日本には「死の定義」が存在しない、という「誰もが驚く衝撃の事実」

 

「脳死は人の死」か?


奥 真也

 


人間が病気では簡単に死ななくなる時代??。

医師であり、医療未来学者の奥真也氏は、『未来の医療年表 10年後の病気と健康のこと』において人がすでに病気では簡単に死ななくなりつつあること、そして今後ますますそうなっていくのは裏打ちのある真実であると述べ、医療の驚くべき進歩を予測しています。

本記事では、前編〈「人の死」に定義がない日本の「異様な現実」…「脳死」を「人の死とするかしないか」は、選ぶことができた!〉にひきつづき、日本の死の定義について、くわしくみていきます。

※本記事は奥真也『未来の医療年表 10年後の病気と健康のこと』から抜粋・編集したものです。

 

「推定同意」の国でも混乱が

本人が生前に「臓器提供しない」という意思を明示しない限り臓器提供することになると法的に定められている各国でも、この規定が完全に国民に浸透し、受け入れられているというわけではないようですし、特にこの「推定同意制度」が世界に先駆けて1970年代から実施されているフランスでさえ、まだまだ混乱があるようです。

フランスでは、最近もこのテーマで国中を巻き込む大論争がありました。交通事故で10年以上脳死状態だった男性の生命維持装置を外すか外さないかで遺族が対立し、裁判所の判決も二転三転した裁判で、2019年6月、ついにフランスの最高裁が生命維持装置を止めることを認めたのです。

この裁判では、男性の妻が夫をこのまま死なせてあげたいと望んだのに対し、男性の両親は違う意見で、脳死を死と認めなかったことから争いになりました。

臓器提供とは別の問題として、「脳死は人の死」であると定めているはずのフランスでこのような騒動が起きるのは、この問題の根深さを感じさせるものです。報道等を見る限り、行政の判断にも混乱があり、別の行政窓口が妻と両親双方の訴えをそれぞれ独立して認めてしまっていたようです。

このように、我々日本よりは数歩進んでいる欧州でも、社会全体として「脳死=人の死」であると完全に受け入れるには至っていないのが現状ではありますが、少なくとも為政者側は「脳死は人の死」「生前に本人の意思表示がない限り臓器も提供される」という大原則でこの問題を整理しようとしています。過渡期には国民の間に抵抗感があったとしても、いずれは受け入れられると政治家たちは考えているからなのだと想像しています。

 

日本に死の定義なし

拙速は慎むべきだと思いますが、日本でもいずれ死の定義や安楽死、尊厳死の問題には答えを出していかなければならないことは確かだと私は思います。

日本では、臓器移植法によって脳死とは「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された」状態であると定義されています。

ところが驚くべきことに、この法律や医師法なども含め、日本にはその一歩前の前提であるはずの「死とは何か」を明確に定義する法律が存在しません。呼吸停止、心停止、瞳孔散大という三つの徴候をもって人の死の診断基準とする「三徴候説」が法学、医学上の「有力な説」として昔からあり、そこに比較的最近「脳死も人の死と認める(ただしその立場を強制しない)」という説が加わっただけなのです。

以前、弁護士の先生方と飲んでいたときに私がこのことを話題にしたら、先生方は最初は「奥先生、まさかそんなことないでしょう」と信じませんでした。しかし飲みながら携帯でいろいろ調べてくれて、本当に死の厳密な法的な定義がないという結論に至った際には、著名なその先生方は唖然となさっていました。

法的には「死」さえ定義がないのですから、「脳死は人の死」かという判断が曖昧な整理のままに置かれてしまうのも当然といえば当然かもしれません。しかし医学が急激に進歩している今、この問題をいつまでも曖昧なままに放置しておくことはできません。

臓器移植の問題はもちろん、安楽死や尊厳死などの重要な社会課題に関して、日本はどのように進んでいくのでしょうか。

 

 

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