては社外にある適材適所の働き場所を、どんな年代の人も見つけられる環境づくりが必要だ。活躍できるための能力開発も欠かせない。

ただし、能力開発だけで所得の安定性が確保できるわけではない。体調を崩して働けなくなる場合や、どれだけ環境整備をしても次の仕事がすぐに見つからない場合もある。従って失業保険的な仕組みの充実が必要となる。その際、単に金銭的な補助をするのではなく、次の仕事につながるような能力開発支援をする、俗にいうトランポリン型のセーフティーネット(安全網)が一層重要になる。

全般的には、これまで終身雇用制の枠組みの中で雇用保障や能力開発などの側面を企業に頼ってきた。労働市場改革の一つのポイントは、その点に関する企業と政府の新たな役割分担を考えていくことでもある。

◇   ◇

現状の重要な課題は大きな変革の方向性に加え、それをどう実現させるかだ。

第1に個々の実情に合わせたきめ細かい処方箋を用意することが必要だ。能力開発やリスキリングといっても、置かれた状況が違えば対処策は変わってくる。一般的には社内のDX化に合わせて、デジタル技術に関する知識やプログラミング能力を身に着けて、社内でより活躍できるように求められることが多い。

それに対し、非正規雇用の課題はスキルアップの機会が提供されず、短期の単純作業が継続してしまうことだ。そのため良い就職先を見つけて賃金アップにつながるような技能訓練や能力開発の機会が社会的にも提供される必要がある。
 
一方、定年後のセカンドキャリアを考えるような人々であれば、全く新しいスキルを身に着けるというよりは、今までの経験や知見を他企業でも役立つような汎用性の高い形で整理することや、過去の肩書にしばられないマインドセットなどが求められるだろう。

第2は経過措置への対処が求められる点だ。制度変更が必要だとしても、突然の変更では想定していなかった人に不利益を及ぼす。例えば入学試験を改革すべきだとしても、いきなり翌年から変更すると以前の入試を前提に勉強してきた人には大きな不利益となる。従って制度変更の際には、ある程度納得感のある経過措置が必要だ。経過措置の期間については、ゴールにどれだけ早く到達する必要があるかによるだろう。

第3は順番が大事という点だ。すべての活動を一斉に切り替えられない以上、どういう順番で改革していくかがポイントになる。沈没する船から人を救命ボートに乗せて脱出する場合、救命ボートを先に用意してから、人を下ろす必要がある。順番が逆で、ボートの用意が後では意味がない。

それと同じように、まずは人々が十分に企業間を動けるような環境整備や能力開発機会をつくることが求められる。その点では兼業・副業などの経験を通じて、転職をしやすい環境をつくる方策も重要だ。またリスキリングなども、企業特殊的なスキルではなく、もう少し汎用性の高いスキルを身に着ける機会を増やしていくことが必要だろう。

 

 

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