文化・エンタメ 社会制度としての仏教を考える
葬式仏教は、「非言語」の儀式で伝えられる美しく、優しい信仰
[23]日本人が長い年月をかけて積み重ねてきた智慧
薄井秀夫 (株)寺院デザイン代表取締役
葬式をする仏教は「あるべからざるもの」なのか
仏教は、いろいろな顔を持っている。
教科書的には、仏教とは、紀元前5?6世紀頃にインドで釈迦が説いた教えをもとに生まれた宗教である。日本では、親鸞や道元などの祖師方が、それを独自の解釈で発展させたのも特徴である。
一方、我々の生活の中で接する仏教は、葬儀や法事、お墓など、葬送に関わることが多い。仏教は、人が亡くなった時に弔ってくれる宗教である。
また、初詣でお寺にお参りしたり、厄年に厄払いをしたりするのも仏教である(神社で行うことも多いが)。
また京都や奈良の観光で行くお寺や仏像も仏教である。信仰としてではなく、芸術美術を鑑賞する感覚、あるいは歴史に触れる感覚でお参りする人も多いと思うが、それが仏教に基づくものであることは間違いない。
このように仏教には様々な側面があり、これらすべての事柄の総体が仏教である。
ただ現実には、立場によって仏教とは何かという受け止め方が異なってくる。特に、日本の知識人にとっては、前述の1番目の定義、つまり「仏教は教えである」という意識が強い。
そして釈迦の教え、あるいは親鸞や道元らの教えが仏教であるという前提に立つと、現代における現実の仏教は「あるべからざるもの」に見えてしまう。特に、葬送が活動の中心であることはとても許せないらしく、そうした仏教を「葬式仏教」と呼んで揶揄する人は多い。
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僧侶の中でも、仏教は本来、教えが中心であるべきという意識は強く、自分たちが関わる葬送中心の仏教は「仮の姿」だと考えている僧侶もいる。
僧侶の資格を取るには、大学で仏教を学んで、本山で修行をすることを条件としている宗派が多いが、そこでは教えを中心に学ぶ一方、葬送について学ぶ機会はほとんどない。ところが若い僧侶が資格を取った後に実家のお寺に戻ると、現実の活動はほとんどが葬送に関わることである。そこで現実を受け止めることができないと、「これは本当の仏教ではない、仮の姿なんだ」と自分に言い聞かせるしかないのである。
また教えを説こうとして、法話会を行っても、そこに来る参加者は驚くほど少ない。一周忌などの法事の後に教えを説いても、「ありがたい話」とは受け止めてくれるものの、継続的に教えを学ぼうという人は、ほとんどいない。
その一方で、人が死ねば葬式を行うし、お寺にお墓があれば定期的に墓参りをする。近年は、宗教者を呼ばない直葬と呼ばれる葬儀が増えているが、業界団体などの調査によると、日本人が仏式で葬儀をあげる割合は現在でも9割前後ある。
つまり葬式仏教は、現代の日本人に圧倒的支持を得ているということになる。
葬式仏教に教えはあるのか
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葬式仏教はほとんど教えを説かない。そのため仏教に詳しい知識人からは軽蔑の対象にすらなっている。
しかし葬式仏教にも、ちゃんとした教えや死生観があり、言語とは異なる形で人々に伝えられていることを忘れてはならない。
現代人は、言語化されているものが全てだと考える傾向が強い。しかし宗教には儀礼というものがあり、その時間空間を通して伝えられている事柄も多いのである。
儀礼といっても、本堂で行われるような法要だけではない。お墓参りや仏壇へのお参りなど、日常的な宗教行為も儀礼であり、そこには葬式仏教の豊かな死生観が非言語で表現されている。
この「非言語」の宗教世界を、あえて言語化すると次のようなものになる。
葬式仏教が説く基本的な教えは、死者を供養することである。生者が死者を供養することで、死者はあの世で安らぎを得られる。そして、死者もあの世から私たち生きている者たちの安穏を祈ってくれる。相互に幸せや安らぎを祈り合う優しい信仰である。
その死者を供養する場が、お寺であり、お墓であり、仏壇である。また供養は、仏壇で毎日行うこともできるが、葬儀をはじめ、一周忌などの年忌法要、お盆やお彼岸など、家族そろって行う特別な日もある。
また葬式仏教は、人は死んだら魂が身体から離れ、僧侶が葬儀をあげてくれることで無事あの世に行くことができるという死生観を持っている。
ただしあの世といっても、理念的な仏教が説くような浄土ではなく、もっと曖昧で漠然とした世界である。
それは我々が暮らしているこの世界の中にあるあの世でもある。風となって漂っていたり、草場の陰、山の向こう、海の向こう、あるいは私たちが生活しているすぐそばにあったり、お墓や仏壇の中にもある。
あるいは、この世界とは異なる世界としてのあの世でもある。人によっては天国や浄土という言葉を使うかもしれない。ただ、天国といってもキリスト教の天国ではなく、浄土といってもお経に記されているような荘厳な世界でもない。ただなんとなく死んだ魂が行く場所という曖昧なあの世である。
そして死者の魂は、これらのどこか1カ所ではなく、あらゆる場所に存在している。生きている人が手を合わせたら、そこにいる、と言ってもいい。
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また、死者はあの世に行った者同士、仲よく暮らしている。そして、生きている我々は死者の姿を見ることはできないが、死者からは私たちの姿が見えて、私たちを見守ってくれている。
もちろん、手を合わせて供養したからといっても、それで死者が安らかになったかどうかはわからない。それでも人は死者の幸せを祈らずにはいられない。
ただ祈ることで、自分たちが安らかな気持ちになっているのも事実である。
こうした葬式仏教の教えは文字にするといい加減な話に見えなくもない。そもそも伝統的な仏教の教えにはないし、もちろんお経にも書いていない。
しかし、こうした話を聞いて、自分も同じような感覚を持っていると感じる人は多いのではないだろうか。誰に教わったわけでもなく、無意識下に入り込んでいる信仰なのである。
つまり葬式仏教は、言語ではなく、儀式で伝えられる宗教だということである。理念よりも、感覚で伝えられる宗教と言ってもいいだろう。
現代人は、言語化されたものにとらわれ過ぎているから、こうした感覚的なものを、程度が低いと考える傾向が強い。しかし非言語で語られる葬式仏教の教えには、日本人が長い年月をかけて積み重ねてきた智慧がこめられているのも忘れてはならない。
葬式仏教という宗教が、教えとして語られないにもかかわらず多くの人に信仰されているのには、ここに理由があるのではないか。
そして日本人の生活の中では、言語で語られる理念的な仏教よりも、非言語で語られる葬式仏教のほうが、圧倒的に存在感があるのも事実なのだ。そしてこの信仰も、やはり仏教なのである。
それでも日本人は葬式仏教を信仰する
日本の仏教には、曹洞宗や浄土宗などの宗派があり、それぞれ異なる教えを持っている。その元になっているのは、平安時代や鎌倉時代に活躍した、空海、最澄、法然、親鸞、道元、日蓮などの宗祖が説いた教えである。
同じ仏教でありながら、それぞれ独自の教えを持ち、よくよく学んでみると、同じ宗教とは思えないほど、内容が異なっている。
そしてそれぞれの宗派には数多くのお寺があり、お寺には檀家という信者がいる。
本来であれば、この檀家は、それぞれの宗派の教えを信じていることになる。
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しかしご存じの通り、檀家で宗派の教えを信じている人は少ない。信じているどころか、どんな教えなのかを知っている人も少ない。
実は、こうした理念的な教えを持つ仏教には、信仰としての実態はほとんどないのである。知識人の中には仏教の教えを高く評価する人は多いが、そうした人もその教えを信仰しているわけではなく、教養としての仏教を理解しているだけである。
一方、葬式仏教と揶揄される仏教は、誰が教えを説くわけでもなく、誰かから強制されているわけでもない。それでも日本人の大半は、この宗教を信じている。そして、供養という信仰を、当たり前のように実践している。
それは、親から子へ、祖父母から孫へ、地域社会から地域社会へ、生活を通して伝わってきたものである。葬儀や法事、お盆、お彼岸という場で、あるいは、お墓、仏壇を通して、伝わってきたものである。
もちろん釈迦の説いた仏教とはかなりズレた宗教であることも事実である。しかし、このズレた宗教が、人々をいかに安らかな気持ちにしているかを考えた時、私はこの宗教を揶揄する気持ちにはとてもなれない。
生者が死者を思いやり、死者が生者を思いやる信仰は、日本人が決して忘れてはならない、美しく、優しい信仰であるのだ。